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Page 1: し こ れ は 土 檜 れ こ は 澤 化 問 と 的 宗 豪 や の さ 土 曾 ...人 文 學 論 集 念 佛 聖 が 堂 庵 に 掛 錫 し た り 、 あ る い は 寺 院

土宗寺院

の開創傳承

より

みたる

(ひじり)の定着

ついて

現在の深土宗の寺院配置がきまつたのは、戦國の動齪がつづく天文

(一五三二

一五五五)から徳川幕蓮

制の基肇

確立する築

(=能

嘲)頃まで

の約

の問

とりわけ織豊による溜

が進む歪

(一五七三

一五九二)

から寛永までの七〇年間においてであつた。すなわち澤土宗は時代の

過渡期たる十六

・七世紀、

つま

り申

・近世の交を中心に著しい嚢展を

みたわけであるが、この時期こそ現在の教團と直結している近世深土

宗教團の形成期として重覗され

るのである。

中世深土宗教團は、ひじり的鋤化僧を中心に、特定の都市寺院を除

けぼ主として村落の佛堂

・寺庵を基盤として展開した教化者教團とし

て性格づけられ、江戸時代のそれは、前代に澤土宗寺院化した無名群

小寺院を底邊として頂黙に本山をもつ、法的に規制された巨大な制度

化教團として把握されるが、職國

末期から江戸初期にかけてのこの形

成期には、教化者教團から制度化教團.へ移行するにともなつて生ずる

浮土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

種々の問題が内抱されている。例えば教化者教團の捲

い手であ

つた遊

行的渤化曾の深土宗寺院の新造立や堂庵の深土宗化

への關與、遊行鋤

化信の澤土宗寺院

への定住などの問題がある。

(2)

筆・者はさきに、近江における漂土宗の展開を論じたことがあるが、

その際この教團形成期の諸問題に言及し、特に寺院の開創者と成立契

機に鯛れ、開創者のタイ。フに蓮肚號

・轡號をも

つた深土宗侶、道號だ

けの李檜や道心者、または阿彌號をも

つた民間僧などがあり、彼らが

領主

・土豪

・有力武士

・農民の援助によ

つて新たに澤土宗寺院を造立

したり、宗派色の定かでない在地の佛堂

・寺庵や荒屡嚢退した他宗寺

院を澤土宗寺院化していることなどを指摘した。この時資料として用

いたのは

『蓮門精舎薔詞』(以下、奮詞と略稻)であつたが、例詮が近江

に限られ、しかも近江寺院

の寺傳

の書き上げ方が比較的簡軍な方なの

で、遊行的念佛聖としての開創者とその事蹟について特に立ち入

って

べることはしなかつた。

しかし

『薔詞』を近江に限らずひろく他國にも目を通すと、漂泊の

九七

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念佛聖が堂庵に掛錫したり、ある

いは寺院を造立して、次第にそれら

の寺庵

へ定着していく所傳が少なからず累げられているので、右にの

べたような遊行勧化曾

の深土宗寺院造立とそれ

への定住

の問題を考え

る上に、

『醤詞』の傳承はこれを有力な資料として提供するこどがで

きる。

『奮詞』の傳承資料については傍詮文献の存在が期待しえず、

民間寺院の傳承資料はどこまでい

つても傳承としての性格を彿拭する

わけにはいかな

いが、その彪大な傳承の集積は動かし難い歴史事實

 M 

反映と考えられるので、数多くの傳承資料が語りかけてくる

一定の傾

向性についてはその歴史性を認めてよ

いであろう。

『奮[詞』の史料性

(4)

については既に論じられている。

そこで今度もまた

『奮詞』

の傳承を中心に、先きの考察では言及し

なかつた漂泊、廻國

の念佛教化者

を近世潭土宗教團形成期の中で追究

してみたい。

まず回國遊行の勘化者が民間浮土宗寺院

の成立にどのように關輿し

ているかを、

『薔詞』の所傳にしたがつていく

つかに分類

う。回國

・止住というとに重黙を置くと、A行脚-止住i行脚、B行

脚ー定着の型に二大別でき、さら

にA

・Bとも止住又は定着の寺庵に

ついて

ω既存の佛掌

寺庵と、@新造寺輿

嘱繍

寺)の

揚合とがある。師ち

e回國の途中、既存

の堂庵に止住してこれを浮

土宗化し、再びここを立去る

(Aーイ)、

口回國の途上、有縁の土地で

村人などの援助を愛けて新たに浮土宗寺庵を造立し、しぼらく居住し

九八

ら再

(Al

・)、

翫存

の堂

に行

の足

を洗

い、

こに

永年

か、

いは

で定

(Bー

イV、

四縁

て新

の寺

永年

か、

こに

(Bl

・)な

の場

る。

てA

B

の場

の僧

は大

て申

とさ

(澤土宗

として再出襲したことか

ら開山とされる場合もま

~ある)、

A

B

の僧

は開山の地位が與えられるのが常である。勿論す

べてがこの四分類の

いずれかに該當するとは限らず、剣然となしえないものもあるが大禮

において右

のように分けられる。では具盟的に寺傳をみてみよう。

ω

專稔寺

(讃岐國塩飽島笠島浦)

開基者建永

二年三月

二十六日、當嶋之地頭駿河権守高階保遠入道西ヲ

忍館江元祀法然上人御着被遊、保遠餓依不淺上人暫御逗留之虞庵室

令起立、依之、保遠館之前有此寺、其後及大破候塵、天正六年徳讐

道泉法師申僧無何國共來令再興、徳讐道泉法師以爲中興開山、其後

修行出再不蹄寺

(下略)

(第三六冊)

これはAーイ型の

一例であ

つて、專稻寺は法然配流の地に縁因をも

つ寺院であるが、傳承によれば天正六年に徳轡道泉なるものが、どこ

からともなく現われ、大破した寺を中興し、さらに修行の旅に出て再

び蹄らなかつたという。

昭專寺

(越後國魚沼郡小千谷村)

開山現蓮耐CII讐上人、開基天正二年之頃、從關東令行脚當地之鎭守

日光大明神之於宮所施説法教化、依之、他門之道俗男女靡化風、剰

近里澤土之門葉依無之幸

一寺令建立、然而後極於随縁撮化之旨途暫

住、既遍歴修行之身成畢故邉化之日限不正、勿論開山

一代之記録等

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行年不知

(第二八冊)

この所傳はAー

ロ型に属する。

昭專寺は天正

二年現蓮杜日讐上人に

よつて開かれたが、日讐上人は關東から越後まで行脚し、

ここ小千谷

の鎭守肚頭で教化したところ、村人

の鋸依を愛け、

一寺を建立せし

め暫らく住していたが、再び遍歴修行

の身となつたので、寺としても

遷化の年月や

一代の記録は不明であるという。

㈲ 

長幅寺

(大和國添上郡南都)

當寺者聖武皇帝天李年中之草創也、爾後慶紹而経年月、巳上傅聞、

然慶轡了把中興而爲深土宗之寺也、了把姓氏者淺井氏生國江州淺井

郡、幼少而成出家

(中略)

盛年之頃編歴四國及三度、其後於大和國

六條締草庵而居十絵年、從其於奈良佐保川邊中興當寺、興口不断念

佛勇猛相勤三千日也、於其間而奇瑞不少

(中略)

了把遷化者於命絡

(期)

十年前寛永六年六月廿三日蒙弘法大師之告夢預知死後、.寛永十五年

三月廿

一日正午時五十五歳而向面西方請廻向文合掌結坐速途住

(往.

生脱.)具、如新選住生櫓傳、起

立元和年中了把大徳初起而念佛修行

之道場也

(第六冊)

長幅寺は慶春了把によつて中興された寺である。中興者の了把は、

元和から寛永十五年まで長輻寺に住

して死を迎えたが、彼は四國を編

歴すること三度、十絵年間草庵生活を途

つて

長輻寺を中興した

が、不断念佛を勇猛に勤め、十年

も前から死期を知

つていた。了把

生涯はまさしくひじりのそれであ

つた。この所傳はBーイ

の例

る。ω

專念寺

(豊後國大分郡臼杵領佐柳村)

浮土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

開山法蓮肚雲讐上人了産和尚生者予州人也、六十六部之修行回國而

慶長六辛丑來此地、當所之人等願之佐抑村令住居依專念寺建立、雲

讐慶長六辛丑年

ヨリ寛永九申年迄三十二年住職也

(下略)

(第四+冊)

これはBー

ロの例である。六十六部

の回國聖了産は佐柳村

の人々の

願により、新造立の專念寺に入つて、定住するこど三十二年、

ついに

當寺で残したが、彼は伊豫國

の出であつた。

これらはそれぞれの型

の例謹として掲げたものであるが、同様な例

は他にも多く學げることができる。

〔Aーイ〕豊後國日田郡羽田村常

輻寺開山の念佐

(讃蓮肚誠暮目)は寛永六年回國のため越前國から當地に

來留し、阿彌陀堂を浮土宗寺院にして澤福寺と號し、この寺に六年間

住職していたが、再び越前國

へ還

つたという

(第四十冊)。また阿波國

海部郡完喰浦長輻寺

の開山日快は、天正年中堺からやつてきて、念佛

弘通の本意を途げるや、また堺

へ鯖

つたというが、

『奮111�cには

長福寺

(阿波國海部郡完喰浦)

天正年中之頃堺浦

ヨリ日快上人ト申勘化弘通之沙門回國シテ、當浦

彌陀堂

二止住シテ四十八夜別時念佛等ヲ勤行

シ、彌陀悲願之趣キ殊

二渤進有、此根源當浦者眞言所被之機

二而此

一宗繁茂

二而此

一宗

繁茂

二而本願念佛之興業無

カリキ、日快上人之渤化

ニヨリテ念佛鋪

依之檀越過孚タリ、依之澤土宗相績仕候、然而彼上人弘通建立之本

意ヲ途ケ、其已後堺浦

ヱ蹄ラレ、有縁之檀越信心増進之爲

ニトテ、

大日本國

二一二禮之塞像御長二尺五寸絵之立像歯生之彌陀如來於當浦

(當力)

之檀越而贈與給

ヱリ、今尚堂寺之本尊是也

(第三六冊)

と當時の傳承が載せてある。

〔Aー

ロ〕武藏國荏原郡三田寺町願海寺

九九

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の開山尋西

(澄蓮肚誠轡)は、修學

ののち諸國を遍歴し、安藝廣島に般

舟寺を建て、

のちこれを弟子に付囑し、また關東に下向して願海寺を

創建したどいう

(第+九冊)。

また豊後國海部郡臼杵村龍原寺の開山路

(笈蓮肚圓轡)は、關東から豊後

に下向した檜であり、龍原寺のほか

に幅良村構名寺、毛井村龍泉寺、廣原村龍昌寺を造立し、のち再び關

東に向い、途中山城伏見にも龍原寺を開き、さらに江戸八丁堀に龍源

寺を起立した。臼杵龍原寺、伏見龍原寺、江戸龍源寺とも路廓の残年

についての所傳は

一致している。信濃國河中島上田領内氷鎗村境輻寺

の開山とな

つた閣公

(崇蓮肚善轡)は、

「此櫓以爲道者故令回國、當國

詣善光寺」

つて小庵を立てこれを寺院としたが、

「三十絵年之後他山

不知」という具合であつた

(第二六冊)。

〔Bーイ〕豊後國海邊郡佐賀關回向院の開山源歴

(信蓮肚深讐)は武

の人であり、

「爲回國來干此所」た折、無住であ

つた正念寺に寛永

九年から十三年間住職し、正保元年から回向院に隠居した

(第四一冊)

越中國富山西養寺

の中興開山たる順如は、立山参詣

の時砺波郡にある

荒屡した寺を復興、

これを西養寺

と號し、慶長六年所替によつて富山

に移

つたが、

鷹安六年に残するまで定住したという

(第四二冊)。また

周防國熊毛郡三輪村澤國寺

の開租たる光轡上人は、天文年中に十

一面

観音の塞地に掛錫し、受戒念佛を弘めて

一宇を建てるに至

つたが、

れが澤國寺であると傳えている

(第二七冊)。〔Bー

ロ〕豊後國速見郡轟

川村の信行寺開山

一故和尚

(誠蓮肚深轡)はこの村

「下着」して

一宇

を造立し、慶長九年まで四年間住職して、

當寺に残したという

(第四

+冊)。同國大分郡生石村澤土寺

の開山畳了

(圓蓮肚満轡)は

遠江國か

一〇〇

ら行脚し來たり、明慮九年毛井村に

「下着」し、浮土寺を立て

一年間

滞留したが、翌文象元年生石村に來て澤土寺を開き、大永六年まで二

十六年間定住した

(第四+冊)。

會津若松の秀翁寺の開山良善

(選蓮肚)

