第2章 形態統語論的バリエーション - geocities.jp · れぞれblanca, carísima...

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第2章 形態統語論的バリエーション 2.1 アメリカスペイン語の形態統語論的バリエーションに関する研究では、特定の地 域と社会階層において観察される形式と機能の多様性が記述されてきた 1 。地域変 種 の 研 究 ご と に「 当 地 で は こ う 表 現 す る 」と い っ た 報 告 は 提 示 さ れ る も の の 、デ ー タやインフォーマントの質的・量的条件が研究論文ごとに異なるため、各地のスペ イン語変種を単純に比較することはできない。そこで、同一条件下で収集されたデ ータが求められるが、中南米という広大な地域における調査活動は、相当の年月と 費 用 が か か り 、一 人 の 研 究 者 で は 到 底 実 現 が 難 し い 。そ の た め 、地 域 変 種 と 標 準 変 種の比較、または地域変種間の比較といった広域的視点からは十分な考察が行なわ れてこなかった。逆の見方をすれば、そのような広域的観点はスペイン語文法研究 においてあまり重視されてこなかったとも言える。伝統的に、文法研究は標準語(一 般にスペイン・カスティーリャ地方の教養人が話す言葉)を主な研究対象とされて きたからである。文法研究の対象は、言語共同体の成員が共有する言語能力であり、 同時にその共同体が規準として認める運用制約の集合である(ラング: Saussure 1949 )。文法記述は、そのような言語能力を持つ「理想的な」母語話者の言語直感 を文法性判断の基準として行なわれる。ゆえに、一部の地域や社会集団の変種は、 制約集合から外れた、言わば「都合の悪い」例外的事象として除外される傾向にあ った。しかし、本論では、言語体系を標準語と地域変種の総体として捉える。地域 や社会のバリエーションは対象言語の特性のみならず、人間の言語活動の性向をよ りよく理解するための良き材料となると考える。 2.2 先行研究の概要 語彙的バリエーションは、中南米といった広い領域から、局所的な言語共同体に 至るまで、それぞれ異なる変種が複数共存し、分布模様が変容する。その一方、形 態統語論的バリエーションは、村落程度の局地的な空間では通常起こり難く、大抵 は相当規模の領域間で差異が確認できるものである。「閉じた体系」である文法の 1 メキシコ( Lope Blanch 1987, Luna Traill 1978 )、コロンビア( Montes 1963 )、アルゼン チン( Guarnieri 1978 )、ウルグアイ( Elizaincín 1980 )、パラグアイ( Granda 1988 )等。 45

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第2章

形態統語論的バリエーション

2.1 序

アメリカスペイン語の形態統語論的バリエーションに関する研究では、特定の地

域と社会階層において観察される形式と機能の多様性が記述されてきた 1。地域変

種の研究ごとに「当地ではこう表現する」といった報告は提示されるものの、デー

タやインフォーマントの質的・量的条件が研究論文ごとに異なるため、各地のスペ

イン語変種を単純に比較することはできない。そこで、同一条件下で収集されたデ

ータが求められるが、中南米という広大な地域における調査活動は、相当の年月と

費用がかかり、一人の研究者では到底実現が難しい。そのため、地域変種と標準変

種の比較、または地域変種間の比較といった広域的視点からは十分な考察が行なわ

れてこなかった。逆の見方をすれば、そのような広域的観点はスペイン語文法研究

においてあまり重視されてこなかったとも言える。伝統的に、文法研究は標準語(一

般にスペイン・カスティーリャ地方の教養人が話す言葉)を主な研究対象とされて

きたからである。文法研究の対象は、言語共同体の成員が共有する言語能力であり、

同時にその共同体が規準として認める運用制約の集合である(ラング: Saussure

1949)。文法記述は、そのような言語能力を持つ「理想的な」母語話者の言語直感

を文法性判断の基準として行なわれる。ゆえに、一部の地域や社会集団の変種は、

制約集合から外れた、言わば「都合の悪い」例外的事象として除外される傾向にあ

った。しかし、本論では、言語体系を標準語と地域変種の総体として捉える。地域

や社会のバリエーションは対象言語の特性のみならず、人間の言語活動の性向をよ

りよく理解するための良き材料となると考える。

2.2 先行研究の概要

語彙的バリエーションは、中南米といった広い領域から、局所的な言語共同体に

至るまで、それぞれ異なる変種が複数共存し、分布模様が変容する。その一方、形

態統語論的バリエーションは、村落程度の局地的な空間では通常起こり難く、大抵

は相当規模の領域間で差異が確認できるものである。「閉じた体系」である文法の

1 メキシコ(Lope Blanch 1987, Luna Trail l 1978)、コロンビア(Montes 1963)、アルゼンチン(Guarnieri 1978)、ウルグアイ(Elizaincín 1980)、パラグアイ(Granda 1988)等。

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変化には、一定の時間と空間の広がりを必要とするからである。よって、形態統語

論的バリエーション研究の対象領域は、語彙よりも広域的に設定する必要がある。

上述のとおり、スペイン語圏の広域的な形態統語論的バリエーション研究は近年

まで実現が困難であったが、Varilex プロジェクトは、スペイン語圏のほぼ全域を

調査対象に位置づけ、かつ同時期に同一条件の下で収集された言語地理データを提

供している。 2002 年に形態統語論的変種に関する調査(Varilex 10: 2002)が発表

された。その概要を右に記す。調査対象地点は、スペイン・中南米の主要 31 都市

から構成される。所与の変種が特定の性や世代に偏る危険があるため、インフォー

マントは、調査地ごとに、18~ 39 歳と 40~ 80 歳の男女、計四名(以上)により構

成される。インフォーマントの社会階層は中・上流階層(教養層)を原則とする。

メキシコ南部、アンデス山地、パラグアイなどにおける都市部の下流階層や辺境部

には、先住民言語を第一言語、スペイン語を第二言語とするコミュニティーが多数

分布するため、母語としてスペイン語を日常的に話す地域・社会階層の人々を調査

対象とするには都市部の中・上流階層が適当である。質問項目は 176 を数える。本

研究では、その質問に対する回答資料から、主にラプラタ地方の諸地点(ブエノス・

アイレス、モンテビデオほか)において分布が確認されている項目を選定した。し

かし同年の調査では、パラグアイのデータが得られなかった。よって、本研究はそ

の調査データを一部補完する役割を持つ。

二つ目の先行研究としては、Alvar (2001) の言語地図である。調査地点数はパラ

グアイのほぼ全土を網羅する 18 地点、調査項目数は 1415 を数える(パラグアイ西

部の未整備の交通事情を考えると、並々ならぬ調査態勢である)。この言語地図が

示す形態統語論的バリエーションの地域分布を参照し、現地調査前に質問票を作成

するのに問題となりそうな調査項目を選定した。ここで、この調査における手法上

の問題点を二点挙げたい。まず、質問票に記載されている質問文が全て、文脈のな

い単文である点である。時制や法、指示詞など、談話管理の重要な役割を担う文法

範疇に関しては、文脈中に現れる形式または機能を記述するべきである。次の問題

点は、インフォーマントの属性が統一されていないことである。社会階層・年齢・

性別などは、所与のバリエーションが地域的なものなのか、それとも特定の社会層

や年齢層にのみ用いられているものなのかを見定める重要な鍵となる。パラグアイ

はバイリンガル社会であると同時に、社会階層差が大きい。スペイン語の運用力に

も階層間の差異があり、特定のバリエーションが、同一地域内の話者全員により、

同一の位相として用いられるとは限らない。

上記の問題点を考慮に入れ、様々な位相のデータを収集し、言語地図の作成とそ

の分析を行なった。

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2.3 言語地図 2

2.3.1 性

スペイン語の名詞には男性名詞と女性名詞があり、その弁別は語尾によって標

示される。典型的な語尾の形は、男性形が -o、女性形が -a で終わる: chico「男の

子」、 libro「本」; chica「女の子」、mesa「机」。

複数形は、名詞の語尾が母音で終われば -s を付け、子音であれば -es を付加する:

chicos「男の子達」、 árboles「木々」。但し、語末の母音にアクセントが置かれる名

詞はこの規則性から外れ、-s または -es を付ける:bambú > bambúes / bambús「竹」、

rubí > rubíes / rubís「ルビー」。

スペイン語は、他のロマンス諸語と同様、名詞を修飾する冠詞・形容詞が名詞

の性と数に一致する: chico alto「背の高い男の子」、 chicas altas「背の高い女の子

達」。

定冠詞は、下表のとおり、 2 つの性×2 つの数= 4 つの形があり、名詞の性数に

一致したものを前に置く:el (los) chico(s) alto(s)「その背の高い男の子(達)」、la(s)

isla(s) bonita(s)「美しい島(々)」。

単数 複数

男性 el los

女性 la las

多くのスペイン語地域において、以下に示すように、名詞や修飾辞の文法的性に

変異が生じることがある(Vaquero 1998: 13)。

1)スペイン語圏全域的な現象として、語尾が -e や子音で終わる名詞の場合、

男女の揺れが見られる:el/la puente alto/a「橋」;el/la pus amarillo/a「黄色

い膿」。中世では女性形であったが、現代の標準は男性形である。

2)新しい英語借用語、特にコンピュータ用語は文法的性が一定しない(村上

2002: 24): {el / la} internet , web , software , bit 等。

3)ケチュア語やグアラニー語など、文法的性を有さない先住民語の母語話者は、

2 言語地図の作成には、国立国語研究所編『方言文法全国地図』のプログラムとデータを利用した。

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名詞と形容詞の性の一致を行なわないことがある:camisa blanco 「白いシ

ャツ」、Ahora está carísimo la vida. 「今生活費がとても高い」。標準形はそ

れぞれ blanca, carísima である。

このような性数のバリエーションに関する問題について、広域言語地図を解釈し

ながら、パラグアイにおける現状を把握し、標準形と地域異形の勢力分布を考察し

ていきたい。なお、本研究のインフォーマントは教養層のスペイン語母語話者とし

て、性数一致の文法規則は習得しており、書き言葉では標準語法に従っている。よ

って、本節で紹介するデータは話し言葉に関するものである。

定冠詞男性単数形 el +女性名詞

・文法地図 「空腹」 [G01] hambre

この名詞は女性名詞であり、後続の形容詞は女性形 -aをとるが、直前に置かれ

る定冠詞単数形は男性形 elとなるのが規則的である。語頭 a-または ha-( hは無音)

にアクセントが置かれる名詞の場合( e.g., ama [áma], hambre [ámbɾe])、定冠詞

単数形は男性形 elでなければならない 3。

文法地図 G01 を見ると、中南米を含め、スペイン語圏の分布は、全体的にこ

の規範形( el ~ inesperada)が優勢である。一方、スペイン(Madrid や Santander

等)を含む多くのスペイン語話者地域では、形容詞に非規範的な男性形

( inesperado)が選ばれることがあり、全域的に文法的性の揺れが見られる。

パラグアイでは、他のラプラタ地域と同様、冠詞・形容詞とも男性形が優勢

となっており、もはや男性名詞として認識されている。カッコ内の数字の示す

回答者数( 12 人中 11 人)からも、その優位性が理解できる。

el hambre inesperado (11) : el hambre inesperada (1)

(予想外の空腹)

・文法地図 「ワシ」 [G02] águila

女性名詞であるが、語頭 á-にアクセントを置くため、上記 hambre と同じ理由

により、定冠詞単数形が規範的に男性形 el をとり、名詞に後続する形容詞は女

3 中世スペイン語の定冠詞女性形 ela (<羅 illa) が、本文に示したアクセント条件によって elという語形をとっていたことに由来する。

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性形 el águila negra が規範的である。この標準形がスペイン語圏で最も多い分布

を有する。ところが、中南米を中心に、 la águila negra や el águila negro といっ

たバリエーションが標準形と併用されている。パラグアイでは、定冠詞・形容

詞とも男性形であるバリエーションが優勢であり、標準形の回答数を上回る。

el águila negro (8) : el águila negra (3) : la águila negra (1)

(黒いワシ)

・文法地図 「砂糖」 [G03] azúcar

男性名詞であるが、単数形が女性名詞として用いられることがあるため、ほ

とんどのスペイン語地域において、共起する定冠詞や形容詞に文法的性の揺れ

が起きている。パラグアイでは、以下の三つの複合パターンが見られたが、定

冠詞・形容詞共に男性形であるパターンがかなり優勢となっている。

el azúcar refinado (10) : el ~ refinada (1) : la ~ refinada (1)

(精糖)

語末が-o の女性名詞、-a の男性名詞

・文法地図 「ラジオ」 [G04] radio

語尾が -oで終わる名詞であるが、元は女性名詞 radiodifusiónであるため、省略

語とはいえ、修飾する冠詞と形容詞は女性形が規範的である。しかし、中南米

では、語尾による類推 4から定冠詞・形容詞共に男性形が用いられる傾向がある。

一方、そのような中南米の傾向とは別に、パラグアイを含むラプラタ地方は、

スペインと同様、女性形が優勢となっている。次の質問項目では、男女両形が

現れたものの、優勢な語形は女性形である。

la radio hecha en Alemania (8) : el radio hecho en Alemania (3)

(ドイツ製ラジオ)

4 語尾形式による類推はパラグアイの口語スペイン語でよく起こる。その例として、語尾と文法性の一致しないギリシャ語源の名詞 el problema「問題」や el cl ima「天候」は、定冠詞単数形が女性形になることがある: la problema [Halley Mora 1996: 138]。

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・文法地図 「パジャマ」 [G05] piyama(スペイン pijama)

語尾が -a で終わるものの男性名詞であることから、スペインでは、定冠詞・

形容詞とも男性形をとるのが規範的である。中南米では、語尾 -a からの類推に

より、女性形が優勢である。だがラプラタ地方に限っては、スペインと同様、

規範的な男性形が優勢である。

el piyama blanco (11) : la piyama blanca (1)

(白いパジャマ)

以上のように、定冠詞と形容詞の修飾辞が名詞(単数形)の前後を挟む場合、名

詞が本来持つ性に関わらず、二つの修飾辞の性が一致する「簡略化」した形式を

とる傾向が強い。定冠詞と形容詞が異なる形になるよりも、どちらかに統一したほ

うのが話し手にとって出力が易しいためであると考えられる。

男女同形名詞

このタイプの名詞は、女性を指すときに語尾が -a(典型的な女性形標示)に変化

し、語形を創造することがある: huésped > huéspeda(女性客); comediante >

comedianta(女性喜劇役者)。その逆に、 -a で終わる男女同形名詞が男性名詞化す

るバリエーションもある: hipócrita > hipócrito(男性偽善者); pianista > pianisto

(男性ピアニスト)。人間のみならず、動物にも同じ現象が見られる。「ヤギ」を意

味する cabra は、両性通用語であり、性を明示するときは、cabra macho(雄ヤギ)、

cabra hembra(雌ヤギ)というが、ここで雄を指す異形として cabro が起こる。通

常、辞書に掲載される語形が標準形として言語社会内で認められるものの、その選

定基準は編纂者によって異なる。特に中南米で使われる異形は、地域標準か異種か

で評価が地域によって揺れる。よって、広域的視点を持ち、常に最新の状況を見守

る必要がある。以下、パラグアイにおける現地調査データを考察する。

・文法地図 「学生」 [G06] estudiante

男女同形名詞であるが、女学生を意味する女性形 estudianta が中米などで観察

される。スペイン Barcelona にも女性形の分布が見られるが、カタルーニャ語

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estudiant には女性形はなく、同言語の影響というわけではなさそうである。

ラプラタ地方とパラグアイでは、通常女性形は使われない: explicó la

estudiante [Crónica: 9-II-06](その女子学生は説明した)。質問票調査でも、

estudianta の回答が若干あるものの、標準形が優勢である。

la estudiante (10) : la estudianta (2)

・文法地図 「親戚」 [G07] pariente

元来男女同形名詞であるが、前項 estudianta と異なり、女性形 parienta が多く

の地域に普及している。とくに、スペインのセビリア、メキシコのアグアス・

カリエンテス Aguas Calientes、アルゼンチンのブエノス・アイレスなどでは、女

性形が優勢な状況である。

パラグアイでは男性形がまだ優勢であるが、回答数は estudianta よりも増えて

いる。

la pariente (8) : la parienta (4)

・文法地図 「大統領」 [G08] presidente

女性形 la presidenta は、すでに標準スペイン語の語彙に位置づけられる。男性

形 la presidente は主に中南米に分布し、とくにキューバのサンティアゴ、メキシ

コ・シティー、及びコロンビアのメデジンなどにおいて強い勢力を見せる。

ラプラタにおいても、一部の地域において男性形が見られるが、パラグアイ

では全く観察されなかった。

la presidente (0) : la presidenta (12)

その他、面接調査や言語資料において、ministra「大臣」、 intendenta「市長」、

médica「医師」、 abogada「弁護士」、miembra「会員」といった女性形変種も採取

された。なお、スペイン語圏広く分布する la médico や、カリブ海・中米を中心に

分布する la abogado は、ラプラタ地方では観察されない(Varilex 2002: 79)が、今

回の現地調査でも同様の結果であった。

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以上、三つの質問項目の分布について Varilex の広域的データと比較する。これ

