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東海大学工学部 航空宇宙学科航空操縦学専攻 2015 年度卒業研究論文 航空機の歴史的考察と未来予測 2015 2 2BEO1107 玉田凌太 利根川豊教授

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東海大学工学部

航空宇宙学科航空操縦学専攻

2015 年度卒業研究論文

航空機の歴史的考察と未来予測

2015 年 2 月

2BEO1107 玉田凌太

利根川豊教授

目次

はじめに ............................................................... - 1 -

第一章 航空機の発明 ......................................... - 3 -

1.1 空への憧れと需要 ........................................ - 3 -

1.2 航空機発明の父、ライト兄弟 ................... - 7 -

1.3 需要の多様化に伴う航空機の発展 .......... - 13 -

1.4 黎明期における航空 ................................ - 16 -

第二章 現代の航空機 ....................................... - 20 -

2.1 現代の航空機 ........................................... - 20 -

2.2 現代の旅客機需要 ................................... - 23 -

2.3 航空機が現在に与えた影響 ..................... - 25 -

2.4 現在のパイロット ................................... - 28 -

第三章 パイロットの危機 ................................ - 31 -

3.1 止まらない自動化 ................................... - 31 -

3.2 変わりゆくコックピット ......................... - 33 -

3.3 現代版アクシデント ................................ - 35 -

3.4 コックピットがなくなる日 ..................... - 38 -

第四章 結論 技術と人間~未来を予測する~ . - 40 -

謝辞 .................................................................... - 43 -

参考文献 ............................................................. - 44 -

- 1 -

はじめに

1903 年 12 月 17 日 アメリカ、ノースカロライナ州キティーホーク近郊のキ

ルデビルヒルで、オハイオ州出身の自転車屋を営む、ウィルバー・ライト、オ

ーヴィル・ライトの兄弟により、この世に飛行機が生まれた。人類が文明を築

いてから久しく抱き続けていた空を飛ぶという憧れに、この日まで多くの学者

が挑み、そして多くの失敗を繰り返してきた。この日は人類が長年憧れ続けて

きた空へと、羽ばたいた日である。 航空機の発明から現在までの 110 年足らずで、航空機は目覚ましい発展を遂

げた。発明当時は命がけで臨んだ飛行も、今では小さな子供やお年寄りでも簡

単に、安全で快適な空の旅を楽しむことができるようになった。かつては何週

間もかけて横断していた大陸や海洋も、ほんの数時間で横断できるようになっ

た。パイロット 1 人がやっと浮き上がれるほどだったかつての航空機は、800名もの乗客を楽々と大空へと持ち上げている。このような目覚ましい発展を、

当時のライト兄弟は果たして予想していただろうか。 航空機が発展を遂げていく中で、パイロットという職業が生まれ、私たちは

その職業を自身のライフワークにしようとしている。しかしかつての飛行機乗

りといわれていた時代と現在のパイロットでは、その意味合いに違いがあるの

ではないか。 本論文では以上の観点から、なぜ航空機が発明されたのか、航空機がこのよ

うな急速な発展を遂げたのはなぜか、その背景には何があるのかをまず調べ、

まとめた。その上で、これから未来の航空機はどのように発展していくのか。

かつての飛行機乗りが現在のパイロットへ大きく変化したように、未来ではパ

イロットの在り方にどのような変化がもたらされ、パイロットや航空機はどの

ように変わっていくべきかを研究、考察し、4 章からなる論文にまとめた。 第一章では、航空機が発明される経緯を調査しまとめた。特に航空機発明の

父であるライト兄弟について文献等を用いて詳しく研究し、何故兄弟が航空機

を発明することが出来たのかをまとめた。また、航空機発明から第一次大戦終

結までのいわゆる航空機黎明期における航空機の特徴を調査し、その発展につ

いて研究した。 第二章では、現代における航空機を調査した。第二次大戦後期に航空機に導

入されたジェットエンジンにより航空機の性能は格段に向上したが、航空機の

高速化に伴い、様々な最先端技術が発明され、航空機に採用された。この航空

機に採用された当時の最先端技術についても第二章でまとめた。 第三章では、航空機が電子化され、コンピュータが進出してきたことによっ

- 2 -

て生じた新たな問題について研究、考察した。現代の航空機ではその制御のほ

とんどはコンピュータに頼っている。このことが黎明期におけるパイロットと

現代のパイロットの在り方を決定的に異なるものへと変化させた。 第四章では、第三章で言及した問題点に対する解決案を考察し、記述した。

現在の航空機はコンピュータに頼る部分が多く、人間のパイロットのスキル低

下が問題となっている。その原因は、コンピュータの特性にあると結論付けた。

このコンピュータの特性を人間がよく理解し、またコンピュータ自身が変化で

きるところは変化させ、双方の歩み寄りによりともに安全運航を保つことが必

要不可欠であると結論付けた。

- 3 -

第一章 航空機の発明

1.1 空への憧れと需要

航空機がこの世に生まれてまだ 110 年余りだが、人類が空を飛ぶことにあこ

がれを抱いたのは意外に歴史深い。アウルス・ゲッリウスの著書によれば、紀

元前 4 世紀には古代ギリシアの学者アルキタスが、蒸気ジェットと思われる推

進装置を用いた鳥を模した飛行体で飛行を試みたとされる記録が残っている。 3 世紀ごろには中国の諸葛孔明が平陽で司馬仲達の軍に包囲された際、紙を貼

った大型の籠、天灯を制作し、仲間に救援を要請した。これは現在の熱気球の

原理を利用したものであった。 また 1490 年ごろには、レオナルド・ダ・ヴィンチが、現在のヘリコプターの

ようなスケッチを残している。このスケッチの周りには、「太い針金で縁取られ

た半径約5mの布製のらせん型のプロペラを軸に取り付ける。軸はうすい鉄板

で作り、強くねじ曲げると、元にもどろうとする力でプロペラは回る。」という

メモがあり、これをダヴィンチは「空圧ネジ」と名付け、回転するプロペラに

よって上昇するというアイデアを初めて記した。

写真 1.1.1 レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ【1】

- 4 -

しかし、当時は材料に木材や布しか利用することができず、軽くて丈夫な機

体を制作することができなかったため、実際に飛ぶことはかなわなかった。 現在の航空機といえば、素材はさまざまであるが、金属の機体に大きな固定

翼があり、エンジンによって推力を得ることで揚力を発生させるものが一般的

である。しかし、その概念が登場するのはこの時代よりももう少し先である。

現在の航空機という概念が生まれる以前、1670 年イタリアのイエズス会士フラ

ンチェスコ・ラナ・デ・テルツィは、著書である"Prodomo ovvero saggio di alcune

invenzioni nuove premesso all'arte maestra"(草案段階にある幾つかの新発明に関す

る問題または小論)で真空飛行船の可能性を提唱した。これは世界で初めて軽飛

行機の概念を示したものである。以後、航空機といえば空気よりも軽い、気球

や飛行船などの軽飛行機の開発が中心となり開発されていった。では現在一般

的に認識されている航空機という概念はいつ生まれたのだろうか。それは 1799

年にイギリスの工学者で航空学の父と称されるジョージ・ケイリーによっても

たらされた。彼は固定翼の着想を提唱、動力飛行実現の半世紀以上前から航空

の研究を行い、空気中を運動する物体に働く抗力と、その速度および迎角を研

究、能率的な翼系を作り出し、航空機に働く 4 つの力(推力、揚力、効力、重力)

