2 6 6 ! Ò 2 2 âjansson(1636 年),パリで刊行されたnicolas sanson...

66
ĶĶ ےIJ 2013 6 ڠ౷ၑ ڠ ISSN 0388 Į1644 ఱ༭ ၑேޡධςέσΣͺ ȝ౷ͼιȜΐ֊൲ȝ Ήỹ ၦȆ1Ƚ10 ݪࡄΦȜΠ ࡣݠോධ໐ĭ ζͼΨȜຩन৾ΧζϋΌاාৠଢ଼ ȝܨ་൲໘দȝ ܊૯ဇঊȆݛࡓຳȆ11Ƚ19 ijĵාഽڠպაါকȆ20Ƚ47 ijĵාഽఱڠڠպა။Ȇ48Ƚ51 ڠমȆ52Ƚ60

Upload: others

Post on 25-Feb-2020

7 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 2013 6

    ISSN 0388 1644

    1 10

    11 19

    20 47

    48 51

    52 60

  • 平成24~26年度 日本大学地理学会役員一覧

    会   長 藁谷 哲也

    会 計 監 査 佐野  充 水嶋 一雄

    常任委員長 井村 博宣

    常 任 委 員 揚村洋一郎 井村 博宣 牛垣 雄矢 牛込 裕樹 卜部 勝彦 江口 誠一

    落合 康浩 島方 洸一 関根 智子 羽田 麻美 畠山 輝雄 宮地 忠幸

    森島  済 両角 政彦 山添  謙

    評 議 員 揚村洋一郎 井村 博宣 牛垣 雄矢 牛込 裕樹 卜部 勝彦 江口 誠一

    小倉  眞 落合 康浩 小元久仁夫 梶山 貴弘 高阪 宏行 小林 正人

    品田 光春 島方 洸一 清水 和明 関根 智子 田代  崇 田中絵里子

    田中  圭 田野  宏 中田昭一郎 永野 征男 沼尻 治樹 羽田 麻美

    畠山 輝雄 宮地 忠幸 森島  済 両角 政彦 山崎 達夫 山添  謙

    <専門委員会>

    庶務委員会 ◎落合 康浩,牛垣 雄矢,梶山 貴弘,加藤 幸真,田代  崇,田中  圭,

    任   海,比企 祐介

    会計委員会 ◎江口 誠一,田中絵里子,中田昭一郎,羽田 麻美,吉田  恵

    集会委員会 ◎森島  済,牛込 裕樹,清水 和明,両角 政彦,山登 一輝,吉田  恵

    編集委員会 ◎関根 智子,青木 英一,赤沢 正晃,烏山 芳織,柴原 俊昭,沼尻 治樹,

    畠山 輝雄,宮地 忠幸,山添  謙,山田 道人,久保 壮司,任  海

    <各種委員会>

    学会賞受賞者審議委員会 ◎矢ケ﨑典隆,牛垣 雄矢,落合 康浩,鈴木 正章,田野  宏,

    畠山 輝雄,山崎 達夫

    名誉会員推薦委員会 ◎島方 洸一,小倉  眞,高阪 宏行,品田 光春,羽田 麻美

    地理教育推進委員会 ◎揚村洋一郎,牛込 裕樹,卜部 勝彦,久保田直樹,小林 正人,

    笹本 裕大,両角 政彦

    ◎は,専門委員会および各種委員会の委員長

    下線が平成25年4月1日より変更した役員

  • 1―   ―

    はじめに

    アメリカ合衆国カリフォルニア州のなかで,テ

    ハチャピ山脈以南の地域は一般に南カリフォルニ

    アと呼ばれる.この地域はアメリカ合衆国におい

    て独特の魅力と地域性を持っている.地誌学の課

    題は地域性を明らかにし,その形成過程を説明す

    ることであり,そのためにさまざまなアプローチ

    を用いることができる(矢ケ﨑・加賀美・古田,

    2007;矢ケ﨑,2011).

    南カリフォルニアの地域性を論じる際に注目す

    べき現象は,南カリフォルニアがいつの時代にも

    アメリカ各地や世界中から人びとの関心を集め,

    南カリフォルニアへの人口移動が継続してきたと

    いう事実である(McWilliams, 1946).どのような

    地理的条件が南カリフォルニアへの人口移動を引

    き起こしてきたのであろうか.

    本稿では,南カリフォルニアが理想郷として評

    価され,他地域からの人口移動を引き起こしたと

    いう仮説に基づいて,具体的に 4つの理想郷を設

    定する.すなわち,空想の理想郷,健康の理想

    郷,経済の理想郷,移民の理想郷である.南カリ

    フォルニアの資源が異なる時代に異なる評価を受

    けることにより理想郷としての地域イメージが形

    成され,それが南カリフォルニアへの人口移動を

    促進したと考えることにより,南カリフォルニア

    の地域性を説明することができる.それぞれの理

    想郷と人口移動について検討してみたい.

    カリフォルニア島―空想の理想郷―

    1.コロンブスとモンタルボ

    1492年にコロンブスが新大陸に到達したこと

    により,大西洋を隔てた二つの世界に大きな変化

    が引き起こされた.それは南北アメリカの先住民

    にとっては人口減少とヨーロッパ人への従属の始

    まりを意味したし,ヨーロッパ人にとっては無限

    の可能性に満ちた新しい世界の「発見」を意味し

    た.コロンビアンエクスチェンジと呼ばれる大西

    洋を隔てた交流が,二つの世界を大きく変えるこ

    とになった.

    こうした変化の一つとして,ヨーロッパでは大

    西洋のかなたに存在する理想郷に関心が高まった.

    スペイン人作家のモンタルボ(Garci Rodriguez de

    Montalvo)は,ロマンス小説『騎士エスプラン

    ディアンの功績』(1510年)のなかで,エスプラ

    ンディアンが偶然にもたどり着いたカリフォルニ

    ア島を描いた.そこは美しい黒人の女王カラフィ

    アが住み,金に満ちあふれた理想郷であった.新

    大陸に渡ったスペイン人たちは,カリフォルニア

    島という理想郷を求めて探検を繰り返した.グー

    ドによると,女王カラフィアに由来するカリフォ

    ルニア島はモンタルボの創作であった(Gudde,

    地理誌叢 Vol.55 No. 1 pp.1~10 (2013―6)

    理想郷としての南カリフォルニア

    ― 地域イメージと人口移動 ―

    矢ケ﨑 典 隆*

    キーワード:理想郷,地域イメージ,人口移動,南カリフォルニア,地誌学

    *日本大学文理学部地理学科

  • 2―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    1998, 59-61).

    ヨーロッパで出版された地図には,18世紀に入

    るまで,アメリカ大陸の西側に島が描かれ,そこ

    にはカリフォルニアという地名が記載された.例

    えば,ロンドンで刊行された John Speed(1627-

    76年),アムステルダムで刊行された Johannes

    Jansson(1636年), パリで刊行されたNicolas

    Sanson d’Abbeville(1656年),アムステルダムで

    刊行された Jesuit Father Louis Hennepin(1698

    年),ロンドンで刊行されたHerman Moll(1720

    年)では,北アメリカ大陸の西側に島が描かれ,

    そこにカリフォルニアの地名が記載された.カリ

    フォルニア半島は 16世紀中頃までにはカリフォ

    ルニアと呼ばれ,17世紀末まで島として認識され

    た.ヨーロッパの地図製作者の間ではカリフォル

    ニアを島として描く認識が形成された.

    2.魅力のない辺境

    18世紀後半になると,カリフォルニア半島は

    バハ・カリフォルニア,それより北はアルタ・カ

    リフォルニアと呼ばれるようになり,北部ではキ

    リスト教布教集落(ミッション),軍事基地(プレ

    シディオ),民間人の入植村(プエブロ)の建設に

    よる開発が進んだ.ミッションでは,フランシス

    コ会宣教師が先住人を住まわせて,食料生産を行

    いながら,キリスト教に教化するための活動を

    行った.1769年に建設されたサンディエゴミッ

    ションをはじめとして,21か所のミッションが建

    設された.プレシディオは守備隊兵士の駐屯地

    で,植民地の防衛を目的とした.プエブロは民間

    人を入植するための計画的植民地で,退役軍人や

    メキシコ北部からの移住者が定住した.これらの

    フロンティア組織に加えて,ランチョ(牧場)と

    呼ばれる土地の賦与が始まった.ランチョの賦与

    はメキシコ時代に入っても継続し,沿岸部の肥沃

    な地域において土地の私有化が進んだ.アルタ・

    カリフォルニアはメキシコシティに拠点を置いた

    ヌエバエスパーニャの北部フロンティアとなっ

    た.

    カリフォルニアという理想郷のイメージとは対

    照的に,スペイン植民地時代とメキシコ時代を通

    じて,カリフォルニアは決して魅力的な地域とは

    認識されなかった.そこには女王カラフィアの住

    む理想郷は存在しなかった.アステカやインカの

    ような高度な文明は存在しなかった.金や銀も発

    見できなかったので,開発を促す経済的な魅力は

    なかった.文明の中心であったメキシコからは遠

    隔であり,陸路によっても海路によっても到達す

    ることは容易ではなかった.経済の中心は粗放的

    牧畜業で,商品は牛皮と牛脂に限られていた.カ

    リフォルニアは魅力の無い辺境であり,空想の理

    想郷はまさに空想のままで終わりを遂げた.

    スペイン人やメキシコ人は,カリフォルニアが

    気候に恵まれた地域であるとは認識しなかった.

    というのは,イベリア半島の伝統と認識を有する

    スペイン人やメキシコ人にとっては,カリフォル

    ニアの温暖で乾燥した気候は評価に値する資源で

    はなかった.カリフォルニアの気候がアメリカ人

    によって評価され理想郷として認識されるように

    なるのは,19世紀中頃以降のことであった.

     病気のない世界―健康の理想郷―

    1.カリフォルニアへの探検

    19世紀前半には,メキシコ領のカリフォルニ

    アはアメリカ人にとって未知の世界であった.

