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Hitotsubashi University Repository

Title フランス1791年憲法における選挙制度(二・完)

Author(s) 伊藤, 良弘

Citation 一橋研究, 4(3): 95-114

Issue Date 1979-12-31

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/6385

Right

95

フランス1791年憲法における選挙制度

                   (二・完)

伊 藤 良 弘

     日 次

一 はじめに

二 制憲議会内諸政派と民衆運動

三制憲過程の分析

 1.中道左派主導期(以上第4巻第1号)

 2. フィアン派(中道左派=左派)主導期

四 1791年憲法における選挙制度(以上本号)

 三 制憲過程の分析(つづき)

 2. フイアソ派(中道左派=左派)主導期

 (1)民衆運動の展開と制憲議会

 前述の如く,この時期に入ってからの民衆運動の進展には,目覚しいものが

あった。夙にマラーは,1790年6月30日付『人民の友』(1’Amidu peupIe)

において,r富者の貴族政が貴族の貴族政にとって代るたらぱ,我々は後者を

打破したところでどれだけの利益を得ることにたるだろうか……貧しさ故に我

々に市民の資格を拒むなら,我々が諸君から余剰物を奪うことによってそれを

回復するのを恐れるが良い」と桐喝し,普通選挙制度実現のための闘争に取り

組んでいた。そして,そのための組織をめぐって,ジャコバン・クラブについ

ては・「平等だけを夢見・兄弟であると自惚れておきながら・自分たちを解放

した人々を疎外した馬鹿者どもの集まりから何が期待できようか」と捉えた上

で,新たな組織,民衆協会の結成を呼びかけていたω。かくして,この段階に

96 一僑研究 第4巻第3号

入ってからは,マラーをはじめ制限選挙体制に挑戦し後のジロソダソ・モソタ

ニャール(Montagnards)に連らなるブルジョアジーの主導下に,首都パリ

を中心にして各地に陸続とこの種の民衆協会が簾生して来ることになる(2〕。

 民衆協会は,会費も低額で,その大部分は受動的市民を含む18歳以上の男女

に開放されており㈹,その目的として殆どの協会名ないし規約で人権宣言に対

する愛着・忠誠が表明されていたがω,その活動は,1791年春頃を境として文

盲の民衆に対する啓蒙活動から戦闘的な政治活動への傾斜を深めて行った(5〕。

具体的には,マラーが夙に1789年末に示唆したようなr民衆にその権利を教え

普通選挙の思想を普及する㈹」教育活動から,「税額条件の撤廃‘7〕」闘争への展

開である㈹。

 民衆協会のうち最も活動的なものは,1790年4万ないし6月に設立された側

コルドリエ・クラブ(C1ub des Corde1iers)一正式名称「人間と市民の権

利の友の会」(Soci6t6des amis des droits de1’homn1e et du citoyen)

一であった。このクラフは,初期に創設された民衆協会として,他の協会の

設立に密接に関与したのみならず,その運営にも強大な影響力を及ぼした(1ω。

1791年5月,その活動家にして共和主義者のロベール(Robert)は,民衆協

会の中央委員会(Comit6central)の結成・主宰を通じて両者の連合に尽力し

た{11〕。時恰もパリでは,大工・印刷工・帽子職人・蹄鉄工などが賃金等の労

働条件改善のためにストライキを引き起こしていたが㈹,中央委員会はその

組織化,指導を通じてバリの労働者たちを掌握しようとした。そして,6月に

入って第一立法議会の選挙人の選挙のために第一次会が招集されると,先の経

済闘争に普通選挙制度を求める政治闘争を結合して運動を指導した(ユ3〕。コル

ドリエ・クラブの5月30日決議㈹および6月7日請願書‘1肋,ジャコバン友愛

協会(Soci6t6fratemelle des Jacobins)の6月12日付r国民への訴えαω」,

パク街自由の友クラフ(Club des Amis de la Libert6de la rue du Bac)

の6月14日個人的請願書〔17〕,13民衆協会の6月14日請願書α8〕等は,この時期

の運動の所産であり,セクシオンの中には普通選挙を実施するものさえ現れた

(コルドリエ・クラブのあるsectionduTh舘tre-FranCais)(lo)。また,民

主派諸紙も挙ってこの運動を支援した:20〕。

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) 97

 コルドリエ・クラフを中核とする民主派は,強固な規律を特色とする近代的

結社とは異なるから,上記の如き政治的立場をとりつつも,実のところその標

携する政府の形態と社会理念においては,なお様々な傾向を孕んでいた。具体

的には,君主制と共和制の別,そして農地均分法(10i agraire)の制定を求め

る動きとそれに反対する動きの別である。

 まず,後者について言うたら,クルナソ(Coumand)やフォシュ(Fauchet)