は、越後の下田から遍歴の族に出て、

慶長三年若松

秀翁寺を構

え、奉持してきた善光寺佛を安置し、居ること十三年にして慶長十五

年に寂したという

(第四八冊)が、この良善は善光寺聖とみられる。

次に、ひじり的教化僧が古跡に庵を結び、これを浮土宗寺院化し定

着していく典型を掲げておこう。

西方寺

(河内國石川郡富田林)

當寺起立之由來、光讐長山

(中興開山寂蓮杜光署上人長山和尚、姓氏生

國井剃髪付法之師修學之槽林等分明不知

)遍歴諸國

タル

時年四十有鹸詣紀州高野山蠕期偶宿當虞、蓼繕境勝レ他星霜年奮肚ノ

在焉、求二威之者一間二其事跡一人々答日、傳聞此威佛法最初聖徳太子

アリ

スト

タルヲ

時之寺、中古因二大地震一破験、

於レ是光轡頻議一一縫レ断之志一相二料村

一乃

二小

一、不

レ邊

レ求

二佛

一偏

二西

脳構

Kanト

(後)

1j1T

11於

一不

二敢

111IIU

レ分

ご書

一、

々放

レ光

人、或夜夢珠勝佛像來告日、吾在二此池一待レ汝日渣汝何不レ迎、夢罷

堕荏

レ告探二池中稟

得二篠

鐸謬

太歪

作阿彌陀佛穣

也毬尺

感涙

レ裳

レ骨、

二庵

一、

々追

レ日増

(後)アテ

スル・ト

二山

一復

ニ1寺

,名

二長

一、

日在

二先

(後)

一、

二干

一不

二吾

一、

クシテ

伊藤左馬人爲二秀吉公代官一支配當庭、或日早朝狩出霧深人馬難レ進、

ソヤ

傍待

二晴

一乃

二佛

一問、

二先

一iri,�11

コトヲ

シテ

カラソコトヲ

ケトモ

スルニ

塞験多一、左馬鮎頭所二今日之禽之多一、光讐嘆不レ勝レ制唯偏向レ佛慈

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スルニ

ニシテ

念、左馬狩寛日不レ得二

一禽一、

大叱

是今朝佛像或法師加持力之

所爲乎、告二從僕一日須蜀僕便擢

レ像罵二光巻

一館、其夜左馬痛苦甚焉、

スル

ニテ

レカ

ヤト

自知二前罪所致一馳レ使追悔、途中逢二光讐赴7淀、使者日師何

行、光

巻云吾爲下乞二往來之助力一、修申罹破之佛像上赴レ淀、

使者伏乞ご和睦一

シテ

噺憶繊悔再二興佛像一

勲通二左馬追悔之志一、光轡諾、

左馬之悩忽愈、

復資二光讐建立之志一、絡螢二成此

一宇

一名日二西方寺

一、時年天正十五年

傍號二天正山一、

其后片桐市正當虞検地之時境内梢減蓮池成レ田、又

ニテ

當時鎭守當國金剛山鎭守同

一、肺武天皇仲哀天皇鷹神天皇等三十八

舳㍗リ故院號名二神宮院イ傳聞三十八紳証宅親房卿諸肚事 往楠正成當國

ニテ

ナリキ

ノミ

ニテ

所領時金剛山上宮當祉下宮大杜、

今惟毛人谷村當肚之氏子毎歳九

ノミ

月四日執二行祭禮一是其逡事耳

一、中興開基從天正十五年

丁亥至元緑九年丙子百十年

一、右之本尊號蓮池如來、在干今

一、傳聞往古號澤土寺大寺由、有池號寺池、今猫存

一、傳承有、淀様舗依之由、從権現様爲舞領地之由

一、中興開山光讐入寂元和

九癸亥年八月二十

一日、壽八十八

これは元緑九年六月八日、時

の住職宣碁玄澄が知恩院役者に差出し

 ら 

た寺傳であるが、この所傳には民間寺院成立に關する種々のタイ.フの

傳承が纒

いついている。O往古

は澤土寺と號した寺院であ

つたらしい

が、聖徳太子に關連づけた傳承

が成立していたこと。およそ古跡を聖

徳太子、行基、空海など民間に著名な櫓俗に結びつけている寺傳は枚學

に逞がない。口中興開山

の長山

が蓮杜讐號を有した宗侶として傳えら

れているが、

いま問題としている諸國遍歴

の遊行聖的タイ。フであるこ

浮土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

と。造寺、佛像修理などの勧進聖でもあ

つた。⇔蓮池如來なる本尊諌

を有すること。佛像が光を放

つて所在を示し、地中又は池、河などか

ら取り出して祀られんことを望む話は餓異記その他に多く出ていると

ころであり、後に掲げてある資料⑳も『奮詞』におけるその

一例である。

またこの像が聖徳太子の作と傳えられ、ご尺

一寸の小像であることか

ら、聖が奉持していた佛像かと思われる。

一般に本尊の出現諌や伊藤

左馬に關するような塞験諌などは聖が弘めたものであるが、ここでも

その可能性が十分考えられるのである。四寺院の建立には本尊又は聖

(住職)の塞異乃至

働化に鯛議された特定の人物が外護者となつたとい

う傳承が少なくないが、ここでも蓮池如來、長山和尚、伊藤左馬らの

三者が揃

つて、はじめて西方寺なる寺院が出現している。㈲寺院

の山

號院號はその成立事情をある程度示す場合が多いが、西方寺の山號は

造立年時、院號は鎭守就に因

つている。村の鎭寺肚と寺院との存在形

態は、今日みる限りでも混融している場合が多

いが西方寺は鎭守肚の

杜頭に造立されたのであろう。西方寺の開創傳承は神杜の堂庵を素地

(6)

として成立する寺院

の存在を想起させる。長山は肚頭聖ともみられ、

ωで學げた日讐上人

のごとく鎭守

の祉頭で説法教化に當

つたのであろ

う。碑佛習合形態は民間宗教

の一つの特色である。

ここで、右

の諸資料を通して出てくる

O廻國聖としての開創者

構號、口宗侶

(蓮祉號讐號所有者)

の場合、修學と回國時期との關連、

㊨本尊と廻國[者との關係などの問題についても鰯れるべきであるが、

これらについてはいずれ後

で述べることにする。

ともあれ右のような傳承資料

から、民間浮土宗寺院の成立には回國

一〇一

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行脚の教化僧が介在し、教化僧もまたこれら民間寺院に滞留乃至定住

していく傾向が看取され、そのことは特に僻遠の地に顯著に認められ

るようである。このように近世澤土宗寺院

の成立期にあつて、教化僧

と寺院の結合が進んでいつたことは、中世

の教化者教團から櫓侶が寺

に固定され、その状態が恒常化した近世教團

へと移行していく過程

一面を示すものとして注目に便する。

中世

の民間群小寺院-寺庵

・佛堂的なーにあつては、必ずしも僧が

定住せず、むしろどこからともなくや

つてきた教化者が

一時的に滞留

し、村人を集めては教化渤進し、またいずれへともなく立去るという

のが普通であつた。佛堂

・寺庵

は漂泊の宗教者の寄留所であ

つた。こ

のような民間佛教の中世的様相

『奮詞』の所傳からも窺われる。

ω

玄忠寺

(備申國小田郡笠岡村)

當寺開基之濫膓者昔有

一宇梵閣、安置彌陀尊躯貴賎運歩、然文象年

中有料緻之沙門自構其名忠圓

、恵心之筆曼陀羅

一幅竪五尺六寸横五

尺四寸、荷負來而掛彼堂及講談数席、以藪鋸依之輩繁信仰之族多、

爾彼信講鑓絡而永失所在

(第三三冊)

蓮生寺

(但馬国國氣多郡審田村)

(國力)

開山熊谷蓮生法師號、其由來尋、彼法師或時廻向之醐此虞往暮、辻

堂宿通夜高聲念佛唱、聞者感催、運

一心清漂土歩人

自貴敬佛

閣建

立、邸蓮生寺名而己淺、早立出族之天吾妻路志行、無程武藏國村岡

云所錐居云々

(下略)

(第二九冊)

ωに出てくる忠圓なる料撤沙門は、來迎圖をも

つて村々の佛堂から

佛堂

へと廻り、村人を勘化したひじりであり、㈹からは、行きくれて

一〇二

とある辻堂に泊り、通夜念佛を行なう廻國遊行の念佛ひじりが髪髭と

んでくる。また

澤念寺

(越後國岩船郡村上)

開山澤念明慮年中廻國之曾來托鉢弘通念佛佛名言浮念、又他國之商

人此地移住見彼僧殊勝而仰信之、又歎無念佛宗爲結草庵令住職、澤

(僧脱力)

念念佛興行十箇年也、永正年中往生 、其後廻國之來住印以浮念爲

號也

(第二六冊)

とある如く、廻國僧が定住して残した後の寺には、同様

の廻國僧や

つて來てが入寺したのである。止住の期間が長期にな

つているとは云

え、村堂がひじりの到來を次々に迎えたのと原則的にはかわらなかつ

た。以

上のように廻國

・止住に關する

『蕾詞』の所傳から、鎌倉

・室町

に顯著な存在であつた遊行聖の活躍を申世の終末期、立場をかえてみ

れば浮土宗近世寺院の獲生期においても認めることができ

ので

る。

「廻國行脚」

「遍歴修行」の櫓などと表現されているが、要する

に遊行聖の傳統をもつたこれら教化者が、澤土宗教團史上の中世と近

の賑絡に寄與したことは否めない。そこで回國聖的特色を帯びた教

化曾が澤土宗寺院を造立したり、堂庵を深刹化して定着してくる時期

をみるど、計敷的な威理を試みたところでは、天正ー慶長

の頃、特に

慶長年間に集中するようである。ちようど江戸幕府

の政治支配罷制に

佛教が組み入れられ、櫓侶寺院に封する統制が加えられたのが、家康

晩年の慶長末から元和にかけての時期であるから、聖的宗侶の定着に

幕府の宗教統制が關係していることは明らかである。

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廻國遊行

の聖として現われる澤

土宗寺院

の開創者

(開山又は中興開山)

に樹してどのような法號が與えられているかは、彼ちが澤土宗敏團と

どの程度のかかわりをもつかを示すものとして注目される。蓮耐號讐

號をも

つているものと道心者とよ

ぼれているものどでは、教團内部に

おける地位に相當な差位がある,蓮肚號

と阿彌號との場合も同様であ

る。開

創者に封する法號について奮詞の記載形式を検討すると、O蓮祉

號讐號をもつているもの、口蓮阯號又は響號だけをもつているもの、

㊨阿號をもつているもの、四阿彌號をもつているもの、㈲軍に入道名

だけで法號

のないもの等

の諸類

型に鋸納できる。當然のことながらO

から日までは必ず道名がわかつている。しかし国と絢とは阿號又は阿

彌號それ自禮が信名となつている場合が多く、讐號と組合されている

ことも少なくない。廻國聖とし

て現われる開創者をこの分類にあてて

みると、そのいずれのケースも存在するが、遊行聖という概念からす

るとちよ

つと案外なのは、Oの場合が比較的多

いということである。

前節に掲げた開創者でも蓮就號讐號をも

つたものが多

い。

蓮肚號や讐號については、檀林制規が確立した近世では宗戒爾賑を

稟受した名讐

の法號が蓮肚號、

五重宗賑を愛けたものの嘉號が讐號と

され、蓮肚

・讐號の併構は江戸時代に入つてから

一般化したものであ

るから、

『奮詞』に開創者が蓮杜號

・巻號を所有する者として出

てい

ても、これを以て直ちに事實であつたと断ずることはできない。

「開

澤土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

山」として名讐ある地位が與えられるため、後代の住職が潜稻したの

C )

