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1・龍馬記念館だより Ҏɹ৺ ɹISHINɹDENSHINɹ ɹ৺ 2020(和2)年7月ɹୈ114߸ http://www.ryoma-kinenkan.jp 使使綿౧৭ΘΕഅのख(෦)(߂দ家ॴଂ、دୗ) 使使使

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  • 1・龍馬記念館だより

    以 心  ISHIN DENSHIN  伝 心

    2020(令和2)年7月 第114号

    http://www.ryoma-kinenkan.jp

    7月7日より企画展

    「手紙の世界―龍馬で古文

    書ことはじめ―」が始ま

    ります。副題にあるよう

    に、古文書を本格的に取

    り上げる展示ですが、普

    通の古文書の展示とはア

    プローチの手法が少し違

    います。本展の見どころ

    を紹介します。

    古文書の

    二つの楽しみ方

    古文書と聞いて、どのような

    イメージをお持ちでしょうか。

    「難しそう」「読む気にすらな

    らない」⋮そんな声が聞こえて

    きそうです。古文書には必ず文

    字が書かれていますが、その多

    くが独特の字体なので、現代人

    は普通これを読むことができま

    せん。

    古文書で一番重要なことは、

    「そこに何が書かれているか」

    です。書かれた内容を読むこと

    で、知られていなかった多くの

    事実に接することができます。

    歴史を学ぶ上での大きな楽しみ

    といえるでしょう。ただし、そ

    れを正確に読み解くには、かな

    りの専門知識を要します。「難

    しい」と敬遠される大きな理由

    でしょう。でも、古文書の楽し

    み方は、文字を読むことだけで

    はありません。その周辺、つま

    り文字が書かれている紙に注目

    するのです。なぜ、この大きさ、

    この形の紙が使われているのか。

    なぜ、紙に色がついているのか。

    なぜ、こんな場所に文字が書か

    れているのか。じっくり観察す

    ると、たとえ文字が読めなく

    ても、そのまわりにたくさんの

    「なぜ」がみつかります。これ

    らの疑問を紐解いていくことも、

    古文書を楽しむひとつの見方で

    す。紙

    そのものに

    注目

     

    人々は、文書を作成するにあ

    たり、どのような紙の使い方を

    していたのでしょうか。歴史上

    連綿と受け継がれた伝統的な様

    式もあれば、それが変質した新

    しい様式もありました。さまざ

    まな立場の人の手になる文書に、

    「手紙の世界」展

    始まります

    桃色紙が使われた龍馬の手紙(部分)(弘松家所蔵、当館寄託)

    どのような種類があっ

    たのか、龍馬が生きた

    時代を中心に、分かり

    やすく紹介します。

     

    また、土佐藩には、

    藩の保護のもと、一部

    の紙漉きに伝えられた

    紙の染色技術がありま

    した。それによって生

    産されたものを七なないろがみ

    色紙

    と呼びます。七色が実

    際にどのような色だっ

    たのかをはじめ、謎に

    包まれた点が多いです

    が、土佐の色紙は、藩

    から幕府への献上物に

    選ばれるほどの品でし

    た。そして、幕末の手

    紙には、この染色され

    た紙が使われたものが

    少なくありません。藩

    の方針により、色紙が

    公用紙に指定され、実

    際に報告書等に使われ

    たのです。手紙として

    使われた色紙を展示し、

    その意義について考え

    たいと思います。

     

    龍馬はたくさんの手

    紙を書き、貴重な関係

    資料として遺されてい

    ますが、龍馬の手紙を

    支えた幕末の紙文化・

    手紙文化とはどのよう

    なものだったのでしょ

    うか。展示をご覧にな

    り、「手紙の世界」を

    体験してください。

    髙山嘉明

  • 飛 騰 №114・2

     中国武漢市で「新型コロナウィルス」

    関連の肺炎の発生が報告されたのは、令

    和元年12月。その頃は、新しい年号での

    初めてのお正月や今年開催される東京オ

    リンピックに期待が高まり、みんなが新

    しい年を楽しみにしていました。

     

    それが、あれよあれよという間に、

    この「新型コロナウィルス」が日本に、

    世界中に広まり、人の移動が規制され、

    経済・生活全般が規制されるなど社会

    全体がストップする未曽有の惨事と

    なっています。

     

    高知県では、2月に対策本部が設置

    され、医療関係者の方々のご苦労を気

    遣いつつも、毎日、県から発表される

    感染者数に、不安になったり、安心し

    たり、諸々の感情を感じておられた方

    も多かったのではないでしょうか。

     

    このような中で、当館では感染者数

    の増加に伴って、3月は17日間、4月

    10日から5月10日の約1か月間、急遽、

    休館の措置を取り、お客様をお迎えす

    る環境整備と拡大防止策を行いました。

     

    5月に入って、高知県内での新たな

    感染者数も0人が続き、本県の緊急事

    態宣言も解除となったことから、5月

    11日から通常通り開館しています。と

    はいえ、まだまだ、油断は禁物。国や

    県、また多くの専門家からは、長期戦

    の心構え、対応の必要性と、十分な感

    染防止対策や日常生活の見直し、新た

    な生活様式が示されており、緊張は続

    きます。

     

    このようなことを踏まえ、当館でも

    再開に伴って、ご来館者の皆様が安心

    して観覧できるように、その感染防止

    対策として、「職員全員のマスク着用

    と石鹸での手洗いと手指消毒の実施」

    「室内の換気と適時の手摺等の館内消

    毒の実施」「館内にソーシャルディス

    タンスの確保等との注意喚起」等々、

    皆様をお迎えする準備を整えました。

     

    例えば、最初に皆様をお迎えする受

    付や、出口のショップには、アクリル

    製のパーテーションを設置、職員はマ

    スクの着用、金銭やパンフレットはト

    レイを活用して、直接、お客様との接

    触がないよう気を付けております。ま

    た、新館ホールの座席は1席離してお

    座りいただくようにしておりますし、

    換気が不十分なシアターコーナーは閉

    室、館内の長椅子も両端にお座りいた

    だくよう表示をしました。不特定多数

    の方が利用される音声ガイドタブレッ

    トは当分の間貸出を中止とし、本館で

    の名刺作成、パズルコーナー、アン

    ケート等も、除菌・消毒を十分に行え

    ないことから中止としました。

     

    また、来館者の方々に対しましても、

    「ご入館されるときのマスクの着用」

    「入口で手指消毒をしてのご入館」

    「他のご観覧者様との間隔を1メート

    ル以上保っていただくこと」「ご一緒

    においでている方と大きな声での会話

    はしないこと」などの注意喚起を、入

    口や受付、その他、目につきやすいと

    ころに掲示し、ご協力をお願いしてい

    るところです。それとともに、館内の

    あらゆる場所に手指消毒液を置き、お

    気軽にお使いしていただけるようにし

    ております。

     

    私どもの考えつく限りの対策をして

    いますが、この新型コロナウィルス感

    染拡大防止対策を、いつまで講じなけ

    ればならないのか、皆様が不安と不快

    感を与えないようにご観覧いただくに

    はどのようにすればいいのか、試行錯

    誤の毎日が続いております。

     

    これからおいでになる皆様に対して、

    過剰な反応や心配をすることなく、感

    染症対策の基本であるマスクの着用や

    手洗いの徹底などを確実に行い、安

    心・安全にご来館いただけるようにお

    迎えしたいと、職員一同、今後も努め、

    皆様をお待ちしています。

    溝渕

    智栄子

    コロナ対策

  • 3・龍馬記念館だより

    学芸員の視点❶ 前田 由紀枝浦戸の“埋蔵品”

