藤崎宮とその祭りについて(52会 清村さん)

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藤崎宮とその祭歴史の一考察

清村正弥(52会)

今夜のお勉強

藤崎八旙宮の縁起とは

神事としての秋季例大祭

祭の姿その今昔

江原会の祭を行うにあたって

八幡宮とは?• 三神を祀る

1. 誉田別尊• ほんだわけのみとこと• 主祭神• 第15代応仁天皇

2. 比売大神• ひめおおがみ• 特定の神の名前ではなく、主祭神の妻や娘、関係の深い女

神を指すが、宇佐神宮では宗像三女神• 藤崎八旛宮では、住吉大神

3. 息長足帯姫命• おきながたらしひめのみこと • 神功皇后• 第14代仲哀天皇の后• 三韓征伐

… 一之宮

… 二之宮… 三之宮

八幡信仰• 八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)

– 日本独自の信仰で弓矢神(ゆみやかみ)・武神(ぶしん)

– 神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)• 八幡神社

– 八幡神を祀る神社• 八幡社・八幡宮・若宮神宮• 1 万社、 2 万社、あるいは4万社とも言われ、稲荷神社に次

いで全国 2 位• 祭神で全国の神社を分類すると八幡信仰に分類される神社は、

全国 1 位( 7817 社)である

宇佐神宮(宇佐八幡宮)• 八幡神社の総本社

– 元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神– 農耕神あるいは海の神だが、柳田国男は鍛冶

の神と推察– 571年に大神比義により祀られた

• 宇佐八幡宮の社伝由緒書き『八幡宇佐宮御託宣集』で、29代欽明天皇 32 年( 571 年) 1 月 1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇国風諡号しごう)と称して八幡神が現れたとしており、これが八幡神=応神天皇の根拠

皇室第二の宗廟• 八幡大神の御神徳

– 古来、三殿一徳のご神威は強く顕現してきた• 奈良東大寺大仏建立への協力• 勅使・和気清麻呂公に国のあり方を正してゆく神

教を賜った• 皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬

になり、勅祭社16社に列されている

仲秋祭 ( ちゅうしゅうさい )

• 放生会で大祭• 10月の第 2 月曜を含む、土日月の 3 日間• 一の御殿神輿(八幡大神)が、浮殿(和間神

社)まで渡御する• 八幡宮を代表する祭典で、大隈日向の隼人の霊

を慰めるために、蜷や貝を海に放つ放生式を行う– 御発輦祭・御着輦祭(土曜)– 水神祭・塩屋祭・蜷饗祭・仲秋祭・放生式・夕御饌

祭(日曜)– 朝御饌祭・御還幸祭・御還着祭(月曜)

石清水八幡宮• 祭神は三神を祀り、「八幡大神」と総称

– 中御前• 誉田別命 応神天皇

– 西御前• 比咩大神 宗像三女神

– 東御前• 息長帯姫命 神功皇后

エジソンの電球の竹は、ここの「八幡竹」桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になる位置で、京の交通要所。南西裏鬼門の守天王山の対岸

遷都した平安宮の守りとして宇佐から勧請された

勅祭 • 石清水放生会

– 清和天皇の貞観5( 863)年、旧暦の8月15日、八幡大神が男山の裾を流れる放生川のほとりに現れ生ける魚島を放った

– 「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始めった• 勅祭

– 斎行の始まりは、天歴2 (948 ) 年の勅使御差遣に始まる– 爾来歴朝の天皇陛下には、八幡大神の御神慮にお応えになり、毎年勅使を差し遣わされて国家の安寧と国民の幸福を折誓せられた

• 舞楽の奉納– 円融天皇の天延2 (974)年には朝廷の諸節会に準じ、楽人舞人が舞楽を奏することなどが定められた

• 勅使– 延久2 ( I070)年には、当日の太政官勤務の最上位たる上卿が勅

使を兼ね、参議以下朝廷の諸官を率いて参向し、神輿の渡御を行わせ給う

石清水放生会

藤崎八旛宮• 縁起

– 承平5年(935年承平・天慶の乱の時代)朱雀天皇の勅願により、山城国の武神・石清水八幡宮を、平将門を誅殺し国家の鎮護として茶臼山に分霊勧請した

• 飽田国府と官道に接する位置• 名称起源

– 勅使が神馬の鞭に京都男山の藤でできたものを携えてきたことに始まる。勅使がその鞭を3つに折り、3ヶ所に埋めたところ一ヶ所にだけ藤が繁茂した。そこでこの地が「藤崎台」と呼ばれるようになり、社殿が築造されたと伝えられている

• 一国の宗廟– 創建以来、朝廷をはじめ歴代の国司、地頭、藩主から庶民にいたるまで、とくに

崇敬が厚い– 社殿の修造は常に勅命によって時の国司、国守が承平草創の例にならって造営す

る伝統が踏襲された。• 移転

– 明治10年西南の役で、壮大を極めた社殿は尽く灰燼に帰す– 明治 14年に現在の井川渕町に遷宮、爾来造営も逐次竣成し、今日の壮麗を拝す

るに至った。

宇佐八幡の九州五所別宮• 筑前大分八幡宮(だいぶ) ー 筥崎宮• 肥前千栗八幡宮(ちりく)

