太宰治 思い出promeneur-libre.raindrop.jp/.../pdf_jp/dazaiosamu_omoide.pdf7 何かのいた...

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  • 思い出

  • 5

    一章

    黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた︒叔母

    は誰かをおんぶしているらしく︑ねんねこを着て居た︒

    その時の︑ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる︒

    叔母は︑てんしさまがお隠れになったのだ︑と私に教え

    て︑生き神様︑と言い添えた︒いきがみさま︑と私も興

    がみさま

    深げに呟いたような気がする︒それから︑私は何か不

    つぶや

  • 6

    敬なことを言ったらしい︒叔母は︑そんなことを言うも

    のでない︑お隠れになったと言え︑と私をたしなめた︒

    どこへお隠れになったのだろう︑と私は知っていながら︑

    わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す︒

    私は明治四十二年の夏の生れであるから︑此の大帝崩

    御のときは数えどしの四つをすこし越えていた︒多分お

    なじ頃の事であったろうと思うが︑私は叔母とふたりで

    私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き︑

    そこで見た滝を忘れない︒滝は村にちかい山の中にあっ

    た︒青々と苔の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちて

    こけ

  • 7

    いた︒知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた︒

    何かの社が傍にあって︑その男の人が私にそこのさま

    やしろ

    ざまな絵馬を見せたが私は段々とさびしくなって︑がち

    ゃ︑がちゃ︑と泣いた︒私は叔母をがちゃと呼んでいた

    のである︒叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を

    もうせん

    敷いて騒いでいたが︑私の泣き声を聞いて︑いそいで立

    ち上った︒そのとき毛氈が足にひっかかったらしく︑お

    辞儀でもするようにからだを深くよろめかした︒他のひ

    とたちはそれを見て︑酔った︑酔ったと叔母をはやした

    てた︒私は遙かはなれてこれを見おろし︑口惜しくて口

  • 8

    惜しくて︑いよいよ大声を立てて泣き喚いた︒またある

    わめ

    夜︑叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た︒叔母の胸

    は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた︒その赤く

    ふくれた大きい胸から︑つぶつぶの汗がしたたっていた︒

    叔母は︑お前がいやになった︑とあらあらしく呟くので

    ある︒私は叔母のその乳房に頬をよせて︑そうしないで

    けんせ︑と願いつつしきりに涙を流した︒叔母が私を揺

    り起した時は︑私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて

    泣いていた︒眼が覚めてからも︑私はまだまだ悲しくて

    永いことすすり泣いた︒けれども︑その夢のことは叔母

  • 9

    にも誰にも話さなかった︒

    叔母についての追憶はいろいろとあるが︑その頃の父

    母の思い出は生憎と一つも持ち合せない︒曾祖母︑祖母︑

    父︑母︑兄三人︑姉四人︑弟一人︑それに叔母と叔母の

    娘四人の大家族だった筈であるが︑叔母を除いて他のひ

    とたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにいた

    と言ってよい︒広い裏庭に︑むかし林檎の大木が五六本

    あったようで︑どんよりと曇った日︑それらの木に女の

    子が多人数で昇って行った有様や︑そのおなじ庭の一隅

    に菊畑があって︑雨の降っていたとき︑私はやはり大勢

  • 10

    の女の子らと傘さし合って菊の花の咲きそろっているの

    を眺めたことなど︑幽かに覚えて居るけれど︑あの女の

    かす

    子らが私の姉や従姉たちだったのかも知れない︒

    いとこ

    六つ七つになると思い出もはっきりしている︒私がた

    けという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の

    本を読み合った︒たけは私の教育に夢中であった︒私は

    病身だったので︑寝ながらたくさん本を読んだ︒読む本

    がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をど

    しどし借りて来て私に読ませた︒私は黙読することを覚

    えていたので︑いくら本を読んでも疲れないのだ︒たけ

  • 11

    は又︑私に道徳を教えた︒お寺へ屢々連れて行って︑地

    しばしば

    獄極楽の御絵掛地を見せて説明した︒火を放けた人は赤

    かけじ

    い火のめらめら燃えている籠を脊負わされ︑めかけ持っ

    た人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて︑せつ

    ながっていた︒血の池や︑針の山や︑無間奈落という白

    げんな

    らく

    い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や︑到るところで︑蒼

    白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでい

    た︒嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を

    抜かれるのだ︑と聞かされたときには恐ろしくて泣き出

    した︒

  • 12

    そのお寺の裏は小高い墓地になっていて︑山吹かなに

    かの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のように立って

    いた︒卒堵婆には︑満月ほどの大きさで車のような黒い

    鉄の輪のついているのがあって︑その輪をからから廻し

    て︑やがて︑そのまま止ってじっと動かないならその廻

    した人は極楽へ行き︑一旦とまりそうになってから︑又

    いつたん

    からんと逆に廻れば地獄へ落ちる︑とたけは言った︒た

    けが廻すと︑いい音をたててひとしきり廻って︑かなら

    ずひっそりと止るのだけれど︑私が廻すと後戻りするこ

    とがたまたまあるのだ︒秋のころと記憶するが︑私がひ

  • 13

    とりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言

    い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったの

    である︒私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十

    回となく執拗に廻しつづけた︒日が暮れかけて来たので︑

    しつよう

    私は絶望してその墓地から立ち去った︒

    父母はその頃東京にすまっていたらしく︑私は叔母に

    連れられて上京した︒私は余程ながく東京に居たのだそ

    うであるが︑あまり記憶に残っていない︒その東京の別

    宅へ︑ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである︒

    私は此の婆がきらいで︑婆の来る度毎に泣いた︒婆は私

  • 14

    に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れたが︑ちっとも面

    白くなかったのである︒

    やがて私は故郷の小学校へ入ったが︑追憶もそれと共

    に一変する︒たけは︑いつの間にかいなくなっていた︒

    或漁村へ嫁に行ったのであるが︑私がそのあとを追うだ

    ろうという懸念からか︑私には何も言わずに突然いなく

    なった︒その翌年だかのお盆のとき︑たけは私のうちへ

    遊びに来たが︑なんだかよそよそしくしていた︒私に学

    校の成績を聞いた︒私は答えなかった︒ほかの誰かが代

    って知らせたようだ︒たけは︑油断大敵でせえ︑と言っ

  • 15

    ただけで格別ほめもしなかった︒

    同じ頃︑叔母とも別れなければならぬ事情が起った︒

    それまでに叔母の次女は嫁ぎ︑三女は死に︑長女は歯医

    者の養子をとっていた︒叔母はその長女夫婦と末娘とを

    連れて︑遠くのまちへ分家したのである︒私もついて行

    った︒それは冬のことで︑私は叔母と一緒に橇の隅へう

    そり

    ずくまっていると︑橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が︑

    婿︑婿と私を罵って橇の幌の外から私の尻を何辺もつつ

    むご

    むご

    ほろ

    いた︒私は歯を食いしばって此の屈辱にこらえた︒私は

