1. 問題提起一 21 一 / ヘ ン ス ユ レ / 。 ゲ ン マ レ / ク ス 死 と 復 活 1....

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21 / / / 1. 問題提起 死者の復活に 対する希望は ,キリスト教信仰の 中心となっており ,パウ ロスが言 に「死者の復活がなければ ,キリストも 復活しなかったは ずです。 そして,キリストが 復活しなかったのなら ,わたしたちのしてぎ た宣教はむ たであ ったし,あ なたたちの信仰もむだなことになります」 (1 コリント 15, 13 14) それゆえ, p一%教理聖者 は 1979 年 5 17 日合 にされた書簡『終末論に 関する若干の 問題について の第一命題におい この希望を新たに 強調すべく「教会は 死者の復活を 信じる」と ヵトひ ック信者に諭している。u この書簡の公表をうながしたのは ,最近のカトリック 神学内に見られる 終末論の再構成のためであ る。がそこでは,時間の 問題がまったく 度覚視 され,個々人の 死,世の終り ,死者の復活,公審判などと 言った『最期の 事柄ロ は 同一の出来事としてとりあ つかわれることとなった。 たとえば, 『新しい信仰の本 の中で, C , シュッは,「死からの 個々の復活は 死とと もに死においておこる」と 述べているが "一般向きの概説書の 中でさえ, この考えが,あ たかも当然であ るかのように 提唱されている 点からして も,個々人の 死と死者の復活とを 同一の出来事とみなす 新説はかなり 広が っていることが 知れよう。 この説は,すでに 第一次世界大戦以後のプロテスタント 神学によって 唱 されて来たが ,。 'カトリック神学の 場合, 死 と復活の問題が 再検討され

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Page 1: 1. 問題提起一 21 一 / ヘ ン ス ユ レ / 。 ゲ ン マ レ / ク ス 死 と 復 活 1. 問題提起 死者の復活に 対する希望は ,キリスト教信仰の 中心となっており

一 21 一

/ ヘ ス

レ /

。 ゲ

レ /

1. 問題提起

死者の復活に 対する希望は ,キリスト教信仰の 中心となっており ,パウ

ロスが言 う よ う に「死者の復活がなければ ,キリストも 復活しなかったは

ずです。 そして,キリストが 復活しなかったのなら ,わたしたちのしてぎ

た宣教はむ た であ ったし,あ なたたちの信仰もむだなことになります」

(1 コリント 15, 13 ~ 14) 。 それゆえ, p 一%教理聖者 は 1979 年 5 月 17 日合

にされた書簡『終末論に 関する若干の 問題について コ の第一命題におい

て , この希望を新たに 強調すべく「教会は 死者の復活を 信じる」と ヵトひ

ック 信者に諭している。 u

この書簡の公表をうながしたのは ,最近のカトリック 神学内に見られる

終末論の再構成のためであ る。 がそこでは,時間の 問題がまったく 度覚視

され,個々人の 死,世の終り ,死者の復活,公審判などと 言った『最期の

事柄ロ は 同一の出来事としてとりあ つかわれることとなった。 たとえば,

『新しい信仰の 本 日 の中で, C , シュッは,「死からの 個々の復活は 死とと

もに死においておこる」と 述べているが , " 一般向きの概説書の 中でさえ,

この考えが,あ たかも当然であ るかのように 提唱されている 点からして

も,個々人の 死と死者の復活とを 同一の出来事とみなす 新説はかなり 広が

っていることが 知れよう。

この説は,すでに 第一次世界大戦以後のプロテスタント 神学によって 提

唱 されて来たが ,。 ' カトリック神学の 場合, 死 と復活の問題が 再検討され

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一 22 一

るべき契機となったのは , 1950 年 11 月 1 日,教皇 ピ ウス 12 世によって発布

された新しいマリア 論的教義であ った。 5' この教義に従えば ,聖母は「地

上の生活を終えた 後,肉体と霊魂とが 共に天の栄光に 上げられた。 」 6) 当

時, K . ラーナーはこの 教義の妥当性を 懐疑者に対して 弁明すべく原稿を

作成したが,検閲が 通された部分はようやく 1958 年になって 了 死の神学に

ついて目という 題のもとに公にされた。 , ' その中で,ラーナーは 物質への

精神の指向性についての 形而上学的分析に 基づいて,個々人の 死と世界の

完成とを相互に 関係づげて,次のような 見解を述べている。

「世界の創造された 全現実は,いわば ,その回からだ コ をなすところの

肉体的・精神的諸人格の 死を通じて,次第に ,自己の決定性に 向かって

成長する。 」め

この考えは終末論の 新たな理解の 出発点となった。 0 . カレ ル が,すで

に 50 年において,時間の 次元を終末論の 問題設定からはずした 後, g' G .

グレシ フケ は 1969 年著した研究の 中で, 死 と復活とを同一の 出来事とする

新説をはじめて 体系的に根拠 づ げたのであ る。 , 0) この研究に刺激されて ,

G . p 一 フィン ク も,終末論の 再考察にとりかかり , 1 町 5 年グレシ アケと

共著で公にした 研究の中で,さらに 包括的な説を 述べた。 それに従えば ,

人類の歴史の 場として以外の 意味をもたね 世界は , 個々人の死を 媒介にし

て,終末的完成に 与かるものとされる。 , 11

さて,グレシ フケ とロ ー フィン ク の新説に対する 主な反論は J . ラッ イ

ンガ一の方から 出た。 彼は終末論における 時間の伝統的な 捉え方の妥当性

を 強調し, 12' 死 と復活,ないしは ,終末的完成とはそれぞれ 別の出来事で

あ るとする。 , 3, 他方, W. ブロイニンバはバレシ フケ とロ ー フィン ク の根

本主張を受け 容れている。 '4) さらに, J . フィンケン ツヱラ は世界の完成

を個々人の死とほ 異なる終末的出来事とみなしているが , 死 と復活とを同

一の出来事とする ,グレシ フケ 自身の本来のテーゼには 同意を示す。 15> 同

様に, H . フォーバリムラは , このテーゼを ヲ ツィンガ一に 対して弁明

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一 23 一

し , グレシ アケ とロ ー フィン ク の時間把握に 限って,多少の 批判を述べて

いる。 1f6)

なお,前述した 教理 聖 省の書簡は セ つの命題をもって ,教会の伝統的な

教えの今日的妥当性を 強調する中で ,間接的にグレシ アケ とロ ー フィン ク

の新説を批判する 見解をも述べている。 [7) それゆえ, ラツィンガーは 個々

の 命題をいとも 簡単に「信仰の 本質的真理Ⅲと 決めつげているが ,⑧書簡

全体から明らかなとおり ,教理聖者自身がより 慎重な態度をとっている。

たとえば,問題の 七つの命題を 述べた後,教理 聖 省は次のように 締め括り

をつげている。

「キリスト信者は ,次の本質的な 二つの点を堅持する 必要があ る。 すな

わち,一方では ,聖霊の 力 によって,キリストにおける 現在の生命と 未

来の生命との 間にあ る根本的連続を 信じ ほ げればならない ( なぜなら,

愛が神の国の 法であ り,そして,地上における 私たちの愛が ,天におけ

る神の栄光への 私たちの参加の 尺度であ るからであ る ) 。 他方,現在と

未来の生命の 間の事情は根本的に 異なることをはっきり 知らねばならな

い。 信仰の秩序に 代わって,完全な 光明の秩序が 続 き, 私たちはキリス

トとともにいて , r 神を見る d 14 ( 第一ヨハネ 3 . 2 参照 ) からであ る。 こ

のような約束と 素晴らしい 秘 義が私たちの 希望の本質的土台であ る。 私

たちの想像力は , この ょう な高さに近づくこと it できないが,しかし ,

私たちの心は 衝動的に,そして 確実にそこに 到達する。 」 '9'

以上の二点こそラッ イ ンガ一の言う「信仰の 本質的真理」を 含んでお

り,新しい説のさまざまな 通俗化された 形態はともかくとして , 20 ,本来の

説 自体はこの二つの 点に矛盾していないと 思われる。

以下, まず,新説の 解釈学的諸双提を 明らかにし次いで ,核心問題と

なっている時間と 永遠の関係に 注目したい。

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一 24 一

2. 解釈学的諸双提

終末論とはキリスト 教 的 希望についての 教義であ り,その希望は 望み ウ

る 未来と,それによって 動かされている 実存とを含むものであ る限りにお

いて,人間についての 教義であ る。 21) そして,人間が 自由な人格であ り,

そのつど個別的で 一回限りの代替不可能な 実存であ る限りにおいて ,語ら

れる ア 個人的な終末論 苫 (e ㏄ h が ologia ind@vidualis) もあ れ ば ,人間が社

会および人類全体に 組み込まれた 実存であ る限りにおいて 語られる ァ 集合

的な終末論 & (e ㏄ hatologia coll ㏄ tiva) もあ る。 しかしいずれの 場合も,

いつか未来において 到来するような 事件についての 予報が与えられている

と 言 う よりは,むしろ ,一つの総体たる 人間がおかれている ,現在の救済

史的状況についての 解明がなされており ,このことから , K . ラーナーは

次のような解釈学的根本原理を 帰結する。

「われわれがキリスト 教的な終末論に 関して知っているのは ,われわれ

が 人間の現在の 救済史的状態に 関して知っている 事柄に他ならない。 わ

れわれは,未来から 何かを現在に 投影するのではなく ,その逆に,人間

が恵みのうちに ,キリストにおいて ,自分と神に 関してなす経験におけ

るキリスト教的現在を ,その未来へと 投影するのであ る。 なぜなら, 人 ダイナ @ ズム

間は自分の現在を ,ひたすら未来に 向けての成立,生成, 力動 として

理解せざるを 得ないからであ る。 人間は自分の 現在を,一つの 未来に向

げての準備,未来への 開 ぎとして理解する 限りにおいてのみ ,現在を真

に理解するのであ る。 それゆえに,人間は 未来学,終末論を 思惟せざる

を得ないのであ るが,人間がこの 終末に関して 知っていることは , 今 こ

こにおける自分に 関して,また 自分における 救いの現在に 関して知って

いる事柄にほかならず ,ここから終末を 先取りするのであ る。 」 22)

以上の解釈学的根本原理が 正当であ るとすれば,終末論的な 表象と ,そ

れによって意図されている 終末論的な内容とは ,明白に区別されねばなら

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ない, ということになる。 たとえばパウロスが ,キリストは 大天使のラッ

パの響きのもとに 再臨するであ ろうと言った 時 (1 テサロニケ 4 . 16 ~ 17;

1 コリント 15. 52), あ るいは共観福音書が ,人間は天使たちによって 一

所に集められ ,悪人と善人,山羊と 羊の二組に分げられるであ ろうと述べ

た 時 ( マルコス 13. 24 ~ 27; ルカス 21 . 25 ~ 28; マタイオス 24 . 29 ~ 31;

25 . 31 ~ 46), また,後の伝統が , この出来事を コ シャパテの 谷と 結びつ

けた 時 ,当然のことながら , これらはすべて 単に終末論的な 表象の素材や

絵画的な描写に 属するものであ って,本来の 内容ではないのであ る。 23)

この考えを踏まえた 上で,以下終末論的な 表象の特殊性を 明らかにし,

次いで, これらの表象に 横たわる,聖書偶有の 時間把握に焦点を 合わせて

みたい。

2.1. 終末論的言述の 特殊様式

P . リクールの指摘するところによれば ,言語分析も 解釈学も宗教的 信 デイスクール

仰を ,その言語に 基づいて,あ るいはもっと 正確には, 言 述の特殊様式

として,その 本質を解明しようとするが ,両者の相違はこの 言語のレベル

に 現われている。 たとえば,言語分析は 直接に「神は 存在する」「神は 不

変 であ り,全能であ る」などといった 言 表を対象とする。 つまり言語分析

は, 言 述の特殊な様式に 属する神学命題の 第二度の言述を 対象とするが ,

この第二度の 言 述は ,思弁的哲学から 借用した概俳と 合体しなければ 理解

されないものであ る。 それに対し,解釈学は ,信仰共同体の 言語の, もっ とも原初的な 様式にできるだけ 忠実に近づこうとする。 したがって解釈学

は,信仰共同体の 成員が自分たちの 経験を自分自身のために , また他者の ために,最初に 解釈するのに 用いた言語表現を 対象としようとするのであ

る。 このような言語表現は ,少なくともそれを 産出した信仰共同体にとっ

ては,道理にかなっている をもっている・・・・・・・・ (sense) のであ り,意味 ・・ (sens)

