こ 主 み な け は る で 張 が っ 出 て 方 い 宗 は 今 〈特集「比較 … ·...

4
〈特集「比 麿

Upload: others

Post on 31-Aug-2019

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: こ 主 み な け は る で 張 が っ 出 て 方 い 宗 は 今 〈特集「比較 … · 宗 〈特集「比較を超えて―浄土教とキリスト教―」4〉 教 多

〈特集「比較を超えて―浄土教とキリスト教―」4〉

宗教多元主義と浄土教

今日のキリスト教神学の一部にお

いて

は、宗教的な真理は唯一

ではなく、多数存在しうるということが唱えら

れて

いる。

いわゆ

る宗教

多元

主義の

主張であ

る。現代

の社

会状況

を考え

る時

、それ

はいちじるしく国

際化し

、また情

報化も進んで

、価値に対

する考

方もきわめて多様化して

きて

いる。そのような社会的動向をう

けて、世界の諸宗教

においても、従来の枠組み

を超えてさまざま

な出

いが

はじまり、ま

た相互

の対

話や

連携も

生まれ

るよ

ってき

た。

その

点、

キリ

スト教神学

が、かって

の自己

の教説

みが真

理で

あると

いう排

他主義

をやめて

、新しく宗教多元

主義

主張

するようにな

ってき

たのは、理由あることだと思われる。そ

こで

この問題について

、私たち仏教、浄土教、こと

には親鸞の浄

信 楽 峻 麿

真宗の

立場

からは如何

に考える

かということである。私は基本

には、浄土教、浄土真宗

においても、この宗教多元主義の主張

に対して

は、賛

意を表す

べきであ

ると思う。以

その

こと

をめ

って若干

の私見

を開陳す

ることとする。

親鸞

の立

日本仏教は、中国、韓国を経由して、六世紀の中頃に伝来した

ので

あるが、仏教思想が日本

に受容されるにつ

いては、伝統の

日本神道の観念と重層

融合しつつ流布されるという側面があ

った。

いわゆる本地垂迹説

といわれる神

仏習合思想の展開であ

る。たし

かにある思想、文

化が。全く異質

の文化的土壌に移植されるにつ

いては、何らかの形

態をも

って

、先住の文化状況と融合しながら

受容されてゆくと

いうことは、必然的な現象と

いわざるをえ

ない

Page 2: こ 主 み な け は る で 張 が っ 出 て 方 い 宗 は 今 〈特集「比較 … · 宗 〈特集「比較を超えて―浄土教とキリスト教―」4〉 教 多

