戦争体験を語る - 浦安市国際交流協会 · 2018-09-21 ·...

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ミニセミナー第Ⅵ弾

戦争体験を語る

-1932 日間の軍隊生活を省みて-

報 告 書

2013 年1月 19 日

浦安市国際交流協会(UIFA)主催

目 次 会場写真 1 1.講 演:戦争体験を語る

-1932 日間の軍隊生活を省みて- 上斗米正雄 3~13 2.質疑応答 14

1

会場写真

講師 上斗米 正雄氏

2

3

1.講 演

戦争体験を語る

―1932 日間の軍隊生活を省みて― 私は只今、ご紹介いただきました富 岡在住の上斗米正雄といいます。 現在、私は 92 歳になりますが今でも 週 2 回、ソフトテニスをやり健康な日 々を送っております。今日は私が大東 亜戦争に出征した 5 年 3 カ月間の戦争 体験をお話します。戦争を知らない人 が増加しておりますので少しでもその 悲惨さを知っていただければと思い、 話す機会を与えて頂きました。 略 歴

私は岩手県盛岡市に生まれました。 昭和 15 年 5 月に盛岡市で徴兵検査を 受けました。結果は「第一乙種合格」 でした。入隊は昭和 16 年 2 月、牡丹 江省綏西の関東軍歩兵連隊です。ここ で初年兵として基礎訓練、銃剣術、実 弾訓練、戦闘訓練などを体験し約 3 年 間過ごし軍隊の厳しさを叩き込まれま した。 昭和 16 年 12 月 8 日に日本海軍は ハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争 に突入しました。 昭和 19 年に牡丹江から南の武昌近く の金牛鎮に移動するのですが南京まで 貨車で移動し、そこから約 1,000km を 行軍し 1 カ月半かけてやっと金牛鎮に 辿り着きました。

戦争体験を語る -1932 日間の軍隊生活を省みて- 平成 25 年 1 月 19 日 上斗米 正雄

4

ここでは食糧が不足し「徴発」すなわち、現地人の食糧などを略奪したり更に疲労困憊

と劣悪な食糧事情でアメーバ―赤痢に罹り体重が 20kg も減少し、肉体的にも精神的に

も大変苦労しました。 昭和 20 年、日本の戦局は敗色が濃厚となりました。結局、8 月 15 日に終戦を迎え、

武装解除、俘虜官兵として道路工事に従事するなどした後、昭和 21 年 5 月に上海から

山口県仙崎港に帰還しました。 本日の講演を通じて皆様に「日本が今日あるのは多くの英霊の上に築かれたもので あることを語り継ぐことを使命としている」ことをご理解いただければ幸いです。 支那移動記録

昭和 16 年 2 月、新潟港から輸送船 で 3 日間かけ朝鮮の羅津港に着きまし た。そこから列車で満州の荒野を北上 し牡丹江省綏西(①)にあった関東軍 歩兵連隊に入隊しました。そこで初年 兵時代を過ごし、3 年後、貨車で南京 (②)を経由して中支の金牛鎮(③) に移動し、そこで終戦を迎え、上海 (④)経由で山口県仙崎港に帰還しま した。 徴兵検査 私は 16 歳まで生まれ育った盛岡市 にいましたがその後、上京し蒲田に 住んで旋盤工見習いをしていました。 昭和 15 年 5 月に盛岡市で徴兵検査を 受け、「第一乙種合格」で出兵するこ とが決定しました。 昭和 15 年 9 月日本は日独伊の三国 同盟を締結し、戦争への準備が着々と 進められていた時でもありました。 祝入営

昭和 16 年 2 月山形市の北部第 18 部 隊に入隊しましたが入営にあたり実家 を出る時、近所の方々の激励を受けま したが実家を長く離れていたために知 らない人が多く、普通は幟

のぼり

や襷たすき

は近所 の人達が準備してくれるようですが私 の場合は襷を自分で作り「祝入営 上

③ ④

母 親

本人

5

斗米正雄君」と自書しました。母親は息子を見送るのが悲しく家の縁側からじっと私の

後ろ姿を見ていたのが印象に残っています。 初年兵訓練―(1)銃剣術

北部第 18 部隊で基礎的なことを教え られた後、昭和 16 年 2 月末、満州の牡 丹江省綏西にあった関東軍歩兵連隊第 273 部隊に入隊しました。この部隊は 日本最強の軍隊であると言われていま した。ここでは初年兵として徹底的に 銃剣術は毎朝、毎晩訓練がありそれは 激しく、倒れる者もいたが頭から 水をかけられ続行させられました。

