~-メ-vxフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡...

10
ミ- - VXフ _ ゥ çゥ ス¥ ヘ ニウ 樋 口聡 ミー メ - VX ニ「 、 _ ゥ çウç フ âè ノツ 「 ト l ヲ ス まず取 り上 げ られ る だ ろ う。 Q o EA ニ tェ w E キ é æ 、ノ、 半 は、 ヘ í ニ「 、モ 。 ナ フ ~- - VX I v Z X ノ æ チ 運動能力の形成のみならず言語の学習や適切な社会的行動の獲得もまたミ--VX 的 モ デ ル に よ って い るO サ フ ニ ォ ~- - VX ヘ 、 l ェ ィ ノシレ 合 う、êツフ 「ョ ォ である ( 1 )0 日本 にお いて も、] 、「~- - VX」ヘüw フチê ネp ê ニ オ しか し、 サêェ 「ヘ í 倣う写 す」 ニ「 チス ú{ ê フ モ 。 フL ェ è され る と き、 Q o EA、 t çフ ~- - VX _ ニフレ _ ェ け る美 学 の コ ンテ ク ス トにお い て も、 ヘ í フ gフ ォ ェw E ウ ê 、 サ ê ニ 造 性 の 問 題 が 関係 付 けて 論 じ られ よ う と して い る し、 |p フ âè ðエ ヲト 、 サ 日本の伝統的な学びのスタイルは、ヘí ニKnナ チスアニェwムフ て注目されてもいるのである ( 2 )。 そ う したポ ジテ イ ヴな側 面 と同時 に、 ~ - - V X ヘ¥ ヘ フ カ ャ フ âè ノ ことがゲバウアとヴルフによって指摘されている ( 3)。{e ナ ヘ、 ~- - V X ノ て の議 論 を押 さえ な が ら、 ¥ ヘ ニウç フ âè ノツ 「ト l @ ðW J オ 社会 学 者 、T Rタ セ ヘ、「wZ ニ¥ヘ 」 ニ「 、_ カ ( 4)ノィ 「 ト 、f P ニ ールの論 を援用 して学校 にお け る暴力現象 を分析 している。ネコ、TRフ_q ðネ にまとめてみよう。 デ ュ ル ケ ムは 、 w Z フ { ソ フ ノ、 ì リ ネオ s キ ネ í ソウ t る体 罰 を生 み 出 す 要 因 を見 て い る。フ ア フ oサ ヘ カ セ フi W ニヨW ェ 教育 を 「ú C 」 ゥ ç 「@ ¥ I ネ ュァ」ヨ ニマ ヲ éゥ çナ é した組 織 的社 会 に あ って は、 ツ l å` Iエ ノî テ ュA ム ェ ャ ァ キ -57-