– 佐賀県北茂安町(現・みやき町)  肥前一宮• 肥後藤崎八旛宮• 薩摩新田神社

– さつま川内市 薩摩一宮• 鹿児島神社 ( 大隅正八幡宮)

– 姶良郡隼人町  大隅一宮

茶臼山 肥後の要• 千葉城

– 応仁年間( 1467年~ 1469年)に茶臼山の東端

–菊池一族の出田秀信• 隈本城

–明応 5年( 1496年)に茶臼山西南麓、現在の古城

–鹿子木親員(ちかかず、寂心)–城の規模や場所は不明

中世の茶臼山絵図

ちなみに下通は川底で…

中世の茶臼山絵図

旧段山八幡=下津宮

藤崎台から薬師坂へお宮の石垣は球場スタンド下に埋まっている

御旅所

放生池跡?

藤崎台の南側崖下にあるドンブリ池とその傍らの水神の碑

トウフ谷 アイヌ語で解読すると

• ト  to– 「湖」や「沼」などの幅広い意味あり

• タンネ・ト tanne-to 「長い・沼」長沼ながぬま(長沼町)

• トー・プッ  to-put– 「湖・口」(トー・プトゥ  to-putu 「湖の

口」)• 涛沸 とうふつ (網走市)• 十沸 とおふつ (豊頃町)• 遠太 とうふと (根室市)• 統太 とうふと (浦幌町)

清正時代の藤崎宮

藤崎八幡宮?1542年後奈良天皇宸筆の勅額鹿子木親員(寂心)の周旋

幡と旛• 元々は、「藤崎八幡宮」、天文11年(15

4 2 )後奈良天皇宸筆勅額以降は、「八旛」と表記– 朝廷は経済的に困窮し、宸筆の書を売って収入–種子島鉄砲伝来、家康誕生と同時期

• 藤崎宮の縁起おいて、三位左中将橘能員が供奉(ぐぶ)した神輿の前後に「旛」

• 「幡」は半巾の薄い旗• 「旛」は刺繍した大巾の厚みのある旗

他の鳥居は?

藤崎藤崎

宮宮

六所

六所 の祭神を国府あるいはその近辺に合祀した神社

六所 宮=六所 大明神• もとは豊前国中津で藩主細川光尚の氏神• 正保元年(1644)に豊前から肥後に勧請–翌二年に藤崎宮東側に移して造立

• 春日・上賀茂・下鴨・松尾・祇園・貴船の六所 を祀る

• 西南の役で焼失

細川時代の藤崎宮と神護寺

仏像にならい、わが国古来の神々の姿を彫像であらわした神像。通常、社殿の奥深くにまつられ人目にふれることが少ないため、仏像にくらべて一般になじみがうすい。貴人の姿をかりた男神像・女神像、仏教の僧侶の姿にあらわされた僧形像など、その像容は多彩に表現される。

御神宝• 木造僧形八幡神座像(そうぎょう)

– 南北朝時代の作品– 袈裟掛の僧像は、もともとは神護寺のもの

• 木造女神座像– 南北朝時代の作品– 額に水晶の白毫 ( びゃくごう)

• 巻き毛。智恵を象徴し、光を放って人々を救う• 白毫は如来と菩薩にある

– 前髪の宝冠に阿弥陀如来像が描いてある

80センチメートル

八旛宮と神護寺の関係は?中世までは、 3 つの天台宗神宮寺(弥勒寺・妙楽寺・勝成

寺)清正普請の神護寺が加わる

1. 八旛宮の付帯施設として神護寺がある2. 八旛宮と神護寺とは、単に隣接するのみ3. 八旛宮は神護寺に頭が上がらない

• 八旙宮領 200 石のうち100石を取り、他に東照宮御供料120俵(48石)、護摩供料米20石、白銀30枚、現米30石

• 神護寺僧侶は祠司・神人より格上で、神幸では神輿の次で寺僧の先頭

清正が寄進した神護寺は何宗?京都大仏方広寺妙法院末寺で、天台宗です。清正公が朝鮮出兵に際し、祈願して愛染明王堂を改めて建立

しょうじょう

勧請以来 1616年前後中興

比叡山正覚院末寺

旧暦 八月十五日• 府中の鎮守・藤崎宮の祭日である• 放生会といい、八月十日から十五日まで

の祭• 参詣者は群集し、茶店が立ち並ぶ• 六月十四日の祇園会の祭日より盛ん• 段山の御旅所へ御幸があり能楽が上演さ

放生会の定着

昨年の秋季例大祭祭典行事9月13日(日) 0:00 宮遷式9:30 総代清祓 10:00 第一日祭 11:00 獅子飾卸 新町獅子保存会

 (熊本市無形民族文化財指定)

