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93 1 Kenji Hayao,The Japanese Prime Minister and Public Policy, Pittsburgh:University of Pittsburgh Press,1993, pp.17-19. 2 高安健将首相の権力日英比較からみる政権党とのダイナミズム創文社2009 51 ページ普天間基地移設問題をめぐる 鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 北 村  知 史 Graduate School of Policy and Management, Doshisha University 概要 本論文の目的は鳩山首相自身が政権の最大 目標と位置づけその解決に失敗した普天間基 地の移設問題の政治過程を分析することにあ 2では鳩山政権の発足から退陣までの首相 や閣僚政党党首などの政治的責任者普天間基 地に関する主要動向を新聞記事を中心にして時 系列に表記した時系列に表記した結果鳩山 首相の普天間基地の移設に関する発言は政権が 発足してから辞任するまで一貫していないこと が明らかとなった3. 1 では首相動静から見た鳩山首相の普天間 問題におけるリーダーシップの分析をした3. 2 では鳩山首相が普天間基地を県外に移設という議 題設定をしたことについての分析を行った3. 3 では朝日読売毎日日経の4紙の世論調査 の個別の内閣支持率の動向を確認した4のおわりにでは鳩山首相がこの政治課題に おいて失敗した要因を指摘し鳩山首相の普天 間移設問題をめぐるリーダーシップの問題と世 論の影響力の観点からの分析を試みた1.はじめに 日本の首相のリーダーシップは大統領制と比 較しこれまで消極的とされてきたハヤオは三 つの類形化に基づき日本の首相のリーダーシッ プスタイルを分析しているすなわち問題が 顕在化したとき解決のための代替的な選択肢 を検討し最善の選択肢を選ぶ技術合理的クノクラティックリーダーシップ」、変革を 強引なまでに推し進め明確な目標を示しの実現のために使える資源を総動員して反対を 押し切る政治的リーダーシップ」、実現すべ き明確な政策目標の議題を持たないとき問題が 顕在化しないように努めて問題が発生した時 にはどうにかして対処する受動的reactiveリーダーシップの三類型である 1 この類型 化によって日本の首相のリーダーシップを位置 づけるとすると合理的説得によって政治部門や 官僚機構の利害調整を図った橋本龍太郎を技術 合理的リーダーシップの典型としてあげること ができよう他方で力で相手をねじ伏せる政 治的リーダーシップの典型としては中曽根康 小泉純一郎が相当するといえるだろうれに対して機会主義的ともいえる受動的リー ダーシップの典型は小渕恵三や竹下登であっ ハヤオは日本の首相のリーダーシップスタ イルとして技術合理的リーダーシップや政治 リーダーシップは稀であり受動的リーダー シップが通常の日本の首相のリーダーシップス タイルであると結論付けているではなぜこのように首相によってリーダー シップのスタイルが異なるのかこれまでリー ダーシップを作り出す重要な要因としてパー ソナリティ制度環境のそれぞれが作用して いるとの指摘がなされてきた 2 特にパーソナリティに関してジョージらは三つの観点から大統領のスタイルにとってその

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1 Kenji Hayao,The Japanese Prime Minister and Public Policy, Pittsburgh:University of Pittsburgh Press,1993, pp.17-19.2 高安健将『首相の権力―日英比較からみる政権党とのダイナミズム』創文社、2009年、51ページ。

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力

北村 知史

Graduate School of Policy and Management, Doshisha University

概要

 本論文の目的は、鳩山首相自身が政権の最大目標と位置づけ、その解決に失敗した普天間基地の移設問題の政治過程を分析することにある。 2では、鳩山政権の発足から退陣までの首相や閣僚、政党党首などの政治的責任者普天間基地に関する主要動向を新聞記事を中心にして時系列に表記した。時系列に表記した結果、鳩山首相の普天間基地の移設に関する発言は政権が発足してから辞任するまで一貫していないことが明らかとなった。 3. 1では、首相動静から見た鳩山首相の普天間問題におけるリーダーシップの分析をした。3. 2では鳩山首相が普天間基地を県外に移設という議題設定をしたことについての分析を行った。3. 3では朝日、読売、毎日、日経の4紙の世論調査の個別の内閣支持率の動向を確認した。 4のおわりにでは鳩山首相がこの政治課題において失敗した要因を指摘し、鳩山首相の普天間移設問題をめぐるリーダーシップの問題と世論の影響力の観点からの分析を試みた。

1.はじめに

 日本の首相のリーダーシップは大統領制と比較しこれまで消極的とされてきた。ハヤオは三つの類形化に基づき日本の首相のリーダーシップスタイルを分析している。すなわち、問題が

顕在化したとき、解決のための代替的な選択肢を検討し最善の選択肢を選ぶ「技術合理的(テクノクラティック)リーダーシップ」、変革を強引なまでに推し進め、明確な目標を示し、その実現のために使える資源を総動員して反対を押し切る「政治的リーダーシップ」、実現すべき明確な政策目標の議題を持たないとき問題が顕在化しないように努めて、問題が発生した時にはどうにかして対処する「受動的(reactive)リーダーシップ」の三類型である 1。この類型化によって日本の首相のリーダーシップを位置づけるとすると合理的説得によって政治部門や官僚機構の利害調整を図った橋本龍太郎を技術合理的リーダーシップの典型としてあげることができよう。他方で、力で相手をねじ伏せる政治的リーダーシップの典型としては中曽根康弘、小泉純一郎が相当するといえるだろう。これに対して機会主義的ともいえる受動的リーダーシップの典型は小渕恵三や竹下登であった。ハヤオは日本の首相のリーダーシップスタイルとして技術合理的リーダーシップや政治リーダーシップは稀であり、受動的リーダーシップが通常の日本の首相のリーダーシップスタイルであると結論付けている。 ではなぜこのように首相によってリーダーシップのスタイルが異なるのか、これまでリーダーシップを作り出す重要な要因として、パーソナリティ、制度、環境のそれぞれが作用しているとの指摘がなされてきた 2。 特にパーソナリティに関してジョージらは、三つの観点から大統領のスタイルにとってその

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3 Alexander L. George and Juliette L.George, Presidential Personality and Performance, Boulder: Westview, 1998, p.9. 4 高安,前掲書、234-236ページ。5 Michael Foley, The British Presidency : Tony Blair and the Politics of Public Leadership, Manchester : Manchester University Press, 2000, pp.339-343.6 当時の防衛事務次官の守屋武昌によると閣僚の麻生太郎外務大臣、小池百合子沖縄担当相は最後まで反対していたとされる(守屋武昌『「普天間」公証秘録』新潮社、2010年、175ページ)。

7 衆議院選挙時の「民主党の政権政策Manifesto2009」の7.外交の 51.で「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍のあり方についても見直しの方向で進む。」と記されていた。

