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 昨年9月、さわやかな風が吹く大阪へ、神戸のパイオニアバンドのひとつブルーグラス45のバンジョー奏者、井上三郎(ペンネーム:渡辺三郎)に会うために向かいました。電車に乗って京都から阪急梅田駅の下にある明るい店とレストランの迷路のような「阪急三番街」にやってきました。その地下街にある梅田ナカイ楽器の教室でのジャムに参加するためです。 駅とモールは、デパートと駅を結びつけた鉄道会社の名前がついています。同社は1936年以来、阪急ブレーブスという野球チーム(現在はオリックスバッファローズ)を擁し、1910年には温泉が湧く宝塚まで路線を伸ばした上、1914年には宝塚歌劇という、女性たちがすべての役を演じる世界的に有名な劇団を結成しています。 今晩もサブは、その人生のほとんどを過ごした宝塚からやって来ます。サブは兄で、ブルーグ

 9月17 日、アリソン・ブラウンの呼びかけでマサチューセッツで開かれる「フレッシュグラス(Fresh Grass)フェス」で3月26 日に急逝したデニス・ゲインティ(46) の追悼が行われたという。ステージ最後のジャムセッションでボビー・オズボーンが“I'll Fly Away”を歌い、そのときに箱根フェス主催の中西ゆかりさんが発案したメッセージ入りの折鶴を天国のデニスに届くように燃やすのだという。メッセージは箱根フェスのサイトなどで募集された。 1992 年、英語教師として初来日以降、日本武道を研究しながら趣味であったブルーグラスを日本で発見、多くの友人を作る一方、博士号を修得後にジョージア大学教授になってからは日本ブルーグラス史についての執筆を準備していたという。日本ブルーグラスにとても大切な存在だったデニスの追悼特集は一周忌に計画している。 そのデニスが亡くなる2週間前、3月13 日に本誌に送ってくれた原稿はその半年後に渡米、IBMA(国際ブルーグラス音楽協会)年次大会のゲストに招かれたブルーグラス45 の物語だった。米国のルーツ音楽系季刊雑誌

『No Depression』誌との同時期の掲載を望んでいた。今回本誌はデニスの原稿を忠実に翻訳し、その望み通り同誌の発行人、クリス・ワズワース氏の許可を得て、そのレイアウトも同様に準じたい。なお、ブルーグラス45は米国ツアーにつづいて 11 月3日から関東と関西でツアーを予定している(裏表紙参照)。 Thanks to Chris Wadsworth and Alison Brown.

文──デニス・ゲインティ(Denis Gainty) 訳──井上由利子

HILLY-BILLY MUSIC「50年前、ブルーグラス45は日本に

ストリングバンド音楽を根付かせる一翼を担った(50 Years ago, Bluegrass 45 helped

Stringband Music take root in Japan)」

ラス45のベース奏者でもある渡辺敏雄とともにデビッド・フリーマンの「カウンティセールズ」をビジネスモデルにした通販業B.O.M.サービス

(Bluegrass and Oldtime Musicの頭文字から命名)を営んで、日本のブルーグラスコミュニティのメンバーにCDやそのほかのメディアを供給しつづけています。宝塚はまた、45年前からサブと敏雄が毎年つづけているブルーグラスフェスの名前にも付けられています。 昨年夏、そのフェスのブルーグラス45の出演は、彼らが世界のブルーグラスを根底から変えたそのキャリアのマイルストーンとなるものでした。(編集部注:この導入部のみ『No Depression』誌とは異なるもので、デニスの遺志と思われる最後の校正原稿を基に訳しています。同誌では昨夏の宝塚フェスの様子から始まっている)

1970年頃、大阪御堂会館での「シティージュビリー」にて

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東西のブルーグラスと�� カウンターカルチャー “Bluegrass and Counterculture, East and West” いくつかの点で、ブルーグラス45の物語とその創成はアメリカ合衆国ブルーグラス界の特定の世代には深く馴染みがあります。そこでは商業主義や進歩的な政治に対して増大する幻滅が1960年代の大学生たちを質素さ、純粋さ、つまり本物のアパラチアのストリングミュージックへと誘ったという状況が生まれていたことです。合衆国と同様、1960年代は日本ではカウンターカルチャーの混乱の時代でした。  戦時中の恐怖と喪失、そして1952年までアメリカの占領というショック、崩壊、混乱から抜け出して、日本の経済と社会はあたらしい繁栄と希望を見つけ出し始めていました。ダグラス・マッカーサー将軍と彼の施政の深い影響の元で、日本政府は平和な民主主義国家として再構築され、正式に日本憲法の中で軍国主義を破棄しました。

