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96 ジャンル「カフェー」の成立と普及(2) 斎 藤  光 3.ジャンルとしてのカフェーの生成 SAITOH Hikaru ジャンル「カフェー」の成立と普及(2) 日本語文化圏でのカフェージャンルの生成は、まず、東京、特に銀座を中心として生じた。 1911 年の春、カフェープランタンが、8 月 10 日に、カフェーライオンが銀座に開店する。 その直後、8 月 27 日から『東京朝日新聞』は、カフェーのルポルタージュを連載した。 この半年ほどの過程で、日本語文化圏ではカフェージャンルとその認知が成立し、しかも、 それがかなり進んだ、と捉えることができる。このうち、松崎天民による『東京朝日新聞』の ルポルタージュは、カフェージャンルの定着を決定づけた、と位置づけることが可能だろう。 ルポ連載終了の 3 ヶ月後の 12 月 12 日には、カフェーパウリスタも銀座に開店した。こうして 1911 年には、日本語文化圏でカフェージャンルというものが編制されたのである。 この一連の過程でカフェージャンルが日本語文化圏で立ちあがった、という仮設的図柄、こ れが、本エッセイの主張点の一つである。この節では、この仮設的図柄をめぐっていくつかの 事柄を論じたい。まず、カフェージャンルの生成のさなかを資料的に跡づける。ついで、カフェー ジャンルが立ちあがる以前の時期(プレカフェー期)における重要な展開を二点ほど再構成す る。最後に、再び生成期に戻って、天民のルポなどを検討してゆく。 3-1 カフェージャンルの生成 美術文芸雑誌『方寸』の最終号をのぞいてみよう。この号は、1911 年 7 月 10 日に発行され、 「青木繁追悼号」となっていた。そこに、無署名の埋め草的な小品「徹底」が載っている。 「▲ 徹底 ▼ 銀座四丁目の四つ辻は電車を待つ人で黒山の様である。大方は疲れ切つた風で黙り返つて 居る中に、足もとも定まらぬ青年が二人。 『オイ CAFE PRINTENPS に往かう』 『彼処は少し義理が悪いや、築地に新規に開拓した家があるんだ。其処なら己れの顔で貸

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― 96 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

斎 藤  光

3.ジャンルとしてのカフェーの生成

SAITOH Hikaru

ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

日本語文化圏でのカフェージャンルの生成は、まず、東京、特に銀座を中心として生じた。

1911 年の春、カフェープランタンが、8月 10日に、カフェーライオンが銀座に開店する。

その直後、8月 27日から『東京朝日新聞』は、カフェーのルポルタージュを連載した。

この半年ほどの過程で、日本語文化圏ではカフェージャンルとその認知が成立し、しかも、

それがかなり進んだ、と捉えることができる。このうち、松崎天民による『東京朝日新聞』の

ルポルタージュは、カフェージャンルの定着を決定づけた、と位置づけることが可能だろう。

ルポ連載終了の 3ヶ月後の 12月 12日には、カフェーパウリスタも銀座に開店した。こうして

1911 年には、日本語文化圏でカフェージャンルというものが編制されたのである。

この一連の過程でカフェージャンルが日本語文化圏で立ちあがった、という仮設的図柄、こ

れが、本エッセイの主張点の一つである。この節では、この仮設的図柄をめぐっていくつかの

事柄を論じたい。まず、カフェージャンルの生成のさなかを資料的に跡づける。ついで、カフェー

ジャンルが立ちあがる以前の時期(プレカフェー期)における重要な展開を二点ほど再構成す

る。最後に、再び生成期に戻って、天民のルポなどを検討してゆく。

3-1 カフェージャンルの生成

美術文芸雑誌『方寸』の最終号をのぞいてみよう。この号は、1911 年 7月 10日に発行され、

「青木繁追悼号」となっていた。そこに、無署名の埋め草的な小品「徹底」が載っている。

「▲ 徹底 ▼

銀座四丁目の四つ辻は電車を待つ人で黒山の様である。大方は疲れ切つた風で黙り返つて

居る中に、足もとも定まらぬ青年が二人。

『オイCAFE PRINTENPSに往かう』

『彼処は少し義理が悪いや、築地に新規に開拓した家があるんだ。其処なら己れの顔で貸

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― 97 ―京都精華大学紀要 第四十号

すよ、』

『貸すかい本統かい、けれども抱擁しなけれや徹底出来ないぜ』」65

かなり情報は少ないとはいえ、二人の青年によるこの会話にはジャンルとしてのカフェーは

あらわれていない、ということが読み取れる。カフェープランタンと「築地に新規に開拓した

家」が、同じ範疇のものとして扱われている。もう一軒行くべき飲むための場、といった風の

カテゴリーと推測される。カフェープランタンは、この段階では、かつての可否館と同様、個

別事例という位置づけであったと考えることができる。

これとほぼ同時期に永井荷風が書いた「銀座」も、重要な資料となるだろう。「適当な休み

場所」、あるいは、「自由な淋しい好い心持」66 でいることが出来る場に関して、彼は、次のよ

うな記述を残している。

「今では日吉町にプランタンが出来たし、尾張町の角にはカフェエ ・ギンザが出来かかっ

ている。また若い文学者間には有名なメイゾン ・コオノスが小網町の河岸通りを去って、

銀座付近に出て来るのも近い中だとかいう噂がある。しかしそういう適当な休み場所がま

だ出来なかった去年頃まで、…(略)…友達を待ち合わしたり、…(略)…散歩の疲れた

足を休めたり、…(略)…人の混雑を眺めるためには、新橋停車場の待合所を択ぶがよい

と思っていた。

その頃には銀座界隈には、已にカフェエや喫茶店やビイヤホオルや新聞縦覧所などいう名

前をつけた飲食店は幾軒もあった。けれども、それらは、いずれも自分の目的には適しな

い。…(略)…

これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない

無類上等のCカフエエ

afé である。…(略)…」67

永井によれば、「去年頃まで」、すなわち 1910 年の時点までは、銀座付近の「適当な休み場所」

は、「新橋停車場の待合所」だけであった。ところが、今年、1911 年の 7月時点では、「日吉

町にプランタン」が出来、「尾張町の角にはカフェエ ・ギンザ」が建設されつつある。また、「メ

イゾン ・コオノス」の銀座進出も噂されている。銀座に「適当な休み場所」が複数登場する可

能性が想定できるようになっていた。

その上で、複数化しそうな「適当な休み場所」を「Cカフエエ

afé」という概念との関係で枠づけよう

と、永井は試みている。重要なのは、「プランタン」「ギンザ」「コオノス」を「Cカフエエ

afé」とはし

ていない点、また、関連するが、フランス語で「Cカフエエ

afé」と記述している点である。ここから、

「Cカフエエ

afé」概念あるいはジャンルを、基本的に西洋のものである、と永井が設定していたことが

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― 98 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

分かる。1910 年までは、「銀座界隈」の「カフェエや喫茶店やビイヤホオルや新聞縦覧所など

いう名前をつけた飲食店」は、「Cカフエエ

afé」あるいは「Cカフエエ

afé」的な存在ではなかった、といいたい

のだ、とも読めよう。

つまり、この永井の証言は、「Cカフエエ

afé」とアナロジー的に対応しそうなカフェー的な店が、一

つはプランタンとして出来、もうすぐ「ギンザ」として立ちあらわれるというその時点を、そ

して、その時点の永井の気分 ・心象を記録したものなのだ。ただ、西洋には「Cカフエエ

afé」というジャ

ンルを認めている永井も、未だ、カフェーというジャンルが生成しつつあることには気づいて

いない。あるいは、少なくとも確信をもってそうことあげすることはできなかった、といえる

のではあるまいか。

ところで、『東京朝日新聞』は、カフェーライオン開店以前に、プランタンを記事にしている。

8月 7日のことだ。次にそれも検討してみよう。

「●新熟語辞彙

▲カフエープランターン

日吉町にある伊太利式料理店の名にて「貨幣足らんへ」と云ふ意味なり語の起因は店の

主人が一人では資本が出来ず仲間の文士画家を語らひ会社組織にて開業したるが何れも当

世の非金満家党なれば毎日鼻突き合はせて貨幣足らんへと口癖のように云ひたるが世間

体を憚りカフエープランターンと片仮名にて合言葉としたるより起れり一説にカフエーは

嘉か

兵へ

衛ゑ

なりプランターンはチヤランポラーンなり徃昔高田屋嘉兵衛が異国人と交易し飲食

一に異国風に倣い可い加減の事を云つて当時の国民を驚かしたるより此類の飲食店を模し

て斯う云ふに至ると云ふ者あり又プラリクラリの転訛せるものなり等知つたか振の説明を

なすものあれと何れも牽強付会のチヤランポラーンにて一も信ずるに足らず」68

これは、『東京朝日新聞』記事検索でヒットしたカフェープランタンについての記事である。

ここで重要なのは、「カフエープランターン」あるいは「カフエー」が、「新熟語」と認識され

ていたことだろう。それまでのものとは異なる何か、ということだ。記述から推定すると、一

般の人々、新聞の読者たちはこの「新熟語」に違和感を持った可能性がある。たぶん多くの人

にとって、「カフエープランタン」あるいは「カフエー」とは何を意味するのか、チンプンカ

ンプンだった、と判断してもよさそうだ。

次に大事と思われるのは、カフェープランタンを「日吉町にある伊太利式料理店の名」とし

ている点である。カフェーという認識ではなく、イタリア料理店、あるいは、西洋料理店の一

具体例、という把握だったのである。少なくとも、ジャンルとしてのカフェーというという捉

え方は、このテキスト内にはないことはわかるであろう。

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― 99 ―京都精華大学紀要 第四十号

つづいて、同じく『東京朝日新聞』の 8月 8日号には、

のちのカフェーライオンとなる店舗、永井荷風の「銀座」

によれば「カフェエ ・ギンザ」であるが、その短い記事

が出る。プランタンを扱った翌日のことだ。

「●精養軒のカフエー開店 築地精養軒にては今回尾

張町一丁目なる旧毎日新聞社跡にカフエー店を開

き来客のため絶えず余興をなし新趣向の休憩所た

らしむる由」69

「新趣向の休憩所」という点が重要であろう。この個

所は、カフェージャンルについての説明とも解釈できる。

また、永井のエッセイとのつながりを読み込むこともで

きる。「カフエー店」という表記もジャンル的捉え方の

ように見えなくもない。しかし、記事が短いということ

もあり、ジャンルとして把握されているかどうかについ

ては、明確な判断がしづらい。ジャンルという認識の可能性はあるにしろ不確実である。

さらに翌 9日、カフェーライオンは、「ライオン」という名前を初めて示しながら、『東京朝

日新聞』に広告を掲載する。70 この広告は、カフェージャンル問題からすれば、やや詳しく分

析する価値がある。

この広告をみると、「カフェーライオン」は、「純粋/欧米式 カフェー」と打ち出されたの

がわかる。ジャンルとしてのカフェーが明確に意識されていると、考えることができる。「欧

米式」というのは、カフェーというジャンルの起源を欧米に求めていることを示している。「純

粋」というのは、オリジナルそのもの、ということを表明 ・表現していると読みとれる。つま

り、カフェーという形式(つまりジャンル)の店は、欧米にもとがあるが、今度出来るライオ

ンは、欧米のモデルと寸分も異ならない、ということではないか。明らかにカフェーをジャン

ルとして打ち出しながら、集客しようとしている、といえよう。

また、このカフェーで提供予定のサービスも例示されている。「精養軒独特の料理」は洋食

類であろう。次に「ビール」があり、「各洋酒類」もある。さらに前日の記事でも触れていたが、

「余興」があることも分かる。ある程度カフェージャンルが何か、そこではどういうサービス

を享受できるかがイメージ可能となっている。

要するに、開店直前のカフェーライオンの広告に、カフェージャンルという形式が明確に示

されていた、と捉えることが出来る。なお、この広告によれば、開店は翌日の 8月 10日であり、

図1:『東京朝日新聞』1911年 8月 9日

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― 100 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

