平成19年7月21日(土)14:00~15:30 信濃川大河津資料館2階多 … ·...

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1 (館長) どうも皆さん、ごめんください。本日 は、「信濃川と良寛」と題しまして、燕市の分水 良寛史料館の館長、塚本さんをお迎えいたしまし た。ここに良寛さんの作品をお持ちいただいてお ります。良寛にまつわるいろいろなお話、あるい はこの作品の解説など、おもしろいお話を聞かせ ていただきながら、楽しいひとときを皆さんとと もに過ごしたいと思っております。 塚本先生は、地元の横田の出身で、横田の因徳 寺の後継者であられます。これまでに寺泊の町史 や分水町史を手がけられて、この地域の歴史に非 常に堪能で、勉強された方でいらっしゃいます。 それでは、最後までひとつご清聴をお願いいた しまして、早速館長さんにお話を伺うことにいた します。よろしくお願いします。 ……(拍 手)…… (塚本) ごめんください塚本です。ずっと郷土 史を研究していまして、良寛につきましては史料 館に勤め出してから勉強させてもらいました。こ の「信濃川と良寛」という題をいただいたとき、 どうやって話せばいいのだろうかなと考えてみ ました。良寛の墨跡とか、良寛について書かれた 本をとって開いてみました。信濃川はこの辺の代 表的な河川です。地域の住民にとって恵みの多い 貴重な川です。また一方、良寛というと江戸時代 この地域を代表する僧侶であり、書家、歌人です。 この地域を代表する信濃川、良寛という人をここ 平成 19 年 7 月 21 日(土)14:00~15:30 信濃川大河津資料館 2 階多目的ホール 44 名 14:00 開会あいさつ・講師紹介 信濃川大河津資料館 館長 碓井 陽一 14:10 講演・資料説明会 講師 燕市分水良寛史料館 館長 塚本 智弘さん 演題 信濃川と良寛 15:30 閉会あいさつ 信濃川大河津資料館 館長 碓井 陽一 燕市良寛史料館館長の塚本智弘さん

