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ジョージ・エリオットの小説(10)バーバラ・ハーディ著

高 野 秀 夫 訳

8章 作者の声:個人的、予言的、劇的( i)

 私はすでに読者にジョージ・エリオットの直接的な訴えについて述べてき

た。これは、正確な声を故意に奪われてしまっていた登場人物たちについての

直接的な説明の形をとり、明らかに私心が無い視点から作られた説明や一般化

の形をとり得ているのである。作者の“声”は、それ自体、形式的な要素であ

る。視点を変えたり、人物、グループ、行動を規定したり、強調したり、しか

も、しばしばパターンやイメージャリーで作られる遠回りな記述に正確な糸口

を与えている。その声は静的でも、変化しないこともなく、異なった調子の声

であり、その重要性は、話の中にも、静寂の中にもある声である。

 ジョージ・エリオットの声は、スコット、サッカレー、コンラッドのプロの

作家たちの声に似て、時に創作的である。しかし、ペンデニスあるいはマーロ

ウのような人物に似ている劇的に考え出された個性的な状態で、表されること

は決してない。まず『牧師補の諸相』、『アダム・ビード』の声は男性的だが、

それは筆名の声であり 1、その調子と言及は、作者の考えた男らしさを入念に

しかも的確に思い出させるものである。“恐ろしき結婚”の淑女ゴシップの仲

介に対するメレディスの女性的な声の想定と同じように内気である。男らしさ

を思い出させる人物以上のものであり、人物の特別な文脈、親近感、親密感の

文脈を創る重要な機能を持つほど、ジョージ・エリオットの初期の生活におけ

る探求故に、直接的に語る拡大された半自叙伝的言及でもある。

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高 野 秀 夫

 『牧師補の諸相』の作者の声は、誰かの思い出の声となっている。その記憶

で、“ほんのかすかにだが”物語に関係している人の印象が与えられているの

である。

 これは、個人の知識と思い出についての声である。つまり、その声によって

「エーモス・バートンの悲しい運命」の話が導入されている。その物語の時、

所は、“25年前”である。そして、それはカレンダーとしての役割をしている

記憶の声なのである:

 私は恐れているのですが、私の心はよく調整されていません。つまり、

時折、昔の悪態に対する優しさがあるのです。つまり、鼻音の書記たち、

乗馬靴の牧師たちへの愛好で心はふらついてしまい、過ぎ去った庶民の

思い違いの影に嘆いています。シュッパート教会を昔のままに他愛のな

い悲しみで思い出すことにおいて、おどろくことはありません ....(1章)

もちろん、結局先祖返りのすばらしい理由がある。ジョージ・エリオットは、

創造的条件に隔りと理解の感情を必要としていたようである。積み重ねられた

経験(彼女の比喩)で昔に戻り、時の経過で組み立てられ、組織作られた時と

場所の感覚、超脱と確信を得ている現在から過去への次第に消失していくもの

が、物語の素晴らしい導入となっている。それを、エリオットは再び「ギルフ

ィル氏の恋物語」や『フロス河の水車場』で用いている。つまり、人物描写と

しての必要な歴史的説明で、著者の出現が結びつけられているのである。ここ

での声は、望郷的で、所有欲が強く、個人的である。歴史的、地形的詳細のよ

うなものは、周遊する記憶の回想と溶け合うのである。

 実際の回想から取り出された段階での物語の人物描写は、望郷的、懐古的な

声である。そして、これらの人物たちは、より親しみのある知識欲と愛着で表

されている。その導入を行うのは愛情深い声であり、実際の過去の利害関係

は、ぐずぐずしている情愛の細やかさに対する必要な弁解となっており、憐れ

みは、それ自体、望郷の口実が与えられている。つまり、ずっと以前に起こっ

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ジョージ・エリオットの小説(10)

たことであり、しかも人々は亡くなってしまっていたり、老いたり、変わって

しまっていたりしたからである。「エーモス・バートン」におけるジョージ・

エリオットの語りでは、教会で乳母にバター付きチーズが与えられた小さな子

供のような聞き耳をたてているのである。「ギルフィル氏の恋物語」で、“彼”

は、過去について語りかけるが、記憶と知識によるのである。「ジャネットの

悔恨」で、“彼”は堅信礼の式に“想像力に富んでいない子供”のように出席

しているという細かな説明をしている。『アダム・ビード』では私たちが見て

きたように、“彼”はアーウィン氏についてアダムと話し合っている。思い出

させる男性たちの話に首尾一貫性がなくなってしまっていた。この種の逸話的

記述は、ありのままのコロスの訴えや一般化の必要性を超えているが、コロス

の記述が個人的でドラマチックな文脈を創り出しており、しかも著者が物語を

作っている、というひどくはっきりした声ではない。この物語は作り出された

ようなものではなく、思い出されたものとして語られている。そして、記憶の

ドラマチックな活用は、初期の物語において色濃くなっているが、しかし、最

後までその跡は残されているのである。

 この調子の親しさは、登場人物同様に読者にまで広がっているのである。登

場人物は、彼女あるいは“彼”が分かっている人たちである。つまり、その

“愛らしい読者”は、ブラウニングの独白のようにはっきりしたサイレントリ

スナーとして登場している。読者は時に男性、女性はっきり区別されている

が、時に文学的趣味と読書の習慣で責められたり、時に同情的でないとして

否定されたり、時に無邪気な皮肉のおわびを聞かされたりするのである。その

物腰は、時に一筋縄ではいかないことにおいて重々しいが、時にスムーズな移

行や楽な導入のドラマチックな手段としてひどく効果的である。例えば『アダ

ム・ビード』では、読者は統制のとれた旅に従うように求められる記述があ

る。登場人物たちが初めて現れるとき、読者は、“牧師”という章のように目

に見えないが、実際の存在として扱われているのであろう:

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高 野 秀 夫

 私に皆様を食堂へ案内させて下さい .... 私たちは大変静かに入る。ご

覧の通り食堂の壁は新しく .... 彼は多分、やがて振り向く、そして、と

かくするうちに、私たちはその堂々とした年寄りの夫人を見ることが

できる ....(5章)

これは、読者の存在と著者の制限の申し合わせである。その丁寧な主張では、

皆様も著者もその人物が振り向くかどうか、また振り向いたとき何が起こる

のかも分からない。私が思うに、その目的は、導入をかなり形式的にしている

が、導入を差し迫った目に見えるように正確なものにしていることである。そ

れは、エリオットの苦心した工夫だけではなく、全く同じ章の後でのように、

別の申し合わせのように容易に置かれることのできるものなのである。つま

り、アーサー・ドニソーンの導入となるのである。“もし特に彼の様子が知り

たいならば、外国の町で出会ったことのある黄褐色の髭、茶色の頭髪、すっき

りとした顔立ちの若いイギリス人を思い出しなさい。”導入としてこれは直接

的でもあり、差し迫ったものでもあり、付加的な目的―私たち自身の一般化

の立場を彼にもたらすことを求めるという、アーサーを登場人物として受容す

るのに大切な目的があるのである。この種の工夫は、ジョージ・エリオットの

目に見える慣習の結果でもあり、場面における作者の目に見える、あるいは見

えない立場にまで広がっている。文字通の言葉の意味における視点は、通常正

確に表れているのである。

 目に見える習性は、多分ここでは個人的知識の主張よりも重要ではない。こ

の調子は個人的である:作者が覚えている人の話を語るその声の調子なのであ

る。それは、エリオットが生きている読者に語りかけるものでもある。初期の

物語においてさえ、次のようなところが沢山ある―その親しい会話の声は、明

らかに不適切と感じられたり、中庸な脱個性的配慮を好んで聞かされたりする

が、しかし読者の感覚と作者の親しみは、それ自体、全体の語りの構造の一部

と感じられるようになっている。これは、本当にエリオットの実際の場面移行

において大変重要であり、多くの現代の読者たちの心に触れるような気持ちの

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ジョージ・エリオットの小説(10)