を認識するに至った。この研究により、ジョーゾ・ケイリーは 1853 年に、単葉

の有人グライダーの製作に成功し、100 メートルほど飛行に成功した。このグラ

イダーの開発に成功したことにより、これまでの軽飛行機を中心とした開発か

ら、固定翼を持った、空気よりも重い航空機を中心とした開発にシフトしてい

った。

現在の飛行機のように、推進装置や着陸装置を取り入れたものを初めて発明

したのは、イギリスの発明家ウィリアム・ヘンソンである。彼が 1840 年代に構

想した空中蒸気車は、固定翼、推進装置、降着装置、尾翼など現在の飛行機の

形に近いものであった。彼は 1842 年頃には、旅客輸送用の大型単葉機を設計し

た。これらの飛行機を建造するための資金調達を目的にイングランドで空中輸

送会社(Aerial Transit Company)を設立した。しかし、1844 年ごろから 1847 年ご

ろにかけて翼幅 20 フィートの大型模型を飛ばそうと試みたが失敗、ついにはフ

ルサイズの空中蒸気車を作るには至らなかった。この空中輸送会社はその後、

1848 年ごろに解散した。固定翼機に動力を組み込むという発想を得たのは、彼

が最初であり、また空中輸送会社を設立するなど、旅客運送を目的としていた

点も興味深い点である。大型の模型は失敗に終わったが、空中蒸気車の小型の

模型は、蒸気機関で推進し、実際に浮遊することにも成功していたことから、

彼以降の航空機の発明に影響を与えたことは間違いないであろう。

- 5 -

写真 1.1.2 ウィリアム・ヘンソンの空中輸送会社に使われた広告 ※

ウィリアム・ヘンソン以降、研究者や発明家の間では動力飛行を実現させよ

うという動きができた。その中で、フランスの技術者である、アンリ・ジファ

ールが、人類で初めての動力飛行に成功した。彼が発明したのは、蒸気機関で

動くプロペラを搭載した、葉巻型のガス気球で、1852 年 9 月 24 日にパリとト

ラップの間の 27 キロの飛行に成功した。この時の蒸気エンジンは 3 馬力であっ

た。彼が動力飛行を実現させたことにより、飛行船による旅客、貨物の運送が

一般に知られるようになった。しかし当時は、一部の裕福な人間や、技術者や

研究者が搭乗することができただけで、一般の人々が搭乗できるようになるの

はもっと後の話であった。

- 6 -

写真 1.1.3 アンリ・ジファールの葉巻型ガス気球 ※

アンリ・ジファールが人類初の動力飛行に成功し、ウィリアム・ヘンソンに

よって固定翼に動力を付けるという着想が合わさり、世界では、固定翼機やグ

ライダーなどに動力を取り付け、操縦可能にしようとする動きが生まれた。1860年代、ロシアのアレクサンドル・モジャイスキーが「飛行機械製造計画書」を

立案し、これがロシア海軍最高機密のプロジェクトとして国家予算が組まれた。

しかし、当時のロシアの技術力では軽量かつ小型の推進装置を制作するだけの

工業力はなく、計画は停滞、1880 年にロシア政府は正式にプロジェクトの失敗

を宣言した。1902 年ニュージーランドの発明家リチャード・ピアースが動力飛

行を試みるも、操縦不能に陥り失敗している。彼の飛行機は、けん引式のプロ

ペラやエルロンなどを備えており、ライト兄弟の飛行機に比べれば現代の航空

機により近い設計だったが、エンジンのパワー不足により機体を制御するのに

十分な速度を得られなかったことが原因で失敗した。 このように、ライト兄弟が人類初の動力飛行を成功させるまでには多くの学

者が試行錯誤を試みていた。飛行船や気球などが徐々に一般へと広まっていく

中で、人々は空を飛ぶことをより身近に感じ始めていた。当時の航空機開発は、

今でいう宇宙開発のように、民衆にとっても夢のある、魅力的な開発だったに

違いない。実際に 1901 年には王立航空クラブが設立されるなど、国を挙げての

航空機開発研究がおこなわれていた。研究者たちは研究費の捻出のためにスポ

ンサーを付ける必要があった。そのために各地では航空ショーが行われ、一部

の貴族階級の人々のみでなく、一般大衆にも徐々に航空機が認識されていった

のがこの時代である。

- 7 -

1.2 航空機発明の父、ライト兄弟

1869 年にアメリカ大陸横断鉄道が開通、1870 年代にはガソリンエンジンで

走る自動車が登場し、人々の移動が活発になり始めていたころ、航空機の開発

はまだまだ発展途上にあった。当時の空を飛ぶということは、気球やそれの派

生である飛行船に乗り、空を自由に飛び回るというよりは、風船につかまって

浮き上がることが常識とされていた。グライダーの研究や固定翼動力飛行の研

究もなされていたが、それもまだまだ日の目を見るには時間がかかると思われ

ていた。その時ライト兄弟も、アメリカで自転車屋を営みながら、航空機の研

究を続けていた。 兄のウィルバー・ライトはライト家の三男で、1867 年 4 月 16 日にインディ

アナ州東部の小さな村で生まれた。弟のオーヴィル・ライトはライト家の四男

で、1871 年 8 月 19 日にオハイオ州デイトンで生まれた。二人にはほかに 3 人

の兄妹がいた。長兄のルクラン(1861 年生)、次兄ローリン(1862 年生)、そして

妹のキャサリン(1874 年生)である。彼らは牧師であるミルトン・ライトの子と

して生まれた。母を結核により 1888 年に亡くしている。兄弟は生涯の大部分を

オハイオ州デイトンで過ごし、自転車屋を営みながらグライダーや動力飛行の

研究に没頭した。兄弟は二人とも生涯独身であった。 ライト兄弟が初めての飛行に成功したのは 1903 年 12 月 17 日であるが、成

功の地、キティーホークで実験を開始したのはその 3 年前の 1900 年のことであ

った。まず兄弟はそこでグライダー実験を行った。ノースカロライナ州キティ

ーホークというところは、1900 年当時非常に辺鄙な場所であり、キティーホー

クという地名を知っている人すら珍しい時代であったが、それでもウィルバー

は、気象台に問い合わせ、グライダーの実験に有利な土地を探し求め、このキ

ティーホークにたどり着いたのである。二人が制作したグライダーは飛行機と

いうよりは凧に近く、実際に両翼に結び付けられたロープを地上から引っ張る

方式でテストされた。この実験によって翼に働く揚力と抗力を計測することが

できた。ただこの実験では、兄弟が計算したよりも少ない揚力しか得られるこ

とができず、満足する結果には至らなかった。その原因は当時の兄弟は過去の

研究家たちが残した資料から多くを学んでおり、その実績に疑いを持たず、研

究家たちの資料の数値をそのままにグライダーを設計していたからである。 兄弟が初めてキティーホークでグライダー実験を行ってから一年後、1901 年

に、兄弟は再びキティーホークを訪れた。この年のグライダーは、前年の教訓

を生かし、リリエンタールのグライダーに倣ってキャンバーを大きくしていた。

主翼前方に位置する水平安定板には角度を変えるための操縦装置が備えられて

おり、ピッチのコントロールが可能になった。実験飛行を始めるとすぐに不具

- 8 -

合が起きた。機首が必要以上に激しく上下し、水平飛行が保てなかったのであ

る。水平安定板の面積を小さくして再度試みたが、この不具合は解決できなか

った。やがて兄弟がたどりついた結論は、キャンバーが大きすぎたことであっ

た。前年の十分な揚力を得られなかった反省を生かし、大きくしたはずのキャ

ンバーは、揚力を増やすことはせず、機首の不安定をもたらした。しかし、兄

弟が参考にしていた当時の航空機研究の第一人者であるオットー・リリエンタ

ールの資料にはそのことについて何の記述もなく、そこで兄弟は初めて、それ

までの研究家たちの残した資料に疑問を抱いたのである。その後兄弟は、同じ

グライダーのキャンバーを小さく修正したところ、機体は安定し、水平飛行を

行うことができた。引き続き兄弟が実験を繰り返すうち、グライダーが不思議

な挙動を見せることに気が付いた。ピッチコントロールは水平安定板で、ロー

ルコントロールはたわみ翼で制御できるはずなのに、傾いた機体を水平に戻そ

うとすると、反対方向に機首が向いてしまう、つまりアドバースヨーが発生す

るのである。この実験から、兄弟は垂直尾翼の必要性を学んだのである。 キティーホークから戻ったライト兄弟は、自分たちのやろうとしていること

の重大さに気づかされることになった。当時発表されていたそれまでの研究者

たちによる資料の通りに制作すれば飛ぶと思っていたグライダーが飛ばず、自

分たちの参考としていたものが間違いである可能性に気づいてしまったからで

ある。その時、普通の人ならば実験をあきらめていただろう。しかし、この兄

弟は実験をあきらめなかったのである。兄弟は自転車屋の傍らに風洞装置を開

発し、十分な揚力を得られる翼型を追求していった。兄弟が開発した風洞装置

は、約 40 センチ×40 センチ×150 センチくらいの木箱の両端を開けたものであ

る。ここに整流された空気を送り込み、簡単な風洞とした。この風洞実験によ

り、揚力係数や抗力係数、効率的な翼型などを追求することが可能となった。

この風洞実験により、兄弟は自身のグライダー研究、ひいては有人動力飛行成

功のカギとなるものを発見する。

式(1) L kS

式(2) D kS

これらの数式は、当時主流だった揚力と抗力の公式である。上記式(1)は揚力を

求める公式、式(2)は効力を求める公式である。L は揚力、k は圧力係数、S は翼

面積、V は速度、 は揚力係数、 は抗力係数を表している。圧力係数とは空

気の濃さを表す数値で、低空を低速で飛ぶ飛行機は値が一定である。兄弟が 1901年のグライダー実験で十分に揚力を得られなかった原因が、この圧力係数と揚

力係数の値をそのまま使用したことであった。当時、圧力係数はイギリスの技

- 9 -

術者である、ジョン・スミ―トンの提唱により、0.0054 という値が一般的であ

ったが、1901 年のグライダー実験の際、兄弟はこの値は大きすぎるとの見解を

持ち、のちの風洞実験により、この値が 0.0033 であることを割り出した。この

数値は現在でも十分に通用するものである。また、揚力係数については、リリ

エンタールのグライダーの揚力係数の値をそのまま自身のグライダーに当ては

めたため失敗した。揚力係数は翼の形により変化するものであり、それを兄弟

は風洞実験により、あらゆる翼の形の揚力係数を測定した。兄弟はこの風洞実

験で揚抗比の大きい翼型を追求していった。そして、この実験から、アスペク

ト比が大きいほど、揚抗比も大きくなることを発見した。

図 1.2.1 ライト兄弟が作成したグライダーの変遷【2】

上記図 1.2.1 は兄弟が制作したグライダーの変遷を表している。兄弟が風洞実

験を行った 1901 年の結果から、1902 年のグライダーではその翼の形が大きく

変わっていることが見て取れる。翼型が大きく飛躍したことにより、1902 年に

キティーホークで行われた実験では、大きな成果を得ることができた。この年

の実験では、グライダーは十分な揚力を発揮し、兄弟の計算が正しいことを証

明した。しかし、垂直尾翼を追加したにもかかわらず、空中でたわみ翼と昇降

舵のみを用いて姿勢を制御することは大変な困難を極めた。そこで、この垂直

尾翼を左右に振ることで、姿勢制御を助けられないかと兄弟は考案した。これ

がラダーの登場である。すぐに兄弟はグライダーを改良し、再び滑空実験を行

った。結果は良好、グライダーはパイロットの操作により、3 軸による完全な機

体コントロールを実現、多少の横風を受けても姿勢を立て直し、旋回もこなし

た。10 月 23 日、兄ウィルバーの操縦により、滞空時間 26 秒、距離にして 189.7メートルの滑空を記録した。この時点で、兄弟は世界の頂点に立った。 そしてついに 1903 年 12 月 17 日、兄弟は世界初の友人動力飛行に成功した。

- 10 -

表 1.2.2 ライトフライヤー号緒元表

上図は兄弟が作成し、飛行に成功したフライヤー号の緒元表である。機体は

エンジン以外のほとんどが木と布で、ワイヤーを張り巡らせることにより強度

を補っていた。主翼、昇降舵、そして方向舵はそれぞれ 2 枚ずつあり、ワイヤ

ーでコントロールしていた。操縦者は機体中央にうつぶせに寝そべり、右手で

昇降舵を、クレイドルと呼ばれる装置に腰を乗せてたわみ翼とラダーを操作し

た。寝そべったパイロットの右側には、水冷直列 4 気筒 12 馬力のエンジンが搭

載され、その上部にはラジエーター、及び 1.5 リットルのガソリンタンクが装備

されていた。このエンジンから、左右 2 つのプロペラへチェーンによって動力

が伝達された。このプロペラは木製で、左右逆に回転した。回転直径は約 2 メ

ートルである。主翼は木製のリブを綿モスという布で覆い、スプルース(トウヒ

材)の支柱によって支えた。

写真 1.2.3 フライヤー号のコックピットにあたる部分の写真【3】

ライトフライヤー号 緒元全長 6.4m全幅 12.3m全高 2.7m翼面積 47.4㎡空虚重量 274lb最大離陸重量 745lb推力 水冷直列4気筒 ガソリンエンジン 12馬力最高高度 30ft最高速度 26kt

