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Page 1: ,.. 第 40 τヲ幕末と伊丹、 一統海第二 ニ. サで「 天抹組 作林光平における足 跡 」 をまとめた。.天抹組の変は幕末の丈久 一二 年

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第 40 巴コτヲ

Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会

絲海第40号

Page 2: ,.. 第 40 τヲ幕末と伊丹、 一統海第二 ニ. サで「 天抹組 作林光平における足 跡 」 をまとめた。.天抹組の変は幕末の丈久 一二 年

三号J 大の dfム猪包名立R まZ がつtr

~r ぐ明日香

猪名部という冠がついた神社が、伊丹・尼崎

市内に広がる旧縮名野エリアでなく、遠く離れ

た三重県いなべ市にあるの

猪名部神社(旧民弁

郡東日民間北大社)である猪名部神社の

HP

開く

「第刊代天武天皇阜居跡」というタイト

ルが円に飛び込んでくるコ

それはさておき、ま

ずHP

内にある由緒を読んでみようc

「猪名部氏は、元々の現住豪族と描津国(兵

庫県)の猪名川周辺から大和

(奈良県)を経て、

移住してきた豪族との融合豪族といわれる

必代元明天皇の和銅6

年(713

)勅命により、

猪名部の族名が転じて「員弁」とされた

奈良

の大仏

「東大寺」は、第店別代聖武天皇の天平口

年(745

)8

月から建立され、猪名郎氏の猪名

部百世が大工(棟梁)、飛騨の妊の益田縄手が

少工

(副棟梁)として完成した。

この世界最大

の木工建築物は技術の粋を集めて建立され、そ

の総指揮をとった猪名部氏が建築技術に優れ、

宮中に仕えた名

工として日

本書紀にも

登場し

実に著名であった

こと

が判る。

(小略)当社の創

建時代は明らかでないが、延立ロ式内社(905

の延喜5

年に、

勅命に

より藤原時平が

ペ時の仰社を

延長式神明帳に記載

した神社)

に列し、(以下略こ

猪名部というと、平安時代に編纂された「新

撰姓氏録」の摂津国諸蕃

の項に、百済同の人

「中津波手

(なかっはてこの子孫の為奈部首(い

なべのおびと)の記載がみられ

猪名部を管

理す

る伴造と考えられているつ

さて、猪名部百世は、生没年一小話。

天平京ハf

2

年(758

)8

川、木工京長k

て花Lハ位上、vr

経料の銭250

文・紙却張を納め、大般若経の

世一回写に関わっている。

神護対雲

一川年(76

7

2

月、称徳

天皇の東大寺行幸に際して同守造営

の功労者に授位があり、外従五位下に、また従

四位下で伊勢守兼東大寺領掌使に任

られた

(「大仏殿碑文」「東大寺要録』)とも伝わって

いフ心。

ここで「お水取り」で有名な東大守.一川堂修

二会で読み上げられる過去帳の初段を凡ょう。

「大伽鹿本願聖武皇帝聖円阜大后坑光明主

行基菩隊本願孝謙天皇不比等右大臣

諸兄左大臣根本良弁僧正当院本願実忠利尚

大仏開眼導師天竺菩提僧正供養講

師降尊律

師大仏脇士観音願主尼信勝同脇士虚空蔵願

主尼蒋光造

寺知識功課人大仏師同公麻呂

大鋳師真凶高市真麿鋳師柿本男玉大工猪

名部百世小

工話回純手

(以下略

点大寺と行基との関係は周知だろうが、少し

おさらいしておく

行基は天平日年、東大寺大

仏造立のため

勧進活動を行い、同口年に大僧正

に任じられたが、大仏の完成を見ず、天平勝宝

元年(749

)に亡くなったc

大仏は、聖武天皇により紫香楽宮の造常が開

始された天平日年

(743

)叩日月日日に発せられ

た虚舎那仏造顕の訊から

9

年を経て

天一千勝宝

4

年(752

)4

月、開眼供養会が盛大に厳修さ

れたc

その後、治水4

年(1180

)、平重衡の

軍勢により

大仏殿をはじめ東大寺の伽藍の大

半が焼失したため、現在の大仏殿は猪名部百世

が造ったものではなく、江

戸時代に再再建され

たもの=

創建時の大仏と大仏殿は、

「信貴山縁

起絵巻〈尼公の巻〉」(写真I

)に描かれたものが

有名ですι

摂津と伊勢に分かれた猪名部だが、王権に木

工技術で仕え、行基と深く関わっている共

通点

は親近感がある。

技々のU

の仰に併すこの仏に

は、行基の怨

いが詰まり、fH

叶いが監督して建築

された伐に約400

年守られていたのかなどと

思いを巡らせながら大仏に’川き合、っと、またい

つもとは違うお顔を拝めるのではないだろうか

*伴造(とものみやっこ)H

大化改新前に皇室所布の部

などをネい、その職業によ

って朝廷に奉仕した中央

の中ド隔の栄族。

その姓は造

・首・速が普通c

*木工波長上TLH常勤の技術駄作山口

(伊川市教育委μ会事務局生紙学問内部社会教育課長)

http://www.sigisan.or.jp lrl'i':l. 山真言宗 総本山朝日必孫チ寺公式サイトより

念写ず, ま

’ ~ ’ . ’ • ' d‘ 客企守.•. ’ ま写. ’ ‘ ’ A

’ .:.. ' ゑ

’ . ’ & . & , ... 守

・行基と大仏さまが

2

つの猪名部をつなぐ::・::

:-j

i

---1

.幕末の長州と伊丹

両国街道を中心として

1

・:・:・::・

2

1

7

.ト内墳時代の難波と猪名川流域::・:::

81U

.博物館のテl

マ民

「川村シリー

」について・::-j

i

---uiM

事業の計剛、回顧・編集後記::;・:・日1

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幕末の長州と伊丹

j

西国街道を中心としてj

!毛

宏之

、はじめに

本年の,

HK

テレビの大河ドラマは

「花燃ゆ」

は激動の幕末の長州の古

川松陰をはじめとする

勤王の志上の生きざまを揃いている。

士日間松陰

が直接伊けに来たことはないが、長州に関係す

る人が同国街道をはじめ伊

けに

も来ていること

が知られている

r

私は伊川における朕史上の人物に関心があり、

これまで

「続小川」で次の問点についてふれた

「伊能忠敬と伊対」総小山第.ニ

一サ

(一)

(aJ

「ぷ抹制作林光干の伊什における起跡

心不.HWTtJE--e

・・

3.

J

’V古川1リリリドルパ河IJ-

(」二「緒ト刀洪山崎に関係する人の伊川

における

活躍」紙海第三四ロヴ

(凹)「伊丹市文化財保存に功績のあった山本

賢之介さん」総小山第一二4U

これらは私が以している山内版史散広の会で

現地に行き、その後例人的に調任

したことに基

.、,

L

、アU

Jsuw,ヲ

a,

今川州文をまとめるにあたって昨年の,.日に

亡くなられたれ川道

f

さんの次の関係論文を参

考にさせていただいた

「椿の御本陣

」向陽書房修一川降一千さん、

川町沈さんとの叫ん若山和六.年九月

(二)「近仙の阿川術道

(山崎通)

ト門文いけからの年山内小|「伊け雌史探訪」

小凶桝泣株式会社

千成十倍一年五月

一二)「市文書を読む阿同街道と新僚組

「歴史研究」第四五山号平成十

一年五月

この

一二点以外に私がこれまで歴史問係の文市

をまとめるに際して参考にしたものは次のとお

ート

・;

一引引f司『J

川川吋

←,s’o

J,,,

UJ丸

城下町から梢造の町へ」

大阪存秋第九八サ平成十三年

一二月

(

一一)