 しかし合衆国が極東、そして東南アジアでの軍事介入をしたとき――最初は朝鮮戦争それからベトナム戦争に――日本の民衆は一方においてアジアでアメリカの同盟国として、そしてもう一方において近代戦争の悲惨さの目撃者として彼らの矛盾する責任を強く感じていました。日本の大学は、アメリカの大学のようにときおり暴力的な抗議行動を行い、驚くほどの数の学生たちが通りで抗議デモを行ないました。つまりそれは1960年の合衆国との安全保障条約に対する反対姿勢の始まりでした。何十万もの日本の抗議者たちはときおり警察との激しい揉み合いになりました。 1970年6月の安全保障条約の改正に対する1回だけの抗議デモに70万人の参加者があり、1967年から1970年の三年間でベトナム戦争に抗議するデモ参加者が推定1800万人という、信じられないほどの動員記録を残しています。この数字を見ると、60年代のケント州立大学での大学占拠というわれわれ自身の経験を思わずにはいられません。

 この地政学的要因と学生運動の状況下で、ちょうど合衆国のようにアメリカンフォークミュージックが人気を博し始めました。アパラチアのストリングバンド音楽はすでに日本に入ってきていました――第二次世界大戦以前に「ヒルビリー」や

「マウンテン」というカタログ名がありましたが、一般的にはそのほかの人気のある外国音楽とともに「ジャズ」と一括りにされていました――そし

てアメリカの日本占領期間中には、連合国軍のラジオ番組やアメリカ映画、そして米兵士のために演奏する日本人ミュージシャンにチャンスが与えられたおかげで、全盛期を迎えていました。 ワゴンマスターズやイーストマウンテンボーイズ、そのほか初期のバンドや東京の対中兄弟のような興行主がアメリカンストリング音楽の人気のチャンスをモノにし始めました。しかし荒れ狂う1960年代には日本のミュージシャンと聴衆はアメリカのフォークミュージックのはっきりした政治的姿勢を受け入れ始めました。 アメリカの同胞のように日本のブルーグラスは入り組んだコミュニティで――たくさんの情熱的なビル・モンロー音楽への愛を吐露する若いミュージシャンがおり――、彼らは自身のコミュニティや彼らの世界に自身の関心事を表すために声を上げ始めました。

ブルーグラス45の成り立ち “The Making of Bluegrass 45” 1967年に活気のある港街・神戸のコーヒーハウス「ロストシティ」でブルーグラス45が結成されたとき――そこは台湾人のオーナーである郭 光生さんが60年代初めにニューヨークで遭遇したヒップなコーヒーハウスを真似たもの――その港町は世界中からあらゆる人が集まり、混ざり合う街でした。そこでは日本の学生や社会人たちが、アジアやさらに遠くからやって来たビジネスマン、水兵、観光客などと肘があたるほどの狭い空間で出会い、そして反戦活動家たちはベトナム戦争から休暇で戻った兵士たちと顔を突き合わせていたのでした。

 ブルーグラス45のメンバー、10代のバンジョーの井上三郎、ベースの渡辺敏雄、ギターの李 建華、フィドルの廖 学誠、マンドリンの大塚 章、そしてギターとリードシンガーである大塚ツヨシが自然に集まっていました。多くのお客や若いブルー

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グラッサーらと同様、45の将来のメンバーは、バンジョー弾きである店のマネージャー、野崎謙治がアメリカ合衆国に長期の旅に出ると決心したとき、ロストシティにたむろしていました。彼は渡辺敏雄に、地元のほかの学生たちとともに彼が戻るまで店の音楽を任せられないだろうかと言い、6人がハウスバンドに名乗り出ました。

 そこでの彼らの経験はほとんどの日本のミュージシャンが経験するものとは根本的に違っていました。大塚章が次のように言ってます。「60年代から70年代の頃は、日本のほとんどのブルーグラスバンドは大学で音楽クラブとして存在しました。彼らは10曲の歌を何度も何度も練習し、それによってタイトで十分リハーサルを積んだバンドができていました。一方、ブルーグラス45は酔っぱらった水兵と荒っぽい海軍士官候補生や外国人観光客を楽しませていました。タイトなアレンジ