Upload: others

Post on 24-Jan-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

ミ-メ-シスの視点から見た暴力と教育

樋口聡

ミーメ-シス とい う視点か ら教育の問題について考えたとき、学びの模倣的側面が

まず取 り上げられるだろう。ゲバウアとヴルフが指摘するように、特に幼児教育の大

半は、模倣 という意味での ミ-メ-シス的プロセスによって成 し遂げられる。知覚や

運動能力の形成のみな らず言語の学習や適切な社会的行動の獲得もまたミ-メ-シス

的モデル によっているOその ときミ-メ-シスは、人が事物 に直接的、感覚白勺に向 き

合 う、一つの 「動き」である ( 1)0

日本においても、従来、「ミ-メ-シス」は美学の特殊な用語 として理解されてきた。

しか し、それが 「模倣」「倣 う」「写す」 といった 日本語の意味の広が りにおいて理解

されるとき、ゲバ ウア、ヴル フらのミ-メ-シス論 との接点が見えて くる。 日本にお

ける美学のコンテクス トにおいても、模倣の身体性が指摘 され、それと芸術制作の創

造性の問題が関係付けて論 じられようとしているし、芸術の問題を超えて、そもそも

日本の伝統的な学びのスタイルは、模倣 と習熟であったことが学びの復権 として改め

て注目されてもいるのである ( 2)。

そうしたポジテ イヴな側面 と同時に、 ミ -メ-シスは暴力の生成の問題に結び付 く

ことがゲバ ウアとヴルフによって指摘されている ( 3)。本稿では、ミ-メ-シスについ

ての議論を押さえながら、暴力 と教育の問題について考察を展開してみよう。

社会学者、亀山佳明は、「学校 と暴力」という論文 ( 4)において、デュルケムとジラ

ールの論 を援用 して学校における暴力現象を分析 している。以下、亀山の論述を簡単

にまとめてみよう。

デュルケムは、学校の本質の中に、野蛮な慣行すなわち教師が生徒に対 して行使 す

る体罰 を生み出す要因を見ている。体罰の出現は文明の進展 と関係がある。文明化は

教育を 「放任」か ら 「機能的な強制」へ と変えるか らである。さらに、近代化の進行

した組織的社会にあっては、個人主義的原理に基づ く連帯が成立する。デュルケムに

-57-

Page 2: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

よれば、個人主義とは社会を構成する最小単位の個人の主体性を最大限尊重す る集合

的な観念である。この個人主義は制度への反抗を許容する原理でもあ り、反抗の許容

は多かれ少なかれ社会にアノミーをもたらす。この視点を 「小社会」である 「学級」

に向けてみれば、学級のアノミー化は、教師の 「合理的な権威」の消失を意味 してお

り、それが暴力を誘発する。

こうしたデュルケムの論に対 し、亀山は、アノミーはどのように して暴力を生起さ

せるのかというメカニズムの説明はなされていない、と批判する。そこで亀山が弓ほ

合いに出すのがジラールの模倣的欲望あるいは三角形的欲望の理論である。 このジラ

ールの論は、ゲバウアとヴルフによっても取 り上げられてお り、 ミ-メ-シス と暴力

の関係を論 じるものである ( 5)。ジラールによれば、人間の欲望は他者の欲望の模倣で

あ り、態度や行動の ミ-メ-シス的専有が競争 と対抗意識を生み出 し、それが暴力を

引き起 こすことになる。この暴力が極限化するのを避け秩序を回復するために用いら

れるのが、「身代わ りの山羊」である。それは 「満場一致」による特定対象への嘉力の

集中であ り、それがいわゆる 「いじめ」である。

ところで、 ジラールの論に対 してはすでにいろいろな批判がなされている。その批

判のポイン トは、三角形的欲望 と供犠の理論 を歴史や社会における個別的な事例を超

えて普遍化 しようとする点に集約されるであろう。あるいはまた、その一般化の議論

の中で、「模倣」あるいは 「ミ-メ-シス」という語の汎用についても、われわれは注

意すべ きであろう。例えば、社会学者、富永茂樹は、デュルケムが、同一の社会集団

の内部での成員の意識の水平化や一致を 「模倣」と考えるのは適切でないと述べてい

ることを指摘 している ( 6)。

しか しなが ら、ゲバウア とヴルフも言 うように、われわれは、ジラールの論か らは、

人間の暴力の本性についての一つの理解 ( 7)を得ることができると考えるべ きだろう。

聖なるものや宗教は暴力 と不可分の関係 にあるということもその理解 の一つである。

そ して、富永も指摘するように、欲望 にせよ暴力にせよ、人間関係 の基本的構造は自

己そのものではなく、自己とその ミ-メ-シスの対象 との 「個体間」の関係である ( 8)