よいものとして多分訴えるものだろう。しかし、それは単なる工夫以上であ

り、人生を描く始まりから終わりまで、彼女の小説を通じて点在している親密

な調子の一部なのである。作者は、全知であるのに、全くどこにでもいる存在

を装わなければならない運命であるのに、その運命を嘆き悲しまなければなら

ないという創造的な矛盾を知り、見て、嘆くが、悩まされてはいない彼女が示

されているのである。

 『牧師補の諸相』における、親しい声の茶目っ気は、多分後の作品では浸透

している調子のためによりいらいらするものであろう。さらにここでの声の調

子は、かなり小さな範囲であり、その範囲が茶目な皮肉から究極の悲哀に至る

まで広がっているように、とてもひどく単純化されることなく描かれている

のであろう。しかし、それはまさに『アダム・ビード』のはじめからその範囲

は、拡大し始めている。事実、ジョージ・エリオットが長編小説に乗り出す

やいなや、彼女の声の調子はさらにいっそう動的で変化に富むものとなってい

る。皮肉は、今やたんに読者に対して批評的に非難することばかりではなく、

登場人物たちの表現上に現れているのである:“ああ、ヘティのような愛らし

い花嫁を得る男性はなんと素晴らしいものを得ることになることか。結婚披露

宴にきて、彼女が白いレースとオレンジ色の花で腕にもたれているのを眼にし

て、男性たちはなんと花婿を嫉妬することか。その愛らしく、若々しい丸みを

帯びた優しいしなやかな女性!”(15章)ここにおいて、負担をかけ過ぎてい

る甘さには、優しさ、柔らかさ、そして丸みの要点が繰り返えされているが、

それらを新しい文脈に置くことで、その特質を再評価している:“いいえ、柔

らかい桃を好む人は、種について考えない傾向がありますし、時として種に対

してひどく歯ぎしりしますわ。”ここでは、作者の声が物語の別の声で確認さ

れている。なぜならばポイサー夫人がその章の後の方で、“彼女の心は石のよ

うに堅いと私は信じていますわ”と話しているように、夫人について述べられ

るとき、ほのかではあるがそのはっきりとしたイメージの反響で表現されてい

るのである。

 ヘティに対するエリオットの記述には、例えばヘティの見事で自然なものと

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高 野 秀 夫

しての美しさにアダムが答えている説明には、純粋な、皮肉的でもない暖かさ

や悲哀がある。桃でヘティを区別する厳しい皮肉は、より静かな調子に譲歩さ

れ得るのである。さらに、それは厳しくなるが、絶叫的でも凶暴でもない:

 甘い、悲しい記憶は、未来の夢と混ざり合うのか。つまり、二度目の

両親、彼女の世話をしてきた子供たち、若い同僚、ペットの動物たち、

さらに子供時代の名残についての愛らしい考えとその記憶が混ざり合っ

ているのか?全く一つもない。ほとんど根のない植物なのだ ....(40章)

これは、静かな誇張であり、ためらいであり、酌量できるように苦心して仕上

げられており、それらは素っ気ない正確さで応えられている問いである。それ

は、『アダム・ビード』に浸透している調子の厳しい静寂であり、まさに気持

ちの高ぶった同情の要求が『牧師補の諸相』に浸透している調子である。だ

が、どちらも同一の調子での語りが定義されているという意味ではない。『牧

師補の諸相』の感情的な注意深い観察は、より絶対的であり、同時に感性と知

性において全く優れている。私がすでに述べたように、『アダム・ビード』に

おいて登場人物と作者のギャップは狭まるが、語りの調子は、まだ母親らしい

けれどもより静かで、嘆く限界まで重々しく調和し、賞賛する可能性において

もひどく喜ばしいものとなっている。アダムもダイナも社会的身分や‘信仰’

において全く単純化されており、平等に表されている:

 なぜならば、あなた方は、アダムが、自分をコントロールして、一生

懸命働き、奪われることのない先天的本性に従って仕事をすることに喜

んでいるのを見てきた。だが、アダムは、悲しみを乗り切れないでいた

し、一時的な重荷として悲しみが自分から滑り落ちて、再び同じ人のま

まである、と感じることはなかったのである。私たちは感じるのか?断

じてない。(1章)

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ジョージ・エリオットの小説(10)

仮想の仮面は、もはや必要ない。これは、ジョージ・エリオット、メアリア

ン・エヴァンスの声であり、最も静かで、最も激しい声であり、偽りもない誇

張もない、ひどいお茶目もない声なのである。

 『アダム・ビード』からは、このむき出しの声が聞こえる。『フロス河の水車

場』には、とだえることのない悲しみの愛の深さはあるが、初期における「エ

ーモス・バートン」の懇願する溢れんばかりの悲哀はほとんどない。マギー

は、ジャネットができなかった悲しい忍従を表し、認識できている。しかし、

守れない女性の苦悩を見ると、強烈に現れる作者の悲しみと愛情には、防衛が

まだある。本当に感性と機知においてマギーは、アダム・ビードより無防備で

あり、ジョージ・エリオットの憐れみの声は、マギーのすべての悲しい歴史の

舞台を通じて寄り添い、初期の場面の明らかな輝きにおいてさえ影を落として

いるのである。マギーの子供時代における作者の声は、その時代が終わること

に嘆き、マギーの成長とともに悲しみが一層その度合を増すのである。それ

は、いつも前もって影を投げかける全知の眼差しではない。それは、時にマギ

ーの事例から人間の一般化へと向かう激しい動きである。タリヴァー家が金を

なくし、タリヴァー氏が病気になり、屈辱を受けるとき、マギーは孤独と無感

覚に追いやられてしまう。トムは、家族のプライドと財産を取り戻すために世

間に出ていくことができるが、マギーはただ見失ってしまった魅力を見つめる

ことしかできないのである。苦しみを嘆く熟練の知恵とともに、作者の声はマ

ギーから離れる:

心が、諸々の要求で一杯になり、他者の人生に付加された人生もなく、

長い記憶もない時の若い頃の失望ほど悲しいものはない。しかし、見続

けてきた私たちは、あたかも未来のヴィジョンで、その盲目的受難者の

現在が明るくなるかのように、そのような早熟の絶望を軽く考えている

のである。(3巻、5章)