8 『朝日新聞』2009年8月 18日。

重要性を指摘している。すなわちパーソナリティは、第一に大統領の認知スタイル(大統領が意思決定を行うために必要な情報を定義し、他者から情報と助言を獲得、利用する際に好む方法)、第二に意思決定と政治的任務に対する大統領の「有効性感覚と能力に対する自覚」、第三に政治的対立に対する一般的志向を規定するとしている 3。日本の首相の場合も同様に首相の認知スタイルや意思決定および政治的任務に対する自覚、政治的対立点への思考などにおいてそのパーソナリティがリーダーシップを規定すると考えることも可能であろう。しかし、高安が指摘するように日本の首相のリーダーシップを決定づける最大の要因は、パーソナリティ以上に首相職をささえる制度や組織の欠如にあり、政権党の強い影響力のもとで制限を受けてきたといえるだろう 4。 こうした状況は 2000年代の小泉首相の登場によって変化し、首相自身の強い個性と世論へのアピールが首相のリーダーシップを規定する要因としてクローズアップされることとなった。欧米においてもテレビの影響力の拡大とともに政治のパーソニフィケーション(人格化)が進行してきたといわれている。日本でも総選挙において、かつてのような各選挙区の候補者への支持という形ではなく、党首個人への支持、いわば一種の「首相公選」という形でのパーソニフィケーションが進んでいると考えられる。フォーリーは人格化を政治指導者にとっての最優先事項が一般の人々との個人的つながりを築くこととなる現象と位置づけ、議院内閣制における首相にとってもかつての内閣、政権党組織、自らの率いる政府の政策との一体性を強調するスタイルよりもむしろ、首相が身内の組織と距離をとって対決を演出し、権力をあえて行使する外見を作ることを好むようになり、それが米国大統領の行動パターンと類似するようになったと主張している 5。小泉はこうしたブレアの政治スタイルと共通するリーダーシップを発揮

し内政・外交面での成果を挙げ、長期政権を維持してきたと考えられる。 これに対し、2009年の衆議院選挙で 16年ぶりに政権交代を実現した民主党の鳩山由紀夫首相は世論の高い期待と衆参両院の過半数を占める与党勢力によって強いリーダーシップを発揮することが期待された。しかし、連立政権に社民党を抱える状況下で、鳩山政権での最大の政治課題であり、かつアキレス腱となったのは、普天間基地の移設問題であった。普天間移設は自民党政権時代の 2006年5月1日、日米安全保障協議委員会(2プラス2)での合意を受け、2006年5月 30日に「在日米軍の兵力構成見直し等に関する政府の取り組みについて」閣議決定が行われ 6、名護市辺野古に移設することが日米両政府間で合意された。しかし、民主党は2009年の衆議院選挙時のマニフェスト等において普天間基地の移設を含む在日米軍の在り方を見直すことを明記しており 7、衆議院選挙公示後のテレビ党首討論会においても、鳩山代表自身が最低でも県外移設をするという旨の発言を行っていた 8。 ところが、衆議院選挙後に民主党連立政権が発足した後、日米両政府間の首脳会談や閣僚会談などで普天間基地の沖縄県外への移設の実現は容易ではないことが明らかになってきた。同時に鳩山首相以外の閣僚も普天間基地の移設場所について嘉手納基地への統合を検討する岡田克也外務大臣や、日米合意案を念頭に置く北澤俊美防衛大臣らが鳩山首相と異なった見解を示すことが目立ち始め、閣内の不一致が明らかになってきた。鳩山首相は当初の 2009年内での決着を断念し、社民党の福島瑞穂党首からの要求を受けて連立与党間の協議機関を設けたが、そこでの合意形成は容易ではなく、首相自身も唐突にグアム案を表明する始末であった。しかし、この妥協案は米国側に受け入れるところではなく、こうした普天間移設問題での鳩山首相のリーダーシップが一貫したものではないこと

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が、内閣に対する世論の支持率の低下に結びついていくことにもなった。 年内決着を先送りした鳩山首相は、米国側に対し、2010年5月までの決着を表明し、政権として普天間問題により一層の時間を割いた。しかし、鳩山の腹案にあったのは、国民新党が押す徳之島への移転案であり、首相自ら移設先の候補地として徳之島を4月初頭に表明する。そして、4月末に鳩山首相は徳之島の関係者と会談し、移設先として要請したものの、地元の反発は強く、ついに受け入れられなかった。5月に入り、鳩山首相は普天間基地の代替地を沖縄県外に移設することを断念し、就任後初めて沖縄県を訪問する。仲井真弘多知事との会談で鳩山首相は名護市辺野古沖での代替滑走路建設を行う旨の考えを一方的に通告し、会談は決裂した。結局、沖縄訪問から一週間もおかずに、5月 28日の日米安全保障協議委員会において、沖縄県名護市のキャンプ・シュワブに移設先が決定された。普天間基地の移設をめぐって鳩山首相が会談や沖縄訪問などの直接的な行動に出たのは4月末から5月にかけての移設期限の差し迫ったぎりぎりの時期であり、追い込まれて初めてイニシアティブをとるという受動的な対応であった。このような鳩山政権の迷走に拍車をかけたのが、鳩山首相自身の金銭スキャンダルや、幹事長として政権を支えてきた小沢一郎の政治とカネの問題であった。野党や世論からの批判を受け、鳩山首相は政権を運営することそのものが困難になる末期的な様相を見せてきた。普天間移設問題、政治とカネの問題が錯綜した結果、2010年6月、鳩山首相は、社民党の連立政権離脱と政治とカネの問題を辞任理由に挙げ、小沢幹事長の辞任と抱き合わせで退陣を表明することとなり 9、わずか8カ月の政権であった。鳩山首相の後任には民主党代表選挙を経て菅直人が首相に就任し、新首相は鳩山政

権の遺産である日米合意案の踏襲を表明した。 本論文はこうした 55年体制後、初の本格的な政権交代によって誕生した民主党連立政権において、当初期待された普天間飛行場の移設問題が、なぜ失敗したのかを鳩山首相のリーダーシップの欠如の観点から分析を行うものである。また、こうした首相の「問題のある」リーダーシップがメディアの報道を通じて、世論の形成にどのような影響を及ぼし、政権への支持の低下につながっていったのかを追跡し、鳩山首相がなぜ退陣に追い込まれたのかを明らかにしたい。 このように、本論文の目的は、鳩山首相自身が政権の最大目標と位置づけ、その解決に失敗した普天間基地の移設問題の政治過程を分析することにある。そこで、政権における首相や閣僚、政党党首などの政治的責任者の主要動向を新聞報道と先行研究を通じて明らかにする。また、そうした政治プロセスが報道されることによって、世論の支持がどのように変動したかは、朝日新聞、読売新聞等の新聞各紙の世論調査データを用いることとする。そこで、先ず、普天間基地をめぐる政治過程に関する先行研究にどのようなものがあるのか見ることとする。普天間基地が米政府から日本政府に返還される経緯の研究については、信田の『日米同盟というリアリズム』があげられる 10。米国側から見た研究としてはカルダーの『米軍再編の政治学』で詳細な分析がされている 11。日本の防衛官僚が分析した守屋の『普天間交渉秘録』は普天間基地返還交渉についての詳細な交渉過程が明記されている 12。しかし、これらの文献は自民党政権時の交渉を叙述したものであり、2009年の民主党連立政権の誕生以降の文献は、普天間基地の移設問題が現在においても進行段階であり、極めて限られている。そうした中で、森本の『普天間の謎』13や半田の『防衛融解―指針なき日本

