おじょか古墳発 世紀の倭 -...

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2018(平成30)年2月 志摩市教育委員会 50

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Page 1: おじょか古墳発 世紀の倭 - Shima...シンポジウムということで「おじょか古墳と5 世紀の倭 わ 」を開催いたします。 今日、このシンポジウムを開催するにあたっ

2018(平成30)年2月

志摩市教育委員会

おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム

「おじょか古墳と5世紀の倭」

記録集

2018(平成30)年2月   志摩市教育委員会

おじょか古墳と

5世紀の倭

おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム

記録集

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おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム

「おじょか古墳と5世紀の倭」記録集

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目   次

開会あいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1

  竹内 千尋(志摩市長)

おじょか古墳と古墳時代の志摩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3

  三好 元樹(志摩市教育委員会事務局 技師)

おじょか古墳の横穴式石室と九州・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11

  重藤 輝行(佐賀大学 教授)

   当日配布資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19

おじょか古墳の副葬品と被葬者像・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29

  橋本 達也(鹿児島大学 教授)

   当日配布資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 37

鉛同位体比分析からみた志摩地域出土青銅製品の原料産地推定・・・・・・・・・・・ 43

  齋藤  努(国立歴史民俗博物館 教授)

パネルディスカッション・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 53

       コーディネーター:土生田 純之(専修大学 教授)

       パネラー:重藤 輝行、橋本 達也、齋藤 努、竹内 千尋、三好 元樹

閉会あいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 65

  筒井 晋介(志摩市教育委員会 教育長)

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例   言

1 本書は、一般財団法人自治総合センターが、宝くじの社会貢献広報事業として、宝く

 じの受託事業収入を財源として実施しているコミュニティ助成事業の活力ある地域づく

 り助成事業の助成を受けて発行した。

2 本書は、2017(平成29)年11月4日に志摩市立図書館アートホールで、宝くじの社会

 貢献広報事業として実施しているコミュニティ助成事業の活力ある地域づくり助成事業

 の助成を受けて行われた、おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム「おじょか古墳と 5

 世紀の倭」の講演とパネルディスカッションの内容をまとめたものである。

3 本書の作成業務は志摩市教育委員会が行った。文章の校正は各発表者が行い、編集は

 三好が行った。

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 皆さん、こんにちは。ただいま、ご紹介にあ

ずかりました志摩市長の竹内千尋です。今日は、

おじょか古墳が発掘されて50周年を記念する

シンポジウムということで「おじょか古墳と5

世紀の倭わ

」を開催いたします。

 今日、このシンポジウムを開催するにあたっ

て、おじょか古墳をもう一度体感しておこうと

いうことで、志島のおじょか古墳に行ってきま

した。墳丘の坂を上がって、おじょか古墳の横

穴が見えたと思ったら、人の足が2本、ポッと

出ていて、これは人が亡くなっているではないかと思って、ちょっとびっくりもしましたが、よく

見ると、作業服でわずかに足が動いていました。今日のシンポジウムに参加をされる方で、シンポ

ジウム開始まで眺めていますということでして、胸をなで下ろしたところです。インディ・ジョー

ンズかなと思ったのですが、それだけ皆さんの関心のあるおじょか古墳なんだなということを、朝、

まさに感じたところです。

 さて、志摩市では、昨年、伊勢志摩サミットが開催されて、新たな歴史を刻みました。このサミッ

トを記念した記念館「サミエール」も近鉄の賢島駅に設置をされて、たいへん人気を博していると

いうことですので、まだ行ってない方がみえましたら、また足をお運びいただければと思います。

 志摩市は全域が伊勢志摩国立公園内にあり、リアス海岸の風光明媚な景色、そして外海の海の幸

なども豊富にあるということで、サミットの首脳の皆さんもうならした豊富な食材も名を知られて

います。「御み け

食つ国くに

」と呼ばれており、万葉集で大おおとものやかもち

伴家持が詠んでいます。今年は、大伴家持の生

誕1300年で、家持が国司として赴任をしていた富山県の高岡市で、万葉集を朗唱するという会が

あり、「御食つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ」という御食つ国

の歌を詠みに行きました。そういった万葉集の御食つ国であるとか、あるいは日本書紀でも伊いせのくに

勢国

は「常とこよ

世の浪の重しきなみ

浪よする国なり傍らの美うま

し国なり」ということで、御つ食国や美し国として、い

にしえの昔からある種、都の人々の憧れの地であったということです。

 そういったことで、おじょか古墳などの史跡もありますが、志摩市には国の重要無形民俗文化財

が3つあります。今年、海女漁の技術が指定されたことで、「磯部の御神田」と「安乗の人形芝居」

の3つになりました。三重県の中で3つの国指定の重要無形民俗文化財があるというのは志摩市だ

けです。

 今回はおじょか古墳について、日本各地からお越しいただいた先生方に教えていただくというこ

とです。私も含めて、地元の皆さんが、おじょか古墳の価値をあまり認識していないのですが、価

値創造をしていくために、やはりこの地元の足もとにあるものを大切にしながら、しっかり保存し

て活用していくということが、我が志摩市のまちづくりにおいても、たいへん重要なことです。今

開会あいさつ竹たけうち

内 千ちひろ

尋(志摩市長)

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日のこのシンポジウムを、そういった1つの重要な機会として、キックオフという意味も含めて取

り組んでまいりたいと思っています。

 今日は、市内外から多くの皆さんにお越しをいただきましたし、コーディネーターをはじめ、講

師の方々に各地からたいへんお忙しい中お越しをいただきました。みなさま方に感謝を申し上げ、

有意義なおじょか古墳のシンポジウムになることを祈念いたしまして、私のみなさまへのあいさつ

といたします。今日は、よろしくお願いいたします。

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 普段は志摩市役所の教育委員会にいて、文化

財のことなどの仕事をしております三好と申し

ます。

 今回、おじょか古墳についてシンポジウムを

開催しようと考えたのは、まず、九州系の石室

を持つ古墳ということで、研究者を中心に全国

的によく知られた古墳ですが、地元の方にもっ

と知ってもらいたいと思ったからです。そして、

おじょか古墳は研究者の間でも完全に評価が定

まっている古墳ではないということもあり、5

世紀当時に「倭わ

」と呼ばれた、今の日本になっていくものが、どういったものであったのかを考え

るヒントにもなる古墳になるだろうと考え、会を催させていただきました。

 自分の発表では、おじょか古墳の簡単な説明と、それに後続する古墳がどのように展開していく

のかということをお話しします。

 まず、志摩の地域性についてですが、これは三重県の全体の地図です(第1図)。伊賀盆地を中

心に伊いがのくに

賀国、伊勢湾に面する平野部に伊いせ の

勢国くに

それとは別に南に志しまのくに

摩国が広がるというような

地域分けになります。志摩の特徴ですが、極め

て平地が少ないといえます。伊勢の二見まで

は伊勢湾に面した平地部が広がっているのです

が、その南となると、平野部が非常に少ない。

志摩国はそういった特徴を持つ地域です。

 おじょか古墳の位置は志摩半島先端の南側

で、ちなみに後の時代の志摩国分寺は4㎞北に

あります。

 古墳時代の志摩について、ざっと見ていきた

いと思います。第2図は志摩国にある古墳の分

布ですが、ほとんどが志摩半島の先端に集中し

ています。さらに、大多数の古墳が海辺にある

という特徴があります。ちなみに点1つが1基

の古墳ではなくて、古墳群として1ヶ所に数十

基あるもありますので、ご注意ください。

 研究者の間では、古墳時代全体を「前期」「中

期」「後期」そして、使う人と使わない人がい

おじょか古墳と古墳時代の志摩三みよし

好 元もとき

樹(志摩市教育委員会事務局 技師)

第1図

第2図

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ますが、「終末期」という4期に区分することがあります。今回の話の中でも、そういった呼称が

出てくると思います。年代的には、前期が3世紀の半ばの卑弥呼がいたくらいの時期から4世紀の

終わりくらいまで、中期が4世紀の終わりくらいから5世紀にかけての時期です。後期がだいたい

6世紀で、終末期が7世紀となります。この後期と終末期の間く

らいに活躍したのが聖徳太子です。終末期というのは、歴史の分

野では飛鳥時代と呼ばれる時代を含んでおります。研究者によっ

て多少ずれはありますが、だいたいこれくらいの年代が与えられ

ると思います。おじょか古墳は中期の古墳で、さらに5世紀の古

墳ということになります。

 第3図は志摩の主な古墳の変遷図です。志島周辺の古墳が左端

に書いてありますが、これは志島と、大王町の畔名の地域のもの

を少し含んでおります。だいたい5世紀の半ばにおじょか古墳が

登場して、その後、継続します。

 鳥羽市の答志島であるとか、南伊勢町の礫さざらうら

浦でも比較的大きな

石室を持つ古墳がありますが、その時期の最大の規模の古墳は、

志島そして畔名の北の端を含む地域に継続して造られるというこ

とが言えます。

 おじょか古墳の概要を説明させていただく

と、50年前に発掘調査されて、最近、金属製

品の保存処理が行われました。5世紀後葉、後

葉というのは5世紀の中でも後のほうという程

度の時期ですが、それくらいに造られた古墳で

す。志島地域の最高所、一番高いところに立地

しています。豪華な副葬品を持つ古墳としては、

志摩地域で最も古い古墳です。

 おじょか古墳の位置は、第2図に投影すると、

この位置になります(第4図)。ちなみに、塚つか

原はら

古墳という古墳があります。これは大王町波

切にある古墳ですが、これについては、齋藤先

生の発表の中でちょっと出てきます。画がもんたい

文帯環かん

状じょうにゅうしんじゅうきょう

乳神獣鏡という鏡が出土していますので、紹

介させていただきます。

 志島地域の古墳ですが、先ほどの志摩の主要

古墳の変遷の図(第3図)と合わせて見ていた

だければと思います(第5図)。まず、おじょ

か古墳が造られて、その後、南の畔名と志島の

志島周辺 答志島 礫浦

志摩地域

おじょか

上村

鳶ヶ巣1

塚穴

?岩屋山

蟹穴

宮山

日和山

400

500

600

700

年代 須恵器

TK216ON46

TK23

TK47

TK208

TK73

MT15

TK10

MT85

TK43

TK209

TK217

第3図

第4図

第5図

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境界のあたりに泊とまり

古墳、鳶と び が す

ヶ巣1号墳という前方後円墳が造られます。その後、上うえむら

村古墳が造られ

て塚つかあな

穴古墳が造られるという築造の順番になります。

 おじょか古墳ですが、こちらが石室です(p.24 資料9)。こういった石室を現地に行くと見るこ

とができます。古墳に葬られた人を「被葬者」と言いますが、被葬者を入れた空間が、奥の部屋に

なっている部分です。

 ざっと出土遺物を見ていきます。出土遺物については、磯部町にある志摩市歴史民俗資料館で展

示していますので、いつでも行っていただければ見ることができます。これは、埴はにせいまくら

製枕という土器

でできた枕です(第10図)。こちらは銅鏡です(第6図)。ちなみに志摩市所蔵の銅製品については、

最後に発表していただく齋藤先生に産地の分析をお願いしておりますので、そちらの発表でも分析

結果として登場してくるものです。方格T字鏡という鏡は、九州に分布の中心がある鏡として知ら

れております。半球形飾金具です(第6図)。腰飾りの可能性もあるし、刀や剣に付いている飾り

とも考えられます。こちらは玉です、勾玉とか細長い管玉、丸玉といった玉も出ています(第6・

7図)。銹さ

びていますが、剣や刀です(第10図)。錫すず

装の鉾ほこ

は鉄の身の根元に錫の板を取り付けて

1

2

3 4

5

0 10㎝(S=1/2)

半球形飾金具

竪櫛

織物状漆膜

第6図

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0 10㎝(S=1/2)

第7図

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40-2

40-141

42 43 44

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5152

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7071

72

73

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77 78

0 20㎝(S=1/4)

252423

55

56

5758

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7071

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77 78

79

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第8図

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10299

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93

92

93

91

92

93

0 20㎝(S=1/4)

短甲

刀子

不明鉄製品

鉤状鉄製品?

第9図

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16-1

20-1

17

19

18

22

21-1

0 20㎝(S=1/8)

0 1km(S=1/25,000)

0 5㎝(S=1/1)

6-1

7

8

9

12

13 14 15

11-1

10

刀 剣

埴製枕

埴輪

須恵器

第10図

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いるものです(第8図)。X線で見ると、錫の板が少し黒く写っていて、そこに鉄の鋲びょう

で錫の板を

留めていることが分かります。あと、鏃やじり

も出ています(第8図)。三さんかくいたびょうどめたんこう

角板鋲留短甲という甲よろい

の破片

も出ています(第9図)。大型の斧(第9図)も出ている、そういった古墳がおじょか古墳です。

 おじょか古墳に後続する古墳について説明します。泊古墳は5世紀終わりから6世紀前半ごろの

古墳で、明治時代に発見されて、出土遺物は東京国立博物館に収蔵されています。前方後円墳で、

明治時代の調査の記録から、石室は竪穴系横口式石室という形のものと推定されています。出土遺

物としては、名古屋市にある志し だ み お お つ か

段味大塚古墳と同じ型の鏡が出ています。馬具に付ける飾りである

杏ぎょうよう

葉も出土しています。

 鳶ヶ巣1号墳は6世紀前半の古墳です。前方後円墳という形の古墳です。これは発掘調査がされ

ていないので、詳しいことは分かっていません。

 続いて、上村古墳ですが、大正時代に大雨で墳丘と石室が半壊しています。その際、掘り出され

た遺物の一部は、東京国立博物館に収蔵されています。石の棺を今でも見ることができます。板石

でできた棺ですが、これは三重県で最大のもので、近くでは関係性が追えないのですが、愛知県西

尾市にとうてい山やま

古墳という古墳があって、横穴式石室の中に石棺があり、類似していると言われ

ています。三河湾と伊勢湾を通した何らかの交流を考えるヒントになる古墳です。上村古墳の遺物

も歴史民俗資料館に展示しています。冠の可能性のある金銅製品や馬の飾りの馬具も出ています。

承しょうばん

盤といわれる、銅でできたお鋺を載せる台も出ています。あと、鈴や金の糸も出土している古墳

です。

 最後に、塚穴古墳ですが、7世紀前半の古墳です。3年前まで発掘調査をしており、年代が7世

紀前半であろうと確定してきました。金属製品の保存処理が現在進行中です。志摩地域では最大規

模の横穴式石室を持っています。円墳で横穴式石室が口を開けています。石室の床面には小さな砂

利状の小石を敷き詰めていました。誰かが亡くなるたびに、入口の石をどけて、人を入れて閉じる

ということを繰り返し、複数の人を埋葬しますので、そういった入口を塞ぐ閉塞石も出てきました。

 出土遺物については、金銅製品や銅鋺、鈴などが出土しています。玉も複数の色のガラスを組み

合わせたトンボ玉というものが一定量出土しました。木棺という木の棺が使われていたと思われ、

頭の部分に銀のキャップを付けた釘が複数出土しました。馬に乗るときの鉄製の鐙あぶみ

などの破片も出

土しています。須恵器も出土しています。

 まとめですが、紹介してきた志島と畔名の古墳の性格といたしまして、5世紀から7世紀に志摩

地域では最大規模の古墳が集中して造られます。志島古墳群の北4㎞には、志摩国分寺があります。

これは古代の宗教の中心です。近くに国こくふ

府、行政の中心もあったと考えられ、そう考えると、古墳

時代から古代に続く志摩の中心地が、この周辺にあったと考えることができます。

 最後に、初めて志摩の地域を視野に入れた古墳としておじょか古墳が造られていますので、古代

の志摩国につながる領域の創出にも関わるものとして、おじょか古墳が評価できるのではないかと

考えております。

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 皆さん、こんにちは。佐賀県の佐賀大学から

来ました重藤と申します。

 おじょか古墳の横穴式石室は、先ほど三好さ

んのお話にもありましたように、九州と関係が

あると考えています。そういうことで私が佐賀

からこの場に呼ばれたと思います。ここでの私

の話の目的としては、日本における横穴式石室

の出現、そして、九州からの横穴式石室の広が

り、その背景にある地域間関係の中に、この志

摩市おじょか古墳を位置づけてみたいと思って

います。

 九州には、北部九州型と肥後型という九州を代表する2つの初期の横穴式石室のタイプがありま

す。その両方の要素を併せ持ち、肥前・筑後に多い初期の横穴式石室である「築肥型」石室との関

連、そして、私が佐賀県から来ましたので、佐賀県とおじょか古墳との関係に注目して論じてみた

いと思います。

 さっそく本題に移ります。おじょか古墳の横穴式石室に対しては、既に何人もの研究者の方が評

価を述べています。このシンポジウムの最後で司会をされます土生田純之先生が、最初に研究に着

手したことになると思います。土生田先生は、横穴式石室の壁の積み方、そこにある突起の存在に

注目して、おじょか古墳と九州北部の有明海沿岸地域との関係を指摘しました。また、中村弘さん

は、先ほど述べた九州北部の北部九州型と熊本を中心とする肥後型の双方の石室型を取り入れた地

域、両方の間にある肥前、筑後のあたりの地域に系譜を求め、有明海沿岸地域との関係を指摘して

います。一方、先に見た築肥型石室を提唱した柳沢一男さん、あるいは日本国内の横穴式石室の展

開と拡散をまとめた太田宏明さんの研究では、おじょか古墳について、やはり先ほど述べた築肥型

が志摩の地に伝わったものと位置づけています。また、最近、宮原佑治さんは、有明海沿岸だけで

はなくて、九州北部の宗像の地域の横穴式石室とも関係があるのではないかという問題を提起して

います。あとで、おじょか古墳と類似した例を見ていきますが、これらの地域、そして、こうした

見解を考慮に入れながら見てみようと思います。

 それでは、そもそも横穴式石室がどのように日本で始まったかをまず押さえておこうと思います。

古墳時代は、三好さんの発表にもありましたように、3世紀後半から6世紀、7世紀の飛鳥時代に

も古墳が造られます。その中で横穴式石室が登場するのは、古墳時代の後半期です。そして、その

横穴式石室も、日本全体で同じ時期に出現、普及したのではなくて、地域差があります。

 日本の中でも最も早く横穴式石室が登場したのが九州の地域です。その九州の初期の横穴式石室

は、北部九州型、肥後型、築肥型に分かれますが、中期初めごろ、4世紀末ごろに、朝鮮半島の国

の1つ、百済から導入されたとされています。福岡市の鋤すきざき

崎古墳は九州で最初に出現した横穴式石

おじょか古墳の横穴式石室と九州重しげふじ

藤 輝てるゆき

行(佐賀大学 教授)

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室の1つです(p.20 資料1)。おじょか古墳でもそうですが、鋤崎古墳も小形の石を小口積みして、