    ジェファソン大統領が 1803年にフランスからル

    イジアナを購入すると,ミシシッピ川からロッ

    キー山脈までの広大な土地がアメリカ領となり,

    この山脈を越えて太平洋岸にいたる地域に関心が

    高まった.カリフォルニアを最初に体験したアメ

    リカ人は毛皮商人たちであった.アメリカ連邦政

    府はウィルクス(Charles Wilkes)やフリモント

    ( John Charles Fremont)などの探検隊を派遣して

    カリフォルニアに関する情報の収集に努めた.こ

    うして 1840年代にはカリフォルニアの恵まれた

    気候に関する情報がアメリカ東部に伝えられた.

    南カリフォルニアの地域イメージが大きく転換

    したのは,アメリカ領となった 19世紀中頃のこ

  • 3―   ―

    理想郷としての南カリフォルニア

    を支配した.ミアズマ理論の全盛期には,瀉血や

    下剤を使用して体内のミアズマ物質を取り除くと

    いう,痛みを伴う危険な治療法が一般的であった

    (Thompson, 1971).

    一方,病気の治療を気候条件と結びつけて論ず

    る医療気候学に関心が高まり,19世紀中頃までに

    は転地療養が有効であると信じられるようになっ

    た.ペンシルヴェニア大学出身の著名な医者ドレ

    イク(Daniel Drake)は,とくにアメリカ西部へ

    の療養旅行の効用を強調した.1860年代には療

    養旅行が広く行われるようになっていたが,医療

    気候学の考え方は多様で,どこが最適地であるか

    については共通の認識は形成されておらず,コロ

    ラドやニューメキシコの高度が高く乾燥した地

    域,アリゾナの砂漠,南カリフォルニアが有力な

    候補であった(Thompson, 1971;Vance, 1972).

    1850年代にはアメリカ東部から移住した医者

    たちによってカリフォルニア州医学協会が設立さ

    れ,医療気候学の調査が体系的に行われるように

    なった.ローガン(Thomas M. Logan)を中心と

    した調査の結果は,1859年に『カリフォルニアの

    医療地形学と流行病に関する報告』にまとめられ

    た(Thompson, 1971).ローガンは,州知事にあ

    てた州厚生省の年次報告書(1870-71)において,

    カリフォルニアは「世界の療養所」であるとした

    (Saunders, 1967).こうした認識は 19世紀末まで

    存続し,産業と経済が未発達であったカリフォル

    ニアへの人口移動を促進する要因となった.

    マラリア(文字通り,悪い空気)は典型的なミ

    アズマであるが, 1880年代から 1890年代にかけ

    て科学的な病因が明らかになった.すなわち,患

    者の血球からマラリア原虫が発見され,それが蚊

    によって伝染することが実証された.ハマダラカ

    が媒介するマラリア原虫が赤血球内に寄生し,増

    殖分裂して血球を破壊する時期に周期的に発熱が

    おきるわけである.こうした発見によってミアズ

    マ理論に終止符が打たれたのは 19世紀末のこと

    であった.乾燥した南カリフォルニアは,ハマダ

    ラカが繁殖する環境が存在しなかったので,マラ

    とであった.デーナーは 1840年に刊行された『帆

    船航海記』のなかで,カリフォルニアの優れた気

    候を絶賛し,流行病も風土病もまったくみられな

    いと指摘した(デーナー, 1977, 140).また,ヘイ

    スティングは,1845年に刊行された旅行者向けの

    ガイドブック『オレゴンとカリフォルニアへの移

    住者のガイド』で,カリフォルニアが気候に恵ま

    れた健康地であることを強調した.「健康的なこ

    とそして健康に良い気候という点で,世界中でこ

    の地域に勝るか匹敵する地域はいくつもない.こ

    の地域のすべて,とくに海岸部では発熱の原因が

    まったく存在しない.また,ここには天候の急変

    や極端な気候はみられないし,カタルや結核など

    の疾患を引き起こすほかの原因もない.したがっ

    て,病弱者にとってここは既知の世界の中でもっ

    とも良好な保養地の一つであると断言できる」

    (Hastings, 1945, 85).

    1849年に始まったゴールドラッシュはカリ

    フォルニアへの人口移動の引き金になった.1869

    年に大陸横断鉄道が開通すると,東部からカリ

    フォルニアへの旅行が容易になった.北カリフォ

    ルニアでは粗放的な牧畜に代わって小麦栽培が始

    まった.こうして,恵まれた気候と豊かな土地を

    求めて,伝統的な生活やピューリタン主義からの

    自由を求めて,東部からカリフォルニアへの人口

    移動が加速化した(矢ケ﨑,1999).

    カリフォルニアへの人口移動を理解するための

    背景として,病気の原因と治療に関する認識を検

    討することが必要となる.19世紀初頭のアメリ

    カの医学では,イギリスの伝統を背景として,感

    染,ミアズマ物質,大気中の流行病組成という 3

    つのおもな病因論が一般的であった.なかでも,

    有機物や汚物が腐敗して発生した有毒ガス,すな

    わちミアズマ(瘴気,悪い空気)が病気を引き起

    こすというミアズマ理論は 19世紀中頃に絶頂期

    を迎えた.こうした古い病因論は,細菌論の発達

    にもかかわらず,1880年代までアメリカの医療界

  • 4―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    リアが発生することのない健康地であった.

    3.世界の療養所

    詳細にみるとカリフォルニアには地域性が存在

    し,健康のための好適度は地域によって異なるこ

    とが明らかになった.地理学者トンプソンは 19

    世紀末におけるカリフォルニアの健康地図を提示

    した(Thompson, 1969).これによると,カリフォ

    ルニアは 5つの地区,すなわち,湿地・冠水地,

    ミアズマ地帯,結核患者に不適な地域,結核患者

    に最適な地域,結核患者に好適な地域に区分され

    る.結核患者に最適な地域は,中部沿岸のモンテ

    レーの南からサンディエゴにかけての中部・南部

    沿岸地域であった.モハヴェ砂漠を中心とした南

    カリフォルニア内陸部も結核患者に好適な地域で

    あった.世界の療養所として認識されたカリフォ

    ルニアでも,南カリフォルニアがとくに理想的な

    環境を持つと評価されたわけである.

    南カリフォルニアの優れた気候に関する直観的

    な記述が医学文献に多くみられた.例えば,レモ

    ンディノは,『アメリカの地中海沿岸,南カリ

    フォルニア』のなかで,「この地域(南カリフォル

    ニア)にはいかなる風土病も存在しない……私の

    個人的な観察から言えることは,合衆国東部から

    この海岸地域に来れば少なくとも寿命が 10年は

    延びる」とした.また,ビッグズはサンタバーバ

    ラに関する報告のなかで,「熱や悪寒に苦しめら

    れてここにやってきた人びとは, 2~ 3回以上発

    熱することはめったにない.彼らはすぐに回復す

    る……病気を治すのに気候が十分であるようにみ

    える」と述べた(Thompson, 1971, 124).

    南カリフォルニアは転地療養の最適地として多

    くの移住者を引き付け,理想郷としてのイメージ

    が形成された.転地療養がもっとも有効であると

    認識されたのは結核の治療のためであった.19

    世紀には結核はもっとも致命的な病気であり,伝

    統的な医療はその治療に効果を上げなかった.す

    でに 1860年代末までには,南カリフォルニアに

    多くの結核患者が流入していた.ロサンゼルス郡

    立病院の入院患者のほぼ半数は移住者であり,そ

    の大部分は結核を患っていた(Thompson, 1971;

    Saunders, 1967).とくに 1870年代中頃から 1900

    年ころまで結核患者や病弱者に対する南カリフォ

    ルニアの気候の効用が強調されたので,南カリ

    フォルニアへの移住者のかなりの割合が健康を求

    める人びとであった(Thompson, 1969).

    南カリフォルニアには多くの医者も流入した.

    とくにロサンゼルスには医者の数が多く,人口

    10万人当たりの医者数は全米都市の中でもっと

    も多かった.1900年センサスでは,ロサンゼル

    スの人口 10万人当たりの医者数は 400人で,こ

    れは全米平均の 3倍であったという(Saunders,

    1967).

    旅行作家による著作は,理想郷としての南カリ

    フォルニアのイメージを助長し,この地域への移

    住を促進することに貢献した.もっとも影響力が

    大きかったのは 1873年に刊行されたノルドホッ

    フ著『健康,楽しみ,定住のためのカリフォルニ

    ア―旅行者と入植者のための読本』(Nordhoff,

    1873)で,カリフォルニアの姿を地図や挿絵を用

    いて具体的に描いた読み物でありガイドブックで

    あった.この本では南カリフォルニアの解説に多

    数の頁が費やされた.サウスカロライナ在住の結

    核患者の友人がほとんど絶望的に南カリフォルニ

    アに移住したが, 3か月で別人のように元気にな

    り,ロサンゼルスで再会したという体験談が披露

    され,南カリフォルニアの恵まれた気候が具体的

    に解説された.

    サンゲイブリエル山脈の南麓に沿って,また,

    サンタバーバラやサンディエゴにかけての南カリ

    フォルニア沿岸部に保養都市やリゾートホテルが

    建設され,東部の裕福な人びとが温暖な冬を過ご

    すために利用された.また,東部の人びとが組合

    を組織して共同で土地を購入する集団入植事業も

    行われた.ミシガン州出身者によるリバーサイド

    の建設やインディアナ州出身者によるパサデナの

    建設は典型的な事例であった(矢ケ﨑,2010).