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1903 年 12 月 17 日、この日キティーホークは絶好の北風が吹いており、試験

飛行には絶好の条件だった。兄弟は、テストパイロットをコイントスにより決

定していた。この日はオーヴィルの番であった。エンジンを始動し、最大出力

を出すために着火のタイミングを整え、ウィルバーの介添えにより滑走を開始、

やがて機体はウィルバーの手を離れ空中に浮いた。オーヴィルは小刻みに昇降

舵を動かし、暴れる機体をなんとかなだめようとしたが、12 秒で着地した。距

離は 36.5 メートルであった。距離と時間はわずかだが、これが人類初の動力飛

行の成功であった。その後二人は交互に操縦を交代しながら試験飛行を繰り返

し、計 4 回の飛行に成功した。

表 1.2.4 ライト兄弟による動力飛行記録

ライト兄弟は動力飛行実現のため、飛行機に搭載するエンジンをも自分たち

で設計し、製作した。兄弟が製作したのは先に述べたように 12 馬力のガソリン

エンジンであった。1903 年には、すでに自動車産業は芽生えており、1870 年

代には、メルセデセス・ベンツの基盤を築いた、カール・ベンツが 2 ストロー

クエンジンを開発した。またアメリカでは、ライト兄弟が初めてのフライトを

成功させる半年前に、フォード・モーターが設立され、それまでの主流であっ

た蒸気機関に比べ、ガソリンエンジンの性能の優位性が一般的になっていた。

そのため兄弟がガソリンエンジンを選択したことはごく自然なことであったと

いえる。兄弟がエンジンを自主製作した背景には、当時、自動車会社に飛行機

に搭載する軽量小型のエンジンを製作するよう問い合わせても、それを受注し

てくれる自動車会社がなかったことがあった。 兄弟が製作したエンジンは、重量 73 キロと軽量であった。スロットルはなく、

自然対流方式の水冷システムを採用するなど、軽量化しつつも確実な推力をえ

られるように工夫がなされていた。

1回目 12秒 36.5m2回目 12秒 53.3m3回目 15秒 60.9m4回目 59秒 259.6m

ライト兄弟による動力飛行

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写真 1.2.5 フライヤー号に搭載されたエンジン【4】

フライヤー号に搭載されたエンジンはごく単純な構造をしていた。キャブレタ

ーは採用せず、自然揮発方式を採用し、少しでも使用する部品を削減し、軽量

化をはかっていたことがわかる。

写真 1.2.6 宙に浮いたフライヤー号とそれを見守るウィルバー【5】

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1.3 需要の多様化に伴う航空機の発展

現在までに様々な発明が偉大な研究者たちによってなされ、発展を遂げてき

た。航空機もその例外でなく、特に航空機は急速な発展を遂げた発明の一つで

ある。その一つの要因として、航空機が発明されてからすぐに、第一次世界大

戦が勃発したことがある。 第一次世界大戦は、1914 年から 1918 年にかけて起きた、人類史上初の世界

大戦である。1914 年 6 月、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者、フラン

ツ・フェルナンド大公夫妻が銃撃される、サラエボ事件を契機に、戦闘が開始

した。ヨーロッパが主な戦場であったが、当時の帝国主義により、ヨーロッパ

各国は世界中に植民地を持っていたことから、戦火はその植民地にも広まり、

世界中の国々が参戦することとなった。 当初航空機は、戦場を上空から観測する偵察機としての役割を担っていた。

それまでの偵察には気球が用いられ、航空機を運用するには安全性などの面で

不確実要素が多かったが、気球に比べてはるかに移動速度が速く、広範囲の偵

察を行える航空機は、その不確実要素を補って余りある戦果を挙げ、その有用

性はすぐに知れ渡ることとなった。当時の偵察機パイロットは、敵の偵察機と

遭遇しても、同じパイロット同士仲間だという意識があり、互いに手を振った

り、ハンカチを振ったりしてあいさつを交わしていたが、それはすぐに銃へと

置き換わった。敵の偵察を妨害するように敵の航空機に銃を向け、やがてその

銃は機関銃となり、これが戦闘機の誕生へとつながったのである。また、敵地

を偵察したついでに手榴弾や爆弾を落としてくることも始められ、さらに、本

格的な航空爆弾や防御用の回転式機銃などを搭載するようになり、これが爆撃

機の誕生となった。第一次世界大戦初期は偵察機として用いられていた航空機

が、次第にその有用性を認識され、対戦後期には激しい空中戦が行われるよう

になっていた。 対戦で初めて戦闘機を運用したのが、フランス空軍であった。フランス空軍

の第23飛空隊に所属していた飛行士である、ローラン・ギャロスの発案により、

固定機関銃を彼の機体であるモラーヌ・ソルニエ L に取り付けた。彼は 1915年 3 月にこの機体で戦場に参加し、翌 4 月には、敵国であるドイツの航空機を 3機撃墜する戦果を挙げ、戦闘機の有用性を示した。しかし、彼は 1915 年 4 月