初年兵訓練-(2)実弾訓練

更に初年兵は 4 カ月間、戦闘訓練を集 中的に行いました。具体的には小銃、軽 機関銃の射撃でしたが私は軽機関銃を選 びました。理由はただ格好が良いと思っ たのでしたが実際にやってみると細身の 自分には 4kgの銃は重く歯を食いしば って訓練しました。軽機関銃は 1 回に 15 発連続射撃を行いますが上手い人は 10 発命中する者がいましたが私は 4,5 発でした。 初年兵訓練-(3)戦闘訓練

6 月になり部隊の周りは夏の花が咲き 乱れます。ある日、召集がかかり近くの 丘の頂上を目指して匍匐

ほ ふ く

訓練(腹這っ て移動する訓練)をすることになりまし た。60 名の初年兵は銃を腰に抱え一斉に 匍匐訓練を開始しました。20~30 分経ち 汗が滴り落ちてきました。苦労しました が何とか頂上に到達することができまし た。滴り落ちる汗を拭きながら匍匐して きた後方を見ながらあんな処から来たの かと感無量でありました。

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初年兵訓練-(4)夜間訓練

夜間訓練も頻繁に行われました。軍隊 の規律の中で歩哨の勤務中における違反 行為は厳罰です。それ程、歩哨の任務は 責任が重いのです。幾多の戦史に、歩哨 が居眠りしたために、部隊が全滅した例 が示されています。夜間は鉄砲はあたら ないので敵陣近くに忍びより、一挙に突 撃を開始します。命令・伝達は手信号で 行い決して声をだしません。この訓練で 自分が携帯していた弾薬箱を紛失してし まったのです。班長の配慮で翌朝、初年兵全員が 4 時に起床し紛失したと思われる場所を

探し、運よく見つけることができました。班長の決断と初年兵の協力に心から感謝しまし た。

内務班

初年兵は食事もゆっくり食べれません。 食事前後の準備整頓を一日 4 回もやりま す。ほこりや塵があると初年兵全員が整 列ピンタです。各人の装具や衣類の整頓 が悪い、古参兵の靴に泥がついていたな どに対してもまたピンタでした。 しかし、入隊した者は学歴、職歴、金持 ち・貧乏人も差別なく平等に扱われます のでその点では良いところではなかった かと思います。 山下奉文大将に敬礼

昭和 17 年 9 月のある日、近く偉い人 が来るという風聞が伝わりました。その 偉い人とは山下奉文大将のことだったの です。山下大将は大東亜戦争勃発と同時 に電撃的にマレー半島を席巻し、英国の 牙城シンガポールを占領し、英国との全 面降伏の調印を済ませた人でした。遠く 目で見ていた私は即座に正対し不動の姿 勢で捧げ銃を行いました。

山下大将

ピンタ

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狼に襲われる牛

我々の部隊から 300km 離れた場所に 八面通の飛行場がありました。ここは物 資の集積所で重要な拠点でありました。 この飛行場の警備を支援する目的で派遣 されました。 ある日、満人の小さい部落が騒々しいの で行ってみると放し飼いの牛に、狼の群 れが飛び掛かっていました。満人たちは 手に手に棒を振りかざしたり、缶を叩い て追い払おうとしていました。結局、狼 は逃げ、牛も無事でした。 行 軍

昭和 19 年 4 月に第 493 大隊は軍用列 車で南京を出発し揚子江河岸の蕪湖に向 かいました。そこから約 1,000km 先の金 牛鎮まで重い背嚢を背負い一日 30km の 長行軍を行ったのです。 足の裏には豆ができ潰れる、背嚢の紐が 肩に食い込むなど毎日が苦しみの連続で した。行軍一週間にして落伍者がかなり でましたが彼等は揚子江を航行している 軍用船に収容されていきました。 慰安所

行軍の第一目的地“武昌”には 5 月上 旬に到着しました。雨の日、酷暑の日、 辛い日の行軍でありましたが段々、慣れ てきてお互いが支えとなり一人の落伍者 もなくここまできました。 その後、金牛鎮につき、休養と次の作戦 準備に入りました。ある日、中隊長が中 隊全員に小さい紙袋を渡しました。その 中にはコンドームが入っていました。 近くに慰安所があり幾つかの部屋に分か れており多くの隊員は利用しました。

