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劣等生のダーウィンが、ガラパゴスで見たもの NIKKEI The STYLE

2020 年 1 月 31 日 14:00 [有料会員限定記事] 保存 閉じる

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26 歳の迷える若者、チャールズ・ダーウィンは 1835 年 9 月、英国海軍の調査船ビーグル号で南米エクア

ドル沖に点在するガラパゴス諸島に立ち寄る。わずか 35 日のこの島々での体験が、後に旧約聖書の伝

統的価値観を覆す「進化論」を生むきっかけになる。彼は一体何をつかんで、自然選択による生物の進

化を唱えるようになったのか。環境破壊や生態系の危機にさらされる中、ゾウガメなど珍しい固有種保護

のために闘う島を訪ね、ダーウィンの足跡を探した。

ダーウィンが上陸したサンクリストバル島、テヘレータスの入り江。岩の上にウミイグアナがたたずみ、魚

を求めるカッショクペリカンが飛ぶ

劣等生 固有種に胸躍る

19 世紀半ば、著書「種の起原」で驚天動地の進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンに親しみが持てるの

は、学校での成績が決して良くなかった点だ。

生家の近くにあった英国シルスベリの寄宿舎付きの学校で、9 歳から 16 歳まで学ぶ。自伝によると「先生

や父から、知能は平均以下とみられていたと思う」。医師だった父親の勧めで入学したエジンバラ大医学

部は 2 年で退学。次も父親の勧めでケンブリッジ大神学部に入り卒業する。父親の遺産がもらえそうなの

で、田舎で牧師になりのんびり暮らすのも悪くないなと考える、典型的なモラトリアム青年だった。

チャールズ・R・ダーウィン(1809-82)=ゲッティ共同

当時、カブトムシの収集や地質調査旅行など博物学に入れ込んでいたことが運命を変える。海軍の調査

船ビーグル号の船長が、5 年の航海の話し相手になる博物学者を求めていた。そのポストにうまく滑り込

み、たまたま寄港した南米エクアドル沖のガラパゴス諸島で、彼を進化論に導く動植物に出合うことにな

るのだ。

ダーウィンの人生で謎に感じるのはふたつ。ここでどんな体験をしたのか。もうひとつは劣等生だった若

者がなぜ「環境に適応した種が生き残る」という自然選択説にたどり着けたのか。

だったら、ガラパゴスに行って、謎解きをしてみよう。成田国際空港を発ち、米国ヒューストン、エクアドル

の首都キト経由で、エクアドルの沖合 1000 キロ、赤道直下に浮かぶガラパゴス諸島に向かった。

大小 100 を超えるガラパゴス諸島の中で、ダーウィンが最初に立ち寄ったのが東端のサンクリストバル島。

テヘレータスの丘の断崖下にある入り江だ。岩場で休息するアシカたちを踏まないようにすり抜けて、コ

バルトブルーの入り江で泳いでみた。

魚群が体の真下を通り抜ける。ウミガメがゆったり遊泳する。目と鼻の先の水面にペリカンたちが次々飛

び込み、魚をのみ込んで飛び去る。上空にはアオアシカツオドリが優雅に舞う。

おそらく 185 年前も、ダーウィンは同じような光景を眺めていたに違いない。彼はフロレアナ島、イサベラ

島、フェルナンディナ島、サンティアゴ島なども含め計 35 日間滞在し、ゾウガメやウミイグアナ、リクイグア

ナ、スズメに似た各種フィンチ、マネシツグミなどの固有の動物、乾期に樹皮が白化するパロサントや、キ

ク科の樹木スカレシアなどの固有の植物に遭遇している。

これらの固有種は、500 万~600 万年前に海底火山の噴火で次々、出現した島々に、南米大陸から流木

などで運ばれ、島ごとに進化を遂げたものだ。ダーウィンは帰国後の 1839 年に出版した「ビーグル号航

海記」の中で、ガラパゴス固有の生物の多さに驚きの声をあげている。既に南米大陸で大量の動植物の

標本を採集。ガラパゴスの固有種を見極める力をたくわえていたからだ。私たちも島々を船でめぐり、自

然ガイドの案内で固有種群に出合うたびに、胸がわくわくした。

実は彼は、島を巡っているときには、固有の動植物が個々の島ごとに異なる進化を遂げていることには

気づかなかった。ロンドンに持ち帰ったガラパゴスの生物の標本を、研究者たちと調べている段階で、そ

れぞれの島の自然環境に適応した種が生き残るという自然選択理論を発見したのだった。

フィンチ(サンクリストバル島)