丁寧に積んだ石室となっています。石室の前面には斜めに下りていく竪たてあな

坑状の前庭部があります。

このような小形の石積み、竪坑状の前庭部は、横穴式石室に先行する竪穴式石室の技術、そして埋

葬方法の影響と考えられます。そのような竪穴式石室の技術と埋葬法からの移り変わりを示す、横

穴式石室の出現期の事例ということができます。

 なお、被葬者が埋葬された空間を玄げんしつ

室、横穴石室の前面に付くトンネル状の通路を羨せんどう

道といいま

すが、鋤崎古墳はやや縦長の長方形の玄室で、羨道がなく竪坑状になっています。羨道の未発達、

さらに九州の横穴式石室でみられる釘付きなどの木棺の不使用などが北部九州型の特徴となってい

ます。

 第1図のような石室の図がこの後もしばしば出てきますが、基本的なところを押さえておこうと

思います。右図の左下の図が横穴式石室の平面図です。そして、その右の図が横穴式石室を縦方向

に切った縦断面図と横側の壁を一緒に示した図です。右上の図は断面図と内側から入口側を見た図、

その左は奥の壁を見た図となっています。死者を埋葬する空間を玄室、入口の部分を横よこぐちぶ

口部とか玄げん

門もん

と呼びます。トンネル状の通路を羨道、そして、入口を塞いでいる部分を閉塞部と呼びます。こ

の後もこのような用語を使いながら進めていきます。

 日本で最初に九州で横穴式石室が出現したのは4世紀の後葉ごろと考えられます。簡単に古代史

第 1図

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− 13−

文献史料と結びつけるのは無理がある部分もありますが、少しバックグラウンドを考えてみます

と、369年に有名な七しちしとう

支刀が製作され、百済から倭に贈られたとあります。また、372年、百済と

倭の外交関係が成立したという記事も見られます。4世紀の後半に百済と日本との関係が深くなっ

ていった。そのような時期に、九州の人が百済、あるいは百済に居住していた、それより北の旧楽

浪郡出身の人と接触して、横穴式石室が伝わったのではないかと考えられています。

 こちらは、鋤崎古墳よりもやや新しい5世紀後半の北部九州型の横穴式石室の例です(p.20 資料

2)。長方形の玄室にトンネル状になってない前庭部を設けています。おじょか古墳も玄室の前は

トンネルにはならず、オープンな空間となっているので似ている石室ともいえます。

 九州では、北部九州型と並んで熊本を中心に肥後型という特徴的な初期の横穴式石室がありま

す。この肥後型も、北部九州型と同じように 4世紀の後葉か末ごろに出現するものですが、玄室

の平面形が正方形に近く、次第に羨道が発達していくという特徴が見られ、北部九州型と違いがあ

ります。肥後型では石室の床に板石を立てて、蓋のない石棺のような施設を造るんですが、このよ

うな施設を石せきしょう

障といいます。これは、北部九州型にない肥後型の特徴的な要素です。また、北部九

州型が水平な天井であるのに対して、肥後型はドーム状(穹きゅうりゅう

窿状)の天井になっています。肥後型

の石室も百済に起源があるのではないかという解釈があります。一方で、在地のお墓である地下式

板石積石室墓と関係があるのではないかという説もあります。熊本県の井いでら

寺古墳(p.20 資料4)は、

トンネル状の羨道が発達した例です。石室の天井がドーム状になっている様子が見てとれます。ま

た、文様で飾りつけた石障があります。

 北部九州型、肥後型に続き、両者の中間的な場所にあり、両者の中間的な様相を示す築肥型の初

期横穴式石室を見てみます。築肥型の初期横穴式石室は、北部九州型と肥後型の両方の特徴を併せ

持つ、融合型といえます。筑後南部と肥前に多く、古墳時代中期の5世紀に九州以外の日本各地に

横穴式石室が拡散するときに、鍵となる存在と言われています。

 まず、築肥型の初期横穴式石室の事例を見ていきます。何例か細かく見てみようと思います。久

留米市の藤ふじやまかぶとづか

山甲塚古墳(p.22 資料6-1)は板石の石障があって肥後型の特徴を持っていますが、天井

がドーム状にならずに水平となっています。天井は北部九州型に近く、石障は肥後型で、融合的な

ものなので筑肥型とされます。次に、佐賀市の西隣の小城市の円まるやま

山古墳(p.22 資料6-7)です。円山

古墳では、石室の床面に板石を組み合わせた石障が見られます。石室の完全な形は分かってないの

ですが、石室の平面形態でいうと、正方形というよりは長方形にやや近づいているので、その点で

北部九州型に近いです。石障は肥後型、長方形の玄室は北部九州型で、両方を併せ持つ筑肥型とい

うことができます。次に、佐賀県唐津市の樋ひ

の口くち

古墳(p.22 資料6-8)を見てみますが、床面に石障

を設置しています。天井はややドーム状になりかけていますが、やはり水平です。完全な肥後型で

はありません。これも筑肥型といえます。こちらは、佐賀市の五ごほんくろきまるやま

本黒木丸山古墳(p.22 資料6-2)

ですが、玄室の形は正方形に近く、天井はドーム状になっていますが、石障がありません。石障が

ないという点では、北部九州型なので、両方を併せ持つ筑肥型といえます。これまで筑肥型の例を

見てきましたが、おじょか古墳が有明海沿岸や肥前といった地域と関係があると思われるので取り

上げました。あとでもう少し検討をしてみたいと思います。

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 九州では横穴式石室の出現が4世紀後葉、古墳時代中期の初めでした。古墳時代の文化は、近畿

を中心にだいたい日本各地に及んでいきますが、横穴式石室だけは、九州よりも近畿における出現

が遅れます。近畿の中央部では、古墳時代中期末、5世紀の第四半期くらいに出現したと言われて

います。出現期の事例の1つは大阪府高たかい だ や ま

井田山古墳です。ここでは詳細に検討しませんが、近畿に

おける横穴式石室の出現も、百済との対外関係の中で起こったと考えられています。ただ、近畿の

横穴式石室は、木棺を多用するなど、九州とは埋葬方法が異なると考えられています。この高井田

山古墳は、百済から渡来した技術者集団、渡来人集団の長ちょう

で、なおかつ百済における王族級の人物

と言われています。5世紀の後半ごろ、百済が、ソウルからやや南の、今の公こんじゅ

州にあたる熊ゆうしん

津に遷

都するので、そのころの横穴式石室と関係があるのではないかと考えられています。

 このように九州では、畿内に先駆けて横穴式石室が出現し、それが5世紀のうちに九州から日本

各地にぽつぽつと拡散します。ここからその九州系の初期横穴式石室の広がりを見ていきます。

 ただ、横穴式石室の広がりの前に、舟形石棺という、石をくり抜いて造った石棺の広がりを先に

見てみます(p.21 資料5)。九州系の横穴式石室の拡散にやや先行し、途中からは併行して、熊本

で造られた1tも2tもあろうという舟形石棺が有明海沿岸地域、さらには西日本の各地に輸送さ

れる現象が見られます。石棺を製作した肥後の人が、その輸送とおそらく現地での設置や葬送儀礼

にも関わったと考えられています。

 肥後の人は熊本にだけ住んで、外の世界に出なかったわけではなくて、例えば有名な熊本県の江え

田たふなやま

船山古墳出土の刀の銘文には、その被葬者ないしは周辺の人が、典てんそうじん

曹人としてワカタケル大王に

出仕したというようなことを記録しています。肥後の人が中央に使いに出ることもあったというこ

とです。広域に古墳時代人は移動し、そのような関係で石棺も輸送されたということです。佐賀市

出土の石棺は、熊本の南部、八代のほうから有明海を伝って佐賀まで、たぶん海を使って運ばれて

います。また、岡山県岡山市の造つくりやま

山古墳は、300mを超える近畿以外では最大の前方後円墳ですが、

その前方部に熊本から運ばれた石棺があります。

 このように石棺が広がりますから、九州から横穴式石室が各地に広がるのもおかしくはないと思

います。そうした広がりの際に、九州の石棺や横穴式石室が製品として売られたのではなくて、そ

れを取り入れる側の事情もあったのではないかと思います。例えば、継体天皇のときに反乱を起こ

した筑ちくし

紫の君きみいわい

磐井の2、3世代前の筑後の大首長の墓である福岡県の石せきじんさん

人山古墳の石棺が挙げられ

ます(p.22 資料6-4)。熊本北部で製作されたものですが、舟形石棺を基礎に、棺蓋にきれいな文様

を彫刻し、さらに横穴式石室をまねて横口を作る横口式家型石棺という新たな石棺形態を確立しま

す。そうした新しいお墓の創出は、発注者である筑後の大首長、石人山古墳の被葬者あるいはその

後継者の意図とも考えられます。

 それと同じように横穴式石室の広がりを考えると、九州が先に取り入れたので技術が定着してお

り、それに対して各地から需要があったのですが、それを取り入れる側の意図というのも重視しな

いといけないと思います。そのような九州からの横穴式石室の広がりを、古墳時代中期初頭の4期、

古墳時代中期前半の5期、古墳時代中期中ごろの6期、7期、中期後半から末の8期と分けて示し

たのが、資料7(p.23)の表です。古墳時代中期中ごろ、5世紀中ごろからやや後半にかけてのころ、

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横穴式石室が、九州から中四国、近畿、さらには志摩のおじょか古墳にまで伝わっています。その

ほかに若狭向むかいやま

山古墳や岡山県の千せんぞく

足古墳などがあります。千足古墳、若狭向山古墳、おじょか古墳

は6・7期に伝わっているんですが、その時期の九州を見ると、肥後と筑後、肥前の間で横穴式石

室の技術が伝わったり、石棺が広がったりと複雑な動きを呈しています。九州の中でも複雑な動き

をしていて、その核となったのが、有明海に面した肥後、筑後、肥前の地域です。そういう地域が

発信元となっている可能性が高いと考えています。

 ところで、横穴式石室を造るということを考えてみようと思います。石を準備して積み上げる非

常にたいへんな仕事だったと思います。横穴式石室を造るというときの流れを考えてみると、最初

に当然ながら横穴式石室を造ろうという、横穴式石室の採用の意志決定の段階があり、どういう埋

葬方法にしようか、棺はどうしようか、床面に石障を設けようかということも、初期の段階で決定

されたと思います。その次の段階では、今の建物建築などもだいたい設計を先にしますし、設計図

はたぶんなかったと思いますが、基本的な考え方を基本設計のようなかたちでまとめたと思います。

石室をこういう形にする、あるいは、床面にどういう形の石障を設けるか、棺を準備するか、ある

いは設けないかを決定します。その後、棺の施設を製作したり、壁の石を準備したりして、最後に

準備した石を積み上げて古墳が完成します。その後、埋葬するということになると考えています。

このように横穴式石室の構築は複雑なプロセスで、複雑な横穴式石室の構築のためには、技術が単

に情報として伝わるだけではなく、工人というか、技術者というか、そういう人の移動という、個

人や集団の間の移動による密接な接触が不可欠であると考えられます。

 一方で、横穴式石室の築造には、被葬者の意向や社会的立場も反映されやすいと考えられていま

す。先ほどの石室構築の過程の様々な場面でいろいろな技術者が関わり、あるいは地元にもとから

ある埋葬方法や埋葬施設の構築技法なども関係し、複雑な様相を呈していたと思われます。

 九州で最初に横穴式石室を取り入れた鋤崎古墳(p.20 資料1)では、床面に石棺を設置し、上か

ら埋葬するという考え方は、その地域に存在した旧来の古い考え方によるものです。ただ、横穴式

石室を造るという基本的な設計は、朝鮮半島から渡来してきた人との関わりがなくてはならなかっ

たと思われます。一方、石材を準備して積み上げるには、朝鮮半島の人だけではなくて、地元の石

工さんのような人も関わり一緒になって造ったと考えられます。

 唐津市の樋の口古墳(p.22 資料6-8)は、石材は、石障も含め、佐賀県唐津市の地元のものです。

石障の基本設計には、有明海沿岸地域の技術者が関わった可能性がありますが、地元の技術者も関

与したのではないかと考えられます。石障の前面の板石の部分、ちょうど入口の脇に立つ板石の上

にくり込みを入れています。石障は、オリジナルは肥後ですが、樋の口古墳の場合は、地元の石工

さんたちが石障を造ったと考えられます。

 そのように複雑な人の関わりが考えられ、もっと複雑なのが、岡山市の千足古墳(p.24 資料8)

です。千足古墳は、水平な天井ですが、石障がある筑肥型の横穴式石室で、九州から伝わったもの

です。千足古墳の石障は板石を立てて、その表面に、華麗な直弧文といわれる模様を彫刻していま

す。石障の石材は天草の砂岩と考えられているので、先ほど見た造山古墳の石棺と同様に、肥後か

ら運ばれた石障を岡山市の千足古墳で組み立てたということになります。ですから、石障の準備か

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ら設置には、天草地域の技術者が深く関与し、それは舟形石棺の輸送と共通するような事情だった

と思います。一方、この壁の石材の採集や加工は、在地の技術者の関与なしには不可能と考えられ

ます。ですから、この石室の基本設計とか積み上げ、構築には、地元の人と天草の技術者の双方が

関わったと思われます。ちょっと推測を交えた部分もありますが、横穴式石室から人の動きが見え

てくると考えています。

 ようやく、今まで見たような観点からおじょか古墳(p.24資料9)を見てみます。おじょか古墳は、

先ほど三好さんの話にありましたように、5世紀中ごろと考えています。玄室の平面はやや奥が広

い長方形です。板石が壁の周りに立てられていて、これは肥後型に見られる石障と言えます。ただ、

天井は水平なので、肥後型の要素である石障、北部九州型の要素である水平な天井から、築肥型の

範疇で捉えてよいと思われます。

 そのようなおじょか古墳の横穴式石室に類似する例を見てみます。まず、福岡県福津市の勝かつうらみね

浦峯

ノのは た

畑古墳(p.20 資料2)です。羨道のない前庭部、そして、奥が広い羽子板型の玄室という点では、

おじょか古墳と類似しています。水平な天井やまぐさ石のつけ方も似ていると言えます。福津市は、

宗像市の隣町ですから、宗像の地域とおじょか古墳はよく似ていると言えます。

 一方、築肥型という観点から見てみると、佐賀市の東の佐賀県上峰町の目めたばるおおつか

達原大塚古墳(p.22 資

料6-12)があります。目達原大塚古墳は、羽子板型の玄室に石障状の板石を立てており、おじょか

古墳と類似しています。時期もだいたい5世紀中ごろから後半ということで、合致しています。

 もう1つ、類似している例としてここで注目したいのが、佐賀県伊万里市の夏なつざき

崎古墳(p.25 資料

10)です。伊万里市は唐津市の西隣、長崎県の北とも境を接するような地域です。夏崎古墳は、お

じょか古墳とだいたい同じような時期で、石室の前面に石障状の板石を立てるという点でよく似て

います。もうちょっと似ていることを証明できないかと思って、それぞれの平面図を、等縮尺にし

て重ねてみました(第2図)。おじょか古墳は夏崎古墳よりもやや長い玄室となっていますが、おじょ

か古墳の玄室の奥のほう4分の3くらいの平面形態は、夏崎古墳と

非常に類似しています。

 この夏崎古墳というのは、直径24mの円墳で、冑かぶと

と甲よろい

が出土して

います。場所としては、伊万里湾の最奥部にあたります(p.25 資料

10)。伊万里市は、唐津市の西側、松浦市の東側、ちょっと南に行くと、

日本の磁器の発祥の地である有田があります。夏崎古墳の特徴は、

湾の最奥部ですが非常に海に近いところに位置しているという点で

す。今は、畑に面していますけれども、古墳時代当時は、非常に海

岸に近いところに位置していました。海に近いところに立地するお

じょか古墳と立地も非常に共通性があります。ハの字に広がる前庭

部や水平な天井などおじょか古墳とよく似ています。ただ、まぐさ

石がなくて、直接袖石が天井を受けているという点では違いがあり

ますが、石室の平面形態の類似性というのは、注目できるのではな

いかと思っています。夏崎古墳でも石障状の板石が石室の周囲にあ第2図

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りますが、これは石障ではなくて、壁から独立しておらず、その上の石材を受けているんですけれ

ども、石障の名残と言うことができます。

 このような宗像や肥前の例、目達原大塚古墳や夏崎古墳と類似していると思っているわけです。

 おじょか古墳の被葬者像については、先ほど発表された三好さんは別の文献で、外交的な役割を

担った人物で、九州の横穴式石室という埋葬方法を知ることができ、それによって九州系の横穴式

石室を採用したと述べています。

 最後に、古墳時代には、近畿に大王がおり各地に首長と呼ばれる有力者がいたという関係があり

ます(p.26 資料11・12)。その1人がおじょか古墳や佐賀の目達原大塚古墳、夏崎古墳の被葬者と

いうことになると思います。そして、おじょか古墳の横穴式石室の築造には、佐賀を中心とした地

域の筑肥型の石室の技術者が関わったと考えています。近畿を経由せずに直接関係したと思います。

ですから、おじょか古墳の埋葬、古墳構築には、近畿の人も関わったと思うのですが、九州の人も

深く関与したと思います。

 古墳時代の人は、石棺の輸送や横穴式石室の広がりに見られるように、我々の想像を超えるよう

な、かなりダイナミックな動きをしていたのではないかと思います。ここでは述べられませんでし

たが、その動きは日本にとどまらず、朝鮮半島や東アジアにまで及んでいたと思っています。その

ような人の動きは、海が大きな媒体となったと言うことができます。おじょか古墳は、志摩にあっ

て九州とのつながりを示す横穴式石室という点でも私は注目していますが、その一方で、古墳時代、

この 5世紀という時代の海を通じた人々のダイナミックな動きを直接証拠づける事例とも評価す

ることができます。海を通じた古墳時代の動きを今に伝えるおじょか古墳が、この志摩市で今後、

シンボルとして皆さんに愛されるようになってくれると同時に、九州と志摩市との関係がおじょか

古墳の再評価をきっかけに深まればと思っています。

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1.はじめにここでの目的 横穴式石室の出現、九州系の横穴式石室の広がり、その背景にある地域間関係の中におじょか古墳を位置づける。 特に、「北部九州型」と「肥後型」という九州を代表する二つの初期横穴式石室群の両方の要素をあわせもち、肥前・築後に多い初期横穴式石室「筑肥型」石室との関連、佐賀地域との関連に注目して、論じてみる。

