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2010年 9 月 N121 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 国立成育医療研究センター周産期診療部 久保 隆彦 座長:埼玉医科大学総合医療センター 博之 宮崎大学 池ノ上 前置胎盤・癒着胎盤の帝王切開時大量出血による母体死亡例が刑事裁判となり,幸い無 罪が確定したが,医師だけではなく国民の注目を集めた.この裁判で明らかとなったこと は,妊娠・分娩で緊急大量出血を来たすことは医学常識であるが,そのことすら一般国民 は知らず,その対応に奮闘している産科臨床の現場の医師との間に大きな認識のズレがあ ることである.しかも,この50年間常に分娩時大量出血は我が国の妊産婦死亡の主要死 因であり,適切な輸血療法を実施しなければ,簡単に母体死亡となる.しかし,厚生労働 省「輸血療法の実施に関する指針」 (改訂版)及び「血液製剤の使用指針」 (改訂版)では産科 出血についてはほとんど言及されておらず,しかも産科出血の特徴も考慮されてない実地 臨床とかけ離れた指針となっている. 司法における大量出血 産科医療事故裁判ではどの時点で輸血を準備し,いつ開始したかがしばしば論点となる. 医師であり弁護士であり国会議員である古川俊治は「輸血に関する医療事故と医療従事者 の責任」の論文で,一般に,分娩時の異常出血に対しては,500~1,000mL 程度までの 出血では早めに血管確保を行って輸液を行い,1,000mL を超えれば適切に輸血を開始し, 特別の事情がない限り,遅くとも1,500mL を超えるまでには輸血を開始しなければなら ないとしている. 大阪地方裁判所平成8年11月20日判決(判例タイムズ947号235頁)では,分娩後大量出 血輸血開始遅延(出血原因致死的羊水塞栓症)では,出血が1,000mL を超えた時点で輸血 を開始すべきであったとし,病院の担当医師に,輸血が30分から1時間遅延した点に過失 を認めた.その判旨では,分娩時の異常出血とは,分娩時又は分娩後2時間以内の出血量 が500mL 以上の場合をいい,血管を確保しておく必要があるが,出血の予兆が認められ た場合には,乳酸加リンゲル→低分子デキストラン→血液製剤→輸血へと遅滞なく切替え ることが必要である.日本母性保護産婦人科医会では分娩時出血量が1L に達しようとす クリニカルカンファレンス2 産科異常出血の管理 1)分娩時異常出血量の新しい考え方 Takahiko KUBO National Center for Child Health and Development, Tokyo Key words : Postpartum hemorrhage・Critical bleeding・Shock index

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Page 1: 1)分娩時異常出血量の新しい考え方 - jsog.or.jp · 2010年9月 n―121 国立成育医療研究センター周産期診療部 久保 隆彦 座長:埼玉医科大学総合医療センター

2010年 9 月 N―121

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国立成育医療研究センター周産期診療部久保 隆彦

座長:埼玉医科大学総合医療センター関 博之

宮崎大学池ノ上 克

緒 言前置胎盤・癒着胎盤の帝王切開時大量出血による母体死亡例が刑事裁判となり,幸い無

罪が確定したが,医師だけではなく国民の注目を集めた.この裁判で明らかとなったことは,妊娠・分娩で緊急大量出血を来たすことは医学常識であるが,そのことすら一般国民は知らず,その対応に奮闘している産科臨床の現場の医師との間に大きな認識のズレがあることである.しかも,この50年間常に分娩時大量出血は我が国の妊産婦死亡の主要死因であり,適切な輸血療法を実施しなければ,簡単に母体死亡となる.しかし,厚生労働省「輸血療法の実施に関する指針」(改訂版)及び「血液製剤の使用指針」(改訂版)では産科出血についてはほとんど言及されておらず,しかも産科出血の特徴も考慮されてない実地臨床とかけ離れた指針となっている.

司法における大量出血産科医療事故裁判ではどの時点で輸血を準備し,いつ開始したかがしばしば論点となる.