が農地均分法を要求していたが伽〕,何よりも口べ一ルをはじめ民衆協会の多

くの指導者がブルジ目ア的立場に立っており㈱,またこの時期においては資

本主義体制も生成期にあったために激烈な社会経済的矛盾を生み出してはいな

かったから・このような見解は,民主派内部でも主流を占めるには至らなかっ

た(,3〕。

 他方,前者の問題について言うなら,共和制の要求は,既に1789年に見られ

るが,とりわけ皿の段階に入ってから顕著になった。例えば,王権の反革命性

とその革命との非両立性を見抜いた口べ一ルが『国民の使者』(Mercure Na・

tiOna1)でその系統的なキャンペーンを展開し,1790年末には口べ一ル夫人を

中心に共和派が誕生した㈹。しかし,1791年6月21日以前には,共和主義運動

は,注目は浴びたが民主派内部でもさして強力な影響力を持つには至らず=珊,,

「殆どアカデミックな宣伝㈱〕」とも形容すべき様相を呈していた。この時期の

「民主派には,国王が心底から特権階級に加担していると信じ込む決心がつき

かねた。彼らは,むしろその取り巻きに罪を負わせる方を選んだ。国王を罪あ

るものというよりは,欺かれたものと考えたのである{2〒〕。」従ってまた,「国

王を宮廷人の悪練な使嫉から引き離すこと,国王が彼らの掌中の危険な玩弄物

となることを阻止すること,そこにブルジョア的た議会寡頭政にとって理想的

な政体たり得る共和制の確立よりはるかに急を要する任務があった㈱〕。」

 こうした中で共和派にとってr願ってもない助け㈹」をもたらしたのが,ヴ

ァレンヌ事件であった。この事件を契機として,彼らが一時的であれ力を強め

たのは,否定できたい事実であった㈹〕。早くも6月21日には,口べ一ルを起

草者として,即時の共和制樹立,少なくとも全デハルトマソ・全第一次会の意

思表示を条件とする処置決定を要求する請願書がコルドリエ・クラフで採択さ

一98 一橋研究 第4巻第3号

れた‘31〕。民衆協会や民主派諸紙でも共和主義的宣伝が強まった工腿〕。 7月3日

付『国民の使者』は,共和制がr首都の数多くある民衆協会(SOciさt6spat-

riOtiqueS)すべての願いである」と主張した㈹。そしてこのような動き’は,

パリのみならず地方にも広まった‘3ω。

 6月21日を境に・民衆運動はまがりなりにも「人民主権」論に基づく共和制

論に自覚的に立脚するようになったということができるだろう(舳。そして,

r人民主権」の実現を求めるr民主主義運動の当然の帰結がいつの日か共和制

とたるはずであり㈹」,「人民主権」を人権宣言が少なくとも示唆しているとす

るならぱ,共和制の実現を求める「共和主義は一・・人権宣言の当然の帰結‘舳」

であったということもでぎるだろう。

 しかし,実のところ共和派の運動は,ごく少数の者の心を捉えただけであっ

た㈹。そして早くもヴァレソヌで逮捕されたrルイ16世の帰還直後,共和派

は崩壊したかに見えた㈹J実際・6月24日にコルドリエ・クラブの指導下に

ヴァンドーム広場で3万人の市民によって採択されたという請願書には,デハ

ルトマソに語るまではルイ16世について何事も決定しないことを求める言葉が

あるのみで,コルドリエ・クラブの6月21日請願書と違って即時の共和制の樹

立を第一義的に求める言葉は見られなかった(ω〕し,同クラブは7月9日にブ

ッシュ・サゾ・ソプール(Boucher Samt-Sauveur)を起草者としてそれと同

旨の請願書を採択したのであるω。民衆協会が合同で起草した7月14日請願

書㈹やマズラール(Massou1ard)によって起草されシャン・ド・マルスの

r祖国の祭壇」上で多数の市民によって採択された7月15日請願書㈹は,そ

の趣旨に沿うものであった。共和派は,いまや公然と共和制を要求することを

戦術的に放棄したのであるω。

 ともあれ,この時期における以上のようだ民衆運動の展開は,まさに制憲議

会が確立しようとしていた「ブルジョア体制の要石㈹」ないしはブルジョア体

制の法的保障たる「憲法の要石㈹」としての君主制を危険にさらすものであっ

た。このため議会ブルジョアジーは,民衆運動に対してr生命と財産を賭した

必死の政治闘争㈹」を余儀なくされた。「王党派的な感情の一般的た執拗な存

続㈹」の中での「強権の発動側,」をも辞さない巧妙た対応を強いられたとい

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) 99

うことである。具体的た政治日程は,以下の如くであった。

 同1791年5月18日=22日の請願権等に関するデクレ‘^ωこのデクレは,民衆

運動の拠点として機能していたバリの60ディストリクトを48セクシオンに編成

替えした1790年5月21日=6月27日のパリ自治市組織法㈹を補完して,市町

村・セクシオンの集会の招集・審議内容を地方的行政事項に限定すると同時

に,市町村・セクシオン・市民団体等による集団的請願・掲示を禁止し,請

願・掲示において市民個人の署名を要求するものであった(ただし,集団的掲

示には100リーブルー銀2マールーの罰金が定められているが,集団的請

願には罰則規定がない)。

 lb)1791年6月14日のル・シャプリエ法 4月末のバリの労働者・職人による

賃金等労働条件の改善を求めての団結・ストライキに対し,1日体制下の同業組

合の復活を阻止するという名目で,弾圧を加えるものであった㈹。

 lc〕1791年7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺と翌日の反煽動法 制憲議会

は,ヴァレンヌ事件勃発とともに王権を停止してr事実上の共和制㈹」「共和

主義的代理㈹」を実現しながらも,一方で「誘拐」の虚構を設け,他方では,

「国が広大で人口が多いとき……国民的統一を存続させようとするたら,中央

に確固たる権力を置くことを余儀なくされる“ω」,「もしも革命がさらに一歩

でも進められるならぱ,その一歩に必ず危険が伴う。つまり,自由との関連に

おいては次に行われる最初の行為が君主制の廃絶ということにたり,平等との

関連においては次に行われる最初の行為が所有権の侵害ということになるであ

ろう㈹」というパルナーフの演説を拍手喝采と圧倒的多数による印刷・全デ

ハルトマソヘの配布の決議㈹によって迎えた。そして7月15日,人民投票に

かけることなく国王の免訴と憲法における君主制の採用を確定した。

 7月9日,14日,15日の各請願書で要請したことが制憲議会によって無視さ

れたため,17日には口べ一ルを起草者として新しい請願書が作成され,それに