8月 11日の『読売新聞』を見ると、「披露会」は午後 4時から 9時まで行われた。

カフェーライオンが開業してほぼ 2週間ののち、『東京朝日新聞』は、「カッフェー」という

ルポ記事を連載した。8月 9日の広告で明示された「カフェー」ジャンルを使い、そのジャン

ルの具体的店舗を言語化 ・言説化した。本論考の第二節で注記したように 71、これを書いたの

は松崎天民である。この連載は、カフェージャンルを、社会的 ・メディア的に定着するように

向ける。このルポこそが、カフェージャンルの定着や一般化における決定的要素であったと思

われるが、その点には後に触れることにしたい。

このようにして、カフェージャンルが成立したわけであるが、成立したということを確認で

きるテキストがある。1911 年の 8月以降 12月以前に書かれたと推定される、高須梅渓の文章

がそれだ。高須は、初出未詳であるそのエッセイの中で「カフヱ」を「急速に進む時代の要求

として」必然的に生じた「廿世紀式」「料理店」と把握していた。高須にとってカフェージャ

ンルは 1911 年夏以降に実際に発生したものであり、そのジャンル下の個別店舗も銀座に生ま

れ、利用できるものになっていた、といえるだろう。それは、ジャンル成立を成立の場で把握

・記述した記録となっている。72

以上で、カフェージャンルの出現の現場がある程度了解できたのではないだろうか。プラン

タン開店、ライオン開店、カフェーのルポルタージュという形で、個別店舗の現実的 ・具体的

出現と、それへ言及するメディア的情報的意味付けにより、社会内にカフェージャンルの大枠

が提供され、人々によって共同化されるようになっていったのだ。

このことを前提としつつ、次に、やや時代を戻って、カフェージャンル成立以前の状況を整

理しながら、カフェージャンルの特徴についても考えてみたい。

3-2 プレカフェー期 ―― ホールという先駆ジャンル

最初に、カフェージャンルを成立させた前提条件 ・先行環境を振り返っておこう。これも本

エッセイの主張点であるが、すでに述べたように、三つの条件があると思う。再確認すると、

第一は、カフェージャンルに先行する西洋的飲食商業空間の存在。第二は、欧州の「カフェ」

情報の流入 ・流通という事態。最後に、第三が、コーヒーをはじめとする西洋的飲料や食材の

流通の整備、である。これら三つの前提条件 ・モメントが交差する中で、ジャンルとしてのカ

フェーが立ち上がって来るのだ。

ここでは、初めに、先行する西洋料理的飲食空間について簡単に見ておきたい。

大本をたどると、明治維新前後に西洋料理店ができ、その後、普及していったのが、カフェー

ジャンル成立の下地になっている。西洋的飲食を経験し、西洋的飲食空間を体験したことが、

カフェーへ人々を導く糸口であった。ただ、直接的に重要なのは、「ホール」を標榜する個別

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― 101 ―京都精華大学紀要 第四十号

店舗の出現展開と、「ホール」ジャンルや諸「ホール」ジャンルの成立であろう。これには、

カフェージャンルの成立に関係した『東京朝日新聞』の記者 ・大食漢こと松崎天民によるバー

とホールを対象とする 1911 年 9月のルポが参考になる。その語るところを見ることにしよう。

「カフエーやバーは未だ出来初めで、其の完全なものを求めるには、今後二三年を要し様が、

ビーアホールに至つては、既に都の一景物たり、…(中略)…

敢て半通を振回す訳では無いが、ビーアホールと云つても、実は外国人に通用せず、ハル

レとかブフエとか云ふのが夫だけれど、横文字にしての字配りが悪いので、ホールと付け

て笑はれたとは、明治三十一年に初めてビーアホールを設定した、恵比寿麦酒会社員の実

話だとか、今ではミルクホール、正宗ホール、金つばホールなどゝ云つて、何でも彼でも

ホールと付けねば、客が呼べぬ世の中になつたけれども、本邦最初のビーアホールは新橋

の此方博品館勧商場と向ひ立つ、新橋ビーアホールに違ひ無いとは、カツフエ、バー、ブ

フエなどを研究してきた、然る洋通の語るところ

然れば新橋ビーアホールにも、カフエーシンバシとした横文字の看板あつて、汽車を待つ

間の西洋人やら、日本ハイカラさんを呼んで居る…(後略)…」73

ここでわかるのは、第一に、「本邦最初のビーアホール」である「新橋ビーアホール」の場合、

「横文字の看板」には「カフエーシンバシ」とあった、らしいことだ。この証言は、1911 年時

点のものである。写真等での確認と、いつこのアルファベット記載が登場したのかは今後も調

査すべきことであるが、1909 年には、精養軒が経営するようになっていたこの新橋ビアホー

ルは、「新橋ビヤホール」とともに「カヘーシンバシ」という名称も使用していた。74 この「カ

ヘー」はもちろん「カフエー」のことであろう。精養軒に経営が移ったのはいつか特定は出来

ていないが、1908 年 5月 3日には、『東京朝日新聞』に「新橋レストラン・ビーヤホール/新

橋精養軒出張」75 の広告が載る。重要なのは、「博覧会に於て高評を博せし桃山式乙女」が給

仕することを強調している点だ。1907 年に開催された東京勧業博覧会に精養軒が出店した出

張所の成功により、「新橋レストラン」=「新橋ビヤホール」=「カヘーシンバシ」が成立し

たと推測できる。そこから、さらにカフェーライオンへと向かったのだろう。詳しくはさらな

る調査の上で別論文を用意せざるを得ないが、このことから、ビアホール、あるいは、ホール

は、カフェーと何らかの共有する性質をもつカテゴリー ・ジャンルであった、と結論すること

はできる。なおこの記事では、ビアホールが出来たのは、「明治三十一年」(1898 年)となっ

ているが、事実としては 1899 年 8月 4日に「恵比寿ビヤホール」として開設された 76。

第二にビアホールが登場して以降、ホールという概念 ・カテゴリーが、広く社会内で特に飲

食商業空間に関して使用されるようになり、ホール概念を使うことで新しいジャンルが形成さ

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― 102 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

れていった、と考えることが出来る。事例としては、ミルクホールや正宗ホールがある。金つ

ばホールも取り上げられているが、その個別店舗に関しての情報は今のところない。

第三に、明らかにこの記者大食漢は、「ビーアホール」が飲食店のジャンルであることを認

識しているように読める。「ビーアホールに至つては、既に都の一景物たり」というところが

その個所の一つである。カフェーに関しては、「未だ出来初め」という認識で、「其の完全なも

のを求めるには、今後二三年を要し様」という予想をしているが、ここでも個別の店舗を対象

として考察しているというよりも、カフェーというジャンルの新奇性と将来展望を語っている

と判断できまいか。

要するに、ビアホール、あるいは、ホールは、カフェーに先行する人気飲食空間ジャンルで

あった。そこへ個別のカフェーが登場し新しいジャンルが萌芽する。大食漢こと松崎天民は、

カフェーの将来展開をビアホールの展開と似た形になるかもしれない、と観測していたのであ

る。

少々わき道にそれるが、このビアホールジャンルが大ヒットであったということを示す

1899 年の新聞記事も見ておこう。ビアホールジャンルの創成期の言説だ。カフェージャンル

が形成され個別カフェー店が増殖するありさまと相似形であることが見て取れる。

「●ビーヤホール一雨毎に増加す 新橋に恵比寿ビールのビーヤホールを開店して大当

りなりしより処々にビーヤホールの起らんとするもの春笋の如く既に去る十五日より神田

小川町一番地に開業したる東京ビールのビーヤホールは開店後可なりの来客ありまた本郷

元富士町の天下堂と云へるビーヤホールは本月八日より開店したる由なるがこれ又景気よ

くて小川町と伯仲するの繁昌をなし居りと尚此外本郷春木町に一ヶ及マ

所マ

京橋北詰広目屋支

店の楼上に東京ビールのビーヤホールを近々開店する由にて目下普請中なり又札幌ビール

は浅草にビーヤホールを設くる計画あり恵比寿ビールは上野停車場に開店して新橋と南北

相応ずるの準備中にてビーヤホールは是より益々流行を来すなるべしと」77

カフェージャンルと比べると、ビアホールに関してはあまり証言が残っていない。そのため

その状況を再構成するのはやや難しい。しかし、ビアホールジャンルやホールカテゴリーの普

及は、カフェージャンルの普及の道筋を、社会内にもたらした可能性がある。先行形態として

新ニッチを開拓した、といえるかもしれない。

では元に戻って、カフェージャンルの先駆形態という問題に関して、もう一つ別のテキスト

を検討する。天民による先のものが、カフェージャンル成立の現場での観察とすれば、今度の

ものは、カフェージャンルが確固たるものとなって以降の観測である。時間にすると 5年経過

している。1916 年 6月 16日の『読売新聞』に掲載された無署名記事「夏の涼味 ▽カツフヱと

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― 103 ―京都精華大学紀要 第四十号

バー/▽特色のいろいろ」がそれだ。

「…(前略)…此のビヤホールと云ふ名前はミルクホールや正宗ホールと云ふ名称を誘発

した程、明治の昭代に勢力を有してゐたが大正と押し進むでからはカッフェやバーと云ふ

名称に解合つて今日では時折古い建物が場末にしか見ることが出来なくなつた

△言ひ換へれば大正のビヤホールを説く者は必ずカッフェとバーとを除外し得ぬのであ

る、カッフェとバーとに解合つたビヤホールが今東京には大小合せて約五百軒ある、…(中

略)…目貫きな銀座通りのカッフェ店、浅草六区のバーと云へば東京一、日本一と称して

も過言でない、…(中略)…新橋北詰の新橋カッフェはビヤホールの元祖、創立が明治廿

八年の日清戦争に勝つた年、大日本麦酒

△会社の前身たるエビス麦酒会社の経営で麦酒売下など云ふ今の専売局の威厳を持ち給仕

も総て女を用ゐずボーイを使用してゐたが生ビールは当時此処より外に味はれなかつたの

で時々入口を閉鎖してお客を堰止める程の盛況だつたさう、此処の成功に誘はれて此の後

芝の三田通り、神田の三崎町、浅草橋際の順序で殖えて行き今から十年前がビヤホールと

云ふ名前の全盛期、それから追々此の名がカツフエー、バーに征服されて今日となつたの

だ…(後略)…」78

この記事の整理によると、ビアホールジャンルに起源するホール概念は、明治期のものであ

り、大正期には、代わってカフェーやバーが登場し、ビアホールジャンルを併合している、と

いう。この認識は、ビアホールやホールジャンルが、カフェージャンルの先駆形である、とい

う同時代の観測を第一には示している。時代的変遷は、「十年前がビヤホールと云ふ名前の全

盛期、それから追々此の名がカツフエー、バーに征服されて今日となつた」とまとめられる。

10年前というと 1906 年であり、日露戦争終結直後だ。今回は分析しないが、バーというジャ

ンルも実はカフェーと関連して重要であることもわかると思う。第二に、かつて盛んだったビ

アホールジャンル下の個別店舗が、この時点でカフェーやバーのジャンルに再解釈されて編入

された、とみている。日本初のビアホール「恵比寿ビヤホール」の後継「新橋カッフェ」はそ

の典型的事例だった。要するにジャンル間競争で、カフェーがビアホールに勝った、と見られ

ており、それが大正期の様相と認識されている。

以上、ビアホールジャンルとカフェージャンルの関係について、資料をたどりながら考えて

きたが、カフェージャンルとその先駆としてビアホールジャンルとの異同はどのように了解さ

れるのか、ということについて仮設を示しておこう。類似する側面は、第一に、両者ともに商

品が西洋的飲料中心である、という点にある。第二は、両者でともに洋食も提供されるという

点にある。79 ここで、さらに先駆形である西洋料理店を考えると、そこが「食」に重心が置か

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― 104 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