まで見てきた女性形の定着度または許容度は、広域的に estudianta < parienta <

presidenta の順で高くなるが、パラグアイでもその傾向に一致している。最下位の

estudianta でさえ若干の回答者が付いていることから、男女同形名詞全般において

女性名詞化が広がっていると考えられる。

人や職業を指示する男女同形名詞に女性形バリエーション 5が増えているのは、

director : directora「部長」や profesor : profesora「教師」などの対立からの「類推」

によるものと考えられる(即ち estudiante : estudianta)。男女同形名詞の例外が減

ることで、男性形・女性形の対立が整理された語彙体系が実現することになる。し

かし、言語の構造的圧力だけが、女性形を生む要因ではないように思える。特に職

業名については、言語外の「社会的要因」として女性の社会進出を挙げたい。社

会で働く女性が増加し、その職業女性を指示する発話機会が日常化すれば、語彙リ

ストに女性形を含めようとする社会的圧力が高まる。

2.3.2 複数形

複数形については、次のような異形が中南米の口語スペイン語において報告され

ている(Vaquero 1998: 15)。

1)最終音節にアクセントのある名詞に対し、複数標示に異形 -ses が付加され

る: cafeses (< café)「コーヒー」、 pieses (< pie)「足」、 teses (< té)「茶」。規

範的には cafés, pies, tés である。

2)語尾の母音が -a で終わる名詞に対し、複数標示が異形 -se となる:gallínase (<

gallina)「雌鳥」、 casase (< casa)「家」。規範的には gallinas, casas である。

3)複数標示 -sが帯気音化または脱落する: lo ( h ) perro ( h ) 「犬」。

以下の言語地図では、特に 1) と 2) の問題について取り上げる。

・文法地図 「ソファー」 [G09] sofá

標準形 sofás がスペイン語圏の全域において優勢である。異形 sofases が、一

部の地域(ニカラグア León とベネズエラ Caracas)のみに分布する。

パラグアイでも標準形が優勢であるが、問題の異形が若干観察された。しか

5 la dependienta「従業員」、 la sirvienta「メイド」、 la taquígrafa「タイピスト」などの異形も中南米ではスペインよりも一般的である(Kany 1970: 24)。

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し、当地での定着度は低くく、稀に口語で現れる程度である。

sofás (9) : sofases (2)

・文法地図 「唐辛子」 [G10] ají

標準形 ajíes が全域で優勢な分布を示す。もう一つの標準形 ajís もまた、ラプ

ラタ地方を除く、広い地域に渡って分布しているが、前者の分布が上回る。

パラグアイでは前者の標準形が優勢である。しかし、他のラプラタ周辺地域

とは異なり、異形 ajises にも若干の分布が見られた。

ajíes (8) : ajís (2) : ajises (1)

・文法地図 「ルビー」 [G11] rubí

標準形 rubíes がスペイン語圏全域に分布する。もう一つの標準形 rubís も同様

に、ほとんどの地域において上記 ajís とほぼ同様の分布を見せる。

パラグアイでは、前者の標準形が後者よりもかなり優勢である。異形 rubises

は、俗語としての回答が若干見られる。

rubíes (8) : rubís (2) : rubises (1)

以上、複数形については、標準形の地盤が強固である。異形の sofases, ajises,

rubises は、ほとんどの地域において現れていない。変化は主に下流階層の話者に

起きている。

このような -ses への音韻変化の要因としては、 sofás など、最終音節にアクセン

トがあり、語末が -s で終わる複数形が、anís (pl. anises)「アニス酒」などの名詞か

らの「類推」により、単数形として認識され、再び複数標示が付加されることと

なったと想定される(Moure 2001: 344)。

このタイプの類推の事例として、英語の cow を挙げる。古英語の cu-cy 「牡牛」

は、音韻変化の原則に従えば、 [kau] - [kai] になるはずであった。しかし、多くの

名詞の複数形が -s を付加して作られるため、類推により cows となった:即ち、

dog : dogs = cow : cows

しかし、本件の場合、規則的な英語の複数形 -s と異なり、不規則なアクセント

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位置を持つ anís 型名詞と同じ形式を有する語彙の数は少ない。よって、sofás など

の複数形に構造的圧力をかけ、それを単数形として変換させるには、量的に不十分

であると思われる。それゆえ異形の勢力が弱いのだと思われる。

2.3.3 限定詞

本節では、定冠詞と指示・所有形容詞をいくつかの統語的環境に置き、機能上の

地域差を考察する。

・文法地図 「指示形容詞の代用現象(グアラニー語の影響として)」 [G12]

パラグアイの先住民語であるグアラニー語には定冠詞がない。そのためか、

スペイン語を第二言語とするグアラニー語話者には、定冠詞の代わりに中称の

指示形容詞を用いる現象が見られる:Esas naranjas paraguayas son siempre muy

dulces. [Vaquero 1988: 16](パラグアイ産のオレンジはいつもとても甘い)。標準

語法では、この統語環境において中称の指示形容詞 esas を総称解釈に用いるこ

とは通常容認されない(問題の主語に総称解釈を与えるならば、定冠詞 las が要

求される)。

では、パラグアイにおいて「第一言語として」のスペイン語話者は、グアラ

ニー語の影響を受けて、指示形容詞を選択するのであろうか。次の質問文の主

語(イタリック体)を総称的に解釈するとき、名詞に付く限定詞は定冠詞と指

示詞のどちらを日常的に用いるか尋ねた。

Compré unas naranjas paraguayas y otras argentinas. {Las (10) : Esas (2)}

paraguayas me encantan.

(私はパラグアイ産とアルゼンチン産のオレンジを何個か買った。パラグ

アイ産のはとても気に入っている。)

回答数が示すとおり、パラグアイでは定冠詞 las が優勢( 10 対 2)であり、した

がって、「第一言語として」のスペイン語話者には定冠詞に関わるグアラニー語

の影響は見られないと言える。しかし、指示形容詞 esas も若干の回答があった。

広域言語地図上でも、定冠詞の優位性があらゆる地点で確認できる一方、グア

ラニー語の統語的影響を受けるはずのないスペイン Madrid やカリブ海域などに

おいて指示詞の分布が若干見られる。

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ところで、この質問文において、指示形容詞の選択が標準的に許される読み

は、その指示詞付きの主語が前文の目的語( unas naranjas paraguayas)を文脈照

応しているときに限られる。一方、定冠詞は文脈照応と総称解釈の両方が可能

である。このことは、次の例文からも明らかである:

El leopardo se escapó anoche. Nos preocupa porque, como se sabe, {el / este}

leopardo es un animal peligroso. [Leonetti 1999: 804]

(ヒョウが昨晩逃げた。私たちは心配しているが、なぜなら、知られてい

るように、{(その)ヒョウ/このヒョウ}は危険な動物だからだ。)

初回に登場する定冠詞句(下線部)は特定のヒョウである。二回目に現れる el

leopardo は前方を照応する読み(そのヒョウは危険…)と、ヒョウを総称する読

み(ヒョウとは危険…)の双方が可能であり、指示が曖昧である。一方、指示

形容詞を選択した場合は、前方の定冠詞句を照応する解釈しか与えられない。

スペイン語の定冠詞はラテン語の指示詞 ille(遠称)が抽象化し、指示対象の

定性を漠然と標示するようになったが、指示詞の持つ直示性を失ったため、文

脈によって指示が曖昧になる。したがって、定冠詞は文脈依存性が高く、上記

質問文のように二つの解釈が得られることになる。

グアラニー語と同様に定冠詞のない日本語では、裸名詞句が定冠詞の総称解

釈に相当することが多い(坂原 2000: 218-219):「月は太陽よりも小さい」( The

moon is smaller than the sun.);「病院では看護婦は医者を助ける」( In a hospital,

the nurse assists the doctor.)。日本語話者と同様に、グアラニー語話者が定冠詞

の代わりに裸名詞(無冠詞句)を用いてもよさそうである。そこをわざわざ中

称の指示詞をもって代用するのには何かの理由がある。そこには定冠詞の語源

から生じる指示詞との結びつきが背景にあると思われる。

問題の指示詞は、(グアラニー語母語話者にとって)元来の文脈照応のみなら

ず、一般的情報を指示し、総称解釈を得るまでに変化した。グアラニー語話者

にとって、母語の文法範疇に存在せず、指示が曖昧で、しかも弱勢の定冠詞は

習得が難しい。むしろ、強勢の指示形容詞に総称機能を持たせたほうが運用が

容易であろう。よって、グアラニー語話者が定冠詞に最も近い定性マーカーと

して指示詞を選択したと考えられる。

・文法地図 「移動・存在動詞と定冠詞」 [G13], [G14]

移動や所在の表現において、話し手自身の casa「家」や escuela「学校」を前

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置詞句内で表現するとき、スペインでは、定冠詞をつけない裸名詞が一般的で

ある: estoy en casa「私は家にいる」(=自宅); voy a escuela「私は学校に行く」

(=自分の所属する学校)。 estar en casa や ir a escuela は一つのイベント情報を

表わす定型表現となる。

言語地図によると、多くの中南米地域において、定冠詞の付く場合と付かな

い場合の両ケースが共存し、揺れが生じているのがわかるが、定冠詞の使用が

一般的(Kany 1970: 39)と言われているとおり、どちらかと言えば、定冠詞付

きが優勢であるように見える(特に、メキシコ Aguas Calientes、グアテマラ、ホ

ンデュラス、ベネズエラなどにおいて)。

ラプラタ地域に注目すると、南米アルゼンチンでは国内でも分布に差がある

のがわかる。首都ブエノス・アイレスは無冠詞が優勢であるが、西部と北西部

では定冠詞付きが支配的である。このように、同一国内でも、問題の定冠詞の

有無に揺れが生じている。パラグアイでは、下記の質問文のとおり、スペイン

やブエノス・アイレスと同様、無冠詞(φ)が定冠詞 la よりも優勢であった。

そして、定冠詞の付いた la casa は、主語の指す人物とは別人の家として解釈さ

れることが多かった。ところが、最も多い回答は、定冠詞の有無に関わる選択

肢ではなく、所有形容詞(mi, su)である。言語地図によると、所有形容詞はド

ミニカ共和国・サンティアゴなどでも分布が記録されているが、パラグアイほ

ど強い勢力を示す地域は見られない。

Voy a {φ (5) : la (0) : mi (9)} casa. [G13]

(私は自宅に行く。)

Está en {φ (5) : la (1) : su (7)} casa. [G14]

(彼は自宅にいる。)

所有形容詞の優位性は話し言葉に限らず、書き言葉でも見られる。むしろ、

パラグアイでは所有形容詞が標準と言える。次の例は、教養層向け新聞の記事

である:

(.. . ) por lo que él me pagó 70 mil guaraníes, tras lo cual yo regresé a mi casa.

[ABC: 15-II-06]

( . . .彼が私に7万グアラニーを支払ってくれたので、その後私は帰宅した。)

このようなパラグアイにおける所有形容詞の優位性の要因について考えると、

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やはり、定冠詞の指示の曖昧性が問題となる。上述のとおり、中南米の多くの

地域では、定冠詞付き副詞句が問題の統語的位置において主語の所有物を指示

するが、パラグアイでは別に特定される人の所有物としての解釈が優先的に導

かれる。定冠詞は漠然と指示対象の定性を標記するが、その不明瞭な指示機能

ゆえに、解釈と生起分布における地域差が生じるわけである(スペインに至っ

ては、特定の指示物にも関わらず、統語環境によって指示対象が明白であるこ

とから定冠詞を不要としている)。よって、パラグアイでは、解釈に曖昧性が伴

う定冠詞や、統語環境に依存するゼロ定冠詞よりも、「直示性」を持つ所有形容

詞のほうが好まれると考えられる。

・文法地図 「再帰動詞と定冠詞」 [G15], [G16]

Me lavo la cara「私は顔を洗う」のような再帰動詞文では、再帰代名詞(me)

が自身の行為を受ける全体(=私自身)を表わし、定冠詞付き名詞句( la cara)

がその部分(=顔)を指す。この標準語法に対して、カリブ海域やベネズエラ

などでは定冠詞の代わりに所有形容詞が用いられることがある:Me corté mi

pelo. [el](私は髪を切った);Me cepillo mis dientes. [los](私は歯を磨く)。

パラグアイの学校文法では、定冠詞の代わりに所有形容詞を使用することは

規範に反するとされている。右記は、スペイン語教科書に掲載されていた標準

語法の文例である: mis dientes cepillo, las uñas me corto [Pandorga: 108](私は歯

を磨き、爪を切る)。この文例では、他動詞 cepillarの目的語には所有形容詞(mis)

が使われ、再帰動詞 cortarseの目的語には定冠詞( las)が修飾しており、規範的

な用法が見られる。

では、話し言葉はどうであろうか。質問票調査の結果、優勢なのは標準語法

の定冠詞であったが、所有形容詞の使用が若干見られる。

Pedro se cortó {el (9) : su (3) :φ (1)} pelo. [G15]

(ペドロは髪を切った。)

Me cepillo{los (9) : mis (3) :φ (0)} dientes. [G16]

(私は歯を磨く。)

口語では、標準語法と地域変種の間で多少の揺れが起こるようである。若干

ながら所有形容詞が選ばれた理由は、前掲の G13・ 14 と同様、その「直示的性

質」が好まれたためであろう。しかし、この統語条件において定冠詞がより好

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まれたということは、再帰動詞の持つ構文情報が影響していると思われる。つ

まり、「目的語が定冠詞を伴うときは主語の所有物を指示する」ということが構

文知識によって明らかになるからである。それ故、本質問項目の統語環境にお

ける定冠詞が前項目(G13・14)に比べて優勢になっているのは、定冠詞句が文

脈に依存することなく、構文レベルで明白に対象を指示できるからと言える。

2.3.4 ボス法( voseo)

ボス法とは、親称の人称代名詞二人称単数形 tú の代わりに vos が用いられる現

象であり、アメリカスペイン語の最も重要な形態統語論的テーマの一つに挙げら

れる。使用地域や位相は地域によって異なる。

現代スペイン標準語の親称は、口語・文語とも tú を用いるトゥ法( tuteo)であ

る。下表にボス法とトゥ法の形式を示す。なお、ボス法の分布する地域において

も、主格以外はトゥ法( tu と te)に従う。

トゥ法

主格 目的格 前置詞格

単数形 tú te ti

複数形 vosotros/tras os vosotros

ボス法

主格 目的格 前置詞格

単数形 vos te vos

複数形 ustedes 6 los, las; les ustedes

上表のとおり、現代に残る vosは単数形であるが、その由来であるラテン語では

複数の話し相手を指す人称代名詞であった。中世スペイン語が以前の混沌とした

状態から言語規範を確立した 12 世紀から 14 世紀の間、語源の二人称複数形の機

能を保ちつつ 7、同時に尊称の二人称単数形として用いられた。一方、ラテン語か

6 アメリカスペイン語では、二人称複数の人称代名詞 vosotrosと動詞活用が日常語から排除された。人称代名詞は ustedesを代用し、活用には三人称複数形を割り当てた。 7 次例の (a) vosは前の目的格代名詞二人称複数形 osに呼応する: yo os he sustentado a vos

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ら継承した親称の単数形 túは、目下の者・下男・子供に向けて使われていた。 13

世紀頃、語尾に -otros「他の人達の」が添加した新形 vosotrosが現れると、 vosの複

数形としての立場が失われた。 15 世紀から 16 世紀にかけ、 vosの尊称用法は継続

していたが、大衆の間に普及し使い古されたことで、貴族社会では待遇表現とし

ての価値が低下し、その代替表現として vuestra merced(<「あなたの恵み」)が使

われ始めた(この複合形が縮約し、現在の尊称 ustedとなる)。17 世紀になると、vos

は親称の二人称単数形として用いられるが、それも túの勢力に敗れ、やがてイベリ

ア半島から消失していった。

アメリカ大陸に vos が持ち込まれたのは、尊称としての価値が失われていく時代

である。出身地の異なる入植者同士が親しくない相手を呼ぶとき、貴族に対して

使う vuestra merced や、家族・友人・目下の者に使う tú よりも、まだある程度の

敬意を保持していた vos を使用するほうのが相手に対して失礼にあたらず、適当で

あったと考えられる(三好 1995: 598)。

現在、ボス法が一般的である主な地域は、メキシコ南部(タバスコ州、チアパ

ス州)、中米(グアテマラ、ホンデュラス、エル・サルバドル、ニカラグア、コ

スタリカ)、並びにラプラタ地方である。これらの地域では、あらゆる社会階層の

話し言葉において、ボス法がほぼ独占的に用いられる。

ボス法とトゥ法が共存する地域は、中米パナマ(地方部)、並びにコロンビア 8、

ベネズエラ、エクアドル、ボリビア(南部)、チリなどのアンデス高地である。こ

の地域においてボス法を用いる人々は主に下流階層に属する。これらの国々の低

地・海岸部ではボス法は消え、トゥ法に代わった(Zamora Vicente 1996: 400)。

ボス法のない地域は、メキシコ(南部を除く)、カリブ海域、及びペルーである。

この地域グループは、植民地時代に副王領の中心部または主要な港湾都市であっ

たため、スペインにおけるボス法の後退がその後波及した。反対に、上記のボス

法の優勢地域は王国の辺境地であったため、スペインからの言語波が及ばなかっ

た。チョイ(Choi 1998: 82)はこの地理的・歴史的背景を、パラグアイにおいてボ

ス法が存続してきた理由に挙げている。

現代のボス法は、上述のとおり、親しい人間関係で用いられるが、地域によっ

て使用する社会階層が異なる。ラプラタ地方や中米などでは、社会階層を問わず

用いられるが、チリ及びコロンビア高地の都市部などでは、下流階層の俗語であ

り、中・上流階層ではトゥ法が優勢である。

ボス法は人称代名詞のみならず、動詞の直説法現在及び命令法の二人称単数形

[Quevedo 1626, El Buscón](私は君たちを支えてきた)(拙訳)。 8 浦和( 1987: 494)の調査によると、コロンビア・ボゴタ市内ではほとんど voseoを聞くことがないが、現代人の会話でも時折古語法として用いられる。

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にも関わる。その起源は、vos が元々二人称複数形であったことから、その複数形

がボス法では二人称単数形として受け継がれた(括弧内は標準スペイン語の二人

称複数形)。

直説法現在形: sos (< sois), cantás (< cantáis), tenés (< tenéis), vivís (< vivís)

命令形: cantá (< cantad), tené (< tened), viví (< vivid)

中米やアンデス山地などでは、人称代名詞と動詞のボス法がトゥ法と混交する

ことがある。

人称代名詞 voseo+動詞活用 tuteo: vos cantas, vos quieres

人称代名詞 tuteo+動詞活用 voseo: tú cantás, tú querés

地理的分布

人称代名詞及び動詞のボス法について、近年の Varilex データに基づく広域言語

地図を解釈し、同時にパラグアイでの質問票調査データを分析する。

・文法地図 「人称代名詞 vos」 [G17]

人称代名詞 vos の分布は、言語地図で示すとおり、中米、コロンビア、ラプラ

タ地方において観察される(地図には印されていないが、上記のとおり、メキ

シコ南部やチリなども分布域である)。中米は全体的に標準形との共存型である

が、エル・サルバドルはボス法の勢力が比較的弱いようである。最も活発な voseo

領域は、パラグアイを含むラプラタ地方である。

標準スペイン語では主格 tú の前置詞格として ti という個別の形式があるが、

パラグアイの口語スペイン語では前置詞と共起する場合でも vos が優位である。

Te traen un libro para { vos (11) / ti (1)}.