はr祖国の祭壇」上で6,000人以上の署名がなされた。新しい請願書は,やは

り共和制の要求はしていたかったが,制憲議会の7月15日の議決を手続的にも

内容的にも無効とし,ルイ16世の退位および国王の裁判と新行政府の組織のた

めの新制憲議会の招集を要求していた点で,注目に値する‘舳。これに対し,

ユ00 一橋研究 第4巻第3号

制憲議会の意を外したパリ市長パイイ(Bai11y)㈹は,この集会をr不穏集会」

(attroupement)にあたるとこじつけて1789年10月21日の戒厳法(00〕を適用し,

赤旗を掲げた。そして,ラファイエット(Lafayette)崖下の1万の国民衛兵

が,法定された三度の解散命令も出さずに発砲した。このため,50人以上の参

加者が整れた。続いて多数が逮捕され,多くの新聞が発行を停止され,コルド

リエ・クラブは閉鎖された。そして,翌18日には,制憲議会は国民衛兵のとっ

た措置を賞讃しつつ,民衆運動の取締りを一層容易にするために,ルニョー

(Regnaud)が提案した「反煽動法」を可決した=6D。

 遡って7月16日には,ジャコバン・クラフ内の全保守派が割って出て,別個

にフイアソ・クラブを結成していた㈹。シャン・ド・マルスの虐殺以来,憲

法の改正がフイアン派の大仕事となった。憲法起草委員会=審査委員会一

以下,両委員会と呼ぶ一の権限には,既決デクレの改正案の提出は含まれて

いないはずではあったが㈹,民衆連動の進展を畏怖した彼らは,それへの対

抗措置として,上記一連の措置だけでは飽き足りず,行政権の強化㈹と選挙権

・被選挙権の改正を強行したのである。早くも7月20日からフイアソ派系の新

聞ではその趣旨の改正が謳われていた舳〕が,そのような露払いの上に,8月5

日に両委員会名で出された憲法草案の中には改正案が盛り込まれた。そして8

日からこれについて審議が始められた。以下では,とりわけ選挙権・被選挙権

の改正に関する審議について,検討してみたい。

 (2)選挙権・被選挙権の改正

 8月5日憲法草案では, 「憲法において自由の第一の基礎である国民代表の

純粋性を保持するために,選挙会(aSSemb16eS刮eCtOraleS)における独立と

知識を可能な限り確保し,次いで選挙会が委ねられた選挙については,その信

任と自由に如何なる制約も加えないことが重要であが舳」として,まず選挙会

から立法国民議会への被選挙権について能動的市民資格だけが要求され,その

代りに8月11日,選挙会における選挙権(第一次会からの被選挙権)について

40労働日の価額の直接税の納入が要求された=舳。

 この改正案は,手続的・内容的に強い反発を蒙ったため,8月11日の審議で

は可決されず,8月12日に修正案,8月27日に再度の修正案が出てやっと可決

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) 工0j

されることになる。

 まず,8月11日の審議‘68〕から順に見ていこう。

 この日のトゥーレによる改正の趣旨説明は,以下の如くであった一(i)人民

が非常に多い国では,選挙区ごとの選挙さらには間接選挙を技術的に採用せざ

るを得ないが,フランスはその最たるものである。(ii)選挙区ごとの直接選挙

を採用しているイギリスやアメリカでさ。え,各選挙区は「それ自体のために選

挙しているのではなく,全国民のために選挙している。従って,国民は,一部

の選挙区によって犯され得る不見識(m6prises)や不行跡(erreurs)から自

己を守る利益と権利を持っている……イギリス,さらに近頃ではアメリカも,

我々のものよりはるかに厳格な被選挙資格の基準・条件を設けたのである。」

(iii〕選挙区ごとの間接選挙を採用せざるを得たいフランスでは,(ii〕のことは

1層強く妥当する。選挙会の「選挙人の資格は,公の委任に基づいており,国

民的公権力(1a puissan㏄pub1ic du pays)は,その委任について規制する

権利を持っている。」(iV)具体的方策は,la〕選挙会の選挙人の資格は,「非常に

獲得し易いもの」にしつつも,その場合には選挙人のr個人的独立」と彼らが

r国事の成功に対して抱く非常に実効的な関心」はあまり期待できたいから,

立法国民議会への被選挙権を制限するか,逆にlb)選挙会の選挙人の資格要件を

r租税を適度に増加する」ことによって厳格にし,それによって,そのr個人

的独立」とr国事に対して抱く非常に現実的た関心」とのより大きな保障を確

保して,選挙人の信任の自由を認めるか,の何れかである。(V)既決デクレは,

(a〕の方策を採用したが,それでは税額条件を満たさたいr才人」の排除とr非

常に悪い立法府の組織」が帰結されかねない。(Vi)それに引きかえ,lb〕の方策

を採る両委員会案の場合,「かなり粟多しい数の市民」を選挙会から除外するも

のでありたがらも,立法国民議会への門戸を全能動的市民にr解放」している

こと等によって償.われている。

 トゥーレの趣旨説明は,ポーメッツとバルナーブー何れも審査委員会委

員一によって補足されたが,とりわけ後者の発言は,次に引用するように,

r国民主権」論=「選挙権公務説{o”」を展開しているだけではなく,1791年憲

法の階級的基盤の所在をも示唆している点で,注目に値する。

j02 一橋研究 第4巻第3号

 r両委員会の意見に反対したすべての人々は……民主政と代表政とを混同し

た。彼らが人民の権利と選挙人の資格とを混同したのも〔元をただせば〕その

ことによるのだが,〔代表政に照応する〕後者は,公務でしかなく,それを要

求する権利は,〔代表政の下では〕何人も持っていないのであり,国民(1a

SOCi6t6)=70〕は,自己の利益に合致するようにその公務を配分するのである。

 民主政国家においては,人間の権利の観点からその公務を斤綱に吟味するこ

ともできるが,政体が代表政であるところでは,そしてとりわけ〔フランスの

ように〕選挙人の中間段階が存在するところでは,各人が選挙するのは,全国

民(1aSOCi6t6entiさre)のためだから,国民(laSOCi6t6)は一その名にお

いてそのために選挙がたされるのだが一諸個人が国民のためになす選挙を基

礎づける諸条件を欲するように決定する権利を本来的に持っている(中略)。

 〔選挙会の〕選挙人の職務は,権利ではない。各人が職務を遂行するのは,

もう一度,全体のためである。能動的市民が選挙人を選任ずるのも,全体のた

めである……。選挙人になり得る諸条件を決定するのは,国民(la SoCi縦)