    「浦うらど戸」地名考

    浦戸という地名を、字のまま

    考えてみよう。

    「浦」は湾状の海岸にある集

    落(漁村、港町)を指す。「戸」

    は、門戸の意そのまま。つま

    り、浦戸は土佐湾の支湾である

    浦戸湾内の漁村で、太平洋への

    出入り口にある集落だと解釈で

    きる。民謡「よさこい節」の一

    節、「御みま

    せ畳瀬見せましょ浦戸を開

    けて」というように、土佐の海

    の玄関である。

    その浦戸の地名が初めて登

    場するのは、平安時代中期にで

    きた紀貫之『土佐日記』である。

    4年間の土佐国の国司の任務を

    終え、国府(現・南国市比江)

    を出立して、京に帰るまでの55

    日間を「男もすなる日記」とし

    て書き記したことは有名。

    国府を出立して7日目の、承

    平四(934)年十二月二十七日。

    「大津(現・高知市大津)より浦

    戸をさして漕ぎ出づ」。翌日には

    「浦戸より漕ぎいでて大湊(現・

    南国市前浜)をおふ」と記され

    ている。つまり浦戸は、今から

    約1,100年前には既にあっ

    た地名だと分かる。

    “つわものどもが夢のあと”木々が重なる別荘の門扉=同

    稲荷神社下の石段=高知市浦戸東地区

    浦戸は、古くから海上交通の要所で

    あった。

    16世紀に、豪族の本山氏が浦戸の丘陵

    に浦戸城を築城するも、本山氏を破った

    長宗我部氏、関ケ原の合戦後に入国した

    山内氏など戦国武将たちの居城となった。

    慶長八(1603)年八月に山内氏が大

    高坂城(現・高知城)に移るまでの12年

    余り、土佐領主の城山の北側に城下町・

    浦戸が栄えていたことは想像に難くない。

    江戸時代の村落台帳『旧きゅうだかきゅうりょう

    高旧領取

    調帳』によると、幕末には、吾川郡浦戸

    村、勝浦浜(桂かつらはま浜)村がある。アメリカ

    帰りのジョン万次郎が居候した、藩絵師・

    河田小龍の家は当時、浦うらどまち

    戸町(現・高知

    市南はりまや町)にあったが、そこは城

    下に出た浦戸の人たちによる町であった。

    今では高知名物1いち×かける1いちのアイスクリン

    (氷菓)の表示に「浦戸町」の名前がわ

    ずかに残る。

    明治初(1868)年に勝浦浜村は

    浦戸村に合併され、明治22(1889)

    年には「浦戸村」という自治体に。昭和

    17(1942)年から、現在の高知市浦

    戸となり、桂浜、浦戸東、浦戸西、南浦、

    並ならびの

    5地区と、記念館のある城山がある。

    「浦戸伝説」

    その浦戸東地区に生まれ育って80年

    近くなるTさんから「是非聞いてほしい」

    という話があり、過日お宅に伺った。

    Tさんの家の前は、伏見稲荷を分祀し

    たという、長宗我部元親夫人ゆかりの「稲

    荷神社」である。開け放した窓からは海

    からの風が心地よい。道を隔てた浦戸の

    漁協市場は、3年前に撤去され、小さな

    荷上場以外は更地となった。かつて1,

    000人の組合員で賑わった漁師町に人

    影はない。そのためか、Tさん宅に入る

    浜風は、なお更にゆったりと吹き渡る。

    明治22年生まれの祖母から聞かされ

    たという話に、Tさんの熱が入る。

    「この家の前には昔、長宗我部の別荘

    がありましてね。その後山内も来ました。

    それが、昭和になり、私が小さい頃には、

    川崎の別荘でした。御庭番がいて、回り

    廊下のある、それは立派なお屋敷でした

    ぞね。『観かんかい海亭』という何十畳もある座

    敷で、結婚式を挙げた人もいますよ」。

    川崎とは、幕末に「浅井金持ち、川崎

    地持ち、上かみの才さいだに谷(龍馬の本家・

    才谷屋)

    道具持ち」と謳われた高知城下屈指の富

    豪のことである。かつて浦戸御殿と呼ば

    れた別荘は跡形もなく、門扉の中で木々

    が覆いかぶさっている。

    祖母の代からこの家に住むTさんの

    話は続く。

    「長宗我部のお屋敷を建てたとき、海

    に面した角地に離れ屋敷を建てようとし

    たそうです。眺望の良い離れを建てるは

    ずが、波の力が強くて足場も流され、何

    度普請してもうまくいかない。そこで、

    若い生娘を人柱に立てたところ、足場も

    落ちんなって離れが出来た。"落ちん"

    なったことから、その場所を今でも"オッ

    チン"と呼びます」。「私の家の前から南

    の桂浜まで磯が続いていて、地元ではこ

    の辺りを磯崎とも言いますぞね」。

    「祖母は小さい時、近所のおじいさん

    から、浦戸に長宗我部の埋蔵金があると

    いう話を聞いたそうです。私は祖母の

    寝物語に何度も聞いた、"朝日さす夕日

    輝く木の下もとに漆うるし

    七ななおけ桶数す千両"という歌が、

    いまだに忘れられません。夢やロマンを

    感じませんか。そんな歌は各地にあると

    言われますが、幕末の頃でしょうか。桂

    浜の山のどこかに埋蔵場所を特定した役

    人が、白装束に身を包み、そこに囲いを

    巡らせて掘ったそうです。埋蔵金は出て

    きませんでしたが、これ以上掘ったら潮

    になると言うくらい掘ったとき、人工の

    石段が出て来たそうです。その場所は、

    桂浜水族館の近く、いや砲台のところ。

    はたまた灯台辺りだと、何人かで訪おとのうた

    ことがあります」。Tさんの話は、浦戸

    への愛着と矜持にあふれていた。

    ある歴史家が「歴史はリーダーによっ

    て作られ、名もなき民衆によって継承さ

    れる」と言った。名を遺す人だけに、歴

    史があるのではない。一人ひとりの中に、

    歴史があり、継承される思いがある。地

    元の人の伝承に耳を傾けることも、学芸

    員の務めだろう。そんな中で、もしかす

    ると歴史の"埋蔵品"に行き当たるかも

    しれない。

    坂本龍馬記念館の地名は、

    高知市浦戸城山で、長宗我部

    元親から山やまうちかつとよ

    内一豊までが居城

    とした浦戸城址、名前の通り

    浦戸城の城山に在る。

  • 飛 騰 №114・4

     

    今回私がおすすめするのは、高知県

    立坂本龍馬記念館の「本館」です。

     

    私が記念館で働き始めたのが、平成

    4(1992)年8月。「本館」とは

    約28年の付き合いになります。おのず

    と愛着がわくもので、「本館」に一歩

    足を踏み入れると気持ちが楽になる気

    さえするのです。

     

    高知県立坂本龍馬記念館は、平成3

    (1991)年11月15日に開館しまし

    た。

     

    そして、平成30(2018)年4月

    21日のグランドオープン

    で、1つの館から2つの

    館になった記念館は、既

    存の建物を「本館」、新た

    な建物を「新館」と呼ぶ

    ようになり、連絡通路で

    繋がれた、今の形になり

    ました。

     

    館の入口は「新館」に

    あります。「新館」2階の

    各展示室をご覧いただい

    た後、自動ドアを抜け、連絡通路を

    渡ると「本館」2階と繋がります。

     「本館」2階の展示室は、ガラス

    張りで、斜張橋のようにケーブルで

    吊られた構造となっており、風の強

    い日など揺れる事もあります。

     「本館」は中の展示もさることな

    がら、外観もぜひ見ていただきたい

    ポイントです。

     「本館」を出て、建物沿いに道を

    下ると駐車場に出ます。そちらにあ

    る「くじらの日時計」辺りから「本館」

    をご覧になってみてください。記念

    館として紹介される建物の写真はこ

    こから撮られたものです。また西側

    はミラーガラスとなっており、見る

    角度によってかわる四季折々の景色

    を映し出しています。

     

    ぜひ記念館にお越しの際には、「本

    館」の中も外も存分に楽しんでお帰

    りください。

    渡辺

    曜子

    私の

    おすすめ

    「本 館」

    No.7

    龍馬が筆まめで、手紙の現存数も多い

    ことは周知の通りである。

    また、自身が関わっている事柄の途中

    経過も詳しく書かれているので、彼の活

    動をたどりやすい。

    現存する龍馬の手紙なかで、もっとも

    長いものが、慶応3年6月24日書状 

    女・おやべ宛(京都国立博物館所蔵)で

    ある。その長さは、なんと504.