(君に本を一冊持ってくる。)

Esta carta es para { vos (11) / ti (1)}.

(この手紙は君宛てだ。)

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{A vos (11) : A ti (1)}, ¿qué te importa eso?

(お前に関係ないじゃないか)

但し、前置詞 con との組合せでは、ボス法の con vos ではなく、トゥ法の contigo

が使われる:toda para vos solita, mamá .. . Va a vivir contigo「全て君一人のため...

君と一緒に住むでしょう」(大衆文学 Halley Mora 1996: 115);Llevá la música

contigo「音楽を携帯しよう」(広告文)。

・文法地図 「動詞ボス法 平叙文」 [G18]

直説法現在・二人称単数形のボス法は、人称代名詞とほぼ同一地域において

観察される。中米はトゥ法と共存しているが、エル・サルバドルではボス法の

勢力が弱まっているようである。コロンビアではアンデス高地の都市メデジン

に分布が見られる。

ラプラタ地方では、パラグアイを含め、ボス法が一般的であり、ほとんどの

動詞に適用される:(ボス法-トゥ法) negás - niegas「否定する」、 aprendés -

aprendes「学ぶ」、sabés - sabes「知る」、decís - dices「言う」、 te sentís - te sientes

「感じる」等。

中米及びアルゼンチンでは、「人称代名詞+動詞」の組合せにおいてトゥ法と

ボス法の混交( tú cantás と vos cantas)が見られるが、パラグアイでは、以下の

とおり、全く観察されなかった。

{Tú cantas (2) / Vos cantás (10) / Tú cantás (0) / Vos cantas (0)} bien.

(君は上手に歌う。)

・文法地図 「動詞ボス法」 [G19]

動詞ボス法の現れる統語的位置にも若干の地域差がある。ニカラグアやウル

グアイは、平叙文と同様、感嘆文でも専らボス法( hablás)が用いられる。その

一方、パラグアイは、平叙文ではボス法がトゥ法( hablas)よりも優勢であるも

のの、感嘆文ではトゥ法と共立する結果となった。

¡Qué bien { hablas (7) : hablás (5)} en inglés!

(君はなんて上手に英語で話すんだ!)

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・文法地図 「動詞ボス法 命令形」 [G20]

命令形は、ほとんどのボス法分布域においてトゥ法と共立する。パラグアイ

も同様であるが、ボス法( hablés)の分布がやや優位である。

{¡Cálla te! No hables . (4) : ¡Calla te! No hablés . (8)}

(だまれ!話すな。)

なお、人称代名詞と同様、動詞形式においても、自分の子供などを叱るとき

には、相手との心理的距離を置くため、待遇表現として usted に対する命令形(三

人称単数形)を意図的に使うことがある:(ペットの猿に対して)¡Cállese , Guido,

mono de mierda! [Roa Bastos 1994: 59]「黙りなさい、ギド、クソ猿!」。

本研究では、上記の面接調査にくわえ、パラグアイにおける日常的な言語景観を

記録した。動詞ボス法は、以下の事例のとおり、街の小売店から大手企業に至るま

で、多くの宣伝文句に見られる。ボス法の口語調を通じて消費者に親近感を与え、

購買意欲を高める効果を狙ったものと思われる。

・スーパーマーケット

¡Acordáte! 「決めてしまおう!」

Adquirí un vale de compra. 「買い物クーポンを獲得してね」

・ガソリンスタンド

Cambiá el aceite aquí. 「ここでオイルを交換してね」

・コンビニエンスストア

Armá tu Súper Pancho 9 . 「君のスーパーホットドックを盛り付けてね」

・電話会社

Activá aquí tu teléfono celular. 「ここで君の携帯電話を更新してね」

・新聞社(大衆向け)

Todo lo que necesitás saber. 「君が知らなければならない全て」

以上見てきたとおり、ボス法は人称代名詞と動詞活用に関するバリエーションで

9 pan「パン」と chorizo「ソーセージ」の頭字語。

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あるが、代名詞と活用で分布が一致しない地点がある(例えば中米エル・サルバド

ルは人称代名詞 vos は分布しても動詞ボス法の弱体化が見られる)。スペイン語の

人称代名詞は通常文法範疇に入れられるが、 usted のように普通名詞を語源に持つ

ものを含むという語彙的性質を併せ持ち、時代によって栄枯盛衰がある。一方、動

詞の活用は持続的な「閉じた体系」であり、たとえ語形や機能に変化が起こるにし

ても、一定の長い歳月を要する。

“Voseo”という名称から人称代名詞 vos が表立つが、ボス法の地域分布を比較

するには、時代によって入れ替わりの起こりやすい人称代名詞より、むしろ安定的

に継承される動詞活用のほうが重要な物差しになると思われる。そうした考えに立

脚すると、「主語人称代名詞+動詞」におけるボス法・トゥ法の混交は、ボス法の

勢力分布を探る上で重要な鍵となる。つまり、主語に人称代名詞 vos が生起すれば、

動詞もボス法に従ってよさそうであるが、そこにトゥ法が来るということは、動詞

トゥ法がボス法の領域に侵入していることを示しているのではなかろうか。

言語地図 G18 の示すとおり、中米のボス法分布域では、動詞トゥ法との混交が

進んでおり、将来的に動詞ボス法の勢力が弱まり、標準語法であるトゥ法の伝播波

に押されるかもしれない。一方パラグアイでは、動詞ボス法の分布がトゥ法を勝り、

同時に問題の混交が全く観察されていない。よって、パラグアイのボス法は、今後

とも勢力を保持し続けるのではないかと考えられる。

社会的分布

ラプラタ地方における親しい者同士の会話では、社会階層を問わず、二人称代名

詞 vos が愛用される。Elizaincín (1980) は、ウルグアイの首都モンテビデオにおい

て、学校や職場などの様々な社会状況による人称代名詞の使い分けについて調査し

た。それによると、 vos は友人関係で使い、やや目上の人(生徒と教師など)には

vos と usted を併用する。社会的地位が著しく上位にある相手(生徒と学長など)

には usted を用いる。tú は同等レベルの関係(教員と事務員の間など)において使

われるが、その社会関係でも大抵 usted が好まれる、と報告する。

パラグアイの作家、ロア・バストス(Roa Bastos 1974)では、主役の独裁者が従

者達を tú で呼んでいる。その従者達は、独裁者にとって人間関係が浅く、社会的

に下位の者である。一方、孤独の独裁者が唯一心を開く友人に対しては vos を用い

る:

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・トゥ法(従者に対して)

¿Has oído tú algo de Atenas? [p.133]

(君はアテネについて何か聞いているか?)

・ボス法(友人に対して)

Vos nunca más vas a ser libre. [p.335]

(お前はもう決して自由にならないだろう。)

本研究では、パラグアイの様々な日常会話場面における二人称主格代名詞の使

用状況について、被験者 12 名(スペイン語を第一言語とする中・上級階層)にア

ンケート調査を行なった。その結果を下に示す。

0% 20% 40% 60% 80% 100%

初対面(年上)

部下⇒上司(社内)

上司⇒部下(社外)

若者⇒年配者

生徒⇒先生

年配者⇒若者

初対面(年下)

初対面(同世代)

先生⇒生徒

上司⇒部下(社内)

上司⇒部下(社外)

家族

友人

vos

usted

図 2-1 二人称主格代名詞の会話場面別使用状況

「友人」との会話は、専ら vos が使用される場面である。usted や tú は基本的に

使われない。

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「家族」との会話では年齢に関係なく vos で呼び合う。特殊なケースとして、親

が子供を叱る際、心理的に距離感を置くために usted( 8%)を使うことがある。

「職場」では、上司は部下を vos( 92%)で呼ぶのが一般的である。丁寧に usted

( 17%)を使うこともあるが、一般的な職場では tú は基本的に用いない。一方、

部下が上司に対するときは、通常 usted( 92%)で呼ぶが、職場を離れた私的場面

で vos( 8%)に代えるケースが若干ある。

「学校」では、教師は生徒を大抵 vos( 83%)で呼ぶ。生徒を指導・叱咤する場

面では、丁寧な態度を保ちつつ、一時的に人間関係の距離を置く目的で usted( 33%)

を使うことがある。生徒を tú( 17%)で呼ぶのは、指導者としての威厳を冷たく示

すときである。一方、生徒が先生を呼ぶときは尊称の usted( 67%)の使用が最も

多い。 vos( 33%)も若干観察されるが、高齢の教師の中にはこれに不快感を覚え

る者もおり、その許容度には世代間のギャップが見られる。

「初対面」では、自分より年下や同世代の相手には主に vos( 75%)を用いる。

相手が年下でも usted( 17%)を使うことも少なくない。最も少ないのが tú( 8%)

である。一方、年上の人には専ら尊称 usted が使われる。

「家族以外の知り合い」と話すとき、年配者は若者に対して vos( 58%)で呼ぶ

が友人と話すときほど一般的ではない。usted や tú(共に 17%)を使うこともある。

一方、若者は年配者を敬い usted( 67%)を使うが、かなり親しい間柄であれば vos

( 25%)を用いることもある。

このように、使用する人称代名詞によって、パラグアイ人の人間関係の距離や、

話し相手に対する尊敬や親愛などの態度の使い分けが理解できる。

尊称 usted は、目上の人に対する待遇表現であり、文書・口頭の双方で用いられ

る。職場や目上の人との初対面など、気を遣う発話場面に登場するが、パラグア

イ人の usted の使用には、スペイン人が感じるような「堅苦しさ」はそれほどなく、

素朴に相手への敬意を表わす。

親称の tú は、ときに口頭でも目下の相手に対して使われることがあり、また、

アスンシオンの上流階層のスペイン語モノリンガルが交わす日常会話にも現れる

が、基本的に書き言葉である点においてスペインやその他のトゥ法領域と異なる。

最後に、問題の vos は、友人や家族などの身近な相手、言語社会で同等以下の相

手に使う口語の親称であり、パラグアイ人にとって気取らない会話場面で現れる。

そしてパラグアイでは、これらのスペイン語系人称代名詞に加えて、話し相手

がグアラニー語のバイリンガルであれば、二人称単数の俗語的親称として、グア

ラニー語の人称代名詞 nde がスペイン語会話で用いられることがある。

会話資料より:

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masiado puta ya sos nde (標準形 demasiado puta ya eres tú)

(あまりに馬鹿だよ、お前は)

ここで、四つの人称代名詞を下表にまとめる(上記のとおり複数形は全て ustedes

が対応する)。

親称 尊称

(文語) (口語) (俗語)

usted tú vos nde

人称代名詞が tú と usted の対立しかないスペインでは、尊称の usted が相手に堅

苦しい印象を与えるため、初対面の相手に対しても、 tú を用いて話す( tutear)こ

との許される人間関係が中南米よりも早く構築される傾向がある(西川 1995: 107)。

つまり、スペイン人にとって tú は相手に対する親しみの情を表わす言語手段であ

り、 usted で呼ぶ関係からいち早く脱却することが好しとされる。

人称代名詞は対人関係に関わる「社会的価値観」が大いに反映される言語形式

である。したがって、ボス法の社会的浸透度もまた人称代名詞に対する言語共同

体の見方に依存する。例えばチリでは、ボス法が世俗的表現として蔑視され、矯

正すべき話法として、学校教育を通じ撤廃運動が展開された。そのことによって、

現代チリの教養スペイン語では書面のみならず、口頭でさえトゥ法に代わってい

る 10。同じことがコロンビアでも起き、一部の高地を除くほとんどの地域において

トゥ法がボス法を追い出している。

逆にラプラタ地方では、地域の言語的特徴を示す文化的財産としてボス法が他

地域よりも愛用されている(しかし、新聞や文学など、社会的に権威のある書き

言葉はトゥ法に従う)。特にアルゼンチンは、1816 年スペインから独立後、旧宗主

国との政治的・文化的差別化を図る「政治的目的」から、その言語的象徴として

ボス法が重視された。アルゼンチンのみならず、ラプラタ地方一帯ではボス法に

対する肯定的態度が現在もなお続いている。

チリのケースが示すとおり、言語の保護・改新における「教育」の役割は小さ

くない。パラグアイの学校教育では、ボス法を口語の地域変種として容認し、教

養語・文語としてのトゥ法と区別する 11。上記アンケート調査においても、言葉使

10 しかし、本文で述べたとおり、下流階層の俗語として残存した。また、東部の山間部は、国境を接するアルゼンチンからの影響を受け、親称として優勢な分布を有する(Bello 1850: 711) 1 1 中等スペイン語教科書 Lectura y Comunicación (p.90) の解説文より抜粋:lengua regional “vos sos” = lengua culta “tú eres”「地域語 “vos sos”=教養語 “tú eres”」;tú y vosotros se emplea

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いの模範である教師が生徒を vosで呼ぶという結果が得られている。

また、現代社会において「メディア」が言語(特に新語)の伝播に及ぼす影響

力は無視できない。テレビ・ラジオを通じて現地人同士の会話を聞くことができ

るが、その典型である視聴者参加型番組における会話はボス法で交わされるのが

一般的であり、トゥ法を耳にすることはほとんどない。その一方で、文学や新聞

などの教養層向けの出版物では、友人間の対話文でも通常トゥ法が用いられる。

このようにパラグアイでは、ボス法=口語、トゥ法=文語という文体面での線

引きが極めて明瞭である。人称代名詞の弁別は社会規範に従い、その使用区分は

学校教育やメディアによって公的に維持されており、一方が他方の領域を侵食す

ることに対する抑止力として働いている。

2.3.5 レ代用法( leísmo)

標準スペイン語における目的格人称代名詞の三人称単数形・複数形には、直接目

的格と間接目的格がある。前者は性数により四つの語形がある。間接目的格は数に

よる語形の区別しかなく、男女同形である。

直接目的格 間接目的格

単数 複数 単数 複数

男性 lo los

女性 la las le les

この体系と形式はラテン語が起源である: illum > lo , illam > la , illōs > los , illās

> las ; illī > le , i l līs > les。

生起する統語的位置は、活用した動詞の直前に置くか、または不定詞、現在分詞、

肯定命令形の語尾に連結する。

Lo quiero mucho . (私は彼をとても愛している。)

Voy a comprar lo . (私はそれを買うつもりだ。)

Va haciéndo lo . (彼はそれを行なっていく。)

Haz lo . (それをしなさい。)

sólo en la lengua culta o en el lenguaje escri to.「 túと vosotrosは教養語または書き言葉でのみ使用される」。また、ボス法からトゥ法への書き換え練習を課している。

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また、目的語(人を指す語には前置詞 a で標示する)が文の主題として文頭に生

起したとき、それを照応する人称代名詞が重複的に動詞の前に置かれる:

A José le dio un sueño . (ホセは眠くなった。)

Este libro lo tengo en casa . (この本は私が家に持っている。)