先行研究 土生田純之氏は石室壁体の「突起」の存在に注目し、おじょか古墳と九州北部有明海沿岸地域との関係を指摘する(土生田 1980)。中村弘氏(中村 1992)は「北部九州型」と「肥後型」の双方の石室型を取り入れた地域に系譜を求め、有明海沿岸地域との関係を示唆する(中村 1992)。「筑肥型」石室を提唱した柳沢一男氏(柳沢 1993)、横穴式石室の展開と拡散をまとめた太田宏明氏はおじょか古墳についても「筑肥型」の伝播と位置付けている(太田 2016)。宮原佑治氏は「宗像型」石室としている(宮原 2017)。

2.九州における初期横穴式石室とその出現北部九州型初期横穴式石室 古墳時代中期までの事例を初期とする。古墳時代中期初頭に出現し、百済から導入されたと解釈されている。 最古期の例である鋤崎古墳では、割石の小口積、後円部墳頂からの出入りための竪坑状の前庭部、という竪穴式石室の技術、葬法からの影響が見られる。鋤崎古墳の長方形玄室、羨道の未発達、木棺の不使用(石棺、あるいは棺を用いず埋葬)は、「北部九州型」の基本的な特徴。

肥後型初期横穴式石室 古墳時代中期初頭に出現。 方形の玄室平面形、羨道の発達(古墳時代中期の中での)、石障の設置は肥後型に特徴的な要素。玄室の形態は百済に由来するという解釈がある一方で、横穴式石室に先行する肥後南部の在地的墓制である地下式板石積石室墓の構築技術、埋葬方法の影響を指摘する説(高木 1994)あり。

筑肥型初期横穴式石室 北部九州型と肥後型の両方の特徴をあわせ持つ融合型。筑後南部、肥前に多いが、古墳時代中期における九州系横穴式石室の拡散において鍵となる存在とされる(柳沢1993)。

畿内における出現 古墳時代中期末、須恵器編年で言えば TK23 〜 TK47 型式頃に出現。 ここでは詳細に検討はしないが、熊津期の百済との対外交渉で出現。木棺を使用し、後の家形石棺につながる。九州とは埋葬方法が異なり、他界観の違いを示すとされる(和田 2014 など)。

20171104 おじょか古墳発掘 50 年記念シンポジウム おじょか古墳と5世紀の倭

 「おじょか古墳の横穴式石室と九州」               

                                    重藤輝行(佐賀大学)

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資料4 熊本県嘉島町井寺古墳横穴式石室(高木編 1984)(1/80)

資料1 福岡市鋤崎古墳横穴式石室(杉山編 2002)(1/100)

資料3 熊本県八代市大鼠蔵尾張宮古墳横穴式石室(高木編 1984)(1/80)

資料2 福岡県福津市勝浦峯ノ畑古墳横穴式

石室(橋口編 1989)

(1/100)

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3.九州系の初期横穴式石室の広がり舟形石棺等の石棺輸送 九州系横穴式石室の拡散に先行、並行して肥後の舟形石棺が有明海沿岸、さらには西日本に輸送される。 石棺製作者が輸送、現地での設置、さらには葬送儀礼に関わったと考えられる。 熊本県江田船山出土鉄刀銘は、有明海沿岸の首長層が典曹人として中央に出仕したことを記述。 石人山古墳横口式家形石棺の場合、舟形石棺の製作技術を基礎に、肥後北部・菊池川流域で製作したと考えられる。棺蓋の精緻な直弧文、横口式家形石棺という新たな墓制の創出は、発注者、被葬者あるいはその後継首長の意図も考えられる。

九州系横穴式石室の拡散 岡山県千足古墳、福井県若狭向山古墳、三重県志摩市おじょか古墳など九州外への広がりだけでなく、九州内、有明海沿岸地域での広がりと「肥前型」の創出も一連の動きと考えられる。

横穴式石室の構築過程と拡散の実態 

横穴式石室構築の過程 1)埋葬方法の決定(横穴式石室の採用、棺・床面の施設の決定 )、2a)棺・床面の施設の基本設計、2b)石室構造の基本設計、3a)棺・床面の施設の製作、3b)壁体石材の採取・加工、4a)棺・床面の施設の設置、4b)石室壁体の積み上げ、5)埋葬拡散の実態 太田宏明氏は、横穴式石室構築技術の伝播には、工人の移動あるいは情報を伝達するための個人間あるいは集団間の直接的で密接な接触が不可欠であるが、その一方で、特定個人や特定個人を中心とする集団のために築造され、形態の決定に被葬者の意向や社会的立場が反映されやすい、とする(太田 2016、120)。

資料5 5世紀から6世紀前半の石棺の輸送と情報の伝達(石橋 2013)

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1.久留米市藤山甲塚古墳

2.佐賀市五本黒木丸山古墳

3.唐津市双水柴山2号墳

4.広川町石人山古墳

5.久留米市木塚古墳

6.上峰町古稲荷塚古墳

7.小城市円山古墳

8.唐津市樋の口古墳 9.唐津市柏崎外園古墳

10.久留米市浦山古墳

11.佐賀市西隈古墳

12.上峰町市目達原大塚古墳

13.上峰町船石2号墳

5m

0m

資料6 筑後・肥前の初期横穴式石室(重藤 2010 より改変転載、図出典は同文献参照)(1/100)

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資料7 古墳時代中期の九州を中心とした埋葬施設の地域間関係

朝鮮半島

肥後 筑後 肥前 筑前 豊前 豊後 日向 大隅 中四国・近畿

谷口・長持

向野田・舟石

熊本山・舟石

沖出・割竹

谷口前方部・舟石

老司

山下・舟石

鋤崎・箱石・組木

横田下・箱石・屍床

黄金山・石障

小鼠蔵1号・石障

大 蔵 蔵 尾張宮・石障

藤山甲塚・石障

五本黒木丸山

石神山・舟石

臼塚・舟石

若狭・向山1号

別当塚・屍床

◯石人山・横家

城2号

◯鴨籠・舟石◯長砂連・石障

石櫃山・横家 小城円山

・石障

御所山・石障

月岡・長持

◯西隈・横家

◯浦山・横家

江田船山・横家

竈門寺原1号・横家

樋の口・石障

●井寺・石障

●伝佐山・石障

勝浦峯ノ畑目達原大

塚・屍床

猫迫

セスドノ

夏崎

久保泉丸山3号・舟石

●塚坊主・石屋

◯日輪寺・石障

勝浦井ノ浦前方部 河内・長持

山・家石河内・唐櫃山・舟石

備前・築山・家石紀伊・大谷・家石

●国越・石屋

番塚・釘木棺物見櫓

大城大塚・石障

関行丸・屍床造山

●日岡

島田塚・舟石

淵上・石屋

稲荷塚前方部

箕田丸山

鶴見

●王塚・石屋形・石棚

●大坊・石屋

新徳・釘木棺

長鼓峯

志摩・おじょか・屍床

北肥後舟

形石棺

南肥後

舟形石棺

南肥後

舟形石棺

中肥後

舟形石棺

阿蘇ピンク

家形石棺

摂津・今城塚

(稲荷山)

下山・長持

松浦砂岩

唐仁大塚・舟石

葬法・石室構築技法

葬法

南肥後

舟形石棺

山城・八幡茶臼山・舟石

直弧文 直弧文・石材・石室構築技法 ◯備中・千足・石障

石屋形石材・石棚石材・装飾

石室構築技法

石室構築技法

木棺

達西古墳群

石室構築技法

石室構築技法

石室構築技法

石室構築技法

石製表飾

南肥後

舟形石棺

ヤンボシ塚

(百済)

(加耶)

葬法・石室構築技法

(讃岐)

石室構築技法

(南部)(中部) (北部) (有明海沿岸) (玄海灘沿岸)

目尾石棺・舟石

3期

4期

5期

6期

7期

8期

9期

石室構築技法

石製表飾

石製表飾

;竪穴式石室 ;玄室長方形横穴式石室 ;玄室方形横穴式石室

古墳名太字は横穴系埋葬施設、細字は竪穴系埋葬施設  ◯;線刻・浮彫装飾古墳  ●;彩色装飾古墳割竹;割竹形石棺 箱石;箱式石棺 組木;組合式木棺 舟石;舟形石棺 長持;長持形石棺横家;横口式家形石棺 家石;家形石棺 石屋;石屋形

;複室横穴式石室

肥後型石室羨道の形成

北肥後舟

形石棺 石製

表飾

複室化

達西古墳群

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 様々な場面で他地域からの技術者などの関与、在来の埋葬施設の構築技法の影響が考えられる。◯ 福岡市鋤崎古墳 2a・3a・4a)床面の施設と5)埋葬方法は旧来のもの、2b)玄室部の構造の基本設計は朝鮮半島からの渡来人、3b)石材の採取と4b)壁体の積み上げは在地の伝統的技術者と朝鮮半島からの渡来人の関与が推測される。◯ 佐賀県唐津市樋の口古墳 石障も含め同地域の石材とされ、玄室は穹窿状の天井ではないので「筑肥型」と言える。2a)石障の基本設計は有明海沿岸地域の技術者と在地の石棺等の技術者が関与。2b・3a・3b・4a・4b)石室の基本設計〜構築、石障の製作と設置は在地の石棺構築・石室構築の技術者が主体と推測される。◯ 岡山市千足古墳 吉備の地域では最古級の横穴式石室で、石障と水平天井から「筑肥型」とされる。石障は熊本県天草地域から輸送したものであり、壁体の石材は在地のもの。2a・3a・4a)石障の準備から設置には天草地域の技術者が深く関与したことが明らかで、舟形石棺の輸送(隣接する造山古墳前方部にもあり)と共通。3b)壁体石材の採取・加工は在地の技術者の関与なしには不可能であるが、2b・4b)石室の基本設計、壁体の積み上げには天草地域あるいは玄室構造の類似する「肥前型」の技術者の関与も想定される。

4.おじょか古墳の横穴式石室おじょか古墳の時期 副葬品から陶邑須恵器編年ON46 〜 TK208 型式期(三好 2017)、前方後円墳集成編年7期と考えられる。

おじょか古墳の石室の類例

◯ 福岡県福津市新原・奴山1号墳、同勝浦峯ノ畑古墳; 水平な天井、羨道がなく前庭部が広がるという石室構造が類似(宮原 2017)。いずれも TK208 型式期、前方後円墳編年7期。◯ 佐賀県上峰町目達原大塚古墳; 水平な天井、広がる前庭部という石室構造のみならず、奥

資料8 岡山市千足古墳横穴式石室(西田編 2015 より)(1/100)

資料9 おじょか古墳横穴式石室(宮原 2017より)(1/100)

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壁・側壁基底部の石障状の板石も一致(宮原 2017)。TK208 〜 TK23 型式期、前方後円墳集成編年7〜8期と推測される。◯ 佐賀県伊万里市夏崎古墳; 古城史雄氏がおじょか古墳との類似性を指摘(古城 2006)。水平な天井、玄門側の石障状の板石の存在も一致。小札鋲留眉庇付冑 1、鋲留短甲 1等を出土した直径 24m前後の円墳で、TK216 〜 TK208 型式期、前方後円墳集成編年7期。ただし前庭部は複室構造につながる区画が存在すると推測される。

おじょか古墳石室の被葬者像

 三好元樹氏は、副葬品に見られる目新しさへの指向性が横穴式石室の導入に対しても発揮されたと考え、被葬者が在地の人物であっても良く、外交的役割を担った人物で、九州の葬送に関する情報を知り、九州系の横穴式石室を採用した、と述べる(三好 2017)。

おじょか古墳の石室構築と関係する人々の動き 1)横穴石室の採用の決定; 在地の首長あるいはその後継者。2a)床面の施設の基本設計、2b)石室構造の基本設計; 石障状の床面施設、玄室プランの存在から、「筑肥型」石室の技術者が深く関与。 ただし、「筑肥型」石室の技術者の中に朝鮮半島出身者が含まれた可能性、肥前に滞在し、「筑肥型」石室構築を習得した技術者が含まれた可能性も排除しない。3b)壁体石材の採取・加工; 在地の技術者が主体。3a)床面の施設の製作、4a)床面の施設の設置、4b)石室壁体の積み上げ; 在地の技術者も関与したが、「筑肥型」石室の技術者も指導的役割を果たしたと推測される。 ただし、「筑肥型」石室の技術者の中に朝鮮半島出身者が含まれた可能性、肥前に滞在し、「筑肥型」石室構築を習得した技術者が含まれた可能性も排除しない。5)埋葬; 在地首長の後継者とその周辺の人々を主体としつつ、広域に活躍した首長の死にふ

資料 10 夏崎古墳の位置と横穴式石室(石室図は九州前方後円墳研究会 1999 より、原典は柴元 1972)(石室平面は 1/100)

73

74

7576

77

78

79

80 81

8283

84

85

86

87

88

89

松浦川

玉島川

有田川

73.経塚山 74.谷口 75.小山田 76.横田下 77.久里双水 78.双水柴山2号 79.中原 ST1203280.双水柴山3号 81.双水柴山1号82.樋ノ口 83.島田塚 84.中原 ST11158 85.竹の下2号 86.竹の下1号 87.杢路寺 88.夏崎 89.小島

〈12〉

〈13〉〈14〉

〈15〉

10km0

唐津湾

伊万里湾

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さわしい畿内や九州北部など他地域の人々も関与した葬送儀礼であったと想像される。 なお、墳丘構築、埴輪製作などに、石室以外の他の古墳構築の工程に、在地の技術者、「筑肥型」石室の技術者以外の人物が関わった可能性がないかは別に検討されるべき問題。

5.横穴式石室の広がりにみる古墳時代の地域間関係とおじょか古墳首長間の関係 魚津知克氏は、「海の古墳」の様相から近畿中央部政権に一元的に収斂しない地域権力のあり方が見通せるとする(魚津 2017)。おじょか古墳、類似する横穴式石室をもつ佐賀県伊万里市夏崎古墳は、いずれも「海の古墳」の様相が色濃い。 また、鈴木一有氏は、東海地方における横穴式石室の導入期の事例、三重県おじょか古墳、愛知県経ヶ峰 1 号墳、愛知県中ノ郷古墳の横穴式石室はいずれも北部九州系であるが、3古墳の石室の形態等の共通性は低く、それぞれの被葬者固有の交渉・ 交流によって、横穴式石室が導入されたとする(鈴木 2017)。おじょか古墳における「筑肥型」石室の技術者の関与の在り方は、志摩と肥前の直接的、個別的な関係を示唆する。

資料 12 古墳時代中期の九州北部における埋葬施設の地域・階層間関係のモデル(重藤 2016)

資料 11 中期古墳の秩序と石棺(和田 1998)

奉仕・労働

埋葬施設・葬送儀礼

副葬品・葬送儀礼

埋葬施設の構築技術・労働

埴輪・葬送儀礼

古墳群

首長墓

朝鮮半島

盟主墳

埋葬施設・副葬品

古墳群

首長墓

朝鮮半島

盟主墳

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肥前の海を介した地域間関係 『日本書紀』宣化天皇二年(537)には、新羅により任那(加耶)が攻撃されたので、大伴狭手彦(大伴金村の子)が任那に渡海して戦いを鎮圧するとともに、百済を救援したと記録される。『肥前国風土記』、『万葉集』山上憶良の歌には、狭手彦は朝鮮半島への渡海を待つ唐津の地での弟

お と ひ ひ め こ

日姫子(松ま つ う ら さ よ ひ め

浦佐用姫)と恋仲になったが、任那へ渡海することになり、弟日姫子は狭手彦との別れを悲しんだという逸話が伝えらている。  万葉集 874(山上憶良)  海

うなはら

原の沖行く船を帰れとか領ひ れ

布振らしけむ松浦佐用姫

 古墳時代の肥前は、大伴狭手彦のような中央豪族、軍隊の統率者だけでなく、朝鮮半島に渡海する様々な地域の人々が行き交う海路の結節点であった。また、その肥前には弥生時代以来、海上交通に長けた人びとも多かった。 おじょか古墳の被葬者、後継首長とその周辺の人びとはそのような海上交通路を通じた肥前との繋がりで、朝鮮半島の墓制である横穴式石室、その中でも「肥前型」石室を採用したと考えられる。

引用文献 石橋宏 2013『古墳時代石棺秩序の復元的研究』六一書房 魚津知克 2017「「海の古墳」研究の意義、限界、展望」『史林』第 100 巻第1号、178 − 211 頁 太田 宏明 2016『横穴式石室と古墳時代社会―遺構分析の方法と実践』雄山閣 九州前方後円墳研究会 1999『九州における横穴式石室の導入と展開』第2回九州前方後円墳研究会 重藤輝行 2010「筑後・肥前の首長墓系譜」『九州における首長墓系譜の再検討』第 13 回九州前方後円墳研究会発表資料集 49 − 82 頁 重藤輝行 2016「古墳の埋葬施設の階層性と地域間関係−古墳時代中期の九州北部を例として−」『考古学は科学か―田中良之先生追悼論文集』中国書店 659 − 678 頁 柴元静夫 1971「夏崎古墳発掘調査概報」『新郷土』第 266 号 杉山富雄編 2002『鋤崎古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書第 730 集 鈴木一有 2017「東海地方における横穴系埋葬施設の多様性」『日本考古学協会 2017 年度宮崎大会研究発表資料集』日本考古学協会 2017 年度宮崎大会実行委員会、183 − 194 頁 高木恭二 1994「石障系横穴式石室の成立と変遷」『宮嶋クリエイト』第6号 宮嶋利治学術財団、110 − 132頁 高木正文編 1984『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書第 68 集 中村弘 1992「おじょか古墳の検討」『紀伊半島の文化史的研究』考古学編 関西大学文学部考古学研究第 6 冊 西田和宏編 2015『千足古墳』岡山市教育委員会 橋口達也編 1989『新原・奴山古墳群』津屋崎町文化財調査報告書第 6 集 土生田純之 1980「突起をもつ横穴式石室の系譜」『考古学雑誌』第 66 巻第3号 古城史雄 2009「肥後の横穴式石室」杉井健編『九州系横穴式石室の伝播と拡散』中国書店 21 − 45 宮原佑治 2017「おじょか古墳の横穴式石室の起源に関する一試論」『海の古墳を考える』Ⅵ 学術研究集会「海の古墳を考えるⅥ」実行委員会・海の古墳を考える会 12 − 29 三好元樹 2017「おじょか古墳の出土遺物とその評価」『海の古墳を考える』Ⅵ 学術研究集会「海の古墳を考えるⅥ」実行委員会・海の古墳を考える会 30 − 40 柳沢一男 1993「横穴式石室の導入と系譜」『季刊考古学』第 45 号 28 − 32 和田晴吾 1998「古墳時代は国家段階か」都出比呂志・田中琢編『古代史の論点』4 権力と国家と戦争 小学館 141-166 和田晴吾 2014『古墳時代の葬制と他界観』吉川弘文館

