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19 1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』 アイデンティティをめぐる諸問題 ―テキサスにおける移民政策を通じた 人種・階級をめぐる政治の事例より 三 浦 順 子 はじめに 本稿では、1920-30 年代におけるアメリカ合衆国(以下、アメリカ)の制限的 移民管理の展開が、メキシコからのヒトの流入をどのように規定し、それが社会 におけるメキシカン 1 の位置付けにいかに作用したのかを検討する。具体的には、 出身国別割当制度(national quota system、以下、割当制度)下のテキサスを分 析対象として、移民政策を法制度の執行という側面に限定せず、メキシコ人移民 およびメキシカンの位置付けをめぐり 1920-30 年代に展開された議論から複合的 に分析する。 1917 年から 29 年にかけて、読み書き能力テスト(literacy test)の実施や入国 時に課される人頭税納入、割当制度の導入、そして非合法移民への罰則規定が法 制化され、その変化に合わせ国境警備隊(Border Patrol)の設立など法制度の実 施を補う行政機関も整備された。特に割当制度は、移民を出身国別にカテゴライ ズして年間の入国数の上限を設定するもので、1921 年移民法で初めて導入された 後、東南欧諸国からの移民割当枠をより狭めるよう算出基準を変更しながら 1924 年移民法で確立し、1965 年移民法の制定までの約 40 年間にわたりアメリカ移民 管理政策の制度基盤として機能することとなる。本稿が分析対象とするメキシコ 人移民は、割当制度において数的制限枠の適用から除外された。 1 本稿では、国籍や階級といった差異を含めアメリカにおけるメキシコ出自の住民の総称として「メ キシカン」という表現を用いる。また、議論上、シティズンシップのステータスを明示すること が必要な場合は、「メキシコ系アメリカ人」、移民としての処遇に着目する場合は「メキシコ人移 民」と使い分ける。

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題―テキサスにおける移民政策を通じた人種・階級をめぐる政治の事例より

三 浦 順 子

はじめに

 本稿では、1920-30 年代におけるアメリカ合衆国(以下、アメリカ)の制限的移民管理の展開が、メキシコからのヒトの流入をどのように規定し、それが社会におけるメキシカン 1 の位置付けにいかに作用したのかを検討する。具体的には、出身国別割当制度(national quota system、以下、割当制度)下のテキサスを分析対象として、移民政策を法制度の執行という側面に限定せず、メキシコ人移民およびメキシカンの位置付けをめぐり 1920-30 年代に展開された議論から複合的に分析する。 1917 年から 29 年にかけて、読み書き能力テスト(literacy test)の実施や入国時に課される人頭税納入、割当制度の導入、そして非合法移民への罰則規定が法制化され、その変化に合わせ国境警備隊(Border Patrol)の設立など法制度の実施を補う行政機関も整備された。特に割当制度は、移民を出身国別にカテゴライズして年間の入国数の上限を設定するもので、1921 年移民法で初めて導入された後、東南欧諸国からの移民割当枠をより狭めるよう算出基準を変更しながら 1924 年移民法で確立し、1965 年移民法の制定までの約 40 年間にわたりアメリカ移民管理政策の制度基盤として機能することとなる。本稿が分析対象とするメキシコ人移民は、割当制度において数的制限枠の適用から除外された。

1 本稿では、国籍や階級といった差異を含めアメリカにおけるメキシコ出自の住民の総称として「メキシカン」という表現を用いる。また、議論上、シティズンシップのステータスを明示することが必要な場合は、「メキシコ系アメリカ人」、移民としての処遇に着目する場合は「メキシコ人移民」と使い分ける。

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20 同志社アメリカ研究 第 52 号

 割当制度導入に際し、なぜメキシコ人移民が除外されたのかという問題については、これまで先行研究の多くが論じており、安価な労働力の供給源としてメキシコ人移民の経済的有用性が認められていたことに注目し、おもに南西部の農業生産者を中心とした移民規制反対論が、連邦議会における移民法制定過程での議論に大きな影響を及ぼしていたとの議論が定説化している 2。また、割当制度導入以降を扱う研究からは、ネイティビストを中心とした人種主義的な見地から、増加を続けるメキシコ人移民に対し数的制限の適用を求める声が高まり、制度適用以降 1930 年代初頭まで、移民法政度上のメキシコ人移民の処遇は規制への賛否で常に二分化した状態が続いていたとの見解が示された 3。さらに近年の研究では、国境警備や強制送還といった行政的な措置も移民管理体制の一環として位置付け、メキシコ人移民が取締りの対象とされる状況が、アメリカ社会における集団としてのメキシカン全体に非合法とのレッテルを付与し他者化していったという展開が論じられている 4。 これらの先行研究は、メキシカンがアメリカ人になれない/ならない他者とされてゆく過程を明らかにしてきた。しかし、数的制限を課されないという管理方法が、メキシコ人移民がアメリカ社会に参入しアメリカ化してゆくというプロセスに及ぼした作用に関しては、検討の余地が残されている。まず、メキシカンを非合法な社会的他者とみなしてゆく制度的展開の分析はすすんでいるものの、メキシコ人移民のアメリカ化の側面、アメリカへの帰化の実態に関する検討は見落とされがちな点が指摘出来る。また、メキシカンは人種的には白人に位置付けられおり、かれらがアメリカ人になることを否定する法的規定は制度上存在しなかった点を踏まえると、移民をめぐる法制度の変容が、法的人種規定と社会における現実的な人種的処遇との間にズレを生じさせながら展開した点に着目した上

2 Rodolfo Acuña, Occupied America: A History of Chicanos , 3rd ed. (New York: Harper and Row, 1988), 9; Mark Reisler, By the Sweat of Their Brow: Mexican Immigrant Labor in the United States, 1900-1940 (Westport, CT: Greenwood Press, 1976), 208; Francisco E. Balderrama and Raymond Rodriguez, Decade of Betrayal: Mexican Repatriation in the 1930s , 1st ed. (Albuquerque: University of New Mexico Press, 1995), 7-9.