9 読売新聞政治部『民主党─迷走と裏切りの 300日』新潮社、2010年、264ページ。10 信田は官邸主導で橋本首相が問題解決に非常に意欲的であり、1996年の2月のサンタモニカの首脳会談で、クリントン大統領が沖縄問題で首相の忌憚のない意見を求めたのに対し、橋本は緊張した面持ちで普天間基地の返還について言及し、官僚の反対を押し切り、橋本は政治的リスクを冒すことを選び、 実行不可能と思われた普天間基地返還が官邸主導で実現されることになったと述べている。(信田智人『日米同盟というリアリズム』千倉書房、2007年、153-155ページ)。

11 カルダーは普天間基地の移設問題は米政府のフリーサイズを沖縄に当てはめた問題が普天間間基地問題であり、米政府の机上の空論と分析している。(ケント・E・カルダー『米軍再編の政治学』日本経済新聞出版社、2008年、366ページ)。

12 守屋,前掲書、44-78、140-151ページ。13 森本は民主党の鳩山政権の誕生が普天間基地をめぐり自民党政権時代に積み上げられてきた土台を崩壊させたことを指摘している(森本敏『普天間の謎』海竜社、2010年、363ページ)。

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の安全保障』14は、民主党政権における普天間基地移設問題を取り上げた数少ない先行研究となっている。しかし、これらの先行研究は、主に政治アクターの動向や日米両政府間の交渉についての記述はあるものの、普天間問題から見た鳩山首相のリーダーシップと世論の関係についての実態解明は十分になされていない。そこで本論文では鳩山首相のリーダーシップがどのようなものであり、それが世論の不支持にどのように反映され、結果として首相の退陣に至ったかを首相自身の議題設定の失敗と世論調査のデータ分析を通じて明らかにすることとする。

2. 鳩山政権における普天間基地移設問題

2. 1 鳩山政権発足

 2009年8月 30日、第 45回衆議院選挙で民主党は自民党、公明党の連立与党を破り、単独過半数を獲得し、戦後はじめて野党第一党が過半数の議席を得て政権を獲得した 15。これにより民主党の代表であった鳩山由紀夫が臨時国会で首班指名を経て第 42代内閣総理大臣に任命された。 9月9日、民主党の鳩山代表は、社民党の福島党首、国民新党の亀井静香代表と国会内で会談し、3党による連立政権を樹立することが正式に合意された。合意案の中で社民党は沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市への移設反対や、日米地位協定の改定などの明記を強く要求し、民主党は対米関係への配慮から具体的な記述を避けようとした。最終的には衆議院選挙時の民主党のマニフェストと同様の「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」との表現を受け入れるとともに、「沖縄県民の負担軽減」の文言を明記することで3党は折り合った 16。

このように、民主、社民、国民新の3党の連立政権協議で、沖縄の米軍基地問題をめぐり合意はされたものの、普天間基地の移設の具体的な記述はされなかった。 9月 16日、鳩山政権が発足し民主党、社民党、国民新党の連立内閣が誕生した。発足した直後の世論調査の内閣支持率は 71%、不支持率は 14%で 17、内閣発足時の支持率としては、小泉内閣の 78%(2001年4月)には及ばないものの、非自民政権として誕生した細川内閣の71%と並び、歴代2位の支持を得ていた。 9月 17日、外務大臣の就任会見で岡田外相は普天間基地の移設問題について、「放置しておけば既成事実がどんどん積み重なっていく」と述べ、早急に見直しに着手する考えを示した 18。同日、北澤防衛相は記者会見で普天間基地の移設問題について、「県外あるいは国外という選択肢はなかなか厳しい」と述べた 19。政権が発足した直後からの防衛大臣の発言は普天間基地の移設問題が厳しいことを認識させることとなった。 9月 23日にはニューヨークで鳩山首相とオバマ大統領との第一回目の日米首脳会談が行われ、会談では地球温暖化や核軍縮などの、共通の課題に立ち向かう決意は確認された 20。鳩山首相は「自分の内閣でも日米同盟を日本外交の基軸として重視してゆく」と述べたものの普天間基地の問題の協議はされなかった 21。

2. 2 四閣僚の初会合

 10月2日、岡田外相、北澤防衛相、平野貞夫官房長官、前原誠司沖縄・北方担当相の普天間問題に関係する四閣僚の初会合が開かれた。この会合で移設先が名護市辺野古の現計画に決まった自公政権時の経緯の検証を行うことが決まった 22。 これを受け、10月7日、鳩山首相は在日米

14 半田は民主党政権の普天間基地問題が、素人じみており、乱暴な印象を受けるとの分析を行っている(半田滋『防衛融解―指針なき日本の安全保障』旬報社、2010年、6ページ)。15 井田正道編『変革期における政権と世論』北樹出版、2010年、10ページ。

16 朝日新聞政権取材センター編『民主党政権 100日の真相』朝日新聞出版、2010年、28ページ、『朝日新聞』2009年9月 10日。17 『朝日新聞』2009年9月 18日。18 『朝日新聞』2009年9月 17日夕刊。19 『朝日新聞』2009年9月 18日。20 『朝日新聞』2009年9月 24日。21 外務省『日米首脳会談の概要(平成 21年9月 23日)』 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/visit/0909_sk.html 、2011年 10月 24日閲覧。22 『日経新聞』2009年 10月2日夕刊。

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23 『朝日新聞』2009年 10月8日。24 同上、26 同上、26 同上、27 『朝日新聞』2009年 10月 14日。28 『読売新聞』2009年 10月 17日。29 『朝日新聞』2009年 10月 17日。30 外務省 平成 21年版外交青書「第2章 地域別に見た外交」「第2節 北米」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2010/pdf/pdfs/2_2.

pdf、2011年 10月 24日閲覧31 『朝日新聞』2009年 11月 14日。32 同上、33 『朝日新聞』2009年 11月 19日。34 『朝日新聞』2009年 11月 16日。35 『日本経済新聞』2009年 11月 20日。36 朝日新聞政権取材センター編、前掲書、214ページ。

