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第一コリント書におけるパウロの論敵に ついての一考察 社会的、文化的視点から The Opponents of Paul in 1 Corinthians from the Social and Cultural Viewpoint 村山盛葦 Moriyoshi Murayama キーワード パウロ、第一コリント書、論敵、修辞学、神殿の食事、主の晩餐 KEY WORDS Paul, 1 Corinthians , opponents, rhetoric, meal at temple, Lord’ s Supper 要旨 パウロの論敵は、ギリシア・ローマ世界の社会的、文化的理想と価値観に依拠して いた。このことは、彼らが「この世の知恵」を受容していること、神殿の食事に頻繁 に参加していること、そして、彼らの主の晩餐での振る舞いから論証することができ る。「この世の知恵」は、ギリシア・ローマ文化を根底から支えていた「修辞の文化」 を示す。そこに見出される上流階級的価値観、理想に彼らは執着していた。神殿の食 事は宗教的意義だけでなく、社会的、政治的意義ももっていた。それへの参加は、社 会的、政治的安定や昇進にとって欠かすことのできないものであり、さらには、権力 当局による祭儀システムに参与することを意味した。主の晩餐での混乱は、彼らが当 時の食事会における上流階級的風潮(高慢さ、下層階級への軽蔑など)を共有してい たことを示している。こういうわけでパウロの論敵は、この世の価値観、理想に心を 奪われ、コリントのエリート文化に執着していたと言える。 SUMMARY The opponents of Paul in 1 Corinthians adhered closely to Greco-Roman cultural values 58 基督教研究 第68巻 第2号

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  • 16 MURAYAMA 0001

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点からThe Opponents of Paul in 1 Corinthians from the Social and

    Cultural Viewpoint

    村 山 盛 葦Moriyoshi Murayama

    キーワード

    パウロ、第一コリント書、論敵、修辞学、神殿の食事、主の晩餐

    KEY WORDS

    Paul,1 Corinthians,opponents,rhetoric,meal at temple,Lord’s Supper

    要旨

    パウロの論敵は、ギリシア・ローマ世界の社会的、文化的理想と価値観に依拠して

    いた。このことは、彼らが「この世の知恵」を受容していること、神殿の食事に頻繁

    に参加していること、そして、彼らの主の晩餐での振る舞いから論証することができ

    る。「この世の知恵」は、ギリシア・ローマ文化を根底から支えていた「修辞の文化」

    を示す。そこに見出される上流階級的価値観、理想に彼らは執着していた。神殿の食

    事は宗教的意義だけでなく、社会的、政治的意義ももっていた。それへの参加は、社

    会的、政治的安定や昇進にとって欠かすことのできないものであり、さらには、権力

    当局による祭儀システムに参与することを意味した。主の晩餐での混乱は、彼らが当

    時の食事会における上流階級的風潮(高慢さ、下層階級への軽蔑など)を共有してい

    たことを示している。こういうわけでパウロの論敵は、この世の価値観、理想に心を

    奪われ、コリントのエリート文化に執着していたと言える。

    SUMMARY

    The opponents of Paul in 1Corinthians adhered closely to Greco-Roman cultural values

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    基督教研究 第68巻 第2号

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    and ideals. They valued “the wisdom of this world,”regularly participated in temple

    meal,and had the dinner party at the Lord’s Supper.The wisdom of this world indicates

    the culture of rhetoric, which was essential to Greco-Roman society. The opponents

    embraced the culture and its relevant upper-class values.The participation in temple meal

    was not only religious but also social and political in significance. It was obligatory and

    essential for their social stability and advancement.Furthermore, the participation meant

    to be integrated into the sacrificial system of the authorities/the elites,ultimately,of the

    imperial rule. The disorder at the Lord’s Supper indicates that the opponents shared

    cultural ethos of the upper-class people at the Greco-Roman dinner party, which ac-

    companied arrogance, excess, contempt for the poor, and so forth. Thus,we can argue

    that the opponents adhered to the culture of the elite Corinthians, occupied with its

    values and ideals.

    1.問題の所在

    パウロの論敵を考察することは、ある人の電話の会話を聞きながらその人がどんな

    相手と会話しているのか想像するようなものでつねに推測の域をでない。それゆえ、

    いろいろな論敵像が研究者によって提出されてきた。たとえば、ユダヤ主義者(F.

    C. Baur)、グノーシス主義者(W. Lutgert, W. Schmithals)、霊的熱狂主義者(E.

    Kasemann)、現在的終末論主義者(A.C.Thiselton)、ヘレニズム・ユダヤ教の知恵主

    義者(B. A. Pearson, R. A. Horsley)、あるいは女預言者(A.Wire)。これらの研究

    はいずれも、論敵の宗教的(神学的)特徴を捉えようとするものであった。しかし近

    年、論敵の社会的、文化的背景を分析する数々の研究がなされてきている(G.Theis-

    sen, W. A. Meeks, W. L. Willis, P. Marshall, A. C. Mitchell, L. L. Welborn, S. M.

    Pogoloff,J.K.Chow,A.D.Clarke,D.Litfin,D.B.Martin,W.Deming,D.G.Horrell,

    J.J.Meggitt,B.W.Winterなど)。無論、このアプローチも推測の域を超えることは

    出来ないが、第一コリント書で議論されているさまざまな問題の背後に一貫して論敵

    の社会的、文化的要因があったことを一定の説得力をもって示してくれる。

    本小論はこのアプローチを採用しながら、つまり、都市コリントの社会的、文化的

    背景を論拠に、論敵像を明らかにしようとするものである。具体的には3つの事例に

    焦点をあてながら、パウロの論敵がギリシア・ローマの社会的、文化的理想、価値観

    に依拠していたことを論述する。すなわち、彼らが「この世の知恵」を受容している

    こと(1章~4章)、神殿の食事に頻繁に参加していること(8章~10章)、そして、

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    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

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    主の晩餐での振る舞い(11章)である。「この世の知恵」とはギリシア・ローマ世界

    の「修辞の文化」を意味し、神殿の食事への参加や主の晩餐での振る舞いは当時の文

    化的、社会的慣習に深く関わるものであることを、以下に論ずる。この論述を通して、

    パウロの論敵が都市コリントのエリート文化に執着していたことを明らかにする。

    2.修辞の文化(1章~4章)

    1章~4章において、パウロは、人間の知恵(あるいは賢い人)と神の知恵とを対

    比しながら、彼の福音の内容と宣教の方法が「この世の知恵」とは異なることを強く

    主張している。この手紙において彼は、σοφια(知恵)、σοφοϛ(賢い人)をそれぞ

    れ17回 、10回 使用している。6章5節と12章8節を除くとこれらの用語はすべて

    最初の3つの章で使用されている。これらの章の中で、25回中18回までが神の知恵と

    対比された「この世」あるいは「人間」に関連づけられている 。

    パウロがどのようにこのような対比、差異を論じているのか順を追ってみてみよう。

    彼はグループ間の争いを諫めたあとに、彼の福音が「言葉の知恵によって(εν

    σοφιαレ λογου)」告げられたものではないと宣言している(1Cor 1:17)。そしてイ

    ザヤ書29章14節、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のない

    ものにする」を引用しながら、人間の知恵は神によって滅ぼされる運命であることを

    明示している(1:19)。続いてこの世の代表的なσοφοϛに言及しながら 、すなわち、

    「賢人、哲学者(σοφοϛ)」、「学者、ユダヤ人律法学者(γραμματ∊υϛ)」、「論客

    (συζητητηϛ)」(1:20)、彼らが熱心に追求している「この世の知恵」を神は愚かな

    ものにしたと論じている。ここではσοφοϛという用語は、ギリシア人であろうとユ

    ダヤ人であろうと、自らが知恵あるものだと誇示する人たちを包括的に表現している

    と言えよう 。

    次に、パウロは、コリント教会の信徒たちに召命体験を想起させながら、神が選ん

    だ者はこの世の知恵ある者、力ある者、家柄のよい者ではなく、その対極にあった部

    類の人たちであった、と語っている(1:26-28)。3章でも彼は、この世の賢い者

    (σοφοϛ)と知恵(σοφια)を愚かなもの(μωρια)として退けているが(3:19,

    20)、パウロは、この世の知恵がいかに価値がなく、役に立たないものであるかをた

    えず念頭におきながら議論していると言えよう。また彼の宣教は、「高尚な言葉や知

    恵をもって(καθ’υπεροχηνλογου η σοφιαϛ)」(2:1)、あるいは、「説得力のあ

    る知恵の言葉によって(εν(

    π∊ιθοιϛσοφιαϛλογοιϛ)」(2:4)、なされたものでは

    ないと語る。その理由は、信仰者が人間の知恵ではなく神の力に帰依するためである、

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    基督教研究 第68巻 第2号

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    と(2:5)。さらに2章6節~3節で、聖霊を通して信仰者に与えられた神の知恵と、

