第1回 沖縄クライシスから わが国のメタボ事情を考える ·...

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図 2 沖縄危機 ( クライシス ) 図 1 健康長寿の秘訣 沖縄クライシスから わが国のメタボ事情を考える 沖縄県は長い間,世界に冠たる長寿地域として知ら れ,現在も“百寿”に達する長命老人が多く暮らしてい る.2004年には有名なタイム誌のカバーストーリー に沖縄の健康長寿が取り上げられ,“How to live to be 100 and not regret it”(100歳まで健康で長生きをした ければ沖縄に学ぼう)と書かれた.Classical Okinawa Style(健康長寿をもたらす沖縄流の伝統的生活習慣)と して,①白米摂取を少なくする,②霜降り肉の摂取を 少なくする,③腹八分目,④規則的な身体運動習慣, ⑤祖先崇拝や親類・縁者,地域住民間の濃密なネット ワーク,⑥生き甲斐などの重要性がハイライトされて いる(図1). 皮肉なことに,タイム誌にこの特集が組まれた 2004年,沖縄の健康長寿社会にはすでに急速な崩壊 が始まっていた.のちに“沖縄クライシス”と呼ばれる ようになったこの現象は,当時から8年が経過した今 も改善の兆しがみられず,むしろ悪化の一途をたどっ ている(図2).東京銀座にマクドナルド1号店が出店さ れた1971年からおよそ10年先行して,沖縄県ではア メリカ合衆国の高脂肪・大量消費型の食文化が流入し, 子供時代からその洗礼を受けてきた壮年世代,還暦世 第1回 企画:森下竜一 ( 大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学教授 ) ミニレビュー :メタボリックシンドロームの新展開 琉球大学大学院医学研究科  内分泌代謝・血液・膠原病内科学講座 ( 第二内科 ) 教授 益崎裕章 Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 2012-651171寿( ) ファストフード上陸 沖縄:1960年代 本土:1970年代 昭和 40 45 50 55 60 平成 2 7 12 17 0 30 25 20 15 10 5 0 3 9 3 7 2 4 10 3 1 1 2 1 5 1 4 6 1 5 1位 長野 3位 神奈川 25位 26 沖縄 長野 沖縄 神奈川 肥満症・心血管病・糖尿病は45 ~ 65歳で深刻.百寿者は今も健康長寿. 沖縄県は昭和50年以降の数値. (平成17年厚生労働省:都道府県別生命表より改変引用) “ Classical ” Okinawa Style 2004年 TIME誌 カバーストーリー Foods less white rice, fatless meat vegetables, soybeans (tofu) and fish not overeating (Hara Hachibu:80% fullness) Regular Exercise Psycho-social Factors ancestor worship, female priestesses (Yuta), relatives network Reason for Living (Ikigai) optimistic view of life 急増する沖縄のメタボ・ 肥満症・2型糖尿病

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図 2 沖縄危機 ( クライシス )

図 1 健康長寿の秘訣

沖縄クライシスからわが国のメタボ事情を考える

 沖縄県は長い間,世界に冠たる長寿地域として知ら

れ,現在も“百寿”に達する長命老人が多く暮らしてい

る.2004年には有名なタイム誌のカバーストーリー

に沖縄の健康長寿が取り上げられ,“How to live to be

100 and not regret it”(100歳まで健康で長生きをした

ければ沖縄に学ぼう)と書かれた.Classical Okinawa

Style(健康長寿をもたらす沖縄流の伝統的生活習慣)と

して,①白米摂取を少なくする,②霜降り肉の摂取を

少なくする,③腹八分目,④規則的な身体運動習慣,

⑤祖先崇拝や親類・縁者,地域住民間の濃密なネット

ワーク,⑥生き甲斐などの重要性がハイライトされて

いる(図1).

 皮肉なことに,タイム誌にこの特集が組まれた

2004年,沖縄の健康長寿社会にはすでに急速な崩壊

が始まっていた.のちに“沖縄クライシス”と呼ばれる

ようになったこの現象は,当時から8年が経過した今

も改善の兆しがみられず,むしろ悪化の一途をたどっ

ている(図2).東京銀座にマクドナルド1号店が出店さ

れた1971年からおよそ10年先行して,沖縄県ではア

メリカ合衆国の高脂肪・大量消費型の食文化が流入し,

子供時代からその洗礼を受けてきた壮年世代,還暦世

第1回

企画:森下竜一 ( 大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学教授 )

ミニレビュー:メタボリックシンドロームの新展開

琉球大学大学院医学研究科 内分泌代謝・血液・膠原病内科学講座 ( 第二内科 ) 教授益崎裕章

Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 (2012-6) 51(171)

平均寿命全国順位(

男性)

ファストフード上陸沖縄:1960年代本土:1970年代

昭和40 45 50 55 60

平成2 7 12 17

0

30

25

20

15

10

5

0

3

9

3

7

24

10

311 2 1

5

146

1

5

1位 長野3位 神奈川

25位26 沖縄

長野 沖縄神奈川

肥満症・心血管病・糖尿病は45 ~ 65歳で深刻.百寿者は今も健康長寿.沖縄県は昭和50年以降の数値.