    4㎝

    である。

    内容も、義甥坂本清二郎の近況、後

    藤と組んで利をむさぼるとは何事と非難

    する姉乙女に対し「廿四万石を引て、天

    下国家の御為致すがよろしく」と啖呵を

    きるくだり、土佐を出て龍馬の元へ行こ

    うとする姉を必死になって思いとどめよ

    うとするくだりなど盛りだくさんである。

    だが、ひらがなを多用し、目の前で対話

    しているかのように思える易しい文体な

    ので、内容の面白さに引き込まれ、文章

    の長さが苦にならない。

    これと対極なのが、兄権平宛の手紙

    である。

    権平への手紙は、漢字を多用した、

    かしこまった文体で、当時の政治動向

    も折にふれて報告している。

    この違いは、乙女は幼いころからか

    わいがってくれた遠慮のいらない存在

    であるのに対し、権平は坂本家当主と

    いう畏敬の念をもつ存在であることに

    よる。

    文体一つとっても、龍馬が、相手

    の立場に合わせた接し方を心得ている

    ことがわかる。そして、乙女をなだめ

    るくだりも、手紙の半分以上の長さを

    使って、女一人で国許を飛び出す行為

    が無謀であることを当時の倫理観や社

    会の規則を説いて諭している。

    この2点からは、龍馬は小説で描

    かれるような無頼派ではなく、社会性

    と対人関係のTpOを心得た常識人で

    あることが浮かび上がる。これは家族

    によるしつけの賜であろう。それゆえ、

    乙女からの突飛な申し出には心底驚い

    ただろうと想像する。

    豊田

    満広

    (中岡慎太郎館 係長・学芸員)

    もっとも長~い手紙

    (慶応3年6月24日書状 

    乙女・おやべ宛)

    龍馬の

       手紙

    07

  • 5・龍馬記念館だより

    ③10月24日(土)

    ”志士最後の生き証人“田中光顕の功績

     (藤田有紀氏・佐川町立青せいざん山文庫学芸員)

    青山文庫創設の立役者の一人である田

    中光顕は激動の幕末期を生き抜き、後

    世は幕末という時代そのものを残そうと

    した人物です。彼を激動の時代に身を投

    じさせた、当時の土佐の状況もふまえて、

    彼の考えや功績などをお話いただく予定

    です。

    ④12月12日(土)

     毛利敬たか

    ちか親

    の藩政改革

     (小山良昌氏・毛利博物館顧問)

    幕末の長州藩主毛利敬親は財政再建、

    文武奨励、西洋式軍隊の訓練などに取り

    組み、その結果、長州藩が幕末期に強い

    存在感を示すこととなりました。敬親は

    あまり賢明でない殿様というイメージが

    流布していますが、藩政改革に取り組ん

    だ実像をご紹介いただく予定です。

    ⑤令和3年2月27日(土)

     幕臣小栗上野介のビジョン

     (高橋敏氏・国立歴史民俗博物館名誉教授)

    明治維新後、幕臣たちは敗者となり、

    結果として忘れ去られてきたといえます。

    しかし、本当に、幕府は悪で、前近代的だっ

    たのでしょうか。近代日本の幕開けに際し、

    多大な活躍をしながらも、朝敵とされ斬

    首された小栗上野介が抱いていた展望につ

    リニューアルオープン後の新

    事業「連続講演会」、初回の平

    成30年度は「坂本龍馬とその時

    代」、2回目の令和元年度は「幕

    末キーパーソン」をテーマに行

    いました。そして、今年度のテー

    マは「幕末再考ー変革への計と

    践」です。1、2回目は、幕末

    という激動の時代の"激動"に

    正面から向き合いましたが、今

    回は、その"激動"の背景や周

    縁に目を向け、少し違う角度か

    ら幕末を見つめ直します。

    幕末に限らず、大きな事件や有名な人

    物だけが歴史を動かしたのではなく、実

    際には、様々な人の考えや行動、組織の

    あり方、外部との関係等が絡み合い、積

    み重なり、歴史が動いたのではないでしょ

    うか。今回は、様々な立場の人が時代を

    変えていくために何を計画し、どう実践

    したのか、という視点で幕末を考えてみた

    いと考えています。

    各回のテーマを少しご紹介しましょう。

    ①6月27日(土)

    「幕末の朝幕関係ー特に朝廷の視点からー」

    (髙山嘉明・当館学芸員)

    江戸幕府から厳しく活動を制限されて

    いた朝廷は、幕末、何をきっかけに、どの

    ような経緯で政治浮上することとなった

    でしょうか。"対立する幕府と朝廷"と

    いうステレオタイプでない両者の関係性に

    ついて、幕末京都のパワーバランスを軸に

    お話します。

    ②8月29日(土)

     幕末佐賀藩の近代化と鍋島直正

    (藤井祐介氏・佐賀県立佐賀城本丸歴史館学芸員)

    "近代化のトップランナー"佐賀藩は日

    本初の鉄製大砲鋳造や蒸気船建造に成功

    しました。佐賀藩が、そうした当時の最

    先端技術を有することとなった10代藩主

    鍋島直正の考えや動きを中心に、教科書

    には載らない佐賀藩の存在感をお話いた

    だく予定です。

    昨年度の講演会の様子

    いてお話いただく予定です。

    今回はこの5つがテーマですが、他にも

    興味深いテーマは数多くあるでしょう。連

    続講演会を入口に、歴史への興味、関心

    をさらに深めていただければ、と思います。

    河村章代

    ■お知らせ

    「令和元年度連続講演会講演録」(非

    売品)ができました。高知県内図書

    館等で閲覧いただけます。また、当館

    本館の図書コーナーでも閲覧いただけ

    ます。ぜひご覧ください。

    「令和2年度連続講演会講演録」は

    令和3年5月頃に発行、ミュージアム

    ショップで有料販売予定です。

    ●会場/新館ホール

    ●定員/各回50名

    ●時間/各回ともに13時半〜15時半頃

    ●要事前申込・先着順

    令和二年度

    連続講演会

    「幕末再考ー変革への計と践」

  • 飛 騰 №114・6

    新型コロナウイルスの感染拡大を受け

    て、4月号の当コラムで紹介した桂浜の

    龍馬像から当館のシェイクハンド龍馬像

    前までの聖火リレーは中止となった。

    また、1か月に亘って休館することと

    なり、企画展に向けた県外の文化施設

    からの資料の借用や、講演会、ギャラリー・

    トークの取り止めなど、様々な計画の変

    更を余儀なくされた。

    この間の御来館を予定されていた皆様

    にはご迷惑をおかけしてしまった。

    休館中は、職場での三つの「密」を避

    けるために、在宅勤務や館内での職員の

    分散などを行いながら、開館に向けた

    準備や普段後回しとなっている作業など

    を進めることができたが、休日のステイ・

    ホームの要請もあって、個人的には、時

    間の余裕(?)が出来たことで、これま

    で「不急」の範疇に分類させていただい

    ていた書籍(失礼の段、何卒ご容赦を。)