のであ る。 ' 。 '

さて,キリスト 教の場合,信仰共同体が 自己了解をするために ,あ るい

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一 2f 一

は 共同体外の聴衆に 了解させるために 用いた, もっとも原初的で ,かつ,

もっとも中心的な 言語表現は日死者の 復活 コ (1 テサロニケ 4 . 13 ~ 18; 1

コリント 15 等 ) とて新しい創造 コ (2 コリント 5 . 17 ; 2 ペトロス 2 . 13;

黙示 21 . 1 ~ 5 等 @ ほ ついてであ る。 r 死者の復活 コが 語られる場合,そ

こで考えられているのは ,決して死んだ 人が再び死すべ き生 へとまいも ど

っ たなどということではない。 そうではなくて , r 死者の復活 コ という言

語表現で意味されているのは ,全く予期していなかったものの 登場,絶対

的に新しい次元の 突発であ り,そしてもはや「死への 命 」ではなく, 「死

者の中からの 命 」であ るような生の 出現なのであ る。 また, r 新しい創造 コ

が 語られる場合,そこで 考えられているのは ,決して破滅した 旧 き 世界が

再興されるなどということではない。 そうではなくて , r 新しい創造 コ と

いう言語表現で 意味されているのは , いまだ全然予想されえない 新しい存

在 ,すなわち,存在・ 非存在のいずれにもころび ぅ るという 価 性を克服したところの 存在の成立なのであ る。 2"

さて,以上の 言語表現を産出した 信仰共同体の 証言に よ ると, イェス ス

の復活という ,前代未聞の 出来事は自分たちの 自己了解を特徴づけるもの

であ る。 ここでは復活信仰の 成立にからむ 歴史・批判的諸問題を 詳述する

暇 がないが, 26, さしあ たって , 主に J . モルトマンに 従い , 復活経験の独

自性を指摘するにとどめたい。 2")

新約聖書の中で 伝えられている イヱスス についての弟子たちの 証言は,

一見,互いに 相容れない二つの 経験について 語っている。 一方では, イヱ

スス の十字架上の 死に よ る弟子たちの 挫折感が伝えられ ,彼ら自身がこの

神に見捨てられたイェス ス のもとから逃げて , ガリラヤに帰郷したという

事実を指摘することによって ,その時の幻滅や 挫折惑の深度が 強調されて いる。 他方では,エルサレムにおける , この同じ弟子たちの 宣教活動が伝

えられ,その 理由として,十字架上で 死んだイエス ス が,神の栄光を 帯び

て,彼らの前に 出現したという 弟子たちの証言が 挙げられている。 ところ

が, この証言から 明らかなとおり ,十字架上の 死と弟子たちへの 出現との

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間 に起こったイェス ス 自身の出来事については ,誰もそれを 目撃したとは

主張していない。 趣 こったことを 言い表わすために , 弟子たちは当時の 黙

吊文学的言語表現を 活用し ,「神はイェス ス を死者の中から 復活させた」

と宣べ伝えたのであ る。 この言語表現自体は 弟子たちの経験を 自分自身 Q

ために, また他者のために 解釈すべき機能を 発揮しており ,誰も目撃して

いない出来事に 対する出現の 経験からの 逆 推論の結果なのであ る。 とはい

え, この表現は勝手 気 ままに選ばれたものではなく ,内的必然性を 蔵 して

いる。 なぜなら,弟子たちの 経験を特徴づける ,以下の五点がその 中に含

まれているからであ る。 第一に,殺された 者が, 今 ,生きており , この世

の 法律によって 十字架 刑 に処せられた 者が神 ご 自身の義へと 止揚されたの

であ り,その構営を 剥奪され,はずかしめられた 者のうちに. キ .神の栄

光が所属している。 第二に, イェス ス は死すべ き 旧き生へとまいもどった

のではなく, この「死への 命 」を質的に変化させる ,全く別次元の 上に与

っている。 第三に, この新しき生への 参与は,神の 近き 臨 在を証しした イ

エ ススの地上的使命の 承認を意味し ,彼を神の凌駕不可能な 啓示者として

証明する。 第四に, この卑しめられ ,はずかしめられた 人間のうちに ,神

の啓示者を認め 信ずる者にとっては ,神の栄光というものは ,権 力者の元

ほ ではなく, 今 ここにおいて 卑しめられ,はずかしめられている 人の顔に

輝いている。 第五に,このような 信仰の中から「新しい 天と新しい 地 」 へ

の 希望とこの旧き 世界に浸透してゆく 愛の奉仕,すなわち ,弟子たちの 宣

教活動が生まれてくる。 ' 。 ,

さて,以上,きわめて 大ざっぱに概括した ,弟子たちの 経験のうちに ,

当時に限らず ,多くの人々は 自らの希望を 再認することができた。 新約聖

書の言語表現で 言えば, この希望は「神の 義」の貫登,あ るいは「神の 栄

光」の最終的出現あ るいはまた「死者の 復活」や「新しい 創造」などとい

った , 全く新しきものの 到来に向げられている。 J . ホ ブシ タフェルの提

唱する解釈学的原理に 則って言えば ,これらの表現で 意味されているのは ,

「否定的なものの 否定」とし ぅ ことであ る。 29) すなわち,信仰共同体が 弟

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一 28 一

子 たちの証言のうちにみてとったのは ,究極的かつ 普遍的に新しきものの

先取り,そしてすでに 発効したその 約束であ るが, この新しきものはさし

あ たって旧きものの 否定としてしか 把握されえない。 たとえば,復活した

イェス ス のうちに先取りされた 生命は, まず,「死の 死」であ り (1, コリン

ト 15. 26, 2 ティモ テ オス 1 . 11 ; 黙示 20 ・ 14, 21 . 4), 彼の

復活でもって 約束された自由は「すべての 支配,すべての 権 力や勢力の滅

び」 (1 コリント 15.24) を意味するのであ る。 'Q)

上述した事柄から 終末論的言述の 特殊様式が容易に 理解されよう。 すな

わち,信仰共同体の 成員が自分たちの 希望を自分自身のため , また他者の

ために解釈するのに 用いた言語表現は ,概念ではなく , 像 umage, B Ⅱ d)

であ る。 "' なぜなら,「目がまだ 見ず,耳がまだ 聞かず,人の 心に思い浮

かびもしなかったこと」 (1 コリント 2 . 9) を概念で言い 表わすことが

できないからであ る。 概念は三次元の 世界に属する 現象から 一 ㌧の要素を

抽象 し ,それを区画する。 この ょう にして,学問的知識が 成立し,その 真

理は原則的に 検証可能であ る。 というのも,あ る種の現象はかならず 概念

に対応するからであ る。 しかし,だからこそ ,概念は既存の 現実しか把握

しえないのであ る。 ギリシャ思想のもっともすぐれた 遺産であ る「存在」

の 概念もこの制約を 表わしている。 パルメニデスが 言うように,「唯一の

存在するものは 決してなかったし ,決してないであ ろう。 それは 合 同時に 共に全体としてあ る ( リ D レ こ 0 て @ ノ ouou n 卸 ) からであ る。 」 32) ところが,「 死

者に生命を与え ,存在していないものを 呼び出して存在させる 神 」 ( ロ一 マ 4 . 17) を信ずる者は 今同時に共に 全体としてあ るものの継続性ではな く ,いまだ全然ないもの ,いやむしろ ,そもそも全然あ りえないもの (p

一 % 4 . 18) の到来を待ち 焦がれている。 このような希望の 言語表現は概

念 でなく,像であ る。

像は ,物質的な世界から 形 あ るものを選び ,それに新しい 意味をもたら

せた ぅ えで,何か名状しがたいものを 表現する,そういう 一つの 言述 様式

であ る。 たとえば, 「 涙 」とし ぅ ものは生理的な 分泌物で化学的に 分析で

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一 29 一

きるものであ るが,文学の 世界や日常会話において , この語は「悲しみ」

とか「喜び」などといった 感情を言い表わすのに 用いられる。 もちろん,

「悲しみ」とか「喜び」について 語ろうとする 時,概念をもって 論ずるこ

とも全く不可能だとは 言えないが, 「 涙 」という像を 設定し, それをさま

ざまの方法で 話すほうがはるかに 雄弁であ り,事柄それ 自体にも,概念で

話すより,はるかに 適していると 言えよう。 たとえばプラト 一 ンは 像を使

う 者の好例であ る。 F 洞窟の比倫』の 中で, プラト一 ンの 言お う としたと

ころをいくつかの 概念的な命題に 訳すこともできないわげではないが ,人

間の条件を言い 表わすのにシルエットしか 見えない囚人描写のほうが , あ

らゆる理論よりも 強く,印象的な 像を惹起する。 ③同様に,初代 キひ スト

教会の成員も , 自分たちの経験を , 自分自身のため , また他者のために 解

釈するのに,当時の 黙示文学にみられた ,既存の像を 継承し,または ,新

しい像を設定することによって ,全く新しきものの 到来に対する 希望を言

い表わしたのであ る。 前述したように ,彼らが待ち 焦がれていた 新しきも

のは,あ らゆる否定的なものの 否定としてしか 知られていなかったが ,こ

のような希望の 内容を肯定的に 表現するためには ,たとえば次の 像が用い

られた。

「私はまた,新しい 天と 新しい地を見た。 最初の天と最初の 地は去って

行った。 ・…‥その時, 私は玉座から 語りかける大きな 声を聞いた。 F 見

よ, 神の住まいが 人間の間にあ って , 神が人間と共に 住み,人間は 神の民

となる。 神は自ら人問と 共にいて,その 神となり,彼らの 目の涙をこと

ごとくぬぐい 取って下さる。 もはや死はなく ,もはや悲しみも 嘆きも労

苦もない。 最初のものは 過ぎ去ったからであ るⅡすると, 玉座に座っ

ておられる方が , r 見よ , 私は万物を新しくするⅡと 言った。 」 ( 黙示 21.

1 ~ 5)

もちろん,「 天 」「 地 」「玉座」といった 表現は時空的現実を 連想させが

ちであ るが,その強調点は 明らかに希望されたものの 会ぎ 新しさにおかれ

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ている。 そして,新しさ 自体は「 涙 」やその原因となっている「悲しみ コ

「嘆 き 」「労苦」といった ,あ らゆる否定的なものの 否定から成り 立つもの

であ って,それは 神と人間との 永遠の交わり 以外の何物でもない。

さて,この新しきものとは 一体いつ到来するだろうか。 伝統的終末論に

従えば,それは 直線をたどる 時間の終点に 到来するものであ る。 ところが,

ここで前提とされている 時間把握は,果たして ,上のような 希望の像を産

出した信仰共同体の 時間把握と合致するものであ ろうか。 この点について ,

以下, よ り詳しく検討する 必要があ る。

1.2. 聖書における 時間の把握

周知のごとく , ィスラヱル 以外の古代文化において ,時間は同じものの

絶間 ない反復として 捉えられる。 M. ヱ リアーデによると , この捉え方の

うちに,「具体的な 時間の援 無 」 (Vernichtung der kon ㎞ eten Ze 田が表

われてくる。 34' すなわち,古代人は 過ぎ去る時間の 逆転不可能性に 耐えか

ねて,あ らゆる出来事を 超時間的な太初の 原型的しぐさの 繰り返しと解し

祭儀において ,原型的しぐさが 美 われたその神話的瞬間を 再現することに

より,「常にかりそめでない 現在に生きる 0 」 35n したがって,「時間はただ 事

物の出現と存在を 可能にするのみであ る。 時間はそれ自身常に 再生せられ

るがゆえに,存在に 対して最終的な 影響をもたない。 」 36'