15:00 大神楽 肥後大神楽会 午後 奉納神興飾卸

9月14日(月) 10:00 第二日祭13:00 奉納献茶祭 肥後古流的々社 午後 随兵三役清祓

俳句献詠 淡成句会

9月15日(火)10:00 献幣祭

9月19日(土)9:30 神馬飾卸 10:00~~14:00 飾馬飾卸 夜 奉納舞踊 藤間圓珠社中

9月20日(日0:00 宮遷式 終日 奉納挿花

9月21日(月) 日2:00 御発輦祭(はつれん。てぐるま

のこと)6:00 神幸祭 本宮御発輦 8:30 御旅所御着輦 9:00 能楽 14:30 御旅所御発輦 16:30 本宮御還幸 終日 奉納挿花

9月22 (火)0:00 宮遷式

献幣祭•「本庁幣供進に関する規程」に基づき、神社本庁から本庁幣を捧持、参向し供進するために遣わされる献幣使を迎える神事•神徳を顕揚し、斯道の興隆を祈願し、奉賛の誠を捧げる•以前は、9月14日に行われていたが、9月第三月曜(敬老の日)に本祭を行うようになり、本祭に次ぐ重要な神事である献幣祭を、本来の本祭日である9月15日に行うようになった•もともとは宮中にお供え物を奉る儀式で、お宮が国の統治下にあった時代においては、国からの使者をお迎えすると言う儀式で、本来は献幣祭がお祭りの主体•当時の衣装や信幸などを忠実に再現して執り行われる•青年江原会会長と実行委員長または事務局長が参内すること

祭りごと

例大祭の行列 1

三王の鬼首を鉾の先につける 火王(ひのおう) 水王(みずのおう) 風王(かぜのおう)

大麻・大幣(おおぬさ) 神道の祭祀で祓に使う道具の一つ。榊の枝または白木の棒の先に紙垂(しで)または麻苧(あさお)をつけたもの

阿須波能神あすはのかみ屋敷の土地神

塩湯(えんとう) 祭に参加する条件として、祓が必要であり、その修祓の一種として塩湯行事がある。伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原の中瀬に濯ぎ給うた故事に基づく。塩は潮水で湯にするのは浄火で沸かし一層清める意。禊を意味する。

