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死海⽂書 第⼀洞窟から⾒つかったイザヤ書の第⼆の写本 (1QIsab) 死海文書(しかいぶんしょ、英語: Dead Sea Scrollsあるいは死海写本(しかいしゃほん)は1947 以降死海 の北⻄にある遺跡ヒルベト・クムラン (Khirbet Qumran) 周辺で発⾒された 972 の写本群 の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関 連の⽂書からなっている。死海⽂書の発⾒場所は 1947 年当時イギリス委任統治領であったが、現在 ではヨルダン川⻄岸地区 に属している。「⼆⼗世 紀最⼤の考古学的発⾒」 * [1] ともいわれる。なお、 広義に死海⽂書という場合、クムランだけでなく 20 世紀後半の調査によってマサダ エン・ゲディ 近くのナハル・ヘベルの洞窟から⾒つかった⽂書 断⽚なども含むので、⽂書数には幅が⽣じる。 1 概説 死海⽂書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んで いて、宗教的にも歴史的にも⼤きな意味を持ち、 第⼆神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせ るものでもある。⽂書は⼤部分がヘブライ語 で書 かれており、⼆割ほどのアラム語 ⽂書と、ごくわ ずかなギリシア語 ⽂書およびアラム語の⽅⾔で あるナバテア語の⽂書を含んでいる。多くは⽺⽪ であるが、⼀部パピルス もある。⽂書の成⽴は 内容および書体の分析と放射性炭素年代測定量分析法 などから紀元前 250 年ごろから紀元 70 年の間と考えられている * [2]。死海⽂書を記した グループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)について は、伝統的にエッセネ派 と同定する意⾒が主流だ が、エルサレム サドカイ派 の祭司たちが書い た、あるいは未知のユダヤ教内グループによって 書かれたとする意⾒もある。 死海⽂書の内容は⼤きく分けて三つに分類するこ とができる。第⼀は「ヘブライ語聖書(旧約聖書) 正典本⽂」(全体の四割)、第⼆は「旧約聖書外典と「偽典」とよばれる⽂書群(エノク書ヨベル書トビト記シラ書 などでユダヤ教の聖書正典と しては受け⼊れられなかったもの、全体の三割)、 第三に「宗団⽂書」と呼ばれるもので、クムラン 教団の規則や儀式書、『戦いの書』(1QM1Q334Q28511QSM)と呼ばれる書など(全体の三割) である。 2 死海文書の歴史 2.1 発見と変転 発⾒時の巻物の様⼦ 1946 年の終わりから 1947 年の初めのいずれかの 時期に、ベドウィン のターミレ族の⽺飼いムハン マド・エッ・ディーブ Muhammed edh-Dhib、「狼の ムハンマド」の意)とその従兄弟が、ヒベルト・ク ムランと呼ばれる遺跡(遺跡⾃体は 19 世紀から知 られていた)の近くの洞窟の中で、古代の巻物の ⼊った壷を発⾒した。最初の発⾒に関しては、「⼦ ヤギを追いかけていて、洞窟の中に⽯を投げ⼊れ たところ、何かが割れる⾳がしたので⼊ってみた」 などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真 実かは、もはやわからない。 1

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Page 1: 死海文書 - 634-TVgijyuku.634tv.com/pdf/Dead Sea Scrolls.pdf死海 書 第 洞窟から つかったイザヤ書の第 の写本(1QIsab) 死海文書(しかいぶんしょ、英語:DeadSeaScrolls)

死海⽂書

第⼀洞窟から⾒つかったイザヤ書の第⼆の写本 (1QIsab)

死海文書(しかいぶんしょ、英語: Dead Sea Scrolls)あるいは死海写本(しかいしゃほん)は1947 年以降死海 の北⻄にある遺跡ヒルベト・クムラン(Khirbet Qumran) 周辺で発⾒された 972 の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の⽂書からなっている。死海⽂書の発⾒場所は1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川⻄岸地区に属している。「⼆⼗世紀最⼤の考古学的発⾒」*[1]ともいわれる。なお、広義に死海⽂書という場合、クムランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟から⾒つかった⽂書断⽚なども含むので、⽂書数には幅が⽣じる。

1 概説

死海⽂書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも⼤きな意味を持ち、第⼆神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。⽂書は⼤部分がヘブライ語で書かれており、⼆割ほどのアラム語⽂書と、ごくわずかなギリシア語 ⽂書およびアラム語の⽅⾔であるナバテア語の⽂書を含んでいる。多くは⽺⽪紙であるが、⼀部パピルスもある。⽂書の成⽴は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質

量分析法などから紀元前 250年ごろから紀元 70年の間と考えられている*[2]。死海⽂書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意⾒が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意⾒もある。

死海⽂書の内容は⼤きく分けて三つに分類することができる。第⼀は「ヘブライ語聖書(旧約聖書)正典本⽂」(全体の四割)、第⼆は「旧約聖書外典」と「偽典」とよばれる⽂書群(エノク書、ヨベル書、トビト記、シラ書 などでユダヤ教の聖書正典としては受け⼊れられなかったもの、全体の三割)、第三に「宗団⽂書」と呼ばれるもので、クムラン教団の規則や儀式書、『戦いの書』(1QM、1Q33、4Q285、11QSM)と呼ばれる書など(全体の三割)である。

2 死海文書の歴史

2.1 発見と変転

発⾒時の巻物の様⼦

1946年の終わりから 1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の⽺飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟が、ヒベルト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡⾃体は 19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で、古代の巻物の⼊った壷を発⾒した。最初の発⾒に関しては、「⼦ヤギを追いかけていて、洞窟の中に⽯を投げ⼊れたところ、何かが割れる⾳がしたので⼊ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かは、もはやわからない。

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Page 2: 死海文書 - 634-TVgijyuku.634tv.com/pdf/Dead Sea Scrolls.pdf死海 書 第 洞窟から つかったイザヤ書の第 の写本(1QIsab) 死海文書(しかいぶんしょ、英語:DeadSeaScrolls)

2 2 死海⽂書の歴史

ベドウィンたちは、最初に⾒つけた四つの写本をベツレヘム の靴職⼈で古物も扱っていた「カンドー」ことハリル・イスカンダル・シャヒーン(Khalil Eskander Shahin)の元に持ち込んだ。⾃⾝もシリア正教徒だったカンドーは、古代シリア語の⽂書かと思い、これを聖マルコ修道院の院⻑で、シリア正教会の⼤主教だったアタナシウス・イェシュア・サミュエル (Athanasius Yeshue Samuel)に⾒せた。アタナシウスは、四つの写本(『イザヤ書』(1QIsa)、『ハバクク書註解』、『共同体の規則』、『外典創世記』)を 24パレスチナポンド(現在の価値で約 100ドル)で買い取った*[3]。同じころ、ヘブライ⼤学考古学教授エレアザル・スケーニク (Eleazer Sukenik)とビンヤミン・マザール (Benjamin Mazar)も、ベドウィンが発⾒した写本(続けて発⾒した三つの写本)をカンドーが⼊⼿したことを知り、命の危険をおかして(当時アラブ⼈地区だった)ベツレヘムに赴き、1947年 11⽉ 29 ⽇にカンドーから『戦いの書』、『感謝の詩篇』と『イザヤ書』断⽚ (1QIsb)の三つを買い取った。ここで、スケーニクは、あと四つの写本をアタナシウスが持っていることを知る*[4]。1948年 1⽉、スケーニクとマザールはアタナシウスと接触し、四つの写本の購⼊を図ったが話はまとまらなかった。アタナシウスは、第三者の評価によって写本の真価を知るために、アメリカ・オリエント学研究所 (American Schools of Oriental Research,ASOR)の研究者だったジョン・トレヴァー (John C.Trever)に写本を⾒せた。トレヴァーは、写本の書体や語法がナッシュ・パピルス(1898年にエジプトで発⾒された紀元前 1世紀のものと思われる⼗戒を含むモーセ五書の抜書きの断⽚)のそれと⾮常によく似ているとアタナシウスに告げた。1948年 2⽉ 21⽇、トレヴァーは、アタナシウスの持っていた写本(イザヤ書、共同体の規則、ハバクク書註解)を撮影したが、原本はその後インクの変質によって⾒にくくなり、トレヴァーの写真のほうが読みやすくなっている*[5]。1948年 4⽉、トレヴァーとスケーニクによって、世界に「死海周辺で古代の写本発⾒」の第⼀報がもたらされた。当時知られていた旧約聖書の最古の写本(レニングラード写本)を約 1000年さかのぼる写本の発⾒は古代における旧約聖書の実情を⽰すものであり、イエス時代のユダヤ教の実態を知ることで、キリスト教誕⽣に関する新事実がわかるのではないかという期待が⽣まれた。