揚子江

(長江)

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徴 発

金牛鎮で私は日本軍の暴虐の一端を体験 しました。それは「徴発」です。戦地で食 糧が逼迫した時、現地で食糧を強制的に調 達することです。戦争だから必要悪である から容認されたかもしれませんが大義名分 はともかく、本質的には略奪であり夜盗行 為となにも変わりません。部落民はみな、 無抵抗でしたが泣き叫ぶ老婆の声がいつま でも耳に残り後味の悪い思いでした。早く 逃げないと敵の逆襲に遭うので約 1 時間の 行動でした。 野戦病院

長行軍による疲労と食糧の欠乏、特に水 不足による伝染病のアメーバ―赤痢患者が 多発しました。直ちに野戦病院が設立され ましたがそこには衛生兵も看護婦もおらず 薬もない、ただ隔離されているだけの劣悪 な環境でした。約 30 人の赤痢患者が土間 に寝かされているだけ中にはマラリアも併 発した患者もおりトイレに行けない者は死 んで逝きました。気力のある者だけが生き 残ったのです。私は下痢で体重が 20kg も 減少し骨と皮になりました。 分哨夜襲に遭う-(1)

昭和 19 年 12 月警備につくことになり ました。その宿舎は民家でかなりの豪邸で あり4~5mの塀に囲まれていました。12 月 8 日大東亜戦争勃発の日、祝宴を行ない ました。21 時頃に終わり寝静まった頃、不 寝番のけたたましい「敵襲」、「敵襲」の声 で起こされました。私は手探りで素早く軍 服を着て小銃を持って広場に出ました。敵 は庭内には入っておりませんでしたが分哨 が襲われている模様で塀に梯子をかけてみ ました。

敵兵

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分哨夜襲に遭う-(2)

分哨の方向で機関銃の音、手榴弾の炸裂 音がしています。塀から下を見たら中国語 の会話が聞こえ夜影にもはっきり敵軍が大 勢いることが分かりました。後で判明した のですが、分哨が僅か 30m 後方から機関 銃と手榴弾の一斉攻撃に遭っていましたが 立哨中の 2 名、仮眠中の 5 名は咄嗟に四散 して奇跡的に犠牲者はありませんでした。 軍隊では敵と戦わず逃げると敵前逃亡とな り銃殺です。自分が分哨にいたらどのよう な行動をとったか疑問が残こりました。 撤収作戦

昭和 20 年 1 月戦局はガダルカナル島玉 砕、硫黄島玉砕、アッツ島玉砕など日本軍 の劣勢が明確となりました。しかし、中国 戦線では北支、中支、南支の日本軍は占領 地を確保していましたが戦線を縮小するた め撤収作戦を開始する事になりました。 敵は撤収する我々に対し本格的な攻撃を仕 掛けてきました。右図のように左右の丘の 上に敵がおり前後・左右から弾丸が飛んで くる中、田圃の中を各々が小銃を担いで走 り抜き命からがら逃げました。 渡河作戦

昭和 20 年 3 月株州の東南 50km の処に大 きな河があり、この河を渡る作戦が実行され ました。私はその指揮をとることになりまし 対岸には敵が待ち受けており、河の深さも不 明でした。そこで中国人青年のガイドで浅い ルートが分かり河を渡ることが出来ました。 彼に持って来てもらった舟に乗り込もうとし た時に、対岸の敵から一斉射撃を受け、これ で敵のいる場所も分かったのでこちらから重 機関銃で応戦し約一時間で敵を撃退し予定通 り大隊を迎えることができました。

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勘太郎-(1)

昭和 20 年 5 月湖南省易家湾にいましたが 小隊近くに住んでいた支那人の 7 歳の男子が 出入りしていました。私はその子に「勘太郎」 と名付けました。彼は体は小さいけれど人気 者で食事の手伝い、後片付け、掃除などして くれました。食事も兵隊と一緒にするように なりすっかり小隊に居ついてしましました。 彼の家は部隊から 10km 位離れた家に祖父と 二人で住んでいましたが朝 10 時頃、来て夕 方は日が暮れる前に帰って行きました。 勘太郎-(2)

