津田塾 国際47 01葛西 - tsuda.repo.nii.ac.jp

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『国際関係学研究』第 47 号(2020 年)1–17 頁(津田塾大学) 1 はじめにCOVID-19 の時代に花森を読 むために 2020 年初頭から新型コロナウイルス感染症 COVID-19)がグローバルに流行し、日本でも感 染者が急増すると、日本政府は 4 月、前月に改正 されたインフルエンザ等特別措置法にもとづく 「新型インフルエンザ等緊急事態」を宣言した。5 月にこの宣言が解除される頃から、日本社会には 「新しい日常」や「新しい生活様式」なることばが あふれるようになった。感染症拡大を予防する実 践としてマスク、手洗い、うがい、消毒、対人接 触の機会減少、ソーシャル・ディスタンシングな どの重要性を説く専門家会議の提言を受けて、政 府関係機関や地方自治体などがマスメディアとと もに、これらのことばを用いて「ポストコロナ」、 「ウィズコロナ」時代の市民生活の行動規範を宣 伝しはじめたのである 2 感染症対策としてのそれらの有効性や是非は措 くとして、人文社会科学、とくに政治思想史の関 心から考えるとき、現実政治(さしあたりここで は立法・行政とそのシステムをつうじた諸政策の 展開をさすものとしよう)における人びとの日常 生活への直接的な介入や誘導は、いったい何を意 味するだろうか。現実政治がこれほどまでに日常 性を焦点化する事態は、人びとの生に介入し管理 するものとしての統治を論じたミシェル・フーコ ー的な意味における権力の様態の前景化、そして 全面化を意味しているようにもみえる。ここから は、「日常性と政治」、「日常性の政治」をめぐるさ まざまな問いが浮かんでくる 3 2020 年という年とともに刻印されたこうした 日常性の政治学 ―花森安治の『国民生活白書』批判― 葛 西 弘 隆 人生で一番大切なのは、吾々の衣食住よりほかにない。この衣食住のために、政治・経済・外交、それ から文学・哲学・科学・国際問題と、すべて世の中のありとあらゆることがあるのである。だから吾々は、 吾々の衣食住の為にならないのはすべて間違ったことだと、衣食住にプラスするか否かで、森羅万象悉く を判断すればいいのである。……本当は、家庭の衣食住に金を使うということは、消費経済などと言われ るものではない。自身自身を向上させ、自身自身の生活を豊かにして世の中の文化を高めるということな んだから、人間としてこれ以上立派な生産はないと言わなければならぬ(花森安治) 1 1 花森安治「服装時評」、『花森安治戯文集 2 「風俗時評」ほか』(LLP ブックエンド、2011 年)、253 頁(初出は『女 性教養』1954 3 月号)。 2 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議 「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020 5 4 ) 厚生労働省 <https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000629000.pdf> <Last accessed on September 29, 2020> 厚生労働省「新型コロナウイルスを想定した『新しい生活様式』の実践例を公表しました」。<https://www.mhlw.go.jp/ stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html> <Last accessed on September 29, 2020>

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『国際関係学研究』第 47号(2020年)1–17頁(津田塾大学)

1 ) はじめに─ COVID-19の時代に花森を読むために

2020年初頭から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がグローバルに流行し、日本でも感染者が急増すると、日本政府は 4月、前月に改正されたインフルエンザ等特別措置法にもとづく「新型インフルエンザ等緊急事態」を宣言した。5月にこの宣言が解除される頃から、日本社会には「新しい日常」や「新しい生活様式」なることばがあふれるようになった。感染症拡大を予防する実践としてマスク、手洗い、うがい、消毒、対人接触の機会減少、ソーシャル・ディスタンシングなどの重要性を説く専門家会議の提言を受けて、政府関係機関や地方自治体などがマスメディアとともに、これらのことばを用いて「ポストコロナ」、

「ウィズコロナ」時代の市民生活の行動規範を宣伝しはじめたのである 2。感染症対策としてのそれらの有効性や是非は措

くとして、人文社会科学、とくに政治思想史の関心から考えるとき、現実政治(さしあたりここでは立法・行政とそのシステムをつうじた諸政策の展開をさすものとしよう)における人びとの日常生活への直接的な介入や誘導は、いったい何を意味するだろうか。現実政治がこれほどまでに日常性を焦点化する事態は、人びとの生に介入し管理するものとしての統治を論じたミシェル・フーコー的な意味における権力の様態の前景化、そして全面化を意味しているようにもみえる。ここからは、「日常性と政治」、「日常性の政治」をめぐるさまざまな問いが浮かんでくる 3。

2020年という年とともに刻印されたこうした

日常性の政治学―花森安治の『国民生活白書』批判―

 葛 西 弘 隆

人生で一番大切なのは、吾々の衣食住よりほかにない。この衣食住のために、政治・経済・外交、それ

から文学・哲学・科学・国際問題と、すべて世の中のありとあらゆることがあるのである。だから吾々は、

吾々の衣食住の為にならないのはすべて間違ったことだと、衣食住にプラスするか否かで、森羅万象悉く

を判断すればいいのである。……本当は、家庭の衣食住に金を使うということは、消費経済などと言われ

るものではない。自身自身を向上させ、自身自身の生活を豊かにして世の中の文化を高めるということな

んだから、人間としてこれ以上立派な生産はないと言わなければならぬ(花森安治)1。

1 花森安治「服装時評」、『花森安治戯文集 2─「風俗時評」ほか』(LLPブックエンド、2011年)、253頁(初出は『女性教養』1954年 3月号)。

2 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議 「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年 5月 4日 ) 。厚生労働省 <https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000629000.pdf> <Last accessed on September 29, 2020> 厚生労働省「新型コロナウイルスを想定した『新しい生活様式』の実践例を公表しました」。<https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html> <Last accessed on September 29, 2020>

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問題意識をふまえつつ、この小稿では、戦後日本の代表的な生活雑誌(婦人雑誌)のひとつである『暮しの手帖』の編集者、花森安治のテクストを手掛かりとして、戦後日本政治思想史における生活様式をめぐる知識生産のポリティクスを検討し、日常性の政治学とよぶべき問題の所在について考察することにしたい。

2 )暮しを研究する─文化の政治学

よく知られるように、花森安治は戦後、自ら編集する雑誌『暮しの手帖』をおもな舞台として、服飾デザイン、ジャーナリズムなどばひろい領域で活躍した。ひとことでいうなら、花森は生涯をつうじて「日常生活の政治」を論じつづけた思想家であるといっても過言ではない。花森は、暮しという概念をとおして、市民ひとりひとりが「切実」に生きる現場、人びとが日々の生活をつうじて経験する社会的現実に焦点をあて、とりわけ戦争を経験した世代が「暮し」という語から連想する「暗さ」を、たんに語感やイメージの問題として扱うのではなく、日々の生活の衣食住のありかたの変革をつうじて、その内実において「明るく」することをめざした。花森は、暮しを日々あらたに「つくりだされる」ものとして、つまり、日常性のなかで社会関係と社会意識が構成される動態的な領野、すなわち広義の政治の場ととらえていた。このことは、花森を政治思想史の視座から読むときにもっとも重要な論点のひとつである。創刊当初から『暮しの手帖』すべての号の表紙裏に掲げられている、「すぐには役に立たないように見えても やがて 心の底ふかく沈んで いつか あなたの暮し方を変えてしまう」というフレーズが暗示するように、花森と『暮しの手帖』は、政治を、国民国家の立法・行政の制度として理解しがちな狭義の意味から解放し、より広義の政治、すなわち「文化の政治学」─ひとが生きることそのものを政治

としてとらえる政治的想像力の創出─に取り組んでいたと考えることができる 4。戦後の彼は一貫して、政治に本源的なこの性格を重視し、市民生活の現場、より具体的には日々の衣食住を賭け金として政治社会の現実に介入し、変革しようと試みた。したがって、婦人雑誌として出発した『暮しの手帖』では─とりわけ創刊から 1950年代にかけて─現実政治をふくむ時事問題を主題として扱う記事は多くないにもかかわらず、花森とこの雑誌は、「文化」と「政治」を切り離したうえで政治を文化の外部に追いやる類の「文化論」とは異なる視座から、つねに政治にアプローチしていたと解釈することができる。ここで、1937年に東京帝国大学文学部を卒業