れていたのに対しビアホールやカフェーは「飲」に重心があったと整理できよう。第三は、男

給仕あるいは女給仕がいて飲食を運んできたり注文を取るという点で、これもビアホールとカ

フェーに共通する。80 そして、第四は、往来からそのまま入店して飲食空間に入りイスとテー

ブルを使用して飲食するという点である。いわゆる簡便さに通じる点であり、また、これは客

層の平等性を進めることともつながる。こうしたことからより広く見ると日本的・伝統的「料

理屋」ジャンルとビアホール ・カフェージャンルは、対立的であった、という構図も見えてく

るであろう。81

以上を考えると、ビアホールジャンルとカフェージャンルの間に特に大きな差異がないよう

に思われる。しかし、実はジャンルを支える一要素である「コンテンツ」「物語」「イデオロギー」

が、両ジャンルを分化させた可能性が高い。そこに大きな差異がありそうなのだ。ビアホール

には強烈な物語がない(あるいは現時点で忘却されている)のに反し、カフェージャンルに関

する「コンテンツ」は、欧州のカフェについての情報から強力に、また、魅力的に形作られて

いった。

次にその点を簡単に検討しよう。

3-3 プレカフェー期 ― 欧州へのあこがれ

欧州のカフェについての情報は、明治前期に、欧米への留学生などからもたらされていた。

有名な例としては、森鷗外の「舞姫」82 をあげることが出来る。そこでは、「休息所」という

名でカフェが描かれている。「小をんな」が給仕をしていることも記され、ベルリンのカフェ

に女給がいたことが伝えられていた。

「舞姫」に続く「うたかたの記」83 では、ミュンヘンの美術学校の向かいにある「カツフエエ、

ミネルワ」から物語が始まり、小説の終末にもその「カツフエエ」が登場する。このカフェで

の、美術学校生などによる、議論、遊び、社交が描かれており、そこに「カツフエエ」と芸術

の関係や「カツフエエ」という場の意味を読み込むことが可能だ。ジョッキに入ったビールを

数多く一人で運んでくる「胸当につゞけたる白前垂掛けたる下女」としての女給も見える。す

でに森鷗外の小説には、芸術的な交流場としての、芸術家や知識人のサロンとしてのカフェと

いうコンテンツや物語が組み込まれていたのである。

ところで、欧州のカフェ、特に、パリのカフェが、芸術家の交流空間であり、芸術作品を生

み出す強力な磁場である、とする観念が、明確に示されたのは、岩村透が、1901 年に『ニ六

新報』紙上に連載した「巴里の美術学生」84 によってであるという。85 ここではこの説をひと

まず採用しておきたい。

「巴里の美術学生」で示されたカフェ関連の「物語」は二つある。第一は、当時欧州での芸

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― 105 ―京都精華大学紀要 第四十号

術の中心 ・都とみなされていたパリにおいて、芸術の発展を支え促す場として、カフェが重要

な役割をもっている、というコンテンツである。第二は、その状況と比較して、日本の中心東

京には、芸術家が集まり交流できる場としてのクラブやサロンやカフェが、ほとんど、いや、まっ

たく存在しない、という観念である。86 こうした二つの物語に後押しされながら生み出される

のが、世紀末パリに興った文芸運動をモデルとする「パンの会」のムーブメントであった。こ

の「パンの会」の運動は、カフェーというものにある種のイデオロギー的なエネルギーを与え

た、と解釈できる。

パンの会の中心人物の一人木下杢太郎は、「パンの会の回想」の中でこう語っている。

「何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田など「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、

日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調といふものがないが、さういふ

ものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関

する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻

訳などからの影響で、パリの美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつ

たのだつた。

…(中略)…

当時カフエエらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかつた。それ

で僕は或日曜一日東京中歩いて…(中略)…とに角両国橋手前に一西洋料理屋を探した。

最初の二三回はそこでしたが、その家があまり貧弱で、且つ少しも情趣のない店であつた

から、早く倦きてしまつて、その後に探しあてたのは、小伝馬町の三州屋といふ西洋料理

屋だつた。…(中略)…

その後深川の永代橋際の永代亭が、大川の眺めがあるのでしばしば会場になつたのである。

また遙か後になつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン、コオノス」と称して異国がつた。

…(以下略)…」87

芸術的場としてのカフェ、あるいは、そうしたものを支える「カフエエ情調」という観念が

パンの会結成にとって重要であったことが語られ、カフェ的なものを読み込める西洋料理店が

木下によって探査されたことが分かる。このカフェとアートが結びつくというコンテンツが、

カフェープランタンにもあったことは、その初期から気づかれていた。『東京朝日新聞』記者

大食漢(松崎天民)は、「プランタンには現代張つた文学的の臭味あり」 とこれを表現する。

より詳細には「文芸趣味」「人生問題」「恋」「デカダン」という雰囲気を見てとる。88 そうし

たコンテンツや物語をカフェープランタンは提供するのであり、それがまた、強弱はあるにし

ろ一般にカフェーに結びついていたのである。

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― 106 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

「巴里の美術学生」から「パンの会」を経て「プランタン」にいたる東京でのカフェージャ

ンルを生成する要素としての物語の系譜を簡単にたどってみたが、大阪でも、回想などを見る

限り、同じような心性が形成されていたらしい。89

ただ、ここでは、もう一つ別の例としてカフェーについてはこれまで注目されたことがない

京都を少し見ておきたい。

京都では、1910 年末に、美術家を中心にして黒猫会という集団が結成された。黒猫すなわ

ちフランス語の「シヤノアル」に対応するのだが、この名前の由来を地元の『京都日出新聞』

は次のように伝えた。

「▲此シヤノアルには中々皮肉なる由来がある仏國巴里の魔窟モンマルトルにシヤノアル

と云ふ家号のカフエーあり茲には曽つてルドルフ、サリスと云ふ男が住んで居て画かきに

なりたいと画を習ひたるも親がゆるさず遂にシヤノアルと云ふ銘酒屋を初めて画かきや詩

人の若いすね者を盛んにあつめて所謂シヤノアル連を作りシヤノアルと題する雑誌を茲に

発刊して大に天下の耳目を耳を聳だてしめたそれ面白しといふことで黒猫会と付けたの

だ」90

芸術の都とされたパリにおけるカフェの物語が京都においても発動していたことが分かる。

この物語の発動は、土田麦僊、小野竹喬、津田青楓、秦テルヲなど 11名の若手芸術家が参加

するグループ ・黒猫会の結成となったのだ。美術史の立場から、また、一般的にはこのことは

京都における日本画革新運動や芸術潮流の問題とされるのではあるが、カフェージャンルを結

晶化させる物語が京都においても働いていたことを示す動き、と考えることもできるのである。

3-4 カフェージャンルの定着へ ―― 新聞の役割

本来ならば、プレカフェー期の第三の要素として、西洋的飲食素材の流通や普及も扱わない

といけないのだが、現時点では準備がまだ整っていない。今後の課題とすることにし、カフェー

ジャンル出現と定着において決定的な働きを果たした 1911 年夏の、『東京朝日新』連載のルポ

をここでは取り上げ、簡単に分析したい。

カフェーライオンが開店したのは、1911 年 8月 10日である。それからおよそ 2週間、同じ

月の 27日に、『東京朝日新聞』は、「カッフェ―」という連載ルポを初めた。筆名は「大食漢」、

すでに何回もふれているが、探訪記者であり現在ジャーナリストとして再評価されつつある松

崎天民である。

この連載は次のように進行する。

Page 12: ジャンル「カフェー」の成立と普及(2) - Kyoto … › researchlab › wp › wp-content › uploads › ...― 98 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

― 107 ―

第一回:「カッフェー(一) △銀座街頭の獅子吼」:『東京朝日新聞』1911 年 8月 27日号朝

刊 6面に掲載。91

第二回:「カッフェー(二) △西洋人の苦い顔」:『東京朝日新聞』1911 年 8月 28日号朝刊

6面に掲載。92

第三回:「カッフェー(三) △日本三灰殻の二人」:『東京朝日新聞』1911 年 8月 29日号朝

刊 6面に掲載。93

第四回:「カッフェー(四) △描出す貨幣不足党」:『東京朝日新聞』1911 年 8月 30日号朝

刊 6面に掲載。94

第五回:「カッフェー(五) △酒の香と文芸趣味」:『東京朝日新聞』1911 年 9月 5日号朝

刊 7面に掲載。95

第六回:「カッフェー(六) △十銭美味い喫茶店」:『東京朝日新聞』1911 年 9月 6日号朝

刊 7面に掲載。96

新進のライオンのルポから連載は始まるのだが、導入として欧州の「カッフェ―」について

すこし語られる。はっきりは示していないが、二つのタイプがあると筆者が了解していたよう

に読める。

ひとつめのタイプでは、「芳醇な茶と強烈な酒を出すのが主で、料理には重きを置いて居な

い」。「妙齢嬋妍たる美人が居て、変な眼つきをしたり、仇な身振りなんかして、折柄弾ずる歓

楽の曲か何かに調子を合せて、唄つたり飛んだり跳ねたり夢か現かの歓楽街を現出する」とこ

ろ、とする。舞台でのダンスや歌の催しを指しているようである。大食漢はこれを「性慾」的

と意味づける。つまり、「カッフェ―」には性的側面がある、と既にこの時点で解説していた、

と言えよう。97

ふたつめのタイプは、「ホンの散歩のついでに、コーヒー一杯か麦酒一杯を飲みながら、夏

の日の暮方を楽く過す」ところ、とする。この場合、「コーヒー一杯」に限定するならば、の

ちに析出する喫茶店ジャンルと似たものであることもわかる。98

このように、この記事からは、「カッフェ―」の内実の多様性を示した見方、あるいは、カフェー

を狭く限定しない捉え方が見て取れる。ジャンルとしてのカフェーは、初めから、こうした多

様な要素を含みこむことが出来るものとして、一般に示されていた、ということができよう。

このルポからは、開店当初のライオンの様子が非常によく了解できるのだが、その点の分析

等は別の機会に譲るとして、著者の大食漢がとっている基本的姿勢をまとめておきたい。大食

漢は、カフエーのオリジナルは欧州にあり、そのオリジナルと比較することで、ライオンを分

析批判している。本人に洋行の経験はないとして、洋通の友人から聞いた情報をもとに、それ

京都精華大学紀要 第四十号

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― 108 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