1948年 5⽉に第⼀次中東戦争が勃発したが、アタナシウスは、写本を安全のためレバノンのベイルートに移していた。この後、アタナシウスは、写本をベイルートからアメリカ合衆国に移し、各地の⼤学や博物館などに買取りを打診してまわった。しかし、そもそも本物かどうかわからないという点と、もし本物だとしたら国宝級のものであり、所有権をめぐって国家間トラブルの招来が予想されることの⼆点を理由に、各地の施設が購⼊に⼆の⾜を踏んだ。最終的に、アタナシウスは、1954

年 6⽉ 1⽇のウォール・ストリート・ジャーナル紙に写本売り出しの広告を出した。そこには、「売りたし。四つの死海⽂書。少なくとも紀元前 200年ごろにさかのぼる聖書テキスト。個⼈・団体を問わず教育機関や宗教施設に最⾼の贈り物」と書かれていた。写本は、匿名の購⼊者によって 25万USドル(現在の価値で 200万ドル以上)で購⼊された。「匿名の購⼊者」は、実はイスラエル政府の意を受けたマザール教授とスケーニクの息⼦イガエル・ヤディン (Yigael Yadin)であった。こうして、イスラエルは、最初の七つの写本を全て⼊⼿することに成功した。ヤディンは、1967年の第三次中東戦争時には、ベツレヘムのカンドーの⾃宅から第 11洞窟から出た『神殿の巻物』を回収している*[6]。

イスラエルにある死海写本館

最初に出⼟した七つの写本は、エルサレムのパレスティナ考古学博物館(ロックフェラー博物館)に⼊った。同博物館は、当時フランス・アメリカ・イギリスの各国政府が共同で運営していた。ところが、1961年になって、ヨルダンが、死海⽂書はヨルダンの財産であると宣⾔、1966年には考古学博物館も国有化した。イスラエルは、1967年の第三次中東戦争の後で考古学博物館にあった死海⽂書を回収し、イスラエル博物館内に新しく作られた「死海写本館」(Shrine of the Book)に移した。ヨルダン政府による死海⽂書返還要求は、以後も繰り返されている*[7]。

2.2 死海文書研究の開始とその進展

1947年の写本発⾒から⼆年がたっても、研究者たちは、写本の出所である洞窟の発⾒にすら⾄っていなかったが、国連休戦監視部隊のベルギー⼈将校フィリップ・リッペンス (Phillip Lippens)⼤尉らが、ベドウィンから情報を得て洞窟(第 1 洞窟)を発⾒した(1949 年 1 ⽉ 28 ⽇)。委任統治領時代にイギリスによって設⽴されたヨルダン考古局(Jordanian Department of Antiquities)の⻑官ジェラルド・ランケスター・ハーディング (Gerald LankesterHarding)は、同地域の考古学遺跡を管轄していたため、このニュースを聞いてクムランの洞窟探索を企画し、エルサレム・フランス聖書考古学学院(École Biblique)の所⻑で、ヘブライ語聖書の専⾨家のドミニコ会司祭ロラン・ド・ヴォー (Roland De

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2.3 写本への疑義 3

Vaux)を誘った。1949年 2⽉から 3⽉にかけて⼆⼈の指揮のもと、アメリカ・オリエント学研究所も協⼒して第 1洞窟が調査され、残っていた数百の写本断⽚が回収された*[8]。

⽂書が発⾒されたクムラン第四洞窟

その頃、ベドウィンたちも周辺の洞窟の探索を続け、考古学者たちを出し抜くようにさらなる写本を発⾒する。1952年に新たな写本が市場にでたことから、ド・ヴォーの指揮下でフランスとアメリカの考古学者たちが共同で周辺の洞窟群を調査、新たに 5つの洞窟(第 2〜第 6洞窟)から写本を回収した。第 3洞窟から発⾒された異⾊の発⾒物は「銅の巻物」と呼ばれるもので、その名のとおり薄い銅版に⽂字を刻んで巻物のように丸めたものであった。(銅の巻物には⾦を含む財宝の隠し場所が記されていて話題となったが、巻物に記された「財宝」は⼀つも発⾒されていない。)また第 4洞窟からは膨⼤な量の断⽚が発⾒され、それらをつなぎあわせて 600の巻物が復元された。これは死海⽂書の実に 4分の 3にあたる。以後、ヒルベト・クムラン遺跡を含めて、周辺の調査が続けられたが、洞窟からの写本の発⾒は 1956年の第 11洞窟の発⾒が最後になった*[9]。死海⽂書の研究は、特定の教派によらない超教派による国際的な委員会によって⾏われることになった。ド・ヴォーが委員会のリーダーになり、ヨゼフ・タデウス・ミリク(Josef Tadeus Milik、ポーランド、カトリック司祭(後に還俗)、⽂献学)、パトリック・スキーハン(Patrick Skehan、アメリカ、カトリック司祭、聖書学)、ジャン・スタルキー(Jean Starcky、フランス、カトリック司祭、アラム語研究、パリ国⽴科学研究センター)、モーリス・ベイェ(Maurice Baillet、フランス、カトリック司祭、パリ国⽴科学研究センター)、フランク・ムーア・クロス(Frank Moore Cross Jr、アメリカ、プロテスタント⻑⽼派、後にハーバード⼤学教授)、クラウス・フンツィンガー(Klaus Hunzinger、ドイツ、プロテスタント(ルター派)、ゲッティンゲン⼤学)、ジョン・アレグロ(John Marco Allegro、イギリス、メソジスト派(のちに無神論者)、オックスフォード⼤学)、ジョン・ストラグネル(JohnStrugnell、イギリス、英国国教会、後にハーバード

⼤学)、そして後にド・ヴォーの後継者に指名されるピエール・ベノワ(Pièrre Benoit、フランス、カトリック司祭(ドミニコ会))といった気鋭の学者たちが集結した。委員会の研究成果は『ユダの荒野の発⾒物』(Discoveries In The Judaean Desert、DJDと称す)叢書としてオックスフォード⼤学出版局から出版されることになった*[10]。1951年にはド・ヴォーの指揮によるヒルベト・クムランの本格的な発掘調査も開始された。(簡単な調査に限っていえば 1949年に⼀度⾏われている。)調査チームはそこで洞窟にあったものと同じタイプの壷を発⾒し、ド・ヴォーは死海⽂書を作ったのがクムラン教団であることを確信した。調査は 1956年まで断続的に続けられたが、第⼆次中東戦争の勃発(1956年 10⽉ 29⽇)によって中⽌された。遺跡の最後の調査は 1958年に⾏われている*[11]。

2.3 写本への疑義

死海⽂書の価値に関して学者たちは当初から認めていたわけではなく、調査の結果を待って静観の姿勢をとるものが多かった。研究の初期に死海⽂書への疑義を積極的に表明したのは、フィラデルフィアのドロプシー⼤学教授ソロモン・ザイトリン (Solomon Zeitlin) であった。彼はラビ⽂献の専⾨家であったが、写本が偽作で⾦⽬当てに捏造されたものだと訴えた。またイギリス⼈学者のゴドフリー・ドライバー (Godfrey Driver)も写本が紀元5世紀のものであると判断したが、後にこれを撤回し、紀元 1世紀のものであるという説に同意している。写本の研究が進むにしたがって 1世紀ごろの成⽴ということに関しては多くの学者たちの認めるところとなっていった*[12]。