18 日、ドイツの前線後方に不時着すると、機体を燃やしてなくしてしまう前に

捕虜となってしまい、この戦闘機の技術がドイツにも広まってしまった。

- 14 -

写真 1.3.1 不時着後、ドイツマークを塗られたモラーヌ・ソルニエ L ※

その後、ドイツでは回収したモラーヌ・ソルニエの技術をもとに、機銃をプ

ロペラ回転面内から射撃できる機銃同調装置を搭載した、フォッカーE.III を開

発、運用した。固定機関銃が航空機に搭載され、その命中精度や、運用の確実

性が認知されていくに伴い、航空機は徐々に戦闘の主役へと変わっていき、空

中戦といわれるものが始まった。 第一次世界大戦では、航空機の戦時における有用性が示され、戦闘機が誕生

し、その需要が生まれた。戦闘機は、高い運動性能が求められた。高い運動性

能があれば、敵戦闘機にも有利に立ち回れることは明白である。そこで、各国

はこぞって戦闘機開発を始めた。エンジンをより強力なものへ改良し、機体構

造も軽量で強固なものへ改良していった。戦闘機に多く見られるのが単発エン

ジンを搭載したものである。これは、整備性をとったものと考えられる。また、

戦闘機は有事の際にすぐさま飛び立つことが必要とされるため、単発であれば

双発やそれ以上のエンジンを持つ航空機に比べて、離陸準備にかかる時間も短

縮できるという利点がある。以上のことから、戦争という需要が、戦闘機を生

み出し、また戦闘機の改良に大きな役割を担っていたのは明白である。

- 15 -

第一次世界大戦が終結すると、戦時中とは違う需要が生まれた。それが、大

量輸送、遠距離輸送の需要である。第一次世界大戦の終結に伴い、各国の外交

官は終戦処理のために、世界中へ移動しなければならなくなった。さらに彼ら

には迅速な対応が求められ、それまでのように陸路や海路での旅では間に合わ

なかった。陸路海路に代わって必要とされたのが、空路である。当時の航空機

ではまだ長距離の連続飛行には危険が伴ったが、汽車や船に比べれば迅速に移

動することができた。また、大戦終結に伴う大幅な軍縮により、軍務から退い

た飛行士や、民間に販売された軍用機などがあったことがきっかけとなり、ヨ

ーロッパでは、旅客や貨物輸送が盛んになった。 1919 年 2 月 5 日には、ベルリンとワイマールを結ぶ世界初の定期航空便が誕

生した。また、その 3 日後にはパリ、ロンドン間で世界初の国際線が登場した。

この時に使用されていた機材が、戦時中に爆撃機として活躍したファルマン・

F.60・ゴリアトである。この機体は、戦時中により多くの爆薬を搭載するため

に胴体部分が箱型となっており、それを改良し旅客や貨物を搭載できるように

した。

写真 1.3.2 旅客運送用に改良されたファルマン・F60・ゴリアト【6】

第一次大戦末期に登場した爆撃機は、大戦終結により一時その需要は薄くな

りかけたが、終戦に伴う処理により、ヨーロッパのみならず世界中で人やモノ

の動きが国境や大陸を超える必要が出てきたことにより、需要が復活、発展し

- 16 -

ていくこととなった。爆撃機や旅客機に求められることは、戦闘機のように高

い運動性能ではなく、積載量と航続距離である。一度にたくさんの爆薬や貨物、

旅客を遠くまで運ぶことができれば有利であるということは言うまでもない。

爆撃機に多く見られる発展の特徴が、高出力のエンジンを多数搭載し、機体を

大きくしていくことである。そうすることで、多くのものを遠くまで、一度に

運ぶことを実現させようとしていたのである。

1.4 黎明期における航空

世界で初めて飛行機を操縦し、成功させたのは言うまでもなくライト兄弟で

ある。彼らは飛行機を発明した優れた研究者であると同時に、優れた技量を持

つ操縦者でもあった。また、弟のオーヴィルは世界で最初に飛行機事故を起こ

した人物でもある。その事故は 1908 年 9 月、バージニア州アーリントン群のフ

ォート・マイヤー基地で、デモフライト中に墜落したというものだった。この

事故で、フライヤー号に同乗していたトーマス・セルフリッジ中尉が死亡し、

彼が世界で最初の飛行機事故の犠牲者となった。先述したようにフライヤー号

は非常に繊細な操縦系統を持っており、操縦者の技量がそのまま飛行に影響す

る特性を持っていた。そういった意味で、飛行機が発明された当初のパイロッ

トには、技量が求められていたと考える。加えて飛行機が発明されてからすぐ

に第一次世界大戦が勃発し、飛行機が主に戦争に用いられていたこともパイロ

ットに技量を求めることの要因であったと考える。 飛行機が発明された当時、飛行機に乗るということは、冒険的なことであり、

危険を伴うことが当たり前とされていた。というのも、地上では蒸気機関車や

自動車、水上では蒸気船など、大きな鉄の塊が動き回る中、当時の飛行機は木

製のフレームに布を張り付けるという非常に原始的な構造をしていたからであ

る。パイロットには、現在の私たちが宇宙飛行士に向けるような憧れのまなざ

しが当時の人々から向けられていた。そのため世界中の各地では、現地の航空

クラブによるデモフライトが数多く行われ、人々の注目を集めていた。 第一次世界大戦により多くの技術力を注ぎ込まれた航空機は、大戦が終結す

るころにはその信頼性や性能を大きく飛躍させた。木製だった機体には金属が

つかわれるようになり、機体の大型化も進んだ。大戦初期の飛行機は、せいぜ

い 70 ノット前後の速度を出すのが精いっぱいであったのに対し、大戦末期から

大戦終結後には、120 ノットを優に超す機体も登場した。飛行機の量産体制も整

い、多くの飛行機が生産された。多くの飛行機が生産されるということは、同

- 17 -

時にそれだけパイロットの数も増えていったのである。そして大戦終結後には、

それらの飛行機を使った本格的な輸送が始まっていったのである。最初は上流

階級の旅行や郵便輸送、外交官や政府関係者の終戦処理のための移動手段とし

て使われていた。その後、機体の量産と大型化が進むことで、それまでは、一

部の大金持ちしか乗ることのできなかった飛行機での旅行が、一般の富裕層に

も広がるようになった。 大戦終結後の 1919 年には、現存する最古の航空会社である KLM オランダ航

空が設立された。この KLM オランダ航空は、1919 年 10 月 7 日にアルベルト・

プレスマンが、オランダ政府や、ウィルヘルミナ女王の援助を得て設立した。

当時航空会社の数は現在に比べれば圧倒的に少なく、競争も激しいものではな

かった。当時の主な路線網は、ヨーロッパ諸国とその植民地を結ぶ路線が多く、

旅客運送が主な目的ではなく、貨物や郵便の輸送、政府関係者の移動手段とし

ての側面が大きかった。また大洋を渡る路線や長距離の路線では、有事の際で

も着水することができる、飛行艇が多かった。機体の骨組みや外板のすべてを

アルミニウム合金で製作された全金属製の機体も開発されたが、従来の布張り

の機体を持つ飛行機も多く残っていた。

- 18 -

表 1.4.1 主な航空会社年表

上のグラフは主な航空会社の設立年と倒産し運航停止した年をまとめたグラ

フである。グラフからわかるように、第一次大戦が終結した後、1920 年代に多

くの航空会社が設立されていることがわかる。これは大戦終結に伴う終戦処理

や、各国間での郵便や貨物、人の輸送の需要が拡大したことと、大戦中に性能

や信頼性、確実性を大きく向上させた飛行機がその需要を満たすことができ、

飛行機自体も戦争の終わりによって民間に流用することができたという背景が

あると考える。 第二次世界大戦では、航空機は戦闘の主力となった。各国では制空権を巡っ

た争いが繰り広げられ、制空権を獲得した国が、戦いを有利に進めるとされて

いる。そのことが各国での航空機開発にさらに拍車をかけることとなった。1941年に日本が真珠湾攻撃を行ったことによって始まった太平洋戦争でも、日本軍

は 6 隻の航空母艦から出撃した雷撃機、爆撃機、護衛戦闘機による活躍で、ア

メリカの戦艦 2 隻が沈没、4 隻が大破するという戦果を挙げ、海上での航空有利

1919

1920

1921

1926

1926

1926

1926

1927

1929

1930

1933

1934

1941

1949

1951

1952

1931

1967

1985

1962

1988

1985

2010

1991

2008

1991

2008

2010

2002

1910 1930 1950 1970 1990 2010

KLMオランダ航空

カンタス・オーストラリア航空

フィン・エアー

ルフトハンザドイツ航空

ユナイテッド航空

イースタン航空

ノースウエスト航空

パンアメリカン航空

デルタ航空

アメリカン航空

エールフランス航空

コンチネンタル航空

フィリピン航空

ガルーダ・インドネシア航空

日本航空

全日本空輸

スイス航空

サウスウエスト航空

エミレーツ航空

大韓航空

アシアナ航空

ライアンエアー

- 19 -

が示された。その後アメリカは大きな生産力により多数の航空機を投入、太平

洋を制し、日本の海上戦力を壊滅させた。 第二次大戦終結間際に実用化されたジェットエンジンは、瞬く間に軍用機に

採用され、航空機は音速を超える飛行が可能となった。航空機が音速を超える

ようになり、パイロットにはより素早い判断能力に加え、強靭な肉体も必須の

ものとなった。また、航空機の大型化と高速化が進むことで、人力のみで航空

機を操作することが不可能となり、油圧アクチュエータを介して機体を操縦す

る方式が一般的となった。

- 20 -

第二章 現代の航空機

2.1 現代の航空機

航空機は、より高く、より速く、より遠くへと開発を進められてきたが、1960年代には飛行速度、高度、航続距離ともに頭打ちとなった。ジェット戦闘機の

速度も、熱の問題などからマッハ 2 程度が相場となり、旅客機も高度 30000 フ

ィート付近が一番効率的な運用ができる高度であるとされた。航続距離も、地

球の裏側へ到達できるほどの航続性能を持つようになった。軍事の分野では、

冷戦の終結により、大国間での全面戦争の可能性が少なくなったため、敵国上

空まで飛行し、爆弾やミサイルを投下する大型爆撃機の役目は終わり、新たに

開発されることはなくなった。世界的に軍縮の動きが広がり、各国が保有する

軍用機の数も減少傾向にある。軍事分野での新たな課題は、敵に見つからない

ようにするためのステルス性の向上と、軍人を危険な戦地に赴かせることなく

戦果を挙げることのできる、無人偵察機や無人戦闘機の開発となっていった。 旅客機の分野では、長距離を飛行する旅客機では更なる大型化とワイドボデ

ィー化がすすめられた。また、比較的短距離の移動にも航空機が多く使われる

ようになり、コミューター機と呼ばれるジャンルの航空機が登場し、多数生産

されるようになった。1970 年にアメリカで民間航空会社の乗り入れ規制が緩和

されるなどの影響により、航空会社間の競争は一層激しくなり、かつて名門と

呼ばれた航空会社が倒産や合併を盛んにおこなうようになった。 従来はアルミニウム合金が主流であった構造材料も、繊維強化プラスチック

などの複合材料がつかわれるようになった。この複合材料は、出現当初はあま

り強度を要求されない、それほど安全性に深刻な影響を与えない部分に使われ

機体の軽量化に使われていたが、信頼性が確保されるにつれて胴体や主翼など

の重要な構造部分にも適用されるようになり、機体の大幅な軽量化を実現させ

ている。 操縦系統でも大きな進歩があった。従来は、操縦桿‐ケーブル‐油圧アクチ

ュエータ‐動翼と結ばれていた操縦系統が、操縦桿‐コンピュータ及び電線‐

油圧アクチュエータ‐動翼と結ばれる、フライ・バイ・ワイヤ方式が確立され

た。結果、機内の隅々に張り巡らされていたケーブルや、高圧作動油配管の一