軍再編を見直すとするマニフェストを「時間というファクターによって変化する可能性を私は否定はしない」と述べた 23。これは普天間基地を現行案である名護市辺野古に移設する日米合意の容認も選択肢の一つであることを示唆するものであった。同時に鳩山首相は「日米合意の前提がある。その前提のもとで、沖縄の県民のみなさんにも理解をし得るような形がつくれるかどうかが、一番大きな問題」と発言し 24、日米合意の前提の重要性と地元沖縄の県民の理解の両立に苦慮している立場に基づく発言であったと考えられる。同日、岡田外相は「より沖縄の負担が減らせるようなプランがないかを今、考えている」と述べ 25、同時に「日米政府で合意を進めていっているということも事実」26と発言し日米の合意を見直しすることは困難との考えを示した。 10月 14日時点には、鳩山内閣の第2回目の世論調査が報道されている。鳩山内閣の支持率は 65%に低下し 不支持 16%であった 27。世論の変化はこの時点では軽微であった。 10月 16日、突如、鳩山首相は普天間基地の移設問題を、政府の方針を固める時期を 2010年に先送りをする意向を表明した 28。理由として鳩山首相は「日本には日本の事情がある。(2010年1月に)名護市で市長選がある。(2010年末の)沖縄の知事選までとなると、かなり時間がかかることになるから、その中間くらいで結論が必要になってくる。私はまだ時間があると思っている」と述べた 29。

2. 3 日米首脳会談

 11月 13日、オバマ大統領は、初めてのアジ

ア歴訪の最初の訪問地として日本を訪れ、首相官邸で鳩山首相と第2回目の会談がされ、両首脳は 2010年の日米安保 50周年に向け日米同盟を深化させるため「新しい協議のプロセス」を進めることで一致した 30。普天間基地の移設問題では、首相が共同会見で、閣僚級の作業部会を通して「早期に解決する」と述べたものの 31、オバマ大統領は「部会は日米合意履行に焦点を絞る」との認識を示し、2006年に決定された計画の早期履行を求めた。首脳会談では鳩山首相は「日米合意を非常に重く受け止めている」と述べ同時に 2009年の衆院選で県外、国外移設を訴えた経緯をオバマ大統領に説明し、「沖縄の期待も高まっている」として見直しへの理解を求めた。これに対し、オバマ大統領は「作業を迅速に完了したい」と述べ 32、日本側の認識とアメリカ側の認識のずれが明らかになった。また、この首脳会談において鳩山首相はオバマ大統領に普天間基地の移設問題に対し、「私を信頼してほしい」と伝えていたことが後に判明した 33。 こうした中、11月 16日には鳩山政権の第3回目の世論調査が報道され、支持 62% 不支持21%とさらに支持を低下させることとなった 34。 日米首脳会談を受け、11月 19日、鳩山首相は首相官邸で岡田外相、北澤防衛相と会談し、軍普天間基地の移設問題は「私が案を作る」と述べ、鳩山首相自身が最終決断をする考えを示した 35。 2. 4 年内決着先送り

 その結果、12月4日、鳩山首相は普天間基地の移設先について、グアムを一つの選択肢として検討する考えを明らかにした 36。首相は「辺

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野古しかないのか、他の地域はないのかと前々から申し上げている。社民党の新しい問題も出てきており、積極的にもっと力を入れてもらいたいと申し上げた」と述べた 37。 12月 17日のデンマーク女王主催の晩餐会で鳩山首相はクリントン国務長官から、普天間基地の問題を年内決着まで先送りした経緯の説明を求められることとなった。これに対し、鳩山首相はクリントン長官に「選挙で民主党が勝ち、(県外移設を求める)沖縄県民の期待感が高まっている。日米合意が大変重いことはよく理解しているが、逆に(沖縄県名護市辺野古に移設する現行計画を)強行すると、大変危険だと感じている。新たな選択を考えて努力を始めている。しばらくの間、待っていていただきたい」と理解を求めた 38とされる。 12月 21日、鳩山内閣の第4回目の世論調査が報道されており支持率は一気に 48%に低下しており不支持は 34%となり 39、鳩山首相自身や小沢一郎幹事長の政治とカネの問題も生じ始めていた。 米国側からの要求に対して、社民党や国民新党は年内決着を拒絶していた。そのため、12月 25日、鳩山首相は連立政権の維持を選択し普天間基地の移設について年内決定の先送りをし「5月までに新しい移設先を決定したい。そのための最大限の努力をする。」と述べ 40、2010年5月に「あまり長い期間(米国を)待たせるのは不可能だ。5月に訪米という話がでてくる可能性もある。そのころまでには最終的な結論を作り上げていかなければならない。政府の責務だ」と語っている 41。 さらに 12月 26日、鳩山首相は普天間基地の移設先について「現実の中で考えれば、抑止力の観点からみて必ずしもグアムにすべて普天間を移設させることは無理があると思っている」

と語り 42、社民党が主張しているグアムに移設の実現は困難との認識を示した。 12月 28日、平野官房長官は首相が 12月 26日に否定したグアム移設について「グアムを排除するつもりはない」と述べ、議論する考えがあることを示した。これはグアムを「極めて有力」とする連立相手の社民党に配慮したものであった。また、米政府との交渉ルートは岡田外相に一本化する考えが示された 43。同日、鳩山政権は普天間基地の移設先を検討する連立3党でつくる「沖縄基地問題検討委員会」の初会合を開き、2010年1月末までに3党がそれぞれの移設案を持ち寄って検討し、2010年5月までに結論が出される事が合意された。同日、鳩山首相は「5月というタイミングをあえて設けた。設けなければ当然、米国などにも理解して頂ける話ではない」と述べ 44、普天間移設問題を連立3党による協議を踏まえた上で、2010年5月までに日米合意にこぎつけたいとの考えを示した。 2010年1月 18日、鳩山政権の世論調査が報道されて内閣支持率 42% 不支持率 41%とさらに低下することとなった 45。 1月 24日、名護市長選挙において現行案を容認していた現職が反対派の稲嶺氏に敗北するという事態が起こった。このことは政権に大きな打撃を与え、1月 27日、鳩山首相は普天間基地の新たな移設候補地として鹿児島県の徳之島が浮上していることに、「いろいろなものが検討される可能性がある。そのことを否定するつもりはない」と述べ選択肢の一つとの考えを示した 46。

2. 5 支持率低下

 2月2日、鳩山首相は「最終的にまた戻って

37 『朝日新聞』2009年 12月4日夕刊。38 『朝日新聞』2009年 12月 19日夕刊。39 『朝日新聞』2009年 12月 21日。40 『毎日新聞』2009年 12月 26日。41 『朝日新聞』2009年 12月 26日。42 『日本経済新聞』2009年 12月 27日。43 『朝日新聞』2009年 12月 28日夕刊。44 『朝日新聞』2009年 12月 29日。45 『朝日新聞』2010年1月 18日。 46 『朝日新聞』2010年1月 27日夕刊。

