―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ -...

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■発行元:JICA 横浜 海外移住資料館 神奈川県横浜市中区新港 2-3-1 赤レンガ国際館 2 階 Tel:045-663-3257(代)URL:http://www.jomm.jp/  ■編集発行人:JICA 横浜 海外移住資料館 館長 北中 真人 Japanese Overseas Migration Museum News No.33 2014 Spring ウクレレ奏者 ジェイク・シマブクロさん 沖縄はぼくの一部 インタビュー ―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ

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Page 1: ―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ - JICA美しい海に囲まれた沖縄は、かつて琉球と呼ばれる王国でした。琉球王国は、 中国や東南アジアの影響を受けながら、独自の歴史を歩み、文化を育み、14世

■発行元 : JICA 横浜 海外移住資料館  神奈川県横浜市中区新港 2-3-1 赤レンガ国際館 2階  Tel:045-663-3257(代) URL:http://www.jomm.jp/ ■編集発行人 : JICA 横浜 海外移住資料館 館長 北中 真人Japanese Overseas Migrat ion Museum News No.33

2014Spring

ウクレレ奏者 ジェイク・シマブクロさん

沖縄はぼくの一部インタビュー

―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ

Page 2: ―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ - JICA美しい海に囲まれた沖縄は、かつて琉球と呼ばれる王国でした。琉球王国は、 中国や東南アジアの影響を受けながら、独自の歴史を歩み、文化を育み、14世

 美しい海に囲まれた沖縄は、かつて琉球と呼ばれる王国でした。琉球王国は、

中国や東南アジアの影響を受けながら、独自の歴史を歩み、文化を育み、14世

紀から16世紀半ばにかけて海外との交易により栄えました。そして、1609年の

薩摩藩の侵攻によりその支配下におかれ、1879年、明治政府によって、沖縄県

になったという歴史があります。

 こうした変遷の中で、常に外の世界に目を向けてきたのが、ウチナーンチュ

(沖縄出身の人)です。沖縄は、戦前、戦後をとおして、多くの移民を送り出した移

民県となりました。

 移民として海を渡った人々は、異国の地で、沖縄の伝統文化やアイデンティ

ティをどのように守り、伝えているのでしょうか。

 当資料館では、特別展示「雄飛―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ」

を3月1日(土)から5月11日(日)まで開催します。

首里那覇港図(八曲一隻)19世紀 作者不詳(沖縄県立博物館・美術館所蔵)

特 別 展 示  

3月1日(土)~5月11日(日)

―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ

Page 3: ―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ - JICA美しい海に囲まれた沖縄は、かつて琉球と呼ばれる王国でした。琉球王国は、 中国や東南アジアの影響を受けながら、独自の歴史を歩み、文化を育み、14世