本節のテーマであるレ代用法とは、人(典型的に usted で指す男性単数)を人称

代名詞によって指すときに直接目的格 lo の代わりに間接目的格 le が用いられる現

象である。その発生には次に述べる二つの類推が作用したと考えられている

(Lapesa 1997: 405)。

スペイン語では、直接・間接目的語が人であるとき前置詞 a によって標示し、事

物と区別する: llevo {a usted / una maleta}(あなたを連れていく / スーツケースを

持っていく)。その意図と基本的に類似しており、 le が人、 lo が事物であると類推

された。

また、直接目的格男性形 loは中性形 12と同形である。次に示すように代名詞の文

法性の体系(男性形 -e、女性形 -a、中性形 -o)に整合し、同音意義を避けるために

leに変化した。

代名詞 男性形 女性形 中性形

指示代名詞(近称)

直接目的格代名詞

este

lo > le

esta

la

esto

lo

スペインにおけるレ代用法の歴史は中世に端を発する。 16 世紀北部・中部の作

家(Cervantes, Lope, Quevedo等)が人にも物にも頻繁に用いた。 18 世紀になると

同地域において一般化し、それが現代に引き継がれている(Lapesa 1997: 405)。と

ころが、スペイン南部ではレ代用法が起こらなかった。そして、植民時代にアンダ

ルシア地方からの移民の多かった中南米でも同様に、大部分の地域においてレ代用

法は見られない 13(三好 2006: 110)。スペイン語圏全体から見ればレ代用法は地域

変種の一つに過ぎないが、その分布域に言語中心地であるカスティーリャ地方が含

まれ、同地方の教養人の間で使われてきたことから、王立アカデミーは人を指示す

るレ代用法のみを認めている(Real Academia Española 2006)。

パラグアイは中南米では例外的にレ代用法の使用地域である。その歴史は植民時

1 2 中性形 loは前出の命題内容を照応したり、抽象的な事柄、漠然とした状況などを指す:e.g. , No lo entiendo.「そのことがわからない」; Lo pasamos bien.「楽しく過ごした」。 1 3 中南米でも手紙文の定型表現に例外的に見られる: Le saluda atentamente(敬具)。

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代に遡り、スペイン人移住者の出身地と大きく関わりを持つ。副王領パラグアイ

県に来たスペイン系移民の多くは、イベリア半島北西部の出身者であった(Granda

1988: 213, Alvar 2001: 307)。その子孫であるラプラタ出身の歴史家グスマン(Ruy

Díaz de Guzmán)によって書かれた年代記(通称『La Argentina』)を読むと、先祖

から継承されたレ代用法を確認できる:

. . . y teniendo comunicación con los naturales, le recibieron con buen

acogimiento, . . . [Guzman 1612: 2]

(そして現地人と話していると、彼は歓待された。)

それからおよそ三世紀後に執筆されたアサラ(Félix de Azara 14)の『パラグアイ

及びラプラタ河の記述と歴史』(Descripción é historia del Paraguay y del Río de la

Plata)においてもレ代用法が観察される:

Apenas nace un niño entre los campestres, le toma su padre ó hermano, y le lleva

delante á caballo por el campo .. . [Azara 1847: 307]

(農民の間に子が生まれると、父親か兄がその子を抱え、馬に乗せて野原に

連れ出す。)

スペイン統治時代に持ち込まれたレ代用法が現代パラグアイに残存した要因と

しては、同国が地理的に南米の辺境地にあり、しかも独裁政権の鎖国時代が長年続

き、外国との交流が少なかったという地理的・政治的理由が考えられる(Granda

1988: 229)。

本節では、Varilex 10 の広域データに基づき、現代スペイン語圏の地域分布と比

較しながら、パラグアイの口語スペイン語におけるレ代用法の現状を分析したい。

上記のとおり、目的格代名詞の語順は単一ではないため、Varilex 10 の調査結果を

参考にし、レ代用法の生起する統語条件を3つのタイプに分けて考察する。

タイプ1:活用動詞 saludó「挨拶した」の前(G21~23)

・文法地図 「男性単数」 [G21]

直接目的語が男性単数である場合、レ代用法はスペインのみならず中南米の

1 4 Azaraは、国王の命令を受け、 1781 年にスペインからラプラタ副王領に来た。年代記はアスンシオン政府に提出され、当時の教養層の間で広く読まれた。

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広い地域に分布している。ラプラタ地方ではその勢力が比較的弱いが、パラグ

アイでは例外的に優勢である。

Juan { le (10) : lo (2)} saludó muy amistosamente. [=al profesor]

(フアンは彼「=先生」にとても好意的に挨拶した。)

さらに、人からモノへと指示対象の拡張した事例がエンカルナシオンにおい

て観察された 15:Vi un libro y le compré(私は一冊の本を見て、それを買った)。

・文法地図 「男性複数」 [G22]

G21 の文の目的語を男性複数に替えた場合、レ代用法はスペインやメキシコなど

で観察されるが、キューバ・コロンビアなどでは分布が消える。パラグアイで

は、相変わらずレ代用法が優勢であるが、直接目的格 los の分布が増える。

Juan { les (6) : le (2) : los (6)} saludó .. . [=a los profesores]

(フアンは彼ら「=先生達」に . . .挨拶した。)

この質問文では、数の一致によって複数形 lesが起こるべきところで単数形 leが生

起している。この現象は、スペインや中南米の文献において中世から記録され

ている。その変化の理由には三つの説がある:間接目的格代名詞の三人称不変

化形 se 16 による類推(Kany 1970: 139)、複数形の省略による形態論的単純化

(Granda 1988: 240)、音韻現象としての語末 /-s/の脱落(Choi 1998: 111)。

次はパラグアイの大衆紙の例であるが、代名詞単数形は後続の複数名詞を照

応している: ella se subió al escenario para dedicar le a los chicos un bailecito

[Popular: 6-II-06](彼女は男の子達にダンスを捧げるために舞台に登った)。同様

に、質問票調査でも、間接目的格代名詞は複数形よりも単数形が優位であった。

Juan { le (9) : les (4)} envió un paquete a sus padres .

(フアンは両親に小包を送った。)

Antonio {le (7) : les (6)} explica la solución a sus alumnos . 1 5 当該事例はAlvar (2001:307) の言語地図でもエンカルナシオンでの分布が記録されている。 1 6 間接目的格代名詞 le(s)は後続に直接目的語 lo(s), la(s)が生起すると、不変化形 seに替わる: se lo doy「彼・彼女・あなた(達)にそれをあげる」。

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(アントニオは生徒たちに解答を説明する。)

この二つの例文のように、間接目的語が文中に明示されているのであれば、そ

れを照応する代名詞は余剰的・付録的な要素である。数の一致を喪失した恰好

で格標識が現れるのは、スペイン語の動詞が目的格代名詞弱勢形との共起を好

み、形式的な与格・対格標識として後続に目的語が生起することを予告する役

割があるのではないか。そして、格標識化により数の概念が失われれば、語末 /-s/

の脱落は一層助長されよう。

・文法地図 「女性単数」 [G23]

女性名詞を照応するとき、標準的な直接目的格代名詞女性形 la が優勢である。

とくにマドリードではレ代用法の分布が消失する。しかし、スペインのサンタ

ンデール、メキシコ、グアテマラ、ホンデュラス、及びパラグアイなどにおい

て分布が認められる。なかでもパラグアイでの勢力は直接目的格 la に対して大

きく劣らない。

Juan { le (5) : la (8)} saludó .. . [=a la profesora] [G23]

(フアンは彼女に「=女性の先生」に . . .挨拶した。)

Juan { les (5) : las (8)} saludó .. . [=a las profesoras]

(フアンは彼女達に「=女性の先生達」に . . .挨拶した。)

タイプ2:不定詞 invitar の接辞として(G24~26)

・文法地図 「男性単数」 [G24]

この統語的位置では、スペイン語圏全域的に、タイプ1よりもレ代用法の分

布が減少する。人称代名詞の照応する直接目的語が男性であるとき、スペイン

東部、メキシコ・中米・カリブなどでは、直接目的格が優勢となる。さらにパ

ラグアイを除くラプラタ地方では、レ代用法はほとんど観察されない。この統

語的位置においてレ代用法が優勢である地域は、スペイン・マドリード以西と

パラグアイに限られる。

Tenemos el gusto de invitar{-le (8) : - lo (4)} a esta fiesta. [= a don Pedro]

(私たちは喜んで彼「=ペドロ氏」をこのパーティーに招待する。)

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・文法地図 「男性複数」 [G25]

男性名詞の複数形を照応する場合、広域的にはレ代用法の分布が単数形の場

合とほとんど変わらないが、その傾向とは別に、パラグアイではレ代用法の分

布勢力が強くなる。

Tenemos el gusto de invitar{- les (11) : - los (2)} a esta fiesta. [= a los señores

Mendoza]

(...彼ら「=メンドーサ夫妻」を招待する。)

・文法地図 「女性単数」 [G26]

女性名詞を照応する場合、レ代用法領域でさえ直接目的格 la が優勢である。

それにも関わらず、パラグアイではレ代用法が勢力を残し、ほぼ同じ割合で用

いられている。

Tenemos el gusto de invitar{-le (5) : - la (6)} a esta fiesta. [=a doña Inés]

(...彼女「=イネスさん」を招待する。)

以下のように、複数形では lo の回答が増えるが、レ代用法の分布はほとんど

衰えていない。

Tenemos el gusto de invitar{- les (5) : - las (9)} a esta fiesta. [=a las hermanas

Mendoza]

(...彼女ら「=メンドーサ姉妹」を招待する。)

タイプ3:照応する直接目的語の文頭生起(G27~29)

・文法地図 「男性単数」 [G27]

直接目的語が文頭に生起すると、男性単数名詞を照応する代名詞は、レ代用

法が優勢であった地域においてさえも、直接目的格 lo が好まれる。とくにスペ

イン南部のコルドバやサラマンカではその傾向が強い。パラグアイにおいても、

直接目的格の分布が間接目的格に接近しているが、やはりレ代用法の優位は変

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わらない。

Al tío ese no {le (7) : lo (6)} vi ayer.

(そいつには昨日会わなかった。)

・文法地図 「複数」 [G28]

複数の名詞を照応する場合も、間接目的格 les と直接目的格 los が共に用いら

れるが、前者の勢力が後者を若干上回る。

A Ricardo y Carmen no { les (8) : los (5)} vi ayer.

(リカルドとカルメンには昨日会わなかった。)

・文法地図 「女性単数」 [G29]

女性名詞の場合は、スペイン・グアダラハラとホンデュラスを除いた大概の

スペイン語圏において、直接目的格 la のみが分布している。パラグアイでも直

接目的格がやや優勢になるものの、レ代用法も認められる。

A Luisa no {le (5) : la (8)} vi ayer.

(ルイサには昨日会わなかった。)

A Beatriz y Carmen no {les (2) : le (3) : las (9)} vi ayer.

(ベアトリスとカルメンには昨日会わなかった。)

レ代用法の分布比較

以上のように、目的語が文頭生起した文では、直接目的格代名詞の分布が増える

ものの、相変わらず間接目的格が優勢であり、しかも女性名詞を照応する回答も少

なくない。このことから、パラグアイの口語スペイン語ではレ代用法の勢力が拡張

していると理解できる。

では、他地域との比較においてはどうであろうか。パラグアイが他地域よりもレ

代用法の勢力が強いことが、ある程度言語地図の目視からわかる。しかし、より正

確に地域差を確認するため、先行研究(Henríquez Ureña 1921、Ueda 1995)を参考

に地域区分した Varilex 10 データと本調査データを統計学的に比較検討する。地域

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区分に際しては、スペインの調査地点はマドリード周辺を境に東西で分割し、イベ

リア半島から地理的に遠いラス・パルマス Las Palmas を除外した。

下表を見ると、レ代用法のパーセンテージの高い地域は、スペイン西側とパラグ

アイである。それにメキシコ、中米、カリブ、コロンビア・ベネズエラと続く。最

も弱い地域は、ラプラタ地方(パラグアイを除く)である。パラグアイの割合は、

三つの統語的位置タイプのいずれにおいても高いレベルにある。最も頻度の低いタ

イプ3( “a Luisa la vi”)でさえ、二位・中米( 5%)に対し、パラグアイでは 30%

を超え、圧倒的に高いパーセンテージを示している。

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表 2-1 パラグアイとスペイン語圏のレ代用法分布比較

1 "le saludó" "la saludó"le lo le% 順位 le la le% 順位

スペイン西部 20 5 80% 2 3 22 12% 6スペイン東部 2 6 25% 7 0 7 0% 8カリブ 4 7 36% 5 2 9 18% 4メキシコ 5 7 42% 3 5 7 42% 3中米 4 6 40% 4 5 5 50% 1コロンビア・ベネズエラ 2 5 29% 6 1 6 14% 5ラプラタ 2 10 17% 8 1 10 9% 7VARILEX総数 39 46 46% --- 17 66 20% ---パラグアイ 10 2 83% 1 5 7 42% 3

2 "invitarle" "invitarla"le lo le% 順位 le la le% 順位

スペイン西部 22 7 76% 1 5 24 17% 3スペイン東部 6 11 35% 4 1 12 8% 6カリブ 7 9 44% 3 4 12 25% 1メキシコ 2 10 17% 6 1 11 8% 6中米 5 12 29% 5 1 16 6% 7コロンビア・ベネズエラ 2 13 13% 7 2 13 13% 4ラプラタ 1 12 8% 8 0 13 0% 8VARILEX総数 45 74 38% --- 14 101 12% ---パラグアイ 8 4 67% 2 5 7 42% 1

3 "al tío lo vi" "a Luisa la vi"le lo le% 順位 le la le% 順位

スペイン西部 13 20 39% 2 1 31 3% 3スペイン東部 1 11 8% 6 0 11 0% 8カリブ 2 14 13% 3 0 16 0% 8メキシコ 1 11 8% 6 0 12 0% 8中米 2 18 10% 4 1 19 5% 2コロンビア・ベネズエラ 1 13 7% 7 0 15 0% 8ラプラタ 0 13 0% 8 0 13 0% 8VARILEX総数 20 100 17% --- 2 117 2% ---パラグアイ 7 5 58% 1 4 8 33% 1

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上表によると、パラグアイがほぼ一位と二位を占め、レ代用法の強い分布の様子

が映し出されているが、さらに、それが生起する統語的位置に関する有意差検定か

ら、パラグアイにおけるレ代用法の勢力の強さを証明する。比較するのは、タイプ

1-2 と 1-3 の Varilex データである。各組におけるパーセンテージについて平均検定

( t 検定)を行った。帰無仮説は、タイプ1からタイプ2・3のパーセンテージ

( “le%”)の低下に有意な差がないこと、つまり、統語的位置の違いはレ代用法の

出現の差に影響しないことを指す。それに対する対立仮説は、統語的位置によって

有意差が生じたこととなる。

タイプ 1-2 の間は、男性形 46 対 38(%)、女性形 20 対 12 で、タイプ1が上回る。

しかし、下記の値のとおり、いずれの性の場合においても、 t 値が境界値(パーセ

ント点)を超えないため、帰無仮説が採択される。つまり、タイプ1と2の統語的

条件の違いにおいては、レ代用法の出現に影響を与えるほどの有意差を積極的に支

持することができない。

タイプ 1-2 男性名詞 ( t=)1.71 < 2.68(=t 境界値)

女性名詞 ( t=)1.68 < 2.68(=t 境界値)

一方、タイプ 1-3 は、男性形 46 対 17、女性形 20 対 2 でタイプ 1 が大きく上回

る。下記の値のとおり、男女いずれの形式も t 値が境界値を超え、帰無仮説が棄却

される。よって、統語的位置の違いによる有意差は支持される。

タイプ 1-3 男性名詞 ( t=)3.07 > 2.68(=t 境界値)

女性名詞 ( t=)2.83 > 2.68(=t 境界値)

このように、タイプ3は、直接目的格 lo/la が優位になると統計学的に示される。

ところがパラグアイでは、上記のようにレ代用法の生起に統計学的有意差が生じる

タイプ3においてもその割合が大きく下落していない。よって、パラグアイにおけ

るレ代用法の勢力は他地域より相当強いものと言える。

レ代用法における口語体と文語体の乖離について

パラグアイは中南米では珍しくレ代用法が一般化した国であるが、上記の質問票

調査は、教養層の口語使用に限ったデータである。現地で収集した言語資料におい

ても、レ代用法を採取できたデータは基本的に口語体に属する: le mira a uno y

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sonríe [Halley Mora: 34](人を見て、そして笑う); antes de volver a ver le a usted

[Rodríguez Alcalá: 78](貴方に再び会う前に)。16 世紀から 18 世紀辺りまでパラグ

アイにおいて読まれていた年代記の上例が示す通り、かつては文書体にも現れてい

た。だが、近代の新聞や文学などの文語資料を調べてみると、レ代用法はほとんど

用いられていないことがわかった。

一般に、言語変化は話し言葉において起こる。口語で使い古された表現は書き言

葉に残存し、慣用句や諺などの定型表現の中で生き続け、ついには廃語となる。パ

ラグアイのスペイン語史において、レ代用法は植民当初からの伝統的な語法である

から、現状のように口語で維持され、文語で消失するという傾向は、自然な言語変

化と逆行する流れに思われる。おそらく、学校教育における文法指導、並びにパ

ラグアイで流通する出版物の多くがレ語法地域に属さないアルゼンチンで発行さ

れていること等が影響したと考えられる。

一方、パラグアイの口語スペイン語におけるレ代用法の発展は、本場のカスティ

ーリャ地方を凌ぐ勢いである。カスティーリャ地方においてレ代用法は男の人を対

象とするのが通常であり、 le が女の人を指すことは稀である。つまり、レ代用法

では男性が無標、女性が有標ということである。ところが、パラグアイの口語スペ

イン語では、女の人を指示する「性の中和現象」が起こっているのと同時に、間接

目的格代名詞が照応する直接目的語の指示対象が、「男の人→女の人→物」の流れ

で拡張しつつある。また、単数形 le が複数の対象を指示する「数の中和現象」も

見られる。このように、パラグアイの口語スペイン語では、対格と与格の目的語代

名詞( lo, los, la, las, les)が与格単数形 le に統一されるという簡略化の傾向にある

と言える。レ代用法において見られる口語と文語の乖離は、言語内外の動機によっ

て強まっている。

2.3.6 複合完了過去形

複合完了過去形 pretérito perfecto compuesto(以下 PC と呼ぶ)は、中南米では過

去から現在までの完了や経験を表わすのが一般的である。

Te he buscado por todas partes. (あちらこちらで君を探していた。)

He estado en México. (私はメキシコに行ったことがある。)

イベリア半島のPCが指示する「近接過去」、つまり「今」を含む時間枠における

単発的な出来事の完了は、中南米では通常、単純完了過去形 pretérito perfecto

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simple 17(以下PSと呼ぶ)が担う:

「今朝私は寝坊した」

スペイン:Esta mañana me he levantado tarde .