    の数々に触れることができた。今回は、

    そうした中で、予期せぬ災禍への対応と

    いう点でも大事にしなければならない表

    題の二つの言葉に出会ったので、ご紹介し

    たい。先ず

    は「坐忘」。これは、龍馬が師と

    仰いだ勝海舟の言葉で、明治31年に刊

    行された「氷川清話」という勝語録とも

    言うべき冊子に出てくる。「坐」は、座る、

    跪く。あるいは、いながらにして、何も

    せずにという意味であり、「忘」と一体に

    なって、静座して目の前にある現実を忘

    ここは館長の部屋 髙松 清之

    「坐忘」と「胆識」 ―

    コロナ禍の中で

    れ、雑念を除くということのようで

    ある。大きな変動があり、計画どお

    りに物事を進めることが出来ず、不

    測の事態に直面する時の心構えであ

    る。曰く、「何事もすべて忘れてしまって、

    胸中濶然として一物をとどめざる境界

    に至って、始めて万事万境に応じて縦

    横自在の判断が出る」、「心を明鏡止

    水のごとく研ぎ澄ましておきさえす

    れば、いついかなる事変が襲うてきて

    も、それに処する方法は、自然と胸

    に浮かんでくる」。そして、「かの広島

    や品川の談判も、ひっきょうこの不用

    意の用意でやり通したのさ。」と語って

    いる。なるほどと、思わず頷いてしまっ

    た。ただ、こうなるには「平生の修行

    さえ積んでおけば」との条件が付いて

    いて、得心はしたものの、コロナ騒動

    の中で、「一体どうなるんだろう」、「あ

    あなったらどうしよう」などと無暗に

    気に病む今の自分には、とても、とて

    も・・・である。

    なお、「談判」とは、ひとつは、第二

    次長州征討停戦を巡る長州藩の広沢

    真臣や井上馨との宮島での会談であり、

    もう一つは、江戸城総攻撃を前に、高

    輪や田町の薩摩屋敷で行われた西郷

    隆盛との会談を指している。

    さて、次に「胆識」である。この言

    葉を見つけたのは、2年ほど前に、熊

    本県の松﨑昇さんという方から寄贈い

    ただいた『あしたへの論語―サラリーマ

    ン三〇〇〇日の「人間学」探求―』の

    中である。この900ページにも及ぶ

    大著は、学がく

    じ而編に始まり尭ぎょうえつ日編に至

    る論語の500を越える各章について、

    逐次ユーモアを交えながら、親しみや

    すく、読みやすい解説を加えられたも

    ので、随所に龍馬や西郷さん、そして

    吉田松陰先生などに纏わるエピソード

    や語録などがとりあげられている。こ

    うしたこともあって、上梓されて間も

    ない頃に当館に御寄贈いただいたもの

    だと推察しているのだが・・・。

    松﨑さんは、孔子の高弟の一人とさ

    れる子貢に対して「胆識」を感じると

    述べられ、ある陽明学者の方の「物を

    多く知っているということだけでは単

    なる知識の寄せ集めに過ぎない。しか

    し、それが数々の実践として練られる

    と見識へと変わる。さらに、それが繰

    り返し練られると遂には自然に胆識

    と言われるものへと変わる」という言

    葉や、ある医師の方の「侍魂のような

    ものがすなわち"胆識"というものじゃ

    ないでしょうか・・・知識や経験の上

    に乗っかってドンと肝を据える。そう

    いう心境にならないと本当の"胆識"

    というものは生まれてこない・・・」といっ

    た説明などを紹介されている。

    これまた納得であるが、私など凡

    人が、そうした高みに昇ることは至難

    の業であることは論を俟たない。

    因みに、龍馬が論語を学んだかど

    うかは不明のようである。ただ、大

    正15年に本県出身の歴史家岩崎鏡川

    によって刊行され、その後の龍馬研究

    のバイブルの一つとされる「坂本龍馬関

    係文書」では、巻頭で、「先生は平生

    老子を耽讀したとのことであります

    が、其飄ひょういつ逸虚無の趣、これによりて

    得たものと思はれます、・・・先生の

    書翰中には意外にも時々経典の成句

    に接することがあります。」と述べら

    れている。

     初老を迎えた私にとっては今更の感

    ではあるが、コロナ禍の再燃も懸念さ

    れ、また、変化が激しく、見通しが

    難しい時勢にあって、僅かずつではあっ

    ても「胆識」の涵養に努め、「坐忘」の

    心境に近づきたいと思う日々である。

  • 7・龍馬記念館だより

    学芸員の視点❷ 髙山 嘉明展示と展示のあいだに

    郷士が担った

    京都の治安維持

    令和元年度の企画展「長宗我

    部遺臣と土佐の郷士」では、「郷

    士年譜」(高知県立高知城歴史博

    物館所蔵)という資料を展示し

    た。これは藩からの指示にもと

    づいて郷士が提出した各家の履

    歴書で、先祖代々の事績が記さ

    れている。過日これを精査する

    機会があったが、その際、調査

    の目的とは関係のない次の記事

    に目がとまった。無名の郷士と

    いうべき、山下登一郎という人

    物の事績の一節である。

    「郷士年譜」(全 67巻のうちの一部)の表紙

    「京都警衛の御用を命じられ、元治元

    年3月25日出発、上京した。清和院門の

    番を勤めていたところ、7月18日夜より

    大乱となった際、大砲掛に任ぜられ、そ

    のまま取締の任務を続けていたが、7月

    24日清和院門を引き揚げとなり、大坂陣

    屋詰めを命じられ、木津川口の番を勤め

    た。同年11月御役御免となり、帰国した。」

    (「郷士年譜」45巻、意訳)

    この記事に接して私が思ったのは、前

    年の平成30年度に担当した企画展「御所

    をまもった土佐の士」のことである。そ

    の展示等において明らかにできなかった

    重要な事実が、この短い記事にたくさん

    詰まっていたのである。そのうち一点の

    み記すと、文久3年5月より土佐藩が命

    じられた清和院門(御所の出入口である

    九つの門のひとつ)警衛の要員に郷士が

    充てられたことは、当然の可能性として

    指摘はしたが、具体例は見つけられな

    かった。この例こそ、まさにそれである。

    坂本権平の上京

    同じく「郷士年譜」のうち、龍馬の兄

    坂本権平が明治3年に藩へ提出した「年

    譜書」がある。これの存在は有名で、『坂

    本龍馬全集』という史料集では活字で読

    むことができる。そのうち、権平の事績

    として、次の一節がある。

    「文久3年1月27日、臨時御用での京都

    行きを命じられた。同年10月、兵之助様

    の御供を命じられ、帰国した。」

    (「郷士年譜」55巻、意訳)