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 ご紹介いただきました橋本です。鹿児島から

やってまいりました。志摩までたどり着くのは

なかなかたいへんですが、昨日、講演が無事に

済むように出てきまして、伊勢神宮を参拝して、

今日やってきました。

 おじょか古墳については、九州との関わりと

いうこともあって、私にも話をいただいたんだ

と思います。副葬品は、その場にある石室と違っ

て、多様な動きをします。いろいろな人の動き

やそこに込められた人の思惑などを読み解いて

いくのが、副葬品研究のおもしろいところでもあり、難しいところでもあります。

 おじょか古墳が造られた時代のことを改めて簡単に確認させていただきます。古墳時代は、前・

中・後期・終末期というふうに区分されますが、終末期は、飛鳥時代と同じ時代のことで、古墳の

側の要素をとった呼び方です。おじょか古墳が造られたのは、考古学的な分類でいうと古墳時代中

期という時代です。実際、それはいつごろなのかといいますと、西暦300年代の後半、4世紀後半

ごろから5世紀の末ごろまでを中期と呼ぶわけですが、その中でもだいたい真ん中ごろです。時期

については、人によって20〜30年くらいの差があります。私は、おじょか古墳は450年より少し

前の時代、5世紀の前葉から中葉にかけての時期、中期中葉という時代のものであると考えていま

す。なぜそういうことが分かるか疑問を持たれることも多いと思いますが、これは石室の形や副葬

品の形、技術などの変化の方向性を追いかけて、それが実年代でどこにあたるのかということを検

証していく中で明らかになります。モノには何年に作ったとかは書いていませんから。副葬品の組

み合わせなどで議論するので、研究者によって年代観に差が生まれるのです。

 おおむね、モノの組み合わせから考えると、おじょか古墳の年代は、5世紀半ばより少し前の時

期だろうと私自身は考えています。大前提として少し頭に入れていただきたいのですが、この時代

は、今、世界遺産の取組をやっている大阪の古ふるいち

市・百も ず

舌鳥古墳群で、日本の中でも一番大きな前方

後円墳を集中的に造っている時代です。大だいおう

王と呼ばれるような一番偉い人が埋葬されているのが古

市・百舌鳥古墳群です。まず、これが1つです。

 それから、この時代は、重藤さんの話にもありましたが、非常に活発な交流をしていた時代です。

中国の文献史料「宋そうしょわこくでん

書倭国伝」の中に、倭の五王という人が出てきます。倭人の王が中国に遣いを

送ってきたというものです。中国の南朝の宋という王朝に遣いを送っているんです。南朝の都は今

の南京で、当時は建けんこう

康といいましたが、都にまで遣いを送っています。それくらい人は活発に動き

ます。朝鮮半島の百済や加耶や新羅でも非常に盛んに倭の人たちが活動します。今みたいに国境が

あってパスポートを持って行くわけではないですから、船に乗って行きたい人は行って、現地に定

着する人もいれば、向こうからやってくる人もいるというような時代、非常に活発な交流の時代で

おじょか古墳の副葬品と被葬者像橋はしもと

本 達たつや

也(鹿児島大学 教授)

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す。そういう中で、日本史の教科書のことを思い出していただければと思うんですが、倭の五王や

高句麗の広開土王碑などに倭人の活動が少し書かれていたりするという時代です。高句麗や百済、

新羅、加耶では、いろんな人間関係が入り乱れて戦争をやっており、百済は高句麗に一時、都を落

とされたりした時代で、反対に日本列島には多くの渡来人たちがやってきました。河内の古市古墳

群の近くや大和をはじめ、日本各地にやってきました。

 今日の話は副葬品についてですが、古墳時代中期はお墓に副葬品をたくさん入れることが重視さ

れる時代です。特に古市・百舌鳥古墳群という大阪の巨大古墳群の周辺では、武器、武具を中心と

する鉄製品を多量に古墳の中に入れます。鏃やじり

を何千個も入れたり、刀を何百も入れたりするものが

中にはあります。甲冑の甲よろい

に関しても、1人1領ではなくて、最多では大阪府の黒くろひめやま

姫山古墳で24

領を1つの古墳の中に副葬する事例があります。特に武器、武具を中心に大量の副葬品を入れるこ

とが重視されていて、そういうもので身分を表したり、そういうものを配ったり、受け取ったりす

る中で政治的な関係が結ばれたりする時代です。武器、武具を作って、配って、それを副葬すると

いうような過程の中に、いろいろな時代の特徴が現れます。これを前提として少し頭に入れていた

だければと思います。

 おじょか古墳でもたくさんの副葬品が出ています。先ほど発表された志摩市の三好さんが、

2016年に志摩市の教育委員会からおじょか古墳の出土遺物に関する報告書を出されていますけれ

ども、図1(p.39)はそれを概ねまとめたものです。左上に400、左下に500と書いてあるのが年代

です。TK73、TK216などと書かれていますが、これは大阪の陶すえむら

邑というところにある須恵器の窯

の番号で、これで年代の時間幅を決める1つの区分としています。73の窯から出た須恵器と 216

の窯から出た須恵器は、この順番に前後があるということで時期区分をしていますが、古墳時代の

5世紀代ごろの時間幅の時期区分にちょうど都合がいいということで使っている方法です。ですの

で、記号自体にあまり意味はありません。おじょか古墳の副葬品の年代観は、400年ごろから 450

年ごろまでに区分される時間幅の中で、TK216と TK208という時間幅のあたりに、いろいろな資

料が重なります。同じような段階にある古墳とかはこういうことを比較することで考えていきます。

 私は5世紀の前半代のこういった段階の中でも、先ほど発表された重藤さんや三好さんよりも少

し古く考えていて、TK216という段階を中心とする資料だと考えています。ちょっとそれより新

しいものを含んでいるかも知れないという微妙なところの議論はあります。図1(p.39)は三好さん

が書かれている文章を図にしたものですが、三

好さんは、ほとんどそれ以上つけ加えることが

ないくらい、いろんな分析やいろんな方からの

意見をもとに書かれていますので、おおむね妥

当なことが志摩市の教育委員会のほうから出さ

れている報告書に書かれています。

 副葬品の中で特に大事なのは、一番何かよく

分からないこの壊れた破片です(第1図)。見

た目では何だこりゃというようなぐしゃぐしゃ第 1図

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なものが今日のお話の中で一番大事なものです。写真だけ見せると、よく犬のフンですか?みたい

なことを言われたりするんですが、鉄製の甲よろい

の破片です。図2(p.39)のような甲の破片です。特に

おじょか古墳のものは、破片でちょっと分かりにくいですが、おそらく冑かぶと

や肩の部分はなくて、短

甲という胴の部分だけの破片だと考えられます。

 先ほども前提として申し上げましたが、古墳時代中期というのは全国的に、甲などの武器、武具

が副葬品として一番大事なものです。特に古市・百舌鳥古墳群の中の重要な古墳では、甲が一番中

心的な副葬品で、この時代を象徴するものです。

 ものすごく細かいことなので、皆さんにとってはほとんどどうでもいい話を今からします。この

短甲は、三角形の板を胴の部分に使っていて、それを鋲びょう

で留めているので三さんかくいたびょうどめたんこう

角板鋲留短甲という名

前です。鉄板の縁のところが直接体に当たると痛いので、革で縁取りをします。この革での縁取り

の仕方は何種類かあります。この縁取りの仕方に革かわづつみふくりん

包覆輪という技術があります。三角板鋲留短甲

で革包覆輪をするというのは、非常に珍しいです。

 その類例が、宮崎県の下しもきたかた

北方5号地下式横穴墓です。地下式横穴墓は九州の独特のお墓ですが、

おそらく同じ TK216 型式段階を中心としています。この墓の副葬品は九州のトップクラスのもの

で、朝鮮半島の渡来系の遺物などを持っています。もう1つは藤井寺市の珠しゅきんづか

金塚古墳の北郭で、古

市古墳群のど真ん中にある古墳です。誉こんだごびょうやま

田御廟山古墳(応おうじんりょう

神陵古墳)の北側にある古墳群の主要な

古墳の1つです。ひょっとしたら類例を私が調べ切れていないだけで、もう少しあるかもしれない

ので、ちょっと不安な気持ちを抱えながらしゃべっています。ただ、非常に特徴的な資料で、九州

や近畿の中央との関わりを示す資料になる可能性が高いものです。

 図5(p.40)は古墳時代の武器、武具の大まかな変遷の図です。一番上に前期という、3世紀から

4世紀の半ばごろまでの図、その次に中期前葉、その下に中期中葉があります。おじょか古墳はだ

いたい中期中葉の後半にあたります。

 古墳時代の甲冑は、後期までずっとあって、古墳の副葬品としては主要なものの1つですが、特

に中期中葉のところを見ると、バリエーションが増えるのが分かると思います。これは、より甲冑

に対する重要性が増し、いろいろな技術を投入して、新しいものをいっぱい作ろうとする時代背景

を表しています。全体として中期の資料が多いのは分かると思いますが、これは古市・百舌鳥古墳

群の動向と連動するものです。古市・百舌鳥古墳群との関係の中で、全国的に共通のものが作られ

て配付されるようなものであるわけです。特に中期という時代に、たくさんバリエーションが生ま

れる背景としては、こういう政治的な結びつきが社会的に非常に重要視されるということが大きい

わけです。

 図4(p.40)は、甲冑がどれくらいの数出ているのかを棒で表しています。日本全国で出ていて、

朝鮮半島でも出ています。一番南は、私が発掘調査した古墳も入っているのですが、鹿児島の大隅

半島の古墳です。一番北の端は、今のところ、福島県です。まず1つ、大事な要素は、日本列島全

体に古墳時代中期に甲冑が分布するということです。もう1つは、その中心が圧倒的に大阪、ある

いはその周辺部にあるということです。全国的な展開をしていて、なおかつ、中心があるというこ

とです。それと、もう1つは、大阪で出ているものと宮崎で出ているものとは、それほど変わらな

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いことです。私が言った細かい、皆さんにとってどうでもいい要素は、本当は遠くから見たら分か

らないくらいのものでしかないわけです。要は遠くから見たら、同じような形をしているというこ

とです。同形のものを共有している、みんなで同じような形のものを持っているということです。

これは非常に重要な要素です。それが、同じ技術で作られていて地域性がありません。鹿児島で出

ても福島で出ても、同じ一連の技術で作られています。地域で作ったものはないと考えています。

1点だけ、滋賀にへんてこなやつがありますが、それは今日は内緒にしておきます。基本的には一

元生産、一元配布で、その中心は古市・百舌鳥古墳群にあり、全国に分布をします。これは古市・

百舌鳥を中心とした近畿中央の政権との関係を表すという意味で、政治的な関係を表す器物という

性格を持っています。そういうものがおじょか古墳の、わけの分からない茶色いかたまりなんです。

小さな破片で、ぱっと見ただけでは何か分からないものが、おじょか古墳が近畿の中央の政権とつ

ながっていて、そういう流れの中で活動しているということを示しています。それが甲から言える

ことだと思います。

 あとは簡単にいきます。鏡ですが、おじょか古墳では、方格T字文鏡と珠文鏡の2種類が出てい

ます(p.5 第6図)。方格T字文鏡は3世紀代の中国鏡です。卑弥呼などの邪馬台国の人たちが遣い

を送った中国の魏、晋という王朝の鏡です。これが5世紀の古墳から出てきていますから、これは

伝世鏡といってヤマトの宝物として伝世したものです。珠文鏡は5世紀の鏡で、この時期に新しく

作られるタイプの鏡です。それが組み合わさっていますので、おそらく、ともに近畿の中央から配

られたものだと思います。伝世鏡は、一般的には在地で伝世するという説が有力ですが、必ずしも

そうではない事例が、私が理解している中でいくつかありますし、最近、6世紀代の鏡はそうでは

ないものが出土しているというような研究もありますので、おそらく 5世紀代に、ヤマトの重要

な宝として伝世していたものと、その時代の新しいものが組み合わさって、近畿の中央から配られ

たと考えたほうがいいと思います。

 それから、鏃やじり

は細長いのが特徴で、この前の段階ではもっと短くてずんぐりした鏃なんですが、

この長い首の長ちょうけいぞく

頸鏃というタイプの鏃が出てくる最初の時期のものです。これは鏃ですから矢の

先っぽです。本当はこれに矢柄や矢羽根が付くんですが、それは腐食して残りませんから、先っぽ

の金属の部分だけが出てきます。これは年代を考えるうえでの重要資料です。図7(p.41)は鈴木

一かず

有なお

さんという人が作った図です。左端に450とか500という数字が小さく書かれているのが年代

です。私が網を掛けたところに TK216とON46と書かれていますが、だいたい、その時期にあたる

という代物です。ですので、これはおじょか古墳の年代を考えるうえで非常に重要な資料で、これ

が何年ごろなのかというのは、議論が分かれるんですが、この鈴木さんも私もだいたい450年より

ちょっと前の段階という理解をしています。

 それから、刀剣です(p.9 第10 図)。刀と剣については、当時の人たちが何と呼んでいたか分か

りませんが、考古学の研究上、刃が片刃のものを大た ち

刀、両刃のものを剣と呼び分けています。おじょ

か古墳は、1つの古墳の出土量としては非常に多くて重要ですが、その中でも私が注目しているの

は、先ほど三好さんが刀の飾りか腰飾りかというようなことをおっしゃった半球形飾金具です(p.5

第6図)。腰飾りというのも可能性がなくはないと思うのですが、私は大刀の飾りだと考えていま

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す。今まで、そういう説はあまりなかったのですが、今回考えたら、これは刀だなと思い至ったの

で、今日初めて発表しています。今回をきっかけに思いついたので、これについて、小ネタで論文

でも書こうかなと思っている矢先です。奈良県の石せっこうざん

光山46号墳と韓国の新しんとく

徳古墳の大刀は円形の

金具を柄のところに付けているのが分かっています(p.42 図11)。福岡の稲いなどう

童21号墳の三み わ だ ま

輪玉と稲

童8号墳の半円形の金具はそれぞれ大刀の飾りであることが分かっています。ちょうどおじょか古

墳と同じ TK216 という型式の段階の時期に、こういう新型の武器が出てきます。甲冑でも装飾性

が高まり、いろいろなタイプが出てくるのとたぶん連動していて、大刀などにも新しいタイプの装

飾性のあるものが出てくるということです。三輪玉は後の時代につながっていって、藤ふ じ の き

ノ木古墳な

どの有名なものがあるので注目されてきましたが、どうも三輪玉だけではなくて、あとに続かない

円形のタイプがあり、たぶんその最初の形が、この半円形の金具だろうと考えています。これは新

しい大刀の飾かざりかなぐ

金具が出てくる時期の特徴です。

 先ほど三好さんのほうからも紹介がありましたが、刃のところは鉄で、根元のところに錫すず

の装飾

がある鉾ほこ

があります(p.7 第8図)。錫は白っぽい、銀色っぽい色をした金属です。特徴的で、日本

の普通の鉾ではこういうものを見かけないです。非常に類例が少ないですが、錫や錆びてなければ

ほとんど同じ色に見える銀で装飾した鉾がいくつかあります(p.41 図8・9・10)。朝鮮半島の大

加耶の系譜を持つ鉾だと考えていいと思います。こういう鉾は TK216 くらいの時期のものが一番

古いので、やはり新しいタイプの武器、武具を持っているということです。そういう新しい情報を

入手して、珍しいものを持っているのがおじょか古墳の特徴です。

 それから、鉄斧ですが、肩が張っていて、合わせ目に隙間がないものがあります。これが技術的

には少し難しくて、昔から特徴的だと注目されています。近畿中央でも、技術的なレベルの高い工

人が作っているだろうとされている代物です。

 近畿の中央のものを含めて、加耶のものなどいろいろ組み合わせて持っていて、かなり新型の先

進的な武器などを持っているということです。

 今までのところをまとめていくと、古墳時代中期中葉の時代、古市・百舌鳥古墳群が造られた倭

の五王の時代には、非常に広域の交流が盛んな中でいろいろなものが動いています。渡来人たちが

いろいろな技術をもたらす中で、技術向上して、新しい金工技術などが生じる時期です。そういう

新しい技術が現れる時期に、武器、武具が装飾化し、大刀や鉾にも新型のものが出てくるんですが、

そういうものがおじょか古墳の中に含まれているということです。副葬品の個別の事例については、

だいたいそのような状況です。

 次に、初期の横穴式石室に特徴的な副葬品を、表1(p.39)に簡単にまとめています。おじょか

古墳が持っている甲、鏡、装飾の半円形の金具、装飾のある鉾を特に重視してこの表は作っていま

す。これらを見ると、先ほど重藤さんから話があった初期の横穴式石室は共通性が高くて、似たよ

うな副葬品を持っている事例が多いです。特に甲冑は近畿中央との関係を軸としつつ、九州の横穴

式石室とも共通性が高いので、石室だけではなくて、モノの動きに見られる人の交流のあり方など

からも関係は近いと考えられます。金を付けたり、変わった形をした装飾性の高い甲冑も横穴式石

室の古墳の中にはよく入っています。

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 組み合わせから見ると、福岡県の豊前の行橋市にある稲童21号墳とは副葬品の保有している内

