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X線分析の進歩 第 45 集(2014)抜刷 Advances in X-Ray Chemical Analysis, Japan, 45 (2014) アグネ技術センター ISSN 0911-7806 (公社)日本分析化学会X線分析研究懇談会 © 和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割 杜 祖健,河合 潤 Role of Infrared Absorption Spectroscopy in the Forensic Analysis of Wakayama Curry Arsenic Poisoning Case Anthony T. TU and Jun KAWAI

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X線分析の進歩 第 45 集(2014)抜刷Advances in X-Ray Chemical Analysis, Japan, 45 (2014)

アグネ技術センターISSN 0911-7806

(公社)日本分析化学会X線分析研究懇談会 ©

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

杜 祖健,河合 潤

Role of Infrared Absorption Spectroscopy in the Forensic Analysis ofWakayama Curry Arsenic Poisoning Case

Anthony T. TU and Jun KAWAI

X線分析の進歩 45 87

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

Adv. X-Ray. Chem. Anal., Japan 45, pp.87-98 (2014)

Department of Biochemistry and Molecular Biology239 Molecular & Radiological Bioscience Building, Colorado State University Fort Collins, Colorado 80523, U. S. A.

*京都大学大学院工学研究科材料工学専攻 京都市左京区吉田本町 〒606-8501

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

杜 祖健,河合 潤*

Role of Infrared Absorption Spectroscopy in the Forensic Analysis ofWakayama Curry Arsenic Poisoning Case

Anthony T. TU and Jun KAWAI*

Department of Biochemistry and Molecular Biology239 Molecular & Radiological Bioscience Building, Colorado State University,

Fort Collins, Colorado 80523, U. S. A.*Kyoto University, Department of Materials Science and Engineering

Sakyo-ku, Kyoto 606-8501, Japan

(Received 15 November 2013, Accepted 9 December 2013)

   It was believed that the SPring-8 X-ray fluorescence analysis was the key scientific evidencefor the forensic analysis in the Wakayama arsenic curry case in 1998. The infrared absorptionspectra were measured for most of the arsenic samples but were never used in the court. Thoseinfrared spectra were compared and the meaning of the infrared spectra was discussed. It was saidthat only the SPring-8 X-ray fluorescence analysis was enough for the identification of arsenic inthe sample specimens. Consequently, the infrared spectra were not completely measured. If theinfrared spectra were thoroughly measured at that time, the decision of the court would bedifferent.[Key words] Infrared spectroscopy, IR spectra, Forensic analysis, Arsenic, Starch

 1998年の和歌山毒カレー事件の鑑定分析においては,SPring-8を用いた蛍光X線分析が重要な役割を果たしたと言われている.ほとんどの鑑定資料に対して赤外吸収スペクトルが測定されていたが,公判では有効に使われることはなかった.本報告ではこれらの赤外吸収スペクトルを比較し,その意味するところについて考察した.亜ヒ酸試料の異同識別にはSPring-8の蛍光X線分析だけで十分だったと言われていたので,赤外スペクトルは完全には測定されなかった.しかしながら,当時,証拠資料から取り出した一粒の結晶粒子だけではなく,混在物も含めたその証拠資料全体の赤外吸収スペクトルを測定していたとしたら,判決が変わった可能性があることを指摘する.[キーワード]赤外吸収分光,IRスペクトル,鑑定分析,亜ヒ酸,デンプン

88 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

1. はじめに

 和歌山カレーヒ素事件は,1998年(平成10年)7月25日の和歌山市の夏祭りで配られたカレーに亜砒酸が混ぜられていた事件で,4人の死者と60名以上に後遺症を残す悲惨な事件である.この事件の鑑定分析においては,SPring-8がそのヒ素中の微量不純物元素の分析,すなわちその異同識別に決定的な役割を果たしたと言われている.ヒ素に不純物として含まれる超微量元素のパターンが,H氏宅台所にあったプラスチック容器に付着した亜ヒ酸と,カレー鍋近傍で見つかった紙コップに付着した亜ヒ酸とで一致し,犯人が特定できたとされてきた.SPring-8