    事実関係として、文久3年1月に臨

    時の御用(仕事)を命じられて上京、10

    月に山内兵之助(容堂の弟)の御供とし

    て帰国したことが明らかとなる。ちなみ

    に、いわゆる脱藩の身であった龍馬が文

    久3年3月20日に姉乙女に宛てた手紙に

    は、今後の自身の生き方について、当時

    京都にいた「あにさんにもそふだん」し

    たと書かれている。

    さて、問題は権平の臨時御用の内容で

    ある。これも、「御所をまもった土佐の士」

    展の内容との関連が考えられる。文久2

    年頃より土佐藩は本

    格的に京都へ進出し、

    朝廷からは、薩摩・

    長州両藩とともに当

    地の治安維持を担う

    存在として期待され

    た。その後、上に述

    べたように清和院門

    警衛が命じられるが、

    その現地責任者こそ、

    権平が帰国の御供を

    したと記される山内

    兵之助だったのであ

    る。権平に与えられ

    た臨時御用が、京都

    警衛への従事を含む

    ものであったことは

    大いに考えられるだ

    ろう。坂本家も京都

    警衛の動きと無関係

    ではなかったことに

    なるのだが、展示で

    この事実を紹介する

    には至らなかった。

    企画展を担当すると、展

    示や関連企画の準備として大

    小さまざまの調査をおこなう。

    その成果は、解説文や論文に

    活かされることもあれば、諸

    事情によりそれから漏れるこ

    ともある。会期が終了すれば、

    一旦そのテーマは頭から離れ

    るが、逆に、次の展示の調査

    を進めるなかで、過去の展示

    に関連した新たな知見を得る

    こともある。その時、なぜあ

    の展示に活かせなかったのか

    と後悔するのである。時すで

    に遅しではあるが、この場を

    借りて、私の直近の後悔を表

    明する機会とさせていただき

    たい。

    研究に終わりはないなどと高説を垂

    れるようなレベルの話ではなく、むし

    ろ成果の不完全さを反省しなければな

    らない。適時取りこぼしのないように

    することが一番ではあるが、それがな

    かなかできない以上、ひとつのテーマ

    に一区切りがついた後も、それについ

    てのアンテナは常に張っておきたいと

    改めて自戒するところである。

  • 飛 騰 №114・8

    ■ 「龍馬と船」 海の見える・ぎゃらりいでは、現在「幕末の志士人気ベスト10」展を9月30日まで開催しています。展示には人物写真と共にその人物を選んだ理由も添えてあります。いつ終息を迎えるか分からない新型コロナウイルスの現状況ですが、幕末の時代にも新しい明るい未来を信じ生きていた人々のように、ご自分なりの人物を選び、前向きなエピソードを探してみると、元気がでるかもしれません。 そして、同会場東壁面側では、6月23日まで開催されていた企画展「幕末と船」展に因んで、黒船など、幕末にまつわるボトルシップ7点とNHK大河ドラマ『龍馬伝』(2010年1月~11月放映 脚本:福田靖/チーフ演出:大友啓史)で小道具として使用された船模型を展示しています。 この模型は、ドラマの中で、主役の坂本龍馬(福山雅治さん)が来航した黒船を見て、「黒船はどうゆう仕組みになっちゅうがやろう」と作ったものです。 嘉永6年(1853年)、実際龍馬が目にしたペリー提督率いるアメリカ合衆国艦隊の黒船は、サスケハナ 号( 旗 艦 / 蒸 気船)・ミシシッピ号(蒸気船)・サラトガ号(帆船)・プリマス号(帆船)の4隻でした。 ドラマの中では、龍馬が巨大な黒船を初めて目にした時の衝撃や、言

    「飛騰」は郵送料のみのご負担でお届けいたします。購読希望の方は120円切手をご希望回数(4回分まで)お送りください。〒781-0262 高知市浦戸城山830 高知県立坂本龍馬記念館「飛騰」購読 係 まで

    海の見える・ぎゃらりい

    開館時間 9:00~17:00 年中無休入 館 料 一般 500円(企画展開催時 700円) 高校生以下無料高知県・高知市長寿手帳所持者、療育手帳・身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・戦傷病者手帳・被爆者健康手帳所持者とその介護者(1 名)は無料

    〒781‐0262 高知市浦戸城山830TEL(088)841‐0001 FAX(088)841‐0015http://www.ryoma-kinenkan.jp

    「飛騰」に対するご意見ご感想などお寄せください

    館だより“飛 騰”第 114 号(年4回発行)表紙題字:書家 沢田 明子氏発行日 2020(令和2)年7月1日発 行 公益財団法人高知県文化財団    高知県立坂本龍馬記念館

    入 館 状 況2020年6月20日現在

    (1991年11月15日開館以来 28年218日)

    ◆入館者数 4,301,974人

    ■リニューアルオープン(2018年4月21日)以来 365,214人

    編集後記

    新型コロナウイルスの流行が続き、私たちの「日常」は新たなかたちに変化しつつあります。当館でも3月に2週間あまり、4月に約1ヶ月休館し、消毒液や受付の仕切り板設置など万全の準備をして再開館いたしました。状況が変動するため、今年の夏休みはたくさんの皆さまにお越しくださいと言いづらいところもありますが、「飛騰」を通じての発信はこれまで通りつづけてまいります。(か)

    展示風景 「龍馬伝」の船模型

    葉にし難い感動と興味を、船作りに没頭した姿で描かれていたのを思い出します。 模型は流木の船体に外輪を着け、木の枝を舳として紐で結び、和紙を枝に貼った3本のマストを立て、味わい深い素朴な作りになっています。 ところで、皆さん「船首像」というのをご存じでしょうか?航海の安全を願って帆船の舳に取り付けた彫刻のことです。その歴史は古代ギリシャ・ローマ時代の船にまで遡るそうです。 船首像には信仰の対象などを彫ったものから、カティ・サークの妖精、女神、鷲などの像がみられます。企画展「幕末と船」展では「西洋軍艦構造分解図説」の中にも船首像が説明されており、ちなみに“黒船 サスケハナ”には鷲が取り付けてあったようです。また、本館地下1階に展示してある“夕顔”には女神像が、ボトルシップにも細かい船首像が付いています。 7月は海の日もあります。龍馬が愛した船と海を、是非記念館へ観にいらしてください。