    叔母に貰われたのだと思っていたが︑学校にはいるよう

  • 16

    になったら︑また故郷へ返されたのである︒

    学校に入ってからの私は︑もう子供でなかった︒裏の

    空屋敷には色んな雑草がのんのんと繁っていたが︑夏の

    或る天気のいい日に私はその草原の上で弟の子守から息

    苦しいことを教えられた︒私が八つぐらいで︑子守もそ

    のころは十四五を越えていまいと思う︒苜蓿を私の田

    うまごやし

    舍では﹁ぼくさ﹂と呼んでいるが︑その子守は私と三つ

    ちがう弟に︑ぼくさの四つ葉を搜して来い︑と言いつけ

    て追いやり私を抱いてころころと転げ廻った︒それから

    も私たちは蔵の中だの押入の中だのに隠れて遊んだ︒弟

  • 17

    がひどく邪魔であった︒押入のそとにひとり残された弟

    が︑しくしく泣き出した為︑私のすぐの兄に私たちのこ

    とを見つけられてしまった時もある︒兄が弟から聞いて︑

    その押入の戸をあけたのだ︒子守は︑押入へ銭を落した

    ぜに

    のだ︑と平気で言っていた︒

    嘘は私もしじゅう吐いていた︒小学二年か三年の雛祭

    ひなまつ

    りのとき学校の先生に︑うちの人が今日は雛さまを飾る

    のだから早く帰れと言っている︑と嘘を吐いて授業を一

    時間も受けずに帰宅し︑家の人には︑きょうは桃の節句

    だから学校は休みです︑と言って雛を箱から出すのに要

  • 18

    らぬ手伝いをしたことがある︒また私は小鳥の卵を愛し

    た︒雀の卵は蔵の屋根瓦をはぐと︑いつでもたくさん手

    にいれられたが︑さくらどりの卵やからすの卵などは私

    の屋根に転ってなかったのだ︒その燃えるような緑の卵

    や可笑しい斑点のある卵を︑私は学校の生徒たちから貰

    った︒その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊

    とまとめて与えるのである︒集めた卵は綿でくるんで机

    の引き出しに一杯しまって置いた︒すぐの兄は︑私のそ

    の秘密の取引に感づいたらしく︑ある晩︑私に西洋の童

    話集ともう一冊なんの本だか忘れたが︑その二つを貸し

  • 19

    て呉れと言った︒私は兄の意地悪さを憎んだ︒私はその

    両方の本とも卵に投資して了ってないのであった︒兄は

    しま

    私がないと言えばその本の行先を追及するつもりなの

    だ︒私は︑きっとあった筈だから捜して見る︑と答えた︒

    私は︑私の部屋は勿論︑家中いっぱいランプをさげて捜

    して歩いた︒兄は私についてあるきながら︑ないのだろ

    う︑と言って笑っていた︒私は︑ある︑と頑強に言い張

    った︒台所の戸棚の上によじのぼってまで捜した︒兄は

    しまいに︑もういい︑と言った︒

    学校で作る私の綴方も︑ことごとく出鱈目であった

    つづりかた

    たらめ

  • 20

    と言ってよい︒私は私自身を神妙ないい子にして綴るよ

    う努力した︒そうすれば︑いつも皆にかっさいされるの

    である︒剽窃さえした︒当時傑作として先生たちに言

    ひようせつ

    いはやされた﹁弟の影絵﹂というのは︑なにか少年雑誌

    の一等当選作だったのを私がそっくり盜んだものであ

    る︒先生は私にそれを毛筆で清書させ︑展覧会に出させ

    た︒あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され︑私

    はその生徒の死ぬことを祈った︒やはりそのころ﹁秋の

    夜﹂というのも皆の先生にほめられたが︑それは︑私が

    勉強して頭が痛くなったから縁側へ出て庭を見渡した︑

  • 21

    月のいい夜で池には鯉や金魚がたくさん遊んでいた︑私

    はその庭の静かな景色を夢中で眺めていたが︑隣部屋か

    ら母たちの笑い声がどっと起ったので︑はっと気がつい

    たら私の頭痛がなおって居た︑という小品文であった︒

    此の中には真実がひとつもないのだ︒庭の描写は︑たし

    か姉たちの作文帳から抜き取ったものであったし︑だい

    いち私は頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさっぱり

    ないのである︒私は学校が嫌いで︑したがって学校の本

    など勉強したことは一回もなかった︒娯楽本ばかり読ん

    でいたのである︒うちの人は私が本さえ読んで居れば︑

  • 22

    それを勉強だと思っていた︒

    しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果

    が起ったのである︒父母が私を愛して呉れないという不

    平を書き綴ったときには︑受持訓導に教員室へ呼ばれて

    うけもちくんどう

    叱られた︒﹁もし戦争が起ったなら︒﹂という題を与え

    られて︑地震雷火事親爺︑それ以上に怖い戦争が起った

    なら先ず山の中へでも逃げ込もう︑逃げるついでに先生

    をも誘おう︑先生も人間︑僕も人間︑いくさの怖いのは

    同じであろう︑と書いた︒此の時には校長と次席訓導と

    が二人がかりで私を調べた︒どういう気持で之を書いた

  • 23

    か︑と聞かれたので︑私はただ面白半分に書きました︑

    といい加減なごまかしを言った︒次席訓導は手帖へ︑﹁好

    奇心﹂と書き込んだ︒それから私と次席訓導とが少し議

    論を始めた︒先生も人間︑僕も人間︑と書いてあるが人

    間というものは皆おなじものか︑と彼は尋ねた︒そう思

    う︑と私はもじもじしながら答えた︒私はいったいに口

    が重い方であった︒それでは僕と此の校長先生とは同じ

    人間でありながら︑どうして給料が違うのだ︑と彼に問

    われて私は暫く考えた︒そして︑それは仕事がちがうか

    らでないか︑と答えた︒鉄縁の眼鏡をかけ︑顔の細い次

  • 24

    席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった︒私はか

    ねてから此の先生に好意を持っていた︒それから彼は私

    にこんな質問をした︒君のお父さんと僕たちとは同じ人

    間か︒私は困って何とも答えなかった︒

    私の父は非常に忙しい人で︑うちにいることがあまり

    なかった︒うちにいても子供らと一緒には居らなかった︒

    私は此の父を恐れていた︒父の万年筆をほしがっていな

    がらそれを言い出せないで︑ひとり色々と思い悩んだ末︑

    或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして︑ま

    ごと

    んねんひつ︑まんねんひつ︑と隣部屋で客と対談中の父

  • 25

    へ低く呼びかけた事があったけれど︑勿論それは父の耳

    にも心にもはいらなかったらしい︒私と弟とが米俵のぎ

    っしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいる

    と︑父が入口に立ちはだかって︑坊主︑出ろ︑出ろ︑と

    叱った︒光を脊から受けているので父の大きい姿がまっ

    くろに見えた︒私は︑あの時の恐怖を惟うと今でもいや

    おも

    な気がする︒

    母に対しても私は親しめなかった︒乳母の乳で育って

    叔母の懐で大きくなった私は︑小学校の二三年のときま

    で母を知らなかったのである︒下男がふたりかかって私

  • 26

    にそれを教えたのだが︑ある夜︑傍に寝ていた母が私の

    蒲団の動くのを不審がって︑なにをしているのか︑と私

    に尋ねた︒私はひどく当惑して︑腰が痛いからあんまや

    っているのだ︑と返事した︒母は︑そんなら揉んだらい

    い︑たたいて許りいたって︑と眠そうに言った︒私は黙

    ってしばらく腰を撫でさすった︒母への追憶はわびしい

    ものが多い︒私が蔵から兄の洋服を出し︑それを着て裏

    庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら︑私の即興的に作曲

    する哀調のこもった歌を口ずさんでは涙ぐんでいた︒私

    はその身装で帳場の書生と遊びたく思い︑女中を呼びに

    なり

  • 27

    やったが︑書生は仲々来なかった︒私は裏庭の竹垣を靴

    先でからからと撫でたりしながら彼を待っていたのであ

    るが︑とうとうしびれを切らして︑ズボンのポケットに

    両手をつっ込んだまま泣き出した︒私の泣いているのを

    見つけた母は︑どうした訳か︑その洋服をはぎ取って了

    って私の尻をぴしゃぴしゃとぶったのである︒私は身を

    切られるような恥辱を感じた︒

    私は早くから服装に関心を持っていたのである︒シャ

    ツの袖口にはボタンが附いていないと承知できなかっ

    た︒白いフランネルのシャツを好んだ︒襦袢の襟も白く

    じゆばん

  • 28

    なければいけなかった︒えりもとからその白襟を一分か

    いちぶ

    二分のぞかせるように注意した︒十五夜のときには︑村

    ぶの生徒たちはみんな晴衣を着て学校へ出て来るが︑私も

    毎年きまって茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行

    って︑学校の狭い廊下を女のようになよなよと小走りに