の蛍光 X線鑑定の問題点に関しては,文献 1-6)

で著者の一人(JK)が指摘したので本稿では触れない.本事件の鑑定に対しては,Tuによる問題提起(「本当に毎回同じような結果が出たのであろうか.同じであれば,どの程度同じだったのだろうか」)もなされている7,8).本稿では赤外吸収スペクトル(以後 IRスペクトルと呼ぶ)に関して論ずる.証拠として集められた亜ヒ酸の IRスペクトルが 3つの鑑定書に掲載されている.著者の一人(ATT)が鑑定書のIRスペクトルを解説してほしいと,再審請求弁護団から要請されたことが,本論文の執筆動機である. IRスペクトルは,丸茂鑑定9),二宮鑑定10),谷口鑑定 11)の 3つの鑑定書に報告されているが,これらの IRスペクトルは,裁判ではほとんど注目されることはなかった.しかしながら,IRスペクトルを読み解くにつれて,赤外分光の役割は決して小さくないことがわかってきた.鑑定書に報告された事実をもとに,裁判では無視されたIRスペクトルからわかる新事実について報

告するのが本論文の目的である. 当初,IRスペクトルは亜ヒ酸の存在・非存在を示すために測定されたと思われるが,同時に,デンプンが亜ヒ酸に混ぜてあるか否かの判定にも利用された.しかしSPring-8で犯人が特定できたとされたので,最も重要な証拠とされたH氏宅台所プラスチック容器(本論文では「資料6」と呼ぶ)付着亜ヒ酸については,再鑑定でのみIRが測定された.しかし十分な数量の付着粒子をダイヤモンド試料板に押しつけてIR測定することはせず,1粒だけが測定されたにすぎない.残りの粒子は SPring-8測定に供するためにIR測定は行われなかった.同一粒子は,SPring-8

とIRの両方で測定することも可能である.H氏宅台所プラスチック容器付着亜ヒ酸は,粒径は100 µm程度の粒子が多数付着しており,平均組成を得るためにも,そのすべての粒子について IRスペクトルを測定すべきであったと思われる. SPring-8の蛍光X線鑑定の問題点は,SPring-8

で検出できる重元素のみを指標としたこと 2,4),すなわち SPring-8で検出できなかった軽元素を指標としなかったことである.無視された軽元素が重要であるという指摘2,4)と同じ理由でIRスペクトルは重要である.言い換えれば,SPring-8

で測定できなかった振動スペクトルを指標とせず無視したことが問題であると指摘するのが,本論文の目的である.

2. 証拠資料

重要な証拠は,資料1~7の7つである(表1).鑑定書ごとに異なる資料番号が振られているので,本報告では河合が「現代化学」誌に発表した論文 4)と同じ資料番号を用いることとする.この番号は谷口鑑定11)とも一致する.このうち

X線分析の進歩 45 89

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

重要な証拠は,資料6と7である.資料6はH氏宅台所白アリ薬剤プラスチック容器付着亜ヒ酸,資料 7はカレー鍋のそばにゴミとして捨てられていた青色紙コップ付着亜ヒ酸である.資料6と7の亜ヒ酸が同一か否かの分析が,容疑者を有罪とする上で最も重要であり,上述したようにこれはSPring-8の蛍光X線分析で証明されたと信じられて来た. 事件関係者の証言によれば,資料2~5は,緑色ドラム缶(資料 1)から取り分けたことがわかっている.丸茂鑑定 9)では, I C P - A E S

(Inductively Coupled Plasma-Atomic Emission

Spectrometry)分析により,亜ヒ酸が製造された段階で不純物として含有されたSe,Sn,Sb,Pb,Bi微量元素(元素にもよるが,数十~数百ppm)の濃度によって,資料2~5と資料7は緑色ドラム缶(資料1)に由来することが判明した.中井鑑定12)のシンクロトロン蛍光X線分析では,資料1~7のすべてで,微量不純物元素Sn,Sb,Bi