「旧御願塚村花惣.丈占

(二(て

)ぷ

|江l{f

J-j

伊丹市ι

博物館

一ニ)紛海第

一・一

uゲ

(凹ト凶年記念

に平成

十八年十,川卜八日に記念講演をされて

出題は

「伊川郷と町会所

(凶)前松「伊川医山ん探訪」に

「伊丹州造業と

し、

る小-山家!卜

日文計一川井からの考祭」

(五)前載

「宥刷城から伊丹郷町へ|

酒造の

伊丹郷の成すこ

二、凶凶街道の概要

阿凶街道は、作人下川・一家の時代、郎と大・1十山川を

結ぶ川(欲的基幹迫路

(山陽道)でした

・江戸時

代になると以

μを巾心の五街道

(点海道・中仙

道・日光街道・奥州街道・甲州街道

)から派川

した脇街道の

一つに格下げとなった。

大阪から

尼崎を経て両日

に主る海岸線の辺は中凶街道と

呼ばれて問符で川阿川街道とん什流する

ら分岐し、

の五郎と中川地んとを結ぶ取県な辺で、(伊

川)|州日

山崎

(大山崎)|弘同

ト米海道

ドヘ1L

KLEE-ノJλ

(道)と呼ばれていた

などの件宿駅を椛て兵咋にモる道は特に

山崎

伏日比のん桁から担小へ山て

猪名川を波り、北村を過ぎて伊什坂をなり、大

脱、千併、日比防を過ぎー

守木を粁て、山叫ト仕い山崎

市内昆協にある髭のぷ小山町から波し船に来って武

庫川を波り、同白へ山てさらに

刊に’川かう。

白~ @僧~c:主同制

古川~~:~~ ~ ~ i 山

Q胤〉

の嗣切

肉川uau

倫の 命

刷切命

凶U命刷)c

wm

国((尼崎)

西摂を中心とする宿駅配置図 (伊丹市史第四巻より)

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--. 、

幕末と伊丹

一統海第二

ニサで「天抹組作林光平における足

跡」をまとめた

.天抹組の変は幕末の丈久一二年

(一八六一:)に作林光一千が五卜

一歳の時に大和五

条で決起されたが、その内何人かは摂作の伊丹

で同学を学び

戦いに備えて軍資金を備えてい

たc

その記録方を勤めていた伴林光干は一大保九

年(一八三八)一.卜

六歳の時に初めて伊丹に来て

伊丹町下市場(現在の東有附一丁目、場所は特

定されていない。

)の道場に寓回して中村良臣

について凶学を学ぶ。

その後北村の教許守を

じめ摂津を小

心に和歌を作り、同学を深め勤王

の同士との交流を深めていった

伊けでは総裁

を勤めた.人である藤本鉄石とも交流があった

管宗次著「京大坂の文人・続々」(和泉書院)

に光干が伊丹に初めて来て和歌を苦学して学ん

でいる頃の絵が載っているc

光平が下市場の道

場から伊川町に出る途中のうどん開の入り口の

長形の行般の灯りで読書しているものである

の絵の説明は明治明治二一十九年十月に岡村

天囚、磯野秋渚編『士円今歌話』に載っている。

大阪朝日

新聞の投稿に連載されたものの

一つで

(行燈の火)弾琴緒

(伴林光干の伊丹での苦学

を伝える逸話

)として紹介されている。

このうどん尿の場所としては旧国鉄伊汁駅前

「みゆき通り」か「湊町かいわい」が考えられ、

そこに

は何軒かのうどん犀があったc「湊まちか

いわい」の南側の本町に「一満」といううどん尿

があった。

官ノ前に近い本町のうどん屋「一満」

はこの絵のイメージにあったものと思われた

「(一八)行壇の火」弾琴緒

(伴林光平の伊丹でのき学を伝える逸話)

(『古今歌話」架蔵)

伊丹では光平と鉄石以外にも名も無い勤皇の

志上が住んでいたと地元の古老が明治の初めに

生れた曾祖父から聞いた話を教えてもら

ったこ

とがある。

一大抹組の変の後に慶・怯一・

一年(一八六七)

に長州藩の兵が西宮1

伊川の村々に

「宿常」し、

詐術と戦、つために上点していたころのものと忠

われるこ

工長州は天抹組の総裁中山忠光の山身

地であった。

江戸時代に

「住吉町」と

呼ばれていた所があ

り、以前には

「袋町」

長屋の

と昨ばれていた

端に路地があり、その奥に辿りから見えない長

!長σ3

「隠し部恒」があった

l

「伊丹の町の江い時代」伊川市立的物館編集・先行

1111

和十

「袋町」の路地

3

堺住自治会と榛自治会同辺で昭和十五年頃に

時代劇の昂影に何Mか使われているのを古老の

少年時代に見たと教えてもらったう

山風究寿郎主

役の鞍馬天狗シリーズが船影された路地哀が、」

の界限には今も残っている

撮影の行われた現在の「堺住」

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問、北側いにおけるパ諜組

K抹組については本誌m

4卜・・・

U

でぶ品組の

伴林光平の生い立ち、歌人としての作林光-平、

-大諒組における作林光一午、ヤ十十小μuurnノ叫HftJ噌』ベコ

ιτtふ必1、,ノ一、-

fυ’

4110J’suJd

けるけ止跡についてふれたし

伊川では時五焼夷派のよ上がれ米していたが、

明倫立の隣に伴家で政情について議古川を戦わし

たv

又、伊川杭住のん打開豪家から資金の調達をけ

的としたと-一一日われている。

作林光.十は川内凶志紀林{村ぶ)(現在の峰件

寺市)の作まれだが、訪問を行脚して八回市の

守を拠点に訪を弟子に教えるために伊川を

中心

とした摂沖に何向か米ている

光ギは伊丹の教

善寺σ〉

「隠れ部屋」を拠点にして歌を弟子に教

えた

そこで池削、

のじ

宝塚、

箕町、

長υ町村、

人の門人(いずれも休職)に和歌を教えている

それを歌集「以内の摘市」にまとめている

又、光Jrは安政山年二八五じ)に七日間で県

津地方を吟行している

大坂の債教寺を出発点

として吹川の垂水神社、貨而、池川、

川西の多

間同!

?土

T<. 塚の「11

111

伊けの教持与を料出し

て大坂の出教与に

一民っている

摂作のこれらの

寺は天諸制の拠点になっていた

;~ 'I

川eB市E樽社 回目

、、担m四'14目

貫面市

吹田円。酌

/ 宅

車庄 . jtlf 7 吏満i事!寺t 』E18日l.W

。、一

土な参考凶書

「光平の隠れ部屋j

大阪湾

伴林光平の慎津吟行紀行歌文 戸小田の中道j より

鈴木純孝

「作林光一千の研究」議談社出版サービス

小道

』より

、.. 止・

krLKト、,

」/刊bF,fzfh刈

/、、, 1

同拡引「作林光

干の阪市吟行

・川犯行歌いえ{小川の

阪卜.丈夫「北側いにおけるパ忠組」小火印刷

丘、

昆陽術と

新撰組

幕・ぶにこの州凶街道の耐似は参勤交代の時期

こそ忙しくなるが、

通常は大きな事件に遭遇す

ることなく静かな村官の市駅です

w

ろが、説本にこの問問街道がにわかに騒

がし

くな

った

点部と阿同諸藩を結ぶ近道とし

て、勤口・

倒棋の志十しも通れば、長州征討も帰

路はこの街道を辿るようになったぷ

文久.一一年(一八六一J

八月十

八日の政変によ

って、

京都から-制された作

t

峨必を主慢する

円以州維は勢hMの挽川をはかり、却な広治冗年大挙

上京するが、ト」1JLlhul--十山吋、

l

lJ

-E・E

・’’