    はしって見たりするのであった︒私はそのようなおしゃ

    れを︑人に感附かれぬようひそかにやった︒うちの人た

    ちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい︑と言ってい

    たし︑そのような悪いおとこが︑こんなおしゃれをする

    と知られたら皆に笑われるだろう︑と考えたからである︒

  • 29

    私は︑かえって服装に無関心であるように振舞い︑しか

    もそれは或る程度まで成功したように思う︒誰の眼にも

    私は鈍重で野暮臭く見えたにちがいないのだ︒私が兄弟

    たちとお膳のまえに坐っているときなど︑祖母や母がよ

    く私の顔のわるい事を真面目に言ったものだが︑私には

    やはりくやしかった︒私は自分をいいおとこだと信じて

    いたので︑女中部屋なんかへ行って︑兄弟中で誰が一番

    いいおとこだろう︑とそれとなく聞くことがあった︒女

    中たちは︑長兄が一番で︑その次が治ちゃだ︑と大抵そ

    う言った︒私は顔を赤くして︑それでも少し不満だった︒

  • 30

    長兄よりもいいおとこだと言って欲しかったのである︒

    私は容貌のことだけでなく︑不器用だという点で祖母

    たちの気にいらなかった︒箸の持ちかたが下手で食事の

    度毎に祖母から注意されたし︑私のおじぎは尻があがっ

    て見苦しいとも言われた︒私は祖母の前にきちんと坐ら

    され︑何回も何回もおじぎをさせられたけれど︑いくら

    やって見ても祖母は上手だと言って呉れないのである︒

    祖母も私にとって苦手であったのだ︒村の芝居小屋の

    舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき︑

    私はその興業中いちにちも欠かさず見物に行った︒その

  • 31

    小屋は私の父が建てたのだから︑私はいつでもただでい

    い席に坐れたのである︒学校から帰るとすぐ︑私は柔い

    着物と着換え︑端に小さい鉛筆をむすびつけた細い銀鎖

    を帯に吊りさげて芝居小屋へ走った︒生れて始めて歌舞

    伎というものを知ったのであるし︑私は興奮して︑狂言

    を見ている間も幾度となく涙を流した︒その興行が済ん

    でから︑私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で

    芝居をやって見た︒私は前からこんな催物が好きで︑下

    男や女中たちを集めては︑昔話を聞かせたり︑幻灯や活

    動写真を映して見せたりしたものである︒そのときには︑

  • 32

    ﹁山中鹿之助﹂と﹁鳩の家﹂と﹁かっぽれ﹂と三つの狂

    言を並べた︒山中鹿之助が谷河の岸の或る茶店で︑早川

    鮎之助という家来を得る条を或る少年雑誌から抜き取

    くだり

    って︑それを私が脚色した︒拙者は山中鹿之助と申すも

    のであるが︑

    ︱という長い言葉を歌舞伎の七五調に直

    すのに苦心をした︒﹁鳩の家﹂は私がなんべん繰り返し

    て読んでも必ず涙の出た長篇小説で︑その中でも殊に哀

    れな所を二幕に仕上げたものであった︒﹁かっぽれ﹂は

    雀三郎一座がおしまいの幕の時︑いつも楽屋総出でそれ

    を踊ったものだから︑私もそれを踊ることにしたのであ

  • 33

    る︒五六にち稽古して愈々その日︑文庫蔵のまえの広い

    いよいよ

    ぶんこ

    ぐら

    廊下を舞台にして︑小さい引幕などをこしらえた︒昼の

    うちからそんな準備をしていたのだが︑その引幕の針金

    に祖母が顎をひっかけて了った︒祖母は︑此の針金でわ

    たしを殺すつもりか︑河原乞食の真似糞はやめろ︑と言

    ぐそ

    って私たちをののしった︒それでもその晩はやはり下男

    や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやってみせた

    が︑祖母の言葉を考えると私の胸は重くふさがった︒私

    は山中鹿之助や﹁鳩の家﹂の男の子の役をつとめ︑かっ

    ぽれも踊ったけれど少しも気乗りがせずたまらなく淋し

  • 34

    かった︒そののちも私はときどき﹁牛盗人﹂や﹁皿屋敷﹂

    や﹁俊徳丸﹂などの芝居をやったが︑祖母はその都度に

    がにがしげにしていた︒

    私は祖母を好いてはいなかつたが︑私の眠られない夜

    には祖母を有難く思うことがあった︒私は小学三四年の

    ころから不眠症にかかって︑夜の二時になっても三時に

    なっても眠れないで︑よく寝床のなかで泣いた︒寝る前

    に砂糖をなめればいいとか︑時計のかちかちを数えろと

    か︑水で両足を冷せとか︑ねむのきの葉を枕のしたに敷

    いて寝るといいとか︑さまざまの眠る工夫をうちの人た

  • 35

    ちから教えられたが︑あまり効目がなかったようである︒

    私は苦労性であって︑いろんなことをほじくり返して気

    にするものだから︑尚のこと眠れなかったのであろう︒

    父の鼻眼鏡をこっそりいじくって︑ぽきっとその硝子を

    割ってしまったときには︑幾夜もつづけて寝苦しい思い

    をした︒一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわずか

    売っていて︑ある日私は︑そこで婦人雑誌の口絵などを

    見ていたが︑そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画が欲

    しくてならず︑盗もうと考えて静かに雑誌から切り離し

    ていたら︑そこの若主人に︑治こ︑治こ︑と見とがめら

    おさ

    おさ

  • 36

    れ︑その雑誌を音高く店の畳に投げつけて家まで飛んで

    はしって来たことがあったけれど︑そういうやりそこな

    いもまた私をひどく眠らせなかった︒私は又︑寝床の中

    で火事の恐怖に理由なく苦しめられた︒此の家が焼けた

    ら︑と思うと眠るどころではなかったのである︒いつか

    の夜︑私が寝しなに厠へ行ったら︑その厠と廊下ひと

    かわや

    つ隔てた真暗い帳場の部屋で︑書生がひとりして活動写

    真をうつしていた︒白熊の︑氷の崖から海へ飛び込む有

    様が︑部屋の襖へマッチ箱ほどの大きさでちらちら映っ

    ていたのである︒私はそれを覗いて見て︑書生のそうい

  • 37

    う心持が堪らなく悲しく思われた︒床に就いてからも︑

    その活動写真のことを考えると胸がどきどきしてならぬ

    のだ︒書生の身の上を思ったり︑また︑その映写機のフ

    ィルムから発火して大事になったらどうしようとそのこ

    とが心配で心配で︑その夜はあけがた近くになる迄まど

    ろむ事が出来なかったのである︒祖母を有難く思うのは

    こんな夜であった︒

    まず︑晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて︑私の

    眠るまではその女中も私の傍に寝ながら附いていなけれ

    ばならなかったのだが︑私は女中を気の毒に思い︑床に

  • 38

    つくとすぐ眠ったふりをするのである︒女中がこっそり

    私の床から脱け出るのを覚えつつ︑私は睡眠できるよう

    ひたすら念じるのである︒十時頃まで床のなかで転輾し

    てんてん

    てから︑私はめそめそ泣き出して起き上る︒その時分に

    なると︑うちの人は皆寝てしまっていて︑祖母だけが起

    きているのだ︒祖母は夜番の爺と︑台所の大きい囲炉裏

    を挟んで話をしている︒私はたんぜんを着たままその間

    にはいって︑むっつりしながら彼等の話を聞いているの

    である︒彼等はきまって村の人々の噂話をしていた︒或

    る秋の夜更に︑私は彼等のぼそぼそと語り合う話に耳傾

  • 39

    けていると︑遠くから虫おくり祭の太鼓の音がどんどん

    と響いて来たが︑それを聞いて︑ああ︑まだ起きている

    人がたくさんあるのだ︑とずいぶん気強く思ったことだ

    けは忘れずにいる︒

    音に就いて思い出す︒私の長兄は︑そのころ東京の大

    学にいたが︑暑中休暇になって帰郷する度毎に︑音楽や

    文学などのあたらしい趣味を田舍へひろめた︒長兄は劇

    を勉強していた︒或る郷土の雑誌に発表した﹁奪い合い﹂

    という一幕物は︑村の若い人たちの間で評判だった︒そ

    れを仕上げたとき︑長兄は数多くの弟や妹たちにも読ん

  • 40

    で聞かせた︒皆︑判らない判らない︑と言って聞いてい

    たが︑私には判った︒幕切の︑くらい晩だなあ︑という

    一言に含まれた詩をさえ理解できた︒私はそれに﹁奪い

    合い﹂でなく﹁あざみ草﹂と言う題をつけるべきだと考

    えたので︑あとで︑兄の書き損じた原稿用紙の隅へ︑そ

    の私の意見を小さく書いて置いた︒兄は多分それに気が

    附かなかったのであろう︑題名をかえることなくその儘

    発表して了った︒レコオドもかなり集めていた︒私の父

    しま

    は︑うちで何か饗応があると必ず︑遠い大きなまちか

    きようおう

    らはるばる芸者を呼んで︑私も五つ六つの頃から︑そん

  • 41

    な芸者たちに抱かれたりした記憶があって︑﹁むかしむ

    かしそのむかし﹂だの﹁あれは紀のくにみかんぶね﹂だ

    のの唄や踊りを覚えているのである︒そういうことから︑