のみがすることである。」

 このように,「人民主権」諭=「選挙権罎利説」を排斥し,「国民主権」論:

r選挙権公務説」を採用した上で,彼は,「知識」,「国事に対する関心」,「財

産の独立」を選挙権の要件として挙げ,それを充足しない者として,r極端に

貧乏た者」だけではたく,「極端に富裕な者」,「上流階級」をも排斥し,結局

のところ「中産階級」(1a ClaSSe mOyene)のうちに選挙会の選挙人さらには

「代表」となるべき人々を求めている。

 だが,果して両委員会案は,トゥーレが言うように立法国民議会への門戸を

r解放」するものであっただろうか。この問題は, 「国事の成功に対して抱く

非常に実効的な関心」もしくは「現実的な関心」(トゥーレ)または「国事に

対する関心」(パルナーブ)の内実にかかわるものであるが,ボーメッツは,

この点について「所有権の貴族政」を守るという観点から極めて率直に主張し

ていた一r家を持っており,信用があり,何物かを所有している一家の父は,

家庭から追いたてられないということ,および不当な起訴を受けないというこ

とに,何も所有していない人と同じ利益を持っているわけではない。それどこ

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) 703

るか,社会的に最も注目を浴びている人は,いつも所有権を維持する立法によ

って,権力の保護を受けることに最も利益を持っているのである。これに反し

て,もし無産者が立法の支配者となったら,その時に彼らが自由を守るという

ことなど誰が請け合えるのか。毎日のように一個の度外れた私心(un int6ret

eminent)にかられて,彼らが全社会の基礎たる所有権を侵害する法律を作る

ことがないということなど誰が保証するのだろう(拍手嶋采)。」

 極左派の議員たちは,この「からくり」に気付いていた。例えばペチオン

は,ポーメッツの発言に先立って,r通常の選任は如何に行われるか。選任は

選挙会自体のうちに封じ込められる。選挙人が外部に選任の対象を広げること

は,非常に稀である。かくして,一般には代表者は40労働日〔分の直接税〕を

支払う者の中から選ばれ,外部から選ばれる者〔がいるとしても,それ〕はよ

り高額の租税を支払っている者とたるだろう」と指摘し,両委員会案は,r銀

1マールを一・・人民に代って選任をする人々の上に移しかえた」ものであるの

みか,r国民代表をより少数の者の手に集める」ものであり,既決デクレによ

る選挙権に執着する市民感情をも考慮すると,既決デクレの方がましだ,とさ

え言つだ{71〕。

 翌12日のル・シャプリエの皮肉な指摘を借りるなら,「銀1マール〔の税額

条件〕に対して1直常的な異議申し立てをしたのが,この〔極左派の〕人々であ

り一・・今日その保持を要求しに来たのが,この人々であるとは,全く奇妙なこ

と〔72〕」かもしれない。たしかに・ベチオンが指摘したように・丙委員会案が

r国民代表をより少数の者の手に集める」ものであれぱ,このような極左派の

反応も従来の立場からして当然であっただろう。しかし,40労働日(=20-40

リーブル)は,銀1マール(≒50リーブル)よりは少ないから,そのような指

摘は合理的なものとは考えられない。税額条件自体を見るなら,この段階で

は,むしろ銀1マールの条件をそのまま選挙会に移すプリュニョソ(Prugnon)

案の方が,察するところ既決デクレのマイナス・イメージにもよろうが,高額

すぎるために黙殺されているのである。その意味では,改正案は,既決デクレ

で傷ついた「ブルジョアジー自身のかなりの分子」(ジョーレス)の意に適う

ものであったとさえ言える。また,1日選挙人が示す選挙権の喪失についての難

j04 一矯研究 第4巻第3号

色に対する懸念も,その代りに議員となれる可能性の形式的増大や,この日の

ボーメッツが指摘したようにrその職務を厄介視した」当時の選挙人の棄権率

の高さ㈹からすれば,強固な根拠を持つものとは言えまい。以上の点からす

れば,結局,極左派が本当に恐れたのは,この程度の「民主的」改正では,反

革命に対処するための民衆運動との共闘のかすがいとたり得ず,他面で何より

もそれが突破口になって喧伝されていた改正に歯止めが効かなくなることにあ

ったものと思われる。事実,ビュゾーは,制憲議会議員に対する第一立法国民議

会の被選挙権暴■」奪および辞職後4年間の大臣就任禁止を定める既決デクレ(74〕

の改正を恐れ,それを一根拠として上記ペチオン発言に同調していたし,この

ような危惧は,ラソジュイネ,レドレル(Roederer)等,フイアソ派内の諸

議員からさえ表明された。

 しかし,極左派のr両委員会の見解についての先決問題を!」という声も空

しく,両委員会案は議決の余地あるものと決議され,多くの修正案が出された。

ここで,ドーシー(Dauchy)をはじめ数人の議員が,定額小作農(fermier)

は地租を負担せず動産税だけを負担するため,彼が如何に裕福でもその税額が

30リーブルを超えることは不可能であり,従って農村では選挙人が特定の者に

限定されてしまうことを指摘しつつ,少なくとも農村では税額を引き下げるこ

とを主張した(ドーシー案「人口1万人以上の都市では40労働日,その他の

都市・農村では30労働日」,ヴィル・オー・ポア〔Vi11e-aux-Boix〕案r20労

働日」)。このような修正案は,制憲議会に著しい感銘をもたらした。ある新

聞㈹によれば,「ドーシーの考察は両委員会を無力化し,〔他面で〕少数派が

非常に増加した」とのことである。審議は,かくして混乱のうちに翌日に持ち

越された。

 当の12日㈹には,まずトゥーレが,両委員会案はr警戒の方式,保障の方

式だけが,その本質を変えないで転換されたように見える」と強弁し,かつ両

委員会案の正当性についても原則的に再確認した上で,前日のドーシーの修正

案を実質的に認めて前者に修正を力団え,能動的市民資格とともにr人口6,000

人以上の都市では40労働日分の直接税の納入,人口6,O00人未満の都市・農村

では30労働日分の直接税の納入,または定額小作農として.20スチエ・パリ桝

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) j05

(=3,120皿)の小麦の価額(トゥーレによれば,400リーブル)に等しい所得

をあげる土地を耕作すること」を要件とした。ル・シャプリエがトゥーレの報

告を引き取って,両委員会は憲法と市民の権利の維持に最良で最も有益と信ず

る草案を」提出する義務を憲法の原理・基礎と抵触しない限りは保持しているこ

と,そのことが革命を終らせるためにも望ましいこと,を指摘して,両委員会

案の採択を求め,ダンドレ(d’Andrさ)もこれに同意を示した。

 だが,革命の終了を求めるフイアン派の中にもそれに適合的な手段の認識に

ついては強い異論があったことは,前日の審議の紹介でも示唆した通りであ

る。プレフェルソ(Pr台feln),メルラソ(Merlin),ヴェルニェ(Vernier)