部が軽量かつシンプルな電線に置き換えられ、機体の軽量化、整備性などが向

上された。また、操縦系統にコンピュータを組み込むことが可能となったこと

で、コンピュータによる機体の制御が可能となり、人の操縦では従来飛行不可

能な不安定な航空機も、飛行可能となった。

- 21 -

航空機開発が進むにつれ、様々な航空機メーカーが登場し、多くの設計思想

も生まれた。ボーイング社では、人間を信頼するが、間違った場合はそれを人

間に伝えるという設計思想を持ち、航空機を開発している。ボーイングの考え

では、自動操縦とは本来簡易な操縦操作を自動化するために作られた装置であ

り、その状態から人が何か操作をするということは、人が操作しなければなら

ない状況が発生したと解釈し、自動操縦システムは即座に人に操縦を明け渡す

ようにできている。また、人の操作によって危険な状態に近づいたり陥ったり

した場合には、警告音や操縦桿を振動させるなどによって人に危険を知らせる

機能を備えている。つまりボーイング社では、最後には人が航空機を操縦する

という、人間重視型の設計思想を持っている。

写真 2.1.1 ボーイング 787 型機コックピット【7】

- 22 -

それに対し、対極の立場をとる航空機メーカーが、エアバス社である。エア

バス社の設計思想は、機械を信頼し、人間を信頼しないというものである。人

は間違った操作をするものであり、それを補うために機械の操作を優先させる

構造になっており、A320 以前の航空機では特定の操作をしなければ自動操縦を

解除できない仕様となっていた。操縦席の計器類やスイッチ、ボタンの配置や

操作方法に至るまで人間は間違うという思想の元設計されている。特に、パイ

ロットが機体を失速状態に陥るような操作を行った場合、コンピュータはそれ

を危険操作と認識して、パイロットの操作自体を無視することもあるほど、徹

底した機械重視型の設計思想をとっている。

写真 2.1.2 エアバス A380 型機コックピット【8】

ボーイング社製の飛行機では操縦席の中央に鎮座する操縦桿が、エアバス社製

の飛行機では操縦席の横に取り付けられていることが、2 社の設計思想を明白に

体現しているといえる。

- 23 -

2.2 現代の旅客機需要

まずそもそも、旅客機が登場したのは、第一次大戦が終結した後の 1919 年の

ヨーロッパであった。その当時の飛行機を使用した空の旅はとても優雅とは言

えず、その多くは戦時中使用された飛行機をそのまま流用する形で運用されて

いたため、キャビンはむき出し、乗客はヘルメットやゴーグルなどを着用し、

過酷な旅をしなければならなかった。一部の大富豪は優雅で豪華な空の旅を実

現できる、飛行船を使うのが主流であった。航空機が長距離輸送における有用

性を広く世間に広めたのが、1927 年にリンドバーグによる、ニューヨーク・パ

リ間無着陸飛行である。この飛行の成功により、アメリカでは旅客機が一気に

広まり、1930 年には世界の航空旅客輸送量の約半分が、アメリカ国内のものと

なった。しかし、当時の飛行場は未整備のものが多く、大洋を渡るような長距

離の飛行をする際の重量では、滑走路の長さが足りなかったため、そのような

長距離輸送には、飛行艇が使用された。飛行艇は水面を滑走路として使用する

ため、実質滑走路の長さの制約がない。それに加えて、有事の際には着水し、

救援を待つことができるという点で、当時まだまだ安全性に課題のあった飛行

機よりも飛行艇を使うことが好まれた。 飛行機に乗って旅をすることが広く一般に広まったのは、第二次大戦終結後

の 1950 年代である。第二次大戦の主力として活躍した飛行機のために、世界各

地で空港の整備がなされたことで、大型機の離着陸が可能な空港が増えたこと

に加え、第二次大戦中に開発、実用化されたジェットエンジンの採用により、

より大量の乗客を一度に運ぶことが可能となったことが、乗客一人当たりの運

賃の低下につながり、飛行機で旅をすることが大衆化された。それまでは限ら

れた定員数であり、運賃も非常に高価であったため、座席に等級はなく、すべ

てが現在のファーストクラス以上のサービスを受けていた。食事の際には、す

べての乗客の食事がその場で温められ、テーブルクロスが敷かれたテーブルで

銀の食器を使った優雅な食事風景が機内では行われていた。それが大衆化され

たことにより、座席に等級が生まれた。安価に飛行機に登場することのできる

エコノミークラスと、最上級のサービスを受けられるファーストクラスが生ま

れ、同じ機内でも座席の差別化が図られるようになった。

- 24 -

グラフ 2.2.1 旅客機定員数の推移

上記グラフからもわかるように、旅客機の定員数は右肩上がりである。特に、

1960 年代を皮切りに、旅客機の定員数は格段に上昇している。このことが、運

賃の低下につながり、空の旅が大衆化された要因である。 現在の旅客機には、客室内に通路が 2 本あり、座席列が 7~10 列並ぶワイド

ボディー型と、客室内に通路が 1 本あり、座席列数が 6 列以下のナローボディ

ー型がある。ワイドボディー型は主に主要幹線や長距離国際線など、多くの旅

客需要が見込まれる路線に使用され、ナローボディー型は近距離国際線、国内

線など、飛行距離が短い路線に使用される。 現在の航空機はその安全性も認められ、身近なものとなっている。従来の飛

行機での旅は、安全性を第一に求められていたが、その安全性がある程度認め

られた今、乗客たちは何を求めるのか。それは、快適性である。飛行機がはる

か上空を飛行する際、キャビンの中は与圧され、身体の安全を守っている。し

かし、地上に比べれば空気圧は確実に低く、それを不快に感じる乗客もいる。

また、飛行機が上昇降下する際に、機内の空気圧を一定に保つことは難しく、

目や耳の奥に痛みを感じる乗客もいる。機内の空気圧を地上に近づけようとす

れば、それだけ外との空気圧に差が生じる。この差が大きくなればなるほど、

機体にかかるストレスは大きくなり、構造的不具合が生じ、最悪の場合空中分

ファルマンF60ゴリア

ト, 12

ユンカースF13, 4

ハンドレページHP42, 38

ユンカースJU52, 17

マーチンM130, 30

ダグラスDC3, 21

ボーイング307, 37

ロッキード049, 80

ダグラスDC6, 100

ボーイング377, 60

デハビランド・コメッ

ト, 36

ボーイング707, 200

ダグラスDC8, 200

フォッカーフレンドシップ; 56

YS‐11, 64ボーイング727, 189

ボーイング747, 594

ダグラスDC10, 380ロッキードL1011, 326

エアバスA300, 300

エアバスA320, 220

エアバスA380, 854

0

100

200

300

400

500

600

700

800

900

1910 1930 1950 1970 1990 2010

定員数

初飛行(年)

定員数の推移

- 25 -

解に至る。それを防ぐために、確かな強度を持つ素材を機体に使いたいが、強

度を追求すれば機体は重くなり、その性能は失われてしまうというジレンマの

中で、現在の航空機開発は進められてきた。 航空機が現在のような円形の滑らかな胴体になったのは、この与圧システム

によるところが大きい。旅客機黎明期における航空機は、ファルマン F60 ゴリ

アトのような箱型の胴体も存在していた。しかし、エンジン性能の向上により、

より高高度を飛行するようになると、機内を与圧する必要性が出てきた。その

与圧により、機体には今まで以上のストレスがかかり、空中分解する事故が発

生するようになった。そこで、胴体を円形にすることで、圧力の集中する部分

を分散し、機体へかかる圧力も分散するという試みが行われた。その機体構造

は、現在の旅客機のすべてに用いられており、これから先も変わることはない

だろう。 また、現在の航空機は環境への配慮も求められている。現在の旅客機として

主流となっているジェット旅客機は、高高度を高速で飛行し、大量の燃料を消

費するため、環境破壊の要因の一つとして考えられている。また空港周辺での

騒音問題など、人や環境との共存が現在の航空機の大きなメインテーマである。

しかし、大量の燃料を消費するイメージのある現在のジェット旅客機だが、大

量輸送が可能となり、また燃費向上もされてきたため、1930 年代のプロペラ 機に比べると、飛行機を使用することによる一人あたりの二酸化炭素排出量は

現在の航空機のほうが少ないということはあまり知られてはいない。 現在の航空機に求められるものは、過去のものと比べて多様化してきている。

乗客や貨物を迅速に目的地に運ぶだけでは顧客はもはや満足することはできな

くなった。現在の航空機は、より良い機内環境を整え、安価な旅を実現する、

人にやさしい航空機が、また、燃費向上や騒音防止など、環境にも優しい航空

機が求められている。

2.3 航空機が現在に与えた影響

航空機が現在に与えた影響は計り知れない。古代の人類は徒歩による移動が

主であった。しかし、人間の歩くスピードはせいぜい時速 4 キロ程度、一日か

けてもせいぜい 30~40 キロを移動することが限度であった。その後、紀元前

3500 年頃には車輪が発明され、馬車や人力車による移動が可能となり、徒歩に

比べれば人類の行動範囲は広がった。人類は古代より船による移動を行ってい

たが、船旅には危険が多く、多数の犠牲が払われた。蒸気機関の発明により、

この世に蒸気機関車が発明されると、人や物の大量輸送が可能となり、世界は

- 26 -

ますます小さくなった。しかし、これらの交通機関は、長距離の移動には大変

な労力と時間、費用がかかった。そこに登場したのが航空機である。航空機は、

離着陸できるような広い場所があれば、鉄道のように線路を敷く必要もなけれ

ば、船では到達することのできない内陸の奥地など、地形の制限を受けること

なく、地球上のどこへでも大量の物や人を運ぶことができるようになった。し

かも、その他の交通機関には到底及ばないほどのスピードを併せ持ち、人や物

の移動速度を格段に早めた。半年以上の歳月をかけて日本へ来航したマシュ

ー・ペリー提督も、もしあの時代に航空機があれば半日程度の優雅な旅で日本

へと悠々と来訪していたことだろう。航空機が現代に与えた影響は、そのスピ

ードの速さと、地形に制限されない特徴から、世界各地へととてつもないスピ

ードで人や物を動かし、世界の規模を小さくしたことである。 航空機が世界に与えた影響は、交通に限ったことではない。航空機は事故を

起こせば、その悲惨な結果から世間に与える影響は大きい。したがって航空機

の製造には、様々な最先端技術を用いて行っている。航空機の発展は、様々な

技術の発展であると言い換えることができる。 航空機の窓というものは、航空機の安全性を担う点で、重要な役割を担って

いるだろう。窓の役割といえば、パイロットの視界を確保し、安全な運航を助

けることである。またキャビンに窓を取り付けることで、キャビンという閉鎖

的な空間を少しでも開放的なものとし、乗客のストレスを軽減している。現在

この航空機の窓には、アクリル樹脂という素材が使われている。アクリル樹脂

は非常に透明性の高い合成樹脂で、加工が容易であること、衝撃耐性があるこ

とから、その用途は多岐にわたる。また、無機ガラスでは困難な厚さや形状の

有機ガラスが誕生し、これは水族館の大型水槽に使われる。

- 27 -

写真 2.3.1 沖縄美ら海水族館の大型水槽展示【9】

写真は沖縄美ら海水族館にある巨大水槽展示である。この水槽に使われる素

材がアクリルガラスである。この水槽は容量 7500 ㎥で深さ 10 メートル、幅 35メートル、奥行きが 27 メートルもある巨大水槽だ。これだけの容量の水に耐え