例大祭の行列 2

辛櫃からびつ祭に必要な米や塩などの神饌を入れて運ぶ。桧板製の箱で、被せ蓋があり白い布で縛い、渡し棒で担いで運ぶが、この祭の途中では観衆が賽銭を投げ入れる

菅蓋かんがい錦蓋きんがいスゲまたは錦で作って長柄(ながえ)につけ、背後からさしかける大きい笠。

紫翳しえい菅翳かんえい翳(さしは)は中国から渡ってきたもので、従者が高貴な人の顔を隠したり、日差しをさえぎるために使用し、権威の象徴とされた。団扇の原型。

金幣はかつての田楽集団美麗の七城町菰人の人々が奉持

例大祭の行列 3

ツームシ100騎

長柄50本

御神幸今昔• 飾馬の位置

– 江戸期は、一之宮~神官・神職の直後に馬• 元々は神官が騎乗していた馬だから• その後ろに獅子舞~随兵

– 現在は、行列の最後の飾馬と随兵• 神輿と牛車

– 昔は、神輿は担いでいた(急坂)– 今の牛は天草倉岳から調達

神幸経路• 藤崎台から祓川(井芹川)河原

–後に放生会は井芹川にかかる橋の上から• 井川渕遷宮後から平成3年まで

– 一年おきに全団体が立町廻りと広町廻り• 平成4年以降

–鳥居基、水道町、建吉組のみが隔年で立町廻り• 昭和59年から馬追いコース設定

– 朝随兵の日銀前、夕随兵の岩田屋伊勢丹前– その後、日銀前のみに

しめ=注連

下流 ←御旅所←段山 ←  ← 上流高橋川・祓川・しほゐ川・井芹川・硯川

御旅所に御着輦された三神

御旅所の御能組• 金春流  素謡 翁• 金春流  半能 養老• 喜多流  能 芦刈• 大蔵流  狂言 舟ふな• 金春流  能 六浦• 喜多流  半能 鞍馬天狗

【半能】能楽において付祝言のために、一曲の能を後場に焦点をあて、前場を大幅に略して演じる形態。祝言性を強調し、上演時間を短縮する

陽陰(ひのかげ)• 馬上の飾り• 男女の性器(の交合)を模った造• 安藤流と小堀流の様式があった

– 現在見受けられる型は安藤流のみとなっている

陽と陰朝青龍雲竜型攻と守

白鵬不知火型攻めのみ

短命二所ノ関立浪

雄結び 雌結び

飾り馬は曳き馬• 神職が神馬に騎乗するのが本来• なぜ、騎乗せずに飾ったのか?• 社殿と御旅所が近い(藤崎台と井芹川河

原)1. 社殿前からは急勾配の下り坂2. 神職は徒歩でお伴した3. 空いた鞍上に飾り付け

馬飾り出現は江戸中期以降

馬追の本来• 競馬同様、代表集団の吉凶を占う信仰• 江戸期初頭には神馬の馬追が存在

– この時代には飾り馬はない– 勢屯で怪我をするものが多く、中には死人も出

た• 「八月八幡神事で怪我人を出さぬように申し渡す」

との記録もある(寛文7年 1667 )– 祭りではトランス状態(神懸かり)を求める

• 神馬がいかに異様に暴れ狂うのかに関心があった– 神楽での舞人の踊りと共通する

• 楼門から鳥居まで飾り馬を放して走らせていた

随兵の起源• 藤崎宮の肥後の神領800余町を巡回す

るのに、荘官・神人らがお伴したのが、随兵原型

• 文明4年( 1472年 ) の記録に「随兵」あり– 天正16年( 1588年)の加藤清正の肥後入

国以前からあり、「清正が始めた」は誤り• 武士の台頭後は、護衛としての随兵にな

った

清正と随兵• 慶長3年( 1598年)11月、秀吉の急死

があり、朝鮮出兵から命からがら逃げ帰ってきたのが実態– 「朝鮮滅ぼした」、はあり得ない– 生還を感謝して放生会を再興、御神幸に随兵

加藤清正の「凱旋」• 慶長の役での第二次蔚山籠城

– 慶長2年12月22日、敵総攻撃の報に、西生浦から北に二十八キロ蔚山まで半日で駆けつける

– 城を囲む明軍四万八千と1 2 日間の壮絶な戦い– 「この城の難儀は三つに極まれり。寒さ、ひだるさ、

水の飲みたさ 」• 盃一杯の水が、銀十五匁で売買された

– 慶長3年1月4日、小早川、毛利、黒田、また海上には長宗我部らの援軍が攻城軍を撃破、蔚山城を開放

• 柳川藩の立花宗茂の決断に救けられ、九死に一生を得た– 関ヶ原の戦いでは、東西に分かれたものの、清正は宗茂の家臣を京町に引き取った(柳川小路)

江戸時代の御神幸• 神馬15疋(後に14疋)

– 藩主 3 、重臣 12 (のちに 11 。 2,700石以上)• 神輿舁ぎ

– 一宮 山鹿郡石村(現山鹿市石) 8 人• 藤崎八幡宮

– 二宮 飽田郡牧崎村(現花園2・ 3丁目) 8 人• 若宮八幡宮(本妙寺参道左) 若宮=九州生れの応神天皇

• 後には池田村(池田八幡宮)からに– 三宮 川尻池畑村(現白藤町) 8 人

• もともと藤崎宮の社領• 後には段山村(段山八幡宮)からに

維新前後• 慶応4年( 1868 )2月「神仏分離令」

–廃仏毀釈で神護寺他3神宮寺が廃寺に• 寺々仏像は民間に渡り、薬師堂など付属物も破壊• 神幸の主体であった放生会も仏教行事とされ廃止

• 明治2年までに藩主他奉納の神馬も廃止– 勢屯・段山の馬追もなくなった…さびしい

• 明治3年以降は城下町屋から神馬と勢子を– 神幸の最後尾の飾鉾に続く形態に

• 明治6年新暦採用で、後に8月から9月に

神風連と西南戦争• 明治9年

–頽廃した社殿の修復直前に神風連の変• 明治10年

– 西南の役で戦場になり仮遷座を繰り返す石神宮(島崎)→池亀八幡→健軍神社→→保田窪菅原神社→渡鹿菅原神社(大祭中止)

• 明治11年 井川淵に換地を確保し再遷座– 神幸は新社地の近辺のみ(明治12年も)

神幸の新経路始まる• 明治13年 

–新町から「旧社地への神幸に」との不満の声– この年の神幸経路と行列順が今日に続く– 神輿も新調した

終戦まで大祭当日は学校休み• 歴史的に肥後一之宮待遇

–明治以降も地域全体の守護神• 昭和20年まで

–県関係役所・学校職員は朝随兵拝観で遅刻OK

–熊本市役所と市立学校は休日扱い• 戦前には、奉納馬が100頭を越えたこ

とも

戦後 GHQの占領政策• 学校教育では神道との接触を禁止

–学校を休んでの見物、参加も禁止• 昭和27年( 1952 )

–サンフランシスコ講和条約は禁止が解ける• 昭和41年( 1966 )

