おいしい - tokyo university of foreign...

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トム。きみの歌を心に刻みたいとき、いつも水を飲む。

冷たく清冽な水がいい。もちろん水道の蛇口からは出てき

ようがない。だから水を汲みに行く。緑の山と深い谷に恵

まれた列島に住むぼくは、いくつもの秘密の水源を知って

いるからだ。

 

富士山麓、忍野の伏流水。滋賀、伊吹山麓から流れ出る

湧水。信州、大阿原湿原の倒木に密生する苔のはざまから

染みだす、生まれたての清水。奄美、喜界島のガジュマル

樹の根元から珊瑚岩を透過してこんこんと湧くイジュンゴ

(泉)……。命の幸がはじまる根源の場所。でもあまり詳

しくは教えられない。大きなペットボトルを車のトランク

に満載した天然水の略奪者たちが、ぼくの秘密の水源に殺

到したらいやだからね。ぼくは半リットル以上の水は汲ま

ない。それだけで水の神秘はすべて感じとれるから。

 

トム。きみの国でも水は恩寵をもたらす物質だった。き

みとヴィニシウスによる名曲「Agua de beber

」(邦題「おい

しい水」)。一九六○年、新首都ブラジリアの開幕式典のため、

大統領の邸宅に呼ばれていたきみたち。素朴な木造邸宅の

まわりには森があった。散歩に出たら水音が聞こえたので

行ってみると小川があった。豊かな水流には見えなかった

が、そばにいた建設工夫に訊ねると、「é agua de beber,

camará

」[これは飲み水です、カマラー(親しい友よ)]と

の応えが。これが一つの啓示だった。

 

すぐに歌が生まれた。「agua de beber, agua de beber,

camará

」というリフレイン。軽快なサンビーニャだった。

ボサノヴァがはじまる霊感の一閃だった。ヴィニシウスの

詞はでも神秘的。恐れや先入観が愛を閉ざしてしまうこと、

だから心を開くこと、許すこと。それでも愛は苦しい。水

の啓示と教えはそのまま水として心に宿るのではなく、よ

り深い感情をめぐる民衆哲学としてきみとヴィニシウスの

胸に宿った。

 

ブラジルの美しい天然湧水はぼくも知っている。なかで

もバイーアのジキ・ド・トロロ。神話では、混血の水の女

神たちが沐浴するところ。いまも人々はここで朝の水を浴

び、清冽な水で喉を潤し、洗濯物を洗い、家畜を洗う。き

みもよく知っている、日々の再生のささやかな儀式。

 

トム。きみの歌った水は「素材」ではなく真の「原物質」

だった。イヴァン・イリイチという卓越した学者が『H

2 O

と水』という本のなかで書いた。人間の知性は、水と土の

相互関係をめぐる古い智慧にもとづく。水の天体という定

常開放系に生きる私たち。人間もおなじ定常開放系の存在

であるべき。水とはだから原サブスタンス

物質。その奥には純粋性、精

神的な汚れを洗い落とす神秘の力がある。それがおいしい

水。

 

けれど産業社会におけるH

2 O

は、たんなる素スタッフ材に成り

下がった。ひたすら工業的に搾取されるだけの水。パイプ

を流れる洗浄用の液体。汚染され消毒された水道水。それ

は近代の人工的素材。だから技術的な管理が必要。それは

「飲めない」水。

 

日本の農業経済学者、玉城哲も『水の思想』で書いてい

た。水利の原初は水の地域的な独自性にもとづく。水は同

じものは一つとしてない。だから水から見た農村にはそれ

ぞれの強烈な個性があり、それが「水社会」としての日本

社会の基盤となった。これこそおいしい水の民衆的な利用。

 

トム。真の水を愛でた一人の日本の詩人をきみに最後に

紹介しよう。屋久島の原始の森に生き、そこに命を埋めた

農の人、山尾三省。水圏をもとにした「生物圏民主主義」

をとなえた彼は詩集『びろう葉帽子の下で』のなかでこう

歌っていた。「山が在って/その山のもとを/水が 

流れ

ている/その水は 

うたがいもなく 

わたくしである/水

が 

流れている/水が 

真実に 

流れている」

いまふく・りゅうた 

東京外国語大学名誉教授 

文化人類学

〈はじまりの場所〉……………………………… 水

おいしい水 

トム・ジョビンへの手紙

今福

龍太

音盤・文献案内

Antonio Carlos Jobim, "Agua de beber", The Com

poser of Desafinado 

Plays, Verve Records, 1963

イヴァン・イリイチ『H

2O

と水』伊藤るり訳、新評論、一九八六年

玉城哲『水の思想』論創社、一九七九年

山尾三省『びろう葉帽子の下で』野草社、一九八七/二〇〇一/

二〇二〇年

第Ⅰ部 はじまりの場所

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