ja,.EE’EE-

-,.. d-EHa冒・

蛤御門付近にお

いて佐幕派の会沖・山臨時・越に破れた

(「禁門の

変」)こ

のとき長州滞は阿川街道を敗走

した。

.内川街道を-内心するいい以州滞兵は作桁駅の人民

を継ぎ立て、

荷物を移送しようと品開駅にも

ち寄ったが、円比防駅ではすでに幕府から通達を

4

受けており、

長州荷物を出かったことを周け出

たリ

長州議兵はこのようなところで足踏みもで

きないので、ド川ehmur-みJZ

、,じ

HMH八・』公χミ』1、

アT坤did/Ju・4HMB土Vド正母

1ι-Z7ムζ」4

の・文引けに記されているように、この宿駅に新

保利山没を迎えることにな

った

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今、昆防の本川跡は残っていない

J

リ取初、比

陽の本陣は

佐藤家であったが、

幕末頃には川

端家が勤めていた3

本陣の最後

の人は

-詰力

IJ’sv’t’L

太犬と青われた人で、

日比.ト仁川川品川

rm守臥ヘノいじ川川ド‘wjr「ノ

EJJfuua仙川r←

U

川/羽小tlJ

、。

墓は、松ケ丘一.]日の日比防京間にある、ll

.、入

、子

lA

什Jj

国を測量した測量家の伊能忠敬は、

文化瓦午

F

a,一

ι’-

(一八O八)

伊川l

有馬追を測リばした後、

の本仰に泊まった一記録が残っている

till |崎

’l}

「ふるさと探訪文化財を訪ねて平成|七年二月

伊丹市文化財ボランティアの会編集・発行(預り札)

不持脅1;:i ぇ~:~1守ヰ

ヰ「 A諸説-: ; ~~1 勺

句界十 i草

i但 tι

-解説文

一此般一た藩前物中1リ山陽駅ニ民間候-Uv

ニ付迷惑之山間込候問、出組中江川

一…ニ

民り置可申候、

キL~n {q:

ーしム日巴HLJW十

J

17f

ノ『

rげ1戸r主・41

す事門司且制剤

七川廿六U

μ川凡えいじ川’

11

47

,4JJ

見陽村ロ

ヘしι\

1

時間AW什Ll,Fノ

J川1

-読み下し文預

-此般長藩桁物当比陥駅に部け開き候

につき迷惑の出聞き込み候問、出組小へ悩に

預り置き可巾すべく候

札件のごとし

手しムロじ日ド・ιJF「

7・

17

1

新選組

七川竹六u

い川凡ス山じ叩γ

ll

ノイ叶

4

J

日比陽村

駅役人巾

日比陽駅に留め間いかれた長州引物はじ川

.ト

日に新選組によ

って引き取られました

次の文書には、

長州藩兵の通行から、

可吻沼Ff151

め世き、さらに新選組に引き波された経緯が記

されています

(午恐御受書)

5

ののれ、wm-斤ハfJ巾JU4・f4

:《vm川ι,移LAι

YU

手段fh介hs刀鉾1il

ル4急μwa

qup汐ηsh,

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、、合ハ・・内タぃ.~.

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AV解説文

乍恐御受汗

-先月廿日

、一長州御滞中御通行ニ付人足五拾人継立

川仕段

先触到米

仕似ニ付れ人記継立社、行銭受取依節、

人馬

-M中紋ニは

被中紋

ニ付

明什

一日尚一凡人記五拾人T当致し同一ハ候様人足先山

し世蚊内

瀬川駅より間道江尤向継米り候ニ付、

{円駅より

拾八I

手前ニ間道有之、

中→駅義も問

右道筋江地軟な呉候様申之

tlri

が円引トiノ

間道は勿論脇道江継立難相成段相答巾候ニ付、

ト伯

御吋荷山店)(物i立ニ機 I古j

十IJ

ti~ 千E依

然ル処同廿六日、

新選組

御帥也被九成下、われ比例物御引取被九

泰山北上候

点数之通絞れ仏社候、全御威光様之御義と難有仕合

伝山ドhfJ失、

一可F4

1

L引ド

梢村内悉取調候処、長藩落人は勿論、武器頒其外

川ニ

一上中小川川一肌り

候荷切紙…御旅

候、治問世後円相聞

挨節は

如何様之越度被為仰

付候共中八川知…御座候、

i

L

AI刀日山

御司一-A京日未差上依処如件

じムj

・L・

F

J

・4H,

ノム川

子・八月六日

ぷド、

民IJ其削

依之

目、UHH川けり市巾4じ15HH川

4LJJ1

’:

λI16

土wHWW4

ll~ 代犀他

丑 f!H

If f長

又トh術門

松Jj目

新津j謹品

{卸組御リ-1 Ht f';i'. I)

tk

む之通差上候写

-読み下し文恐

れながら御受占

一先月什日、長州御瀧中御通行につき人足五拾人継

ぎ立て什るべく段

先触到米社り候につき有人足縦hu-て社り、借れ銭交

け取り候節、人馬方中し候には

別廿

一円尚又人川応力拾入手当て致しくれ候ょう巾

され候につき人足差し出し

置き候内

瀬川駅より間道へ差し向け継ぎ来り候につき、丹

駅義も間宮駅より

拾八丁手前に間道これあり、七道筋へ継ぎ立てく

れ侠ょう申し候えども

間道は勿論脇道へ継ぎなて相成がたき段相答え山中

し候につき、右什何物

中寸駅にて相留り龍り在り候、然ると

ころ川U

六日、

新選組御出役様

御越し成し下せられ、右荷物御引き取り成しドせ

-みさり-

られ、別ちそ

の向差し

上げ挙り候

点数の通り継立て仕り候、

全く御成光様の御義と

有がたき仕合存じ本り候、

猶村内悉く

取り調べ候処、長藩落人は勿論、武器

類そのほか

何に寄ら

す預り候者一切御聞なく候、若し隠し置

き後日相顕われ候節は

如何椋の越度仰せ付けなされ依とも中し分御用な

く候、こ

れに依り恐れながら

御d父宮差し上げ泰り

紋ところ件のごとし

一正治元年収い州川辺郎円比陽駅

チ八月六日間出他行ニ付代

H

陀um

7

どI

→IH』

--J4寸4日刊nl

松平肥佐山汀同体御預り

新選組御

出役様

有の通り差し上げ候写し

文中に

「則ちその仰美

し上げ奉り候点数」と

あるのは、新選組に長州荷物を

引き一注したとき

に比例物の内科を確認しており、」1リ’ル十八hG・川中du

’前哨門外年広γれurp

HJ4Jヲ

といった武待類が記録され

ている文書が残って

いますっ

脇街道の小さな宿駅も

い山栃木の騒乱の渦中に置

かれた一時期でした。

末尾に

「覚えておきたい語句

」として次の卜

句が上げられている

《一

AV覚えておきたい語句

6

当組中

[とくみちゅう

*新選組。

幕末、幕府は浪人統制のため

士組を組織し、文久

一:年以部に上らせ、壬

生村に屯集させたが内部に尊擦派と気脈を

通じる者がでて、分裂っ

京都に残った近藤

勇・

土方歳一一一らはい以都守護職松平谷保の支

配に属し、新選組を結成し、尊捜・1J川市市派

の弾圧に域を

ふるった。

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2

先触[さきぶれ]

*街道通行のさい、前もって人馬継立を令

しておく触れ。

3

す人馬方[じんばかた〕

*宿駅の継立人馬役

4

右人足継立仕

[みぎにんそくつぎたてつかまつり]

5

保間道[かんどう〕

*本街道に対してわき道、抜け道。

6

致し以

一ハ候様被申候ニ付人足差出し置候内

[いたしくれそ、つろうようにんそくさしだ

しおきそうろう

7

多々必労し

一切無御座候

[いきいござなくそ、つろう]

8

三御受書H

御請書

[おんうけしょ・おうけがき]

*承った旨を記して差出す文

書、本諾書

9

Z伊丹-オ

問屋他行ニ付

[とうやたぎようにつき]