    私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くなじん

    だ︒ある夜︑私が寝ていると︑兄の部屋からいい音が漏

    れて来たので︑枕から頭をもたげて耳をすました︒あく

    る日︑私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第あれ

    これとレコオドを掛けて見た︒そしてとうとう私は見つ

    けた︒前夜︑私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオド

    は︑蘭蝶だった︒

    らんちよう

  • 42

    私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ︒次兄は東

    京の商業学校を優等で出て︑そのまま帰郷し︑うちの銀

    行に勤めていたのである︒次兄も亦うちの人たちに冷く

    取扱われていた︒私は︑母や祖母が︑いちばん悪いおと

    こは私で︑そのつぎに悪いのは次兄だ︑と言っているの

    を聞いた事があるので︑次兄の不人気もその容貌がもと

    であろうと思っていた︒なんにも要らない︑おとこ振り

    ばかりでもよく生れたかった︑なあ治︑と半分は私をか

    らかうように呟いた次兄の冗談口を私は記憶している︒

    しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが

  • 43

    一度もないのだ︒あたまも兄弟のうちではいい方だと信

    ほう

    じている︒次兄は毎日のように酒を呑んで祖母と喧嘩し

    た︒私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ︒

    末の兄と私とはお互いに反目していた︒私は色々な秘

    密を此の兄に握られていたので︑いつもけむったかった︒

    それに︑末の兄と私の弟とは︑顔のつくりが似て皆から

    美しいとほめられていたし︑私は此のふたりに上下から

    圧迫されるような気がしてたまらなかったのである︒そ

    の兄が東京の中学に行って︑私はようやくほっとした︒

    弟は︑末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛さ

  • 44

    れた︒私は絶えず弟を嫉妬していて︑ときどきなぐって

    は母に叱られ︑母をうらんだ︒私が十か十一のころのこ

    とお

    とと思う︒私のシャツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いた

    じゆばん

    ようにしらみがたかった時など︑弟がそれを鳥渡笑った

    ちよつと

    というので︑文字通り弟を殴り倒した︒けれども私は矢

    張り心配になって︑弟の頭に出来たいくつかの瘤へ不可

    こぶ

    飲という薬をつけてやった︒

    いん

    私は姉たちには可愛がられた︒いちばん上の姉は死に︑

    次の姉は嫁ぎ︑あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女

    学校へ行っていた︒私の村には汽車がなかったので︑三

  • 45

    里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに︑夏は馬

    車︑冬は橇︑春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くよ

    そり

    り他なかったのである︒姉たちは橇に酔うので︑冬やす

    みの時も歩いて帰った︒私はそのつどつど村端れの材木

    はず

    が積まれてあるところまで迎えに出たのである︒日がと

    っぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ︒やがて隣村

    の森のかげから姉たちの提灯がちらちら現れると︑私

    ちようちん

    は︑おう︑と大声あげて両手を振った︒

    上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあっ

    たので︑お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだ

  • 46

    った︒いつか上の姉が︑なにもなくてえ︑と顔を赤くし

    て言いつつ線香花火を五束六束バスケットから出して私

    いつたばむ

    たば

    に与えたが︑私はそのとき胸をしめつけられる思いがし

    た︒此の姉も亦きりょうがわるいとうちの人たちからい

    われいわれしていたのである︒

    上の姉は女学校へはいるまでは︑曾祖母とふたりで離

    座敷に寝起していたものだから︑曾祖母の娘だとばかり

    私は思っていたほどであった︒曾祖母は私が小学校を卒

    業する頃なくなったが︑白い着物を着せられ小さくかじ

    かんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は︑この姿が

  • 47

    こののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心

    配した︒

    私は程なく小学校を卒業したが︑からだが弱いからと

    言うので︑うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ

    通わせることにした︒からだが丈夫になったら中学へい

    れてやる︑それも兄たちのように東京の学校では健康に

    悪いから︑もっと田舍の中学へいれてやる︑と父が言っ

    ていた︒私は中学校へなどそれほど入りたくなかったの

    だけれどそれでも︑からだが弱くて残念に思う︑と綴方

    つづりかた

    へ書いて先生たちの同情を強いたりしていた︒

  • 48

    この時分には︑私の村にも町制が敷かれていたが︑そ

    の高等小学校は私の町と附近の五六ヶ村と共同で出資し

    て作られたものであって︑まちから半里も離れた松林の

    中に在った︒私は病気のためにしじゅう学校をやすんで

    いたのだけれどその小学校の代表者だったので︑他村か

    らの優等生がたくさん集る高等小学校でも一番になるよ

    う努めなければいけなかったのである︒しかし私はそこ

    でも相変らず勉強をしなかった︒いまに中学生に成るの

    だ︑という私の自矜が︑その高等小学校を汚く不愉快に

    じきよう

    感じさせていたのだ︒私は授業中おもに連続の漫画をか

  • 49

    いた︒休憩時間になると︑声色をつかってそれを生徒た

    こわいろ

    ちへ説明してやった︒そんな漫画をかいた手帖が四五冊

    もたまった︒机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり

    眺めて一時間を過すこともあった︒私は硝子窓の傍に座

    席をもっていたが︑その窓の硝子板には蠅がいっぴき押

    はえ

    しつぶされてながいことねばりついたままでいて︑それ

    が私の視野の片隅にぼんやりと大きくはいって来ると︑

    私には雉か山鳩かのように思われ︑幾たびとなく驚かさ

    きじ

    れたものであった︒私を愛している五六人の生徒たちと

    一緒に授業を逃げて︑松林の裏にある沼の岸辺に寝ころ

  • 50

    びつつ︑女生徒の話をしたり︑皆で着物をまくってそこ

    にうっすり生えそめた毛を較べ合ったりして遊んだので

    ある︒

    その学校は男と女の共学であったが︑それでも私は自

    分から女生徒に近づいたことなどなかった︒私は欲情が

    はげしいから︑懸命にそれをおさえ︑女にもたいへん臆

    病になっていた︒私はそれまで︑二人三人の女の子から

    思われたが︑いつでも知らない振りをして来たのだった︒

    帝展の入選画帳を父の本棚から持ち出しては︑その中に

    ひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり︑私

  • 51

    の飼っていたひとつがいの兎にしばしば交尾させ︑その

    雄兎の脊中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせ

    たり︑そんなことで私はこらえていた︒私は見え坊であ

    ったから︑あの︑あんまをさえ誰にも打ちあけなかった︒

    その害を本で読んで︑それをやめようとさまざまな苦心

    をしたが︑駄目であった︒そのうちに私はそんな遠い学

    校へ毎日あるいてかよったお陰で︑からだも太って来た︒

    額の辺にあわつぶのような小さい吹出物がでてきた︒之

    も恥かしく思った︒私はそれへ宝丹膏という薬を真赤に

    ほうたんこう

    塗った︒長兄はそのとし結婚して︑祝言の晩に私と弟

    しゆうげん

  • 52

    とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行ったが︑嫂は部屋

    あによめ

    の入口を脊にして坐って髪を結わせていた︒私は鏡に映

    った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり︑弟をひき

    ずって逃げ帰った︒そして私は︑たいしたもんでねえで

    ば!