アメリカ:Esta mañana me levanté tarde .

PC の歴史を遡ると、助動詞 haber はかつて所有動詞であった(現代スペイン語

では tener のみ)。この haber を使う PC( haber+目的語+他動詞の過去分詞)は「~

されたものとして持つ」の意味から、まず継続・反復的用法が生まれ、その後、近

接過去用法に機能が拡張した(それ以前は PS が「近接過去」を指示していた)。

このような PC の機能拡張について、他のロマンス諸語の現状ではどうであろう

か。同じイベリア半島の西部で話されるポルトガル語やガリシア語では、PC が過

去から発話時までの継続的・反復的事柄を表わす初期ロマンス語古来の機能を残す。

PC はアオリスト性が低く、基本的に現代スペイン語のような近接過去用法はない

(Alarcos Llorach 1970: 46)。

一方、フランス語では、発話時から離れた過去の時点を指していた PS が日常語

法から離れたことに伴い、近い過去の出来事を表わす PC が PS の機能を引き継い

で、アオリストへのドリフトを起こした(Harris 1982: 62, Comrie 1985: 94)。

このように姉妹語同士で比較すると、現代アメリカスペイン語の PCは、ポルト

ガル語・ガリシア語と同様に、古い段階に留まっているという見方もできる。しか

し、中南米でも植民地時代は PSと PCの両方が近接過去の指示に使われており、両

者の使い分けは決して明瞭ではない 18。

17 世紀初頭のパラグアイで書かれたグスマンの年代記では、PC の主な用法は継

続と経験である:

abundancia y comodidad, que desde entonces hasta hoy no se ha visto en tal estado

[Guzmán 1612: Libro II, Cap.XIV]

(その当時から今日まで、そうした状況において見たことのない余剰と快適

1 7 本文中に採用する完了過去形に関する用語はBelloの《Gramática》において導入された。完了過去の単純形と複合形は、スペインでは伝統的に、pretérito indefinido「不定過去形」、pretérito perfecto「完了過去形」と呼ばれる。日本の基本文法書では「点過去形」、「現在完了形」が用いられてきた。本研究では、二つの完了過去形を対比させるため、Belloの用語を採用した。 18 鈴木( 2005)は、アメリカスペイン語に複合完了過去形の原始的状態が保持されたという見方に疑問を呈する。 16 世紀から 18 世紀の六都市間( Santo Domingo, México, Lima, Santiago de Chile, Tucumán, Buenos Aires)で書かれ、交換された書簡等の文書を対象に単純形と複合形の使用状況を観察し、両形式が完了的(近接過去)用法について未分化な段

階から出発したと述べる。

78

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さ)

しかし、近接過去を指示する場合も若干見られる(下線部の hoy と en este capítulo

は発話時に連関する副詞である):

Porque el día de hoy ha llegado a tanto el multiplico . . . [Libro I, Cap.XVIII]

(今日それほどの繁栄に至ったのだから)

todo lo cual pasó el año de 1542, con lo demás que en este capítulo se ha dicho

[Libro II, Cap.III]

(そうしたことはすべて、ほかに本章で述べられたことと共に、 1542 年に起

こった)

さらに、現在から切り離された過去の副詞との組合せでは、同じ統語的位置にお

いて PS と PC の双方が観察される:

como referí en el capítulo pasado 「前章にて私が言及したように」

como se ha referido en el capítulo pasado 「前章にて言及されたように」

[Libro III, Cap.XIX]

では、もともと存在していた PC の近接過去用法が中南米から消失したのかとい

うとそういうわけではなく、現代語の先行研究においても、その存在は指摘されて

きた。Alvar (2001:313) の言語地図によると、近接過去の副詞句 esta tarde「今日の

午後」と共起する時制は全国的に PS が支配的であるが、北部と南部の両端では PC

が分布する。そして、これらの地域と隣接するアルゼンチン北部とボリビア南部

(Kany 1970: 200)、並びにアルゼンチン西部(Varilex 2002: 109)においても PC

の分布を確認できる。

ところで、上記先行研究は主に口語に関するものであり、教養文学や書簡・年代

記のような文語ではない。だが、本研究では使用される文体や社会階層も考慮に入

れたい。そこで、口語スペイン語について質問票調査を行ない、Varilex と本デー

タを合わせた広域言語地図を作成すると同時に、文学や新聞などの文語資料からも

問題の用法を考察した。

79

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質問票調査と口語資料から

・文法地図 「 esta mañana と saludar 完了過去形」 [G30]

副詞句 esta mañana「今朝」と相性の良い過去形について、スペインでは PC

が優勢であるが、中南米では PS が強い(しかし、中南米のなかでもエル・サル

バドルやアルゼンチンのサン・フアンなどでは PC の分布も見られる)。パラグ

アイでは、他の中南米地域と同様に PS が優勢である。

Pero Antonio, esta mañana, me {ha saludado (0) : saludó (12)} muy amistosamente.

(だけどアントニオは、今朝、とても丁寧に挨拶をしてくれた)

・文法地図 「 esta mañana と poder 完了過去形」 [G31]

モーダル動詞 poder を含む例である。パラグアイにおける PC の分布は、叙述

文である G30 と比べて幾分増えるものの、PS の優位は変わらない。

Esta mañana no {he podido (3) : pude (9)} levantarme a las ocho.

(今朝は八時に起きられなかった)

PC の回答が増えた理由として、一つにはモーダルな要素によって、「八時に起

きられなかった」結果が発話時まで継続する解釈が与えられたことが考えられ

る。また、本文の主語が「私」であるという点も考慮に入れられる。話し手が

話題の主役であれば、過去の出来事でも現在発生しているかのように、主観的

に語るであろう。

・文法地図 「 estos días と mejorar 完了過去形」 [G32]

言語地図を見ると、スペインでは PC の分布が支配的であるが、パラグアイを含

め、中南米においても PC が PS と共存する形で分布している(とくにメキシコ・

カリブにおいて強い)。「体調が良くなった」結果の状態が現在まで継続してい

ると解釈できる。

Mi abuela {ha mejorado (5) : mejoró (7)} estos días.

(私のおばは最近体調が良くなった)

80

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・文法地図 「 llover 雨が降る」 [G33]

スペインでは PC が優勢であり、中南米はやや PS に傾倒している。パラグアイ

を含むラプラタ地方は PS が優勢である。とくにブエノス・アイレスは PS の独

占する地域である。

Este año, en mi pueblo, {ha llovido (2) : llovió (10)} mucho.

(本年、私の町では、雨がたくさん降った)

以上の質問票調査のほか、現地で記録した会話データや口語資料においても PS

が優勢であった: ¿Qué hiciste esta mañana?(今朝何をした?); al despertarse... le

dijo “Ya vine” [Acosta Alcaraz et.al 1994: 24] (目覚めると...彼に言った“もう来

たよ”)。

近接過去を明示する形式として、ラプラタ地方(Kany 1970: 379)では、「たっ

た今」の意味を持つ副詞のバリエーション recién 19が PSを修飾する:recién vinieron

hoy(今日来たばかりだ)。加えて、スペイン語圏に共通して用いられる動詞迂言形

acabar de+inf. もある:El paquete acaba de llegar al puerto.(小包は港に着いたばか

りだ)。このような副詞のバリエーションや動詞迂言形の存在は、PCの近接過去用

法が構造的に要求されない要因かもしれない。

文語資料から

1)新聞の例。副詞 hoy「今日」は PC・ PS 双方と共起している:

Sor Enrica Rosana, una monja salesiana de 66 años, ha sido nombrada hoy por el

papa Juan Pablo II subsecretaria de la Congregación para los Institutos de la Vida

Consagrada y las Sociedades de Vida Apostólica (.. . ) Hoy , al trascender la noticia

de su nombramiento, la religiosa aseguró sentirse "un poco perdida"

[ABC:25-IV-04]

( 66 歳のサレジオ会修道女、エンリカ・ロサナ氏は、今日、ローマ法王フアン・パ

ブロ II 世により奉献・使徒的生活会省の副省長に任命された。(...)今日、任命

1 9 標準語法では副詞や過去分詞などを修飾する: los terri torios recién descubiertos(発見したばかりの領土); recién ahora(今さっき)。

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のニュースが伝わると、その修道女は「すこし我を忘れた」ことを自覚した)

PC の動詞句 ha sido nombrada は「任命された」結果の継続を表わす。一方、 PS

の動詞句 aseguró は、現在とは関係なく、過去に「自覚した」という単発的な出来

事である。

2)スペイン語教科書の例。規範的なスペイン語において PS と PC の双方が観察さ

れる(Pandorga より抜粋):

・単純形

pero hoy, Marisol se perdió [p.24]

(だけど今日、マリソルは道に迷いました)

en la clase de hoy conocimos a un gran hombre [p.92]

(今日の授業で私たちはある偉大な人物を知りました)

・複合形

¡el rey se ha dormido! Papá necesita un poco de sueño . . . [p.65]

(王様が眠った!お父さんは少し睡眠が必要です)

mi niño bueno se ha puesto a soñar. . . [p.89]

(私の良い息子は夢を見始めました)

上記の PS と PC の違いは、前者が完了事象の客観的な報告であるのに対して、

後者は発話時との関連性(直前に起こった「寝る」「夢見る」状態が今も継続して

いる)を主観的に表わしている。

3)大衆文学の例。パラグアイを代表する劇作家アレイ・モラ(Halley Mora)の大

衆向け演劇作品では、近い過去に起こった一回性の出来事に PS が用いられている:

-- Cuéntame. ¿Quién eres?

-- Ya lo dijiste , un fantasma. [p.118]

-言いなさい。あなたは誰?

-すでにあなたが言ったが、幽霊だ。

-- ¿Te casaste virgen, abuela?

-- ¿Qué estás diciendo, loca?

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-- Te hice una pregunta. [p.120]

-おばあちゃんは純潔なまま結婚したの?

-バカ、何言っているの。

-(聞いたのだから)答えてよ。

しかし、以下の例も近い過去の出来事であるが、ここでは PC が使われている。こ

のときの読みでは、完了した行為「驚かす」「来る」の状態が発話時まで継続して

いる。

--¡Dios mío!

-- ¿Te he asustado , mamá? [p.118]

-なんということなの!

-ボクお母さんを驚かせたかな?

-- Soy un fantasma, ¿recuerdas?

-- Y has venido a atormentarme? [p.119]

-わたしは幽霊ですが、覚えているわね?

-それでお前は私を苦しめに来たのか?

4)教養文学の例。最後に、現代パラグアイ文学界を代表するロア・バストス(Roa

Bastos)の作品『至高の存在たる余は』(Yo el Supremo)から事例を取り上げる。

つぎの例は、(今年の)五月に起こった出来事に対して PC が用いられている:

Ha llegado a Asunción en mayo ... Desde entonces aguarda que se le reciba [p.380]

(アスンシオンに五月到着した...そのときから彼は迎えられるのを待って

いる)

また、「今朝」の出来事に PC が現れる事例もあった:

He ido personalmente esta mañan a a su casa [p.573]

(私は今朝個人的に彼の家に行った)。

最後の用例について質問票調査したところ、つぎの回答数が示すとおり、日常会

話ではやはり PS が優勢である: {Fui (10) : He ido (3)} .. .。作者が原文において非

日常言語的な PC を用いたのは、話し手が過去の出来事を語る場面において、PC

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の持つ過去と現在を結びつける機能をもって臨場感を表現したかったのだと思わ

れる。

一方、下例のように同類の副詞が PS と共起する文もある。これは話し手が第三

者の部下から聞いた「今朝」の単発的な出来事を上司に報告する場面でる。

-- ¿Dónde encontraron eso?

-- Clavado en la puerta de la catedral, Excelencia. Una partida de granaderos lo

descubrió esta madrugada y lo retiró llevándolo a la comandancia. Felizmente

nadie alcanzó a leerlo. [p.93]

-どこでそれを見つけたのだ?

-大聖堂の扉に貼られていました、閣下。手榴弾隊が明け方発見、回収して

司令部に運んで参りました。幸いにも誰にも読まれずに済みました。

以上、パラグアイのスペイン語における複合完了過去形の近接過去用法は、口語

と文語で分布状況が異なる。

口語では、他の中南米諸国と同様、単純完了過去形が優位である。近い過去の出

来事で結果継続の解釈が含まれれば複合完了過去形の分布が認められるが、継続性

のない単発的な出来事に対しては基本的に生起しない。

一方、文語では、 17 世紀の植民地時代から現在に至るまで複合完了過去形の近

接過去用法が観察される。複合形は過去と現在の間の関連性を与えるという、単純

形よりも複雑な時間概念を表現するため、口語に普及することなく、教養層の書き

言葉に収まっている。

そしてラプラタの口語変種の特徴として、一回性の出来事に関する近接過去を明

示するときは、「たった今」を意味する副詞の地域バリエーション recién(+単純

完了過去形)が一般的である。つまり、このような代替表現が存在するため、複雑

な時間概念の理解を要求する複合完了過去形をわざわざ日常語に導入し、近接過去

を指示するように機能を拡張することが、構造的に要求されないものと考えられる。

2.3.7 接続法過去形

現代スペイン語の接続法過去形 pretérito imperfecto de subjuntivo には、RA 形

( amara)と SE 形( amase)という二つの形式がある。前者はラテン語の直説法過

去完了( amaveram)がスペイン語において独自に変化したものである。後者はラ

テン語の接続法過去形( amavissem)からの直系の子孫である。

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過去完了 RA 形は、従属節に頻出していたため、 13 世紀後半に接続法の領域に

侵入し始め、元来の機能を複合時制形式( había amado)に譲ると、16 世紀には SE

形と並ぶ接続法過去形として見なされるようになった(Lapesa 1997: 403-404)。

17 世紀初期のパラグアイにおいて書かれた年代記(Guzmán 1612)では、RA 形

が主に非事実的条件節において観察される:

como si estuvieran en una caja [Libro I, Cap. I]

(あたかも箱の中にいるかのように)

como si fuera , no esclavo, sino verdadero vasallo y amigo [Libro I, Cap. I]

(あたかも奴隷ではなく本当の家臣や友人のように)

また、元来の直説法過去完了(または過去 20)としてRA形が用いられるケースも

ある:

El Siripo se alteró oyendo estas razones, y sin duda ninguna ejecutara su saña

[Libro I, Cap. I]

(シリポ族はこれらの理由を聞いて動揺し、残虐行為を起こしたのは間違い

なかった)

このように、17 世紀初頭のパラグアイにおける文書では、接続法過去として RA

形はまだあまり普及しておらず、伝統的な SE 形が支配的であった。

現代スペイン語において、接続法過去としての RA 形と SE 形は時間指示の機能

という点において等価であるが、どちらの形が優勢であるかはスペイン語圏のな

かで地域差がある。

スペインでは RA 形と SE 形が両立するが、話し言葉において RA 形が普及し、

書き言葉では SE 形を用いる傾向がある(Rojo & Viega 1999: 2910)。一方、アメリ

カスペイン語では、SE 形の使用がかなり減少し、文書以外では RA 形が一般的で

あると言われる。例えばメキシコでは、SE 形はわずか 3%程度の割合でしか生起

していない(Moreno de Alba 1988: 187)。

確かに、Varilex (2002: 106) の提示する最近のデータでも、スペインでは RA 形

の回答数が SE 形を 3: 2 の差で若干上回るものの、ほぼ均衡状態にある。一方、

中南米では RA 形が圧倒的に強く、その差は 5: 1 に拡がる。

2 0 この用例では単純過去形(完了・不完了)と交替可能であると思われるが、本文の例のように、中世スペイン語では主節において少なからず見られる(寺崎 2002: 7)。

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このような接続法過去 RA 形の歴史と地域分布に関する先行研究を踏まえた上

で、パラグアイの質問票調査データを考察したい。

・文法地図 「従属節内の RA 形」 [G34]

スペインは RA 形と SE 形がほぼ均衡し、中南米は RA 形の勢力が強い。パラ

グアイも他の中南米地域と同様に RA 形が好まれる。

Yo no creía que Isabel {cantara (7) : cantase (2) : cante (3)} así.