3 David G. Gutierrez, Walls and Mirrors: Mexican Americans, Mexican Immigrants, and the Politics of Ethnicity (Berkeley: University of California Press, 1995), 71-74; David Montejano, Anglos and Mexicans in the Making of Texas, 1836-1986 (Austin: University of Texas Press, 1987), 114-15.

4 Mae M. Ngai, Impossible Subjects: Illegal Aliens and the Making of Modern America (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2004), 21-55; Nicholas De Genova, “Migrant ‘Illegality’ and Deportability in Everyday Life, ” Annual Review of Anthropology 31 (2002): 431-33.

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でメキシカンのアメリカ化を検討する必要があるだろう 5。 アメリカ移民政策の基調が、移民の受け入れから制限へと転換した局面を示す割当制度の導入は、移民エスニック集団によるアメリカ化やアイデンティティ形成の契機としてその重要性が指摘されている。前提として出身国毎の集団単位で数的な制限の対象下に置かれ、その上でアメリカ人になり得るか否かの選定を受けたヨーロッパ出自の移民にとって、アメリカ人になることは移民集団としての主体的なアイデンティティ形成の契機となり、それら多様なアメリカ化の試みが、

「移民の国アメリカ」歴史像構築の重要な枠組となっているという 6。他方、割当制度の導入以降の移民管理体制のもとでは、すでに市民権を獲得しているメキシコ系アメリカ人とメキシコ人移民がともにアメリカ化を達成することは困難であった点が指摘されている 7。そこで本稿では、割当制度の導入により、制度上に創り出された、割当移民(quota-immigrant)と非割当移民(nonquota-immigrant)との区分に着目し、非割当移民と規定されたメキシコ人移民にとって割当制度導入はいかなる制度的・社会的作用をもたらし、集団としてのアイデンティティを模索する上での重要な契機となったのかを論じたい。すなわち、メキシコ人移民に対する数的な入国制限が適用されないという例外的な法政度的位置付けが、ヨーロッパ出自に対する数的制限の適用とどのような整合性を持って制度上位置付けられ、またその併存がいかなる方策のもとで可能とされたのか、そしてそのような移民管理と関連して、社会におけるメキシカンの位置付けがどのように問題化されたのかを検討してゆく。

5 1848 年の米墨戦争終結時に締結されたグアダルーペ・イダルゴ条約は、米国に割譲された領土に住むメキシコ人にアメリカ市民権を付与した。アメリカ人への帰化を「自由白人」に限定する、当時有効であった 1790 年帰化法に照らし合わせると、同条約によりメキシカンにはアメリカ市民権に付帯する白人としての法的地位も付与されたこととなる。ただし、ナタリア・モリナが指摘するように、法制度上の人種規定と、日常生活上の集団や個人の社会的位置付けにともなう人種的認識は必ずしも整合性を問われず、法的な人種規定は社会通念上の人種イデオロギーの定義とは一致しない。Natalia Molina, “The Power of Racial Scripts: What the History of Mexican Immigration to the United States Teaches Us about Relational Notions of Race,” Latino Studies 8, no. 2 (2010): 156-75. 本稿では、社会的位置付けとしての人種の側面を主に分析対象として議論する。

6 John Higham, Strangers in the Land: Patterns of American Nativism, 1860-1925 (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1955); James Barrett and David Roediger, “In-Between Peoples: Race, Nationality, and the ‘New Immigrant’ Working Class,” Journal of American Ethnic History 16, no. 3 (Spring 1997): 3-47; Gary Gerstle, Working-Class Americanism: The Politics of Labor in a Textile City, 1914-1960 (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2002); Mae M. Ngai, “Immigration and Ethnic History,” in American History Now, ed. Eric Foner and Lisa McGirr (Philadelphia: Temple University Press, 2011): 358-75.

7 特に以下を参照。Gutierrez, Walls and Mirrors .

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I 法制度上の「非割当移民」と、メキシコ人移民の実態

 1920 年代、割当制度適用の影響によってヨーロッパ系移民が大幅に減少したのに対し、数的制限を受けなかったメキシコからの移民は増加した 8。1929 年に発表された、カリフォルニア州労使関係局(Department of Industrial Relations)による割当制度導入以降のメキシコ人移民に関する統計調査では、メキシコ人移民が法律制定を受けて顕著に増加したことを明らかにした上で、その傾向は今後もより強まるとの予測が示された 9。この調査は、移民局と国勢調査のデータに依拠し、1927 年の時点でのメキシコ人移民の総数を 80 万 1,953 人と算出している。ただし、この数値は公式記録にのみ基づいており、実際の「アメリカにおけるメキシカンの総数は、間違いなくすでに 100 万人を優に越えている」との所見が追記されている 10。公式記録に基づく数値と所見に示された推計値の差異については、本調査の冒頭で、「極めて重要なことは、実際の移民の入国者数と公式記録上の数値との間の差異を念頭に置くこと」11 だと述べられている。つまり、メキシコ人移民の動態を把握するにあたっては、法制度ならびに行政による公式な側面と、それらに反映しない社会の実態という側面の双方に注目することが前提とされていたのである。 米墨国境線上で入国管理体制外に移民の動態が実態としてあるとすれば、それは法制度下の移民といかに関係付け位置付けられていたのだろうか。ここでは、割当制度導入前後の時期を中心に、米墨国境線上での移民管理体制の実施状況を検討する。 米墨国境線上のヒトの越境行為が移民法制度の規定下で認識されるのは、1917 年移民法以降のことである。それ以前のヒトの往来は、経済産業ならびに日常生活の一部に組みこまれており、移民としての管理や統制は実施されていなかった。メキシコからアメリカへの移民の流入は、同法制定を受けてそれ以前のおおよそ

8 公的数値に依拠すると、メキシコからアメリカへの移民数は、1900 年:10 万 3,393 人、1910 年:22 万 1,915 人、1920 年:48 万 6,418 人、1930 年:64 万 1,462 人と顕著な増加を示している。Bureau of Census, U.S. Department of Commerce, Fifteenth Census of the United States: 1930, Population , vol. 2 (Washington, DC: GPO, 1933), Table 4, Country of Birth of the Foreign-born Population of the United States: 1850 to 1930, 233.