    そうではない人間の知恵が鋭く対比され、人間の知恵が属しているこの世界は滅びの

    道に運命づけられている、と語っている。そして2章13節で再び、彼の宣教が人間の

    知恵の対極にあることを述べる。つまり、彼の福音は、「人間の知恵に教えられた言

    葉によって(εν(

    διδακτοιϛ ’ανθρωπινηϛσοφιαϛλογοιϛ)」語られるものではない、

    と 。

    3章18節~20節では、人間を誇ったり、この世で知恵あるものだと主張するコリン

    トの信徒を批判しているが、これは下記で見るように、ある程度の教育と社会的地位

    を享受している論敵の様子を指していると思われる。パウロがこの手紙の最初に論じ

    ているように、神の愚かさ(τομωρον)は人よりも賢く(σοφωτεροϛ)、それゆえ

    神の前では誰一人誇ることはできないのである(1:25, 29)。信仰者が誇るべきもの

    は、彼らにとって真実の知恵であるキリスト・イエスそのものであり、人間やその知

    恵ではないのである(1:30-31)。論敵は、この点を完全には理解していなかったと

    言えよう。

    こういうわけで、これらの章でパウロが神の知恵(そして彼の福音)と「この世の

    知恵」を断裁していることが分かる。では、彼が一貫して論駁を試みている「この世

    の知恵」とはいったい何を示しているのだろうか。研究者によってグノーシス主義や

    神話、あるいはヘレニズム・ユダヤ教の観点(「天上の知恵」)から考察したりするが、

    これらの見解は多くの支持を得ることができていない。本小論では、都市コリントが

    ギリシア・ローマ文化を享受しており、その文化を根本的に支えていたのが「修辞の

    文化」であること、そして、第一コリント書を理解する上で、この文化が一番重要な

    文脈であることを考慮し、パウロが語っている「この世の知恵」は、「修辞の文化」

    を示していることを論ずる。それは知識、知恵を友愛する哲学者(φιλοσοφοϛ)や

    知者、知恵の教師と言われるソフィスト(σοφιστηϛ)などを包括する文化的風潮、

    精神(エトス)と考えることができる 。

    修辞(レトリック)は、ギリシア人の文化的遺産であり、古典期以来(イソクラテ

    スなど)、教育上の重要な課目であった 。ヘレニズム時代、ギリシア語は国際語とな

    り、地中海沿岸のあらゆる都市にギリシア語を学ぶ中等学校、修辞を学ぶ高等学校が

    現れた 。ローマ人も例外ではなく、ギリシア文化とその教育を受容した 。そして

    彼らが領土を拡大し、帝国を成長させていく過程で、ギリシアの影響を強く受けたロ

    ーマ帝国の教育、つまりギリシア・ローマ(グレコローマン)教育を地中海世界全体

    に根づかせていくことになる 。ギリシア教育においてそうであったように、修辞は、

    ギリシア・ローマ教育においても根幹を担っていた 。あらゆる課目(科学、医学、

    哲学など)において、修辞が必用とされたことは注目に値する 。そして修辞は、師

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    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

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    弟教育においてその「王座」を獲得し、卓越した修辞は正式に教育を受けたことの印

    となっていった 。ヘレニズム文化とは「修辞の文化」であった、と言われる所以で

    ある 。

    修辞は、ひとに何かを信じさせるための単なるテクニック、形式にすぎない、それ

    ゆえ、真実に関心はなくうわべだけの飾りや文飾がおもな目的であった、と理解され

    ることもある 。しかし、修辞とは、形式やスタイル、テクニックという文芸上の単

    なる仕掛けではなく、内容、つまり真実、知恵(σοφια)を必要とするものであった。

    キケロとクィンティリアヌスは、繰り返し次のことを強調している。つまり修辞は、

    それが正しく行われるならば、相当の知性と学識、「知恵」が必要である、と。キケ

    ロは、「雄弁を伴わない知恵は、国家の善のためにほとんど何もなさない。しかし、

    知恵を伴わない雄弁は、概して非常に不利益であり、決して役立たない」(De Inv.

    1:1;cf. Tusc. Dis. 1.3.5-6)と語る。さらには、雄弁と知恵を同一視さえしている

    (De Parti. Or. 23.79)。クィンティリアヌスはキケロに同意している(Inst. Or. 2.

    16.14-15;3.5.1)。

    Litfinは、雄弁と知恵の不可分な関係を考察しながら、σοφιαがギリシア・ローマ

    の「修辞の文化」を指すことはごくありふれたことだと主張している 。Pogoloffも

    また、古代修辞学における形式(修辞的技術)と内容(知恵)の不分離を考察しなが

    ら、同じ論点を語っている 。つまり、弁論者(演説者)は、修辞的技術だけでなく、

    「知恵」が必要であった。その知恵とは、哲学、法学、詩歌、歴史、医学、宗教など

    から得た学識、知識その総体である。これは、キケロが論述している理想的な弁論者

    の姿でもある(De Or.3.15.56-3.35.143)。

    プラトンやゴルギアス以来、熾烈な対立関係が哲学と修辞学にはあったが、哲学者

    は弁論(術)の価値を認めていた 。修辞の文化に親しむようになってきた聴衆を納

    得させるためにも哲学者といえど、雄弁さが求められたのである 。キケロは、雄弁

    と哲学の不可分を唱え(De Or. 3.16.60-61;3.19.72-73)、セネカは、ストア派哲学

    に傾倒しながら哲学講演のためのふさわしい話し方を論述し(Ep. 40.1-12;114.1-

    27)、語彙、文意、配列法を扱うものとしての修辞学を評価している(Ep. 89.17-18)。

    また、ディオン・クリュソストモスのように、ソフィストであり哲学者でもある人物

    が輩出されている 。これらすべては、ギリシア・ローマ世界において、修辞学と哲

    学の融合がある次元で浸透していたことを示していると言えよう。哲学者であろうと

    ソフィストであろうと、目的達成には雄弁さとまっとうな知識を持った弁論者である

    ことが強く期待されていたのである。

    他の都市と同じく、コリントはこの文化的精紳、気風を享受していた。そこにはア

    ゴラ(広場)、劇場、競技場など講演や演説のために伝統的に使用されていた施設が

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    あり、アゴラにはベーマ(演壇)があった 。また、学校(初等、中等、高等)や図

    書館も存在していた 。ディオン・クリュソストモスは、イストモス祭典(古代ギリ

    シアの四大競技祭の一つ)開催時の演説家、弁論家の活動を描写している(Diss. 8.