(キッチリとしたバンド)はこのお客さん達には、何の意味もなかったんです。僕たちは彼らのリクエストに応じて歌詞もコードも知らない曲を演奏していたんです!」。

 バンドの構成は伝統的で現代的、日本的で世界的な神戸という街のコンビネーションを映し出しているものでした。サブの兄の敏雄は1946年に生まれ――その年はビル・モンローがレスター・フラットとアール・スクラッグスとの最初の録音をした年でしたが――、最初の興味はブルーグラスではなくオールドタイム音楽でした。彼はフォークウェイズレコードに付いていた小冊子を読みつつ、同時にブルーグラスとオールドタイム音楽を聴きながら、日本の大学音楽クラブの猛烈に階級的で伝統的な文化、先輩が新入生を前に並べて一人ずつ担当楽器を大声で「マンドリン!バンジョー!フィドル!」などと割り当てるという時代を

目撃してきました。そういう光景を目にした敏雄は、好都合にもその大学方式を真似て弟のサブにギターをわりあてたのでした。 しかしサブは兄の敏雄が家に持ち帰ったフラット&スクラッグスのテープをこっそり盗み聴きしたとき、彼の人生は変わってしまいました。彼は今だにそのとき、家の窓から見た田んぼの切れ目のない青い穂が風に優しくなびいている情景をはっきり覚えています。たとえて言えば、人口過密な日本の町の建物の中に押し込められていても、

「オールドホームタウン」を聴きながら、彼は音楽の魂を見つけたように感じたのです。

 サブや敏雄のように大塚兄弟も、日本の家族や日本の大学の伝統的な階級社会を通して自分たちはブルーグラスにつながったと感じています。5人兄弟の末っ子である章と兄のツヨシ(ジョッシュ )は、60年代中頃に桃山学院大学に通った兄の豊を通してブルーグラスに出会いました。 豊はブルーグラスランブラーズ、――日本のブルーグラス人気の道標となった、評価の高い「全国大学対抗バンド合戦」で見事に優勝有力候補であった早稲田大学のジャズバンド「ハイソサエティオーケストラ」を打ち負かし、優勝を勝ち取ったバンドで――を結成しました。ランブラーズの初代フィドラーである田渕章二(米国ではショージ・タブチとして著名だ)は豊に勧誘され、ジョッシュが何度か彼にブルーグラスフィドルのレッスンをしています。田渕はミズーリのブランソンで自分の劇場を持つようになり、そこで彼は毎日2回のショーをつづけています。

 李 建華と廖 学誠は、同様に日本の大学システムの申し子でした。ふたりはとも神戸の元町地域に住んでいました。李と廖が桃山学院大学の軽音楽部――初期の日本音楽界では、クラシック以外の音楽をこう表現した――で初めて会ったとき、彼らはその境遇、自宅の近さ、そしてブルーグラス音楽に対する愛をともに持っていることが分かったとき、飛び上がるほど驚きました。 ふたりとも親しみを込めて、その出会いとサブに紹介されたこと、そして彼のブルーグラス音楽に対する飽くことのない情熱を思い出すそうです。1967年の夏休みの間中のことを廖は次のように思い出します。サブは李の住まいの建物の最上階に住み込み、フラット&スクラッグスの曲を情け容赦なく李と廖にねじ込むように教えました。

 港町の神戸はとくに多文化な日本の街であると同時に、その多様性は人々が考える以上に日本を

1971年秋、神戸・そごう百貨店屋上でのロストシティ主催イベントにて

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代表する街です。同じ様に、日本のバンドでありながらブルーグラス45は、20世紀より以前から日本を形作った国際的な影響を反映しています。 敏雄とサブの父親は、20世紀の初めに実業家としてアメリカ合衆国を体験しており、そこで強い社会主義の影響を受けました。 ジョッシュと章の父親は戦前、中国人と西洋人がともに暮らす上海で働いており、1948年に生まれた章は、家でエルビスやハンク・ウイリアムズ、ハリー・ジェイムズやデイブ・ブルーベックを聴きながら育ったことを覚えています。その何年ものち、章はブルーグラス45の演じるブルーベックの “Take Five” は――草分け的なブルーグラスバンドによる五分の四拍子(変拍、子)最初の事例であり――、70年代初期のフェスでバンドから啓示を受けたサム・ブッシュが、「お前らにはブッ飛ばされたゼ!」と言うのを覚えています。 そして李と廖はふたりとも、ある意味において戦前の東南アジアの帝国の実在を表しています。李の両親は当時、日本帝国の植民地だった台湾から日本に移住しました。李は外国籍とみなされ、現在は台湾のパスポートを持っています。同様に、廖の父親も台湾出身で日本人の母親との間に日本で生まれましたが、国籍は台湾です。

