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80 日間沖縄一周ヨットの旅
2016 年 8 月 20 明星 亮一
1. 概要:江の島港を母港とする「雪風 VI」に乗って、2016 年 3 月 28 日に出港し、往路は紀伊半島
を回航後、高知県室戸岬、足摺岬を経て、宮崎県日南市を回航する南回りの航路にて沖縄県宜野湾
市へ。沖縄県近海の慶良間諸島を回遊した後、復路は鹿児島県枕崎から長崎、平戸、福岡を経由し
て関門海峡から瀬戸内海を航海する北回りの航路をとり、6 月 16 日に江の島港へ帰港した。正味
81 日間、約 2,632 海里(約 4,870km)の海の旅であった。
海から見る風景は視野が広く、各地の歴史や食文化などに
も接することが出来て興味深い経験であった。
2. 「雪風 VI」と船名の由来:「雪風 VI」は 1991 年 8 月進水、
(仏)Beneteau(ベネトウ)社製の FRP で、全長:45ft(約
14m)、一本マストのスループ型ヨットである。最大積載人
数は 32 名、ベット数は 8 名である。艇には GPS が 2 台、
自動船舶識別装置(AIS=衝突防止用レーダー)、エンジンは 江の島港を出港する「雪風 VI」
50 馬力のディ―ゼル 1 基などが搭載されている。「雪風」は日本海軍の主力駆逐艦(基準排水量
2,033ton、最高速度:35.5kn)で、ミッドウエー海戦、スラバヤ沖海戦、ソロモン海戦、レイテ沖
海戦から戦艦大和の沖縄特攻まで、16 以上の主要作戦に参加したが、一度も大きな損傷を受ける
ことなく終戦を迎えた「奇跡の駆逐艦」の名前から命名された。
3. 乗員:フル乗艇は 4 名、3〜4 名が各寄港地にて乗下船した。平均乗員数は約 7 名であった。最年
少の艇長が 67 歳、後は全員 70 歳以上であるが、ヨット歴 40 年以上のベテランである。艇長はコ
ースの決定、寄港地との連絡、筆者は会計係、その他、料理
長、漁猟長など分担が決まっている。操舵は 30 分交代で、
全員が担当した。
4. 費用:運航費(燃料費、各寄港地の係留費など)+食費=
5,000¥/日であった。
5. 航海日記:
1)「3 月 28 日:江の島港〜4 月 6 日:高知港 」
江の島を 7:30am.に出港、気温 14℃で寒い。全員冬装備 荒天の和歌山県 潮岬の灯台
で下田へ向かう。下田から御前崎の灯台を見て、遠州灘を通
過。静岡県磐田市の福田(ふくで)漁港に一泊して、
三重県尾鷲〈おわせ〉漁港へ、3 月 31 日に入港した。尾鷲漁
港から那智勝浦町の勝浦漁港へ、4 月 2 日は風速 20m/sec を
越える荒天のため足止め。翌日、荒天の潮岬を回航し、和歌
山県すさみ漁港へ入港した。4 月 6 日は晴れて、風も穏やか
であった。「雪風 VI」は黒潮に乗って快走し、室戸岬を 高知県室戸岬
回航して、14:30 に高知港へ入港、高知ヨットクラブへ着岸した。
全行程:約 440 海里(約 815km)10 日間の航海であった。
荒天の桂浜
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2)「4 月 7 日:高知港〜4 月 21 日:奄美大島」
4 月 7 日は風速:20m/sec を越える荒天のため、高知
港に足止めとなった。荒天の桂浜、高知城などを見学。
「ひろめ市場」にて鰹のたたきを食した。「ひろめ市
場」は土佐藩家老の深尾弘人(ひろめ)蕃顕(しげあ
き)の屋敷跡から命名されたそうである。4 月 8 日、
高知港から久礼(くれ)新港に一泊し、乗員の入替があ
った。4 月 10 日、久礼新港を出港し、足摺岬を回航 足摺岬の灯台
して、土佐清水港へ入港した。土佐清水では、足摺岬
