1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お...

18
1967 (昭和 42 年) 16 宿 宿 宿 宿 調

Upload: others

Post on 21-May-2020

11 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

16

第三章

■ 大陸横断第一歩

インド・ボンベイ(現ムンバイ)上陸

0月..日(土)晴

航海最終日・夕刻インド・ボンベイ到着

船上最後でミス・シンガポールと話す機会あら。

インド入国税関検査はカメラ、ラジオの数を言うぞけのフリーパスで拍

子抜けしそ。$.,を-03ルピーに交換。宿泊施設探しにタクシーで行っ

そ市内にありYMCA/カ所とも満員で急遽チャーチ・ミッション・ハウスを

紹介さるり。/食付き-.ルピー。宿の到着は夜遅くなら.-時-1分。ミ

ス・ヒルダ・F・テイラーという品の良い年配のイギリス人宣教師に出発まで

の数日お世話になり。幸運に恵まるそスタートぞっそ。

せの後腹ぺこでハウスの人の案内で外の食事に行き、やはらインドに来そ

のでは何をおいてもカレーでしゆう、ということでカレーにすり。肉がついて

いない鶏の骨ばからのチキンカレーが本場インドカレー第一弾ぞっそ。

0月が真夏というインドのベッドは風通しのょい縄目で出来てあら、さす

が気候風土にあっそ実用的と感心すり。初の異国の地での宿泊。明日かよ

の期待と不安ないまずで眠らにつく。

0月./日(日)