問屋が他行して留守である旨の断り。

10

松平肥後守[まつだいらひごのかみ]

*陸奥会津藩主、松平容保

(一八三五|

九三)。

京都守護職。

幕末京都の治安のた

め、文久二年特に幕府が設けたもの。

京都

所司代

大坂城代・

近国大名を指揮する権

限を持つ。

六、おわりに

この文書は石川道子さんが平成十

一年一一.月に

歴史研究三月号に見陽農業協同組合文書をもと

に「古文書読む西国街道と新撰組」として発

表されたものである。

石川道子さんは「文中に

「即ちその向差し上

げ奉り候点数』とあるのは、新撰組に長州荷物

を引き渡したときに荷物の内容を碍認しており

槍・

鉄砲・弾薬といった武器類が記録されてい

る文書が残っています。

脇街道の小さな宿駅も幕末の騒乱の渦中に置

かれた

一時間でした。

」と補足している。

歴史の研究家の中ではこの「昆陽農業協同組

合文書」と

『新撰組日誌」の中にある「大坂市

中探検後、昆陽宿で押収品を得る.八軒家より

三十石船で帰京。

壬生屯所に一民る。」との整合

性を問題にしている

。①

私が属している荒木村重研究会、大阪歴史懇

話会で石川道子さんは生前、歴史研究と大河ド

ラマの峻別を説かれた。

古文書の解読にあたっ

ては個々の字を紙に書かれたものを飲み込むよ

うにして理

屈抜きに覚えなければならないこと

を強調された。

石川道

子さんが所属していた神戸史学会は平

成二十八年二月に「古文書研究家石川道子さん

追悼集」の発刊を目指している。

①松浦玲「新撰組」山行波新書八五頁

(伊丹市文化財保存協会監事)

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古墳時代の難波と猪名川流域

はじめに

ElJtKL

)

It

:

ll

川い制叫叫のσ一川,リAfEを

市から北へ半白状に口く

丘陵が上町内地である

その北端は標出わずか

一一一二m桂皮に過ぎないが、大阪千野の松山口川所に

あたる3

この地は、東は大阪平野から牛.駒・抗

貴の連山、

四は大阪湾の向こうに淡路島が.望

できるだけでなく、ム門地北館では近畿の・

A

大河

川である大和川と淀川が什流し、出むへは山内路

が聞かれるなど、

水山内交辿の結節点というすぐ

れた佐世を山めている

このような地に

間かれ

たのが王権の外港たる難波津であり、占代の難

波は畿内の表玄関として、

瀬戸内ル1

トから朝

鮮半島・中間大陸の外来文化へとつながっていた

一方、猪名川は難波津の州北約六同で北似の

水を集めて大阪湾にそそぐ

その流域には古墳

時代前期から後期にいたるまで前方後円噴が築

L

,刀オ

倭政権を構成する複数の首長勢力が成を

伝っていた。

南は大阪湾、北は長尾丘陵や

fAH

山の丘陵に閉まれたこの地には伊丹内地や政巾

台地が展開し、難波に隣接するとはいえ

独1j

の地理的・

歴史的全間をな

していたr

本稿は古墳時代における難波と折々引川流域の

様相をとりあげ、州者の関係をさぐり、

その一何

史的広義を検討しようとするものである

一、・

十円噴時代の難波

『日本書紀』

「大附・百」、

-』+Aph心hvHnnJ

ltlrL

カド試牢σ

明jの

「高津符」、

欽明朝の

「祝津山中川」など難波

に置かれた山円安が景場する

いまのとこ

ろ実態

「日本書紀』に

錐波制江や難波沖などが笹川倒するのは仁徳紀の

はまったくわかっていないが、

ころからである》

ト人体.九仙一紀ごろとされている

が、それ以前のk

町台地では、間

附の低地以外

に人々がまとま

って住んでいた形跡はない

(l)

難波宮下回遺跡の始まり

上町行窯と法円坂倉時群|

上町内地上

に継続して人間活動の跡を泣した

のは難波同

一ト附追跡である

の遺跡は難波山

と川じ上町台

地北端の高ムリにあり、山墳時代中

期以後、難波宮が建設される七世紀まで絶える

となく建物群が発見されている。

その始まり

が上町行然と法

円坂倉庫群であるc

上町小八日窯は、前期難波宮の南川の佐町から南

へ降る急斜山で、難波ん円建設時の鞍地屑の下か

ら、一

a

基が並んで発見された。

こで焼いてい

たのは、同産初の陶器である須忠器であり、そ

れも朝鮮半島か

伝わったばかりの「初期須忠

待」と呼ばれる一群である。

その年代は

TK

一二剖式と呼ばれる様式から、五世紀前半でも市

い時期にあたるc

上持の出土量は少なく、

比較

的短期間で終わったらしいが、その後も場所を

変えつつ、

間以忠能性・陀が継続していたと考えら

れている

十ぶ・jJ

人入12-

g-

E十ま、

じド明ノ

i

u川1l

一六棟の樹立柱建物が東

附一.群に分かれ、純比扶…と北んで発比された。

却+

晶、

flJU

--

7

L

時寸’t

4u,444、日刊土1

1JHH

(約十Om)・

梁行凶間

(約九m)で総牲のい回川床構造であるが、両妻か

ら-間

内側の株通りに棟持柱を.本ずつ立て、

その両脇問カ所に咋京とは別に犀収を支える構

造杭を建てるというやや惚雑な構造である

わ例として、紀伊の嶋沌追跡のれ附併があるが、

法川坂AH咋昨は古墳時代で故大の脱税であるば

かりか、前例のない花方位で建設されている

のよ

うな建築様式は倭国の伝統にはなかった

もので、

明らかに外来系のものであるむ

これま

では.九附紀後午とされていたが、れかり

する士総は初期制

忠持であり、ト

.町小八日指…と同時

期かやや遅れて

一九世紀前半に建設された吋能性

カ丙L。

8

多くの

物資を蓄えるク

ラはもとよ

り、

t

町ハ介黙の須恵山市生産・出荷においても、

水運との

-M接な附係が必要であっただろう3

くとも法円坂品川昨畔の建設に際しては

、北山約

七CC

mの大川

(一冗の淀川本流)が難波桝江と

して人工的に整備され、港としての難

波津が置

かれたはずである

堀江と津とクラの

一体的な

開発事業は、瀬戸内水運のターミナルとし

て、

さらには朝鮮半品、中間南側との交渉の窓μと

してこ

の地に拠点を必要とした

五世紀の倭主権

によるものだろう

L権の外港としての難波津

の成ι

は、かつてはしハ附紀以後とされてきたが、

五世紀に遡ることは明らかである

とこ

ろで

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朝鮮下品伝来のト町谷空…の初期須恵器と法円

坂食店群の外米的な建築は、

難波宮下回遺跡が

外来文化に彩られて成立したことを示している

難波の卜白代史は、最初から外来文化と結びつき、

eL株の外地つまり市一特地としてスタート

したわ

けである

(2)

難波宮下回遺跡の展開

五叶一紀後半までに計庫群は出絶し(矧波押に

近い北方に移動したか)、

が登場してくる0

1初はその数は少ないが、しハ

台地上には笠穴建物

叶一紀には撫立件建物に変わってその数も増加す

TK

一一O九型式

(六世紀末1

七川紀初出

のころにはピl

クを迎え、難波宮が建設される

七叶一紀中ごろまで多数の建物が叫まれるように

むの

なるc

創作までに発見された難波山下回遺跡の

建物総数は一

00棟をくだらないが、

その半ば

以上が六世紀末以後とみられるt

その中には、

かなり大型で日術的色彩の強い建物群なども検

山されているc

また、

ガラス工作一五や鹿角加工、金属器生産な

どが行われた形跡も顕者に見られ、この地が物

資流辿だけでなく、

「上権の生出拠点にもなって

いたことがうかがわれる=

七世紀に人ると、寺院建設も本佑化してくる

問天王寺がその代表例であるが、制-i小八け遺跡や

大坂城下町跡下層、

また難波町ド附遺跡などで

飛鳥寺の系譜をひく古い瓦の出

土が相次いでい

る。

少し湖るが、「日本書紀』には継体六年

(五

一)

以後、外交ん日企円である「難波館(なにわ

のむろつみ)」が登場し、また外交庁舎である

「難波大郡」も欽明一..