の蛍光X線ピーク強度比が概略一致したこと及び,Moの存在とによって,資料 2~ 7は,緑色

ドラム缶(資料1)に由来したことが確認できた.資料 6の付着粒子は,応用物理学会誌の解説 13)

によると,「粒径 100 µmの 1粒の亜ヒ酸」が少数あっただけなので,SPring-8によるシンクロトロン放射光XRF(X-Ray Fluorescence)分析法だけでしか分析できなかったと言われている.実際には表1に示すように二宮鑑定10)によってそのうちの結晶粒子1粒の IRスペクトルも測定できている.しかし,SPring-8の測定に供さねばならないという理由で,他の付着粒子の IR測定は見送られた. IR測定では鑑定資料 1粒を,分光分析装置に入れて測定室の蓋を閉めるので,一時的であるにせよ,粒子の視認が中断することを鑑定分析では嫌うようである.分光法によっては真空ポンプで引いたり,真空を破るために空気をリークするので,乱流によって証拠資料が失われたり,分光器内の別の粒子と入れ替わることを嫌うからだと思われる.常にCCDカメラで試料をモニター録画できるような装置が鑑定分析には必須であろう.

丸茂鑑定9) 二宮10)・谷口11)鑑定 資料番号 資料の意味

IR ヨウ素デンプン反応 IR ヨウ素デンプン反応

1 M氏緑色ドラム缶 - - -

2 M氏ミルク缶 - - -

3 M氏白色缶(重) + + + +

4 M氏茶色プラスチック容器 - + -

5 T氏ミルク缶強い子 + - + +

6 H氏台所白アリ薬剤プラスチック容器

7 青色紙コップ付着 - - -

表1 資料番号・資料の意味と,IRスペクトル,ヨウ素デンプン反応によるデンプンの存在の有無のまとめ(+:有,-:無,空欄:測定せず).

90 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

3. ヒ素の赤外吸収スペクトルについて

 ヒ素Asは元素であり,それ自体を毒殺に使うことはない.和歌山のヒ素事件でカレーの中に入れられた毒はAs2O3(三酸化二ヒ素)で  2H3AsO3 – 3H2O= As2O3

である.つまり亜ヒ酸H3AsO3の無水物である. 亜ヒ酸の赤外吸収スペクトルを理解するためには,どういう立体構造であるか知ることがのぞましい.通常As2O3と言っているが,実際にはAs4O6(2As2O3)であり,その立体構造はAsだけみると正四面体である(図1).酸素OはAsとAs

との間に存在する(図 2)14). 赤外吸収(IR)は,分子内の原子を含めた振動による.試料に赤外線エネルギーを与え,共

鳴による振動に吸収されたスペクトルを測定することで定性を行う.亜ヒ酸の無水物As2O3(正確に言うとAs4O6)で現れる振動は次の二つが考えられる.(1) As–Oの伸縮振動 νAs-O

(2) As–O–Asの変角振動νAs-O-As  しかし,As–O–Asは固定されているので変角振動はないと思われる. 上述のように理論を基礎にして推察すると(例えば文献 15,16)の群論の章を参照),IRスペクトルは単純ないくつかのピークに限られ,IR

でAs2O3だけを見て判断できることはごく限られるはずである.