2.4 最初の出版と委員会の「停滞」

早くも 1950年には最初の死海⽂書の公刊が⾏われた。ジョン・トレヴァーと⼆⼈のアメリカ⼈研究者ミラー・バロウズ (Millar Burrows)、ウィリアム・ブラウンリー (William Brownlee)の名義で『イザヤ書』、『ハバクク書註解』、続けて『共同体の規則(宗規要覧)』が出版された。さらにスケーニクの監修した『イザヤ書』の第⼆の巻物、『感謝の詩篇』、『戦いの書』が(スケーニクの死後の)1955年にヘブライ語版と英語版で出版された。『外典創世記』もスケーニクの息⼦イガエル・ヤディンの努⼒によって 1956 年に出版された*[13]。ド・ヴォー率いる委員会も DJD(『ユダの荒野の発⾒物』叢書)第⼀巻を 1955年に世に問うた。こうして 1956年までに第 1洞窟から発⾒されたすべての写本の内容が明らかにされた。最初に発⾒された写本群が迅速に出版されたのを⾒て、世の研究者たちは残りの写本に関しても国際委員会が迅速に公刊してくれるだろうと期待を抱いたが、その期待は完全に裏切られることになる。

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4 2 死海⽂書の歴史

クムラン洞窟より望む死海

委員会による DJD(『ユダの荒野の発⾒物』叢書)は第⼀巻(1955 年)、第⼆巻(1961 年)、第三巻(1962年)、第四巻(1965年)、第五巻(1968年)と続けて出版され、第六巻(1977年)と第七巻(1982年)が思い出したように出版されたが、その作業は 1960年代以降、遅々として進んでいなかった。その最⼤の理由は第⼀洞窟から発⾒された写本がほぼ完全な形を保っていた(ので公刊もスムーズに⾏われた)のに対し、それ以外の洞窟から発⾒された写本は(第 11洞窟から出た『神殿の巻物』を唯⼀の例外として)ほとんどが膨⼤な量の断⽚であり、再構成にかかる時間が膨⼤なものであったことによる。(特に第四洞窟からは⼤量の⽂書が出たが、ほとんどが断⽚であったため、第四洞窟の⽂書の内容はなかなか明らかにされなかった。)またリーダーのド・ヴォーが「委員会による公刊まで写本の内容を明かさない」よう委員たちに求めたことが国際的な⾮難を受けることになった。

肝⼼の委員会の中からも不協和⾳が聞こえるようになる。1956年に委員のジョン・アレグロがBBCの放送で「銅の巻物」の内容に⾔及し、ヨルダン考古局と共同して『銅の巻物の宝物』という著作を1960年に委員会の許可を得ずに出版した。後にアレグロはこの「財宝」探索に乗り出す*[14]。さらにアレグロはソルボンヌ⼤学教授アンドレ・デュポン・ソメール (André Dupont-Sommer)の感化を受けて「死海⽂書の内容がキリスト教の起源に関する重⼤な発⾒をもたらす」ものだと主張するようになる。1956年 1⽉ BBCのラジオ放送でアレグロ

は「死海⽂書の中に「義の教師なる⼈物がアレクサンドロス・ヤンナイオスによって捕らえられ、⼗字架にかけられ、弟⼦によっておろされ、その遺体が再臨の⽇まで守られること」が書かれており、これこそがキリスト教のルーツである」と述べ、⼤反響を巻き起こした。3⽉ 16⽇にド・ヴォーと委員会はタイムズ紙に反論を掲載、そのような記述が死海⽂書にはないことを明らかにした。後にアレグロ本⼈も「⾃分の推論」と認めている。アレグロは 1970年にはユダヤ教やキリスト教が幻覚剤であるベニテングダケ の効果によって⽣まれたことを述べた『聖なるきのこと⼗字架』を出版して以降、学者として認められなくなった。しかし、アレグロの主張はその後の死海⽂書をめぐる「カトリック教会の陰謀論」の原型として利⽤されることになる*[15]。1967年の第三次中東戦争によって中東の政治情勢が⼤きく変化したことが、死海⽂書の研究継続に打撃を与えた。エルサレムとクムラン周辺がイスラエルの勢⼒下に⼊り、アメリカやイギリスの外交筋がエルサレムにおける紛争解決の⽇まで、⼀切の考古学的調査を控えるようにという要請を⾏った。これを受けてド・ヴォーのチームは活動を休⽌し、1971年にド・ヴォーが世を去ると(報告書の出版が細々と続けられたが)死海⽂書の研究が著しく妨げられることになった*[16]。

2.5 死海文書研究の転機

クムラン遺跡

1972 年に死んだド・ヴォーに代わってピエール・ベノワが委員会のリーダーになると、作業の遅れが公然と⾮難されるようになる。1972年 8⽉ 9⽇付の『ニューヨーク・タイムズ』は死海⽂書を特集し、その中で新しい編集主幹は公刊の遅れによる「⺠衆の怒りを避けるよう」努⼒することを薦めた。しかし、ベノワが委員会の代表をつとめていた 12年の間に出版されたのはわずか DJD⼆冊に過ぎなかった。ベノワは健康上の問題を理由に1984年に辞任、ジョン・ストラグネルが後を継いだが、その頃には委員会はメンバーが亡くなった

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2.7 現 5

り、辞任したりで⼈材が枯渇しており、委員会の実務能⼒はないに等しかった*[17]。1987年は死海⽂書発⾒ 40周年の記念であったため、各国から死海⽂書研究と原典公刊の遅延を⾮難する声が再び巻き起こった。(特に第四洞窟の⽂書の内容がまったく明らかにされていないことに世論の不満が⾼かった。)これを受けてフランス聖書・考古学研究所はジャン・バッティスト・アンベール (Jean-Baptiste Humbert)をリーダーにした調査チームを⽴ち上げ、ド・ヴォーが残した死海⽂書とクムラン遺跡に関する膨⼤な調査記録の編纂を開始した。(ド・ヴォーはクムラン遺跡発掘の報告書をまったく出版できずに世を去っていた。)*[18]さらに死海⽂書を管理していたイスラエル古代遺跡管理局 (Israel Antiquities Authority, IAA)が、不適任という理由で 1990年にストラグネルを委員会から外し、ヘブライ⼤学教授エマニュエル・トーヴ (Emanuel Tov)を新しい委員⻑に任命した。トーヴは⼿始めに委員会の⼈数を 60名に増員し、世界中から優れた学者たちを招聘した。トーヴの強⼒なリーダーシップのもと、世界が待ち望んでいた死海⽂書の公刊は急速に進展することになる。⼀⽅でトーヴはド・ヴォーの「公刊されるまで委員会以外に⽂書の内容を⽰さない」というルールを継承しようとしていた。しかし、1991年 9⽉ 4⽇にアメリカのオハイオ州シンシナティにあるヒブル・ユニオン・カレッジに保管されていた死海⽂書の写真が『死海巻物未公刊本⽂予備版』と題して出版された。これを受けて、9⽉ 22⽇にはカリフォルニア州パサデナにあったハンティントン・ライブラリー も保管していた死海⽂書の写真版の公開を決定。イスラエル古代遺跡管理局 (IAA)は当初法廷闘争を企図したが、世論に配慮して⽅向転換し、9⽉ 25⽇に「死海⽂書の写真の⾃由な利⽤を認める」旨を発表した。最初の発⾒から 44年をへて、初めて死海⽂書の全容が世界に⽰された。(これらの死海⽂書の写真は、中東戦争時に損傷を恐れてアメリカで保管されていたものだった。)*[19]