して以降、大学を中心とする学術研究と接点をもたなかった花森が、『暮しの手帖』をはじめとするさまざまなプロジェクトの要所要所で「研究」ということばを用いた事実に注意を払っておきたい。敗戦翌年の 1946年、花森が大橋鎮子とともに設立した小さなオフィスには、衣裳研究所という名称が与えられた。そこで刊行した『スタイルブック』シリーズの経験をもとに、1948年に雑誌『美しい暮しの手帖』を創刊し、同年、社名を衣裳研究所から暮しの手帖社に変更した。1953年に東麻布に新たに開設されたオフィスは、「暮らしの手帖研究室」と名付けられた。新社屋は花森の設計によるもので、小さな出版社としては異例の、大規模な共同作業や撮影用のスペースが設けられ、花森や大橋の語るところでも、また『暮しの手帖』にかかわった他の人びとの証言からも、その空間はさながら「実験室」の様相を呈していたことが知られている。この前後から、『暮しの手帖』では編集部が取材、執筆した原稿の一部に「暮しの手帖研究室」という名称を付すようになり、その数は増えていく 5。『暮しの手帖』の名声を確立することなった商品テストの企画は、この「研究」の中核をなすものだった。『暮しの手帖』創刊から 1950年代にかけての動

3 ミシェル・フーコーの生権力論をふまえてCOVID-19と現代社会を論じたものとして、以下参照。美馬達哉『感染症社会』(人文書院、2020年)。また、政治理論の分野で日常生活を主題化した近年の取り組みとして、以下参照。田村哲樹編『日常生活と政治─国家中心的政治像の再検討』(岩波書店、2020年)。

4 『暮しの手帖』裏表紙、『美しい暮しの手帖』創刊号、1948年。花森安治については別の機会に論じたことがある。以下の拙稿を参照されたい。拙稿「花森安治と戦後民主主義の文化政治」、『津田塾大学紀要』第 50号(津田塾大学、2018年)。拙稿「花森安治と北海道─開拓・棄民・国家」、『国際関係学研究』第 44号(津田塾大学、2018年)。拙稿「『品質のよい政府を持つ』こと─花森安治の『絶望』をめぐって」、『国際関係学研究』第 46号(津田塾大学、2020年)。

3日常性の政治学

向から拾いだすことができるこれらの事実は、花森が文化政治をめぐる独特の言説戦略を展開するにあたって、「研究」という語を意識的に選びとっていたことを示唆するものである。この語の選択が内包する「文化の政治学」としての意味についてあらためて考えてみることは、戦後日本思想史における花森の特徴を理解するうえで興味ぶかい主題のひとつといえる。「暮しを研究する」とはどういうことなのか。この問題意識が本稿の出発点である。もちろん、ここでいう研究とは狭義のアカデミア、すなわち学界・学会を中心に制度化されてきた高等教育研究における知的生産の枠組みにかんするものではない。むしろ、研究する主体自らが研究対象のなかに折れ込み、市民生活の現場で市民生活をテーマとして行う言論活動がもちうる政治社会的な含意を自覚的、積極的に引き受ける言説実践の企画と理解することにしよう。研究ということばの選択のうちに、花森と『暮しの手帖』がある種の「民間学」(鹿野政直)をつうじた知識生産のポリティクスへの参与を自覚的に選択していたことがしめされていることを提起したい 6。このように問いを設定することで、花森が大橋

鎮子と設立した暮しの手帖社が、雑誌刊行のための一出版社であることをこえて、<暮しを研究する>社会的実践の場を志向したことの意味について、より詳細に考えることができるようになる。この課題に花森はジャーナリズムという社会的回路をつうじて、しかも個人ではなく集団的な実践として取り組んだのだった。事実、『暮しの手帖』のプロジェクトは、長年ともに働く編集部員と、そしてなにより読者を重要視していたことで知られている。創刊以来、各号のあとがきに発行人の

大橋鎮子が記したメッセージにしめされるように、『暮しの手帖』は毎号、読後の感想、意見、リクエスト、さらには本誌に掲載する原稿を寄せるよう読者に求め、ハガキや手紙で届く多様な声を誌面に反映させようとした 7。その意味で『暮しの手帖』は、そのプロジェクトの核心において読者を巻き込んだ「運動体」としての性格を有していたのである 8。したがって、『暮しの手帖』にとっては、雑誌制作者とその読者からなるコミュニティの構築をつうじた知識と実践の往還運動こそが、ジャーナリズムにおける生活様式のポリティクス、すなわち衣食住というミクロな政治の現場において権力を<下から>構成する社会的実践の中核をなすものであった。花森が鍵概念として案出した「暮し」の語は、衣食住の具体性を指示するものであると同時に、雑誌『暮しの手帖』読者との相互関係(リーダーシップ)をつうじてはたらく、社会変革の可能性に開かれた集合的な運動としての特徴も包含していたのである。こうした編集方針のもと、1950年代以降の『暮しの手帖』はその編集方針と独自の企画をつうじて多くの読者を獲得し、雑誌としての社会的影響力を生み出していった。本稿では、『暮しの手帖』の政治的性格をめぐる

これらの特徴を念頭に、1950年代の花森の批評活動に焦点をあてる。この時期の彼の足跡をたどってみると、『暮しの手帖』での活動と並行して、しばしば評論家として雑誌や新聞に登場し、服飾や風俗から政治社会の時事問題にいたるまで、奔放といってよいほど辛口かつ雄弁に語っていた事実が目をひく。花森自身が「夜店」であけっぴろげに語る時事問題についての見解は、独特の謙抑的な文体をつうじて日々の暮しのミクロな状況の

5 暮しの手帖研究室「キッチン」、『暮しの手帖』25号、1954年。つづく 26号の「あとがき」で大橋は、10回の連載予定で始まった「キッチン」の企画に言及し、次のように記した。「暮しについて考えてゆく雑誌なら……どうしても、自分たちの手で、実際に研究して、答えを出してゆかねば、どうにもならないことが、たくさんあります。私たちも、実をいうと、この雑誌をはじめるときから、そういう研究室がほしいとおもいながら……やつと三年ばかし前から、ほんのお粗末なものでしたが、この研究室を作りました」(「あとがき」、『暮しの手帖』26号、1954年、200頁)。この前年には以下の記事がある。暮しの手帖研究室「日本品と外国品をくらべる─石けん」、『暮しの手帖』20号、1953年。

6 鹿野政直『近代日本の民間学』(岩波新書、1983年)。 7 「あとがき」の例として、『暮しの手帖』7号(1950年)の一節を引用しておこう。「みなさまから頂く原稿が、月月に数もふえ、その内容も、粒よりといった感じになって参りました。号を追うて、みなさまの原稿で飾らせていただく部分が多くなってゆくのは、いまの私たちにとって、たのしいことのひとつでございます。……名もない、と申しては失礼かとも存じますが、毎日まいにちをそれこそお互いの血のにじむ思いで暮らしてゆく、その暮しのなかの真実の貴さ、うつくしさを、この後も、私たちは何よりの誇りにしてゆきたいと存じます」(134頁)。

8 運動体の語については以下参照。鳥羽耕史『運動体・安部公房』(一葉社、2007年)。

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うちに「政治」を生起させる『暮しの手帖』のアプローチと、表面的には別のものにみえるかもしれない。しかし、当然のことながら両者は実際にはあちこちで接点をもっており、そこには花森の問題意識の一貫性を読みとることができる。別の機会に論じたように、『暮しの手帖』誌上では、1960年代以降に時事的な社会問題を正面から扱う傾向が強まっていくものの、雑誌創刊から1950年代中期にかけてのいくつかの企画や記事のうちにも、すでにその萌芽を読みとることができる。上述のように、日々の生活それ自体が政治を構成していることを射程にいれた文化政治の言説空間を構築することが『暮しの手帖』の目標であったがゆえに、(本稿で検討するような)市民生活にたいする政府の直接的な介入は花森自身の政治観および同時代認識と衝突し、「夜店」での発言にくわえて『暮しの手帖』誌上においても火花を散らすことになったのである。それは、伝統的な政治学の視座からはあまりにも地味にみえるかもしれない衣食住をめぐる日常性の研究をつうじて展開する『暮しの手帖』の文化政治が現実政治の動向と交錯する地点において、人びとの生をめぐる統治と権力関係の一端が可視化される瞬間であった。そこには、花森の暮しの思想の核心にあるのが日常性<と>政治ではなく、日常性<の>政治学、すなわち<生活様式をめぐるポリティク ス>であることがしめされている。本稿では、そうした花森の暮しの思想を読み解

く試みのひとつとして、1950年代中頃の日本で経済企画庁が発表した『経済白書』と『国民生活白書』をめぐって彼が展開した批判を中心にとりあげる。国政では、政党再編をつうじて、その後数十年間にわたり政党政治の基本枠組みとして機能することになる 55年体制が確立し、経済面では高度経済成長がはじまりつつあったこの時期、日本政府は公式の報告書において国民生活の現状分析を提示した。当時の政府が国民生活をどのように理解し、どこに導こうとしているのか。政府が政策立案の基礎として作成した報告書は、いみじくも「暮し」の旗をかかげて闘っていた花森の