容が特に近いです。埋葬されている人物同士に何か共通の背景があると考えたほうがいいと思いま

す。

 以上の古墳の分布は図6(p.41)のとおりです。九州の北のほうの海岸地域、そして豊前の瀬戸内

の突き当たりのど真ん中の行橋、先ほど重藤さんの話にもありました岡山県の千せんぞく

足古墳があります。

大阪では、重藤さんは高たかい だ や ま

井田山古墳が古いとおっしゃっていましたが、古市古墳群の中にある藤ふじの

森もり

古墳や、あるいは百舌鳥古墳群にある、実態が分からない塔とうづか

塚古墳がおそらくおじょか古墳の時

期に近いと思います。それから、和歌山の陵みささぎやま

山古墳。こうした古墳がおそらく連動していて、かな

り近い関係を持っているらしく、おそらく埋葬されている人物間にネットワークがそれぞれあると

考えていいと思います。

 これも細かいのですが、板の切り方や重ね方、段の作り方などいろいろな形の板の作り方をする

装飾性の高い甲冑は珍しい事例です。ノーマルな甲冑は同型のものがたくさんあるのですが、この

珍しいものには本来は7段構成のものを9段、5段にしたり、あるいは板を菱形や矢羽形にしたり

したものが含まれているんです。こういうちょっと変わったものが、初期の横穴式石室に含まれて

いる比率が高いです。それから、金を使ったような装飾性の高い冑かぶと

とも関係が近いですが、これも

珍しいです。珍しいものが入る頻度が高いということです。

 特に稲童21号墳と8号墳がおじょか古墳との関係が最も近いだろうと考えています。稲童では、

例えば、金製の飾りが付いた冑などが出ています。残念ながらおじょか古墳ではこんな冑は出てい

ませんが、おそらくこういう人たちと仲間で、同じような活動や政治的な背景を持っています。稲

童21号墳は、先ほど重藤さんが話されたものとは全く違うタイプですが、初期の横穴系の石室です。

それに先ほど話しました方格T字文鏡、それから三輪玉を持っています。鉾は錫ではなくて、根元

の同じ場所に鹿角製の装飾を持っています。同じような時期の鉄てつぞく

鏃、そして先ほど言いましたいか

り型で、合わせ目がピッタリした有肩鉄斧、こういうものが共通しています。しかも、覆輪の形は

違いますが、三角板鋲留短甲、これも類例が少ないですが共通しています。

 稲童古墳群は、稲童浜という砂浜ですが、海に面して平野がないところに古墳を造っています。

ちょっとおじょか古墳とはあり方が違いますが、海を見た古墳という意味では共通性があります。

ここは瀬戸内の突き当たりのいろんなものが吹きだまっているところで、古墳時代前期から終末期

まで九州では屈指の古墳が造られる場所です。瀬戸内の交流により甲冑の出土も多く、あるいは朝

鮮半島系の遺物なども非常に多く、渡来人たちの痕跡も非常に多い地域です。稲童などと関係して

いると考えれば、おじょか古墳に埋葬されている人もこういうところに行って何かの活動をしてい

るかもしれないのです。

 関連して、先ほどの金色に光る甲冑や変わった形の鉄板を使う甲の分布は、瀬戸内の東側や九州

の北岸の地域に多いです。石室について先ほど重藤さんが取り上げられました伊万里市の夏なつざき

崎古墳

も変わった形の鉄板を使った甲冑として代表的なものです。それから、今、報告書の整理作業中で

すが、佐世保に鬼おにづか

塚という古墳があります。まだ図面などは公開されていないですが、おそらく石

室のタイプが夏崎と同じだと私は思っていて、ということは、おじょか古墳とも共通性が高いと思

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います。この佐世保の鬼塚も、時期的には鬼塚のほうが少し古いかなという気はしますが、やはり

同じくらいの大きさの鏡や甲冑を持っていて、石室のタイプとしては同じようなものですので、関

係性を持っているということになります。

 この人たちの広がりはさらにその先がありまして、朝鮮半島の西南部の地域に、最近、注目され

ている倭系古墳と呼ばれる古墳があります。島や半島の先に位置していて、地形はリアス海岸で、

志摩のあたりと同じような環境です。平地がないようなところにポコポコと倭系古墳といわれる古

墳があります。野やまく

幕古墳はそのうちの代表的な古墳で、鉾などに加えて、日本列島の古墳で出土す

るような甲冑や鏡を持っています。朝鮮半島のものとは違う、むしろ倭の古墳との近い関係を示す

古墳が西南海岸にあります。

 最近、賞をもらっていましたが、高田貫太さんが『海の向こうから見た倭国』という本を書かれ

ました。この中で、倭系の古墳とはどういうものかの指標を出されています。「海を望む丘陵頂」、「多

島海の小島」、「独立的に存在」、どこかで聞いたことある指標じゃないですか。「中小の古墳」、ほ

とんどが中小の円墳です。どこかにあるぞっていうものですね。埋葬施設には、「北部九州系の竪

穴式石室や箱式石棺」、要は九州系の埋葬施設です。甲冑や武器、鏡などを持っています。海上交

通を主とした、活発な交流ネットワークの中で、倭や百済、栄えいざんこう

山江流域の境界で活動する、境界性

や複属性を備えた人物が被葬者であると考えられています。倭系集団と在地集団の雑居がこういう

ものを生み出していると言われています。

 かたや、同じような時期の倭の中には、渡来人と関係があるだろうという古墳がちょこちょこあ

ります。特に瀬戸内東部の播磨のあたり、あるいは岡山付近に、渡来系の竪穴式石室や渡来系遺物

を出す古墳がわりと多いです。渡来系遺物に関しては、東日本にまで運ばれています。古墳時代は

古い昔ですが、人の動きがわりと自由で、多元的にいろいろ人たちが行き来していて、そういうい

ろいろな要素がお互い関連しあい、いろいろなものが重なり合うような関係がありました。そうい

う意味で、おじょか古墳は三重という倭国内にはありますが、古墳の要素は朝鮮半島の倭系古墳と

基本的には共通しています。リアス海岸のところにあって、小さな中小の円墳で、甲冑を持ってい

るなど、同じような内容です。

 倭系古墳は、朝鮮半島の中でも倭の王権との関係はもちろんあると思いますが、北部九州系の埋

葬施設を持っていることから、北部九州と関わりが深いと言われています。おそらくその拠点とな

るのが豊前、先ほどの行橋の地域ともう1つは宗像です。この時期から新たに拠点になるのは宗像

だと思います。甲冑を含む武器、武具を中心に副葬品に入れることから、近畿の中央の政権と関係

があると思います。かつ、北部九州系の要素も組み合わせたうえで、朝鮮半島にこういう古墳が表

れています。

 おじょか古墳については、甲冑などを中心とする武装具や鏡は、古市や百舌鳥が中心になる近畿

中央政権との関係を表していると考えていいと思います。倭の五王の時代の倭の五王と関連する資

料です。横穴式石室は北部九州の工人の関与を表しています。鉾は大加耶の系統のものです。それ

らを合わせて見てみると、倭系古墳とも共通する背景を持っている古墳と考えられると思います。

要は、倭系古墳と同じで、朝鮮半島から人が来たとかではなく、広範で非常に多様なネットワーク

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に結びつく人物が被葬者であると言えます。従来、特に石室が注目されて、九州との関係が強調さ

れてきましたが、九州人が単に九州から移住して古墳を造ったということではなくて、むしろ、被

葬者は近畿の中央政権と関わり、倭系古墳と同様の背景を持った広域交流の活動をして、その中で

おじょか古墳の被葬者が朝鮮半島にも渡っていた可能性も考えてもいいと思います。最終的にここ

に古墳を造る背景としては、単に北部九州の人がやってきたということではなくて、倭の中央政権

の意思も受けつつということです。三好さんが書かれた論文の中で、在地の人でもいいんではない

かと言うんですが、十分その可能性もあると思います。ただ、私は1つに絞るというのは現状では

ちょっと難しいと思います。単なる北部九州人ということではなくて、九州とも関係を持った非常

に多元的に動く人ということです。朝鮮半島の人たちも、在地人の可能性もあれば、倭人の可能性

もあり、多元的にいろんなところで活動し得る人です。おじょかの人は、そういう中で北部九州で

も拠点的な活動をした可能性はあると思います。どこで生まれたかとか、どこの出身だったかとい

うのはあまり考えても答えが出ないような、多元的な動きをする時代ということで、私は被葬者像

をそのようなイメージで捉えています。

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1.おじょか古墳出土品の時期と評価 志摩市教育委員会の報告書(2016)における評価でおおむね検討が尽くされている(図1)。  志摩市教育委員会(三好元樹編) 2016『おじょか古墳(志島 11 号墳)発掘調査報告』 短甲:三角板鋲留板甲  古墳時代中期中葉(5 世紀前葉)の近畿中央政権下生産、中央政権との政治関係による配布品。 鉄鏃:長頸鏃(腸抉柳葉・圭頭・ナデ関柳葉・直角関柳葉)  基本的には甲冑などと同時に配布される。長頸鏃出現期の資料。 鉄鉾:基部に錫製装飾  装飾鉄鉾として出現期。朝鮮半島、とくに大加耶系遺物であろう。  半球形飾金具:金銅製  これまで位置付けられていないが、刀剣装具(福岡県稲童 8 号墳・岐阜県冬頭山崎 2 号墳で刀  剣に伴う)。同時期に表れる三輪玉と同様に柄部の勾金につけるもの。  後期前葉(6 世紀前半)まで存続。 銅鏡:方格 T 字鏡:伝世鏡、珠文鏡:中期新式鏡。  ともに近畿中央政権の配布品とみてよい。伝世鏡はこれまで在地で伝世するとの見解が有力で    あったが、近年は必ずしもそうはいえない事例が確認されている。    刀剣:刀 14・剣4(報告でヤリとするもの一つは鹿角装短剣)・ヤリ1 刀子:鹿角装  刀子は両関式を中期中葉(TK208 型式段階・5 世紀中葉)とみて、他の副葬品より新しく位置  付けるが、そうとはいえない。 鉄斧:袋状鉄斧 5、うち有肩鉄斧 1:有肩鉄斧は近畿中央で製作か。 鎌:曲刃鎌 2 その他:不明鉄製品・鉤状鉄製品、枕

 古墳時代中期中葉(TK216 型式段階・5 世紀前葉~中葉)を中心とする時期の副葬品。  大阪府古市・百舌鳥古墳群に巨大前方後円墳が築かれた倭の五王の時代。 広域交流の時代:渡来人・技術など鉄加工技術の技術向上、金工技術の導入期  鋲留技法出現期:甲冑  武装具の装飾化:甲冑、大刀、鉾 (馬具や装身具など出現)

2.初期横穴式石室と特徴的な副葬品 おじょか古墳に近い、初期横穴式石室をもつ中・小型の甲冑副葬古墳の存在。 近畿中央政権を軸としつつ、九州との近しい関係(表 1)。   熊本県小坂大塚古墳、長崎県佐世保鬼塚、佐賀県夏崎古墳、同県西分円山古墳、同県汐井川  Ⅱ -2 号墳、福岡県稲童 21 号墳、大阪府藤の森古墳、和歌山県陵山古墳、愛知県経ヶ峰 1 号墳 装飾性の高い甲冑との親近性  金銅装甲冑:西分円山古墳・眉庇付冑、稲童 21 号墳・眉庇付冑、陵山古墳・冑 ?  変形板甲冑:夏崎古墳、西分円山古墳

おじょか古墳の副葬品と被葬者像

橋本達也      鹿児島大学総合研究博物館

おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム 「おじょか古墳と5世紀の倭」2017 年 11 月 4日  於:志摩市立図書館

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 副葬品の組合せからみると、とくに稲童古墳群、21 号墳・8 号墳との関係に注目!  稲童 21 号墳がもっとも近い:甲冑、鏡、三輪玉・半球形装具、装飾鉄鉾、有肩鉄斧  豊前:古墳時代前期~終末期まで一貫して九州でもっとも先進的な古墳築造地域の主要古墳。  瀬戸内交通の要(瀬戸内西端)、海岸に面して古墳群築造。  朝鮮半島交渉の一大拠点。渡来人の痕跡も多い。 そのほか注目される関連資料  金銅装甲冑:三重県佐久米大塚山、奈良県五條猫塚古墳、同県掖上鑵子塚、和歌山県陵山、大        阪府西小山古墳、兵庫県小野王塚古墳 etc.(近畿南部の交流ルート)  変形板甲冑:近畿の主要古墳+九州の中小古墳(福岡県永浦 4 号墳、宮崎県上之坊 1 号墳、        熊本県上生上ノ原 4 号)  韓国全羅南道新徳 1号墳:装飾大刀・鉾の共通

3.倭系古墳・渡来系古墳と北部九州を起点とする中期中葉古墳の展開 中期中葉(TK73 ~ 216 型式段階:5 世紀前葉) 倭系古墳  朝鮮半島南部海岸域:新安ペノルリ古墳・野幕古墳・雁洞古墳・外島古墳 etc. 倭系古墳とは?(髙田貫太 2017『海の向こうから見た倭国』講談社現代新書)  1)立地:海を望む丘陵頂、多島海の小島、独立存在。  2)墳丘:中小円墳、葺石ある場合有り  3)埋葬施設:北部九州系竪穴式石室・箱式石棺など  4)副葬品:倭系甲冑、倭系武器、竪櫛、勾玉、銅鏡。  ・海上交通、活発な交易ネットワーク、倭・百済・栄山江流域の境界で活動する境界性・複属   性を備えた人物が被葬者。倭系集団と在地集団の雑居。 渡来系古墳  渡来系竪穴式石室:加耶地域の埋葬施設。瀬戸内(播磨・岡山・香川)に顕著な分布。  渡来系遺物:装飾大刀・装身具(垂飾付耳飾)・馬具・土器などが確認しやすいが、多くの舶載品・       渡来系技術。    北部九州を起点とする頻繁な広域交流  おじょか古墳は倭国内にあるが、古墳の様相は朝鮮半島の倭系古墳と共通。  倭系古墳は、倭王権=近畿中央政権がダイレクトではない。北部九州が拠点(とくに豊前)。  4.おじょか古墳の被葬者像 ・甲冑を中心とする武装具や鏡は、大阪府古市・百舌鳥古墳群を中心とする近畿中央政権との緊  密な関係を表す―倭の五王の時代。 ・横穴式石室は九州の石室工人の関与。北部九州との強い関係。  ・鉾は大加耶。朝鮮半島倭系古墳と共通する背景。 ・おじょか古墳の被葬者は、広範で多様なネットワークに結びつく人物。   従来とくに石室が注目され、九州との関係が強調されることが多いが、単純に北部九州人だ   けが関わっているわけではない。単なる九州からの移住者ではない。 ・おじょか古墳の被葬者は、近畿中央政権と関わり、朝鮮半島の倭系古墳と同様の背景を持つ、  広域交流で活発に活動した人物。

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TK73

TK216

TK208

TK23

TK47

短甲 鉄鏃 鉾 半球形飾金具 刀子 埴輪須恵器玉

400

500

450

図 1 おじょか古墳出土遺物の編年的位置(報告書による)

短甲

肩甲

頸甲

眉庇付冑衝角付冑

図 2 古墳時代中期の甲冑模式図 図 3 稲童 21号墳出土の方格T字鏡と有肩鉄斧 

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三角板革綴短甲長方板革綴短甲

横矧板革綴短甲

小札甲

鳥舌鏃

短頸鏃

長頸鏃

前期

中期前葉(

革綴技法)

中期中葉(鋲留技法出現期)

中期後葉

後期

鉄鏃

小札革綴冑

方形板革綴短甲

竪矧板革綴短甲

三角板革綴衝角付冑

竪矧細板鋲留衝角付冑

竪矧細板鋲留眉庇付冑

小札鋲留衝角付冑

小札鋲留眉庇付冑

銅鏃

竪矧板冑(縦長板冑)

竪矧広板鋲留衝角付冑

横矧板鋲留衝角付冑横矧板鋲留衝角付冑

箱形装飾靫

木盾

箱形靫

奴凧形靫

胡簶

盛矢具・弓 盾 刀剣類甲冑

三角板鋲留短甲

横矧板鋲留短甲

有機質製甲

木甲

革甲

ヤリ

蛇行剣

革盾

1 5 10

伊那谷

えびの国富

新沢

添上

百舌鳥

黒姫山

古市

城陽

桜塚

京都

宗像

菊池

筑後

宇陀

五條

西都

延岡日向

遠賀

筑前

丹波丹後山城

播磨

但馬

和泉

摂津

河内

磐余高市

生駒葛城

釜山

金海

ペノルリ

外島1号雁洞野幕 竹林里Ⅱ-10号

長木

図 4 古墳時代中期の甲冑分布

図 5 古墳時代中期の武装具変遷

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図 7 古墳時代中期の鉄鏃編年(鈴木 2014)

図 8 銀装・鈴装鉄鉾

図 9 稲童 21号墳鹿角装鉄鉾

図 10 韓国新徳古墳銀装鉄鉾

メインルートサブルート

佐世保鬼塚

夏崎

汐井川Ⅱ-2 号

小坂大塚

西分円山

稲童 21 号・8号

千足

藤の森

陵山

おじょか古墳

図 6 古墳時代前中期の交流ルートと本発表関連古墳

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奈良県石光山 46号墳

岐阜県冬頭山﨑 2号墳

稲童 21号墳三輪玉と装着の鹿角装大刀

稲童 8号墳金銅製半球形装具

京都府坊主山 1号墳三輪玉装着大刀

図 11 金銅製半球形装具と関連資料

韓国新徳古墳

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 よろしくお願いいたします。先ほどご紹介が

ありました『海の向こうから見た倭国』を書い

た高田貫太はうちの博物館の教員ですので、ぜ

ひ本を買っていただければと思います。

 改めまして、国立歴史民俗博物館の齋藤と申

します。

 私だけ、毛色の違う講演で、自然科学分析の

話をしたいと思います。普通、化学分析という

と、青銅器の中に銅が何%入っているなどとい

うものですが、それともちょっと違いまして、

非常に特別な分析の方法をとりますので、前振りでいろいろとご説明させていただきます。

 まず、歴史資料を化学分析するときの基本的な考え方ですが、以前は、とにかく遺跡から出てき

たものを分析して数字を出せばいいという考えの人が多かったのですが、最近は、あくまでも歴史

学や考古学の発展に寄与するものでなくてはいけないと変わってきています。それから、できるだ

け形を損なわない非破壊的な方法が優先されるということで、X線などを使う方法がよく使われま

す。ただ、分析のやり方によっては、どうしても試料を取らなければならない場合がありますので、

そういうときには、できるだけ微少量にして、原形を損ねないようにします。

 ただ、分析対象として我々の立場から見たときに、歴史資料はいくつか特性があります。まず、

形状とか大きさが様々であるということ。くぼんだところの内側から分析したり、壁画や大きな仏

像などの普通の分析はできないものもあります。それから、昔に作られたものですので、成分の

組成や組織が不均一なことが多いです。例えば、四角い穴の開いた銅銭がありますが、上と下を

測って同じ組成のときもありますが、中には特に鉛などの成分組成が不均一で、上で測ったら鉛が

10%なのに、下で測ったら20%ということなども時々あります。だから、どこから資料を取って、

どのくらい不均一かということは、常に頭に入れておかなくてはいけません。それから、土に埋まっ

ているものを取り出しますので、劣化していたり、表面が錆になっていたりしている場合がありま

す。今日お話する青銅器の場合、金属の部分の銅の含有量は80%なのに、錆の部分は20%しか残っ

てないということもあります。銅は水に溶け出しやすいので流れてしまっているんです。そういう

こともあり、分析機器というのは通常、試料を切ったり磨いたりすることを前提に作られているん

ですが、それでは対応できない場合があるので、大型の試料室を使ったり、現地に持ち運べる装置

を開発したりすることが、最近、行われています。

 私たちの分野は「文化財科学」というんですが、文化財科学の手法では、自然科学だけでやるの

ではなくて、考古学や文献史学の考え方も取り入れて、いろんな視点からの研究を融合させるよう

になりました(第1図)。

 前近代に行われた金属の成形の仕方は大きく分けて 2つあります。1つは、青銅器でよくとら

鉛同位体比分析からみた志摩地域出土青銅製品の原料産地推定 齋

さいとう

藤 努つとむ

(国立歴史民俗博物館 教授)