ということが、ジラールの暴力論から得 られる重要なポイン トの一つである。

-58-

Page 3: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

亀山は、教師と生徒によって構成される学級の内部に、晶力の三形態を見る。すな

わち、教師-生徒、生徒→教師、生徒→生徒、の三形態である。第-の形態が体罰で

あ り、第二の形態が対教師暴力、そ して第三の形態がけんかやいわゆる 「いじめ」で

ある ( 9)。これ らを統一的な説明図式で解釈することを目指す亀山の議論 とは視点を変

えて、ここでは、第-の形態である体罰について、歴史的 ・文化的要因に関わること

がらを探ってみることにしよう。

教育史の研究者である江森一郎は、『体罰の社会史 ( 10)』という著作の中で、日本で

は欧米よ りも早 く学校での体罰が法律で禁止された理 由を、社会史の視点から探 ろう

としている。その課題のために、江森は、 日本の古代、中世、近世 という歴史の流れ

に沿って、体罰は肯定的に見 られてきたのか、それ とも否定的に見 られて きたのかを

史料の中から明らか にしようとする。そ して、文化的に影響を受けた中国の状況も参

照 しつつ、特に、近世の武士の学校や生活、そ して庶民の学校であった寺子屋での体

罰の状況を詳細に調べている。江森は結論 として次のように言 う。すなわち、特 に江

戸期の日本人は子 どもを溺愛 し、甘やかすことが一般的で、体罰はあったとしてもひ

どいものではなかった。日本の伝統思想の中に国民のエー トスとして、体罰を残酷な

ものとみる見方が定着 していた。

上記の結論にはさまざまな疑問を提示 しなければな らないだろう。 というのは、 日

本人の心性の基本は暴力否定であったと述べて しまっているか らである。それは、暴

力は個体の特性によるものではな く個体間の関係 によって生成するという、ジラール

の論からわれわれが学んだこととは対立的である。江森は、 フーコーの権力論なども

参照 してお り、体罰 を単純に肯定一否定の図式で見ているわけではないとしても、や

は り体罰には反対であるという現実的な立場が前提になっている。その立場を歴史的

な視点か ら正当化 しようとすると、体罰を否定的に見る観方を歴史の中に探ることに

なるが、江森にとってはそれが江戸期の日本だったというわけである。

体罰について是か非かの二分法で見るのは不適切である。体罰を与えれば子 どもは

萎縮 して しまうとい うのはそのとお りであろうし、逆 に、秩序 を椎持するために或る

程度の体罰は必要だ、というのも正 しいであろう。問題は、体罰をするにしてもしな

いに しても、それが成功する、あるいは一般に受け入れられるコンテクス トの方であ

る。「生類憐れみの令」につながるような動物愛護思想や人間平等観が、日本人が体罰

を好まない理 由だ というのは素朴すぎるだろう。学校での体罰禁止がいち早 く法令化

Page 4: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

された という事態に対 しても、論理的には、その必要があったからだと疑 ってみ るこ

とはできるだろう。日本人が体罰を好まず、ひ どい体罰など考えられないのであれば、

法律で禁止することなど不要だからである。

体罰 という暴力の実際を考えてみたとき、デュルケムやジラールの論をもとに体罰

をも図式的に説明 しようとした亀山の議論には疑問が残る。教師による生徒 に対する

体罰 という暴力は、 ミ-メ-シス的欲望によるというのではな く、あ くまで も規律を

椎持するための一つの、それも最終的な手段 という意味合いが強いか らである。ジラ

ールの論を参照することによって、体罰の問題 をめ ぐって以下のような仮説を考えて

みることができるのではないだろうか。

教師は生徒を指導する。その指導が何 らかの理由で実現できないとき、教師は一つ

の手段 として体罰を行使する可能性がある。その体罰の内容が残酷か どうかは、エ リ

アス ( ll)が文明化の過程 について論 じるように、相対的なもので しかない。小さな暴

力としての体罰が成功するとすれば、その最大の効果は、おそらく規律の維持だろう。

表面的にでも規律が維持されている限 り、さ らなる暴力の発生はと りあえず抑えるこ

とがで きる。規律による秩序を維持するための暴力として体罰が機能 しているのだ。

その証拠は、禁止規定にもかかわらずそれがな くならないことである。しか しなが ら、

体罰によって秩序 を維持できるレベルを超えて社会が複雑化 してい くのが近代 という

時代である。そ して、それが暴力である限 り、その秩序維持は危ういものであ らざる