古代イスラエル 人の時間把握はそれとはまったく 異 るものであ る。 37) も

ちろん,彼らも 原型的な出来事を 想起し祭儀において 再現するが,これ

らの出来事は 神話的・超時間的な 太初に属するしぐさではなく , ヱ ジプト

からの脱出のごとく ,具体的な時間のあ る時点において 生起した歴史的山

来事なのであ る。 そして, ヱ ジプトからの 脱出が原型的な 意味をもつのは ,

そこで今もなお 進行しつつあ る,まったく 新しいプロセスが 開始したから

であ る。 38) それゆえ,過越祭におけるこの 出来事の再現は 未来に対する 緊

張した待望を 伴っている。 つまり,祭りを 祝う人々はその 夜実際に出発し

ようとするかのようにふるまう。 彼らは, 「腰を引きからげ ,足に靴をは

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一 3A 一

ぎ ,手に杖をとって ,急いで小羊を 食べなければならないね ( 出 12. 11) 。

そして,時間と 共に世代が次々に 交替し, 子がその父に , 「この儀式はど

んな意味なのですか 日と聞くと,「これは 私が ヱ ジプトから出る 時に ,主

が 私になされたことのためであ る。 」と , 父は過去と現在の ィスラヱ ル金

体を代表して ,その子に答えるのであ る ( 出 13.8) 。 すなわち,父は 自分

が 救い出されたかのように 儀式を挙行し 後の世代も救い 出されるだろう

と 子に諭している。 , 9) なぜなら,過去から 現在に至るまでの 神の導きを 祝

う 人は未来におけるその 同じ神の導ぎを 先取りしているからであ る。 4fo)

上述したことからすでに 明らかなとおり ,イスラ ヱル 人が他の古代人と

違い, 具体的な時間を 接無しなかったのは , 彼らの信仰がまったく 独自

な宗教的体験に 基づいていたからであ る。 エリアーデに 言わせるとイスラ

ヱル 人の体験した 神は, 「原型的しぐさをなしとげた 神聖性ではなく , 絶

えず歴史に関与し , 諸々の出来事を 通じて, 自己の意志を 表明する主体

(Pe 「 SOn) であ る。 」 41] この神はけっして 個人や人類の 時間睦の上部に 浮動

しているものではない。 彼はいつも全体としての 時間に,また 個々人によ

って遂行される 昨日から今日を 通って明日に 及ぶ時の間に 運動し潜行

し,同行し,後続するものであ る。 42) このことは要するに ,イスラ ヱル 人

が,ュ ジプトからの 脱出の時に経験したのと 同じことなのであ る。 すなわ

ち 「主は , 彼らの前に行かれ ,昼は雲の柱を 持って , 彼らを導 き,夜は火

の 柱を持って彼らを 照らし,昼も 夜も , 彼らを進み行かせられた」 ( 出 13.

21) 。

M. プ 一バ一に従えば , 上述した信仰に 基づく時間把握は , 「生成する

歴史」 (ge ㏄ hehende Geschichte) として特徴 づ げられる。 すなわち, ィス

ラエ ル人の経験した 歴史は,けっして ,何らかのあ らかじめ調整された 計

画に従って直線的に 進行するものではなく ,神とイスラ ヱ ル人との対話の

うちに,あ らゆる回り道を 上り下りして ,次第に生成するものなのであ

る。 そこでは一方において ,神が ヱ ジプトからの 脱出, カナアンの土地取

得などの歴史的転機を 約束することによって ,ィスラヱル の民に絶えず 新

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一品 一

しい諸可能性を 開 き ,他方において ,イスラ ヱル の民が信仰のうちにこの

約束に応答し ,その成就への 道を歩まなければならないとされる。 4" それ

ゆえ,歴史上のあ らゆる不幸 社 経験は約束の 無効性の証拠としてではなく ,

民の不信仰に 対する 罰 とみなされる。 しかも, この罰は民を 信仰の道へ連

れもどすための 教育手段として 肯定的に評価される。 これと関連して ,

K . レーヴィトは 次のように指摘している。

「驚くべきことに ,ユダヤ人の 歴史を支配する 聖慮にたいするこの 信仰

の力は,あ らゆる経験的な 事実がこれに 反対するときにこそ 最も烈しく

燃え立った。 アソシリアの 強大な国家権 力が,近東の 諸民族を攻略した

とぎ ,予言者たちは ,イスラエルの 実質上の没落のなかに ,神の無力の

証明を見るどころか ,むしろ神の 全能の間接的な 告示を見てとった。 イ

ザヤにとっては ,ユダヤ王国の 滅亡のなかで 凱歌をあ げたのはバールで

なくて サーヴヱ であ った。 アッシリア 人 そのものは,イスラエルの 神の

手にあ やつられる一つの 道具にすぎない。 したがってそれは ,神の目的

が達せられるやいなや ,神の手で亡ばされた。 ユダヤ人らの 民族的歴史

の破局は,いよいよもって 神の意志の主権 牲 に対する信仰を 堅くさせ,

拡大させた。 懲らしめの 裁 ぎをおこな う ために,世界的強国をあ やつる

神は, 同様にまた, それらを救済のために 利用することもできるだ る

う 0 」 44)

T . ボ ー マンが指摘するように ,上のような 肯定的歴史観をもつ 人間は,

時計をもって ,時間を量的に 計算するというよりは ,その内容を 把握しよ ぅ とするものであ る。 すなわち,時間は ,なんのためにあ るのかという 問

いが,聖書の 時間把握を特徴づけるものであ る。 45) 我々現代人も「時間が

ない」という 表現を よ く口にするが , この表現で意味されているのは「量

的に計算され ぅる 時計の時間が 消滅した」ということではなく , 「何かを

するための時間が 今与えられていない」とし ぅ ことであ る。 46) r . H . ラ

チ,フ によれば, この「何かをするための 時」 (Zeit f 廿 uretwas) という 時

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一 33 一

澗 把握は,旧約聖書の cet と新約聖 冑の,のタ por の中に含まれている。 し

たがって,聖書固有の 時間把握は , 「カイロス的時間概俳」 (ka 廿 olog@her

Zeitbegr@) として特徴 づ げられる, としている。 4 ゎ このカイロス 的時間

概念は伝導の 書の中で次のように 表現されている。

「天が下のすべての 車には季節があ り,すべてのわざは 時があ る。

生るるに時があ り,死ぬるに 時があ り,植えるに 時があ り,植えたもの

を抜くに時があ り,

殺すに時があ り,いやすに 時があ り,

こわすに時があ り,建てるに 時があ り,

泣くに時があ り,笑 う に時があ り,

悲しむに時があ り,踊るに時があ り, 愛するに時があ り,憎むに時があ り

戦 うに 時があ り,和らぐに 時があ り,

働く者はその 労することにより ,なんの益を 得るか」伝導の 書 3 . 1

の 11)o

つまりあ らゆる否定的なものと 肯定的なものとがその 特殊な時をもつ。

それらは 皆 ,始まり,続き ,そして終っていく 時であ る。 そのいずれの 時

も ,いつまでも 続く純粋持続 性 をもたない。 換言すれば時間は 過去と未来

との間のカイロス 的時点において 絶ち切られ,その 現在において 旧い時が

終わり,かつ 新しい時が始まる ,そしてこの 新しい時こそ ,恵みを受ける ための時として 生きるべ き なのであ る。 48)

さて, これらの「何かをするための 時」はそれぞれ 異 った時であ り,そ

れぞれの時は 直線上の諸点のごとく 互いにつながっているようなものでは

ない。 他方,個々の 時の間にはいかなる 連続もみられないということにも

ならない。 49, なぜなら 「後ろからも , 前からもあ なたの手は私を 守る ね

( 詩 103. 5) と歌われる よう に,人間のすべての 時は神 ご 自身の時に ょっ

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- 34 一

てとり囲まれており ,個々の時も 全体としての 時間も神の手中にあ るから

であ る。 そして神の時は「永遠」と 呼ばれる。 と,ぅ のも 時の主の御

手に時の初めとまん 中と終わりとが 一握のうちに 掴まれているような 時が

「永遠」に他ならないからであ る ( 青き 91 . 93. 。 しかし, ラチ

ョフが言 うよう に,「神の永遠性」とはけっして「 無 時間性」とか ,「報時

間性」ではなく , 「時間に対する 支配」であ り, この支配は,個々の 時及

び全体としての 時間を貫く約束に 対する神の誠実として ,まさに,時の 間

に入り込むものであ る。 sm'

さて, 新約聖書の中で , イェス ス の歴史的登場と 共に入来した 時は,

「満たされた 時 」と 呼は れている ( ガラティア 4 . 4 ; エフェソス 1 .

l0) 。 マルコス福音書によると , イエス ス 自身「 時は 満ちた。 神の国は近

づいた。 悔い改めて福音を 信じなさい。 」 (1 . 15) と述べ伝え, 公 生活を

開始したのであ る。 この ょう な表現は明らかに ,前述した カィ p ス的 時間

把握に属している。 ㊤すなわち,イエス スと 共に入来した 時は,「悔い 改め て ,福音を信じるための 時」であ り,その現在において ,旧い時が終り ,

「最後」 は牡館 。 のの時が始まる。 なぜなら, イェス ス の言葉と働きを 通

じて,神の誠実は 凌駕不可能な 仕方で時の間に 入り込んで来たからであ る。

そういう意味で , イェス ス は, 当時の黙示終末観を 修正し,「私は 神の 力

で悪魔を追い 出しているのであ り, そうであ れば, 神の国があ なたたち

のところに来ている (.evTof & が乙レゐ Tcv) わけだ」 ( ルカス 11 .20) と諭し

ている。 同様にパウロスも「今こそ 神の恵みの時期, 今こそ救いの 日で

す」 (2 コリント 6.2) と強調している。 つまり山本和が 言 う とおり,「イ

ェス・キリストの 時は満たされた 時 》と言う場合 ア 新約聖書』はいつでも 。 , 。 ,

一つの現在を ,言わ ぱ 上から垂直に 入り込んでくる 瞬間的時点のことを 考

えている。 」 52, 他方,また G . ローブインクが 強調するように ,この現在は 「未来を指向する 力 動的現在」であ る。 すなわち,神の 支配はすでに 開始し つつではあ るがいまだ完成されてはいない。 それはイェス ス の行 う しるし の中にすでに 認識されうるが ,いまだに現われとはなっていない。 。 3) こう

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一 35 一

した現在と未来の 緊張関係が新約聖書全体を 貫いているが , ここでは パゥ

p スの 書簡から一箇所のみを 引用するにとどめたい。

「わたしたちは , 今は 鏡にばんやり 映ったものを 見ていますが ,そのと

きには, 顔 と顔どを合わせて 見ることになるでしょう。 今は部分的にし

か知りませんが ,そのときには ,わたしが神に 知られているように ,は

っきり知ることになるでしょう。 それで, 信仰, 希望, 愛のこの三つ

は,最後まで 残ります。 この中で最もたいせつなのは ,愛です。 」 (1 コ

リント 13. 12 ~ 13)

つまり,未来を 指向する 力 動的現在は,信仰・ 希望・愛に生きるための

時 なのであ る。 それゆえ,この 時からの逃亡解脱は 救いの道にはなりえな

い。 他方,現在が 信仰・希望・ 愛のカイロスとして 特徴 づ げられているの

は,その三つの 完成が未来の 事柄として期待されるからであ る。 しかし,

この未来は何らかの 直線をたど 6 時間の終点ではなく ,現在に差し 迫まっ

ている,神の 栄光の現われなのであ る。 54)