–9月15日が敬老の日で祝日に

戦後の祭り• 昭和 21年 9 月復活し、飾り馬 17頭

–赤だすきに赤・紫の鉢巻き、原色のシャツ• 時代の風尚を思わせるいでたち

–白粉、頬紅を塗った男勢子が出現• 掛け声は「ワッショイ」• 軍隊ラッパ登場

• 昭和 28年6・26水害後–復興祭として大いに盛り上げある

戦後の祭り• 昭和 30年 掛け声に「ボシタ」が復活• 昭和 43年 市役所(交通局)参加• 昭和45年 大阪万博参加「ボシタ」が問題

に• 昭和46年 暴力団参加から飾り馬 5頭に減• 昭和 50年 濟商会、青年江原会、熊工会• 昭和 53年 前夜祭• 昭和 55年 鳩女会• 昭和 58年 かけ声を「ボシタ」に統一

平成以後• 平成元年 天皇崩御で歌舞音曲の自粛を• 平成 2年 「ボシタ」禁止• 平成 3年 台車全長規制• 平成 4年 台車禁止、中学生以下の夕随兵 ×

星子敏雄市長の「随兵頭」• 元・満州国総務庁人事処長、警務総局長• 大杉栄暗殺主犯の甘粕正彦の義弟• 細川氏の時代の随兵頭は若武者

–緋縅の鎧• クチナシやキハダで下染めした上から紅で染めた紐や革緒などで縅した鎧

• 老けた武者役には似合わない• 市長は、長柄頭か御幸奉行がいいところ?

三役清祓い随兵頭御幸奉行 長柄頭

朝鮮滅ぼした?• 江戸末期には流布し、明治以降の朝鮮併合以後、一気に広がる

• 慶應元年の松江藩士の見聞録の記載–民衆「囃子にはボゞシタボゞシタと申也…茶碗ボゞ茶碗ボと…ケガナイという事を表わし…」

–民衆の五穀豊穣、性賛歌の囃子ことばであったものを軍国主義的に解釈したもの

昭和 56年の申し入れ• 熊本県同和教育研究協議会→報道機関

– 祭りの起源に関して「報道に誤りあり」• 清正が築城記念に始めた→裏付けなし• 朝鮮の役戦勝記念で始まった→苦戦で戦勝ではない

– 「事実は」• 廃れかけていた放生会を復興し随兵を付けた

– 「ボシタ」の掛け声• 「馬飾り同様に『滅ぼした』、ではなく性的しぐさを

表す• 生産の豊穣を祈ったもの

– 「誤った報道は民族・部落差別に結びつく」

熊本市の対応• 平成 9年 9 月 3 日 市職員・教職員に通知

– 「『人権尊重社会の確立』に反する行為が市民に残っている」

• 「ボシタ(祭り)」の呼称• 「間違った歴史認識、近隣諸国への優越感、韓国・朝鮮への民族差別、誤解に基づく被差別部落起源説などの過ちの拡散・再生産につながる」

– 「職員一人一人が啓発の主体になり『ボシタ』呼称をなくすよう積極的に取組みなさい」

• 同年同月の「市政だより」にも同趣旨の記事

ここからディープな世界に突入

オタク1

滅ぼした• 古代・中世の国家が藤崎八旙宮に期した

もの–平将門、元寇などの国難が生じたときには、祈祷に基づき異国調伏を行った。

– 「滅ぼした」のイメージが現れる遠因?• 明治 9年の神風連は、この社頭より始ま

った• 昭和 20年終戦直後にも血気に逸るもの集結

被差別民の問題は残る• 放生会 柳田国男は「生牲を捧げた痕跡」説– 1954年「一目小僧」(角川文庫)に収録– 放生思想なら、江湖に悠遊する物を捉えて来て

わざわざ窮屈な小池に放つのは不可解–元は神に捧げる生牲を屠ったが、僧侶が干渉

• 生牲は魚類ではない生物であったろう– 前年捉え用意した魚類を放つ儀式として残った

• 目印に片方の目を抜いた→対象が人なら一目小僧

目を抜き、生牲を殺す役目は誰?• 八幡宮では被差別民がその役目を担った• 後に八幡宮の神護寺・神宮寺の僧侶が仏教思想の普及と共に力を持つようになり、殺生戒や放生思想が後付された

• 結果、生牲はなくなり魚鳥の放生会になったが、八幡宮の関係者として被差別民が残った– 僧侶は、殺生戒や放生思想から死牛馬を処理する者を忌み嫌い、「死や血の穢れ」を避ける思想ともあいまり、身分が固定化していった

–被差別民の氏神が八幡であることが珍しくない

相矛盾する主張• 同和教育研究協議会

– 「『ぼした』は滅ぼしたに非ずして性行為を表す」

– 「従って、そういう誤解を与える報道はするな」• 熊本市

– 「『ぼした』は『滅ぼした』を表す」– 「これは誤解だから、『ぼした』は使うな」

• 結局–誤った報道は論外だが、利害が一致する部落解放同盟と総連・民団が手を結び、熊本市に講義

–熊本市は腰が引けてしまった

かけ声異聞• ボシタ朝鮮語源説

–ボシタ、ボシタ=よかった、よかった– 石村八幡のトコヨイ、との相関は?(後述)