うる強度を持ちながら、その透明度の高さから見る者の視界を妨げず、展示さ

れている魚たちをより鮮明に観察することができる。この水槽に使われている

素材と同じものが航空機の窓に使用されている。航空機の技術が応用されてい

た。 現在、様々な分野に応用されている、モノコック構造は、もともと航空機に

始まった。そもそも、モノコックとは、ギリシア語で“一つの…”を意味する

接頭語の”mono”と、フランス語で“貝殻”を意味する”coque”を組み合わせた合

成語である。モノコック構造とは、機体のフレームの代わりに、外板に必要最

小限の加工を施して強度剛性を持たせる設計のことである。この利点として、

内部構造を広くとることができ、またフレームを使用しないことで機体の軽量

化が図れるという点がある。現在の航空機では一切のフレームを使わないこと

は、翼の付け根などの応力が多くかかる部位には難しく、縦通材などをしよう

する、セミモノコック構造が主流であり、このセミモノコック構造の他分野へ

の応用は多岐にわたる。 フェラーリのような高級スポーツカーには、このモノコックシャーシが使用

されている。ドライバーの安全を守るシャーシは、車の中でも非常に重要な部

分である。フェラーリの代表的な車種である、ラ・フェラーリにはカーボンモ

ノコックシャーシが採用されており、フェラーリエンジンの大きなトルクにも

車体が耐えうる構造になっている。また、高速でコーナーに侵入した際にも、

- 28 -

カーボンモノコックシャーシによる高い合成により、地面に張り付くような非

常に高い旋回性能を実現させている。

写真 2.3.2 ラ・フェラーリ【10】

航空機の技術は、多くの分野に応用され、特にその安全性や強度の強さから、

工業部品や、自動車部品、建築建材に至るまで多岐にわたる。航空機の発展に

よって航空機が獲得した信頼は、他の分野でも重宝され、その技術はなくては

ならないものとなった。最先端の技術を惜しみなく注ぎ込まれた航空機には、

確かな安全が求められるが、それは航空機に限ったことではない。安全が求め

られるところには、航空機開発で培った技術が生かされている。航空機が現代

に与えた影響は大きい。交通手段の進歩による世界の規模の縮小だけでなく、

他分野での航空機技術の応用によって、多くのものは安全性を高めることに成

功した。航空機の発展していくことは、世界の技術もともに発展していくこと

と同義であるといえる。

2.4 現在のパイロット

航空機発明当初の旅客機パイロットと現在の旅客機パイロットでは、航空機

を操縦するという根本的な業務内容に変わりはない。しかし、当時のパイロッ

トと現在のパイロットでは、その仕事の内容は大きく変化を遂げている。

- 29 -

発明当時のパイロットは、航空機を飛ばすということが最大の業務内容であ

った。というのも、当時の航空機はまだまだ安全性に欠ける点が多く、運航す

る際の多くをパイロットの腕に依存していた。そのため当時のパイロットは職

人的な気質が強く、お互いに技を高めあったり、競い合ったりすることが多か

った。また、現在のように細かな法整備も、当時はまだまだ確立されておらず、

パイロットには航空機を運航する際にはある程度の自由があり、個性があった。 それに対して現在のパイロットは、当時のパイロットに比べて、仕事内容は

複雑になった。現在の旅客機には、乗客乗員合わせて 100 人程度、最大で 800人を超えることもある。世界では、様々な航空会社が毎日航空機を飛ばしてお

り、その数は 10 万フライトを超える。航空会社のフライトだけに絞ってもこれ

だけの膨大な数の航空機が、それほど膨大な数の人々が、世界中で今も飛行し

ているのである。そのため、パイロットには正確な時間管理が求められ、かつ

てのようなある程度の自由はなくなった。パイロットは離陸する前にフライト

プランを提出し、出発時刻と到着時刻を報告する。空港に待機する地上職員と

連携を図り、乗客をスムーズに機内へと案内する。また、貨物の搭載状況を把

握し、定刻通り離陸できるかを確認する。これらの多くの業務を、離陸するま

での限られたわずかな時間でこなす。少しでも定刻を遅れようものならば、乗

客からは不満の声が上がり、航空会社の信頼も低下する。そのプレッシャーの

中、現在のパイロットは常に時間との闘いを行っているのである。

写真 3.4.1 ある日の世界での航空機運用状況【11】

航空機は、年を経るごとに高性能化し、そのシステムも複雑化している。最

新のコンピュータ技術がパイロットの負担を軽減するかに思えたが、一部では

むしろその逆の効果を与えている。エアバス社製 A300 型機が 1994 年に名古屋

空港で起こした事故も、機体の操縦システムと操縦士がうまく連携をとれなか

- 30 -

ったことが原因となっている。 航空機事故はその犠牲者の多さから、世論に与える影響は大きい。一つの事

故がきっかけで、一つの航空会社が運航停止、倒産に追い込まれるケースも珍

しくない。そのため、パイロットには多くの精神的負担がのしかかり、心を病

んでしまうパイロットも少なくはない。2015 年 3 月に起きたジャーマンウィン

グス 9525 便墜落事故も、精神疾患を患った副操縦士による意図的な墜落事故と

推定されている。 現在のパイロットは、時間に追われ、多くの人命を預かるというストレスに

さらされ、瞬く間に進化していく最新システムに順応し、安全運航を行わなけ

ればならないプレッシャーの下、世界中で一日数十万という数のフライトを支

えているのである。

- 31 -

第三章 パイロットの危機

3.1 止まらない自動化

航空機が発明されて間もないころは、熟練したパイロットが機体をコントロ

ールして初めて、安定した飛行を実現できた。当時の航空機はたった一つの操

作ミスがそのまま墜落事故へつながるような不安定なものであった。この航空

機を長時間、長距離の飛行をさせるには、操縦者にかかる負担はあまりにも大

きく、これを打開することが求められた。 その中で、飛行中の機体姿勢を安定させるために、ジャイロ装置を使うこと

が考えられるようになった。オートパイロットの誕生である。当時のオートパ

イロットは、機体姿勢にずれが生じたとき、ジャイロ装置によりシステムがず

れを検知し、昇降舵、方向舵、補助翼などを操作し、ずれを修正するという、

インナーループコントロールを行うものであった。これはパイロットにとって、

手動操縦の負担を軽減する画期的なものとして歓迎され、長距離飛行には欠か

せないものとなった。 第二次世界大戦後には、電子化が進み、それはコックピットの中にも進展し

た。1950 年代には、地上の無線援助施設からの情報を読み込み、より精密なコ

ントロールを実現した。さらには自機の位置を把握し、空港への誘導を自動で

行い、滑走路に向けての進入降下まで行うことが可能となった。これをインナ

ーループコントロールに対してアウターループコントロールと呼ぶ。このアウ

ターループコントロールにより、パイロットにかかる負担はそれまでに比べて

劇的に軽減した。 1960 年代になると、オートパイロットの機能はさらに向上した。オートパイ

ロットはそれまでの経路制御だけでなく、指定速度に応じて推力を自動で調整

するオートスラストシステムが可能となった。また、経路制御システム、機体

制御システムの精度向上と、オートスラストシステムを組み合わせることで、

空港進入から着陸進入、さらにはフレア操作までが自動で行うことが可能とな

った。 1980 年以降に製造された旅客機には、FMS (Flight Management System)、飛行管理装置が搭載されるようになる。それによって、航空機は自機の飛行性

能、エンジン性能、飛行ルートなどのデータベースを獲得し、飛行管理装置に

入力された機体重量、外気温度、風、気圧などの外的情報をもとに、離陸距離、

離陸推力、上昇速度、巡航速度、降下開始地点などを算出できるようになった。

これらの情報をもとに、飛行管理装置はオートパイロット、オートスラストを

- 32 -

駆使し、航空機を制御することが実現できるようになった。1980 年代後半には

統合計器の登場により、航空機のデザインそのものが、人間工学に基づいたパ

イロットの負担を軽減し、ヒューマンエラーを誘発する可能性をつぶした設計

に進化した。 これらの進展は現在までの50年余りという非常に短い時間の中で急速に発展

を遂げてきた。多くの乗客の命を預かり、刻一刻と変わり続ける環境の元安全

運航を実現しているパイロットにとってこの変化のスピードに順応し、適応し

ていくことは、果たして容易なことであっただろうか。 航空機から始まった自動化は、とどまることを知らず私たちの日常生活にま

で進出した。自動ドアは人が目の前に立てば何も言わずドアを開閉する。ボタ

ンを押すだけで私たちは何十階というフロアを一切の疲労感なく行き来するこ

とができる。窓口で駅員と会話をしながら購入していた切符は、タッチスクリ

ーンの案内に従うだけの無機質なものへと変貌した。町へと足を伸ばして周り

を見てみると、たくさんの人はうつむき、周りの世界との関わりを絶ち、スマ

ートフォンと戯れている。 自動車の自動化は航空機と同様、目まぐるしい進展を遂げた。手動でエンジ

ンを始動していた時代から、今ではボタン一つでエンジンは始動し、混合比の

調整も車が自動で行う。マニュアルでは車の速度に合わせてギアを操作し、私

たちはその時、車と一体になっていた。 買い物をしたければパソコンの前に座り、ほしいものを探す。見つかったら

ボタン一つでほしいものを購入できる。自分が今まで買ってきたものから個人

の好みを推測し、コンピュータは私たちにオススメを提示する。これだけのこ

とを、私たちは意識することなく日常生活に受け入れているのである。 自動化は私たちの生活を便利にした。そしてこれからも技術は進歩し、私た

ちの生活はますます便利になっていくだろう。しかし、世の中が便利になれば

なるほど私たちは世界から隔離されていく。車と一体になっていた私たちは、

自動化が進み、自動運転が実用化された時には、運転のプロセスの中には私た

ちは存在しない。過度な自動化は、しばしば私たち人間を排除しようとする。 これだけ便利になった世の中を、今さら衰退させることは不可能だろう。世

の中はこれからますます便利になっていく。そしてこの時の便利とは、人間が

行う仕事を減らす働きをする。これからますます自動化が進んだとき、私たち

の意思はどこへ行くのだろうか。コンピュータがすすめる商品を購入し、コン

ピュータのすすめる目的地へと、コンピュータのなすがままに移動する未来が

あるように思える。しかもこのことを私たちはさほど意識することなく、日常

生活を送っているのだ。

- 33 -

3.2 変わりゆくコックピット

”Cockpit”とはもともと鶏という意味の”Cock”と、囲いという意味の”Pit”が合

わさった、「囲いのある闘鶏場」という意味であった。そこから、小さな戦場を

意味するようになり、第一次大戦中に飛行機の操縦席という意味に変化した。 航空機が発明された当時はいわゆる計器というものはなく、エンジンの出力

を示すものだけが取り付けられていた。黎明期では、パイロットは自身の五感

を駆使して操縦していた。 1953年ごろより後に製造された航空機では、ベーシックTと呼ばれる配置で、

姿勢指示器を中央上、速度計をその左に、高度計を右に、飛行方位系

(Directional Gyro) を中央下に、これら 4 つの航空計器が T 字状に配置される

ものが標準的となった。機体の大型化が進むにつれ、計器の種類も煩雑になっ

た。

写真 4.2.1 従来の基本的な計器配置 ※

機体の大型化が進んだ第二次大戦では、計器の種類は非常に煩雑なものであ

った。機体の姿勢を示すものだけでなく、エンジンの状態を示す様々な計器類

が、コックピットを埋め尽くした。第二次世界大戦終結直後の民間旅客機は、

戦時中の爆撃機に準じたコックピットをもち、機長、副操縦士、航空機関士、

航空通信士、航空士の 5 人で運用していた。 航空士は、航空機内で現在位置や針路を計測する、航法に特化した乗員であ

- 34 -

った。しかし、無線施設の充実により、航空士が乗り込むことが必ずしも必要

ではなくなり、コックピットから姿を消した。 航空通信士は、その名の通り、地上施設や空港との無線通信を行う乗員であ

った。初期の航空機はモールス信号で通信していたため、操縦と解読を同時に

行うことは困難であった。しかし、音声無線機が全面的に導入されたことで、

モールス信号をわざわざ解読する手間がなくなり、通信士はコックピットから

姿を消した。 それからしばらくは航空機関士を含めた 3 名体制での運航が続いたが、1970年代に開発された、ボーイング 757 型機、同 767 型機や、エアバス A310 型機