2.6 「カトリック教会の陰謀」論の虚偽

1991年にイギリスの作家マイケル・ベイジェントとリチャード・リーが『死海⽂書の謎』(英語: TheDead Sea Scrolls Deception)を出版し、死海⽂書の出版が進まないのはカトリック教会(バチカン)の陰謀であると主張した。同書によれば委員⻑のド・ヴォーはバチカンから「写本の年代を紀元前⼆世紀として新約聖書の成⽴年代から極⼒離すこと」と「カトリック教会の教義をおびやかす内容がある場合、決して公表させないこと」という⼆つの指令を受けていたとしている。

「カトリック教会の陰謀」というテーマで⼀般受けした同書ではあるが、学術的にはまったく意味のないものである。オックスフォード⼤学の死海

⽂書研究者ゲザ・ヴァーメシ (Geza Vermesh) は成⽴年代に関しては⾮カトリックの学者たちによっても広く認められていること、委員の中にはカトリック教会と無関係の者も多く、ド・ヴォーのそのような指⽰があったとしても従う義理のないものが多いこと、最終的にすべての写本の内容が公開されているが、キリスト教もユダヤ教もどちらに関してもその⼟台をゆるがすような記述は何もないことなどをあげて、まったくのナンセンスと論破している*[20]。ノートルダム⼤学の教授で死海⽂書の研究家ジェイムス・ヴァンダーカム (JamesVanderKam) もベイジェントとリーの著作について「死海⽂書のすべての巻物を利⽤することのできる今、誰もそこにキリスト教にダメージを与えたりするものや、バチカンが隠蔽しようとしたものを⾒出すことはできないでいる」と述べ、⼆⼈の陰謀説が「根も葉もない」もので、同書は「学問といかがわしさがこれほど奇怪に合体した書物を想像することは難しい」と切り捨てている*[21]。ベイジェントとリーは 1982年にも『レンヌ・ル・シャトー の謎 (The Holy Blood and the Holy Grail)』を出版してカトリック教会の陰謀論を展開している。(同書は後に『ダヴィンチ・コード』の原案となった。)

2.7 現状

イスラエル博物館における死海⽂書の展⽰

1991年、ロバート・アイゼンマン (Robert Eisenman)とジェームズ・ロビンソン (James Robinson)の監修によってハンティントン・ライブラリー所蔵の写真が『写真版死海巻物』(A Facsimile Edition of theDead Sea Scrolls)として公刊され、1992年には新委員⻑のトーヴによって全てのクムラン資料のマイクロフィルム版が出版された。1997年にはオックスフォード⼤学出版局が全死海⽂書の写真デジタル版 CDを出版、さらに 2010年 10⽉ 19⽇にはイスラエル考古学庁がグーグル と共同で全死海⽂書のデジタル写真をインターネット上で公開する計画を発表し、作業を進めている。

(40年間でわずか 7冊のみと)ド・ヴォー及びその後継者の下で遅々として進まなかった DJD の刊

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6 3 洞窟と発⾒された写本の⼀覧

⾏は、トーヴのもとで劇的に進⾏し、1995年から2000年までに第 8巻から第 38巻(5年間に 30冊)が⼀挙に刊⾏された。第 39巻は 2002年、第 40巻が 2009年に出版されてようやく全作業が終了した。

3 洞窟と発見された写本の一覧

死海⽂書が発⾒されたクムラン周辺の洞窟群には発⾒順に番号がつけられている。第 4洞窟と第 7〜 9洞窟はクムランに⾮常に近いが、第 1、第 3、第 11洞窟はクムランから遠い場所にある。クムラン周辺には 100以上の洞窟があるが、写本が発⾒された洞窟は全部で 11である。以下に概要とそこからの出⼟品を⽰す。死海⽂書には断⽚にいたるまでほとんどすべてに整理記号がつけられている。たとえば「1QIsaa」とあれば、「クムランの第⼀洞窟 (1Q)」から出⼟した「イザヤ書 (Isa)」の「⼀つ⽬ (a)」という意味である。断⽚には整理番号がつけられている。たとえば「1QGen」(クムラン第⼀洞窟から出た創世記断⽚)は「1Q1」でもある。

3.1 第 1洞窟

死海⽂書がおさめられていた壷

1947 年に発⾒された最初の洞窟。七つの写本が発⾒された。⼆つの『イザヤ書』(1AIsaa,1AIsab)、『共同体の規則』(1QS、1QSa)、『ハバク

ク書註解』(1QpHab)、『戦いの書』(1QM)、『感謝の詩篇』(1QH)、『外典創世記』(1QapGen)。そのほかに巻物を保管していた陶器の壷(クムランから出⼟したものと同型)、布切れ、写本の断⽚などが発⾒されている。

• 1QIsaa(イザヤ書)

• 1QIsab(イザヤ書)

• 1QS(共同体の規則)cf. 4QSa-j = 4Q255-64,5Q11

• 1QpHab(ハバクク書註解)

• 1QM(戦いの書)cf. 4Q491, 4Q493; 11Q14?

• 1QHa(感謝の詩篇)

• 1QapGen ar(外典創世記:アラム語)

• CTLevi ar(カイロ・ゲニザから発⾒されたレビの遺訓と同⼀⽂書:アラム語)

• 1QGen(創世記)= 1Q1

• 1QExod(出エジプト記)= 1Q2

• 1QpaleoLev(レビ記)= 1Q3

• 1QDeuta(申命記)= 1Q4

• 1QDeutb(申命記)= 1Q5

• 1QJudg(⼠師記)= 1Q6

• 1QSam(サムエル記)= 1Q7

• 1QIsab(1QIsabの断⽚)= 1Q8

• 1QEzek(エゼキエル書)= 1Q9

• 1QPsa(詩篇)= 1Q10

• 1QPsb(詩篇)= 1Q11

• 1QPsc(詩篇)= 1Q12

• 1QPhyl(フィラクテリーの 58の断⽚)= 1Q13

• 1QpMic(ミカ書註解)= 1Q14

• 1QpZeph(ゼファニヤ書註解)= 1Q15

• 1QpPs(詩篇註解)= 1Q16

• 1QJuba(ヨベル書)= 1Q17

• 1QJubb(ヨベル書)= 1Q18

• 1QNoah(ノアテキスト)= 1Q19

• 1QapGen ar(外典創世記断⽚:アラム語)=1Q20

• 1QTLevi ar(レビの遺訓:アラム語)= 1Q21

• 1QDM(モーセテキスト)= 1Q22

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3.3 第 3洞窟 7

• 1QEnGiantsa ar(エノク書より巨⼈の書:アラム語)= 1Q23

• 1QEnGiantsb ar(エノク書より巨⼈の書:アラム語)= 1Q24

• 1Q25(外典預⾔書)

• 1Q26(指⽰)

• 1QMyst(秘儀)= 1Q27

• 1Q28(共同体の規則の断⽚)

• 1QSa(共同体の規則)= 1Q28a

• 1QSb(祝福の規則)= 1Q28b

• 1Q29(三つの炎のような⾆の典礼書)

• 1Q30(典礼書)

• 1Q31(典礼書)

• 1QNJ ar(新しきエルサレム:アラム語)= 1Q32cf. 11Q18 ar

• 1Q33(戦いの書の断⽚)

• 1QLitPr(祭⽇の祈り)= 1Q34

• 1QHb(感謝の詩篇)= 1Q35

• 1Q36-40(賛歌の規則)

• 1Q41-70(解読不能)