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 99

きたという話では、答えにならない」と述べ 47、普天間基地を継続して使用することは容認しない考えが示された。その一方で、2月7日、鳩山政権の世論調査が報道され、支持率 41%、不支持率 45%と不支持がついに支持を上回る結果となった 48。 2月8日、名護市長に稲嶺進が就任し、同市長は、普天間基地の移設について「辺野古に基地を造らせないという強い信念を貫く」と反対を表明した 49。 2月 18日、鳩山首相は稲嶺市長と官邸で会談し、稲嶺は市長選の結果を踏まえて「海にも陸上にも(基地を)つくらせないと市民に約束してきた。民意としてくみ取って頂きたい」と求め、鳩山首相は「重く受け止めている。沖縄の負担軽減のために(政府・与党の)検討委員会で鋭意話して頂いているところだ」と応対した 50。同日、北澤防衛相と平野官房長官が官邸で会談し、沖縄県名護市のキャンプ・シュワブの陸上案が協議された。同じころ国民新党も同様の案を検討していることが明らかになった 51。 2月 22日、世論調査が実施され、支持率37%、不支持率 46%と支持率は低下する一方で、不支持率が上昇する結果となった 52。 2月 24日、沖縄県議会は本会議で普天間基地の県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決した 53。さらに2月25日、普天間基地の移設先として鳩山政権内で検討が進められていたキャンプ・シュワブ陸上案について、沖縄県名護市の辺野古など地元3区の区長が反対する要請文が防衛省沖縄防衛局に提出された 54。これを受け2月 26日、沖縄県の仲井真知事は普天間基地の移設先としてキャンプ・シュワブ内の県内移設案に関し「断

らざるを得ないということもあり得る」との認識を示した 55。

2. 6 県内移設の模索

 3月8日になると、名護市議会で鳩山政権が検討しているキャンプ・シュワブの陸上部への移設案に反対する意見書と抗議決議が全会一致で可決されている 56。3月 16日には世論調査の報道がされており、支持率 32% 不支持率 47% 57と依然として改善の兆しはなかった。こうした手詰まり状態の中で3月 23日、普天間基地の移設問題で、鳩山首相は首相公邸で関係閣僚の平野官房長官、北澤防衛相、岡田外相、前原沖縄担当相と対応が協議された 58。3月26日、岡田外相はルース駐日米大使と会談し、政府案の検討状況を説明することとなった。一方、同日、北澤防衛相は那覇市で仲井真知事と会談し、「米側、沖縄との協議が今日をもってスタートした」と表明した。同じ日に、鳩山首相は「必ず5月末までに決着をさせる」と語っている 59。同日、岡田外相と北澤防衛相が米側と沖縄側に検討状況を伝えた際、普天間基地の暫定的な移設先としてキャンプ・シュワブ陸上部とともに徳之島が検討されていることが盛り込まれていた 60。 こうした徳之島が候補地に上がっていることを受け3月 28日、普天間基地の訓練移転候補地の徳之島で基地移設に反対する大規模な集会があり、約 4200人が反対集会に参加した 61。 3月 31日、谷垣禎一自民党総裁、山口那津男公明党代表との党首討論に臨み3月中に政府案をまとめるとしていた普天間基地の移設問題について、鳩山首相は「今、腹案を持ち合わせ

47 『読売新聞』2010年2月3日。48 『朝日新聞』2010年2月7日。49 『読売新聞』2010年2月8日夕刊。50 『朝日新聞』2010年2月 18日夕刊。51 『朝日新聞』2010年2月 19日。52 『朝日新聞』2010年2月 22日。 53 『読売新聞』2010年2月 24日夕刊。54 『朝日新聞』2010年2月 25日夕刊。  55 『日本経済新聞』2010年2月 26日夕刊。 56 『朝日新聞』2010年3月8日。 57 『朝日新聞』2010年3月 16日。 58 『朝日新聞』2010年3月 24日。 59 『朝日新聞』2010年3月 26日夕刊。 60 『朝日新聞』2010年3月 28日。 61 『毎日新聞』2010年3月 29日。

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ている」と答弁を行っている 62。これに対し、仲井真知事は鳩山政権が検討するキャンプ・シュワブ陸上案は「全くだめだ」と反対する考えを表明した 63。

2. 7 移設先の迷走

 腹案があると表明した4月2日、鳩山首相は関係閣僚会議で「普天間は県外に出したい。徳之島で調整してもらいたい」と関係閣僚に指示を行った 64。 一方で社民党は4月 12日、社民党の照屋寛徳国会対策委員長が普天間基地の移設先に「北マリアナのサイパン、テニアンを視察した結果、移設実現の可能性を確信した」と語っている 65。同日、平野官房長官は首相官邸で高嶺善伸沖縄県議会議長と会談し移設先を「県外(移設)を軸にいま政府も動いている。県外に(普天間の)機能を移そうと検討している」と伝えた 66。同日に鳩山首相は訪米先のワシントンでオバマ大統領と会談し、普天間基地の移設に首相は「5月末までに決着する。大統領にも協力願いたい」と語っている 67。 こうして候補地が徳之島に絞りこまれている中、4月 18日、徳之島で移設反対集会が開かれ、島内や奄美群島などから約1万5千人が反対集会に参加している 68。4月 19日には世論調査が報道され、支持率 25%、不支持率 61%となり、不支持が支持を大幅に上回る政権の危機的な状況を示していた 69。 これらの反対を受け4月 20日、北澤防衛相は普天間基地の機能を徳之島に移設する案に「今の状況はなかなか厳しいものがある」と述べ 70、同日、鳩山内閣の滝野欣弥官房副長官は

移設先として検討されていた徳之島の高岡秀規町長、伊仙町の大久保明町長、天城町の大久幸助町長に対し、平野官房長官と会談する旨の要請を行った。これに対してそれぞれの町長は会談には応じられないとの見解で一致し、拒否する考えが伝えられた 71。この会談の拒否により鳩山政権の徳之島移設案は極めて困難なものとなった。 4月 24日、鳩山首相は、名護市の辺野古沿岸部において埋め立てて滑走路を建設する現行案に「私は辺野古の海に立って、海が埋め立てられることの自然への冒涜を大変強く感じた。現行案が受け入れられる話は、あってはならない」と記者団に語った 72。 地元の沖縄では4月 25日、普天間基地の県内移設に反対し、国外・県外への移設を求める大規模な県民大会が沖縄県読谷村で開かれ、約9万人が参加した 73。 4月 28日には、鳩山首相は普天間基地の移設案を徳之島の既存の空港と名護市辺野古沿岸に「桟橋方式」で新たに建設する滑走路を併用する移設案を固め 74、徳田虎雄氏の協力を求めたが、この首相の懇願に対して現職時代に徳之島を選挙区としていた徳田が受け入れることはなかった 75。同日、政府の徳之島移設案に徳之島の三町長は改めて基地受け入れの反対の表明を行った 76。

2. 8 鳩山首相の沖縄初訪問

 5月4日、鳩山首相は就任後初めて沖縄県を訪問し、普天間基地の機能の一部を沖縄県内に移設する方針を仲井真知事に伝えた。仲井真知事は「県外移設の実現を期待する声が高まって

62 同上、 63 同上、 64 『朝日新聞』2010年4月6日。 65 『読売新聞』2010年4月 13日。  66 『朝日新聞』2010年4月 13日。  67 『日本経済新聞』2010年4月 13日夕刊。68 『日本経済新聞』2010年4月 19日。69 『朝日新聞』2010年4月 19日。70 『毎日新聞』2010年4月 20日夕刊。71 『読売新聞』2010年4月 21日。72 『毎日新聞』2010年4月 25日。73 『読売新聞』2010年4月 26日。74 『朝日新聞』2010年4月 29日。75 『読売新聞』2010年4月 28日夕刊。76 『朝日新聞』2010年4月 29日。