    温暖で少雨の南カリフォルニアはミアズマの発

  • 5―   ―

    理想郷としての南カリフォルニア

    の支援など,企業の立地に有利な条件にも恵まれ

    た.大小さまざまな製造業の企業に加えて,流

    通・加工関連の企業の集積も進んだ.自動車組み

    立て,ゴム・タイヤ製造,製鉄,機械などのアメ

    リカを代表する企業が生産拠点を置いた.フォー

    ド,ゼネラルモーターズ,ファイストーンタイヤ

    アンドラバー,ベツレヘムスチール,ユーエスス

    チール,アルミナムカンパニーオブアメリカ,コ

    ンチネンタルキャン,オーウェンズイリノイグラ

    スなどである.それぞれが数百人から 5000人を

    雇用した(Donley, 1979).

    なかでも自動車産業はロサンゼルス大都市圏の

    工業活動を象徴する存在であった.カリフォルニ

    アにおける自動車需要を察知したフォード(Henry

    Ford)は,1910年代に自動車組立工場をロサンゼ

    ルスに建設し,エンジンなどの部品はデトロイト

    から輸送して自動車を供給した.1920年代から

    1930年代にかけて,クライスラー,ゼネラルモー

    ターズをはじめとする自動車会社が相次いで組立

    工場を建設した.タイヤ需要の増大に対応して,

    1920年代にはグッドイヤーやファイアストーン

    などがタイヤ生産を開始し,ロサンゼルスはアク

    ロンに次いで大きなタイヤ生産地となった(Pit

    and Pit, 1997, 31).

    石油の存在は先住民によって知られていたが,

    石油会社が設立されて石油の採掘がおこなわれる

    ようになったのは 19世紀末のことであった.ス

    タンダードオイルカンパニーオブカリフォルニア

    の前身であるカリフォルニアスターオイルは

    1870年代に設立された.1920年代にはロサンゼ

    ルス郡南部で相次いで大規模な油田が発見され,

    石油採掘がブーム期を迎えた(Pit and Pit, 1997,

    364-365).石油生産の拡大に伴って石油関連の

    工業化が進んだ.

    20世紀に入るとロサンゼルスに映画産業が展

    開した.1902年には全米で最初の映画館がロサ

    ンゼルス中心部に開業した.シカゴの映画プロ

    デューサーは,ロサンゼルス商業会議所のパンフ

    レットで年間 350日の晴天日が保障されていると

    生しない健康の理想郷であった.産業が未発達で

    あった南カリフォルニアがアメリカ東部から多く

    の人びとを引きつけたのは,魅力的な気候であっ

    た.アメリカ東部から,医者,病弱者,富裕層な

    どが健康を求めて流入し,世界のサナトリウムと

    しての認識が一般化した.こうして南カリフォル

    ニアの人口は著しく増加した.合衆国センサスに

    よると,南カリフォルニアの人口(7郡の合計)

    は,1850年には 5,513,1860年には 24,751,1870

    年には 32,032であったが, 1880年には 64,371,

    1890年には 201,352, 1900年には 304,211を数え

    た.1870年代と 1880年代の増加がとくに顕著で

    あったことがわかる.

    1.総合的工業地域の形成

    19世紀後半における南カリフォルニアの人口

    増加は,産業活動を基盤とするものではなかっ

    た.一方,20世紀に入ると南カリフォルニアは急

    速な経済発展を経験した.1900年から 1960年代

    末までの南カリフォルニアは経済の理想郷と呼ぶ

    ことができ,経済的な成功を夢見て多くの人びと

    が南カリフォルニアに流入した.なかでも産業活

    動を牽引したのはロサンゼルスとその周辺地域で

    あった.

    東部や中西部の工業地域では都市ごとに業種の

    専門分化が進んだが,ロサンゼルスの工業は多様

    な業種によって特徴づけられた.アメリカの伝統

    的な工業都市で生産された製品を遠隔な南カリ

    フォルニアへ運搬するのは非経済的であったた

    め,地域的な需要に応えることを目的として多様

    な種類の物資を製造することが不可欠となった.

    20世紀中頃までには,ロサンゼルス大都市圏は

    アメリカ最大の総合的工業地域に発展した.

    工業活動の中心はロサンゼルス市の中心部から

    南にかけての地区であり,ロサンゼルス港や大陸

    横断鉄道の操車場に近接して多様な工場が集積し

    た.低価格の土地の存在,低い税率,地元自治体

  • 6―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    住宅社会が形成された.

    1940年代から 1960年代にかけて人口が急速に

    増加した.人口増加の中心はロサンゼルス郡とオ

    レンジ郡であり,両郡の合計人口は,1900年には

    189,994,1910年には 538,567,1920年には 997,830,

    1930年には 2,327,166,1940年には 2,916,403,1950

    年には 4,367,911,1960年には 6,742,696を数えた.

    3.日本人移民と農業発展

    南カリフォルニアの経済的機会に引き付けられ

    てこの土地にやってきた人びとの中には日本人移

    民も含まれた.19世紀末から 20世紀初頭にかけ

    て,日本人移民の初期の集住地域は移民の上陸地

    であるサンフランシスコとその周辺地域であった

    が,1906年のサンフランシスコ大地震を契機とし

    て南カリフォルニアへの移動がおきた.日本人が

    流入した時点で経済が確立していたサンフランシ

    スコに比べて,南カリフォルニアには日本人移民

    が入り込むことのできる経済の隙間が多く存在し

    たし,経済規模自体が拡張を続けた.

    サンフランシスコの日本語新聞には,例えば

    「南加労働案内―労働者への福音―」と題する広

    告記事が掲載され,「南加州は何故に多数の労働

    者を要するか」が農作物ごとに解説され,「労働

    を以て成功せんとする同胞は必ず南加州に来る可

    し」と結ばれた.経済成長の著しい南カリフォル

    ニアは,日本人にとっても経済的な可能性を実感

    することのできる地域であった(矢ケ﨑,1993).

    日本人移民は南カリフォルニアの農業の発展に

    おいて重要な役割を演じた.ロサンゼルスを中心

    とした人口増加は生鮮食料品に対する需要を生み

    出した.日本人はロサンゼルス市の近郊に小規模

    な農地を借地して多種類の野菜を栽培した.日米

    開戦の直前には,ロサンゼルスの野菜の供給にお

    いて日本人は欠かすことのできない存在であっ

    た.また,人口増加を反映して,また,輸送技術

    の発達の結果,南はインペリアルバレーから北は

    サンタマリアバレーまで,南カリフォルニア各地

    に日系農業地域が形成された.

    いう宣伝に興味をもって,撮影チームを送り込

    み,映画の撮影が行われるようになった.1911

    年にはハリウッドに恒久的な映画制作スタジオが

    開業した.1910年代には映画製作会社の集積が

    進み,映画産業に従事する人口が増加した.その

    後,映画制作は南カリフォルニアの重要な産業の

    一つとなった(Pit and Pit, 1997, 335-337).

    晴天に恵まれた南カリフォルニアでは年間を通

    して試験飛行が可能であるため,航空機産業もロ

    サンゼルス地域に集積した.ハリウッドのガレー

    ジで始まったロッキードエアクラフトは 1930年

    代に生産を拡大し,日米戦争によって大きく成長

    した.サンタモニカで設立されたダグラスエアク

    ラフトは 1930年代に旅客用飛行機を製造し,第

    二次世界大戦中に拡大した(Pit and Pit, 1997,

    120, 258-259).

    2.工業発展と郊外化

    1940年代から 1960年代にかけて,ロサンゼル

    スを中心として南カリフォルニアの経済は継続的

    に発展した.この時期にアメリカが経験した 3つ

    の戦争(太平洋戦争,朝鮮戦争,ベトナム戦争)

    はいずれもアジアを戦場としており,西海岸では

    航空機,軍需産業,電子工学などの工業発展が加

    速化した.ロサンゼルスはこうした軍事関連の工

    業発展の拠点であり,労働力需要が拡大した.

    この時期はモータリゼーションによる郊外化が

    進展した時期でもあった.20世紀前半に都市交

    通の主役を演じたパシフィックエレクトリックレ

    イルウェイに代表される郊外電車網は,20世紀中

    頃には自動車の普及によって姿を消した.第二次

    世界大戦後の経済の好況を反映して,自動車の増

    加と道路網の整備が進み,郊外化が加速化した.

    とくにロサンゼルス南東部では,第二次世界大戦

    から 1950年代をへて 1960年代初頭まで,労働力

    需要が拡大した.1920年代から中西部や南部か

    らの白人労働者の移動が活発化しており,ロサン

    ゼルス南東部で職を見つけ,近接する労働者住宅

    地に居住した.こうして白人の活気に満ちた郊外

  • 7―   ―

    理想郷としての南カリフォルニア

    郊外に居住する人びとに商品やサービスを提供す

    るショッピングモールが数多くつくられるように

    なった(矢ケ﨑・佐藤,2012).

    1970年代以降,ロサンゼルス大都市圏を中心

    とした南カリフォルニアにおいて,スノーベルト

    現象とサンベルト現象が同時に進行した.都市周

    辺の工業地区では衰退現象が,郊外では新しい発

    展が起きた.だだし,こうした経済や産業活動の

    変化と並行して,新しい移民が理想郷を求めて流

    入した.

    2.移民の流入とエスニックモザイク

    1960年代の公民権運動の結果としてアメリカ

    社会は大きく変化したが,なかでも 1960年代の

    移民法の改正が大きな影響をおよぼし,多様な移

    民の流入が南カリフォルニアを特徴づけるように

    なった.それまで入国が大幅に制限されていたア

    ジアからの移民が急増したし,ベトナム戦争の結

    果として南カリフォルニアはインドシナ難民を受

    け入れた.隣接するメキシコからは豊かな生活を

    夢見る越境者の流入が継続し,ヒスパニック社会

    が拡大した.こうして,白人の世界から多民族社

    会へと変化した南カリフォルニアは,移民にとっ

    て恵まれた生活環境を提供し,さらに新たな移民

    を引きつけている.