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平成 19 年度第 3回講座

1

(館長) どうも皆さん、ごめんください。本日

は、「信濃川と良寛」と題しまして、燕市の分水

良寛史料館の館長、塚本さんをお迎えいたしまし

た。ここに良寛さんの作品をお持ちいただいてお

ります。良寛にまつわるいろいろなお話、あるい

はこの作品の解説など、おもしろいお話を聞かせ

ていただきながら、楽しいひとときを皆さんとと

もに過ごしたいと思っております。 塚本先生は、地元の横田の出身で、横田の因徳

寺の後継者であられます。これまでに寺泊の町史

や分水町史を手がけられて、この地域の歴史に非

常に堪能で、勉強された方でいらっしゃいます。 それでは、最後までひとつご清聴をお願いいた

しまして、早速館長さんにお話を伺うことにいた

します。よろしくお願いします。 ……(拍 手)……

(塚本) ごめんください塚本です。ずっと郷土

史を研究していまして、良寛につきましては史料

館に勤め出してから勉強させてもらいました。こ

の「信濃川と良寛」という題をいただいたとき、

どうやって話せばいいのだろうかなと考えてみ

ました。良寛の墨跡とか、良寛について書かれた

本をとって開いてみました。信濃川はこの辺の代

表的な河川です。地域の住民にとって恵みの多い

貴重な川です。また一方、良寛というと江戸時代

この地域を代表する僧侶であり、書家、歌人です。

この地域を代表する信濃川、良寛という人をここ

平成 19 年 7 月 21 日(土)14:00~15:30

信濃川大河津資料館 2 階多目的ホール

44 名

14:00 開会あいさつ・講師紹介

信濃川大河津資料館 館長 碓井 陽一

14:10 講演・資料説明会

講師 燕市分水良寛史料館 館長 塚本 智弘さん

演題 信濃川と良寛

15:30 閉会あいさつ

信濃川大河津資料館 館長 碓井 陽一

燕市良寛史料館館長の塚本智弘さん

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平成 19 年度第 3回講座

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でお話しできるのは光栄なことでありますし、良

寛史料館に勤めてからここでお話しするのは、僕

にとっては集大成的な感じのものかなと思って

おります。 良寛さんについては、余り公的な記録はござい

ません。彼が残した手紙なり作品から何かこの地

域について見てみたいなと思っております。良寛

を通じて、良寛が生きた時代のこの地域の人々の

ことを話していくような感じになるかなと思っ

ております。 それで、東郷豊治さんが出された「良寛全集」

に漢詩が 424 首集録されています。その中には、

自然や修行の厳しさ、そういった良寛の心を垣間

見ることのできる漢詩、歌があります。昨年発刊

した分水町史の通史編で学芸を担当された井上

慶隆さんが、良寛の詩歌には二つの大きな流れが

混ざり合っていると言っておられます。一つは、

禅宗としての求道、修行の悟りの道と、もう一つ

は西行や芭蕉につながる日本的な風雅です。そう

いった二つの大きな流れが漢詩で詠まれており

ますが、井上さんは、この二つの流れと全く違っ

た漢詩が時折顔を見せているとも言われており

ます。 その例として、「伊勢道中の苦雨」を挙げてお

ります(資料1)。「我京洛を発してより 指を倒

せば十二支 日として雨の降らざるなし これ

をいかんぞ思いなけんが 鴻雁つばさまさに重

かるべく 桃花紅うたた垂る 舟子曉に渡を失

い 行人暮れに岐に迷う 我が行殊にいまだ半

ばならず うなじを引いて一にまゆをしかむ

かつ去年の秋のごとき 一風三日吹く 路辺喬

木を抜き 雲中茅茨(ぼうし)を揚ぐ 米価これ

がために貴(たか)く 今春もまたかくのごとし

かくのごとくしてもしやまずんば 蒼生の憂い

をいかにせん」これは、京都を立ってから雨が降

り続いてみんなが困り果てている。昨年の秋も3

日間にもわたる大風が吹いて路傍の大木が倒れ、

農家の屋根を吹きまくった。そのため米価が高騰

した。ことしの春もまたこの始末である。このよ

うに災害がもし続いてやまないのなら、庶民の心

配はどうしたらよいだろうと歌を詠まれており

ます。 また、「うちわたす 県司に もの申す もと