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れている、完全に金属を溶かして鋳いがた

型に流し込んで作る鋳ちゅうぞう

造という方法。もう1つは、鍛たんぞう

造という、

日本刀などがこういうかたちをとりますが、温度を上げて変形しやすくして、叩いて形を作ってい

くというやり方です。鋳造は金属を液体にする必要があります。鍛造はそこまで温度を上げる必要

がなくて、固体のままでいいわけです。

 青銅は銅に混ぜ物をしているのですが、混ぜ物をしない純粋な銅の場合は、溶ける温度は1,085℃

くらいです。ただ、普通はるつぼの中に入れて熱を加えますが、るつぼの中の温度を1,085℃にす

れば溶けるかというとそうはいかなくて、必ず熱は逃げますので、周りの温度はそれよりもだいた

い200℃くらい上げる必要があります。そうすると、1,300℃くらいにはしないといけないわけで

す。これは、前近代でもけして達成できないものではありませんが、頑張らないとなかなか難しい

です。それから、湯流れという、溶けたときの金属の流動性があまりよくないので、模様が細かい

ものを鋳い こ

込むのが難しい場合があります。また、純銅の色を見たことがあると思いますが、電気の

通る銅線や10円玉の色が近く、地味な茶色をしていますので、必ずしもきらびやかな感じではあ

りません。そのほか、銅線を曲げたり、叩いたりすると、簡単に傷がついたり曲げられますので、

柔らかく武器などには向いていません。

 やっと青銅の話になります。なぜわざわざ純銅ではなく、それに混ぜ物をするかというと、純銅

にも耐蝕性があり、屋根板や地中に埋めるパイプなどに使われているのですが、錫を加えて青銅に

すると、更に耐蝕性が増えることが知られています。もう1つは、合金にすることで色を変えるこ

とができます。だいたい錫すず

を10%から25%くらい入れると、赤銅色から金色に近い淡黄色になり

ます。もっと入れると銀白色になります。それから、合金にすることで性質を変えることができて、

まず、流動性がよくなるので、細かいところも鋳込むことができるようになります。また、融点が

下がり、低い温度で溶けるようになるので、それほど頑張らなくても溶かすことができます。また、

錫が入ると、非常に固くなりますので、武器などにも使えるようになります。

 ただ、銅錫合金を作るときの問題が1つあり、錫は採掘できる量が限られていましたので、鉛を

加えて水増しすることがよく行われました。し

たがって、日本や中国、朝鮮半島を含む東アジ

アでは、ほとんどの場合、青銅製品の中には鉛

が入っています。

 その鉛を調べるという話をするんですが、「鉛

同位体比法」という単語はおそらく聞いたこと

がないと思います。これは青銅器の中の鉛の含

有量を調べるのではなくて、鉛の特徴を調べる

方法です。特徴とは何かというと、ここからが

難しいんですが、「同位体」というものがあり

ます。鉛は身の回りにいろいろなものがありま

す。釣りをされる方だったら、錘おもり

は鉛でできて

いますし、ちょっと前まではんだ付けのはんだ第 1図

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は鉛が入っていました。それらを原子のレベルで見ると、重さが違う4つの原子が混ざっています。

それが同位体です。それらは化学的な性質は同じで重さだけが違います。その混ざり合い方が、鉱

山や地域で違うという性質を利用します。

 ある先生から、何のことかぜんぜん分からんと言われたことがありましたので、分かりやすく例

えてみます。たくさんの豆粒があると思ってください。それらは同じように料理に使えます。スー

プを作ってもいいですし、サラダにしてもけっこうです。ただ、色だけが違います。それらが混ざ

り合っているのと同じだと考えてください。その混ざり合っている割合が、畑とか土地によって違っ

ているとすると、どの色がどのくらい混ざり合っているかということを調べれば、どの畑、どの土

地で収穫された豆かが分かる、そういうことと同じです。性質が同じで重さだけ違う原子があり、

混ざり合う割合が鉱山や地域によって違うのと同じように、性質が同じで色だけ違う豆があり、色

の違う豆の混合比率は畑や地域で違うということです。畑によって黒い豆が多かったり、茶色いの

が多かったり、白いのが多かったりということと同じです(第2図)。

 鉛同位体比分析の流れは、まず、青銅器から錆を取ります。先ほど、錆だと成分が変わると言い

ましたが、同位体の場合には、化学的な性質が全く同じなので、金属から錆になるときでも、同じ

ように動きます。ですから、金属ではなくて、錆でも大丈夫なわけです。錆にはほかのものがいろ

いろ入っていますので、鉛だけをうまく取り出して同位体比を調べます。このように何がどんな割

第2図

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合で入っているかを見ます。豆で例えると、豆料理があり、豆粒を取りだして混ざっている量の比

率を調べたら、どんな割合かが分かったということです(第3図)。

 では、この分析で何が分かるかというと、まず、いろいろな資料の間の関連性が分かります。い

ろいろな資料があったときに、同位体比を調べて同じ比率ならば、同じ産地の原料を使っているこ

とが分かります。違う料理でも、豆の色が同じ比率で入っていれば、同じ産地の豆を使っているこ

とが分かるわけです。もう1つ、原料の採れた産地が分かります。つまり、資料の同位体比と、デー

タベースを作っておいたいろいろな産地の同位体比を比較して、一致すればここが産地だというの

が分かります。例えば、豆料理で分かった比率といろんな畑の比率を比較して、ここの豆が使われ

ているんだなというのが分かるということです。ただ、こちらは、実はちょっと難しいところがあっ

て、現在、採掘している鉱山のデータと比較していいかどうかということがあります。鉱山によっ

ては、ほんの一時期だけ採掘されて、小規模だったので、あっという間に採掘が終わってしまい、

今ではどこにあったか分からなくなっているということもあります。あくまでも資料と同じ時期に

採掘されていた鉱山と比較しなくてはいけませんので、そこがちょっと難しいところです。

 すごく専門的な話ですが、なぜ場所によって鉛同位体比が違うかというと、身の回りにある岩や

石、土には、ウランやトリウムという放射線を出すものが、ほんのわずかだけ入っています。ウラ

ンやトリウムにはちょっと危なっかしいイメージがあると思いますが、わずかなので人体には影響

第3図

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がありません。これが何億年も経つと、少しずつ壊れて放射線を出しますが、破片が外に飛び出し

て壊れていっているから放射線を出しているわけで、壊れて無くなるわけではなく、ある程度壊れ

たところで鉛に姿を変えて落ち着きます。そういうことが起きた後で、何かが地面の中で起きて、

鉛だけ溶け出して集まると鉱床になるわけです。そうすると、ウランやトリウムから切り離されて

しまうので、そこで同位体比は固定されるということです。最後に、もう 1回豆の例えをすると、

色が違う豆の混ざり合う割合は、畑の土壌の性質や肥料で決まるというのと同じことです。

 実際、分析しているときに、どんなことを具体的にやっているかというと、たいていは先ほど言

いましたとおり、錆を採取して分析します。普

通、化学分析はどんな薬品に溶けるかなどを調

べるんですが、なにしろ同位体は同じ性質を

持っているので、そうした分析はできませんか

ら、重さの違いを利用した特殊な方法を使いま

す。私たちの博物館で使っている装置が最近、

新しくなりました。古い装置と新しい装置で何

が違うかというと、精度が違います。同じもの

を測って、以前は左のようにデータがばらつい

ていたのが、右のようによくまとまっています

(第4図)。再現性がよくなったということです。

 データの表示のやり方ですが、もともと地球

科学で使われていた方法は、変化しない204の

鉛を基準にして、ほかの変化するものを分子に

取って示していました。ただ、せっかく変化す

るものが3つあるのに、全部使わないのはもっ

たいないということで、文化財科学では3つを

使うようにしています(第5図)。a式図とb

第6図

第5図

第4図

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式図と呼んで、併用するかたちを採っています。

 第6図は、日本と中国、朝鮮半島製の青銅器原料から作られた鉛同位体比の分布図です。Aは中

国の北のほうの原料を表しています。Bは中国の南の華中から華南、Dは弥生時代ごろに朝鮮半島

からもたらされた青銅器の領域です。それから、Cは日本産の鉱床の鉛の範囲です。何でa式図と

b式図を使うかというと、a式図だけだとBとCが重なるところがあるからです。b式図を使うと、

この2つは分けることができます。今日の話は、まだ日本で鉛の採掘が始まる前の時期が対象です

ので、Cの領域は除くことにします。

 それでは、鉛同位体比分析をした古墳の資料について結果をご紹介します。ただ、おじょか古墳

の資料は、残念ながら、2点しか測っていません。さすがに2点で何か言うのは申し訳ありません

ので、もう少し後の時期のものを含めて分析をさせていただきました。時期についても出てきます

が、分析試料を採取した時点で私が伺った年代で、私のほうで何か根拠があるわけではありません

ので、そのあたりはご容赦ください。先ほど三好さんからお話があった塚つかはら

原古墳の画がもんたいかんじょうにゅうしん

文帯環状乳神

獣じゅうきょう

鏡、これは5世紀後半だそうです。おじょか古墳より少し後なのかもしれませんが、重なる時期

になるかと思います。それから、上うえむら

村古墳の6世紀後葉の資料と塚つかあな

穴古墳の7世紀前半の資料を分

析した結果についてお話します。このあたりは、年代を追ってどういうふうに青銅器の原料の産地

が移り変わっていったかということになります。

 まず、おじょか古墳(第7図)ですがBの領域になりましたので、中国の華中から華南産原料が

使用されていると判断されます。先ほどの橋本先生のお話だと半球型の装具と書かれていましたが、

5世紀でいいだろうということでした。Bの領域から少し外れていますが、中国の華中、華南産の

原料の範囲は実際にはもうちょっと広がりがありますので、おそらく中国の南の原料でいいだろう

と思います。方格T字鏡は、Bの領域でやはり中国の南の領域です。3世紀の鏡と判断されるとい

うことですが、後漢の中期から三国時代の鏡については、Bの領域の範囲に入ることが分かってい

ますので、それと整合した結果になっていると思います。

 5世紀後半の塚原古墳出土の資料の結果は、中国の華中、華南産原料です(第8図)。これも時

期的にはB領域で整合性が取れていると考えられます。

第7図

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 方格T字文鏡は少し古い資料ですが、5世紀後半の資料はいずれも中国の華中、華南産の原料が

使用されています。この解釈については、ここから先は私独自ではなくて、いろいろと皆さんから

伺って書いておりますので、あまり突っ込まれると困るんですが、これまでにお話があったとおり、

九州の北・中部からずっと海の道が通じていたということです。そこを通じておそらく朝鮮半島か

ら百済系の文物がもたらされていたと考えられます。百済は、呉などの南朝と密接な関係がありま

したので、そこから受けとったものを再分配したと考えていいのではないかと思います。

 資料自体がそこで作られたのか、原料が直接もたらされたかということは別として、南朝で使わ

れていた原料が、おじょか古墳と塚原古墳の資料に反映されていると推定できます。

 次に、上村古墳は、a式図はBの領域に入っており、b式図では、Bの領域に入っているものも

ありますが、下のほうにはみ出しているものが何点かあります(第9図)。これをどう解釈するか

ということですが、実はこの図と別に、2012年に韓国の方が韓国の慶けいしょう

尚盆地や嶺れいなんさんかい

南山塊などの鉛

鉱山の分析をしています。そうすると、a式図では、B領域と嶺南山塊のデータが重なっています。

慶尚盆地のデータもa式図では一部重なります。ただ、b式図を併用して見ると、嶺南山塊のデー

タはB領域と重なりますが、慶尚盆地のデータはちょっと外れます。ですので、どちらかというと、

朝鮮半島の嶺南山塊産の原料が使用されている可能性が考えられます。

 もうちょっと後の7世紀前半の塚穴古墳出土資料の鉛同位体比の分析結果は、同じくa式図で見

るとBの領域に入っているものもありますが、そこから大きくはみ出すものが出てきています(第

9図)。b式図で見ても、Bの領域から下のほうに外れてしまっているものが出てきています。こ

れも韓国の鉱山のデータと比較すると、a式図でBの領域の下のほうにはみ出しているものという

のは、慶尚盆地のデータとわりとよく合っていて、一部嶺南山塊のものも含まれていることが分か

ります。b式図でも同じで大部分は慶尚盆地のデータと重なっていて、一部、嶺南山塊のデータが

含まれているという可能性が見えてきました。

 これらの結果をまとめますと、上村古墳出土資料は、おそらく朝鮮半島の嶺南山塊産の原料を使

用していると考えられます。もう少し後の時期の7世紀前半の塚穴古墳は朝鮮半島の嶺南山塊産あ

第8図

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第9図

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るいは慶尚盆地産の原料を使用するようになったと考えていいと思います。

 この解釈として、6世紀後半以降、海外あるいは国内の関係性が変化していって、南伊勢や三河

とも関係が生まれていきます。中・北部九州とは異なった型式の資料も見られるようになります。

一方、百済が滅亡するのは660年で、この時期にはまだ存続していますので、朝鮮半島から原料が

もたらされた可能性は高いです。ちょうどこの時期に日本で出土した朝鮮半島と関係がある資料な

どを測ると、やはり国内産原料が始まる前で、朝鮮半島産の原料を使った資料がかなり見つかって

いますので、この地域にも影響が及んでいる可能性があります。

 以上をまとめまして、鉛同位体比という視点から見た志摩地域の青銅製品の原料の産地の変遷で

すが、まず、おじょか古墳や塚原古墳の出土資料は中国の華中や華南産の原料を使用していると解

釈していいと思います。もう少し後の時期になって、上村古墳の出土資料になると、朝鮮半島のほ

うに原料の軸が移り、嶺南山塊産の原料が使用されるようになります。塚穴古墳の段階になります

と、朝鮮半島の嶺南山塊産、あるいは慶尚盆地産の原料が使われるようになったと見ることができ

ます。全体として対外関係が、中国南朝から朝鮮半島へと移り変わっていった可能性が考えられる

ということです。

 ただ、直接のやり取りということではなくて、先ほど先生方からお話があったように、九州を経

由してつながっているわけですので、原料の銅についてもそのあたりのことは考えなければいけな

いわけです。

 第10図は、鉛同位体比を測定した韓国内の鉛鉱山の位置と、6世紀後葉の朝鮮半島の勢力の分

布図です。百済と新羅がありますが、先ほどの倭系の古墳などのことを考えますと、必ずしも百済

の範囲がここで線引きできるというわけではありません。慶尚盆地の範囲も新羅から西のほうまで

及んでいます。しかも、測定しているのは現代の鉱山の試料ですので、そのあたりはこれからも考

えていく必要があると思っています。

第10図

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土生田 市長さんは、この志摩市で生まれ育っ

たということで、どうしても一言しゃべりたい

ということでした。熱意がございますので、一

言で終わらないと思いますけれども。おじょか

古墳が重要な遺跡であるということはご存知

だったはずなんですけれども、専門家の方々

にそれぞれの分野でどう重要かということを聞

いていただいたと思います。これからのパネル

ディスカッションでもう少しそれを深めます

が、最初に、今の時点でどのようにお思いになっ

たか、短くて結構ですからお話しになってください。

竹内 ありがとうございます。長くなってしまうかもしれないですが。今日は本当に興味深かった

です。朝、おじょか古墳に行って、墳丘の上に登ると、太平洋が見えて綺麗だなと思いましたし、

そこをのぞき込んでいる研究者の方の姿を見て、本当におもしろいなと思いました。

 今日は、志島の自治会長さんにもお越しいただいていますので、我がふるさと志島には、こんな

歴史があるんだ、おじょか古墳のような価値があるものがあるんだということを改めて思っていた

だいたと思っています。

 先だって、全国道路利用者会議で沖縄に行っていまして、そのときに琉球王国が海路で様々な国

とつながったんだと聞きました。とりわけ、沖縄で採れない黒曜石が沖縄から出ているとかですね、

あるいは、北海道の貝塚から北海道にはない貝が出土しているということで、沖縄と北海道やその

ほかの国々が海路で結ばれていたという話を興味深く聞きました。ちなみに、先ほど伊勢志摩サミッ

トの話をしたんですけど、沖縄も沖縄サミットが開催されました。

 その中で、首里城にも行ってきましたが、首里城の正せいでん

殿にある鐘には、「万ばんこくしんりょう

国津梁」というのが

書いてあります。それは、世界の国々に津、つまり港をつないで広域交流を行っていく、その場所

が万國津梁の琉球である、という意味だと沖縄の人が言っていました。14世紀、あるいは貝塚の

話ですからもっと前に、古墳時代、弥生時代も含めて、そういう時代に海路によって結ばれていた

ということです。海へ乗り出す気持ちも含めて、すごいなと思ったのですが、今日は先生方のお話

を伺って、おじょか古墳がそういう各地域と、あるいは朝鮮半島や中国とつながっているというこ

とを、改めて様々なエビデンスというか、検証結果も含めて伺いました。海路で結ばれているとか、

琉球の話とか、もう頭は迷宮状態で、おじょかラビリンスみたいな状態で、これから先生方のお話

を伺いながら、自治会長さん方や教育委員会とも話をして、この志摩市の宝をしっかりと磨き上げ

て、まちづくりの中へ生かしていきたいと思いました。

 それから、職員である三好と、あと、志摩市には歴史民俗資料館がありますけれども、館長の崎

川、この両コンビが、改めて志摩市の歴史を掘り起こして頑張っているなと思った次第です。

パネルディスカッションコーディネーター:土

は ぶ た

生田 純よしゆき

之(専修大学 教授)パネラー:重藤 輝行、橋本 達也、齋藤 努、竹内 千尋、三好 元樹

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土生田 ありがとうございます。古墳時代よりも前の時代からそうですが、古い時代なので、あま