    2000年の人口構成をみると,ホワイトは全国

    では 69.1%を占めるが,カリフォルニア州では

    46.7%,ロサンゼルス郡では 31.1%を占めるのみ

    である.一方,ヒスパニックは全国では 12.5%

    を占めるが,カリフォルニア州では 32.4%,ロ

    サンゼルス郡では 44.6%である.アジア系は全

    国では 3.6%であるが, カリフォルニアでは

    10.9%,ロサンゼルス郡では 11.8%である.ロサ

    ンゼルス郡ではアメリカ社会の多数派である白人

    が数の上では多数派ではない.

    移民の理想郷は移民にとって住みやすい環境を

    提供する.そこではホスト社会からの圧力にさら

    されることなく生活することができる.多民族が

    共生するため,多様な文化に対する理解と共感が

    日本人が生産した農産物はロサンゼルスの都心

    に開設された青果物市場に出荷された.青果物市

    場で農産物の卸売業に従事する日本人も増加し

    た.一方,ロサンゼルス大都市圏には野菜や果物

    を小売する農産物販売スタンドが増加し,多くの

    日本人が小売業に従事した.1940年代初頭まで

    には,日本人による野菜類の生産・卸売・小売に

    おいて垂直的な支配構造を確立していた(矢ケ

    﨑,1993;Yagasaki and Fukase, 2010).

    1.スノーベルト現象とサンベルト現象

    1970年代に入ると,ロサンゼルス大都市圏を

    中心とした南カリフォルニアは新しい局面を迎え

    た.それは,産業構造の変化に伴う重工業の衰退

    とハイテク産業・情報通信技術産業の発達,新移

    民(とくにラテンアメリカ系とアジア系)の流入

    に伴う人口構成の変化によって特徴づけられた.

    また,グローバル化の進展に伴い,環太平洋地域

    の枠組みによるアジアからの投資が増加した.ロ

    サンゼルスはサンベルト現象を象徴する都市とな

    り,アメリカを代表する多民族都市となった.

    20世紀初頭から 1960年代までロサンゼルス大

    都市圏は総合的工業地域として発展したが,産業

    構造の変化を反映して著しい変化を経験した.製

    鉄,自動車,航空機などの重工業は,産業構造の

    変化を反映して,また軍需防衛産業の縮小によっ

    て, 1970年代以降,衰退した.とくに 1970年代

    後半から 1980年代にかけて工場の閉鎖が相次ぎ,

    失業者が増大した.こうした変化は,アメリカ東

    部や中西部の伝統的な工業都市が経験した衰退現

    象であった.

    一方,ロサンゼルス大都市圏では,1970年代以

    降,サンベルト現象も並行して進展した.郊外に

    は高度な技術を持つ技術者集団を雇用するハイテ

    ク産業・機械金属産業が集積する工業団地が形成

    され,新しいテクノポールとなった.また,郊外

    には情報通信技術関連企業の集積地区や新しいビ

    ジネスセンター(オフィスパーク)が形成された.

  • 8―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    3.ヒスパニック化

    南カリフォルニアにおいて圧倒的な存在感を見

    せる少数派集団はヒスパニックである.急増する

    ヒスパニックのなかで,とくにメキシコ系の人び

    とにとって南カリフォルニアは豊かな生活を実現

    できる理想郷である.南カリフォルニアには多く

    のメキシコ系が居住するし,労働を目的として合

    法的あるいは非合法的に国境を越えて働きに来る

    メキシコ人も多い.多数の不法移民の流入はさま

    ざまな議論を引き起こすが,南カリフォルニアの

    経済がメキシコ 人労働者に大きく依存している

    のも事実である.

    セルヒオ・アラウ監督『メキシコ人のいない日』

    (2004年)は,ヒスパニック(とくにメキシコ人)

    に大きく依存したカリフォルニアをコミカルに描

    いた.すなわち,ある日突然カリフォルニアから

    ヒスパニックが姿を消し,社会も経済も大混乱す

    るという話である.実際,2006年 5月のメーデー

    には,「働かず,登校せず,商売せず,買い物せ

    ず」をスローガンとして,全米の大都市でヒスパ

    ニックが参加する大規模なデモが行われた.ロサ

    ンゼルスではとくに経済的な損失が大きかった.

    アメリカ社会では,不法移民の教育や福祉に税

    金が投入されることに対する不満が大きいし,不

    法移民がアメリカ人の仕事を奪うことに対する不

    安も根強い.ヒスパニックの政治力が拡大するこ

    とに対する懸念も存在する.しかし,現実にはア

    メリカ経済の基盤を支えているのがヒスパニック

    であり,不法移民でも生活できる仕組みが出来上

    がっている.ヒスパニック居住地区ではメキシコ

    的な生活様式が維持される(矢ケ﨑ほか, 2006).

    スペイン語による新聞が刊行され,ラジオやテレ

    ビが放送される.ここではメキシコでの生活を変

    えることなく生活することができる.

    移民の流入は低賃金・非熟練労働力の存在を意

    味する.とくにヒスパニックの女性労働力を活用

    した衣料縫製産業が展開し,ロサンゼルス都心部

    にファッション地区が形成された.こうした新し

    い第 3世界型産業は,衰退したロサンゼルス都心

    得られやすく,移民集団が独自の文化や生活様式

    を維持することが可能である.ある移民集団が同

    じ移民集団に属する人びとを雇用して民族集団型

    業種を経営することも一般的である.すなわち,

    新しい移民にとって,居住においても,就業にお

    いても,生活・文化の維持においても住みやすい

    環境は魅力的である.

    ロサンゼルス大都市圏のエスニックタウンは,

    こうした多民族社会を象徴する存在であり,独特

    の文化景観と活力に満ちている.第二次世界大戦

    前からの移民街としては,都心部のチャイナタウ

    ン,リトルトーキョー,ソーテルなどがあげら

    れ,今日でも移民街の雰囲気を残している.一

    方,1970年代以降の新しい移民の流入に伴って新

    しい移民街が形成された.

    移民の理想郷を象徴するのが郊外型チャイナタ

    ウンの繁栄である.ロサンゼルス都心部の東郊

    10kmに位置するモンテレーパークでは 1970年代

    に中国系住民が増加し,リトルタイペイやチャイ

    ニーズビバリーヒルズと呼ばれるようになった.

    さらに近年成長が著しいのが新興郊外型チャイナ

    タウンであり,モンテレーパークから 25km東に

    位置するローランドハイツ,アシエンダハイツ,

    ダイヤモンドバーの地区である.中国系ショッピ

    ングセンターが華人資本によって経営され活気に

    満ちている.

    ロサンゼルス都心部の西に位置するのはコリア

    タウンで,氾濫するハングルは独特なエスニック

    景観を作り出している.この北側にはタイタウン

    とリトルアルメニアが,西側にはリトルエチオピ

    アがある.また,ロサンゼルス都心部から南東の

    郊外にはリトルインディアがあり,この地区には

    かつて酪農に従事したアゾレス諸島出身のポルト

    ガル系が集住する.さらに南東方向にはベトナム

    系のリトルサイゴンがある(矢ケ﨑,2007;Allen

    and Turner, 2002).このようなエスニックモザイ

    クは移民にとっての理想郷である.

  • 9―   ―

    理想郷としての南カリフォルニア

    のワッツ暴動事件は公民権運動の時代を象徴した

    し,1992年のサウスセントラル地区暴動事件は記

    憶に新しい.豊かさと貧困が混在し,人種民族や

    社会経済階層による居住地区の分断化はロサンゼ

    ルス大都市圏の現実である.最近では高級なゲー

    ト付隔離住宅が郊外に増加している.

    こうした現実が存在する一方,理想郷としての

    南カリフォルニアの活力は衰えてはいないように

    見える.もっとも新しい理想郷は移民の理想郷で

    ある.南カリフォルニアは次にはどのような理想

    郷として認識されるのであろうか.今後も南カリ

    フォルニアの地域性について地誌学の観点から検

    討を継続する必要性がある.

    (2013年3月16日受付)

    (2013年5月11日受理)

    部の経済と景観を再生するうえで重要な役割を演

    じている.衣料縫製工場は典型的な労働搾取工場

    であり労働条件は悪いが,新移民にとっては就業

    機会の一つである.

     まとめ

    本稿では,南カリフォルニアへの人口移動を 4

    つの理想郷を設定することにより説明した.もち

    ろん,夢を描いて南カリフォルニアにやってきた

    人びとにとって厳しい現実も待ち受けていた.事

    実,南カリフォルニアではさまざまな事件が起き

    た.1871年にロサンゼルス中心部のネグロス街

    でおきた中国人殺害事件では 19人の中国人が殺

    害された.1943年のズートスート暴動事件では

    白人青年がメキシコ系青年を暴行した.1965年

    文  献

    矢ケ﨑典隆(1993)『移民農業―カリフォルニアの日

    本人移民社会―』古今書院.

    矢ケ﨑典隆(1999)19世紀におけるカリフォルニア

    のイメージと地域性.学芸地理,54,2-20.

    矢ケ﨑典隆(2007)ビデオ教材制作による地誌教育の

    試み.学芸地理,62,1-12.

    矢ケ﨑典隆(2010):19世紀の南カリフォルニアにお

    ける都市建設と集団入植事業.歴史地理学,52

    (3),1-29.矢ケ﨑典隆・加賀美雅弘・古田悦造編(2007):『地誌

    学概論』朝倉書店.

    矢ケ﨑典隆編(2011):『アメリカ(世界地誌シリーズ

    4)』朝倉書店.

    矢ケ﨑典隆・椿真智子・佐々木智章・深瀬浩三(2006)

    ロサンゼルス市ボイルハイツ地区における90の

    壁画―資料と地理学的アプローチ―.東京学芸大

    学紀要人文社会科学系 II,57,33-46.

    矢ケ﨑典隆・佐藤紘司(2012)ロサンゼルス大都市圏

    における100のショッピングセンター.東京学芸

    大学紀要人文社会科学系 II,63,53-71.

    Allen, J. P. and Turner, E. (2002) Changing Faces, Chang-

    ing Places: Mapping Southern California. North-

    ridge: Department of Geography, California State

    University, Northridge.