• 御神幸では三宮に続き、放生会を仕切る大僧正の輿が続いた。ある時代、好色で有名な御坊がおり、従う勢子たちがそれを冷やかした囃子言葉が変化し「ボシタ」が定着

• 明治30年代には「エーコロボシタ」– 朝鮮語説– 良い頃に滅ぼした説

結局、ボシタ祭りは• 根は放生会だったが、現在その痕跡なし

–部落解放同盟には、文句があろうはずがない• 朝鮮滅ぼした、清正凱旋が始点、は全くの嘘

– 総連・民団は、何を以て不愉快、歴史の歪曲と?• 熊本市は、臭い物には蓋、触らぬ神に祟なし

– この対応が、滅ぼした説を固定化した構造あり• 歴史的事実のみに基づく主張を継続すべし

– そのためには、自ら資料を集めて勉強すべし

さらに深く探求します

オタク2

藤崎八旙宮の系統図宇佐八幡宮

石清水八幡宮

藤崎八旙宮

弥勒寺

弥勒寺

五所別宮石藤崎八幡宮

本所留守目代

現地

弥勒寺が勧請元

宇佐が石清水の別当を兼るようになった

矢幡八幡宮

大分八幡宮

859年

935年

724年

726年571年

935年

更に遷座

宇佐の弥勒寺• 宇佐宮と弥勒寺(神宮寺)は同じ境内が、互いに縄張りを持ち競合関係にあった

• 11世紀中ごろから12世紀末頃までに、両者で九州の耕地面積の約3割を有し、西国一の荘園領主であった

• 八幡五所別宮はすべて宇佐宮の弥勒寺の末寺として成立

• 石清水八幡宮寺(本所)→弥勒寺(留守目代)→藤崎宮(現地)という荘園制的重層関係

宇佐八幡宮の元宮• 矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮)

–原始八幡神顕現の霊地– 宇佐八幡の官幣を仮宿奉安の習し –福岡券築上郡椎田町の現・金富神社

• 大分宮(だいぶぐう 大分八幡宮)– 宇佐八幡宮の本宮– 筥崎宮の元宮–飯塚市大分(旧嘉穂郡筑穂町)– 「八幡宇佐宮御託宣集」による– 応神天皇の産湯井戸あり

もうひとつの藤崎八幡宮山鹿の石村 藤崎八幡

ここに数年神輿が留まっていた• 石清水八幡宮から勧請された

とき、御分霊を載せた神輿はいったん石村に祀られ藤崎八幡宮に

• 肥後国の国府官道に近い適所を選択し、建立完了まで鎮座

• 飾り馬や西向いた社殿と鳥居、その先を流れる祓川(岩野川)とその河原、など藤崎台・段山、あるいは宇佐神宮と地形の配置が共通している

• 八旙宮の一宮神輿かつぎ 8 人は石村から出る

立派な社、付帯施設

鳥居脇土俵本殿横能舞台

共通する地形配置、飾り馬石藤崎、藤崎宮西←山←川←道←鳥居←本殿

石村の十二座八旙宮の十二臣

「とこよい ゝ」村の鎮守の配置ではない

チブサン古墳

承平天慶 年代の矛盾と将門誅殺• 朝敵将門を呪殺することが目的

– では、「新皇」と名乗り朝敵になったのはいつ?

• 藤崎宮創建の承平 5 年( 935 年)には、まだ地方紛争• 天慶 2年( 939年)2月には朝廷は将門を叙位任官• 同年11月にやむなく常陸国府と交戦、朝敵に• 同年12月19日に「新皇」即位

– 内裏が調伏を求めたのはいつ?• 天慶 2年( 939年)末または翌天慶 3年( 940年) 1

月頭• 全国の諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ• その時点から御分霊を下向し、藤崎宮造営地を選択 し