    1-36)。ディオンの弟子であるフェボリヌスは、師と同じくソフィストであり哲学者

    でもあった 。彼は、後1世紀末から2世紀初頭にかけて、コリントを3回訪問して

    いる。彼は弁論、演説に対するコリント人の関心の高さを描写している。フェボリヌ

    スが修辞の文化を体現する雄弁家であったので、コリント人は彼の栄誉と師弟への教

    育的効果のために、彼の銅像を図書館の前に建てたほどである(ある理由でその銅像

    は、のちに破壊されるのだが)(Dio, Diss. 37.8-11, 16, 22, 25-26)。フェボリヌスの

    弟子であるヘロデス・アッティクスは、ソフィストであり、アテネ、コリントなど地

    中海沿岸都市の絶大な後援者(パトロン)であった。彼はコリント市議会と市民によ

    って賞賛され、栄誉を与えられている 。

    プルタルコスは、イストモス祭典開催中、祭典の会長(αγωνοθ∊τηϛ)であるアン

    トニウス・ソスピス が主催する食事会に出席している。プルタルコスの著作からソ

    フィストや弁論家、学者がコリントの上層階級と親交している様子が分かる(Mor.,

    723A-724F)。その食事会には、他の名望家とともにヘロデス・アッティクスも招待さ

    れていた。また、碑文から多くの雄弁家、弁論家がコリント市議会と市民によって、

    栄誉を与えられていることが分かる 。さらに、ストア派哲学者エピクテトスが、個

    人的な装飾について議論している中で、コリント出身で修辞学の若き学徒を対話者と

    して登場させている(Epic., Diss. 3.1.1-45)。登場する学徒は、文学的設定によるも

    のであるが、この設定は、都市コリントで修辞が栄えていたこと、そして、修辞学と

    哲学の融和という当時の風潮を前提にしていると言える。

    このような都市コリントの文化的(知的)環境を考慮に入れるならば、パウロが言

    及している「この世の知恵(人間の知恵)」とは、ギリシア・ローマ世界の「修辞の文

    化」以外の何物でもないと言える。そして彼が「この世の知恵」を執拗に論駁してい

    ることは、彼の論敵がそのような文化的環境にどっぶりと浸かっていたことを示して

    いる。でなければ、パウロの執拗な論駁は必要なかったであろう。

    さらに、その文化はエリート階級で特に、重宝されるものであったことを留意して

    おきたい。つまり、修辞を身につけるということは、社会的意義を含んでいたのであ

    る。それは上述したように、教育(学歴)はもちろんのこと、権力、財産、家柄など

    その人の社会的地位全体を反映するものであった 。社会的、政治的に有力な人は当

    然、弁論術を身につけていた。雄弁さは、法廷での抗弁や立法上の議論、あるいは重

    要な機会でのスピーチ(祭典、競技、葬儀など)、そして使節という高度な政治的職

    務においても要求された 。キケロやクィンティリアヌスも雄弁の価値を説いている

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    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0007

    (De Inv.1.1.1;1.4.5;Inst.Or.12.11.29)。すばらしい弁舌は、その人に名声、名誉、

    栄光、富、権力、出世を約束するのであり、師弟教育は当然、修辞学をその基幹に据

    えることでこのような社会的、政治的昇進を目指していたのである。パウロの論敵が、

    「修辞の文化」を受容し誇りにしていたということは、彼らがこのような上流階級的

    価値観、理想に傾倒していたことを表している。

    このことは、パウロのいくつかの言説からも裏づけられる。高ぶっている論敵に、

    彼らの言葉(λογοϛ)ではなく力を見せてもらおう、なぜなら神の国は言葉ではなく

    力にあるのだから、とパウロは語っている(1Cor 4:18-21)。前述の考察から判断す

    ると、λογοϛは「修辞の文化」に根ざした雄弁さ、文化スピーチを示すと言える。

    彼らはそれを得意とし高ぶっていた。そして彼らは、賢く(φρονιμοι)、強く

    (ισχυροι)、そして尊敬される(ενδοξοι)存在であった(4:10)。これら3つの特

    質は、上流階級を示す典型的な用語であった 。これをパウロが皮肉を込めて語って

    いるのかどうか議論があるが、少なくとも、彼らはそのような特質を求めていたと言

    えよう。またこの描写に先立って、そのような彼らの様子を、すでに満たされ、お金

    持ちになり、王様のように振舞っている、とパウロは述べている(4:8) 。この様

    子は、教育を受け、雄弁さを身につけ、それに伴うエリート階級の特質を追い求めて

    いた、まさに論敵の高慢な姿そのものと言えよう。

    こういうわけで、1章~4章でパウロは、彼の福音と「この世の知恵」との違いを

    強調し、その知恵の空しさ、無価値さを論じながら、「修辞の文化」に浸りエリート

    的特質、理想に執着するコリントの信徒を厳しく諫めているのである。ここに、この

    世と信仰共同体である教会との対峙を見ることができる。この構図は、神殿の食事、

    主の晩餐の問題においても見られるものである。

    3.神殿の食事(8章~10章)

    コリントには多くの神々が祭られていた 。「現に多くの神々、多くの主がいると

    思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」というパウロの

    言葉は、この状況を示している(1Cor8:5)。人々は神々が祭られている神殿で奉献

    を行い、神殿内でしばしば(祭儀的)食事をとった。下記に考察するように、古代に

    おいて宗教と政治は切り離せないものであり、その食事は宗教的意義だけでなく、社

    会的、政治的意義を持っていた 。

    多神教という環境の中で、コリントの信徒たちは、偶像に捧げられた肉の問題に直

    面していた(8:1, 13)。祭壇に奉献された犠牲獣の一部は、祭司や参列者によって

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    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0008

    食されたり、食用肉として市場で売られたりしていた。その肉をキリスト教信者が食

    べてよいのか、という問題である。この世には唯一の神以外に神々(偶像)は存在し

    ない、という知識((

    γνωσιϛ) を持ち合わせている信徒(いわゆる「強い者」)は、

    躊躇なくその肉を食することができた(8:1,7,10,11)。しかし、偶像が存在すると

    いう想いが念頭から離れない信徒(いわゆる「弱い者」)は、それを食することで汚

    され傷ついてしまうのである(8:7,10,11)。

    さて、「強い者」は定期的に神殿の食事に参加していたようである(8:10;10:7,

    14, 21)。実は寺院や神殿での食事は、ごくありふれた現象であった。礼拝、祝祭、

    感謝祭、婚礼、誕生日、葬儀、記念会、成人式など、さまざまな機会に神殿で食事が

    催され 、そこでは必ず神々への奉献祭儀があった 。神殿で食事という当時の習慣

    を可能にさせていたのは、それが通常、食堂、台所などの施設を備えていたことによ

    る。これは、当時の宗教施設がもつ特徴のひとつであった 。たとえば、アクロコリ

    ント(市の背後にある小高い山)の北方に女神デメテルとコレの神殿があったが、そ

    の境内付近には多くの食堂がならんでいた 。北側の城壁近くにはアスクレピオス

    (医術の神)の神殿があり、その階下には食堂が3つあった 。B.Witherington は、

    このような宗教施設の特徴を的確に捉えて、「神殿、寺院は古代のレストランであっ

    た」と述べている 。

    パウロの論敵がどのような機会に神殿の食事に参加していたのか、確実なことは言

    えない。しかし、W.Willisは3つの可能性を挙げている 。それは、神々を正式に礼

    拝する機会、知り合い、もしくは彼ら自身が属していたさまざまな団体、組合によっ

    て催される準宗教的な集い、そして誓願の成就、お祝い、厄除けなど個人的な会合、

    である。キリスト教信者が異教の正式な礼拝に参加する可能性は低かったかもしれな

    いが、知り合いに招待されて、「強い者」がこれらいずれかの機会に参加していたこ

    とは想像できる。

    Willisは、異教の祝宴を「良い仲間と良い食べ物、そして遊びを提供する機会」と

    定義づけている。そして、パウロの論敵は神殿境内で催されるそのような「懇親会」

    に参加することが偶像礼拝になるとは考えなかっただろう、と結論づけている 。S.