    と力こめて強がりを言った︒薬で赤い私の額のた

    めによけい気もひけて︑尚のことこんな反撥をしたので

    あった︒

    冬ちかくなって︑私も中学校への受験勉強を始めなけ

    ればいけなくなつた︒私は雑誌の広告を見て︑東京へ色々

    の参考書を注文した︒けれども︑それを本箱に並べただ

  • 53

    けで︑ちっとも読まなかった︒私の受験することになっ

    ていた中学校は︑県でだいいちのまちに在って︑志願者

    も二三倍は必ずあったのである︒私はときどき落第の懸

    念に襲われた︒そんな時には私も勉強をした︒そして一

    週間もつづけて勉強すると︑すぐ及第の確信がついて来

    るのだ︒勉強するとなると︑夜十二時ちかくまで床につ

    かないで︑朝はたいてい四時に起きた︒勉強中は︑たみ

    という女中を傍に置いて︑火をおこさせたり茶をわかさ

    せたりした︒たみは︑どんなにおそくまで宵っぱりして

    も翌る朝は︑四時になると必ず私を起しに来た︒私が算

    あく

  • 54

    術の鼠が子を産む応用問題などに困らされている傍で︑

    ねずみ

    たみはおとなしく小説本を読んでいた︒あとになって︑

    たみの代りに年とった肥えた女中が私へつくようになっ

    たが︑それが母のさしがねである事を知った私は︑母の

    その底意を考えて顔をしかめた︒

    その翌春︑雪のまだ深く積っていた頃︑私の父は東京

    の病院で血を吐いて死んだ︒ちかくの新聞社は父の訃を

    号外で報じた︒私は父の死よりも︑こういうセンセイシ

    ョンの方に興奮を感じた︒遺族の名にまじって私の名も

    新聞に出ていた︒父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に

    そり

  • 55

    乗って故郷へ帰って来た︒私は大勢のまちの人たちと一

    緒に隣村近くまで迎えに行った︒やがて森の蔭から幾台

    となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たの

    を眺めて私は美しいと思った︒

    つぎの日︑私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてあ

    る仏間に集った︒棺の蓋が取りはらわれるとみんな声を

    ふた

    たてて泣いた︒父は眠っているようであった︒高い鼻筋

    がすっと青白くなっていた︒私は皆の泣声を聞き︑さそ

    われて涙を流した︒

    私の家はそのひとつきもの間︑火事のような騒ぎであ

  • 56

    った︒私はその混雑にまぎれて︑受験勉強を全く怠った

    のである︒高等小学校の学年試験にも殆ど出鱈目な答案

    たらめ

    を作って出した︒私の成績は全体の三番かそれくらいで

    あったが︑これは明らかに受持訓導の私のうちに対する

    うけもちくんどう

    遠慮からであった︒私はそのころ既に記憶力の減退を感

    じていて︑したしらべでもして行かないと試験には何も

    書けなかったのである︒私にとってそんな経験は始めて

    であった︒

  • 57

    二章

    いい成績ではなかったが︑私はその春︑中学校へ受験

    して合格をした︒私は︑新しい袴と黒い沓下とあみあげ

    くつした

    の靴をはき︑いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒

    ラシヤ

    しや

    落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って︑

    もの

    その海のある小都会へ出た︒そして私のうちと遠い親戚

    にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた︒入口にちぎ

    れた古いのれんをさげてあるその家へ︑私はずっと世話

    になることになっていたのである︒

  • 58

    私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っている

    が︑入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り︑袴

    かぶ

    をつけた︒そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると︑

    私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである︒

    それなのに︑学校はちっとも面白くなかった︒校舍は︑

    まちの端れにあって︑しろいペンキで塗られ︑すぐ裏は

    海峽に面したひらたい公園で︑浪の音や松のざわめきが

    授業中でも聞えて来て︑廊下も広く教室の天井も高くて︑

    私はすべてにいい感じを受けたのだが︑そこにいる教師

    たちは私をひどく迫害したのである︒

  • 59

    私は入学式の日から︑或る体操の教師にぶたれた︒私

    が生意気だというのであった︒この教師は入学試験のと

    き私の口答試問の係りであったが︑お父さんがなくなっ

    てよく勉強もできなかったろう︑と私に情ふかい言葉を

    かけて呉れ︑私もうなだれて見せたその人であっただけ

    に︑私のこころはいっそう傷けられた︒そののちも私は

    色んな教師にぶたれた︒にやにやしているとか︑あくび

    をしたとか︑さまざまな理由から罰せられた︒授業中の

    私のあくびが大きいので職員室で評判である︑とも言わ

    れた︒私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室

  • 60

    を︑おかしく思った︒

    私と同じ町から来ている一人の生徒が︑或る日︑私を

    校庭の砂山の陰に呼んで︑君の態度はじっさい生意気そ

    うに見える︑あんなに殴られてばかりいると落第するに

    ちがいない︑と忠告して呉れた︒私は愕然とした︒その

    日の放課後︑私は海岸づたいにひとり家路を急いだ︒靴

    底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた︒洋服の袖で額

    の汗を拭いていたら︑鼠色のびっくりするほど大きい帆

    がすぐ眼の前をよろよろととおって行った︒

    私は散りかけている花弁であった︒すこしの風にもふ

  • 61

    るえおののいた︒人からどんな些細なさげすみを受けて

    も死なん哉と悶えた︒私は︑自分を今にきっとえらくな

    かな

    るものと思っていたし︑英雄としての名誉をまもって︑

    たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるか

    ら︑この落第という不名誉も︑それだけ致命的であった

    のである︒その後の私は兢兢として授業を受けた︒授

    きようきよう

    業を受けながらも︑この教室のなかには眼に見えぬ百人

    の敵がいるのだと考えて︑少しも油断をしなかった︒朝︑

    学校へ出掛けしなには︑私の机の上へトランプを並べて︑

    その日いちにちの運命を占った︒ハアトは大吉であった︒

  • 62

    ダイヤは半吉︑クラブは半凶︑スペエドは大凶であった︒

    そしてその頃は︑来る日も来る日もスペエドばかり出た

    のである︒

    それから間もなく試験が来たけれど︑私は博物でも地

    理でも修身でも︑教科書の一字一句をそのまま暗記して

    了うように努めた︒これは私のいちかばちかの潔癖から

    来ているのであろうが︑この勉強法は私の為によくない

    結果を呼んだ︒私は勉強が窮屈でならなかったし︑試験

    の際も︑融通がきかなくて︑殆ど完璧に近いよい答案を

    作ることもあれば︑つまらぬ一字一句につまずいて︑思

  • 63

    索が乱れ︑ただ意味もなしに答案用紙を汚している場合

    もあったのである︒

    しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった︒

    操行も甲であった︒落第の懸念に苦しまされていた私は︑

    その通告簿を片手に握って︑もう一方の手で靴を吊り下

    げたまま︑裏の海岸まではだしで走った︒嬉しかったの

    である︒

    一学期をおえて︑はじめての帰郷のときは︑私は故郷

    の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけ輝か

    しく説明したく思って︑私がその三四ヶ月間身につけた

  • 64

    すべてのもの︑座蒲団のはてまで行李につめた︒

    こうり

    馬車にゆられながら隣村の森を抜けると︑幾里四方も

    の青田の海が展開して︑その青田の果てるあたりに私の

    うちの赤い大屋根が聳えていた︒私はそれを眺めて十年

    そび

    も見ない気がした︒

    私はその休暇のひとつきほど得意な気持でいたことが

    ない︒私は弟たちへ中学校のことを誇張して夢のように

    物語った︒その小都会の有様をも︑つとめて幻妖に物語

    げんよう

    ったのである︒

    私は風景をスケッチしたり昆虫の採集をしたりして︑

  • 65

    野原や谷川をはしり廻った︒水彩画を五枚えがくのと珍

    らしい昆虫の標本を十種あつめるのとが︑教師に課され

    た休暇中の宿題であった︒私は捕虫網を肩にかついで︑

    弟にはピンセットだの毒壺だののはいった採集鞄を持

    さいしゆうかばん

    たせ︑もんしろ蝶やばったを追いながら一日を夏の野原

    で過した︒夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして︑飛ん

    で来るたくさんの虫を網や箒で片っぱしからたたき落

    ほうき

    した︒末の兄は美術学校の塑像科へ入っていたが︑まい

    にち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいじくっていた︒

    もう女学校を卒えていた私のすぐの姉の胸像を作ってい

  • 66

    たのである︒私も亦その傍で︑姉の顔を幾枚もスケッチ

    して︑兄とお互いの出来上り案配をけなし合った︒姉は

    真面目に私たちのモデルになっていたが︑そんな場合お

    もに私の水彩画の方の肩を持った︒この兄は若いときは

    みんな天才だ︑などと言って︑私のあらゆる才能を莫迦

    にしていた︒私の文章をさえ︑小学生の綴方︑と言って

    嘲っていた︒私もその当時は︑兄の芸術的な力をあか

    あざけ

    らさまに軽蔑していたのである︒

    ある晩︑その兄が私の寝ているところへ来て︑治︑珍

    動物だよ︑と声を低くして言いながら︑しゃがんで蚊帳

  • 67

    の下から鼻紙に軽く包んだものをそっと入れて寄こし

    た︒兄は︑私が珍らしい昆虫を集めているのを知ってい

    たのだ︒包の中では︑かさかさと虫のもがく足音がして

    いた︒私は︑そのかすかな音に︑肉親の情を知らされた︒

    私が手暴くその小さい紙包をほどくと︑兄は︑逃げるぜ

    あら

    え︑そら︑そら︑と息をつめるようにして言った︒見る

    と普通のくわがたむしであった︒私はその鞘翅類をも私

    しようしるい

    の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した︒

    休暇が終りになると私は悲しくなった︒故郷をあとに