以上のスケッチをもって , 大 ざっぱながらも ,あ えて聖書固有の 時間把

握の究明に締め 括りをつげたい。 しかし,スケッチで は あ るが,前節にお

いて紹介した 希望の像を産出した 信仰共同体の 時間把握は,かならずしも

現代人の我々のそれと 同じものでないことの 示唆にはなりえたのではなか

ろうか。 事実,我々は 時間の流れを 直線のように 考え , 起ったことをすべ

てその線上に 位置づげている。 P . ネ ランが言うように「あ らゆる出来事

が時間の線に 並んでひっかかっているのは ,あ たかも洗濯 p 一プに 洗濯物

が並んでかかっているようなものであ る。 」 5B) このようにして , 我々は 一

種の抽象的な 時計によって ,天文学上の 現象から原子物理学上の 現象まで

,のすべての 自然現象,および ,歴史上のあ らゆる出来事を 時間的に定位し

ている。 そして,従来の 終末論も,同じ 抽象的な時計を 想定し,死者の 復

活,世界の完成などの 終末的出来事を 直線をたどる 時間の終点に 位置づ け

ていたのであ る。

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一 36 - 一

ところが,最近柳瀬陸男が 再び指摘したよさに ,常識と思われる 我々の

時間把握は誤っている 場合もあ るので,現代の 量子論と相対論は 新しい時

間把握を要求している。 そのため柳瀬自身は 中世のスコラ 学派に立ち返り

そこで論じられている aevum の概念を新しい 時間把握のために 役立てよ

うとする。 56) 考えて セね ば・この概念は 終末論の新たな 理解のためにも 役

立てることができる。 なぜなら,それは「時間」 か 「永遠」かという 二者

択一しか知らない 我々の先入観を 破るからであ る。

3. 時間と永遠の 弁証法

本稿の冒頭ですでに 指摘したように ,終末論の新たな 理解への道を 開い

たのは,第一次世界大戦以後の プ p テスタント神学であ った。 しかし, K

・, : ハ トの以下の主張からも 解るように, この神学こそ , 「時間」 か 「水

連」かの二者択一しか 知らなかった。

「もし私が口方式 ロ なるものをもっているとすれば ,それは,私が キ ,

ルケ ゴールのいわゆる 時間と永遠との 甲 無限の質的差別口なるものの 否

定的および肯定的意味をあ くまで固守した ,ということであ る。 」 5"

そして,死者の 復活が永遠に 属するものであ るから,それは 当然ながら

経験上の時間線の 終点に起るはずがない。 こ う い う 意味で, E . ブルン ナ

一は ,次のように 述べている。

「地上では, 先 ・ 後 および 幾 百年とか 幾 千年をも含む 時間的隔たりが 存

在する。 r 向 う 側 白 すなわち,復活の 世界,永遠においては ,この引き

延ばされた時間,この 過ぎ去る時間は 存在しない。 死亡の時刻は 個々人

にとっては異なっている。 死亡の時刻はこの 世に属するからであ る。 我

々の復活の日は ,すべての人にとって 同一であ る。 それにもかかわら

ず,復活の日はけっして 死亡の時刻から 幾 百年の隔たりをもつものでは

ない。 なぜなら,そのような 隔たりはここにのみ 存在し,あ そこには,

すなわちⅠ千年が 一日のようなものであ る山神の現在には 存在していな

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一 37 一

い 0 」。 8,

ところが, この ょう な捉え方は,重要な 問題を含んでいる。 すなわち,

「この世」が「あ の世」における 終末的完成に 与かることができないとす

れば,進化,歴史の 進歩,人類の 生長,社会の 改善,人間の 労働などとい

った地上的な 事柄はまったく 無価値なものになってしまうのではなかろう

か 。 59) ラーナーはこの 問題の重要性を 以下のごとく 強調している。

「我々キリス 卜者は, ・・・自分たちの 働きに課せられたこの 世界とい

ったいどこまで 真面目にとり 組むのか, というマルクス 主義側からの 問

いを 受 げとめねばならない。 果たして, この世界は我々にとって ,自ら

の徳を磨くところの 素材, ,・・に過ぎないものであ ろうか。 そうであ

るならば, この世界自体はどうでもよいようなものになってしまうので

はなかろうか。 なぜなら,反動的に 固執された世界の 中でさえも,人は

その同じ徳を 磨くことができるからであ る。 わけてもみすばらしく , 苦

悩に 満ちた,不正の 世界における 辛抱,という 徳を ! 」。 0'

なるほど,「時間」 か 「永遠」かという 二者択一しか 認めないような 終

末論は以上のような 問いに答えることができない。 したがって, この二者

択一を越える 時間把握が終末論の 中心課題となってくる。 そして口一フィ

ン ク が示す よう に, この新しい時間把握への 道を開くのが ,中世の永 在 概

念にほかならない。 ⑪

3.1. 永遠,水柱,時間

中世の思想家たちは ,神とその他の 霊的存在者の 存在次元を区別するた

めに,次のような 概念構成を設けた。 すなわち,「永遠」 (aeternum) に

は 初めも終りもなく ,「 永在 」 (aevum) には初めはあ っても終りはなく ,

「時間」 (tempus) には,しかるに 初めと終りとがあ る。 したがって ,神

の存在次元は 永遠とみなされるのに 対し神から創造された 霊的存在者の 存

在は永在の次元に 属すると考えられた。 さて, トマス・アクイナスは , 神

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一 38 一

の 永遠性について 論じる 時 , この概念構成を 批判的に補充 し , とりわけ,

永遠という概俳の 形式的な規定を 不充分だとする。 なぜなら, 「初めも終

りもない」ような 存在を主張するのみでは ,神に個右の 自己所有を言い 尽

せないからであ る。 6 めそれゆえ, トマスは, ボエティウスによって 伝承さ

れた 新 プラトン主義の 本質的概念規定に 立ち返り, 6" 永遠を「果てしなぎ

生命の,同時に 全体的な,完全な 所有であ る」と定義する。 64' この定義を

根拠づけるべく , トマスはいわゆる 「否定の道」 ( ㎡ a neeat@a) をたど

って,まず時間の 特異性を究明し ,次いで,その 特異性を永遠から 除外す

るのであ る。 65)

さて,アリストテレスは 時間を「 先 ・後に従っての 運動の数」であ ると

定義したが, 66' トマスはこの 定義を受け継いで , 次のような説明を 加え

る。

「およそ如何なる 運動にあ っても,かならず 継次 (successio) があ り,

一つの部分が 他の部分に続く。 我々は,だから ,運動における 先と後を

数量化すること よ りして時を捉え , それは T 運動における 先 ・後の数』

にほかならないとするのであ る。 」 f67'

別言すれば,時間は 絶えず はき 上ったり,過ぎ 去ってしまう 無数の「今

の流れ」 (nUxUS @PSiUS nUnC) であ り, 6R) 時間的存在者は ,自己の過去を

もはや所有しておらず ,自己の未来をいまだ 所有していないものであ り,

ただ現在という 最少の「 今 」しか所有していないものであ る。 が, この所

有もまたすぐに 喪失化するものであ る。 なお,時間的存在者に 固有であ る

「流れる 今 」を否定するならば「とどまる 今 」 (nunc stans) に達するが,

この「とどまる 今 」は,永遠に 他ならない。

「というのは ,あ たかも,時の 捕捉ということが , r 流れる 合 囲を我々

が捉えることによって 原因されるものであ ると同じく,永遠の 捕捉とい

うことは,我々が「とどまる 今 」を捉えるかぎりにおいて 原因されるも

のなのだからであ る。 」 69)

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一 39 一

神は「とどまる 今 」において,自己の 存在を絶対的な 同一性として 所有

しており,この 同一性は,「果てしなぎ 生命の, 同時に全体的な , 完全な

所有であ るぬ

さて,創造された 霊的存在者の 存在ほ,永遠でな い ことは明らかであ

る 。 なぜなら,彼らの 存在には初めがあ るからであ る。 それゆえ,霊的存

在者の存在は 時間と永遠との 間に介在する 中間者として 把握されねばなら

ない。 この中間者こそ ,水柱と呼ばれる。 70) 時間と永遠との 間に介在する

この水柱 は ,これら両者のいずれとも 異なるはずであ る。 時間との相違を

明らかにすべくトマスはアルベルト ヴス ・マグヌ スと ボナヴェントゥラの

見解を拒否し , 「 永 在を測る尺度は 先・後をもたない」とする。 7 ぃすなわ

ち,時間の「流れる 今 」は氷柱には 見られない。 他方, 永 在は永遠の「と

どまる 今 」とまったく 同一のものでもない。 なぜなら, 永 在は少なくとも

可能的に「変転性」 (tr ㎝ smutabilitas) を伴っているからであ る。 それに

反し永遠は純粋な「 恒 有性」 (permanentia) において存立する。

「永遠は恒存する 存在の尺度なるがゆえに ,ものが存在の 恒 存 性から 離

れるに従って ,それだけ永遠から 離れる。 同じく存在の 恒 存 性から離れ

るとはいっても ,然しながら ,或るものの 場合にあ っては,その 存在が

変転性に従属し 夏至は専ら変転性において 存在するにまでいたるのであ

り , この種のものは 時によって測られる。 ・・・或るものはまた , こ

れほどにまで 存在の恒 有 性から離れることのないものなのであ って,即

ち,これらのものの 存在は変転性において 存立するのでもなければ 変転

性に従属しているのでもないが ,ただ,これらのものは ,或いは現実的

に或いは可能的に 結合された変転性を 有している。 こうしたことは・・

・天使たちの 場合にあ っても見られるのであ って , 彼らの有する ョ戸 変転

的な存在は , 彼らの本性に 属するかぎりにおける ,選択に関する 変転性

を伴い,また 知性活動 (intelligentiae) や情感 (a 什 ectiones) やまたそ

の独自の意味での 場所についての 変転性を伴う。 まさしくこうしたこと

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一 40 -

のゆえに,この 種のものは,永遠と 時との中間者たる 水柱によって 測ら

れるのであ る。 これに対して ,永遠によって 測られるところの 存在は可

変 的ならぬことは 勿論, また可変性と 結びつくこともない。 かくして,

時は先・後を 有するのに対して ,水柱はそれ 自身としては 先 ・後を右せ

ず,ただし, 先 ,後がこれに 結合されることの 可能なものたるにほかな

らない。 だが,永遠は 先・後を右しないのみならず ,またその共存をも

全く許さないものであ る。 」 72)

以上のような 考察から明らかなとおり ,永遠にはいかなる 変化も見られ

ない。 それは唯一の「とどまる 今 」において 恒 存する神の存在領域だから

であ る。 それとは逆に ,時間は無類の「流れる 今 」の間に分散し ,変転性

に従属している。 この二つの間には 天使たちの存在領域が 介在する。 彼ら

に 佃君であ る氷柱 は ,それ自身としては「流れる 今 」の間に分散している

のでもなければ ,変転性に従属しているのでもない。 ただし,それは 変転

性 に対して開かれており , 自己の在り方のうちに 変化を受げとめることが

できる。

なお, トマスは或る 箇所において ,聖人も永 左 に与かるという 可能性に

言及してはいるが ,彼自身は,あ くまでも中世の 天使論,および 天体論の

領域内にとどまっている。 ところが,当時の 天使論や天体論の 問題性はと

もかくとして ,そこで論じられた 永在 概念は現代の 終末論にとってきわめ

て有益な示唆を 含んでいると 思われる。 なぜなら, この概念は「永遠」 か

「時間」かという 困難欣二者択一を 超克できるからであ る。 すなわち, 永

在 として捉えられた 場合, 終末的完成は 時間の単なる 終結ではなく , 時

間の中で,時間それ 自身の成熟した 実りとして成るものを 意味するのであ

る。

3.2. 『変容した時』

日本語には,現代の ョ一 p " パ話とは違って ,時間のことを 言い表わす

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一 41 一

のに二つの言葉があ る。 「 時 」と「時間」がそれであ る。 山本和によると ,

この区別はちょうど 和辻哲郎博士の 注意を引いた「 人 」と「人間」との 区

別に類似している。 73) すなわち,「 人 」は単に個としての 人間のみを表示す

るのに対して ,「人間」は 人と人との「間柄」においてあ る人間存在その

ものを表示すると 共に,世間,仲間などと 言った「間柄」においてのみ 実

存する個としての 人間を表示しうる。 741 そのように,「 時 」は一つの時と 他

の時との間の 不可分なカイロス 的時点のみを 表示するのに 対して,「時間Ⅰ

は一つの時から 他の時に向って 急進する運動を 表示すると共に ,こうした

運動においてしか 与えられていないカイロス 的時点をも表示し ぅる 。 これ

と 関連して山本和は 次のように述べている。

「時はく時間》として 一つの時と他の 時との間の時であ り,過去と未来

との間のく中間 時 》であ る現在であ る。 われわれが時の 中を生きるとは

時の間を,中間 時 を生きていることにほかならない。 われわれは一つの

時から他の時へと 生きる。 過去から未来へ ,昨日から明日へ 踏み入る一

歩 としての現在に 生き,今日を 生きている。 その現在は過去と 未来との

間の不可分の 時点 く冊舜宿ゴ ヵィ Ⅰ 木 ) であ ろう。 」 7 。 '