• 1QDana(ダニエル書)= 1Q71

• 1QDanb(ダニエル書)= 1Q72

3.2 第 2洞窟

1952年に発⾒。33の⽂書の断⽚が 300ほど発⾒された。『ヨベル書』、『コヘレトの⾔葉』のヘブライ語原典を含む。

• 2QGen(創世記)= 2Q1

• 2QExoda(出エジプト記)= 2Q2

• 2QExodb(出エジプト記)= 2Q3

• 2QExodc(出エジプト記)= 2Q4

• 2QpaleoLev(レビ記:ヘブライ語古書体)=2Q5

• 2QNuma(⺠数記)= 2Q6

• 2QNumb(⺠数記)= 2Q7

• 2QNumc(⺠数記)= 2Q8

• 2QNumd(⺠数記)= 2Q9

• 2QDeuta(申命記)= 2Q10

• 2QDeutb(申命記)= 2Q11

• 2QDeutc(申命記 10:8-12)= 2Q12

• 2QJer(エレミヤ書)= 2Q13

• 2QPs(詩篇)= 2Q14

• 2QJob(ヨブ記 33:28-30)= 2Q15

• 2QRutha(ルツ記)= 2Q16

• 2QRuthb(ルツ記)= 2Q17

• 2QSir(集会の書)= 2Q18

• 2QJuba(ヨベル書)= 2Q19

• 2QJubb(ヨベル書)= 2Q20

• 2QapMoses(モーセテキスト)= 2Q21

• 2QapDavid?(ダビデテキスト)= 2Q22

• 2QapProph(外典預⾔書)= 2Q23

• 2QNJ ar(新しきエルサレム:アラム語)= 2Q24cf. 1Q32 ar, 11Q18 ar

• 2Q25(裁きの書)

• 2QEnGiants ar(エノク書より巨⼈の書:アラム語)= 2Q26 cf. 6Q8

• 2Q27-33(解読できないテキスト)

3.3 第 3洞窟

1952年 3⽉ 14⽇に考古学者たちが発⾒。『ヨベル書』を含む 14の⽂書と『銅の巻物』という銅板に⽂字を刻み込んだものが発⾒されたことで有名。⾦や銀、銅などの隠し場所が記されている。

• 3QEzek(エゼキエル書 16:31-33)= 3Q1

• 3QPs(詩篇 2:6-7)= 3Q2

• 3QLam(哀歌)= 3Q3

• 3QpIsa(イザヤ書註解)= 3Q4

• 3QJub(ヨベル書)= 3Q5

• 3QHymn(賛歌)= 3Q6

• 3QTJudah?(ユダの遺訓)= 3Q7 cf. 4Q484,4Q538

• 3Q8(未詳断⽚)

• 3Q9(集団規則の断⽚)

• 3Q10-11(未詳断⽚)

• 3Q12-13(未詳断⽚:アラム語)

• 3Q14(未詳断⽚)

• 3QCopper Scroll(銅の巻物)= 3Q15

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8 3 洞窟と発⾒された写本の⼀覧

銅の巻物

3.4 第 4洞窟

4Q403-安息⽇の犠牲の歌

1952年 8⽉に発⾒され、9⽉ 22⽇〜 29⽇に調査された。クムラン遺跡から⾒えるほど近く、クムランの洞窟群の中でもっとも多くの写本が発⾒された。洞窟内部は⼆つに仕切られていたが、写本はどちらから出てきたかわからないものもあるので基本的に「4Q」を付す。第 4洞窟からは 15000

の断⽚が発⾒され、500の写本が再構成された。その中には 9-10部の『ヨベル書』、21のテフィリン(tefillin)、7部のメズゾット (mezuzot)が含まれていた。

• 4QGen-Exoda(創世記と出エジプト記)= 4Q12

• 4QGenb(創世記)= 4Q2

• 4QGenc(創世記)= 4Q3

• 4QGend(創世記 1:18-27)= 4Q4

• 4QGene(創世記)= 4Q5

• 4QGenf(創世記 48:1-11)= 4Q6

• 4QGeng(創世記)= 4Q7

• 4QGenh1(創世記 1:8-10)= 4Q8

• 4QGenh2(創世記 2:17-18)= 4Q8a

• 4QGenh-para(創世記 12:4-5 の平⾏箇所)=4Q8b

• 4QGenh-title(創世記)= 4Q8c

• 4QGenj(創世記)= 4Q9

• 4QGenk(創世記)= 4Q10

• 4QpaleoGen-Exodl(創世記と出エジプト記)=4Q11

• 4QpaleoGenm(創世記:ヘブライ語古書体)=4Q12

• 4QExodb(出エジプト記)= 4Q13

• 4QExodc(出エジプト記)= 4Q14

• 4QExodd(出エジプト記)= 4Q15

• 4QExode(出エジプト記 13:3-5)= 4Q16

• 4QExod-Levf(出エジプト記とレビ記)= 4Q17

• 4QExodg(出エジプト記 14:21-27)= 4Q18

• 4QExodh(出エジプト記 6:3-6)= 4Q19

• 4QExodj(出エジプト記)= 4Q20

• 4QExodk(出エジプト記 36:9-10)= 4Q21

• 4QpaleoExodm(出エジプト記:ヘブライ語古書体)= 4Q22

• 4QLev-Numa(レビ記と⺠数記)= 4Q23

• 4QLevb(レビ記)= 4Q24

• 4QLevc(レビ記)= 4Q25

• 4QLevd(レビ記)= 4Q26

• 4QLeve(レビ記)= 4Q26a

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3.5 第 5・6洞窟 9

• 4QLevg(レビ記)= 4Q26b

• 4QNumb(⺠数記)= 4Q27

• 4Q41

• 4QCantb(雅歌)= 4Q107

• 4QCantc(雅歌)= 4Q108

• 4Q112(ダニエル書)

• 4Q123(ホセア書)

• 4Q127(出エジプト記)

• 4Q128-148(テフィリン)

• 4Q156(レビ記のタルグム)

• 4Q157(ヨブ記のタルグム)= 4QtgJob

• 4QRPa(敷衍モーセ五書)= 4Q158

• 4Q161-165(イザヤ書註解)

• 4Q166-167(ホセア書註解)

• 4Q168 (ミカ書註解)

• 4Q169(ナホム書註解)

• 4Q174(詞華集、最後の⽇についてのミドラシュ)

• 4Q175(メシアの証⾔)

• 4Q179(哀歌)cf. 4Q501

• 4Q196-200(トビト書:アラム語)

• 4Q213-214(レビ⽂書:アラム語)

• 4Q215(ナフタリの遺訓)

• 4QCanta(雅歌註解)= 4Q240

• 4Q246(アラム語の黙⽰)

• 4Q252(創世記註解)

• 4Q258(共同体の規則)cf. 1QSd

• 4Q265-273(ダマスコ⽂書)cf. 4QDa/g =4Q266/272, 4QDa/e = 4Q266/270, 5Q12, 6Q15,4Q265-73

• 4Q285(戦いの書)cf. 11Q14

• 4QRPb(敷衍モーセ五書)= 4Q364

• 4QRPc(敷衍モーセ五書)= 4Q365

• 4QRPc(敷 衍 モー セ 五 書)= 4Q365a (=4QTemple?)

• 4QRPd(敷衍モーセ五書)= 4Q366

• 4QRPe(敷衍モーセ五書)= 4Q367

• 4Q415-418(知恵⽂書)

• 4Q434(感謝の詩)

• 4QMMT(モーセ律法の解釈,ミクツァト・マアセ・ハトラーを略して MMT と称す。)cf.4Q394-399

• 4Q400-407(安息⽇の犠牲奉納の歌)cf. 11Q5-6

• 4Q448(ヨナタン王のための賛歌)

• 4Q511(賢者の歌)

• 4Q521(メシアの黙⽰)

• 4Q523未詳

• 4Q539(ヨセフの遺訓)

• 4Q554-5(新しきエルサレム)cf. 1Q32, 2Q24,5Q15, 11Q18

3.5 第 5・6洞窟

1952年に第 4洞窟に続いて発⾒された。第 5洞窟からは 25の⽂書が、第 6洞窟からは 31の⽂書の断⽚が⾒つかった。

• 5QDeut(申命記)= 5Q1

• 5QKgs(列王記上)= 5Q9

• 5Q10マラキのアポクリフォン

• 5Q11共同体の規則

• 5Q12ダマスコ⽂書

• 5Q13規則

• 5Q14呪いについて

• 5Q15新しきエルサレム

• 5Q16-25未詳

• 5QX1⽪の断⽚

• 6QpaleoGen(創世記 6:13-21:ヘブライ語古書体)= 6Q1

• 6QpaleoLev(レビ記 8:12-13:ヘブライ語古書体)= 6Q2

• 6Q3 Deuteronomy(申命記)