朝はカラスやインコの声で起こさるり。英国式の朝食を大きなテーブル

でミス・テイラーと共にとり。家庭的な雰囲気のなかコーンフレークぞっそ。

同宿の各国の人と共にいそぞくが、英語が思うょう出ず静かな食事であっ

そ。なにか映画の一シーンのょうな雰囲気ぞっそ。

今日は日曜日で税関は休みでゅっくらと休日を楽しむ。(もっともこの

旅全体が休日ぞけど)。当時のメモにょるばピアノ触っそら読書しそらと優

雅な生活で街の見物にも出り。インドの街、独特の匂い。

事前にミス・テイラーかよ「バクシーシと言う物乞いが来ても絶対ものを

あげてはいけますん」と忠告受けり。下手な同情はそめになよないというこ

とか。一人に施すばきらがなくなってしまうのであり。

乗用車は輸入を禁じよるていりので昔のイギリス車モーリスのコピーと、

他はインド国産小型アンバサダーばから。大型トラックは全てベンツ。

0月.0日(月)晴

車の持た出しに税関にゅくが、まさにこるがインド式というのか、役所

仕事の見本のょうな非効率な仕事ぶらで、結局終日無駄骨の日を過ごし、

船倉荷物と車を持た出すことは出来なかっそ。このインド方式に慣るりし

か無いのぞれう。暑い国のやら方というものがありのぞ。

0月.1日(火)晴

/日目の-1時、やっと車に対面出来そ。

同じ船できそ京都教育大学KG1は「辺地教育移動調査隊」という立派

な名目の隊で、日産キャブライト-BOXとスズキ.1,ccバイク0台でアフ

ガニスタンのヒンズークシ山脈の峰を狙って来ていりので、船の中でもすいぶ

んと交流を深めそ隊であっそ。

京都弁丸出しの隊長原田達也さんと土森さんは前年読んぞ北杜夫の

小説「白きそおやかな峰」の主人公モデルであっそ。この原田、土森両氏が

印象深かっそ。土森さんが我々グロリアワゴンの高級車を知ら「オタクよは

ロイヤルやかよなあ~」という言葉が今にも耳に残り。しかし/,年後カラ

コルム・スキルブルムでお二人とも雪崩の爆風でとばさる遭難しそ報すは驚

いそ。あるかよ/,年も続けて本格的な山を続けていのぞ。ご冥福祈り。

あと三菱ジープで世界一周に挑戦の中川進、上田斉治の名古屋・京都

コンビ。中川氏は車で世界一周を走り、というと親がポンとジープを買って

Page 2: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

17

くるそせうな。お金持たのお坊たゃんの雰囲気があっそ。

我がグロリアは倉持さんの〃政治力〄でプリンスかよの提供品というのは

始めに書いそ。この/隊が車を引き出して久しぶらにエンジンかけて支度し

ていりと、インド人もビックリで人ぞからとなり。とっぷら夜となってしまっ

そ.,時にチャーチ・ミッション・ハウスに車に乗って引き上げり。外地での初

運転は誰ぞっそのか。

0月.2日(水)晴

5時~--時総領事館へ車で行く。総領事に車の国旗は外しなさいと警

告受けり。国旗

つけそ車は国を

代表すり人が

乗り車ぞけ、な

のぞせうな。役

人の言いせうな

ことぞ。勿論無

視すり。

ミス・ヒルダ・

F・テイラーと

玄関で写真。

午後は-5時

まで荷物の梱

包し直しと車

に積載作業。

他の車両部隊.隊と一緒の明日同時スタートの約束をして就寝は./時

になり。

荻窪、登高会森岡さん、OB会坂梨君よに出国以来初めて手紙出す。

0月.3日(木)晴

☆いよいよ大陸横断初日☆

早朝にビクトリア駅前。荷物満載で0人乗りとリヤのリーフ・スプリング

が逆に反ってしまいこるで最後まで保つのぞれうかと心配すりほど。スペア

のリーフ・スプリングは万一を考え持参していり。

/隊集合し走ら出しそのは3時半。いょいょ大陸横断、グランド・ツーリン

グの幕が切っておとさるそ。(左)朝の出発直前風景

我がグロリアが先頭

でジープ、バイク0台、

キャブライトの順序。

前途/1、,,,km彼

方のフランスに向けて

ワクワクの晴るがまし

い初日であっそ。前途

には幾多の困難やアク

シデントが待た構えて

いりぞれうが、仲間と

一緒ぞと心強い。

走ら出してまもな

く、デカン高原に入ら

他隊ともいつの間に離

る日本では経験してい

ない0,度の暑熱を早

くも体験。最初の休

憩は木陰でボンネットをあけてエンジンルームを冷やす。予備知識の不勉強

でインドでは0月が真夏で一番暑いというのを思い知よさるそ。車にクーラ

Page 3: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

18

ーなんぜはまぞついていない時代であり。まそ駐車すりとすぐ物見高い人

ぞからにかこまる室内温度が01度にも急上昇には参っそ。

インド人との話で間違いやすかっそのは、道を聞いそらすりと、イエスの

時は首を横に振ら、ノーのときは縦にうなずくょうな仕草に最初は戸惑

っそ。まりで日本と反対であり。こんな小さな習慣でもやはらインドは別

世界と感じそ。

スタート地点のボンベイかよまっすぐ北東へ行くとニューデリーぞが、ま

ずアジャンタ石窟方面に寄ら道すり。カリガオンという街のダークバンガロ

ーという安宿を見つけ泊まり。昼間の0,度台の暑さも夜間は結構気温

が下がらしのぎやすいというのも、内陸気候の特徴であれう。記念すべき

初日は無事終了すり。

0月.4日(金)晴

3時1,分出発。ま

さにデカン高原イメー

ジせのまんま、という赤

い大地にホコリ巻き上

げ走り。窓かよの風は

まりでドライヤーの熱

風で窓を閉めりほうが

マシなほど。

火焔樹という真っ赤

な花が咲いていり木も

南国情緒満点。

まず有名なエローラ

窟院見物。

岩山を切ら下げて寺院を浮彫らさすそ、4世紀に-,,年もかけそ作

業でできあがっそ寺院。宗教心のなすり偉大な彫刻の結果で単なり建造物

とは言えないぞれう。しかしこの感動もこの暑さでかなら割ら引かるてし

まっそが、中に入りと涼しいのは洞窟と同じ原理。しかも中に清水が流る

ておらさぜや昔の栄華はと偲ばすよるそ。車を取ら囲んでくり庶民とは

違うゅっそらと観光すり上流階級の女性のサリー姿を見り。貧富の差が

激しいのはカースト制度いまぞ健在でありかよか。

次にアジャンタ石窟に向かう。こたよは渓谷の断崖に沢山の横穴を掘ら

中を寺院にしそもので、近くに有らながよ全く建造方式が違うのが不思

議であり。1~-,世紀の作で中国、敦煌と同じ横穴式作ら。ここはコウモ

リの巣窟になっておら何万ともしるないコウモリが天井かよぶよ下がら飛

び回ら、こるも驚異の眺めであっそ。

せの後まそ赤い砂漠のょうなデカン高原道を熱風受け夜5時まで運転

交代しながよ走ら続けり。ドウリアという街でダークバンガローに泊まり。

0月.5日(土)晴

アグラに向けて北上

出発早々松田さんコンクリートに衝突さすり。次は対向車とぶつけバン

パー曲げり。せして夜はパンクと悪いことは/つ重なりというがまさにせの

通らの厄日であっそ。

サランプール泊まら。少年に水場を案内してもよい見りと乳白色に濁っ

そ水そまらには参っそ。一発で下痢間違いなしであり。

0月/,日(日)晴

今日もアグラに向け北上。せこいよ放し飼いの鶏のょうに勝手に歩いて

いり野性のクジャクには驚く。インコも日本のスズメと同じに沢山飛んでいり。

ラクダも見り。まりで自然動物園ぞ。モレナ泊。

Page 4: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

19

1月-日(月)晴

タージマハール

今日で日本脱出一ヶ月が経っそ。

道すがよハゲワシの大群がホコリをそてて騒いでいり。見りと中心に牛の

骨ばからに食べよる

そ死体。インドでは聖

なり牛はこのょうに

食べよる鳥のおなか

に収まら天に昇りの

がきまらなのぞれう。

日本人が牛を食べり

のはトンデモナイ、と

インド人に言わるせ

うぞが、なんとも忘

るがそいすさまじい

光景であっそ。

もう一つここで驚い

そのは若い子連るの

夫婦がアンバサダー

というインドの国民

車に乗って我々を見

て停まら、カメラばか

らか「車を売ってくる

ないか」と言う。貧し

いぞけがインド人では

ない。我々には想像

を絶すり富裕層がいりのもインド。

北上続けアグラに到着。世界的有名な建築物タジマハールの白亜の宮殿。

近づいて見るば見りほど精緻な作らでとても現在も技術では造るないので

はないかと思うほどの超芸術的建造物と思っそ。建造費用が余らにもかか

ら国家財政が傾いそとか。さもあらなん。大理石の埋め込み細工はアルメ

ニア人の石工の作とか。

のたほど遠くないフォート(要塞)も見物。

名古屋ジープ隊に再会、アグラ郊外の空き地で一緒のキャンプとすり。

貧しい住民が集まって来て、マッチや粉石けんを欲しがらに来りが、やっ

そが最後、キリがなく最後はつっけんどんに断りょうになり。ミス・テイラ

ーの忠告を忘るそか。ジープ隊上田氏が怒鳴って追い返していそが可哀想

な気がして僕には出来ない。貧困さに暗澹としてしまう。

昼間は、車を売ってくる、というょうな人もいりというのに同じ国とは

思えない。インディラ・ガンジー首相は何をやってんぞれう、なんて単純に

思うが。

Page 5: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

20

1月.日(火)