かもしれない。轡號については白旗寂恵の高弟定慧からはじまるとさ

れ、時宗側の資料でも轡號は定慧からはじまり、しかも白旗派では時

宗とまぎらわしいためそれまでの阿彌陀佛號をやめて巷號を稻するよ

うになったという。即ち

『麻山集』には

光明寺二代白旗寂恵

二上足ノ弟子二人居リ、

一人ハ小田原城主大森

某ノ次男恵光、

一人

ハ箕田ノ定慧ナリ、定慧ハ其頃

一代

ノ將軍家御

鋸依

二由テ乗願寺ヲ建立シ、千石千貫ヲ御寄進アリテ定慧ヲ光明寺

三世ノ住持

二補

セラル、恵光大

二憤リ怨テ父大森

二語テ日ク、定慧

二公方ノ御蹄依

二依

一山ヲ建立ス、吾モ亦

一寺ヲ建

ト、大森即千石千貫ヲ辮シ、藤澤寺ヲ建テ是

二補セラル、此寺大

繁昌

ス、定慧聞之、別時ノ時節潜

二詣テ伺フ威

二、住持ノ上人ヲ始

テ沙彌下信

マテ何阿彌陀佛ヲ稻シ相呼ブ、定慧是

二簡別

シ、善導ノ

五種ノ嘉號

二由テ先自ラ良讐ト構

ス。良忠ノ下

ヨリ六流分ル、其申

二白旗ノ

一流惣領職ノ故

二、此

一流

二轡號ヲ稻

スル成例ト

と書かれてい裾

號は二祀聖光暴

長の門弟圓心が盧山の宗風を

傳えたに始まるとされ、かの安貞

二年

の末代念佛授手印起請文にも蓮

肚を稻している檜が若手見出される。またこの起請文には何阿、何阿

彌陀佛という僧名が書かれているが、かかる阿彌陀佛號は聖閥以前

 p ti

 

・初期澤土宗教團を続る人々に多く見出される。定慧の弟子が聖間であ

り、聖閥が明徳四年に五重宗脈01制を立て、これを弟子聖聰に授けて

いるので、鎭西白旗派では室町中期から法號としての轡號が普遍化

たが、必ずしも檀林

との關係はなかつたと考えられる。しかし、轡號

一〇三

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に蓮就號をセツトして何蓮肚何轡と號するのは檀林制度が確立してか

らであろう。

いわゆる十八檀林

が設定された年時は慶長七年とも元和

元年とも

いつてはつきりしな

いが、、慶長

・元和

・寛永の頃に行脚の生

活から寺院

へ入

つたものの中には、檀林修學を了えて、宗侶資格をも

つた曾侶がいたことは問違

いな

かろう。

さきに掲げた龍原寺

(豊後臼杵)の開山笈蓮肚圓轡路廓上人は慶長五

年に論旨を頂戴して豊後に下向

したし、長徳寺

(伊豫國伊豫郡松前)

の開山

一蓮肚Qr轡上人宗外和筒

「修學檀林者下総國生實大巖寺」で

あり、

「從關東爲回國當所」で長徳寺を建てたのは

天正元年

た(第三六冊)。また澤土寺

(但馬國気多郡西下芝村)開山天蓮肚泰轡上人

一風和尚の

「檀林者小石川傳通院」であり、慶長

二年に起立したとい

(第二九冊)。浮國寺

(越後國岩船郡村上)の開山往蓮肚生讐呑虎は「修

學之内廻國之志、來當所而読法利生、檀越錦依而草創當寺」したが、

時に元和五年であつた

(第二六冊)。

これらはもより傳承

が、

「檀林僻退諸國修行」(第+冊、養谷寺條)というように、修學後も回國

に出ることがあったのを推察し得る。

問題は、學なりとげた正式の漂土宗侶であると否とを問はず、開創

者に廻國行脚の傳統が根強く受

け縫がれていることである。竹田聴洲

教授

の意見によれば、修學後も直ちに師匠

の寺又は生國にもどらない

で、できるだけ廻國行脚することが要請されていたのではないかとの

ことであるが、他國で縁を結ぶことの功徳もさることながら、行脚そ

れ自艦が修行であつたことを思

えぼ、このことは十分考えられるとこ

ろである。彼らは關東、四國、

九州、中國

へと

「求有縁塞地」(第五+

一〇四

冊、成徳寺條)め

「菩提のため諸國回國」

(第

一冊、誓願寺條)したが、

この頃肚會

一般に高まつた肚寺参詣、巡禮、納経、納札

の風がその回

國を助長していた。澤土宗でも肚寺参詣は奨働された。例えば明鷹一兀

年金勝阿彌陀寺の宗眞が定めた

「宗躰諸末寺法度之事」に

物詣之事、伊勢熊野善光寺なとの事

ハ一ハ恩徳執謝のため、

一ハ世

の有爲無常を知りて信行増進

のためならぼ参らるべし

( )

と出ている。

武藏國秩父郡白川村白久の寳雲寺に、天文六年秩父巡禮の木札が奉

納されたが、それには

旦那秩父住人

沃目之菊子

秩父三十三虞巡禮

聖四國土州住曾智杣

(12

)

とあり、四國の聖が旦那の援助で遠く關東

へ巡禮していることがわか

る。このようなことが澤土宗または澤土宗に近い念佛聖にもみられた

ことと思われる。かかる廻國の風の高潮が

『蕾詞』の傳承にも反映し

「元租建久年中御回國之刻御立寄之由」

(第二九冊、三縁寺條)

と法然

をも廻國聖とみ、また勅傳に有名な無智の空阿彌陀佛を、法然の眞影

を「爲本尊諸國修行」する聖にしてしまい、さらに三租然阿彌陀佛良忠

「然師關東下向之次於此地勧化、且爲御遺誠在家之徒被授阿彌號、

彼末葉在今観阿彌專阿彌等之末」

(第一四冊、観音寺條)

と旅

の勧進聖

に見徹している。この最後の良忠に關する記事には時宗の遊行聖が投

影しているようである。因に筆者の調査によれぱ、良忠の勘化を受け

たという観阿彌等の子孫が残つていて、襯阿彌は八鳥家、道阿彌は清

水家の租であるといい、観音寺ではお盆に良忠にはじまるという

「記

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C )

主念佛」なる新亡供養

の念佛が今も行なわれている。『奮詞』によれば

桑名の十念寺は開山に讐阿彌陀佛を仰

いでいるが、記主琿師(然阿良忠)

「往還之路邊立寄讐阿彌陀佛之庵」り族宿とされた因縁があるとい

う。この

「讐阿彌」にも時衆的な面影がある。

時宗と云えぼ浮土宗との關係は密接であり、初期の時衆教團は鎭西

流義を禮験した人々を中心に展開しており、遊行派の時衆教團が次第

(14

)

に鎭西臭をおびつつ移行したと云われている。時宗の衰退は眞宗

へ吸

(15

)

牧されたがためであるというが、浮土宗

への流入も考えね

い。この鮎についての考究は大橋俊雄氏によつて緒についたぼかりで

(16)

あつて、今後に残された課題である。

いま時宗との關係を窺うに足る

傳承を

『蕾詞』

の記載から二、

三指摘しておこう。

冷巖寺

(周防國吉敷郡平野村)

風聞住昔時宗之寺也、開山者號澤阿彌陀佛 、明鷹六年之比回國行

(マ

・)

脚之砺至干此地

一宿也、邑石佛彌陀之尊像瑞相頻也、故止干地建立

一宇構卒安寺、而永正九壬申歳七月廿八日示寂也、

錐爾生國姓氏更

無知者也、而後中紹年久 、慶長年中之聞鎭西之末流周諦大徳再興

之、改雲心山冷巖寺

(後略)

(第三一二冊)

光照寺

(武藏國足立郡加村)

(前脱力)

開山心響和尚檀林附法東漸寺、起立百四年時宗阿彌開基號光久寺、

正保元年乙酉・19讐再興之、改於寺號名光照寺(第四七冊)

瑞現寺

(越中國野村津幡口村)

當寺開基者嘉慶元年佛眼明心上人建立、開山剃髪之所不知、師匠者

澤土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

遊行陀阿、開山學問檀林附師不知

(第二八冊)

西光寺

(肥前國紳崎郡三津村)

右者遊行之門派筑前國博多構名寺同時代開基、其節時宗中興開山專

(蓮)

讐惣運生國筑前姓氏江上氏本名高阿彌、鎭西本山十八世辮讐上人傳

戒之弟子罷成、當寺興立仕、專讐惣蓮絡焉之年月康正元乙亥年

二月

十五日寂

(第四ご冊)

⑩⑪は時宗寺院を再興し、⑫は師匠が時宗の信であ

つたことを、⑱

は中興開山自身が元は時宗であ

つたことをそれぞれ語

つている。また

丹後國府溝尻村の長輻寺の開山は其阿彌陀佛であ

つた

(第二七冊)。

阿彌陀佛、何阿彌という名前が時衆の特徴であるとするなら、深土宗

寺院の開創者にみられる阿彌陀佛乃至阿彌の號についても、時衆との

關係を考慮に入れて取扱う必要があろう。阿彌號などが深土宗、時宗

に共通していることは、彼らが時宗とか澤土宗という宗派色を帯びる

以前にまず念佛ひじりであ

つたことを示唆していよう。中世の澤土教

を考える上にそのことを見落してはならない。となると時宗、澤土宗

に通有する念佛

の性格を考える必要もあるが、このことについては後

でふれる筈である。阿彌佛陀乃至阿彌號を

『蕾詞』から取出すと、近

江を最高に山城、撮津、大和、紀伊、伊賀、伊勢、丹後むどの畿内並

びにその周邊部と越申、肥前などの邊境にみられるが、彼等は時宗的

でもあり澤土宗的でもあつた念佛者とみられる。近江の阿彌僧が湖南

を申心に分布していることは、守山を檬鮎に湖南に勢力のあ

つた時宗

と無關係ではあるまい。

このように阿號乃至阿彌號所有者は民間の念佛ひじりであるが

「前

一〇五

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亡後滅精嬢乃至法界衆生

一蓮託生同謹佛果令廻向」めた伊勢國飯野郡

射和村の蓮華精舎寺の開山花讐蓮阿彌も時衆的かつ深土宗的色彩をも

つた民間念佛聖とみてよい。

かくて、開創者の法號に關す

るさきの分類での日内は本質的には民

間の念佛聖であ

つて、開創傳承

に明示されていなくても、彼らは廻國

の聖としての性格をも

つと賦與

して考えてよいものである。なお、阿

彌櫓ら在地民間僧のなかには死者を葬り弔うことを任務とするものが

(17

)

た。

る阿

つい

つて

べた

があ

CO0)

H

鯛れないが、原田敏明氏がかつてあかされたように墓寺又はこれに準

ずるものが多い鎭西派寺院には、葬迭追善を機能とする念佛を弘通す

る遊行の阿彌僧が定着した佛堂寺庵から嚢展したものが少なくないこ

とだけを指摘しておきたい。また口の讐號をも

つものについても性格

的には日四とかわらないものが少なくなかつた筈である。

次に同じく分類㈲に該當するなかで特に道心者と云われるものにつ

いて述べておこう。道心者は正式の僧とは認められないが、民問の道

・庵室

・佛堂に多く止住して

いたのが彼等であつた。防州佐波郡宮

市邑の正定寺もその小庵時代には

「卒僧或道心者西堂」が住込んでい

たし

(第二七冊)、同じく吉敷郡

山口郷の署王寺も

「自古來藥師堂而道

心者住居」していた

(同上)。封馬府中

の修善庵には錐髪唱念

の非櫓す

なわち道心者が住し

(第四三冊)、

近江栗太郡矢倉村

の光傳寺と同郡野

路村

の教善寺を中興したのは

「清讐浄運申道心者」

であつた

(第三ご

冊)。道心上りの開山も居たわけであり、

道心者歴住の寺もあつた。

往生寺

(信濃國水内郡越村)

一〇六

當寺開基者筑前國苅萱之庄松浦之末葉加藤左衛門尉重氏登心名苅萱

道心、然而到此之地閉二寂莫之扉一專修念佛報命既蓋此寺往生、依弦

當寺名往生寺、申頃無住而寺宇悉零落、介而寛永年中越後之邦高田

善導寺弟子久傳道心者詣善光寺之次而到此塞場、慨二古跡之頽没一抽二

一心之丹誠一速以再興 、

自介以來久傳道心於爲中興代々相績、第

二代極念道心者生國者信州松城之所生當地往生、第三代安心道心者

當寺往生、李生之時分干日長行相勤、第四代入西道心者生國者勢州

寺往生、第五代圓西道心者所生善光寺當寺落命、第六代覧心道心生

國者越後國高田之所生也

(後略)