り交流がないなどと思っていると大きな間違いで、例えば大阪の古墳からは、遠く現在のイラン、

ペルシャから来たガラス製の碗も見つかっていますので、相当の交流があるということはご承知お

きください。それから、我がまち、我が市に自慢できるものがあるというのは非常にいいことです

が、若干、ボルテージが上がりすぎてピノッキオみたいな鼻にならないことを願っております。

 最初に、三好さんに伺いたいのですが、志島の古墳は13基ほどあったかと思うんですね。今残っ

ているのは少ないですが。先ほども話に出たのが2基ばかりありましたけれども、6世紀後半以降

のもので、おじょかだけ100年以上古いわけですが、その間、志島に古墳はありますか。

三好 志島には、その間を埋めるような古墳というのはないですね。志島地区の集落の中には。た

だ、その南、市後浜という浜の南側に、先ほど前方後円墳として紹介しました泊とまり

古墳と鳶と び が す

ヶ巣1号

墳がございます。ですので、ちょうどおじょか古墳から6世紀後半の古墳の空白部分を埋めるかた

ちで、それらの古墳が築かれていると言うことができるのではないかと思います。

土生田 古墳が造られたところというのは、一般的には本ほんかんち

貫地と言います。先祖代々の固定的な本

拠地ですね。そこに造ります。これは『日本書紀』の記事をあげるといくつかありますが、今日は

やめておきます。そうすると場所が移るということは、地方王権を構成する系譜が替わるというこ

とにもなるんですが、この場合は、確か近いですね。そんなに離れてないんじゃないでしたか。地

形的にも同じような一連のものとして考えてもいいんじゃないかと思うんですが、いかがですか。

三好 そうですね。市後浜を挟んで約1㎞南という至近距離ですので、そこで支配者の系譜などが

断絶して、また戻ったと考えるよりは、一連のものとして考えたほうがいいのではないかというの

が、今、思っているところです。

土生田 なぜ、そういうことを言うかというと、信濃の長野盆地や吉備では、各地域でいくつかの

系統が合流して王権を構成して、その中で極端な場合は輪番制、隣組の班長みたいにぐるぐる回し

ていくというような説があるからです。この場合は、近くて1つの流れとして考えていいかと私も

思いますが、その際、おじょかを一番古い時期に考えてよろしいですか。

三好 出土遺物から見て、一番古いことは間違いないと思います。

土生田 そこで、橋本さんに伺いますが、なぜ、この時期に台頭してきたとお思いですか。橋本さ

んは私よりも15年くらい古く考えておられますが、並びはそう変わりません。

橋本 むしろ、なぜここに古墳が造られたのか、地元の方にお聞きしたいことですけれども…。た

だ、倭系古墳などの話をさせていただいた中で、単純に在地の中に伝統があって古墳が造られるよ

うなことではなくて、5世紀の半ばごろ、おじょか古墳と同じような段階というのは、人の移動が

少なく、ずっと定着していた人がそこに古墳を造るのではなくて、むしろ、移動先とか新しい入植

地みたいなところで活動を開始するというのが非常に盛んに行われる時期だと思うんです。そうい

う中で、おじょか古墳が在地の中で系譜がたどれないとするならば、北部九州の系譜を持つ可能性

もあるし、あるいは、北部九州なんかで活動していて、こっちのほうに外から入ってきた人がこの

地域を新たに開発した可能性もあります。開発といっても単なる農業とか漁業とかだけではなくて、

むしろ交流のネットワークの要として、そういういろんな情報をいろんなルート上に渡していくよ

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うな人物、交易などの経済的な活動を背景として力を得た人物、そういうような人たちです。志摩

は、海を介した交流のネットワークの要としての新しい位置づけを模索し、そういうものの始まり

を表すのがおじょか古墳かなと理解しています。

土生田 三好さんに再度伺いますが、志摩の範囲の中で、もっと古い顕著な古墳はありますか。4

世紀とか。

三好 4世紀の古墳は見つかってはいません。5世紀には、自分が塚穴古墳を発掘調査した際に、

横穴式石室の下から5世紀の中ごろ、TK216と言ってるおじょか古墳よりも1段階前の須恵器と

土師器が見つかっております。ぜんぜん欠けていない状態でまとまって出土していて、もしかした

らそういったものが塚つかあな

穴古墳が造られる前にそこにあった古墳に伴うものである可能性があるかと

思います。大規模ではないにせよ、小さな古墳があった可能性があります。

 あと、鳥羽市の海の博物館の裏山に、大おぎつきた

吉北古墳というのがございまして、それもだいたい同じ

くらい、TK216、5世紀の中ごろくらいの土器が出ていると言われていますので、おじょかのよ

うな大規模ではない古墳というのは、先行して多少あった可能性はあるかなと思っております。

土生田 今、TK216と言われたのは、陶すえむら

邑という大阪の800基くらいある須恵器生産窯の中の「高たか

蔵くら

寺でら

」地区にある窯の番号、つまり「TK」の216番の窯ということです。以後、こういう符丁は

禁止します。何世紀と言ってください。誰も聞いていてもおもしろくないし、理解しづらいと思い

ますので、こういうのは一切禁止します。

 それから、志しまのくに

摩国というのは、皆さんには失礼な言い方かもしれないけれど、現実的に小国であ

ります。律令時代になると、口分田が確保できないので、三みかわのくに

河国に口分田を班給する。そんなとこ、

耕しに行けませんよね。ですから、名目上です。おそらくは、もとは伊勢の一部だったんだろうと

思うんですが、なぜ志摩国を作ったかというと、御みにえ

贄といって、天皇に直接海産物を献上させるよ

うな地域として作ったんだろうと思うんです。贄の国ということです。それから、製塩土器といっ

て塩を作る土器がいっぱい出てきますので、そういった特別の地域であったんだろうと思います。

そういう意味である種の格が要求された国ではないかと思っております。

 さて、5世紀中葉前後に台頭してきたわけですが、橋本さん、古墳の構造は、どこかという細か

いことはともかくとして、九州系であることは異論がないだろうと思うんですが、副葬品の内容は、

むしろヤマト王権といいますか、中央からもらったものが多いとおっしゃっていました。中央といっ

ても今の中央とは意味が違い、もう少し地方の自主性が強いのですけど。中には大加耶、高こうれい

霊とい

うところに本拠地があり、韓国の南部の山のほうの嶺南地方にあるんですが、こういったところの

ものもあると言っていました。総合的に見て対外的な交渉に長けた人、そういう判断でよろしいで

すか。

橋本 先ほど話させていただいたように、九州系の石室でも、甲冑などを中心とする副葬品を持っ

ていることが多くて、共通性は非常に高いと思っています。おじょか古墳の造られた時代という

のは、甲冑を中心とする副葬品が一番重視されていて、その大本にあるのは近畿の中央の古ふるいち

市・

百も ず

舌鳥古墳群を造っている人たちなので、特に中央の政権との結びつきを持ちつつ、なおかつ、広

い活動をするというような背景があるんだと理解しています。

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土生田 『日本書紀』に書いてあることがそのまま全部正しいということはあり得ないんですが、

おおむね雰囲気はいけるかと思います。『日本書紀』等を見ると、ヤマトの王権を中心に諸豪族が

集まって、平和な場合と戦争になる場合がありますが、朝鮮半島へ進出します。そうしたことが先

ほど何度か出てきました倭系石室というものにつながるという解釈でよろしいですか。

橋本 それがイコールかと言われると、どうでしょう、重藤さんとか。

土生田 重藤さんに聞こうと思ってはいたんですが、その前に。そうだというんじゃない、そうい

うものにつながっていく要素だと考えてよろしいですか。

橋本 そうですね。倭系というか、朝鮮半島で出ているのは、横穴式石室ではないですが、おじょ

か古墳よりも後の段階になると、九州系の横穴式石室も朝鮮半島で出てきます。その前の段階から

北部九州の在地的な要素を持った埋葬施設なんかも朝鮮半島に渡っていたりしますので、こういう

ものと関連していると考えています。

土生田 今おっしゃったのは、竪穴系の埋葬施設だと思うんですけれども、横から入る横穴系は、

5世紀の後半から6世紀の前半にかけて、同じような地域に、若干、西のほうに偏重して分布しま

す。それらはいずれも九州との関係がうかがえるような構造ですが、そのへんのところを重藤さん

は、このおじょか等を踏まえて、どうお考えになっていますか。符丁は禁止ですよ。

重藤 まず、橋本さんが取り上げられた韓国にある倭系の古墳について、橋本さんはあまり強調さ

れなかったんですが、韓国の南海岸でも、九州の横穴式石室の技術を取り入れた古墳が、おじょか

古墳よりもちょっと新しい5世紀の末から6世紀の前半にいくつか造られます。その被葬者が九州

から向こうに引っ越した人というふうに考えるよりは、朝鮮半島の南海岸沿いの人も、新たに横穴

式石室を造るような動きを進めていて、九州のほうとも5世紀あるいはそれ以前からつながりが

あったので、九州から技術者を派遣してもらうなどして、あるいは、九州の技術者が別の理由で、

例えば戦争などの理由でそちらに滞在していて、その手助けを得るなどして、九州系の横穴式石室

が朝鮮半島に5世紀末から6世紀初めごろにできていくのかなと思っています。

 それと同じような事情をおじょか古墳に折り返してみると、おじょか古墳に地元の人が埋葬され

たのではないかという仮説に基づきますが、新しく横穴式石室をおじょか古墳で造ろうというとき

に、それが葬られている人か次の世代の人か周りの人かは別として、九州の人とつながりがあった

ので、そちらから技術者を呼んだのではないかと思われます。橋本さんの古墳時代中期の副葬品の

特徴の話を参考に考えてみると、朝鮮半島との戦いにも日本各地の人が関わったりしているので、

そういうときに九州と志摩とのつながりも生まれて、それを契機に横穴式石室が取り入れられたの

かなと思っています。

土生田 かつては、水は高いところから低いところへ流れるみたいな感じで、当時は中国が東アジ

アの文化的にも超大国であったわけで、それに隣接している朝鮮半島、さらに海を隔てた日本列島

というふうに、段々とものが流れていくという一辺倒で考えていたのですが、今のお2人の話でも

分かるように、交流というのは相互の交流があってこそ交流なわけです。何が高いか低いかという

ことも議論しなければいけませんが。いずれにしても、双方向の交流を考えなければいけないとい

うことが1つ。

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 それから、百済だけではなくて、新羅とは険悪な時代が多いことは事実ですが、その新羅からも

いっぱい入って来ています。これは、先ほど宣伝があった高田さんの本にもちゃんと書いてありま

すし、国と国が戦争をしても、しっかりと民衆同士が結びついていることもあるわけです。古墳を

造る人が民衆かどうかはともかくとして、さまざまなレベルであるわけです。

 最初に三好さんが、三重県の伊賀と伊勢と志摩の地図(p.3第1図)を出されましたが、皆さんの

感覚では、志摩が相当に西のほう、南のほうによっていると思われたかもしれません。これははっ

きりしているんですが、志摩国は、尾鷲近くまでもともとはあったんです。これは中世のころに大

名に侵食されて今みたいに狭くなってしまっているので、一部、和歌山県に返してもらったほうが

いいかもしれませんね。それくらいずっと同じような地勢でしたから、それを意識されたんだろう

と思います。南勢町というけど、あれは南志摩町ですね、そういう意味では。あまり言うと、市長

が段々鼻が高くなってきますから。もっと広げろと言うかもしれませんが。

 もう1つは、南紀と今は言っていますが、そこには古墳ではなくて、海岸の侵食された洞窟の中

に直接棺桶を入れる崖がいぼ

墓というのがあります。これが伊豆とか神奈川県の三浦半島、房総半島の南

の地域にも共通していて、これが漁民、海の民の墓だと言われています。重藤さんと橋本さんのお

2人に、このおじょかを含めた志島等の古墳について、そういったことをうかがわせる特別なもの

があるかどうか、お答えいただければと思います。

橋本 おじょかの副葬品に関して代表的な資料は、基本は首長墓というか、この当時の権力を持っ

ている人の持ち物だと考えています。甲冑にしてもそうですけれども、武器、武具ですね。先ほど

も話させていただいたように、鉾ほこ

や大た ち

刀は、独自で開発するものではなくて、中央の王権などが創

り出すような先進的なものを持っています。かつ、全国的にいろんなネットワークとつながるよう

な、ほかの地域の古墳とつながるような副葬品を持っていますから、副葬品に関しては、在地性と

か、漁民としての生業に関わるようなものは、ぜんぜんないのではないかと思っています。むしろ、

近畿の中央の政権を中心とした広いネットワークに結びついていることを表すような、政治的な活

動を反映するような副葬品が軸になっていると思っています。

 ほかの古墳に関しても、私自身はちゃんと理解ができていませんが、画がもんたいしんじゅうきょう

文帯神獣鏡はまさに倭の

五王の鏡です。倭の五王が中国からもらってきた鏡だと思いますが、画文帯環かんじょうにゅう

状乳神獣鏡というの

はその代表的なものです。おそらく倭の五王のうちの後半、済せい

・興こう

・武ぶ

の3人の、おそらく倭王武

だと思いますが、南朝に使いを送ったときに持って帰ってきた代表的な事例です。あるいは、横穴

式石室から出ているものも、在地性というのはあまり顕著じゃない、そういう上位層の、政治的に

中枢と結びつくような人たちの古墳じゃないかと理解しています。

土生田 古墳の構造については、これから重藤さんに聞きますから、その前に三好さんに。例えば、

近畿の王権に近いところに、海の民が多い兵庫県の淡路島があります。その古墳からは釣針などが

いっぱい出てきたと思いますが、そういう類いのものは、こちらの志摩では出ませんか。出るとし

たら、もう少し低い階層の人のお墓でしょうか。

三好 志摩地域全体として見て、小規模な古墳が本格的に発掘調査をされた例が非常に少ないとい

うのもありますので、古墳が造れる最下層の人の副葬品のセットというのは、あまりよく分かりま

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せん。大きめの古墳では、志島、畔名の古墳群では、全く地域の生業に関わるようなものは見当た

らないですけれども、南伊勢町の礫さざらうら

浦に宮山古墳というのがありまして、副葬品には銅鋺や双龍環

頭大刀などを含んでいるんですが、その中に唯一、鉄製の釣針が1点あるのと、アワビの貝殻も副

葬品として出てきたという記録がございます。その古墳の例が唯一、海を感じさせる副葬品を持っ

ている例と言えます。

土生田 志島の古墳はですね、また市長の鼻が高くなるかもしれませんが、ちょっとレベルが違う

ような気がします。つまり、志摩国の国くにのみやつこ

造につながっていくようなものではないかと思います。現

に、海を渡った渥美半島では、小さい古墳がいっぱい発掘調査されて、そういう類いのものがいっ

ぱい出てきています。もしこれから何かの機会で、そういうものが発見されれば、また変わってく

るのではないかという可能性を考えております。

 お待たせしましたが、重藤さん、どうでしょうか。

重藤 今日の話の本題としては、佐賀大学から来たので、佐賀県のある肥前とおじょか古墳とのつ

ながりを強調しましたが、九州の北岸、玄界灘沿岸、一部、瀬戸内に入って、橋本さんが取り上げ

られた稲いなどう

童古墳群などのあたりくらいまでは、海を意識した古墳がかなり造られます。稲童古墳群

もそうですが、夏崎古墳もそうですし、唐津などの古墳もそうです。志島や志摩と同じような様相

になるかもしれませんが、本土の大型の古墳は、畿内とのつながりとか、あるいは朝鮮半島とのつ

ながりを強調するような豪華な副葬品を重視するんですが、島とうしょぶ

嶼部の、離れ小島にある小さな古墳

とかになると、少し漁労具などが目立ったりすると思います。ただ、海に近い大型古墳の被葬者は

キラキラするものを権力の象徴として重視したので、有力者層になればなるほど、そういう漁労具

が副葬されなかったりするのかなと思います。

土生田 1つは、前方後円墳ばかりを注視して、前方後円墳でなければ大したことはないと極端に

思う人がいるかもしれませんが、それは橋本さんが克明にお話されたように、副葬品も加味しなけ

ればいけないし、その流れというものも加味しなければいけない。怒られるのを覚悟で言うと、お

じょかは規模だけで見たら大したことはないわけです。そういうものではないだろうと思うんです

ね。それでなければ考古学なんて必要ないんです。大きさを測っていればそれで済むわけですから。

実態は、中のものにどういうものがあるか、その意味がどうかというようなことです。

 そこで、お待たせしました。齋藤さんに伺います。豆の例えは非常によかったと言って、さっき

褒めてつかわすといったんですけれど。どうしても理系の人は難しくなるんですが、非常に分かり

やすかったです。日本のものは後になって出てくると思うんですが、この時代では3つに分かれま

すね。その3つのものについてもう少しお話していただいて、どういう時期のものにどの地域のも

のが多いかということの要点をもう一度お話しいただけますか。

齋藤 まず、最初の時期、おじょか古墳と塚つかはら

原古墳から出土した画紋帯神獣鏡については、中国の

華中、華南産原料でいいと思います。それから6世紀後葉と判断される上うえむら

村古墳は朝鮮半島のおそ

らく嶺れいなんさんかい

南山塊です。真ん中から南あたりにかけて斜めに走っているところの原料と考えられます。

それから7世紀前半の塚穴古墳はどちらかというと朝鮮半島南東部の慶けいしょう

尚盆地の原料がかなり増え

てきているということです。

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 日本産原料の範囲は、どうして今回は気にしなくていいかというと、だいたい6世紀後半から7

世紀初めにかけて、少しずつ日本産原料らしいものは見えてくるんですが、それはあくまでも日本

の中国地方の限られたところで、ほんの数点しか見つかっていない段階ですので、たぶんこちらの

ほうで考える必要はないだろうということで、解釈の中から外しました。それでよろしいでしょう

か。

土生田 お伺いしたいのですが、これは違う分析ですが、ずいぶん昔から、海外のものを輸入して、

それを鋳い

つぶしてもう1回作ると、例えば青銅というのは、先ほど話があったように銅と錫の合金

ですが、その比率が変わるというようなことがありますが、この鉛同位体比は、そういった類のこ

とは一切考慮しなくてよろしいんでしょうか。

齋藤 それは、実際に実験した先生がいらっしゃるんですが、鋳いなお

直しても変化はしないという結論

でした。

土生田 何でそういうことを聞いたかというと、なかなか原材料の入手は簡単ではないんです。韓

国までは近くて簡単に行けるだろうと思うのは今の考え方であって、命を賭けて何ヶ月かというこ

とですから、製品を鋳つぶして日本のものにもう1回作り直すということがよくあります。弥生時

代などはそうです。それで成分比が変わるんですが、鉛同位体比は問題ないということでよろしい

ですね。

齋藤 はい。鉛同位体比に関しては問題ないです。

土生田 ですから、これはそういう意味では信頼できる分析なんですが、ただ、鉛同位体比が中国

の原料を使っているからといって、即、中国製だと考えるのは問題でありまして、金属製品にはイ

ンゴットというのがあります。材料を塊の形で持ってきて、それを日本で作る、あるいは朝鮮で作

るということがあります。橋本さんはそのことについて、何か皆さんにお話しておいたほうがいい

ようなことはございませんか。

橋本 今、鉛の話もされましたが、鉄の問題もありまして、鉄も6世紀の後半くらいまで日本の国

内では産出していないと考えられています。ですので、5世紀のおじょか古墳などで鉄製品がいっ

ぱい古墳に入っていたり、近畿の中央で甲冑を作っているんですが、鉄素材は朝鮮半島製だと考え

られています。

 この時期、加耶や百済もそうですが、新羅も金属の産出地が調査されていて、新羅や加耶は多く

の鉄を採っていることが確実に分かっています。日本ではこの時期にそういう遺跡はないんです。

齋藤先生がおっしゃった、銅に嶺南産などが入ってくるのは、おそらく、鉄資源の確保が朝鮮半島

では3、4世紀という早い段階から行われてきた流れの中で、5世紀段階までは鉄が重視されます

が、5世紀の半ばごろに日本の中でも金や銅などが重視されるようになってきます。6世紀代になっ

てくると、中国ではなくなって朝鮮半島製になってくるというのは、おそらく5世紀くらいまでは

中国鏡などを鋳つぶしたりすることが行われていたんだと思います。もともと卑弥呼の段階などの

3世紀に、中国から、特に楽浪郡を経由して鏡を大量に入手していますから、そういうものがまだ

残っていたんだと思いますが、そういうものが無くなって朝鮮半島製の素材に傾倒していくという

イメージで、私は勝手に想像しています。

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土生田 そのへんのところと関わって、先ほど齋藤さんが、従来は分析さえしていればよかったけ