    デーナー,R. H. 千葉宗雄訳(1977)『帆船航海記』

    海文堂出版(Dana, R. H. (1840) Two Years before

    the Mast, A Personal Narrative of Life at Sea.)

    Donley, M. W. (1979) Atlas of California. Portland: Aca-

    demic Book Center.

    Gudde, E. G. (1998): California Place Names: The Origin

    and Etymology of Current Geographical Names.

    Fourth Edition. Berkeley and Los Angeles: Univer-

    sity of California Press.

    Hastings, L. W. (1845): The Emigrants’ Guide to Oregon

    and California. Cincinnati: G. Conclin.

    McWilliams (1946): Southern California Country: An Is-

    land on the Land. New York: Duell, Sloan & Pearce.

    Nordhoff, C. (1873): California: for Health, Pleasure, and

    Residence, A Book for Travellers and Settlers. New

    York: Harper & Brothers.

    Pit, L. and Pit, D. (1997): Los Angeles A to Z: an Ency-

    clopedia of the City and County. Berkeley and Los

    Angeles: University of California Press.

    Saunders, J. B. deC. (1967): Geography and geopolitics

    in California medicine. Bulletin of the History of

    Medicine, 61 (4), 293-324. 

  • 10―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    Southern California as an Earthly Paradise:

    Regional Image and Four Waves of Migration

    Noritaka YAGASAKI*

    Key words:paradise, regional image, migration, Southern California, regional geography

    *Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon University

    Thompson, K. (1969): Insalubrious California: Percep-

    tion and reality. Annals of the Association of Ameri-

    can Geographers, 60, 230-244.

    Thompson, K. (1971): Climatotherapy in California. Cali-

    fornia Historical Quarterly, 50, 111-130.

    Vance, J. E., Jr. (1972): California and the search of ideal.

    Annals of the Association of American Geographers,

    62, 185-210.

    Yagasaki, N and Fukase, K. (2010) : Japanese farming,

    urban sprawl, and changing land use in Gardena and

    Torrance of the Los Angeles Metropolitan Area.

    Geographical Review of Japan Series B, 83 (1), 15-

    31.

  • 11―   ―

     はじめに

    わが国で気象観測が本格的に開始されたのは

    19世紀以降であり,観測データにもとづく気候

    変動の研究が行われるようになったのは 20世紀

    になってからである.それ以前の気候変動の研究

    は代替データ(proxy data),すなわち樹木やサン

    ゴの年輪(幅・密度)の分析,花粉分析,古文書

    解読などにもとづいていた.

    ハマサンゴ(Porites sp.)やキクメイシ(Favia

    sp.)などの塊状サンゴは,海水中のカルシウムイ

    オンと炭酸水素イオンを体内に取り入れて成長

    し,炭酸カルシウム(CaCO3)の骨格を同心円状

    に外側に成長させている.このため成長時の水温

    や塩分濃度などの海洋情報は骨格に記録されてい

    る.池田・茅根(1994)によると,この骨格は密

    度の大きい部分(HD)と密度の小さい部分(LD)

    からなり,その 1組が 1年分に相当する.また浅

    海ほか (2004) は,この骨格が年間約 0.5~ 2cm

    成長する(以下,年縞とよぶ)と述べている.こ

    のため直径数mの塊状サンゴは過去数 100年分の

    海洋情報を記録している.

    ところで宮古島南東部のマイバー浜西部には,

    過去の大津波によって打ち上げられたとされる大

    小様々な大きさのサンゴ岩塊が多数散乱している

    (小元,2010,2012,2013).これらの岩塊の中で

    ハマサンゴ(Porites sp.)岩塊については,1771年

    明和津波や,それ以前の津波によって打ち上げら

    れたことが河名(2009a, 2009b, 2011),小元

    (2010,2012,2013), Omoto(2011)らによって報

    告されている.

    サンゴの成長は,海水温・塩分濃度・透明度・

    栄養物質の供給状況などの環境要因により左右さ

    れる.しかしサンゴの成長にもっとも大きな影響

    を及ぼすのは,海水温の変化であろう.本研究は

    1771年明和津波によって海岸に打ち上げられた

    ハマサンゴ岩塊の年縞幅の時系列変化を屋久杉の

    年輪幅の変化と対比し,1771年明和津波以前の気

    候変動を解明することを目的としている.

     試料採取と分析方法

    1.試料採取地点の地形

    試料を採取したマイバー浜は,宮古島南東の東

    平安名崎とその西方の宮渡崎の間に位置する東西

    約 500mのポケットビーチである(図 1).この海

    岸には南北の幅 10m~ 30mの砂浜があり,汀線

    付近にビーチロック(小元, 2010)がみられる.

    また砂浜の背後には砂丘や標高 7m~ 9mの海成

    段丘が発達している.マイバー浜の南方約 800m

    には礁嶺があり,陸地との間には礁池(イノー)

    が広がっている.マイバー浜の西部には前述のよ

    うに多くの津波石が散乱・集積している(写真 1).

    地理誌叢 Vol.55 No. 1 pp.11~19 (2013―6)

    宮古島南東部 , マイバー浜から採取した

    ハマサンゴ化石の年縞分析

    ― 気候変動復元の試み ―

    白岩 真由子*・小元 久仁夫**

    キーワード:ハマサンゴの年縞,14C年代,屋久杉,小氷期,宮古島 *東京海上日動安心110番(株)**元日本大学文理学部

  • 12―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    この津波石の中にあったハマサンゴ岩塊を研究対

    象とした.

    2.試料の採取と研究方法

    現地調査に先立ち,アジア航測(株)撮影の

    1:7,000デジタル・カラー空中写真を判読し,津

    波石の分布図を作成した.現地調査は 2009年 12

    月 24 ~ 30日と 2010年 2月 23日~ 2月 28日に

    行った.現地調査の際にマイバー浜西部の津波石

    の集積地でレーザー・レベルを使用して地形断面

    測量を行った.最終的に分析試料としたのは,北

    緯 24°43′43″,東経 125°27′0″,標高約 0.5m

    にあった直径 3.1m, 高さ 1.7mのハマサンゴ

    (Porites sp.)岩塊である(写真 2).その中心から

    最外殻部まで連続的に幅 5cmずつ年縞試料を採

    取した.

    このハマサンゴ岩塊については,すでに小元が

    中心部(NU-2104)および最外殻部(NU-2105)

    から試料を採取し, 14C年代と安定同位体比(δ13C)を測定し,暦年代をもとめていた.そして

    最外殻部の暦年代が 1771年明和津波と測定誤差

    範囲に入ることを確認していた.しかし再確認の

    ため白岩は,あらためて採取した試料(NU-

    2105S)について 14C年代測定と安定炭素同位体比

    (δ13C)を測定し,較正(暦)年代をもとめた.現

    地調査で採取した試料は岩石カッターで整形し年

    縞を数え,またノギスを使用して年縞間隔を計測

    した(表 1).

    以上の実験および計測により得られた資料につ

    いて屋久杉の年輪資料と比較し,年縞幅の時系列

    変化の同時性と規模を検討し,1771年明和津波以

    前の気候変動について考察した.

    3.試料の分析

    (1)年縞幅の計測

    採取した試料を厚さ約 1mmのプレパラート状

    に整形したところ,全部で 32枚となった(写真 3).

    年縞間隔を正確に計測するため 20倍の拡大コ

    ピーを準備し,ノギスを用いて年縞幅は 1/10mm

    単位まで計測した.その結果,年縞数は全部で

    227年分あり,また年縞幅の平均値は 2.4mm,最

    大値は 5.6mm(No.224層), 最小値は 0.32mm

    図1 試料を採取した(●印)マイバー浜の位置(国土地理院発行1:25, 000地形図 「東平安名岬」 を改変)

    Fig. 1 Location map indicating surveyed Maibah beach and sampling site (● ) of fossil Porites sp.

  • 13―   ―

    宮古島南東部 , マイバー浜から採取したハマサンゴ化石の年縞分析

    (No.34層)であった(表 1).

    (2)14C年代およびδ13Cの測定

    ハマサンゴ岩塊の最外殻部と中心部から採取し

    た小元の試料(NU-2104およびNU-2105)および

    白岩の試料(NU-2104SおよびNU-2105S)につい

    て,日本大学年代測定室でマニュアル(小元・大

    木,1999;小元,2009)にもとづき 14C年代測定を

    行った.14C年代測定に使用した標準試料はNIST

    (4990C)である.表 2に小元および白岩の測定結

    果を示す.14C年代を補正するため IsoPrime(Micromass社

    製)を使用し試料の安定炭素同位体比(δ 13C)を

    測定した. δ 13Cの校正には IAEA(Standard

    PDB)およびOztechの標準試料(SISCL-1765Cお

    よび SISCL-1788C)を使用した.δ13Cの測定結

    果は, -0.7‰~-1.1‰であり(表 2), Geyh and

    Schleicher (1990)が報告した海洋生物のδ13Cの

    範囲内(+2‰~-2‰)にある .

    (3)14C年代の較正

    conventional age を暦年代に較正するにはma-

    rine reservoir correction( )が不可欠である.

    しかし宮古島の の数値は報告されていない.

    こ の た め 近 隣 の 石 垣 島 の =35± 25yrs

    (Hideshima et al.2001)を使用し, conventional

    ageについてMarine09 (Reimer et al.2009)の較

    正データと CALIB 6.1.0 (Stuiver and Reimer,

    1993, 2009)の較正プログラムを用いて暦年代を

    求めた .その結果を表 2に示す.

     考察

    1.ハマサンゴの暦年代

    小元および白岩が測定した最外殻部の試料

    (NU-2105およびNU-2105S)の暦年代はほぼ同

    じであった(表 2).しかし両者の確率中心値

    (median probability=AD 1717)の暦年代には,

    1771年明和津波の年代と 54年の年代差を生じて

    いる.この原因として,ハマサンゴ岩塊が津波に

    よって運搬された時に最外殻部が剥離した可能性

    (Omoto,2011),14C年代測定時の誤差, の誤

    写真1  試料を採取したマイバー浜西部に散乱する津波石

    Photo 1 Many coral boulders were beached on the west of Maibah beach by past huge tsunamis. Sample was collected from one of large fossil Porites sp.