(私はイサベルがそのように歌うとは思っていなかった)

・文法地図 「条件節内の RA 形」 [G35]

スペインは、RA 形の強い Sevilla を除き、ほとんどの地域において RA 形と

SE 形の分布がほぼ均衡する。

中南米は、ほとんどの地域において RA 形が強く、特にドミニカ共和国やメキ

シコ Aguas Calientes においてその傾向が著しい。

パラグアイでも RA 形が優位であるものの、 SE 形がある程度分布しているこ

とが確認できる。

Si {tuviera (8) : tuviese (3)} tiempo, iría.

(もしも時間があれば、行くだろう)

以上のように、パラグアイのスペイン語では RA 形が優勢である。一方の SE 形

は、口語において生起することは少なく、基本的に文語調の表現形式である。

次は初等教育で読まれる民話(読書用教材 Estrellita)から抜粋した SE 形の例で

ある。民話は古い時代の言葉で語られることが多いが、この資料において RA 形は

用いられていない。

si pudiese elevarme un poco más [p.34]

(もう少し上昇できたら)

si no cayese sería nube [p.44]

(もし降らなければ曇りでしょう)

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decidieron que desde hoy fuésemos todos buenos amigos [p.85]

(今日からみんな仲良しになることにしました)

法律文もまた、一般的に公布時よりも古い時代の文体で書かれるが、上の民話と

同様、専ら SE 形が使われている。次は 1992 年に改定されたパラグアイ共和国憲

法の一例である。

Los ex prisioneros de guerra bolivianos, quienes desde la firma del Tratado de Paz

hubiesen optado por integrarse definitivamente al país, quedan equiparados a los

veteranos de la Guerra del Chaco, en los beneficios económicos y prestaciones

asistenciales . [Constitución: Art.130]

(ボリビア人元戦時捕虜が、平和条約締結以降最終的に本国民になることを

選んだとき、経済的利益と社会福祉の提供において、チャコ戦争の退役軍

人と等しく扱われる)。

現代スペイン語において、接続法過去形が反事実条件文の条件節に生起するとき、

帰結節には直説法の過去未来形 potencial( amaría)または過去完了形 pretérito

pluscuamperfecto( había amado)が起こるが、中南米では接続法過去の RA 形がよ

く用いられる(Gili Gaya 1998: 178)。これは 16・ 17 世紀スペインにあった古語法

( Si a Millan croviessen, fizieran muy mejor [Millán 288]「もしミリヤンを信じたら、

もっと良いことをしたのに」)が、アメリカ大陸に持ち込まれ、現代に残ったもの

である。このような例は、先述の Guzmán の年代記にも見られる:

si media legua antes, el General con toda su compañía no hubiera saltado en tierra

[Libro II, Cap.XIII]

(もし半レグア前であれば、一団を率いる総督は上陸しなかっただろう)

確かに、現代スペインにおいても主節に RA 形が生起することはある。それは、

Quisiera~「~したいのですが」や Pudiera~「~してもよいですか?」などの慣用

の願望表現である。婉曲的な言い方であるが、文語調で、ときに詩的または気取っ

た印象を与える。一方、現代パラグアイではそのような婉曲表現に限らず、口語体

でも RA 形の古語法が主節で頻繁に見られる:

・大衆演劇

Si no me hubieras echado de tu seno, no hubiera sido un fantasma . [Halley Mora

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1996: 118]

(もしあなたが私を産んでくれていたら、幽霊になんかならなかったのに)

・新聞読者投稿欄

Si hubiese sabido, hubiera realizado los trámites en Asunción . [ABC: 9-IX-05]

(もし知っていたら、アスンシオンで手続きをしたのに)

後者の例文では、帰結節に RA 形が来ても、条件節に SE 形( hubiese)が使用さ

れることで、従属節と主節において同じ時制形式の反復が避けられる(よって、良

く推敲された美しい文章とみなされる)。このような文体的効果を与える SE 形の

使用は、次のように接続法過去が反復したとき(従属節とその埋め込み文)にも見

られる:

Su lentitud se acentuaba con el correr de los minutos, sin que desde el banco se

optara por otras variantes que no fuesen los permanentes centrazos . [ABC: 26-I-06]

(主力のレギュラー選手ではない控え選手がベンチから選ばれることもなく、

その緩慢さは時間の経過とともに顕著になっていた)

以上、パラグアイは、(他の中南米地域と同様)接続法過去の時制形式として RA

形が SE 形よりも高い頻度で使われると共に、現代スペインではほとんど消失した

過去完了の古語法が日常表現として役割を果たしている。他方の SE 形は、日常語

の領域において RA 形によって劣勢に追いやられ、その分布は一般的に古風な文語

体に限られているものの、書き言葉において RA 形の反復使用を避けた推敲が行な

われるように、その位相の高さによって一定の存在価値を持つと考えられる。

2.3.8 肯定命令における再帰代名詞

スペイン語の命令形が代名詞弱勢形と共起するとき、代名詞は動詞の語尾に連

結する。例えば、動詞 dar「与える」の三人称複数形 den に、目的格人称代名詞 me

「私に」と代名詞 lo「それを」が連結すると、 dénmelo「私にそれをください」と

なる。再帰代名詞も同様であり、再帰動詞 sentarse「座る」の三人称複数形は、

siéntense である。

これらの標準形に対して、多くの地域の口語スペイン語において、動詞複数形

の語尾 -nが移動( siéntese n , déme n lo)または添加( siéntense n , dénme n lo)する異形

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が見られる。以下、パラグアイにおける質問票調査の結果を考察する。

・文法地図 「 Siéntense」 [G36]

添加形( siéntense n)がアルゼンチンの口語スペイン語において特徴的な現象

とされる(Kany 1970: 145)。同じラプラタ地方のパラグアイでも若干見られる

が、アルゼンチンに比べ勢力が弱い。

{Siéntense (11) : Siéntesen (0) : Siéntensen (1) } ustedes.

(あなた方、お座りください。)

移動タイプの異形は、Varilex (2004: 55) においても容認する地域はほとんどな

く、特にパラグアイではかなり容認性が低い。

・文法地図 「Dénmelo」 [G37]

動詞語尾 -nが人称代名詞meの末尾に移動した déme n loは、中米・コロンビア、

並びにアルゼンチンに分布する。また、 -nが添加した異形 dénme n loは主にアル

ゼンチンに分布する。パラグアイでもアルゼンチンと同様に両タイプの異形の

分布が確認されたが、優勢な語形はあくまで標準形であり、アルゼンチンの口

語スペイン語のようには普及していない様子である。

{Dénmelo (6) : Démenlo (2) : Dénmenlo (3)}.

(私にそれをください。)

口語データには、動詞mandar「送る」にも同じ現象が採録された:mándenme >

mándenme n。

このような形態的変種の生まれる動機として、接続法現在形( hablen)・過去形

( hablasen)からの類推が挙げられる(Kany 1970: 144)。つまり、人称代名詞弱勢

形が動詞に隣接して置かれ、連続した形で発音される。その複合形に三人称複数

形のマーカーである -n が連結する。そして、démenlo や dénmen lo のように、目的

格代名詞 lo に -n がコピーされないのは、 -lon で終わる活用は存在せず、それ故に

類推による変化が起こらなかったためと考えられる。

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2.3.9 無人称動詞の人称動詞化

存在動詞 haber、及び時間の経過を表わす動詞 hacer は無人称動詞であり、その

活用は、規範的に三人称単数形に限られる。

Hay dos mesas en la oficina.(事務所に机が二台ある。)

Hace tres años que fui a España .(スペインに行って三年経つ。)

しかし、下記のように、目的語の位置に複数形が生起するとき、動詞が(下線

部の)名詞の数に一致して複数形になる変種が見られる。

En ella hubieron cosas dignas de memoria. [Kany 1970: 256] (=hubo)

(彼女には記憶に値することがあった。)

Hacen muchos años que llegó aquí . [Vaquero 1998: 30] (=Hace)

(ここに着いてずいぶん経つ。)

このような人称動詞化の現象は、アルゼンチン、チリ、中央アメリカに普及して

いると言われる(Kany 1970: 256)。近年のスペイン語圏とパラグアイにおける分

布状況はどうであろうか。

・文法地図 [G38]

異形の一人称複数形 habemos のみが、メキシコ、中米、カリブにおいて見ら

れる。しかし、パラグアイを含め、南米には異形が分布していない。

En esta ciudad {hay (12) : habemos (0) : han (0)} muchos aventureros.

(この街にはたくさんのならず者がいる。)

・文法地図 [G39]

存在動詞 haber の直説法単純完了過去形 hubo に複数形の目的語が後続すると

き、数の一致を起こした異形 hubieron が口語スペイン語にある。この異形はス

ペイン・中南米に点在するが、最も多く見られる地域は、メキシコ、中米、キ

ューバ、及びラプラタ地方である。

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パラグアイにおいても異形は若干観察されるが、やはり一般的であるのは標

準形である。なお、Varilex 及び本調査のデータでは、スペイン語圏全域におい

て、一人称複数形 hubimos の分布は確認されない。

El año pasado, en este país, {hubo (9) : hubieron (3) : hubimos (0)} muchas fiestas

conmemorativas.

(昨年、この国において、多くの記念祭があった。)

未完了過去に関しても調査したところ、異形 habíanの回答が増加し、標準形

habíaの分布に接近する結果になった 21。

En la puerta {había (7) : habían (5)} dos árboles.

(その門には木が2本あった。)

・文法地図 [G40]

時間の経過を表す hace の人称動詞化 hacen は、スペイン、プエルトリコ、中

米ホンデュラス、アルゼンチンなどに分布するが、存在動詞 haber に比べると、

かなり分布が弱い。パラグアイでは全く反応がない。

{Hace (12) : Hacen (0)} muchos años que vive aquí aquel matrimonio.

(あの夫婦がここに住んで長年経つ。)

この hace は、動詞から、時間の経過を表わす機能語(前置詞)へと変化した。

無変化形を維持していることは、その文法化の完成度が高いことを証明してい

ると言える。

無人称動詞が人称変化する現象は、存在動詞において観察された。その要因と

しては、本来統語的に目的語である存在文の名詞句 22が、主語として捉えられたこ

とにより、名詞と動詞形式の数が一致したと考えられる。

くわえて、不完了過去の異形 habíanの勢力が標準形 habíaと均衡しているのは注

目に値する。存在の habíaは過去完了形( había amado)の助動詞 habíaと同形であ 2 1 未完了過去の異形 habíanの出現は、DeMello (1991) の都市スペイン語研究においても他の時制の活用形よりも圧倒的に多い。そして、教養層の話すスペイン語でも観察されてい

る。 2 2 存在動詞に後続する名詞句は、目的格代名詞に置換される: hay dos árboles > los hay。

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るため、活用動詞として類推されたと考えられる。単純完了過去形 huboも確かに

直前過去形 pretérito anterior( hubo amado)の助動詞 huboと同形ではあるが、この

複合時制は文語使用に限られ、いまや日常的にはほとんど現れない。したがって、

無変化の huboを人称動詞化する類推の力は不完了形の場合よりも弱いものと思わ

れる。

2.3.10 現在分詞の名詞的・形容詞的用法

スペイン語の現在分詞( gerundio)は、動詞や文を修飾し、方法・様態・理由・

条件などを表わす。

El niño vino corriendo .

(男の子は走って来た。)

Los chicos, teniendo hambre, volvieron a casa .

(子供たちは、お腹が空いたので、家に戻った。)

Ayudando todos, acabará pronto la tarea .

(皆が助ければ、彼はその仕事をすぐに終えるだろう。)

(宮城 1991: 143)

スペイン語の現在分詞は、基本的に、名詞や形容詞として振舞わない。しかし、

パラグアイやその他地域では、以下に示すとおり、名詞・形容詞的用法が観察さ

れる。

・文法地図 [G41]

動詞句がコプラ文の述部として名詞的に振る舞うとき、動詞の形式は標準的

に不定詞である。パラグアイでは不定詞とほぼ同じ割合で現在分詞が用いられ

ている。

Lo que hace María es {comparar (6) : comparando (5)} muestras.

(マリアがすることはサンプルを比べることだ)

言語地図を見るとわかるように、この用法は他のスペイン語圏ではほとんど

見ることがなく、パラグアイの局所的な統語現象である。

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しかし、この現象が起こる統語的位置はコプラ文の補語に限定される。現在

分詞が不定詞のように主語の位置に生起することはない: *Comiendo es placer

(食べることは喜びだ)。また、不定詞には定冠詞の男性単数形 el を付けること

ができるが、現在分詞とは不可である: Lo que hace María es *el comparando

muestras。

このような記述文の主題である主部は、不定であることが禁じられる 23。つ

まり、この統語的位置では限定性を持つ不定詞が要求されることになる。一方、

述部は属性を示す。受動文において過去分詞が serの述部に置かれる(mi abuelo es

conocido en el pueblo「私の祖父は村で知られている」)ように、属性表現として

現在分詞が過去分詞と同じ位置に生起しても不思議ではない。

・文法地図 [G42]

プエルトリコでは、現在分詞の形容詞的用法を見ることができる。これは英

語の干渉によるものと考えられている(Vaquero 1998b: 32)。本言語地図でも同

地域での分布を確認できる。

Ella quería saber cuáles eran mis compañeras {que enseñan : enseñando} español.

(彼女はスペイン語を教える仲間が誰であるのか知りたがっていた)

下記質問文(Varilex 12: 55)では、現在分詞 sabiendoが前の名詞 un recepcionista

を修飾している。この用例は、プエルトリコのほかにも、スペイン(バルセロ

ナ、コルドバ)、ホンデュラス(テグシガルパ)、ペルー(リマ)、アルゼンチン

(ブエノス・アイレス 24)、ウルグアイ(モンテビデオ)、そしてパラグアイ(ア

スンシオン)等、多くの地点においてNormal「普通」であるとみなされる。

Hotel de tres estrellas necesita un recepcionista sabiendo inglés y francés .

(三ツ星ホテルが英語とフランス語を話す受付係を求める)

つぎのパラグアイの口語資料(新聞読者投稿)においても、確かに形容詞的

用法が観察される。例文の現在分詞は、それぞれ直前の名詞を修飾している。

2 3 記述文での不定主語の禁止について、例えば「鯨は大きい」における主語の「鯨」は総称解釈のみが許され、不特定の鯨を言明するものではない(坂原 1990: 39)。 2 4 同一国内でも地域差がある。ブエノス・アイレスから約 300km北方に位置するサンタ・フェ県ロサリオ市では、上記例外を除き、形容詞的用法の機能的な用例は見つかっていな

い(Donni de Mirande 1983)。

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no existen leyes prohibiendo el consumo de bebidas alcohólicas por parte de

menores de edad [ABC: 24-VII-05]

(未成年によるアルコール飲料の消費を禁ずる法律がない)

una organización de vecinos asuncenos premiaron a un trabajador público por su

excelente disposición limpiando sus calles [ABC: 9-I-06]

(アスンシオン市民のある組織が、市職員の道路清掃の優秀な仕事振りに賞

を与えた)

このような現在分詞の形容詞的用法は、プエルトリコにおいては英語の干渉とい

う原因も考慮に入れられるが、パラグアイやスペインのような非英語圏における分

布については、その説明を適用することは難しい。

ところで、ラテン語の現在分詞( -ns, -ntis)に由来するスペイン語の接尾辞 -nte

は、動詞を形容詞化し、「動詞の指示する行為を行なう~」を表わす。そこからさ

らに名詞化し、行為者「~する者」の意味も有するに至った:dependiente(従属し

た~>従業員)、 dirigente(導く~>指導者)等。

現代スペイン語の現在分詞 -ndo は形容詞化・名詞化機能を失ったが、このよう

な祖語の機能が例外的に再現される場面がある:

・存在文

Hay unos niños jugando en la calle .

(道で遊んでいる子供が何人かいる)

・絵画や写真のキャプション

Saturno devorando a su hijo [江藤 2003: 208]

(我が子を食らうサトゥルヌス)

・慣用表現や諺

frente ardiendo(熱い額) agua hirviendo(沸騰する湯)

el chancho hablando de higiene(衛生について話す豚=矛盾)。

・動形容詞化

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el educando 25(学生) el doctorando(博士号取得希望者)

つまり、現代スペイン語の現在分詞にも名詞的・形容詞的機能が潜在しているの

であり、その隠れた性質が地域変種として特定の統語的環境において復活したもの

と考えられる。

2.3.11 動詞迂言形

・文法地図 [G43]

助動詞としての ir は現在分詞を伴い、参照点から未来に向けた継続相を表わ

す。この迂言形は、典型的な用法に収まらず、本節において示すとおり、地域

によって各機能が交差する現象が見られる。

つぎの Varilex の質問文は、近接未来の指示形式として、継続相迂言形 ir+ger.