4.     用いられた赤外分光装置

 科学警察研究所の丸茂らによる鑑定書 9)では,Nicolet社製Magna-700型 FT-IR(フーリエ変換赤外)分光装置が用いられた.試料はKBr錠剤法,検出器は TGS(triglycine sulfate,硫酸三グリシン)焦電検出器であった.亜ヒ酸標品(メーカー不明),デンプン標品(メーカーおよび種類は不明),亜ヒ酸:デンプン= 10:1混和物も測定している.亜ヒ酸標品のスペクトルでも3430 cm–1のOH伸縮振動ピークが強く表れているので,KBrが水分を含んでいた可能性が指摘できる.このため本報告では丸茂鑑定書の IR

スペクトル再掲は省略した.ただし亜ヒ酸標品では 2935 cm–1CH伸縮振動ピークが無いので,デンプンの存在,非存在は2935 cm–1の有無や低波数側のピークによって判定可能であり,丸茂鑑定のIRによるデンプンの有無の判定の結論は二宮・谷口鑑定と一致し,信頼できる結果が得られている(表 1). 二宮鑑定書 10)と谷口鑑定書 11)の IRスペクトルは,兵庫県警科捜研所有のSensIR社製Dura

As

As

AsAs

図 1 亜ヒ酸のAsのみの立体配置.

As

O

図 2 亜ヒ酸のOも含んだ立体構造.

X線分析の進歩 45 91

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

図 3 二宮鑑定書 10)の(a)メルク社製亜ヒ酸と(b)和光純薬社製亜ヒ酸の赤外吸収スペクトル.

図4 デンプン(片栗粉)の標準スペクトル.谷口鑑定書11)

による.

図 3a

図 3b

Scope 型 ATR(Attenuated Tota l

Reflectance)装置付き Nicolet社製Magna-750型FT-IR装置を用いて二宮らが測定した.二宮らは,ダイヤモンド製試料保持板上に試料を置き,上から押棒でダイヤモンド板に押しつけ結晶を粉砕して密着させ,赤外全反射吸収(ATR)スペクトルを測定した.亜ヒ酸の標準品はメルク社製と和光純薬工業社製のもの,デンプンの標準品は片栗粉(メーカー不明)を測定した. 丸茂鑑定でも谷口鑑定でもヨウ素・ヨウ化カリウム溶液を用いたヨウ素デンプン反応によるデンプンの検出も行われた(表 1参照).

5. 標準物質

 鑑定資料のスペクトルから何が含まれているかを判断するためには,あらかじめ標準物質の IRスペクトルを把握して,これと比較することが大切である.図 3には二宮鑑定書 10)に掲載された亜ヒ酸の標準物質のスペクトルを示す. 亜ヒ酸の標準物質はメルク社製と和光純薬工業社製である.二宮10)・谷口 11)両鑑定書のスペクトルはよく一致し,亜ヒ酸による吸収バンドは表 2のように読み取れ,1500~4000

cm–1の範囲では吸収バンドが何もないという特徴がある.これは亜ヒ酸の化学構造(図2)からみて当然と思われる. 亜ヒ酸にはデンプンを混ぜてシロ

表2 二宮鑑定書10)の亜ヒ酸の吸収バンド(cm–1).

メルク 和光

790 780

1090 1055

1280 1260

92 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

アリ駆除剤として用いる場合があったので,デンプン(片栗粉)の赤外吸収スペクトルも谷口鑑定書 11)には報告されている(図 4).

6. 二宮鑑定における鑑定資料 6, 7の  採取

 二宮鑑定 10)においては,資料 6(H氏宅台所プラスチック容器)の付着物の取り出しは,以下の通りである.「鑑定資料6の内部を実体顕微鏡で観察したところ,写真208(省略)に矢印で示すプラスチック容器の底の角部分に,写真209

(図5)に示すように結晶ようのものの付着が認められた.この角部分の結晶ようのものをミクロメスの刃先でシリコンウエハ板上に採取した.得られた結晶ようのものは写真 210(図5)に示すとおりである.得られた結晶ようのものについて実体顕微鏡で観察したところ,写真211(図5),212(省略)に示すように非常に細かい比較的粒子径のそろった白色結晶であった.得られた結晶を天秤で秤量を試みたが,微量で秤量できなかった.」 また資料7(青色紙コップ)の付着物の取り出しは,以下の通りである.「鑑定資料7の内部を実体顕微鏡で観察したところ,紙コップの底の周囲の継ぎ目部分全体に,写真 213(図 6),214