は,.このような見地から両委員会案を内容的にはともかく手続的に問題にし

た。グレコワールに至っては,手続的にも内容的にも前日のペチオンと同様な

見地から批判の声を挙げた。このため,結局ヴェルニエの提案で,この問題

は,憲法草案の検討作業の最後に持ち越されることになった。

 極左派とフイアソ派の一部の議員たちの根強い抵抗に直面して二度に亘る改

正案通過の試みに失敗した両委員会は,8月27日㈹,「三度目の正直」を試みて

改正案を出した一選挙人に選任されるためには,何人も能動的市民資格に加

えて以下の諸条件を兼備しなければならない。(i)人口6,000人以上の都市にお

いては,la〕200労働日の地方価額に等しい所得に相当すると課税台帳上で評価

される財産の所有権者もしくは用益権者であること,またはω150労働日の価

額に等しい所得に相当すると課税台帳上で評価される住居の賃借人であるこ

と。(ii)人口6,000人未満の都市においては,la〕の200→150,lb〕の150→100と

した条件を満たすこと。(iii)農村においては,la〕の200→150とした条件を満た

すこと,または400労働日の価額に等しい所得に相当すると課税台帳上で評価

される財産の定額小作農または折半小作農(m6tayer)であること。(iV)但し,

何れの場合も,諸資格を兼備ずみ者については積算する。

 当時は農村がフランス人口の大部分を含んでおり,かつ税制が地租中心主義

であったことを考慮して,農村の土地所有を例にとれば,150労働日分の土地

所有には,税率の最高限度を1/6として=7目〕,最高25労働日分しか直接税はか

からないことになる。これは,中産階級の種に選挙人およびr代表」を求めて

j06 一橋研究 第4巻第3号

前者について40労働日分の直接税を要求したパルナープ等の8月11日案,さら

には農村においては30労働日分の直接税を要求した8月12日案を下回る税額で

ある。従って,この日の報告者デムニエが, 「我々は,選挙人が極貧層と過度

の富裕老との中間から選ばれるように憲法を規定した」と述べたのも,それな

りに頷けよう。ジョーレスは改正を目して,r制憲議会は,民主政から遠ざか

っていた。それは,中産階級の政策に近付いていた㈹」と評価しているが,

何ぞ測らん,そのような改正は,行政権の強化と結びついていたとはいえ,そ

れ自体について言うなら,挫折した両委員会の「まがいもたぎ妥趨の帰結ω」

であった,ということになる。

 何れにしろ,両委員会案は,ここに来て,極左派のルーベル(Rewbe11),ビ

ュゾー両名の反対も空しく,遂に可決されてしまった。

(注)

(1) 以上については,Aulard,op.cit、,叩.78-82;I.Bo凹rdin,Les s㏄三6t6s

  populaires主Paris pe皿dant la R6volution,1937,叩、53-55参照。

(2) Bourdin,op.cit。,pp.55-58;Mathiez,Le club des Cordeliers pe頼dant

  la crise de Varemes et le Massacre du Champ de Mars,1910,p叫17_

  18;E.Lavisse,Histoire de France contemporai皿e,t,1.1920,pp.287,

  291.

(3) Aulard,op.cit.、P.95.

(4) Lavisse,op.cit.,p.287;井上・前掲書,p.93.

(5)Aulard,op,cit.,pp.95-97;B㎝rdin,op.cit.,pp.lO-11;井一ヒ・前掲書,

  PP.96-g7.

(6) Aulard,op.cit.、P.95.

(7) Ibid、,p,97.

(8) このような運動が「人民主権」論=「選挙権権利説」に依拠していることは,

  勿」論であるが,直接選挙の要求が明確に打ち出されるのは,普通選挙が認められ

  る1792年8月10日の革命以降のことである(ただし,ibid・,p.74参照)。

(g)  Mathiez,op.cit..p.2 et s.

(10) Aulard.op.cit、、p.95;Bourdin,op,cit.,pp.174-175;井上・前掲書,

  PP.100-101.

(1王) Lavisse,op.cit、,p,290;Mathiez,op.cit.、p.30;Bourdi皿、op.cit.,p.

  161et s.

(12) Jaff6,op.cit、,p.101et s.;Bourdin,op.cit.,p.121et s.

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) m7

(13)Mathiez,op.cit.,PP.30-31;りユーデ・前掲訳書,PP.117-n9.

(14)  Mathiez.op.cit.,PP,28一一29.

(15) A皿1ard,op.cit.,pp.101,146;M.Fridieff,Les origims du referendum

  da皿s la Co皿stitution de1793.1932,pp.224-228.

(16)Bourdi皿、op.cit、.PP.227-229、

(17) Ibid.,p.232、

(18) Ibid.,pp.232-234;Mathiez,op.cit.,p.31.

(19) A1ユIard,op.cit.,pp.103-104,125,126;Jaurさs,op.cit.,pp.1097-1098.

(20) Mat11iez,op.cit.,P.32n.3、

(21) Aulard,op.cit.,PP.91-92;Lavisse,op.cit.,PP.292-294 なお,この

  段階ではバブーフ(追abeuf)も「財産の共有」を打ち出し得ていない(杉原泰雄

  r人民主権の史的展開』1978年,p.n2以下参照)。

(22) Aulard.op.cit、,pp.81-82,93,99日.3;Pouthas,op.cit、,pp.177-178;

  Mathiez,op.ciし,p.9;リューデ・前掲訳書,p.l19;井上・前掲書,p.99、

(23) Aulard,o1〕。cit.,P1〕.93,9τ

(24) I1〕id,PP.86-89,108;Lavisse.op.cit.,P.29王.

(25) Aulard,op.oit.,pp,88-89,105_n1.

(26) Mathiez,op・cit.,p.38.