をおこなうのだ。日本の場合、空間が狭い、とか、「カフエー的共同遊楽の気分」が欠如して

いる、とか、欧州的カフエーのルールが浸透していない、とか、カフエーというよりレストラ

ン的だ、とか、批判というよりも非難を様々投げかけている。その上で結論的には、もっと簡

易性を徹底し安価にすべき、というアドバイスめいた発言で、ライオンについての 3回のルポ

は閉じられる。

この 3回の報告に続いて、「日本の首都におけるカフエーの嚆矢」としてのプランタンの紹

介 ・記述に移る。プランタンは 2回取り上げられるが、こちらでは、主に、そこへやって来る

文化人の客筋に焦点が当たっている。ゴシップネタ的なものを拾ったりするところは、のちの

新聞報道を予告するものでもあろう。それよりも重要なのは、第五回連載の最後に「日本東京

のカフエーは、今の所僅に此の二つ」と語っているところであろう。大食漢の認識では、この

時点での日本の「カッフェ―」は 2店舗しかない、ということなのだ。99

にもかかわらず、最後にもう一つ別な店をルポする。「カフエーを標榜せずして、カフエー

的のお手軽な所」としての「台湾喫茶店」である。この台湾喫茶店に関しては、大食漢も気に

いったらしい。「これが若しカフエーを標榜して盛にカフエーがるに至らば、欧通の面々随喜

して、真のカフエーは此処なんめり、など、繁昌する」であろう、と述べている。100

さて、この台湾喫茶店についての捉え方は意味深い。まず、大食漢の認識では、当時カフェー

は東京に 2店しかなかった。いずれもカフェーを標榜している。つまり自称カフェーであり、

屋号にも「カフェー」が組み込まれていた。ところが、台湾喫茶店の場合、大食漢の表現によ

れば、「カフエー的のお手軽な所」である。にもかかわらずカフェーを標榜せず、屋号にも組

み込んでいない。「カフエー」ではなく、あくまで「カフエー的」なのだ。

これは、カフェーというジャンルがあれば、そのジャンルに台湾喫茶店も入れることが出来

る、という認識と読みかえることができよう。そのことは、もし台湾喫茶店が、例えばカフェー

台湾と名乗ったとするならば、「真のカフエー」になる、すなわち、カフェージャンルの標準

的 ・理想的個別店舗になる、という把握とつながる。大食漢は、ジャンルという言葉こそ使用

していないが、「カッフェ―」が、起源を欧州に持つと想定された、飲食店の新しいカテゴリー

であることは、理解していたと言えよう。また、そのことは明らかに読者へも伝わったと思わ

れる。

このようにして、この記事は、プランタンとライオンというただ二つのカフェーを紹介し、

また、カフェー的な台湾喫茶店を評論することで、「カッフェ―」が新しジャンルであること

示し、また、その形式や内容を明らかにしたのである。

最後に大食漢のカフェー出現の原因に関する意見も聞いておこう。大食漢によれば、「カフ

エーが出来る」背景として三つのことが考えられる。その一として、日本文化で「ハイカラ風

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― 109 ―京都精華大学紀要 第四十号

が増長」してきた表れがカフェーであるかもしれない。つまり、洋化 ・欧化の実現であり象徴

なのだ。その二としては、「簡易生活を喜ぶ」という傾向の具体化であるかもしれない。複雑

なルールがある外食形態が嫌われ、簡単にアプローチできる外食空間として人気を博している

可能性がある、としているようだ。その三、「不景気の一現象」かもしれない。より安価な消

費形態として支持された、ともいえる、と見てもいた。101

示唆的な分析ではあるが、残念ながらいずれに重心があるか、また、それぞれがカフェーの

出現とどう関係するのか、といったことは語っていない。ただ、カフェーが新しい現象であり、

しかも、その新現象の背後の構造をつかみたいという欲望をもたらすような新現象であった、

ということがここから理解できるだろう。102

4.カフェージャンルの展開 ―― 1911 ~ 1914 年、京都

これまでに、カフェーというジャンルが、いかに出現したのか、という点について、ごく簡

単にその図柄をたどってきた。最初にも述べたように、これ以降のカフェージャンルの展開は、

東京と大阪という二つの中央でたどられるのが普通だ。しかし、ここでは全く別の都市を選ん

でみたい。

カフェージャンルのコンテンツ・物語について検討した時に、1910年の京都の事例にふれた。

欧州のカフェに関する情報と、カフェと芸術の強固な結びつきというコンテンツは、東京と大

阪にだけ流入したのではなかった。カフェージャンル形成直前にカフェの物語が発動していた

京都、そこにおけるカフェーの展開動態を素描しよう。ただし、通史的に展望することは資料

と紙面の関係で出来ない。京都におけるカフェージャンルの初期の様相が焦点となる。

4-1 1911年、カフェージャンルの京都への影響

京都におけるカフェージャンルの展開については先行研究がないわけではない。103 しかし、

それらは、あまりにも簡単な記述であり、資料の扱いも時代的制約もあってかなり心もとない。

ここでは、その批判的検討は行わず、現在調査が継続中ではあるが、今までに遭遇した記録を

もとに、カフェージャンルの生成時から 1914 年はじめまでの大まかな図柄を提示する。

すでに述べたように、1910 年時点で、京都でも、カフェと芸術のつながりに関する物語は、

地元メディアで取り上げられていた。104 カフェージャンルが東京で形成された 1911 年、京都

メディアにも、カフェーあるいはカフェージャンルに言及する記事が複数登場する。そのうち

三つを取り上げ検討しておく。

最初は、1911 年 5月 18日に掲載された、中木生による「警鐘」という投稿記事である。こ

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― 110 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

の投稿には京都の近代化を進めることを主張する中木生の意見がつづられている。中木生によ

れば、「今や京都市発展の最絶好時」であるという。そこで、市民が互いにアイディアを出し

合い検討することで「新たなる大京都市を建設する」可能性が出てくるとする。中木生も自分

の「企図」を投稿し広く公開して、議論を開始し、また、議論に参加しようというのである。

中木生の「企図」は系統的なものではなかった。箇条書き的に九つのアイディアが並べられ

たものである。すべて観光都市、当時の言葉でいえば遊覧都市としての京都の発展に資すると

想定されたものだ。最初にあげるのが「円山ケーブルカー」で、「香港のそれにも劣らぬ程」「立

派なもの」を造ってはどうかと論じる。その次に提案されるのが「カツフエー」である。

「○カツフエーも可也、尤も之も外人向のみならば引合はぬ話にて市民もドシドシ出掛ね

ばならず、そうするには下劣なる京都市民の趣味を今少しく向上せしむるの要あり」105

ここではなぜ「カツフエーも可也」なのか、理由は明示されていない。また、中木生が「カ

ツフエー」をどのようなものと捉えていたのかも詳細は明らかではない。ただ、基本的に「外

人向」と認識している。また、「下劣なる」「趣味」とは相反するもの、と捉えられていた。西

洋的で、品位ある空間 ・施設と認識していた、とまとめられる。

また、「カツフエー」が京都の発展のためになる空間 ・施設と考えられていたということも

重要かも知れない。少なくとも中木生にとって当時の京都には「カツフエー」は無い、また、「カ

ツフエー」自体新しい何ものかであり近代化を進める動力源になりそうなものだった、といえ

よう。ただ、ジャンルとして認識していたかどうかはわからない。明確には示されていないの

である。おそらくだが、このあたりの「カツフエー」認識が、先端を知る京都の人々の一般的

感覚だったのではなかろうか。

もう一度確認しておこう。1911 年の 5月時点で、一般的には、京都に「カツフエー」なる

ものは、存在していなかったのである。

さて、二つ目の例は、中木生に比べると、はるかに重要な記事である。1911 年 11月 7日の『京

都日出新聞』に掲載されたエッセイ、あるいは、小説である。「大阪の一友へ」と題されていた。

著者は「てるを」とある。異端の画家とのちに称される秦テルヲであろう。当時の秦テルヲと

『京都日出新聞』の関係、および、内容から考えてそう推測される。ここでは「てるを」は秦

テルヲである、という想定で考えて行くことにしたい。

関連部分を少々長いが引用しておく。

「◎大阪の一友へ

…(前略)…君が京都を去りて後の出来事とては寺町の変わつた事や京極に盛んに活動写

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― 111 ―京都精華大学紀要 第四十号

真が出来た事位なれども、其内で寺町にカツフエーの出来たしかし其とてもパリーあたり

にありときくカツフエーの如く美人が居るでもなくデカダンな空気とは没交渉の云はゞ殺

風景な茶店に過ぎず小生如き激しい色と強い線に憧がれ居るものには兎ても満足の出来ざ

るものにて先づ大学の倫理教授が奥様や小供を連れてハイカラ風を吹かすのに都合好き位

いのものにて候、それから思へば吉田のカツフエーにはウヰスキーもあればブランデーも

あり日本酒もある丈け面白味も有候殊に室内には有難涙の出る様な油絵が二枚も掛けある

など誠に興を殺ぎ申候…(後略)…」106

これは、秦テルヲが、「カツフエー」をある位置づけを持ってとらえていた、という記録と

してはなはだ重要である。本稿はテルヲの思想や芸術を論じるのが目的ではないので、その点

についての分析 ・考察は別の機会に譲るが、初期のテルヲの思想自体を考える、また、彼とカ

フェーとの関連を推測する手掛かりになるテキストであることは間違いない。

とはいえ、ここでは、京都におけるカフェージャンルのことに限って考察しておきたい。

第一に気付くのは、てるをによると、この時点で京都に少なくとも二つの「カツフエー」が

あった、という。一つは「寺町」の「カツフエー」であり、もう一つは「吉田のカツフエー」だ。

それぞれカフェーを標榜していたのか、店名にカフェーが組み込まれていたのか、その点は不

明だが、「カツフエー」に一定の意味を見出すてるをの視線には、この二軒が「カツフエー」

として映じていた。

第二に、この二軒は、ほぼ対照的な性質をもつと捉えられていた。「寺町」の「カツフエー」

は、「デカダンな空気とは没交渉」で、「大学の倫理教授が奥様や小供を連れてハイカラ風を吹

かすのに都合好き位いのもの」であり、「有難涙の出る様な油絵が二枚」もある所だ。これに

対し「吉田のカツフエー」は酒が充実し「ウヰスキー」「ブランデー」「日本酒」がある。それ

だけ「面白味も有」る。ややデカダン的と考えたのかもしれない。性質 ・性格の異なる「カツ

フエー」が京都に 1911 年時点であった可能性があり、また、カフェージャンルにおける多様

性が示されていた、と解釈も出来る。

第三に、「カツフエー」の理想形 ・モデルとして、「パリーあたりにありときくカツフエー」

があげられ、そこには「美人」がいて「デカダンな空気」が漂っている、と見ていた点も重要

だろう。これは、黒猫会の名称がパリのカフェの名前からとられたのと共通する枠組みである。

明示的ではないが、「カツフエー」につながる物語をてるをも求めていた、ということではな

いか。

そして、第四に、全般から考えて、てるをは「カツフエー」をジャンルと扱っていることも

読みとれるのだ。

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― 112 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

つまり、カフェーに芸術的意味を見出す秦テルヲからすれば、1911 年 11月の時点で、京都

には、ハイカラで非デカダンなカフェーと、ややデカダンなカフェーが存在していた。

ところで、てるをが批判的に評価する「寺町」の「カツフエー」であるが、寺町二条に当時

あった鎰屋のことと推測される。次に検討する三つ目の記事は、これに関連している。

この年拡築された寺町の記事が『京都日出新聞』に連載された。寺町沿いの各商店などが紹

介されていた。その第 11回で、鎰屋が取り上げられている。

「△商家細見記

二条下るへ移ると角が白波瀬季次郎(四十五年)…(中略)…商号鎰屋と云ふ京都第一

のハイカラの和洋菓子屋…(中略)…階上に京都随一の喫茶部が出来て「カギヤカフエー」

の名は新しい人々の口に能く上る階上へ昇ると日下部鳴鶴翁の「清談見滋味」の扁額と寺

松国太郎君の裸体美人が室内を飾り橄欖色のカーテンの配合が好い…(中略)…ニ階の喫

茶部に居るのが水口きみ(十六年)浦上しづ(十四年)の二人…(後略)…」107

これを見ると二条寺町の角に「京都随一の喫茶部」が出来た、とされていることが分かる。「新

しい人々」はこれを「カギヤカフエー」と呼んだらしい。寺松国太郎による女性ヌードの絵画

があり、女給も二人いたことも記録されている。108

この記事では、「「カギヤカフエー」の名は新しい人々の口に能く上る」というところがポイ

ントだ。記述を信頼するならば、1911 年末までには、京都の「新しい人々」は、カフェージャ

ンルを把握し、その京都における具体例として「カギヤカフエー」を認めていた、ということ

になる。

ここまでを、つまり 1911 年の京都とカフェーについてまとめるとこうなろうか。東京でカ

フェージャンルが形成されていた 1911 年の夏あたりまでに、京都でも、新しい、西洋的な場

としてのカフェーを求める声は出ていた。また、てるをのエッセイの内容が事実と対応すると

考えるならば、遅くとも 11月までには、京都にも「カギヤカフエー」と「吉田のカツフエー」

が成立するようになっていた。あるいは、この二店舗がカフェージャンルに入るものと読み換

えられた。そして、この年のうちに、カフェージャンルは、先端的人々の間では了解されるよ

うになり、また、人々から個別的カフェーであると認知されるような店や場が、京都にも生ま

れていたのである。

4-2 1912年、谷崎潤一郎など

てるをが言及した「吉田のカツフエー」と同一と思われる「カフエー」が翌年、1912 年初

めに、京都の「新開地」を探訪する記事で取り上げられた。まず、それを見ておきたい。ここ

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― 113 ―京都精華大学紀要 第四十号

では、新開地としての「吉田、岡崎、聖護院」が扱われている。周知のように、京都帝国大学

や第三高等学校がある文教地区であった。

「(前略)…神楽阪を中心として其の界隈に下宿生活をしている大学生や三高の生徒が一番

多く遊びに行くのは彼の神楽阪下南入るにある △吉田カフエー であらう吉田カフエーの

主人は中川長三郎と言ひ元は極く小さなミルクホールであつたのが追々金を儲けて今のや

うに佳なり美しい店を拵らへるやうになつたのだ是も学生諸君の愛顧の結果であらう細君

はなかなか仇ッぽい性質だが聞けば元は祗乙とやらのそれ者であつたとやら一般にこの辺

に住つてる学生は新京極などへ外出せずゴロゴロと下宿屋の二階に転がつてる余暇さへあ

れば此の吉田カフエーに行きコーヒーに西洋菓子をぱく付き大に気焔を吐く、其れだから

斯ふ言うカフエーなどでは他の鶏肉店などと違つて △売春婦を大学生 に世話するやうな

悪い評判もない、…(中略)…然し其の店の娘とか或ひは給仕が自分勝手に学生に恋する

のは此の限りにあらずだ…(後略)」109

「吉田カフエー」は、ミルクホールからの発展であることがまずわかる。コーヒーや西洋菓

子が商品であり、学生や生徒が「大に気焔を吐く」場であると認識されている。売春婦問題で

「鶏肉店など」との差異を指摘した個所からは、カフェーを記者の「あ」がジャンルとして認

識していることが分かる。

この記者「あ」は、いわゆる裏面探訪記事などが得意で、京都の性的側面を記録している。

そのため、ここでも、カフェーの性的側面にスポットライトが当てられている。買売春のあっ

せん所としてではないが、恋愛の発生所としては、カフェーが機能することを記者「あ」はす

でに指摘していたわけだ。

さて、この年の 4月、おそらくは、21日、谷崎潤一郎が、京都をはじめて訪れた。この日

から 6月の末まで、彼は、関西に居続けるのであるが、その滞在の記録を「朱雀日記」と題し

て『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に 4月 27日から 19回にわたり連載した。この「朱雀