を得ない。その危 うさをもたらす大 きな要因の一つが、あらゆる暴力を 「野蛮」の名

のもとに排除 しようとする近代的精神である。体罰は姿を消 したと しても、それ とは

種類を異にする暴力は、隠蔽され、不可視化 される。その暴力がよ り深刻な事態を引

き起こす。

精神的 ・心理的な暴力-それこそが実はよ り深刻な暴力であると思われる一に比べ

て、身体的な暴力に対 しては、それを禁止する規定がい くらかでも作 りやすいであろ

う。また、身体的な暴力の即物性、そ してそれが ときには死に至 らしめるほ どの暴力

となる危険性を学んだものであることも、それを禁止させるに十分である。 このよう

に考えてみれば、体罰禁止の法令化は、暴力を忌避する日本人の心性 というのではな

くて、まさに上記の意味での近代的精神の表明に他ならなかったのではないか。

-60-

Page 5: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

教育学者の寺崎弘昭は、ロックの 『教育論』における筈打ちの評価について、 ロッ

クにとって筈打ちは外面的 (身体白勺)罰ではな く内面的罰であ り、精神 ・意志の屈服

を期待する恥の懲罰であることを指摘 している ( 12)。考えてみれば、身体白勺な苦痛 を

与えることそのものが 目的の体罰などはあ りえない。これはあ らゆる体罰の本質であ

ろう。とすれば、体罰 と呼ばれる懲罰は、懲罰の中で 「身体的」と認めることがで き

る特徴 を有 したものだ ということにな り、その意味では、体罰の是非の問題は、懲罰

そのものの是非を問う問題に通 じることになる。仮に体罰が一掃されたとして、それ

は懲罰の 「身体的」という表層の特徴が排除されるだけであ り、精神 ・意志の屈服 を

期待する恥の懲罰が姿を消すわけではない。

体罰の目指すところが 「身体的」 という表面にあるのではな く、精神や意志などの

内面的なものにあ り、体罰以外の方法で精神 ・意志の屈服や恥の懲罰が実現されるの

であるとすれば、体罰は姿を消 してもよいことになるだろう。江戸期の日本において、

西洋におけるような体罰がほとんど見当たらないとすれば、それは体罰以外の方法で

精神 ・意志の屈服が実現可能なシステムが作動 していたとも考えられるのではないか。

人と人 との関係 に重 きを置 く恥の文化を有すると言われる日本においてはその可能性

が高い。逆に、体罰が一向にな くならないどころか増える傾 向にあるとすれば、それ

は内面的な恥の文化が空洞化 していることの徴 と考えてみることができるだろう。

また、心と身体を本来分けられないものであるとする東洋的な身心観も、体罰に対

する見方に影響 を与えるだろう。哲学者の湯浅泰雄が言うように、東洋の理論の哲学

的基礎に 「修行」の考え方がある ( 13)とすれば、その身心観のもとでは、精神や意志

の懲罰 として身体に筈打 ちなどの単純な機械的な苦痛を与えるといった発想は生 まれ

にくいのではないか。修行そのものが、多かれ少なかれ身体的苦痛を伴う精神 ・意志

の修養だからである。 しか しながら、それは、逆に、現代的な感覚で明らかに体罰だ

と思われる事柄が修行であると言われるような事態を生み出 して しまうことにもなる。

東洋の理論の哲学的基礎を考えた とき、上に見てきた暴力論 との関係で思い至 るの

が、「身代わ りの山羊」につながる 「犠牲」の問題である。それは美学に関係する。

-61-

Page 6: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

● ●●●

美学者で形而上学者である今道友信は、「美」という漢字の含意する 「犠牲」の構造

を指摘する。「美」 という漢字は、二つの部分から成 っている。それは 「羊」 と 「大」

であ り、「美」という漢字は羊が大きいという意味を持 っている。「大 きな羊は美 しい」

のである。 しか し、今道は 「羊」に着 冒し、それを含む他の漢字 「義」や 「善」に共

通の意味を読み取ろうとする。今道によれば、この羊は 『論語』の告朔の嵐羊 とい う

句と関係 させて理解 しなければな らない。すなわち、月初めの祭儀に、天に捧げる犠

牲の獣 としての羊か ら転 じて、「犠牲」という内的意義が 「羊」にはある。「善」も 「羊」

を含み、犠牲 と結び付 く。 その犠牲が大 きいとき、犠牲の羊が大きいという構造の 「美」

が生 まれる。このように して、今道は、善を超えた最高の価値 としての美を考える。

この今道の美の形而上学は、プラ トン哲学 とつながっている。非常に広い意味を持 っ

CLbAo( dvtrbltLCAたギ リシア語の lt 「美 しい」、その中性名詞形の ) )「

LcOQYdAKoRlc

(美」、そ してそれ