9 Louis Bloch, “Facts about Mexican Immigration before and since the Quota Restriction Laws,” Journal of American Statistical Association 24, no. 165 (March 1929): 50-60.

10 Ibid., 55.11 Ibid., 51.

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半数までに減少したとも言われるが、それは実態の一側面にすぎない。他方では、移民とは見なされない人びとの越境行為が地域社会や経済界からの要請を反映して継続していた 12。例えば、メキシコ人移民に対する 1917 年移民法の適用は制定翌年には有名無実化し、1918 年に制定された出入国管理法(the Entry and Departures Control Act)適用時にも、国務省は米墨国境地域への特例として、アメリカに入国するメキシカンには越境 ID カードを発行するなどの便宜を図っていた 13。 このように、移民法制度の規定と、行政が実施する法執行の具体的措置との間のズレをはらみながら、米墨国境線上での越境行為は割当制度導入以降も地域社会に組み込まれた慣習として維持されていった。ただ、そのような法制度と実態との間の齟齬は、同地域における移民管理の困難さとして問題視されるようになった。1924 年度の移民局長官から労働省への年次報告書では、移民局のテキサス州サンアントニオ(San Antonio)管区の実態として、米墨国境を越えるヒトの流れを所定の地点に集約して管理することは不可能に近いと報告されている 14。結果として、制限的な移民政策の下で容認された流動的な越境行為の影響は、先に見た公式の統計上のメキシコ人移民の数と、アメリカ国内に滞在・居住するメキシカン人口の推計値の相違に反映していたのである。 米墨国境線上でメキシコ人移民の入国に対し、厳格な管理体制を整備することは実質不可能であったが、増加する移民の増加に対応するべく設立されたのが、国境警備隊であった。国境警備隊は 1924 年移民法制定直後に労働省管轄下に設けられ、以降規模を拡大し、1930 年代初頭には設立当初の 2 倍の規模に成長を遂げ、あわせて組織体制やその権限も拡充されていた 15。しかし、国境警備隊の増強は、メキシコ人移民を入国の時点で管理する体制の整備にはつながらなかった。同地での移民入国管理が行き届いていない点は、到着証明書(Certificate for Arrival)の発行状況に示されている。そもそも米墨国境の出入国地点では到着証明書が発行されない場合が多く、そのため実際の入国者数は増加しているのにも

12 Lawrence A. Cardoso, Mexican Emigration to the United States, 1897-1931 (Tucson: University of Arizona Press, 1980), 46.

13 Entry and Departure Control Act of 1918, Public Law 65, 40 Stat. 559 (1918); Vicki Ruiz, From Out of Shadows: Mexican Women in Twentieth-Century America (Oxford: Oxford University Press, 1998), 12.

14 Annual Report of the Commissioner General of Immigration to the Secretary of Labor, 1924 (Washington, DC: GPO, 1924), 16-17.

15 Department of Labor Appropriation Act of May 28, 1924, Public Law 68-153, 43 Stat. 205 (1924); Annual Report ofthe Commissioner General of Immigration to the Secretary of Labor, 1930 (Washington, DC: GPO, 1930), 35.

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かかわらず、発行数は減少傾向にすらあった 16。 上記のような移民入国管理の実状は、割当制度が適用されなかったことと相まって、メキシコ人移民を増加させていた。中でも、歴史的にメキシカンのコミュニティが根付いていたサンアントニオには、アメリカに流入するメキシコ人移民が集中し、1930 年代には全国的に見てもロサンゼルスに次いでメキシカンの人口割合が高い都市となっていた 17。以下、当時のサンアントニオに焦点を絞り、増加するメキシコ人移民の実態の一つの側面として、アメリカへの帰化の傾向を詳しく見ていきたい。 1930 年代中頃になると、サンアントニオでは、メキシコ出自の帰化市民がヨーロッパ出自のそれを圧倒的に上回るまでに増加していた。1930 年代初頭までは大部分がヨーロッパ系移民に占められていた帰化申請は、1933 年度からメキシコ人移民の申請数が次第に増加しはじめ、1934 年度には全申請数も前年度比で約 4倍にも達し、その8 割以上がメキシコ人移民による申請となっていた 18。そのため、1940 年代にサンアントニオ管内の裁判所が発行した帰化証明書の 9 割は、メキシコ人移民による申請が占めた 19。また、増加するメキシカンの帰化市民の大部分が、申請時点で 10 年以上の長期間アメリカに定住している点も特徴としてあげられる。さらに、申請書類の職業欄への解答からは、増加するメキシコ出自の帰化市民の多くが、労働者であった点が明らかになる。1930 年代中頃から見られた帰化申請数の増加以前には、メキシコ人移民による帰化申請者のほとんどが専門職や技術職などに従事していたように、アメリカへの帰化を選択するメキシカンは、経済的な安定を確保した一部の人びとに限られていた。対して 1934 年以降に増加を見せたのは、経済的に不安定ではあっても積極的にアメリカ市民になろうとする移民の帰化であった。事実これら増加するメキシコ人移民による帰化申請の 7 割以上で、職業に関する問いに対する回答が、農業従事者、労働者、あるいは無記入とされていたのである 20。ただし、1930 年代の時点では、サンアン

16 Aristide R. Zolberg, A Nation by Design: Immigration Policy in the Fashioning of America (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2006), 269.

17 Max S. Handman, “San Antonio: The Old Capital City of Mexican Life and Influence,” Survey 66, no. 3 (May 1931): 166.

18 Declarations of Intention, Naturalization Records, U.S. District Court, Western District of Texas, 1906-1974, RG21, 48W136, Box 1-4, National Archives at Fort Worth, Texas (以下、NAFWT とする).

19 Card Index to Naturalization Petitions, Naturalization Records, U.S. District Court, Western District of Texas, 1906-1974, RG21, 48W141, NAFWT.