医師であり弁護士であり国会議員である古川俊治は「輸血に関する医療事故と医療従事者の責任」の論文で,一般に,分娩時の異常出血に対しては,500~1,000mL程度までの出血では早めに血管確保を行って輸液を行い,1,000mLを超えれば適切に輸血を開始し,特別の事情がない限り,遅くとも1,500mLを超えるまでには輸血を開始しなければならないとしている.大阪地方裁判所平成8年11月20日判決(判例タイムズ947号235頁)では,分娩後大量出

血輸血開始遅延(出血原因致死的羊水塞栓症)では,出血が1,000mLを超えた時点で輸血を開始すべきであったとし,病院の担当医師に,輸血が30分から1時間遅延した点に過失を認めた.その判旨では,分娩時の異常出血とは,分娩時又は分娩後2時間以内の出血量が500mL以上の場合をいい,血管を確保しておく必要があるが,出血の予兆が認められた場合には,乳酸加リンゲル→低分子デキストラン→血液製剤→輸血へと遅滞なく切替えることが必要である.日本母性保護産婦人科医会では分娩時出血量が1Lに達しようとす

クリニカルカンファレンス2 産科異常出血の管理

1)分娩時異常出血量の新しい考え方

Takahiko KUBONational Center for Child Health and Development, Tokyo

Key words : Postpartum hemorrhage・Critical bleeding・Shock index

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N―122 日産婦誌62巻 9 号

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(図1)

るころには,輸血が即時に実施できるように準備して適切に輸血を行うことが望ましく,この基準を「日母基準」というとしている.このように司法判断の分娩時異常出血の基準としては一様に「500mL」である.さら

に,その外出血量が輸血開始の判断基準となり,輸血準備をしなかったことが産科医の責任となり,産科裁判で大きな問題となっている.

分娩時異常出血量日本産科婦人科学会用語集には「分娩時異常出血:正常分娩の出血量は500mL未満と

されており,それを超える量の出血を分娩時異常出血という」の定義(日本産科婦人科学会編 産科婦人科用語集・用語解説集,金原出版,2008年3月)がある.500mLの根拠は明らかではないが,戦後,経腟分娩を主体とした小規模調査でその90パーセンタイルを基準と設定したようである.また,30年以上前の「1,000mLを超えれば輸血」の過去の文献が顔をきかしているが,日常産科臨床で1~2Lを超える出血は稀ではなく,2L以上の帝王切開でも多くの場合は無輸血で対応できることが多い.本当に分娩時出血はそんなに少ないのか,分娩様式その他で出血量に差はないのかを日

本産科婦人科学会周産期委員会データベースを利用し,2001~2005年5年間253,607例について分娩時出血量を検討した.この解析中に分かったことは,分娩時出血量は単胎か多胎か,経腟か帝切かで大きく異なることである.そのため,4群(単胎・経腟,単胎・帝王切開,多胎・経腟,多胎・帝王切開)に分け集計した.生理現象で頻用される90パーセンタイルは,各群は単胎・経腟分娩:800mL,単胎・帝王切開:1,500mL,多胎・経腟分娩:1,600mL,多胎・帝王切開:2,300mLとなる(図1).このことから,多胎,帝王切開は分娩時出血の大きな要因といえる.帝切では羊水を出血と分娩不可能なために出

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2010年 9 月 N―123

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血量に羊水が混入して実際より多く測定してしまうこと,出血量が多くなれば大量点滴を必要とするため,母体血液が希釈されて実際より多くカウントされることを避けることができないためである.海外での報告はどうだろうか.ACOGの Practice Bulletin(2006)では,An estimated

blood loss in excess of 500mL following a vaginal birth or a loss of greater than1,000mL following cesarean birth often has been used for the diagnosis, but theaverage volume of blood lost at delivery can approach these amounts. BMC Preg-nancy and Childbirth(2009, 9:55)あるいはUniversity of Rochester Medical Cen-ter(online encyclopedia)でも,単胎経腟分娩の平均出血量は500mL,帝王切開は1,000mLであり,今回の我々の集計の出血量と合致する.海外の基準,今回の検討から,分娩様式でも出血量は異なり,日産婦の分娩様式を考慮

していない異常出血の基準は現実には即したものではなく,早急に分娩時出血量の定義改訂が必要であろう.