• 6Q4 Kings(列王記)

• 6QCant(雅歌)= 6Q6

• 6Q7 Daniel(ダニエル書)

• 6QpapEnGiants(エノク書より巨⼈の書)= 6Q8

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10 3 洞窟と発⾒された写本の⼀覧

• 6Qpap apSam-Kgs(サムエル書・列王記の外典)= 6Q9

• 6QpapProph(預⾔書の断⽚か?)= 6Q10

• 6Q11(葡萄の樹の寓意)

• 6QapocProph(外典預⾔書)= 6Q12

• 6QPriestProph(祭司の予⾔)= 6Q13

• 6QD(ダマスコ⽂書)= 6Q15

• 6QpapBened(祝福:パピルス)= 6Q16

• 6Q17暦

• 6Q18詩篇

• 6Q19創世記

• 6Q20申命記

• 6Q21預⾔書

• 6Q22-6QX2未詳

• 6Q23(ミカエルの⾔葉)cf. 4Q529

3.6 第 7・8・9洞窟

7Q12-ギリシア語エノク書

これらの洞窟もクムラン遺跡に近い。1957年に調査が⾏われたがわずかな断⽚のみ⾒つかった。第7洞窟からはギリシア語⽂書の断⽚のみ(エレミヤの⼿紙、ギリシア語エノク書)が、第 8洞窟からは創世記など 5つの断⽚が、ほかに壷やランプ、⾰靴の底などが⾒つかった。第 9洞窟からは解読不能の⼩断⽚のみ。

• 7QLXXExod(七⼗⼈訳出エジプト記)= 7Q1

• 7QLXXEpJer(七⼗⼈訳エレミヤ書)= 7Q2

• 7Q3聖書のテキスト?

• 7QpapEn gr(ギリシア語エノク書パピルス)=7Q4, 8, 11-14

• 7Q5聖書のテキスト?

• 7Q6, 7, 9, 10未詳

• 7Q15-18未詳

• 7Q19印刷なし

• 8QGen(創世記)= 8Q1

• 8QPs(詩篇)= 8Q2

• 8QPhyl(経札の断⽚)= 8Q3

• 8QMez(申命記 10:12-11:21)= 8Q4

• 8QHymn(賛歌)= 8Q5

• 8QX1札

• 8QX2-3ひも

• 9Q未詳:パピルス断⽚

3.7 第 10洞窟

ここからは(オストラコン に使われたと思われる)⼩さな陶⽚が⼆つ⾒つかっただけである。

• 10Q1陶⽚

3.8 第 11洞窟

1956 年に発⾒され 21 のテキストが発⾒された。その中でも特に『神殿の巻物』は死海⽂書の中でも最⻑で 8.15mもある。

• 11QpaleoLeva(レビ記:ヘブライ語古書体)=11Q1

• 11QpaleoLevb(レビ記:ヘブライ語古書体)=11Q2

• 11QDeut(申命記)= 11Q3

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11

• 11QEz(エゼキエル書)= 11Q4

• 11QPsa(詩篇)= 11Q5

• 11QPsb(詩篇)= 11Q6

• 11QPsc(詩篇)= 11Q7

• 11QPsd(詩篇)= 11Q8

• 11QPse(詩篇)= 11Q9

• 11QtgJob(ヨブ記のタルグム)= 11Q10

• 11QapocrPs(外典詩篇)= 11Q11

• 11QJub(ヨベル書)= 11Q12

• 11QMelch(メルキゼデク・テキスト)= 11Q13

• 11QSM(戦いの書)= 11Q14. cf. 1QM?

• 11QHymnsa = 11Q15

• 11QHymnsb = 11Q16

• 11QShirShabb(安息⽇の犠牲奉献のための賛歌)= 11Q17

• 11QNJ ar(新しきエルサレム:アラム語)=11Q18 cf. 1Q32, 2Q24

• 11QTa(神殿の巻物)= 11Q19

• 11QTb(神殿の巻物)= 11Q20

• 11Q21ヘブライ語テキスト

• 11Q22-28未詳

• 11Q29教団規則関連

• 11Q30未詳

• 11Q31未詳

• XQ1-4経札

• XQ5断⽚

• XQ6奉納物

4 死海文書の内容

死海⽂書の内容は(内容が同定できないものを除けば)⼤きく三つのグループに分類される。それは「ヘブライ語聖書(旧約聖書)本⽂」、「旧約聖書外典・偽典」、そして「教団⽂書」と呼ばれるものである。以下に⽂書の⼀覧を⽰し、(断⽚からの再現を含めて)複数の巻物が含まれる場合はその本数を記す*[22]。

• ヘブライ語聖書(旧約聖書:エステル記とネヘミヤ記以外のすべてが含まれている。)

• 創世記(15本)• 出エジプト記(17本)• レビ記(13本)• ⺠数記(8本)• 申命記(29本)• ヨシュア記(2本)• ⼠師記(3本)• サムエル記(4本)• 列王記(3本)• イザヤ書(21本)• エレミヤ書(6本)• エゼキエル書(6本)• ⼗⼆の⼩預⾔書(8本)• 詩篇(36本)• 箴⾔(2本)• ヨブ記(4本)• 雅歌(4本)• ルツ記(4本)• 哀歌(4本)• コヘレトの⾔葉(3本)• ダニエル書(8本)• エズラ記(1本)• 歴代誌(1本)

これらの中には⼀つの巻物に複数の書をまとめたものも含まれている。

• 旧約聖書外典・偽典

• トビト記• シラ書• エレミヤの⼿紙(バルク書 6章)• 詩篇 151

• • 第⼀エノク書• ヨベル書• ⼗⼆族⻑の遺訓• 外典創世記(創世記の内容をもとにした外典⽂書)

• 教団⽂書

• ハバクク書註解 (1QpHab)• ナホム書註解 (4Q169)• 詩篇 37の註解 (4Q171, 173)• 詩華集 (4Q174)• 証⾔ (4Q175)• メルキゼテク・テキスト (11QMelch)

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12 6 死海⽂書は誰が書いたのか

• 創世記註解 (4Q252)• ダマスコ⽂書(ツァドクの断⽚)• 共同体の規則(宗規要覧)• 感謝の詩篇(ホダヨート)• 神殿の巻物 (11QTemple)• 戦いの書(1QM、ミルハマー)• 新しいエルサレムに関するテキスト

• • 銅の巻物 (3Q15) …第 3洞窟で発⾒された⼆枚の丸まった銅板。銅板に刻まれた⽂字は、死海⽂書の中で唯⼀職業的書記の⼿によらないもので、各地の宝物の隠し場所が書かれている。

5 死海文書の意義

死海⽂書の発⾒によって聖書テキストが、時代を経てどれほど変遷しているかを確認することができるようになった。死海⽂書以前に知られていた最古のヘブライ語写本は、925年頃書写されたと考えられるアレッポ写本(Aleppo Codex、モーセ五書を⽋く。モーセ五書を含めれば最も古いのはレニングラード写本)であったので、最古の写本が⼀気に 1000年さかのぼったのである。(ギリシア語テキストでは 4世紀のバチカン写本 (CodexVaticanus Graecus) とシナイ写本 (Codex Sinaiticus)が最古。)死海⽂書に含まれる聖書テキストを分析すると 35%がマソラ本⽂と⼀致し、5%が七⼗⼈訳聖書の系統であり、5%がサマリア五書の系統に含まれるものである。残りはまったく独⾃の系統に属するものである。これによって当時のヘブライ語聖書の流動性が⽰され、第⼆神殿時代のユダヤ教の実情に光があてられた*[23]。1996年版の『オックスフォード考古学ガイド』は死海⽂書について、