    写真2  分析試料を採取したハマサンゴ(Porites sp.)化石

    Photo 2 Fossil Porites sp. used for analysis

    写真3  整形したハマサンゴ試料の年縞(試料番号 1~ 22)

    Photo 3 Pretreated Porites sp. samples indicate clear annual bands.

  • 14―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    表2  ハマサンゴ化石の中心部(NU-2104およびNU-2104S)および最外殻部(NU-2105およびNU- 2105S)から採取した試料の 14C年代と較正年代

    Table 2  14C age and calibrated age of center ring (NU-2105 and NU-2104S) and most outside ring (NU-2105 and NU- 2105S) of fossil Porites sp.

    Code No. Sample δ13C Conv. Age Cal Lower Cal Upper Med. Prob. Measured by‰ y BP cal AD cal AD cal AD

    NU-2104 Porites sp. -0.9 462±56 1429 1541 1491 Omoto NU-2104S Porites sp. -1.1 1090±75 1264 1401 1319 Shiraiwa NU-2105 Porites sp. -0.7 627±54 1648 1812 1717 Omoto

    NU-2105S Porites sp. -0.8 628±69 1626 1826 1718 Shiraiwa

    表1 マイバー浜から採取したハマサンゴ試料の年縞番号と年縞幅(mm)Table 1  Consecutive numbers and thickness (mm) of annual bands of fossil Porites sp. collected from

    Maibah beach, SE of Miyako Island

    年縞 幅 (mm) 年縞 幅 (mm) 年縞 幅 (mm) 年縞 幅 (mm) 年縞 幅 (mm) 年縞 幅 (mm)1 2.60 46 3.60 91 3.08 136 2.40 181 3.00 226 3.60 2 2.40 47 2.80 92 3.12 137 3.20 182 2.80 227 5.20 3 3.00 48 3.16 93 1.72 138 3.20 183 2.80 4 1.80 49 3.60 94 1.20 139 3.20 184 2.60 5 1.40 50 3.68 95 2.24 140 2.80 185 2.60 6 1.60 51 4.80 96 2.60 141 2.80 186 3.00 7 3.00 52 2.88 97 1.96 142 3.60 187 3.60 8 0.48 53 2.88 98 2.80 143 2.80 188 2.80 9 1.12 54 2.80 99 1.80 144 2.40 189 2.72

    10 0.80 55 2.80 100 1.20 145 3.60 190 2.96 11 2.00 56 3.80 101 1.08 146 3.20 191 1.76 12 1.92 57 1.12 102 2.20 147 3.25 192 3.04 13 1.80 58 1.40 103 0.80 148 3.20 193 2.80 14 1.00 59 1.40 104 2.68 149 3.20 194 2.80 15 1.00 60 1.40 105 3.12 150 2.40 195 3.20 16 1.80 61 1.20 106 2.52 151 4.00 196 4.00 17 1.12 62 1.12 107 3.12 152 2.40 197 2.80 18 2.00 63 2.80 108 2.20 153 1.60 198 2.80 19 2.60 64 2.60 109 2.00 154 2.40 199 3.20 20 3.00 65 2.20 110 2.00 155 1.62 200 3.60 21 1.80 66 1.36 111 2.20 156 2.60 201 3.60 22 1.80 67 0.92 112 2.16 157 1.80 202 2.20 23 2.40 68 2.00 113 3.32 158 2.40 203 2.20 24 3.00 69 2.72 114 3.20 159 3.00 204 2.20 25 2.08 70 1.76 115 2.80 160 2.80 205 3.60 26 3.00 71 1.20 116 2.60 161 2.60 206 3.20 27 2.00 72 0.96 117 3.00 162 0.40 207 0.80 28 1.68 73 1.80 118 2.00 163 1.20 208 1.60 29 1.00 74 0.92 119 1.48 164 1.92 209 0.80 30 0.80 75 1.48 120 2.80 165 3.20 210 3.00 31 1.40 76 1.20 121 3.20 166 3.20 211 0.80 32 1.80 77 2.76 122 2.20 167 3.60 212 1.60 33 1.64 78 2.80 123 2.40 168 1.20 213 1.60 34 0.32 79 1.72 124 2.00 169 2.80 214 0.80 35 0.80 80 2.40 125 1.76 170 2.80 215 2.40 36 0.80 81 3.68 126 1.84 171 3.40 216 3.60 37 0.84 82 2.20 127 3.20 172 2.80 217 2.80 38 0.80 83 1.52 128 3.16 173 2.80 218 3.60 39 0.84 84 1.72 129 1.20 174 2.80 219 4.00 40 1.12 85 2.00 130 2.40 175 3.75 220 2.40 41 1.56 86 2.40 131 1.60 176 4.80 221 3.20 42 2.80 87 2.80 132 1.60 177 4.82 222 5.20 43 2.40 88 1.12 133 2.00 178 4.00 223 4.00 44 3.20 89 1.64 134 2.80 179 3.60 224 5.60 45 3.68 90 2.36 135 2.40 180 2.40 225 4.00

  • 15―   ―

    宮古島南東部 , マイバー浜から採取したハマサンゴ化石の年縞分析

    暦年代が正しいとすれば,この試料は年縞数から

    西暦 1717年から 1491年まで遡る 227年間の海洋

    情報を記録している.

    2.ハマサンゴの年縞幅の変化

    ハマサンゴの年縞幅は,中心部の 1491年から

    最外殻部の 1717年にかけて狭くなっているよう

    にみえる(図 2).図 2および表 1からハマサンゴ

    の年縞幅が広かったのは, 1491~ 1502年, 1517

    ~ 1523年,1531~ 1532年 ,1539~ 1543年,1567

    年,1601~ 1605年,1626~ 1627年,1662~ 1674

    年頃である.また年縞幅が狭かったのは,1504~

    1511年,1527年,1550年,1555~ 1556年,1584

    ~ 1589年,1615~ 1618年,1629~ 1630年,1642

    ~ 1652年,1656~ 1661年,1677~ 1690年,1701

    ~ 1710年頃を指摘できる.

    この期間で年縞幅の変化が特に大きかった期間

    と変化量は, 1494年の 5.60mmから 1504年の

    差,Calibration Programの誤差などが考えられる .

    一方,中心部から採取した試料の暦年代は,小

    元と白岩で 172年の年代差が生じている.最外殻

    部と中心部との暦年代差は小元の場合は 226年で

    あり,ハマサンゴの全年縞数である 227年とほぼ

    一致している.一方,白岩の場合は 399年であ

    り ,全年縞数と一致しない.また年縞幅の平均値

    に年代差を乗じてもとめたハマサンゴの直径は,

    試料としたハマサンゴ岩塊を大きく上回る.この

    ため中心部の暦年代として小元の測定結果を使用

    する.NU-2104Sの年代が古く出た原因としては

    変質した部分を測定した可能性が考えられる .

    理科年表(国立天文台編, 2007)によると,最

    外殻層の確率中心値を示したAD 1717年前後に

    は大津波の記録は存在しない.以上の考察にもと

    づき,試料としたハマサンゴ岩塊は 1771年明和

    津波によって,礁嶺またはリーフから現在位置ま

    で運搬されて打ち上げられたと判断した.試料の

    図2  ハマサンゴ試料の年縞幅および屋久杉年輪の 5年移動平均値の変化 注: ハマサンゴ試料と屋久杉の年輪が重複しないように , ハマサンゴの年縞を 2倍に拡大している . 屋久杉の資料は増田公明(名古屋大学)からの私信による .

    Fig 2 Comparison of 5-year smoothed spline of annual bands of Porites sp. and Yakusugi (Cryptomeria japonica)

    Note : Figure of Porites sp. is enlarged two times of original one. Tree-ring data was privately proposed for this study by Dr. Ma-suda, Nagoya University.

  • 16―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    候変動にともなう気温や海水温度の変化に敏感に

    追従した様子がうかがえる.年縞幅が相対的に狭

    く気候が寒冷であったと推測される期間は前述の

    11回であり,また年縞幅や年輪幅が大きく気候

    が温暖であったと思われる期間は 8回である.年

    輪幅と年縞幅の拡大期および縮小期は若干ずれて

    いる期間もあるが,おおむね同期しているように

    みえる.

    しかし図 2を詳細にみれば,年輪幅の変化と同

    期しない年縞幅が存在する期間もみられる.たと

    えば 1580年~ 1600年ころの年縞幅の変化と年輪

    幅の変化は対応していないようにみえる.同様な

    期間は, 1640年から 1650年間にも認められる.

    さらに詳細にみれば,屋久杉の年輪幅がハマサン

    ゴの年縞幅よりも相対的に広かったとみえる年代

    は, 1480 ~ 1530年と 1705 ~ 1720年間である.

    一方これとは逆にハマサンゴの年縞幅が屋久杉の

    年輪幅よりも相対的に広かったとみえる年代は,

    1450~ 1570年,1580~ 1595年,1615~ 1620年,

    1640 ~ 1650年および 1675 ~ 1685年間である.

    年輪幅と年縞幅の拡大・縮小の時系列変化,すな

    わち気候の温暖・寒冷が同期しない一因は,屋久

    島が南方系の温暖な気団の影響よりも大陸系の寒

    冷な気団の影響を強く受けたためかもしれない.

    また気候変動にともない生じた気温変化よりも海

    水温度の変化に遅延時間が生じたことを示唆して

    いる可能性も指摘できる.大陸性または海洋性気

    団の支配が生物の成長に影響を及ぼしたかどうか

    は,たとえば生物の安定炭素同位体(δ13C)を測

    定すれば明らかにすることができるであろう.す

    なわち両気団のδ13Cの数値に差異が存在すると

    考えられるからである.