20 Ibid.

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トニオに居住するメキシカンの約半数はアメリカに未帰化のまま留まっていた 21。しかし、少なからぬメキシコ人移民がアメリカへの帰化を望むようになっていたのである。

II 移民管理の議論におけるメキシカンの位置付け:移民 / 労働者をめぐる人種と階級の交錯

 メキシコ人移民に割当制度が適用されなかったことは、かれらが移民管理体制そのものから除外されたことを意味するものではない。数的制限の他に割当制度がもたらした移民政策の転換として、管理対象となる移民の捉え方の変化が指摘出来るだろう。この変化は、移民という社会的位置付けや認識にかかわる側面で大きな意味を有し、メキシコ人移民に対する具体的な法施行においても作用した。1917 年移民法で導入された読み書き能力ならびに人頭税の納入を移民に求める規定では、アメリカに入国させるに相応しい移民が個人の資質をもとに選定されていた。代わって、割当制度は移民を出身国別に分けられた集団とした上で数量的規制を実施した。このことにより、移民は個人単位ではなく出身国別の集団単位で管理体制下に位置付けられたといえる。つまり、出身国別の集団規定が、入国時点での選定、ひいては入国後の移民の社会的位置付けを規定する重要な意味を帯びたのだ。 では、非割当移民と区分されるメキシコ人移民管理をめぐる議論において、メキシカンはいかなる集団と規定され争点となっていたのだろうか。以下では、集団としての移民という管理体制の枠組に着目しながら、割当制度導入以後に激化した、メキシコ人移民に対する数的制限適用の是非をめぐる議論を考察し、そこで人種や階級の論理がどのように関連付けられていたのかを検討する。 メキシコ人移民に割当枠が適用されなかった最たる理由としては、メキシコからの入国者を安価な労働力の供給源とする、南西部の農業生産者からの強い要請があった。これらの主張に特徴的なのは、流入するメキシカンを、単なる労働者の集団としか認識しておらず、永住と帰化を前提として入国管理の対象とされる移民とは異質な存在と見なしている点である。かれらを、土地を所有することも、地域や国家の政治に関与することも要求せず、生活や労働の場でアメリカ人に取って代わり自らの地位を得ようとも考えない存在であるとする見方は、南西部

21 Declarations of Intention, Naturalization Records, U.S. District Court, Western District of Texas, 1906-1974, RG21, 48W136, Box 1-4, NAFWT; Economic and Industrial Survey (San Antonio: San Antonio Municipal Report, 1940), 167.

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を中心に広く浸透しており、連邦議会の移民政策の方針にも多大な影響を及ぼしていた 22。 有用な労働力と見なされる一方で、メキシカンの増加は社会における人種枠組の乱れとして問題視された。例えば、1925 年に労働省からの委託で移民管理における人種問題を調査したプリンストン大学経済学者のロバート・ファースター

(Robert Ferster)は、東南欧諸国からの移民は激減したが、「現在の移民の大部分は共和国建国以来類を見ないほど非白人で占められてしまった」23 と割当制度適用下の状況を捉え、「メキシコ人移民への対応という新たな政策問題を論じる必要に迫られている」24 と警告している。労働力需要を背景に続いていたメキシカンの流入は、社会的に好ましくない他者を迎え入れる結果をもたらすとして、メキシコ人移民への制限の適用を求める声も高まった。テキサス選出の上院議員ジョン・C・ボックス(John C. Box)は「裏口を閉じよ(Close the Back Door)」25 とのスローガンを掲げ、米墨国境の移民管理体制に対し、他の入国管理地点とは一線を画すネガティブなイメージを投影し、メキシコ人移民にはヨーロッパ系移民に対する数的制限以上の厳格な入国規制を実施する法律の制定を訴えた。メキシコ人移民の制限を求める当時の議論においては、メキシカンをアメリカ社会に同化不可能な人種的他者とする論調が顕著であった。制限論者の一人、バンダービルト大学の経済学者ロイ・L・ギャリス(Roy L. Garis)は、労働者として有用といえども、メキシカンを社会に取り込むことは人種的な観点から好ましくないという立場から、ボックスの法案を支持した 26。このような制限の導入を目指す活動は活発化し、1921 年の緊急割当法制定以後から 1930 年代初頭にかけて、連邦議会での法案成立を目指すし展開していた。 このように、メキシコ人移民に対する割当制度の適用をめぐっては賛否が分か

22 Gutierrez, Walls and Mirrors , 44-56; Montejano, Anglos and Mexicans in the Making of Texas , 182-86.

23 Robert Ferster, The Racial Problems Involved in Immigration from Latin American and the West Indies to the UnitedStates: A Report Submitted to the Secretary of Labor (Washington, DC: GPO, 1925), 1.

24 Ibid., 60.25 House Committee on Immigration, Immigration from Countries of the Western Hemisphere:

Hearings , 1930, 4; Robert A. Divine, American Immigration Policy, 1924-1952 (New Haven: Yale University Press, 1957), 53; Michael C. LeMay, Guarding the Gates: Immigration and National Security (Westport, CT: Praeger Security International, 2006), 131; Zolberg, A Nation by Design , 254-58.

26 Immigration from Countries of the Western Hemisphere, Hearings before the Committee on Immigration and Naturalization , House of Representatives, 71st Cong., 2nd sess., 1930, 4.