ここにおいて、へりくだりは全くない:個人の声で、作者も読者も経験の範囲

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高 野 秀 夫

内に置かれており、経験以上でも、経験の範囲外でもない。『アダム・ビード』

においてさえ見られるより多くの内省やより小さな情味の悲哀がある。だが、

熱情は、しばしば直接的記述よりもむしろ隠喩の簡潔さで表されている:

 私たちの決心が今にもどうしようもないように思われる時や、また私

たちの力を試す運命の堅い門が、今にも私たちに閉ざされる時がある。

それから、長い時間のすっきりとした理由としっかりとした信念の後

に、私たちは、長い争いは止めにして、勝利よりも愛する敗北をもたら

す詭弁に飛びつくのである。(5巻 3章)

 これらは、マギーがフィリップに彼との友情は不可能であり、さらに家族へ

の忠誠と、「彼女の意思を抑える」私的な努力というこれらの理由で否定され

なければならないと彼に語る後で、マギーの和解の決心が初めて述べられるた

めに用いられた言葉である。作者の一般化は、判断を下すことであるが、暖

かで寛容な調子でなされる経験を分かち合う。それは金言的なコメントではな

い。つまり、この内省的判断は、マーベルの独創的使用による緊急なものを抱

えている情熱的イメージによって暖められている。だが、ここの門は監獄の門

であり、浮き浮きした気分では争えないのである。まさにこの対象に何か妥当

ではない言及の皮肉がある。マギーは『内気な女主人』からほど遠いが、しか

しその立場は、全く似ていないこともないのである。

 この作者のぬくもりと同情を、より静かで乾いた調子の内省的コメントとを

結びつける遠回しな方法は、後の小説まで続いている。未公開の手紙(1872年 8月 21日)2 のアレキサンダー・メイン氏は、『ロモラ』以降のスタイルに

おいて一般化が増えているのに気がついている。ヘンリー・ジェイムズのコン

スタンティアスは、逆にその同じ変化に気付いているが、否定的である:

 彼女の自然な役は人生を観察して、感じて、さらに好ましい深さで感

じることである。熟視、同情、そして信念―そのようなものは、私は思

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ジョージ・エリオットの小説(10)

うのだが、エリオットの本来の尺度であったであろう .... しかし、彼女

は批評に入っていくことを選んでしまった。そして、諸々の批評に対し

て彼女は自分の作品を物語っている。つまり私が意味しているのは、森

羅万象の諸々の批評だ。

 次の任意に取り出された例は、思慮深い記述であることが証明される。だ

が、これらの文は、偶然最後の 4冊の小説であり、読者に対して直接的感情

に訴えているものである。また、本当に代表的な例というわけではないが、そ

れによって同情を得ようとすることで、内省的調子が結びつけられている。

 高貴な人への信頼の衰えとともに、人生の威厳も衰える。私たちは、

自分自身のより良い自己への信頼を止めてしまう。なぜならばそれは、ま

た私たちの考えにおいて下品なありふれた人間の本性の一部だからであ

る。そして、すべての魂の素晴らしい衝動は鈍化される。ロモラは、か

つての自分の活発な憐れみの泉さえ枯れ果ててしまい、自分が不毛な利

己主義の不満の中に置かれているのを感じたのである。(『ロモラ』、61章)

 鳥が唄い、野原が庭であるときに、私たちが可愛らしい手、自分の手

よりも少しだけ大きな手を掴んだり、握っているときに、ほほえむこと

が難しいことに気付いている人がいた。それはなぜなのか?エスタは、

その子供時代を通り越してしまっていた。つまり、そのようにいつも考

えていた外部の物事の中において毎日の年寄りの不満の存在は、目覚め

ていながら、曖昧な問の感情ばかりではなく、強いしっかりとした思い

を大いに満たす手助けとなっている時の一つのある時期と境遇に、彼女

は本当に入ってしまっていたのであった。(『フィーリックス・ホルト』

69章)

 ドロシアの内なる恐れが全く例外的なものと言うことではない。つま

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高 野 秀 夫

り、若いむき出しの多くの魂は、不一致の中で転がり、残されて、その

不一致に“足”を突っ込んでいるのを、年寄りたちが自分たちの仕事で

動き回っている間に“知る”のである。また私は、カソーボン夫人が結

婚して 6週間後に突然泣いているのを見つけたとき、その立場が悲劇

としてとらえられる思いの考えには至らない .... まさにしばしば起こる

ことの事実によるその悲劇は、まだ人の粗野な感情に成就していないの

である。そして、多分私たちの構造は、ほとんどその多くのものに耐え

られないのであろう。もし私たちが、普通の人の生活に鋭いヴィジョン

と感情を持っていたならば、それは草が伸びる音やリスの心臓が波打つ

音を聞くようなものであろう。そして、私たちはその静寂の反対側にあ

る喧噪で死んでしまうだろう。(『ミドルマーチ』20章)

 人生を楽しくすることのできる方法についてわずかな推量をして、忙

しくしている少女のその意識ほど繊細で意味を持たない糸が歴史上にあ

るだろうか。また思想が、新鮮な勢いで大群をなして組みたてられてお

り、しかも全く普遍的な類似が自らを激しく公言する時にである。(『ダ

ニエル・デロンダ』51章)

 初めの三つの文は、登場人物の心と行為についての鋭い観察を表す内省的注

解である。4つのすべての文は特殊から一般化への特有の移行をなしている。

私たちの前にある現実の事例から離れるこの絶え間ない動きは、それ自体‘し

ばしば起きることに対する本当の事実に基づいている悲劇的要素’を思い出す

のであるが、しかしその動きは特別な種類の一般化であり、アカデミックな

告発以上にしている感情の活力で創られている。その声は、激しい懇願ではな

いが、依然として静かで穏やかである。私たちが“個性”と呼ぶであろう特

質は、様式において正確に捉えがたい。つまりその声は、口語のようなもの、

“私たち”の総括的使用、尋ねるような対応ぶり、そしてほとんどいつも内省

的文節を照らす詩的イメージから来ているようである。その直接的訴えは、ま

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ジョージ・エリオットの小説(10)

だ時折現れるが、『フィーリックス・ホルト』からの前記の二番目の文にある

が、『ダニエル・デロンダ』の最後の文では、同情的ではないが依然として直

接的である。しかし、『牧師補の諸相』の強烈に懇願するような声は、一般的

により静かで、中性的で、しかも理性的になっている。

 憐れみは、ジョージ・エリオットの解説から決して消えることがない。この

解説は、説明と分析の形をなす時でさえ、それはまた人物たちを囲む気遣いを

促す文脈を創っている。しかし、それは全く憐れということではない。作者の

思いやる同情の媒体で心が動かされない人物の数はほんのわずかである。だ

が、寄り添う調子は、同情からいらいらに、そしてひどく批判的皮肉に変わ

る。誇張の次に厳しいガス抜き、つまり皆が意味するのと反対のことを話す、

最も図々しい形の皮肉的癖が到来する。ジョージ・エリオットのヘティへの記

述による厳しい皮肉の初期のむき出しの例を、私たちはすでに見てきた。後の

小説でその皮肉は、厳しさと明白さが減少している:読者は、自分自身のため

に誇張を真実に変えるように取り残されるのである。『ミドルマーチ』にはド

ロシアを導入する文節の良い例がある。しかし、単に文法的な作家の解説とな

り、そしてすべての重要な意味において人物の意識の啓示となる“間説話法”