の心を忘らすなゆめ」(資料2)とか「しろしめ

す 民が悪しくば われからと 身を咎めてよ

民が悪しくば」(資料3)と詠まれて、村、ある

いは藩の役人たちに初心を忘れないでほしい、常

に反省を怠るなということを詠まれた歌を残さ

れています。 こういった歌を残されたのは、井上さんによれ

ば三峰館の大森子陽の影響を受けたのだろうと。

「子陽の講義は、古文辞学派の研究法による古典

の精密な考証を基礎として、それに立脚して社会

の現実を直視するというようなものであろう」と、

書かれております。10 代に大森子陽の影響を受け

て、そこから僧侶としての道を求めたと言われて

います。 そういうことで、東郷豊治さんの「良寛全集」

を再度見ていきますと、治安や、災害などの社会

的な事象を詠まれたものを 10 首余り見出すこと

ができました。きょうは、そういった話を中心に

良寛さんの詠まれた社会的背景を考えてみたい

と思います。と同時に、読まれた背景に彼が何を

見て何を感じたのかというものを、ここでまた考

えてみたいなと思っております。 良寛さんは、宝暦8年出雲崎の名主の長男とし

て生まれて、天保2年に亡くなるまでおよそ七十

数年の人生を送られております。良寛さんが生ま

れた宝暦年間は、越後を初めとして全国的にも凶

作、飢饉が起きていた時代で、次第に農村荒廃と

いう問題が社会的な時代背景として生み出され

てきております。江戸時代になっても、農業技術

は革新的な進歩を遂げてはいますが、自然の天候

に左右される時代でして、天候不順による不作が

よく見られております。そのため、生活のために

出稼ぎをしなければならなかった時代です。良寛

さんの手紙をめくっていきますと、解良叔問にあ

てた手紙の中にこういった一節がございます。

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「是はあたりの人に候。夫ハ他国へ穴ほりに行

しが、如何致候やら、去冬は帰へらず、こども多

くもち候得ども、まだ十よりしたなり。此春は

村々を乞食して、其の日を送り候。何ぞあたへて

渡世の助にもいたさせんとおもへども、貧窮の僧

なればいたしかたもなし。なになりと少々此の者

に御あたいくださるべく候」夫が他国へ出稼ぎに

行っていると、いまだに帰ってこない。そう言っ

てその日暮らしをしている奥さんたち家族、子供

さんもまだ 10 ぐらいにもみたない年であって、

働くこともできない、そういった人に何とか助け

をしてもらえないかと。かといって、私は助けた

いのだけれども、貧窮の我が身ですので、友達で

ある解良叔問に何とか救済を求めている手紙で

す。 この時代の農村部では多くの出稼ぎ者が輩出

されています。農村自体が純稲作地帯ですので、

米から、あるいは畑からの農作物の収穫で生活の

糧を得ています。記録を見ますと災害になると収

穫皆無という時もあります。消費生活が次第に農

村部にまで及んできた時代ですので、何とか生活

の糧を得なければなりません。その一方で、年貢

をおさめなければならないということで、その家

の働き手たちはほとんど他所稼ぎをやっていた

時代です。 ところが、他所稼ぎばかりされていれば、その

家の働き手の夫が帰ってこない、そうなると稲作、

農作物の収穫、農業自体にも影響が出てくる。そ

のために領主たちは、他所稼ぎ禁止を再三やって

おります。再三禁止令を出しているところから、

なかなか守られなかったのではないかと思って

います。そして、ある旧家の文書を調べていきま

すと、その人物はある家の次男坊が出ていって行

方不明になったと、家出したと。探すのだけれど

も、なかなか見当たらない、もしどこかで何かや

らかして我々に迷惑がかかっては困る。他所稼ぎ

禁止ですので、家出という形をとって届け出る。

そうすると自分たち及び村にまで迷惑がかかる

場合もありますので、どうするかというと、逆に

その家の次男坊を宗門帳からの記載を除去して

ほしいと願い出ます。 良寛さんが生まれた宝暦から天保にかけて七

十数年間、あるいは天保以後幕末へ流れていく間、

次第に村内の秩序が緩んでいく時代です。また、

この地域を見ても、信濃川とか、その支流の西川、

遠くは出雲崎、あるいは西山地域の山並みから流

れ出てくる島崎川という谷合いを流れる河川か

ら広がっていく低湿地帯で、まさに水害常襲地帯