 日本から海外への正式な契約による集団移民は、1885(明治18)年のハワイへの官約

移民に始まります。それから14年後の1899(明治32)年、沖縄からの初めての移民も、ハ

ワイに渡った26人でした。その後、この移民の送り出しに力を注いだのが、沖縄移民の父

と呼ばれる當山久三(とうやま きゅうぞう)です。

 當山は1868(明治元)年11月9日、金武間切(現在の沖縄県国頭郡金武町)の農家で生

まれました。沖縄師範学校を卒業し教師となりましたが、当時の沖縄は中央

政府から派遣された官僚に支配され、要職を他府県出身者が占めていた

ため、沖縄出身者が差別を受けることを許せずに辞職。その後、村の総代

(区長)として、村の改革や指導者育成などに力を尽くしました。

 當山は、村民や県民の生活を救うためには、海外への移住しかないと考

え、その実現のため奔走しました。沖縄から初の移民を送り出した4年後の

1903(明治36)年には、自分と同じ金武町出身者のみを集め、自らも移民の

引率者としてハワイに同行しました。出発のとき詠んだ「いざ行かむ 吾等

の家は五大洲」は、異国の地へ出発する心意気を表しています。

移民の父 當山久三 「いざ行かむ 吾等の家は五大洲」とう やま きゅう ぞう

き ん ま ぎ り

ほんそう

われ ら ご だい しゅう

 移住した国々で苦労して、ようやく生活の基盤を築きつつあった

ころ第二次世界大戦が始まりました。

 海外に移住した日本人やその子孫は、移住先の国々で敵国人と

して扱われ、苦労しました。アメリカ生まれの日系二世のなかには、

アメリカ兵として戦った若者も多くいました。

 日本で唯一、地上戦が行われた沖縄では、ウチナーンチュの二世

兵士が通訳として従軍しています。彼らは、防空壕などに隠れてい

た沖縄住民に、沖縄の言葉を使って、降伏して出てくるように呼びか

けました。それにより、多くの住民の命が救われたのです。

沖縄戦と日系兵士

 戦前、沖縄からの移民は1899(明治32)年のハワ

イを皮切りに、1941(昭和16)年までの間に、フィリ

ピン、アメリカ本土、ペルー、ブラジルなどの国々へ

7万人以上が移住しました。移住者は主にハワイで

はサトウキビ耕地、ブラジルではコーヒー農園で

働きましたが、初期の移民の生活は、想像を超える

辛い仕事の連続でした。日本からの移民が増える

と都市部に日本人町が誕生し、商店などを営む人

もでてきました。

戦前の沖縄移民

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 戦前、戦後を通じて、多くの沖縄県民が海外へ雄飛し、現在、世界

各地で40万人を超える沖縄にルーツを持つ人々が、芸能、文化、ス

ポーツ、政治、経済、教育など、あらゆる分野で活躍しています。

 世界中のウチナーンチュが、5年に1度、故郷沖縄に集う「世界のウ

チナーンチュ大会」は、1990年に第1回が開催され、2011年の第5回

大会には24カ国3地域から、過去最多の7,363人が集まりました。

また、沖縄出身者同士のネットワークをビジネスに生かそうと設立

された「ワールドワイド・ウチナーンチュ・ビジネス・ネットワーク」

(WUB)や、若い世代が「世界若者ウチナーンチュ連合会」(WYUA)

を組織し、お互いの絆を強める活動を行っています。

世界に広がるウチナーンチュ~「沖縄」でつながる心~

當山久三(沖縄県公文書館所蔵)

イラスト:山形ありさ

 日本から海外への正式な契約による集団移民は、1885(明治18)年のハワイへの官約

移民に始まります。それから14年後の1899(明治32)年、沖縄からの初めての移民も、ハ

ワイに渡った26人でした。その後、この移民の送り出しに力を注いだのが、沖縄移民の父

と呼ばれる當山久三(とうやま きゅうぞう)です。

 當山は1868(明治元)年11月9日、金武間切(現在の沖縄県国頭郡金武町)の農家で生

まれました。沖縄師範学校を卒業し教師となりましたが、当時の沖縄は中央

政府から派遣された官僚に支配され、要職を他府県出身者が占めていた

ため、沖縄出身者が差別を受けることを許せずに辞職。その後、村の総代

(区長)として、村の改革や指導者育成などに力を尽くしました。

 當山は、村民や県民の生活を救うためには、海外への移住しかないと考

え、その実現のため奔走しました。沖縄から初の移民を送り出した4年後の

1903(明治36)年には、自分と同じ金武町出身者のみを集め、自らも移民の

引率者としてハワイに同行しました。出発のとき詠んだ「いざ行かむ 吾等

の家は五大洲」は、異国の地へ出発する心意気を表しています。 沖縄県金武町にある當山久三の銅像。台座部分に「いざ行かむ 吾等の家は五大洲」と彫られている

 戦後間もなく、ア

メリカに統治され

た沖縄には「琉球

政府」がおかれまし

た。海外から引きあ

げてきた人々など

であふれた人口を

抑えることを理由

に、琉球政府は、海

外移住政策を打ち出します。

 沖縄における戦後移民の開始は、日本本土よりも

早い1948(昭和23)年、アルゼンチンへ渡った33人と

ペルーへの1人で、ほとんどが呼び寄せ移民*でした。

 また、ボリビアには1954(昭和29)年、琉球政府に

よる計画移民として、第1陣278人が送り出され、1965

(昭和40)年までに3,000人以上が移住しました。ボリ

ビアには今も「オキナワ」という村があります。

 1957(昭和32)年から1962(昭和37)年には、ブラ

ジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルーなどの国々へ、

沖縄から毎年1,000人以上が移住しました。

*呼び寄せ移民:先に移民した家族や親戚に呼び寄せられて移 住すること。

戦後の沖縄移民と う ち

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 2013年の「グランド・ウクレレ・ツアー」のご成功おめでとうございます。