    中村 昌代

    職員紹介

    「龍馬の魅力」

    渡辺 芙月

    5月より龍馬記念館に

    勤務しております。高知で

    育ち、大学卒業後は語学習

    得や観光業に従事するため

    海外で過ごし、今年2月に

    高知へ戻りました。日本の

    行く先を憂慮し、より良い

    日本を目指し奔走した坂本

    龍馬。その行動力や志の強

    さが龍馬の魅力の一つだと

    思います。記念館を訪れた

    方々が龍馬の生き様に触れ、

    志を新たに希望を持ち生き

    ていける、そのお力になれ

    るよう、日々努力してまい

    ります。どうぞよろしくお

    願い致します。

  • 1・現代龍馬学会

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会

    長崎の風頭公園に建つ

    「坂本龍馬之像」は平成元年

    5月建立から、昨年で30年

    を迎えた。

    龍馬と海舟のレリーフ

    5月18日、式典当日は荒天とな

    り、銅像近くにあるH矢太楼〔長

    崎龍馬会法人会員〕を会場として

    式典を開催した。

    30年という節目でもあるが、今

    回の式典は特別な想いで迎えるこ

    ととなった。銅像製作者である山

    崎和國先生が前年ご他界された。

    当会では毎年の除幕記念日に合わ

    せて銅像磨きを行っているが、そ

    の時に先生が金粉塗

    料で装飾をされるこ

    とで龍馬之像の様相

    は年々輝きを増して

    いた。製作者が30年も

    の間、銅像に装飾を加

    えてきたことの方が

    異例かも知れないが。

    先生は病床で式典に

    向けて記念グラスを

    制作、寄贈したいと語

    られていた。そこで、

    勝海舟の玄孫でガラ

    ス工房を営む髙山み

    な子氏へ是非製作を

    依頼しようと先生と

    話を進めていたが、残

    念ながら企画の段階

    梅太郎は、江戸で出

    会った米国人女性

    と結婚、ダグラス氏

    はその曽孫である。

    一方、龍馬は、亀山

    社中設立後に才谷

    梅太郎を名乗るが、

    長崎で小曽根家に

    出入りする龍馬は

    梅太郎のことを知

    らされたはずで、両

    名の一致は偶然で

    はなく、龍馬が師匠

    の息子の名を拝借

    したのだと考える

    と面白い。

    式典では、演奏者

    にも出演して頂い

    たが、月琴奏者の琴

    音さんは、龍馬の妻のお龍に月琴

    を教えた小曾根キクが最後の弟子

    だと語ったという中村きらさんの

    孫である。つまり、キクの月琴を

    引き継ぐ演奏者と言える。

    龍馬之像建立の想い

    今回、建つうで会の活動時から

    の念願が叶った。銅像建立活動中

    の昭和63年秋に開催したイベント

    「龍馬の夕べ」で熱唱した河島英

    五さんがステージ上で「龍馬像が

    建ったらまた呼んでくれよな」と

    言われた。その言葉を忘れること

    はなかったが、かなり後年になっ

    て英五さんに会い、龍馬之像建立

    の報告と来崎をお願いしたのだが

    結局それは叶わなかっ

    た。その心残りを果たす

    のは今回しかないと思

    い立ち、バンド活動をし

    ている息子の河島翔馬

    さんに会い事情を説明

    した結果、なんと英五さ

    んのご伴侶、孫たちも一

    緒にファミリーでの来

    崎となった。そして念願

    だった「龍馬のように」

    を父の替わりに歌って

    もらうことができ、もう

    一曲、遺作となった「旧

    友再会」を多くの出席者

    と一緒に歌うこともで

    きた。

    30周年の記念誌に銅

    像建立活動の記録も

    やっと掲載でき、これで建つうで

    会の活動がようやく大きな区切り

    を迎えたと実感した次第である。

    今回の式典には、ご挨拶頂いた

    田上市長、県文化観光国際部岩田

    正嗣次長、全国龍馬社中橋本邦健

    会長、翌日のシンポジウムで講演

    頂いた司馬遼太郎記念館上村洋行

    館長様、演奏者、そして北海道か

    ら鹿児島までの各地の龍馬会会員

    など多くの方々に集って頂いた。

    30周年式典をそういう交流の場と

    することができたことに改めて感

    謝の意を表したい。

    なお、翌日のシンポジウムの様

    子は、式典・交流会と共に映像に

    記録している。

    長崎、坂本龍馬之像 建立30周年式典に集う

    でお亡くなりになられた。それで、

    残された手書きのメモを基に髙山

    氏とデザインを詰めて龍馬グラス

    を完成させ、交流会でお配りする

    ことができた。また、式典を前に、

    山崎先生のご長男で画家である誠

    一氏から、先生が生前、制作され

    ていた龍馬と海舟のレリーフが銅

    像製作所に保管されていることを

    知らされた。そこで、早速そのレ

    リーフを受け取り、フランスから

    帰国しご出席された誠一氏に紹介

    して頂くとともに、坂本家十代の

    坂本匡弘氏と髙山みな子氏へ贈呈

    することとなった。先生は式典へ

    の出席は叶わなかったが、式典に

    こういう形でご参加されたわけで

    ある。

    式典には、龍馬と関わりの深い

    人物のご子孫としてこ

    のお二人の他に、小曽

    根家当主小曽根吉郎ご

    夫婦、小曽根キクの曽

    孫小曽根克秀氏、同小

    曽根淳二氏、そして遠

    く米国から勝海舟の玄

    孫ダグラス・スティフラー

    氏もご参列頂いた。海

    舟が長崎で出会った女

    性との間に梅太郎が生

    まれる。その母親が若

    くして死去後、その梅

    太郎を江戸の勝家へ送

    り届けたのが小曽根家

    であり、その時に若き

    娘であったキクも同行

    したとのことである。

    長崎龍馬会顧問柴崎 賀広

    私のテーマ

    山崎誠一氏 ダグラス・スティフラー氏

    長崎検番 琴音さん 河島翔馬さん

  • 飛 騰 No.114・2

    「麒麟がくる」… 明智伝説と坂本龍馬 … 坂本世津夫 さん

    はじめに 今回は、坂本世津夫さん(愛媛大学教授)へのインタビューです。お若い頃は銀行マンだったと聞いていますが、卓越した ICT能力を活かして大学で教鞭をとられるようになりました。現在は愛媛県西予市在住ですが、もとは南国市領石の坂本家先榮の地がご実家です。しかも「坂本」姓。明智伝説の伝承も含めて、大河ドラマ「麒麟がくる」の話にも発展しました。今年の現代龍馬学会の研究発表会は残念ながら中止となりましたが、来年の大会で詳しいお話をお聞かせいただけるものと期待しています。� (聞き手:宮 英司)

    明智家と坂本家の関係

    ―――大河ドラマの「麒麟がくる」を楽

    しく視聴しています。明智光秀がどのよ

    うに描かれるのだろうかという期待感

    もありますが…。もう一つは、明智光秀が

    坂本龍馬のご先祖様ではないかという

    説もあると聴きました。そのあたりをわ

    かりやすく教えてください。

    今年(令和2年)、明智光秀をテーマ

    としたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が

    放送されています。坂本龍馬といい、明智

    国立大学法人愛媛大学 社会連携推進機構教授「地域連携コーディネーター」

    光秀といい、時

    代の転換点に

    現れた人物は

    みな土佐との

    関係が深いで

    すね。それは何

    故なのでしょう。

    「麒麟」は、仁

    政を行う王の

    元に現れると

    される伝説の

    動物らしいです

    が、「龍」も同じです。光秀と龍馬は

    家系という点でも、意志(志)という

    点でも繋がっていると思います。想像

    してみて下さい。430年前まで南

    国市の北部には長宗我部元親の居

    城である岡豊城がありました。長宗

    我部元親は、長宗我部氏第20代当

    主・長宗我部国親の長男で、第21代

    当主です。母は、美濃斎藤氏の娘(号

    祥鳳)。正室は、石谷光政(足利義

    輝の家臣)の娘で、石谷頼辰・斎藤利

    三の異父妹です。側室には、明智光

    秀の妹の娘がいます(側室:小少将、

    明智光秀の妹の娘)。そして、長宗我

    部元親の嫡男である信親(天正14

    年12月12日(1587年1月20日)