アメリカでのブルーグラス45  “Bluegrass 45 in America” サブと敏雄、ジョッシュと章、李と廖の6人は、レベルレコードの創業者であり、米国ブルーグラス界で中心的人物であったチャールズ「ディック」フリーランドが商用で1970年に大阪近郊の町にやってきたとき、ロストシティで演奏していました。ロストシティに招待されたフリーランドは、そのグループの演奏に感動して翌1971年、米国ツアーと彼らの最初のセルフタイトルの米国盤LP『Bluegrass 45』と、ジョン・ダッフィによってプロデュースされた第2作『Caravan』の発

売を決めました。 彼らの米国デビューは6月、ビル・モンローのビーンブロッサムフェスティバルで、今では最初のインタナショナルブルーグラスフェスティバルと考えられている歴史に足跡を残しました。しかしビーンブロッサムでのブルーグラス45の演奏は、ただ単なる文化を越える目新しさ以上のものとしてみなされなければなりません。 ジョン・ハートフォードのエアロプレインバンドのデビューや若きサム・ブッシュとトニー・ライス、コートニー・ジョンソンのブルーグラスアライアンスの最初の登場などとともにブルーグラス45のそこでの演奏はブルーグラス界の重要な変化をもたらしました。カールトン・ヘイニーのノースカロライナ州キャンプスプリングスでのフェスでの1971年の彼らの演奏は、『Bluegrass - Country Soul』というドキュメンタリー映画に収められています。その映画で――ブルーグラス音楽初のドキュメンタリー――われわれは若い日本のプレーヤーのエネルギーとスキルを見ることができるだけでなく、1970年代初期ブルーグラスの刺激的な成長と変化を本場アメリカで体験するという彼らの真の喜びを見ることができます。 彼らは、まさにその渦の中にいました。

 合衆国での3週間が経ったころ、ディック・フリーランドはメリーランド州カラウェイでのコンテストの話を聞きつけ、ゲストバンドとして45を出演させることができるかどうか連絡をとってみました。すでにデル マッカリーの出演が決まっていましたが、主催者は出演料として200ドルを提示しました。フリーランドはそれを蹴り、その代わりにメンバーをコンテストに出すことにしたのです。章は、結局バンドメンバーは賞金750ドルを稼ぎ、バンジョーコンテストでの上位3位を独占したことを覚えています。「1971年に(その賞金)は悪くないだろ?」と語ってくれました。

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 廖のもっとも強烈な思い出は音楽的なことではなく、もっと衝撃的なことでした。「バージニア州ベリービルのウォーターメロンパークか、それともノースカロライナ州キャンプスプリングスだったか、ぼくはプロモーターのカールトン・ヘイニーがジミー・マーティンを銃を手に追いかけているのを見ました。ぼくはそのとき、『アメリカにいるんだ!』と痛感しました」。

 日本に戻ってメンバーは米国のブルーグラスシーンで直に経験した喜びを――初めて日本のブルーグラスバンドが成したことを――分かち合わなければと感じました。彼らは日本のブルーグラスをアメリカ人に紹介する手助けをしたように、録音、写真、新しい曲、アドバイス、そしてアメリカのブルーグラスシーンでの思い出などを若い日本人ミュージシャンやファンの人たちに伝えていることに気付きました。 章はブルーグラス伝道(ゴスペル)を始めたことを覚えています。「僕たちはみんなに、車を買ったり借りたり、アパートを借りたりしてこのフェスあのフェスに行こう。テントがいるよ。これが今日のホットなバンドだぜ。ビーンブロッサムに行くとレスター・フラット、ビル・モンロー、ジム&ジェシーに会えるよ。だけどカールトンヘイニーのフェスに行くと、ほら!誰それに会える……といった調子で」。

 米国デビューツアーの後、バンドはバラバラの方向に向かいました。ジョッシュと章は1972年、別のツアーでアメリカに戻り、その間、彼らは自分たちが取り上げられたドキュメンタリー映画

『Bluegrass - Country Soul』の上映前に生演奏をするというシュールな体験をしています。 日本に戻り、ジョッシュと章は別れました。日本でジョッシュは「リーヴズオブグラス」というバンドを組み、章はアメリカに移住してクリフ・ウォルドロンの「ニューシェイズオブグラス」に加入しました。