一年

(五六一)-」ふ4ぇtu勿

1

hpL1

λBE,

する

史料はこの\例に留めるが、『日本書紀」

に記された離波の記事の大半は外交や対外交流

に関わるものである

c

難波津の成立によってこ

の地が外交拠点となったことが如実にわかるの

である

二、山墳時代の猪名川流域

本稿でとりあげる猪名川流域とは、耕名川凶

岸(令制下の摂津・河辺郡

)と点岸

(県島郡)

であるが、両岸の伊丹ム門地以南と東岸の豊中台

地以南を中心としたいc

主な十日頃昨としては、

-h『川-F

-」ぶhnJH陀JLLJ#HH時庁、

日v’Jf

uイ4

ベイ

HAl

+J司T

京山に桜塚市墳群がある

(l)

指名川西岸地域

両岸地域では市墳時代になると、

北万の宝塚

市長尾正段に長見山

(川,一m、

以下に前方後川

墳の墳丘長を

一不す)、

などの

乃和山

(一立凹m)、

前期占墳が登場する

前期古墳は猪名野内墳群

でも伊川市卜一脱坂

re. 111奇

池I LI

(推定七Om)、

(仁

一m)などが前期後半に造山甘され、その

後も伊丹市柏木

↓同市御願

(円墳っ径五.Km)

塚(五一一m)↓尼崎市御同

でハOm)

|司市1・i

古木・

li;i~

1荒lIll },:_ j訴

|||

(川..

m)と

(問六m)

後期古墳まで肯長墳の系譜がたどれるよ

うであるτ

続き、

このほかに、

小則上什坑とされている厄附山川

-tIJ、-

lu守点

hr.-→lhザ

(九.

. m)があるが、詳細不明である=

また、出附市川門川逃跡で郁川a

知と呼ばれる文

椋を施した特殊器ム円形埴輪

(H取古の埴輪)の破

非常に古い占墳が存在した

能性が指は刑されているc

什が山十ししており、

-回、、.-、

ナJJ/

柏木山墳が円墳か前方後円墳か不明で

あり、

他は推定も合めて前方後円墳とされてい

るが、

御願塚市墳は帆立Uハ形古墳であり、

の前’M後川崎ではない

柏木山墳は川内

また、

制年目別の埴輪

(須恵器出現前)を有している

のに対し、御願塚古墳は、wu期とY

則の埴輪が

トピ.rJ

J、

lJzftL

地-K山十の須忠出は

TK

一0・八1TK

二.

二型式なので、折半のん宝山がある、

あるいは、

伊川出太古墳がその空白を埋めるのかもしれない。

ちょうどそのころに難波では法円坂合咋併が建

9

設されているじ

猪名野古墳群周辺の伊丹台地には、北方の川

岡山城を除いて式内社が分布せず、それが農耕

神の不在つまり未聞の地であるがゆえに従業共

同体が未成立であったことを示すとすれば、こ

の十日墳群の勢力基盤は伊丹台地南方の大阪湾に

近い低地であったとみることができる

η民

,<{

式地内の社 IEが 111奇所市干1・ 1或す lこる I~ は

伊い仇太社などの

t

i

l

-、;

1fιhJで11

,fl,

Al,

ι

A4l

さらに雨に位置する尼崎市

T

K

..

一一国式の上部溜りがい

くつか検出されており、

猪名作遺跡では、

それを伐した集凶と新

名野古墳昨との関わりが想定できそうである

この遺跡の泣構検出而は楳山一

り、

眼前が出作線であったから、

五m前後であ

新名山正の集問

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は海との関わりが大きか

ったであろう行

(2)縮名川東岸地域

一五、猪名川東岸でも北方に池川

市茶臼山

(六凶

m)、南方の車中

市桜塚山墳群に大石

(じ六m)、小石塚

(問九m)をはじめとする

前期古墳が分布し、桜塚古墳群では大塚

(円墳、

径五六m)↓御獅子塚

(五五m)↓狐塚

(?)

↓北X平塚

(一t

o-

-ニバ

m)など中期の首長墳

が継続するが、墳丘は若しく小型化し、前方後

円墳は後期に統かないc

このうち、副葬品や埴

輪などからみて法円坂仕出昨とほぼ同

時期と考

えられるのが、御獅「域内的である。

御獅子塚市墳に前後して、この地では蛍池東

遺跡で大胆の辿物群が建設されている

c

それは

大型合庫を小心とす

ものであり、

「蛍池合咋

群」と仮称するc

その小に法円坂と同様の棟持

柱を伴う(位置は少し異なる

)もの

があること

は、双

-Mの建物昨が川じ系譜にあることをうか

がわせる。

蛍池A川町群はTK

..

0八型式以後の

集落(竪穴建物群)に先行することなどから、

法円坂とほぼ同時期と考えられるc

ただし、総

版刷積は法川坂倉席群の二分の.程度であり、

その配置計阿もさほど整然としているわけでは

lh

c

ナhdL

『H本令官紀」応神

a

一-

a

年条では、「武庫水川」

に集結していた船同が、凶合わせた新縦使船の

失火により多数の船が擢災したこと、これを契

機として、新縦ヱが

「医者」を倭同に派遣した

こと、

その彼らが

になった

「指名部等之始祖」

ことが記されている

雄略一二年条には、

木l

「猪名部御国

」(「闘鶏御凶」とも

)が雄略の命

により楼閣を建てたこと、

一一て年条では、

はり本ての

「猪名部真根」が雄略の眼前で巧み

に斧を使って木村加工したことが記されている。

新羅系渡米人の部民・猪名部の集団は造船と建

築の優れた技術者であったらしい。

当時はこの

地から上町ム門地を遠望することができたから、

彼らが法円坂合庫群に倣って御獅子塚の筒長の

下で蛍池倉庫群を建設した可能性は大であるc

のみならず、彼ら

が法円坂倉庫群に関わ

ってい

た可能性も捨てることができない

P

それはともかく、豊中台地では蛍池束、新免、

山ノ

LLなど丘世紀代の集落遺跡が分布すること

から、台地上の開発が古噴時代中期には認めら

れる点で伊け台地と異なる。

ところがこの地域

にも式内社がないっ

その理山は不明であるが、

豊中台地に肘住した集同が猪名却を合む波米人

たちであり、

倭同ふうの農耕神を杷らなか

った

とすれば、一応の理解は可能であるコ

--z

-、

、7

ナ/ふjl

後の検証が必要であるコ

控巾ム川地南方の低地にも利行問、

上沖

.方、

島、品

目などの遺跡があり、占墳時代前期の多

山陽・万而など他地域の土器

も少なからず出土しているc

ム門地上の柴同とと

量の上器が山土し

もに海沿いの低地も、

猪名川東岸のいH

長らの勢

布留式

前半までという出土士器の大勢からいえば、湾

力基盤であったと考えられる。

ただし、

岸地域を基盤としたのは、

大石塚など桜塚古墳

群小の前期古墳より古い段附の首長であろうが、

今のところ、

それに該当する古墳は知られ

てい

、a

nu

φhoし

二、小結

以上の対比から窺えることをまとめると、以

下のようになるだろう。

一に、難波では肯墳時代巾期の買世紀に入

って

王権の手で未開に近い上町台地上の開発

が始まったのに対し、猪名川流域では前期段階

から前方後円地を築造する伝統的な在地集同が

いたことに、双万の顕著な相違がある猪名川

流域には弥生時代以来、

同能、勝部、摂津加茂

などのト人型集格が営まれたことが古墳時代につ

ながっていったのであろう

ν

一方、難波の地

は上町台地に顕著な河

川がなく、したが

って農

耕の適地もなかったため、弥生の大型集格は形

成されなかった。

そのため、山墳時代に入

って

も台地北部には在地氏肢の集凶的居住がなかっ

たのであるc

逆にいえば、そのような空白地

あるがゆえに、王権が難波に橋頭壁を築く

こと

。。

ができたのである。

第一.に、古墳時代の猪名川流域では

一貫して

全域を統合する首長が存在しないことがあげら

れるc

東山芹と西岸にそれぞれ首長系譜をたどれ

る肯墳群が併存したことが、その証左である。

そのため、

両岸の首長たちはそれぞれに半権と

直疑関係し、その

一部の要素を導入しら

- 10-

そ0)