    K. Stowersも、「祝宴への参加は同一の信念や宗教的共通概念を要求したり、産出す

    るものではなかったので、このような多神教世界での祝宴の参加は容易なものであっ

    た。一方、参加の拒否は過激なものとして受け取られただろう」と論じている 。つ

    まり、神殿内の食事もしくは祝宴は、人々の生活に根ざしたものであったと言える。

    裕福な人たちや有力者たちは、このような懇親会を特に重宝しただろう。彼らは、

    自分たちのネットワーク(パトロン関係 や交友関係など)のお陰で頻繁に古代の

    「レストラン」を活用し、それを通してさまざまな人脈を築いていたと思われる。そ

    65

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0009

    して祝宴への参加は、彼らの社会的安定もしくは昇進につながっていたのである。そ

    れゆえ、政治的野心や上昇志向をもつ人々にとってその参加は必須事項であったと言

    える。パウロの論敵も同様な意識を持って参加していたと思われる 。

    G. Theissenは、エラスト(コリント市の経理係) が「弱い者」のためにもし異教

    の祝宴に参加することをやめたなら、彼の社会的地位と出世を危険にさらすことにな

    っただろう、と推測している 。この意味で、「権利、自由(εξουσια)」、「合法であ

    る、許されている(εξεστιν])という論敵の主張は 、コリント市での自由な社会活

    動を確保したい、という彼らの思惑から出てきていると言える(1Cor 8:9;10:

    23) 。彼らの社会的立場が、神殿の食事に定期的に参加することを要請したのであ

    る。それゆえ、彼らは、そうすることが問題とは思わず、裁量内のことだと思っただ

    ろう。この世には偶像は存在しない、という知識を持っていたので、なおさらであっ

    た。しかし、この世での通常の振る舞いが、信仰共同体に属する他のメンバーを躓か

    せる原因となっていたのである。

    次に、祭儀が市の公的行事であったことの意味に留意しておきたい。神殿の建設や

    維持管理は市の担当であった 。この意味で、たとえパウロの論敵が神々に奉献した

    り、神々への信仰をもっていなかったとしても、神殿の食事への参加は市の祭儀シス

    テム(機構)に組み込まれていたことを意味する 。祭儀システムは、当局の権力構

    造そのものを映し出すものであり、既成の体制を正当化することを目的として持って

    いた 。R. Gordonは、ローマ皇帝がこのシステムを巧みに利用していたことを考察

    している。つまり、皇帝は、この祭儀システムにおいて大祭司であると同時に恩恵者

    (ευ∊ργετηϛ)として役割を演じ、そのシステムを通して、皇帝自身の「象徴的資本

    (権力)」を蓄積することができたのである 。この皇帝の役割は、各地方で祭儀シス

    テムを統括していたエリートたちのモデルとなった。「祭儀システムは、中央で組織

    された帝国体制と地方、周辺でエリートたちが行使している権力とを結ぶ重要な絆の

    ひとつであった」のである 。

    ローマ帝国は、そのイデオロギーを明示し維持するために、この既成の祭儀システ

    ムを利用したのであった。Stowersも、祭儀システムを中心に据えた帝国支配を指摘

    している。「神々への奉献祭儀は、文化的、社会的、政治的機関の複雑な集まりの中

    心に位置していた。市の公式な祭儀と皇帝礼拝を中心に据えながら、帝国統治下の

    神々の礼拝は、多くのグループを奉献祭儀を通して実質上支配していた。その祭儀は、

    密儀宗教から自由人結社、家庭祭儀、血縁者グループ、職人組合に至るさまざまな状

    況における人々の心を占有していた」 。

    さらに、コリントにおける皇帝礼拝の存在は、その支配がこの都市に浸透していた

    ことを示している 。皇帝礼拝は、属州およびヘレニズム都市にくまなく「帝国の神

    66

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0010

    学」 を宣伝し、広範囲にわたるローマ帝国の領土を制御する一助となった 。また、

    市の古くからの祭儀は、伝統的な神々を崇拝し、敬愛するものであったので、皇帝礼

    拝は特にコリントのような属州の首都においては、重要な役割を担っていた。つまり、

    「神聖な」皇帝とその一族を市民により親しませる役割があったのである 。事実、

    コリントは紀元前44年にユリウス・カエサルによってローマの植民地として再建され

    た都市であり、多くの市民は皇帝一族に信奉を抱いていた 。

    こういうわけで、神殿の食事に定期的に参加することは、参加者の社会的、政治的

    安定と昇進に役立つものであった。さらには、権力当局が担う祭儀システム、究極的

    には帝国支配の機構に参与することを意味していた 。このことは、ギリシア・ロー

    マの「修辞の文化」に見出される上流階級的価値観、理想に執着していたパウロの論

    敵にとって、違和感のない歓迎すべき意義だったと言えよう。しかしパウロは、古代

    イスラエルの例を示しながら、偶像礼拝への神罰を語り(10:1-13)、神殿の食事に

    参加することを控えるよう彼らに勧告している(10:14-22)。

    4.主の晩餐での宴会(11章17節~34節)

    早く教会に到着した裕福で影響力のある信徒たちは、あとからやってくる貧しい人

    たちを待たずに先に彼らの食事をとっていた。そして、彼らは満腹で酩酊状態にあり、

    あとから来た貧しい信徒たちは食べるものがなく空腹のままであるという事態が生じ

    ていた。裕福な信徒が(パウロの論敵)、貧しい信徒たちを蔑ろにしていたのは明ら

    かである。なぜこのような問題が生じたのだろうか。

    まず、裕福な信徒が早く到着し貧しい信徒が遅れてくるという時間差について考え

    てみたい 。D. B. Martinは、裕福な者は自分の時間を自由に使える余裕があり教会

    に早く来ることができたが、貧しい者は自分たちの生活を主人や雇用主に負っていた

    ので、諸事情で教会に遅く来ざるをえなかった、と説明している 。社会的地位の違

    いが、主の晩餐に参加する時間帯のずれを引き起こしていた、ということである。こ

    のことは、P. Lampeが考察しているように、ギリシア・ローマ世界での食事会の形

    態と深く関わっている 。

    当時の食事会は通常、二部からなっていた。第一部が午後3時ごろから持たれた。

    冒頭、神々への祈禱がなされたあと、「第一テーブル」が用意され、そこに集った招

    待客、おもに上流階級の人たちがいくつかの食事コースを楽しんだ。彼らはそれに先

    立って、温泉を楽しむことも習慣であったようだ。小休憩をはさんだあと、第二部が

    始まる。ここでも冒頭、家の守護神やローマ皇帝への奉納と祈願が捧げられる。その

    67

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0011

    あと、「第二テーブル」が用意され、招待客に食事が振る舞われた。この第二部に、

    あとから到着した招待客が参加した。彼らは第一部から参加している人に比べると、

    時間やお金に制約があるより身分の低い人たちであった。「第二テーブル」は主催者

    への祝杯がなされると、すみやかに片付けられ、次にワインと水が混ぜられたつぼが

    用意された。神々を賛美する歌がながれる中、神々へのお神酒が注がれた。次に、奴

    隷たちはつぼのワインを参加者に注ぎまわった。つぼのワインがなくなると再び用意

    し、お神酒も再び注がれる。そして、人々は飲み続けるのであった。会話や音楽を楽

    しみながら、あるときには夜明けまでその宴は続いていった。

    ここで二つのことに注目しておきたい。それは、第一部から参加している者(裕福

    な者)は、二度、食事のテーブルに与る機会があること。そして、第二部で食事のテ

    ーブルが片付けられたあと、人々はもっばらワインを飲み続け、「飲み会、饗宴

    (συμποσιον)」が中心となっていくこと、である。ギリシア・ローマの食事会の形態

    は、コリント教会での主の晩餐の問題を考える上で、とても示唆に富んでいる。裕福

    で地位のある信徒たちが先に到着し、満腹、酔っ払っているのに、あとから来た貧し

    い信徒たちが空腹であるという状況は、この食事会の形態に起因しているように思え

    るからだ。

    無論パウロの時代、主の晩餐がどのように持たれていたのか、確実なことは言えな

    い。しかし、食事がともなっていたことは確かである(1Cor11:23-26;Gal2:11-

    14;Mark 14:17-25)。食事がいつ持たれたのかという議論があるが、おそらく、パ

    ンの祝福と杯の祝福の間に食事があったと思われる。これはパウロが伝えているとこ

    ろである―「食事のあとで(μετατο(

    δ∊ιπνησαι)、杯も同じようにして」(1Cor11:

    25) 。コリント教会において問題だったのは、パンの祝福と杯の祝福の間にある食

    事がすべての人を満たさなかったということである。

    Lampeは主の晩餐とギリシア・ローマの食事会の形態との類似を考察している。

    彼によると、「第一テーブル」の時間帯が裕福な信徒たちが教会に到着し、自分たち

    の食事(ιδιον(

    δ∊ιπνον)を楽しむときであった。「第二テーブル」の開始時、聖餐

    のパンの祝福とキリストへの祈禱が捧げられた。そして、この「第二テーブル」の時

    間帯が、遅れてきた信徒たちを含めた教会全体の食事(共同体の食事)のときとなっ

    た。ワインと水の混ぜられたつぼが用意され、神々にお神酒を捧げるときが、主の杯

    の祝福のときとなった。そのあとの「飲み会、饗宴」は、賛美、預言、異言、教えな

    どの礼拝活動のときとなっていた 。D. E. Smithも同様に、主の晩餐とギリシア・

    ローマの食事会の類似を指摘している。彼は、ギリシア・ローマ世界における日常の

    食事、哲学者による食事、祭儀的食事、団体やクラブの食事、ユダヤ人の食事などを

    考察し、これらの食事会が共通した形態および慣わしを持っていたことを論じている。

    68

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0012

    そして、初期キリスト教徒もその形態と慣わしを彼らの状況に合せて取り入れ、さま

    ざまな神学的省察を経て最終的には聖餐式という典礼に完成させていった、と論じて

    いる。注目すべきことは、パウロの時代、主の晩餐の形態がギリシア・ローマの食事

    会の形態から典礼儀式になる過渡期であった、ということである 。この過渡期はパ

    ウロの神学的洞察とギリシア・ローマ的形態、慣わしとが統合され、キリスト教的食

    事会が形作られていくときであり、第一コリント11章がその一端を示している。

    こういうわけで、ギリシア・ローマの食事会の形態は、主の晩餐での問題を理解す

    る上で重要な背景を提供してくれる。しかし、なぜあとから来た人たちは空腹のまま

    だったのか。「第二テーブル」の時間帯に食事があったはずである。この問題を考え

    る上で、さらに二つのことに留意したい。ひとつは、その食事は誰が用意したのか、

    もうひとつは、当時の食事会での裕福層の振る舞いである。

    Theissen やMeeks は、裕福な信徒が教会員全員の食事を用意した、と推測して

    いる。一方、Lampeは、その食事は持ち寄り(ポットラック)形式(∊ρανοϛ)のも

    のであった、と推測している 。それによると、参加者はそれぞれ自分の食べ物を共

    同体全体の食事のために持参した。しかし社会的地位によって食べ物の量や質は、当

    然異なった。余裕のある者は良質のものをたくさん持参できたが、時間やお金の余裕

    のない者は十分な食事を持参することは出来なかった。いずれにせよ、貧しい信徒は

    裕福な信徒が持参してくる食べ物を当てにしざるを得ない状況であったのだ。しかし

    教会に先に到着した裕福な者が、「第二テーブル」のことを考えずに目の前にある食

    べ物を好きなだけ消費してしまったのである。自分が持参したものだから、それは自

    分の食事(ιδιον(

    δ∊ιπνον)であって、どれだけ食べようがそれは自分の裁量内にあ

    ると考えたのだろう。

    たとえ自分が持参した食事だとしても、あとから来るメンバーのことを考えないこ

    のような振る舞いは、身勝手なエゴイズムとして糾弾されるべきものである。しかし

    問題は、ただ個人的な資質に関わるものだけではなく、そのような高慢さ、身勝手さ

    を許す社会的合意があったことである。つまり、裕福層による食事会での振る舞いで

    ある。

    家の主人が、招待客の社会的地位によって宴席での歓待の仕方を変えることはごく

    ありふれたことであった。地位の高い人や有力者にはより多くの、そして、良質の食

    べ物と飲み物が振る舞われた。これは、さまざまな団体や組合でも共通して見られる

    慣習であり、招待客がその団体に貢献している人物なら、なおさらのことである 。

    パウロの時代、教会は「家の教会」であり、自宅を開放できる比較的裕福な信徒の家

    で集会が持たれた 。家の主人は当然、先に到着した地位のある信徒たちに良質の食

    べ物やワインを振る舞ったであろう。その人たちが食べ物を持参してきたのであれば、

    69

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0013

    なおさらのことである。一方、あとから来る地位の低い人たちには、違った対応をし

    た可能性がある 。裕福層は、そのような特別な歓待を当然のこととして享受してい

    た。そのような状況の中、「第一テーブル」から参加している彼らが、「第二テーブ

    ル」の食べ物を心配するはずもない。つまり、あとから来る自分より身分の低い人た

    ちが十分な食べ物に与るかどうか気に留めなかったのである 。これは、上流階級特

    有の高慢さ、そして彼らの下層階級への見下し、軽蔑という当時の食事会の風潮のひ

    とつであった 。G. Paulが論じているように、ギリシア・ローマの食事会において、

    無秩序、口論、度を越した行為や浪費、特権乱用などはごくありふれたことであり、

    裕福層によるこのような振る舞いも驚くことではなかった 。

    このような社会的、文化的風潮に生きているパウロの論敵は、主の晩餐においても

    同様の振る舞いを行ったのである。彼らは他のメンバーのことを考えずに、自分の私

    利私欲を満たすことのみに専念していた。彼らの省みない貪りと飲酒は、貧しい人へ

    の軽視、侮辱を前提としていたのであった。主の晩餐は、本来の意義を失い、私的な

    宴会(ιδιον(

    δ∊ιπνον)へと変質していた。しかし、前述したように、主の晩餐が当

    時の食事会の形態、慣わしを当初から共有していたのであれば、彼らの振る舞いを未

    然に防ぐことは困難だったのかもしれない。R. B. Haysも指摘しているように 、論

    敵は自分たちの振る舞いがごく平均的なものであると考えていただろう。しかしパウ

    ロは、社会的差別と不平等を見過ごし、他のメンバーを辱しめるその体質に対峙する

    必要があった。主の晩餐は、単なる食事会でも宴会でもない、主の食卓(κυριακον(

    δ∊ιπνον)であるべきなのである。それは食卓を囲んで信仰共同体の一致と絆を強め、

    それぞれ個人が神の前で等しい存在であることを再確認する重要な機会である。しか

    し当時の食事会の習慣に親しんでいた論敵は、主の晩餐が持つ神学的意義を十分に認

    識できなかったのである。そのような彼らを目覚めさせるために、パウロは、終末論

    的警告、いや、脅しといってもよい言葉を彼らに放っている(11:27-34)。

    5.まとめ

    以上3つの事例を通して、パウロの論敵がこの世の価値観、理想に心を奪われ、コ

    リントのエリート文化に執着していたことが分かった。このことを示すその他の事例

    としては、6章の訴訟問題(エリートに有利な仕組みになっているこの世の政治機構

    での裁定を求めること)、15章の復活の体の否定(ヘレニズムの知的文化を代表する

    霊肉二元論に依拠していること)などをあげることが出来る。このような論敵を念頭

    にパウロはこの手紙を書いている。彼はキリストの出来事(死、復活)および回心体

    70

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0014

    験、聖霊の働きなど信仰者が体験してきたことを想起させながら、黙示的終末論から

    すべてを捉えなおすよう勧告している。その世界観は、教会(永遠の神の国)とこの

    世(滅びゆくサタンの王国)という二元論的世界観を根底にもっており、この世の安

    定と繁栄に依拠していた論敵の世界観を揺さぶるものであった。パウロが黙示思想や

    終末論的モチーフを活用しながらどのように論敵を説諭しているのか、それについて

    は稿を改めて論ずることにしたい。

    1 1Cor1:17,19,20,21,22,24,30;2:1,4,5,6,7,13;3:19;12:8。

    2 1Cor1:19,20,25,26,27; 3:10,18,19,20;6:5。

    3 5回(σοφια)(1Cor1:21,24,30; 2:6,7)と2回(σοφοϛ)(1Cor 1:25;3:10)は肯定的に神

    とパウロに使われている。

    4 E.A.Judge,“The Reaction Against Classical Education in the New Testament,”JCE 77(1983):11。

    5 M.Pogoloff,Logos and Sophia(Atlanta:Scholars Press,1992)158。

    6 ギリシア古典の専門家G. A. Kennedyは「この段落は(1Cor 2:6-13)ギリシア哲学、修辞学すべてを

    拒絶しているといってもよい」と述べている(Classical Rhetoric and Its Christian and Secular Tradi-

    tion from Ancient to Modern Times[Chapel Hill:University of North Carolina,1980]131-32)。

    7 J. P. Sampleyは「修辞の文化」が第一コリント書の主な文化的文脈の一端を担っていたと指摘してい