へとここでの皮肉が変ってしまっているのだが。私たちは、まずドロシアが無

垢であり、無経験に対して自信を持っているのに気付く。強烈な皮肉があり、

リーヴィス博士が暗示するように、その皮肉は境遇にだけ向けられているわけ

ではない。ドロシアの感性と‘考え’は、短く急所を突く皮肉で揶揄されてい

る:

 乗馬は良心の呵責にもかかわらず、彼女自身が許している趣味であっ

た:彼女は異教の感じやすい方法で楽しんでいると感じていたし、いつ

もそれを非難することを楽しんでいた。(第 1章)

 本当の楽しい結婚は、あなたの夫が父のような人で、もし望むならヘ

ブライ語さえ教えてくれなければならない。(第 1章)

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高 野 秀 夫

 この種の多くのコメントにおいて、また、ドロシアによって突然“寄生虫

的”であるとして拒絶されたマルチーズの子犬に関するジェームズ・チェッタ

ム卿との会話のような幾つかの明らかに気まぐれなエピソードにおいて、エリ

オットの意見は、“まさにそのときに(意見がそうなるように)いらいらの興

奮のもとでそれ自体形成され”、そして喜劇へと向かうひどい皮肉となるので

ある。批判はあるが、しかしそれはまれであり、おだやかである。そして皮肉

の後に直接的コメントでの強い同情が続き、さらに例えば子供時代の直喩、エ

リオットの声によるイオリアンハープのイメージ、そして“慈悲深い婦人”の

提示のようなものの同情が続く。私は後の章でこのことについて多くのことを

語るつもりだ。私は思うのだが、同情のこの感傷的対応は、浸透している調子

であると提示することが全く正しいというわけではない。つまりそれは明らか

にドロシアのウィルとの関係の表現に大変重要な役割を果たしているが、しか

しリーヴィス博士が概略的な表現において提示しているほどではない。強い皮

肉の撤回について、間違いなくある突出があり、ほとんど脱線であろう。そし

て私は、初めに小説を読んだとき大変強くその突出を感じたのを覚えている。

しかし皮肉は、過度の同情と慈愛への唯一の訂正ではない。ジョージ・エリオ

ットの内省的調子は、同時にそれが感傷的イメージに用いられる時でさえ、強

い訂正として小説中に働いているのである。ウィルがロザモンドの手を握るの

をドロシアが目にするとき、彼女の最後の反応は次のように述べられている:

 あたかも彼女は、別の感情への感受性を超越する刺激的で非常に大量

な軽蔑を飲み込んでしまっていたようであった。彼女は、遙かに信じら

れないもの、つまり彼女の感情は、逆戻りして、目的を持たないはらは

らする集合体と化してしまっていたのを感じたのである。(77章)

これは、ドラマチックな説明文である。つまり、イメージは、活気とそれが述

べられる反応にふさわしい、しかも心理的観察に生命を与える動きを持ってい

る。軽蔑の最初の反応の後に、ドロシアは失意し、そしてイメージャリーの変

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ジョージ・エリオットの小説(10)

化がその本質においてある程度変わるのである。イメージが、作者の憐れみで

満たされるイメージャリーとなり、たんにその場にふさわしいものに軽減され

るだけではない:

 その間ドロシアは、孤独の慈悲深い眼で、人の精神の争いの中で何年

も見続けていたものを繰り返していた。つまり、彼女は、苦痛の不可思

議な霊的な夜からの救いがもたらされる厳しさと冷たさとひどい疲労を

求めた:彼女は何もない床に座り、身の周りの夜が冷たくなるままにし

ていた:彼女の大きな女性の体はあたかも絶望的な子供であるかのよう

な泣き声で震えていた。

 二つのイメージがあった。つまり、あたかも我が子が剣で引き裂かれ

るのを見ているような母親の心であるかのように、心が二つに引き裂か

れる形である。血が流れる半分を胸に押しつけ、一方、決して母親の苦

しみを知らない嘘つきの女によって持ち去られる半分を苦痛のうちにじ

っと見つめ続けるのである。(80章)

 その引き裂かれた子供のイメージは、ドラマチックな観察であり、作者の嘆

きではない。その子はウィル・ラディスローであり:“彼女が信用してしまっ

ていた素晴らしい人”であり、“希望がつきていたが、信頼に変わったそのウ

ィル・ラディスロー”である。最初に見たときには、二番目の文におけるソロ

モンの隠喩の判断は、文字通り内容よりも肉体的暴力にもっと適している。だ

が、それはドロシアの不毛な結婚とロザモンドの流産の皮肉な反響を十分にも

たらすであろう。しかし、これらは低い調子であり、―これはヒステリーをも

たらす誇張であり、最初の文節では“大きな女性の体”と“絶望的な子供”の

コメントとの対照は、ドロシアの感情の状態についてドラマチックな印象から

移動したところに置かれているようである。これらの語句で、間接的に作者の

憐れみを通じての嘆きが伝えられているのである。一方、暴力の聖書的イメー

ジは、直接ドラマチックな相関物である。その区別は恣意的で、多分、ドラマ

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高 野 秀 夫

チックな即時性と外部のコメントが一緒にされているが、しかしそれらは、ま

さに私にとって立場を表す二つの異なる方法であるように思われる。ドロシア

が回復し始めた後、その解説はその観察においてより中庸になる:

 ドロシアに関しては、以前、リドゲィトの運命の試練と、さらに自分

自身のように明らかな困難も、隠された困難もあったような若人の結

婚の和合に関するすべての活発な考えと、さらにその新鮮な同情の経験

とが、今ひとつの力として彼女に戻ってきていた。つまり、経験は経験

自体、知識は知識自体を主張するように主張し、そして私たちに無知な

日々に見たようには見ないようにさせる。彼女は、自分自身の癒せない

悲しみに対して、努力をやめるどころか、自分をより希望あるものにし

てくれると言った。(80章)

 ドロシアの悲劇のカタルシス、彼女の自己陶酔からの浄化は、初期の文節の

ドラマチックな興奮によるようにこの暖かな内省的コメントによっているので

ある。ジョージ・エリオットの声には、多くの調子がある。そして、全体とし

て書くことにおいて、また一冊の小説の変化する立場と方式において、諸々の

変化をたどることが可能なのである。

(ⅱ)

 しかし、予想と回想の丹念なパターンにおいて、それ自体が直接的、間接的

に聞こえるようにしている親愛なる声と同様に、予言の声がある。このパター

ンのために、小説は一緒に結びつけられており、さらに作者と読者は記憶の利

益を得ており、さらに過去と現在、作者の記憶と登場人物の無知とが対照され

て、それ自体、特別な種類の皮肉が生じるのである。

 ほとんどの小説家は、統一と緊張に心を配る。しかし、それは私たちのヘ

ンリー・ジェイムズに見ているドラマチックなあざけりに固執する形はほと

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ジョージ・エリオットの小説(10)

んどとらない。彼は“悲劇のミューズ”のニューヨーク版の“序文”で述べ

ている:

 小説の前半は、本当に私にとって後半のための劇のステージとして考

慮に入れることが強要されている。そして、一般に私は劇を幸先の良い

ものにするために大変多くのスペースを与えてきたので、前半と後半は

とてもしばしば奇妙に不均衡になっている。

 ジェイムズのこの恣意的な予告への感心には、多分、分冊の習慣と同

様に、彼の戯曲に種があったであろう。ジョージ・エリオットの予感の

占有は、時に明らかにいつもではないが、分冊発売に言及される。最も

心に残る分冊発売の例は、彼女の最初の物語に見られる。これは本当に

心の中に分冊発売の形で書かれていたであろう。ルイスは、ブラックウ

ッド氏に「エーモス・バートン」について書いたときに、“マガ”の二

部で出版されることが意図されていたと話している。それで、エリオッ

トは、1857年 12月の雑誌(ハイト、2巻 407頁)で、最初の物語を

記述しながら、ブラックウッド氏の最初の発刊を思い、物語を書いたこ

とを述べている。小説の出版における最初の分冊の第一章は、前もって

分冊による解きがたい感心で終わっているのである:

 私たちの楽しみにしているものは、しばしば通り過ぎるためにやって

来る。しかし、決して全く私たちが想定していた通りになるわけではな

い。伯爵夫人はまさに何ヶ月も経過する前にキャンプ・ヴラを実際に

立ち去ったが、しかし全く彼女の意図になかった境遇においてでした。

(ブラックウッド氏の“雑誌”1857)

 その言葉、“続く”が読まれる前に、この休止には、二部の分冊でさえ、明

らかな効果がある。3 そして、次の分冊は十分な総括で始ってはいないけれど

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高 野 秀 夫

も、読者へのものごしは、一歩進むたびに一歩後退している:

 私が語ろうとした悲しい運命のエーモス・バートン牧師は、あなたが

たもご存じのように決して理想的な、まれな人物でもない。そして、多

分私は目立つことから本当にほど遠い人のために、あなたがたの同情に

大胆に訴えかけているのだろう ....(第 2編、5章)

 ここにおいて、予想と総括の重ね掛けは、分冊の形で決められているであろ

う。しかし、私はすでに述べてきたように、あまりにこの影響を重視しすぎる

ことは危険である。ジョージ・エリオットの分冊の刊行が、全部、本当に見事

に上り調子や親しみのある後ろ向きのいちべつで、始まり、そして終わっては

いないのである。つまり、分冊の読者の好奇心を生き生きとしておくために、

すべての企画された緊張と皮肉が存在していることはないのである。“アント

ニオ、アントニオ!私に話しかけて、ティナよ、私に話しかけて、ああ神様、

彼は死んでいる!”ルーカリーでアントニオが横たわっているのをティナが見

つけたことを、「ギルフィル氏の恋物語」の読者は一ヶ月後まで待たなければ

ならなかった。しかし、『ロモラ』において匹敵する幕切れの下りを見つける

ことはひどく難しい。つまり、ジョージ・エリオットが“冷たい色”をスミス

&エルダー社に残していたことを耳にしたとき、ブラックウッド氏が予告した

とおり、『ロモラ』は、驚くことはないが分冊ものとして大いに成功を収める

ことがなかったからである。

 『フロス河の水車場』においてバランスの欠如についてのエリオットが抱い

ていた意識は、ひどく異なって構成されているけれども、ヘンリー・ジェイム

ズのものと同等の準備への関心を証明している。つまり分冊における初めの 4冊 4 の発刊時での前半は、後半の舞台としての考えであると主張されているこ

とが、エリオットの小説に関して通常述べられていただろう。彼女の場合は、

力強く結び合わされる緊張感が特に必要なのである。それは、ヘンリー・ジェ

イムズに見られるような偶然性への美的嫌悪ほどではないが、過去と現在の継

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ジョージ・エリオットの小説(10)

続への道徳的信頼が大きい。その道徳的信頼はプルーストの時と時の目印との

感覚に例えられる(しばしばよく転載されている)。そして、また経験を一緒

にして過去を現在に活かしておく自然と記憶のワーズ・ワースによる使用に例

えられているのである(しばしば比較されることはより少ないけれども)。エ

リオットのドン・シルヴァは、“付加される‘現在’を通じて‘過去’が生き

続けること”を要求している。エリオットのキリスト教への拒絶は、過去と現

在、理性と感情を狂わせるように思われた時、エリオット自身の恐れの感情

は、別の形でほとんどどの女主人公においても繰り返されており、その継続は

彼女の小説における主要な主題として現れているのである。エリオットの登場

人物たちが、しばしば過去を振り返るという実際の結果がある。そして彼らが

過去を振り返らない時は、エリオットが振り返るのである。彼らが先を見る時

は、しばしば不確定であり、彼らの幻想と無知は、作者や別の登場人物のイメ

ージャリーと事物の提示のどちらかによってもたらされている。そしてより正

確な予告と並べて置かれていると、付加された皮肉がもたらされる。読者は絶

えず現在の時から未来に押し出されるが、漠然と概略が述べられ、さらに半ば

定義され、そして二、三の例外の場合を除いて、十分に予告されてはいない。

それはもちろん、最初の読みで明らかとなるのは、ほんのわずかなヒントの予

告にしか過ぎない。そして登場人物たちの予感と希望に、ほんのわずかな否定

しかもたらされない、しかも好奇心の強いむずかしい予告の立場に読者を陥れ

る、本当に多数のものがある。それぞれの新鮮な読みで、新たに気付くヒント

が沢山ある。それは、前半部を後半部の場面として見たり、始まりに終わりを

見たり、部分に全体を見たりすることによって、作者の小説を一つの全体とし

てじっくり考え込んでいる要素をなしているというヒントである。ジョージ・

エリオットには、分割して出版している小説もあるが、彼女はディッケンズの

ように一時しのぎに書くことはなかったし、原稿が出版社に送られた後に(そ

う、メレディスに比べて)比較的ほとんど変更しなかった。5 私たちの持続の

感覚は、エリオットの書いているときの予想から来るという実感が多分あるの

だろう。

- 130-

高 野 秀 夫

 最も明らかな種類の予告は、会話の過程でなされた無邪気な気軽な言葉であ

り、その皮肉はずっと後にならなければ明かされることがない。最初の読みに

おいてさえ、これらののらくらしているヒントの幾つかを思い出すであろう。

なぜならば、エリオットはしばしば回想という鎖でそれらを結びつけているか

らである。『フロス河の水車場』において、タリヴァー夫人の母親らしい騒ぎ

からフィリップのまじめな冗談に至る、絶えることのない溺死の例がある:

 “ああ!私は彼女が野生の動物のように水辺で彷徨っていて、いつか

転げ落ちてしまう、そのように思ったわ”(第 1巻、2章)

 “マギー、マギー…. 水から離れるように私が言ったことはどうなの?