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王様との関わりの紅度もしくは従属性の強弱が、

前長系譜の消長に杭川本することとな

った。

桜塚

古墳群が早く京退し、猪名野古墳群が六世紀前

半まで継続したのはそのゆえであろう。

下十九権との関わりを具体的にみると、占墳時代

中期により深く王権と関わ

たのが桜塚古墳群

の首長であるつ

そのことは、

法円坂倉庫群とほ

ぽ同時期の蛍池倉庫群の存在から明瞭にうかが

われる。

それにかかわ

ったであろう新羅系木七

・猪名部御川や真根が優れた建築技術者であっ

たにもかかわらず、

『u本書紀』では雄略の誤

解によっ

て間単に殺されかねない存在として描

かれていることは、

五世紀後半

(桜塚古墳群の

説退後)における彼らの地位の低さを物語

って

、.、,

《V

しヲ《な

お、猪名川流峨が特定の勢力に統介されて

いないことから、

「日本書紀』仁徳一一八年条の

「猪名川どについては、この地域の全域をボす

ものとは考え難い;

一入内為那都比古社は現在の

箕面市域にあることから、

一応は点岸勢力と考

えておく

のも.案であるが、なお後考に侠ちた

し 、。有

わドE二弔』、

f

hl 向山町の行長らがいずれも大阪湾に而

した低地を勢力基盤としていたであろうことが

あげられる。

、-Av--、

ふJ

J/

それは単純ではない。

東岸

の勢力でそれが顕著にみられるのは古墳時代前

則前下であり、

る。

これに該当する古墳は不明であ

一万、四岸の緒名野古墳群では前期後半に上

鵬塚、池凹山古墳が現れるが、その時期の集落

等はまだわかっていない

c

その姿が見えてくる

のは五世紀後半の猪名庄遺跡を待たねばならな

い。

そこで発見された土器溜り

一一.ケ所は、須恵

器の蓋とし口川町叩がセ

トで大半を山めており、な

んらかの祭杷が行われた跡かと思われる。

猪名

庄の西約問同には武庫川が流れており、そこに

は難波津へとつながる武庫水門があ

ったc

応神

紀一一一一年条でみたように、

ここに集結した倭同

各地の船は五OO般

(もちろん誇張であろう

シ」しし

また新緑使船も停泊していたから、難

波へ向かう瀬戸内航路の章

一安な港津であったこ

とがうかがわれる。

難波津、猪名庄遺跡、武庫

水門のいずれもが、

五世紀における大阪向山の

開発と、その背後の王権の姿を示しているので

ある。

特殊器台形埴輪が出土し

た西川遺跡は、

猪名

庄遺跡の東約

一同、猪名川が神崎川に合流した

西岸の地点である中

ほぽ川河円と忠われるよう

な位置に、円取士川級の古墳があったと

すれば、き

わめて興味深いことであり、

その可能性はある

と思う。

それと同様に、

猪名川東岸の河口部で

不明とした前則前半の肯墳が該地に存在した可

能性も考えておくべきであろう。

それは古墳時

ド‘wHM百円、、

frI41t行正

この地が瀬戸内ルl

トの重要な港津で

あったことを示すのである

c

難波津がまだ置かれていない古墳時代初頭の

予」マつ、瀬戸内ルl

トの港津は猪名川東川町河川部

だけではないc

該期の土器が豊富に出土する吹

田市垂水南遺跡、大阪市崇禅寺遺跡もそうであ

るc

の二遺跡は、いまは神崎川の南北両岸に

位置しているが、当時は、崇禅寺遺跡は北への

びる難波砂州の先端にあり、旧淀川を扶んでそ

の対川岸が垂水両遺跡であったc

両者は広い意味

一体といってもよく

大和と瀬戸内ルl

トの

結節点にあたるというな味で、

いってもよいc

難波津の原型と

これと至近の地として、

猪名川

東岸川U部もまた、

官接な位世にあったことが

窺えるのである。

おわりに

『円本令官紀』ム円雄元年(六五O)二日条は、

難波の地で山雄改川の儀式が雌大に行われた記

事だが、祥瑞として献上された白維を輿に載せ、

孝徳の許へ選んだ四人の貴族の

一員に

「新名公

高見」の名がみえている。

高見は中央貴族とな

った新名氏のおそらく

族長であり、天武

一一一一年

(しハ八山)一OH

、八色姓の制定時、猪名公氏

は真人を賜り、以後長く朝廷で活躍している

『続日本紀』には神護日以雲元年(七六七

)一,

月四日、「造寺工正六位上猪名部百世」が外従

4位ドを賜った記事があり、

一一一代実録」仁和

三年

(八八七

)正月七日条では木工寮の大充

(允)「猪名部造有古」が外従五位下を賜って

いる。

職能部氏としての猪名部が朝廷に吸収さ

れてはるか後

世まで存続したことがわかる。

『延書式』では

「並嶋牧」「為奈野牧

」がむ

馬寮の御牧とされているc

つまり皇窒の御料地

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であるが、これは前方後円境が猪名川東岸では

五世紀に途絶え、凶岸でも六世紀前半を故後に

途絶えたのちに置かれた牧であろう

この二つ

の勢力は、倭岡の連合政権の

一角を構成してい

たことを前庁後円墳によって明示したが

それ

ぞれの地で述合政権を、干.導した.土権への直属化

が進んだ結果、アガタのような間接的支配から

直轄地たるコホリやミヤケとして再編され、前

方後円墳を停止することにな

ったのだと思われ

る。

指名川流域の各勢力は.冗々自らの牧を有し

ていたであろうが、それも半権の牧として再編

れ、後附ま

で御料地とな

ったのであろう。

このような事情は、東大寺の杭岡として知ら

れる猪名庄も同様

であろう

。『東大寺要録」巻

六によれば、河辺郡に川八五町余

(別伝では

「庄地行町、浜

二百五十町云云」)を有してい

たが、律令政府の分身とまでいわれる東大寺が

の地を手に入れたの

は、

天皇家の施入による

とみるのが日然であるとすれば、猪名店追跡の

地が猪名野占墳群の終罵以後、大£家のミヤケ

とな

ってい

た可能性が高いであろう。

本稿で論じ残したことは多い。

御願塚古墳が

なぜ、典型的な帆立H形市墳なのか、にもかか

わらず、なぜ二重の刷濠を有するのか、それに

難波がどう関係してい

たのかなどという疑問は

解けていないが、とりあえず、以上を以て捌筆

したい。

(大阪文化財研究所)

、王Illi

--

l

大阪市教行委以会・大阪文化財研究所てO

O

『ト人阪市内山政文化財包蔵地発掘調資報行』《

2

ト八阪市文化財協会

一九九一 .

一難波宮祉の研究」

fJJd

酎珂t川

3

和歌山県教育委H会

一九八四

『嶋沌追跡発抑制州

官報告書」

4

積山洋一九九

O

「古墳時代中期

の大型余庫群

難波のクラと紀伊のクラを巡る

4

試論」(『大阪

の歴史』一一

0サη

よ問秀紘一.