逆鱗にふれることになったのである。花森の白書批判を正確に理解するための助走として、最初に、1955年に花森が書いた政治(家)批評にふれておくことにしよう。

3 )台所と政治の男性性

1955年、花森は『週刊朝日』に「各党総裁のお台所拝見」という連載記事を寄稿した。このエッセイは四人の政党指導者─左派社会党の鈴木茂三郎、右派社会党の河上丈太郎、結成されたばかりの日本民主党の鳩山一郎、自由党の緒方竹虎─の住まいと暮しぶりを取材し、家計簿や夫婦の人間像に言及しつつ批評したものである 9。いかにも週刊誌らしいというべきか、全体としてかるい読み物の体裁をとりながらも、このエッセイは花森の思考に中核にある日常性の政治学、より具体的には「台所の政治」の重要性をはっきりと主張するものになっている。この連載の 4回目、自由党の緒方竹虎を取材した記事で、花森は、すでに取材した三者をふくむ四人の政治家が、政治的理念や暮しぶりの違いにかかわらず、日常性を軽視する点で共通していることを指摘する。その際、彼はとくに台所の配置に注目した。当時の日本の住まいの設計では、使用頻度の低い客間や応接間に日当たりがよく広い空間があてられるいっぽう、日々の生活の中心を占めるはずの台所が狭く、日当たりの悪い北向きの場所に置かれていることが多かった。花森は、「『応接間』にくらべて、台所が、お粗末」な傾向を、日常生活を軽視する現代日本の生活様式を象徴するものと理解した。事実、これは『暮しの手帖』が創刊当初から批判し、変革に取り組んできたテーマのひとつである。この連載では、花森の手書きと思われる、4人の私邸の間取り図が掲載されている。それによると、モサさんとよばれた鈴木の庶民的でつつましい平屋建てから、音羽御殿とよばれた鳩山の大邸宅にいたるまで、建物の規模に関係なく、「四つの台所が四つとも、まことにお粗末で、貧弱で、なんともなさけないほど」

9 花森安治「各党総裁のお台所拝見」、『週刊朝日』1955年 1月、2月。連載の詳細は以下のとおり。「《その 1》左派社会党の巻 鈴木茂三郎 千枝夫人」1955年 1月 16日号、「《その 2》右派社会党の巻 河上丈太郎 末子夫人」1月 23日号、「《その 3》民主党の巻 鳩山一郎 薫(子)夫人」1月 30日号、「《その 4》自由党の巻 緒方竹虎 コト夫人」2月 6日号。本稿では下記の再録版を参照した。花森安治「忙しい暮しの手帖 各党総裁のお台所拝見」『花森安治集─いくさ・台所・まつりごと篇』(LLPブックエンド、2013年)、24-74頁。

5日常性の政治学

だった 10。この事実は「『暮し』をケイベツ」する生活様式を象徴していると花森は考えた。

子ノタマワク、君子(きみこに非ず)ハ、包丁ニサワルナ、というのが、ながいあいだ、ボクたちの性根にしみこんできた、アカみたいなものだった。気取っていえば、モラルさ。台所など、ケイベツして暮すのが、大人物だった。台所がなければ、一日も暮せないくせに、その台所をケイベツする、というのは、コッケイ千万な話だが、そのコッケイが大マジメだったのだ。台所をひっくるめて、「暮し」をケイベツしてきたのが、ボクたちの「暮し方」だったのだ 11。

台所は日常性を象徴する場であり、台所の配置や、日々台所で起こる出来事のうちにこそ政治の現実が如実にあらわれる。だとすれば、使用頻度の低い応接間ばかりが立派で、住人が日々の時間を過ごす台所が粗末で窮屈な家に住みながら天下国家を語ることが、どれほど空疎なことか。花森はその滑稽さを槍玉にあげる。花森は、敗戦後に台所と政治の直結をめぐる議論が流行したことを引き合いに出しつつ、粗末な台所で生活しながら「『台所を政治に直結する』などとは、チトうそさむいことだ。ああいう台所を、直結するから、昨今の政治が、お粗末になるのも無理はない」と皮肉をきかせる。日常性への想像力が、ひとりの市民としてはもちろんのこと、(狭義の)政治に携わる職業政治家にとって、ことさらに重要であることはいうまでもない。花森の批判の矛先は、とりわけ代議士を職業とする男性の「ご主人」にむけられている。

これは、四人の奥さんにではなく、四人の「ご主人」に、それこそ、開き直って、大まじめに、シカと忠言を呈しておく。国事か党事かしらぬが、そんなことに突っ込むアタマの十分の一と、そんなことに使うカネの百分の一を、台所へふり向けなさい。それが「政

治」の第一歩だ。そうすれば、きっと、日本の政治は、もうすこし、マシになる─ 12。

花森は、台所を「『政治』の第一歩」として考えている。政治の現場に携わる者が台所を軽蔑し、日常生活のミクロな現実への視座や想像力をもたないとき、立法や行政は人びとの生活の向上に貢献することができるのか。造船疑獄をめぐる混乱がつづくなか、自由党の吉田茂内閣は 1954年 12月に総辞職し、日本民主党の鳩山一郎内閣が成立した。その後、1955年 10月には分裂していた左右社会党が統一し、それを受けて 11月には、自由党と日本民主党の保守合同により自由民主党が結成されることになる。軽妙な語り口をもつ花森のエッセイは、戦後日本の政党政治が再編されていくその最中に、保守や革新のイデオロギーを串刺しにして主要政党のリーダーを批判し、台所が象徴する日常性から乖離した「男」中心の政治構造の変革を訴えるものだった。一連の引用からあきらかなように、日頃から花森は媒体によって異なる語り口を使い分けていた。「本店」というべき『暮しの手帖』誌上で彼が用いた抑制のきいたことばづかいや独特の文体とは異なり、「夜店」、すなわち評論家として新聞や雑誌のコラムや対談で時事問題を語る際の花森は、ユーモアとヒネリをきかせた挑発的な語り口を売りにしていた。もっとも、そうしたスタイルの違いの背後に一貫する彼の思考を読みとるのはむずかしくない。このように、日常性を重視する花森の政治観の根底には、<政治の場>としての台所を軽視する、「男らしさの政治」とでもよぶべきものにたいする花森の根源的な不信があった。花森が日常性を重視し、女性を主たるターゲットにした「婦人雑誌」のプロジェクトに傾注したこと、そして「暮し」の思想の中核をなす衣食住、とりわけ日常性を象徴する場としての台所にこだわった事実は、「政治の男性性」への違和感を隠さない花森の政治思想のあらわれとして理解することができる。彼はかならずしも現代の用語でいうフェミニ

10 花森「各党総裁のお台所拝見《その 4》自由党の巻」、63頁。なお、現地取材にもとづく手書きの間取り図は、のちに舞台美術家の妹尾河童が展開した『河童が覗いた』シリーズでのスケッチを連想させる。妹尾河童『河童が覗いたヨーロッパ』(新潮文庫、1983年)。

11 同前、64-65頁。 12 同前、65頁。

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ストではなかったとしても、現実政治(ひいては現代社会)に通底する男らしさへの欲望を批判しつづけた意味において、現代政治が構造的に内包する男性中心主義に絶望するひとりであった。台所に象徴される日常性の軽視と空虚な男性性の接合のうちに花森が現代政治の根本的な問題を見出していたことを理解したうえで、彼の白書批判に議論を進めよう。

4 )『経済白書』─「バカにしなさんな」

1956年 7月、鳩山一郎内閣のもと、日本政府はこの年の『経済財政報告』を発表した。経済企画庁の官僚、後藤誉之助を中心に作成され、一般に『経済白書』という名称で知られるこの文書は、日本社会の現状について、「もはや『戦後』ではない」と評した 13。おりしも神武景気とよばれる好景気のなか、第二次世界大戦敗戦後の復興から近代化をつうじた新たな成長への転換を提起するものだった。1960年代にかけてつづくことになる高度経済成長が始まるタイミングにあって、このフレーズはひろく反響をまきおこし、今日では、戦後史の一ページを画すものとして高校の歴史教科書にも引用されている。この白書が発表されると、花森は朝日新聞に

「経済白書を読んで」という文章を寄せた 14。同日の朝日新聞の経済欄は、「政策から浮上る──“新説”にはかなりの疑問」、「明るすぎる経済白書」などの見出しを掲げ、白書の内容について、政府にたいしてあきらかに批判的な論調で構成されていた。同じページに掲載された花森のコラムも、白書への怒りを率直に表現するものである。彼の記事の中央に添えられた見出しは、「ばかにしなさんな」であった。冒頭から花森は、報告書は「見ただけで、うん

ざりしてしまう」ほど分厚いうえ、「書いてあることがさっぱりわからない」と切り出し、そもそも閣僚たちは閣議決定にあたってこの報告書を読ん

だのかと疑問を呈する 15。花森の怒りは、とりわけ議論の前提にむけられている。花森によれば、執筆者は市民の日々の生活の現実を理解しておらず、それどころか実態を正確に把握しようとさえせず、「『経済』ということを、国民の毎日の暮しと、つながりのない、一部の人たちだけの特別なものときめている」。そのため、白書は「やたらと騒々しい言葉をならべたてて、分り切ったことを、わざわざ分らなくして」おり、「中身も木でハナをくくったようなさっぱり訳が分らぬというお粗末」なものだと指摘する。白書は、俗にいうお役所言葉の羅列で意味をなしていないというのである。