れども、今こんにち

日ではそういうことではなくて、文献史学者や考古学者等と積極的に話をするんだとおっ

しゃっていましたが、そういう点で齋藤さんは歴史学者ではありませんが、考古の人などと話をし

ていて、何か感じるところがございますか。ふだん、話をしている中には私も含まれるのですけれど。

齋藤 やはり私たちですと、遺物の細かいところまで分からないということもありますし、そもそ

も分析する対象になる資料として何を選んだらいいかというのが分かりません。出てきたデータは、

データとしてきちんと出せるわけですけど、それを解釈としてどう結びつけていったらいいかとい

うところになると、やはりお互いに議論し合いながらやらなくてはいけないというところがありま

す。そのときに、1回、1つの資料を分析して終わりにするのではなくて、一度こちらから考古学

の方にデータをお返しして、我々としては、これについてこういうふうに考えるんだけど、あなた

はどう思いますかと聞く。それだったら、こちらにそれに関連する資料があるから、こっちだった

らこうだよという、そういったやり取りの中で、段々議論が深まっていく。そういうやり方をとる

ように意識しています。

土生田 これは考古学でもそうなんですけれども、分析もあるいは同じだと思うので、齋藤さんに

お聞きします。土器でも何でも100個あって、1個や2個だけの資料では、なかなか正しいことは

言えないわけです。人間にも個性があるのと同じで、人間が作ったものにも、たまには変なものが

あり得るんですね。変なやつが作ると変なものになりますからね。そういうことは考古学ではよく

あることなんです。やはり分析でもそういったことがございますか。

齋藤 あります、やっぱり個性といいますか。先ほど土生田先生からお話があったように、材料の

問題はいつも考えなくてはいけなくて、鉱床から採ってきて、製錬して金属に変えて、そのまま製

品を作るんだったら全く問題ないですが、例えばそれが壊れてしまって、もったいないからもう1

回使おうとして、溶かして作り直すということがおそらくあるんです。そういうものが混ざってい

るときに、その製品だけ変なデータが出てきてしまうんです。そういうことがときどきありますの

で、経験上、複数点、できれば20点くらい、同じ種類の資料を提供していただいて、全体の傾向

を見るというかたちを採るように気をつけています。

土生田 そういう意味では、先ほどのおじょかと塚原のものは少ないんですが、しかし、同じよう

な時期のものを全部集めると、随分たくさんになってくるわけです。私の記憶では、5世紀代はお

おむね、中国の南のほうのものが多かったんじゃないでしょうか。

齋藤 そうです。

土生田 そうすると、全体が共通しているということの意味を踏まえて、橋本さんどう評価されま

すか。おじょかの分析は数点ですが、地域は違えども、同じようなものがいっぱいあって、それら

を合わせると、だいたいは中国の南のほうの材料を使っているということで、信頼性が増してくる

と思うんですが、これについてどう思いますか。

橋本 鏡に関しては、5世紀代にも中国鏡がまだ残っていて、それが副葬されている場合、それか

ら、新しく倭製鏡として作られたものが入っている場合の両方があります。それが同じ華中の原料

ということになりますと、古くにやってきて伝世している舶載の中国鏡に関してはいいと思うんで

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すけど、新しく作られた倭鏡に関しては、素材に中国のものが使われて、1つは古いものを潰して

新しいものに作り変えているというのと、あとは、5世紀後半の段階になると、南朝との交流の中

で新しい原料としての鏡などが入ってきて、鋳つぶしているのかもしれないというようなことが考

えられるとは思っています。以前から残っていた鏡と、更にプラスして新しい鏡も入ってきて、そ

ういうことで、5世紀代に華南や華中の素材が多く広がっているのかなと思っています。

土生田 倭の五王の時代ですから、中国から直接もらってくることもあるでしょうし、あるいは百

済を通して間接的にもらうこともあるかもしれません。それでよろしいですか。

橋本 百済はあんまりないかなと思います。百済人はあまり鏡を集める趣味がないですよね。

土生田 鏡ではなくて、原材料として。

橋本 原材料ですか。あまり顕著じゃないような気はしますが。経由はしているかもしれませんが、

朝鮮半島では銅製品や金銅製品に銅を使いますが、銅の量はそんなに多くないような気がするんで

すけど。

土生田 金銅冠かん

や金銅の腰飾りなどがありますので、若干はあるような気がしたわけです。それか

ら、いずれにしても、橋本さんが先ほど言った各地域の主体者が、めいめいおのおの独自に中国に

遣いを出すという可能性は、私はあまりないと思いますが、いかがでしょうか。

橋本 中国に独自に個々に出すということはないと思います。やはり王権などが関わって中国まで

遣いに行っていたと思います。

土生田 そういう意味では、先ほどおっしゃられたように、やはりおじょかは遺物からは王権との

関係も強いですし、当然レベルが違うと思うんですが、先ほどの漁具が出ないということもありま

す。工法的にはどうですか、重藤さん。今度は九州と関係がありますよね。このギャップはどう考

えられますか。

重藤 副葬品は王権とのつながりが強いですが、埋葬施設は九州との関係があります。一見すると

食い違っているようにも取られるかもしれませんが、古墳時代の中期くらいまでは、1人の人が複

数の系列でいろんな関係を持つことがあってもよいと思います。橋本さんが、高田貫太さんの本を

紹介する中で、複属性というか、複数に属しているような人々の関係性が5世紀の当時に認められ

るとありましたし、また、副葬品は、例えば被葬者の生涯のいろんな活躍とか、ヤマト王権との生

涯を通じた接触で功績を認められるなどして、何回か入手したりすることもあったと思われます。

 一方、お墓は死んだらその時点で構築します。生前に造るような寿じゅりょう

陵というのも一部ではあり得

るのかもしれませんが、おじょか古墳が20mくらいの古墳だったら、それほど時間をかけずに造

ることもできると思います。半年くらいで。ですから、副葬品と埋葬施設では、広いネットワーク

をどちらでも見ることができるんですが、そのネットワークの意味するところの質は、少し違うと

思ってみたほうがいいと思っています。

土生田 私は遺物と遺構を考えたときに、遺物は人渡りでも来るものですから、必ずしも直接、交

渉がなくても手に入るものだと思っています。その点で、遺構は模倣が難しいものですから、必ず

交流が深いものだと思います。ただ、橋本さんの説明にもあったように、副葬品の一部は威信財と

いいますか、それ自体が地位を表すものであり、中央の王権から直接もらわないと、なかなか入手

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がし難いようなものでありますから、これはまた事情が違うわけです。

 浮かびあがってくるのは、おじょか古墳が、その後継者もそうだと思うんですけれども、墳形だ

けで見るとそれほど大きくないと思えるかもしれませんが、並々ならぬ勢力であったということ。

そして、東は直接関係ないんですが、西のいくつかの地域と交渉を持って、非常に交流が活発で、

漁民も下にいたかもしれませんが、漁民ではなくて、そのトップに立つような、そういう人物像が

描けてくるように思います。その方が九州から移動してきたか、在地から成長してきたか、それは

今は問えません。そこまでは何とも言えませんけれども、在地で勢力を持ってきた人でもいいし、

移動してきた人でもいいんですが、少なくとも活動範囲を広くして、現在も志島には漁民の方がた

くさんいますが、広く大海原に乗り出す、その指揮をとるような人ではないかと思うんです。橋本

さんと重藤さんに、それぞれそういう考えでいかがでしょうか。

橋本 全くそのとおりです。私も発表させていただいたように、朝鮮半島にも行ったかどうかまで

は言い切れませんが、行っていてもおかしくないくらいの活動をしています。それくらいの広い活

動範囲を持っています。少なくとも北部九州にいるような人、そして朝鮮半島に渡るような人、そ

ういう人たちとつながるようなネットワークの中にいる人です。いくつか私が表にも挙げたような

西日本の横穴式石室を持つ古墳や、それ以外にも金ぴかの甲冑を持っている地位の高い特殊な人、

和歌山や奈良の南部の五條、あるいは徳島や播磨などに点々といるんですが、そのような人たちと

非常につながりを持っています。おそらく直接顔を見合わせて交流するようなこともあったんだろ

うと思っています。王権の側の評価からしても、非常に広いネットワークの中にいる人というのが、

副葬品の中から見えてくると思っています。ですので、先ほども言いましたが、むしろ在地的な要

素は副葬品にあまりなくて、王権や半島勢力、北部九州の勢力との、政治的な活動などを行ってい

る人物だと理解しています。

重藤 橋本さんは、今、政治的な活動と言われましたが、確かに中央と地方との政治的な関係が海

を通じて動くんですが、もっと深い下のほうに、海をなりわいとしているといった、海に生きる人々

の同じような意識があって、それがおじょか古墳と九州を結びつけているし、その流れが朝鮮半島

南部まで見えてくるんではないか、つながっているんじゃないかと思っています。ちょっとあいま

いですが。

土生田 国分寺も志島の比較的近くにありますし、確認はされていませんが「国府」と書いた地名

もありますので、このあたりが本来は志摩の中心地であったと思うんです。三好さんに伺いますが、

そういう意味で、その後の時代に築造された志島の古墳も調査されていますが、その後も威信財と

いいますか、身分を象徴するような重要なものが出ていますか。

三好 調査された古墳に関していえば、全ての古墳で出ているということができると思います。上

村古墳であれば金銅製の冠みたいなものも出ています。塚穴古墳でも銅鋺や多数の金銅製品が出て

いるということで、大きな古墳であれば、そういったものを持っている古墳しかないと言えると思

います。

土生田 聞いてもらって分かりますが、私が再三言っているように、墳丘の大きさだけで判断する

のではなくて、やはり内容も加味していかなければいけません。金銅製の冠というのは、できた当

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座は金ぴかもので、王者の冠みたいな感じでいいのではないかと思います。むしろ、前方後円墳が

続かなくて、早いうちに円墳になってしまうというのは、贄の国ということで、ヤマト王権と密接

な関係があって直結しており、地位が高いけれども独立性が少ないというふうにも捉えることがで

きます。これはまだ、もっとほかに証明をしていかなければいけないわけですが、おじょかをはじ

め、志島の後の時代のものも含めて、広く海の向こうと交流を深くする人物像が描かれ、それは間

違いないと思います。

 市長に、ここでいろいろ伺いたいことがあります。そういう重要なものであるということは認識

を深めていただけたかと思うんですが、ただ、保存するだけでは意味がないんですね。やはり資産

というのは使わなければいけない。これは教育にもそうですし、ある意味、観光にも使わなければ

いけない。ただ、やり過ぎると、今度は保存ができないわけですね。そのへんについて、今日のお

話を聞いて、どういうふうに感じられたか伺いたいのですが。

竹内 今日は先生方の知見を伺い、おじょか古墳の価値について改めて多く学ばせてもらったと思

います。今は、おじょか古墳の見てもらい方については、十分でないということでありまして、ど

のようにおじょか古墳を保存していくのか、あるいは、歴史的な価値を含めて創造していくのかと

いうことを、これからしっかり先生たちの知見もいただきながら取り組んでいかなければいけない

と思っております。

 昔、阿児町のころに、フランスのアルカッション地域と交流していました。フランスでは、生活

文化、あるいはその地域で脈々とつないできた歴史的な資産をエコミュージアムというかたちで、

フランスですのでエコミュゼと言いますが、そういったかたちで保存し、子どもたちへの教育も含

めて、歴史的な資産、あるいは生活のなりわいをしっかりと紹介するような歴史ミュージアムみた

いなことに取り組んでいました。

 今、志島は人口が減ってきて、小学校も閉校されます。学校の校舎が残っているので、そういっ

たところを拠点に、そういうことを学べる場であるとか、あるいは、この地域の歴史に基づいた交

流の場というのができればいいと思います。地域を地域の皆さんが守りながら、そしてガイドとか

もできて。エコミュゼでは地域の方々がキュレーターみたいなことをやっています。地域の方々皆

さんが学芸員というかたちでエコミュゼでは活躍をしていますので、そういった歴史をしっかり地

元の方々が説明できて、そして、そこを散策しながら楽しめるような場所になればいいというふう

にも思ったところです。

 もう1点、話が変わってしまいますが、これは鼻の高い話ですけど、先ほど分析をすると銅鏡の

原材料が中国の華南、華中からというお話がありました。三重県は、中国の河南省と姉妹提携を結

んでおり、河南省の中心地の鄭州市や洛陽に、私も2度ほど伺って、副省長ともお目にかかったこ

とがあります。世界観光都市市長会議というのを2年に1回やっていまして、今度お目にかかった

ときは、中国華南との関係をおじょか古墳との関係性を含めて自慢できます。

 もう1つは、先ほど海女文化が国の重要無形民俗文化財に指定されたとお話しましたが、韓国の

ほうが先にいってしまったんですけど、韓国の海女さんたちと海女文化のユネスコ無形文化遺産登

録を目指すということで、志摩市と鳥羽市が協働して海女文化の価値を創造していこうという活動

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をやっています。海女サミットには、韓国の済州島や、前回は釜山から、国内でも若狭や東北の久

慈など様々な地域の海女さんたちが来ていました。伊豆や北海道の礼文島にも志摩の海女さんが嫁

いでいるというような海を介した文化の交流がありますが、それが悠久の昔の古墳時代までさかの

ぼれるということですから、真実性がないといけないですが、話をうまく取り入れながら、少し盛

りながら、志摩市のまちづくりに生かしていきたいと思っています。

土生田 先ほど言いましたように、保存は大事ですが、保存するだけでは地域の住民の方の理解は

得られないし、もったいないわけです。ただ、あまり観光に走ると、私がかつておじょか古墳の石

室の中に入ったときに、突起石といって小さい石が突出していて、それに意味があったんですが、

一部落ちたような話も聞いておりますので、そういう保存と活用の整合性を考えてもらわなければ

いけないということを申し上げたかったんです。

 そういう意味では、今、市長さんが積極的にお話しておられましたので、予算も付けてくれると

思います。教育長さん以下、ほかの方もみんな証人です。無尽蔵には使わないのは当然ですが、話

は聞いてはもらえるはずですから。聞いてくれますよね。

竹内 文化庁に、来年の予算を含めて、文化財の保存と活用をしっかり言ってますし、あるいはモ

デル的な地域を指定していこうという動きもありますので、ぜひ、そのへんを三好さんや教育長た

ちと一緒に頑張ってやっていきたいと思っております。予算は当然かかることなんでしょうが、や

はりこの地域の資産を活用、保存する、未来につながる取組というのは、次世代へつなぐというこ

とも含めてしっかりやっていかないといけないと思っています。

土生田 いくら付くかとか、そういう話は別ですので。

竹内 それはちょっと下世話な話で。

土生田 そういう話は別ですけど、かつて私が学生のころに、こちらに何度も来ました。私の母は

伊勢市の内宮の近くの者で、私の伯父は磯部の出身でしたから、志摩の文化財のことについては、

何でも分かっているような顔をしている三好君よりは、私のほうが詳しいものもあります。しかし、

いずれにしても三好さんみたいな優秀な人も役所に勤めておられますから、人材も活用するという

ことで、ぜひ、これからお願いしたいと思います。そういう意味で、今日の話は、若干盛るのは当

然としても、実態に即して話ができるということでは意味があったのではないかと思います。時間

になりましたので、これでお話を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

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 紹介にあずかりました志摩市教育長の筒井と

申します。

 最初に、個人的な感想から述べたいと思いま

す。歴史はややもすると平面的で微視的な見方

をしてしまうということがあるわけですが、今

日はお話をお聞きしまして、巨視的な見方、俯ふ

瞰かん

的な見方がすばらしいなと、私自身も目から

鱗の部分がたくさんありました。私は考古学に

は門外なわけですが、連れ合いを通して考古学

についていろいろ話を聞いていたことがあるん

です。それで少しは知っているつもりではいたんですけども、なかなか奥の深い話、それも明日に

つながるお話を聞けました。私の中にも、おじょか古墳を通して、何か志摩市に生まれてよかった

なと、志摩市をどこかで誇りに思うような、そんな気持ちが湧いてきました。志摩市の子どもたち

にもそういった気持ちを伝えていくために、先ほど市長さんが言っていただいたように、教育のほ

うでもおじょか古墳をぜひとも教材化し、実地研修もやり、志摩市を誇りに思うような、そんな子

どもにしていきたいと考えています。

 みなさま、お忙しいところ、シンポジウムにご参加いただき、誠にありがとうございました。主

催者を代表しまして、心から御礼を申し上げます。また、このシンポジウムを非常に有意義なもの

としていただきました土生田先生はじめ、重藤先生、橋本先生、齋藤先生に衷ちゅうしん

心より御礼を申し上

げたいと思います。ありがとうございました。そのほか、シンポジウムの開催にあたりまして、さ

まざまなご協力を頂戴しました皆様にも感謝を申し上げたいと思います。

 講演とシンポジウムを通じまして、50年前に発掘調査されたおじょか古墳が、その後の研究の

進展によって、現在、どのように評価されているのかがよく分かりました。また、おじょか古墳が

志摩市だけでなく、全国的にも重要で、日本の歴史にも関わっているような古墳であることも分か

りました。志摩市ではおじょか古墳と、それに続く次代の古墳の国の史跡指定を目指しております。

このシンポジウムの成果は、その弾みとなる内容であったと感じております。

 最後になりましたが、このシンポジウムにご参加いただきました全ての皆様に厚く御礼を申し上

げまして、簡単ではございますが、ごあいさつとさせていただきます。どうもありがとうございま

した。

閉会あいさつ筒つつい

井 晋しんすけ

介(志摩市教育委員会 教育長)

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おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム「おじょか古墳と5世紀の倭」記録集

2018(平成30)年2月28日

編集・発行 志摩市教育委員会      三重県志摩市阿児町鵜方3098番地22

印   刷 中央印刷

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2018(平成30)年2月

志摩市教育委員会

おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム

「おじょか古墳と5世紀の倭」

記録集

2018(平成30)年2月   志摩市教育委員会

おじょか古墳と

5世紀の倭

おじょか古墳発掘50年記念シンポジウム

記録集