の灯台や中濱萬次郎(ジョン萬次郎)の生家を見学し
た。ジョン萬次郎は漁師仲間 4 人と漁に出て遭難し、
(米)捕鯨船に救助されて、米国東海岸のフェア ヘ
ブンへ渡った。英語、数学、航海術、造船技術などを
学び、1851 年に帰国後、土佐藩の教師となり、後に
日米和親条約の締結に尽力した。4 月 12 日、土佐清
水港を出港、豊後水道を通過して宮崎県東臼杵郡の門川漁港 日向灘のイルカの群
へ入港した。4 月 14 日、門川漁港を出港、日向灘を
南下して宮崎県日南市の油津(あぶらつ)漁港へ入
港した。日向灘を南下する途中にイルカの群れに遭
遇した。4 月 14 日、油津を 21:25 に出港、屋久島へ、
約 91 海里、13 時間のオーバーナイトクルージング
を行い、屋久島には 4 月 15 日、10:30am.に入港し
た。 15m/sec を超す荒天のため、屋久島に三泊 屋久杉土埋木と西郷隆盛の碑
停泊した。屋久島では樹齢 2000〜3000 年の弥生杉や
土中から発見された屋久杉土埋木(どまいぼく)を見
学、また、西郷隆盛が奄美大島へ流される途中、屋久
島に上陸した記念碑があった。4 月 18 日、15:30 屋久
島を出港、奄美大島へ、再び、オーバーナイトクルー
ジングである。 10〜15m/sec と風は強く、うねりは
3〜5m、天気は小雨の悪条件の中、真っ暗の中で、
コンパスだけを頼りに 230±10°の進路を保つのに苦 奄美王島
労した。4 月 19 日、15:00 に奄美大島古仁屋港へ入港、約 170 海里、24 時間の航海であった
が、全員、船酔いもせず、4 月 19 日の朝食はピザトーストとクラムチャウダーを食した。
高知港から奄美大島まで、約 497 海里(約 920km)、14 日間の航海であった。
3)「4 月 22 日:沖永良部島〜5 月 7 日:沖縄県宜野湾市」
ここまで来ると、宜野湾まで約 165 海里(約 306km)と近い。4 月 22 日、奄美大島を出港、
天気:曇り時々雨の中を沖永良部島へ。沖永良部島は
奄美群島に属し、鹿児島県のほぼ南端(最南端は与論
島)に位置する、周囲:約 50km、人口:13,000 人
の小さな島である。西郷隆盛が奄美大島から更に流
されて、この地に 1 年 7 か月滞在した。地焼酎の
「昇龍」は逸品である。4 月 23 日に伊是名島(いぜな
じま)へ入港した。伊是名島は琉球王国の第二尚氏王統 伊是名島の尚円王の銅像と黒檀の樹
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(1469-1879年)の初代尚円王(1415-1476幼名は金丸)
の生誕地である。生家跡の公園には沖縄を目指す銅像
や沖縄地方特有のゲットー(葉に包んで餅を蒸す)、黒
檀の樹などが植えられていた。4 月 23 日、伊是名島を
出港し、4 月 24 日、伊江島へ寄港した。4 月 25 日、
遂に、沖縄県宜野湾市の宜野湾マリーナへ入港した。
江の島港を出港し、宜野湾マリーナまでの航程:約
1,102 海里(約 2,041km)、28 日間の航海であった。
4 月 26 日、首里城を見学した。首里城は 14 世紀末に 宜野湾マリーナに停泊中の「雪風 VI」
創建され、中国明朝の影響を受けた琉球独特の城で
ある。1945 年の沖縄戦を含め、三度の焼失があったが
現状の城は 1992 年に復元されたそうである。主な建物
は正殿、北殿、南殿、黄金御殿(くがにうどうん)な
どがある。正殿は国王が政治や儀式を行う。北殿は明
朝からの賓客の謁見、南殿は日本からの賓客の謁見、
黄金御殿は国王・妃の居住に使われた。北殿と南殿に
分けて謁見するなど二元外交の賢さが窺える。 琉球王国は、 首里城の正殿(模型)
14 世紀頃の三山時代(沖縄北部の北山、中部の中山、南部の南山)から始まり、第一尚氏