    る(“The First Letter to the Corinthians,”in The New Interpreter’s Bible: A Commentary in Twelve

    Volumes, ed. L. E. Keck, et al.[Nashville:Abingdon Press, 2002]10:781-85)。なお、本小論と類似の立

    場を取る研究者は、A.Robertson, and A. Plummer,A Critical and Exegetical Commentary on the First

    Epistle of St. Paul to the Corinthians(New York:Scribner’s,1911)5,15-16、 J.Munck,Paul and the

    Salvation of Mankind(London:SCM Press,1959)148-67、 D.Litfin,St.Paul’s Theology of Proclamation

    (Cambridge: Cambridge University Press, 1994)1-18, et al.、 B.W.Winter,Philo and Paul among the

    Sophists(Cambridge:Cambridge University Press,1997)179-202など。

    8 H.I.Marrou,A History of Education in Antiquity(New York:Sheed and Ward,1956)194-96。

    9 G.A.Kennedy,A New History of Classical Rhetoric(Princeton, New Jersey:Princeton University Press,

    1994)81。

    10 Marrou,A History of Education,242-54。

    11 Ibid.,292-313。

    71

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0015

    12 D.L.Clark,Rhetoric in Greco-Roman Education(New York:Columbia University,1957)59-66。

    13 Marrou,A History of Education, 194-205, 210-12, 284-91;P. Garnsey and R. Saller,The Roman Empire

    (Berkeley and Los Angeles:University of California Press,1987)181。

    14 Litfin,St.Paul’s Theology of Proclamation,89。

    15 Marrou, A History of Education, 195; D. E. Aune, The New Testament in Its Literary Environment

    (Philadelphia: Westminster Press, 1987)12-13; B. L. Mack, Rhetoric and the New Testament(Min-

    neapolis:Fortress Press,1990)29。

    16 例えば、H. D. Betz, “The Literary Composition and Function of Paul’s Letter to the Galatians,”NTS

    21(1975):378。

    17 Litfin,St.Paul’s Theology of Proclamation,95-97,106-8,119-24。

    18 Pogoloff,Logos and Sophia,37-69。

    19 Marrou,A History of Education in Antiquity, 211-12;Kennedy,A New History of Classical Rhetoric, 84-

    96。

    20 Winter,Philo and Paul,122。

    21 C.P.Jones,The Roman World of Dio Chrysostom(Cambridge,Mass.:Harvard University Press,1978)8-

    18;Philostratus,Lives of the Sophists,487-488。

    22 D.Engels,Roman Corinth(Chicago:University of Chicago,1990)47,151。

    23 Engels,Roman Corinth,45。アゴラにあるユリアヌス・バシリカに隣接する南東の建物がおそらく図書館

    であったと思われる(L.M.White,“Favorinus’s ‘Corinthian Oration’:A Piqued Panorama of the Hadrianic

    Forum,”in Urban Religion in Roman Corinth, ed.D.N.Schowalter,and S. J. Friesen[Cambridge,Mass.:

    Harvard University Press,2005]77-96)。

    24 Philostratus,Lives of the Sophists,489-92。

    25 J.H.Kent,Corinth:The Inscriptions,1926-1950,vol.8,part 3(Princeton,N.J.:American School of Classi-

    cal Studies in Athens,1966)no.128。

    26 ソスピスはトラヤヌス帝の時代(98-117CE)、イストモス祭典の会長を3回務めた実力者である。

    27 例えば、パブリウス・アエリウス・ソスピヌス(no.226)、(ルシウス )・マエシウス・ファウスチヌス

    (no.264)、マルコス・バレリウス・タウリヌス(no.268)、ペデゥカエウス・セスチアヌス(no.269)

    など(参照、Kent,Corinth)。パブリウス・アエリウス・ソスピヌスはイストモス祭典の会長を3回務め

    たアントニウス・ソスピスの孫である。

    28 R.MacMullen,Roman Social Relations(New Haven:Yale University Press, 1974)106-8;Pogoloff,Logos

    and Sophia,108-27,129-72;D.B.Martin,The Corinthian Body(New Haven:Yale University Press,1995)

    49-52。

    29 Clark, Rhetoric in Greco-Roman Education, 64-65; Marrou, A History of Education, 194-96; Litfin, St.

    Paul’s Theology of Proclamation,118-19;Kennedy,A New History of Classical Rhetoric,230-31。

    72

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0016

    30 L.L.Welborn,“On the Discord in Corinth:1Corinthians 1-4and Ancient Politics,”JBL 106(1987):96-97;

    Pogoloff,Logos and Sophia,211;Martin,The Corinthian Body,61。これらの特質は、用語が異なるが1

    章26節でも言及されている。つまり、知恵がある(σοφοι)、力がある(δυνατοι)、高貴な

    ((

    ∊υγ∊νειϛ)。

    31 この節は現在的終末論(復活、終末はすでに実現しているという解釈)の論拠として言及されることが

    ある。しかし、この節自体に復活、あるいは終末への言及は一切ない。「すでに(ηδη)という用語は、

    終末の実現を示しているのではなく、知恵、知識、富など社会的地位を彼らがすでに獲得している状況

    を示している、と解釈できる。さらに、「王様のようになっている(∊βασιλευσατε)」は終末時の神の

    国の実現を示しているのではなく、社会的地位を得て高ぶっている論敵をパウロが皮肉交じりにたしな

    めていると理解できる。参照、Martin,The Corinthian Body,105-6;R.A.Horsley,“‘How Can Some of You

    Say That There Is No Resurrection of the Dead?’:Spiritual Elitism in Corinth,”NovT 20(1978):205,213;

    ibid.,1 Corinthians(Nashville:Abingdon Press,1998)69-70。

    32 多神教はギリシア・ローマ宗教の特徴の一つである。参照、Engels, Roman Corinth, 92-107;B. W. Win-

    ter, “Theological and Ethical Responses to Religious Pluralism-1 Corinthians 8-10,”TynBul 41(1990):

    208-26;N.Bookidis,“Religion in Corinth:146B.C.E.to100C.E.,”in Urban Religion in Roman Corinth,ed.