であろ

う。そ

の点、日本仏教は、その伝来、

流布については、仏

教本来の意

義から

すれば、その当初から

、いささか屈折しながら

受容され、伝藩してい

ったといわねばならないようである。

しかしながら

、この日本仏教も十二世

紀の中

頃になると、法然

の浄土教を先駆

として新しい仏教理解が生ま

れてきた。

いわゆる

鎌倉新仏教の誕

生である。この鎌倉新仏教の特色としての性格は

選択の思想である。すなわち、ただこのことこそが唯一真実であ

るとして、その教法、行道を選

び捨て選

び取

って専修して

いった

わけである。それまでの仏教は、多様な価値

を同時に包含し、ま

た異質

なも

のとも

重層しながら雑修的で

あったが、この鎌倉新仏

教において

は、そういう雑修性

を悉く排して専

修の立場に立

った

のであ

る。

そしてここにおいてこそ、仏教の本意がも

っとも鮮活

に開顕

されたわけであり、またそれにおいて

こそ、まこと

の仏道

がたしかに成立することとな

ったといいうると思われる。法然

おける専修

念仏、親鸞における唯以信心、道元

における只管打坐

の仏道である。その専と

いい、唯といい、只

管と

いう言葉

は、ま

さしくこの選択の思想をも

っとも端的に表詮するものであろう。

このような選

択の思想

については、ことに親鸞において鮮明で

ある。親鸞

は法

然を継承

して一切

の雑行雑修

を排し、「ただ念仏

のみぞまことにしておはします」(『歎異抄』)と主張

たが、また

その念仏の内

実までもき

びしく

詮索し、選択し

て、「ただ

信心を

とす」(『歎異抄』)とも明

かした。その点、親鸞

は、従来

の仏教

が容認していた日本神道との重層

を意味する本地垂迹思想を徹底

して排除し、神祇不拝を主張した。親鸞

において

は浄土教はも

とも純化したわけである。しかし

ながら、親鸞没後の浄土真宗

おいては、その親鸞の本意を見失

って、再び日本神道と癒着す

こととなり、その後の歴史的な変遷もあ

って、今日の浄土真宗

おける信心は、多分

に日本神道と

重層し、習俗化しているといわ

ざるをえな

いようである。その意

味にお

いて浄土真宗は。すみや

かに開祖親鷽の立場

に明確に回帰し

、その選択の思想に基づいて、

日本神道との癒着

から明確に解放

されるべきである。このこと

今日の浄土真宗

における伝道教化

についての最

大の重要

課題

にほ

かならない。三

多元

主義

親鸞の浄土教、浄土真宗の立場

は、すで

に上

に見た如く、ま

たく主体的

に、本願念仏、信心を唯一絶対なる究極的価値、真実

として選択するところに成立するものであ

った。そのような宗教

的な選択

は、伝統

的、思想史的な教系に縁あ

って邂逅するという

契機と、それ

に対す

るま

ったく主体

的な思惟と決断、すなわち、

客体的な有縁の歴史と、主体的な決断の

クロスす

る地点において

成立するものであ

るが、このような選択

においてこそ、よく宗教

的世界、仏道

は開けてくるわけで

ある。唯一絶対なる宗教的な究

極的真理としての何

かを選び捨て選

び取るという、そういう究極

Page 3: こ 主 み な け は る で 張 が っ 出 て 方 い 宗 は 今 〈特集「比較 … · 宗 〈特集「比較を超えて―浄土教とキリスト教―」4〉 教 多

なものと

邂遇し

、その一点に立つことなくして

は、あらゆる世

俗の相対化

、そ

の一切

の価値を悉く虚妄なるものとして否

定する

いうこ

とはでき

ないし

、また従

って、浄土まで

をも見

通しうる

うなまことの仏

道は成

り立ちようもない。それ

はあたかも、た

だ一本の主軸

に基

づいて

こそ、よく車輪が廻

り、またただ一点を

点として

こそ、

よく

テコの原

理が成り立つよ

うなもので

ある。

しも二本も三本も主軸

があ

ったので

は車

輪は廻転す

ることは出

ないし

、また二

点も三

点も基

点があったので

はテコの原

理が成

立しえな

いようなものであ

る。

ただこのことひとつこそ真

理、真

実であると

いう、徹底した究極的

な選択

においてこそ、よ

く世

的価値が否定され、またそれに即してこそ、よく仏道は成

立す

ものである。

世界における諸宗教が説くところの究極的な実在、真理とは、

それぞれの文化的背景に基づいて捉えられたもので、それ

はき

めて複雑であり、多様多岐にわたり、その真理については多元的

に捉えられるべきで

って、宗教的究極的な真理は数多く存在す

るというような発

想では、とうて

いこの一切の世俗的価値を徹底

して相対化、ないしは否

定すること

は不可能であり、また従

って

真実への道は決して成立することはありえないと思う。かくして

そこでは、まこと

の意味での信仰、信心というものは現成するこ

とは不

可能で

ある。真の信仰、信心という宗教

的経験は、このこ

とこそが唯一真理で

あるという究極的な選択を立場

として

こそよ

く生まれてくるものであ

る。かくして浄土真宗

にお

いては、この

よう

に本願念仏こそが唯一絶対で

あると

いう立場に立つものであ

る。とすれば浄土真宗に

おいて

は、そのような自己自身の立場

保持しつつ、なお宗教多元主義をいかにして是認しうるであろう

か。更に考察をすす

めることとす

る。

仏教において

は、この宇宙世界

におけ

る一切の現象、存在は、

すべて縁起、因

縁生起として成立して

いると説くものである。す

なわち、

「此

あれば彼

あり

、此れ生ず

るがゆえ

に彼生

ず、此

なけ

れば

彼なし

、此れ

滅するがゆえ

に彼滅す」(原始経典)