(平成17年厚生労働省:都道府県別生命表より改変引用)

“ Classical ”Okinawa Style2004年 TIME誌 カバーストーリー

Foodsless white rice, fatless meatvegetables, soybeans (tofu) and fishnot overeating (Hara Hachibu:80% fullness)

Regular Exercise

Psycho-social Factorsancestor worship, female priestesses (Yuta), relatives network

Reason for Living (Ikigai)optimistic view of life

急増する沖縄のメタボ・肥満症・2型糖尿病

52(172)Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 (2012-6)

ミニレビュー:メタボリックシンドロームの新展開

代を中心に,特に成人男性における肥満症,メタボリッ

クシンドローム,糖尿病,高血圧症が急増し,人工透

析の導入率や致死的な心血管・脳血管イベントの発生

率が日本屈指のレベルに達している.

 平成16年度以降,沖縄県の成人男性の2人に1人が

BMI25の肥満ラインを超えており,メタボリックシ

ンドローム基準に該当する割合もおよそ4人に1人に

達している(図3).平成24年2月に発表された最新の国

民健康・栄養調査でも沖縄が引き続き,全国一の肥満

県であることが明らかとなった.平成17年度の厚生

労働省統計でみると,定年前(65歳前)に死亡する割合

は沖縄県男性が全国第1位であり,糖尿病が死因とな

る割合も男女ともに全国第1位,心筋梗塞の場合は沖

縄県女性が全国第3位,脳出血では沖縄県男性が全国

第3位という結果であった(図4).

 生活習慣病に対する正しい知識の普及が遅れている

こと,健康に対する意識の希薄さや医療機関への受診

率の低さなども一連の深刻な結果に深くかかわって

いる.近年の沖縄県の健康診断データによると,健

診時の早朝空腹時血糖値が200mg/dLを超えていた

受診者の53%が未治療・未介入であり,収縮期血圧

180mmHg以上,拡張期血圧110mmHg以上を示した

受診者のなんと81%が未治療・未介入の状況であっ

た(図5).

 沖縄クライシスを招いた大きな要因の1つは食習慣

の急激な変化である1).琉球大学医学部が新設された

1980年当時の80歳代,90歳代の沖縄県民患者の解剖

図 4 沖縄県の現状:「65歳未満死亡の割合」(A) 「死因別死亡率の順位」(B) 図 5 沖縄県の糖尿病・高血圧症の現状

男性:1位 女性:5位

全国平均 沖縄県

20.2

28.1

13.810.9

(%)

男性 女性

30

25

20

15

10

5

0

(厚生労働省:平成17年年齢調整死亡率より引用) (全国健康保険協会(協会けんぽ)沖縄支部より引用)

男性 女性

糖尿病 1位 1位

心筋梗塞 21位 3位

脳出血 3位 42位

血圧 人数Ⅲ度 高血圧180↑/110↑ 781

Ⅱ度 高血圧160 ~ 179/100 ~ 109 3,025

Ⅰ度 高血圧140 ~ 159/90 ~ 99 11,752

正常高値 高血圧130 ~ 139/85 ~ 89 12,029

空腹時血糖値 人数 未治療

200mg/dL以上 988 521(53%)

126 ~ 199mg/dL 3,991 2,554(64%)

図 3 肥満症の先進県・沖縄における平均寿命・ 肥満度の全国比較

0

10

20

30

40

50BMI 25 以上メタボリックシンドローム

長野 福井 奈良 熊本 神奈川 沖縄

(%)

(平成17年厚生労働省:都道府県別生命表,平成16年度生活習慣病予防健診受診データより引用)

女性は1985 ~ 2005年まで1位

都道府県別男性平均寿命ランキング

平成16年度生活習慣病予防健診受診(男性)肥満・メタボリックシンドロームの割合

昭和60年(1985)

平成7年(1995)

平成12年(2000)

平成17年(2005)

1位 沖縄 1位 長野 1位 長野 1位 長野

2位 長野 2位 福井 2位 福井 2位 滋賀

3位 福井 3位 熊本 3位 奈良 3位 神奈川

4位 香川 4位 沖縄 4位 熊本 4位 福井

5位 東京 5位 静岡 5位 神奈川 5位 東京

25位 沖縄

26位 沖縄

632名 (81%)が未治療

2,164名(72%)が未治療

沖縄クライシスの背景因子を探る

A

A

B

B

Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 (2012-6) 53(173)

第1回 沖縄クライシスからわが国のメタボ事情を考える

図 7 現在の沖縄県民の糖代謝の特徴

所見では,大動脈や冠状動脈の粥状動脈硬化や石灰化

がほとんど認められなかったという驚くべき記録が

残っている2).1975年当時,65歳以上(すなわち,第

2次世界大戦終結時,35歳以上)の沖縄県民の大部分

は朝,昼,夕の三食ともに幼少期より“煮イモ”を主食

としており,線維成分が豊富できわめて低カロリー・

低脂肪の質素な食事をとってきたことが記録されてい

る.戦前の沖縄では白米を常食していた人はきわめて

例外的であり,テレビや雑誌で盛んに宣伝されている

豚肉や動物性脂肪分の多いいわゆる“伝統的”沖縄料理

は実際には王族・富裕層が正月や祝祭などの特別なと

きにのみ口にできたとされている.