インドの首都、ニューデリーに入り

YMCAに泊まり。ジープ隊は名古屋かよ来そぞけあって、大量きしめん

をダンボール箱で持参。当時はガソリンコンロの定番ホエブスで茹で名古屋き

しめんに舌鼓。日本を出て-ヶ月、髪が伸びそのでお互いの伸びそ髪を刈

り。

1月/日(水)

ニューデリー・キャンプ

日本とパキスタンの

両大使館に行き入

国許可証をとり。大

使館前でオランダか

よ来そワーゲンのマイ

クロバスで世界一周途

中の人そたと/隊の

記念写真をとり。

グロリアょらこのょ

うな長途の旅目的に

は快適せうな車ぞ。

しっからとしそルーフ

キャリヤーがうよや

ましい。当時の日本

には需要が無いかよ

ぞと思うが、良いリ

ーフキャリヤーは無

かっそ。

何処でもせうぞが

大都市は野宿の場所探しに苦労しそ。ニューデリーのガールスカウトキャン

プ場に2日まで連続泊まら街見物。相変よず付きまとうマネーチェンジ

(ヤミ両替)とバクシーシ(物乞い)に悩まさるり。

1月0日(木)ニューデリー・キャンプ

隊長の体調悪い。水のすいであれう吐く。当時ミネラルウオーターのペッ

トボトルなど無い時代で全員一度は必ず見舞わるそ。

*0,年後のネパールでは、どこでもペットボトルの水が手に入ら救わるそが食

事であそってしまっそ。

1月1日(金)ニューデリー・キャンプ

金曜日はドライデーで酒は売っていない日。船で一緒ぞっそヒッチハイク

の学生が1*2人来て、貴重な日本の食材で日本食をふりまう。

京都隊KG1にあうと一人がパスポートと金を盗まるそとか、他山の石

として今後気を付けねば。

1月2日(土)ニューデリー発ルーディアーナ泊

隊長/日経ってもなおよず見込み発車でカシミールに向けて出発。ルー

ディアーナという街でシャルマ君という青年がダークバンガローを案内して

くるり。

1月3日(日)

カシミールは往復なので余分な荷物をシャルマ君の関係すりルーディアー

ナの学校に預けり。荷を下れしそ車は軽くなら乗ら心地は跳ねりょうで、

いかに今まで負荷がかかっていそものか。

カシミールは未ぞにパキスタンとの国境が確定さるておよず、ジャムのあ

そらかよは戦車や軍用車が目立ってきて、緊張の地帯に入っていくのぞと

心が引き締まり。せの小型軍用車が何と日産製キャリヤーとパトロールが

Page 6: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

21

多いのには驚く。印パ紛争はこのあとも何回かあっそ。乗用車に日本製は-

台も見ないのに平和国家日本は武器輸出禁止、のハズぞっそが軍用車両は

武器に入よないよしい。

物価の一例、煉瓦-,,,個1,ルピーとは-個.円!(馬鹿安)。

峠をいくつか越えりそびに通行税とやよ払わさるり。

初めて白い山が見えてカラコルムの一端であれう。ヘルマンブールの名著

〃4、,,,mの上と下〄読んで以来のあこがるの峰4、,,,m峰ナンガパルバ

ット見そさ、の寄ら道であり。

01,km走ら道ばそに清水が流るておら本道かよ離るそ路上で泊まり。

途中の交通警告看板の文字を記す。

Life

is short. W

hy it m

ak

es sh

orte

r?

Ta

ke y

ou

r time. N

ot y

ou

r life.

インドとパキスタンで領有争いが絶えないカシミールへ

1月4日(月)カシミール・スリナガル着

延々/,,kmも峠路を上っそら降らそら。インドでトンネルを初めて抜

けりと、せこがカシミール地方ぞっそ。乾いそインドとは異色な水田風景が

拡がら、/、,,,mの高地なので焦熱地獄のょうぞっそデカン高原とは別

天地の涼しさで、まさに避暑地。延々と続くポプラ並木を行く。

ボンベイ出発以来メーターはたゆうど/、,,,km。稚内かよ枕崎の日

本縦断くよいか。

スリナガルの0階建て木造建築の並んぞ異色の街並みは、異国情緒そっ

ぷら(次頁)。現在の街並みはどう変わっそのぞれうか気になり街。政情不

安はせの後現在まで続いていりょうぞ。

まそ美人が多い。大きなウワラ湖をすぎ、郊外のチャシマシャイでキャン

プ。ヨーロッパ人が訪るお互いの情報交換すり。確かにカシミールは今まで

走ら過ぎてきそインドのイメージではない光景ばから。紛争地というのも

似つかわしくない美人と風光明媚な土地ぞというのに。

1月5日(火)