日記」には京都のカフェーのことが出てくる。

4月 21日の午後 2時頃、京都の七条停車場に着いた谷崎は、土砂降りの雨の中、人力車を

大阪毎日新聞の京都支局に走らせる。三条御幸町角の支局では、「春秋さん」が待っており、

宿屋に案内する前にと、谷崎を昼飯に誘った。

「案内されたのは、麩屋町の仏國料理萬養軒と云ふ洋食屋である。近来京都の洋食は一時

に発達して、カツフエ・パウリスタの支店までができたさうな。此処の家もつい此の頃、

医者の住居を其れらしく直して開業したのだが、中々評判がいゝと云ふ。矢張日本造りの

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― 114 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

畳の上へ敷物を布いて、テーブルや椅子が置いてある。五坪程の奥庭に青苔が一面に生え

て、石灯篭の古色蒼然たる風情など、洋食屋には少々勿体ない。」110

「朱雀日記」のこの部分には、いくつかの興味深い事柄を記録されていた。まず、「カツフエ・

パウリスタの支店」が京都に出来ていた、ということを証言している。1911 年 12 月 12 日に

銀座に開店し、大正期に全国にブラジルコーヒーの香りと味を知らしめた合資会社カフェーパ

ウリスタの全国展開の一角とも推測されるが、詳細は不明である。111

次に、谷崎の認識としては、彼が案内された「麩屋町の仏國料理萬養軒」と「カツフエ・パ

ウリスタの支店」は、同じジャンルに入る、としていたように読める点も興味深い。いずれを

も洋食屋あるいは洋食系飲食店と把握していたのではないだろうか。この洋食系飲食店が、谷

崎の観測や伝聞によると、「近来京都」で「一時に発達」してきた、というのである。112

「洋食」の「一時」の「発達」は、おそらくカフェージャンルの展開と連動的と思われる。

そのことを裏付ける地元メディアの記事も存在している。1912 年 6月 10日のものだ。

「京都のカフヱ―

近頃京都市内にも追々と東京の真似をして学生や文士や美術家や新聞記者相手のカフエー

が出来て来た曰くカフエー、カギヤを始としてカフエー、ヨシダにカフエー、パウリスター

キヨウトにカフエー、ミヤコなどである△其の中二条寺町角にあるカフエーカギヤは最も

良い場所を占領してゐるのでカフエーミヤコのやうに芸妓や舞妓の出入はなく学生や文士

が多いが此のカフエーカギヤも最う少し発展策を講じてカフエーヨシダのやうに三田文学、

早稲田文学、中央公論、スバルなど文芸雑誌の外に色んな雑誌を備へ付けをして欲しい△

カフエーカギヤには若い女がゐる単にカギヤのみに止まらず何所のカフエーにも艶の良い

江戸ツ子の女がゐるがパウリスターの方は何うしても年増女で客に対する応接が下手いと

言つてカギヤにも余り学生仲間で八釜敷く言はれる女もなささうだ△カギヤのカフエー

メードの言葉になると毎日お越しになるお客は平均百人、其の中大別して見ると学生が

六十人で二十人が訳の判らぬ書生や美術家など、商売人と番頭などが十人、会社員が十人

で新聞記者も其の中であるげな△同じくカギヤのカフエーメードの話しに依ると同じ学生

でも三高が多く三高の生徒に限つてプリンやアイスクリームを好むとのことである、」113

ここでカフェーとして言及されているのは 4軒である。「カフエーカギヤ」「カフエーヨシダ」

「カフエーパウリスタキヨウト」「カフエーミヤコ」だ。「カフエーカギヤ」は、二条寺町角の

鎰屋茶房であり、てるをもふれていた。「カフエーヨシダ」は、てるをのエッセイに出てきた「吉

田のカツフエー」であり、記者「あ」がルポした「吉田カフエー」と推定される。「カフエー

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― 115 ―京都精華大学紀要 第四十号

パウリスタキヨウト」は、谷崎がいう「カツフエ・パウ

リスタの支店」であろう。第四の「カフエーミヤコ」は、

はじめて登場ということになる。

このテキストを読んですぐわかるが、中心的に取り上

げられているのは「カフエーカギヤ」である。114 しかし、

そことの対比で、他の 3軒の情報も読み取ることが出来

る。「カフエーヨシダ」では、「三田文学、早稲田文学、

中央公論、スバルなど文芸雑誌の外に色んな雑誌を備へ

付け」ているらしい。「カギヤ」は、それに対して文芸

雑誌のみ置いているようだ。「カフエーミヤコ」は、花

街に近いと思われる。そのため「芸妓や舞妓の出入」が

ある。対して「カギヤ」は、「学生や文士が多い」が多い。

「カフエーパウリスタキヨウト」は、「年増女で客に対す

る応接が下手い」らしく、他方「カギヤ」では、「若い

女がゐる」が、「余り学生仲間で八釜敷く言はれる女」

はいない。一般的にカフェーでは、「艶の良い江戸ツ子

の女がゐる」ことになっていた。

ここから、1912 年 6月辺りの京都におけるカフェー

ジャンルの存在形態の特色を、いくつか抽出できる。第

一に、カフェージャンルに分類されているが、店により

個性があり多様性があることが分かる。これは、当たり

前のことだが、カフェーを研究的に論じる時でも、この

多様性というものが意識的無意識的に排除されるので、

強調しておいてよいと思う。第二に、すべての店かどう

か判断は難しいが、のちに女給と呼ばれる存在が重要な

要素としてカフェーにすでに備わっていた。パウリスタは、男性の給仕を置くのを特色とした

が、京都「支店」の場合は異なる対応だったようだ。第三に、客は、男性中心で、社会的位置

でいうと「学生や文士や美術家や新聞記者」が多かったようだ。「学生や文士や美術家や新聞

記者」が、新しいもの、近代的なものに引きつけられやすいと仮設できるとすれば、社会的 ・

文化的先端の場としてカフェーが捉えられており、日本国内では、先端的である東京という都

市と強力なつながりをもってイメージされていたことも分かる。

こうしたカフェーに来ていた「美術家」は、カフェーそれ自体をも表現対象とした。地元メ

図2:「カフエーの夜」『京都日出新聞』1912年 7月 8日号

図3:「アイスクリーム」『京都日出新聞』1912年 7月22日号

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― 116 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

ディアにはそれを示すコマ絵も掲げられた。(図 2、図 3)115

このように、1912 年には、少なくとも 4軒のカフェーが京都にも出現していた。利用者は

学生が中心であったようだが、コマ絵から判断すれば、若い女性客もいたと考えられる。また、

「芸妓や舞妓」が顔を見せる場でもあった。個別の店舗としてのカフェーも、ジャンルとして

のカフェーも、こうして京都では定着を見ていたのである。

4-3 1914年、ルポ「カフエー巡」

1913 年も、京都ではカフェーの増殖は止まらなかった。もちろん消えたものもあるかもし

れない。しかし、たとえ閉店したものがあったとしても、それ以上に新規のカフェーが生まれ

た、と思われる。

京都でも新聞記者自体がカフェーの消費者とされていたが、彼らはまた、カフェー情報を発

信する側にもいた。『東京朝日新聞』が、1911 年 8月に、カフェーのルポルタージュ記事を載

せてカフェージャンル定着を決定づけたことはすでに述べたが、1914 年初めに、京都におけ

るカフェーのルポ ・紹介が地元メディアで試みられた。そこにカフェー増殖の様相も記録され

ている。

1914 年 1月 25日、『京都日出新聞』は「カフェー巡」という連載を開始する。担当記者は「井

生」。「井の字」とも。その第一回は、「▲京都のカフェーとバア」と題され、京都の全般的現

況から説き起こされた。

「旧い都のあらゆる旧いものは何れも痛ましい敗残の色を呈して居ます、然かも夫れさへ

まじまじ見て居ると片つ端より次第々々に形を消して仕舞ひます、そして一方にはグング

ン新しい物が文明の風に煽られ、時代の潮に推されて現れて参ります」116

井生は、当時、京都で、旧態的ものが消滅し新進的ものが出現している、と一般的に社会の

動向をまとめている。新進的ものは「文明」の象徴や表現として、あるいは、文明そのものと

して京都の街に登場している、と把握した。具体的に目に見えるものとしてあげられたのが「シ

グナル」「トロリー式小型電車」「デムラ式の自動車」「十二間幅道路」だった。

井生によれば、この変化は急激であり、「三四年前の京都を知つてる人が現今の京都を見た

ら必ず其の変遷の急なのに驚く」ほどだという。最近の出来事なのだ。この変化の要因につい

て、彼は、「市三大事業完成」に帰していた。117 その上で、三大事業完成と相即的な新進のも

のの登場のひとつの事例として、カフェーやバアの出現を位置づけた。

カフェーは飲食に関係する。その飲食をめぐる当時の時流について井生は面白い例をあげて

論を展開していく。

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― 117 ―京都精華大学紀要 第四十号

「円山の芋棒に舌鼓打ち祗園豆腐に熱燗を呼ぶものも漸く少くなり、今では其の本家の中

村屋、平野屋さへ洋食で売り出してゐると云ふ時勢です、新京極からの芝居の閉場や散歩

帰りの人は極つて饂飩屋か善哉屋へ這入つたものですが今は「君一寸一皿付き合い給へ」

と云ふ様になつてレストランやカフエーとか書いた片仮名の看板の所へ入つて行く者が多

くなつて来たのです」118

旧態の飲食を「芋棒」や「祇園豆腐」に象徴させ、新進のものを「洋食」とおく。また、飲

食店ジャンルでは、饂飩屋や善哉屋を旧態の例として、新進のジャンルをレストランやカフェー

としている。その上で、洋食がはやり、カフェ―などの「片仮名の看板」のジャンルが人気に

なっていると当時の京都市の状況を報告した。洋食の増殖に関しては、2年前の谷崎と同じ認

表4:「カフエー巡」で紹介言及された1914年時点での京都のカフェーとバア註:「*」は、現在も関係する店等が京都に存在している事例 119

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― 118 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