レストランのテーブルに近づくフィンチ。人間を恐れない(サンクリストバル島)

でも、すぐに公表しなかった。進化論は、当時の常識である「各種の生き物は神が造った」とする旧約聖

書の「創世記」を否定する考えだったからだ。

58 年、マレー諸島で生物研究をしていた英国人博物学者、アルフレッド・ウォーレスから、短い論文が届く。

自然選択説と似た内容だったため、2 人の共同論文をリンネ学会の会報に掲載した。反響はなかった。

翌年、50 歳になった彼は、ひそかに書きためていた自然選択進化論を「種の起原」として出版。世界各国

で翻訳され、大論争が起きた。トマス・ハクスリーら友人たちの援護もあり、進化論は徐々に社会に浸透し

ていった。

葉を落とし白い枝だけになったパラサントの林。水辺にはオオフラミンゴの姿が見える(ラビダ島)

自伝を丹念に読んだら、こんな表記があった。「若いときから、観察したものは何でも理解し、何らかの一

般的な法則のもとにまとめたいという強い欲望を持っていた」。学校の成績は悪くとも、そんな資質を持つ

人物が、たまたまガラパゴスの特異な自然に出くわしたことで、進化論が生まれたんだな。

皆の知恵で生態系を護る

ダーウィンの著書で一躍、脚光を浴びたガラパゴス諸島では、その後も自然選択説を発展させる固有種

の生態研究が続く。

コバネウの夫婦関係を観察し続ける研究者がいる。エクアドルの首都キト郊外にあるサンフランシスコ大

学のカルロス・ヴァジェ教授(60)だ。

コバネウの研究者、カルロス・ヴァジェ教授(エクアドル・キトのサンフランシスコ大学)

研究室を訪ねる。学生に説くように分かりやすく解説してくれた。エクアドル本土のロハで生まれ、4 歳の

ときにガラパゴスのサンタクルス島に移住。学生時代、この島にあるダーウィン研究所のボランティアとし

て、ペンギンの調査を手伝った。このとき近くで泳ぐコバネウが気になってしまった。

米国のプリンストン大学に留学。博士論文を書くため、1989 年の 8 月から 2 カ月間、フェルナンディナ島

にテントを張り、コバネウの生態を追った。コバネウは、200 万年前に渡って来たウが、肉食の天敵がい

ないため羽が退化し、飛ぶことを放棄した水鳥の固有種だ。観察の結果、コバネウはさらに進化を遂げて

いた。卵から雛(ひな)がかえると雄が子育てに専念し、雌は巣を離れて別の雄と繁殖活動に入る。合理

的な少子化対策をとっていたのだ。

羽が退化したガラパゴスコバネウ(イサベラ島)

以後も観察を続行。雄は雌よりも体やくちばしが大きく、餌の魚を多くとるので子育てに向いている。通常、

雛は 1 羽のケースが多い。2 羽の場合、雌は巣を離れず夫婦で子育てをする。そんな実態もつかみ、今

年中に一連の研究成果を論文で発表する予定だ。

固有種を護るための活動も地道に続けられている。進化論発見のきっかけとなった固有種の宝庫が、環

境破壊や温暖化、外来種の侵入によって危機に直面しているからだ。

リクイグアナ(サンティアゴ島)

ガラパゴスノスリ(サンティアゴ島)