王統時代(1429-1468 年)を経て、第二尚氏王統時代(1469-1879 年)になって確立された。
琉球王国は 1609 年の薩摩藩の侵略により日本の支配下になったが、同時に、清朝に朝貢する
など二面外交を続けた。1879 年に明治政府の琉球処分により王国は崩壊し、沖縄県となった。
また、第二次世界大戦では、1945 年 3 月、55 万人の米軍が慶良間諸島から沖縄本島中部の
読谷村(よみたんそん)へ上陸し、激戦の後、約一ヶ月で、本島南部の糸満市へ押しやられ、
多くの一般人を含めて玉砕、実質的には 7 月に戦闘は
終わった。戦後、米軍の統治下に置かれ、1952 年の
平和条約により、日本の主権は認められたが、現在で
も米軍用施設の 74%が沖縄県に集中していることは
周知の通りである。筆者は 70 年前の戦跡を訪ねて、沖
縄の人々の思いを少しでも理解したいと思って、糸満市
の平和記念公園の「平和の礎(いしじ)」、「ひめゆりの
塔」を訪問した。翌日、本島北部の恩納村(おんなそん)、 ひめゆりの塔とサンゴ礁の防空壕
名護市の今帰仁城(なきじんぐすく=北山王の城)、美ら
海水族館などを見学した。また、5 月 5 日、沖縄県立
博物館、6日には、對島丸記念館(1944 年、米潜水艦に
より悪石島沖で撃沈され、学童疎開の生徒を含め 1484
名が犠牲となった)なども訪問した。なお、この記念館
には 2014年、天皇皇后両陛下が訪問されたそうである。
琉球人は約 1.8 万年前にアフリカから渡来した「港川人
(みなとがわじん)」と言われている。また、沖縄県の人口 美ら海水族館のジンベイザメ
は、363 の島を含め、約 140 万人である。主な産業は観光で、
サトウキビなどの一次産業は 2%に過ぎない。基地と約 3,300
億円の地域振興費により成り立っている県と推察した。 座間味島の
珊瑚礁
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4 月 29 日〜5 月 1 日、慶良間諸島の座間味島へ回遊した。座間味島は海水の透明度が高い
世界有数のダイビングスポットとして有名である。また、ウミガメの生息地でもある。
4)復路「5 月 8 日:沖縄県宜野湾市〜5 月 25 日:博多港」
5 月 8 日、沖縄県宜野湾マリーナを出港し、伊是名島や
沖永良部島へ停泊し、奄美大島南部の古仁屋港へ入港
した。5 月 11 日には、奄美大島北部の名瀬港へ回航
し、5 月 12 日、トカラ列島最南端の宝島(鹿児島県)
へ寄港した。宝島は周囲:約 14km、人口:130 人の小
さな島であるが、(英)海賊のキャプテンキッドが鍾乳洞に トカラ列島南端の宝島
宝を隠した伝説がある。沖縄本島は梅雨に入ったとの
情報あり、「雪風 VI」は梅雨前線を避けて、トカラ列島
を北上し、悪石島、平家の落人が最初に漂着したとの伝
説がある平島(ひらじま)、トカラ最大の島の中之島など
を通過して、口之島へ入港した。口之島も周囲:約 13km、
人口:125 人の離島である。5 月 15〜16 日は荒天の
ため、屋久島に足止めとなった。5 月 17 日、屋久島を出 大隅諸島の昭和硫黄島
港し昭和硫黄島(別名:鬼界ケ島、高さ 924m)と竹島の間を通過し、鹿児島県枕崎港へ入港
した。昭和硫黄島(小笠原諸島の硫黄島とは異なる)は硫黄の産地であったが、1964 年に閉
山した。また、俊寛が建立した熊野神社や壇ノ浦で入水
した筈の安徳天皇が漂着したとの逸話がある。枕崎港か
ら上甑島(かみこしきじま)を経由して、端島(軍艦島)
や三菱重工長崎造船所の巨大なガントリークレーンに
圧倒されながら長崎港へ入港した。5 月 20 日、長崎港
から五島列島の有川港へ入港、5 月 21 日には平戸大橋