0・

i

「念・屯合」

『内墳時代の与占学」hハ、同成社

5

直木孝次

郎・小笠原好彦編

一九九

一『クラと古

代王権』ミネルヴア書房。

6

稲山洋

一九九阿

「卜ぃ町内地の北とよ問l難波地域

における古墳時代の集格変選」

「大阪市文化財論

集」大阪市文化財協会。

7

実際には法

円坂倉庫群の存続中かもしれないT

K・

d

O八別式

(五世紀中ごろ)のころにガラス-L

芸を伴う県穴建物が出現したようであるc

8

南秀雄

九九令二難波-H下層遺跡の上器と集落

『難波宮祉の研究」第九、大阪市文化財協会

V

9

猪名野市別昨の詳細は、伊川市教育委員会

a

一O

0・八『御願尿lH墳先制調査報行書』第

一章

「杭併

と環境」に拠った

凶森岡秀人・

古村健

一九九

一一「摂津」{前方後円

墳集成』近畿編、山川山版は、前方後円墳五期ま

たはしハ則(須山心部山現の前後で中期中ごろ

)とし

ている

日下珂

一医靴.九八五

「兵庫県尼崎市阿川遺跡出土

の特殊探ム川形地検」『占代学研究』第

一O九サ、

市代学研究会。

ロただし、伊属

太社の候補地は尼崎市下坂部のほ

か、池出市絞羽にもあるc

日尼崎市

文教育委員会一九九九

『猪名庄遺跡』。

この報青井では、ト仁詩溜りの須恵時はTK

一ご一-1

同じ塑式とさ

れている

確かに.部にTK

問じ型

式に降りそうな土器もあるが、大勢は

TK

二二一型

式と思うc

凶海岸線の復以はド記による執乍は雌川和夫

c

をの一)版記的地城山ん宇品肌hpuaz』

一ニ石’\\さを

t〈-恒三一d-〈2

・2ミ・MMヨ丘町BEE-一】可chHC」℃\

島一)の己-

25

門rv円七一dU叶一ZMでH白U22巳。Avω〉ポ片山。認可∞印ぷ

∞せよロωcc∞MC。]山∞ndemyJu

∞吋。。。〉cc閃ωc。∞-。。〉何♂

『山ω-yw〉

--4c∞。sc向。CAW∞-cc∞吋

日桜塚古噴椛の系譜は、大阪大学文学研究科考古

学研究裕二0

0JK尾山古墳発掘調公報告占』

に拠った

川大阪文化財センター

一九九問

『宮の前遺跡

池東遺跡

蛍池遺跡・蛍池丙遺跡」。

げ曲

日中市二OO五

一新修盟中市山ん}第四巻。

国縞山洋

二0

i

「大化前代の縦波l

難波宮ド層

追跡を小心に」『市

λ日

本山んい第-八日ヅ、大阪

市立大学U

本史学会

民-

回出中晋作

一00

「古墳副葬品からみた古墳被

非行の性的附」『百舌μ

・古市古墳群の研究』学生

社利回.

之輔二OOE

「摂津知名川流域におけ

る古墳時代後期の地給供給関係

」『符兼山考占学

論集」大阪大学考占字研究室ω

たとえば地輸では、府瀬党一一OO一一一「県沖猪名

川流成における前期山地の地輸とその系訪」『古

代文化』第五五巻第九号、ト日代学協会

計古川橋照彦

OO七

「指名川

流峨の古代氏族と勝福

寺山地」『勝制キト円墳の研究』大阪大学考山学研究室。

詑椋

洋一九九問

「上町台地の北と

商」(品川掲注6

)F、

お高橋間…必一一OOじ

「猪名川流域の占代氏扶と勝福

守古墳」(前掲杭引)

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「博!日物村官官シのリチI I スマ」展

イ〉

いて

亀ーーー

ル-n

・1

はじめに

本年丘月-

一H

(土)から六川

-一十一H

まで、伊丹市立博物館において、春季テ

l

マ民

「川村シリーズ第

一弾『小坂旧1空港に消え

た村1

ごを開催した。

||

「山村シリーズ」とは、

江戸時代から明治時

代前期にかけて市域に存在

した

「村」の.怜史を

紹介する展-不シリーズである

w

当館が毎年、川y

付市資料修史等専門委H会と介同で、トいゆで』J子

ι1

lhvT

在した旧村

一ヵ村を選んで実施している

「川村

調先」の成果を基本に、

当館所政関連資料、ま

た関係者からの借用資料与を織り交ぜながら展

示を構成している

某ぃ本的に毎年在(川iL

ハ川)

に実施し、本年度で

一一川けをむかえた当館の

恒例展示の

一つであるc

「旧村調査」

「川村シリー

ズ」の基本となる「出村

調布」

の実施にあたっては、まず

地域の代去の五々と

お話しし、実施に関するごf

承をいただいた卜

で調脊円時を決定し、事前に調査の内容と尖施

を地域にご同知いただく。

その上で、当日

は、

大学教民を中心とする問

委員会の専門委員が訪

問し、野外の史跡等をご案内いただき、

淵lhI会

場では地域のん々より

持ち込まれた古文芹やMA

写真干僧地区旧村調査(平成21年(2009 ))

俗資料などを雌認、

さらに地域の廿の様子を出

談会的に聞かせていただいたりという流れで進

行していく

hvj日行凡できる史料は

ほほ江aF

時代から明治・大正・昭和則のものなので、中寸

日参加するのは近附いから近現代専門の委員がメ

インである

刀円刊U川H4Llドレ’ドtw内ノ

HH

i小’Hビ/

iJ11λν

『伊川市山人』一制築事業におい

ては

十日米山内各所で大切に保管されてきた山

よ+一一

u

や絵凶手の

・史料をご川町供刷い、前用させて

、、守矛、-、‘、

svルjJ/

tLVJ/

市山人編纂委川口や一制竹必需職

J1ノ,、、、

ア‘、7

,<VH

付(らの子により、その同点で山内で把射された

卜uよ主H史料昨のト入部分をリスト化したm )'J

山ん編纂資料HN川」が作成された

このリスト

は、

その後半成じ

咋、・’

L

Iし4・i

r

--ノlノ

12

川の阪神・淡路

大震災の折

地凶札所在のl川文内mJの被災状況を

調在する上

で非常に役ι

ったのだが、判州上九川を進

める尚一科で、本リストにぷ械がありながら被災

により

所在が雌認できなかったり、

あるいは本

ストにない史料が発見されたりした

こうした震災時の教訓から、

常日頃から現地

を訪れ、

存作の知られたん牝地史料についての

在確認をしながら、あわせてこれまで

ι在の知

られていなかった史料についてもその有蕪を確

認する、という

U

常的な作業の市要性・

必要性

Jhuい礼、S3

-hソ目j』」”UNd-4

74

!ー;

それを現実化したのが、J

TK2し二

叶i,

JM時,F

ノんHl

から開始された

「旧村調作」といえよう

近年では、

急速な部山化の進行や、

震災によ

る被災等の安川により、

外I師

トυ

或こ

斗JMJ

If

-

-{

7

ト作在したこと日体がわかりづらくなりつつある

また、

そこに非

らす人々の

いい同齢化もどんどん進

んでいる

本調ト品引が始まった巧初の調針目的は

ゎ仕地史料の存在刊犯であったが

今後は、-

SJB叶叶J

HHH’木1

が存在した記出を交け継ぐ地域住民から

その

記憶を聞き取ることも本調青の大きな

け的にな

13

ってくるものと忠われる

テーマ展

「旧村シリー

ズ」

「川村シリーズ

一各展ぷでは、前述の

111 村

の成果を杭械的に川和介することはもちろ

訓告

ん、取り上げる村ごとに、

その村を他村に比べ

て際立たせる歴史t

の特徴をテl

マとして設定

ム9マh》、}レ」ペー\毎回特色を出すように配慰してい

例えば

であればブドウ栽しねを、ま

「北村」

「十一川川町一であれば的名川の本

山地を、

’とい、っ

具什である

これまで以

一ボを間保した全ての什々と

各年

ごとの例別タイトルについては次頁のぷをご参

日11H、唱で、-

1

‘-、

日山・LJ/

JJt44UJJL

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表 「旧村シリースjのあゆみ

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3 ·1 ’ 1&E11j'一 { ゴ0071 I. it 川 、 Y I:ぇ · itr illキ dヒタ J、ラヮ·1" '1 , ·1’成 1 :; 11· < 200 い