「もはや戦後ではない」といった例の太陽族みたいな言葉が出てくるが、そのくせ、国民の住まいは、まだ足りないと書いてある。国民が、戦争のおかげで、したくもない間借り暮らしからぬけられないのに、「経済」だけが、どうして「もはや戦後ではない」のか、分らない。ぼくらの暮しを豊かにするには、「国民経済の安定的発展の持続なくしては困難」だそうだが、税金がこんなに重いのに、どうして「安定的発展」ができるのか、これも分らない。政府のムダづかいと、税金の重さとどう関係があるのか、それも書いてない。防衛費がひどくふえるそうだが、この白書には、「経済力といかに調和させるかは、今後の大きな課題である」と、たった二行で片づけている。バカにしなさんなといいたくなる 16。

花森の文章は、全体をつうじてこの調子である。彼は、個々の分析とマクロな認識とに論理的な整合性がなく、政策立案の判断材料となるべき公的な社会診断が、人びとの日常性から乖離した空虚なことばと矛盾だらけの解釈に満ちていることを、舌鋒するどく炙り出した。花森からすれば、

13 経済企画庁『昭和 31年度 年次経済財政報告』(1956年、本文では適宜、白書と略記)。文章は以下のようにつづく。「我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となる」。内閣府<https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je56/wp-je56-010501.html> <Last accessed on September 29, 2020>

14 花森安治「経済白書を読んで」、『朝日新聞』1956年 7月 17日。 15 同前。 16 同前。

7日常性の政治学

前節で言及した政党指導者たちと同じく、霞が関の(男性)役人には政治の現場としての日々の市民生活、すなわち<台所の政治>の何たるかが理解できていないではないか。日常生活の現実を知りもせず、理解しようとさえせずに、この白書が政策提言の基礎資料として公表されたことに、花森は憤っていた。そして結びでは、「これなら「『白書』ではなくて、『空白書』といった方が、よさそうだ。お互いにムダである」と、容赦なく切り捨てた。ようするに白書はデタラメだというわけである。直接の言及こそないものの、この辛辣な批評の

背後に『暮しの手帖』の実践があることは容易に想像できる。花森はいう。「『経済』というのは、毎日のハシの上げ下しにつながっている、いわば『ふだん』のことである。それを説明するのに、『ふだんの言葉』でできないはずはない」17。記事のなかのこの一文が、裏返しのかたちで花森(と『暮しの手帖』)の思想的核心を語っている。政治も経済も日々の暮しをつうじて理解され、日々の生活のことばで語られるべきものであり、その成果もまた、日々の暮しをつうじて評価されるべきものである。日常生活の現実を研究することにおいて政治的であろうとした花森と『暮しの手帖』の視座からすると、「毎日のハシの上げ下し」を、方法においても内実においても行政がとらえ損ねている事実こそ、花森の怒りを買ったのだった。もっとも、政府の国民生活論にたいする彼の憤怒は、この一回では終わらなかった。

5 )『国民生活白書』─不健全な国民生活?

翌年の 1957年 10月、経済企画庁はこの年の『国民生活白書』を発表した 18。この白書について、花森はホームグラウンドの『暮しの手帖』に長編の署名記事を執筆する。記事には、「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては

困ります─『国民生活白書』を読んで」という挑発的な題目が与えられた。この記事は、この頃の『暮しの手帖』にはめずらしく、政治経済政策にかかわる出来事を詳細にとりあげて、白書が提示した政府の国民生活認識がまたしてもデタラメである事実を解析していく 19。批判の対象は白書が論じた衣食住全般にわたっているが、まずは食にかかわる論点に注目してみていくことにしよう。前年の経済白書論と同じく、ここでも花森の<台所の政治>研究にもとづく政府・政治批判─白書の根底にある発想や具体的な分析への批判─をつうじて、花森と『暮しの手帖』が展開する文化 =政治の言説戦略、そして花森自身の政治観があきらかになるはずである。花森は冒頭で、英国に端を発する白書(ホワイト・ペーパー)の由来を紹介し、「国民が白書の内容を議論し、それによって政府が立てようとしている政策を批判することができるようにするため」の文書であることを読者に説明する 20。そして、今回の『国民生活白書』(正式名称は『国民生活の現状』)とは「私たちの暮しの白書」であり、「政府が私たちの暮しをどのように考えているかがわかる」と述べたうえで、記事の主題が日常性の視座から政府の仕事をチェックすることにあると提示する。本論にはいると花森はまず、この白書が「国民を叱ったり説教したりするヘンな報告書」であることに注意をうながす 21。彼は食生活をめぐる白書の認識を問いただす。政府は「食生活の水準を向上させるのは容易なことではな」く、現状では「わが国の食生活の水準は栄養的にみて決して十分とはいえない」と説明した。けれどもその原因について、白書は、「収入が増えても消費者の関心はとかく被服や家具品に走り、栄養のことは忘れがちである。綺麗な服装をし、便利な家具品を備え、リクリエイションを楽しむ」国民の生活様式に起因するものと解釈した 22。国民の食生活をめ

17 同前。 18 経済企画庁編『国民生活白書 昭和 32年版』(以下『国民生活白書』もしくは白書と略記。なお、中表紙の表記は以下のとおり。経済企画庁調整局『国民生活の現状』1957年 10月)。国立国会図書館デジタルライブラリー<https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3035909> <Last accessed on September 29, 2020>

19 花森安治「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります─『国民生活白書』を読んで」、『暮しの手帖』42号、1957年、104-115頁。

20 同前、105頁。 21 同前。

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ぐる分析であるにもかかわらず、どういうわけだか食生活以外の消費支出の動向や国民の日々の生活態度が批判されている。それはなぜなのか。この説明に花森は、「おしゃれをするな、便利な家具を買うな」というのかと疑問を投げかける。

[白書の結論は……筆者註]「栄養の問題をおろそかにした生活は決して健全な生活ではないのだぞよ」ということになったのだろうと想像されます。もしそうだとすると、ずいぶんバカげたことになります。……もしこの報告書に書かれた政府のお説教をそのまま実行するとすれば、国民は汚い服装をし、不便な家具を使い、リクリエイションもせずに、もっと栄養のある食物に金を使わなければ義理が相立たないように思われます。そうすれば私たちの暮しは健全になるのでしょうか。どうも山ほど疑問がありそうです 23。

花森にとって、そもそも政治とは「国民がもっと栄養のあるものを食べることができるようにする」ことでなければならない 24。しかしながら、この白書は政府が遂行した政策の効果を検証することなく、そのかわりに国民の行動様式を批判した。これにたいして花森は、「栄養の上では[前年度から]向上がなかったのに、国民の収入はふえ、それで便利な家具や、きれいな服装を買ったり、リクリエイションに使ってしまったのは、政府としてまことに遺憾であるというのが、この報告書の主旨」だと喝破した 25。これでは政治の放棄ではないのか。「政府にアキラめられてしまっては政治がなくなってしまいます」26。もしそうだとすれば、政府は国民を守るどころか、国民を放置、放逐することになってしまう。もし、そうではないと好意的に解釈するならば、実際に政府はいかなる政策をうち、国民の食生活には何が起こったのか。

そこで花森は、政府の食糧政策についての白書の記述を検証していく。前年度の状況について、白書は次のように説明した。「主食では米の豊作により内地米の消費が増え、外米やパン、押麦の消費が減ったため、主食全体としてみれば一人当り消費量も栄養量もわずかながら減少した。主食以外のたべ物では魚介類が漁獲量の減少で若干減少したが、肉類や牛乳々製品に対する需要が旺盛でいちじるしく増加したので、栄養面からみればほぼ横這いとなった」27。前年度に国民の栄養は向上しなかったとするこの解釈について、花森は、「なかなかうまい理くつが考えられていますが、私たちの暮しはこの通りだったのでしょうか。おかしいとは思われませんか」と疑問を投げかける。白書は、国民一人一日当りのカロリー計算をもとに栄養状態を評価した。しかしこの議論では、1956年度には国内で米が豊作だったことが原因で栄養が向上しなかったことになり、話の筋がとおらないと花森はいう。しかも、米の生産と配給は政府の主要政策のひとつであることからすると、「この報告書によれば、栄養の上で国民に不健全な生活をさせているのは政府の農業政策だといって、同じ政府が同じ政府を批難しているような結果になります。おかしなことだといわなければなりません」28。はからずも白書の解釈は、政府が採用する諸政策に一貫性がないことをしめしているというのだ。そのうえ、白書はアメリカ合州国の食料カロリー(約 3000カロリー)と比較して日本国民の食生活の水準が低いと論じているが、その際、「作った量」と「使った量」、すなわち食糧の供給量と消費量を混同しているではないかと指摘する 29。そして、1956年の日本の食料供給量である一日一人当たり 2139カロリーを根拠に、政府が食生活の水準の向上が容易でないと述べ、「国民の生活は不健全である」と結論づけるなら、「『国民の生活は不健全である』という批難はそのまま政府に