    し︑その小都会へ来て︑呉服商の二階で独りして行李を

  • 68

    あけた時には︑私はもう少しで泣くところであった︒私

    は︑そんな淋しい場合には︑本屋へ行くことにしていた︒

    そのときも私は近くの本屋へ走った︒そこに並べられた

    かずかずの刊行物の背を見ただけでも︑私の憂愁は不思

    議に消えるのだ︒その本屋の隅の書棚には︑私の欲しく

    ても買えない本が五六冊あって︑私はときどき︑その前

    へ何気なさそうに立ち止っては膝をふるわせながらその

    本の頁を盗み見たものだけれど︑しかし私が本屋へ行く

    のは︑なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりで

    はなかったのである︒その当時私にとって︑どんな本で

  • 69

    も休養と慰安であったからである︒

    学校の勉強はいよいよ面白くなかった︒白地図に山脈

    や港湾や河川を水絵具で記入する宿題などは︑なにより

    も呪わしかった︒私は物事に凝るほうであったから︑こ

    のろ

    の地図の彩色には三四時間も費やした︒歴史なんかも︑

    教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書

    き込めと言いつけたが︑教師の講義は教科書を読むよう

    なものであったから︑自然とそのノオトへも教科書の文

    章をそのまま書き写すよりほかなかったのである︒私は

    それでも成績にみれんがあったので︑そんな宿題を毎日

  • 70

    せい出してやったのである︒秋になると︑そのまちの中

    等学校どうしの色々なスポオツの試合が始った︒田舍か

    ら出て来た私は︑野球の試合など見たことさえなかった︒

    小説本で︑満塁とか︑アタックショオトとか︑中堅と

    フルベエス

    センタア

    か︑そんな用語を覚えていただけであって︑やがて其の

    試合の観方をおぼえたけれど余り熱狂できなかった︒野

    球ばかりでなく︑庭球でも︑柔道でも︑なにか他校と試

    合のある度に私も応援団の一人として︑選手たちに声援

    を与えなければならなかったのであるが︑そのことが尚なお

    さら中学生生活をいやなものにして了った︒応援団長と

  • 71

    いうのがあって︑わざと汚い恰好で日の丸の扇子などを

    持ち︑校庭の隅の小高い岡にのぼって演説をすれば︑生

    徒たちはその団長の姿を︑むさい︑むさい︑と言って喜

    ぶのである︒試合のときは︑ひとゲエムのあいまあいま

    に団長が扇子をひらひらさせて︑オオル・スタンド・ア

    ップと叫んだ︒私たちは立ち上って︑紫の小さい三角旗

    を一斉にゆらゆら振りながら︑よい敵よい敵けなげなれ

    ども︑という応援歌をうたうのである︒そのことは私に

    とって恥しかった︒私は︑すきを見ては︑その応援から

    逃げて家へ帰った︒

  • 72

    しかし︑私にもスポオツの経験がない訳ではなかった

    のである︒私の顔が蒼黒くて︑私はそれを例のあんまの

    故であると信じていたので︑人から私の顔色を言われる

    と︑私のその秘密を指摘されたようにどぎまぎした︒私

    は︑どんなにかして血色をよくしたく思い︑スポオツを

    はじめたのである︒

    私はよほど前からこの血色を苦にしていたものであっ

    た︒小学校四五年のころ︑末の兄からデモクラシイとい

    う思想を聞き︑母までデモクラシイのため税金がめっき

    り高くなって作米の殆どみんなを税金に取られる︑と客

  • 73

    たちにこぼしているのを耳にして︑私はその思想に心弱

    くうろたえた︒そして︑夏は下男たちの庭の草刈に手つ

    だいしたり︑冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどし

    ながら︑下男たちにデモクラシイの思想を教えた︒そう

    して︑下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったの

    をやがて知った︒私の刈った草などは後からまた彼等が

    刈り直さなければいけなかったらしいのである︒私は下

    男たちを助ける名の陰で︑私の顔色をよくする事をも計

    っていたのであったが︑それほど労働してさえ私の顔色

    はよくならなかったのである︒

  • 74

    中学校にはいるようになってから︑私はスポオツに依

    っていい顔色を得ようと思いたって︑暑いじぶんには︑

    学校の帰りしなに必ず海へはいって泳いだ︒私は胸泳と

    いって雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ︒

    頭を水から真直に出して泳ぐのだから︑波の起伏のこま

    かい縞目も︑岸の青葉も︑流れる雲も︑みんな泳ぎなが

    らに眺められるのだ︒私は亀のように頭をすっとできる

    だけ高くのばして泳いだ︒すこしでも顔を太陽に近寄せ

    て︑早く日焼がしたいからであった︒

    また︑私のいたうちの裏がひろい墓地だったので︑私

  • 75

    はそこへ百米の直線コオスを作り︑ひとりでまじめに走

    った︒その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれていて︑

    はしり疲れると私はそこの卒堵婆の文字などを読み読み

    しながらぶらついた︒月穿潭底とか︑三界唯一心とかの

    げつせんたんてい

    さんがいゆいいつしん

    句をいまでも忘れずにいる︒ある日私は︑銭苔のいっぱ

    ぜにごけ

    い生えている黒くしめった墓石に︑寂性清寥居士という

    名前を見つけてかなり心を騒がせ︑その墓のまえに新し

    く飾られてあった紙の蓮華の白い葉に︑おれはいま土の

    したで蛆虫とあそんでいる︑と或る仏蘭西の詩人から暗

    うじむし

    示された言葉を︑泥を含ませた私の人指ゆびでもって︑

  • 76

    さも幽霊が記したかのようにほそぼそとなすり書いて置

    いた︒そのあくる日の夕方︑私は運動にとりかかる前に︑

    先ずきのうの墓標へお参りしたら︑朝の驟雨で亡魂の文

    しゆうう

    字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗い

    さらわれて︑蓮華の白い葉もところどころ破れていた︒

    私はそんな事をして遊んでいたのであったが︑走る事

    も大変巧くなったのである︒両脚の筋肉もくりくりと丸

    くふくれて来た︒けれども顔色は︑やっぱりよくならな

    かったのだ︒黒い表皮の底には︑濁った蒼い色が気持悪

    くよどんでいた︒

  • 77

    私は顔に興味を持っていたのである︒読書にあきると

    手鏡をとり出し︑微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて

    思案にくれたりして︑その表情をあかず眺めた︒私は必

    ずひとを笑わせることの出来る表情を会得した︒目を細

    くして鼻を皺め︑口を小さく尖らすと︑児熊のようで可

    しわ

    愛かったのである︒私は不満なときや当惑したときにそ

    の顔をした︒私のすぐの姉はそのじぶん︑まちの県立病

    院の内科へ入院していたが︑私は姉を見舞いに行ってそ

    の顔をして見せると︑姉は腹をおさえて寢台の上をころ

    げ廻った︒姉はうちから連れて来た中年の女中とふたり

  • 78

    きりで病院に暮していたものだから︑ずいぶん淋しがっ

    て︑病院の長い廊下をのしのし歩いて来る私の足音を聞

    くと︑もうはしゃいでいた︒私の足音は並はずれて高い

    のだ︒私が若し一週間でも姉のところを訪れないと︑姉

    は女中を使って私を迎いによこした︒私が行かないと︑

    姉の熱は不思議にあがって容態がよくない︑とその女中

    が真顔で言っていた︒

    その頃はもう私も十五六になっていたし︑手の甲には

    静脈の青い血管がうっすりと透いて見えて︑からだも異

    様におもおもしく感じられていた︒私は同じクラスのい

  • 79

    ろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った︒学校からの

    帰りにはきっと二人してならんで歩いた︒お互いの小指

    がすれあってさえも︑私たちは顔を赤くした︒いつぞや︑

    二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら︑芹やはこべの

    せり

    青々と伸びている田溝の中にいもりがいっぴき浮いてい

    るのをその生徒が見つけ︑黙ってそれを掬って私に呉れ

    すく

    た︒私は︑いもりは嫌いであったけれど︑嬉しそうには

    しゃぎながらそれを手巾へくるんだ︒うちへ持って帰っ

    ハンカチ

    て︑中庭の小さな池に放した︒いもりは短い首をふりふ

    り泳ぎ廻っていたが︑次の朝みたら逃げて了っていなか

  • 80

    った︒

    私はたかい自矜の心を持っていたから︑私の思いを相

    じきよう

    手に打ち明けるなど考えもつかぬことであった︒その生

    徒へは普段から口もあんまり利かなかったし︑また同じ

    ころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識していたのだ

    が︑此の女学生とは道で逢っても︑ほとんどその人を莫

    迦にしているようにぐっと顔をそむけてやるのである︒

    秋のじぶん︑夜中に火事があって︑私も起きて外へ出て

    見たら︑つい近くの社の陰あたりが火の粉をちらして

    やしろ

    燃えていた︒社の杉林がその焰を囲うようにまっくろ

    ほのお

  • 81

    く立って︑そのうえを小鳥がたくさん落葉のように狂い

    飛んでいた︒私は︑隣のうちの門口から白い寝巻の女の

    子が私の方を見ているのを︑ちゃんと知っていながら︑

    横顔だけをそっちにむけてじっと火事を眺めた︒焰の赤

    い光を浴びた私の横顔は︑きっときらきら美しく見える

    だろうと思っていたのである︒こんな案配であったから︑

    私はまえの生徒とでも︑また此の女学生とでも︑もっと

    進んだ交渉を持つことができなかった︒けれどもひとり

    でいるときには︑私はもっと大胆だった筈である︒鏡の

    私の顔へ︑片眼をつぶって笑いかけたり︑机の上に小刀

  • 82

    で薄い唇をほりつけて︑それへ私の唇をのせたりした︒

    この唇には︑あとで赤いインクを塗ってみたが︑妙にど

    すぐろくなっていやな感じがして来たから︑私は小刀で

    すっかり削りとって了った︒

    私が三年生になって︑春のあるあさ︑登校の道すがら

    に朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって︑私はし

    ばらくぼんやりしていた︒橋の下には隅田川に似た広い

    川がゆるゆると流れていた︒全くぼんやりしている経験

    など︑それまでの私にはなかったのである︒うしろで誰

    か見ているような気がして︑私はいつでも何かの態度を

  • 83

    つくっていたのである︒私のいちいちのこまかい仕草に

    も︑彼は当惑して掌を眺めた︑彼は耳の裏を掻きながら

    呟いた︑などと傍から傍から説明句をつけていたのであ

    るから︑私にとって︑ふと︑とか︑われしらず︑とかい

    う動作はあり得なかったのである︒橋の上での放心から