(省略)に示すように結晶ようのものの付着が認められた.この継ぎ目部分の結晶ようのものをミクロメスの刃先でシリコンウエハ板上に採取し,さらに紙コップをシリコンウエハ板上に逆に置き,底を軽くたたいて採取した.得られた結晶ようのものは写真215(図6)に示すとおりであり,中央部がミクロメスで採取したもので,周囲が底をたたいて得られたものである.得られた結晶ようのものについて実体顕微鏡で観察したところ,写真 216(省略),217(省略)に示

すように非常に細かい比較的粒子径のそろった白色結晶であった.得られた結晶を天秤で秤量したところ,約 5.5 mgであった.」

図 5 資料 6(H氏宅台所プラスチック容器)の写真.二宮鑑定書 10)による.

X線分析の進歩 45 93

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

で判別しづらいが,「現代化学」誌編集室に問い合わせたところ,写真の大きさは約7.1 mm × 7.1

mm~ 7.2 mm × 7.2 mmである).上述したように二宮らが紙コップから採取した試料は「非常に細かい比較的粒子径のそろった白色結晶であった」ので,ゴマ塩状の黒い粒子は含まれていない.中井が「現代化学」誌の論文17)で示した写真のゴマ塩状の試料が,もしも中井鑑定として採取されたものであったとすれば,二宮鑑定で IRスペクトルを測定した資料 7(青色紙コップ)の試料(写真215)は,中井鑑定の資料7とも,谷口鑑定で蛍光X線を測定した資料7(青色紙コップ)の試料とも,紙コップは同じでも,異なるサンプリングによるものであった可能性がある.

7. 二宮鑑定10)と谷口鑑定11)による   亜ヒ酸とデンプンの含有の有無

 鑑定書はX線分析と赤外分析などからなるが,ここでは IRスペクトルの部分だけを解析した.亜ヒ酸は資料1~7のすべてに含まれており,デンプンの結果は表1のとおりである.資料3はその水抽出物の IRも測定されたが,いずれもデンプンを含んでいる.資料 4はその酸不溶物の IR

も測定されたが,いずれもデンプンを含んでいない.資料 5はその水抽出物の IRも測定されたが,いずれもデンプンを含んでいる. 第 6節で述べたように,二宮鑑定で IRスペクトルを測定した資料 6と7は,それぞれ,資料 6

(H家台所プラスチック容器)から得られた「結晶」と,資料7(青色紙コップ)から得られた「結晶」である.したがって,二宮鑑定の資料 6と7

の IRスペクトルは,亜ヒ酸の結晶粒子のみを選んでサンプリングし,IRスペクトルを測定したものと解釈できる.有機物やセメントなどの混

 中井らは「現代化学」誌の論文 17)で,鑑定書12)に掲載しなかった資料7の写真を新しく公開した(文献 17)の写真 4b).実はこの写真は谷口鑑定書11)の写真85を拡大したものである.中井論文 17)では引用元の記載はない(「セメントは人為的に混ぜたもので,いわば,ごま塩状態です.紙コップから採取した亜ヒ酸 B(本論文では資料 7)を写真 4bに示しますが,いかに不均一かがわかります」17)).したがって,この写真を誰がいつ撮影したものかわからない.この写真によると,白色粉末の中にゴマ塩状に黒い粒子が分散しており,その全体量は,写真215と比較して格段に多いように見える(「現代化学」誌 17)に示された写真のスケールが印刷の都合

図6 資料7(青色紙コップ)の写真.二宮鑑定書10)

による.