 ありがとうございます。とても楽しいツアーでした。これまでとはちょっと違ったツアーで、新しい経験をしたツアーでした。演奏で少し違ったテクニックを試みたりして、たくさんのことを学びました。日本各地はもちろん、アメリカ本土、オーストラリア、カナダ、香港、台湾、タイなどで130公演を行いました。

 2012年にアメリカでリリースされた「Grand Ukulele(グランド・ウクレレ)」はiTunes(USA)「World Album」で初登場第1位、ビルボード「World Chart」で第2位を獲得されました。日本版「グランド・ウクレレ」(2013年4月発売)では、由紀さおりさんと「一期一会~One Wish」のコラボレーションをされていますね。

 これには僕自身、とても驚きました。 さおりさんとコラボレーションが出来たのは大変光栄でした。澄んだ美しい声、感情豊かに歌を表現できるすばらしい人です。アルバムの中だけでなく、ツアー共演も実現でき思い出に残る楽しい時間を過ごせました。

 シマブクロは沖縄の名字ですね。何世になりますか?沖縄を訪れたことはありますか?

 三世です。最近では3年前に行きました。僕は沖縄が大好きで、沖縄の人たちも大好き。食べ物がおいしくて、すばらしい伝統と習慣があります。出来れば今すぐにでも行きたいです。

 世界のウチナーンチュ大会にも参加されたとか。

 2011年、第5回世界のウチナーンチュ大会連携イベントの「NIPPONIA~世界に響くニッポンのうた、ウチナーのうた」に参加して、THE BOOMの宮沢和史さんと共演しましたよ。かけがえのないすばらしい経験でした。

 沖縄に対してはどのような思いを持っていますか?

 沖縄はまずハワイに戻ったような気持ちにさせてくれます。 叔母が、ハワイで沖縄コミュニティと関わっていて、僕がまだ若かった時に、いつも沖縄の文化的遺産、伝統について話してくれました。 沖縄とハワイはとてもよく似ています。だから非常に身近に感じます。

 沖縄のアイデンティティを感じるのはどんな時ですか?

 世界中を旅行していてシマブクロという名前を言う時です。僕はこの名前に誇りを持っています。沖縄は僕の一部でもあるのです。

 ご結婚・ご子息の誕生おめでとうございます。子供が誕生した後であなたの音楽は変わりましたか?

 父親になったのが信じられないよ! 音楽というのは感情の産物です。今まで感じたことのない新しい気持ちが生まれました。息子と過ごすことの楽しさを知りました。また僕自身や人生についてさらに深く考えることができ、今後はそれを表現していきたいと思っています。

 新しく「2014 UKE NATIONS TOUR」がスタートしましたね。

 アメリカ本土を8人でバスで移動しています。ハワイの言葉でスタッフは「OHANA(家族)」です。日本のツアーでもたくさんのスタッフと一緒です。皆と旅をすることにより、さらに絆が深まって楽しい時間が過ごせます。

 今後の活動について教えてください。

 モチベーションを上げ常に新しいことにチャレンジしていきたい。今年はイノベーションの年。音楽はチャレンジです。新しいことを実践し、新しいたくさんの要素を詰め込んでいきたい。ウクレレ・音楽はすべての人に通じる言葉です。

 世界中にいる沖縄の人々にメッセージをお願いします。

 ハワイには大変大きな沖縄のコミュニティがあります。沖縄の食べ物、沖縄フェスティバル、沖縄コミュニティセンター。沖縄への思いを胸に、現在もその伝統文化を受けつぎ伝えています。みなさんもどうぞ沖縄を誇りに思い、各地で元気にお過ごしください。

www.jakeshimabukuro.com / www.jklub.jp (日本語)

インタビュー・翻訳:とみたいく子(ハワイ・ラジオK-JAPAN)

沖縄はぼくの一部ウクレレ奏者 ジェイク・シマブクロさん

 ハワイ出身の日系アメリカ人で2002年にソロ・デビュー。抜群のテクニックと独特の感性でウクレレの概念を変えた世界にはばたくウチナーンチュのひとりであるジェイク・シマブクロさん。 現在アメリカ本土をコンサートツアー中のジェイクさんにツアーのこと、沖縄のこと、音楽への情熱を伺いました。

ジェイク・シマブクロ(Jake Shimabukuro)