    D.N.Schowalter,and S.J.Friesen(Cambridge,Mass.:Harvard University Press,2005)141-64。

    33 S. J. Friesen は政教分離という現代的概念を古代のテキストに当てはめないよう警告している(Impe-

    rial Cults and the Apocalypse of John[Oxford:Oxford University Press,2001]194)。ローマ帝国の皇帝

    礼拝は、その意義と影響を政治と宗教を分離しては説明できない典型例である(S. R. F. Price, Rituals

    and Power[Cambridge:Cambridge University Press, 1984]15-19;R. Gordon, “From Republic to Prin-

    cipate:priesthood,religion and ideology,”in Pagan Priests,ed.M.Beard and J.North[Ithaca,New York:

    Cornell University Press,1990]194-98)。

    34(

    γνωσιϛの用語をグノーシス主義の観点から解釈する研究者もいる(たとえば、W. Schmithals, Gnos-

    ticism in Corinth[Nashville:Abingdon Press, 1971])。しかし、グノーシス主義は、紀元後2世紀になっ

    てはじめてその存在が確認されるものであり、また、グノーシス運動自体、一枚岩ではなくその神学は

    多様であった(たとえば、放 主義から禁欲主義に至るまで)。それゆえ、第1コリントにグノーシス

    主義を想定することは時代錯誤である。たとえそれが許されたとしても、パウロの論敵がどのようなグ

    ノーシス的神学を持っていたかを特定することは困難であろう(参照、R.McL.Wilson,Gnosis and the

    New Testament[Philadelphia: Fortress Press, 1968])。また、論敵の特徴を原グノーシス的

    (proto-Gnostics)、または前グノーシス的(pre-Gnostics)と言い表すこともあるが、Martinが主張して

    いるように、このことは何ら彼らの歴史的位置を再構築することにならない。なぜなら、たとえば、肉

    体の否定、二元論的人間論などは、紀元後1世紀のごくありふれた哲学的思考に属するものであり、そ

    れを共有する者はすべて原グノーシス的、もしくは前グノーシス的ということになってしまう(The

    Corinthian Body,71)。

    73

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0017

    35 W.L.Willis, Idol Meat in Corinth(Chico, CA:Scholars Press, 1985)13-15, 62-64;P. D. Gooch,Danger-

    ous Food(Waterloo, Ontario, Canada:Wilfrid Laurier University Press, 1993)27-46。参照、H. Conzel-

    mann,1 Corinthians(Philadelphia:Fortress Press,1975)147;J.Murphy-O’Connor,St.Paul’s Corinth,3rd

    rev.and expanded ed.(Collogeville,MN:Liturgical Press,2002)189。

    36 Gooch,Dangerous Food,37-38。

    37 R.MacMullen,Paganism in the Roman Empire(New Haven:Yale University Press,1981)36。

    38 N.Bookidis,and J.E.Fisher,“The Sanctuary of Demeter and Kore on Acrocorinth.Preliminary Report IV:

    1969-1970,”Hesperia 41(1972):283-331;ibid.,“Sanctuary of Demeter and Kore on Acrocorinth.Prelimi-

    nary Report V:1971-1973,”Hesperia 43(1974):267-307;N. Bookidis, and R. S. Stroud, Demeter and

    Persephone in Ancient Corinth(Princeton:American School of Classical Studies at Athens, 1987)。考古

    学上の証拠によると、食堂の跡が見られるのは古典期のものである。この神殿は一度廃墟となり、ロー

    マ時代(44BCE以降)に再建される。ただ、ローマ時代のものには、食堂の跡が見当たらない。しか

    しこれは、神殿での飲食の習慣がなくなったことを必ずしも意味するわけではない。Bookidisはローマ

    時代の調理用品が至る所で発見されていることを挙げて、食事の習慣は続いていたと見ている。Boo-

    kidisは屋外もしくは天幕内という暫定的な状況でその習慣が続いていたと推測している(“The Sanctu-

    ary of Demeter and Kore,”Hesperia 41[1972]:315)。

    39 J. Wiseman, “Corinth and Rome I: 228 B.C.-A.D. 267,”in ANRW, II.7.1: 487-88, 527; Pausanias, The

    Description of Greece, 2.4.5。この神殿も紀元前44年以降に入植者たちによって再建される(J.Wiseman,

    “Corinth and Rome,”510)。確実な証拠はないが、この3つの食堂がパウロの時代も機能していた可能

    性はある。

    40 B.Witherington,Conflict and Community in Corinth(Grand Rapids:Eerdmans,1995)188。

    41 W.L.Willis,Idol Meat in Corinth(Chico,CA:Scholars Press,1985)265-66。

    42 Ibid.,63。

    43 S.K.Stowers,“Greeks Who Sacrifice and Those Who Do Not:Toward an Anthropology of Greek Religion,”

    in The Social World of the First Christians, ed.L.M.White and O.L.Yarbrough(Minneapolis:Fortress

    Press,1995)308。P.D.Goochも「偶像に供えられたものを食べることを拒否することは、社会的に重

    大な結果をもたらすものであった。それは家族や友人にとって大きな意義を持つ出来事を避けることを

    意味した。それゆえ、社会的昇進と友人関係を維持する主要な手段である神殿の食事は、キリスト教信

    者にとってはどう少なく見積もっても厄介で困難なものであった。食事に出された食べ物を受け入れな

    いこと、前もってそれについて疑問を投げかけること、そして社会の中で他の者が実際にごく当たり前

    に食べているものを拒否することは、キリスト教信者を風変りで反感を買う存在にさせただろう」と考

    察している(Dangerous Food,46)。

    44 パトロン関係はローマ帝国社会にとって不可欠なネットワークであった。保護者(patron)は社会的、

    経済的、政治的資源、方策を自分より弱い立場の人、つまり、被保護者(client)に提供し、見返りと

    74

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0018

    して、被保護者から彼らへの忠誠と名誉、そして服従を期待した。たやすく言えば、これは親分・子分

    の関係とも言えるだろう。また、被保護者がより社会的弱者にとっては保護者となり、この人間関係は

    複雑に築かれていった。子分の子分、そのまた子分が出来上がっていくのである。その頂点に立つのが

    ローマ皇帝である。参照、MacMullen, Roman Social Relations, 8, 45, 113 et al;R. P. Saller, Personal

    Patronage under the Early Empire(Cambridge:Cambridge University Press, 1982);Garnsey and Saller,

    The Roman Empire, 148-59。パトロン関係の観点からコリント教会の諸問題を考察している興味深い研

    究がある(J.K. Chow,Patronage and Power[Sheffield:JSOT Press, 1992];A. D. Clarke, Secular and

    Christian Leadership in Corinth[Leiden:E.J.Brill,1993])。

    45 Willis, Idol Meat in Corinth, 266;D. G. Horrell, The Social Ethos of the Corinthian Correspondence

    (Edinburgh:T.&T.Clark,1996)109。

    46 Rom16:23;Acts 19:22;2Tim4:20。彼が碑文から知られるエラストと同一である可能性がある。碑文

    によると、彼は「彼の造営官職の返礼に」劇場の東中庭の舗装を私費で賄った(Kent, Corinth, no. 232;

    Wiseman,“Corinth and Rome,”521)。Theissen は、パウロが言及しているエラストと碑文で知られるエ

    ラストが同一であることを主張している(The Social Setting of Pauline Christianity[Philadelphia:For-

    tress Press,1982] 75-83)。

    47 Theissen,The Social Setting,130;cf.W.A.Meeks,The First Urban Christians(New Haven:Yale Univer-

    sity Press,1983)69,98。

    48 これらの用語が、論敵に由来することはほぼ間違いないであろう(C. K. Barrett, A Commentary on the

    First Epistle to the Corinthians[London: Adam & Charles Black, 1968] 195; G. D. Fee, The First