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 101

77 『朝日新聞』2010年5月5日78 『読売新聞』2010年5月8日。79 『読売新聞』2010年5月 12日夕刊。80 『朝日新聞』2010年5月 13日。81 『朝日新聞』2010年5月 14日。82 『朝日新聞』2010年5月 17日。83 『朝日新聞』2010年5月 22日。84 『毎日新聞』2010年5月 24日。85 『朝日新聞』2010年5月 27日。86 『読売新聞』2010年5月 28日夕刊。87 『朝日新聞』2010年5月 29日。88 『朝日新聞』2010年5月 31日。89 『朝日新聞』2010年5月 31日。

いる。普天間基地の危険性の除去と、沖縄県の基地負担の軽減に取り組んでいただきたい」と要請し、鳩山首相は「現実に日米の同盟関係、近隣諸国との関係を考えた時に、抑止力という観点から(国外移設は)難しいという思いになった」と説明した 77。 5月7日、鳩山首相は徳之島の三町長と官邸で会談し、普天間基地の機能の一部を受け入れるよう要請した。しかし、三町長は「民意は反対だ」として拒否の意向を示した 78。この会談の決裂により普天間基地の徳之島移設案は事実上不可能となった。 5月 12日、鳩山首相は普天間基地の移設問題は「5月末というのは首相としての国民への約束だから、私としてできる限りのことはする」と述べた 79。同日、国民新党の亀井代表は普天間基地の移設問題に民主党と連立を組む社民党、国民新党の合意を得るための基本政策閣僚委員会を先送りするよう平野官房長官に伝えた 80。同日、鹿児島を訪れた平野官房長官は徳之島の町議5人と会談し、500人規模のヘリ部隊の訓練移転案が示したが、町議側からは反対の声が圧倒的な徳之島の状況をそれぞれの町議員が説明するにとどまった 81。こうした中で、5月17日、鳩山政権の世論調査が報道され、支持率 21% 不支持率 64% 82となり、前回よりもさらに支持率は低下し、政権の末期的な状況を示していた。 5月 21日、クリントン国務長官が来日し、鳩山首相、岡田外相と会談した。会談では普天間基地の移設問題をめぐり、鳩山政権が掲げた5月末の決着に向けて努力することが確認され 83、これを受け5月 23日、鳩山首相は沖縄県を再び訪問し、普天間基地の移設問題で、仲井真知事、名護市の稲嶺市長と会談し、首相は「代替地は辺野古付近にお願いせざるを得ないとの結

論に至った」と、キャンプ・シュワブ沿岸部に移設する方針が表明された。仲井真知事は「大変遺憾で、極めて厳しい」と述べ、稲嶺市長も「実現可能性はほぼゼロに近い」と拒否した 84。こうした事態に強く反発したのは連立合意に県外移設を盛り込むことを強く主張した社民党だった。5月 26日、社民党の福島党首は普天間飛行場の移設先に「名護市辺野古周辺」が日米共同声明に明記された場合、閣議に諮る政府声明などの関連文書が「辺野古」に触れていなくても、署名を拒む考えを明らかにした 85。 しかし、鳩山首相は連立維持よりも日米同盟を優先する立場を取った。5月 28日、日米両政府は普天間基地の移設先を米軍キャンプ・シュワブがある「沖縄県名護市辺野古」とすることを明記する、外務・防衛担当閣僚による2プラス2において発表した 86。同日、社民党の福島党首は普天間移設問題の政府方針の閣議決定の署名を拒み、閣僚を罷免された。鳩山首相は「自分の言葉を守れなかった以上に、沖縄を傷つけてしまった」と述べ、地元に陳謝し、移設先を「辺野古」と明記したことに「代替施設を決めない限り、普天間の返還はないからだ」と一方的な観点から釈明することとなった 87。5月 30日、社民党は福島党首が閣僚を罷免されたことを受け、連立政権から離脱することを正式に決定した 88。 5月 31日、鳩山政権の最後の世論調査が報道され、調査結果は支持率 17% 不支持率70% 89となり、ついに政権そのものを見放したような世論の反応であった。

2. 9 鳩山首相の辞任

 ついに、6月2日、鳩山首相は、国会内で開かれた民主党両院議員総会で退陣する意向を

北村 知史102

表明した。普天間基地問題の迷走、社民党の連立政権離脱や「政治とカネ」の問題で混乱した責任をとって「職をひかせていただく」と述べた 90。鳩山政権は 2009年の9月 16日から2010年の6月2日までの約8カ月の政権の短期政権に終わることとなった。

3. 鳩山首相の政権運営に対する批判と世論の支持の関係

3. 1  「首相動静」から見る鳩山首相の普天間問題におけるリーダーシップ

 以上のケーススタディで明らかになったことは鳩山首相が自らリーダーシップを発揮して積極的に方針を出すよりも、迷走した結果普天間移設問題の混乱が生じたということであろう。実際にどの程度鳩山首相がイニシアティブを発揮したのか本節では政権発足時から首相を辞任するまで、政府内の普天間移設問題の関係閣僚の会談の頻度はどの程度あったかによって推測してみることとしたい。普天間問題関連の政府内の主要な閣僚は平野官房長官、岡田外相、北澤防衛大臣、前原沖縄担当相である 91。 報道された「首相動静」欄で鳩山首相が最も

会談回数が多い閣僚は当然のことながら平野官房長官であった。平野長官に次いで会談数が多い閣僚は岡田外務大臣、北澤防衛大臣、前原沖縄担当相の順であった 92。 次にこれらの会談が頻繁に行われた時期を考察したい。この鳩山首相の普天間問題に関わる人物の会談回数で明らかなことは鳩山首相は政権発足当初から普天間基地に関して政権発足当時から言及していたものの、実際に担当閣僚と頻繁に会談した時期をみると 2009年の 12月と2010年の5月に顕著であることが指摘できる。2009年 12月は年内決着先送りを表明した時期であり、2010年5月は5月末までの最終決着の時期である。このように鳩山首相が直接乗り出して解決に動こうとした時期は比較的に後手に回ったと考えられる。 すなわち、鳩山首相の普天間移設問題のリーダーシップ面において閣僚との会談回数を鑑みて、年度内決着の期限としていた 2009年 12月と年が明けた 2010年5月に関係閣僚の会談を頻繁に行ったのは時間的に追い込まれての受動的なものであり鳩山首相が率先してリーダーシップを発揮したとは言い難いといえる。 また、鳩山首相が普天間基地の地元である沖縄県の関係者の会談回数は閣僚と比較してさらに低いものとなっている。沖縄県内での普天間