ですから、生活の糧のために出稼ぎ、方便として

家出という形をとって出ていったと、そういう時

代背景がございます。 それでは、2枚目のところに書いてある信濃川

の災害(表 1-1、表 1-2)、これは主に良寛さんが

生きられた宝暦8年から天保2年までの 73 年間

において、信濃川の水害を挙げたものです。特に

宝暦7年、1757 年良寛さんが生まれる前年の年

です。これを挙げたのは宝暦の7年は後世伝えら

れるように横田切れ、小見分ケ切れといって、信

濃川破堤がございました。 それでは、宝暦7年の小見分ケ切れの経過をお

話ししたいと思います。宝暦7年5月3日の朝午

前8時ごろ横田村字小見分ケの土手が切れ、半時

もしないうちに田畑及び家屋一面冠水し、床上浸

水で避難する者も出たと伝えられております。流

れ出た水は濁流となって、巻村、今の巻町あたり

まで押し寄せたとも伝えられております。水は7

日ごろに引いたのですが、5月 18 日に再び午前

6時ごろから雨が降り出して、20 日まで降り続き、

再び数カ所から決壊しております。その後、天気

も回復し、水も引き始め、27 日朝より暴風雨とな

り夜半までかなり降雨を記録したと伝えられて

おります。 翌月の6月に入ると水も引き始め、熊森、横田

両村の復旧工事も本格化します。ところが、その

最中の 16 日ごろからまた雨が降り出し、17 日に

は田畑一面再び冠水しています。このときの被害

状況について普及帳という昔の旧吉田町のある

村の庄屋さんが書き残した記録を見ますと、熊森

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村は流失家屋9軒、つぶれた家3軒、溺死1人、

横田村は切れた小見分ケ地区に集落がわずかあ

り、21 軒残らず流失し、横田村でも4軒が流失し

たと言われております。そして、横田村では翌8

年から3年間の年貢が免除されたと伝えられて

おります。 それでは、熊森村の状況について触れてみたい

と思います。「卯年御取箇割付之事」(資料6)と

いうのは熊森村の当時の年貢割付状ですが、前か

らいきますと一つ、高八百弐石七斗四合、これが

本田部分の高です。そして、この内訳で高四百拾

六石六斗九升五合、このうち百七拾壱石壱斗四升

が去々丑砂入引であったと。これが宝暦9年、2

年後の年貢割付状でして、去々丑というのは宝暦

7年を指しますので、宝暦7年の洪水によって田

地の171石余りのうちに砂が入ったという記録で

す。さらにいきまして、高弐百拾九石というとこ

ろですが、これは古新田の地域を指しており、こ

こにもやっぱり 24 石の分地に砂が入ったという

ことが読み取れます。さらには、一つ、高弐百拾

八石弐斗七升四合という新田部分、これについて

も「此訳」の隣に高弐百弐石九斗九升三合という

田方がありますが、そのうち 78 石余りの土地に

砂が入ったと記載されております。 そして、この3カ所の土地はその部分を総計し

ますと、826 石9升6合になり、その砂入り部分

を総合しますと 274 石2斗3升6合となり、およ

そすべての土地の3分の1に当たる土地に砂が

入ってだめであった、要するに年貢が免除の土地

となっております。ここで注目してもらいたいの

は、「当卯より未迄五カ年定免」と書かれており

ます。この定免制は、八代将軍の吉宗のときに、

安定した年貢を取るということで、5年ないし 10年の平均をとって、そこに年貢をかける定免を行

っております。宝暦9年に熊森も代官支配になっ

ており、定免制がしかれております。幕府にして

みれば5年間の平均をとってやるのだから、働い

て収穫が高ければ一定の掛け率で年貢を取りま

すので、収穫が上がれば上がるほどその部分は村

方に、あるいは農民側に余剰分として残るでしょ

うと、幕府は農民に定免制施行を盛んに宣伝した

と言われております。それに対して、実質的には

期限が切れればその部分の平均値の上にさらに

何石かを足しますので、多少地代に切りかえれば

切りかえるほど、一定の石高が高くなっていきま

す。実質的には年貢増徴策の一環と見られている

もので、幕府側、領主側にとっても安定した年貢

を徴収したいという思いが働いていた時代です。 さて、翌宝暦8年にも水害が起きております。

雨は8月 15 日から降り始め、10 日後の 25 日に

横田、小池両村の土手が押し切られて一面冠水し