(第二五冊)

このように道心者も土地の者とは限られず、遠國より來るものがあ

つた。先きの近江矢倉村光傳寺等を中興した道心は奥州

の人

た。道心者も亦行脚移動した。圓の所傳はこのことを示唆している。

伯書國八橋郡赤崎町

の專構寺は

「中頃卒僧道心者等移住任既及大破」

んだという

(第三十冊)。

在地の記録によつて道心者やこれと類似の卒僧などと寺庵

・佛堂と

の關係を窺

つてみよう。筆者はかつて輻井縣南條郡今庄町四ケ谷方面

を調査したことがある。その時橋立の示西院で見た正徳六年の

『示西

(19

)

院行蔓帳』にはこの寺及び配下の道場の歴史が書かれていたが、李僧

道心にも鰯れてあ

つた。少し時代は降るが地方寺院

の様子を知る上に

参考となるので、以下、直接關係する部分だけを紹介しておこう。

〔示西院行蔓帳〕

一、當院開山良如上人

ヨリ己ノ來タ流轡代迄代々

一文不通之李櫓在

家同蔓行跡之由シ申シ傳候、

其問智傳西堂而己關東被レ勤

シトカヤ

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其弟子知廓李僧

一文不通、其弟子智徹同断、

依レ之御開山已來右筆

(什)

ク(紛)

古佛種

々之住寳悉分失、

又過去帳迄無レ之

二付八飯宇津尾廣野當村

諸旦越之亡者先租之戒名不レ智、闇夜如レ向、是故當村佛古又孝養作法

モナク厭臓欣澤之安心宗旨之取行曾智ル蔓無ク、只諸方ヨリ物乞入

込比丘尼山伏之妄説ヲ信

シ、現世福徳壽長遠而己ヲ所リ未來ヲ欣

リキ

ハ大キニイミ今々シク思物

覗雑行無盆之行干今少々有レ之、是故

,

代々ノ住物帳ト云コト無レ之

故開山已來之什寳佛具家財等悉ク今失

スト

コト

ルト

ス、代替

ニモ諸道具改渡

亦旦方改云

コト無偏在家之作法同

夏流讐某三答智徹在住之内當寺二入院ス是出世地之始也

(略)當院

トヘ

リキ

本示西庵トテ庵號

ニテ在レ之、

其聞悪シキ故本寺住仰讐上人

種々相

談之上ニテ流讐代

ヨリ院號

二致置候、°爾又過去帳無レ之故四ケ村旦

タニ

那ヲ呼入別其先租爾親子孫之戒名並

二年月日ヲ相尋則新過去緩ヲ作

干今無二断繕一在レ之キ

(略)

一、廣野道場本之蔓、當寺迄

ハ遠故朝夕参詣難レ成故俗家

道場本定

¢

 

K

室屋號

ルニ

一、宇津尾村道場同俗屋也、

介廿五代之住持三讐智徹代軍信ト云道

心者ヲ置、其次信入道・20、次

二傳察ト云李櫓流讐代置ク、次念求道

心、次

二良哲李僧流讐弟子、次廓林李僧今庄幅巌寺弟子、今亦林碩

是亦流讐弟子也、則流讐代見生院ト改院號付置候、且中死去年忌等

一切寺役當寺相勤候

一、八飯村道場之吏、廣野宇津尾之通本トハ俗屋タル所

二智徹代

リ八飯村所生アゼヂ伯父也玄達ト云道心者置キ始

メ圓澤庵ト付、夫

レヨリ己ノ來道心者或

ハ卒僧住持

(以下略)

・澤土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

また

「松代藩堂宮改帳」には寺院と認められない堂

・庵の村別調査

(20

)

が載せてあるが、志垣追通村堂について次

のような記録がある。

知源堂守

一、地藏堂

四間三問

同所

(筆者註、追通村)

(付箋)

「みろく寺」

(付箋)

「此地藏堂地、

茂菅村漂土宗静松寺末

二而彌勒寺と申、

寛文年申以前6古跡

二御座候威、元腺年申御改之節、極貧寺困

窮村方

二付、本堂も口口及大破僧住無御座候、彌勒寺境内之地

藏堂静松寺弟子道心堂守に罷在、地藏堂斗書上ケ任寺號書上不

申候

(下略)」

印ち元緑十年の調査當時、静松寺末の彌勒寺

(地藏堂)には堂守り

として知源道心が居住

していた。また雨宮村の十五堂

(來迎庵)と有

旅村の地藏堂はともに失代村の澤土宗生蓮寺の支配であつたが、ここ

(21

)

では零落などの理由で道心者も居住

していなか

つた。

このように寺院とまでいかない道場

・堂庵には道心者が住

つた

り、住まわなかつたりであつたが、かかる形は中世から績

いていた。

道・29者は高野聖ともみられていたよ

る。聖聰

の選述と傳える

『澤土三國佛組傳集』は念佛衆としての深土十五流を學げているが、

その中で宗租の作法に背いた念佛衆に

;一昧衆

也L

「道

心衆鐵

進轟

があり、彼等を塗

宗徒たらしめた

戸22

)

いものだと述

べてある。聖聰は室町中期の人であるが、この書につい

ては古來眞儒未詳である。しかし申世末のものと考えられ、その頃の

様子を傳えていると思われる。高野聖を代表する集團は蓮華谷聖、萱

堂聖、千手院聖であ

つた。蓮華谷聖は回國と納骨を特色とし、萱堂聖

一〇七

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は高聲念佛と鉦叩念佛や踊念佛

の藝能、それに唱導の文學に特色を有

し、中期高野聖を代表した。千手院聖は時宗聖であるが、この千手院

谷の時宗が室町時代には蓮華谷聖や萱堂聖などを次第に吸牧して、時

(23

)

宗化した高野聖、師ち後期高野聖を生んだという。

『澤土三國佛租傳

集』に云うように、高野聖としての道心衆が民聞寺院に姿を現わし、

高聲念佛を勤めることがあつた。さきに引

いた圓の所傳は、往生寺が

萱堂聖系

の道心寺であつたことを示している。そこでは刈萱道心の唱

導文學が物語られていたことであろう。

この道心衆と並んで勧進衆

(+穀聖)が

『浄土三國佛租傳集』に累げ

られていることはさきに述べた通りであるが、この十穀聖はこの書物

や慧空の

『叢林集』が云うよう

に重源を本とすると考えられ、中世に

(24

)

^25

)

は肚寺の勧進に活躍していた。十穀聖には阿號を構するものもあつて、

念佛系聖に近く、それだけに浮土宗とも無關係ではなかつた。近江國

蒲生郡市子村

の誓安寺は

『薔詞』に

「起立天文十四年開山永順法師由

緒來歴等不知」とのみ書かれて

いるが、この開山は十穀聖であり、土

が起立した寺に住したことが當寺の左の文書

によつて知られる。

(26

)

〔定道場掟條々〕

一、今度爲レ各新建二立

一寺

一事、爲二結縁一被二取立一上者、自他之志、

同寄進田等、不・可・寄二多少一、縦又錐レ爲二寄進有無一、不顧二其

輕重一、遍惣檀那分之事。

一、當住持永順十穀、但

一期之後者、各有二御相談一、可レ然坊主可レ

被二相居一事

一、各寄進田畠前後分、或庄内、或錐レ爲二公界一、名主井至二干土民

一〇八

等一、自然志在レ之分事、永代當寺領無二相違一様互可レ有二御異

見一事。

一、寄進状其外謹跡等箱江被二入置一、宿老

一人同

事、已上

被二相以二一二到一被二御封付一、毎年十二月十五日仁次之年行事江

倦可レ渡一、同於二寺用之儀一右之役人江被レ仰候者、頓惣分江可レ

有二御案内一事。

一、年行事役之事者、今度始而御建立十三人爲二子孫一永代可レ有二御

相績一、更別人不レ可レ有二裁到一事。

一、於二道場之儀

一者、皆以可レ專二正路一、柳不レ可レ構二私曲一事。

]、於二寺内

一若可レ被レ相二立墓一面々候者、不レ寄二上下之輩一、爲二地

代分一鳥目廿疋、可レ被レ出レ之、井位牌同率都婆之事、是又惣別

被レ任レ志、住持同年行事江可レ被二相理一事。

一、就二道場之儀一万

一以後公事邊出來候者、御建立人敷之内、御定

評衆、年寄

こ人、若年三人、被レ入三父閣

一五認於一一御本尊前一被レ

取レ當、五人之衆以二塞肚起請文一、速被レ付二到仕一可レ爲二落居一

事。

一、正面壁書事、道場有造畢、寺號等被二相極

一、其刻各以二御閑談ハ

如二憲法一可レ被二相定一事

一、此事書自然紛失候者、後日傍示等可レ爲二如何一候哉、爲二後用一

二通相認、

一通年行事、井

一通事者爲レ各可レ有ご御所持一事

一、此御人敷之内、向後御所會之族錐レ在レ之、於二道場之儀一者、自

他有二御参會一互可レ有二御異見一事

一、爾各被レ加二御分別一、始絡可レ被二定置一條数候者、如二順路一追而

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可レ被二仰合一事

一、年中行事御人籔拾参人事、園次第

五郎左衛門重長

一番

       

二番

郎蕪

後二

因幡守秀家

三番

向醗

左離

尉轟

次郎覇

五郎兵衛尉光長

四番

右京亮長政

太郎兵衛尉頼長

五番

 コ

   

六番

甑編麟難

右法度條

々被二定置一上者、

爲二當年行事一可レ致二到形一由、

衆議相

極如レ此候條、柳以向後不レ可レ有二別儀一者也

天文拾四乙巳年十月十四日

年行事

孫左衛門尉長

花押

年行事

五郎左衛門尉

花押

この

「定道場掟條々」は菩提

寺的性格をもつ寺院

の成立を考える上

に多くの示唆を與えてくれるも

のであるが、當面

の課題たる開創者乃

至住持については、十穀聖永順を住持せしめ、その没後は然るべき坊主

を選んで居住せしめるよヴ規定

している。働進の聖を迎えて生涯定住

せしめ、その後も同檬

のことを繰

返す意向

のあつたことが窺える。因に

誓安寺

の本尊は藤原時岱

推定される阿彌陀如來坐像(旧國費、明治四

四年八月指定

)

土宗寺院

の開創傳承よりみたる聖

(ひじり)の定着

について

であるが、永順はこの本尊を迎えるのに活躍した人物であ

つたかもし

れない。

ともあれ、高野聖や勧進聖系の民間教化者をも内に抱えた分類㈲の

丞-櫓

・道心者のタイ。フは、寺院以前の堂庵や澤土宗侶が定住するまで

の寺院を、、しぼしの止住やあるいは定着することによ

つて、支えてい

たのである。彼等が開創傳承に登場する所以がここにある。成立期の

浄土宗寺院の周邊には、これといつた宗團に厨さないいろいろな民間

念佛僧が出没し、澤土宗の教團的進展は彼らとの關係を有

しながらな

されていつたことを考えれぼ、民間のひじり僧の系譜をひく教化者に

封して積極的な意義を認めざるを得ない。しかし同時に、かの明鷹元

の金勝阿彌陀寺末寺法度

に窺われる如く、民間勧進聖などからはつ

(27)

きり

一線を書そうとする態度が宗侶側に出

ていたことを考

ぼ、聖の堕落がもたらす

マイナス面が教團としては問題であつたこと

に注意し、その功罪爾面から評債する必要があらう。

に回國聖と佛像などとの關係を窺

い、佛像

の寺院

への定置、印ち

その本尊化について述

べてみたい。

いうならば佛像等

の寺院定着を取

上げたい。

この問題については次

の傳承資料が参考となる。

永幅寺

(撮津國矢田部郡兵庫津)

聞山者號空性如來、生國者信州之人姓氏剃髪之師井附法

審、當寺移住之節

一光三尊之木像井自書自影説法之相持來

(後略)

(第十

一冊)

一〇九

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松光寺

(武藏國荏原郡三田村二本榎)