あなたは、いつか転げ落ちて、溺れてしまうでしょう。それから母の言

う通りにしなかったこと、を反省することになるでしょう。”(第 1巻、

2章)

 “僕が大人になったら、ノアの方舟のように木の家のある船を作り .... そ

してもしおまえが泳いでいるのを見たら、入れてあげるよ”と慈悲深い

保護者の調子で付け加えた。(トムからボブへ、第 1巻、6章)

 水車場の持ち主が代わると河が怒るという話がある。私は父が何度も

そのことを話していたのを聞いたことがある。(タリヴァー氏―第 3巻、

4章)

 “・・・さもなくば、彼女は永遠にボートに乗って漂流させられてし

まうためにだけ、フロス河につきまとう妖精の船頭に魂を売ることにな

るでしょう。”(第 6巻 12章)

 個々の見かけは無邪気ではあるが、しかし色々な程度に目立っている積み重

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ジョージ・エリオットの小説(10)

ねの予想がある。その時のそのヒントは、初めの二つの例のように正確な予言

である。三番目のように皮肉な反転もある。時々そのヒントは、連続物の立場

というよりむしろ個人の突出による。つまり、それは見事なヒロインの成功

と、憂鬱な失敗の復讐をするマギーの良い意味にも悪い意味にもとれる言及の

ようなヒントである。マギーがルーシーの恋人をとったとき、まずこのコメン

トは正しいものとなるようだ。しかし、そのコメントは小説の終わりで否定さ

れてしまう。小説における登場人物たちの言及についての幻想に対する皮肉な

挑戦をするばかりでなく、“レベッカとフローラ・マコーヴァー、ミンナ、さ

らにその憂鬱な不幸な人たち”と一緒にマギーを捉えているのである。

 数多くのこのような一瞥は、前もってあるのであり、多かれ少なかれ記憶さ

れるが、数回の読みによる。時々、それらは、水車場の持ち主が代わると河が

怒ることについてのタリヴァー氏の話のように、予言として直接的に表される

ことで、突出されることがある。フィリップのものは‘現実的’な予言に入る

が、愛と知識からの予言である。それは彼がマギーのために未来を定めようと

するとき、マギーにもっともらしく提示された予言である:

 否定することで安定を求めることは、たんなる臆病です。どんな人も

そのようなことで強くはならないのです。あなたはいつかこの世に投げ

出され、それから今、あなたが否定しているあなたの本性についての

あらゆる理性的な満足は、貪欲な食欲のようにあなたを攻撃するでしょ

う。(第 5巻、3章)

 『ロモラ』におけるロモラの兄、ディノとジョージ・エリオットの歴史的肖

像のピエロ・デ・コシモによって分かち合っている現実性に欠ける予言が、と

ても丹念に用いられている。ディノの予言的役割は彼の病気と迷信でもっとも

らしくなっている。彼はロモラに自分の警告の夢について語る:“ヴィジョン

や夢において私たちは、受け身的であり、私たちの魂は、“神聖な精神”にお

ける楽器のようである。”(40章)

- 132-

高 野 秀 夫

 彼は、彼女に夢を語る。つまり彼女の婚礼の行列をなす死装束の死者につい

て、さらに石ころの平原と青銅、大理石の人物たち、羊皮紙、血と火、“偉大

な誘惑者”中の最後に、たった独り水を求めるロモラについての夢を語る。そ

の夢は正夢となる。彼女の婚約の後に死装束に身を包んだ死者、そして大鎌を

持った“時”とともにその“時間の仮面”の“トリオンフォデラ・モント”が

やって来る。ティトはバルドの本を売り、戦争と飢饉がある。ロモラはフロー

レンスから船で漂流する。夢はこれらの断片をごたまぜにする。ディノは、ロ

モラが田舎者たちにではなく、父のために水を探しているのを眼にするが、す

べての密接な関係は容易に適合しているのである。

 そのヴィジョンはロモラによって批判される。ロモラは恐れを感じているけ

れども、彼女は、“まさに私たちの知恵の生命であり本体である、人の同情か

ら離れた知恵を人の心に求める影の領域”に、ディノと一緒に入って行くこと

はできない。そして、彼女は、ピエロ・デ・コシモがティトのために画いた三

面画の装飾品の十字架で、そのヴィジョンをティトに閉め出すようにさせてい

るのである。

 ピエロの絵画は、この小説において重要な役割を果たしている。その絵は、

またピエロによる人物の生き生きとした誇張、そして動き、小説の歴史再構築

の最も重要なものである。一連の予言のイメージを立証している。ピエロがま

ずティトに出会うとき、ピエロは、隠されているが力強い予言の類例を提供し

ている。彼はティトに話す。“若いお方、私は年老いたフリアムを欺くシノン

の絵を描いている。もしあなたがモデルになって、あなたのその顔が私のシノ

ンの代わりになってくれたら有り難い。”(第 4章)

 ネロが、こちらはむしろバッカスかアポロのような顔であると抗議したと

き、ピエロは次のように答えている。

 “私はこの若者は裏切り者であるとは言わないが、私が意味するのは、

彼がもし裏切り者の心を持っていたなら、彼はもっとも完全な裏切り者

になるだろう、そんな顔をしている。つまり、まさに彼は、豊かな若い

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ジョージ・エリオットの小説(10)

血で満ちた食物で滋養され、多くの徳の手助けもなしでその色を保つ

美しい顔をしている。彼はその顔とともに、英雄の心も持っているだろ

う。私は、矛盾するようなことは何も主張しない。”

 そのシノンの鏡は、すぐに明らかな映像を現すわけではない。しばらくの間

はただたんに、シノンのようなティトは、ギリシャ人でよそ者であり、外国で

住居を探している。そして、これらの偶然でさえ、読者は彼のウァージルを思

い出しながら、自分で探すために残されるのである。小説が進むにつれて、そ

の普段の提言はより不吉な適切さを帯びる。シノンのように、ティトは年寄り

を欺くが、これはたんにフローレンスへの裏切りの準備にしか過ぎない。彼は

ギリシャ人であり、ギリシャ人はフローレンス人には人気がなかった。そし

て、さらに対応の手を伸ばし過ぎることが奇妙に思う。つまり、このギリシャ

人によってもたらされた贈り物は、偽りであり、危険なもの、紛らわしい三枚

画の装飾品である。ヴァージルのシノンは詳しく述べられていないが、しかし

ティトの偽りの美についてのジョージ・エリオットの主張は、幾分シェイク

スピアのルークリースの記憶によっているであろう。ルークリースはタペスト

リーのシノンの顔を見てまず考える:“そのような顔にそのように多くの欺瞞

が潜んでいることはあり得ない….”それからダークウィンを思い出して、彼

の言葉を向ける:“あり得ないと言うことが分かった。しかし、そのような顔

はよこしまな心を持っている。”ルークリースがタペストリーで見つけた鏡は

『ロモラ』では、別の文脈において繰り返されているのである。

 ピエロの絵で最も目立っているのは、バッカスとアリアドネの三枚画の装飾

品、トリプテッチであり、ティトが“肖像画”と呼ばれる章で依頼したもので

ある。それは、“イグニア・アセリマ・フローレンティナ”に決して来るよう

には思われないような、ティトの求めていた素晴らしい物思いに、生命をもた

らしている。彼はロモラに言った:

- 134-

高 野 秀 夫

 “私は、あなたが南の太陽の下で、花の中に横たわり、まったく楽し

みだけに心が安らいでいるのを見たい。一方、私はあなたに寄りかか

り、ルートの楽器をとり、あなたに光と暖かさですべてが一つになるよ

うに思われる小さな無意識の曲を歌う。あなたは、私のロモラだ。決し

て妖精の幸せを知らなかったロモラなのだよ。”

 それは、まったくロモラにとってかけ離れた夢でもない。なぜなら彼女はテ

ィトを“夜について何も知らない太陽神”と見ているからである。だが、彼女

はそれを否定し、答えている:

 “いいえ、ティト、しかし私は、あなたが来て以来、しばしばそのこ

とを夢見てきました。私は、ぐっと喜びを一飲みしたいほどにのどが渇

いております .... つまり、あなたのようにとても輝いている人生を、し

かし私たちは今そのことを考えません、ティト、あたかもいつもの花の

中に青白い哀しい顔、そしてむなしく見ている眼があるように思われま

すから。”(第 17章)

 その輝かしい夢にピエロの絵の実態が与えられているのである。その主題

は、バッカスとアリアドネの勝利であり、ティトがオビットの話を補足して、

バッカスによって与えられた不滅の黄金の冠を身につけるように提案してい

る。ロモラは言う。“そして、私はアリアドネであなたは私に冠を授けるので

すね!そうだわ、それは真実ね、ティト、あなたは私のつまらない人生に冠を

もたらすのです。”(第 20章)それは多くの点でひどく皮肉なイメージだ。そ

れはティトの怠惰と輝きの夢における一つの延長であり、彼は、まさにロモラ

が夢を失ったように自分の夢を失う。テッサは彼に花と太陽の中の甘い眠りを

もたらし、彼のヒラスの妖精であるが、しかしロモラは、冠を身につけたアリ

アドネとしてとどまる。この物語において彼女を拒絶するのは、ティセウスで

はなくてバッカスである。三枚画のトリプティチとその象徴は、ティトへの愛

- 135-

ジョージ・エリオットの小説(10)

の素晴らしい連想の中にあり、ウェディングドレスに雨のように降り注ぐ快楽

のようである。ティトはそのトリプティチをシンボルとして差し出す:

 あなたは、私たち 2人の人生にとってこれらのかわいいシンボル、つ

まり静かな海の船、決してしおれることのないツタ、そして私を傷つけ

るのを止めてしまい、私たちのキスのように柔らかな花弁を雨のように

浴びせる、それらの愛らしいものたちを、毎日見るでしょう。(第 21章)

 ジョージ・エリオットは、その状況に適した鏡として行動するもっともらし

いピエロ・デ・コシモを再構築するのにかなり苦労していた。ヴァサリーの詳

しい記述の中で見たり、読んだりしたであろう幾つかのピエロの絵の諸相を使

っているからである。絵自体のあり得る源はアリアドネであるが、しかしこ

こにおいて、アリアドネの人物、愛する者たち、奇妙な海の怪物たちを提示し

ている『軍神、ヴィーナス、彼女の愛する者たち、そしてヴァルカン』と『ア

ンドロメダを自由にするペルセウス』の両方を除いて何も似ているところがな

い。別のトリプティチ(三枚画)の細かいもの、ヒョウ、トラ、花は、すべて

ピエロの主題とバッカスの親しみのある特性とを確かなものにしている。それ

は、あとで、ヘンリー・ジェイムズで分かる豊かな想像力による再構築の類で

ある。ジョージ・エリオットはオヴィディウスの『変身物語』を取り入れた。

ティトはピエロに“オヴィディウスの『変身物語』はあなたに必要なヒントを

与えてくれるでしょう !”と語っている。もし私たちが『変身物語』の 3巻に

眼を向けるならアリアドネの変身が分かるでしょう。『ロモラ』におけるロモ

ラの変身は別のものである。

 ピエロがトリプティチを作ることに同意したとき、彼は二つのコメントを述

べている。彼はバルドとロモラをオイディプス王とアンティゴネのモデルにし

たいと望み、二人をそのために座らせ、“アンティゴネに似せる”ことになる

と説明しているのである。しかし“アンティゴネ”はピエロがいつもロモラに

言う名前である。そしてロモラのアンティゴネの類似は、バッカスから冠を授

- 136-

高 野 秀 夫

けられる勝利に満ちたアリアドネの類似よりもかなり奇妙である。ロモラの父

は盲目で、兄は父の元を離れてしまっており、彼女は、家の本分のためにティ

ト、サボナローラ両方と争うのである。このイメージはお互いに修正し合っ

ている。ピエロは皮肉にもバッカスとアンティゴネを並置している。つまり、

“私のバッカスのトリアンファンテ”は、すべての歴史との適合性に反して、

美しいアンティゴネと結婚したのである:

 ピエロはまたティト自身のイメージを修正している。

“私は、あなたの好みは求めない。つまりもはや得ている。ただ私はあ

なたが恐がる様子にしただけだ。私はバッカスのためにその絵から恐怖

を取り出さなければならないのさ”とピエロは言った。(18章)

 彼は“勝利の喜びの態度でワインカップを持っている”ティトの絵を見せ

ている。しかし彼の顔は“ものすごい恐れの表情で顔を背けていた。”それで

ピエロは、ティトが嫌いなので、言葉は悪意で鋭くなり、彼は予言している:

“彼は亡霊を見ている―あの美しい青年は。私は、いつかそれを終わらせるの

だが、その時はどんな種類の亡霊が最も恐ろしいか、つまり霧のように死者が

生き返り、半ば透明のこわばった様子をしているか否か・・・を見定めよう。”

 彼は絵をまさに描き終えた。“亡霊は死者が生き返った”つまり、バルダサ

ーレである。ピエロの幻想的な神話的作品というより歴史的絵画のスタイル

であるように思われるその想像上の絵は、語りとともに成長している。ピエロ

は、バルダサーレがティトを掴むのを見ている、だが、二人の本当の関係は何

も知らないで、彼はバルダサーレを絵にしている。それぞれの場面でそれは予

言的な絵である。まずピエロはその恐れを予想し、それから亡霊を予想する。

そして絵そのものは、バルダサーレがルッセレイ・ガーデンズでの祭りに入っ

たとき、結局どうなるのかをほとんど正確に予想している。ティトはルートを

奏でているが、ワインカップは持っていない。しかし、二人はモンテプルミア

ーノの酒ビンをもっと求めていた。そしてバルダサーレは、その宴でのぞき

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ジョージ・エリオットの小説(10)

込んだとき、“輝くカップ”を見ている。コーンヒル誌の“ルッセレイ・ガー

デンズの宴”と呼ぶ彫刻には、ティトはバルダサーレが宴を見ているときにワ

インカップを手にしている。ティトは勝利に満ちており、“彼の前に新しい道

(政治力の勝利)が突然開かれるのを見た歓喜”で一杯である。そして、彼は

ポリチャーノのオルフェロの歌を歌う。

“バッカス様、万歳万歳”