22 『国民生活白書』、35頁。 23 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、106頁。 24 同前、105頁。 25 同前、106頁。 26 同前、105頁。 27 同前、106頁(『国民生活白書』、35頁)。 28 同前、107頁。 29 同前。熱量(カロリー)を論じる際の単位として、花森は kcalではなく Calを用いている。

9日常性の政治学

返上したい」と逆に政府を批判する。「そんな不健全な食料政策をしている政府こそ批難されなければならないでしょう。……食料の供給量を一人一日当り平均三千カロリーにするのは政府の仕事です。……だれだってただのウドンより、てんぷらうどんの方が食べたいのです」30。花森からすれば、不健全なのは国民生活ではなく政府の政策にほかならない。このようにして、白書の筋立てにはそもそも無理があり、政府がみずからの不作為を棚にあげて、「不健全」な栄養状態の責任を市民の行動様式に転嫁する筋書きをひとつひとつ読み解いていく。つづいて花森は、国民の栄養不足をめぐる経済

企画庁の認識が、別の角度からみても間違っていると述べる。彼は総理府統計局が行なった家計調査の分析を参照し、そこでは 1956年度に国民の栄養状態が向上したと述べられている事実を指摘する。経済企画庁と総理府で、同じ年の同じ対象についての認識が相反しているのである。そして、総理府の調査によるなら、「どうしたって、栄養の水準は向上したといわなければならないでしょう」31。この点にかんして花森は、『国民生活白書』がことさらに加工食品─パン、ハム、ソーセージ、ベーコン、サケやマグロの罐詰、マヨネーズなど─の普及について、独立した項目(第二部 消費生活、第一節 食生活、四 非主食品の動き、5 加工食品のいちじるしい増加─食料品における規格化の傾向)をもうけてまで警告を発するのは、栄養の向上をめぐる上述の解釈の矛盾を「取り除く」ためではないかと推論する。白書は、加工食品が「いかに便利で味がよくとも、鮮度や栄養面を考慮すれば必ずしも食生活の向上とはいえ」ないと述べ、「食生活の規格化も大いに三省の必要があろう」と国民の反省を求めた 32。加工食品の普及がもたらす食生活の規格化について、白書は次のように記した。「加工食品に対する需要はとくに都会の若い世代の人達に強く、この人達にと

つてはみそ汁や手造りの料理などにはあまり未練もなく、ある程度うまくて、簡単で栄養があればそれでいいのである。……どこの家でも型にはまつた同じようなものが食膳にのぼる」33。若者の新しい生活様式を問題視するこうした評価について花森は、「これを読んだら、だれでもビックリするか、あるいは吹き出してしまうかのどちらかでしょう」と呆れる。「食生活を向上させ栄養を高めなければならないと言いながら、パンやハムやベーコンやサケやマグロの罐詰を食べるのは『食生活の向上とはいえない』といわれたのでは、私たちは一体どうしたらいいのか、わからなくなってしまいそうです」34。さらに白書は、日本について語るときには加工食品の普及を批判するいっぽう、アメリカ合州国について語る際にはその摂取を肯定的に評価した。花森は皮肉まじりに、「日本人は加工食品を多く食べたので栄養が低下し三省の必要ありといって経済企画庁から叱られ、アメリカ人は加工食品を多量に食べたので栄養が高く、しかも光熱費が少なくてすんでるのだから注目しなくてはならないといって経済企画庁から賞められているのです。ずいぶんわけのわからない話です」と述べ る 35。白書の議論は、ただでさえひとつひとつの分析が矛盾しているところに別の矛盾が次々と重なっていき、もはや全体が支離滅裂になってしまっているのではないか。花森はいう。「どうも理論の筋道の一貫していない報告書です」36。

6 ) 「不要不急」の敵視─反省すべきは政府である

しかしながら、問題点は衣食住をめぐる個々の分析や解釈だけではなかった。より根本的なところで、白書の議論の前提をなしている政府の国民生活観に重大な欠陥があることを、花森は見逃さない。政府が日々の生活の現実を把握するうえで必須の視点を欠いているために、「国民生活の現

30 同前、108頁。 31 同前。 32 同前、109頁(『国民生活白書』、39頁)。 33 『国民生活白書』、59頁。 34 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、109頁。 35 同前、113頁。 36 同前。

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状」を論じるはずの白書は最初から「暮しの分析」、つまり研究になっていないというのである。このことは、とりわけ白書が衣食住について語る際に多用する言葉づかい─きれい、便利、規格化、はなやかなど─にあらわれているとして、花森は本文のいたるところで問いを発する。「『便利なもの』をなぜこの白書はきらうのか」37。「この報告書が『綺麗』とか『便利』とか『楽しむ』ということに対してなにか偏見を持っているのではないか」。白書は「『いかに便利で味がよくとも』とか、いかにも『便利』ということを不都合なもの、ケシカランもののように扱っています」。「経済企画庁は『規格化』という言葉を何か誤解しているのではないかと思います」。衣服についても、白書は「きれいな服装は、暮しの必需品ではないという考え方」にたっている。「きれいということは、ゼイタクということではないはずです。どうもこの報告書の文章の調子を見ていると、その点が混同されている」。さらに住まいについても、「はなやかな家具」という形容語句の「背後にはお説教がつきまとっている」38。白書のこうした言葉づかいに、花森はふたつの

問題をみる。第一に、きれい、便利、規格化、はなやかといった語によって示唆される価値を、白書ははなから否定的なものと決めつけ、そうした価値を「不要不急」(誰が判断するのか?)のものとして敵視する認識が、国民へのお説教の前提になってしまっている。第二に、白書は、日々の生活の現実と、技術の進歩をふくめて時代状況の変化のなかで生活が変化することの意味を、根本的にとらえ損なっている。第一の点について、東京帝国大学文学部美術史

科の卒業論文で「衣粧」の思想について論じ、すでに戦時中から敗戦直後にかけて、DIY的な発想から服装の工夫を提案していた花森にとって、着ることを「不要不急」のカテゴリーに放り込んでないがしろにする政府の態度は許せなかったにちがいない。「きれいな衣服を着ることがどうして

いけないのでしょうか。美しければ生活必需品ではなく、美しくない衣服だけが生活必需品なのでしょうか。それならもう一度、モンペと国民服にしたら一番いいのではないでしょうか」39。事実、戦後の花森は、男性サラリーマンのスーツ姿を何度となく批判した 40。それはたんに色彩の問題にとどまらず、戦時中の軍隊に象徴される、男性中心主義的な日本社会の特徴として機能する画一的な思考と行動の様式─自分のアタマでものを考えない─をふくめての批判である。美しさ、明るさを不要不急として社会から消し去ろうとする価値観を、花森は拒絶する。白書のアクセサリー論を検討する箇所では、「最近は本来実用的なものであるはずの時計やハンドバックや、書物までがアクセサリーとして考えられるようになってきた傾向がある」とする白書の認識について、「アクセサリーという『言葉』が流行しだしたのが最近のことだというだけ」にもかかわらず、白書は歴史的事実を無視する「<メイ論>」で「無知をさらけ出した」とまで書かれている 41。全体として白書の「思いつきの議論」は「ずいぶんヤボッタイ」と述べ、大きな文字の見出しを使って「新聞の家庭欄や婦人雑誌にはとても及ばぬ感想文」とさえ評している 42。ここでの「婦人雑誌」が『暮しの手帖』をさしていることはいうまでもない。花森は、国民に反省ばかり求める白書の説教じみた言葉づかいに、戦時中の「修身科のようなにおい」を感じとった。いいかえると、白書に一貫する、日常生活にたいする想像力の貧困は、すでにみた政治家や官僚制における男性中心主義のあらわれであることにくわえて、人びとの生活をめぐる戦時期の価値観が戦後にかたちを変えて生き延びている徴候としても解釈されている。たとえば、食品の規格化をめぐっては、以下のように批判される。

そしてここでもまたお説教です。「大いに三省の必要があろう」というのです。三省とは

37 同前、109頁。つづく引用も同ページより。 38 同前、111頁。 39 同前、110頁。 40 以下参照。花森安治「サラリーマンの制服」(1953年 2月 13日)、『風俗時評』、『花森安治戯文集 2』。花森安治「どぶねずみ色の若者たち」、『暮しの手帖』90号、1967年。