では、航空機関士が監視していたシステムを、コンピュータが自動で監視する

ようになり、航空機関士はコックピットから排除された。 現在の旅客運送に使用される中、大型機のほぼすべてが、機長と副操縦士の

2人体制での運航を行っている。かつて針で示されていた様々な情報は、すべ

て一度機体に内蔵されたコンピュータを通して、見やすい形に修正され、2名

のパイロットの目の前にあるディスプレイに映し出されるようになった。かつ

て5人体制の時代に盛んに行われていたコックピット内でのコミュニケーショ

ンも、人数が減り、コンピュータがすべての情報を見やすく整理し映し出して

しまうことで、希薄になってしまった。 過去50年の間に、コックピットの人員は半分以上削減されてしまった。で

は、これからのコックピットはどのように移り変わっていくのだろうか。 “未来のコックピットには一人のパイロットと一匹の犬がいる。パイロット

は犬に餌をやるのが仕事になり、犬はパイロットが操縦系統に触ろうとすれば

噛みついて止めることが仕事になるだろう。” このようなジョークがある。しかし、果たして私たちはいつまでこのジョー

クで笑っていられるだろうか。パイロットの仕事は飛行機を操縦することであ

る。さて、パイロットは今現在も、この仕事を遂行できているだろうか。 現在のハイテク化された航空機では、パイロットが入力した操作はコンピュ

ータを介して機体へと伝えられる。かつてはパイロットが行った操作は、ワイ

ヤーを伝い直接動翼へと伝えられ、パイロット自身も確かに機体を操縦してい

た。しかし現在はどうであろうか。ハイテク飛行機は自身の機体の制御もやっ

てのけてしまう。パイロットは、たとえ操縦桿を動かしたとしても、それはコ

ンピュータへと伝えられる。つまり、パイロットはフライトコンピュータに電

子的に入力をしているだけではないだろうか。つまり、私たちがパソコンに向

かって文字を入力していることと、パイロットが現在のハイテク飛行機で行っ

ていることは、大きく言えば同じではないだろうか。果たしてパイロットはこ

れから先も、今の2人体制を維持していくのだろうか。

- 35 -

3.3 現代版アクシデント

航空機の事故は死傷者の多さやその悲惨さから世間からの注目を集めること

が多い。またその事故の原因として、パイロットの操縦ミスとされて報道され

る事故も多く、パイロットには大きな責任が背負わされている。1947 年から

2001 年までの間に発生した民間航空機事故は、平均して一年に 8.2 件、90 年以

降では 10.7 件であった。航空機事故の多くは離着陸の際に発生し、航空機の大

型化に伴い 1 度の事故で出る被害者の数は増加している。事故件数や被害者数

でみれば増加しているが、時代とともに運航数や飛行機数も増加している点も

着目しなければならない。ボーイング社によると、世界の航空機数は 1960 年代

には約3000機であったものが、2000年には5倍の約15000機に増加している。

また航空機離着陸回数は、年間 500 万回以下から訳 1800 万回に、運航時間も約

500 万時間から約 3500 万時間に増加している。この数字を考慮に入れれば、航

空機事故は相対的に減少傾向にあるといえる。 この 1947 年から 2001 年までの民間航空機事故のデータによれば、55 年間に

発生した 428 件のうち、操縦ミスや、管制ミスなどによる人的要因が事故の原

因とされているものが、全体の 31.7 パーセントの 136 件に及ぶ。原因不明の 145件を除けば、人的要因による航空機事故は、全体の 48 パーセントに及ぶ。 人的要因を細かく見ていく。人的要因が原因とされる事故、136 件のうち、

62 件もの事故で、パイロットの操縦ミスが事故原因であった。ついで多いのが

整備不良の 22 件である。パイロットの操縦ミスは次点の整備不良に 3 倍近い差

をつけて、人的要因の航空機事故の原因のトップに位置付けられている。なぜ

このように人的要因が誘発されてしまうのかを考察した。 現在の航空機は電子化され、運航のほとんどをコンピュータの自動制御によ

り行っている。そのためパイロットにかかる負担は、黎明期に比べて大幅に軽

減されている。そのことから、少ない人員で長時間のフライトを行うことも可

能となり、経済的な運航を実現、チケット代は安くなり、飛行機旅行が一般大

衆に広まった。しかし、この負担軽減こそが、人的要因、操縦ミスを誘発する

原因なのではないだろうか。 ヤーキーズ・ドットソンの法則というものがある。これはアメリカの心理学

者である、ロバート・ヤーキーズと J.D.ドットソンの 2 名が提唱した法則であ

り、現在では生理心理学の基本法則となっている。人や動物の仕事効率、パフ

ォーマンスを引き出すには、一定の罰やストレスがあったほうがより良いパフ

ォーマンスを発揮することができるという法則である。実際に学習作業等を行

う際、罰を与えたグループのほうが、罰を与えなかったグループよりも高いこ

- 36 -

とが判明した。しかし一定の水準以上の負荷やストレスがかかると、仕事効率

やパフォーマンスは減少することが判明している。一般に、覚醒レベル(負荷

やストレス)が高くなるにつれて、仕事効率もほぼ比例して高くなる。しかし

一定の覚醒レベルに到達後、覚醒レベルが高くなるにつれて仕事効率は減少し

ていく。つまり、覚醒レベルと仕事効率の間には、逆 U 字型の関数関係が成立

する。 現在のハイテク化された航空機に乗務するパイロットは、運航中に受ける覚

醒レベルが低く、それに比例して仕事効率も低い状態にあるようになってしま

った。なぜならば、航空機の姿勢制御やナビゲーション、着陸に至るまで、コ

ンピュータが制御し自動で行ってしまうからである。そのためパイロットは状

況認識を誤るケースが多く、自分が現在置かれている状況を誤認し、それが事

故へとつながっている例が多々ある。

図 3.3.1 ヤーキーズ・ドットソンの法則【12】

1986 年から 1992 年までに発生した航空インシデントにおける状況認識の失

敗 169 例を調査した研究がある。これらインシデントの状況認識を 3 つのレベ

ルに分類していく。レベル 1 は「何かが起こっていることに気づく」、レベル 2は「その原因を特定できる」、そしてレベル 3 は「これからの事態の推移が予測

できる」とした。何か機体に異常が発生したとき、パイロットはそれに素早く

気づき、適切な対処をすることを必要とされ、また日々の訓練でもそれを重点

- 37 -

に訓練する。そのため、この研究で行われたインシデントでは、レベル 1 の状

況認識の失敗は少ないのではないかというのが一般的だと思われる。しかし実

際には、169 例のうちの約 80 パーセントは、レベル 1 の状況認識の失敗、つま

り「何か異常があるにもかかわらず、全く気が付かない」状況に、パイロット

が陥っていることが判明した。日々様々なトラブルに対処するために特化した

訓練を積んでいるパイロットが、実際の運航ではこのような状態に陥ってしま

っているのである。ちなみに、約 17 パーセントでは、「異常が発生しているこ

とには気づいたものの、何が異常の原因であるかわからない」という、レベル 2の状況認識の失敗である状態だった。残りの約 3 パーセントがレベル 3 の状況

認識の失敗であった。 黎明期における航空機事故は、機体の不調や構造的欠陥、厳しい環境での運

航など、パイロットがどうすることもできない状態に陥ったことで起きてしま

った。しかし当時のパイロットは、自分の置かれた状況は少なくとも認識して

いただろう。それに対し現在のパイロットは、航空機があまりにも自動化され

てしまったため、航空機に置いてきぼりにされてしまっている。自分の置かれ

た状況を認識できていないことが多々ある。これはまさしく、オートメーショ

ンによる弊害であるといえる。

- 38 -

3.4 コックピットがなくなる日

2015 年 11 月、航空機メーカー最大手のボーイング会長、ジム・マックナー

ニは、第 17 回日経フォーラム「世界経営者会議」で講演し、無人旅客機の早期

実現の可能性を語った。信号や標識がない分、車よりも航空機のほうが、無人

化は容易であるという考えを氏は語った。ボーイング社と対等を成す、エアバ

ス社は、機械を中心とした設計思想の下、多くのハイテク機を量産してきた。

対して、ボーイング社では、人間を中心とした設計思想を持ち、ハイテク技術

はあくまでも人間のサポートに徹する形でデザインしてきた。そのボーイング

社の会長が、パイロットの乗り込まない、無人旅客機の早期実現について、前

向きな考えを持っていることに、一抹の危機感を覚える。 第二次大戦終結直後の大型旅客機では、5 名もの人員がコックピットの中を埋

めていた。しかし、時代が進み、航空機が次第に自動化されていくうちに、現

在では 2 名にまで削減されてしまった。航空機の自動化はとどまることを知ら

ない。では、いつコックピットからパイロットはいなくなるのだろうか。 日本航空では、2016 年 4 月から、パイロットの給与を大幅に上げることが決

まっている。パイロット不足が世界的に叫ばれる中、人員確保が航空会社存続

の大きなカギとなっていることは、明白である。しかし、裏を返せば、パイロ

ットは非常に高給で、会社の経理を圧迫する存在になりえる。もし、パイロッ

ト不足でパイロットの価値が上昇し、賃金が航空会社の経理を圧迫していると

きに、パイロットを必要としない、無人旅客機が登場したとすれば、各航空会

社は次々に無人旅客機を導入するだろう。パイロット不足によるパイロットの

希少価値の上昇に、いつまでも胡坐をかいていられる状況ではないということ

を認識しなければならない。 しかし現状、旅客機を全くの無人で運航することはできない。それは、コン

ピュータのいくつかの特性によるものが大きい。 まずコンピュータというものは、入力装置、出力装置、そして演算装置の 3つの機構に大別される。入力装置により入力された信号が演算装置に伝わり、