輸血開始基準分娩時の輸血開始はカウントされた出血量のみで決定すべきではない.これは実際にカ

ウントされる出血量が本来の妊婦の失血量とは異なるからである.また,頸管裂傷,子宮破裂,手術損傷などで後腹膜腔への出血では外出血は少なく,輸血のタイミングを見逃すこともある.したがって,出血量が少ないから輸血は必要ない,1Lを越えたらあるいはHbが8g�dL を切れば輸血をするなどと安易に判断することは危険といえる.それでは何を基準に輸血を開始すべきだろうか.我々は輸血開始基準としては妊産婦の

バイタルサインを重視すべきと考えている.特に血圧の低下(低血圧),脈拍の上昇(頻脈),ショックインデックス(脈拍数�収縮期血圧)の上昇,SpO2の低下,乏尿の所見が出現すれば輸血を考慮すべきである.特に,ショックインデックスは輸血の判断には重要な指標で,1を越えれば輸血を準備し,1.5を越えれば輸血を開始すべきであろう.妊婦の場合,ショックインデックスは非妊婦に比較し,推測出血量は多くなると言われ,1で1,500mL,1.5で2,500mLに相当する.したがって,輸血が困難な一次施設ではショックインデックス1の時点で高次施設への搬送を考慮すべきである.当院での分娩・帝切時の出血量と輸血率をみてみると,分娩様式によらず,500mLを

越えると少数であるが輸血例があり,1Lを超えると1~4%,1.5L を越えると13~15%,2Lを越えると約3割が輸血を実施されていた.分娩様式でみると,10%以上に同種血輸血を要するラインは,経腟で1,500mL,帝王切開で2,000mLであろう.しかし,3Lを越えてもバイタルが安定していれば大半は十分な補液のみで無輸血で安全に経腟分娩,帝切が終了できた.

産科危機的出血への対応ガイドラインこれまで述べたことを基に,5学会で共同し,9回の委員会,各理事会での検討,パブ

リックコメント募集の手順を踏み,「産科危機的出血への対応ガイドライン」を作成し,2010年4月8日に厚生労働省記者クラブで記者会見,公表した.日本産科婦人科学会の産科ガイドライン2011年にも掲載予定なので, 今後広く活用されることが望まれる(図2).なお,作成委員は,稲田英一;順天堂大学医学部麻酔科学・ペインクリニック講座教授

【4,5】,入田和男;九州大学病院医療安全管理部副部長・准教授【4,5】,上江洲富夫;沖縄県赤十字血液センター事務部長【5】,大塚節子;岐阜大学医学部附属病院輸血部副

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N―124 日産婦誌62巻 9 号

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(図2)

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2010年 9 月 N―125

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部長【5】,川端正清;同愛記念病院産婦人科部長【2】,久保隆彦;国立成育医療研究センター周産期診療部産科医長【1,3,5】,中井章人;日本医科大学産婦人科教授【2】,吉場史朗;東海大学医学部付属病院細胞移植再生医療科輸血室室長【5】.作成5学会(五十音順)は1.日本産科婦人科学会,2.日本産婦人科医会,3.日本周産期・新生児医学会,4.日本麻酔科学会,5.日本輸血・細胞治療学会である.

分娩時の緊急輸血を巡る今後の問題点著者が行った日産婦周産期委員会の全国調査では妊産婦死亡を含めた妊婦重症管理例は

分娩250人に1人も発生し,その約9割が産科大量出血に関係していた.即ち,約300人に1人の分娩時大量出血が発生することを意味するが,このことは一般の妊婦にはほとんど知られておらず,妊娠・分娩の危険性,出血・輸血を行うことが多いことについて周知させることが重要であろう.また,大量出血の場合には血液センターからの血液供給が不可欠だが,その頼みの綱と

なる血液センターの製剤業務は赤字のため平成25年を目標に全国11カ所に集約化されることが決定している.分娩時大量出血は輸血の切れ目が母体生命の分岐点となるので,血液供給施設の確保とその対策も各医療圏で早急に行う必要がある.コストパフォーマンスの関係ですべての分娩施設で輸血用血液を十分にストックできない現状では,緊急時にはどのくらいの時間でどの程度の血液を準備できるかを各施設で常日頃からシュミレーションしておくことが大切である.

分娩時異常出血量についての提案単胎・経腟分娩の出血量の90パーセンタイルは800mL,帝切は1,500mLであり,多

胎はさらに多い(経腟:1,600mL,帝切:2,300mL).したがって,これまでの「500mL以上が分娩時異常出血」の定義は見直す必要がある.異常量ではなく,90パーセンタイルを表示すること,分娩様式・胎児数でも異なることを明記することが望ましい.また,外出血量は必ずしも妊産褥婦の循環動態を反映しないので,輸血基準としてはバイタルサイン特にショックインデックスを指標とすることを推奨する.