首相動静にみる鳩山首相と普天間関係閣僚との会談回数出所:『朝日新聞首相動静欄』(2009年9月 17日~ 2010年6月3日)より筆者作成

平野官房長官岡田外務大臣北沢防衛大臣前原沖縄担当相

90 『日本経済新聞』2010年6月2日夕刊。91 鳩山首相の謁見回数のカウントは特に平野官房長官が顕著であり一日に複数回該当する時があるが、一日で複数回でも一回と数えている。なお、前原沖縄担当相は国土交通大臣も兼任していたが沖縄担当相と表記されたものをカウントした。

92 『朝日新聞』2009年9月 17日より 2010年6月3日に掲載された。「首相動静」欄の記載より筆者集計

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 103

93 同上、94 竹下俊郎『メディアの議題設定機能』学文社、1998年、4ページ。

移設問題にかかわる人物は仲井真知事、名護市の稲嶺市長、宜野湾市の伊波市長であるが、首相との会談回数は仲井真知事が3回、名護市の稲嶺市長は1回、宜野湾市の伊波市長は2回であった 93。特に仲井真知事との会談は普天間基地の移設を決定する直前の 2010年の5月が2回と最も多く、これは、鳩山首相が普天間問題の地元である沖縄側の首長に対しても受動的な行動をしていたと見ることができよう。

3. 2  鳩山首相による議題設定とリーダーシップの欠如

 2009年9月に民主党政権が発足してから鳩山首相は普天間基地の移設を提唱してきた。そして、実際に鳩山首相は普天間基地の移設先を沖縄県外とすべく、様々な候補地の検討をすることとなった。 しかし、普天間基地の移設先の候補地が策定されていた中、鳩山政権の内閣支持率は次第に低下していった。こうした鳩山首相のリーダーシップの結果に対して世論調査は如実に結果を示していた。これは鳩山首相が 2009年内に先送りが決定した後の 12月の調査結果を見て明らかである。このように鳩山首相がリーダーシップを発揮できなかった要因としては政権交代による民主党の政権運営の未熟さもあるが、それ以上に鳩山首相の議題設定と戦略上の設定が支持率の低下に拍車をかけた。

 つまり、鳩山首相は普天間基地を県外に移設という議題設定をしてしまったがゆえに、その議題に縛られてしまった。メディアの議題設定に関する機能としては、メディアで、ある争点やトピックが強調されるほど、その争点やトピックに対する人びとの重要性の認識も高まる、いわゆるプライミング効果があるが 94、普天間基地の移設問題を鳩山首相自身が政権の重要課題に設定することによって、メディアの注目を集め、盛んにこの経緯についての報道がなされることとなり、プライミング効果をより高めることとなった。メディアの報道が鳩山首相の普天間移設問題での指導力の欠如を報道するにつれ、世論の支持率の低下を招き、首相を辞任するきっかけともなったのは、まさに首相の議題設定戦略の失敗であったといえるだろう。 もっともこうした一連の経緯の結果責任は、鳩山首相自身の問題だけではなかった。一つは連立相手であった社民党が政権発足当初から普天間基地の沖縄県内の移設に反対を表明していたことも大きい。また、2009年 12月末の同じく連立相手である国民新党の亀井代表が年内に決めることを良しとしない要請もあり、連立相手の意思疎通も図れなかったことは確かである。加えて、政府内の、岡田外相、北澤防衛相、前原沖縄担当相の普天間に関連する閣僚も意見が一致しない状況が続いた。こうした状況の中で鳩山首相のリーダーシップは発揮されることはなかった。鳩山首相の実際の行動におけ

鳩山政権 4 紙、支持率、不支持率の推移の比較朝日、読売、毎日、日経の世論調査より筆者作成

北村 知史104

るリーダーシップにおいても 2009年内は現地に赴くこともなく、鳩山首相が積極的に自ら行動したのは 2010年の4月以降になってからであり、極めて機会主義的な対応であったといえる。このように新聞等のメディアにおいて鳩山首相の発言が先行し、実際の会談と実際の行動については受動的なリーダーシップを取る鳩山首相の内閣支持率は国民に信用されることなく低下していったのは当然の帰結といえるのではないか。蒲島は世論の形成にマスメディアが重要な役割を果たす事を指摘しているが 95、まさに鳩山首相のリーダーシップの欠如がメディアを通じ、世論の内閣支持率の低下を招いた一因であった。

3. 3 世論調査からみる鳩山政権への批判

 結果的に鳩山首相は支持率の低下により、退陣を余儀なくさせることにつながっていった。以下、鳩山政権発足時から退陣への変遷と普天間問題をめぐる、鳩山首相への世論の意見について説明することとする。 まず、4紙の調査を見て、4紙ともに多少の差はあるものの支持率と不支持率の傾向は同様の変化をしていることがわかる。すなわち、鳩山政権は政権発足から退陣まで一貫して支持率は低下し上昇することはなかった。 次に、4紙の鳩山政権の普天間問題についての世論調査を見ることとする。2010年4月から4紙ともに普天間問題の決着と鳩山首相の責

朝日、読売、毎日、日経の世論調査より筆者作成

普天間問題で鳩山首相は退陣するべきか

朝日、読売、毎日、日経の世論調査より筆者作成

普天間問題で鳩山首相は退陣するべきではない

95 蒲島郁夫編『メディアと政治』有斐閣、2010年、38ページ。

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 105

任ついての調査がされている。普天間問題が5月末までに決着しない場合、辞任するべきか、そうでないかの調査がされている。先ずは4紙の普天間問題で辞任するべきと回答があった4紙の調査結果を以下に提示する。 4紙とも、少しばらつきはあるものの同様の傾向を示している。2回目の調査時に退陣するべきという数字が低下しているのは普天間基地が徳之島などに移設の可能性があった時であるが3回目の調査では現行案のままの取り決めとなり、結果として退陣するべきの結果の数字が上昇している。次は4紙の普天間問題で鳩山首相は退陣するべきでないと答えた結果を提示する。 鳩山政権の内閣支持率の結果と同じく、4紙のメディアの在り方は大きな振れ幅はなく同様の傾向を示している結果となっている。 以上の世論調査の結果から指摘できることはメディアの報道は各紙によって多少の濃淡はあるものの、総じて、普天間移設問題についての鳩山首相の対応が後手に回り、リーダーシップは欠如していた。これに対し、世論は、当初、鳩山首相の県外移設の公約に期待し、名護市辺野古を代替地とする日米合意案への見直しへの期待も高かった。しかし、民主党連立政権のこの問題への対応に対するもたつきが政権の統治能力の欠如を顕在化させ、世論の政権への支持の低下を招くこととなった。世論の強い批判の中で、首相自身のリーダーシップはさらに低下することを余儀なくされ、在日米軍の見直しを視野に入れたはずの普天間移設問題をめぐる政権の公約は、「問題提起を行ったものの、結局は前政権の合意案の現状維持にとどまる」という失敗に終わることとなったのである。

4.おわりに  本論文では、普天間基地の移設問題をめぐる民主党連立政権における鳩山首相を中心とする政治アクターのそれぞれの行動とそれに対する世論の動向を新聞報道や世論調査を通じて分析を行ってきた。鳩山首相がこの政治課題において失敗した要因には、以下のことが指摘できる。