識である。

井生は、さらに洋食系のジャンルのうちでも「一昨年頃より此の頃に懸けてバタバタと出来

たのが」「カフエーとバアとです」として、当時あった 14軒のカフェーやバアを列挙した。そ

の上で、「カフエー巡」の第二回から具体的に個別店をルポしていく。「カフエー巡」は、結局

2月 12日まで、14回連載された。紹介 ・言及された個別店舗については、「表 4」にまとめた。

「表 4」から分かることが幾つかある。一つ目として、1914 年 2月現在で、カフェーやバア

というジャンルに分類可能な個別店舗が、京都に少なくとも 19軒存在していた、ということだ。

1912 年 6月に確認されたカフェーが 4軒であるので、ジャンル的比較が可能と仮設した場合

には、5倍近い増殖である。その時言及された、「カフエーヨシダ」と「カフエーミヤコ」に

当たるものはなく、この 2軒は廃業したのかもしれない。

二つ目は、開店 ・開設年が分かるものを見ると、1913 年中のものが 7軒であり、約 64%、

リスト化された全店舗の 3割以上に当たり、おそらく 1913 年に大増殖が起きたのであろう。

これはカフェージャンルという視点から見ると、ジャンル登場 2年で、カフェージャンルが京

都市内では一般化した、ということを意味するといえよう。また、経営者サイドからすれば、

消費者のカフェーへの嗜好を読みとった開業ラッシュということもできる。

「カフエー巡」の詳しい分析は、別稿を用意するとして、14回分を通読して読みとれる、京

都における、1914 年時点でのカフェージャンルの特質をまとめておこう。

第一に、提供される飲食物であるが、基本的には、酒と茶と食事である。いずれも洋風のも

のが主だ。ただし、当然のことであるが、個別店舗により、提供されるものに差異がある。

第二に、すべての店で、女性給仕がいる。萬養軒では、男性も給仕しているが例外的だ。ル

ポをした井生の興味関心によるのかもしれないが、女性給仕についての記載が多い。それによ

ると、女性給仕の人気が店の人気にとつながるという。また、女性給仕や女性経営者の前職に

も注目しており、かつて「仲居」をしていたものが多いとされている。この点は重要で、東京

中心のカフェー史では、カフェーによって女給というあり方が新しくでてくる、という記述を

通常とるが、『京都日出新聞』のルポなどを参照すると、カフェージャンル形成以前の日本的

・伝統的飲酒店や宿屋における女性従業員あるいはビアホールの女ボーイと類似の意味を、カ

フェー女給は、はじめ持っていた可能性も見えてくる。ここからは、カフェージャンルのエロ

ス性が、その初期から内在的なものであった、という見方も導かれるであろう。

第三に、客は、男性中心であり、記事中では女性客への言及はない。ただ、家族連れが来る

ことをルポしてもいる。男性客で一番多そうなのが、学生や美学校生である。なお、中村屋の

酒バ

場ア

には、中川四明も関係していたようで、京都の文化人と初期の京都カフェーの間のつなが

りは、興味深い主題といえよう。120

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― 119 ―京都精華大学紀要 第四十号

第四に、記述がある場合は、すべてイスとテーブルがそなわっている。なかには別室や別階

に座敷がある場合もある。大体は土足で入れるようだが、スリッパに履き替える少数派も存在

した。

第五に、若手の文学芸術活動 ・運動との関係も示唆されている。特に重要なのは、カフェー

タワーとカフェーミスで、秦テルヲや野長瀬晩花が顔を見せたり、その作品を飾ったりしてい

る。こうした当時の京都における芸術活動とカフェーの関係に関しても、別に論文を用意する

必要がありそうだ。

4-4 まとめ

この第 4節では、1911 年のカフェージャンルの形成から、1914 年初頭までのカフェーの展

開動態を、京都という都市を舞台としてみてきた。

1911 年の夏以前には、京都にカフェーはない、という認知が一般的であった。8月の東京で

のカフェージャンルの生成を受けて、カフェの芸術性の物語を希求する、例えば画家の秦テル

ヲの眼を通すと、京都の地にもカフェーが立ちあらわれた。具体的には、カギヤカフェー(鎰

屋)とカフェーヨシダである。いずれも、東京で台湾喫茶店が、カフェージャンル形成後に、

カフェージャンルへと編入されたのと同じ経過をたどった可能性がある。

1912 年 6月になると、少なくとも 4軒のカフェーが京都では認知されるようになっていた。

そのうち、谷崎潤一郎も「朱雀日記」で言及する「カツフエ ・パウリスタの支店」は、カフェー

を標榜し、屋号にもカフェーを組み入れていたと推測される。この時点で、カフェーは、当時

の若い学生に人気となり、例えばカフェーミヤコの場合、女給の「須賀さんは此度三高の生徒

や何かに『花袋の女』と言ふ仇名を付けられた」と記事 121 にされる程になっていた。

翌 1913 年、京都でも、カフェーやそれに類似したジャンルであるバアが、個別店を増殖させ、

1914 年の 2月までに 19軒を数えるほどになっていた。この時点で、カフェージャンルの完全

な定着が京都でもみられたことが分かる。

こうしたカフェージャンルには、定義こそ存在はしないが、共同的な了解の枠は見て取れる。

洋風、あるいは、非日本風の茶 ・酒 ・飲料 ・食事を提供することがサービスの主軸となって

いること。休息 ・社交 ・情報の提供 ・交換という副次的サービス機能も持ち合わせること。支

払いシステムやサービスシステムが新しく、非伝統的(西欧的)なこと 122。街頭への公開性

と街頭への連続性を持ち、椅子机が設置され、不特定の人々が共存すること 123。芸術とつな

がり、独自のデザイン性が成立可能なこと 124。そして、自ら、あるいは、人々がカフェと名

指すことである。

ただ、カフェージャンルは京都で多義的で多様な展開も見せていた。特にカフェータワーは、

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― 120 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

日本カフェー史を考える上でも特異で重要な存在だった。井生は、「一等特色のある」カフェー

で、「京都のみならず現今の日本では唯一の考案であり構造である」125 とするが、誇張ではない。

むしろ世界的にも注目すべきカフェーとして位置づけるべきであろう。それは、天幕を張り移

動するカフェーであった。「遊牧の民」のカフェーなのだ。しかも、1913 年の 11月には、文

展に対抗する画家、秦テルヲと野長瀬晩花の作品展示を、京都の文展前で行った。その会場と

なったのがカフェータワーであり、この試みは、1914 年 11月にも「第四回テルヲ氏作品展覧会」

として再度挙行されることになるであろう。

5.おわりに

この論文では、前半部(前紀要掲載部)で、第一に、明治から昭和にかけて継続的に刊行さ

れた『東京市統計年表』に示されている「喫茶店」の経年変化の数値の内実を批判的に検討し、

1898 年から 1922 年までの「喫茶店」は、遊楽地における茶店 ・茶屋的形式の飲食空間であり、

1923 年以降の「喫茶店」で初めてカフェーや喫茶店がカウントされるようになった、という

解釈を提示した。この経年変化の数値を正確に認識することが、カフェーの日本における成立

と普及を考える上で極めて重要であることも論じた。ただ、茶店 ・茶屋の分析検討は、深くは

行っていない、という問題点を残している。

第二に、カフェーをジャンルという視点で考えると、これまでのカフェーについての歴史記

述といかなる点で異なるかを論じ、ジャンル的視点で見えるであろうカフェーの展開動態に関

しての仮設的図柄を提示した。それは、簡単にまとめると次のようになる。1911 年以前には、

ビアホールなどの新しい形態の西洋型飲食空間が広がり、カフェー的ものを準備した。また、

欧州における芸術と深く関係する場としてのカフェという物語も、先端的人々の間で普及して

いた。さらに、カフェで提供できる西洋的飲食物も十分に流通するようになっていた。こうし

た前提条件のもと、個別的なカフェーを標榜する店舗が銀座に現れ、カフェージャンル形成が

始まる。カフェーライオン開店直後に『東京朝日新聞』に連載されたカフェーに関するルポが、

カフェージャンル形成において決定的な力をもち、人々にカフェージャンルで/を消費する享

楽を提示し、カフェージャンルの定着を決定づけた。

後半部(本紀要掲載部)では、第三に、カフェージャンル形成の過程を、資料によりながら

実証的に明らかにした。まず、カフェージャンルの生成を簡単にテキストに沿って再構成し記

述した。次にビアホールと言う先駆ジャンルに着目しその役割を明らかにした。さらに欧州の

カフェに関わる物語の明治期日本における力を分析した。その時注目したのがパンの会の運動

であり、また、京都における黒猫会であった。そして、最後に、1911 年の 8月に 6回にわた

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― 121 ―京都精華大学紀要 第四十号

り連載された『東京朝日新聞』の「カッフェー」を取り上げ、カフェージャンルの定着のプロ

セスを微視的に記述 ・分析した。

第四にそれを踏まえて、1911 年のカフェージャンルの出現定着のあり方とその後の展開動

態を、1914 年初頭まで、京都を事例として記述 ・解析した。そこから見えてくるのは、カフェー

ジャンルの急速な一般化とカフェーや類似する飲食店の急速な増殖であった。さらに、カフェー

ジャンルの大枠が捉えられたし、その多義的な展開可能性も見ることが出来た。また、そもそ

も初めから、カフェージャンルはある種のエロス性を内在しており、それは、東京中心のこれ

までのカフェー史からは見えてこない、あるいはその構成段階で隠蔽されたものである可能性

も高いことも明らかになった。この点に関しては、飲酒系空間での女性「仲居」の存在が、カ

フェーの「女給」へとつながるという系譜をさらに考える必要があり、また、ビアホールでの

女ボーイの問題を分析する必要もあることが明らかになった。

本稿はあくまで予備的な、そして、仮設的な考察である。ここから、戦後の特殊飲食店概念

の意味まで至る道ははるかなものでありそうだ。今後も記述の空白を埋める作業と、カフェジャ

ンルを理論的に捉える作業の継続が必要である。

文献と註

65 無署名「徹底」『方寸』第5巻第3号、1911、p.14.(『「方寸」復刻版 第五巻第一号~三号』三彩社、

1973)

この第5巻第3号は、1911年の7月10日発行とされている。

以下、関連事項を参考のために注記しておく。

1910年の秋から冬にかけて書かれたと推測される、児玉花外による「ミルクホールの卓 ― 新聞縦覧

所と一品料理」というテキストがある。ここで彼は、「仏蘭西の酒カフエ

場もどき」という表現を使って、

当時浅草にあった、「ミルクホール」的な(つまり「ミルクホール」ジャンルに含まれ得る)「西洋料

理」の「一品料理許りの家」を描いた。そこでは、「真似だけの一品料理」が供せられる。「ウヰスキー

の瓶が棚に光」っている。「ビール」や「正宗」も販売している。「頭あたま

髪の安香水と白粉が匂ふ」女も

いる。その女は、「腰掛けて酌も為す

る」、という。これをみると、のちのカフェーに非常に近いものが、

カフェージャンル以前に存在していたことが分かる。しかし、児玉はそれを「仏蘭西の酒カフエ

場もどき」

と見るところまでは行くが、あくまでも「ミルクホール」あるいは「新聞縦覧所」のジャンルのもの

と認識していたようだ。また、あとで書かれる「銘酒屋」についての記述を見ると、「銘酒屋」と「ミ

ルクホール」の間にジャンル上の違いを見ているようにも読める。

児玉花外のこのテキストは、「仏蘭西の酒カフエ

場」と思い描くことが可能な人物によるカフェージャン

ル成立寸前の状況を示す貴重な記録と位置づけられる。「酒場」に「バア/バー」でなく「カフエ」

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― 122 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

とルビを振っている点も重要だろう。

児玉花外『東京印象記』金尾文淵堂、1911.(「近代デジタルライブラリー」を利用)

ところで、「ミルクホール」などは、小説中で表現されてもいた。「ミルクホール」に関しては、夏目

漱石の『野分』(1907)を、「正宗ホール」に関しては、国木田独歩の「号外」(1906)を参照のこと。

なお引用においては、本文でも註でも、旧字は出来るだけそのままにし、漢字に関しては適宜新字に

換えた場合もある。ルビは重要なものだけ残した。前論文でも同様である。

66 永井荷風「銀座」、野口冨士男編『荷風随筆集(上)』岩波書店(岩波文庫)、1986、pp.149-160.159頁

を参照。

67 同上、pp.157-158.

ところで、「銀座界隈には、已にカフェエや喫茶店やビイヤホオルや新聞縦覧所などいう名前をつけ

た飲食店は幾軒もあった」という記述はどうとらえればいいだろうか。私見を注記しておく。

まず「カフェエ」であるが、カフェー新橋のことと推測される。「喫茶店」は台湾喫茶店のことであ

ろう。「ビイヤホオル」と「新聞縦覧所」は複数存在していたのではなかろうか。残念ながら現段階

で特定することはできない。なお、カフェー新橋に関しては、本論文の「3-2 プレカフェー期 ― ホー

ルという先駆ジャンル」の部分を参照のこと。また、「新聞縦覧所」に関しては、註65の児玉花外の

テキストも参照のこと。

永井がいう「新聞縦覧所」だが、ミルクホール的なものであると思われる。初田も『カフェーと喫茶

店』(INAX出版、1993、(前論文(『京都精華大学紀要』第39号、2011)、註12)で、1913年から『東

京市統計年表』に加えられた分類項目の「新聞雑誌小説類縦覧所」を「ミルクホールを指していると

思われる」と述べている。(p.6)ただ典拠は示していない。

1908年に出版された一種の起業ハウツーもの『男女腕一本』(「近代デジタルライブラリー」を利用)

を見ると、「牛乳配達と牛乳売捌業」を説明したところで「ミルクホールは牛乳搾取販売の傍ら新聞

の二三種官報、新刊雑誌の一二冊もあれば出来る」と記述している。他方「新聞縦覧所と煙草商」の

説明では、「一体新聞縦覧所の目的は、ミルクなり菓子なりを食はして利益を取ると云ふ方である」

と書いている。1908年の時点で、「新聞縦覧所」と「ミルクホール」が同じ対象を指す言葉であった

ことがここから読みとれる。

ただし1905年ごろの『東京朝日新聞』などを参照すると、私娼を媒介する場としての「新聞縦覧所」

が、浅草方面に出来ていたということも分かる。

なお、読書装置としての新聞縦覧所に関しては以下のかなり詳しい論考がある。ただ、分析は、1870

年代と80年代前半に限定されている。

永嶺重敏『<読書国民>の誕生 ― 明治30年代の活字メディアと読書文化』日本エディタースクール

出版部、2004.