    覚めたのち︑私は寂しさにわくわくした︒そんな気持の

    ときには︑私もまた︑自分の来しかた行末を考えた︒橋

    をかたかた渡りながら︑いろんな事を思い出し︑また夢

    想した︒そして︑おしまいに溜息ついてこう考えた︒え

    らくなれるかしら︒その前後から︑私はこころのあせり

  • 84

    をはじめていたのである︒私は︑すべてに就いて満足し

    切れなかったから︑いつも空虚なあがきをしていた︒私

    には十重二十重の仮面がへばりついていたので︑どれが

    どんなに悲しいのか︑見極めをつけることができなかっ

    たのである︒そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を

    見つけたのだ︒創作であった︒ここにはたくさんの同類

    がいて︑みんな私と同じように此のわけのわからぬおの

    のきを見つめているように思われたのである︒作家にな

    ろう︑作家になろう︑と私はひそかに願望した︒弟もそ

    のとし中学校へはいって︑私とひとつ部屋に寝起してい

  • 85

    たが︑私は弟と相談して︑初夏のころに五六人の友人た

    ちを集め同人雑誌をつくった︒私の居るうちの筋向いに

    大きい印刷所があったから︑そこへ頼んだのである︒表

    紙も石版でうつくしく刷らせた︒クラスの人たちへその

    雑誌を配ってやった︒私はそれへ毎月ひとつずつ創作を

    発表したのである︒はじめは道徳に就いての哲学者めい

    た小説を書いた︒一行か二行の断片的な随筆をも得意と

    していた︒この雑誌はそれから一年ほど続けたが︑私は

    そのことで長兄と気まずいことを起してしまった︒

    長兄は私の文学に熱狂しているらしいのを心配して︑

  • 86

    郷里から長い手紙をよこしたのである︒化学には方程式

    あり幾何には定理があって︑それを解する完全な鍵が与

    えられているが︑文学にはそれがないのです︑ゆるされ

    た年齡︑環境に達しなければ文学を正当に摑むことが不

    つか

    可能と存じます︑と物堅い調子で書いてあった︒私もそ

    うだと思った︒しかも私は︑自分をその許された人間で

    あると信じた︒私はすぐ長兄へ返事した︒兄上の言うこ

    とは本当だと思う︑立派な兄を持つことは幸福である︑

    しかし︑私は文学のために勉強を怠ることがない︑その

    故にこそいっそう勉強しているほどである︑と誇張した

  • 87

    感情をさえところどころにまぜて長兄へ告げてやったの

    である︒

    なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないの

    だ︑という脅迫めいた考えからであったが︑じじつ私は

    勉強していたのである︒三年生になってからは︑いつも

    クラスの首席であった︒てんとりむしと言われずに首席

    になることは困難であったが︑私はそのような嘲りを

    あざけ

    受けなかった許りか︑級友を手ならす術まで心得ていた︒

    ばか

    蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった︒

    たこ教

    室の隅に紙屑入の大きな壺があって︑私はときたまそ

  • 88

    れを指さして︑蛸もつぼへはいらないかと言えば︑蛸は

    その壺へ頭をいれて笑うのだ︒笑い声が壺に響いて異様

    な音をたてた︒クラスの美少年たちもたいてい私になつ

    いていた︒私が顔の吹出物へ︑三角形や六角形や花の形

    に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑し

    ばんそうこう

    がらなかった程なのである︒

    私はこの吹出物には心をなやまされた︒そのじぶんに

    はいよいよ数も殖えて︑毎朝︑眼をさますたびに掌で顔

    を撫でまわしてその有様をしらべた︒いろいろな薬を買

    ってつけたが︑ききめがないのである︒私はそれを薬屋

  • 89

    へ買いに行くときには︑紙きれへその薬の名を書いて︑

    こんな薬がありますかって︑と他人から頼まれたふうに

    して言わなければいけなかったのである︒私はその吹出

    物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥しかっ

    た︒いっそ死んでやったらと思うことさえあった︒私の

    顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してい

    た︒他家へとついでいた私のいちばん上の姉は︑治のと

    ころへは嫁に来るひとがあるまい︑とまで言っていたそ

    うである︒私はせっせと薬をつけた︒

    弟も私の吹出物を心配して︑なんべんとなく私の代り

  • 90

    に薬を買いに行って呉れた︒私と弟とは子供のときから

    仲がわるくて︑弟が中学へ受験する折にも︑私は彼の失

    敗を願っていたほどであったけれど︑こうしてふたりで

    故郷から離れて見ると︑私にも弟のよい気質がだんだん

    判って来たのである︒弟は大きくなるにつれて無口で内

    気になっていた︒私たちの同人雑誌にもときどき小品文

    を出していたが︑みんな気の弱々した文章であった︒私

    にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてい

    て︑私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった︒

    また︑自分の額の生えぎわが富士のかたちに三角になっ

  • 91

    て女みたいなのをいまいましがっていた︒額がせまいか

    ら頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである︒私

    はこの弟にだけはなにもかも許した︒私はその頃︑人と

    対するときには︑みんな押し隠して了うか︑みんなさら

    しま

    け出して了うか︑どちらかであったのである︒私たちは

    なんでも打ち明けて話した︒

    秋のはじめの或る月のない夜に︑私たちは港の桟橋へ

    出て︑海峽を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれなが

    ら赤い糸について話合った︒それはいつか学校の国語の

    教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって︑私

  • 92

    たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてい

    て︑それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る

    女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである︑

    ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない︑どん

    なに近づいても︑たとい往来で逢っても︑その糸はこん

    ぐらかることがない︑そうして私たちはその女の子を嫁

    にもらうことにきまっているのである︒私はこの話をは

    じめて聞いたときには︑かなり興奮して︑うちへ帰って

    からもすぐ弟に物語ってやったほどであった︒私たちは

    その夜も︑波の音や︑かもめの声に耳傾けつつ︑その話

  • 93

    をした︒お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ︑と弟

    に聞いたら︑弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりう

    ごかしてから︑庭あるいてる︑ときまり悪げに言った︒

    大きい庭下駄をはいて︑団扇をもって︑月見草を眺めて

    うちわ

    いる少女は︑いかにも弟と似つかわしく思われた︒私の

    を語る番であったが︑私は真暗い海に眼をやったまま︑

    赤い帯しめての︑とだけ言って口を噤んだ︒海峽を渡っ

    つぐ

    て来る連絡船が︑大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部

    屋へ黄色いあかりをともして︑ゆらゆらと水平線から浮

    んで出た︒

  • 94

    これだけは弟にもかくしていた︒私がそのとしの夏休

    みに故郷へ帰ったら︑浴衣に赤い帯をしめたあたらしい

    小柄な小間使が︑乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れ

    たのだ︒みよと言った︒

    私は寝しなに煙草を一本こっそりふかして︑小説の書

    き出しなどを考える癖があったが︑みよはいつの間にか

    それを知って了って︑ある晩私の床をのべてから枕元へ︑

    きちんと煙草盆を置いたのである︒私はその次の朝︑部

    屋を掃除しに来たみよへ︑煙草はかくれてのんでいるの

    だから煙草盆なんか置いてはいけない︑と言いつけた︒

  • 95

    みよは︑はあ︑と言ってふくれたようにしていた︒同じ

    休暇中のことだったが︑まちに浪花節の興行物が来たと

    き︑私のうちでは︑使っている人たち全部を芝居小屋へ

    聞きにやった︒私と弟も行けと言われたが︑私たちは田

    舍の興行物を莫迦にして︑わざと蛍をとりに田圃へ出か

    けたのである︒隣村の森ちかくまで行ったが︑あんまり

    夜露がひどかったので︑二十そこそこを︑籠にためただ

    けでうちへ帰った︒浪花節へ行っていた人たちもそろそ

    ろ帰って来た︒みよに床をひかせ︑蚊帳をつらせてから︑

    私たちは電灯を消してその蛍を蚊帳のなかへ放した︒蛍

  • 96

    は蚊帳のあちこちをすっすっと飛んだ︒みよも暫く蚊帳

    のそとに佇んで蛍を見ていた︒私は弟と並んで寝ころび

    ながら︑蛍の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけい

    に感じていた︒浪花節は面白かったろうか︑と私はすこ

    し堅くなって聞いた︒私はそれまで︑女中には用事以外

    の口を決してきかなかったのである︒みよは静かな口調

    で︑いいえ︑と言った︒私はふきだした︒弟は︑蚊帳の

    裾に吸いついている一匹の蛍を団扇でばさばさ追いたて

    ながら黙っていた︒私はなにやら工合がわるかった︒

    そのころから私はみよを意識しだした︒赤い糸と言え

  • 97

    ば︑みよのすがたが胸に浮んだ︒

    三章

    四年生になってから︑私の部屋へは毎日のようにふた

    りの生徒が遊びに来た︒私は葡萄酒と鯣をふるまった︒

    するめ

    そうして彼等に多くの出鱈目を教えたのである︒炭のお

    すみ

    こしかたに就いて一冊の書物が出ているとか︑﹁けだも

    のの機械﹂という或る新進作家の著書に私がべたべたと

    機械油を塗って置いて︑こうして発売されているのだが︑

  • 98

    珍らしい装幀でないかとか︑﹁美貌の友﹂という翻訳本

    のところどころカットされて︑そのブランクになってい

    る箇所へ︑私のこしらえたひどい文章を︑知っている印

    刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって︑これは奇書

    だとか︑そんなことを言って友人たちを驚かせたもので

    あった︒