94 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

在物が存在したのか,しなかったのかの判断をするための根拠としては適さない.混在物も含めたスペクトルを再測定すべきである. ただし,丸茂鑑定はある程度の量の資料 7をKBr法で IR測定しているが,デンプンは含まれていないという結果が得られている.丸茂鑑定は,初期の鑑定であり,比較的試料量が多かったので,結果の信頼性は高い. IRスペクトルだけを見ると鑑定資料1, 2, 4, 6, 7はデンプンが含まれていない.それに対して鑑定資料 3, 5

は亜ヒ酸の他にデンプンが含まれている. 亜ヒ酸をシロアリ駆除剤として用いる場合に,一般に,デンプンやセメントを混ぜて使用した.製造された段階で亜ヒ酸に含有された Se,Mo,Sn, Sb, Pb, Bi以外にデンプンやAl, Si,

P, Ca, Fe, Zn, Baなどが検出されていた.Se, Sn, Sb, Pb, Biの 5元素の含有濃度は丸茂鑑定の ICP-AES分析によると概略 20~ 200 ppmであったので超微量元素というほどでもない.資料1~5は試料量が十分にあった.丸茂鑑定では,これらの ICP-AES分析は,繰り返し 5回測定されている.5

回の測定では,毎回,資料の違う位置から試料採取したので,その分析値の平均は,資料の平均組成であるとみなすことができる. 二宮鑑定と谷口鑑定で測定されたIRは,両者を合わせて資料1~7が分析されている.その結果,IRスペク

図 7-1 (a)資料 1,(b)資料 2,(c)資料 3,(d)資料 3の水抽出物(以上谷口鑑定書 11)による).

図 7d

図 7c

図 7b

図 7a

X線分析の進歩 45 95

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

トルは丸茂鑑定と二宮・谷口鑑定の独立した2系統の測定があり,デンプンの存在・非存在に関して両測定結果は一致している.デンプンの存在を証明するヨウ素・デンプン反応は,資料4と資料5については,IRとヨウ素・デンプン反応との結果が逆転している(表 1).ヨウ素・デンプン反応は,デンプンのαグルコース残基からなるラセン長が短すぎる場合は着色しないので,資料5はラセン長の短いデンプンが亜ヒ酸に混入されていた可能性もあるが,谷口鑑定ではヨウ素・デンプン反応は IRの結果と一致した.資料4の逆転の理由は不明である. 資料6のH氏宅台所プラスチック容器は,白アリ薬剤容器として使われていた容器で,泥や繊維も付着していたとも言われており,またきれいに洗浄されていたが洗浄した際のプラスチック表面の傷に亜ヒ酸粒子がごくわずかに付着していたとも言われており,はっきりしない(図5,写真 209).もし結晶粒以外の付着粒子のIRスペクトルを鑑定で測定していたならば,デンプンが検出された可能性も否定できない.応用物理学会誌の解説 13)でいう「粒径 100 µmの1粒の亜ヒ酸」が図 5写真 211に示すように多数あったので,1998年当時でも,FT-IRによる個別粒子測定は十分に可能であったと考えられる.また顕微ラマン分光による個別粒子分析も可能であったが,SPring-8で決定

図 7-2 (e)資料 4,(f)資料 4の酸不溶物,(g)資料 5,(h)資料 5の水抽出物(以上谷口鑑定書 11)による),

図 7e

図 7f

図 7g

図 7h

96 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

的な鑑定結果が出たと言われていたので,ラマンスペクトルが測定されることはなかった.ただし,谷口鑑定 11)では 330~ 380 nmの励起光で励起して観察した蛍光顕微鏡像も報告されており,「鑑定資料3からは白い蛍光を持つ物質が,鑑定資料4からは青い蛍光を持つ物質が,鑑定資料5からは非常に強く青い蛍光を持つ物質が確認できた」ということなので,資料 3, 4, 5に関してはラマン測定を妨害した可能性もある. カレー鍋のそばで発見された紙コップ(資料7)に付着した亜ヒ酸の純度は丸茂鑑定の ICP-

AES分析によると75%で,混ぜ物はほとんどなかったと考えられる.しかし中井論文 17)の写真 4bでは黒いゴマ塩状の不純物が多数混ざっている.この違いの原因は不明であり,丸茂鑑

紙コップには,セメント(酸不溶物)が約 25%

混ざった亜ヒ酸が付着していたことになる.ただし,湿式化学分析操作の常識から判断すると,ろ紙に残った不溶物重量を計量するのは煩雑な作業であり,通常は行わないので,ミスプリの可能性が高い.