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れていたが、メキシカンをアメリカ社会への適応が不可能であり、人種的にもヨーロッパ系移民を出自とする他の白人とは異なった存在と認識した上で、階級的にも下位に位置付けられる集団とみなす点では意見は一致していたといえる。つまり、メキシカンは労働力としての有用性が認められる一方で、人種的な他者性を付与された集団であった。このような認識を反映して、メキシカンの中でもとりわけ労働者層に対して「ペオン(peon)」という蔑称が当時のアメリカ社会で広く使われていた。短期滞在の労働力としてメキシカンの流入を容認する主張は、アメリカ市民や移民の区別なくメキシカンを一様にペオン、つまり階級的にアメリカ人より下位に位置付けられる従属労働者と見なし、シティズンシップの重要な要素である自由労働イデオロギーとは相容れない性質の他者とした 27。また、メキシコ人移民の制限を求める議論は、従属労働者という階級のステータスをアメリカ人とメキシカンとの人種的な差異に置き換えたのである 28。 メキシカンに付与されるペオンという蔑称の社会的定着度は、ジャーナリストのロバート・N・マクリーン(Robert N. McLean)が 1928 年に出版した『ありのままのメキシカン(That Mexican! As He Really Is)』の中で鮮明に描き出されている 29。米墨国境地域の社会状況に関する論考を数多く発表したマクリーンは、詳細な社会調査ならびに同時代の移民管理をめぐる諸議論に依拠しながら、ペオンを典型としたメキシコ人移民の生活状況を描写している。マクリーンは、割当制度適用の是非にかかわらず、貧しいメキシカン、すなわちペオンが、アメリカ社会に同化・適応しない外国人のままアメリカ国内に居住している状況を問題として強調した。

問題は、(アメリカ)社会内部で発生している。われわれの国は外国人による国家(nation of foreigners)であり、自由と平等の原則に基づく国家であり、そしてよそ者を迎え入れ、かれらをアメリカ市民に変容させるという論理に沿って発展してきた。外国人を外国人のままに留めおくような移民政策の方

27 「ぺオン」は 19 世紀末から 20 世紀初頭のメキシコにおいて所有地を失った貧しい農民を指す用語として広まった。20 世紀初頭、流入するメキシコ人移民の大部分がこれら貧しい農民出身であったことから波及し、メキシカンを指す蔑称として主に南西部を中心に用いられた。Neil Foley, Mexicans in the Making of America (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2014), 43-44.

28 Reisler, By the Sweat of Their Brow , 143-4; Montejano, Anglos and Mexicans in the Making of Texas , 174-78.

29 Robert N. McLean, That Mexican! As He Really Is: North and South of the Rio Grande (New York: Fleming H. Revell, 1928).

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28 同志社アメリカ研究 第 52 号

針は、われわれの民主主義の否定であり、国民生活の発展に逆行するものである 30。

メキシコ人移民の増加は、ペオンをアメリカ社会内部に許容することであり、それは社会のメンバーシップの構成を変容させかねない状況を引き起こすとして、人種や階級の枠組が問い直される社会問題に波及していった 31。 増加するメキシコ人移民がペオンの集団と見なされることから、アメリカ社会にすでに定住しているメキシカンからも、移民の増加傾向はみずからの社会的地位の危機をもたらすネガティブな状況であると受け止められた。実際、アメリカ社会におけるメキシカンは多様であり、短期滞在の労働者以外にも、未帰化のまま合法的にアメリカで生活の拠点を築き社会的に成功する者もいた。1920 年代以降の制限的移民政策の展開以前には、シティズンシップに関わらずある程度社会的に承認されその内に位置付けられたメキシカンが、地域社会内に存在していたのである 32。かれらの多くは、リコス(los Ricos)と呼ばれ、多くは 1910 年代に母国の政治的動乱を逃れてきた文化人や知識人、資産家などのエリートで、サンアントニオなどメキシコ由来の歴史的・文化的地盤の根付いた地域においては、アメリカに未帰化のまま社会の一員としての地位を築き上げていた 33。しかし、リコスの有していた社会的承認の基盤は、新来の移民の増加に押される形で弱められ、地域社会内部に位置付けられていたメキシカンに対しても、外国人としての周縁化の圧力が向けられるようになった。増加する移民がもたらした、メキシカンを階級的・人種的他者と一括りにする認識の影響が、メキシカン全体の社会的地位にまで波及したのであった。 メキシカンをアメリカに同化しない外国人と位置付ける議論がテキサスで高ま

30 Ibid., 175-76.31 『ありのままのメキシカン』を含め、マクリーンの著作を題材に当時のアメリカ社会における

メキシコ人移民の表象を論じている研究としては、以下を参照。Gilbert G. Gonzalez, Culture of Empire: American Writers, Mexico, and Mexican Immigrants, 1880-1930 , 1st ed. (Austin: University of Texas Press, 2004), 128-56.

32 テキサスでは 1921 年まで市民権の有無にかかわらず住民に投票権が認められていた。Journal of the Senate of Texas, 37th Legislature, Regular Session 1921 , 40, 400, 645; Martha Menchaca, Naturalizing Mexican Immigrants: A Texas History (Austin: University of Texas Press, 2011), 237-40.

33 Irene Ledesma, “Texas Newspapers and Chicana Workers’ Activism, 1919-1974,” Western Historical Quarterly 26 , no. 3 (Autumn 1995): 309-34; Richard Amado Garcia, “The Making of the Mexican-American Mind, San Antonio, Texas, 1929-1941: A Social and Intellectual History of An Ethnic Community” (PhD diss., University of California, Irvine, 1980), 508-62.

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題 29

り南西部を中心にアメリカ社会全体に波及する中、メキシコ出自のアメリカ市民の中からは、それに抗してアメリカ的な集団規定を模索し、社会的地位向上を求める動きがあらわれた。1929 年 5 月にテキサス州コーパス・クリスティ(Cropus Christi)で設立された統一ラテンアメリカ系市民連盟(League of United Latin American Citizens、LULAC)は、メキシコ系アメリカ人のみを組織化の対象とし、アメリカ市民であるメキシカンの権利主張を主たる目的として組織された。LULAC の特徴として、メキシコ系アメリカ人を移民集団とは定義せず、アメリカ人であることを所与のものとする主張を展開した点が指摘できる 34。そのため、メキシコ人移民に投影される人種的他者のイメージと、メキシコ系アメリカ人のシティズンシップとをいかに切り離すかが、社会的地位向上のための課題とされた。 このような問題意識から、LULAC は、移民法改定をめぐる 1930 年の上院委員会の公聴会で、アメリカ市民と移民を区別する立場から、メキシコ人移民への制限適用に賛同を表した 35。公聴会では LULAC メンバーから、ホセ・T・カナレス(Jose T. Canales)、アロンソ・S・ペラーレス(Alonso S. Perales)、そしてベン・ガルサ(Ben Garza)が発言し、メキシコ人移民問題に対するメキシコ系アメリカ人の見解を表明した。かれら 3 人の議論に共通するのは、メキシコ人移民の問題は改善可能であり、人種に由来する問題ではないとする点であった。ガルサは、メキシコ人移民が割当制度の適用から除外されている現状が、メキシコ人移民を従属労働者としての地位から向上出来なくしているのならば、割当枠の導入に賛成するとした 36。ペラーレスも同様の発言を展開し、メキシコからの移民がアメリカにおける労働者の脅威になっているのであれば、制限することは正しいと述べた。カナレスは、現行の法律に異論はなくメキシコ人移民に対する割当制度の導入にも反対しないが、その前にまず地域社会でメキシコ系アメリカ市民が直面する経済的、社会的苦境に目を向けるよう要求を添えた 37。このように3 人の供述は、