たと言われております。この両村の信濃川破堤は、

主流の西川下流の村々の堤防も切れて甚大な被

害を起こしております。そして、横田、熊森の復

旧工事はその村一村では自力ではできません。大

変な被害をこうむっておりますので、他村の救助、

援助を求めております。大きな被害を受けたとき

には、その当時支配領域を越えて、人足動員が図

られたことがわかっております。ところが、復旧

工事終了後に長岡領巻、曽根両組から、土手が丈

夫でなければ来年の作も不安であるから、復旧工

事した土手が完全であるかどうかを尋ねてきて

います。復旧工事のところを見てみましたら、土

手3カ所、200 間余りの補強工事をしなければな

らないぐらい、まだ完全な復旧工事ができていな

かったということが記録として残っております。 それに対して、横田村周辺は補強工事をするの

で、申し出てきた巻、曽根両組の村々に対してま

た援助してほしい、人足動員をしてもらいたい、

と言ってくるのですが、言われた側の巻組や曽根

組の村々では、宝暦7年にも被害を受けた村々、

横田や熊森だけでなくてその濁流は巻村まで押

し寄せていますので、西川周辺の村々にも被害が

出ております。そこで両組とも去年来、粟生津村

周辺の普請人足を出して困窮していることから、

依頼に応じられないということが記録に残って

おります。 それでは、また再び信濃川の災害を見てみます

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と(表 1-2、表 1-3)、吉田の旧庄屋家に残ってい

る普及帳の記載を書き上げたもので、宝暦 12 年

からは渡部さんが書かれた『郷土の歴史』から採

取したものです。時期によっては毎年のように信

濃川周辺地域のどこかに水害が起きていた状況

がこの表から読み取れます。一つのところが水害

に遭えばその周辺の地域の農民たちも手助けし

なければならないので、1カ所の村が水害に遭え

ばその周辺地域自体が、疲弊していった状況が幾

つかの資料から読み取れます。 それでは、この時代の良寛さんが住まわれた国

上周辺、地蔵堂町について見てみますと、「地蔵

堂本町・新町戸数・人口など」(表2)がござい

ますけれども、享保6年の数字は地蔵堂組村々明

細帳からとっております。また、文政7年は村方

から差し出した帳面の記録です。享保6年の地蔵

堂町の石高は 202 石1斗3升7合、戸数 274 軒、

人口 1,654 人、船数 21 艘、馬数 39 匹ということ

です。そして、文政7年の記録、1824 年、およ

そ 100 年後ですけれども、石高は 222 石6斗3升

1合、わずか 20 石増加しております。戸数は 418軒、人口 2,275 人、船数 71 艘、馬数 10 頭となっ

ておりまして、100 年後に、人口は享保6年から

1.4 倍、戸数は 1.5 倍増と増加しております。こ

のように地蔵堂町は信濃川、西川の境にあり、河

川交通の要衝として繁栄した宿場町です。その宿

場町で繁栄したということがこの記録からも読

み取れると思います。 それでは、この地蔵堂周辺の真木山村の宝暦5

年から寛政元年までの水害状況を示したのが、そ

の表3です。当時の真木山村の村高は 130 石余り

でして、この表からも宝暦7年 92 石1斗9升5

合余りの年貢が引高免除されております。そうい

うことからも、宝暦7年の水害は、西川流域、島

崎川周辺地域にも被害を及ぼしているというこ

とがこの数字からも読み取れると思います。宝暦

7年の真木山村の被害については、村高が 130 石

でしたので、92 石余りが引かれているということ

は、村高に対して約 70%の土地が水害をこうむっ

て、免除地としてその年引かれたということを物

語っております。信濃川、熊森、横田だけでなく

て、この周辺地域が宝暦7、8年はかなりの被害

をこうむったことがこれからも読み取れます。そ

の表を見ますと天明7年が 39 石余り、寛政元年

が 49 石余りですので、天明7年は村高に対して

約 30%、寛政元年は村高の3分の1に当たる

37%余りが水害をこうむっています。信濃川、西

川、島崎川も地元の人たちの話を聞きましたら

「雨が降るとあふれ出ていたと昔の人から聞い

ています」と言われていますので、この地域には

地形的な問題もあったと思います。 それで、資料4に挙げておきました「寛政甲子