L (14)鋸Ⅴ (「Yaqdrcに並ぶ 善」 )、美 と善を一つに した 、こうした観念 に

今道美学は通 じているのである。

こう した今道の形而上学的美学は、現在の日本の美学界において影響力を持つこと

はない。 しか し、美学とは異なる位置にあると考え られている教育学において、その

残影を見ることがある。教育活動が芸術 になぞらえ られ、教育学が美学に接近する。

こうした事情が日本に特有のものかどうかはさらなる検討が必要であろう。 しか し、

特に 「人間形成」 といった抽象的な観念が教育の理念 とされ、言語的理性や個人性 を

超えて、共同体への犠牲的な同調が 「和」 という調和の美的理念と重ね合わされるこ

との中に、日本的なるものを見出すことができるだろう。

今道 においては、美は最高の価値 として宗教的なるもの、聖なるもの とつながって

い く。それは、犠牲の精神に依拠 している。こうした美学は、そのままジラールの暴

力論に接続されなければな らないであろう。最高の価値としての美の背後 には、暴力

が隠蔽 されているのである。個よ りも全体を重ん じ、その全体的秩序 に美的な快を見

出す日本的感性。それは 「い じめ」 という暴力の温床である。こうした状況が観念的

な美学 によって図 らずも正当化されているとすれば、教育 と暴力の問題を批判日射こ考

える視点 として、 ミ -メ-シス論そ して美学 と結び付いた暴力論が新たな可能性を提

示するであろう。

-26-

Page 7: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

最後に、教育 と暴力の問題 をめ ぐる衝撃的な一つの日本映画 を取 り上げよう。 それ

は、深作欣二監督 の映画 『バ トル ・ロワイアル』である。この映画のあらす じは、次

のようなものである。

いじめや対教師暴力などによって学校が荒れに荒れた果て、ついに 「新世紀教育改

革法」なるものが制定される。それが通称 BR (バ トル ・ロワイアル)法と呼ばれ るも

のである。その法律のもと、毎年、厳正な抽選によって、全国の中学校の中か ら中学

三年生の-クラスが選ばれる。健全な大人を育成するための犠牲 として、その選ばれ

た中学生たちは無人島に連れて行かれ、武器 と食料を渡され、三 日間、最後の一人に

なるまで互いに殺 し合いをさせ られる。首にはセンサー と爆薬の詰まった首輪がはめ

られ、コンピュータによる遠隔操作ですべての行動が監視されてお り、絶対に逃げ出

すことはできない。クラスのすべての友人を殺 して最後の一人 として生 き残るか、あ

るいは友人に殺されるか、道は二つに一つ しかない。

何 ともや りきれない、荒唐無稽 な設定であるが、その時代背景は、完全失業率が 15%

を突破 し、失業者一千万人、全国の不登校児童 ・生徒 80万人、といった必ずしもあ り

えないとは言い切れない状況が下敷 きとなっている。旧来の基本理念では到底解決 し

えない深刻な教育問題、それへの最後の対応箔が、「強い大人」の復権であったO荒れ

狂 う子 どもたちに対する、大人の リベ ンジである。防衛庁や国家公安委員会の運営 ・

実行、BR法推進委員会の設置、文部省の管轄、また、BR法を陽気にコミカルに分か

りやす く説明するマニュアル ビデオ、そ して、北野武扮する担任教師が 「今日はみな

さんに、ちょっと殺 し合いを してもらいます」と呼びかける授業開始の-こま、いず

れも恐ろしいほどリアルである。

作家の福井春敏はこの映画を絶賛 し、次のように述べている。「生 きるためには戦わ

なければな らない と自覚 した上で、 しか し自分たちは拳を振 り上げることにため らい

続けるだろうと呟 く。それは暴力的な現実に抗 し得る唯一最大の人間的応答だ。憂 う

べ きは本作 を単に不快だと退け・・・て しまう大人たちがいることだろう。これを教育上

好ましくないと断 じる大人たちの 自信のなさこそ、少年犯罪の温床 となる (15)」。物理

的に言って、人は人を殺すことができる。ナイフを持 って突 き刺 しさえすればいいこ

とだ。 しか し、社会学者の宮台真司が言 うように、われわれは人を殺すことがで きな

い。他者 との社会的交流の中で 自己形成 を遂げたわれわれは、人を殺すことがで きな

-63-

Page 8: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

確かに、 この映画のような状況はあ りえるはずのない事柄なのかもしれない。 しか

し、 この映画に描かれた暴力の極限状況の背後に潜む問題状況は、あ りえないどころ

tns

' tu

かもしれない。

lS'ls

いのだ ( 。互いに殺 し合わなければならないという極限状況に置かれた、この映画6)]