それに対応した演算結果を、出力装置を介して出力する。コンピュータの基礎

的な仕組みこのような単純なものである。そしてプログラマーと呼ばれる人た

ちは、演算装置の演算方法について、日々進歩を図っているのである。 コンピュータはプログラム通りにしか動くことはできない。つまり、プログ

ラムを組むことが可能であることは、完全な自動化が可能であるということだ。

コンピュータが現在再現することができるのは、形式知と呼ばれる、手順が定

まっており、それを説明する際に苦労しないことである。プログラムを組むの

- 39 -

はプログラマーである。つまりプログラマーが説明できることは、コンピュー

タで再現が可能なのである。 この点が、現在も旅客機を完全に自動化することができない一番の大きな理

由である。航空機の操縦に関して言えば、手順は明解であり、自動化すること

は容易である。しかし、旅客機には不確定要素が多く、自然を相手にしている

以上、人間が考え付かないような問題が起きる可能性がある。その時に完全に

自動化されている旅客機では、何の対応もできなくなってしまう。 以上のことから、向こう 30 年は、旅客機の自動化はできないであろうという

予測を立てた。もし、全知全能のプログラマーが存在したのならば、旅客機の

完全自動化はすぐに完了するだろう。むしろ、この世のすべてのことが完全に

自動化され、人間の入り込む余地はなくなるだろう。しかし、現実にそのよう

な者は存在しない。私たちができるのは、過去のデータの蓄積から、統計的に

可能性を導き出すことだけである。このデータの蓄積がある一点を超え、旅客

機にまつわるすべての不確定要素を網羅した日こそが、旅客機からコックピッ

トは無くなる日である。

- 40 -

第四章 結論

技術と人間~未来を予測する~ 1980 年代後半から一気に加速した世の中の自動化は、そのあまりのスピード

に人間はついていくことが難しかった。航空機もその例外ではない。自動化が

進められた当初、パイロットはシステムを覚えなおすために多くの時間を割い

た。自動化はワークロードを軽減することを目的として作られたにもかかわら

ず、かえってパイロットのワークロードを増やしている側面もあることが露呈

した。次から次へと新しいものが開発され、導入されていく状況に、パイロッ

トは何とか追いつこうとした。しかしそこには必ず無理が生じる。そのように

して起きてしまった事故は、ヒューマンエラーとして処理され、パイロットの

ミスが事故の原因であったように錯覚させる。このイタチごっこが、コンピュ

ータへの不信につながっている。これをオートメーション不信という。 しかしその一方で、私たちがコンピュータへ向ける信頼は厚い。というのも、

コンピュータのはじき出す計算結果はいつも正しく、どんなに複雑な数式でさ

えほんの 1 秒足らずで解を導き出す。コンピュータを使い続けていくうちに、

コンピュータが導き出した数字に私たちは何の疑いも持つことがなくなった。

これを、オートメーション過信という。 パイロットは現在、オートメーション不信とオートメーション過信を同時に

持ち合わせた、非常に不安定な状態で運航を行っている。コンピュータは正確

で、いつでも正しいという思いと、何をしているのかわからない、つかみどこ

ろがないというような不信を同時に持ち合わせているのである。その心理状態

で何かが起きたとき、パイロットはわずかな時間で正しい判断を下すことがで

きるだろうか。 このような状況を打破するためには、オートメーションに対応することが不

可欠である。対応するというのは簡単だが、先人たちはこの対応することに大

変な苦労を強いられてきた。それはオートメーションに対応しようとするアプ

ローチの仕方に問題があったのではないだろうか。パイロットは、オートパイ

ロットのシステムから理解しようとする。ある状況ではオートパイロットはこ

のような対応をするといったような、ケースバイケースによるアプローチの仕

方である。しかし、果たしてこのアプローチで、高度に自動化された現在の航

空機のすべてを知ることができるだろうか。 まず、コンピュータの本質から知っていくべきであると考える。コンピュー

タは入力された情報に基づき、それに対応した演算を記憶装置から引っ張り出

- 41 -

し、演算装置で計算、算出された結果を出力装置に出力する。これがコンピュ

ータの本質である。人間は、しばしばコンピュータが勝手に動き出したとか、

自分の予期していない動作を始めたという。しかし、それは大きな誤りであり、

そのようにいう人間はコンピュータを理解していない。コンピュータが何の入

力もなしに動き出すことなどありえないのである。それを理解で来ていない状

態で、自分の意志とコンピュータの意思が相反したとき、パニックに陥る。ま

ずはコンピュータの本質を理解するべきではないだろうか。 最新の大型旅客機のコックピットは、これまでの様々な経験をもとに、現在

の段階で最良の形へと設計された。人間工学に基づいたその設計及びレイアウ

トは、パイロットの負担を軽減し、レイアウトが原因で生じる勘違いなどを削

減してきた。しかし、これはあくまでも現段階での話である。これから先設計

者が予期していなかったトラブルがいつ起こるかわからない。全知全能の人間

はいない。そのため最新鋭の技術は、トラブルが起きたときにその原因を吟味

し対処していくほかなく、トラブルを根絶することは不可能である。もしこの

方法でトラブルや事故を根絶することができるとしたら、それは何百年も先、

データの蓄積が完了したときになるだろう。しかし、自然を相手にする以上、“完

璧”はありえない。つまり、対症療法では事故の根絶は不可能なのである。 では、どうすればよいのか。それは、コンピュータと人間との間に、コミュ

ニケーションを確立することである。パイロットに目を向けてみると、コック

ピットの中には 2 名のパイロットがいる。2 名のパイロットが運航にあたるとき、

そのほとんどの場合で初対面である場合が多い。それでも二人で息を合わせ、

安全な運航を確立するために、パイロットはコミュニケーションを用いる。コ

ミュニケーションを通じて、互いの共通認識を構築するのである。人間は、相

手の声の調子、表情、言葉遣いから、相手の性格や考え方を推測する。その結

果相手が自分にとって害をなす存在ではないということがわかれば、相手に対

して心を開く。そのことが、相手を信頼することにつながり、パイロットでい

えば緊急事態の際でも良好なチームワークを発揮することができるのである。 それでは、コンピュータと人間はどうであろうか。コンピュータには表情が

ない。声の調子から感情を読み取ることはできない。コンピュータには感情が

ないのだから。まずコンピュータが人間と話すこと自体、一昔前では不可能で

あった。しかし、技術の進歩により、人間とコミュニケーションを図ることが

可能なコンピュータが登場した。コンピュータはあたかも感情があるかのよう

に、声の調子や表情まで変化させることが可能となり、しかも話している相手

の人間の声の調子や表情までも読み取り、相手に合わせた会話を行うことが可

能となった。この技術を応用し、航空機のコンピュータに搭載したとすれば、

これまでとは比べ物にならないほど、パイロットの負担は軽減されるだろう。

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現在の航空機の運航のそのほとんどは、搭載されたコンピュータによって制

御されている。しかしコンピュータはその特性上、自分が今何をしているかを

音声によってパイロットに伝える術を持たない。パイロットはいくら注意して

いても、いくらベテランのパイロットでも、集中力は落ちる。その時もし、コ

ンピュータが言葉を発していたなら、パイロットはコンピュータの話す内容に

耳を傾け、異常をいち早く察知することが可能となるのではないだろうか。 これからの未来の航空機は、人間とコンピュータがうまくコミュニケーショ

ンを図りながら、お互いの役割を明確に分担するようになると予測する。旅客

機を無人で運航するには、まだしばらく時間がかかる。なぜならば、自然に対

するデータがまだまだ蓄積されていないからだ。人間が自然を完全に支配した

とき、航空機の無人化は実現されるだろう。それまでは、人間とコンピュータ、

つまり技術と人間が共存し、今よりももっと明確に役割が分担され、ヒューマ

ンエラーによる航空機事故は減少していることだろう。

- 43 -

謝辞 本論文作成に当たり、ご指導を頂いた卒業論文指導教員である利根川豊教授

に、この場を持って感謝の意を表します。また、日々の議論を通じて様々な考

えや意見を示し、論文作成に大きな貢献をした利根川研究室の皆様に、感謝い

たします。

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参考文献 【1】富山市科学博物館:とやまサイエンストピックス NO.424、2013

【2】Carroll F.Gray :Flying Machines “William Samuel Henson”

http://www.flyingmachines.org/hens.html 【3】Library of Congress: Rear view of the Wright brothers' four-cylinder

motor as installed in their 1903 airplane, 1928. http://www.loc.gov/item/2001696582/

【4】Library of Congress: Left front side of the Wright brothers' reconstructed

1903 motor, 1928 http://www.loc.gov/item/2001696580/

【5】Library of Congress: First flight, 120 feet in 12 seconds, 10:35 a.m.; Kitty

Hawk, North Carolina digital file from original, 1978 http://www.loc.gov/collections/wright-brothers-negatives/about-this-collection/

【6】ル・ブルジェ航空宇宙博物館:Cockpit secrets, Farman.F60.Goriath

http://www.museeairespace.fr/cockpits-secrets/farman-f60-goliath 【7】Alex Beltyukov:Flight deck of the Boeing 787-8 N787BA, 2011

http://www.airliners.net/photo/Boeing/Boeing-787-8-Dreamliner/1940205/L/

【 8 】 Patrick De Connick : Qatar Airways, Airbus A380-861, 2015

http://www.airliners.net/photo/Qatar-Airways/Airbus-A380-861/2731808/&sid=4d3a448cec821e72beb8b45350eecf78

【9】沖縄美ら海水族館ホームページ:黒潮の海、2015

http://oki-churaumi.jp/area/kuroshio.html

- 45 -

【10】フェラーリオフィシャルサイト:ラ・フェラーリ、2015

http://auto.ferrari.com/ja_jp/sports-cars-models/car-range/laferrari/#design-laferrari_360_exterior

【11】Flightradar24 :2015

https://www.flightradar24.com/31.07,139.65/2 【12】佐々木正悟:なぜ「優先度が“低い”タスク」から片づけるべきなのか、

ITmedia エンタープライズ、2009

http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0906/04/news002.html 【13】ニコラス・G・カー:オートメーション・バカ、青土社、2014

【14】稲垣敏之:自動化による安全性の向上:ヒューマンファクタの視点から

の考察、2008

【15】原俊郎:ライト兄弟のひみつ、2013

http://www.wetwing.com/wright/index.html 【16】日本経済新聞 電子版:世界経営者会議特集、ボーイング会長「無人旅

客機、早期実現の可能性」、2015

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK11H36_R11C15A1000000/ 文中※についてはウィキペディアより引用