ていたのでは緊急性に欠ける

藤崎という地名• 藤が咲いた、の社伝に従うなら「藤咲」のはず–枯れ木を挿し木して芽吹くまで待ち、石清水分霊

を祀り、それから将門を呪い殺し始める?• もともと藤崎八崎の地名あり

藤崎、鐘射崎、牧崎、河原崎、弥勒崎、榎崎、御崎、筆崎

• 「藤」の旧仮名遣いは、「ふぢ」– ふぢ→ふち→渕–渕崎は「深い渕に臨んで突き出した崎

• 井芹川に突き出した台地端。西には島崎、琵琶崎• 豆腐谷という地名もある

私はこう推理する• 宇佐八幡(弥勒寺)が、九州内の勢力拡大を目的

として(五所)別宮を93 2 年山鹿石村に造営– 石清水八幡の分霊を与え権威付けした

• 935年茶臼山の宮内庄藤崎に遷座• この間、遷座の地をうらなった

– 「藤の鞭を挿したところ、芽吹いて繁茂した場所」→ 「トコヨイ」

• 将門誅殺の加持祈祷令が940年正月に– 宇佐八幡(弥勒寺)は、肥後国府に近い八幡宮の勢力拡大には千載一遇の好機と捉える

– 国府官道沿い一等地茶臼山に国費で大規模造営、遷座– 都の裏鬼門守護の石清水の地位向上にも有効

• 940年2月将門討伐– 成功報酬として、後に茶臼山の八幡が隆盛になった– 中古までは 2 月に臨時祭を執り行っていた

石清水の分霊奉招と将門は別

藤の鞭は何本に折ったのか?• 2本説

– 2本に折って2カ所に挿した。繁茂した方(茶臼山)に藤崎八幡宮を造営した

• 3本説1. 3本に折って3カ所に挿した。池田八幡と

牧崎八幡と茶臼山。茶臼山だけが繁茂したので、この地を藤崎と名付けた– でもこれだと石村八幡が縁起に絡まない

2. 3本に折って3カ所に挿した。それぞれ繁茂した。その場所が石・牧崎・池畑– 石の「とこよい」のかけ声との関連を連想させる

江原会の祭り• 非日常に浸かり、騒ぐことはとても重要• しかし、その前提として、この祭りが神

事の一部として行われていることを忘れてはならない

• そのためには、祭りの全てに、それぞれの本来の意味があることを意識する必要がある

神社とは?• 神道信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設– 主に木造– 一方で伊勢神宮のように、神社によっては式年遷宮の習わしがあり、必ずしも同じ社の恒設は必須ではない

社殿=神社?• 古くは社殿がなくとも「神社」とした

–山(火山)、瀧、岩、森、など多く自然を畏れ「神社( = 信仰対象、神)」とみなした

– 社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化したもの

神社の起源は?• 磐座や神の住む場所である禁足地(俗に

神体山)などで行われた祭事の際に、臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇

• 元々は常設のものではなく、沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものであった

神社には「格」がある• 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)

• 名神• 勅祭社・二十二社• 一宮• 近代社格制度• 別表神社

延喜式神名帳と式内社

• 延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十にある当時「官社」とされていた全国の神社一覧– ここに記載の社は、「延喜式の内に記載され

た神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)とい呼ばれ社格がある

「神名帳」とは?• 古代律令制における神祇官が作成してい

た官社の一覧表のことで、官社帳ともいう– 国・郡別に神社が羅列されており、祭神、社格などを記載

–延喜式神名帳とは、延喜式がまとめられた当時の神名帳を掲載したもの

• 記載された神社(式内社)は全国で 2861 社• 鎮座する神の数は 3132座

式内社の種別(格)• 官幣社と国幣社

– 官社とは、毎年 2 月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のことで、各神社の祝部が神祇官に集まって幣帛を受け取っていた

– 延暦 17年( 798年)、それまで通り神祇官から幣帛を受ける官幣社と、その国の国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた

• 大社と小社– 神社の重要度や社勢による

• 官幣大社 -- 198 社 304座 • 国幣大社 -- 155 社 188座 • 官幣小社 -- 375 社 433座 • 国幣小社 -- 2133 社 2207座

熊本の式内社• 官弊大社

–阿蘇神社• 延喜式には「建磐龍命神社」 として記載• 名神・一宮・別表

• 国弊小社–阿蘇都比咩命神社

• 阿蘇社 二の神殿。通常は阿蘇社に含める– 国造神社 –疋野神社

式外社(しきげしゃ)• 式内社は、延喜式がまとめられた 10世紀初頭には

朝廷から官社として認識されていた神社– 選定には政治色が強く反映

• 当時すでに存在していたのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。

名神• 神社の中で創祀が古く、霊験すぐれた神• 延喜式では 285座を名神とする• のち次第に明神と記されることが多くな

り,明神を神号として付したり,尊んで大明神と称することも行われた。

• 県内では阿蘇社のみ

勅祭社• 祭礼に際して天皇より勅使が遣わされる

神社– 正式には「勅使参向の神社」– 勅使が遣わされ祭祀、奉幣される祭事が勅祭

• 伊勢神宮は毎年五大祭(月次祭を除く)に勅使が遣わされるが、別格とされ特に勅祭社と呼ばれない

• 九州では、宇佐神宮と香椎宮のみ

勅祭社の歴史・経緯• 平安時代末期以降

– 京都周辺の明神二十二社などが勅祭社• 明治 16 年( 1883 年 皇紀 2543)

– 賀茂祭 ( 葵祭 ) 、石清水祭を勅祭と定める– 上賀茂神社、下鴨神社、石清水八幡宮が、勅祭社

• 昭和 20 年 (1945 年 皇紀 2605) まで– 17社が、勅祭社に定められる

• 昭和 20 年 (1945 年 皇紀 2605) – 朝鮮神宮が廃社となり、現在は16社

現在の勅祭社• 上賀茂神社 賀茂祭 (葵祭 ) 三大勅祭• 下鴨神社 賀茂祭 (葵祭 ) 三大勅祭• 石清水八幡宮 石清水祭 三大勅祭• 平安神宮 例祭・神賑行事• 春日大社 春日祭 三大勅祭• 出雲大社• 熱田神宮• 明治神宮• 橿原神宮• 近江神宮• 氷川神社• 靖国神社 春秋二度の大祭に勅使が参向• 鹿島神宮 6年ごとに勅使が参向• 香取神宮 6年ごとに勅使が参向• 宇佐神宮 10年ごとに勅使が参向• 香椎宮 10年ごとに勅使が参向社格は、靖国神社のみ別格官幣社で、他は全て官幣大社