我が小隊は勘太郎の部落に示威行軍を行い

ました。勘太郎は部落の人に格好の良い処を 見せたくて私の銃を担ぎましたが重くてフラ フラしたのは滑稽でした。部落からの帰途、 小隊は一触即発の危機に直面しました。部落 を出る頃、心なしか農民の姿が居なくなりま した。我々は不穏な空気を感じておりました。 結局、何も起こらず無事、宿舎に帰ることが できました。翌日、勘太郎がきて一生懸命訴 えているのです。彼によれば、示威行軍を察 知した敵は、我々の帰途を襲うべく峠で待ち伏せしていたとのことです。その時、勘太郎 の爺さんと部落の有力者が急いで敵の司令官に会い、攻撃を中止するよう懇願した結果、

中止したとのことでした。敵の中にも人間の道義が立派に存在していたことを知りました。

同時に私は部落の有力者に、勘太郎の爺さんに、敵の指揮官に、そして勘太郎に感謝しま

した。 終戦-(1) 昭和 20 年 8 月 15 日、部隊に全員集合の 命令がでました。大村隊長の顔がやや緊張 気味でした。「本 8 月 15 日、天皇陛下は終 戦の勅諭を下された」と一字一句を噛みし めるように告げられました。身が凍るよう な緊張と放心状態でこの言葉を聞きました。 更に「本隊は帰隊準備完了次第直ちに出発 する」と述べられました。

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終戦-(2)武装解除

日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏 となりました。沖縄も全滅し、本土決戦は 民族の滅亡にもつながると判断され天皇陛 下の勅命の他、無かったのです。 支那派遣軍は 100 万人を擁していたので 将兵の命を如何に救うかが重大でありまし たが当時の中国の蒋介石総統が日本の侵略 ・暴虐に対し「義を以て報いるべし」と命 令を下し日本の将兵を無事に帰還させるよ うに訓令しました。温情こもる蒋介石総統 の計らいで我々帰還兵は多大の恩恵をうけました。シベリアに抑留され難儀した話を聞く

につけ、幸運であったと蒋介石総統に深く感謝しなければならないと思いました。 終戦-(3)道路工事

昭和 20 年 10 月、我々俘虜官兵は湖南省 岳陽に移動しました。武器はなく、中国人 からの復讐に備え、各人は棒を携えました。 本格的な襲撃でもあったら役にたたないと 思うが気休めにはなりました。 帰還までの期間、その労働力を活用し道路 建設に向けられた。過去の戦争の歴史をみ ると敗戦国の捕虜を戦勝国の国土建設に従 事させ、過酷な労働を強いたため、二度と 祖国の地を踏むことなく異国の地に骨を埋 めたものでした。

大隊演芸会

昭和 21 年 3 月道路工事も順調に進み早 く、帰還したいために働いたが帰還命令は なかなか下りなかった。部隊の上層部は日 常生活がマンネリになり問題を起こすこと を心配して演芸団を組織して退屈凌ぎに演 芸会をやることにしました。私は寸劇「瞼 の母」の責任者になり練習をやり何とか無 事終わることができました。他に歌曲、手 品、浪花節なども別の人達が行いました。

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帰 還

昭和 21 年 4 月岳陽を離れ上海に向かう ことになったが貨車で中国の一般人と一緒 に乗るので超満員となり自分達は貨車の屋 根にも乗ることになりました。結局、岳陽、 武昌、漢口、鄭州、徐州、浦口、南京、の 順序で 16 日かけて上海に到着しました。 列車の揺れがほどく用心しないと振り落と されそうになったり、トンネルを通過する 際はタオルで顔を覆うものの真っ暗の中、 騒音、煙、熱気などで正に拷問でありまし た。 復員-(1)山口県陸軍病院

昭和 21 年 5 月 8 日米国の輸送船に乗り 上海を発ち山口県仙崎港に 5 月 16 日に到 着しました。私は上海でデング熱に罹り、 航海中も高熱で意識朦朧として生死の境を さまよう状況でありました。それでも仙崎 港の桟橋で松田大隊長から「みんな、長い 間、ご苦労であった。ここで部隊を解散す る」と告げられ私の 5 年 3 カ月の軍隊生 活は終わりました。我々病人は直ぐに迎え のバスで山口県陸軍病院に入院しました。 復員-(2)下関駅