34 The Constitution of the League of United Latin-American Citizens , 1929, Box 1, Folder 7, Oliver Douglas Weeks Collection, Benson Latin American Collection, University of Texas, Austin; Oliver Douglas Weeks, "The League of United Latin American Citizens: A Texas-Mexican Civic Organization," The Southwestern Political and Social Science Quarterly 10, no. 3 (December 1929): 265.

35 Immigration from Countries of the Western Hemisphere, Hearings before the House Committee on Immigration , 1930, 70-72.

36 House Committee on Immigration, Immigration from Countries of the Western Hemisphere: Hearings, 71st Cong., 2nd sess., January 31, 1930, 258-59.

37 House Committee on Immigration, Immigration from Countries of the Western Hemisphere: Hearings , 71st Cong., 2nd sess., January 29, 1930, 181.

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従属労働が非アメリカ的であることには同調するが、それはメキシカンの本質的な性質に由来するものではなく、社会的、経済的な階級的地位は変容し向上が可能であることも同時に強調した。 LULAC がメキシコ人移民への割当制度適用に期待したのは、従属労働者というメキシコ人移民を人種的に他者化するイメージが、メキシコ系アメリカ人に及ばないようにすることであった。なぜなら、割当制度の導入は、メキシコ人移民の処遇を他のヨーロッパ系の白人移民と同列に押し上げることを意味し、それは、シティズンシップを人種に強く依拠して主張する LULAC にとって、移民が白人の一員として妥当な扱いを受けることにつながると受け止められたからである。そのため、LULAC はメキシコ人移民の問題が人種の問題ではなく階級の問題であると主張したのであり、制度的枠組としてメキシコ人移民に対する非割当移民との位置付けを問題視するが故に、割当制度適用を求めるという内容であった 38。つまり、出身国別に整理された割当制度下で峻別され入国することは、アメリカ社会における人種的ヒエラルキーに位置付けられることでもあり、この意味においては割当移民のアメリカ化も人種化のプロセスを踏むものであった。上述のLULAC メンバーの主張は、非割当移民という区分が、メキシコ人移民を、アメリカ人とは自由労働イデオロギーを共有し得ない短期滞在の従属労働者として、移民のアメリカ化から排除する根拠となり、人種的な排除の論理として働いているとの問題を指摘していたのである 39。LULAC は、白人と同等のアメリカ市民としてのメキシコ系アメリカ人の権利を主張する組織戦略において、移民問題を、市民的義務の行使により改善可能な階級問題として論じ、メキシコ人移民をアメリカ社会に不適切な他者と見なす風潮に見直しを迫ったのである 40。このように、メキシカンの社会的位置付けは、アメリカ社会においては人種的・階級的なレッテルと結びつくことで、移民制限をめぐる議論における争点となっていった 41。 マクリーンが指摘するように、外国人のままでいるメキシカンが数的に多かったのは事実である。人口比率からみると、メキシコ人移民のアメリカ帰化申請の割合は低く、増加するメキシカンのおおよそ半数は未帰化のままアメリカでの生

38 Ibid., 180-81.39 Ngai, Impossible Subjects , 21-55.40 Weeks, “The League of United Latin-American Citizens,” 257-58.41 Immigration from Countries of the Western Hemisphere, Hearings before the Committee on

Immigration, 1930, 233; Gutierrez, Walls and Mirrors , 44-56; Montejano, Anglos and Mexicans in the Making of Texas , 182-86.

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題 31

活を築いていた 42。もっとも、この数値はメキシコ人移民に帰化やアメリカ化の意思が無かったことを意味していない。なぜなら、入国管理行政の実態ならびに移民法の規定から見て、メキシコ人移民は短期滞在者であるとの前提に基づいた入国管理の対象とされており、短期滞在ビザの申請・更新手続きは簡易であった反面、帰化を申請した場合の審査期間は長く、帰化申請料も高額になっていたため、かれらが帰化する動機付け自体が希薄だったからである 43。しかしながら、移民管理体制上メキシコからのヒトの流入が非割当移民と位置付けられ他の白人ヨーロッパ系移民の処遇と峻別されてゆくのを受け、LULAC の活動に象徴されるように市民権を主張する傾向がメキシコ系アメリカ人の中で強まり、メキシコ人移民の間でも制度的にアメリカ市民権を得ることの意味が意識されるようになっていった。他方、そのようなメキシコ系アメリカ人ならびにメキシコ人移民の意識の変容にもかかわらず、メキシコ人移民を集団としてアメリカ社会の他者と見なす風潮は、割当制度適用下の移民管理体制下で高まっていった。このメキシコ人移民のアメリカへの帰化傾向やメキシコ系アメリカ人の市民権と、メキシカンを一様に他者と見なす社会認識の浸透との間の矛盾は、どのように結び付けられたのだろうか。以下では、テキサスのローカルな社会的文脈を背景に展開した移民管理の実践をとりあげ、この問いを検討する。

III 不可視化されるメキシコ人移民のアメリカ化、社会問題化するメキシカン

 1930 年まで、メキシコ人移民に対する割当制度導入の是非は、移民政策の重要案件として連邦議会で活発に議論されていた。しかし、結局メキシコ人移民の制限法案は成立せず、メキシコからの入国者に対する政策の焦点は非合法移民の取締りへと移っていった。1930 年代に入ると、大恐慌という新たな状況のなかで、移民問題は社会統制をめぐる問題として論じられるようになり、メキシコ人移民の増加が顕著なテキサスでは、地域固有の状況に即した法制度の解釈とその実践が、その舞台を国境線上の移民管理から、社会内部の日常生活へと移し先鋭化していった。当時、アメリカ国内のメキシカン人口の半数以上が集中していたテキサスにおいて、メキシカンは決してマイノリティではなかった。サンアントニオのような都市部では、人口の半数以上をメキシカンが占めており、経済的にもか

42 Declarations of Intention, Naturalization Records, U.S. District Court, Western District of Texas, 1906-1974, RG21, 48W136, Box 1-4, NAFWT; Economic and Industrial Survey , 167.