二十二社• 国家の重大事、天変地異の時などに朝廷

から特別の奉幣を受けた。• 後朱雀天皇御代の長暦 3年( 1039年)に

22 社目の日吉社が加わり、白河天皇御代の永保元年( 1081年)に制度としての二十二社が確立したとされる。主に畿内の神社から選ばれた。

• 九州にはない

一宮• ある地域の中で最も社格の高いとされる

神社のこと• 肥後一宮は、阿蘇社

– 二宮 甲佐神社– 三宮 藤崎八旛宮

近代社格制度• 明治維新以降、律令制下の延喜式による制度にならって新たに作られた社格の制度

• 官社–祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける

• 官国神社 官幣社(大・中・小)・国幣社(大・中・小)

• 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>    官幣小社>国幣小社>別格官幣社

• 諸社–府県社・郷社・村社・無格社に分類

• 府社=県社=藩社>郷社>村社>無格社

県内の“高社格”神社• 官幣大社 阿蘇神社• 国幣大社 なし• 官幣中社 八代宮• 国幣中社 なし• 官幣小社 なし• 国幣小社 藤崎八旛宮• 別格官幣社 菊池神社

で、藤崎八旛宮の格は?• 式内宮ではない• 肥後国府八幡宮である• 肥後国の三宮である• 明治以降は国弊小社である• 阿蘇社は遠い。国府に近いので一宮に準ずる扱い

別表神社• 神社本庁が定めにより、神社本庁が包括してい

る一部の神社のこと– 昭和 21年の神社国家管理廃止に伴い公的な社格制度

(近代社格制度)が廃止された– 近代社格制度に代わり、昭和 23年に定められた– 社格制度廃止後は、伊勢神宮を除き、全ての神社は対等

– しかし、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合がある

• 「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めている

• その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれる

別表神社人事の特別な扱い一定以上の基準に達すれば宮司の下に権宮司を置くことが認められる

• 宮司・権宮司は明階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では権正階以上)

• 禰宜は正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)

• 権禰宜は権正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)

• 宮司・権宮司の在任中の身分は特級、一級・二級上以外の者は二級とする

• 宮司・権宮司の任免は各都道府県の神社庁長の委任事項としない(神社本庁統理の直接任免とする。)

県内の別表神社• 阿蘇神社  名神 官大 肥後国一宮 1948年

• 八代宮      官中 1948年• 菊池神社   別官 1948年• 藤崎八旛宮   国小 1948年• 青井阿蘇神社  県社• 熊本県護国神社 護国 1959年• 高橋稲荷神社

神職になるには?• 神道系の大学を出る

– 一番近道で、神道学科は國學院大学と皇學館大學に設置– 所定の課程を修了すれば正階、必要な実習を経て明階

• 階位検定講習会– 國學院大学、皇學館大學、一部の神社庁で年 2回おこなわれる– 1ヶ月程度

• 神職養成所– 全国に数校あり、 2年間通う– 入所するには神社庁の推薦状が必要な場合もある– 身近な神職に相談すること

• 通信教育による検定試験– 急遽神職の資格を取らなければならない場合– 実家の神社の跡を継ぐ場合に限る

神職の階位• 神社本庁「階位検定及び授与に関する規程」に 5 つの階位区分• 明階までは所定の研修を受けることにより昇進可能• 階位の名称は神道で徳目とする「浄明正直」(浄く明く正しく直く)から

1. 浄階神職の最高位で、長年神道の研究に貢献した者に与えられる名誉階位

2. 明階– 別表神社の宮司・権宮司に必要な資格– 勅裁を要する伊勢神宮の大宮司以外ならどこの神社の宮司にもなれる

3. 正階– 一般神社の宮司、別表神社の禰宜

4. 権正階(ごんせいかい) – 禰宜– 一般神社なら宮司になれる場合もあり

5. 直階– 一般神社の禰宜– 基礎的な階位

神職の職階• 神社内での役職順位

– 階位より優先• 一般的な配職

– 神社の規模や由緒によって異なる– 宮司・禰宜・権禰宜

• 原則として宮司・禰宜は各神社に 1 名ずつ• 別表神社の一部では、宮司の下に権宮司• 宮司は代表者、権宮司は副代表、禰宜は宮司の補佐役、権禰宜は一般職員

• 伊勢神宮は、祭主・大宮司・少宮司・禰宜・権禰宜・宮掌

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