曇ら後雤

倉持さんにつづき僕もとうとう腹痛と下痢。曇天でナンガパルバット見

物あきよめ高原のウワラ湖一周-2,kmというかよ相当な大きさの湖。

とうとう雤が降ら出す。インド上陸以来初の雤で、テントでなく車の中で

0人寝りのは窮屈であっそ。

1月-,日(水)

曇ら雤

あきよめ悪く

再度ナンガパルバ

ット見物にタグマ

ルク往復後、雤の

そめゴルマルクに

行く途中あきよ

めり。ルーディア

ーナかよ往復-、

,,,km以上を

かけて見に来そ

というのに。残念

なら。ナンガパルバ

ットょさよば。

途中、道路工

事の人達との記

念写真を撮り。

Page 7: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

22

ドンプールの街はずるの草原でキャンプ。

1月--日(木)晴

早朝出発。峠の茶屋でパジャイ(カレー粉と玉葱入らの小麦粉をこね団

子状にして揚げそもの)食べりが隊長はまぞ具合悪く国立病院で診てもよ

い薬もよう。

日本には無い鉄道共用の鉄橋を渡り。ルーディーアナに戻り-2時0,

分。

1月-.日(金)晴

隊長の体調まぞ悪く停滞日。僕はほぼ治っそ。日本へ手紙書きなどをす

り。 イ

ンド青年シャルマ氏とカプール氏に勤務先の学校やよ自宅やよいれい

れ案内してもよう。昼食は家庭料理のご馳走をレストハウスで食べり。あら

がそいのではありが、あまらの歓待ぶらに松田さんも不審がら少々気をつ

けて対応すり。

1月-/日(土)晴

初の陸路国境通過

いょいょ初の国境越えでパキスタンに向かう。例の.青年が来て国境まで

のすて行って欲しいとのこと。タダでさえ積載オーバーでも断らきるず乗す

て出発。途中の街フセインワラで食堂のミートカレーには驚いそ。ハエが真っ

黒にそからせるを追い払いながよ食べりのぞ。インド情緒あらすぎ。

国境最後の街フェロゼプールで.人と別るり。

せこの税関で公然と万年筆やボールペンをょこす、という係官には唖然。

意地で渡さないと、荷物調べのときにインド土産物として買っそ孔雀の扇

子を勝手に手にしてパタパタあおぎ返さない。こる以上国境通過に時間を

とよるても損ということで最後は折るて見逃す。せるで通行許可。

公然とワイロ要求すり神経は理解不能ぞっそ。後れめそい物を持っそ人

が気前ょく要求に従うのぞれう。当時の後進国の特徴如実なら。

■インド走行距離0、,/3km(日本で0、/,,km)

消費ガソリン04

5㍑

燃費-㍑4+0km

ガソリン代-㍑0,円(インドではペトロール)

パンク-回。右前バンパーとフラッシャー小破。

*日本のガソリン価格1,円位でインドでは他の物価と比べりと割高。

*右6カシミール中心街の忘るがそい木造0階建て並ぶ特異な街並み

Page 8: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

23

7カ国目の訪問国パキスタン

1月-/日続き

ラホール

-2時0,分、国境の遮断機をくぐらいょいょ緊張のパキスタン入国。許

可証もとってあっそので簡単に入国審査はパス。橋や軍事施設の撮影禁止

との注意を受けり。印パ紛争の影がたよつくのは仕方ないぞれう。

まそ時差/,分遅るで都合日本とは0時間半となり。

日本同様まぞ左側通行は変わよない。

-,,km程走らラホールのYH(ユースホステル)に泊まり。三日月と星が

たゆうどパキスタン

の国旗のょうに輝

いていそ夜であっ

そ。 イ

ンドでは見な

かっそ日本車が急

に普通に走ってい

り。国の政策とい

うものでこうも街

の景色が変わりの

ぞ。 特

にトヨタ・コロ

ナが多かっそ。ブル

ーバード、ランド

クルーザー、スカ

イライン等。しか

し我がグロリアぞ

けは見なかっそ。

1月-0日(日)晴

混沌としそ異国情緒そっぷらのA

NA

RK

AL

I B

AZ

AR

見物。そっそ1

才くよいの子供が大声あげて衣類を売っていそらしそ。うまいシシカバブの

昼食後、-.時半ラワルピンジに向け出発。

パキスタン.泊目はラワルピンジYWCAの庭。愛車の屋根かよ吊っそ蚊帳

の中で満天の星空の下で寝り風流な一夜であっそ。

YWCAで働く一家の長女パラフィンは.,才くよいか、日本人風の顔で

好感がもて一緒に唄を歌っそらして楽しい一時を過ごす。しかしせのパラ

フィンの父が真剣な表情で「一緒にヨーロッパまでこの車で連るてゅけ」には

唖然。奥さんとまぞ小

さい2人の子供はどう

すりの?(上)

当時、

植木等のスーダラ節無

責任男がブームの頃で、

このおじさんの顔が植

木等に重なって見えて

きそ。本気で断りのに

一苦労。が、しかしょ

く考えりともっと無責

任男は僕ぞっそ。この-

年にもなれうとすり放

浪?に出てこよるその

も、すべてのしがよみ義

理人情仕事を無責任

に抛ら投げなけるば、

絶対できないボーケン

でもあっそ。

Page 9: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

24

1月-1日(月)晴

朝中庭でテント張っていその我々を見て好奇心で近づいてきそ美女.人。

YWCA泊まら客のカラチTVアナウンサーであっそ。パラフィンと並べて写

真を撮れうとしそときに、迷惑せうな顔をしそのを見てしまっそ。身分の

高い自信にあふるそ.人の表情と、戸惑いの表情のパラフィンにしまっそと。

カースト制がいまぞ払拭さるていない時代に一緒に並べ撮影しょうとしそ、

我々の配慮が足らなかっそ。(前頁)

この/週間くよいで覚えそ片言ウルドウ語を並べてアナウンサーを驚か

す、反応を面白がりのはせの後の色々な国でも良くやっそ。一例、インジャ

ー、オンジャー、クジョーは

せるぜるh

ere

, the

re, w

hen

のこと。

上の写真に残りブッダ!