の中の少年少女たちは、まさにそのことをはっきりと教えている。

か、現にわれわれの社会が直面 しているものに他な らない。教育 と暴力をめ ぐるこれ

までの言説は、いかにそれを隠蔽 しようとしてきたことか。ゲバウアとヴルフが、ジ

ラールの暴力論に神話的物語の可能性を見る ( )ように、われわれはこの深作の映画17

に、教育 と暴力をめ ぐる、実に衝撃白勺な現代の神話を見出すことができるだろう。日

常の絶望の中から、今、教育 と暴力について何 らかの希望的な物語を編み出すことが

できるとすれば、それは、もはやこのような神話の世界をおいて、他にあ りえないの

llhftesesca

)美学の用語としての 「ミ-メ-シス に関 しては、佐々木健一の」

)G , G.& Wu , C.Mime :Ku r, Ku ,G ,fl

99京大学出版会、 1

beauer1

2

(

(

:Ribkene

・S'ls 'ionltransa

rf iornila

h T ,Mlme

aPess, 9).13p.5991 ,

isE lngS299 , SAS.(

i(

<

mi

じる学習 と模倣、さらには、その模倣の身体的契機 について言及 している。また、

坂部恵は、「

)iontta 」 を捉え、創造にまで通

89

もどき>一 日本における模倣的再現の伝統について」 (坂部恵 『鏡の

なかの 日本語』筑摩書房、 1 9年、 8 6頁)という論文で、ア リス トテ レス流

89

の人間中心主義的モデルを越えた、超越者ない し神に似たものになろうと務める、

拡張された ミ-メ-シスのモデルを、日本の模倣的再現の ミ-メ-シス的伝統 とし

て考察 している。そして、坂部は、 日本語の<ふるまい>という 「行動」を表す語

について、<振 り> (模倣する)と<舞い>という二つの語源的契機 を指摘 してお

り、さ らに、<ふれる (触れる)>という語 と<ふ り (振 り) >(模倣する) とい

う語の間に意味論的関係を見出す考えを示唆 している (坂部恵 『「ふれる」ことの哲

学一人称的世界 とその根底』岩波書店、1 3年、『<ふるまい >の詩学』岩波書店、

itrs(},invU

lerag

B kl :ereey,

h V , 1

f' fCye yo

h bascenuc

A S ltr oc,

01・3

wo tTlh

t lurt,,

Ro

Clu

『美学辞典』 (東

5年)を参照。佐々木は、「倣 う (イミタチオ )」と 「写す (ミ-

メ-シス )」の両者を含んだ概念 として 「模倣

-4-6

Page 9: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

7年 )991 。「模倣」の問題を包括的に取 り上げた研究書 としては、村上隆夫の 『模倣

論序説』 (未来社、 1998年)を挙げることができる。この本の序論において、村上

は、ベ ンヤ ミン、 カネ ッティ、プラ トン、ア リス トテ レス、タル ド、アウエルバ ッ

ハ、ジラール らの著作 とともに、ゲバウアとヴル フの 『ミ-メ-シス』についても

簡単に言及 している。村上のこの著作は、「模倣」の哲学の体系的考察を目指すもの

であ り、以下のような基本的見解 が論述の基盤 となっている。- 「人間はその根源

的な模倣衝動のために、つねに互 いに完全に頬似 したものであろうとして平等性 を

求めて止 まない。 これに対 して文明化と啓蒙は、 この模倣衝動を抑圧 し制限 して、

人間の間に差異性 と不平等性をもたらす ことをその本質としている。この差異性 と

不平等性 によって、一方で人間は個体化 され、人格化され るのであ り、他方で社会

は組織化 され、構造化されるのである。 また、人間が互いに自分を他者から区別 し

て差異化 しようと努力することによって、人間は自由な個人 として確立され、社会は