41 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、110-111頁。 42 同前、111頁。

11日常性の政治学

ずいぶん古めかしい言葉を持ち出したもので、経済企画庁も文部大臣の片棒をかついで修身科をこんな報告書でやるつもりなのかもしれませんが、これは行き過ぎでしょう。三省して規格化をやめるなら、政府が率先して米の配給をおやめになる必要があると思います。読めば読むほどこの報告書には不思議な理くつが多く、マトはずれのお説教がありすぎることです 43。

ここで、戦時中に花森が大政翼賛会に籍を置き、戦争プロパガンダの広告宣伝事業に従事していたことを思い出しておこう。よく知られるように、戦後になると花森は、この経験から、戦時中に人びとが日々の生活を大切にしなかったことこそ戦争を防ぐ・止めることができなかった原因であると考えて、『暮しの手帖』の発刊にいたったのだった。つまり、1950年代中頃の時点で、政府が人びとの暮しを正確に理解せず、そして人びとがその事実に気づかずに、あるいは無関心でいるならば、花森にとってそれは、戦争を可能にした思想と行動様式の再来を許すことを意味したはずである。いいかえると、国民生活についての政府の無理解をめぐる花森のきびしい批判は、個々の事実認識や政策論の次元をこえて、政府が何のために、政治が誰のためにあるのかという、民主主義政治をめぐる根源的な問いに直結していたのである。行政が「美しさ」や「便利さ」といった価値を

否定しつつ特定の生活様式を指導するような事態を、花森は近代民主主義の否定につながるものと理解する。一例をあげると、花森が 1960年代に発表した「どぶねずみ色の若者たち」というエッセイには、次の一節がある。「君、なにを着たっていいんだよ。あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである」44。自由とは抽象的に表現されるなにものかではなく、日々の衣食住の実践のなかにこそあること、その自由

の実践こそが政治にほかならないという、民主主義政治の根幹をなす論点を、花森は正確にとらえている。敗戦後、占領下の復興と朝鮮戦争特需をへて高度経済成長期に入りつつあった 1956–57年にかけて、日本政府が「もはや『戦後』は終わった」のフレーズとともに新時代のイメージを喚起するなか、行政を司る統治者のあいだにじつは「戦時の思考様式」が持続しているのではないか。そこにあるのは、「美食装飾、銃後の恥辱」のような戦時中の国策スローガンと同種の、近代的個人の自由を制約する発想、価値観ではないのか。その思考様式が、現実政治の公的な報告書のかたちをとって、花森と『暮しの手帖』の本丸である衣食住の領域に吹き出してきた。そんな議論がまかりとおるとすれば、はたして政治は人びとの暮しに役に立っているといえるのか。1950年代中頃の花森は、人びとの生活がかならずしも豊かになっていないと認識していた。その背後には、このように、国民生活に貢献しない政府とその政策への憤りがあったのである。第二の点、生活環境の社会的変容をめぐる白書の議論についても、花森の評価はきびしい。白書が電気洗濯機やテレビなどの家庭電化製品を「家具」のカテゴリーにふくめて論じることの奇妙さをひとくさり批判したうえで、次のような認識を問題にする。白書は「都会人が生活を便利で快適なものにしたいという傾向が三十一年に入ってとくに強くなってきた」と述べ、とりわけ光熱器具について「生活の近代化、特に主婦を台所から開放する上に、電気釜などはその先端をゆくものと言える」と評した 45。これは「政府がトースター、電気釜を手放し宣伝」することを意味したが、花森にしてみれば、日々の暮しとはそのようなものではない。「トースターの使用によってパン食は数倍うまくたべられる」という白書の記述について、「まずいパンをトースターに入れるより、おいしいパンを生まのままたべた方が遥かにおいし」く、「パン食をおいしくするのは、トースターではなく、おいしいパンと、上質のバタと、おいしいコーヒーか紅茶が必要」である。

43 同前、109頁。 44 花森「どぶねずみ色の若者たち」、120頁。 45 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、112-3頁(『国民生活白書』、88頁)。

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ここで花森は、男性官僚と思われる白書の執筆者の姿勢に言及し、皮肉たっぷりに次のように述べる。「おそらくは電気釜をお買いになり、その方の奥さまがたいへん喜ばれたのでしょう。そんな様子が眼に浮かぶようです」。「台所のことはよく知らない、そして人生経験もまだ浅い若いお役人の方が書かれた」と思われる主観的で「センチメンタル」な文章は、「お友だちへの手紙にお書きになる」べきもので、「日本の国民の生活の現状を調査しそれを政府が国民に向って報告するという報告書の中にお書きになられては困ります」46。最新の家庭電気製品を購入し所有することに価値があるのではない。日々の切り詰めた生活のなかでやりくりしながら楽しくおいしく食べることが重要なのであって、器具類はあくまでその助けとなりうるにすぎない。衣食住を取り巻く環境までふくめてどこまでも具体的な水準で考えなければ暮しを分析したことにはならないというのが、花森の一貫した主張である。「私たちの暮しは、トースターでパン食が数倍もうまくなったり、電気釜で生活が近代化されたりするような、そんなものではありますまい。もっと切実なものです。そのような切実な私たちの暮しを政府がどう見ているのか、そしてどのような政策を立ててくれるつもりなのか、それを知りたくて、私たちはこの報告書を読んでいるのです」47。花森は、経済企画庁がそもそも文書作成の目的を取り違えているのではないかと疑っている。このように、国民生活の現状を分析する白書の

アプローチは、市民の日常生活の実態を理解しようとする態度と方法を決定的なまでに欠き、国民にたいして一方的に「説教」するものだった。「美しい」、「きれい」や「はなやか」であることに否定的価値を刻印する政府の価値観に対抗する花森のここでのキーワードは、暮しの「切実さ」と「真

面目」である。テクノロジーの発展をふくめた時代状況の変化のなかで、「暮し」を研究するとはいかなるものであるべきか。日常性のポリティクスは、マクロな統計や抽象概念の羅列にではなく、日々を真面目に生きる人びとの感覚に根差したものでなければならない 48。台所の政治学とよぶべき花森の文化=政治のアプローチは、日々の生活のきびしい現実とそのなかにある「美学」の問題を真正面からとらえ、現実政治の諸問題と切り離すことなく扱おうとする点に最大の特徴があった。これまでの議論からあきらかなように、花森は、『国民生活白書』の根底に(さらには同時代の現実政治を動かしている思考様式のうちに)、便利なこと、美しいこと、きれいなこと、便利なこと、楽なこと、明るいことを否定する価値観がはたらいている事実をきわめて深刻に受けとめた。公的権力が日常生活に生起する「美」の価値を否定する(あるいはそれにかわる特定の価値を指導する)思考様式こそ、戦後の花森と『暮しの手帖』が一貫して批判し、組み替えようと努力してきたものにほかならない。だからこそ、白書が国民の行動様式を批判したのにたいして、花森は、政府の調査方法とその前提にある「健全な暮し」をめぐる発想が根本的に間違っていると問い返したのだった。つまり、反省すべきは市民ではなく、政府である。

7 ) 「政治」を取り戻す─シティズンシップ教育としての『暮しの手帖』

興味ぶかいことに、この長編記事は白書と政府への批判であると同時に、政府公式の報告書の読みをつうじて読者が政治的リテラシーを涵養するための練習問題としても読むことができる。今日の用語でいうなら、一種のシティズンシップ教育

46 同前、113頁。 47 同前、112頁(『国民生活白書』、88頁)。 48 この白書批判の翌年の『暮しの手帖』に掲載された「『日本料理』をたべない日本人」というエッセイは、この問題設定の応用例として読むことができる。花森は専門化した日本料理の現状を批判する際に「おそうざい」の日常性を対置し、業界に「もっと『暮し』の勉強を」するよう要求する。「いまの日本料理の大きな流れは、そのもとになるかんじんの『暮し』はどこかへ忘れてしまって、それと関係のないことばかりに力コブを入れている感じがします。料理が、暮らしを第一にすることを忘れ、たべる人を幸せにすることを忘れ、古いしきたりや、形式や、見た目のハッタリや、ゼニもうけや、ひとりよがりの通人気取りや、そういうものの方を大切にしはじめたとき、その料理は、暮しから浮き上り、やがて、ほろびていくより仕方がありません。どうも、例の『茶道』というものの、たどってきた道を、ひょっとして、日本料理も、これからたどるのではないでしょうか」(「『日本料理』をたべない日本人」、『暮しの手帖』44号、1958年、111頁)。

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として機能するように、議論が構成されているのである。この意味において、花森はまぎれもなく戦後民主主義の精神を内面化した啓蒙思想家のひとりであった。ただし学究型の知識人と異なり抽象概念への懐疑がつよい花森は、どこまでも現場にもとづく実証主義を重視する。この白書批判では、採用した調査方法について、政府が行った調査や公式統計の解釈をそのまま真に受けてはならないと訴える。たとえば、統計を用いた分析については、次のように説明される。