それでは過去とはどんな 時であ ろうか。 それは,我々がそこから 出て来

て,影のように 背負っている 時であ るが,「もはやない」時であ る。 過去が

もはやないというのは 二つのことを 意味する。 一方でほ,過去はまったく

奪い去られた 時であ り,逆転不可能の 時間の流れの 中に沈んでしまった 時

であ る。 山本和はこのことを ,過去の F 無 終極性ロと名づげている。 76) 他

方では,過去は 現在をあ るいは否定的にあ るいは肯定的に 制約する時であ

る 。 というのは, E . ブロッホが強調するように ,過去もかつて ,未来

を 指向する現在であ ったし,我々の 現在は , 今は過ぎ去ってしまったあ の

時の諸可能性が 実現されたり ,あ るいは喪失されたことの 結末だからであ

る。 それゆえ,過去を 現在化せしめるその 方法は,アウグスティヌスのい

う記憶ないし 想起ではあ るが, 77] 聖書の時間把握にも 見られたようにその

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一 42 一

記憶ないし想起は ,過去において 実現されたり ,あ るいは喪失された 未来

の諸可能性の 批判的な先取りを 常に含んでいるものであ る。 78)

では,未来とはどんな 時であ ろうか。 それは,我々がそこに 趣く恐怖も

しくは希望のうちに 先取りしている 時であ るが, r いまだないコ 時であ る。

未来がいまだないというのほまた 二つのことを 意味する。 一方では未来は

全然ない時,一切皆無でまだ 何も無い時であ る。 山本和はこのことを ,未

来の干 無 終極性 ] と 名づげている。 79) 他方では,未来は 現在によってあ る

いは否定的にあ るいは肯定的に 制約されて来る 時であ る。 というのも,未

来は現在において 実現されたり 喪失される諸可能性を 踏まえる時だからで

あ る。 それゆえ,未来を 現在化せしめる 方法は,期待もしくは 予 料の形を

取る先取りであ り,この先取りは 現在において 実現すべく,未来の 諸可能

性に対する責任の 悟りを含むものであ る。

ところで,現在とはどんな 時であ ろうか。 それはまさに 未来の諸可能性 に対する責任を 果たすための 時であ る。 他方,我々がもっともよく 知って

いると 届 け現在,あ の過去からこの 未来に踏み込むまん 中の一歩であ る現

在こそ山本和のい う 時の r 無 終極性口を ぃ ちばん明白に 表わしている。 「わ

れわれがく今こそ》何々するの 時などと大言壮語するその 時はもう過去に

滑り落ちているか ,未だ来たらぬ 未来の希望的観測かであ る。 」 80) この 現

在を掴む唯一の 方法は,未来の 諸 可 性能に対する 責任の自覚およびその 諸

可能性の実現に 奉仕すべき愛の 務めなのであ る。 が,個々人にとっては ,

未来のもっとも 確実は可能性,絶対回避されえない 到来事件は死であ る。

なお,本稿の 冒頭で紹介した 教理 聖 省の書簡の中で 新たに強調されるよ

う に,「教会は 死後の霊的要素の 持続と存続を 断言する。 これは, 意識と

意志を備えているから ,人間自我そのものとして 存続する。 」 8u) ここで断言

されている人格的アイデンティティの 持続と存続とは 一体どのように 理解

されよ うか 。 ラーナ一に よ ると, 「時間が人間の 死を越えて継続し , その

時間の中でいわゆる 丁霊魂 コが 生き続けるように 考え,したがって 時間が

最終的決定性の 中に止揚されるのでなく ,新しい時間が 到来するかのごと

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一 43 一

く 」考えてはならない。 82> 死は徹頭徹尾時間の 終結であ り,終末であ る。

したがって,死の 瞬間において ,人間は時の 千 無 終極性 コ をそのもっとも

深いところまで 悟る一方,「もはやない」過去が 沈む深淵の目 無 終極性占

および,「いまだない」未来が 陥落する深淵の に無 終極性川を離れて 神よ

り新しく創造された 者として果てしなぎ 生命を同時に ,全体として 完全に

所有するに至る。 しかし,この 所有は神 ご 自身のそれとは 異なるものであ

る。 なぜなら, 「地上における 私たちの愛が , 天における神の 栄光への私

たちの参加の 尺度であ る」という教理 聖 省の指摘からもわかるように ,人

間の果てしなぎ 生命は地上的生活に 関わり合っているからであ る。 8 がこの

こともまた当然だと 思われる。 というのも,死の 門を通る個々人の 人格的

アイデンティティは ,その人が時の 間になした諸々の 自由行為の成果であ

り,かつ,彼が 受けた諸々の 印象の結果だからであ る。 そういう意味で H

・ U . フォン,バルタ ザ一は 死後の生命を「時間の 収穫」と名づげてい

る。 84) n 一 フィン ク が説くように ,それは「時間によって 構成されてい

る 」からであ る。 , 5)

そのように考えてみれば ,死後の生命に 固有の次元は 神 ご 自身の永遠性

と経験上の時間性との 間に介在する 中間者だと言わざるを 得ない。 そして,

この中間次元にはちょうどトマスが 永 在の特異性として 浮 き 彫りにした

「変転性」 ( 廿 ㎝ smut あ Ⅲ ね 吋 があ てはまる。 すなわち,この 次元はそれ

自身としては 先 ・後を有せず , ただ, 先 ・後がこれに 結合されることは

可能であ る。 そして,個々人の 死を通して,この 次元に結合される 先 ・ 後

とは,まず個々人の 人格的アイデンティティの 中で結晶しているその 人自

身の人生空であ り,次には,その 人生皮に刻まれた 共同体の歴史,ひいて

は ,人類そのものの 歴史なのであ る。 かかる意味において ,ロ一フィン ク

はトマスの氷柱概俳に 示唆を得て ,神ご 自身の永遠性と 経験上の時間性と

の間に介在する 中間次元を ァ 変容した時 Jl (verklarte Ze 均と 名づげてい

る。 というのも,時の 間に形成してきた 個々人の人格的アイデンティティ

を 担い手として ,あ らゆる時間は 果てしなぎ生命の 中へ流れ込み ,唯一の

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一 44 一

「とどまる 今 J (nunc st 抽 s) となって変容していくからであ る。 ロ一フ

ィン ク がさらに強調するように , この「変容した 時」にはもはや 力 動的生

成 は e 轄と 静止的成果 (factum es ㏄ ) との区別はあ てはまらない。 す

なわち,個々人の 死を通してあ らゆる時間が 変容しつつあ る,というその 生成過程は同時に ,あ らゆる時間が 変容した,というその 成果ないしは 結

果 なのであ る。 換言すれば,死の 門を通る個々人 は 自分自身の終末的完成 を迎えるのみでなく ,同時に,世界および 歴史のそれをも 目のあ たりに見

るということであ る。 ただし,ロ一フィン ク が認めるようにこの 弁証法的

同時性についてこれ 以上論ずるには ,我々の概念構成は 不十分であ る。 ラ

一 ナーも別の関連においてこの 同時性を強調して ,次のような 逆説命題を

立てる。 「永遠とは時間の 中で,時間それ 自身の成熟した 実りとして成る

ものであ るⅠ 86)

ところが,教理 聖 省の指示に従えば ,世界および 歴史の終末的完成 は

「死の直後の 人間の状態に 対しては,別のもの ,延ばされたもの」と 考え

るべ ぎであ る。 8 ヵもちろん,時の 間に生きる我々にとって ほ ,或る人の死

は決して終末的完成と 同一の出来事ではあ るまい。 しかし, r 変容した時 凹

に与 かっているその 人自身からすれば ,それは自分の 状態に対しては「別

のもの,延ばされたもの」ではあ りえない。 なぜなら, 7 変容した時』に

おいては「もはやない 口過去も存在しなければ ,「いまだない」未来も 存

在しないからであ る。 あ えて,終末の「時点」について 語るならば,それ

は以下口 一 フィン グ が説明している 限りにおいてのみ 可能であ ろう。

「人間は死を 適して時間を 離れるが,そうすることによって 彼は,全歴

史も彼と 千 同時に自その 終末を迎える ,というその 点に到達する。 それ

は ,たとえ歴史が 田その間山地上的時間の 次元において ,無限に遠い

道程をたどってきたとしても ,であ る ゐ 。 8)

さて,これまで 述べたことからすでに 明らかなとおり ,宇宙もしくは 物

質的世界それ 自身の終末的完成は 終末論の問題とはなりえたい。 ラーナー

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一 45 - 一

が 強調するように ,物質的世界は「そもそも 精神・人格的な 歴史の場とし

て以外の意味」を 右しておらず ,前奏曲それ 自身 終 楽章とはなりえないの

と同様に, 「自己のうちに 留まるものとして , 物質的世界それ 自身は完成

を持たないのであ る。 」。 9' 他方,物質世界は 終末的完成には 全然与からな

いというわげでもない。 個々人の人格的アイデンティティを 担い手として

物質的世界も 終末的完成に 与かるのであ る。 というのは, グレシ フケ が示

すように,死後存続する 個々人の人格的アイデンティティは 非世界的・非

肉体的な「霊魂」であ るのではなく ,深く体に刻まれ ,体によって 世界の

一部を内面化した ,その人間自我であ り,全人間であ る。 そして, この 会

人間には, 神の恵みによって 果てしなぎ生命が 与えられるがゆえに , 「 死

に おいて T 体の復活 目 がおこるのであ る。 」 90] 一見, かなり冒険的にみら

れるこのテーゼを 正しく理解するためには ,その基礎となっている 人間学

の要点に留意する 必要があ る。 9"

この人間学は 伝統的心身二元論を 拒否し, 肉体と精神とを 不可分な統一

体 として捉えている。 そこで肉体はまず 精神の自己表現の 担い手として ク

ローズアップされる。 精神のもっとも 崇高な自己表現でさえも 深く肉体に

刻まれているということは , とくに言語の 一例から明らかであ る。 しか

し, 笑うことも, 泣くことも精神の 自己表現であ りながら, 全く肉体的

に 媒介された表現であ る。 同じことはまた 顔つぎや身ぶりについても 言え

る。 要するに,肉体によって 媒介された自己表現においてのみ ,人間は彼

自身として実存するわけであ る。 ところが,肉体は 精神の自己表現の 担い 手であ るのみならず ,精神に対する 世界の影響 圏 でもあ る。 肉体によって

人間はまず物質的世界に 組み込まれており ,極端な場合には ,物質的な衝

撃 によって抹殺されうるほど , この世界に引き 渡されている。 肉体は物質

的世界の一部であ り,それは人間自我もこの 一部であ ると言えるほどに 人

間の主体性を 規定している。 たとえば,環境もしくは 風土はだ覚的に 人間

の生活様式を 制約するのみでなく , 内的にもその 思考 法 , 行動のパター

ン ,宗教心などを 規定しているのであ る。 しかし人間はその 肉体によって ,

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一 46 一

物質的世界にのみでなく ,同じように 人間同志の共同世界に 組み込まれた

ものであ る。 個々人は肉体によって ,自分の家族との ,自分の民族との ,

自分の人種との ,そして最後に 人類全体との 血族関係にあ る。 彼は さらに

こりした血族関係を 越えた社会,国家,宗教団などの 一員であ り, 日常生

活において仲間の 影響を受 け ,世間に思いを 回らす。 結局,共同世界こそ

個々人の人格的アイデンティティを 構成するもっとも 重要な一因であ る。

グレシ アケ によると, この点はアウグスティヌスに 由来する人間学的伝承

の中で全く看過されていたものであ り,それゆえ 西洋思想史にみられる 一

切の思弁的関心 は 孤立した個人の 自由や自己認識に 向げられていた。 9 のも

ちろん,各自はあ くまで自由に 基づいて,自己のアイデティティを 投企 し

実現するが,各自の 自由は,しかし 具体的には,他者が 彼に自由の場を 与

え,それを尊重する 限りにおいて 可能なのであ る。 したがって,具体的な

自由は,各自が 各自に自由の 場を与えるところの 連帯的な秩序の 範囲での

み可能であ る。 そして, このような連帯的な 秩序において 各自は他者との

関わり合いを 通じて,次第に 自己のアイデンティティを 構成していくので

あ る。 93]