開山光蓮肚曇響捷径生國者豆州伊東藤厚氏伊藤砧親入道末孫也、初

者江戸馬喰町願行寺住隠居西窪住年久、爾或夜夢金色檜來告云、此

一宇可起立吾成大檀那示、亦翌日之夜爾示然而隠者之身自元無起

立之望瑞夢不畳、又第三夜之夢告云、吾明日來而可成

一宇之主示、

翌日前夢語所御長二尺三寸六分彌陀之立豫山伏持來汝可與本尊精舎

建立而可安置之云、曇讐問云汝何人何國來否報謝與云、答云吾酉金

山者也去行方不知、果瑞夢知、幾程無武陽江府幸橋小林吉兵衛云富

人來

一宇起立

(下略)

(第+九冊)

引接寺

(長門國豊浦郡赤間関)

開山者西蓮肚忠讐上人榮輪

一得和尚

(中略)當寺起立者人王百七代

正親町院御宇下向當所、其頃有閣江澤秀者深蹄敬忠讐

一得和筒、以招

請自宅念佛 、構名未然中沙門

一人來封

一得和爾附與三尊之書像、

有暫退去、覗夫來迎之彌陀引接之彌陀佛獲遣之繹迦是則干世希有之

(マ

・)

佛檜也、欲起立

一宇所當轟山

八幡宮之麓有古跡號善幅寺相改之、永

緑元戊午孟夏之間而開基之也、山號關轟山安置來迎引接之如來故號

來迎院

(後略)

(第三三冊)

ここには、ひじりの持ち來た

つた木像又は謁佛がその土地の櫓に附

與され、これが機縁となつて

一寺が建立され、そこの本尊になるとい

うパタンが示されている。個は佛豫をも

つてきたものと安置してま

るものとが同

一であるが、この空性如來は善光寺聖である。善光寺聖

についてはこの後でのべることにする。㈲は寺號などが何によつてつ

けられるかを示唆するものであるが、遊行の沙門によつてもたらされ

一一〇

た來迎圖から院號寺號がつけられている。また行脚の僧が逗留して佛

像をつくり、これを安置する寺院が建立されるという

パタンも

て、次

はその

一例である

阿彌陀寺

(信濃国小縣郡青木村)

β當寺

(光明山撮取院)起立開山者聖蓮祉寂讐宅傳

(申略)然當國善光寺

佛詣之瑚逗留子此村、郷之名主井宿老蹄依之檀越置興行別時念佛恭

口勤修切也、干蓼寂讐勤行之鯨暇彌陀之尊像千駆自刻彫之、依之名

主渡邊氏割先祀口口地口付属寂讐故勤働隣里郷間建立精舎

一宇、安

置千躯之尊容年中尊成專修勤行之塞場也

(後略)

(第二六冊)

寺號山號院號とも寂讐の彫刻した尊像に因

つていることは明らかで

るある。また名越派の流れを汲む奥州猫葉郡磐城折木村成徳寺の所傳

Cr

 >

Cr

-

>

をみと

「曾而所製書向敷十巻然而後随僧十鯨斐各爲荷搭制作之聖敬、

敢欲求有縁塞地成行脚」(第五〇冊)とあ

つて、弟子によつて聖教が地方

に傳えられていくさまが書かれているが、これは聖

の弘傳方式と同じ

であつて、聖教を佛像に置き換えてみれば、佛像を背負

つてその安置

場所を求めて旅行く聖の姿が浮び上つてくる。聖に背負われた佛像は

こ尺前後

の小佛が普通であつた。さきの圃の資料では二尺三寸六分≧

出ていたし、相模國鎌倉郡下野庭村正磨寺

の本尊は

一尺八寸であつた

が、

「此本尊

ハ江戸梅窓院弟子西運廻國供養佛」であ

つた(第一冊)。

また相模國鎌倉郡深谷村專念寺には地藏堂があり、そこに安置された

地藏菩薩は欲讐厭求が回國に用

いた佛像であつて、-のち彼が寄附した

ものであつた(第

一冊)。

このように聖に背負われた佛像はしかるべき寺堂に落着

いたのであ

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る。寺

の縁起をみていると彌陀の化身から佛像をさずかつたなどとする

のによく出くわすが、粉飾をとり去

つてみると、右にのべたような聖

とその奉持佛像

の關係が看取さ

れるのである。地方の無名寺院に傳え

られているこの種の傳承を左に紹介しよう。

(28)

〔滋賀縣栗太郡稟東町小柿

・常勝寺縁起〕

情その濫筋を案するに、當寺聞山僧阿彌陀佛と申せし人は天台宗の

學侶法印實圓といひし人也

(申略)然るに延文元年卯月八日に道俗男

女相集りて佛誕生日なりとて浴佛の行ひをなす、其の辰の

一天に忽

然として

一人の童子來れり、其姿菅笠をかぶり草履をはき、脛高な

るよそほひにて背には木像の阿ミたを於ひ奉り、直に當寺の住持法

・印に向

つていはく、此木像の阿彌陀を法印

へ預け奉るべし、子細は

後日に顯る

べしといひて何地ともなく行去ぬ、法印何となく木像

彌陀を預り、すなはち佛檀のか

へる安置す、拠其日もくれやう

其夜も饒になりて法印あ迦水を結ひ、花

のはなかなミを手にし

て三密喩伽の法燈をかかけて

つくく

佛檀を窺ひミれは、地藏乃三

ハ佛檀のかた

へにうつり賜

ひ、預りたる木像乃阿彌陀中尊となり

て座し給

へり、法印於も

へらく、是併見同宿の所行なり

と於

り、故に心ハられなから彌陀

乃木像をかたにとりな越し本のことく

に地藏菩薩を中尊と須、それより乃ちたひたひに地藏の三尊かたへ

にうつり給ひ、木像

の彌陀中尊となり多ま

へり、法印寄異の於もひ

なして絡日絡夜佛壇を窺ひミるに、地藏の三尊ミつからかたへにう

つり給ひ、木像

の阿ミた光りを放ちて中曾となり給

へり、法印胸う

深土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

ち塞り、感涙肝に銘して、あ

ハや多ふときことと思

へり、師ち心に

へらく、これ併、生身の阿ミた如來童子となり木像のみたとなりて

我等をたすけ給ふなるべし、所詮今よりのち多年修學の天台宗を閣

て、念佛三昧の身とならんには志かしと思

へり、其より後ち自行化

他ひと

へに念佛の行者となれり、折しも其年洛陽四條道場錦綾山太

李興國金蓮寺四代上人澤阿彌陀佛此里此村に念佛の弘通をなし給

り、道俗男女たうとミ阿

へりけれぼ参詣の人人門前市をなす、法印

此弘通をうけるよろこび渡りに船越得闇夜に燈を得たるがことくに

て、二こころなく金蓮寺上人に随途し奉りて往生澤土の安心を落着

して其名をハ僧阿彌陀佛と改む、印ち當寺道場

の開山上人是なり。

この常勝寺は時宗であるが、右

の所傳によつて時宗、澤土宗ともに

共通のパタンがあることを示し得たと思う。前述

の通り寺院

の成立に

關與した遊行的教化信について、時宗と潭土宗に通有性がある以上、

かかる教化僧が果す佛像

のもたらし方にも共通性があるのは蓋し當然

である。

次に資料㈲に出ていたような善光寺聖を通して、佛像の流布と聖の

關係を窺

つてみたい。善光寺聖は善光寺如來の模刻流布で世に知られ

ている。善光寺如來像

の流布と善光寺聖について最近では金井清光氏

の研究があるが、鎌倉時代の善光寺如來像の流布に重黙が置かれてい

る。ここでは當面の課題に從

つて、

『奮詞』に基づいて近世澤土宗教

團胎動期における善光寺如來像流布の傳承を取扱

つていく。

新善光寺

(越後國蒲原郡小川荘津川懸)

開山定尊上人

(略)(建久五年善光寺参籠)陽月十五日夢日寳堂二重御

一コ

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戸開内外錦帳學如來忽然

一光三尊赫変

(略)然宮殿有音聲告定尊日、

慈尊出世不遠三會暁天在近、其間沈生死之海衆生皆墜三途、欲盆汝

速勘進

一切衆生冶鋳我形像等身金銅 

(略)建久六年夏拾五日

奉冶

鋳中尊、同廿八日

奉観音勢至鋳也

(略)定尊無上菩提願深佛法興隆

之志厚、等身如來安置干藪號新善光寺也

(後略)

(第四八冊)

善光寺如來鋳造で傳承上著名な定尊と貞治の頃感誓が開いた藤田派

有縁

のこの新善光寺とは關係はな

いのであるが、新善光寺

のこの傳承

 o 

は善光寺縁起と同じであつて、

この背景に善光寺如來

の模造とともに

定尊

の傳説を傳えた善光寺聖

の存在が想像されるのである。京

の六角

の西隅にあつた如來寺にも

「信州善光寺如來模

一光三尊之如來」が

安置され、定尊法師

の作であるとの縁起があつたという

(第二冊)。近

世初頭

この新善光寺には信州から如來を慕

つて移

つてきた時衆が居て

<m >

時衆寺が四ケ寺あつたことが

『奮詞』によつて知られるのである。

⑫①

願行寺

(信濃國小縣郡上田海野町)

當寺起立之根元者當國本海野

之郷有之、然筑摩川水面耀光数日、諸

人不審師善光寺如來之御寓聖徳太子之御作

一光

金佛自川奉

取上、依爲所守護而滋野氏江訴之、國宰建立

一宇願行寺也、彼本山

奉納飼敬尤深干今當寺安置 、開山者日蓮肚東讐

(略)第六世

中興

頓蓮祉圓讐厭間和尚

(略)當國佐久郡岩村田西念寺ヨリ移住、干當

寺災上以後三尊之像安置本堂、厭間卒生願望、傳聞此三尊者聖徳太

子依所願善光寺之如來鋳篤移給以光明之燈

一光三尊之像四十八腱所

奉鋳窟之尊影也、安置本堂佛奉仰秘佛乞願有隠蒙瑞夢、汝所願深故

有縁之授本尊早河西可奉迎、依之夙迅向西行二里絵而値行脚之僧、

一二

互有思合故問、客何地エカ行、旅僧答之、我是西國邊之者也依本尊

之御告當國小縣郡上田邊寺江本尊爲寄進奉守也、圓讐随喜於途中瑞

夢語、僧本尊渡去 、其跡所願之通從是本堂奉安置精誠勤行今本堂

佛是也、

座像御長武尺武寸運慶之作也

(下略)

(第二六冊)

新善光寺

(能登國真脇村)

當寺開開者行基菩薩回國之砺、御長

一尺五寸

一光三尊木佛草庵置給

(第ご八冊)

善光寺如來に聖徳太子や行基菩薩が結びついていることはいかにも

民間宗教的であり説話的要素が濃厚であるが、⑫①の傳承に出てくる中

興圓讐厭間に二尺二寸

の善光寺如來をさずけた行脚

の僧や、②Dの行基

傳読から、善光寺如來

の模像を流布した数多くの善光寺聖が浮び上つ

てくる。善光寺如來と聖徳太子や行基とを結びつけ、民衆

の信仰を高

揚させたのも他ならぬ善光寺聖自身であつた。聖徳太子と善光寺如來

との問答のことが善光寺縁起に出ているので、善光寺信仰ど太子信仰

とが結び

つく素地はあ

つたわけであるが、造像者を聖徳太子とし、太

子信仰にあわせて善光寺如來信仰を高めていつたのはこれら善光寺聖

である。善光寺聖は善光寺如來の使者でもあ

つた。資料05に掲げた永

輻寺の開山空性如來は説法相の自影をも持

つて移住してきたが、その

圖には

「於信州善光寺有雲上聲告之如來、類日、本主西方名阿彌陀來

回此度教化衆生度此三々性澤圓明空性如來

一聞読法永紹生死云々」と

の讃が書かれていたという

(第十一冊)。

さらに、今まで見てきたようになんらかの形で聖がタ

ッチしている

ような寺院には、その開創について行基との關係を傳えた読話を有し

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いる場

が多

い,こ

を指

し、

こと

つい

べてお

い。聖

が關與

した地方民間の寺院が、その前歴について行基開創を主張

しているのは、後世

の聖たちの問に、行基を己れらと同じような遍歴

回國の聖とみる行基観が普遍化

し、か\る聖が民間寺院に關與してい

たがためである。

つまり回國聖

の典型として行基が考えられていたの

である。『奮詞』でも

「行基菩薩回國」(資料⑳)

「諸州行化」(資料23)

「六十飴州回國」(資料働)といつた表現が使われている。

龍宮寺

(筑前國志摩郡浜崎浦)