43 Menchaca, Naturalizing Mexican Immigrants , 239.

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れらを抜きに発展し得ない構造となっていたのである 44。そのため、非合法移民の取締りは、地域社会においてメキシカン全体を社会問題と見なし排斥する傾向で展開した 45。 制限的移民政策の影響は、大恐慌下で経済的・社会的混乱が見られた 1930 年代に顕著に表れた。当時のハーバート・フーバー(Herbert Hoover)政権は移民制限を一層強化し、その締めつけは割当移民にも向けられるほどであった 46。また、さらなる移民規制の方策として、1929 年移民法制定の意義は大きい。同法では移民管理に初めて合法か非合法かの線引きが設けられ、移民局が定める正規の手続きを経ずに入国した者に対して 1 年以下の懲役か 1,000 ドル以下の罰金、あるいはその両方を課すと規定されていた。また、送還された外国人が再入国した場合、2 年以下の懲役か 1,000 ドル以下の罰金ないしその両方が課せられることとされた 47。この実践的効果は、移民局主導で展開された強制送還(deportation)キャンペーンで発揮された。指揮を取った労働長官ウィリアム・N・ドーク(William N. Doak)は、暗にメキシカンが最大の検挙対象となることを示唆していた 48。また検挙される対象には合法的な滞在者やアメリカ市民も含まれていた 49。こうして推定 45 万人以上のメキシカンが、アメリカからの出国を余儀なくされた。しかし、実際のところメキシコ人移民に合法・非合法の区別をつけられるほどに米墨国境線上での移民管理は行き届いていなかったったため、そのほとんどが非合法の嫌疑をかけられた者による自主的な出国であったといえる 50。 テキサスの地域的文脈における移民管理の実践は、国境警備隊とテキサス・レンジャーズ(Texas Rangers)の活動に顕著に見られた。米墨国境の警備に配属された警備隊員は、そのほとんどが現地で採用されたテキサス住民で構成されて

44 Manuel Gamio, Mexican Immigration to the United States (New York: Arno Press, 1969), 129; U.S. Bureau of Census, Fifteenth Census of the United States, 1930: Population , Vol. 2, Texas, Table 2; Economic and Industrial Survey, 167.

45 Max S. Handman, “San Antonio: The Old Capital City of Mexican Life and Influence,” Survey 66, no. 3 (May 1931): 166.

46 U.S. Department of State, The Immigration Work of the Department of State and Its Consular Officer (Washington, DC: GPO, 1934), 4; Divine, American Immigration Policy, 1924-1952, 9.

47 U.S. Department of Labor, Bureau of Naturalization, Naturalization, Citizenship and Expatriation Laws , July 1, 1929 (Washington, DC: GPO, 1929), 35-39; Public Law 1018, 45 Stat. 690 (1929).

48 Abraham Hoffman, Unwanted Mexican Americans in the Great Depression: Repatriation Pressures, 1929-1939 (Tucson: University of Arizona Press, 1974), 39.

49 Balderrama and Rodriguez, Decade of Betrayal , 60.50 Dan Kanstroom, Deportation Nation: Outsiders in American History (Cambridge, MA: Harvard

University Press, 2007), 214-19.

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題 33

おり、自らの属する地域コミュニティの安全を守るためにはメキシコ人に銃を向けることも辞さなかった 51。また、国境地域を主たる活動範囲として、連邦法制度下の権限は有さないものの州独自の対墨警備を実施していたテキサス・レンジャーズは、1924 年の国境警備隊設立以降は、都市部へと活動の場を移し、州の公共安全局(Dapartmentof Public Safety)の一機関に変容していた 52。しかし、地域社会においては警備隊とレンジャーズの活動は登用方法においても訓練や活動方針においても重なる部分が多く、都市部でのレンジャーズの活動においても、警備隊同様に、対メキシカンの姿勢は非公式的に引き継がれていた。例えば、歴史家ウォルター・プレスコット・ウェブ(Walter Prescott Webb)による、レンジャーズの広報用パンフレットでは、メキシカンは無法者や反社会的な存在として登場し、レンジャーはメキシカンの侵入から住民の生活を守るヒーローとして描かれている 53。このようにテキサスでは、事実上は非白人として扱われていたメキシカンと、「外敵」としてかれらを排除することで成り立つ白人社会との対立という構図が、レンジャーズと国境警備隊の地域に根付いたイメージや、これらの組織による日常的な活動の実践を通じて州の政治・行政にも反映されていった 54。 ここで特筆すべきは、強制送還キャンペーンにせよ、地域行政によるメキシカンに対する差別的な処遇が、国境地帯に留まらず、都市部を含むさまざまな地域で展開されていた点である 55。連邦議会や法制度上の移民管理体制で論じられるのとは異なり、地域社会においてメキシカンの増加は、日常生活で直面する現実問題として認識された。そのため、法制度上の白人としての規定や帰化の実態にかかわらず、増加するメキシカンの社会的位置付けをめぐる議論は激化したのである。そのような議論において、メキシコ系アメリカ人のシティズンシップや移民の帰化傾向に確認できるアメリカ化の側面は、アメリカ人にはならない/なれな

51 Kelly Lytle Hernandez, Migra!: A History of the U.S. Border Patrol (Berkeley: University of California Press), 57-65.

52 Rules and Regulations Governing State Ranger Force of the State of Texas , Adjunct General Ranger Record, Box 401-184, Folder 27, Texas State Library and Archives, Austin ( 以下 TSLA とする ).