    4.小氷期の気候変動とハマサンゴの年縞幅

    前島 (1984)は,1550年~ 1850年の寒冷期が地

    球規模で起こったことはほぼ事実で,この時期を

    「小氷期」 と呼び,世界の平均気温は現在よりも

    約 1℃低かったと推定した.さらに前島(1994)

    はアルプスの山岳氷河の前進が始まったのは 16

    0.80mmまでの 4.80mmと,1667年の 4.80mmから

    1684年に 0.32mmになった 4.48mmである.ハマ

    サンゴの年縞幅の最小値(0.32mm)は 1684年に

    出現している.一方最大値は 1494年の 5.6mmで

    ある.

    3.ハマサンゴの年縞幅と屋久杉年輪幅の比較

    気候変動により生じた気温の低下は樹木の年輪

    幅を縮小させ,海水温の低下は海洋生物に影響を

    及ぼす.そこで屋久杉の年輪幅とハマサンゴの年

    縞幅を比較し,その同時性と規模について検討し

    た.屋久島は宮古島の北方約 800kmに位置して

    いるが,屋久島も宮古島も熱帯海域から北上する

    黒潮の影響下にある.また屋久杉は過去数千年間

    の年輪を残している.このため屋久杉の年輪幅と

    宮古島のハマサンゴの年縞幅を比較することによ

    り,両地点の気温や水温変化の対比が可能である

    と考えた .

    これを踏まえてハマサンゴ試料の年縞幅と屋久

    杉の年輪幅(増田, 2010:私信)の 5年移動平均

    値を計算して図 2を作成した.年輪は 1720年~

    1480年の期間とし,年縞についてはハマサンゴ

    の最外殻層の暦年代と年縞数にもとづき 1717年

    ~ 1491年までとした.なお年輪に比べて年縞の

    気候変動に対する反応が鈍いことと,グラフの重

    複を考慮し,年縞幅を 2倍に拡大して図示した.

    図 2を概観すれば,年輪幅と年縞幅の変動傾向

    には共通する類似性が認められる.まず年輪幅お

    よび年縞幅ともに年代が新しい方に向かって徐々

    に狭くなっている.この変化はハマサンゴより屋

    久杉において顕著である.この結果は気候が徐々

    に寒冷化したことを示すと同時に,気温の低下に

    比べて海水温の変化が鈍いことを示すと解釈され

    る.図 2のハマサンゴと屋久杉の年縞幅や年輪幅

    の広い年(ピークとピーク)や,間隔の狭い年(バ

    レー(谷)とバレー)が実によく一致しているよ

    うにみえる.したがってハマサンゴの年代測定結

    果は,屋久杉の年代とほぼ整合していると判断さ

    れる.このグラフから,屋久杉やハマサンゴが気

  • 17―   ―

    宮古島南東部 , マイバー浜から採取したハマサンゴ化石の年縞分析

    採取した年縞の 14C年代を較正した結果, 1717

    cal AD(median probability)が得られた.

    2 ハマサンゴ岩塊の最外殻部の年代は, 1771年

    明和津波の年代と完全には一致しなかった.こ

    の原因として,ハマサンゴが津波によって海岸

    に打ち上げられた際に,外殻部分が剥離した可

    能性, 14C年代測定の誤差,Calibration Program

    や の誤差などが考えられる.

    3 ハマサンゴの年縞幅の変化と屋久杉の年輪幅の

    時系列変化には類似性が認められ,両者はとも

    に複数期間にわたり生じた海水温や気温の変動

    ―小氷期の気候変動―をよく反映している.

    4 元禄の飢饉(1702年)以前,西暦 1491年まで

    の間に,低温期間をともなった気候変動が少な

    くとも 11回生じていたことが明らかになった.

    以上の研究成果を踏まえて,今後ハマサンゴ岩

    塊から採取した年縞試料について,酸素同位体比

    (δ18O)分析を行えば, 1717年以前の古水温の変

    動や気候変動についてさらに高精度な解析結果が

    得られるであろう.

    謝辞

    本論は,白岩が卒業研究で行ったハマサンゴの年縞

    分析結果をもとにして,その後に明らかになった新た

    な知見を加えて検討し,その結果を小元がまとめたも

    のである.本研究の概要は,2013年度東北地理学会

    春季学術大会において発表した.

    現地調査にあたり宮古島市文化財審議委員会委員長

    (当時)の安谷屋 昭氏や宮古島市教育委員会の久貝弥

    嗣氏をはじめ,宮古島市教育委員の方々から宮古島の

    自然や文化に関する有意義な助言と研究資料を提供し

    ていただいた.

    名古屋大学太陽地球環境研究所総合解析部門の増田

    公明先生には屋久杉の年輪に関する貴重な資料を提供

    していただいた.日本大学大学院理工学研究科の藁谷

    哲也教授には実験室使用に際し便宜をはかっていただ

    いた.

    マイバー浜のハマサンゴ岩塊の分布図を作成するに

    あたり,アジア航測(株)からデジタル・カラー航空

    写真を提供していただいた.またゼミ生の比企祐介氏

    と渡會晋平氏には,現地調査や実験を手伝っていただ

    世紀後半であり,氷河の顕著な前進期は 1600年,

    1640年,1680年,1770~ 1780年,1820年,1850

    年であり,この時期に寒冷な小氷期があったこと

    が証明されると述べている.一方Bradley and

    Jones (1992)は小氷期の全期間を通じて世界中が

    寒冷であったのではなく,この期間に寒冷期と温

    暖期が地域差をもって何度となく出現したと報告

    している.また三上(2005)は『小氷期は 13世紀

    頃の「中世の温暖期」が終わって寒冷化が始まり,

    15世紀末から 20世紀初頭までの 500年間をいう』

    と定義した.このように小氷期の開始年代や継続

    期間および大きな気温変化の出現頻度には研究者

    によって若干の差異がみられる.

    ハマサンゴの年代である西暦 1491年から 1717

    年までは上記の小氷期に該当し,1702年の元禄の

    飢饉(前島・田上, 1982)が含まれる.図 2を改

    めて見ると,前島(上記)が指摘した 1600年,

    1640年および 1680年頃の年輪幅および年縞幅は ,

    ともに狭くなっている.すなわち気温の低下によ

    り海水温も低下した結果,ハマサンゴの成長が

    鈍ったことを示している.西暦 1491年以降 1717

    年までの間に年縞幅が狭い―低温期―は,前述の

    ように 11回あった.一方小氷期の最中にあって

    比較的温暖であった期間は,8回あった.

    これまで気候変動の復元は花粉分析,年輪間隔

    の変化,堆積物の酸素同位体比(δ18O),安定炭

    素同位体比(δ13C)などの分析結果にもとづいて

    行われてきた.本論は年輪と同様の成長記録を保

    存するハマサンゴの年縞幅の変化にもとづき気候

    変動を明らかにすることが可能であることを実証

    したものであり,その意義は大きい.今後歴史地

    理学の研究者が古文書を解読すれば,本論で指摘

    した低温期の信憑性が実証されるであろう.

     まとめ

    これまでに記載した内容を要約すれば次の通り

    である.

    1 分析試料としてマイバー浜から採取したハマサ

    ンゴ岩塊の年縞は 227年分あり,最外殻部から

  • 18―   ―

    地 理 誌 叢 第55巻 第 1号(2013)

    (2012年7月28日受付)

    (2013年3月16日受理)

    いた.

    以上の方々と本論文の査読者に,篤く御礼を申し上

    げます.

    文  献

    浅海竜司・山田 努・井龍康文(2004)サンゴ骨格の

    Mg/Ca比,Sr/Ca比を用いた古水温復元法の 現場

    と問題点.第四紀研究,43,231-245

    池田すみ子・茅根 創(1994)サンゴ骨格年輪の解析

    による過去の環境の解明.地質ニュース,476,

    17-24.

    小元久仁夫・大木一之 (1999) Windows NT Worksta-

    tion 4.0用全自動 14C年代測定プログラムの開発

    ― 日本大学年代測定報告-6 ―.日本大学文理学

    部自然科学研究所「研究紀要」,34,73-100.

    小元久仁夫(2009)放射性炭素年代測定マニュア

    ル.日本大学文理学部地理学科.

    小元久仁夫(2010)宮古島で観察された石灰華段,津

    波石および膠結海浜砂層の特徴.日本大学文理学

    部自然科学研究所「研究紀要」,45,83-94.

    小元久仁夫(2012)沖縄県宮古島南東部,マイバーバ

    マに打ち上げられた津波石の分布とハマサンゴ化

    石の較正年代.地学雑誌,121(6),1043-1051.小元久仁夫(2013)宮古島南東部,マイバー浜の津波

    石から採取した貝化石の較正年代.第四紀研究,

    52(1),13-18.

    河名俊男(2009a)第2章 地形・地質調査・「天然記念

    物緊急調査報告書(サンゴ礁)」.沖縄県天然記念

    物調査シリーズ 45,沖縄県教育委員会,3-26.

    河名俊男(2009b)宮古・八重山諸島における歴史津

    波の襲来と津波災害―とくに明和津波,1667年

    地震津波,および1500年頃の津波―.日本地理

    学会予稿集,76,3.

    河名俊男(2011)2章 地形・地質.国指定名勝「東平

    安和崎」保存管理計画策定報告書,14-31.

    国立天文台編(2007)理科年表.第81冊.丸善.

    前島郁雄(1984)歴史時代の気候復元―特に小氷期の

    気候について―.地学雑誌,93(7),413-419.

    前島郁雄・田上善夫(1982)中世・近世における気候

    変動と災害.地理,27(12),33-43.

    前島郁雄(1994)小氷期内の気候変動―日本とヨー

    ロッパの研究成果の比較のために―.地理誌叢,

    35(2),1-7.三上岳彦(2005)過去1000年間の気候変動と21世紀

    の気候予測.地学雑誌,114(1),91-96.