この報告書は、私たちの暮しを調査した報告という形はとっていますが、実際は食料の場合にも説明しましたように、生産高の数字を調べて、それを人口の数字で割るか、さもなければ世帯数で割っただけのことなのです。ですからそのようにして出て来た数字は、実際の私たちの暮しを具体的には現していません。ただおおよその傾向を示しているだけなのです。数字で示されると、いかにもそれが事実であるかのように思わされ、また報告書もそのような調子で文章を書き、それに基づいてお説教までしているのですが、実際はそうではありません 49。

花森は、国民所得、生産統計、物価指数など、統計データにあらわれる「傾向」と、日々の生活で経験する「現実」を区別することが重要だと説く。「既に作られている統計は、大体において日本全体の経済の状態を現したものです。……どこまでも日本全体の経済であって、私たちの暮しの内容をそのまま明らかにしたものではありません」50。白書の論じる「日本」とは、あくまで概念上の構築物なのである。くわえて、その「日本」なるものが、いまここに暮らしている「私たち」とは同一ではないことを、次のように説明す

る。

日本全体の経済がよくなれば、私たちの暮しもよくなるでしょう。だが直接にすぐ楽になるとは限りません。楽になったとしても、ある階級の人たちだけが楽になり、ほかの階級の人たちは少しもよくなっていないかもしれません。日本全体の生産高がふえたといっても、暮しに役立つ商品の生産はふえずに、ほかのものがたくさん作られているかもしれません。……そうなれば日本全体の生産がふえても、私たちの暮しはよくもならなければ、楽にもなりません 51。

ここで花森は、政府の政策をつうじて国民経済のパイを大きくすることが、市民の生活実態やその実感とはかならずしも一致しないことを説明している。高度経済成長の端緒にあたる 1957年の時点で、花森は、「日本」社会は一枚岩でなく異なる利害の集合に過ぎないこと、政策が暮しに与える影響は社会的な位置によって異なること、さらには政治が私物化される危険性まで指摘していた。政治が「日本」を名目としながら、現実に誰のためにはたらいているのかを問うている。花森の白書批判は、全体として、リアルな政治が暮しに口出しすること自体への批判というよりも、政治家・官僚が市民の日常生活の現実への想像力を欠き、的外れな認識しかもっていない事実の指摘を糸口として、自らの政府にたいして、よりまっとうな政策を行うことを要求するものと理解することができるだろう。ここまでの議論からあきらかなように、花森の白書批判は、市井の人びとの暮しこそ政治のターゲットであり、人びとの日々の生活のなかにこそつねにすでに政治が生起していることを「ふつうの言葉」で読み解き、読者にたいして多くの疑問を提起し、現実政治に

49 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、112頁。これ以前の『暮しの手帖』誌上で同じくシティズンシップ教育的な性格がつよい記事のひとつに、1954年の「あなたは国からどのように守られているか」がある。この記事では、勤め人、公務員、零細労働者、自営業,療養者、奥さん、老人、不具廃疾者、未亡人、子供、失業、戦争犠牲者、それぞれの場合について、保険料の仕組みや国による保障の内容が詳細に解説されている。記事がとりあげる「あなた」の設定に、戦争体験が色濃く残る 1950年代前半の社会状況と花森の関心のありかを伺うことができる。この記事の後半では英国の社会保障制度について日本の場合と同じく具体例をあげて紹介し、公的福祉をめぐる日英比較を提示している。「あなたは国からどのように守られているか」、『暮しの手帖』25号、1954年。

50 同前、114頁。 51 同前、114-5頁。

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までつなげて考えるきっかけを提供することで、人びとの政治社会認識を深めようとするもののだった。彼が「切実」とよぶ日々の生活のダイナミズムこそが政治の最前線なのであり、この最前線において、政治経済政策が何のために、誰のために行われているかを暮しの現場からチェックすることが求められる。いうまでもなく、市民による行政の監視は民主主義政治に不可欠の条件である。その意味で、花森の政治批判は政府への期待の表現であると同時に、読者の政治的リテラシーの涵養をめざすものであり、政治をめぐるふたつの課題に同時に取り組んでいたといえる。ここには、花森の政治観、国民観がよくあらわ

れている。白書批判の背後には、国家にたいして批判的でありつつ、よき国民たろうと努める「国民民主主義者」としての人間像、すなわち、近代の政治的主体として自己規律と楽しみを両立させる「真面目」な人間像があると考えられる 52。「ぼくら」が切実に、真面目に暮らしているときに、政治(立法や行政)が不真面目でどうするのか。「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」と題されたこの記事の末尾のセクションには、「もっと真剣に『国民の暮し』と取り組みなさい」という見出しがつけられている。このフレーズは、花森の政治観を理解するうえで示唆的である。花森は、白書作成にあたり政府が行った調査に

ついてきびしく批判するものの、政府の調査分析自体を否定しているわけではない。むしろ、もっと徹底して行うことを求めている。「日本全体の経済を現す統計や調査も必要ですが、それと同時に私たちの暮しの内容を明らかにする調査や統計も必要なのです。<なぜなら政治は、日本人である私たちの暮しを楽にし、よくするためにある>ものなのですから」53。自衛隊の発足と「再軍備」をめぐる当時の状況を念頭に、花森はつづける。

「民のカマドの中身を明らかにするだけの用意と、それに必要なだけの予算をかけて、立派なものを作って欲しいと思います。飛ばない自衛隊のジェット機一台の予算で十分にできることではないかと思います」。政府の役割は、なによりも人びとの暮しを支えることでなければならず、行政に行政としての正しい仕事をさせること、それが彼の求めるものだった 54。暮しを研究するとは、日常生活がつねにすでに政治の現場であることを正確に理解するための取り組みであり、その実践をつうじて市民ひとりひとりが政治社会の問題点を発見し、批判をつうじて立法や行政(商品テストにおいては企業も)が市民生活の向上のためにはたらく条件を創出することにつながるものだった。こうした意味において、暮しを研究する花森と『暮しの手帖』のプロジェクトは、市民の日常生活に社会批判の「場」を創出することをつうじて現実政治の変革を試みる、文化の政治学の実践だったのである。長編の白書批判は、次の言葉でむすばれている。「この報告書に書かれたお説教を政府に返上しましょう。『私たちの暮しの白書』という、このように大事な報告書を通り一遍の作文で書き上げるのは『健全な報告』とは言えますまい。政府に『大いに三省』して頂きたいと思います」55。皮肉にみちた表現の背後に、政府が提示する「健全」な生活の姿のおかしさを投げ返し、さらにその前提にある価値観をつくりかえようとする、花森の戦略を読みとることができる。権力をつうじた統治に現場から積極的に介入し、権力作用の仕組みを変容させるミクロな抵抗といってもよいだろう。

8 )むすびにかえて

本稿が提起する読みをもう一度確認しておこう。花森が 1950年代に展開した一連の政治批評

52 ナショナル・デモクラシーを支える「真面目」な人間像については、以下の戦後知識人論を参照。J・ヴィクター・コシュマン『戦後民主主義革命と主体性』拙訳(平凡社、2011年)、とくに第 4章。

53 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、115頁。 54 この論理構成は、1950年代中頃に『暮しの手帖』における主要な「研究」として開始し、この雑誌の社会批評としての評価を決定づけることになった商品テストについて、「<商品テスト>は消費者のためにではない」、生産者のためにあると力説した筋道と相似形をなしている。花森は商品テストの意義を次のように述べる。「メーカーに主義主張はない。売れるものを作るだけである。よい商品を作れば売れる、となれば、一生けんめいよい商品を作る。……商品テストは、じつは、生産者のためのものである。生産者にいいものだけを作ってもらうための、もっとも有効な方法なのである」(花森安治「商品テスト入門」、『暮しの手帖』100号、1969年、86-87頁)。

55 花森「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります」、115頁。

15日常性の政治学

は、時事問題を題材としたことにおいて政治的なのではない。花森はみずから暮しと名づける日常性の領野こそが統治のターゲットであり、暮しを変革するためには必然的に現実政治の問題にも取り組まなければならないことを、ふかく理解していた。衣食住をテーマとする『暮しの手帖』を舞台に運動体としての性格をもつ読者コミュニティを構築し、独自の研究手法をつうじて日常生活の具体的な様態にアプローチする、花森のこうした思考と方法そのものが政治的なのである。そのうえで、本稿がとりあげてきた、花森の時事的な(一般的な意味での)政治批評には、日常性を掛け金として『暮しの手帖』が探究する文化 =政治の思考回路とその成果がそのまま生かされている。食べる、着る、住むといった、人間としての生活を構成する基本的な条件を論じることは、それらの条件がつねにすでに政治的であることにおいて政治的な実践なのであり、花森と『暮しの手帖』は、暮しをつねにその具体性において研究しているからこそ、立法や行政が展開する諸政策をめぐる問題についても、必要とあればただちに具体的な批判や提言を行うことができたのだった。そして、花森自身がのちに用いた表現でいうと、「品質のよい政府を持つ」ためには、ひとりひとりの市民が日々の自らの生活の現実と課題を正確に理解する能力、そして変革への政治的想像力をもたなければならない 56。彼の実践は、政府を批判すると同時に、市民の政治認識をふかめる役割も担っていたのである。花森は、政治が市民の生の条件を─最良の可能性から最悪の可能性まで─構成するものである以上、一人ひとりの市民はもちろんのこと、とりわけ立法や行政に携わる者には日常性について正確に理解する能力が求められること、そして戦後日本ではとりわけ男性にはその能力が欠けていると考えていた。その意味で、彼の政治批評は、男性中心主義的な政治社会構造への批判がふくまれていた。こうした筋道において、花森の日常性研究は、日常生活のミクロな現場においてはたらくポリティクスを、男性中心主義的に構成されている国家権力をふくめて