さて, グレシ フケ は上述した人間学的考察から 以下の二点を 帰結する。

第一に,死後の 果てしなぎ生命に 与かるのは,非肉体的な 霊魂ではなく ,

深く肉体に刻まれた「具体的な 主体性」であ り,「全人間」であ る。 54) した

がって,死を 通して果てしなき 生命にほいるというその 出来事は復活にほ

かならない。 第二に,死の 門を通る「主体の 具体的な構造においては ロ 世

界の一部山は 内面化され, 恒久に止揚されている。 」 96) したがって,世界

の終末的完成 は ,経験上の時間 綜 に沿って,個々人の 死を通して実現され

る 。 96)

4. 結論

以上,最近のカトリック 神学内でかなり 広がっている 終末論の新しい 捉

え方を体系的視座 ょ りまとめてきたが ,それはまだ 十分に成熟していない

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一 47 --

試みなので, 若干の問題が 残っている。 教理聖者が正しく 強調する よう

に,教会の祈り ,葬儀,死者のための 祭儀は「実質的には 神学の知識 源 で

あ る。 」 97) が, この知識源は 新しい捉え方の 中では十分に 組み込まれてい

るとは思われない。 教理聖者がさらに 強調するように ,新しい終末論を 組

み立てようとする 神学者 は ,至福直観,永劫の 罪および有限の 清めについ

ての教義を黙殺してはならない。 98) 確かに, この教義が新しい 捉え方には

あ まり反映していない ,ということは 事実であ ろう。 99) したがって,この

二点については 更なる考察が 必要だと思われる。 その点まで,問題の 新説

は一つの仮説として 慎重に検討されるべぎであ って,かつ,あ くまでも 神

学者同志の間のみで 討議されるべきであ ろう。 なぜなら,説教,要理およ

び一般向きの 概説書における 教義の断片的な 説明の仕方は 信者を惑わし ,

信仰を養 う どころか危うくすることに 終わってしまうからであ る。 事実,

教理 聖 省の書簡も明らかにそういった 司牧的配慮から 公表されたわけであ

る。 というのは,書簡の 末尾では,教理聖者はまず 神学者の「方法論が 正

当 に求める範囲の 自由」を認め ,次いで,信者に 対する配慮を 要求して,

以下のごとく 締め括りをつげている。

「神学者が私たちの 司牧的配慮に 与 かる よう にし,そのために ,彼らの

研究および調査が ,現在, これまでになく 信仰の危険にさらされている

信者の間で軽率に 発表されないよう 配慮する必要があ る。 」 '00 ,

さて,以上指摘した 欠点はともかくとして ,根本主張においては ,問題

の新説は教理 聖省よ り回想させられた 教会の教えに 矛盾していないと 思わ

れる。 たとえば, 死 と復活を同一の 出来事とするテーゼは ,一見,かなり

冒険的にみられるが ,教理里雀はそれを 批判しておらず ,「復活が全人間

にあ てはまる」という 指示にとどめている。 101) ところが, 既記 のとおり, 全人間が死において , 死 と共に復活するという 主張は新説の 要となって し

る。 もちろん,そこではかなり 掴み難い時間論が 前提とされており ,この

時間論をさらに 明確化することは ,大きな研究課題としてなおも 残される

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一 48 一

であ ろう。 他方,教理聖者自身もこの 時間論を直接には 問題にしていない

ということもまた 注目に価する。 したがって,時間と 永遠との新たな 関係

づけに焦点を 合わせて,終末論の 再考察を押し 進めても差し 支えないと 居 、

われる。 ' 。 "

事実,従来の 捉え方では,今日の 人間は思惟の 上でも,信仰内容の 実存

的 遂行の上でも 超克しがたい 困難に陥るのであ る。 たとえば, 私 審判と公

審判との間の「中間 時 」 (Zwischenze 的について聞く 人,あ るいは,煉獄

における 「一時的な 罰 」 (Poena temporalis) について聞く 人は, どうし

ても,直線的 サこ 継続される死後の 時間性を想像せざるを 得ない。 その ょう

な 想像の図式はかって ,本来意味されている 信仰内容を明確化するために

は ,それ自体無害で ,その捉え方は ,おそらく有益でさえあ りえた。 しか

し, ラーナーも強調するように , 「それは, 今日の人間には 助けとなるよ

りもむしろ困難を 造り出し, また自分が追体験しえぬ 想像の図式と 共に,

本来意味されている 内容さえも追体験できず ,情感性のないものとして 拒

否 してしまう誘惑をもたらすのであ る。 」 103) こうした状況の 下で,本稿に

おいて紹介した 新しい捉え方は , ょり明確化された 場合には,真の 助けと

なりえ よう 。 すなわち, T 変容した時』における 果てしなぎ生命は ,地上

的 時間の中で,時間それ 自身の成熟した 実りとして成るものであ る一方, 死において,時間から 解き放たれることを 通じて,時間を 止揚するもので

あ る。 そこで実現されるものは ,かって時間的であ ったものの,時間から

解放された究極性であ り,最終的決定性なのであ る。

そのように考えてみれば ,終末的完成に 対する神と人間との 相互作用も

浮 き 彫りにされてくる。 すなわち, r 変容した時山は 無償の恩恵による 神

ご 自身の下新しい 創造』のわざであ る。 しかし, T 変容した時目の 充満を

測る尺度は時間における 世界の完成および 人類の向上に 尽した愛の務めで

あ る。 そういう意味でまたグレシ アケ は言 う 。

「時間において 成されなかったものは ,成されなかったものとしてとど

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一 49 一

まる。 引 きほ ずされ,逸され ,失われた機会や 諸可能性は,新しい 世界

においても,恒久に 逸されたままであ り,欠如したままであ る。 時間に

おいて建てられたものは ,恒久に建てられたままにとどまる。 」, 04)

もちろん,本稿において 述べたことの 全体 は 信仰を前提とする。 この 信

仰はテ ・ デ ウムの中で次のようにうたわれる。 「 主よ , 我 , おんみにより

たのみたり,わが 望みはとこ し えに空しからじ。 」 (Inte,Do ㎞ ne.speravi.

Non c0nfund 虹 in aetemum.) 周知のごとく ,ブルック ナ 一の作曲では ,

この一句だけが 作品全体の四分の 一を占めている。 その内容はそれほど 中

心的で,かつ 言い表わしがたい 神秘だからであ ろう。

@)

l. SAc 蛆 CoN ㎝ 加 AT@o P 尺 0 DowRlNA FlDBl, Epi 豆佐 0 ノ ル %gr06ifes Pr 化 梯ル S

Co% ア ere れ fio ク ・ u 佛 Episc0p0zi ぴ佛ル gvi&Nsd0 席 花 0eSt われ i&ws 材 ESc 肋 toJogi0 席

$pe ㎡ o%zi6% AAS 71 (1979), 939443 (cit. 941). 以下,日本教理司教委員

全訳による引用,注解としては , A. ScH Ⅵ DT, 丘タ mi$c み e$ Le み rsc 沖り ズ 6% 揺 Ⅰ

榛 c ゐ加 of0gie: Theologie der Gegenwart 23 (1980), 50 ヰ 5.

2. 概観としては , G. GREsc,AKE 。 Esc 肋 fo わ 9 わ . Bz ぬり柁移移 9 笏甜 gege% の drtigg%

tAe0f0gisc 加乃 ん協わ %e ク n: G. BlTTE け G. M,L,E, (edd り , 庵 %: が re% ル wzig げ

r 古 e0log わ .Ⅲげ体 z0fz6%ic み ze,M0nchen l976, 203-212; F.J. NocKE,Esc ん援 09 ね .

Fr0ge%%0c ん花 r Z 移肋 %fzder M 笏 $c 舌ゐ eif: ibid.213-236; U.R 。 H. 月 ersp 乙 zioe 移

der Esc ゐ 0fo/ogie. Z か %eMer 笏 Di5 々 嚇 5 「 0% 庇ガげ 々 of み of75c ゐ e% T 庇 ozogie:

Herkorr l979 (33), 249 り 53.

3. 小林 珍雄訳 日新しい信仰の 木 d ( ヱ ンデルレ書店, 1975 年 ) 734 頁。

4. 概観としては , J. RA 且 lNGER, ホ c ぬ 村切 09 わ , Tod ぴ % な抑牢俺 L 笏勿 , Regensburg

1977, 9 ㌻ 94; A. ZlEGENHAus, Ⅱ ぴ /ersze んぴ %9 レ乃由 D ㏄ geeig%eze れ De 佛 ・

笏 odezz: MThZ28(1977). 11 た 114. 118 Ⅱ 21. 12 Ⅰ 129. より徹底した 研究として

は, A. AHL8REcHT, ro ガぴ移 みひ 舛 $zer6Jic 九々 ziz 弗 der e 切れ geziSc ル移 T 碗が 09 わ

ル r Gege 捌 0rt, Paderborn l963, 特に 4 ㌃ 67. 10 ㌃ 112. 129 Ⅱ 37.

5. 終末論に対する 教義決定の影響については , J. RATzINGER, 上掲 書 95-96; H.

V0RGRIMMLBR 。 H0 が 移 %9 ヲ Ⅰ wofJe 竹 dw%g. 九 % 升田 der 榛襯裾 ofog ぬ , Freiburg.

Basel.Wien l980 , 133-134. 151 Ⅰ 52.

@6.@ DS@ 3903:@ " ,, , expleto@ terrestris@ vitae@ cursu , fuisse@ corpore@ et@ anima@ ad

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一 50 一

caelestem gloriam assumptam. 。

7. K. RAHNER, Z ク T ル ofog わメ ㏄ To ぬ s, Freiburg,[email protected] l958. 背景につい

ては, H. V0RG Ⅲ MMLER. mo が 移移 9, 上掲 書 13 ㌻ 134.

8. K. RAHNE,, 乃 d. 上掲 書 28.

9. O.KA,,E,. M け り 掩 加乃 fic ル S 化鹿り瘤 A ひオとパ鹿脇移 g: Anima ll (1956), 33 ㌻

336.

10 , G. GR ト HAKE, A ひ /ersze みひ移 g der Toze 移 . 互ル Be@ り竹 9 z ひ r gegenwdrfige ガ

zAeofogz 支ル n Df$A ぬ $ われ妨げ die Z ひたひ n/z d グ GescA@. 己ゎ , Essen l969.

1l, G.GR 騰 HAKE/G. L0HFlNK,Naher り arz ひ ng-A げ グカ妨ひれナひ れ打 グ援 @kAAe@ Ⅰ, Freiburg.

Basel-Wien l975.

12, J. RATzlNGER, 上掲 書 14. 95 ド 8. 139. 150-160 .

13. 乃ぬ. 175 Ⅰ 93.

14. W. BREuN@NG, Sys@e 抑 ozi$c ん互れげ援ぬ ng ぬ re ㏄ hozo め 9i5%en A ひ 5%9e Ⅲ Mysa ヰ

V, 779%90 .特に 864 ヰ 90 .

15. J. F[NKENzELLER, Ⅲ ひ ん 抑 初棚磁ぬ 抑 Tod?. M 廿 nchen l976, 91 り 6. 144 一 147.

16. H. V0RGR@MMLER, D げ To メレル ぬれ ひ材 DenA 吻 der C 舷 /szen, D 億 seldo 「 f

1978, 120-126; ld 。 佛ガ朋 ng, 上掲 書 80 円 1. 153-155.

17. 古血 $zol0, 上掲 書 941 り 42.

18.@ Int , kath . Zschr , 9@ (1980) , 209-223.