    Bradley, R. S. and Jones, P. D. (1992) When was the

    “LITTLE ICE AGE”? In Proceedings of the Interna-

    tional Symposium on the Little Ice Age Climate (ed.

    Mikami, T.). 1-4.

    Geyh, M. A. and Schleicher, H. (1990) Absolute Age De-

    termination. Springer-Verlag.

    Hideshima, S., Matsumoto, E., Abe, O., Kitagawa, H.

    (2001) Northwest Pacific marine reservoir correc-

    tion estimated from annually banded coral from Ish-

    igaki Island, southern Japan. , 43,

    473-476.

    Omoto, K. (2011) The problem of age determination of

    coral boulders deposited by the Meiwa tsunami and

    the time of occurrence of past tsunamis. In LSC

    2010 Advances in Liquid Scintillation Spectrometry.

    Proceedings of the 2010 International Liquid Scintil-

    lation Conference, (ed. Cassette, P.), Radiocarbon,

    Tucson, 139-150

    Reimer, P. J., Baillie, M. G. L., B ard, E., Bayliss, A.,

    Beck, J. W., Blackwell, P/G., Bronk, R. C., Buck, C.

    E., Burr, G. S., Edwards, R. L., Friedrich, M., Groo-

    tes, P. M., Guilderson, T.P ., Hajdas, I., Heaton, T.

    J., Hogg, A. G., Hughen, K. A., Kaiser, K. F.,

    Kromer, B., McCormac, F. G., Manning, S. W., Re-

    imer, R. W., Richards, D. A., Southon, J. R., Talamo,

    S., Turney, C. S. M., van der Plicht, J., Weyhenmey-

    er, C. E. (2009) IntCal09 and Marine09 radiocarbon

    age calibration curves, 0–50,000 years cal BP. -

    diocarbon, 51, 1111–1150.Stuiver, M. and Reimer, P. J. (1993) Extended 14C data

    base and revised CALIB 3.0 14C Age Calibration

    Programme. , 35, 215-230.

    Stuiver, M, and Reimer, P. J. (2009) CALIB 6.0.1. http://calib.

    qub.ac.uk/calib/download/. 2011年8月10日検索

  • 19―   ―

    宮古島南東部 , マイバー浜から採取したハマサンゴ化石の年縞分析

    Analyses of Annual Bands of Fossil Porites sp. Collected from Maibah Beach, Southeast of Miyako Island:

    An Approach to Reconstruct Past Climatic Change

    Mayuko SHIRAIWA* and Kunio OMOTO**

    Key words: annual bands of Porites. sp., 14C age, Yakusugi (Cryptomeria japonica), The Little Ice Age, Miyako Island

    *Tokio Marine & Nichido ANSHIN 110 Co. Ltd.**Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon University, retired

  • 20―   ―

    はじめに

    我が国では,国民の所得水準が上昇し,生活が

    豊かになるとともに,経済的,時間的余裕が生ま

    れ,余暇活動の目的地となる様々なレジャー空間

    が形成された.しかし,経済の低成長や脱工業化

    に加え,人口減少傾向を示す今日,日本は成熟社

    会と呼ばれ,レジャー空間も拡大から成熟・多様

    化へと変化しつつある.

    レジャー施設の立地は消費人口と空間的に対応

    し,大都市に集中している.成熟社会を迎えた近

    年では,経済のサービス化・ソフト化に伴って第

    3次産業のウエイトが高まる中,様々なサービス

    を供給するレジャー施設が立地し,業態が多様化

    している.

    一方,成熟社会における余暇活動をめぐるもう

    一つの大きな変化として,人口構造の変化があ

    る.我が国では急速に高齢化が進み,また生活水

    準の向上や医療技術の進歩等により,平均寿命の

    延伸が著しい.高齢・長寿社会の到来により,元

    気な高齢者が増え,高齢期における自由時間の捉

    え方も変化している.

    一般的に,高齢期は仕事や家事等の労働時間が

    減少する反面,自由時間が増加する.自由時間に

    おいて趣味や娯楽に関する活動も行われる一方,

    元気な高齢者にあっては,壮年期の労働に代わる

    新たな社会的活動への参加が見られる.高齢者の

    就労をめぐる雇用情勢の厳しさや報酬を動機とし

    ない社会貢献意識の高まりから,ボランティア活

    動や地域活動を新たな活動の場に選ぶ高齢者は多

    い.

    全国的にNPOやボランティア団体による社会

    貢献活動は活発化しており,高齢者の活動の機会

    は拡大している.レジャーにおいても社会的弱者

    の余暇支援を目的としたボランティア活動が見ら

    れる.ノーマライゼーションの思潮から,勤労者

    や健常者に限らず,高齢者や障がい者の余暇活動

    の機会をつくる動きが出てきている.レクリエー

    ションに弱者支援活動を加えることで,高齢者や

    障がい者が余暇活動の楽しさを享受してもらうこ

    とで,ボランティアが自己の生きがいを充足する

    ようなホスピタリティのある活動の広がりが期待

    される.

    しかし,高齢者や障がい者といった弱者を対象

    としたレクリエーション活動では以下の課題が指

    摘される.まず,活動の多くが高齢者や障がい者

    向けに開発されたプログラムであり,健常者と活

    動レベルに違いがあること,次に,移動や介助の

    問題から屋内における活動が多く,自然的空間に

    おける野外活動が特に不足していること,そし

    て,自然的空間におけるレクリエーションは能動

    的な活動が多く,活動に対する経験や身体能力の

    欠如が高齢者の活動を阻害する要因となることで

    ある.

    そこで,高齢者や障がい者の余暇活動を支援す

    るにあたり,近年重視されるのが,バリアフリー

    やユニバーサルデザインといった高齢者や障がい

    者など心身にハンディキャップを抱えている人を

    主体に考えたホスピタリティの概念である.ホス

    ピタリティは心温まるおもてなしとされ,経済的

    対価として顧客の欲求を充足させるサービスに対

    し,客人の願望や期待感,意外性に応える付加価

    値を追求する.ホスピタリティの考え方により,

    従来の画一的なサービスでは困難であった高齢者

    や障がい者の余暇活動や社会参加活動の促進が期

    待される.

    以上のことから,本研究では,成熟社会におけ

    るレジャーの変化として,都市的空間におけるレ

    ジャー施設の多様化と,自然的空間における高齢

    高齢社会に向けた都市居住者の余暇活動の

    実態に関する研究

    山登 一輝

    平成24年度 日本大学大学院理工学研究科地理学専攻学位(博士)論文要旨〔課程博士〕

  • 21―   ―

    平成24年度 日本大学大学院理工学研究科地理学専攻学位(博士)論文要旨〔課程博士〕

    者が主体となった高齢者や障がい者の余暇活動の

    支援を行う活動を取り上げた.

    成熟社会における余暇活動の変化

    成熟社会における余暇活動の変化として,大都

    市に見られる余暇活動(レジャー)施設の集中と

    業態の多様化,高齢化による余暇活動の変化があ

    げられる.

    2004年の『中小企業白書』によると,我が国の

    産業構造における実質国内生産額に占める割合

    は, 1960年当時では第一次産業が 16%,第二次

    産業が 32%,第三次産業は 51%であったが,

    2000年になるとそれぞれ 2%,32%,66%と変化

    しており,第三次産業の割合が増している.

    我が国では第三次産業の割合が上昇している

    が,こうした動きを促進している要因として,

    サービス産業の成長があげられる.サービス業の

    伸長とともに第三次産業の割合も増加しており,

    サービス業が産業構造の変化をもたらす要因の一

    つであることがうかがえる.

    また,サービスが伸長を続ける背景には,新し

    い態様のサービス業(ニューサービス)が生じて

    いることもある.日本電信電話株式会社(NTT)

    『タウンページ』に 2000年から 2003年にかけて新

    設された業種を見ると,介護やシルバー人材セン

    ターなど高齢化に関連するものやマンガ喫茶,

    ペット関連サービスなど趣味・余暇活動関連と

    いった生活に身近な業種の多いのが特徴である.

    余暇活動施設の立地は大都市に集中しており,東

    京・大阪・愛知の各都府県の順で多く立地してい

    る.

    成熟社会におけるもう一つの余暇活動の変化と

    して,高齢化による影響があげられる.日本の高

    齢化は,世界に類を見ない速度で進行している.

    少子高齢化に加え,人口減少傾向を示している日

    本において,必然的に人口に占める高齢者の割合

    は増加する.高齢化率が上昇する中で,人口の 4

    分の 1を占めつつある高齢者の活動が社会に与え

    る影響は大きく,高齢者の活動への関心が高まっ

    ている.

    余暇活動において近年重視されるのが,バリア

    フリーやユニバーサルデザインといった高齢者や

    障がい者など心身にハンディキャップを抱えてい

    る人を主体に考えたホスピタリティの概念である.

    年齢や障がいの有無に関係なく活動者を受け入

    れ,楽しんでもらう取り組みは,ホスピタリティ

    の概念に該当する.ホスピタリティの考え方によ

    り,従来の画一的なサービスでは困難であった高

    齢者や障がい者の余暇活動や社会参加活動の促進

    が期待される.

    余暇活動が社会性を帯びる中で,高齢者におい

    ても社会貢献意識の高まりが見られる.1996年

    に全国社会福祉協議会が行った「全国ボランティ

    ア活動実態調査」によると,団体に所属してボラ

    ンティア活動に従事している活動者の 35.1%が

    60~ 69歳,14.5%が 70歳以上であり,約半数を

    60歳以上の高齢者層が占めている.ボランティ

    ア活動を支えるうえで高齢の活動者が大きな位置

    を占めていることがうかがえ,高齢期における余

    暇活動として社会貢献に関わる活動を選択する人

    が増えていることをあらわしている.

    『レジャー白書』(1999)では,このような自由

    時間活動を「主体的かつ自発的で,あくまで個人