8. 結 論

 デンプンを含んでいない資料は谷口鑑定で測定した資料 1, 2, 4と,二宮鑑定で測定した資料6(台所プラスチック容器)および資料 7(青色紙コップ)から得られた結晶である.デンプンが含まれていた資料は,資料 3と資料 5である. 資料6と資料7は,二宮鑑定では「結晶」部分の IRスペクトルだけが測定されているので,も

図 7i

図 7j

図 7-3 (i)資料 6の結晶,(j)資料 7の結晶(二宮鑑定書 10)

による).

定でろ過した成分がこの黒いゴマ塩状混在物であった可能性も否定できない. 丸茂鑑定では青色紙コップから得られた試料量は29.1 mgであった.酸に溶解ろ過して ICP-AES測定したのは21.9 mgと記述されている.「その全量(29.1 mg)を 0.5 mlの濃硝酸を加え,加熱溶解し,さらに超純水0.5 ml

を加え,5分間加温攪拌した後,0.5 ml

の濃硝酸を加えた.溶液を濾過し,不溶物を除去した濾液を超純水を用いて,2.9 mlとし,分析用溶液とした.」超純水はろ紙をリンスするのに用いたはずである.この際,ろ紙に残った不溶物重量の記述はない.しかし「試料の量が21.9 mgときわめて少ないため」という記述があるので,もし,21.9 mlが 29.1のミスプリではなく,差 7.2 mgが酸不溶物なら,資料 7の

X線分析の進歩 45 97

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

し資料 6と資料 7の試料全体の IRスペクトルを測定して両者に共通してデンプンが出てくるか,あるいは,共通して出てこなければ,死刑囚が犯人である可能性が高い.一方,デンプンが一方にのみ含まれていた場合には,有罪判決が間違っていたことになる.資料6(台所プラスチック容器)と7(青色紙コップ)のデンプンの有無を分析しなければ,「同一の亜ヒ酸」かどうかを決めることはできない.シロアリ駆除業で使用する亜ヒ酸は,セメントやデンプンを混ぜて希釈して使用した.サンプル量が十分にあれば,デンプンの有無の確認はすぐに行えるものである.警察や検察はSn,Sb,Biなどの重金属に重点をおいて判断しているので,高エネルギーシンクロトロン蛍光X線分析で調査を行い,亜ヒ酸が同一のものだと結論している.しかし SPring-8

分析の結果から「同一」であるという時の「同一」の意味は,「緑色ドラム缶と同一起源である」という意味であって,台所プラスチック容器に保管してあった亜ヒ酸が紙コップに移ったという意味での「同一」ではない.既存の鑑定の中で赤外吸収スペクトルによってデンプンが検出された資料は2点のみであり,それが事実認定において何を意味するのかは分からない.しかし,資料6と7の「結晶」だけではなく混在物も含めた資料全体を赤外吸収分析法で確認すれば,カレーに入れられた亜ヒ酸が H氏宅台所プラスチックケースに保管されていたものであったか否かについて,蛍光X線分析よりも,もっと確実な判断ができるはずである.すなわち,検察の論告では,SPring-8の高エネルギー蛍光X線分析だけで検出されたBa Kα線だけを用いて(Ba