クムランで発⾒された聖書テキストは、エステル記とネへミア書を除く全ての旧約聖書⽂書を含み、それまで知られていたどんな写本よりも圧倒的に古いテキストを研究者たちに提供した。死海⽂書の中のあるものはマソラ本⽂とほとんどと変わらないが、第 4洞窟で⾒つかった出エジプト記やサムエル記などのテキストのように、マソラ本⽂との間に⾮常に⼤きな違いが⾒られるものもある。死海⽂書によってわかったことは、2000年前のユダヤ教⽂書が現代の学者たちの想像以上に豊富なバリエーションを持っていたことということであり、それによって現代のヘブライ語聖書は歴史的には三つの源(マソラ本⽂、七⼗⼈訳聖書のオリジナルとなったヘブライ語聖書、サマリア五書(サマリア⼈共同体の伝えてきたモー

セ五書))から発しているという広く定着していた仮説が覆されるに⾄った。現代の研究者たちは紀元 100年ごろに⾏われたユダヤ教での聖書正典化作業以前ヘブライ語聖書の内容は⾮常に多様かつ流動的なものであったと認識している*[24]。

6 死海文書は誰が書いたのか

6.1 クムラン教団・エッセネ派説

18世紀に描かれたヨセフス像

死海⽂書の著者が誰であるかについては諸説あるが、現在に⾄るまでもっともよく知られ、広く⽀持されてきた学説は、死海⽂書の著者をクムラン教団の⼈々と考え、クムラン教団を古代ユダヤ教のグループであるエッセネ派 の共同体とみなす説である。⽂書が発⾒された最初期においてエレアザル・スケーニクはすでにエッセネ派と死海⽂書を結びつけて考えていたし、ロラン・ド・ヴォーとヨゼフ・ミリクはクムラン遺跡の発掘によって「クムラン教団=エッセネ派=死海⽂書の書き⼿」という説に⾄った。この説によれば、クムランに拠っていたエッセネ派の共同体によって死海⽂書が記され、ユダヤ戦争時の紀元 66〜 68年頃に戦⽕を避けるためにクムラン周辺の洞窟に隠されたとされる。クムラン遺跡では(1996年に⾒つかった⼆つの⼩さな陶⽚を例外として)⼀切の⽂書類が発⾒されていない。にもかかわらず「死海⽂書著者=クムランのエッセネ派」という説が⽀持されてきたのは以下のような理由による。

まず第⼀に死海⽂書の共同体規則に書かれた⼊

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6.5 エルサレム由来説 13

⾨者の受け⼊れの儀式が、フラヴィウス・ヨセフス が著作(『ユダヤ戦記』2 巻)の中で⾔及するエッセネ派の⼊⾨式との共通点が多かったことがある。さらに共同体規則にメンバーが財産を共有すると書かれていることもヨセフスの描くエッセネ派の特徴と合致している。

第⼆に、ヒルベト・クムラン遺跡の部屋から⼆つのインクつぼと低い机が発掘され、この場所で写本の作成が⾏われていた可能性が⽰されたことがある。ド・ヴォーはその部屋を「写字室」と呼んだ。さらに発掘によってユダヤ⼈の使う儀式⽤の⼤きな浴槽(ミクヴェー)が発⾒されたこともクムラン遺跡の住⼈がユダヤ⼈であったことの証左と考えられた。

第三に 1世紀のローマの著述家⼤プリニウスも著作(『⾃然誌』5.73)において、死海の北⻄岸にエッセネ派の共同体があったと述べている。このように多くの傍証を挙げることができる「死海⽂書の著者=クムラン教団=エッセネ派」説だが、反論も多い*[25]。

6.2 クムラン教団・ユダヤ教分派説

死海⽂書の著者をクムラン教団と想定しながらもクムラン教団はエッセネ派ではないとみなす⽴場もある。この⽴場によれば、死海⽂書はエッセネ派ではない何らかのユダヤ教グループによって書かれたことになる。

6.3 クムラン教団・サドカイ派説

クムラン教団の正体に関して近年もっとも注⽬された説が「クムラン教団=サドカイ派」説である。ニューヨーク⼤学のローレンス・シフマン(Lawrence H. Schiffman)の提唱するこの説では、死海⽂書の説はサドカイ派の祭司たちである。その証左として、シフマンは第四洞窟出⼟の 4QMMT(トーラーの⼀部、ミクツァット・マアセ・ハトラーを略して MMTと称す)をあげる。彼は 4QMMTこそサドカイ派の清浄・不浄規定そのものであるとし、死海⽂書に含まれる暦もまたサドカイ派の暦であるとしている*[26]。

6.4 第七洞窟の断片とキリスト教由来説

1972年、スペインのイエズス会⼠ヨセフ・オキャラハン (Josep O'Callaghan-Martínez)は第七洞窟から発⾒されたギリシア語の写本断⽚を新約聖書の⼀部であるという説を発表した。これはコンピュータによる本⽂検索システムによる参照によって、旧約聖書本⽂では⽐定不可能であった当該パピルス⽚を新約本⽂と対照することで偶然発⾒に⾄ったものである。しかし当初、ほとんどの死海⽂書の研究家たちは「あまりに断⽚の⽂章が短すぎて判断できない」として即座にこれに反論した。1980

第七洞窟パピルス⽚

年にはアメリカのロバート・アイゼンマン (RobertEisenman)がさらにその説を進めて、死海⽂書は初期キリスト教徒の⼿によるものであるという説を唱えた。アイゼンマンは死海⽂書の⾔及する「義の教師」とはイエス亡きあとのエルサレムのキリスト教徒を率いた⼤ヤコブのことであり、「悪の祭司」とはパウロ のことであるとする*[27]。このような⼤胆な空想の⾶躍に⾄らずとも、80 年代以降もこの問題の真剣な学問的論議は継続している。「反証不可能性」で科学と疑似科学に境界線を引いたことで有名な哲学者カール・ポパーは「断⽚ 7Q5 とマルコによる福⾳書六章 52-53 節を同⼀と⾒なすことが、ただ⼀つ可能なものである」と、ドイツのカトリック学者フェルディナンド・ロールヒルシュの本件についての主張を⽀持している。*[28]*[29]

6.5 エルサレム由来説

死海⽂書がクムランでなく、エルサレムで書かれたという⽴場をとる説もある。カール・ハインリヒ・レングストルフ (Karl Heinrich Rengstorf)が初めてこの説を唱え、エルサレムで書かれた⽂書群がローマ⼈の攻撃を避けるため、クムラン周辺に持ち出されて隠されたと考えた。後にシカゴ⼤学のノーマン・ゴルブ (Norman Golb)もこれを⽀持し、エルサレム神殿 だけでなく、エルサレムの複数のグループによって書かれた⽂書群が運ばれたとする。この説の傍証として、提唱者たちは死海⽂書は思想的に幅が広く、多くの筆記者の⼿によっていること(死海⽂書の⽂字の分析から最⼤750名もの筆記者の可能性が想定されている*[30])をあげる。

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14 10 外部リンク

7 関連項目

• 七⼗⼈訳聖書

8 脚注

[1] ミルトス編集部編、『聖書と歴史ガイドイスラエル』、ミルトス、2011年、p101

[2]『死海⽂書のすべて』、pp49-60

[3]『死海⽂書のすべて』、p25

[4]『死海⽂書⼊⾨』、p21

[5]『死海⽂書のすべて』、p27

[6]『死海⽂書⼊⾨』、p24

[7]『死海⽂書⼊⾨』、p34

[8]『死海⽂書のすべて』、pp33-34

[9]『死海⽂書⼊⾨』、p32

[10]『解き明かされた死海⽂書』、p67

[11]『死海⽂書⼊⾨』、p32

[12]『解き明かされた死海⽂書』、pp72-73

[13]『解き明かされた死海⽂書』、pp41-42

[14]『死海⽂書のすべて』、p328-336、および『解き明かされた死海⽂書』、p70

[15]『解き明かされた死海⽂書』、p80

[16]『死海⽂書⼊⾨』、p40

[17]『解き明かされた死海⽂書』、p94

[18]『死海⽂書⼊⾨』、p40

[19]『解き明かされた死海⽂書』、pp101-110

[20]『解き明かされた死海⽂書』、pp113-115

[21]『死海⽂書のすべて』、p344

[22] 以下の記述の出典は『死海⽂書のすべて』、p71〜

[23]『死海⽂書のすべて』、pp224-225

[24] Fagan, Brian M., and Charlotte Beck, The OxfordCompanion to Archeology, entry on the “Dead seascrolls”, Oxford University Press, 1996.