(27)Ibid.,P.39、

(28)Ib三d.、P.40.

(29)  Bourdin,op,cit.,p.242.

(30) Aulard,op.cit.,pp.118,129;Lavisse;op.cit.、p.309.

(31)  Matbiez,op.cit.,P.44et s.

(32) Aulard,op.cit.,pp.127,131;Lavisse,op.cit.、p.309;C,H.Pegg,

  Sentiments r6pul〕licains dans la presse parisienlle lors de la fuite du

  roi,A.H.R.F.,t.n,1934,p.435et s.

(33)AuIard,oP.o祉.、P.131et p.134n.4(P.129も参照).

(34) Ibid.,p.141 et s.

(35) Ibid.,P.129;F.Braesch.Les petitio皿s d口Champ-de-Mars,Revue his-

  torique,t.142.1923,pp.192-193.この点に関連して,ルソー(J.一J.R㎝sseau)

  が「人民主権」下で瞳襲の君主制を設ける可能性を認めつつも,それは「人民が

  別の統治形態をとろうといラ気を起こすまで・人民が統治機関に与えた仮の形態

  に過ぎない」(作田啓一訳『社会契約論』〔『ルソー全集』第5巻,1979年〕p,209)

  と主張していることを想起すべきであろう。

(36)Aulard,op.cit.,P.105(PP.126,158も参照).

(37)Ibid.,P.n2.

(38) Ibid.、pp.132,145;Lavisse,op,cit.,p.309.

M8 一橋研究 第4巻第3号

(39) Aulard.op.,cit..p.132.

(40) Ibid.,pp.134,146;Lavisse, op.cit.,p.315;Mathiez,op.cit.、pp.52-

  54.

(41) Aulard,op.cit.,pp.134,147;Lavisse,op.cit.、p.315;Mathiez,op.

  cit.,PP.86-87.

(42) 原文については,Mathiez,op.cit、,pp.112-115,訳文については,杉原『国

  民主権の研究』p.270法(50)参照。

(43) Mathiez,op.cit.,p.116et s.

(44) Bourdin,op.cit、,p.259.

(45) Aulard,op.cit.、p.126.

(46) Lavisse,op.cit.、p.309.

(47) 井上・前掲書,p.57注(17)。

(48)(49) Au1肌d,op.cit.,p,118.

(50) r1791年憲法の資料的研究』pp.187-188の訳文参照。解説については,Bo-

  urdi皿,op.cit.,pp.224-229参照。

(51)杉原・前掲警,p,251参照。

(52)Jaff6・op・cit・,p・167et s.;杉原・前掲書,pp.252-257および同書・p.269

  注(44)に引用の諸著作・論文参照。

(53) Aulard,op・cit.,p,118.

(54)  Ibid.,p.121.

(55) A.P.,Ls.,t.28,p.327.同旨1Alexandrede Lameth,25juin1791(A.

  P.,I,s..t.27,p.519);Gorsas,Courrier,28juin1791,cit6par Aulard,op.

  cit.,P.136.

(56) A.P.,Ls、,t.2S」p.330.

(57) Ibid.,p.331.

(58)杉原・前掲書,p.271注(52)の訳文参照。

(59) フイアン派。以下の新出議員は,すべてそうである。

(60)杉原・前掲書,pp.240-241参照。

(61)以上の経緯については,Mathiez,op.cit。,p.128et s,;Bourdin,op.cit.、

  p.280et s.;Jaurさs,op,cit.,p,1068et s.;リューデ・前掲訳書,p.n2以下

  参照。

(62) この間の経緯については,Michon.op.cit、,p.271et s.

(63)拙稿「フランス1791年憲法における選挙制度H」(『一橋研究』第4巻第1号)

  二の注(11)およびMichOnI Op・cit.、叩・292-293参照。

(64)例えば,大臣の議会への参府・発言権が8月15日に認められた(A・P.,I・s・,

  t,29.P.450)。その他の改正日程については,Michon,op.cit.。P.301et s.参

  照。

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) j09

(65) Michon,op・cit”pp・294-295・

(66) A.P.,L s.,t,29,p.210n.(1).

(67) Ibid、,p・357・

(68) 工bid.,p.356et s.

(69) もっとも,直接的には,第一次会からの被選挙人たる選挙会の選挙人について

  の「被選挙権公務説」とも称すべきものである。これに対し・第一次会の選挙権

  については・上級諸会への被選挙権に比べて軽微な税額条件に留まり・それに対

  する「人民主権」論=「選挙権権利説」に依拠した批判も比較的軽微であったた

  めに,「選挙権公務説」は,直接的には展開されていたい。それどころか,例え

  ぱバルナープが,「諸君の憲法の政治的諸権利のうちに個人的権利が存在すると

  すれば,その権利は・諸君の両委員会が手をつけることを諸君に提案しなかった

  能動的市民の権利である」(本文〔中略〕の部分)と言っているように・「選挙権

  権利説」的な表現も散見される。しかし,その基礎にある主権論,「被選挙権公

  務説」との統一的把握,引用部分の選挙権1結などからすれば・このような表現を

  以て直ちに「選挙権権利説」を展開したものと目することが許されないのは,勿

  諭である。そして,この点を踏まえるならぱ,例えば,コンドルセ(COndor㏄t)

  が「批判し斥けた」選挙権爺とバルナープの選挙権諭とを「一括して『公務説』

  として把握する」ことには「無理があるように思われる」として,「7ランス革命

  期における『公務説』がはたして一義的な意味におけるr公務説』として存在し

  たかどうか」を疑問とする辻村・前掲論文への北川善英氏の批判(「公法学の動

  向」〔r法律時報』第51巻第3号〕p・155)は・強固な根拠を持つものとは思われ

  ない。また,辻村氏を含めて・コンドルセ報告をr人民主権」.論=「選挙権権利

  説」の系譜で捉える旧来の支配的見解についても,如上の観点から全面的に再検

  計を加える余地があることを指摘しておく。

(70)杉原・前掲書,p.23I注(15)参照。

(71) ロベスピエールは,既決デクレにも改正案にも反対し,普通選挙制度の闘士と

  しての面目をここでも一応は施したが・ビュゾーは・ペチオンに全面的に同調し

  た。

(72) A・P.,I・s.,t・29,p・386・

(73)Ibid.,p.364(前言己ル・シャプリエの8月12日発言〔ibid1,p.387〕も参照)。ま

  た,6月に既に実施されていた第一立法議会の選挙人の選挙(議員については,

  8月29日~9月5日)の投票率については,M.Edelstein,・Vers une《sociolo-

  gie61ectorale》de Ia Rξvolutio皿frangaise,Revue d’h三stoire moderne et

  contemporaine,t.22.1975,pp,521-522参照。

(74)前者については,A,P.,I,s.,t.26,p.127,後者については,A.P.、I.s.,t.