を使うか否かを問うものである。

(En el sentido de ‘estoy a punto de acabar ’) Voy acabando .

(「もう終えるところだ」の意味で)

言語地図において示されるとおり、 ir+ger. を近接未来として用いる地域は、

スペインや中南米の広範囲に点在する。また、アフリカの赤道ギニアにおける

用例も Quilis & Casado-Fresnillo (1995: 227) によって報告されている。

Voy visitando a Juan . ‘voy a visitar ’

(フアンを訪れるつもりだ。)

Varilex の資料をうけ、本調査では、以下のように文脈をつけて同様の質問を

した。その結果、パラグアイでは IR 迂言形を使うことがわかった。だが、より

勢力の強い形式は、直示的な estar a punto de +inf. や進行相 estar+ger. である。

Actualmente tengo 23 años, {estoy a punto de acabar (5) : voy acabando (2) : estoy

acabando (7)} la carrera y me gustaría encontrar mi primer empleo.

2 5 現代の標準スペイン語においてより一般的な estudianteは、現在分詞の古形に由来する。

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(現在私は 23 歳です。課程を修了するところなので、最初の就職先を見つけ

たいです。)

この例文において現在分詞で現れている動詞 acabar「終える」は、完了アスペ

クト動詞であり、それ自体に時間的な終着点を内在する。これに現在分詞の進

行性が加えられると、イベントの終了時に向かうイメージが創られるのだと思

われるが、Varilex データの示すとおり、その解釈の許容度には地域差がある。

分布の地域差という面では、中南米では優位に分布していない機能的変種であ

り、パラグアイの局所性はやや高いと言える。

・文法地図 [G44]

つぎの Varilex の質問文は、近接過去の意味で ir+ger. を用いるか否かを問う

ものである。

(En el sentido de ‘acabo de llegar ’) Voy llegando .

(「到着したばかりだ」の意味で)

Ir+ger. は参照時から未来に向けた時間の継続を表わすため、質問文のように、

参照時から見て過去に当たる完了事象を指すのは典型的な時間指示に逆行して

いるように見える。このような機能変種の分布状況を地域別に見ると、スペイ

ンではマドリード以西に弱く分布する(白抜き○で表記)。中米、カリブ、コロ

ンビアの一部でも見られるが、最も強い分布域はメキシコ、ラプラタではブエ

ノス・アイレスなどである。

上記 Varilex の結果をうけ、本研究では一定の文脈を与えて質問をした。その

結果、パラグアイでも IR と ESTAR のヘルンディオ構文の使用が認められたが、

近接過去の acabar de+inf. が常用されており、問題の迂言形は稀に現れる周辺的

な語法である。

Más tarde me he ido unos pocos días de vacaciones. {Acabo de llegar (6) : Voy

llegando (2) : Estoy llegando (3)}, sólo he regado las plantas.

(その後ほんの数日休暇に出ていました。着いたばかりで、植物に水を撒い

ただけです。)

このような ir の周辺的用法と意味変化については、次章において詳しく検証

96

Page 53: 第2章 形態統語論的バリエーション - geocities.jp · れぞれblanca, carísima である。 このような性数のバリエーションに関する問題について、広域言語地図を解釈し

したい。

・文法地図 [G45]

スペイン語の ir-y-verbo( ‘GO-AND-VERB’)構文は、後続の動詞句に「驚嘆」

「恐怖」「皮肉」などのニュアンスを与える口語表現である。Varilex 12 (2004: 64)

では、つぎの質問文について分布を調査した。

¡Otra vez la Telefónica!, y ahora va y se cae y desconecta internet durante una

mañana!

(またもやテレフォニカ!、ダウンして、午前中インターネットを切断しや

がった!)

この表現を「普通」( normal)として解釈する地域は主にスペイン、カリブ(ド

ミニカ共和国を除く)、中米などである。ラプラタ地方やチリ(サンティアゴ)

では「やや稀」( un poco raro)として評価されるが、構文の使用は認められる。

「かなり稀」(muy raro)と読む地域は少数で、メキシコ(モンテレイ)やアル

ゼンチン(サルタ Salta)などに限られる。

スペインでは、同義の構文として tomar「取る」を用いた表現がある。そして

中南米では agarrar「掴む」を用いたバリエーションが見られる: agarré y le dije

a Mario yo me retiro [Popular: 4-I-06](俺は引退するとマリオに言ってやったよ)。

パラグアイにおける質問票調査では、次の二つの質問文を用意したが、 tomar

はほとんど用いられず、優勢な形式は ir と agarrar である。

Un tercero {agarra (6) : va (6) : toma (1)} y pega el escarnio con cuatro chinches

en la puerta de la catedral.

(第三者が大聖堂の門に四つの画鋲で愚弄文を張りやがった。)

El que después {agarró (4) : fue (6) : tomó (1)} y dijo ser el padre, empezó a

rascarse con ganas todo el cuerpo.

(後に父親だと言いやがった奴は、たまらず全身をかきむしり始めた。)

スペイン語の GO-AND-VERB 構文には、共通形 ir のほかに、スペイン tomar

と中南米 agarrarの変種対立があるが、パラグアイにおいて両変種は共立しない。

上記のとおり、tomar と agarrar は類似した動作を表わす動詞であり、どちらか一

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方が存在すれば、もう一方は余剰となる。

・文法地図 [G46]

アルゼンチン独特の構文バリエーションとして、動詞 saber「知る」が不定詞

を伴い、「習慣」を表わすことが知られている(Kany 1970: 249): sabía decirlo =

solía decirlo(それを言ったものだった)。そして、習慣のみならず、不完了過去

Pretérito imperfecto を指示する用法が中南米において観察される。次はチリの例

であるが、 sabe llover は前方の llovía と同値であると解釈できる。

Quise encender un cigarrillo pero me fue imposible porque llovía, como sabe llover

en el Sur, y hacía frío . [http://www.titofernandez.cl/borrache.htm]

(タバコの火を付けたかったが、雨が降っていたので不可能だった。南部に

降っていたので、寒かった。)

次の質問文は、問題の saber 構文について、不完了過去的用法としての使用を

調査したものである。本言語地図によると、スペイン西部と中南米のかなり広

い地域において分布が見られる。

(En el sentido de ‘iba’) Yo no sé ir .

(「行っていた」の意味で)

しかし、パラグアイでは全く使用が確認されていない。以下の質問文において示

されるとおり、回答はゼロである。

Antes yo no { iba (12) : sé ir (0)} a la escuela porque no teníamos el dinero para

comprar libros.

(昔は、我々は本を買う金がなかったので、学校に通わないものだった。)

ところで、パラグアイと国境を接するアルゼンチン北東部 Posadas 市の口語ス

ペイン語では、問題の動詞迂言形が使われる:antes sabe ir trabajar en el Tucumán

[= iba](かつてトゥクマンで仕事をしにいっていた)。つまり、国境の河川を境

に、パラグアイとアルゼンチンにおいて分布が明確に区切られている。パラグア

イにおいて、習慣や不完了過去を表わすとき、 soler や不完了過去形を使用する

のが一般的であり、アルゼンチンのバリエーションが伝播する構造的空き間がな

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いと言える。

2.3.12 その他の動詞句

質問票調査では扱わなかったが、収集データの中で採取した動詞句のバリエーシ

ョンを以下に記す。

(1) ir a + inf.

スペイン語圏の全域に普及している近未来の動詞迂言形である: ¿Adónde vas a

ir?(どこに行くの?)。未来の指示形式としては、スペインでは未来形も一般的に

使われるが、中南米の未来形は基本的に書き言葉に属し、口語においては頽勢にあ

る。その代わりに、この ir a + inf. や現在形が用いられる傾向が強い(Kany 1970:

192): voy a comer または como ‘comeré’(食べるつもりだ)。

ところが、Alvar( 2001: 353)のパラグアイ言語地図によると、未来形と迂言句

が並存する。これと同様に、本調査において大学生の会話を記録したところ、やは

り双方の形式が採取された。

-- Y mañana, ¿ya vas a empezar a trabajar?

-- Mañana volverá a empezar el trabajo, así es.

-それで明日だけど、もう仕事を始める気なの?

-明日仕事が再開するの、そのとおりよ。

未来形は必ずしも書き言葉に限定されず、本例のように日常会話にも頻繁に出

現する。二つの未来表現が共存する点は、パラグアイが他の中南米地域と異にす

るところと言える。

なお、口頭では ir a + inf.の前置詞 a が頻繁に脱落する( va ayudar, vamo comer)。

音の縮約は、頻繁な日常使用によって発生することが多く、それだけ未来形と併

用される形で IR 迂言句が一般化していることを示すものである。

(2) gustar de +inf.

現代スペイン語において、人の嗜好は標準的に gustar 構文によって表現される。

この構文では、「好きである対象」が文法上の主語であり、活用は主に三人称が用

いられる:me gusta nadar(私は水泳が好きだ);me gustan los deportes(私はスポ

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ーツ全般が好きだ)。「好んでいる本人」は間接目的格代名詞によって表わされる。

中南米では、 gustar de + inf. という構文バリエーションが使われることがある。

この構文は gustar 構文と異なり、「好んでいる本人」が主語であるので、一般の動

詞と同様に、全ての人称と数によって活用する: gustamos de {nadar / los deportes}

(私たちは{水泳/スポーツ全般}が好きだ)。

パラグアイにおいても、植民地時代から現代に至るまで、この構文が用いられて

きた。

. . . los recibió humanamente haciéndoles buen tratamiento, gustando mucho de su

conversación y costumbres de los españoles.. . [Guzmán 1612: L.I, Cap.IX,

pág.18/33]

(人間的にスペイン人達を迎え入れ、良い待遇を施し、彼らの話し方や習慣

を好んだ...)

Yo a veces gusto de parecer ingenuo. [Roa Bastos 1987:144]

(私は無邪気にみせるのをときどき好む)

Aquella que gusta del periodismo liviano . . . [Perfil 2004: 6]

(軽いジャーナリズムを好むあの女性は...)

中南米ではときに前置詞 deのない古語法が観察される 26(Kany 1970: 410)。質問

票調査の結果、「嗜好」を表現するときは gustar構文が支配的であったが、gustar de

+ inf. がアスンシオン市とエステ市 27において記録された。古語形は観察されなか

った。

{Me gusta (10) : Gusto de (1) : Gusto (0)} mi pueblo.

(私は自分の村が好きだ)

{Me gusta (10) : Gusto de (1) : Gusto (0)} tocar la guitarra.

(私はギターを弾くのが好きだ)

2 6 前置詞 deの脱落は、“acordarse de”「~を思い出す」、“olvidarse de”「~を忘れる」、“haber de+inf.”(推量の構文)などにおいても観察される(Kany 1970: 410)。 2 7 ウルグアイ北部ではブラジル・ポルトガル語の影響として gustar deが特徴的である(Vaquero 1998: 36):Gusto de Río(リオが好きだ)。ブラジルと国境を接するエステ市でも分布が確認されたが、やはり gustar構文の勢力が強く、同市に限った形でポルトガル語の影響を受けたとは言い難い。

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「願望」の表現は動詞 querer が一般的である: quiero viajar(私は旅がしたい)。

しかし、パラグアイの口語ではしばしば問題の gustar が使われる。

puedes empezar cuando gustes [Estrellita: 131]

(君は好きなときに始められる)

Ésta es mi casa .. . si gustan pasar [Roa Bastos: 358]

(これが私の家です...もしお寄りになりたければ)

hay tantas otras personas que gustarían acercarse a ti [Vanguardia: 11-IX-03]

(君に接近しようとする人が他にもたくさんいる)

だが、本研究の言語資料では願望文としての gustar de + inf. の用例は見つから

なかった( gustar 構文と同様に過去未来形による依頼文を除く)。つまり、現代パ

ラグアイにおいて、 gustar は単なる gustar de の古形ではなく、両者の間に使い分

けが存在し、前者が「願望」、後者が「嗜好」を表現する。

(3)時間表現

口語において、 Son [Faltan] cinco para las seis( 5 時 55 分です)は、標準語法の

Son las seis menos cinco を指す。

(4) estar con sed

ブラジル国境沿いのシウダ・デル・エステでは、「喉が渇く」を表す口語表現の

バリエーションとして estar con sed が観察された。ポルトガル語 estar com sede の

影響かと思われる。尚、同地域では標準形 tener sed も共存している。

2.3.13 前置詞句

場所の副詞 delante「前に」や cerca「近くに」は、前置詞 de を伴い、前置詞句

として振舞う:delante [cerca] de la casa(家の前 [近く ] に)。そして、前置詞句が

人称代名詞をとるとき、その前置詞格が標準的に生起する: delante [cerca] de mí

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(私の前 [近く ] に)。ところが、口語変種として、前置詞 de のない副詞に所有形

容詞(後置形)が後続することがある: delante [cerca] mío。

この現象は、 a causa tuya [= a causa de ti] (君のせいで)や en busca suya [= en

busca de él](彼を探して)などの名詞( causa, busca)を含む前置詞句からの類推

によって cerca や encima などの副詞が名詞として俗解されたため、所有形容詞(後

置形)が共起するようになった(Kany 1970: 66)。

・文法地図 「 delante mío」 [G47]

本言語地図によると、以下の質問文に見られる口語変種 delante mío は、スペ

イン語圏のかなり広範囲に分布している:スペイン(カスティーリャ・レオン

地方を除く)、キューバ、ドミニカ共和国、チリ、ペルー・ボリビア、ラプラタ

地方。

Recuerdo que delante mío venía el profesor .

(私の前に先生がよく来たのを思い出す。)

質問票調査においても、異形 delante mío の回答数が標準形を上回った。

delante {mío (7) : de mí (5)}

その他、パラグアイにおいて観察した前置詞句の異形( cerca suyo, encima mío,

atrás mío)を挙げる:

cada vez más cerca suyo

「ますますあなたの近くに」 (広告文)

cuando se sientan encima mío

「私の上に座ったとき」 (童謡 Globo)

atrás mío estaba Andrea

「私の後ろにアンドレアがいた」 (大衆向け新聞 Crónica : 25-I-06)

ところで、接辞 -mente で終わる典型的副詞は、基本的に名詞として振舞うこと

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はない:* los hombres de atentamente, *rápidamente mío。しかし、場所や時間の副詞

のなかには名詞として振舞うものがある。

例) aquí「ここに」、 hoy「今日」

viene aquí [hoy] (彼はここに [今日 ] 来る)

la escena de aquí [hoy] (ここ [今日 ] の場面)

逆に、曜日などの名詞は、典型的に共起する前置詞を伴わず、定冠詞を付けて副詞

として機能する。

例) el lunes「月曜日」、 todos los días「毎日」

las compras del lunes [de todos los días] (月曜日 [毎日 ] の買い物)

vengo el lunes [ todos los días] (私は月曜日に [毎日 ] 来る)

つまり、これらの場所・時間を表わす語は名詞と副詞の中間的領域に位置するタ

イプである。パラグアイにおける問題のバリエーションは、大衆向け情報媒体の文

書に出現するとおり、話し言葉から書き言葉へと領域を広げる標準化の兆候が見ら

れるが、ここに副詞と名詞の類似性を見ることができる。

2.3.14 グアラニー語の影響としての前置詞の代替現象

アメリカ先住民言語との接触による用法として、ペルーのアンデス地方における

スペイン語では、ケチュア語から借用した表現がある:voy Lima (=voy a Lima);en

aquí (=aquí) 等(Vaquero 1998: 36)。

パラグアイにおいても、グアラニー語の影響と考えられる統語現象がある。頻出

する一般化した表現は、強調するときに同じ語を反復して使うグアラニー語の語法

である: solo-solo ‘muy solo’(とても孤独に);Era un tole tole infernal [Roa Bastos

1994: 184](地獄のような大騒ぎだった)。

加えて、前置詞にも機能的バリエーション 28がいくつか見られる。グアラニー語

を第一言語とするバイリンガルが話すスペイン語において観察され、使用状況に関

しても個人差があるようである。本研究では、比較的安定したデータとして認めら

れる大衆文学に出現した機能変異を事前に採集し、現地でのインフォーマント調査

2 8 中南米スペイン語では、先住民言語の影響とは関係なく、前置詞の標準用法に代わるバリエーションがある(Kany 1970, Moreno de Alba 1988): entrar a su casa ‘en’(彼の家に入る); aprender a mis padres ‘de’(両親から学ぶ); cerca a ‘de’(~の近くに); ser dist into a ‘de’(~と異なる); t rabajar a vivir ‘por ’(生きるために働く); examinarse en matemáticas ‘de’(数学の試験を受ける)等。

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を行なった。

(1)後置詞 pe の影響

動作の方向を示す前置詞 a が所在の en に代わる俗語的用法がある。グアラニー

語では、方向と所在は共に後置詞 pe によって標示される: jaha ka’aguý-pe [vamos

monte-en](山に行こう); oime i-kotý-pe [está su-cuarto-en](部屋にいる)。

Alvar (2001: 315) の言語地図において a に代わる en の分布が確認されているほ

か、右記のとおり、大衆文学にも登場する:Viene en tu casa con su esposa. [Casola

2003: 146](妻と共に君の家に来る)。

質問票調査でも、標準形 a に代わる en の使用が見られたが、第一言語としての

スペイン語話者にとっては規範的でないゆえに否定的態度を示す回答者が多かっ

た。

Voy {a (9) : en (3)} casa del médico.