    Epistle to the Corinthians[Grand Rapids:Eerdmans,1987]383-84)。

    49 9章でパウロは使徒的権利を描写するために∊ξουσιαを使用しているので(9:4-6, 12, 18)、8章、10

    章で使用されている∊ξουσιαも「権利、合法性」として解釈することができる。B.W. Winterは、この

    用語がイストモス祭典と関連した祝宴に参加する「権利」を意味していると主張している(After Paul

    Left Corinth[Grand Rapids:Eerdmans, 2001]280-82)。しかし、8章、10章で問題となっている

    ∊ξουσιαは、二年に一度の祭典という特定の機会や特権に限定する必要はない。これは、論敵が「ある

    種の自由」を感じて関わっていたより頻繁な事象に関係していたと思われる。 無論、信徒の中で裕福

    な者は、イストモス祭典時に催された神殿の祝宴に参加した可能性は高い。その祭典は皇帝礼拝と連携

    しており、政治的、社会的重要な機会であった。なお、Chowは、パウロの論敵が参加した異教の祝宴

    が皇帝礼拝を含んでいた、という可能性を指摘している(Patronage and Power,146-54)。

    50 J.R.Lanci,A New Temple for Corinth(New York:Peter Lang,1997)95-99。

    51 神殿での祭儀と食事は切り離せないので、そこでの食事は祭儀システムの一部と見なすことが出来る。

    ディオン・クリュソストモスは友情の大切さを議論している中でこのことに触れている。「祝宴の参加者

    がいなくて、どのような供え物が神々にふさわしい、意にかなうものとなるのか」(Diss. 3.97)。つま

    り、祝宴がないと犠牲祭儀が成り立たない、ということである。D. E. Smith は「宴会と犠牲は同一の

    75

    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から

  • 16 MURAYAMA 0019

    イベントの二つの側面である」と指摘している。祭儀を行う場合、その二つは通常、前提とされている

    ので、祝宴のともなわない祭儀の場合、「食事なしの供儀(θυσιαιαδαιτοι])として特別に表現する

    必要があった(From Symposium to Eucharist[Minneapolis: Fortress Press, 2003]69; cf. Stowers,

    “Greeks Who Sacrifice and Those Who Do Not,”293-99)。

    52 Garnsey and Saller,The Roman Empire,163。

    53 R. Gordon, “The Veil of Power:emperors, sacrificers and benefactors,”in Pagan Priests, ed. M. Beard

    and J. North(Ithaca, New York:Cornell University Press, 1990)199-231。紀元前12年、アウグストゥス

    は最高の祭司職である「大神官(pontifex maximus)」に選ばれている。

    54 Gordon,“The Veil of Power,”231。

    55 Stowers,“Greeks Who Sacrifice and Those Who Do Not,”295。

    56 Engels,Roman Corinth,101-2;M.E.H.Walbank,“Evidence for the Imperial Cult in Julio-Claudian Corinth,”

    in Subject and Rule,ed.A.Small(Ann Arbor,Mich.:Journal of Roman Archaeology,1996)201-13;Lanci,

    A New Temple for Corinth,99-107;Bookidis,“Religion in Corinth,”156-57。

    57「皇帝は、人間の利益に関わる神々の地上での関心ごとを担っている」のである(S. J. Friesen, Twice

    Neokoros[Leiden:E.J.Brill,1993]152)。

    58 Price,Rituals and Power,247;Garnsey and Saller,The Roman Empire,164-7。

    59 Engels,Roman Corinth, 102;S. J. Friesen, Imperial Cults and the Apocalypse of John(Oxford:Oxford

    University Press,2001)127。

    60 Walbankは、皇帝への信奉を示すさまざまな証拠を考察している。それは、ユリアヌス・バシリカにあ

    るユリウス・クラウディウス朝の彫像や肖像画の収集物、名望家による皇帝礼拝のための建造物の寄贈、

    皇帝礼拝に関連する付随的な祭儀(Providentia Augusti, Salus Publica, a Claudian cult of Victoria

    Britannica)、皇帝礼拝のために捧げられた元奴隷たちによる団体(Augustales)、イストモス祭典と共催

    されたカエサル杯やその他の皇帝杯、そして、ネロ皇帝就任後、コリントで初めて開催された属州によ

    る皇帝礼拝・祝賀行事(54CE頃)などである(“Evidence for the Imperial Cult in Julio-Claudian Corinth,”

    209-12)。このようなローマとの強い絆は、アルゴスのようなギリシア近隣都市に敵意と軽蔑を起こさ

    せるほどであった(A. J. S. Spawforth,“Corinth,Argos, and the Imperial Cult,”Hesperia 63[1994]:227-

    28)。

    61 前述したように、犠牲祭儀に参加することはごく自然なことであり、それゆえそれを拒むと角が立つこ

    とになった。Price は、祭儀システムの拒否がキリスト教徒迫害の背景にある主たる理由のひとつであ

    ると論じている(Rituals and Power, 221-22)。また、Gordon も「犠牲祭儀を拒むことは、市民として

    現実的に考えられる最も徹底した拒否の姿勢である。そして、それはこのような立場をとる唯一のもの

    として、帝国内の他の分派的組織からキリスト教を区分するものである」と考察している(“Religion in

    the Roman Empire: the civic compromise and its limits,”in Pagan Priests[Ithaca, New York: Cornell

    University Press,1990]252)。

    76

    基督教研究 第68巻 第2号

  • 16 MURAYAMA 0020

    62 このような時間差を想定しない研究者もいる。たとえば、R.B.Hays,First Corinthians(Louisville:John

    Knox Press, 1997)202;Winter,After Paul Left Corinth, 142-58;Smith, From Symposium to Eucharist,

    191-200。その場合、∊κδ∊χομαιを「歓迎する、歓待する」(11:33)、προλαμβανωを「(食事を)受

    け取る、貪る」(11:21)として解釈し、食事の配分、質の不公平さに焦点をあてることになる。本小

    論では時間差を前提にして議論する。いずれの想定であっても、論敵の振る舞いが当時の裕福層の食事

    会での振る舞いに準じていたことには変わらない。

    63 Martin,The Corinthian Body,73。

    64 P.Lampe,“Das korinthische Herrenmahl im Schnittpunkt hellenistisch-roemischer Mahlpraxis und paulinis-

    cher Theologie Crucis(1Kor11,17-34)”,ZNW 82(1991):183-213;ibid.,“The Eucharist:Identifying with

    Christ on the Cross,”Int 48(1994):36-49;cf.C.Osiek and D.L.Balch,Families in the New Testament

    World(Louisville,Kentucky:Westminster John Knox Press,1997)193-214。

    65 Theissen,The Social Setting of Pauline Christianity,152-53。

    66 Lampe,“The Eucharist,”37;Smith,From Symposium to Eucharist,200-14。

    67 Smith,From Symposium to Eucharist,173-217。

    68 Theissen,The Social Setting of Pauline Christianity,148。

    69 Meeks,The First Urban Christians,159。

    70 Lampe,“Das korinthische Herrenmahl,”192-98;ibid.,“The Eucharist,”38-39。

    71 Theissen,The Social Setting of Pauline Christianity,153-55。

    72 たとえば、ガイオはコリント教会全体の家の主人であり(Rom16:23;1Cor 1:14)、フェベはコリン

    トの港町ケンクレアイの教会の奉仕者であり(Rom16:1)、 ステファナ家はパウロに物資の援助をし

    た人たちであった(1Cor1:16;16:15,17)。いずれも彼らの家を集会に開放していたと思われる。

    73 Theissen,The Social Setting of Pauline Christianity,155-59;Meeks,The First Urban Christians,68。

    74 Lampe,“The Eucharist,”40。

    75 Lucian,Symposium;Saturnalia;Welborn,“On the Discord in Corinth,”JBL 106(1987):93,96;MacMullen,

    Roman Social Relations,110-11;Winter,After Paul Left Corinth,142-58。

    76 G.Paul,“Symposia and Deipna in Plutarch’s Lives and in Other Historical Writings,”in Dining in a Classi-

    cal Context, ed. W. J. Slater(Ann Arbor:The University of Michigan Press, 1991)157-69;cf. Plutarch,

    Moralia,643F-644D,et al。

    77 Hays,First Corinthians,196-97。

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    第一コリント書におけるパウロの論敵についての一考察 社会的、文化的視点から