を通過して、平戸港へ入港した。平戸城は 1599 年、松
浦鎮信(しげのぶ)が日の岳城として築城 三菱重工長崎造船所の巨大クレーン
したが、焼失し、家康の許可を得て、亀山城(現平戸城)
として再建された。松浦藩は六万石の小藩ではあったが、
南蛮貿易により栄えた。平戸島には隠れキリシタンの教
会や鄭成功の記念館もあり独特の文化のある町である。5
月 23 日、長崎県壱岐市の壱岐島 郷ノ浦港へ入港。壱岐
島には弥生時代の古墳「原ノ辻遺跡」がある。5 月 25 日、
壱岐島を出港し、玄界灘を航行し、志賀島 平戸大橋と急激な潮流
(しかのじま)と能古島(のこのしま)の間を通過して、
博多漁港へ入港した。志賀島は 1784 年漢委奴国王印(か
んのわのなのこくおういん)が発見されたとの説がある。
5)「5 月 26 日:福岡市歴史探索〜6 月 3 日:尾道港」
5 月 26 日、福岡城跡公園や福岡市立博物館を見学、5月
27 日に、太宰府天満宮、九州国立博物館や太宰府政庁跡
などを訪ねた。太宰府政庁は、奈良、平安時代に大和政
庁に代わって、国の外交を一手に引き受けた大切な史跡
太宰府市の太宰府政庁跡
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である。菅原道真公が京都から左遷され、太宰権師(だざ
いごんのそち)としてこの地で亡くなった。太宰府天満
宮はその墓の上に建立されたとのことである。5 月 28
日、福岡を出港し、関門海峡へ、13:00 に西流(逆潮
2 ノット(kn=海里/Hr)を確認して航行し、15:00 頃に
転流(東流=満ち潮へ転じる)となった。船島(巌流島)
や壇ノ浦を通過し、16:40 に新門司マリーナへ入港した。 関門海峡の壇ノ浦跡
65 海里、9時間の興味深い航海であった。5 月 29 日、
新門司を出港し、国東半島(くにさき)北端の姫島へ寄港
した。姫島はアサギマダラ蝶が、毎年 5 月に飛来、10 月に
は南方へ飛び立つことでも有名である。5 月 30 日、姫島を
出港し、伊予灘を航行して、愛媛県佐多岬半島の三机港へ
入港した。三机港は佐多岬半島のほぼ中央に位置し、近く
に伊方原発がある。5 月 31 日、三机港を出港、松山市北条
港へ、6 月 1 日、北条港を出港、瀬戸内海を航行し、大三島を 千光寺から見る尾道
通過して尾道港(海の家)へ入港した。6 月 2 日、新幹線に
て呉市へ、戦艦大和の「大和ミュージアム」や江田島の海上
自衛隊術技学校(旧海軍兵学校)を見学した。75 年前に建造
された戦艦大和の造船技術と若い海軍将校の国を思う心に
感銘した。6 月 3 日、尾道から阿伏兎瀬戸(あぶとせと)を
通過し、福山市鞆の浦港を経由して、福山市田島の内海フィ 江田島の旧海軍兵学校
シャリーナへ入港した。
6)「6 月 4 日:香川県高松港〜6 月 9 日:和歌山県田辺市田
辺漁港(綱不知浦)」
「雪風 VI」は、6 月 4 日、内海フィシャリーナを出港、
岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ「北備讃瀬戸大橋
-南備讃瀬戸大橋」(瀬戸大橋は 10 ヶ所の橋の総称)
を通過、高松港へ入港した。6 月 5 日は荒天のため、
高松港へ足止めになったので、高松城跡(別名玉藻城)、 北備讃・南備讃瀬戸大橋
源平合戦・古戦場跡の屋島を訪ねた。高松城は、1587
年、生駒親正が築城を開始し、その後、移封され、松
平種重(水戸光圀の兄)が入封して完成、1869 年の版
籍奉還まで松平の居城であった。縄張りは藤堂高虎と
の説がある。1184 年、一ノ谷の合戦に敗れた平宗盛が
安徳天皇を奉じて屋島檀ノ浦(山口県の壇ノ浦は檀が
異なる)に宮行を建立した。安徳天皇社である。駒立岩 高松港の手前にて屋島を望む