 バンドのメンバーが別々に活動している間も、日本の国内外でのブルーグラス界への彼らの貢献はつづきました。1973年に廖は日本初のブルーグラス雑誌である「ジューンアップル」の創設者のひとりになりました。その雑誌は多くの若い日本人たちにブルーグラスの文化やブルーグラスフェスを紹介しました。サブは1983年にムーンシャイナーという日本で最長のブルーグラス出版物として今日もつづいている雑誌を発行することにより、その意思を継いでいます。

 兄弟は1971年、レッドクレイレコードを創設しました。「ビーオーエム」というレコード通信販売を通して、今日もサブと敏雄は日本の人たちにブルーグラスの録音を入手可能なものにしています。そして彼らの宝塚フェスは(1972年に始まったが)クリス・シーリが生きているよりも長い間、日本のブルーグラスカレンダーの指針でありつづけています。ジェリー・ダグラスは敬意を評して

「タカラヅカ」という曲を―― “Takarasaka” と表記されるが――書いているし、もっとも最近ではノーム・ピケルニーが2016年に宝塚フェスにゲストとして参加した米国人のスターです。 何年間にも渡ってメンバーは演奏活動をつづけ、たとえ一緒でなくとも楽しく混沌とした解放的な宝塚フェスに集うのです。李は、楽しげに80年代の初めにプログラムのバンド演奏がすべて終わった深夜にステージに上がったことを思い出します。観客が一斉に「プロレス!プロレス!」と叫ぶのです。サブはすぐさま、ステージ上にプロレスのリングを組み、李とフェスのMCを務める谷 五郎がマジにプロレスを始めるのでした。

 ブルーグラス45の話は、ただ単なる日本のブルーグラス音楽の話ではないということを記すことも大切でしょう。とくに章はアメリカで音楽の仕事をつづけています。クリフ・ウォルドロンのシェイズオブグラス以来、彼はワシントンDC近辺で演奏活動をしており、楽器名人たちで有名なグラズマターズや多くのブルーグラス、ニューグラス録音にも携わっています。そして最近ではソロアルバム『First Tear』を発表しています。 1973年、サブはトニー・ライスの最初のアルバム『Got Me a Martin Guitar』(米国では『Guitar』

1971年7月ニュージャージー州のテックス・ローガン邸恒例のピッキンパーティにて、ブルーグラスボーイズの楽器を借りて演奏。ビル・モンローとジミー・マーティンが見ている……

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というタイトル)をプロデュースしました。サブはトニーに申し出た契約金額が少な過ぎることに気が引けて、彼に米国発売の権利を譲ったのです。一方、敏雄はブルーグラス界の著名ミュージシャンを集めて『Memories of John』というジョン・ハートフォードのトリビュートアルバムをプロデュースし、グラミー賞にノミネートされました。そして1995年、サブと敏雄は国際ブルーグラス協会(IBMA)によって、長年のこのジャンルに対する貢献を讃えられ賞を贈られました。またサブは1995年から2000年代はじめまで、IBMAの理事として務めました。

1995年以降の「45」  “45 Since '95” 1995年1月に阪神大震災が神戸を襲いました。その震源地は、神戸から数マイル離れた淡路島という小さな島――わたしが1994年まで住んでいたところのちょうど北――でした。何千人もの人たちが亡くなり、そのほとんどが神戸市で、そして何十万もの家屋が、バンドメンバーの家も含めて被害を受けたり崩壊しました。 章とジョッシュの母親の家、そして神戸の近く宝塚のサブと敏雄の実家も半壊したのでした。敏雄は家を建て直し、今そこに住んでいます。サブはその家から徒歩で数分のところにフィドラーの妻、由利子と住んでいます。地震が起きたとき、廖と李は神戸に住んでいました。李の住まいがかなりの被害を受けたので、彼は家族とともに廖のところに仮住まいしました。「恐ろしい地震ののち、私たちは音楽と友達に助けられたように感じました。その出来事は、とてつもなく大きなことだったんです」と李は思い出しながら語ってくれました。 その地震という悲劇は、日本に地域に根ざした空前のボランティア精神が広くゆき渡っただけでなく、ブルーグラス45のメンバーにとっても、ほ