    みよの思い出も次第にうすれていたし︑そのうえに私

    は︑ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりす

    ることを変にうしろめたく感じていたし︑ふだんから女

    の悪口ばかり言って来ている手前もあったし︑みよに就

  • 99

    いて譬えほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われる

    ときさえあったほどで︑弟にはもちろん︑これらの友人

    たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである︒

    ところが︑そのあたり私は︑ある露西亜の作家の名だ

    かい長編小説を読んで︑また考え直して了った︒それは︑

    ひとりの女囚人の経歴から書き出されていたが︑その女

    のいけなくなる第一歩は︑彼女の主人の甥にあたる貴族

    の大学生に誘惑されたことからはじまっていた︒私はそ

    の小説のもっと大きなあじわいを忘れて︑そのふたりが

    咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペ

  • 100

    エジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ︒私もまた︑

    おり

    すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができな

    かったのである︒私には︑そのふたりがみよと私とに似

    ているような気分がしてならなかった︒私がいま少しす

    べてにあつかましかったら︑いよいよ此の貴族とそっく

    りになれるのだ︑と思った︒そう思うと私の臆病さがは

    かなく感じられもするのである︒こんな気のせせこまし

    さが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考え

    た︒私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思わ

    れたのである︒

  • 101

    私は此のことをまず弟へ打ち明けた︒晩に寝てから打

    ち明けた︒私は巌粛な態度で話すつもりであったが︑そ

    う意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔をして来て︑結局

    うわついた︒私は︑頸筋をさすったり両手をもみ合せた

    りして︑気品のない話かたをした︒そうしなければかな

    わぬ私の習性を私は悲しく思った︒弟は︑うすい下唇を

    ちろちろ舐めながら︑寝がえりもせず聞いていたが︑け

    っこんするのか︑と言いにくそうにして尋ねた︒私はな

    ぜだかぎょっとした︒できるかどうか︑とわざとしおれ

    て答えた︒弟は︑恐らくできないのではないかという意

  • 102

    味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言っ

    た︒それを聞いて︑私は自分のほんとうの態度をはっき

    り見つけた︒私はむっとして︑たけりたけったのである︒

    蒲団から半身を出して︑だからたたかうのだ︑たたかう

    のだ︑と声をひそめて強く言い張った︒弟は更紗染めの

    蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしてい

    るらしかったが︑私の方を盜むようにして見て︑そっと

    微笑んだ︒私も笑い出した︒そして︑門出だから︑と言

    いつつ弟の方へ手を差し出した︒弟も恥しそうに蒲団か

    ら右手を出した︒私は低く声を立てて笑いながら︑二三

  • 103

    度弟の力ない指をゆすぶった︒

    しかし︑友人たちに私の決意を承認させるときには︑

    こんな苦心をしなくてよかった︒友人たちは私の話を聞

    きながら︑あれこれと思案をめぐらしているような恰好

    をして見せたが︑それは︑私の話がすんでからそれへの

    同意に効果を添えようためのものでしかないのを︑私は

    知っていた︒じじつその通りだったのである︒

    四年生のときの夏やすみには︑私はこの友人たちふた

    りをつれて故郷へ帰った︒うわべは︑三人で高等学校へ

    の受驗勉強を始めるためであったが︑みよを見せたい心

  • 104

    も私にあって︑むりやりに友をつれて来たのである︒私

    は︑私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った︒

    私の兄たちの友人は︑みんな地方でも名のある家庭の青

    年ばかりだったから︑私の友のように金釦のふたつし

    きんボタン

    かない上着などを着てはいなかったのである︒

    裏の空屋敷には︑そのじぶん大きな鶏舍が建てられて

    いて︑私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した︒

    番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて︑なかは

    二坪ほどの板の間で︑まだ新しいワニス塗の卓子や椅子

    テエブル

    がきちんとならべられていた︒ひろい扉が東側と北側に

  • 105

    二つもついていたし︑南側にも洋ふうの開窓があって︑

    それを皆いっぱいに明け放すと︑風がどんどんはいって

    来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるの

    だ︒まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて︑

    黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつ

    つ遊んでいた︒

    私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた︒その

    番小屋へ︑どの女中が︑めしを知らせに来るかが問題で

    あったのである︒みよでない女中が来れば︑私たちは卓

    をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした︒みよ

  • 106

    が来ると︑みんなしんとなった︒そして︑みよが立ち去

    るといっせいに吹き出したものであった︒或る晴れた日︑

    弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが︑ひるにな

    って︑きょうは誰が来るだろう︑といつものように皆で

    語り合った︒弟だけは話からはずれて︑窓ぎわをぶらぶ

    ら歩きながら英語の単語を暗記していた︒私たちは色ん

    な冗談を言って︑書物を投げつけ合ったり足踏して床を

    鳴らしていたが︑そのうちに私は少しふざけ過ぎて了っ

    しま

    た︒私は弟をも仲間にいれたく思って︑お前はさっきか

    ら黙っているが︑さては︑と唇を軽くかんで弟をにらん

  • 107

    でやったのである︒すると弟は︑いや︑と短く叫んで右

    手を大きく振った︒持っていた単語のカアドが二三枚ぱ

    っと飛び散った︒私はびっくりして視線をかえた︒その

    とっさの間に私は気まずい断定を下した︒みよの事はき

    ょう限りよそうと思った︒それからすぐ︑なにごともな

    かったように笑い崩れた︒

    その日めしを知らせに来たのは︑仕合せと︑みよでな

    かった︒母屋へ通る豆畑のあいだの狹い道を︑てんてん

    と一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて︑私

    は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむし

  • 108

    りとった︒

    犠牲などということは始めから考えてなかった︒ただ

    いやだったのだ︒ライラックの白い茂みが泥を浴びせら

    れた︒殊にその悪戯者が肉親であるのがいっそういやで

    いたずらもの

    あった︒

    それからの二三日は︑さまざまに思いなやんだ︒みよ

    だって庭を歩くことがあるでないか︒彼は私の握手にほ

    とんど当惑した︒要するに私はめでたいのではないだろ

    うか︒私にとって︑めでたいという事ほどひどい恥辱は

    なかったのである︒

  • 109

    おなじころ︑よくないことが続いて起った︒ある日の

    昼食の際に︑私は弟や友人たちといっしよに食卓へ向っ

    ていたが︑その傍でみよが︑紅い猿の面の絵団扇でぱさ

    うちわ

    ぱさと私たちをあおぎながら給仕していた︒私はその団

    扇の風の量で︑みよの心をこっそり計っていたものだ︒

    みよは︑私よりも弟の方を多くあおいだ︒私は絶望して︑

    カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた︒

    みんなして私をいじめるのだ︑と思い込んだ︒友人た

    ちだってまえから知っていたに違いない︑と無闇に人を

    やみ

    疑った︒もう︑みよを忘れてやるからいい︑と私はひと

  • 110

    りできめていた︒

    また二三日たって︑ある朝のこと︑私は︑前夜ふかし

    た煙草がまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元

    へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け︑あとで気がついて

    うろたえて部屋へ引返して見たが︑部屋は綺麗に片づけ

    られ箱がなかったのである︒私は観念した︒みよを呼ん

    で︑煙草はどうした︑見つけられたろう︑と叱るように

    して聞いた︒みよは真面目な顔をして首を振った︒そし

    てすぐ︑部屋のなげしの裏へ脊のびして手をつっこんだ︒

    金色の二つの蝙蝠が飛んである緑いろの小さな紙箱はそ

    こうもり

  • 111

    こから出た︒

    私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし︑ま

    えからの決意にふたたび眼ざめたのである︒しかし︑弟

    のことを思うとやはり気がふさがって︑みよのわけで友

    人たちと騒ぐことをも避けたし︑そのほか弟には︑なに

    かにつけていやしい遠慮をした︒自分から進んでみよを

    誘惑することもひかえた︒私はみよから打ち明けられる

    のを待つことにした︒私はいくらでもその機会をみよに

    与えることができたのだ︒私は屢々みよを部屋へ呼んで

    しばしば

    要らない用事を言いつけた︒そして︑みよが私の部屋へ

  • 112

    はいって来るときには︑私はどこかしら油断のあるくつ

    ろいだ恰好をして見せたのである︒みよの心を動かすた

    めに︑私は顔にも気をくばった︒その頃になって私の顔

    の吹出物もどうやら直っていたが︑それでも惰性で︑私

    はなにかと顔をこしらえていた︒私はその蓋のおもてに

    ふた

    蔦のような長くくねった蔓草がいっぱい彫り込まれてあ

    つた

    つるくさ

    る美しい銀のコンパクトを持っていた︒それでもって私

    のきめを時折うめていたのだけれど︑それを尚すこし心

    なお

    をいれてしたのである︒

    これからはもう︑みよの決心しだいであると思った︒

  • 113

    しかし︑機会は