は荒れた海上の巨岩に駒を止めて、那須与一宗高が扇
を射った所である。その他、佐藤継信の菩提寺(洲崎
寺)などの遺跡が残されていた。6 月 6 日、高松港を
出港し、岡山県瀬戸内市の牛窓ヨットハーバーへ寄港
し、6 月 7 日、明石海峡大橋を通過して、新西宮ヨット
ハーバーへ入港した。明石海峡大橋は兵庫県神戸市垂水
区と淡路市岩屋を結ぶ世界最長の吊り橋(全長:3,911m)、 明石海峡大橋
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1988 年完成した。海峡通過時は追い潮により、艇速は
9〜10kn であった。新西宮ヨットハーバーは国内最大
のヨットハーバーである。6 月 8 日、新西宮ヨットハー
バーを離岸、兵庫県側の淡路島と和歌山県友ヶ島の間の
狭い友ヶ島水道(紀淡海峡)を通過して、和歌山マリー
ナシティ―ヨットクラブへ入港した。6 月 9 日、和歌山
マリーナシティヨットクラブを出港し、12:20 和歌山県
田辺市の田辺漁港綱不知(つなしらず)桟橋に着岸した。 新西宮ヨットハーバー
7)「6 月 10 日:和歌山県南紀白浜〜6 月 16 日:江の島港」
6 月 10 日、南紀白浜の千畳敷、三段壁洞窟、円月島などを
観光した。南方熊楠記念館は改装中のため閉館であった。
三段壁洞窟は、屋島の源平合戦の際、義経の渡海に協力し
た熊野水軍の出陣地である。その後、和歌山県すさみ漁港、
那智勝浦の勝浦漁港へ寄港して、6 月 12 日、三重県伊勢市
五ケ所浦の志摩ヨットハーバーへ着岸した。 志摩ヨット 南紀白浜の三段壁洞窟
ハーバーは昔から有名なハーバーで、鳥羽レースのスター
ト拠点である。また、途中で、古来捕鯨業(現在はイルカ)
の太地町や九鬼水軍の九木崎灯台を通過した。5 月 26〜27
日に開催された伊勢志摩サミットの海上警戒用ゴムボート
などが多数係留されていた。6 月 13 日、志摩ヨットハーバ
ーを出港、大王崎灯台を回航し、遠州灘へ入って間もなく
漁猟長が 80cm のシーラを釣り、続いてもう一匹釣り上げ
た。風が強まり、約 10m/sec のアビーム(横風)の風を 志摩ヨットハーバー
受けて、約 8kn にて快走し、夕方には静岡県磐田市の福田
(ふくで)漁港へ入港した。福田漁港は近くの浜岡原発の地域
振興費により整備された漁港で、道路の広さや立派な設備に
違和感をおぼえた。6 月 15 日、80 日間の沖縄宜野湾クルー
ジングはそろそろ終わりに近づいて来た。福田港を 6:20am.
に離岸し、遠州灘を順風にて航行、浜岡原発を左手に見た。浜岡原発は、5 基中 2 基が 40 年
経過、3 基が 2011 年から運転中止との由、早く運転を再開して貰いたいものである。
8:40am.には御前崎灯台を通過した。御前崎灯台から伊豆半島西岸までを 3 時間かけて横断
し、12:00 頃に遥かに富士山を見た。12:45 時頃、石廊崎灯台を通過、爪木崎灯台を回航して
15:20 に稲取漁港へ入港した。約 65 海里、9時間の航海であった。稲取港では金目鯛づくし
の夕食であった。6 月 16 日、いよいよ、最終日となった。稲取港を 7:00am.に出港、微風
曇りの中、大島の雄大な姿に魅了される。初島も良く見える。やはり、相模湾に入ると安心
である。一時、雨と濃い霧で視界を妨げられながら、12:00 に江の島港へ帰港した。復路は
約 1,492 海里(約 2,760km)の航海であった。全員、元気
に帰港できたことに満足した。また、桟橋に 10 名を超す雪
風メンバーの出迎えを受け、心温まる思いであった。全航
程は約 2,632 海里(約 4,870km)の航海であったが、メン
バーや友人、多くの関係者の方々のご支援、ご指導に心か
らお礼申し上げます。
以上 江の島港へ帰港