陸軍病院での第一夜は寝心地の良いベ ッドでぐっすり寝ることができました。 朝食も白米のお粥と納豆の味噌汁、干物、 お新香など何年も食べたことのない和食が だされました。私は病気を忘れてゆっくり 食べました。この入院で体力はみるみる回 復し 5 月 22 日に退院しました。 先ず、東京に行くことにし下関から汽車に 乗りましたが車内は復員軍人でごったがえ していました。満員の列車は出発して夕闇 が近くなって広島に到着し、新型爆弾で 破壊された街がうっすらと見えました。

兵隊達

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復員-(3)蒲田駅

横浜で下車し省線に乗り換え蒲田駅に到着 しました。下丸子の伯父さんの家を訪ねる ために下車して蒲田駅を出てみると繁華街 は跡形もなく焼け野が原で先に見えるビル が夜陰に怪物のように見え、被害の大きさ に驚きました。結局、下丸子の伯父さんの 家も消失してなくなっていましたので実家 のある盛岡に帰ることにしました。 上野駅に行く途中、有楽町駅で数人のアメリカ兵をみかけ占領されている現実を認識しま

した。 只今帰りました

昭和 21 年 5 月 25 日の夕方、私は盛岡 に着きました。駅前に立ち、満感胸に迫り 両手を天に突き上げて「いま帰ったぞ」と 叫びたかったのです。早速、家に帰ったら 自分の家がなくなっていました。後から聞 いた話では強制疎開をさせられ家も延焼を 防ぐために取り壊されたとのことでした。 結局、私は母の疎開先である上田に友人が 連れていってくれたので母にやっと会うこ とができました。母は私をみて「こんなに 痩せて」と涙を浮かべて呟きました。 最後に戦争で外地、内地で犠牲になった多くの英霊と家族の悲しみを思い、戦争は二度

と繰り返してはならないと思います。 ご清聴ありがとうございました。

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2.質疑応答 Q1 軍隊における規律や統率の面で苦労されたことはどの様な点ですか。 A1 軍隊においては、規律は最も重要です。規律や統制は厳正だったと思います。しか

しながら兵隊の中には、教育を受け純粋に厳正な規律を重んじる人もいれば、一部

の人は、軍隊では通用しない自己の都合を優先し規律を軽視する人もいます。現場

においては、すべて規律の運用は、長の責任で行われた。人数の多少にかかわらず、

全体の統率は重大で、それだけに苦労があります。 このようなことがありました。 分哨(出先の見張り小屋)の見張りには、7人程度で2日交代で務めます。深夜、

歩哨1人が見張りをし、他の兵隊は寝静まっていました。その時に後方30メート

ルから突然敵の手榴弾、機関銃の一斉攻撃にあい、分哨長(私と同年兵の軍曹)は

咄嗟に本能的に身の危険を感じて、分哨を飛び出しました、部下の兵隊もあわてて

後に続き、四散しました。結果的には一人の犠牲者もなく、全員無事で戻ってきま

した。しかしながらその分哨長は、敵前逃亡とみなされ軍法会議にかけられました。

その翌日には、私が当番で緊張の中で分哨長を務めましたが、何事もありませんで

した。もし、私が分哨長の時に敵の夜襲を受けた場合に、どのような態度を取った

か とどまって戦い続けるか(おそらく戦死)、逃げるかその時にならないとわかり

ません。

Q2 外地での物資の調達はどの様にされていましたか。 A2 基本的には、給与や物資は後方から補給されるものですが ,野戦でそれが不可能とな

った場合、臨機応変に、長の指示のもとに現場で調達、すなわち現地補給が行われ

ます。我々はそれを「徴発」と言いますが、相手からすると「略奪」と同じです。 Q3 現在、92 歳とお聞きしますが健康の秘訣は何ですか。 A3 体を動かすことに努めています。週 2 回のソフトテニス、室内外での体操(約 10 分) などです。食事は何でも食べ、晩酌もします。 以上

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ミニセミナー第Ⅵ弾

戦争体験を語る -1932 日間の軍隊生活を省みて-

報 告 書

発 行 :2013 年4月 17 日 編集発行:浦安市国際交流協会総務部会 住 所 :〒279-0003 浦安市海楽1-29-12 TM ビル3階 電話・FAX.:047-381-5931 Eメール: uifa@uifa-urayasu.jp ホームページ: http://www.uifa-urayasu.jp/

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