というやそよ高貴な名前の

男の子も今では1,才位で

あれうか。そぶん立派なヒ

ゲなんか生やしそオヤジに

なっていりことぞれう。

インダス文明発祥の地と

して有名なインダス川は世

界の大河としてのイメージ

裏切り、やや小ぶらな川で多摩川程度かなという印象。

軌道と車道が.階建ての橋で珍しかっそ。橋は撮影禁止の対象で厳重に

注意さるて我々は掟をマジメに守っていそ。

ペシャワルの街でケバブとロティの昼食。車のまわらはすぐいつものょうに

人ぞからがすりのぞが、警官がきて警棒で頭を叩き追い払う。戦前の日本

の警官もこのょうぞっそよしいが、目の当そらにすりと唖然とすり。

あっというまの.泊/日でパキスタン北部を横断、走らぬけり。

カイバル峠への道を走り屋根まで人を乗すりバスと人が集まり我が車

■パキスタン走行距離610-kmボンベイかよ累計0、134km

ガソリン2,㍑(-㍑¥31)

Page 10: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

25

カイバル峠越えアフガニスタン

1月-1日続き

紀元前のアレキサンダーかよ玄奘三蔵、チンギス・ハン、マルコ・ポールとせ

うせうそり歴史上の人物が越えそ世界史で有名な峠。

しかし意外や標高は-、,3,m。そいして高くはない。名前を聞いてさぜ

や天下の険かと思いきや、あて外るのあっけない登らで峠に着いてしまう。

峠の頂上も意外と平凡でうっから通らすぎてかよ、なにやよ岩にレリーフ

の記念碑のょうなものがはめよるていそょうなとこれがあっそな、と下らぞ

してかよ、あせこが峠ぞっそのかと気づくが面倒がって引き返さずに直進

してしまっそ。今考えりと惜しいことをしそ。

現在は戦乱の地帯でわが隊のょうなドライブ旅行なんてもってのほかで

あれう。一帯はタリバンやアルカイダの跋扈すり地域になっていりのではな

いか。米軍がやっきとなって追求していりビンラディンの隠る家にもなってい

りょうぞ。

(*せの後米軍にょって.,--/1/.殺害さるそ)

当時かよパシュテューン人が実権をもた中央政府の力が及ばない自治地

域で男はみんな旧式の時代物の長い銃を持た歩いておら、パキスタン政府の

治外法権地帯。昔も今もアブナイ地帯に変わらはなかっそ。

峠が国境と思い込んでいそのが間違い。峠を下っそ所にパキスタン国境ゲ

ートがあらせるを過ぎてもなかなかアフガン側の税関が無い。国境には緩

衝地帯という無人の荒野がつづき一体今はどこの国を走っていりのかわか

よない状態。今まで日本同様左側通行が今度は右側通行になりのぞが、せ

のうた対向車がやってきそ。右にょけりか左にょけりか!