1 l’ 1,l( :!() fj: ・ :!008 ° ’ (也 •1c 、 w;埼•il!! · • ~ '·i(Jl l t i; J也と ;F1't 、 4 ・|・·lik:l01J .• 1 ~1% ’

5 キ1'11¥c::!l fJキ. •:!009 • 「 1 ii N 、 百! i · I ll’九 r. ' ι .:. ~ 》ら 1千日II 、 ·n&11;r1·• :!001 •

h ‘l ’•&:!:! 11' はtll0' ー w:語、 J~ I;品 z也 ・ fri JJ};と よ1r 1世制l 、 γ1主《Iflキキ 19~17

7 ・ド li\i::!:l fl' 1:!011 ’ 「 |、川r11;\、 litγ, lll vl/t しと,·::; 1頼材 、 1・ ,,x_ l ト;1・< :!Olhi •

114 ~·j- 。l’ 1,\(:!IH' • :!OOX

8 'j":1i\i.:!J IJ'.1 :!0I:! • "r1r1R iJ • ~·f 、 111i 'l'f .i J• 'l'f. ~ilザの 1;,t'. I己、 J"' l'J"

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1'4 -~,,’ ‘ド成 l 1ri: l!t!l!l り T·li'~ :!5WI :!013' ' 1'4~ ; 1° ':: 時iY.ci I'、 lll れ Ill 治水とや;G.o主 1,)( 、」

4!札 1・ f bJi::!:Jri: I コ0 1 1 )

10 -ド li\t :!611'今 I :!011' 氏1'<~!以前i品店.flかっfli/·JdiHへの歩み 、」 キ1'11¥i lり r1-. •:!on1

II ‘ド llJi:D'.1' 1 :!0 13 ' r ,J ,JI.ii 11 ~’や,i~にii’lえた付 、 白l’ r,)(11:r I :!01),) I

『小坂田i空港に消えた村1

) 'it 0)

「川村シリー

ズ」では、知名川と

州一ν

巾の任陵地に挟まれた

千肝部に存抗した小坂田

村を取りl

げた

「畑地に山えた」という衣題どおり、

坂Ill

村の川村域は大阪

同際允「港の前身である大阪第

二飛訂場の拡民工事の折にその敷地

内とな

って

久しく

小川原のように広がる川畑の小に小山の

如く集協が浮かんでいた小坂田の川坑をんfはAK

く日にすることができない

H官れ、.--ドιベ叱43L

、-eHHE

Lr.

刀la・κYU『司、J4ナJ,a珂

じて-ire-

-、コ、

AFユハJ,

i-JAべ

小八日本市凶隣地側副部

(現代の川七

地J')¥

が作成した

4

却の地形凶においてその

姿を偲ぶことができるのみである

したがって小坂同の場合、

テーマ民の前提

となる

「川村制作」は、村イゲメ引い一口を引き継がれ

た正知川上J

をお訪ねし、

所此史料の凋売をさせて

いただくことをも

って現地調作に代えることに

なった

川一戸時代の小以川村は、

麦、綿

たばこなどを

生時する民村であったふ

一わいい川:-

O一八利、本や

村域はムfの宅港の八滑走路東側に沿うような形

で細長く存’いれし

二7U人ほどの村民がH外らした

集部は同じく雫出ターミナルビルあたりに

あっ

た。幕

末期の小坂同村

で陀聞を務めた嘉六

のH

「一所持党日記」(.

11川日中所雌)には

Il

、Bノトl

dJ1

11

40

ト小川γ

の山米市のみならず、領、正服部家とのやりとり

や隣村との交渉事から

「ト人慌の乱」「天保の飢位」

「安政大地震」「川市船米航」の風間に主るまで、

尖に一川広い話題についての記述がなされている

そのよ而からは、

小村の

ι出と

はいえ、

II寺代

の奔流と決し

て無縁な存在ではなく、

むしろ積

制的に諸

情報を収集し、世情と川を叫

べて止しき

ょうとした持行

の姿が浮かび上

がってくる

小版凹村は

大政卒還の後、

|りJ:J.、

:、:、、Iu

p

-ノイノ

に神津村の大字となり、

その名も

「小阪川」と改められた

Iii{

i'll

(.

九:・

Lハ)木、神注什で大阪第

飛行場の建設が始まった

このことは、

その

後の小阪川の逗命を決定

づける山米下とな

った

J

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の機運も凸同まりをみせ

大和川河μ部に構想さ

lv二-\

4TJ

JAJ’’tp

ノ刊hWA叶河

成れ坊の補完胞設とし

て、

r-111

に第--成行場が辿ぷされることになったのであ

叫〉

飛行場は完成せず

店内なことに

川十川年

川に

完成したよ阪

第会

.飛行場はその川山…でほに川代起れの成行場

とな

っていた

山店凡以仁

い山けの川にも、

「ト八川輸送」

「・品川必化」といった時

局の航宅愉送下京

に付す

る安担は日々

tH川まり、それに呼応するかのよう

に航小んに械の大別化・山述化がhi心山山一に山一民

した

こうして生まれた新鋭機の離党府に

~,し

Jiλ

がi11

- J

]

く扶陥なこ

の飛行場は最初から対

応できなか

たのである

.、、,,ト「ドν~卜

1ノヨノf

J

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-L巾

7UMMヵ,rfυ市るけt

川l

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年より、

r町・

r1φlP

4KTベffぷ引!

「以伸凶際飛行場」附場に向け

た大風悦

な拡張て事が始まった

これにより

’・

46HNリJ.. 、.

4

L7事。/

H.

00つ川町の,川和はっ.日以ト

の約五つ一力川へ

以UK八:

ベJmの川…川主路は

a-

O(Jmに拡

扶さ

れ、

本数も

二本から

川本へと拡充されることにな

-d、、

才人品川付

パ削阿範附に人った小阪

川1

-.. いのれ以は

人卜μJ

ち山一きを怖いられることになった

中山γも

関与した交渉

の結供

!日l

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|以111 は

ソド;

l

J

、、,

E’と

1J

停トトl討をい#寸ノイト

住民は各地へ離散し、

その川畑

民孫は永述

にこの地の胤以から

山減するこレ

にな

ったのであ

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ついても原案どおり

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を八札州中J、施しました

本年度も伊丹郷町館の監視

案内業務に係わるととも

伊川郷町の村

山ι・よ化の開杉

に参州し

小訪れる市内外の

人々に

伊川

の版山んを実感して

もらい

「作汁ブランド

人仁川先い

の,岬m%を引ってま

ー:、ト,,Jハov

あわせて伊けい巾よ化

山間安説少年間川品川の.部トえ按

。〉

に努めるとともに、な什M刊問係

川体と

の迎揃怖を深め

過トよか

ら札一Aけ縦いだ伊けの文化中山政

の縦瓜と似誕に努める

ため次の事業に煎占…を明白一き扱

進する文

化財に閲する下

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史跡めぐりパスツアー

の実施

(日川

(5) (4)

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川げけ郷町館の蛇恨・主

内業務(出岡田家住セ

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文化遺産の

保護・

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”万葉講座を開催“

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得海第 40 号発行 日 平成27年 6 月 25 1=1

編集伊丹市 文 化財保 存協会

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