    戸次川の戦いで死亡、享年22)も、正

    室は石谷頼辰

    女となっています。

    このように、長宗我部家は、国親、

    元親、信親と三代にわたり、美濃の

    斎藤家(土岐氏)関係者から夫人

    を迎えています。斎藤利三は、明智

    光秀の重臣であり、前室は斎藤道三

    の娘であったと言われていますが、史

    料的に明確なものではないようです。

    後室は、稲葉一鉄の娘であり、斎藤利

    宗、斎藤三存、それに末娘の福(春

    日局)らを産んでいます。そして、福

    は稲葉重通の養女となり、江戸幕府

    の第3代将軍徳川家光の乳母とな

    りました。福は、山崎の戦い(天正

    10年(1582年)6月3日(西暦

    7月2日)、古来「天王山の戦い」と

    言われている)の後、義理の叔父であ

    る長宗我部元親を頼り、土佐の岡

    豊城で過ごしたという説がありま

    す。才

    谷に近い南国市亀岩には、昔、

    坂本城がありました。その城跡には、

    墓石に「坂本家先祖 

    初代ハ亀岩

    坂本城々主坂本喜三兵衛天正十年

    近江坂本城落城後土佐ニ来リ長曽

    我部元親ニ任ヘル父は近江坂本城々

    主明智左馬之助光春ト伝ハル」と書

    かれた墓があり、「明智左馬之助光

    春 

    妻 

    明智十兵衛 

    光秀 

    女」と書かれた墓もあります。最近

    の墓石ではありますが、その背後に

    古い墓石があり、家紋は桔梗紋(丸

    桔梗)です。

    この古い墓石は、斎藤利三の墓と、

    うり二つの形状をしています。坂本

    龍馬の先祖(土佐での初代)にあた

    る坂本太郎五郎の墓は、亀岩の隣の

    谷である才谷にあります。太郎五郎

    には、本能寺の変のあと、明智光春の

    子どもが土佐に逃れ、旧才谷村に住

    み着いて百姓になったという根強い

    伝承があります。

    以下は、明智光秀の居城であった

    近江坂本城落城前後の逸話として、

    大津市下阪本の天田省三氏より伺っ

    た内容です。

    「光春が帰城

    した時、家臣一

    同は大広間に

    集められ 

    光春

    の妻 

    倫子か

    ら、ここで全部

    死んだら明智

    家は芽を吹く

    春がない。軍資

    金も均等分け

    で家族数を掛

    けて包んだ。これを持って親戚や身

    寄り頼り落ち延びてほしい。身寄り

    の無い人は親戚の四国大名長宗我

    部元親公に依頼状を書くからと家

    臣を説得中だった。家臣達は城を枕

    に討死玉砕と決意を述べての押し問

    答だった。光春は帰城するなり一同を

    見渡した。本能寺攻め同様に家臣は

    離反者や裏切り者無く、全員が揃い

    玉砕を希望していた。光春は妻の意

    見に賛同し、坂本城は明智家や妻木

    家の老将で籠城して戦うから妻のい

    う様にせよと命令した。更に我ら夫

    婦の子 

    兼助を土佐の元親公の下へ

    同伴してやってくれと依頼した。」と

    あります。

    また、明智左馬助光春の子孫、坂

    本龍馬の名付由来として、「みずうみ

    を 

    渡る明智の陣羽織 

    墨絵の龍も 

    天に昇りて」とも言われています。

    ※日本武士道の美談「唐崎の

    駒繋ぎ松にて愛馬大鹿毛との別れ」

    (西教寺)

    また、最近の研究ですが、坂本太

    郎五郎は明智光秀の実子ではないか

    という説も出てきています。斎藤利

    三の子、福(春日の局)も、明智光秀

    の実子ではないかと。明智一族である

    土岐氏は、結局は「本能寺の変」で

    滅びましたが、福(斎藤利三の娘=

    春日局)を要にして、徳川で再興を

    明智光秀 長女の墓

    明智光秀 長女の墓

  • 3・現代龍馬学会

    「麒麟がくる」… 明智伝説と坂本龍馬 …

    profile

    坂本世津夫(さかもと・せつお)

    高知県南国市生まれ。2002

    年4月から2005年3月まで、

    愛媛大学にて「地域情報学」(伊予

    銀行寄附部門)を担当。2005

    年4月から2011年3月まで、

    高知大学国際・地域連携センター

    教授(生涯学習部門長)。2014

    年10月より愛媛大学社会連携推進

    機構教授(地域連携コーディネー

    ター 南予担当)。2019年10

    月より愛媛大学地域協働センター

    南予・副センター長。

    日本の情報化を、地域という視

    点で見直し、地域における「知的

    能力」と「コミュニケーション能

    力」を高めることにより、新たな

    産業集積や地域の活性化(地域の

    自立)が実現できないか、研究・

    実践している(ICT利活用促進)。

    地域情報化アドバイザー(総務

    省)、地域活性化伝道師(内閣官

    房)、一般社団法人日本テレワーク

    協会アドバイザー、現代龍馬学会

    (理事)、マイルドさ国党(党首)等

    インタビューインタビューインタビューインタビューインタビューインタビューインタビューインタビューインタビューインタビュー話題人

    図ったのだと想像しています。そして、明

    智光秀も、天海として、「見ざる、言わざる、

    聞かざる」の中に、再興を果たしたのでは

    ないかと想像しています。全ては、日光東

    照宮に封印されてしまったのかもしれま

    せん。そういう意味では、「本能寺の変」の

    目的はいったい何であったのか。一義的には、

    やはり、土佐にいる土岐一族を救いたいと

    いう意味もあったのだろうと思います。織

    田信長にとっては、やはり土佐は脅威でし

    た。しかし、他にも理由があるのかもしれ

    ません。時代が下り、坂本龍馬が暗殺さ

    れた理由(目的)は何であったのか、光秀の

    「役割」と似かよっている部分があるよう

    に思えてなりません。

    ―――少しダブりますが、明智家と坂本家の

    つながりを明快に…。それと坂本先生とのつ

    ながりも、ぜひ教えてください。

    明快に、ですか、難しいですね。以上述

    べたように、美濃の斎藤家、明智光秀とは、

    長宗我部国親、元親、信親と3代に渡り

    深い関係がありました。理由は、斎藤家

    が武勇に長けており、その血が欲しかった

    のではないかと思います。それが逆に織田

    信長や他の四国勢(三好、河野、十河)に

    とっては次第に脅威になっていったのではな

    いかと考えています。

    亀岩にある坂本家が、「本能寺の変」の

    前になるのか、後になるのか調べる必要が

    ありますが、まだ調べていません。令和元

    年6月30日(日)、高知県立坂本龍馬記

    念館主任学芸員の亀尾美香氏、南国市岡

    豊町在住の窪添氏(南国市宍崎出身)と

    一緒に、宍崎にある「薬師」の確認に行っ

    てきました。この薬師は、坂本家の先祖

    が、京都(山城の国)から逃れるときに運

    んできたものだそうです。そして、坂本十

    兵衛重家が土佐に来た最初の者であると

    いうことです。まだ、詳細な調査ができて

    いません。坂本姓ですが、本能寺の変のあ

    と日本の各地に逃れた明智光秀の家臣に

    「坂本」の姓を

    名乗らせたと聞

    いたことがあり

    ます。本能寺の

    変の前から土佐

    に住んでいた明

    智や斎藤の家臣

    も、坂本姓を名

    乗ったのかもしれ

    ません。亀岩に

    は、当時の古い墓

    石が沢山ありま

    すが、「坂本」とか

    「阪本」という

    姓が多いようです。近江の坂本城で

    すが、地名は「下阪本」になり「阪」

    の字です。明智光秀の菩提寺「西教

    寺」があるのは「坂本」という地名

    になります。大阪も、昔は大坂だっ

    たと思いますが、坂と阪には、武士と

    商人の違いがあるのではないかと考

    えています。

    私の先祖も、本能寺の変以降か以

    前かは分かりませんが、400年以

    上前から領石(本家は亀岩)に住ん

    でいると思います。当然、先祖は明

    智光秀と関係があるのではないかと

    考えていますが証拠はありません。

    理由は、昔は家系や重要な事柄は、

    嫡男(長男)に口頭で伝達するのが

    しきたりで、資料(書き物)として

    は残していないからです。

    地域の本当の歴史を読み解く為に

    ―――いま、愛媛大学ではどのようなこ

    とをご指導されていますか?また、先生

    の今後の研究テーマ、または力を入れて

    いきたい分野を教えてください。

    愛媛大学では社会連携推進機構

    に所属し、愛媛県南予地域の地域

    連携コーディネーターをしています。

    南予9市町の地域課

    題(ニーズ)と、大学の

    シーズを連携させる仕

    事をしています。昨年

    10月には愛媛大学地

    域協働センター南予が

    西予市宇和町に設置

    され、副センター長に

    就任しました。西予市

    は、長宗我部元親が四

    国を平定する上でも、

    また坂本龍馬が脱藩

    する上でも、非常に重

    要な場所です。

    今、一番力を入れているのは、哲学、

    歴史、文学、社会学などの研究です。

    ギリシア哲学から、老子・荘子、ウィ

    トゲンシュタインの言語哲学まで、幅

    広く研究をしています。また、異能

    人材を育成するために「西予開成

    塾」を立ち上げ、天才児教育にも取

    り組んでいます。

    ―――最後に、現代龍馬学会の会員へ

    一言お願いします。

    研究というものは、やはり予測を

    立てて、それを実証していくことだ

    と考えています。仮説、推論、実証で

    す。トロイア遺跡を発見したハイン

    リッヒ・シュリーマンは、幼少のころに

    ホメーロスの『イーリアス』に感動し

    たことが、トロイア発掘を志したきっ

    かけだったそうです。シュリーマンの

    時代には、インターネットという手段

    はありませんでしたが、現代は巨大

    なデータベースを串刺しにして(駆

    使して)、地域の本当の歴史・姿を読

    み解くことが可能です。単に一地域、

    一人物の研究ではなく、歴史的な側

    面からも仮説を立てて、地域に足を

    運んで実証していくことが何よりも

    重要であると思います。

    薬師堂と坂本十兵衛重家の墓

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会

    第12回総会書面議決のご報告

    新型コロナウィルス感染拡大防止のた

    め、第12回総会を中止し、2020年度

    の事業計画や予算等の総会審議事項につ

    いては書面議決を行いました。

    その結果は次の通りです。

    会員数 119名

    第1号議案(1)(2)(3) 