19.@ Epistola , i@@@@ S42:@ "Christifideles@ haec@ duo@ essentialia@ capita@ fir Ⅲ ter

tenere@debent:@ ex@ una@ parte@ credant@ oportet@ fundamentalem@ contnuationem

quae , virtute@ Spiritus@ Sancti , inter@ praesentem@ vitam@in@ Christo@ et@ futuram

viam@ interced@@ (nam@ cari as@ est@ lex@ Regni@ Dei,@ atque@ ipsa@nostra@ in@ terris

ca で itate metienda e で it nost Ⅰ a in caelis divinae glo Ⅰ iae pa で ticipatio)@ ex

aIte で a ve で o pa で te p で obe nosce Ⅰ e debent Ⅰ ationes p で aesentis vitae at futu で a

valde inter se d ℡ ere, nam oeconomiae 6deisuccedit oecono 而 a plenaelucis,

ac nos cum Christo erimus et 。 Deum videb@u ゴ ー 。

20 .教理聖者自身も , また新説の通俗化した 書物を問題にしていることは ,注 100 に

挙げられたテキストから 知れよ 5 。

2l. J. モルトマンⅡ希望の 神学一キリスト 教的終末論の 基礎 づ げと帰結の研究コ 高

尾科数 訳 ( 新教出版社, 7 版, 1976 年 ) 4 頁を, K . ラーナー ア キリスト教とは

何か一現代カトリック 神学基礎論ロ 百瀬立見 訳 ( ヱ ンデルレ書店, 1981 年 ) 566

頁と比較せよ。

22. ラーナⅠ上掲 書 567 円 68 頁,更に詳しく K. RAHNER, Sc 舷げ fenz ひ ⅠⅠ ん eofog ね

]V, Einsiedeln , Zurich-Koln 1964 , 401-428

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一 51 一

23. 回書 569 頁。

24. P. リクール『解釈の 革新』久米 博 ・清水 誠 ・久田忠夫編訳 ( 白水仕, 1978 年 )

64 円 3, 特に 64, 67 頁。

25. 神話論的思考 法 との相違を明確化する 研究としては , M. ELIADB, D げ Ⅳ yzh0s

der 袈 ig 笏 Wieder ん eAr, Dtsseldorf l953, 204%05. 229%33.

26. この問題をめぐる 幾人かの神学者の 議論は, TTbQ 153 (1973@ 20L283 頁に 掲

載 されている。 論議会 休に 組織学的視座より 興味深い考察を 及 は すものとして

は, H. KUNG. Z 雄 E ん st 笏ぴ解 9 ぬ s Aufersteh ぴ解 gsg 加功 笏 s. Versuch ei 解ぴ

syst 笏尻 isc ん解 Klar ぴ解 B: TThQ l54 (1974), 103-117. 最良の伝承史的研究と

しては, K. BERGER, D わ A ひタグ st 勿力碑 des Pr 坤 het 笏ぴ 材が e Erhoh ひ解 S d ㏄

M6gnsc ル魅磁ね es. Traditio が 9 ㏄・ c ん c 肋は c 庇 ひねⅠ げ s ひ C ん似 9 ク名 wr De ぴナぴね g d げ

Geschichte J6gsu in/rit ん舷 istlic ル移 T 笏 ten, GOttingen l976.

27. J. モルトマン F 希望山上掲 書 185-231 頁 ,

28. 政治・社会革新的含蓄については , 上掲 書 32 片 3356 頁, さらに, J. モルトマン

『十字架につげられた 神口喜田川信・ 土屋 清 ・大橋秀夫共訳 ( 新教出版社, 1976

年 ) 416-443 頁, J. モルトマン『十字架と 革命四 大庭 信訳 ( 新教出版社, 1974

年 ) 259-287 頁,

2g. J. HocHsTAFFL. N6egorive Theorogle, M 廿 nchen l976, 3 ㌃, 49. 21 ㌻ ;223.

30 . J. モルトマン F 革命山上掲 書 177-188 頁。

31, 以下については , G. GREsHA ℡・ ふ c 肋 toloe わ ,上掲 書 20 ㌻ 1208; Id. Starker a 斥

der デ初 , Mainz l976. 1 Ⅰ ;22.

32. H. DIEHLs, Die Frag れクぬ e de Ⅰ vo0rsokratiker, Berlin7 1954: 8(28), Frae 7.8.

33. Pol 514 A-518 B. 以下に挙げる 黙示録の希望の 像については , E. ㏄ RsINl,

A 却 c0fissipri れ 0 9 みゆ 0 , T0rino 1980 , 515 ヰ 43 参照。 さらに解釈学的考察と

しては, 2 ナ 65 も参照、 されたい。

34. M. EL@ADE, Ⅲ igd げわ舷 ,上掲 書 125. 邦訳については , 堀 一郎訳 F 永遠回帰の

神話 一 祖型と反復 d ( 未来社, 第 10 脚発行, 1979 年 ) を参考にした。

35. Ibid. 127.

36. Ibid. 132.

37. H.D. PREu%. 乃肋 eg ぬ功 ク ぴ材 Z ひ 々 ぴね / ぬぴ w0rz ぴね g Stuttgart-Ber Ⅱ n-K6ln.

Mainz 1968, 74 一 80 ・主に G. フォン・ラートに 反論して,共通点を 指摘するも

のとしては, H. G 騰 E. G 捺 c み icAf は c ん $ De ね 々 ク 初山ル ね Or 姥湘ぴ材肱 Afzg ガ

ル sf0% ク %f: ZTbK 55 (1968), 127 Ⅰ 45 を参照されたい。

38. H.D. PREuss, 上掲 書 9 品 9. 205 り 10 .

39. W. ElcHRoDT, Ⅱ 4%ser のの れぴ移ど甘移み Z り 九 % Ⅰ 蕊 4% みれ んず笏 Afze 移 T45z の 篠り解た TbZ

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一 52 一

12 (1956), 103 一は 5.

40 . G. GR 。 sHAKE. 月ひア cr ㎡ 研ノ ㎎,上掲 君 191-193.

41. M. EL@AD". Ⅳわぬ 沌り舷 .上掲 害 152.

42. A. V ㏄ TL 。 . Z8 打 ひ移ど Z3 ん 幼 8rfege 移 みりん 庇 6% り ⅠⅠ み 8r Sic ん . Z 銘 Gr ひ移 dfcg ひれま

des Sgf 恭 zo グ S 用移 d@@ わ scs der K ケ chc 肪 diescr Wf ん ze ん : J.B. METz (ed り 。

Ⅳ & 比ひげ S 栢 ねど 移 is i 佛 G ぬ妨徽 , Mainz l965, 232.

43. M. BuB 。 R, Ⅳ グん U, Manchen-Heide@berg l964, 1031 一 1036

44, K. レーヴィトに 世界史と救済 史一 歴史哲学の神学的双提 凹 信太正三・長井和雄,

山本新共訳 ( 創立 社 , 第 2 版, 1978 年 ) 250-251 頁。

45. Th. Bo Ⅱ AANN, Z3 口 S んリラ Ⅰ ヲわ Ⅰ ん p. Dp 移た り 移ア佛 y88 「 互 rreic ん佛弗 どり 佛 e 「 iec ね izSC んり解 ・

GOttingen 41965, 118 円 20.

46. G. GR 騰 HA 。 E. A 吋 &rszeh ひ移 9, 上掲 書 190

47. G.H. 良 AT, ㎝ ow, A 移 mler んひ ?@9 笏 , 銘 Ⅰ施が 0S ぬ肋笏 A ひガぴ 田れ e des Z が砂の mfe 佛 ㏄

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49. 0. クルマンドキリストと 時日前田龍郎 訳 ( 岩波書店, lPS4 年 ) における直線的

救済史観を正当に 批判する中で , G. ネ ラン にキリスト論 d ( 倉 ll 支 社, 1979 年 )

" 』 "-3(2 頁はこの占を 右過していると 思われる。

50. C.H. RATscuow. [@ 把 寿 3,6..

5l. P. NE け FENzF,T, " 月 f.si die. p ガ Ⅱ ぽ乙 r Ze 力 ge わ れれ り れの 仲 ,., " (Gaf4, 何 . G 勿 , 0 れんりれ

ル移 biblische れ Zeitners@d れど 杉 is: BuL 4 (1963), 2%-239.

52. 山木 和 ,十 - 掲喜 223-224 頁。

53. G. LoHPlNK/G. GREsHAKE. No0herW0rtu れ g, 上掲 書 42.

54. Ibid. 41-50

SR. G. ネ ラン,上掲 吉 362 頁。

56, 柳瀬陸男「時と 永遠の問」 (489 号, 1974 年 2 月号 ), 同 「量子論と相対

論からの衝撃」田島節夫 佃 編 『講座現代哲学 1, 時間・空間コ ( 弘文室, 1977

年 ) 87-118, 特に 114-117 頁。

57. K. バルト げ ロマ 書コ 古村善夫 訳 ( 新教出版社,第 4 版, 1979 年 ) 12 頁。

58. E. BRuNNER. D ぴ Ewigc レる椛び 打力 ひ移 d Gegc 移り クれ , Manchen l967, 167.

5g. J. モルトマン げ 希望』上掲 蕃 70 イ 3 頁に 力 n えて,特に G. GR 騰 HAKE. 月ひタグ sze.

肋れ 9, 上掲 ぎ 12 ㌃ 133; G. GREsHAKE/G. L0H 田 NK, N0% Ⅰ りクれヵ碑 ,上掲 書 G ㌻ 64.

l11 円 13 はこの批判的な 問いを発する。

60 . K. RAHNE", ScAr げ zc 移 Z ひ r 笘加 0l09 わ Ⅷ, Einsiedeln,Znrich.K 卸 n lS67,587 Ⅰ 88.

6l. G. GREsHAKE/G. LoHPINK, NaherWiar ぬ毎 9, 上掲 書 f6 仁 f67

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一 53 一

62, S.T. l, q. 10 ・さらに, Sent. l. d. 37 。 q. 4. a. 3; Sent. 2, d. 2, q. l. a. l ゼ .

参照。 以下,高田姉郎訳 T 神学大全 1 Ⅱ 創 支社, 1960 年 ) による引用。 ただ

し,柳瀬陸男 り 量子論山上掲 書 114-117 頁に 従 つて, aevum を「 永在 」にす

る。

63. B0ETHlus, Dg Co 掩 0 ぬれ o 彬 P 侃 f0S 叩ん 70 ぽ y, 6 Ⅰ PL 63, 858 interminabilis

vitae 士 ota simul et pe ァ fecta posessio. 。

64. S,T. l. q. 10 . a. l. ad I. さらに, Sent. l. d. 8. q. 2. a. I.

65. lbid. ァ eSp.: 。 日 n co 色 nitionem aete ァ nita 士 iS opo ァ士 et noS veni ァ e pe ァ (co 色 niti-

onem) tempus. 。

66. Phys. 21g B; 22I B: dp,o 汐 r 円 瞬 0 。 ㎎, a 按冗卍旺 汐 。 用 i D0 ,。 po 。 ・

67. S.T. I, q. 10 , a. l. reSp.: 。 numeruS p 「 ioris et posterior ね in motu. 。

68. S.T. l, q. 10 , a. 4, ad. 2: ,nuXus ipsius nunc. ‥ e 鮒 tempuS. 。

69. S.T. I, q. I0. a. 2, ad 2.

70. S.T. I, q. I0. a. 5.

71. Ibid. resp,: "mensura eius non habebit prius et po 鮒 enius."

72. lbid.

73. 山本和, 上 . 掲害 215-216 頁。

74. 和辻哲郎全集第 9 巻 ( 岩波書店, 1962 年 ) 13-21 頁。

75. 山本和,上掲 書 216 頁。

7f6. 同 219 頁。

77. AuGusTlNus, Co れ mifessi,0 れ ㏄ ん 8 イ 0. 40 ・における memonia 概念に示唆を 得て,

J. RATz,N 。 ER, 上掲 書 150-157 は「物理的時間」 (PhysiSche Ze 田の流れから ,

「記憶の時」 (MenJonia-Ze Ⅲ の 恒存 性を区別し,終末的完成を 後者の般 終的決

定性への到達として 捉えている。 アウグスティヌス 自身の時間把握および 西 ・洋

史におけるその 影響については , F. ペレス「キリスト 教の時間と空間概念」 T 講

座』上掲 書 262-301 百 。

78. E. BL0cH. D ぴ P わ雁ゆ Ho が移れ 9I. Frankfurt I959, 82%4. 121 Ⅰ 28. 33L332

35 ㌻ 360 . 1632 Ⅱ 628.