どなくしてアメリカツアーのために再結成し、ライブアルバムやドキュメンタリービデオも発表するというターニングポイントとなりました。

 昨年、45年目の宝塚フェスでブルーグラス45のメンバーは、彼らの才能、エネルギー、そして純粋なほとばしる喜びを再びステージ上で見せてくれたのでした。500から600人ほどの日本人と一握りの外国人、ホットな若い韓国のバンド、アメリカからのビデオクルー、ノーム・ピケルニーとぼくを含む観客は継続と一新という不思議なブルーグラスのお祝いに招き入れられた感じでした。 ある意味、ここは超現実的な別世界です。つまり、ブルーグラス45のように、また日本の人口動静それ自体のように、日本でビルモンローの音楽に対してたくさんの愛を育んできた痩せっぽちな若い奴ら(そしてまれにギャル)たちは今、自分たち自身がミステリアスに自分が年齢を重ねてきたことに気付きます。 廖は、アメリカ人にとってぼくたちがとても若く見えるのかもしれないと冗談を言います。彼は、若かったメンバーがアメリカでビールを買おうとしたら何度も何度も身分証明書を提示するように言われたと楽しげに思い出を語ってくれました。

「1971年におそらくぼくたちはあなた達アメリカ人に13歳くらいに見られたのだと思う」と。 しかし、ブルーグラスポリスやサブの息子でマンドリン奏者の井上太郎のような若いグループたちのエネルギーにもかかわらず、また大学のブルーグラスクラブの会員数が近年増えていたり、須田ひろしのような若く素晴らしい楽器職人たちの仕事にもかかわらず、日本ブルーグラスの将来が危機に近づいているということを分かっています。フェスのプロモーターやクラブのオーナーは高齢化しています。若い世代のミュージシャンたちは、日本のブルーグラスの構造基盤の中で自分たちの存在を認められるために前に進んで行こう

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とする人は非常に少数です。 日本のブルーグラスの未来について尋ねると、李はキッパリ、「絶望的だね!」と答えました。ブルーグラスで生計を立てているわずかな日本人のひとりとしてサブは同意しましたが、次のように付け加えました。「ときおり、李さんはニヒリストのふりをするねん!」。サブはいかに李が、その国際的な実業家である地位を駆使してプロのミュージシャンになりたがっている多くの向こう見ずな若いブルーグラッサーたちのために経済的なセーフティネットを供給しているかを思い出しながら語ってくれました。敏雄やサブのような例外は別にして、日本ブルーグラスは篤志事業でありつづけ、その存在は資力よりも魂に依存しつづけるのです。

 しかしながらサブにとってそれはいつも、決してお金の問題ではありません。昨年、陽の当たる宝塚の彼の住まいで話をしていたとき、ベトナム戦争中の1960年代にロストシティでアメリカの水兵や兵隊たちのために演奏した思い出を語ってくれました。 彼はわたしに、故郷から遠く離れて、恐ろしく疎外された体験の最中の兵士たちが、サブやその友人たちが聞き慣れたメロディーを歌うのを聞いてどれほど彼らが涙したかを語ってくれました。その時点で、サブは言葉に詰まり、話すことができなくなりました。政治、言語、文化を越えたこの兵士たちとのつながりの記憶が胸にこみ上げてきたのです。それは危険な状態にある怯えた若者たちにもう一つの人間の心を感じる機会を与えた

のでした。

 2017年の今年、ブルーグラス45はアメリカに戻ってきます。バンド結成50周年を祝って、彼らはふたたびブルーグラス音楽とブルーグラスコミュニティへの愛を共有するためにアメリカにやってくるのです。アメリカのドキュメント映画の撮影班を伴って、メンバーたちは懐かしい友人に会ったり、あたらしいアメリカの観客たちに触れたりしながらわたしたちにブルーグラスが、ここ百余年の歴史に大きな汚点を付けた視野の狭い狭量な国粋主義者よりも遥かに大きいものだということをふたたび示してくれるでしょう。 おそらく彼らが例示するものは、日本やアメリカのミュージシャンだけでなくより広い世界に、ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取る喜びに満ちた人類共通の可能性をイメージさせることでしょう。それとも、結局のところ、とてもいいステージを見せてくれるだけかも知れません。 どうであろうと、ブルーグラスの歴史の中の、彼らの地位は、日本でそして世界で、ゆるぎないものです。

●ブルーグラス45https://www.facebook.com/bg45kobe/●『No Depression』誌2016年春号にデニスが寄稿した記事 “Land of the Rising Sound; Exploring bluegrass and authenticity in Japan” がデニスの追悼として無料公開されている。http://nodepression.com/article/land-rising-sound

2016年夏、宝塚フェスにて、左から李 建華、井上三郎、大塚 章、ジョッシュ大塚、渡辺敏雄、廖 学誠

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