(私は診察所に行く。)

(2)後置詞 rehe の影響

グアラニー語の後置詞 rehe は、スペイン語 por と同様に原因を表わすときに

用いたり、知覚動詞や心理動詞と共起して対格を標示する機能がある。

例えば、グアラニー語の知覚動詞 maña「見る」は後置詞 rehe をとる: omaña

che-rehe [mira me-por](彼は私を見る)。対応するスペイン語の他動詞 mirar「見

る」は通常、物事を示す目的語の位置に前置詞を置かないが、パラグアイでは

右記のように前置詞 por をとる現象が見られる:Mirá por ese rancho [Granda

1988: 266](そのあばら家を見ろ)。

さらに、グアラニー語の心理動詞 kotevẽ「必要とする」もまた、後置詞 rehe

(異形 re)と共起する:Ñaikotevẽ ñande sý-re [necesitamos nuestro padre-por](私

たちは父が必要だ)。対応するスペイン語の動詞 necesitar は、自動詞としては通

常、対格の位置に前置詞 de をとるが、パラグアイの口語では por によって代用

されることがある:Necesito por vos .(私は君が必要だ)。

このような前置詞 por の用法について現地で質問票調査を行なった結果、この

地域変種 por の分布は標準語法 de を大きく上回り、口語においてかなりの優勢

であることがわかった。

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Necesito {de (4) : por (8)} vos.

(私は君が必要だ。)

心理動詞のほか、移動の方向や、人が目的語である場合にも a の代わりに por

が用いられることがある:Me acerco por Ud . [Casola 2003: 147](私はあなたに近

づく)。しかし、下記の文に対する質問票調査では、自ら使うと回答した人は 13

名中それぞれ 1 名のみに限られ、決して一般的な用法ではない(全員が「聞い

たことがある」と回答した)。

Voy por casa del médico . (= Voy a...)

(私は診療所に行く。) [採録地:ピラール ]

Le ayudo por usted . (= ayudo a.. .)

(私はあなたを手伝います。) [採録地:エンカルナシオン ]

Granda (1988: 249) は、グアラニー語の後置詞による影響を示唆するものの、借

用の要因については明言を避けており、実際どれだけ影響しているのかは定かでは

ない。上記のように、前置詞の種類によって一般化の度合いにも差が見られる。移

動動詞と共起する前置詞バリエーションはあまり一般的ではないが、知覚・心理動

詞との組合せでは標準語法よりも優勢である。スペイン語を第一言語とするインフ

ォーマントの情報として、この回答数の差は興味深い。

原因の de が por によって代用されることは、問題の動詞句に限らず、「どういた

しまして」を意味する de nada が南米において por nada になる地域変種にも見られ

る。つまり、de と por は原因を表わす上において類義語と言える。また、por は経

路や位置を標示する機能もあり( por el lado derecho「右方に」)、知覚の方向を指

すバリエーションが口語において生まれても不思議ではない。しかしながら、移動

表現において、前置詞 a は、動態的事態として移動の方向を標示する。物事の存在

地を静態的に示す前置詞 en とは概念が異なる。よって、「移動動詞+前置詞 en」

のバリエーションは口語でも一般的ではないと考えられる。

さらに、方向の前置詞 a に代わる en の使用は、単なるグアラニー語からの借用

として評価できるかどうかという問題がある。イベリア系クレオールでは、ポルト

ガル語起源の na(=西 en+la)が汎用的な所格前置詞 general locative preposition

(Holm 1988: 207)として用いられている。

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フィリピン・チャバカノ語(サンボアンガ)

ta anda na otro casa [Pountain 2004: 6] (別の家に行く)

ta corre na clase [Aoto 2002b: 90] (教室で走る)

アンティル・パピアメント語(アルーバ)

bai na skol [Mi ke sa , Izaline Calister] (学校に行く)

goza na beach [Matutino Diario: 18-IV-06] (海岸で楽しむ)

クレオール語とは、貿易や植民地化などに伴う異民族間交流によって複数の言語

が接触した結果、文法体系の簡略化したピジンが誕生し、それが後世の社会で母語

として定着したものである。グアラニー語の話者がスペイン語を話すとき、場所の

前置詞を en に集約するのは、言語接触において普遍的に見られる簡略化の現象と

類似する。このように、移動表現における en による a の代用については、グアラ

ニー語からの借用であるか否か定めることはできない。しかし、知覚・心理表現に

おける por の使用は、他地域のスペイン語やクレオールにおいても見られず、パラ

グアイ独自の現象であるため、グアラニー語からの借用として判断するのが妥当で

あると思われる。

2.4 結び

本章の終わりに、これまで見てきたパラグアイの形態統語論的バリエーションの

中から、日常的な言語活動において一般的に現れる形式に基づき、アメリカスペイ

ン語のなかでどのように位置付けられるのか最後に整理したい。

言語運用の社会的差異が比較的少ないモノリンガル社会では、地域バリエーショ

ンが社会全体に通用する場合が多いことから、その地を代表する変種として評価す

ることができよう。しかし、言語運用の社会的差異の大きいバイリンガル社会であ

るパラグアイにおいては、口語表現としてのみならず、様々な品位のバリエーショ

ンが存在するため、地理的記述だけでは分布の実態を把握できない。地理的分布と

併せ、特定のバリエーションがどの社会階層の話者により、どのような位相で用い

られるのかといった社会言語学的指標を設けることが、パラグアイのような言語社

会において重要である。

質問票調査と言語資料の両方から一定の分布を得た文法的バリエーションにつ

いて、異なる二つの指標をもって分類を行った。一つ目の指標は、Varilex に基づ

いた中南米内の「地理的特性」である。中南米の全域に分布するバリエーション

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が局所性が低く(-)、ラプラタ地方またはパラグアイなどの地域固有の分布を示

すものを局所が高いもの(+)とする。

そして、二つ目は、口語と文語という、社会的指標としての「位相」を設けた。

ここで本研究における「口語」とは、教養層の日常会話(家族や友人間)において

現れる文体をいう(ときに社会的に一般化した俗語を含む)。一方、「文語」とは、

教養層の読む文学や新聞などに限って用いられる表現の集合である。

「性」( gén.)

名詞句 el hambre inesperadoのように、名詞を修飾する形容詞の性が標準形( el

hambre inesperad a)と形式的に異なる現象である。主な分布域はパラグアイを含め

たラプラタ地方であり、局所性の高いバリエーションである。位相は基本的に口語

に属する。

「数」( núm.)

語尾にアクセントのある名詞の複数形に関して、標準形( sofás)に対する異形

( sofases)が存在する。他の中南米と同様、パラグアイでもかなり勢力が弱いため、

局所性は低い。文体は俗語に属する。

「所有形容詞」( pos.)

主語の指示する人の家や学校を指すとき、定冠詞の代わりに所有形容詞が好まれ

る: voy a mi casa(私は家に行く)。パラグアイでは、変種としての所有形容詞の

勢力が標準語法の定冠詞より強く、中南米の中でも局所性が高い。

「ボス法」( voseo)

人称代名詞の二人称単数形 tú に代わる vos の使用、並びに動詞の現在形と命令

形の二人称単数形の口語バリエーションである。ボス法は、中南米のおよそ半分の

地域に分布するため、局所性は高くない。一方、当国における「トゥ法」( tuteo)

の局所性と位相はボス法と対極にある。特に位相は専ら文語に属する。

「レ代用法」( leísmo)

直接目的格代名詞 loに代わり間接目的格 leが用いられる現象である( le invito)。

一般的に中南米では分布が弱い。この代用法の起源であるスペイン・カスティーリ

ャ地方よりもパラグアイにおける勢力は強く、最もパラグアイの局所性が際立つ文

法バリエーションである。但し、スペインと異なり、書き言葉では現れず、主に口

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語として用いられる。

「複合完了過去形の近接過去用法」( pc .)

「今」を包含する過去の時間帯における事態を表現するとき、半島スペイン語で

は複合完了過去形(me he levantado esta mañana)を用いるが、アメリカスペイン

語では単純完了過去形(me levanté esta mañana)が優勢である。パラグアイでは他

の中南米地域と同様に複合形が好まれないため、局所性は低い(副詞のラプラタ変

種 recién が複合形の普及を妨げている側面がある)。しかし、教養文学や教科書な

どにしばしば登場することから、文語体に属する。

「接続法過去の RA 形」( subj .-ra)

アメリカスペイン語では、ラテン語の接続法過去形を引き継いだ SE 形( amase)

に対して、同様に直説法過去完了形から変化した RA 形( amara)が優勢である。

パラグアイでも RA 形が好まれ、他の中南米地域と同じ傾向を示すため、局所性は

低い。RA 形は口語・文語の双方に現れるが、格調高い文体で登場する SE 形に比

べて位相が低く、どちらかと言えば口語に属する。

「無変化動詞 haber の人称動詞化」( habían)

存在動詞 haber の過去形 había は、現在形 hay と同様に無変化形であるが、後続

の目的語が複数形のとき、これに一致して動詞も複数形 habían になるバリエーシ

ョンがある( habían dos árboles)。他の中南米地域での分布は少ないが、パラグア

イの口語スペイン語では比較的一般化しているため、局所性は高い。

「現在分詞の名詞・形容詞的用法」( ger.nom.)( ger.adj.)

標準スペイン語では不定詞が名詞的に振舞うが、それに代わり現在分詞が用いら

れる現象である(Lo que hace María es comparando muestras)。また、形容詞的用法

も標準スペイン語では認められないが、英語のような使われ方をすることがある

( necesita un recepcionista sabiendo inglés y francés)。前者の名詞的用法は、他の中

南米地域での分布はほとんど認められないが、パラグアイの口語スペイン語では頻

繁に生起するため、局所性が極めて高い。一方、後者の形容詞的用法は、多くのス

ペイン語地域において観察されるため、パラグアイのみに分布するものではない。

「動詞迂言形 ir + 現在分詞の近接過去的用法」( ir + ger.)

参照時から未来に向けた継続相を表わす動詞迂言形 ir+ger. が、近接過去を指示

するバリエーションである( voy llegando = acabo de llegar)。この機能的バリエー

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ションは、メキシコからアルゼンチンまで広い地域で観察されるため、パラグアイ

の局所性は低いと言える。誇張的表現として、主に口語に現れる。

「未来形に代わる動詞迂言形 ir a + 不定詞」( ir a+inf.)

中南米の口語スペイン語では未来形が衰退し、動詞迂言形 ir a+ inf. が好まれる。

パラグアイも同様の状態であるため、中南米の中の局所性は低い。文体は口語調で

ある。逆に、パラグアイにおける「未来形」( futuro)の口語使用は、アメリカス

ペイン語の衰退傾向に反するため、局所性が高いと言える。

「 agarrar を用いた GO-AND-VERB 構文」( agarrar)

ir-y-verbo 構文( va y se cae)に類似する表現として、スペインでは ir の代わり

に tomar を用いるが、中南米では agarrar を使うバリエーションがある( agarré y se

cae)。パラグアイを含め、中南米に広く分布する俗語表現である。

「前置詞 a, de に代わる por の使用」( prep.)

方向や原因を標示するグアラニー語の後置詞 rehe の機能的借用によって、心理

動詞や移動動詞のとる前置詞がスペイン語の対応する por に変わる( necesito por

vos; me acerco por usted)。分布がパラグアイに限定される局所的な変種であり、俗

語に属する。

以上を総括すると、下表の通り、全体的に形態統語論的バリエーションは口語と

俗語に偏り、局所的なものと広域的なものの割合はほぼ同数である。「動詞迂言形

ir a +inf.」と「接続法過去 RA 形」、並びに「 agarrar-y-verbo」と「 gustar de+inf.」

構文の優勢化は、パラグアイがアメリカスペイン語に属することを示す典型的な形

態統語論的特徴である。一方、パラグアイがアメリカで言語的独自性を示すバリエ

ーションは、「レ代用法」や「前置詞 por の代用」である。

俗 語 口 語 文 語

局所的 prep. gén., ger.nom., habían.,

leísmo, pos. futuro, tuteo

広域的 agarrar, núm. ger.adj., gustar de+inf.,

ir a+inf., subj.ra, voseopc.

本章の結びとして、形態統語論的バリエーションが発生する要因について整理し

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たい。これまで考察してきた通り、言語変化には言語内部に起因する要因と社会的

な外部要因があった。

言語内的要因

1)類推

「複数形」の異形 ajíses は、 anises(単数形 anís)などからの類推が動機となっ

て発生する現象である。「名詞の性」に関しては、女性名詞 radiodifusión の略語 radio

がその語尾からの類推で男性名詞に変わった。

肯定命令の siéntense は、ER・ IR 動詞の三人称複数形語尾 -en から、 siéntesen ま

たは siéntensen のように動詞語尾の -n が再帰代名詞 se の後ろに移動・添加した。

2)頻度

無変化の存在動詞が「人称動詞化」する現象( habían dos árboles)は、存在文の

名詞句が主語として解釈されたことが直接の要因として考えられるが、それにくわ

え、特に未完了過去形の人称動詞化( había > habían)が進んでいることから、同

音異義の助動詞( habían amado)からの類推が働いているのではないかと推測した。

助動詞 haber の完了過去形( hubo amado=直前過去形)は、古風な文語体であり、

現代においてほとんど現れない。つまり、未完了過去形の頻度の高さが言語変化を

推進しているものと思われる。

3)簡略化

名詞の「性」に関する形態的変異は、語頭 a- にアクセントの置かれる女性名詞

に定冠詞の男性単数形が共起する名詞句( el hambre)に対して、それを後方から

修飾する形容詞も男性形に変化する( el hambre inesperado)。二つの修飾辞の性を

一致させる現象は、表現手段を簡略化するという言語の経済性を示していると思わ

れる。

4)直示化

再帰動詞の目的語や移動・所在動詞の場所の副詞句における定冠詞の標準語法に

対し、一般化しつつあるのが「所有形容詞」の使用である。文脈に依存する形で漠

然と所有物を指示する定冠詞よりも、所有者を直接的に指示する形容詞の使用が好

まれる。つまり、言語形式の指示機能に対して直示性を求める傾向が見られる。

5)体系的補完

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パラグアイの「複合完了過去形」は、他の中南米諸国と同様に近接過去用法の勢

力が弱い。特にラプラタ地方には地域固有の理由が見られる。それは近接過去を標

示する副詞の地域変種 recién(+単純完了過去形)の一般化である。この変種が存

在するため、スペイン語(及びロマンス諸語)の時制における<近接過去>という

構造的空き間は既に充足されており、複合完了過去形に対して近接過去の指示機能

を付与することは求められない。

6)ラテン語の潜在的特性

「現在分詞の名詞的・形容詞的用法」は、スペイン語では失われたラテン語の持

つ現在分詞の機能が特定のスペイン語地域に再現した現象である。つまりは、スペ

イン語が祖語から継承した潜在的特性として捉えられる。

言語外的要因

7)異言語接触による借用

グアラニー語の後置詞 rehe の影響によって、対応するスペイン語の前置詞 por

が心理動詞や移動動詞と共起する現象がある。また、ブラジル国境付近では、ポル

トガル語 estar com sede に対応する estar con sed という異形が観察される。

8)植民地化の歴史

口語の「レ代用法」と「ボス法」は、共に人称代名詞の変種であるが、植民地時

代の伝播状況が現代の分布域の広さに反映している。ボス法は、前述のとおり、ラ

プラタ地方やメキシコ南部・中米の口語スペイン語に強い勢力を有する。その他の

地域では、 17 世紀頃のスペインからメキシコやペルーなどの副王領を経由して伝

播した「トゥ法」が一般的である。しかし、ラプラタ副王領は、スペイン本国との

距離的な事情や、有力な鉱山がなかったことなどから、スペインの支配力が比較的

弱く、新参のトゥ法が一般に波及することはなかった。

9)地政学的背景

パラグアイは地理的に南米の辺境地にあり、他国からのアクセス条件が良くない。

しかもスペインからの独立以降、周辺諸国との戦争や、長期独裁政権の鎖国政策に

よって、近代に至るまで外国との交流が停滞していた。このような地理的・政治的

背景は、植民地時代に伝播したレ代用法の存続に大きく寄与した。

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10)地域独自性

アルゼンチンを中心とする旧ラプラタ副王領諸国では、スペインからの独立以降、

ボス法が地域の文化的アイデンティティーを表わす言語形式として愛用されてき

た。

11)学校教育

文語体に属する文法項目は、いずれも学校教育やスペイン文学などを通じたイベ

リア半島の標準スペイン語の普及を示すものである。特にパラグアイでは、動詞迂

言形 ir a +inf. と共に「未来形」が教養層の日常会話において用いられること、並

びに「トゥ法」が文書使用に限られることなどが特徴的である。

12)国際化への対応

ボス法がスペインとラプラタ地方の言語的差別化を象徴しているのに対し、パラ

グアイにおける未来形やトゥ法の使用は、一般的に学校教育を通じて習得され、そ

の運用は文書に限定される。その教育的目的は、国際語としての標準スペイン語を

習得することであり、国策として国際社会への対応が重視されている。

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