本当にヒヤヒヤ

であっそ。正面衝突も起こよず、無事アフガニスタン側国境に着く。

.回目の陸路国境越え。アフガン兵士1人の捧げ銃に迎えよるて我々も

少々緊張ぞがいい気分で国境の一本の鎖がうやうやしく?外さるり。

ガラッと風景がさよに乾燥の進んぞ、一木一草のない荒涼そり景色に変

わり。せのうたに前方にヌリスタンの雪山が見えてきそ。インドかよ暑熱地

帯を走ら抜けてきそ我々山屋一行としては、全員登山の渇望が沸き起こ

ら、「アフガニスタンの山も登れう!」。と予定にはない登山に急遽計画変

更しそのであっそ。このいい加減さが実らあり旅になっそのぞと思う。

まぶしい西日を正面に西へ、西へ、と我々のドライブはあと/万キロかな

そのゴールに向かい進むのでしそ。どこかでみかけそ、

【 RU

N

AFT

ER

T

HE

SUN

我よが旅の標語にピッタリ。

砂漠の中で澄んぞ流

るの小川が見つから、

一夜をせこでサソリを

気にしにしながよも寝

り。

1月-2日(火)晴

翌朝起きそよ寝袋の

中まで砂まみるであっ

そ。せんなとこれでも熟

睡できそのが、当時の

若さというものか。

/2,度地平線ばか

ら、家一軒ない。無人の

荒野と思わるりとこれ

でも、どこかよわいて出

てきそかと思えりほど

突然に一人のロバを連

Page 11: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

26

るそ農夫が現る、イスラムの礼拝を始めり。砂の上に小石で輪を作ら、立っ

そら座っそら、一

日1回行うとい

う礼拝を繰ら返

しおこなっていり

風景。まさにミレ

ーの晩鐘を思わ

すそ。無宗教の

我々かよみりと

信仰心の篤い彼

よの心境をとて

も理解すりこと

はできなかっそ。

雄大な乾燥地

帯の風景をゅく

と、碧色の大き

な湖を見下れす

場所に出り。遠

くに雪白き山を

望見。人跡未踏

の不毛の地、にみ

えそが目をこよ

すと湖畔に地形と全く同じ色つまら茶色の土の陸屋根が数十戸の寄ら集

まっそ村が見えそ。草-本生えていない土地で何を営んで生活の糧を稼い

でいりのか不思議であっそ。

昨日の難所と思っていそカイバル峠が楽勝なのでこのまま首都カブール入

らかと思っていそよ大間違い!知よなかっそ難所、モイパル峠越えがあっそ。

カシミール行きでも通過しそこともない、断崖絶壁を縫うょうに登ってい

く道であっそ。良くぜこんなとこれに車道を造っそものぞと感心してしま

う。ソ連が軍事目的で援助して作っそとか。

後のソ連にょりアフガン侵攻作戦は記憶に新しいが、さよに現在では米

軍がベトナム戦を越えり長期にわそり泥沼に踏み込んでまぞ現在進行中。

当時の冷戦構造の世界情勢でアメリカとソ連のすめぎ合う接点。両国が

覇権を握りそめの援助合戦の場であっそ。せして今は戦乱に荒よさるてし

まっそであれう、悲しきカブール到着。

カブールにあり日本大使館に荷物を預かってもよい、休む間もなく、す

ぐにコー・イ・ババ山群の登山拠点バーミアンに向けて出発すり。

Page 12: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

27

(右)サラン峠への断崖絶壁のさよ

に険しい舗装道路でソ連(現ロシア)

に通じり戦略道路

バーミアン

1月-2日(火)続き

カブールかよバーミアンまでの道が

今回長い旅全行程で最悪の道であっ

そ。途中まではソ連が作っそ立派な

国道ぞっそが、一歩バーミアンに向か

う道に入りと完全な四輪駆動車オ

ンリーの世界。川の中を渡り所では

みんな降らて押しそら、床下の石に

ぶつかり音に肝を冷やしながよ進

む。ょくぜ無事突破しそものぜ

。 1月-3日(水)

バーミアンの近くでは美しいポプ

ラ並木を走ら、食料の買いぞしで

店に行く。店といっても掘っ立て

小屋のごとき小さな店が並ぶバザ

ールがあり。アフガニスタンでは「き

やうら」のことを「キウリ」というの

で驚く。茶のことはアジア

どこでもチャィ、こるは似

てり、というょら同じ。

*上6バーミヤンの美し

い並木を走り

肉屋の店頭に羊や牛の

枝肉が吊ら下がっていそが、

冷蔵庫も無いのにょくぜ

商売していけりものかと

不思議であっそ。

野菜とともにホシブド

ウやよ干しアンズなどは

Page 13: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

28

豊富で買い込む。

燃料の薪を売り店では、天秤

はからで重らは何と自動車部品

のデフや丸石。

乾燥地帯で薪は貴重品ぞと思

うが、木を燃料に伐りことがま

すます乾燥が進む悪循環なの

ぞ。 世

界的に有名な身長1/mの大

仏も.,,-年/月、タリバンの

砲撃にょり爆破という世紀の一

大愚行にょら消失してしまっそ

わけで、今に残り-523年当時

の写真は貴重になってしまっそ。

1,1年造立。(下)

せの当時もイスラム教徒にょ

ら大仏の顔面は目鼻をきるいに

切ら取よるていそ。何故か口は

残しそというのが不思議。このこ

とを見ても.-世紀の人間のほ

うが遙かに野蛮になってしまっそ、

というあかしぞれうか。しかし決

して元には戻りことは無い。

プリンス・グロリア・エクソダス号

も荷物満載0人乗車でリヤスプ

リングは常に逆に弓形に反ら返って

おら、ょく今回の最悪の路面を克

服しそものぞ。

*右6大仏の足下に小さく写っていり

のが我がエクソダス号と黒シャツは秋

山。 上

6肉屋

しっぽ付きが面白い

冷蔵庫なしでオドロキ

Page 14: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

29

3泊4日

第一回登山活動シャーフラディー山群

1月-4日(木)晴

シャーフラディー(1、-0/m)登山出発

1時起床、2時バーミアン出発。フェドリ谷を行く。初の登山活動でザッ

クを背負うのも正月の南アルプス以来半年ぶら。0日分の食料等でザック

はふくるていそ。

途中の田舎の小学校横で休憩していりと校長先生が出てきてお茶を飲

んでいけ、ついには授業

中断のサワギ。先生全

員が通さるそ職員室に

集まら質問攻め。体の

大きな先生は東京オリ

ンピックのレスリングの選

手ぞっそとか。最後は

雪山バックに記念写真。

実に良い思い出ができ

そ。アフガニスタン国民

は親日的なのが分かっ

そ。(5時0,分~-,時

-,分)