  24,P.624参照。

(75)Point du Jour,cit6par Michon,op・cit.,p・312.前記拙稿三の注(8)のLe

〃0 一橋研究 第4巻第3号

 Hodeyも,ここでPoint du Jourと.訂正しておく。

(76) A・P.、I・s.,t・29,p・380et s.

(77) Ibid.,p.747et s1

(78)森・前掲書,pp,68-69.

(79) Jaurさs,op.cit、,p.1077.

(80) A・Mathiez,Deux mots主M・Alpllo皿se Aulard,Amales r6volutio皿na-

 ires,t.1.1908,P,513.

 四 1791年憲法における選挙制度

 以上に述べ来たったような階級闘争の「決済」として,9月13日に国王の裁

可を得て制定された1791年憲法は,立法国民議会の選挙制度について,第3篇

第1章第1節~第4節で以下のように規定している。

 選挙は,1793年3月以降ω,2年に一度,当然に行われる(第3篇第1章前

文第2条~第4条ω,第2節第1条第1項・第2項)。この選挙は,第一次会

→選挙会→立法国民議会という二重間接選挙であり・しかも何れの会の構成員

となるためにも,一定額の直接税の納入者または一定額の財産の所有権者・用

益権者であることが要求されている。以下,第一次会,選挙会の順に,その構

成と選挙手続を見て行こう。

 (i)第一次会 原則として3月の第2日曜日に,都市およびカントンωにおい

て,能動的市民を構成員として,当然に形成される。能動的市民の要件は,次

の7つである一1りランス人男子として生まれるか,あるいはそれになって

いることω。2。満25歳に達していること。3。法律によって定められる時期以

降m,その部市(6〕またはカントンに住居を有していること。4。王国の何処か

において,少なくとも3労働日;7〕の価額に等しい直接税を支払い・かつその支

払済証書を提示すること。5。奉公人の身分,即ち僕碑の身分にたいこと。6。そ

の住所の市町村庁において国民衛兵台帳に登簿されていること(8,。ブ公民宣誓

をなしたこと(第2節第2条)。但し,次の者は,能動的市民の権利行使から

排除される一1。起訴されている者。2。公正証書によって証明される破産また

は支払不能の状態に置かれた後,その債権者の完済証書を提示しない者(第2

節第5条)ω。この資格を保有する能動的市民の名簿は,2年ごとに各ディス

トリクトにおいてカソトソ別に作成され,これはそのカソトソにおいて第一次

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) j〃

会の時期の2ケ月前に縦覧に付されかつ掲示されるd名簿に記載されている市

民の資格に異議のある者,または自己が名簿から不当に除外されたと主張する

者の異議の申し立ては,裁判所に対して提起さ札、一略式手続によって決定され

る(第4節第4条第1項・第2項)。第一次会に組織された能動的市民一本人

に限る(第2節第4条)・一一は,出席している一と一石とを問わず,能動的市民100

人につき1人の割合で,選挙会の選挙人を選任する。151人から250人までは,・

2人の選挙人を選出し,以下同様である1(第2節第6条第1項~第3項)oω。

選挙会への被選挙資格については,三の2の②で述べた通りである(第2節第

7条)が,被選挙人の居住地要件および代表法の類型については,憲法典に規

定がないαD。この被選挙資格(立法国民議会の選挙権)を第三者機関において

事前に争う方法については,能動的市民資格の場合と違って保障されていた

い。.r第一次会一・・の職務は選挙することに限られる・」から,第一次会は,選

挙直後に解散し,原則として再招集なき限り形成され得ない(第4節第1条)。

即ち,「人民主権」の前提が否認されているのである。.

 (ii)選挙会 上記の手続に従って選任された選挙人によって,原則として3月

の最終日曜日に,デハルトマンごとに当然に形成される(第3節第1条第1項・

第2項)。それに出席する者の資格および権限については,選挙余白体が審査

する(第4節第5条)。83のデハルトマンの選挙会が選出すべき議員の数は,

それぞれla〕247人を地域に基づいて比例配分した数(1人だけのパリを除き各

3人),lb〕249人を能動的市民人口に基づいて比例配分した数,lc)249人を直接

税に基づいて比例配分した数・を合計したものである(第1節第1条~第5

条)。各選挙会は,このようにして配分された議員定数の垢の補欠をも同時に

選挙する(第3節第1条第1項)。被選挙資格は,議員・補欠ともに,選ばれ

る選挙会が存在するデハルトマンの能動的市民であること(第3節第2条)だ

が・大臣・行政官・司法官等との兼職は禁止され,再選も二度目からは一議会

をおかなければならない‘12〕(第3節第4条{第6条)。代表法の類型について

は,絶対多数の多数代表制がとられている.(第3節第2条)。「選挙会の職務は

選挙することに限られる」から,選挙直後の解散を義務づけられている点は三

第一次会の場合と同じである(第4節第1条)。、

〃2 一矯研究第4巻第3号

 その他,選挙活動の自由に関連して,第一次会および選挙会の会場への武器

の持ち込みが全面的に禁止され,武力の導入が会の明示の要望または暴力事犯

に対する議長の命令がある場合を除き禁止されていること(第4節第2条・第

3条),国王および国王官吏の選挙に関する権限の原則的否認(第4節第6条)