1976年11月3日、ハワイ州ホノルル生まれ。2002年7月ソニー・レコードよりデビュー。ウクレレという楽器の即興性を活かしつつあらゆるジャンルの音楽を演奏。ウクレレ=ハワイアンという概念を覆した。06年映画『フラガール』の音楽を担当。高い評価を受ける。13年4月『グランド・ウクレレ』日本盤発売。2012年の「グランド・ウクレレ・ツアー」は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、日本、香港、タイなど、2013年末までに約130公演を実施。2014年1月からは、新たに「Uke Nation Tour 2014」をスタート。現在全米公演中。

インタビュー

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●開館時間●休 館 日●入 館 料

10:00~18:00(入館は17:30まで)月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)無料

アクセス 

■みなとみらい線「馬車道」駅(4番出口)から徒歩約8分 「みなとみらい」駅(クイーンズスクエア方面改札)から徒歩約15分■JR線・市営地下鉄「桜木町」駅から(汽車道→ワールドポーターズ→サークルウォーク)徒歩約15分  

 JICAでは、海外の日本語学校に通う13歳~16歳の日系人の生徒を対象に、中学校の体験入学やホームステイなどを通じて日本の文化を学ぶ「日系社会次世代育成研修」や、中南米の日系人への技術協力を通じ、国づくりに貢献することを目的とした「日系研修事業」を行っています。 来日中の沖縄にルーツをもつ研修員に、家族のこと、沖縄のことを聞いてみました。

伊波みか(アルゼンチン・ブエノスアイレス/日系三世、15歳) 私にとっての沖縄は、亡くなったお父さんを思い出す場所です。お父さんのことも沖縄のこともあまり知らないけれど、お父さんのふるさとだから、自分にとっても大切な場所なんです。 この研修で、沖縄にルーツをもつ友達ができました。みんなから沖縄のことを聞き、私ももっと沖縄の文化や言葉を勉強したいと思いました。

玉城ジュリー(ボリビア・サンタクルス/日系二世、27歳) 8年前に1年間、沖縄県の名桜大学に留学したことがあります。沖縄での生活はとても楽しかったし、沖縄の文化をたくさん教えてもらいました。ボリビアに帰国してからも、世界中の沖縄出身の人たちが交流する「世界若者ウチナーンチュ連合会」(WYUA)の活動に参加していました。私が大好きな沖縄の言葉は、「なんくるないさ」です。「なんとかなるさ」という意味ですが、なんでも前向きに考えられる沖縄の気質が、自分の力になっています。

ワッター ウチナーンチュ!ワッター(私たち)ウチナーンチュ!

嶺井さえみ(ペルー・リマ/日系三世、16歳) 私のおじいちゃんは、戦争が終わって、15歳でブラジルに渡りました。野菜を配達する仕事をしていたのですが、大きな事故にあってしまいました。その後、ペルーに移住してパン屋さんを開店し、今でもお父さんと一緒に働いています。おじいちゃんの苦労した話を聞いて、一生懸命生きることの大切さを学びました。おじいちゃんから、沖縄はとてもきれいなところだと聞いています。いつか沖縄に行ってみたいです。

知花ローニ(ボリビア・オキナワ第1移住地/日系三世、13歳) 僕のお父さんの家族もお母さんの家族も、みんな沖縄出身です。おじいちゃんからは、沖縄での戦争の話を聞いたことがあります。食べ物が何もなくてつらかったことや島の反対側まで走って逃げたことを聞きました。 僕が住んでいる移住地は沖縄出身の人ばかりなので、普段から沖縄の言葉を話したり、エイサーを踊ったり三線をひいたりします。僕も三線をひくことができます。ウチナーンチュであるということをいつも感じることができる場所です。

さんしん

期間: 3月1日(土)~5月11日(日)場所: JICA横浜 海外移住資料館 企画展示室 時間: 10:00~18:00●主催: 独立行政法人国際協力機構(JICA) ●共催: 沖縄県

特 別 展 示  

―沖縄移民の歴史と世界のウチナーンチュ

表紙の写真首里那覇港図(八曲一隻)[部分]この屏風には、19世紀当時、琉球王国時代の政治の中心だった首里や那覇港の様子などが描かれています。右上に首里城、左中央に進貢船(中国への貢ぎものを運ぶ船のこと)。

題字:浜野龍峰

中面イラスト:山形ありさ 1994年神奈川県生まれ。沖縄県系ブラジル三世。学校法人情報文化学園アーツカレッジヨコハマ デザイン学科キャラクターデザインコース1年在学中。