伊藤秀三著「ガラパゴス諸島」(角川選書)によれば、1954 年、ドイツ人の青年が「ゾウガメが食用に捕獲

され、漁民が放ったヤギが野生化し植生を荒らしている」惨状をユネスコ(国連教育科学文化機関)など

に報告。

これを機に 64 年、サンタクルス島に、固有種の調査研究と保護を目的にしたダーウィン研究所が完成。

寄付金で運営する非政府機関だ。エクアドル政府も 68 年、自然保護管理官 2 人を派遣し、全島の陸地面

積 97%を国立公園区域に、3%を居住・農業区域に指定。

72 年には国立公園事務所がダーウィン研究所の近くに設けられ、両者が協力して、絶滅に瀕(ひん)した

ゾウガメの保全、植生を荒らす野生化したヤギやクマネズミの撲滅作戦に乗り出す。78 年にはユネスコ

がガラパゴス諸島を世界遺産第 1 号に指定。98 年になるとガラパゴス特別法を制定し、空港や港湾での

検疫、移住制限を開始。

ヨウガンサボテン(フェルナンディナ島)

アオウミガメ(イサベラ島)

それでも外来種の侵入などに手を焼くダーウィン研究所は、目下、職員 89 人、ボランティア 29 人の体制

で「海洋 11、陸上 9 の 20 のプロジェクトを立ち上げて固有種保護に取り組んでいる」と科学部長のマリア・

ホセ博士は言う。

職員のハインケ・イエーガー博士は、陸上のブラックベリープロジェクトのメンバー。固有の植物、スカレシ

アは 15~20 年ごとに枯れ、周囲に散った種の芽が出て再生する。その空間に外来種のブラックベリーが

繁茂し再生困難にしているため、その駆除に努め、現在縮小したスカレシアの森を 10 年後、100 倍に復

元する計画だ。

固有植物スカレシアについて語るハインケ・イエーガー博士(サンタクルス島のダーウィン研究所)

国立公園事務所は 335 人のパークレンジャーを抱え、ダーウィン研究所と共同戦線を張る。ホルヘ・カリ

オン局長は地元生まれの 37 歳。自ら島の学校で受けて来た教育で環境問題への関心を高めた体験か

ら、ダーウィン研究所や島内の学校、図書館などと組んで、環境教育に力を入れる。

サンタクルス島の丘の森の中にあるトマス・デ・ベルランガ校は 4 歳から 16 歳までの生徒 200 人を抱える

私立校。3 年前、ジャスティン・スコギンさんが校長に就任してから、基本方針に「持続可能教育」を据えた。

「環境教育」という科目を独立させただけでは効果は得られない。すべての科目で、身近な生活に生かせ

る課題を学び、自分自身で考えるようにする、という方針だ。

例えば科学の授業。外に出て草や岩などを集めてきて、汚れた水をどうすれば再生できるか実験し、島

の重要課題である水資源問題について考える。島内の鳥の死体調査をして、どうすれば鳥が車にはねら

れないようにできるかを家族とも話し合う。壁のない小屋風の美術教室では、ごみ集積場や家庭から持

参したごみを紙に張って絵を描くリサイクルアートを実践していた。

子どもたちが廃棄物からつくったアート作品(サンタクルス島のトマス・デ・ベルランガ校)

まだ確たる成果は上がっていない。子どもたちが固有の生物と共生するガラパゴスの社会で生かせる力

を育てたい、とスコギン校長は静かに語る。

地球の自然破壊や温暖化が進む中で、ガラパゴスの生態系を護る活動は一段と重みを増している。

カッショクペリカンとウミイグアナ(サンタクルス島のプエルト・アヨラ) ●チャールズ・ダーウィン略歴 1809 年イングランドのシルスベリに生まれる。8 歳のとき母死去。31 年、22 歳でケンブリッジ大神学部卒

業。同年 12 月、ビーグル号で調査航海に出発。39 年、エンマ・ウェジウッドと結婚。51 年、長女が死亡し

悲嘆にくれる。59 年、50 歳で「種の起原」出版。「昆虫によるランの受精」「人間の由来」などを相次いで著

す。晩年は、ミミズが地球の肥沃土をつくりだすことを実験で明らかにし、81 年「ミミズの作用による腐植

土の形成」を出版。翌年死去、歴代の王も眠るウェストミンスター寺院に埋葬された。享年 73。

足立則夫

鈴木健撮影

[NIKKEI The STYLE 2020 年 1 月 26 日付]

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