が注目される。なお,秘密投票の保障はない。また,強制投票は予定されてい

ない。

 このような選挙制度は,1791年8月11目にパルナーブが,そして同年8月27

日にデムニエが重ねて表明していたように,一方で「極端に貧乏な者」として

の民衆を,他方で「極端に富裕な者」としての旧特権階級を排除して,最高機

関としての立法国民議会をば,既にr政治階級」として自立していた中産階級

(ブルジョアジー)によって構成し,まさにそのことを通じて「もてる階級の

支配を確保している」(ソブール)と言えよう。旧特権階級との関係では,税

額条件の上限を定める「逆制限選挙制」を採用していたわけではたいが,その

ことは,選挙会に限って殊更に絶対多数の多数代表制を採用することによって

補完が図られていたと考えられるし,それ以外にも,本稿では紙数の制約上か

ら相当に割愛せざるを得なか・ったが.可決・否決の如何を間わず例えば以下の

ようなフイアソ派諸議員の発言・措置には,反革命に対する強固な警戒が窺わ

れるのである一一①1789年10月22日のデムニエ発言(前述)。②同年10月27日

のバレール発言(前述)。③同年11月16日のデムニエ発言(第一次会の増設を

求める中道右派のピゾソ・デュ・ガラン等に対して,第一次会の数が少ない方

が能動的市民の見聞を広めることになり,選挙を浄化する目的を持っていたコ

ミューン会を廃止したことの埋め合わせになると主張した{13〕)。④同日のトラ

シー(Tracy)発言(「村の選挙を領主と司祭の意のままにさせるのに比べたら,

田舎者を2年に一度,1里や1里半歩かせる位の不都合は何であろう㈹」)。

⑤翌日のトラシー発言(陰謀を挫折させ外国の影響を免れるために,選挙会は

デハルトマソの首邑セ1つだけ開くことを主張した舳)。⑥1791年8月12日の

トゥーレ発言(1デハルトマソでも掌握することによって,卓越した人物の当

選を阻もうとする行政権に対抗すべく,議員をデハルトマソの中から選ぶ既決

デクレの削除を求めたu6,)。⑦国王および国王官吏の選挙に関する権限の原則

フランス1791年憲法における選挙制度(二・完) 〃3

的否認(前述)。⑧王族の被選挙権剥奪(前述)。

 このように見て来るなら,制憲作業の終了まぎわにおける行政権の若干の強

化についても,反革命的転回として捉えるよりは,民衆運動の進展によって

r所有権の貴族政」(ポーメッツ)を脅かされたブルジョアジーの起死回生の

策の一環として捉える方が,自然であろう。そして,この点で,「パルナープ

が・・・…自ら認めたように,まず殆どの革命家が,トータルな社会の再建を望ん

でおり,彼らは行動において如何に穏和であり流血と混乱を危惧しても,思想

的には極めてラディカルたることを止めたかったt17〕」と言うべきだろう。

 小稿は,もとより限られた紙面を用いての概括的な素描であるからして,残

された課題も多い。とりわけ,(α)パルナーブに代表されるフイアソ派諸議員

の政治思想の体系的研究,(β)口ベスピエール,マラー,ロベール等,この時

期における民衆運動の指導者たちの「人民主権」論:「選挙権権利説」の個別

的具体的検討, (γ)その後の論議の素材ともなる実施された選挙のあり方の究

明等,は重要である。しかし,これらについては,何れ機会を改めて論ずるこ

とにし,続篇では,1793年憲法,1795年憲法における選挙制度について,制憲

過程の分析を通じて検討することにしたいu8,。

(注)

(1)ユ792年8月10日の革命により・実施されずに終った。

(2)以下においては,第3篇第1章は省略する。

(3)行政区画は,1789年9月29日トゥーレ報告の機械的・画一的な裁断から,より

  歴史的・自然的境界を重視したものに代っている。

(4) フランス市民の要件については,第2篇第2条・第3条において,またその資

  格喪失事由については,第2篇第6条において規定されている。

(5)1791年8月10日,「少なくとも1年前から」とする両委員会案が,テヴェノ・

  ド・マロワス(Th6vemt d6Maroise)の修正動議で法定事項とされた(A.P.,

  I.s.,t,29,p.333)。

(6)1789年12月22日=1月κ日デクレの第1節第14条は,都市では人口4,OOO人に

  1つ(4,OOO人未満でも1つ)の割合で第一次会を設けることを定めていた。

(7)立法議会の定める範囲内で,デハルトマン行政官が各ディストリクト(デパル

  トマンの下級区画,カントンの上級区画)について決定する(第2節第3条)。

(8)1790年12月6日=12日の「公の武力の組織に関するデクレ」(r工791年憲法の資

  料的研究』pp.163-164)の第1章前文第4段・第1条参照。

〃4

(9)

(lO)

(11)

(12)

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

          一橋研究 第4巻第3号

 憲法典の規定事項ではないが・王族は能動的市民資格は与えられたものの・搾

選挙権は否認された(A・P.,I・s.、t・29,pp.721,722)。

 制憲議会は,1789年11月16日.のピジン・デュ・ガランの修正案(A.P.,玉三1s..t.

1O,p.67)のうち,第一次会の規模・設置数に関する部分を否決レつっ(本文後

述),選出比率に関する部分(200人に1人→100人に1人)は容れて,18日,こ

れを採択した(ibid.,p・90)。1789年12月22日=1月κ日デクレ(前掲『資料的

研究』p・98以下)第一款第17条参照。

 同上デクレの第一款第18条・第20条参照。

 1789年9月29日のトゥーレ報告における理由づけは,既に見たが,1791年5月

19日の審議で1幸・バレールが,議員が再選を顧慮してr人民の追従者」とな争こ

とを警告し,彼の演説は拍手喝采を浴びて印刷に付されるととになった(A.P.,

I.s..1:.26, pp.226-227)。

 A.P.、I.s.,t,lO,p.67.

 Ibid.,p,68.

 Ibid.,p.81.

 A.P.,I.s.、t.29,p.393、

 井上・前掲書,p・84.

 両憲法における選挙制度については,とりあえず,辻村・前掲論文および岡田

信弘「フランス選挙制度史H」(『北大法学論集』第29巻第2号)参照。

(筆者の住所:国立市東2-4 院生寮)

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