まず、首相自身のリーダーシップの欠如である。ハヤオは受動的リーダーシップを日本の首相の典型的なパターンとして、首相が自ら能動的に問題解決に乗り出すのでなく、危機が生じたときにおいても、機会主義的に受動的な対応しかとれない傾向を持つことを指摘している 96。2009年9月に政権が発足し、鳩山政権は、普天間移設問題を重要課題に掲げたものの、米国側からの圧力にもかかわらず連立政権内での社民党の抵抗にあい、2009年内での決着方針はあっけなく先送りされた。2010年に入って、同年5月までに結論を出すことを首相自らが表明したものの、具体的な移転先を閣僚に指示したのは、2010年の4月の初頭の徳之島案が初めてであった。しかも、追い込まれるような形で、4月末に徳之島の関係者に移設の要請をし、沖縄県にも訪問したものの、その段階では、既に首相自身には、旧辺野古案への復帰を前提に、つじつま合わせを行うような行動に出たのに過ぎないとの認識があったとされる。つまり、鳩山首相には、自らが率先して能動的に問題解決に当たる積極性は見られず、問題が発生してから初めて対応に乗り出すという典型的な受動的リーダーシップしかなかった。もっとも、こうした首相の指導力を制約していた要因には、連立政権内での不一致があった。地元の沖縄県での強い反発は名護市の市長選挙での受け入れ反対派の稲嶺市長の当選に表されているように強固のものがあり、当初は様子見を決め込んでいた仲井真沖縄県知事の反対の姿勢も鮮明になった。こうした強い国内の反発を交渉材料にして米国側と調整するという外交上の選択肢もあった。しかし、鳩山首相は、オバマ大統領やクリントン国務長官の目に見えない要求と圧力に屈して、ついに首脳外交において、国外・県外移設を表明するには至らなかった。外交戦術での失敗であったといえよう。 閣内においても、首相の位置は微妙であった。橋本龍太郎元首相が外務省を介さず、直接クリントン大統領と交渉し、普天間返還の道筋をつけたように、外交は本来、首相の専権事項であるはずである。しかし、内閣におけるリーダーよりも、「コンダクター」を自認する鳩山は、外交を岡田、防衛を北澤の各大臣に委ね、自ら

96 Hayao, op. cit., pp.17-19.

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が能動的に乗り出すことは、公約の期限が迫った時期まで見られなかった。この要因には、彼のパーソナリティや党内・閣内における人脈や権力関係といった背景も考えられるものの、より根源的な要因として、官邸に「首相外交」を支える基盤がなかったことである。外交などの安全保障問題は交渉相手が内政とは異なり多様な意見の間の調整のプロセスが必要となってくる。そこで重要なのはそのような、交渉過程において一貫した政策、理念を通す必要がある。この時に重要なのは首相と直接の担当の外務大臣、防衛大臣との理念や問題解決方法の一致である。こうした理念と手法を一致させるためには、官邸主導による外交展開が望ましいと言える 97。しかし、肝心の首相自身に明確な方針が固まっておらず、官邸で首相を支える平野官房長官には外交安全保障政策での補佐役は務まらず、また、外務省や防衛省から出向している各種の官邸の官僚スタッフにも、本気で鳩山政権を支えるという気概は見られなかったとされる 98。結局、鳩山首相には一部の評論家やブローカーのような人物が接近し、普天間移設問題での混乱の素地を作ったのではないか。そうした状況下で、外務大臣や防衛大臣が独自の路線を走り、一元化された官邸主導によるリーダーシップは発揮されることはなかったのである。 こうした政権の普天間移設問題をめぐる混乱は、メディアの報道を通じて、世論に深刻な政権へのマイナスイメージをもたらすこととなった。マコ―ムスとショウは、メディアが日々の報道において、少数のトピックを選択し、それらを格付けしながら提示することで、人々の注目の焦点を左右し、その時点で何が重要な問題かという人々の判断に影響を与えるとして、メディアの議題設定機能を提示している 99。メディアは、普天間基地をめぐる民主党連立政権の迷走ぶりを格好の材料として連日報道し、世論の注目を集めた。しかも、この問題が、日本の国益と沖縄の地域的利害の調整という本来時

間をかけた熟義の下で議論すべき課題であるのにも関わらず、米国の圧力や、社民党や沖縄などの地元の反発にあってジレンマに陥った鳩山首相の無策ぶりという「枠組み」で報道することによって、首相自身の世論の支持率の低下を招く原因となった。そこでは、メディアは国民の知る権利に応えて真実を報道するという本来の報道機関の役割から逸脱し、「ある問題をメディアがどのように報道するかが、それに接触した人の問題の捉え方に影響を及ぼす」というフレーミング効果 100を自ら担うこととなったのである。 一方で、発足当初、支持率が高かった鳩山政権に対して、世論がなぜ急激な支持率を低下させていったのか。もちろん、政権の政治的失政にその原因は求められものの、世論の傾向には、多数意見には寄り添うものの、少数意見に対しては冷たく見放す傾向があるという沈黙の螺旋理論がヒントになると思われる。ノイマンは、マス・メディアは社会における意見分布とその動向を受け手に知らしめる役割を果たし、受け手は自分の意見が社会において支持されているかどうかをマス・メディアを通して判断するとして、世論は、自分の見解が支持されている、つまり「多数意見」であることを確認すると、自分の意見を多くの場面で表明するようになり、逆に、自分の意見が「少数意見」であると認知すると、社会的孤立を恐れ沈黙するようになると指摘している 101。その結果「多数意見」の分布は大きく、「少数意見」の分布は小さく見えるようになるという理論である。発足当初の鳩山政権の支持率が 70%を超える高い支持率を誇っていたものの、わずか8カ月の間で、政権末期に 10%台にジェットコースターのように低下したのは、こうした世論が、メディアを通じて形成される「多数意見」に寄り添い、リーダーシップがないと批判される鳩山首相を見放すという動きを加速させたといえるのではないだろうか。

97 信田智人『官邸外交─政治リーダーシップの行方』朝日新聞社、2004年、169ページ。98 森本,前掲書、522-524ページ。

99 Maxwell E. McCombs and Donald L. Shaw, The Agenda-Setting Function of Mass Media, Public Opinion Quarterly, Vol.36, No2, 1972, pp.176-187.100 フレーミング効果については、竹下俊郎「メディアと政治」池田謙一編『政治行動の社会心理学』北大路書房、2001年、27-35ページを参照のこと。

101 Elisabeth Noelle-Neumann, The Spiral of Silence: Public Opinion, Our Social Skin, Chicago :University of Chicago Press, 1993 pp.6-7. (Elisabeth Noelle-Neumann, (池田謙一、安野智子訳)『沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学』ブレーン出版、 1997年、7ページ)。

普天間基地移設問題をめぐる鳩山首相のリーダーシップと世論の影響力 107

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