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― 123 ―京都精華大学紀要 第四十号

永嶺は、それ以前の著作で、明治末期から大正期にかけての読書装置としての新聞縦覧所に言及して

いる。風俗営業的なものとミルクホール的なものに分けて記述しているが、十分な考察分析を提示し

てはない。

永嶺重敏『モダン都市の読書空間』日本エディタースクール出版部、2001.特に、35頁から37頁を

参照。

68 『東京朝日新聞』1911 年 8月 7日号。

この記事も松崎天民が書いた可能性がある。

69 『東京朝日新聞』1911 年 8月 8日号。

70 『東京朝日新聞』1911 年 8月 9日号。

71 論文前半部(『京都精華大学紀要』第 39号、2011)の註 59を参照のこと。

72 高須梅渓『スケッチ文集 美文評論』岡村盛花堂、1912、pp.123-128.(「近代デジタルライブラリー」

を利用)

もう一つそう解釈できる事例をあげておく。

『読売新聞』の1911年 10月 20日号に載っている「街の一角」欄のエッセイ。そこには「カフエーに

も帝劇にも自働車の上にも貧乏人が富者振つたり、下素が上品振つたりする」という文章がみられる。

この著者は、新聞記者であるが、「カフエー」を「自働車」と同様にジャンル的に捉え、また、「帝劇」

と同様に1911年 11月の日本に実在するものと捉えている、と解釈できる。

73 『東京朝日新聞』1911 年 9月 16日号。

74 『東京朝日新聞』1909 年 6月 12日号、同年 7月 31日号、同年 8月 7日号。

75 『東京朝日新聞』1908 年 5月 3日号。

76 「サッポロビール株式会社HP」、「日本初のビヤホール 「恵比寿ビヤホール」」より。

http://www.sapporobeer.jp/story/beerhole/index.html(2011年 4月13日アクセス)

『読売新聞』1899年 8月6日号には次のような記事がある。

「●恵比寿麦酒の麦ビーヤホール

酒堂日本麦酒株式会社にては今度新橋橋詰に麦ビーヤホール

酒堂を開店し目黒の醸造場より新

鮮の恵比寿麦酒を取寄せ氷室にて冷却しコツプに盛りて客に供する由」

77 『読売新聞』1899 年 9月 21日号。

78 『読売新聞』1916 年 6月 16日号。

79 「●英人の無銭飲食(こんなのもある)」『読売新聞』1902 年 6月 24日号。

これを見ると、麦酒はもちろんウイスキーも注文出来たことが分かる。また、洋食も十数種類あった

ようだ。

80 「●日米の大破裂」『読売新聞』1902 年 4月 30日号。

これによると、1902年時点で、神楽坂にあるあまり大きくない「ビヤホール」で「女ボーイ」が給

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― 124 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

仕をしていたことが分かる。

81 伝統的な日本料理の「料理屋」ジャンルに関しては、以下の研究がある。

高田公理編『料理屋のコスモロジー』ドメス出版、2004.

82 森鷗外「舞姫」『舞姫/ヰタ ・セクスアリス 森鷗外全集Ⅰ』筑摩書房(ちくま文庫)、1995、pp.7-

35.

「舞姫」の初出は、1890年 1月である。

「休息所」という記述は、1911年 8月 8日のカフェーライオンの開店を予告する記事にも使われてい

る点は重要かも知れない。また、永井荷風が「銀座」(1911)で、「適当な休み場所」と表現すること

とも通じている。

森鷗外のドイツでのカフェ体験とその背景に関しては、以下のきわめてすぐれた研究がある。ただ、

その示す方向を本稿では反映できてはいない。

美留町義雄「ベルリンのカフェにて ― 「バウエル茶店」と鷗外」『大東文化大学紀要』46号、2008、

pp.115-137.

83 森鷗外「うたかたの記」『舞姫/ヰタ ・セクスアリス 森鷗外全集Ⅰ』筑摩書房(ちくま文庫)、

1995、pp.37-64.

「うたかたの記」の初出は、1890年 8月である。

のちに斎藤茂吉は、ミュンヘンの「カフェ・ミネルワ」をミュンヘンで探しまわったことについてエッ

セイに書いている。

斎藤茂吉「カフエ・ミネルワ」清水哲夫編『珈琲』作品社、1991、pp.23-27.

84 岩村透「巴里の美術学生」岩村透著、宮川寅雄編『芸苑雑稿 他』平凡社(東洋文庫)、1971、pp.3-44.

『ニ六新報』の初出は参照しなかった。

単行本の『巴里の美術学生』は1902年末に出版されている。

なお次註で言及する野田宇太郎は、『巴里の美術学生』の書誌として、以下のように記載している。

「芋洗生『巴里之美術學生、外ニ美術談二』畫報社、明治三十六年一月」

この註で1902年としたのは、「NACSIS Webcat」の情報による。現物を見てはいない。

85 「巴里の美術学生」についての位置づけは、野田宇太郎の研究を参照している。なお、岩村透に関

しては、龍土会の問題もあるとされるが、今回は考察分析の射程をそこまで広げることはできな

かった。龍土会に関しては、最近、以下の石丸による労作により、追体験が可能になった。

野田宇太郎『日本耽美派文学の誕生』河出書房新社、1975.

石丸志織編「龍土会関連年譜考」『Sym .』3号、2010、pp.5-97.

86 同上(野田)、pp.16-17.

87 木下杢太郎「パンの会の回想」清水哲夫編『珈琲』作品社、1991、pp.93-99.

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― 125 ―京都精華大学紀要 第四十号

初出は、1927年 1月発行の『近代風景』の第2巻第1号。

この回想が執筆されたのは、1926年末のことである。15年以上前の「パンの会」運動の回想であるが、

日記などの資料を参照しながらの記述であった。

88 『東京朝日新聞』1911 年 9月 5日号。

89 明石利代「大阪の近代文学」小島吉雄他著『大阪の文芸 毎日放送文化叢書 10』毎日放送、1973、

pp.283-370.

特に第4節「四 カフェー文化期」(pp.328-345.)。(前論文、註8でも引用)

橋爪節也「カフェで夢を語った」『大阪人』54巻10号、2000、pp.23-27.

増田周子「大阪におけるカフェ文化と文藝運動 ― 明治末から大正初期を中心として ―」竹村民郎・

鈴木貞美編『関西モダニズム再考』思文閣出版、2008、pp.222-244.

代表的な回想資料としては以下の二つの文献がある。

鶴丸梅太郎「道頓堀のカフエー黎明期を語る」『上方』1932年 10月号、1932、pp.39-42.

寺川信「大阪カフヱ源流考 ― カフヱを中心としたる大正初頭の大阪文藝運動」『上方』1933年 3月号、

1933、pp.47-52.

90 『京都日出新聞』1910 年 12月 23日号。

これ以前の『日出新聞』にも、カフェと文学や芸術の関係に言及したものがある。京都帝国大学など

教育研究機関が集まる「吉田」を扱った記事だ。以下引用し注記しておく。(「●吉田町だより」『京

都日出新聞』1910年 9月7日号)

「▲学校町に必ず付属するものはミルクホールなり各店舗には新聞又は新刊雑誌を備へ欧米の名画等

を額に掲げなかなかハイカラなるものもあり…(中略)…彼の欧羅巴のカツフエが若き芸術家の集合

所となり青白き×光灯の下に強烈なる洋酒を呷いで談論風発する×チムウングは書籍に之を読み洋行

帰り人に直接聞きし所なるが西洋に於ける文学の新運動が大廈高楼に出でずして屡々カツフエより起

る維納の或るカツフエよりグ××ンスイドル文学が生れたのは有名なる事実なり吉田町のミルクホー

ルを以て直ちに西欧の夫に比較すべくもあらねど確に其気分が潜在せるを見る吉田町のミルクホール

研究などは頗る興味あるべしと嘗て仏蘭西に遊びたる某教授の物語れリ」(引用文中の「×」は判読

困難な字を指す。)

ここでは、まず、地方新聞にカフェと芸術運動や「文学の新運動」の関連が認識された記事が出てい

る点が注目に値する。次に、カフェとミルクホールが並行関係の制度とみなされている点も興味深い。

ただ、カフェは「欧羅巴」のもので、現実の京都の吉田にはミルクホールジャンルの諸店舗がある(し

かない)、という対比的視線が示されている。つまり、京都、あるいは、日本にはカフェージャンル

は成立していない、という認識を逆に読みとることができそうだ。三つ目として、「カツフエ」の情

報が、「書籍に之を読み洋行帰り人に直接聞きし所」から得られているという証言も重要であろう。

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― 126 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

このようにミルクホールが繁昌しているところで、かつ、新文学(芸術)発生の「気分が潜在せる」

ところでは、カフェージャンルが成立すると、ある個別店舗がカフェーと読みかえられていく可能性

が存在していた、と解釈できると思う。

なお、1910年 11月 26日号の『京都日出新聞』に掲載された「●吉田だより」では「吉田町には未だ

数人相寄りて自由に会話をなし得るカツフエだになし」と書かれている。カフェージャンルに入る個

別店舗の出現が待望されているにもかかわらず実現していないことを証言している。

もう一つ興味深いものに、1910年 12月 4日号の『京都日出新聞』に載った「J生」のエッセイ「断片」

がある。そこには「此の間友ルンフは伯林のカツフエから数人寄せ書の絵葉書を送つて来た夫を見た

時程ぼくはルンフのボヘミヤンライフを染々思つたことはなかつた、寄せ書の中には恁んな文字が

あった。/「ああ人間自然の情緒よ」/「アブサンに中毒したる女よ」/若き芸術家は花々しくつて

羨ましい。」という一文がある。

この「ルンフ」は、もしかするとパンの会にも関係したフリッツ・ルンプのことではなかろうか。た

とえこの「ルンフ」がフリッツ・ルンプでなかったとしても、ここに現われている感性は、カフェを

めぐる物語と関係している、と考えることができよう。

ルンプに関しては、1909年 10月 27日帰国の途につく、という記事が『読売新聞』1909年 10月 26

日号に載っている。また、以下の論考が知られている。

北原白秋「フリッツ・ルムプのこと」『近代風景』第2巻第1号、1927、pp.127-128.

ところで、この黒猫会の運動やのちの仮面会の運動をどう位置づけるかに関して關千代による重要な

指摘がある。

關は、「黒猫会(しやのある)・仮面会(るますく)は、明治末年の京都に興った小集会で、大正期に

華やかな活動をした国画創作協会の前駆的意味をもつ」とした上で、両会は「近代美術史上で、西欧

との交渉に於いても一つの興味ある関連性を示していて意義深い」とする。それは、「これらの会に

共通する頽廃的で、耽美的傾向は、十九世紀末葉パリに興った所謂カフェ文学運動に極めて似かよっ

て」いるからという。そうした理解のもと、黒猫会(と仮面会)を欧州の「カフェ文学運動」の「京

都」における「小さな余波」である、と意味づけた。

90年代以降、前世紀初めの京都における日本画の動向はかなり研究されて来ているが、關のこの意

味付けをより深く考察した論考に出会ったことはない。当方の勉強不足であると思うが、そうでない

とすれば、実に不思議である。

關千代「黒猫会・仮面会覚書 ―明治末年のおける京都画壇の一動向―」『美術研究』232号、1964、

207-218.