人王四十代天武天皇治世行基菩薩六十絵州廻國之醐博多之地鎭依崇

敬、則此所而三寳荒押之尊像

一禮有刻而白鳳十二癸未天正月

二十八

日籠置肚内者也、自爾以來至今津中之錦敬日増々樂也、行基菩薩從

籠新像以來到今年

一千十蝕歳也。(中略)其翌年貞鷹二

癸未年三月十

八日志賀之從海申観音之尊形

一艦綱カカツテ出現、則慈畳大師御作

立像而御長

一尺八寸聖観音之印像也、其夜之夢想龍宮寺可納之旨任

瑞夢當寺納之、右観音之本備置到今萬民運歩者也

(後略)(第三七冊)

こ\でも行基も回國聖と理解され、佛像をつく

つてその地にとどめ

ておく聖として受け取られている。後孚は行基と關係な

いが、慈覧大

師作といわれる塞像も亦聖によ

つてもたらされたものであることを示

す好例として掲げ

いた。行基が諸國遍歴の途次佛像を作り、こ

れが今の本尊であると構する寺院は少なくない。行脚の深土僧はこの

ような傳承をも

つ所

へや

つてくるのである。

延命寺

(駿河國庵原郡由比)

澤土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

有延命地藏薩睡、師行基菩薩朱鳥年中諸州行化之節此地海邊而以殺

生爲家業悲之、於此所以楠大木造立六尺有絵之地藏菩薩閥民信仰之、

因弦天正七己卯年行轡來至此地、建地藏堂號延命寺

(第+八冊)

⑫の

孝恩寺

(和泉國南郡木積村)

行基菩薩五十歳之御年開基至干今開山御直作之佛菩薩多有之、右之

寺中紹以後天文年木積村之守護河崎傳内ト申仁菩提地

二被取建、則

春木村西幅寺中興燈巻上人之弟子住信被指置、夫

ヨリ以來澤土宗相

績仕候由古老申傳

(後略)

(第九冊)

光圓寺

(江戸小石川)

行基菩薩關東下向之爾自刻藥師之像堂草給、、干今藥師像有之、鷹永

年中了讐上人参籠之由之傳也

(第二+冊)

伊勢國飯野郡射和村

の伊福寺は

「開山行基菩薩、中興澤土宗成阿彌

陀佛」(第士二冊)、振津國武庫郡小松村の等魔院は「開山行基等菩薩、

當時小松村瀞宮寺而本尊十

一面観世音菩薩(中略)中興圓蓮趾光轡改浮

土宗」(第+冊)という傳承を有していた。また開創傳承の上で行基ー

重源ー澤土僧という系譜が形成されている寺もあ

つた。次の資料がそ

れである。

澤土寺

(防州佐波郡下徳地邑)

當寺腰初俊乗重源之所創建地也、安置諸像者中尊四尺彌陀之座像井

観音地藏不動毘沙門右左之各四五尺之立像是皆行基菩薩唾之作也、

中古激百歳損破漸有佛像而己、明暦年中光讐唯心大徳興再之也。

(第二七冊)

聖の世界において行基ー重源という系譜

ができていることについて

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(32)

は他でのべたことがあるが、近世初頭

の開創傳承の上でもこの系譜が

漕えていないことは興味深

い。

このほかに行基開創の傳承をも

つ寺院

に勢州三重郡四日市

の一樂庵

(第+四冊)、

大和國葛上郡楢原村の九品

寺(第七冊)、同葛上郡竹田村

の來迎寺(同上)、同忍海郡李岡村の極樂寺

(同上)、美濃國厚見郡加納村の寳樹院(第四三冊)陸奥國信夫郡幅島

の到

岸寺

(第五〇冊)などがある。鶴岡静夫氏によれぼ關東寺院には行基傳

CM

?

説が充瀧しているとのことであ

るが、恐らく他の地域についても同様

のことが云えよう。このことはつまり、民間佛教の開拓者が行基であ

るという通念が民間には傳統的

に流れており、かかる意識をもつた聖

が全國に充満していたことを示

している。このようなことが深土宗寺

院の開創傳承にかなり明確な形をとつて残

つているのである。行基開

創の史實の追究はこの場合無意味であり、われわれはかかる傳承が生

まれ、維持されてきた背景を問題としなけれぼならないが、このよう

な意味で

『薔詞』の諸傳承は多くの示唆を與えている。

以上、澤土宗寺院

の成立と回國行脚の聖との關係について種々の面

から考察を加えてきたが、さらに進んで彼らが定着した民聞で念佛が

いかなる機能をもつていたかをみておきたい。

「年代綿遽未知往昔何宗何師之所開也、近代或台徒或暉侶混浴成住

持」(第四八冊、長源寺條)と傳えられるような無宗派的な状態

から

の寺院が澤土宗化していく過程で、

いかに多くのひじり的行脚櫓が活

躍していたかは既にみてきた通りであるが、これらの行脚櫓のいかな

一一四

る宗教的實践を機縁として寺庵

・傳などが寺宗寺院化し

と云え

ぼ、

「一向專修之念佛修行絡爲浮土之寺」(第四二冊、源幅寺條)どいわ

れるように、それは當然のことながら

一向専修の念佛修行

であ

つた

が、とりわけ受戒念佛

・不断念佛

・別時念佛

・常念佛などの興行が深

土宗寺院化の

一詮左とな

つていた。ではこれらの念佛はどのような性

格をも

つものとして民間に受容されたであろうか。その念佛は浮土宗

的行儀をとりながらも疫癒を除き、死塞を鎭め、亡者を供養するため

のものであ

つた。

」無量寺

(信濃國上田領塩田庄手塚村)

當寺起立之始者傳聞、弘治元年之比當村中入疫腐込老若落命不知其

数、然清蓮肚澤参上人笈泉和尚(中略)斯信當國通松本干艇當所有遁

世者徹秀結草庵閑居、笈泉與徹秀有少縁故自松本泊脇

向之

瑚寄庵

室、郷内門病悩之由興行

一夜別時念佛、寄哉衆徒之疫病悉除、依之

其比之地頭福澤左京進聞其甚妙、往古爲院地以貫高三百五十字分之

地爲境内、建立當院則號無量寺令笈泉住職

(後略)

(第二六冊)

來迎寺

(大和国添上郡)

當寺起立者大和大納言殿之時犯罪之輩殺害之場(申略)天正年中開山

昊轡上人於此邊結草奄、書夜勇猛修行念佛吊彼亡魂給、奇瑞在之申

傳也

(後略)

(第六冊)

別時念佛も勇猛の念佛も疫属を除き、罪人の亡魂を弔わんがためで

つた。亡魂追輻は念佛の大きな機能であり、七日七夜の別時念佛も

この機能を果さんがためのものであ

つたことは次の資料によつても明

らかである。

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大樹寺

(三河國)

文明七乙未歳

大檀那松卒左京亮親忠法名大胤西忠御建立也、當時鷹

仁元丁亥歳

品野大將伊保三宅加賀守衣野中將出羽守與松卒左京亮親

忠及合職、是云井田野合戦今改井田野云塞場也、從其九年過當文明

七年磨仁元年討死亡魂書夜鯨波聲學貴賎恐灌止往還、近郷近里村大

疫蟹唾士民死屍漏巷、依弦親忠公途奏聞建立

一宇號成道山松安祝大

樹寺令寄附三尊之彌陀同國鴨田村西光寺住僧眞蓮祉勢讐愚底講待爲

開山、爲右之亡魂追輻七日七夜別時念佛被仰付令執行、功畢疫塞悉

除鯨波聲止畢亡魂塚干今在之、親忠公感念佛威力從此時御師檀御契

約澤土宗御飼依深

(中略)爾以來苺年十月九日諸末山集會大衆

一同七

日七夜別時干今相勤也

(中略)開山眞蓮祉勢讐愚底善公洛陽生也、姓

氏不知幼少厭俗網下關東、下

絡國飯沼弘経寺二代了曉上人爲師受戒

附法也、自然隙遁志深回國而念佛渤化

シ玉フ

(後略)

(第+六冊)

戦國時代は疫腐、飢鰹、戦鼠

が相次ぎ人々は疫神の退散や浮遊する

死露の鎭途に眞創たらざるを得なかつたが、念佛はかかる肚會的背景

をも

つて民間に普及し、今に民俗儀禮として傳えられている。浮土宗

儀禮たる別時念佛等の形がとられたにせよ、その念佛は資料⑳のよう

に疫腐の熔滅や㈱四のように職死者の浮遊需巫の慰撫に資せ

であり、この念佛に寄せられた期待は空也、

一遍、時宗の徒の例を引

き出すまでもなく、念佛が民間

に出現して以來

一貫したも

た。堀

一郎氏は民間信仰に於ける鎭迭呪術と民間念佛の機能を明らか

(34)

にされ、百萬遍念佛、踊念佛などの習俗がもつ意味を述

べられたし、

五來重氏も民俗的念佛を鎭魂呪術的念佛、農耕儀禮的念佛、民俗藝能

浮土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

的念佛の三形態に分類し、鎭魂念佛の場合道俗の大衆が多敷参加して

念佛を合唱する融通念佛以來

の大念佛形式がとられていることを指摘

(35)

されたが、

『奮詞』にある大和怨海郡中

邑阿彌

陀寺の

「元錨三年

再興、道俗集會修大念佛也、本尊三尺之石佛ヲ今成中尊也」(第七冊)

の記事は、この観黙から注目せられる。佛教大學民間念佛研究會の調

査でも大念佛とその系統に属する念佛が種々報告されているが、遠州

大念佛の起源について資料㈲と軌を

一にした

傳説

る。印ち

一説

に、元轟三年の三方ケ原合職の際犀ケ崖において載死した甲州勢の亡

蜜が天正二年五月契聲鳴動し、悪疫を流行せしめ行路の人々に難を加

えたので、家康が貞轡了傳

(一説に門弟

の宗圓、又は法観)に命じて

七日七夜

の別時念佛を修せしめたところ、その功徳によつて怨塞によ

る被害が鎭まつたといい、他

の説は'『弾誓上人紬詞傳』に出るもので

「甲斐信玄公合戦

の節激萬

の軍兵此里堀江に沈み死し」

「その亡餓雨

夜ごとに光り渡り聲を揚げ野山に観波を作る」のを弾誓上人が

「箇様

(36

)

に念佛を修しなぼ再び出まじ」と示されたのに始まるという。琿誓は

(37

)

山林修行主義の苦修練行の聖であ

つた。

以上のように、鎭魂の念佛は苦修練行や回國によ

つて験力をも

つと

信じられた念佛聖によ

つて行なわれたが、大樹寺や遠州念佛の所傳は

このような聖のも

つ肚會的機能が傳読化されたものとみてよいし、村

々でかかる聖が好んで迎えられたのは、村人が動齪の世を禮験し、そ

の記憶も新らたであつたからであり、死蜜が浮遊する戦國時代には聖

が里巷に溢れていたといつてもよい。

また豆州志太郡小川村の教念寺には

「小川村依疾疫災人民悉死、今

一一五

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(開山長蓮肚観讐砧宗上人)聞之、此所來死骨集之爲墓建骨堂、依教令

念佛之文號教念寺」(第+八冊)との所傳があるが、

この開山

の行業は

正しく聖のそれである。

念佛の機能は戦死者等

の浮遊露に封してだけあるのではない。より

基本的にはひろく有縁無縁の亡者

への追善回向にあつた。伊勢飯野郡

射和村の蓮華精舎寺には開山花響蓮阿彌

「當村之前亡後滅精塞乃至

法界衆生

一蓮託生同誰佛果令廻向也」との記録があつたという

(第+

四冊)

また奥州磐手郡盛岡

の吉鮮寺

の開山清讐澤念法師は

「萬治年申

執行

一千日法界無縁念佛」したという

(第四九冊)。さらに聖の念佛は

墓所念佛ともな

つて現われていた。泉州泉郡忠岡村の勝基寺

の開山萬

讐勝基は、毎夜鉦鼓を打

つて泉州五ケ所の惣墓を回向したとて

勝基寺

右之寺山號院號無之、開基天文年中

(略)開山萬讐勝基上人出生泉州

日根野郡樽井村ト云所之人也

(略)樽井村之中堂山ト云所有之、此地

(勝力)