の濃度は谷口鑑定によると 2~ 36ppm),H氏が旧宅に住んでいる時代に,旧宅ガレージに置いていた「T氏ミルク缶強い子(資料 5)」(表 1参

照)の亜ヒ酸をプラスチック容器に一部移しかえ,それを「H氏台所白アリ薬剤プラスチック容器(資料 6)」として新しい家の台所に保管しておき,夏祭りの際に,その一部を「青色紙コップ(資料7)」に移し替えてカレー鍋に投入した,というストーリーが述べられている.事件の初期に行われた丸茂鑑定では,十分な試料量を分析に使用可能であったので,その分析の信頼性は高いが,資料 5にはデンプンは含まれているが,資料7にはデンプンが含まれていないので,この論告のストーリーに資料 5を入れることができないことは,デンプンを指標にすればすぐにわかることである.IRスペクトルの重要性を認識していたら,このような論告は裁判に提出されなかったはずである. 更に言えば,日本で流通する市販のカレールーには,もともとデンプンが含まれているし,調理したカレーにはルー以外の料理素材からのデンプンも含まれるので,鑑定資料6と7の異同識別にはデンプンを指標とすることができるが,カレー内部から見つかった亜ヒ酸粒子の異同識別の指標とはならない.資料6や7にはセメントが混ぜられていた可能性もある.資料6の台所プラスチック容器から取り出した亜ヒ酸を,資料7

を用いてカレー鍋まで運びカレーに混入したと認定するためには,セメントの標準 IRスペクトルも測定し,それを指標として資料 6, 7と,被害者が食べたカレー中にあったセメントとを分析比較する必要も残されている.

謝 辞 本稿は,Tuが日本語で執筆した手書き原稿(第3, 5, 7, 8節)に河合が第1, 2, 4, 6節を加えたものである.第7, 8節はTuが執筆した原稿をもとに河合が加筆した.E-mailによるやり取り以

98 X線分析の進歩 45

和歌山カレーヒ素事件鑑定における赤外吸収分光の役割

外に,Fort Collins(2013年8月)および京都(2013

年10月)で直接会って合議の上で執筆した.2013

年 12月 28日にはATTがインドから米国へ帰国途上に八重洲富士屋ホテルで校正刷りの最終チェックをおこなった.手書き原稿の体裁を整えるとともにコンピュータ入力してくれた木村祐子氏に感謝する.図及び写真は鑑定書そのものを修正せずに用いた.鑑定書は著作権のない公開された文書である.

参考文献 1) 河合 潤:X線分析の進歩,43, 49 (2012). 2) 河合 潤:X線分析の進歩,44, 165 (2013). 3) J. Kawai: X-Ray Spectrom., DOI 10.1002/xrs.2462

4) 河合 潤:現代化学,No.507 (6月号), 42 (2013). 5) 河合 潤:現代化学,No.511 (10月号), 68 (2013). 6) 河合 潤:投稿準備中.

7) A. T. Tu:現代化学,No.459 (6月号), 40 (2009).

8) Anthony T. Tu: 「ニュースになった毒」,pp.59-

66 (2012), (東京化学同人). 9) 丸茂義輝,鈴木真一,太田彦人:検甲第1168号,平成 10年 12月 15日 (1998).

10) 二宮利男,中西俊雄,寺田靖子,渡邊誠也,西脇芳典:職権 5号証,平成 13年 9月 26日 (2001).

11) 谷口一雄,早川慎二郎:職権第 6号証,平成 13

年 11月 5日 (2001).12) 中井 泉:検甲第 1170号,平成 11年 2月 19日

(1999).13) 中井 泉:応用物理,74,453 (2005).14) A. F. Wells: Structural Inorganic Chemistry, 5th ed.,

p.854 (Clarendon Press, Oxford, 1975, 1984).

15) A. T. Tu: Raman Spectroscopy in Bioligy: Principlesand Applications, (1970), (Wiley, New York).

16) 北川禎三,Anthony T. Tu:ラマン分光学入門,(1988),(化学同人,京都).

17) 中井 泉,寺田靖子:現代化学,No.509(8月号),25 (2013).