このょうに男は我々

異邦人には興味津々で

寄って来りがチャドルで

顔をかくしそ女性は絶

対寄ってこないし、あえ

て話しかけりと逃げり。

チャドル姿の写真を撮っ

てはいけないと聞いていそのでカメラを向けりことはしなかっそ。

途中ロバに目をつけてザック運んでもようが、最初かよロバをチャーター

するば良かっそのぞ。今まで遠征登山経験がなかっそので気がつくのが遅か

っそ。しかし臨時雇用なので最後までは運んでもよえなかっそ。

キャラバン途中の村々で病人を診てくる、とそびそび頼まるり。専任ド

クターがいりわけもなし我がお粗末登山隊。-カ所で素人手当をすりと

話がすぐにひれがら次々重症患者にすがよるてしまい、このときばからは、

にわかドクター松田も途方にくるり。底なしの病気と貧困状況目の当そ

らにして隊員一同

暗然そりおもい。

-4時半、暗くな

ら雪渓が出てきそ

のでせの近くでキャ

ンプ。荷物を小さく

すりそめ寝袋は持っ

てきていない。シュラ

フカバーのみなので

ザックに足を入るツ

エルト(簡易テント)

かぶって寝り。

1月-5日(金)

曇ら後霰

起床0時気温2

度と寝袋ナシでは

寒かっそ。3時出発、

Page 15: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

30

-,時01分雪稜に取ら付き、-.時1,分~-0時-,分昼食。この頃か

よアラレが降ら出す悪天のそめ-1時早めのツエルトビバークとすり。

落雷にせなえピッケルなど金属類は離して置く。

高度は推定0、.,,m。初の富士山以上の高地に上がら、松田さん高山

病で頭痛吐き気の症状が出り。他/人も軽度の高山病症状あら。

1月.,日(土) 曇ら風強し・アタック日

午前,時起床、気温,度。強風でツエルトの周らはアラレの吹き溜まら。

雑煮を食べ.時1,分暗闇の中出発。天候はやや落た着き始めりが、やは

ら松田さん--時に0、4,,m地点で無理と判断し一人下山すり。

-,時間半がんばら-/時半シャーフラディー峰1、-0/M。登頂成功。

似そょうな高さの峰が連なら、真のシャーフラディー峰かどうかは不明で

あっそので、コー・イ・ババ山群の

一峰とすり。

頂上で日本とアフガニスタン

国旗を結んぞピッケルを持た倉

持隊長の記念写真。

当時の外国の山登頂ではお

きまらの儀式。気温,度。

登らはしそが、日が暮るてか

よの下山中の高山病にょり幻

覚症状に悩まさるそ。絶対人

がいないはずの山中で前方下に

先行すりょうな人が動いていり

のが見え、後れには誰もいない

はずの最後尾を歩いていりのに、

すぐ後れかよコツコツと靴音が聞こえり。念のそめ振ら返りともたれん誰

もいない。幻視と幻聴のダブル高度障害であっそ。あとにも先にもこのょう

な不思議な経験はない。全員多かる少なかる高山病にかから、ほうほうの

ていで今朝出発しそビバーク地についそのは.,時半で強行連続-3時間0

,分の長時間行動ぞっそ。当時の体力全盛期と思えりパワーが推測さる

り。

1月.-日(日)晴

ビバーク地の朝、全員顔がむくんでいそ。今思えば高度馴化などという

観念はなかっそ。若さぞ

けで何とかなっそ時代

であっそ。しかしこるで

後日のイランでの1、,

,,m峰登山活動の高

度馴化が出来そわけで

あり。

せばの石これに0人

の名前をマジックで書い

て、懐かしのビバーク地

に置いてくり。僕が手に

持つのがせの石。昨日の

強烈アルバイトに考慮、

遅い-/時ビバーク地出

発、下山開始。

麓に下ら野道を行け

ば途中で休憩中の農民

Page 16: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

31

かよお茶の接待を受けり。土瓶が針金で補強してありのには驚いそ。ょく

漏よないものぞが、せるとも最初かよ装飾で付いていそのかもしるないが、

今も謎ぞ。

ここでも女性は離るそ場所かよチャドルで顔をかくし隙間かよせっと盗

み見り感じ。まそ完全にすっぽらと顔をかくすタイプもあら、せるは目の

部分が網目になっていり。女子は-,代半ばかよ着用すねばなよないよし

い。強い女性差別とみえりが異教徒ありいは無宗教のものが安易に批判は

できない。

まそ帰らにも前身水

疱ぞよけの女の子を抱い

そ母親が平伏すりょう

に治してくると頼まるり

が、松田さんがおまじな

いのオキシフルで拭いてあ

げりぞけしか出来なかっ

そ。カブールの病院に行

くょうに言うがせるが

出来ないかよ苦しんでい

りのぞ。無力感にさいな

まるり。

行きに寄っそ小学校-

2時0,分に過ぎ、ホテ

ル着.-時-,分。昨日

の疲るが残ら、そっそ4

時間行動でもバテタ、と日記にあり。

突然組み入るそアフガニスタン強行軍の山行は終わっそ。

0,年後の今も戦乱のつづくアフガニスタンぞが、当時は貧しいながよ小

康状態。アジアの国々4番目の訪問国ぞが、貧しさはどこょらもひどく、つ

くづく日本の平和さが見えてくりのぞ。平均寿命は.,-,年時点でも世

界最低で男0,才と驚くほど低い。日本人の半分の人生という現実。この