と説かれ

る如く、す

べて

の現象や存在は相依、因果

の関

係におい

成立するも

ので、結果

をもたらす

ところ

の原因

(因)が

条件

(縁)をも

った時

にこそ

結果が現出し、そ

の在り

方はそ

の条件

って決定される。

そして

その原因やそれにかかおる条件がなく

なれば結果は消滅す

ると

いうわけである。かくしてこ

の世界の一

の現象、存在

は、私自身

の存在を含めて

、す

べて無常

にして無

我な

るものであり、

それ

は有

にして無、無にして

有な

る、仮な

存在

にほ

かならな

いと

いうこととなる。仏法を学

んでそ

の真理

深く

めざめるもの、親鸞

の立場からいえ

ば、そ

の本願念仏の道

いて信心の智慧をうるものは、そういう仏法の道理

に照射され

つつ、自己自身の存在の縁起性、無我性

につ

いて深く教えられ、

それにかかおる自己の我執性、虚妄性をき

びしく凝視し、それに

Page 4: こ 主 み な け は る で 張 が っ 出 て 方 い 宗 は 今 〈特集「比較 … · 宗 〈特集「比較を超えて―浄土教とキリスト教―」4〉 教 多

めざめて

ゆくこととなるのであ

る。

そして

そこで

は必然に、つ

に自己存

在を相対

化し、空無化しつ

つ、自己

に対

する他者存在

ありのま

まに是

認し、それを尊重す

ると

いう視

座がひらけて

くる。

れは自

己存在

とまったく同じ価値

をも

つものとして

の他者存在

の発見、

それ

に対す

る無条件的の承認であ

る。

そのことは聖徳

の言葉で

いえ

ば「我

必ず聖

にあらず、彼必ず愚

かにあらず、共

に是れ凡

夫のみ」(『十七条憲法』)という世界である。

その点

、親鸞

は、その念仏、信心を選択するこ

とにおいて、古

の日本神道をき

びし

く退けて神祇不拝を主張し

、そ

のよう

に門

に教示したが、ま

た同時

に、神祇を侮ることがあ

って

はならな

いとも教誡して

いる。このように神祇不

拝を主張しつつ、またそ

の不侮を語

ったと

いうことは、再

び神祇の崇拝を肯定し

、そのこ

とを曖昧

にしたと

いうことではなく、神祇不拝を

主張しつつも、

にそのような神祇を信奉している人

々の存在そ

のも

のに対して

は、そ

れを是認

し、尊重す

べき

であ

ると明

かし

たと

いうこ

とで

った。すなわち、その日本神道が説くところの究極的

な真理、

実在を、自己の選択した究極的真理

に対等する真

理として是認し

たので

はなく、その神祇を信奉する人々の存在を肯定し、是認し

たので

ある。ここに親鸞におけ

る他の宗教

に対

る基本の姿勢が

ったのである。

かくして

浄土教、浄土真宗においては、その宗教的な選択にお

いて

こそ、はじ

めてこの世俗を超えて宗教的世界

が開けてくるこ

となる。そして

そこ

にこそ、はじめて

仏道が成

立すると

いうこ

において

、自己

が選

び取

った究極的真理は唯一絶対なるもので

って

、その意

味においては、宗教的真理は数多

く存在するとい

う如き発

想には与

しえな

いこととなる。し

かしながら、上に見

如く

に、仏

教の立場

からするならば、そのような徹底した宗教的

な選択

において究極的な真理を身にうるならば、仏教が教示する

ところの縁起、無我の道理にし

たがって、自己自身を相対化し、

自己

に対す

る他者

の存在を無条

件に肯定し

、それを尊重すると

う世界が成

立して

くることとなる。す

なわち、ここでは自己自身

が選択し信奉す

るところの、宗

教的な究極

的真理を唯一絶対

なも

のとしな

がらも

、しかも同時に、自己

に対す

る他の諸宗教を信奉

る人

々の存在

を肯定し是認す

ること

において、間接的にで

はあ

るが、それ

ぞれ

の宗教、それが説示す

るところの各々の真理、実

在を

いち

おうは肯定することと

なるわけである。私はいま浄土真

宗の立場

に立ちな

がら、このよ

うな意味

にお

いて、今日いわれて

いるところの宗教多元

主義を肯定し、その主張に賛意を表したい

と思う。

(しがらき・たかまろ、真宗学、龍谷大学名誉教授)