ñ) c lurco (1859) c c,...
TRANSCRIPT
![Page 1: ñ) C lurco (1859) C C, 16F-9Ê25E養蚕製糸業が再び栄えることはなく、近代産業へと 推移していくことになります。園部工場も例外では なく、女工さん不足、原料不足、経営難などで昭和](https://reader035.vdocuments.pub/reader035/viewer/2022071215/6045c2cef2975925bd40e5c2/html5/thumbnails/1.jpg)
1 9年に設立され
して、明治43年
那
しました。この事業を
田重次郎でした。彼は、
で、実業家として名を馳
たのは丹波町出
(1859)年生ま
り、明治22年に
井郡蚕糸同業組合長に就任し、以来25年にわたり
在職し、活躍しています。彼の丹波地方における蚕
業の推進と産繭の市場拡大への努力をたたえる報徳
碑が今も小麦山の山頂に建っています。
明治43年に創業を開始した園部工場は、その後
大正8年まで拡張
を続け、その敷地
も一方は国道九号
線から法務局園部
支局まで、もう一
方は園部小学校通
学路から元園部町
役場横の町道西町
線までと実に広大
なものでした。こ
れは、明治43年
に山陰線の京都~
綾部間が開通し、
交通環境が整備さ
れてきたことも生
郡是製糸株式会社園部工場での製糸の様子
糸産業に拍車をかけたと言えます。園部工場では最
盛期に500人もの従業員を抱えていたこともある
ようです。
明治、大正と約半世紀に渡って隆盛を極めた養蚕
製糸業でしたが、昭和に入り生糸価格の下落などが
要因で徐々に衰退していきます。さらに第2次世界
大戦を契機に製糸工場は軍需工場となり、桑苑は掘
り起こされ芋畑と姿を変えていきました。その後、
養蚕製糸業が再び栄えることはなく、近代産業へと
推移していくことになります。園部工場も例外では
なく、女工さん不足、原料不足、経営難などで昭和
1 6年9月25日にやむなく閉鎖に追い込まれます。
郡是製糸園部工場は園部町の産業・経済の中枢と
して人々の生活を潤しながら、つねに園部発展の原
動力になってきました。その後、昭和17年には日
本国際航空工業園部工場、 21年日国工業、 27年
京都パルプ工業、 28年中央パルプと変遷を重ねて
いきました。
4