53 Walter Prescott Webb, The Story of the Texas Rangers , Adjunct General Ranger Record, Box 401-184, Folder 27, TSLA.

54 Lauro Izaguirre, Acting Conslado General de Mexico to James V. Allred, Governor of the State, Austin, Texas, August 22, 1936, Texas Governor James V. Allred Papers, Box 1985/024-21, TSLA.

55 Linda Carol Noel, “The Swinging Door: U.S. National Identity and the Making of the Mexican Guestworker, 1900-1935,” (PhD diss., University of Maryland, College Park, 2006), 204-7.

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34 同志社アメリカ研究 第 52 号

い外国人というイメージの影で注目が向けられず、その意義や社会的作用は不可視化されていった。

おわりに

 このように、1920-30 年代におけるアメリカ移民政策上のメキシコ人移民の位置付けは、ヨーロッパ系移民に対するものとは性格を異にしており、その影響は移民の入国管理に限らずアメリカ社会におけるメキシカンの位置付けに大きく作用していた。割当制度の導入は、ヨーロッパ系移民とメキシコ人移民とで、移民集団としてのアイデンティティ形成や、アメリカ化の展開が分け隔てられてゆく分水嶺となったといえる。非割当移民という法政度上の位置付けと、それに基づく行政的な法施行は、法的には同様に白人と規定されるメキシカンを、階級的に下位に位置付け労働者として有効利用しつつ、アメリカ社会への同化のプロセスから切り離し恣意的に社会問題化することで、ヨーロッパ系移民からなる白人社会とは峻別される他者として位置付けていった。 また、テキサスのローカルな文脈に即した移民政策の実践においては、メキシカンを白人とする法的な人種規定と、社会における現実的な階級的・人種的処遇との間のズレが争点となった。そのため、LULAC は移民問題を階級問題として解釈し直すことで、移民の増加により伸展するメキシカンに対する人種的他者イメージの浸透と、白人としての法的位置付けを根拠とするメキシコ系アメリカ人のシティズンシップの間に分断を形成する方策を取った。結果として、メキシコ人移民のアメリカ化は、アメリカ社会への同化プロセスとも、メキシコ系アメリカ人と連帯した集団形成にも結び付かず、社会的に不可視化されていった。このように見ると、テキサスを中心に南西部から全国的に普及したメキシカンを他者として社会問題化する傾向は、メキシコからの移民を非割当移民と位置付けヨーロッパ系白人移民と峻別した法政度上の規定ならびにそれに基づきローカルを舞台に展開した行政措置の実践の所産であったといえる。そのため、この時期のメキシコ人移民管理体制は、法政度上の規定とローカルな行政的措置が結合した場面で顕在化し、市民として、労働者として、そして移民としてのメキシカンの社会的処遇を問う問題として論じられたのである。 本稿で論じた 1920-30 年代の移民政策の議論や実践を下地として、1940 年代さらには現在に至るアメリカ社会におけるメキシカンの問題を捉えることは重要であろう。1942 年には米墨両国の協定に基づきメキシコ人短期労働者受け入れ政

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題 35

策(ブラセロ・プログラム)が開始される 56。移民とは異なる制度的枠組においてメキシコからのヒトの流入を管理する新たな策が導入された背景やそれを可能とした社会的状況を捉える場合、本稿で論じた割当制度下のメキシコ人移民管理の意味、そして移民問題をめぐる人種と階級との関連を検討することは、現在的な問題関心においても留意する必要があるだろう。

56 ブラセロ・プログラムに関しては以下を参照。Kitty Calavita, Inside the State: The Bracero Program, Immigration, and the I. N. S. (New Orleans: Quid Pro Books, 2010); Devorah Cohen, Braceros: Migrant Citizens andTransnational Subjects in the Postwar United States and Mexico (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2011); 戸田山祐「「メキシカン」の権利保障と短期移民労働者導入をめぐる政治1940-50 年代テキサスの事例を中心に」『アメリカ史研究』第 37 号(2014 年), 79-99.

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ABSTRACT

Mexican Immigrants and American Identityin the 1920s and 1930s:

Race and Class in the Politics of Immigration Policy in Texas

Junko Miura

This paper argues that restrictive U.S. immigration policies aimed at controlling the influx of Mexican immigrantsduring the 1920s and 1930s had wide-ranging impact on society and everyday lives that, in some ways, actuallycreated Mexican’s social aspects as “other.” Analyzing the differences between European and Mexican immigration controls during the era of the quota system, the paper shows the ideological effect of immigrationpolicy that placed Mexicans outside of the national Americanization process.This paper analyzes immigration policy from three perspectives. First, it briefly interprets the position of Mexicans within the framework of immigration policy during the 1920s and 1930s. It stresses the ideology thatplaced Mexicans outside the immigration quota system, largely because it allowed Mexicans to be included insociety as cheap, temporary labor. Second, by investigating the negotiations between those arguing for and againsttighter Mexican immigration restrictions, this paper shows how racial and class interests were at the center of thedebate, as well as how Mexican Americans politically claimed their citizenship and social belonging. Third, thisstudy examines the actual experience of Mexican immigrants as they attempted to naturalize and reexamines thesocial image of Mexican as “others” ineligible to be American.This paper also brings new insight into the subsequent transformation and reconstruction of Mexican immigration policy up to the late 1940s, and also examinines the complex link between immigration policiestoward Mexican immigrants and the creation in the U.S. of an ideology as a nation of

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1920-30 年代のメキシコ人移民の『アメリカ人』アイデンティティをめぐる諸問題 37

immigrants. The Braceroprogram emerged in the 1940s as a form of Mexican exclusion from the larger immigration contest and until themiddle of 1960s became the institutional basis for controlling Mexicans in U.S. society. This paper proposes thelong-range impact of immigration controversies and debates over Americanization, suggesting that the period of the 1920s and 1930s was a critical point.