長老山南泉寺ト云ヲ開基其境内勢至堂虚空

所開基之地住持

ス、勝基寺開基ト前後具不知、南泉寺只今者眞言宗

ニテ何時眞言宗

成候モ不知、泉州之中五ケ所之墓有之、此墓所爲廻向自鉦鼓打苺夜

(穗)

相廻リ

一代無癬怠相勤、依之唯今至在々之者変米爾度之出來初尾勝

基寺

ヨリ住持取廻、永緑十二年六月二十六日遷化行年不知

(後略)

(第九冊)

『奮詞』は書き留めている。

また同じく泉郡下條大津村地藏堂でも

左のように墓所念佛が行なわれていた。

地藏堂

一一六

右者拾

一ケ村之墓所、、念佛執行之地也、

開基天正十九年辛卯開山善

正師匠素姓等不知

(後略)

(第九冊)

㈲の勝基や圃の善正は墓所にいる聖で、

『澤土三國佛祀傳集』

のい

うコニ昧衆」である。地藏堂などは明らかに墓堂であり、聖の墓堂

への

止住とどもに、墓堂の澤土宗化がおきてくる。奈良縣下には墓寺とし

ての澤土宗寺院

の多

いことが、凍田敏明氏によつて指摘されているこ

とを既に述

べた。道心や阿彌櫓またはこれに類する下級櫓が死者追善

の念佛を以て墓堂に定着し、

この念佛を

「常念佛」

「不断念佛」とみ

ることによつて、深土宗寺院化がはじまる。㈹の善正の墓所での念佛

『蕾詞』によれば

「常念佛」として理解されている。

かく念佛聖は、その念佛のはたらきの故に、墓地とも結びつき、墓

地あ

つての寺すなわち墓寺が成立するのである。會津の稻名寺は墓所

の念佛堂が大きくなつたものである。印ち

構名寺

構名寺者在干會津城東天寧寺南、元法林寺之葬地也、法林開山崇阿

弟子教讐傳挽慶長四年建念佛堂成

一寺、法林寺之末寺也。

(後略)

(第四八冊)

浮土宗法林寺の葬地に法林寺開山

の弟子が念佛堂を建て、法林寺の

末寺とな

つているわけで、㈲の勝基寺とともに墓と密着した寺院の成

立事惰を知る手がかりとなる。

和州忍海

一郡の

「浮土宗之惣菩提寺」であ

つた同郡卒岡邑の極樂寺

については次のような開創傳承がのこされている

極樂寺

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開基行基菩薩之由來元亨繹書十四之巻爲見、行基四十九ケ所之随

而住昔之境内者恢廊廣大也、然虞経於敷百年後楠氏赤松等之兵齪既

令殿堂於焼失(湘略)干時増上寺所化因名繹之誓念

(演蓮耐天暮目)(中略)

慕菩薩行基之薔跡、

一百絵回己前造立之石塔於今

敷多寺申

有之者

也、建立殿堂慶年中委細不知月

日等、蓋是當院成蓮宗之精舎始化道

俗貴賎宛如草靡草葉之風既成中興、近邊城主等之石塔於

(中略)凡成當忍海

一郡澤土宗之惣菩提寺

(中略)然天智當寺住職敷暦

之後轄住地他國而入寂亦不知月

日等、蓋寺門前行基開基之虞則廿五

三昧之随

一歎

(中略)本堂之中尊坐彌陀三尺

蜜佛開山行基之眞作

也。

(後略)

(第七冊)

この極樂寺は規模

の大きい墓寺

であるが、ここでも中興はひじり的

念佛曾であり、行基傳説を有しているのが注目せられる。このような

例は他にも

『蕾詞』から學げられるが、こ㌧では大和國高市郡市尾村

の如來寺が

「弘法大師御草創二十五三昧随

一之墓寺也」と傳えられて

いたことだけを墾・げるにとどめたい。

上述の如く、澤土宗儀禮たる別時念佛なども村人の理解と念佛

の機

能に徴するならば、民間念佛共

通の鎭魂呪術的なものであつた。丹後

國府の大乗寺で催される講接會

は、恵心檜都

の始修になるという迎講

の流れをくむもので、江戸時代に入つてから復活されたが、この講接

會に關して次のような云い傳えがあ

つた。

大乗寺

(前略)開山者刹生聖人ト申諸國遊行シ念佛鋤進ノ聖也

(略)中興者

寛印供奉申ナリ

(中略)寛弘八辛亥暦始華佛日當山入寺シ而衆生化盆

深土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじ6)の定着について

ノタメニ恵心先徳叡山華台院

ニテ來迎講接會ノ儀式執リ行

シ玉

フヲ

傳來リ、則國麻鉾立山道場移

シ三月十五日

二毎年是ヲ行イ給

一ニ

(遽)

不思議アリ、遠國近國ノ人々或

ハ親

二途

レ子

二離

レ或

ハ夫トニ迭

二離、諸共

二歎キ悲

ムニ亡者塞共夢中

二告テ云、我ヲ訪イ助ント

思イナハ丹後國府鉾立山ノ來迎講接會

ハ参ルヘシ、日本國ノ諸精露

集リ、各々利盆

二預リ、其ノ記

ニハ一村雨降ルト云ヘリ、至極大乗

教法掘物利生來迎講接會ヲ執リ行イシ遺跡ナル故大乗寺ト號ス

(中

略)愛

二豫久美本願寺

ヨリ十五年以前天和二壬戌歳極月八日當寺移リ

勤ルト錐供佛施僧檀越

モ無キ故

二分衛托鉢井佛餉領請イ資糧トシテ

次癸亥年

二月彼岸宿日ヨリ常念佛

二開關

シ奉リ、再開山利生功中興

(奉)

寛印

ノ残燈迎講接會

ノ先跡ヲ追

テ毎年三月十五日講接會ヲ行イ春者

(後略)

(第二九冊)

鎌倉初期に成立した

『古事談』に寛印法印が恵心僧都

の始めた迎講

を丹後に移し、天

の橋立で毎年三月十五日に行

つたということが出て

いるし、迎講を丹後で行なつた

ついては既に

『今昔物語集』

(巻+五)やまた

『沙石集』

(巻+)にみえているので、この地の迎講

の話は早くから成立していたとみられるが、往生行としての迎講が死

者との出會

いの場というように攣化している点に、民間における迎講

の受容がどのようなものであつたかを示していてきわめて興味深いも

のがある。と同時に澤土宗侶がこの浄土教儀禮を復活させたことに、

民聞信仰の根張さを感ずるとともに、浄土宗の信仰もまたこの死塞

租霊の鎭魂乃至追慕をその奥に持

つ念佛信仰を離れては民間に定着し

得なかつたであろうことが察せられるのである。

一一七

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yノ、

寺院の開創傳承に、古くから

の聖の傳統と特色を身につけた教化者

がいかに多く登場するかは今までみてきた通りであるが、宗史上の著

名な僧侶にあつても聖の世界に身をまかせ、またその故にこそ多大の

館依を受けたものが居た。問題

の時期に該當する人物を若午墾げてみ

よう。

島の光明院開山

・以八

(一五三二

=コ

四)は、

く師席藷

し、奮

里をはなれて料撤行脚

の身とな」り、

「東西を遊行し、南北に

へんれ

きし、或ときはつぶねとなり、

あるときはかたいと

つて密修暗練

 お

 

こと

・増

のご

く」

つた

て、

の以

の徳を慕

つた厭求

(一六一二一二

一七一三)も

「亙

の行履、寺院を領せず、漉々

落々として水雲

の境界」にあり

「長行を修せん」

は頭蛇を行じ

へ39

)

、草

いう

つた

の厭求と道交のあつた無能

(一六八三

一七一九)は

世上にまじらひ、此

身を立んと思はぼ事にふれて心中

の希望たゆることあるべからず、ひ

たすら俗念のみ深くて心行

は日夜

に疎

かになりもてゆかんは

一定な

り、しかじ非人法師

の身となりて稻名

の敷遍を策まんにはと、かく年

(40

)

て永

く此

を捨

いる。

また『蕾詞』で松林寺(聯

灘鯵

法國寺(翻

肺縢)、光國寺(輯

寺(同國甲府郡

戸野上村

)、阿彌陀寺(綱灘

樽)、阿彌陀寺(糊灘

楠下)な

どの開山で、揮誓阿彌陀佛とか揮誓道心又

は揮

誓比

丘と

いわれた揮

折三

瓶望

)は、表

物は布木綿紙子に過ず、喰物は抹香に松の甘皮を

一八

合せて石臼にて摘、是を丸となし」たもので、

「齪髪下り垂て甚だ異

(41

)

相」の苦修練行の聖であつた。彼は山林修行主義であり、美濃武儀郡

山申、佐渡檀特山、相摸塔峯などに籠山した。

このように彼等の行業は、回國修行聖の、あるいは山林修行聖の傳

統を継承していた。そしてこの傳統は、自つからのべているように「六

鍼貌瓢謎謎

難鐸

て後、ひたすら名利の榮信をいとひ

(略)やがて

衆僧の交をさけ學席

を壁

て諸

國行脚に出た讐

(一七二四

一七八九)樋ビ箋

けつがれ発

以上

の僧たちは宗史上捨世派とよぼれる

「捨世」の聖であるが、彼等が身

を投じた聖の世界には、繰り返しみてきたが如き回國修行の聖が傳承

の上だけではなく、實際に無名ながら数多く存在していたのである。

戦國の動齪に絡止符が打たれやがで肚會が安定するに從

つて、聖を

輩出させていた原因の

一つである村の荒慶や敗残ということがここに

溝滅したので、それに慮じて聖の全膣的な数も減少し、残

つたものも

徳川政槽が封建膣制を強化するにつれ、村落支配や宗團統制の面から

敷迎されない身となり、或は賎民化して村落に定着するか、寺庵に入つ

て教團の末端に吸牧されるかして、次第に姿を清していくのである。

もともと戦國大名は領國統制上、他國から流入する漂泊者について

は警戒的であ

つた。例えば大内氏の文明十八年四月二十九日の禁制に

一、夜中大道往來之事

一、薦櫓、放下、猿引事、可レ沸二當所井近里一事

一、非職人、非二諸人之被官一者、他國之仁、於二當所一不レ可二寄宿一事

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一、

路頭

一、

巡禮

、當

留可

レ爲

ゴ五

一、

二五

一者

レ可

二許

一事

し・

良氏

が出

た天

廿

四年

二月

の法度

一、

り來

り、

へか

候、

念等

つら

へか

す、

一向

へく候

(46

)

と出ている。念佛聖もひろい意味

での漂泊者であるから、放縦な行動

は許されなかつたが、大内氏の禁制にあるように巡禮などはむしろと

どまることの方が困難で、行脚

の日々をつづけなければならなかつた

のである。中世には治病

・除災

などで聖

の來訪を期待する人々が多か

つたので、

一定の條件づきで分國俳徊が許されている所があつた。例

えば武田氏

の場合である。天文

十六年六月に定められた甲州法度に

一、禰宜

・山伏等事、不レ可レ慧

二主人一、

若背ご此旨一者、分國俳桐

可レ停二止之一

(47

)

と出ている。行脚漂泊

の宗教者が分國法にどのように出ているかをみ

ると、結城氏新法度には

(随意)

(桝目)

一、兵線うりかふ様躰聞候

二、

はかり候もの共すい二ますめなし候

(行脚)

と聞及候、言語道断曲事

二候、御出頭之人めし候共、あんきや

(住來)

(鉢開)

わうらい、はちひらきか

い候共、

たて候ますめ少も不レ違様

やく人可二申付一候

(48

)

と、兵粒責買に關連して漂泊宗教者

のことが出ている。また文豫五年

へ49

)

の長宗我部氏掟書には

澤土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

一、男留守之時、其家江座頭、商人、舞々、猿樂、猿遣、諸働進此

類、或錐レ爲二親類

一男

一切立入停止也

(下略)

.