可視化し、読者を巻き込みつつ、その生活の現場においてオルタナティヴを創出する運動として理解することができる。もっとも、この取り組みは容易なものではなかった。花森の同時代認識はこの後、1960年代の高度経済成長にともなう大衆消費社会の進行のもとで次第に先鋭化していき、人びとの暮しに役立たない、そして人びとの生を破壊する政治経済政策の数々を「公害」の概念を用いて警告するようになる。さらに 1970年代にかけて、批判の強度が増すと同時にペシミスティックな認識がいっそう強まっていく。そのことを念頭におくと、本稿がとりあげた 1950年代の花森が、その政府批判の口調のきびしさにもかかわらず、変革の可能性をどちらかといえばポジティヴにとらえていたようにみえるとしても、無理なことではない。とはいえ、この時期の花森が日本の政治社会を楽観的にとらえていたわけでないことは、あらためて強調しておくべきだろう。当時の政治的雰囲気をめぐって、たとえば

1954年の『世界』に花森が寄せたエッセイには、次のようなくだりがある。「政治がどうなろうと、世の中が、どうヘンになってゆこうと、それを一々呆れたりフンガイする気力が、ぼくらには、なくなりかけているのだ。明日の暮しにハリがなくなり、夢がもてなくなりかけているのだ」57。また、1956年に大宅壮一、中野好夫とおこなった鼎談で、花森は政治的無関心と保守化が進む当時の状況を「民主主義の倦怠期」とよび、さらに1930年代にファシズムが台頭した経緯を念頭に、「倦怠期の次に来るものがこわい」と語った 58。本稿がとりあげた花森の経済企画庁批判の背後には、同時代の政治社会状況にたいするこうした危機感があったのである。生活様式をめぐるポリティクスを「お上」、すな

わち立法や行政の独占にまかせることなく、政治をその現場において市民(花森は「ぼくら」とよぶだろう)の手に取り戻すことをつうじて未来への希望を紡ぎ出そうとする花森の取り組みは、戦後社会の進展のなかで「政治」が市民生活から離

56 花森安治「1平方メートルの土地さえも」、『暮しの手帖』第 2世紀 17号、1972年、19頁。このことばをふくむ 1970年代の花森の政治観については、前掲の拙稿「『品質のよい政府を持つ』こと─花森安治の『絶望』をめぐって」で論じた。

57 花森安治「まあええとせんかい」、『花森安治集─いくさ・台所・まつりごと篇』、138頁(初出は『世界』1954年 8月号)。

16

れていく時流に抵抗する、花森流の戦後民主主義の実践だったと理解することができる。花森にとっての「暮し」、すなわち日常性とは、慣習的な用法における「文化」と「政治」の境界を横断し無化する地点において、ひとがみずからの意志において生きることを手放さないための、譲ることのできない掛け金だったのである。政治社会問題としての COVID-19に翻弄され

ている 2020年の世界で、そして日本で、日常性をめぐってどのようなポリティクスが生起しているだろうか。その現場からのあらたな民主主義のことばと論理は、いかにありうるだろうか。

参考文献花森安治/『暮しの手帖』関連(発表年順)「あとがき」、『暮しの手帖』7号、1950年。花森安治「サラリーマンの制服」(1953年 2月 13日)、『風俗時評』、『花森安治戯文集 2─「風俗時評」ほか』(LLPブックエンド、2011年)。

暮しの手帖研究室「日本品と外国品をくらべる─石けん」、『暮しの手帖』20号、1953年。

花森安治「服装時評」、『花森安治戯文集 2─「風俗時評」ほか』(LLPブックエンド、2011年、初出は『女性教養』1954年 3月号)。

暮しの手帖研究室「キッチン」、『暮しの手帖』25号、1954年。

「あなたは国からどのように守られているか」、『暮しの手帖』25号、1954年。

「あとがき」、『暮しの手帖』26号、1954年。花森安治「まあええとせんかい」、『花森安治集─いくさ・台所・まつりごと篇』(初出は『世界』1954年 8月号)。

花森安治「各党総裁のお台所拝見」、『週刊朝日』1955年 1月 -2月、花森安治「忙しい暮しの手帖 各党総裁のお台所拝見」、『花森安治集─いくさ・台所・まつりごと篇』(LLPブックエンド、2013年)。

大宅壮一、中野好夫、花森安治「《鼎談》雑談空手道場 <第二回 民主主義の倦怠期>」、『中央公論』1956年 5月号。

花森安治「経済白書を読んで」、『朝日新聞』1956年 7月17日。

花森安治「こんないい加減な作文で私たちの暮しを片付けられては困ります─『国民生活白書』を読んで」、『暮しの手帖』42号、1957年。

「『日本料理』をたべない日本人」、『暮しの手帖』44号、1958年。

花森安治「どぶねずみ色の若者たち」、『暮しの手帖』90号、1967年。

花森安治「商品テスト入門」、『暮しの手帖』100号、1969年。

花森安治「1 平方メートルの土地さえも」、『暮しの手帖』第 2世紀 17号、1972年。

『花森安治戯文集 2─「風俗時評」ほか』(LLPブックエンド、2011年)。

『花森安治集─いくさ・台所・まつりごと篇』(LLPブックエンド、2013年)。

その他(ABC順)鹿野政直『近代日本の民間学』(岩波新書、1983年)。葛西弘隆「花森安治と戦後民主主義の文化政治」、『津田塾大学紀要』第 50号(津田塾大学、2018年)。

葛西弘隆「花森安治と北海道─開拓・棄民・国家」、『国際関係学研究』第 44号(津田塾大学、2018年)。

葛西弘隆「『品質のよい政府を持つ』こと─花森安治の『絶望』をめぐって」、『国際関係学研究』第 46号(津田塾大学、2020年)。

経済企画庁『昭和 31年度 年次経済財政報告』(1956年)。内閣府 <https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp- je56/wp-je56-010501.html>

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J・ヴィクター・コシュマン『戦後民主主義革命と主体性』葛西弘隆訳(平凡社、2011年)。

厚生労働省「新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」の実践例を公表しました」。<https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html>

美馬達哉『感染症社会』(人文書院、2020年)。新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年 5月 4日)。厚生労働省 <https://www.mhlw.go.jp/content/

58 大宅壮一、中野好夫、花森安治「《鼎談》雑談空手道場 <第二回 民主主義の倦怠期>」、『中央公論』1956年 5月号、258-273頁。鼎談での花森の発言は、1955年 11月の保守合同により成立した自由民主党と鳩山一郎内閣の諸政策への批判の文脈でなされている。彼は当時の政治的雰囲気を、ファシズムが台頭した 1930年代の政治状況との類推で解釈する。「戦後十年で国民がみんな民主主義の倦怠期に入ったんじゃないかね。一々騒いでもしょうがないという感じだね。原水爆実験の問題にしても、最初はもの凄い騒ぎだったよ。今度だって十分に注意はするといっているが、ほんとうはもっと騒がなくっちゃならないんだけれども、何か年中行事でも見ているような感じだね。今政府がいろいろな法案をやたらに出しているでしょう。教育法案とか小選挙区とか放送法改正とか、ああいうやり方で国民をだんだん不感症にしようという魂胆かね。まさかそれほどの高等戦術じゃないだろうね」(258頁)。「一、二年の変化じゃないか。一人ずつ心の中を見れば、やはり依然として大いにいきどおっていると思うんだけれども、それが現象というか、社会風俗のうえに出てくると仕方がないということなんだ。前のファッショが台頭して簑田胸喜あたりがのし回ってきたころと似てきている」(261頁)。

17日常性の政治学

10900000/000629000.pdf> 妹尾河童『河童が覗いたヨーロッパ』(新潮文庫、1983年)。田村哲樹編『日常生活と政治─国家中心的政治像の再検討』(岩波書店、2020年)。

鳥羽耕史『運動体・安部公房』(一葉社、2007年)。