その絵のワインカップと勝利の喜びの両方は、バッカス、そしてティト自身の

イメージに寄与している。つまり、まさにバッカスのイメージは、彼を初めて

ロモラが見たときに使われているからである。“ロモラの驚きは、たとえ見知

らぬ人がヒョウの毛皮を身につけシシュウスを連れてきたとしても、ほとん

ど大きく変わることはないだろう。”そのバッカスと、亡霊にびっくりした若

者とは溶け込むのである。ところでバッカスは、また贈り物を運ぶギリシャの

別の異説になる。ジョージ・エリオットによる、予想と皮肉のパターンにおい

て、すべての編まれた糸を一緒に働き続けさせている『ロモラ』の引喩と類似

物のパターンは、エリオットの小説の中で最も単調な小説における一条の光と

なっている。『ロモラ』は間違いなくたんに読むより分析する方が面白い小説

である。

 その『バッカスとアリアドネ』は、『オイディプスとアンティゴネ』によっ

て、また宴の名無しの亡霊絵画によって再評価されている。それは、たんに再

評価されるだけでなく、ティトとロモラの結婚式の後で、つまり、ティトのロ

モラに与えたトリプテッチの十字架によりディノの予言を閉め出した後で、二

人が出会ったカーニバルの行列、それによってきっぱりと否定されてしまう。

ディノのヴィジョンは、“時”のマスクの行列と哀悼者たちの“苦痛”で生き

続けている。十字架をそんなに容易に隠すことはできない。つまり、“それは

まだそこにあり―ただ隠れているだけなのです。”とマスクに恐れて身震いし

ながらロモラは述べる。そのマスクそれ自体はピエロの作品である。ティトは

- 138-

高 野 秀 夫

“間違いなくこれはピエロ・デ・コシモの作と物であり、彼はそのような恐ろ

しい観衆が好きなのです”と話している。そして、これはエリオットによる再

構築ではない。なぜならヴァサリが 1511年ピエロの改作の『トリオンフォ・

デラ・モンテ』について詳しく述べているからである。

 ピエロの別の作品がある。その作品は、ネロが、企画したフローレンスの

ツアーなので初めはほとんど観察されることなく見逃されている。そのツア

ーは、それ自体暗示で満ちている。つまり、ティトはジョットの“カンパニー

ル”に応えていない。それは、“予言的な象徴のように思われる。人生は、ど

うにか、いつかは、憧れの純粋な美に呼応する形となるべきことが述べられて

いる。”彼はギベルティの洗礼の門を賞賛している―“高度のレリーフにおけ

るこれらの顔は、それら自体の中に人の心を語っている。”最後に彼らが、ネ

ロの床屋にやってきて、“教養のある者たち”が集まる小さな部屋に入る。ネ

ロは、三つのマスクのスケッチをティトに見せる。それは別の“ピエロ・デ・

コシモの奇妙な気まぐれな画家の絵”であり、“彼はカビの生えた壁(その

‘カビ’の壁はバサリの詳細による)を長い間見ることで、その絵を知ったと

語っている。”:

 ネロの指し示したスケッチは、三つのマスクを表しており―一つは

飲んだくれの、笑っているサチロス、別のものは悲しんでいるマグダレ

ン、そしてその二人の間に横たわっている三番目はストア哲学者の厳し

い冷たい顔であり、マスクは小さな子供の膝の上に斜めに横たわってい

た。愛らしい天使童子の容姿は、眼差しの中に画家たちがその時までに

“神聖な子供”に与えることになっていた何か神の約束事とともに、マ

スクの上に浮かび出ていた。

ティトは話しながらルートに触れ、ひどくまじめすぎることもない解釈をして

いる。そして、ネロが“あ!!すべての人はその絵に自分自身の解釈をしてい

る”と述べている。物語によってなされた解釈を押しつける必要はない。ティ

- 139-

ジョージ・エリオットの小説(10)

トは“そのばかげた、悲しい、そしてひどいもの”について語っている。ティ

トはサチロスでもないし、ロモラはマグダレンでもない、サボナローラはス

トア派の人でもないが、しかし子供と一緒の三つのマスクは、ティト、ロモ

ラ、そしてサボナローラである。子供は希望であり、“黄金時代”は最後にあ

る。その時、ロモラは、ティトの子供たちにサボナローラやティトについて語

り、そしてこの象徴は成就するのである。まさにこの丹念で遠回しな種類の予

見は、『フィーリックス・ホルト』や『ミドルマーチ』においては、かなり小

さな位置づけである。だが両作品とも、より単純な種類の皮肉な予想で一杯で

ある。しかし、両作品はほんのわずかなヴィジョンしか含んでいない。だが、

トレビー・マグナやミドルマーチで夢見る人たちの夢は、幻想的であり、不可

能であり、素晴らしい語りの予告の源として活用されてはいない。『フィーリ

ックス・ホルト』に予言的なコメントがあり、フィーリックスはエスタに述べ

る:

 私は本当にあなたを信じる。しかし、あなたの最も良い自己を失うこ

とがないようなヴィジョンを持ってもらいたい。(何かあなたの素晴ら

しい心のようなもの)あれやこれやの魅力が、あなたの周囲に飛び交う

でしょう、そして善良で力強い凄まじいヴィジョン以外、あなたを救う

ものはないでしょう。(70章)

『ダニエル・デロンダ』になって初めて、『ロモラ』における継続されていた丹

念な方向に戻ることになる。6章で私がすでに述べた予想は、偶然と予想が、

一緒に働いている小説『ロモラ』のように、一種のファンタジーに頼っている

ことである。絵画の死者の顔は、まさにピエロによるティトとバルダサーレの

絵画のようである。確かなグウェンドレンの喜びと平安は、妹たちがともにパ

ネルを開けたときに、次第に消失していく:“その開かれたパネルは、逆さの

死に顔の絵を見せたが、その絵からはっきりしないものが、両手を伸ばして飛

んでいくように思われた”(3章)。後にグウェンドレンの恐怖は、まさに演技

- 140-

高 野 秀 夫

中にパネルが開いたときに繰り返されている。そして、“彼女は、「恐怖」の魂

が入ってしまった像のような顔になった。”その死に顔には、“激怒”のイメー

ジ、グランドコートの“死ぬ運命のもの”、ダニエルの異国生活の感情、そし

てモーデカイの橋や弟子のヴィジョンが互いに織り込まれた運命に融合されて

いる。そして、結末において、これらの前置きの緊張状態から多くの衝撃が得

られるクライマックスで、すべての予告が一緒になるのである。

(後の号に続く)

1. これはウィリアム・ブラックウッド氏への手紙で初めて使われ(ハイト、2巻、299頁)、しかも“諸相”が出版されたときの正式なペンネームとして現

れた。

2. エディンバラのスコットランド国会図書館。

3. “続く”はまさにその編の結語である。だが、その形式は必ずしも時の連続に

おいて用いられてはいない。

4. 『牧師補の諸相』『ロモラ』『ミドルマーチ』そして『ダニエル・デロンダ』。

5. 彼女の修正の幾つかの例に関しては、ハイト教授の『ミドルマーチ』版を参

照。幾つかの修正が 1874年版になされている。また P.M.L.A. 82章(1957年)

667~ 79頁;ジェローム・ビューティの記事:想像と修正:『ミドルマーチ』

81章を参照。

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