夏」という漢詩がございます。この寛政甲子は寛

政年間にはありませんので、干支を調べてみます

と、文化元年の誤りではないかと言われている歌

です。「凄々たる芒種の後 玄雲鬱としてひらけ

ず 疾雷竟夜に振るい 暴風終日吹く 洪潦階

徐に襄(のぼ)り 豊注でんしを湮(うず)む 里

に童謡の声なく ついに車馬の帰るなし 江流

何ぞ滔々たる 首を回(めぐ)らせば臨圻を失す

およそ民小大となく 作役日にもって疲る 畛

界(しんかい)知らず焉くに在るやを 堤塘つい

に支え難し 小婦は杼を投じて走り 老農は鋤

に倚(よ)りて欷(な)げく 何れの幣帛か備わ

らざらん 何れの神祇(じんぎ)か祈らざらん

昊天(こうてん)杳として問い難く 造物聊か疑

うべし だれかよく四載に乗じて 此の民をし

て依るところあらしめん 側に里人の話を聴け

ば 今年は黍稷(しょしょく)滋く 人工は居常

に倍し 寒温其の時を得たり 深く耕し疾く耘

リ あした晨にゆき夕べにこれを顧みたり 一

朝地を払うて耗し 之を如何ぞ罹(うれ)いなか

らんと」 これは要約しますと、天候が荒れて黒雲が垂れ

て晴れ間がなく、雷が夜通しとどろき渡り、暴風

雨が終日吹き荒れている。家の上まで浸水し、大

雨が田畑を見えなくしてしまっている。村の子供

も歌声を上げず、外に出た車も馬も戻ってこない。

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川の水のみとうとうと流れ、見回すと川の岸辺も

なくなっている。百姓たちは、大人と子供と区別

なく連日の防水作業で疲れ果てている。田の境界

など無論知られず、川の堤さえ最後は破れそうで

ある。婦女たち、機織りどころではない。農夫た

ちもすきを手にして嘆き泣くのみである。ところ

どころのお宮に幣、絹を十分に捧げ、八百万の

神々で祈らぬ神はない。けれども、天は一向に答

えてくれず、神があるのかとさえ疑いたくなる。

たれか四載の乗り物に乗ってこの洪水をおさめ、

農民たちを安堵させてくれよう。聞くともなく里

人の話を聞くと、ことしは農作物が豊作で例年の

2倍も働き、気温も順当だった。深く土を耕し、

早く雑草を抜き取り、朝夕によく面倒を見た。し

かるに、にわかなこの暴風雨で一遍に根こそぎ減

収になってしまった。これを嘆かずにどうしてい

られようかというふうに、農民の救いようのない

姿を良寛さんは漢詩に託しておられます。 ところで、また資料を見ますと、この頃の記録

が残されておりまして、それが最後の資料8番目

の「覚」です。「右は島崎川囲み土手、去る子八

月中洪水の節、一円水越罷り出で候につき上置服

付取り繕い御普請お願い申し上げたく存じ奉り

候て 御慈悲を以て御見分なり下し置かれ候て

願い候通り仰せ付け下し置かれ候 有難く存じ

奉り候」というふうに、歌自体が、恐らく洪水を

目の当たりにして詠まれたもの、要するに農民の

姿を身近にして、何か叫ばすにはいられなかった

姿がこの漢詩から読み取れると思っております。 江戸時代、今日に通ずる福祉が次第に芽を開い

てくる時代です。そんな中で、文化5年閏6月1

日に真木山村の囲み土手が切れてしまいます。そ

うすると、隣の渡部村から総勢 43 人の人足が助

けに真木山村へ来ております。そのときの記録が

残っておりまして、その中の一人である平蔵とい

う方の行動が書かれております。要約しますと、

6月1日より真木山村の囲み土手筋へ加勢に向

かった。同日午後5時ごろ囲み土手1カ所が切れ、

彼は古いむしろを持っているほか用具はほとん

ど持っていなかったと。そのために真木山村の人

を探して、切れたところを補修するための何か切

れ端でも何でもいいから、ふさぐものがないかと

隣近所回って探すのですけれども、なかなか見え

ないと。そして、わずかな切所を防ぐため近くの

多兵衛方へ参り、板戸1枚をもって、それを切れ

たところへ押し当てて手当てをした。そして、ま

た戻って切れたところから村の方へ歩いてきた

ら、渡部村の役人が来て、決して戸や障子なんか

を持っていっては困る、と。当時どこも水害の被

害を受けるのは常です。真木山村も文化4年も5

年にも水害をこうむって、そのときに村にある道

具、木とか板とかをつぎ込んでしまって、今回の

水害においては補修する道具すらないんだと。そ

ういう状況ですので、渡部村に多少道具があった