91 『東京朝日新聞』1911 年 8月 27日号。

92 『東京朝日新聞』1911 年 8月 28日号。

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― 127 ―京都精華大学紀要 第四十号

93 『東京朝日新聞』1911 年 8月 29日号。

94 『東京朝日新聞』1911 年 8月 30日号。

95 『東京朝日新聞』1911 年 9月 5日号。

96 『東京朝日新聞』1911 年 9月 6日号。

97 前掲新聞、註 91。

98 同上。

99 前掲新聞、註 94、95。

100 前掲新聞、註 96。

101 同上。

102 大食漢(松崎天民)は、「カッフェ―」の記事が好評だったためと推測できるが、この後、バー

とホールについてもルポを書く。『東京朝日新聞』に 9月 13日から 5回にわたり連載された。

①大食漢「バーとホール(一) △塵埃臭い亀屋バー」『東京朝日新聞』1911年 9月13日号。

②大食漢「パーとホール(二) △銀座裏に正宗加六」『東京朝日新聞』同年9月14日号。

③大食漢「バーとホール(三) △刺激の強い西村バー」『東京朝日新聞』同年9月15日号。

④大食漢「バーとホール(四) △女給仕の新橋ホール」『東京朝日新聞』同年9月16日号。

⑤大食漢「バーとホール(五) △謎蔵子迂呑巣の記」『東京朝日新聞』同年9月20日号。

書き出しは、「田舎出の大食漢、カフエー二三軒を歩いてより、大のハイカラ党になつた折柄、今度

はバーやホールを廻つて、飲だり食たりして来よとの結構な御命令」となっており、「カフエー」と

「バー」「ホール」にジャンル上の差を認めつつも、両者とも「ハイカラ」という点で同じという認識

を読みとれる。

なお、「カッフェー」の連載6回分と、「バーとホール」の連載5回分は、坪内祐三(筑摩書房)が編

集した『東京カフェー探訪』(≪リキエタス)の会)で読むことが可能である。(前論文(『京都精華

大学紀要』第39号、2011)、註59)

103 井上忠司「大正の世相」(第 6章第 4節)京都市編『京都の歴史』學藝書林、1975、pp.544-569.

本エッセイと関連して特に重要なのは、「カフェー・ミルクホール」(pp.558-561)である。そうした

場や空間の持った意味について非常に示唆的な視点が提示されている。

無署名「カフェー 」佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか編『京都大事典』淡交社、1984、p.190.

なお、以下の論文は、大きな事実誤認があるとはいえ京都におけるはじめてのカフェーはどこかとい

う問題提起も行っており興味深い。

矢野峰人「カフェー菊水」『洛味』第57集、1956、pp.36-38.

104 註 90を参照のこと。

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― 128 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

105 中木生「警鐘」『京都日出新聞』1911 年 5月 18日号。

東京でカフェープランタンが開店したのは、1911年 3月または4月であり、箕面にカフェーパウリ

スタ箕面店が出来たのが同年6月24日である。この記事はそのちょうど間に出たことになる。中木

生がプランタンに行ったことがあるかどうか、また、その情報を得ているかどうかは、残念ながら不

明。

なお1910年には円山ロープウエイ構想が存在していたようだ。

106 てるを「大阪の一友へ」『京都日出新聞』1911 年 11月 7日号。

秦テルヲに関しては、以下が基本文献であり、ここでも参照している。

笠岡市立竹喬美術館・東京都練馬区立美術館・京都国立近代美術館・日本経済新聞社編『異端画家秦

テルヲの軌跡:そして竹久夢二・野長瀬晩花・戸張狐雁…:デカダンから光明へ』日本経済新聞社、

2003。(前論文、註(3)でも引用)

107 『京都日出新聞』1911 年 12月 17日号。

108 鎰屋は、無くなったので、その歴史等不明の部分が多い。ただ、1929 年から 30年にかけて『京

都日出新聞』に「事業とその人」という記事が連載された。1930 年 1月 12日の「事業とその人(85)」

では、鎰屋とその主人が扱われている。そこでは、カフェー関連のことで、こう書かれている。

「…(前略)…明治三十二年からは洋菓子宣伝のため店内に茶寮を設けて顧客の吸収に努めた、

喫茶店が京都に出現したのはこの鎰屋が嚆矢であらう、爾来店舗改築と共に時代の好尚に順応し

引続き漸進的に向上の一路を辿りつつある…(中略)…鎰屋の現在の建物は明治四十五年の改築

にかかるものである…(後略)…」

この記事を信頼するならば、鎰屋は1899年に「洋菓子宣伝のため店内に茶寮を設け」たらしい。た

だ裏付けは取れていない。また、この1930年時点では、その「茶寮」を「京都」における「喫茶店」

の「嚆矢」と考える立場もあったことが分かる。

この論文で、あとで詳しく取り上げるが、『京都日出新聞』1914年 2月4日号では、「カギヤは如何か、

此店は京都カフエーで一番最初に出来たので明治四十一年の十月、現今の様に寺町が拡築されぬ以前

からカフエーを営業して居た」と紹介されている。この記事を信頼するならば、1908年 10月から「カ

フエーを営業して居た」ことになる。これも裏付けは取れていない。

109 あ「京都の新開地(十一) △吉田と岡崎町」『京都日出新聞』1912 年 2月 15日号。

110 谷崎潤一郎「朱雀日記」『谷崎潤一郎全集 第 1巻』中央公論社、1972(普及版)、pp.331-368.引

用は、335頁から。

111 前掲、註 8、長谷川泰三『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフエ―パウリ

スタ物語』(文園社、2008).

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― 129 ―京都精華大学紀要 第四十号

長谷川は、奥山儀八郎のテキストにある20店舗

と、それ以前にあった銀座店、横浜店、大津店、

道頓堀店、箕面店、また、長谷川所蔵のマッチ

に記載されている新宿店を合わせ、全国展開を

26店舗としている。奥山の20店舗中には、「京

都喫店 京都市下京区四条京橋中三下ル」がリス

トアップされているが、これは、谷崎が言及し

たものとは異なると思われる。あとで示すが、谷

崎の初上洛時の「カツフエ・パウリスタの支店」は、

寺町御池にあったようである。やがてこれがな

くなり、少したってから四条付近にまた登場し

た、というのが真相ではないか。

112 京都の萬養軒は、1911 年 11月に開店している。

1911 年 11 月 2日の『京都日出新聞』(図 4)に

は「開店御披露」の「特別広告」が載った。そ

れによれば「談話室 ・酒場/之設備有之候」と

なっており、バーがあったことが読み取れる。

この萬養軒の流れにある「ぎをん萬養軒」は、

ホームページ上で「1904 年(明治 37年)に創業」

としているが、明らかに間違いである。

また、同年同月15日には、日洋軒という「西洋

料理店」も「新京極蛸薬師東入」に開店した。こ

ちらには「「談話室」「酒場」以外に「純日本式小

食堂」も供えられていた。この日洋軒のオーナー

は、京都ホテル京都駅出張所を担当していた堀

重昌であった。その流れにある店舗が現在も存

在するのかどうかは定かではない。

さらに、1911年 12月 23日から 26日まで、「四

条通大橋西詰」「矢尾政楼」では、「洋食部洋館三階造り」の「新築落成披露会」が開かれた。一般に

は27日からオープン。(『京都日出新聞』1911年 12月 26日号)

つまり、てるをが二つの「カツフエー」を京都に認知したまさにその時、京都では、「酒場」・「バー」

的場を備えた「西洋料理店」が新たに二つ開店し、その直後それまでビアホール等として営業してい

図 4 『京都日出新聞』1911年11月2日号

図6 「神戸まで」『京都日出新聞』1912年 7月 10日号

図5 『京都日出新聞』1912年 6月 4日号

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― 130 ― ジャンル「カフェー」の成立と普及(2)

た矢尾政も「洋食」部門を新築した、ということだ。京都における外食部門の進展・洋食化はここか

らもうかがわれる。

113 「みみとめと 京都のカフヱ―」『京都日出新聞』1912年 6月10日号。

114 「カフエ―カギヤ」すなわち鎰屋茶房が一番取り上げられているのは、鎰屋が『京都日日新聞』に当

時頻繁に広告を出していたことと関係する可能性がある。この広告自体を経時的に採集し、分析する

と、当時の京都の社会の一側面が明らかになるであろう。

鎰屋の広告は図5の通り。

115 「カフエーの夜」は、「カフエ―カギヤ」で描かれている可能性がある。「アイスクリーム」は、明言

はないが、カフェーではなかろうか。いずれも若い女性で、芸妓や舞妓ではない。「京都のカフヱ―」

(註113)では、女性客の存在については全く触れていないが、これらのコマ絵を参考にすると、女

性客も来ていた可能性がある。なお、1911年 11月にデカダンなカフェーこそ真のカフェーであると

した秦テルヲは、やはり、デカダンなコマ絵(図6)を、同時期に『京都日出新聞』に寄せている。

図2・図3とこれを対比することで、てるを=テルヲのカフェーイメージをつかむことができよう。

コマ絵「カフエーの夜」を描いた山口八九は山口八九子のことであろう。彼については以下の文献が

ある。ただ、このコマ絵関連の事柄への言及は見あたらない。

大谷芳久編集『山口八九子作品集』山口八九子作品集刊行会、2008。

また、コマ絵「アイスクリーム」を描いた武田寿に関しては、現在のところ、情報がない。

116 井生「●カフエー巡(一) ▲京都のカフエーとバア」『京都日出新聞』1914年 1月25日号。

117 京都市の三大事業とは、「第二琵琶湖疏水事業と水道事業および道路拡築並びに電気軌道敷設事業を

指している」という。西郷市長による「三大事業」の提示は、1906年とされる。終了は、一応、1912

年 6月15日に挙行された「三大事業竣工祝賀式典」におくことが出来るであろう。以下の文献によっ

た。

京都市『京都の歴史8 古都の近代』学芸書林、1975.

また、市政史的に見た展開のアウトラインは、以下を参照した。

鈴木栄樹「三大事業の時代」、丸山宏・伊從勉・高木博志編『みやこの近代』思文閣出版、2008、

pp.22-27.

118 前掲記事、註116。

119 現在も関係する店等が京都に存在している事例としては、京都農園果実料理(温室内サルン)があり、

これは「ノーエン」である。ギオンカフエーは、現在の「キャピタル東洋亭」に関連したカフェと推

測できる。中村楼・酒場の中村楼は、現在の「二軒茶屋中村楼」である。萬養軒(支店)は、現在の

「ぎをん萬養軒」がかつて展開していた店舗である。トラヤ茶寮は、現在の「虎屋」と関連するかも

しれないが情報はない。

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― 131 ―京都精華大学紀要 第四十号

120 中川四明については以下の論考を参照した。

神林恒道「横断する知性 ― 中川重麗と近代京都 ―」神林恒道編著『京の美学者たち』晃洋書房、

2006、pp.24-31.

篠木涼「不離不即の美学 ― 中川重麗論」同上、pp.59-81.

121 『京都日出新聞』1912年 7月12日号。

122 例えば「キヤウト」では、「勘定は食後勘定場へ払」うシステムになっていた。(『京都日出新聞』

1914年 2月3日号)

123 例えば「中村屋の酒場(バア)」は、祇園石段下にあったが、電車の音がひどく気になる構造で、

室内が満員となると「夏など路次の隅の素天井の処」に客が座る場合もあった。(『京都日出新聞』

1914年 1月26日号)

また、四条御旅町にあった(現在マクドナルドハンバーガーが店を出している所と推定される)「カ

フエーオタビ」では、「電車を待つ間に『一寸紅茶』をとか『一皿ぱくつかう』」と入って来る客も多

いという。(『京都日出新聞』1914年 1月27日号)

124 例えば烏丸二条上ル東側に1913年末に出来た梅洋軒を見よう。ここについては、井生の評価はかな

り低い。しかし、井生の観察によれば「間部時雄の油絵が一枚懸つてある」という。作品名は不明。(『京

都日出新聞』1914年 2月7日号)

また、今出川大宮東入ルにあった「菓富栄塩路」も、井生の評価はかなり低いが、そこでさえ「テル

ヲの焼絵」や「テルヲの描いた衝立」がみられたようだ。この「テルヲ」は秦テルヲと推測される。(『京

都日出新聞』1914年 2月12日号)

125 井の字「●カフエー巡(十三) ▲タワー」『京都日出新聞』1914年 2月9日号。

補註

脱稿後の二つの関連事項をここで補っておく。

この論文に使用した、『京都日出新聞』の1914年初頭のルポ、「カフェー巡」は、松田道雄が、1975

年に出版した『花洛』(岩波書店)で紹介している。この件は、カフェー関連の卒業論文を執筆したゼ

ミ生の廣瀬麻衣さんが見つけて教えてくれた。記して感謝したい。

また、この論文で参照した松崎天民に関する坪内祐三のエッセイは、2011年 12月に単行本化された。

(坪内祐三『探訪記者松崎天民』筑摩書房、2011)