    賛成73名 反対0名 回答なし46名

    第2号議案(1)(2)

    賛成73名 反対0名 回答なし46名

    以上により規約第9条(議決)に基づき、

    すべての議案について、過半数の賛成をもっ

    て可決されましたことをご報告いたします。

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会

    会長 宮 英司

  • 飛 騰 No.114・4

    高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会〒 781-0262 高知市浦戸城山 830

    TEL(088)841- 0001 FAX(088)841- 0015mail:[email protected]

    足利市の渡良瀬橋(車道鉄橋)

    岡上家墓地と背景にある湖沼(池)。筆者の母・綾子(花飾りのある十字架)の埋葬式。筆者は26 歳(右端)=昭和 41(1966)年 4月、高知市丹中山で

    コラム・龍馬のこと

    寺院の求めに応じて絵を描くのが私の本業であるが、折々好き勝手に龍馬を描きはじめたのは、誕生日、次男坊、大柄などと共通点を見付けては楽しくなり、ちょっと筆を走らせたのが抑々のきっかけであった。

    龍馬を描くに外せない三つの特徴がある。「蓬髪」「紋付」「ブーツ」である。乱れ髪は最も龍馬らしいから外せない第一の条件、家紋は坂

    本家というより、龍馬を限定できて外せない。そして全身像となるとやはりブーツは入れたい。

    台に寄り掛かった有名な写真、ブーツを履き遠望する様な眼差し、更に手を組み刀を落し差しにした様なもう一枚の写真、いずれもブーツがバッチリ。

    遠望というより「近視だから」という声もある。「ブーツ」は撮影用の小道具という声もある。が、描く時にはその声は聞こえない。もとより学術的な意味は無いのだから好きに遊ぶ。

    龍馬は乱れ髪の方が、そしてブーツを履いて闊歩する方がよく似合う。

    海外との交易を目指していたというから、二曳きの隊旗を翻して波頭を乗り越えて進む遠望の図という方が絵になる。

    龍馬を中心に海援隊を描いた。顔のわからない人は想像で補う。後年、政府の要人となり威厳ある髭をたくわえた姿の、陸奥宗光など、時代の雰囲気が出て面白いと、他の侍姿の隊士達の中に描き入れたり、海援隊設立時には、既に故人となっている近藤長次郎、池内蔵太も当然入れた。

    いやはや絵とは楽しい、一つの画面に時間を超越して人物達が並ぶ。さて又、ボチボチ龍馬と画面の中で遊びましょうか。

    「龍馬を描く」江本象岳(仏画家)

    高知市丹た ん

    中ち

    山の坂本家の墓地から南西やや下方に、岡おかのうえ

    上家墓地が見える。しかし、その存在を知る人はごく僅かだろう。坂本家墓地からゆっくり歩いて3、4分ほどの所だ。時折参拝して下さる方もいるらしく、小銭や菓子など、時には酒の小瓶が岡上新

    し ん す け

    甫の墓前にある。新甫以前の岡上家代々の墓地は高知市薊

    あ ぞ う の

    野の真宗寺山の4か所にある。

    時は安政 5(1858)年に遡る。この年、岡上新甫と坂本乙女の間に長男・赦太郎が生まれた。因みに、坂本龍馬が乙女に宛てた手紙に記した社太郎はこの赦太郎であり、龍馬の当て字である。

    それはさておき、赦太郎は明治4(1871)年 1 月 29 日 14 歳にして病没した。大変可愛がっていた夫妻は嘆き悲しんだことだろう。当時の上町から真宗寺山はかなり遠い、丹中山ならすぐ近くである。恐らく乙女の計らいで坂本家墓地の近くに土地を求めたと思う。そして、夫妻は交代で赦太郎の夜

    伽と ぎ

    をした。そのとき新甫は雨に打たれて風邪をひき、それが元で病没した。明治 4 年 7 月3日享年 56 歳で、赦太郎没後僅か 5 か月後のことであった。

    さて、現在の岡上家墓地の周辺は新興住宅地となっているが、小生が若かりし頃は、この周辺はきれいな湖沼(池)で鯉や鮒などの魚影も見られた景色の良いところであった。数年前、歴史写真家の方から言われた。「汎

    ひ ろ つ ぐ

    告さん、この岡上家墓地は坂本家との縁故から考えて、歴史的に意義のある場所じゃき、絶対に他所へ移したらいかんぜよ!」と。

    「歴史的に意義のある墓地」岡上 汎告(坂本乙女の曾孫)

    “ 話してみるかよ ”

    こぼれ話ー 犬歩棒当記(四十二)ー

    歌枕を訪ねて

    川 

    ひとは何のために旅をするの

    か?経済合理主義者には不可解だ

    ろう。家でじっとしていたら老後

    のお金が貯まるのに。しかし多く

    のひとは「非合理な旅」に出るも

    のだ。以下に筆者の印象に残った

    旅の場所をカウントダウンしてみ

    よう。

    第七位 

    福島県・白河の関。松

    平定信がここだとした古代の関所

    址。芭蕉の『奥の細道』や能因法

    師の和歌で名高い歌枕。

    第六位 

    イタリア・フィレン

    ツェの旧市街地の風情。イギリス

    映画『眺めのいい部屋』(お嬢様

    の修学旅行)の強い印象。

    第五位 

    鹿児島県と宮崎県にま

    たがる霧島山高千穂の峰。もちろ

    ん龍馬・おりょうの登山で有名。

    龍馬ファンの聖地だが、登ったこ

    とがないという人が多いのは残念。

    第四位 

    エジプト・王家の谷の

    ツタンカーメン墓。少年時代に読

    んだ『ツタンカーメン王の秘密』

    を思い出してしみじみ。

    第三位 

    岩手県遠野市のカッパ

    淵。柳田国男『遠野物語』から。きゅ

    うりでカッパを釣ろうとする仕掛

    けあり。釣れないけど。

    第二位 

    イギリス・ロンドンの

    アビーロード。ビートルズのアル

    バムジャケットでおなじみの横断

    歩道。世界遺産になっていますよ

    ね?え、まだなの?

    第一位 

    栃木県足利市の渡良瀬

    橋。昨年、足利学校を見学して、

    案内所で観光パンフを手にしたら

    森高千里の楽曲「渡良瀬橋」がす

    ぐそこの橋だとあって仰天。な

    んとなく渡良瀬川にかかる橋はみ

    んなそんな名前かと思っていたが、

    橋のそばに歌碑まであってびっく

    り。これほど故郷と昔の恋をせつ

    なく歌った名曲が他にあるでしょ

    うか。まさに「夕日がきれいな街」

    「風邪をひいちゃいました」です

    よ。行けて良かった。

    ひとは「歌枕」を訪ねるもの。

    物語の力で動かされる旅人ですよ

    ね。