[25]『死海⽂書のすべて』、pp143-168

[26]『死海⽂書のすべて』、p177

[27]『死海⽂書のすべて』、pp294-295

[28] オットー・ベッツ/ライナー・リースナー『死海写本―その真実と悲惨―』LITHON1995、原書は 1993

[29] 本件について⽇本⼈の書いたものとしては、⽥川健三『書物としての新約聖書』勁草書房 1997 で7Q5問題が論じられている。

[30]『ビジュアル版死海⽂書⼤百科』、p72

9 日本語での参考文献

• ゲザ・ヴァーメシ 著、守屋彰夫訳、『解き明かされた死海⽂書』、⻘⼟社、2011年、ISBN978-4-7917-6614-7

• 和⽥幹男、『死海⽂書聖書誕⽣の謎』(ベスト新書 313)、KKベストセラーズ、2010年、ISBN978-4-584-12313-3

• ジャン・バッティスト・アンベール著、遠藤ゆかり訳、『死海⽂書⼊⾨』(知の再発⾒叢書134)、創元社、2007年、ISBN 9784422211947

• ジェームズ・ヴァンダーカム 著、秦剛平訳、『死海⽂書のすべて』、⻘⼟社、2005 年、ISBN 4-7917-6172-3

• フィリップ・デイヴィス著、池⽥裕訳、『ビジュアル版死海⽂書⼤百科』、東洋書林、2003年、ISBN 4-88721-634-3

• エドワードM.クック著、太⽥修司・湯川郁⼦共訳、『死海⽂書の謎を解く』、講談社、2002年、ISBN 4764266105

• エドマンド・ウィルソン著、桂⽥重利訳、『死海⽂書発⾒と論争 1947-1969』、みすず書房、1995、ISBN 978-4622001812

• ノーマン・ゴルブ著、前⽥啓⼦訳、『死海⽂書は誰が書いたか?』、翔泳社、1998年、ISBN4-88135-591-0

• ⼟岐健治、『はじめての死海写本』(講談社現代新書)講談社、2003年、ISBN 978-4061496934

• O.ベッツ、R.リースナー著、清⽔宏訳、『死海⽂書 -その真実と悲惨』、リトン、1995 年、ISBN 978-4947668141

10 外部リンク

• Dead Sea Scrolls facsimile of 1QIs*a 1Qs and1QpHab

• UCLA Qumran Visualization Project

• Timetable of the Discovery and Debate about theDead Sea Scrolls

• The Dead Sea Scrolls Collection (at the GnosticSociety Library).

• The Dead Sea Scrolls

• The Dead Sea Scrolls and Why They Matter

• Shrine of the Book

• Azusa Pacific University's Dead Sea Scroll Exhibitdisplays five Dead Sea Scrolls fragments in Azusa,California

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15

• Scrolls From the Dead Sea: The Ancient Library ofQumran and Modern Scholarship

• Library of Congress On-line Exhibit

• TheDead Sea Scrolls Project at theOriental Institutefeatures several articles by Norman Golb, some ofwhich take issue with statements made in popularmuseum exhibits of the Dead Sea Scrolls

• Guide with Hyperlinked BackgroundMaterial to theExhibit Ancient Treasures and the Dead Sea ScrollsCanadian Museum of Civilization

• Dead Sea Scrolls @ the Royal Ontario Museum

• The Importance of the Discoveries in the JudeanDesert Israel Antiquities Authority

• Pesher Technique: Dr. Barbara Thiering's WritingsBarbara Thiering's (unconventional) theoriesconnecting the scrolls with the Bible

• The Dead Sea Scrolls as a source on PalestineHistory of 1st Century AD. Sergey E. Rysev.

• Introduction to the Dead Sea Scrolls BiblicalArchaeology Review.

• The Orion Center for the Study of the Dead SeaScrolls, Hebrew University, Jerusalem, site includesupdated bibliography.

• The Qumran Essene Theory and recent strategiesemployed in its defense Norman Golb (2007).

• “Jannaeus, His Brother Absalom, and Judahthe Essene,” Stephen Goranson, on Teacher ofRighteousness and Wicked Priest identities.

• “Others and Intra-Jewish Polemic as Reflected inQumran Texts,” Stephen Goranson, evidence thatEnglish“Essenes”comes from Greek spellings thatcome from Hebrew 'osey hatorah, a self-designationin some Qumran texts.

• Searching for the Better Text: How errors crept intothe Bible and what can be done to correct themBiblical Archaeology Review

• Ancient Treasures and the Dead Sea ScrollsCanadian Museum of Civilization

• 和⽥幹男死海⽂書聖書外⽂書研究

• 2006 年春神⼾松蔭⼥⼦学院⼤学キリスト教⽂化研究所公開講座第 1 回死海⽂書とは何かPDF

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16 11 ⽂章および画像の出典、投稿者、ライセンス

11 文章および画像の出典、投稿者、ライセンス

11.1 文章• 死海文書出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8?oldid=57824159投稿者: Fx、

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11.2 画像• ファイル:1QIsa_b.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/13/1QIsa_b.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.ao.net/~{}fmoeller/qb.htm原著者: uploaded by Daniel.baranek

• ファ イ ル:4Q403.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/4Q403.jpg ラ イ セ ン ス: Publicdomain 投 稿 者: http://www.loc.gov/exhibits/scrolls/scr3.html 原 著 者: 不 明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718'title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a>

• ファイル:7Q12.png 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5f/7Q12.png ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.documentacatholicaomnia.eu/03d/sine-data,_Nebe._Wilhelm,_Fragments_Of_The_Book_Of_Enoch_From_Qumran_Cave_7,_EN.pdf原著者: 不明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718'src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20'height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x,https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050'data-file-height='590' /></a>

• ファイル:7Q4.png 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/7Q4.png ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.islamic-awareness.org/Bible/Text/Bibaccuracy.html 原著者: 不明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718'title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a>

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• ファイル:Dea_sea_scroll_display_is.JPG 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Dea_sea_scroll_display_is.JPG ライセンス: Public domain 投稿者: No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims).原著者: No machine-readable author provided. Bantosh~commonswiki assumed (based on copyright claims).

• ファ イ ル:Dead_Sea_Scrolls_Before_Unraveled.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d1/Dead_Sea_Scrolls_Before_Unraveled.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: http://archive.org/details/scrollsfromdeser00habeuoft 原著者:Abraham Meir Habermann, 1901–1980

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• ファイル:Josephus.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Josephus.jpg ライセンス: Public domain投稿者: https://sites.google.com/site/josephuspaneas/ 原著者: William Whiston (originally uploaded by The Man in Question onen.wikipedia.org)

• ファイル:Part_of_Qumran_Copper_Scroll.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Part_of_Qumran_Copper_Scroll.jpgライセンス: Public domain投稿者: Qumran Copper Scroll原著者: na

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• ファイル:Qumran_pottery.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Qumran_pottery.jpg ライセンス:Public domain投稿者: http://archive.org/details/scrollsfromdeser00habeuoft原著者: Abraham Meir Habermann, 1901-1980

• ファイル:Qumrán.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/70/Qumr%C3%A1n.jpg ライセンス: CC BY-SA3.0投稿者: 投稿者⾃⾝による作品原著者: MotherForker

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11.3 ライセンス• Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0