近代的な社会 として不断に自己変革を行なうことがで きるのである。ただ し、模倣

衝動は人間の魂の基層 として全ての社会の永遠の基礎であるから、平等性要求は決

して根絶 されることはで きず、それ故に、模倣衝動 自身の一種の自己疎外体 として

の理性はつねにこの平等性要求 と闘わねばならない。 しか し、この要求が模倣衝動

に基づ くものであるかぎ りは、理性はこの闘いで完全な勝利 を収めることは決 して

で きない。すなわち平等性要求は、もしそれが満足されないならば、必ず個人の魂

のうちに、一方では憂苦の感情 を蓄積 していき、他方では他者に対する嫉妬の感情

をもた らしてい く。そ してこれ らの感情 は、個人の理性を蝕み、社会秩序を脅か し

てい くのである。前近代的な共同体 においては、共通の伝統 ・慣習 ・習慣が全ての

人間によって等 しく共有 されることと、定期的に形成される混沌 とした祝祭的空間

によって、憂苦 と嫉妬の侵入を防 く文明の防壁が築かれる。これに対 して近代的な

社会においては、差異性 と不平等性のための競争が、正義に したがって形式的な平

等性のもとで行なわれることによって、ひとつの防壁が築かれる。なぜなら、人権

をは じめ とする諸権利の平等な分配は、模倣衝動の平等性要求をある程度満足 させ

1・3るか らである。」 (村上 『模倣論序説』 1 4頁。)-このような文脈のもとで、村上

は自由主義と啓蒙主義的な人間観 を批判 している。 日本の伝統的な学びのスタイル

「については、辻本雅史 『学び」の復権一模倣と習熱』(角川書店、 1999年 )。

flGb &eauer)3( Wu, 't.,lopc. 3p.34-43S4. 5( ).81

-5-6

Page 10: ~-メ-VXフ視 ゥらゥス¥ヘニウ育 樋口聡 Violence...よれホ、ツl主`ニヘミ会を¥ャキるナャPハフツlフ主フォをナ大タクdキるW合 IネマOナ⦆る。アフツl主`ヘァxヨフスRを許eキるエ理ナも⦆り、スRフ許e

「学校 と暴力」『子 どもの嘘 と秘密』筑摩書房、 1 099 年、6 7頁。

Wu, 1(

「催眠 と模倣一群集論の地平で」『思想』第 70号、 1 6年、 1 3頁 。1・2

9・8

895

fl ).662・332p.73・72S3.,,'tlopc.

77・

体罰の歴史と思想 :J.ロックの教育思想を中心に」小林登ほか (編)

Yuasa12

6頁。

講談社学術文庫、1990年、 頁。 ( ,

9文明化の過程 (上)(下)』法政大学出版局、1

ewti inverstta・yh leodoB-dn'm Ml yT ,S eU yofN

4『新 しい子 ども字 2:育てる』海鴨社、 1 年、 3689

)江森一郎 『体罰の社会史』新曜社、 1 9年。8901(

頁。

過酉告な現実への人間的応答」 (映画 『バ トル ・ロワイアル』のパンフレ

頁。917少年 と性 と殺人」『大航海』第 3 号、200年、 7

412・21年、 2379

kPess,

)今道友信 『美について』講談社新書、 1

rYor

41(

).36

).662p.6S3.'t.lopc. , 9(

, 6(2p.6S3.'t.lopc.

)富永、前掲論文、 1 頁。

)亀山、前掲論文、 73頁。

8

9

(

(

danE tase

,

Towar

7891

51・4

5).2p.

fl&Wu,Gbeauer)71(

)亀山佳明

)

)富永茂樹

Wu,fl&

Gb &eauer

Gbeauer)

4

5

6

7

(

(

(

(

8年。

)寺崎弘昭 「

7

21(

91

)湯浅泰雄『

heBod:yY T.

31(

)福井春敏 「51(

)宮台真司 「61(

(ll)ェ リアス (赤井慧爾ほか訳)『

身体論 :東洋的心身論と現代』

ット)0

-66-