としても、それを貸し出してしまうと、今度は渡

部村がいつまた水害に遭うかわからない。水害の

ために用意してあった道具まで、今現在困ってい

る真木山村の人へ貸し出してしまうと、今度自分

たちが水害になったときに困るんだということ

を書き記した資料があります。 ここの周辺地域は水害常襲地帯として常に農

民たちの生活を脅かしてきました。そばにいて良

寛さん自身が詠まざるを得なかったと、一つのふ

つふつとした思いが漢詩を通じて読み取れるの

ではないかと思います。 ……(休 憩)……

(塚本) それでは、作品を説明したいと思いま

す。この歌の内容は、「来てみれば我が故郷は荒

れにけり庭も籬も落ち葉のみして」と、良寛の代

表的な歌の一つです。良寛さんが出られた後の山

本家は、寛政7年にはお父さんの以南さんも桂川

に入水している。跡をとった弟の由之さんも文化

7年に出雲崎町の町民たち 84 人から割りかけに

ついて訴えられて、負けて家財没収の上、ところ

払いになっております。 これは、幼いころは庭師も入れられて庭もきれ

いであった、ところが、今来てみると、山本家は

かなり傾いており、庭師も入れられないぐらい荒

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れ果てている、それを詠んだのだろうと言われて

いるのと、もう一つはこの「我が故郷」、これが

おさめられている良寛の歌集の表題に国上にて

詠めるということが書かれております。それで、

我がふるさとは国上を指すのではないかという

説もございます。 それでは、資料5の漢詩の説明をさせていただ

きます。この「日々又日々」というのは三条地震

についての歌です。文政 11 年良寛さんが生きて

いた時代に三条地震が起きております。その三条

町の地震の記録を見ますと、1,500 軒余りの焼失、

死者も 160 人に及び、地蔵堂周辺も 15 軒余りの

被害が出ていると言われております。そのときに

良寛さんが送った山田杜皐あての手紙がありま

して、読ませていただきますと、「地震は信に大

変に候。野僧草庵は何事もなく、親るい中、死人

もなく、めで度く存候。うちつけに死なば死なず

て永らへてかかる憂き目を見るがわびしき。しか

し、災難に逢ふ時節には、災難に逢ふがよく候。

死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をの

がるる妙法にて候」と有名な一節で、3年前の中

越地震のときにある新聞社の中で紹介された手

紙です。良寛にとって災害は常に来ているもので、

反抗せずに、災難というものはいつかは過ぎ去る

ものだからじっと耐えるんだと、それが良寛の自

然体をあらわしていると言われている手紙とし

てよく使われる解説です。「日々日々又日々

日々夜々寒さ肌を裂く 漫天の黒雲日色薄く

匝地(そうち)の狂風雪を巻いて飛ぶ 驚涛天を

蹴って魚龍漂い 墻壁(しょうへき)相打って蒼

生悲し 四十年来一たび首を回(めぐ)らせば

世の軽靡に移る信に馳せるがごとし 況んやま

た久しく太平に褻(な)れ 人心堕弛す 錯をも

って錯に就き幾たびか時を経たる おのれに慢

(あなど)り人を欺くを好手と為す この度の災

禍亦宜(うべ)ならずや 謹みて申す地に尽くす

の人 今より後は おのおの各その身を慎みて

非を效(なら)うなかれ」。 意味をたどりますと、来る日も来る日も打ち続

いて、寒さが昼も夜も肌を破るほどであった。空

いっぱいの黒雲で太陽の光も薄く、地一面に狂風

吹いて雪をまいて飛ばした。このとき大地震が起

こり、海の波は天をけるように荒れ、大魚も自由

を失い、家の柱も壁も折り重なって倒れ、人々は

嘆き悲しんだのである。さて、この 40 年間を顧

みると、世の中がうわつき贅沢になっていくあり

さまは馬を走らせるような速さである。おまけに、

久しく太平無事であったのになれて、人の心は緩

み切っている。前代の悪風をそのまま受け継いで

年に年を重ねている。おのれを傲慢にして他人を

欺瞞する者を世渡り上手だと心得ている。そのあ

りさまだからこそ今度の災いが起きたのももっ

ともなことだ。地上あらん限りの人々に申すが、

今から後はめいめい自分の身を慎んで、悪事をま

ねてはならないぞ、というような意味を詠まれて

おります。 一方では生活に苦しんでいる人々の姿を目の