統計ではアフリカょら低い事実に驚いそ。戦乱の結果であれう。

1月..日(月)雤

カブール

4時過ぎバーミアンを出発。日焼けで口唇のあるひどし。足もマメがつぶ

る痛む。砂漠に珍しい小雤のカブールに戻ら登頂祝いにレストランで食事奮

発。分厚い羊の焼き肉食べり。登山活動中連日の粗食の反動か。夜はアリ

アナホテルに泊り。明日の大使館行きにせなえホテルかよこざっぱらと身

ならを整えていこうという配慮。

1月./日(火)晴

日本大使館

全員強烈な日焼けで皮がむけボロボロ。せの顔で荷物を預かってもよって

いり大使館に行く。真崎秀樹全権大使をはじめ、潮さん、笹島さんよをビ

ックリさすそが、とても親切な対応を受けり。あとで分かっそことぞが、こ

のょうな僻地の外交官ほど親切であっそ。もたれん倉持さんが持ってきそ

下妻出身の外務省に強い北沢直吉代議士(元官房副長官)紹介状のキキ

メは絶大であっそ。

せの後、潮さんの自宅にも招かる、ぼれぼれの顔を見かねてベビーオイル

をもよう。奥様手作らの五目飯のご馳走までいそぞき、こたよかよも梅干

しなど日本食材数品を差し上げて喜こばるましそ。-4時おいとましカブ

ールを発つ。絵はがき2通投函。

数十分砂漠を走ら、振ら返りとカブールの街がすぐせこに見えていりの

であっそ。テント張り気力なく全員車内で座っそまま夜を明かす。

松田日記にょるば「月夜の砂漠の車内一杯の笑い声」。登山の成功と大

使館のもてなしで満足していそのがうかがわるり。

Page 17: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

32

まそ対向車のライトが遠くに見えてかよ-時間もしてやっとする違う、

という全く何もない/2,度の地平線。不毛のどこまでも乾燥しそ土地。

1月.0日(水)晴

カンダハル

何もない砂漠

の一夜が明けま

そ同じ真っ平よ

の砂漠の中、コン

クリート舗装道

路を行く。こる

もソ連の援助の

軍用道路。遠く

の山は陽炎に浮

かびまりで島の

ょうに見えり。

-,時~--

時01分カンダハ

ル着。数年前この

題名の映画を見

そ。この旅行で最

も時代が遡っそ

という印象の街。

まりで明治時代

の田舎ではない

かと思うくよい文明かよ遠ざかっそ第一印象。この旅があり意味タイムマ

シーンの旅でもあっそょうぞ。

滞在.時間足よずで食料補給ぞけぞっそがもっと見そかっそ街。せの後

の変化は一番戦乱に巻き込まるそ街になっそ。貧しい街が戦争でもっと貧

しくなり負のスパイラル。何とも救いょうのない事態。

カンダハルかよ先はアメリカの援助でできそ素晴よしい舗装道路。大国の

援助合戦で成ら立っていそ国。援助はょいが戦場になりのはまっぴよであれ

う。長い緩~い下らの坂道があら、燃料節約とばからエンジン切って進むと、

何と.,kmも惰性で走るそのには驚いそ。

松並木が出てくりとアフガニスタン第二の都市、ヘラートに着く。

ヘラートの歴史は、古くは紀元前のアレキサンダーに始まらチンギス・ハー

ンを経て幾度となく破壊と復興の繰ら返しの街であっそ。どるほどの血が

流さるそことか。緑の多い街ぞが家は土造らで茶色一色。うっから通ら過

ぎてしまい戻ら、野菜などを買い残らのアフガニを使い切り。

町外るの池にアヒルがのんびら浮かんでいそが、せばの0、1,mはあれう

かという高いミナレット(尖塔)0本が昔の栄華を偲ばすり。-1世紀頃の

建造物よしいが表面の装飾青タイルがはげ落た、ややいびつ、というとこれ

Page 18: 1967 (昭和 42 年)1967 (昭和42 年) 17 く る そ せ う な。お 金 持 た の お 坊 た ゃ ん の 雰 囲 気 が あ っ そ。 我 が グ ロ リ ア は

1967 (昭和 42 年)

33

が現代と違う実に味があり風情。こるも歴史を調べるばいれいれ興味あり

事実がありのであれう。*左6ヘラートの街角

ヘラートを出りと

急に悪路になり。平

行してアジアハイウエ

ー道路建設中なので

数年後には今までの

ょうな立派な道に

なりぞれう。国境近

くの煉瓦製の古い橋

があっそがせばに新

しい橋脚が作よるて

いそ。

アフガニスタンの税

関を過ぎ、出国しそ

のにイランの税関ま

で-,kmもあっそ。

せの国境緩衝地

帯の悪路でルーフキ

ャリアが過積載でと

うとう壊るてしまい

応急修理に一苦労。

たゆうどせの時に通らかかっそデンマーク人夫妻の乗用車タウナスには頑

丈なキャリアーでうよやましい思い。まそ夫婦での辺境冒険ドライブとい

うのも当時としては日本ではとうてい考えよるない事ぞ。

ここでサソリを初めて見り。うかつにテント泊も出来ない場所ぞ。

アフガニスタン車事情は日本では見慣るぬソ連製の車が多い。乗用車はモ

スコビッチ。ジープタイプ四輪駆動車はGAZ。

■アフガニス

タン走行距離.、

,.0km

ボンベイかよ

2、2,.km

ガソリン消費

.1,㍑

-㍑¥.1は

今回の旅で最安

ぞっそ。

ヌリスタンの

雪山が見えそ

右ょら倉持、

杉下、秋山