79. 山木 和 ,上掲 書 219 頁。

80 . 同 217 頁。

81. 瓦 p/Stuf0 .上掲 善 941: ,Ecc@ia a 伍 rmat con Ⅱ nuationem et subsistentiam.

post mortem. elementi Spiritua@ , conScientia et vo@untate praed Ⅲ. ita ut

ipsum .e 色 o humanum,. ‥ Su ㎏ istat. 。

82. ラーナー T キリスト教山上掲 書 574 頁。

83. 出典 注 19 にあ る。

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一村 一

84. H.U. von BALTHAsAR,D ㏄ Ga 解り 伍沖 ag れり 移 f. Asb 乙ルガぴ Gesc 厄磁 打切 eolo9 わ ,

Einsiedeln 1965, 59.

85. G. GREsHAKE/G. LoHFlNK, Na ぬ Wartune. 上掲 書 67. 67-73.

86. K. ラーナー ァ キリスト教山上掲 書 574 頁。 さらに詳しく , K.RAHNER, S 己 / 巾笏

Ⅰ V, 上掲 書 429-437.

87. Episturo, 上掲 書 941: "Ecclesia. ‥ expectat .gloriosam manifestationem Domini

nostri Jesu Christi, quam tamen distinctam et d Ⅱ tetam credit, respectu

habito hominum condicionis statim post mortem 。 (No. 5),

88. G. GREsHAKE/G. LoHFlNK, Mo0her の [o 「 tune, 上掲 書 72.

89. K.RAHNER,S 己 / か te れ Ⅷ,上掲 書 608 を 千 キリスト教山上掲 書 586 頁と比較せよ。

90. G. GREscHAKE, Auf げ ste 肋 ng, 上掲 書 385.

91, 以下全体については , G. GREsHAKE, Auferste みひれ 9, 上掲 書 360-370; id., Gnade

als ko@7 々 れ te Fre 荻 eit. Ei 擁 ぴれ ters ひ Ⅰ みひれ g zur G れ oade ん勿 Ⅱ des Peelagi ひ s,

Mainz 1972, 260-310 のほかに, K. RAHNER, Schr げ tp れ 名 wr Theol0g4e M,

[email protected] 1964, 47-60;B. W. WELTE, Awf der S ナ雄 des Ewigen,

Freiburg.Basel.Wien l965, 83-112; F.P. 几 oRENzA/J.B., METz, Der Mee れ msch als

R ぬぬ力 v0 れ LeW& @(n ガ Seele: MySal I, 584-636 を参照されたい。

82. G. GREsHAKE, G れ ade, 上掲 書 256-274.

93. 1bid. 287-288. 293. 295-299.

94. ld., Auferste 伽れ 9, 上掲 書 385; id ‥ 几 d, 上掲 書 66.

95. G. GREsHAKE/G. LoHFINK, Nahe 「の ia 「 tu れ g, 上掲 書 116.

96. 以上の二 白は ついては, ibid., 113-120. 143-147; G. GR 珪 HAKE, Aufersteh ノれ 9,

上掲 書 373-395; id 。 乃 d, 上掲 書 66-73.

97.@ Epistula , _hSBHI@ 941:@ " .,, precatio , funebres@ ritus , cultus@ mortuorum:@ quae

omnia , quoad@ suam@ substantiam , locos@ theologicos@ constitunt"@ (No , 4) .

98.@ Ibid , @41-942:@ "Ecclesia ,.. credit@ beatitudinem@ iustorum . , , Item@ ipsa@ credit

poena@ aeterna@ pl ctendum@ fore@ peccatorum,@ qui@ DC@ vi i ne@ p Ⅱ vabiur. , , Ad

el ctos@ autem@ quod@ at Ⅰ net,@ cred@@ etam@ habe Ⅱ posse@ pu Ⅱ ficatonem@ vi ioni

DC@ praeviam,@ quae@ tamen@ prorsus@ diversa@ est@a@damnatorum@ poena.@ Id

Eccle ㎡ a inte Ⅲ git, cum de Inferno ac de Purgatorio loquitur" (N0. 7).

89. かなり漠然とした 試みは, G. GREsHAKE, ん d. 上掲 書 7f6-M3 にみられる。

100. Ehistola, 上掲 書 943: "Necessarium quoque est operam dare, ut theologi

nostro Ⅱ uumm pastoraIlum so Ⅲ citudinum participes f6ant, hocquidem proposito,

ne eo Ⅱ uum studia investigationesque teme Ⅱ ee proferantur inte Ⅱ 丘 deles, qui, si

alias umquam , hodie potissimum fidei periculis sunt obnoxii , "

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一 55 一

101.@ Ibid . 941:@ "Ecclesia@hanc@resurrectionem@ita@intellegit , ut@ ad@tot Ⅴ @@hominem

referatur. . ."@ (No , 2)

102.@ K . RAHNER , Schriften@ zur@ Theologie@ XII , Einsiedeln ・ Zflrich , Koln@ 1975:@ , Wer

die@ Meinung@ vertritt , die@ eine@ und@ ganze@ Vollendung@ des@ Menschen@ nach

。 Leib , und@ 。 Seele , trete@ Ⅲ t@ dem@ Tod@ un Ⅲ ttelbar@ ein , die@ 。 Auferstehung

des@ Fleisches , und@ das@ 。 allgemeine@ Gericht , ereigne@ sich@ der@ zeitlichen

Geschichte der Welt .entlang,, und beides 6ele zusammen mit der Summe

der partikularen Gerichte der E 面 zelmenschen, der istnich Ⅱ nGefahr, eine

H 打 esie zu verteidigen."

103. K ラーナー ロ キリスト教山上掲 書 573 頁。

104. A. GR 騰 HAKE, Auferstehung, 上掲 書 394 づ 95.

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一 118 一

DEATH@ AND@ RESURRECTION

Hans , Jurgen@ MARX

The@ belief@ @@ the@ resurrecti n@ of@ the@ dead@ is@ certai Ⅰ one@ of@ the

most@ essential@ tenets@ of@ Christian@ faith . However , in@ recent@ eschatolo-

gical@ studies@ by@ Catholic@ theologians@ this@ tenet@ has@ been@ interpreted@ in

such@ a@ way@ that@ the@ resurrection@ of@ the@ dead@ is@ seen@ to@ coincide@ with

the@ death@ of@ each@ individual@ person , Vulgarizations@ of@ this@ new@theory

have@ prompted@ the@ Sacred@ Congregation@ for@ the@ Doctrine@ of@ Faith@to publish@ a@ letter@ by@ which@traditional@teaching@ is@reaffirmed . The@present

ar@cle@ attempts@ to@ systematic3ly@ summarize@ the@ new@ theory@ and@ to

show@ that@ its@ basic@ affirmation@ does@ not@ contradict@ the@ essence@ of

traditional@ teaching , even@ though@ it@ becomes@ quite@ clear@ that@ this

theory , at@ the@ present@ stage , is@ still@ too@ immature@ in@ order@ to@ be

propagated@ among@ the@ faithful@ in@ sermons , catechetical@ instructions

and@ vulgarized@ religious@ writings .

The@ first@ chapter@ provides@ a@ rough@ sketch@ of@ the@origin@and@criticism

of@ the@ theory , The@ second@ chapter@ summarizes@ its@ hermeneutical@ pre-

suppositions@ by@ first@ pointing@ out@ that@ the@ eschatological@ discourse@ of

primitive@ Christianity@ employs@ images@(not@ concepts1)@ of@ hope@ derived

from@ the@ unique@ Easter@ experience@ of@ the@ disciples . What@ the@ disciples

experienced@ and@ subsequently@ the@ first@ believers@ of@ their@ testimony

hoped for can be fo で ma@zed as the eschatologlca) れ り ま乙 わ りれ ク月 肪り

negat@ve , This@ concretely@ is@ expressed@by@the@images@of@the@resurrection

and@ the@ new@ creation , Secondly , it@ is@ shown@ that@ these@ images@ derive

from@ a@ concept@ of@ time@ which@ is@ quite@ different@ from@ our@linear@notion .

Generally@ speaking , scripture@ time@ is@ taken@ to@ be@ the@ kairological@ pre ,

sent@ between@God , s@ wondrous@ deeds@ in@ the@ past@ and@ His@ unsurpassable

intervention@ in@ the@ future , which@ puts@ an@ end@ to@ time@ as@ it@ has@ been

hitherto , However , this@ end@ is@ not@ understood@ as@ being@ the@ final@ point

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一 119 一

of@ a@ linear@ movement@ of@ time@ which , in@ the@ meantime , might@ proceed

for@ several@ milleniums , It@ thrusts@ into@ the@ present , qualifying@ it@ thus

as@ the@ time@ for@ deciding@ one , s@ final@ destiny ,

The@ third@ chapter@ starts@ with@ observing@ that@ modern@ Protestant

theology@ has@ tried@ to@ adopt@ the@ biblical@ notion@ of@ time@ by@ substituting the@ future@ for@ the@ eternal , arriving@thus@ at@ the@ affirmation@ of@ a@ diame ,

trical@ opposition@ between@ time@ and@ eternity . From@ this@ affirmation ,

then , quite@ naturally@ follows@ the@ identification@ of@ individual@ and@ collec ,

tive@ eschatology . However , this@ solution@ entails@ grave@ difficulties@ for

a@ Christian@ understanding@ of@ reality , since@ all@ innerworldly@ activity

beyond@ the@ realm@ of@ the@ individual@ moral@ act@ becomes@ devoid@ of@ any

real@ bearing@ on@ the@ final@ shape@ of@ the@ life@ to@ come . In@ order@ to@ arrive

at@a@ more@ sophisticated@ concept@ of@ eternal@ life , the@ medieval@ notion@ of

the@ aevum@ is@ introduced@ which , as@ an@ intermediate@ form@ of@ existence

between@ tme@ and@ eterniy,@ oTgi ally@ was@ meant@ to@ apply@ to@ created

spiritual@ beings , such@ as@ the@ angels , According@ to@ St ・ Thomas , the

召幼び移 is distinguished from the eternal , which s ㎡ ctly speaking applies

eXclusively 士 o God, by 士 he fact 士 hat it 億 open to 庁移掩移ぴ Ⅰ 己 城田Ⅰ㏄,

thus being able 士 o undergo an accidenta@ change analogous to 田 e

movement of time. Secondly it is shown from a phenomenological

description of eXistence in time 士 hat the 簿 me is true also for 士 he ℡ e

after death, as eXpected by Christian believers. The after ℡ e as such

is@ not@ anymore@ subjected@ to@ time . Nevertheless , it@ is@ constituted@ by

time , insofar@ as@ the@ personal@ identity@ of@ each@ man , elevated@ to@ new

life@ by@ the@ creative@ power@ of@ God , is@ the@ result@ of@ life@ experience

made in tin,l, and history. What 甘 ad Ⅲ on 沖 y has been calleled etern 目

llfe, thus, more adequatelyy could bo ch 町 actenlzed astron 軌 S 雄 gd tim の

since@ through@ the@ individual@ death@ of@ each@ person@ time@ is@ transformed

into@ the@ dimension@ of@ its@ everlasting@ finality , Out@ of@ this@ consideration ,

two@ conclusions@ are@ derived , First , the@ individual@ death@ of@ each

person@ is@ identical@ with@ the@ universal@ eschaton , since@ beyond@ death ,

士 he Ⅰ e ls no dl 什 e 工 ence between 七卜 e 移 oz し れノりリ のⅠ タ and the 移 oz ノ尻 of

existence@ within@ the@ linear@ movement@ of@ time . Secondly , death@ is

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一 120 一

identical@ with@ the@ resurrection@ of@ the@ whole@man , since@ the@ personal

identity@ of@ each@ man@ is@ formed@ by@ its@ bodily@ existence@ in@ space@ and

time ,

The@ fourth@ chapter@ provides@ a@ critical@ evaluation@ of@ the@ new@ theory

by@ pointing@ out@ that@ it@ is@ not@ yet@ thought@ through@ in@ such@ a@way@ that

it@ succeeds@ in@ integrating@ some@ basic@ aspects@ of@ traditional@ teaching .

On@ the@ other@ hand , it@ is@ stressed@ that@ the@ new@ theory@ is@ a@ valid@ hypo ,

thesis@ to@ be@ discussed@ among@ the@ theologians@ since@ it@ points@ out@ the

direction@ for@ solving@ long@ standing@ problems@ of@ traditional@ eschatology ,