当たりにしているのと同時に、領主たちのうまく

農民たちを幸福に導いていけなかった現実の社

会にふつふつとしたものを持っておられたとい

うことがこの歌からも読み取れると思っており

ます。それと同時に、この三条地震の被害者は与

板藩の徳昌寺で供養されておりまして、それを聞

いた良寛さんも感激して、それに対する漢詩も詠

まれております。 漢詩を追っていきますと、修行の厳しさ、ある

いは一人じっと耐えるひとり生活というか、その

塚本さんによる資料の解説

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平成 19 年度第 3回講座

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寂しさを一方では持ちながら、一方では農民たち

と交際するといいますか、結構この周辺にも友達

やら知り合いとまじり合って、修行していると。

ひとりよがりで修行しているのではなくて、良寛

さん自身が、この地域の人々の中に溶け込んで修

行している、生の現実を直視しながら修行してい

る姿というのを一方では自分の心の悩みとでも

いいますか、この二つの漢詩はそういったものを

吐き捨てている。自分の思いをついに言わざるを

得ない、そういった現実の姿に対してのそこから

の思っている嘆きを吐き出した漢詩ではないか

と僕は読み取っております。 ということは、良寛さん自身一人の天才ではな

くて、皆さんの周辺にどこにでもいるような人物

が、ただただ、ひたすら皆さんの幸福、あるいは

自分もそれにまじり合って豊かな生活をしてい

くための修行の姿というのを一連の地域の資料

を読み取って良寛さんに結びつけて考えるとき

に、良寛さんはその地域に根差して修行された、

本当にそこら辺にいられる僕らの仲間みたいな

方なのだろうなというようなことで今回締めく

らせていただければと考えます。ありがとうござ

いました。 ……(拍 手)……

(司会) ご質問のある方いらっしゃらないでし

ょうか。もしいらっしゃらなければ、私から先生

に一つお聞きしてもよろしいですか。 今ほど塚本さんがお配りになられた資料の中

で、資料4の水害を良寛さんは悲しんでいるよう

に感じられるんですが、資料5の地震後に詠んだ

漢詩の方だと、逆に住民の方々の堕落した姿、こ

れではけしからんというような形に聞こえるん

ですが。 (塚本) 要するにこの時代は、働けど働けど生

活は楽にならずという時代でして、ですから結構

秩序も緩んできております。村の記録を見ますと、

稲を盗んだとか家財道具を盗んだとか、そういっ

たのが頻繁にどこの村においても結構見受けら

れます。結局働いても働いても年貢を課せられて

生活も楽にならないで、生活していくためには結

局他所稼ぎして生活の糧を得なければならない。

かといって、その村から出ていくと、逆に今度は

自分たちの生活のもとである農業自体が粗略に

なっていくというジレンマが各農民一人一人に

あったのだろうと思います。ですから、資料を見

ますと、ばくちの禁止令など再三にわたって出さ

れています。中には、金何両の罰金を支払うとい

ったものもあります。でも、実際一つの事件の記

録を追っていきますと、最後は許すんですね。罰

金を払えないぐらい生活は楽ではないし、結局農

村部にとってみれば労働人口を考えれば一人で

も農民を失いたくないという時代、一つのことを

達成するための働き手を残しておかなくてはな

らない。この周辺自体が何となくジレンマに陥っ

ている時代、良寛さんはそれをわかっている、わ

かっていながら歌を詠んだのではないかなと思

っております。僕はそう思っています。 (司会) ありがとうございました。では、最後

碓井館長からごあいさついただきまして、終わり

とさせていただきます。 (館長) 塚本先生、長い時間どうもありがとう

ございました。皆さんにおかれましてもお忙しい

ところありがとうございました。まさしくきょう

は「信濃川と良寛」というぴったりのお話を興味

深く聞かせていただきました。もう一度先生にお

礼の拍手をお願いします。 ……(拍 手)……

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第 4 回講座資料

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