とある。それぞれの事情から法度として出された條項であるが、これ

らによつてどの領國でも行脚、渤進などの宗教者が往來し、注目され

ていたことが知られる。

徳川時代に入ると、かかる宗教者

の俳徊は、幕府

の人身掌握という

黙から、かなりの制約を受けることになつた。さきにも

のべたが申世

の遊行宗教者は近世には道心者となつて、教團

の下部組織に組み入れ

られると共に、村方

の支配をも受けるようになつた。

松本藩松川組大庄屋清水家文書

の中に、少し時代は降るが、大庄屋

の職務

のうち宗門改關係

の書式凡例とでもいうべきものが残されてい

るが、それには

差上申

一札事

(前略)

一、道心者之儀自然差置候とも、生國住所承届宗門相改、本寺又

一家共方6御法度之宗門

二て無御座段詮文取差置可申候、勿論

庄屋組頭方よりも

一札差上可申事

(中略)

一、往來之道筋旅人

一宿貸申儀兼て被仰付候通彌以堅相守可申事

附、他所君來候不惜成道心者

一切在々二差置申間敷候、惣て僧俗

何も

の二よらすうさんなる者

一夜之宿も貸し申問敷候、見届不申

二候

ハハ隼々村縫

二て先

々え追彿可申候

(以下略)

(50)

とあ

つて。道心者は生國住所はもとより宗門も把握され、他所より來

一一九

Page 24: し こ れ は 土 檜 れ こ は 澤 化 問 と 的 宗 豪 や の さ 土 曾 ...人 文 學 論 集 念 佛 聖 が 堂 庵 に 掛 錫 し た り 、 あ る い は 寺 院

たものについては身元不明確に

つき

一夜

の宿も許されず、村縫ぎで追

い佛われたことがわかる。また、道心者廻國

の類は

「何國にて相果候

共、其所

へ葬候様、本寺燭頭、其在所

の寺院、或は親類等燧成書付」

を持

つているべきで、もし懐中

にこの書付があれば、村方

「支配

の役所

へ訴え、在所

へ相届に不及」其

の所

へ取置けぼよかつた

(51

)

のである。さらに寺院に封しても、例えぼ尾州家では享保

二年

「寺

院御法度條々」で

一、後住之義、撰相鷹之僧、可定之、小庵たりといふとも御目見有

之寺院は、契約以前役所

へ相達、其上にて可令入院事

附、妻帯之坊舎後住之義、錐爲實子、其用難勤櫓は不可令相

績事

(中略)

一、於地子借地、結新庵、立法流、井私に附新號、令改號之儀等、

彌御停止之。但、本寺より於冤許は、其趣役所

へ可相断事

一、他國

へ相越之義、其趣、

達役所、

可仕指圖、

但、

無別條義に

付、住還廿日迄之他行は不及断事

(52

)

と制定しているように、住職、新造立、他行などについて嚴重な規定

を設けているので、前代

のように宗派色のはつきりしない道心者など

が住職になることはもとより、庵を立てることさえ容易ではなくなつ

ていた。

江戸時代

の寺院はこのように藩

の統制をも受けると共に、また所属

する宗派からも制御された。澤土宗寺院は元和元年幕府によつて制定

された諸條目に規制されるよう

になつたが、その中に

一二〇

一、

一向

二道

一授

二十

一渤

二男

一與

二血

一、

二停

一事

(53)

という條目がある。また寛文十

一年檀林會議の決議によつて議布した

定書の中にも、

一、爲二所化分一封二在家一五重相傳、從二古來一停止之義候得共干今狸

冤レ之候、自今以後急度可二申付一事、附、於二在々所々一隠遁之

上人或道心者、封二在家一五重令二相傳一之聞有レ之候、各強可レ

有二愈議一事

一、在家構二佛前一、別時念佛之導師座鋪談義並道心者寮にて不レ可レ

致二説法一事

(54)

とある。

このような幕府、藩、本山、村方などからの三重、四重もの寺院統

制、信尼支配が必然的に確たる宗派色をもたなかつた回國の聖を減少

させたのである。回國聖の入寺定着が幕府の宗教統制が進められた時

期とほぼ

一致することは既に述

べたところがあるが、このことは右の

事情を想起せしめるに十分である。かくて中世の聖は、統治者の人身

支配と聖を激増させた肚會的事情-動齪による浮遊死塞鎭魂の必要や

没落荒慶による武士

・農民の村落からの遊離などーの漕失にともなつ

て、減少、または轄身を絵儀なくされたのである。

念佛聖のうちあるものは潭土宗

へ流入して澤土宗侶になつた。私は

かつて近江安土の深嚴院の古過去帳に讃阿彌陀佛、高阿彌陀佛、智阿

彌實讐などの名がみえ、元和六年頃から阿彌號のものが出てこないと

ころから、この頃に阿彌曾が姿を清し、彼等が浮土宗僧侶に編入され

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る時期が到來するのではないかと考え、智阿彌實讐といつた法名

は深

土宗侶化がおこなわれる過渡期ものとして注目されることを述

べたこ

(55)

とがある。.

また念佛聖のあるものは道心者として堂庵に定着し、あるものは寺

院を離れて鉦打、鉢屋、茶兜な

どの特殊民や念佛藝能者に零落した。

今日、神肚寺院などに傳承されている念佛踊などの藝能や諸種の民間

念佛に比丘人とか新護意と稽す

る信形のものが現われるのは、近世で

は道心者と云われ、さかのぼれ

ぼ申世の遊行聖であつた民間教化者の

残留なのである。

では中世的な聖が果していた鎭魂、追善の肚會的機能は

一禮だれが

肩代りするのであろうか。

つま

り常民の宗教心を満たすものはだれか

ということであるが、こ

寺院に住む僧侶、

つまり宗侶であ

た、と私はみている。澤土宗は近世にな

つてそれまでの教化者教團か

ら制度的教團

へと推移したが、前代の教化者が帯びていた肚會的機能

は、その教化者自身が近世に入

つて分化蒋身してしま

つたが故に、今

度は制度的に確定された僧侶、印ち深土宗侶が肩代りするのが當然で

つた。かくて近世

の僧侶は葬式、回向を主務としたが、彼らこそ遊

行はしなかつたが中世

の聖の正統な縫承者とみられるのである。

(昭和四三年七月一六日稿)

註ω

竹田聴洲

「近世諸風蓮門精舎の自傳的開創年代とその地域的分布e~

酋」(同志社大学人文學第五六號以下、昭和三七年三月~三九年二月)。

拙稿

「近江における浮土宗教團の展開ー歴史・地理的考察ー」

(佛敏論

叢第八號、昭和三十五年三月)。

浮土宗寺院の開創傳承よりみたる聖(ひじり)の定着について

竹田前掲論文

「近世諸國蓮門精舎

の自傳的開創年代

とその地域的

の分布

鱒」

(同志社大學人文學第

七十)。

ω

田聴洲

「蓮門精

舎奮詞成立と

その史料的性格」

(佛教大學研究紀要第

・三合巻詞號、昭和三七年十月)がある。

澤全本

には収

められていない。増上寺本

(佛大圖書館藏窟眞版)による。

肚頭

聖に

ついては拙稿

「申世

の赦頭聖

についてー近江

の榊

によ

るi」

(佛教大學研究紀

要四七號、昭和四十年三月)

において論じた。

ω

藤井学

「江戸幕府

の宗教統制」

(岩波講座

『日本歴史』第十

一巻所収、

昭和

三八年十

一月刊)。

『鎮西名目問答奮迅砂』第

(澤

土宗全書第十巻、

四三

一頁以下)。

『麻

山集』

(吉川清

『時衆阿彌数團

の研究』

一八七頁)。

拙稿

「阿彌陀佛號に

ついてi我

が國澤土教史

研究

一覗黙ー」

(佛数大

學研究紀要三五號、昭和

三三年十月)。

ω

滋賀縣蒲

生郡安土澤嚴院文書

(『近江栗太郡志』巻

一、五

七六頁、大正

五年

六月刊)。

稲村担元編

『武藏史料銘記集』

一五頁

(昭和四

一年十

一月刊)。

拙稿

「記主念佛」

(佛数

大學民間念佛蕨究會編

『民間念佛信仰の研究』

所収、昭和四

一年

二月刊)。

qの

吉川清

『時衆阿彌教團

の研究』

一九〇頁

(昭和

一年五月刊)。

赤松俊秀

遍上人

の時宗

ついて」

(『鎌倉

佛教

の研究』所収、昭和三

二年刊)。

えば大橋俊雄

『番場時衆

のあ

ゆみ』(昭和

三八年十

一月刊)。

註ω

に同

じ。

原田敏明

「潭土宗

の傳播」

(祉

會と傅承第

三號、昭和三

二年)。

示西院行事帳のほか示西院代

々行事帳も輯録

され

ている。

⑫③

小林計

一郎

・霜

田巖編

『松代藩堂宮改帳』九

一頁

(昭和三七年

七月刊)。

同右書八、'五六頁。

聖聰

『浮土三國佛租傳集』巻下

(績

浮土宗全集六、三三〇頁)。

一一二

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五來

『高野聖』

二〇

一頁

以下

(角川新書、昭和

四十年

五月刊)。

一郎

『我

が國民間信仰史

の研究』六

以下

(昭和

二、八年十

一月

刊)。

例えば

『蔭涼軒

日録』

文正元年

八月十八日條

、滋賀縣大津市坂本生源寺

鐘銘

(大

日本金石史附録

二七頁)。

『近江蒲生郡志』巻七、五四八頁

以下

(大正十

一年

二月刊)。

香月乗光

・伊藤唯翼

・千葉乗隆

『日本

の宗数2』

七三頁

(昭和三六年

月刊)。

常勝寺縁

(『近江栗太郡志』巻

五、

三二二頁以下)。

金井清光

「善光寺聖

とそ

の語り物」

(『時衆文藝研究』所収、

「時

究」第十九~

一二

號、

(昭和四

一年

八、十、十

二月)。

『善光寺縁

起』第四

(績群書類從第

二八輯上、

一八五頁

以下)。

『蓮門精舎奮詞』

(第四八冊)新善光寺條下

「當寺塔頭之存亡」として

の如く記載

されている。

從信州慕如来時衆寺

-

十念寺

山上本時衆

慶長十

二冬

二月廿

二日住持巳後再興

元和

六年遷

化日後退轄

香佛

三昧寺

川端時衆同炎上巳後造螢住侶清國

寛永

五年五月廿

日逝去日後

属傾庵

佛寺

同所住持愛

天正四年

二月十九日遷化

巳後混滅

至誠寺

同所同炎上巳後再興住持故

元和六年正月逝去巳後退轄

右四箇寺遺趾寛泳

九壬申天前大守加藤吏

部明成公保有司爲茶店 

拙稿

「阿彌陀の聖に

ついて1

民間

浮土数

への

一覗貼」

(近刊

の藤島博

還暦記念論文集所牧)。

岡静夫

『日本古代佛教史の研究』

二二五頁以下

(昭和

三七年九月刊)。

.㈱

堀著前

掲書

三九頁以下。

五來重

「融通念佛

・大念佛および六斎念佛」

(大谷大學研究年報十號

昭和三二年十

二月)。

季砧史

「逡州大念佛」

(佛教

大学民間念佛研究會編

・前掲書三ゼ五頁)。

一二二

拙稿

「捨世

の系譜-

近世浮土宗におけるー」

(近世佛敏第三巻第

二號、

昭和

三七年十月)。

『光明院以八上

人行状記』

(澤土宗全

書第

十七巻、七六六頁以下)。

『厭求上人行状記』

(浮土宗全書第十八巻、

五五頁以下)。

『無能和尚

行業記』上

(浮土宗全書第

十八巻、

一一五頁

以下)。

ω

『弾誓

上人檜詞傳』

(浮土宗全書第十七巻、

六八五頁以下)。

『燧嚢狸語』巻

(雲介子關通全集第

一巻、四

一頁以下)。

『向讐上人行實』(雲

介子關

通全集第五巻、

一頁以下)。

ω

『學信和尚

行状記』

(浮土宗全書第十八巻'

111011頁以下)。

「大内氏掟書」

(佐藤

・池内

・百瀬編『中世法制史料集』第三巻六九頁

昭和四十年八月刊)。

「相良氏度」

(同右書三二頁)。

「甲州法度之次第」

(同右書

一五頁)。

「結城氏新法度」

(同右書

二五

一頁)。

「長曾我部氏掟書」

(同右書

二九

一頁)。

『近世村落自治史料集』第

一輯

一二〇頁。

『吏事随筆』「海道筋旅人取扱方之事」

(名古屋叢書第

三巻

一八四頁、昭

和三六年

二月刊)。

『尾州家代

々條目』「寺院御法度條

々」

(前掲書第

二巻四五頁)。

63

大島泰信

「浮土宗史」

(『澤土宗全書』第

二十巻、五七八頁)。

同右書、五八七頁。

註ω

に同じ。