 戦後のアメリカ型食の流入により,沖縄県は戦前の

スローライフから一気に高脂肪・高栄養の食環境にさ

らされることになった.戦後の沖縄県民の脂肪エネル

ギー摂取比率は常に全国平均よりも5%前後上回って

おり(図6),日常的な高脂肪食習慣がインスリン抵抗

性やインスリン分泌の過剰・遷延化を引き起こし,沖

縄県における肥満や糖尿病,心血管病の発症リスク

を一段と高めていることがうかがわれる(図7).抗肥

満・抗糖尿病効果を期待して糖質摂取を極端に減らす

アトキンス・ダイエットなどがマスコミを賑わしてい

るが,糖質を減らした埋め合わせを脂質で補うことで

短期的に高血糖が是正され,一定の減量効果を上げら

れたとしても中長期的にみると血管機能が悪化するリ

スクを負う(図8).さらに,高脂肪食は脳の食欲コント(厚生労働省「国民健康・栄養調査」,沖縄県「県民健康・栄養の現状」より作成)

長期にわたり沖縄は全国平均より脂肪エネルギー比率が5%高い.高脂肪食はインスリン抵抗性・インスリンの遅延・過剰分泌を誘導する.

全国平均

沖縄

厚労省上限値

脂肪エネルギー比率

35

30

25

20

15

10

5

0

(%)

(年)194519501955196019651970197519801985199019952000

図 6 脂肪エネルギー比率の推移 (55 年間)

OGTT インスリン分泌反応

かつての日本人の耐糖能異常現在の沖縄県住民の2型糖尿病の特徴インスリン分泌の過剰・遷延

男性 948名

沖縄県住民

120

100

80

60

40

20

0

time(min)

欧米人(Botunia Study)

120(mU/L) 男女 5,396 名

血中インスリン値

100

80

60

40

time(min)

20

0

女性 917 名

120

100

80

60

40

20

0

time(min)

日本人(本邦の以前の報告)

NGT

IGTDM

120

100

80

60

40

20

0

0 30 60 90 120 0 30 60 90 120 0 30 60 90 120 0 30 60 90 120time(min)

54(174)Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 (2012-6)

ミニレビュー:メタボリックシンドロームの新展開

ロールを撹乱し,自分の身体が必要とするカロリー以

上に食べてしまう過食行動を引き起こす3).肥満は一朝

一夕にできあがるものではなく,日々の摂取カロリー

の小さなずれが1年,2年と積み重なった結果として

起こってくる.成長期以降の体重の恒常性維持はさま

ざまな生命現象のなかでも“特筆すべき精妙さ”で調節

されており,健康人であれば年間で±1%以内のわず

かな変動に収まるといわれている.一方,1日に摂取

すべき適正カロリーをほんのわずか2%オーバーする

だけで,これを10年間続けると25kgの体重増加につ

ながる.1日当たり2,500kcalを摂取している成人男

性を例にとるとオレンジジュース100cc(50kcal相当,

2,500kcalの2%)を機械的(強制的)に毎晩,飲み続け

たとすると10年後に25kgの体重オーバーになる試算

である3).

 沖縄県における肥満急増の背景として,食習慣の急

激な変化に加え,日中が暑いこともあって活動時間帯

が夜にシフトしており,成人のみならず幼稚園児や学

童の夜更かしや睡眠不足が大きな問題となっている.

不規則な生活はホルモン分泌や体内時計を狂わせる

“生体リズム障害”を引き起こし,肥満や糖尿病,高血

圧症の引き金を引く.高度自動車社会に生きる沖縄県

住民の運動不足も深刻である.自分の足でしっかりと

歩く習慣は食後の血糖上昇を和らげ,骨を丈夫にし,

骨格筋の量を増やし,結果的に太りにくくなる体質を

つくる4).

 温暖で安定した気候も沖縄の肥満の増加に一役買っ

ている可能性がある.四方を海に囲まれた小島であ

る沖縄は本州に比べて気温の日較差が非常に小さく,

1日を通して±1度で推移する日も少なくない.動物

には“冷え込み”によって熱産生を誘導する仕組みが備

わっているが,沖縄に生きる人々にはそのような仕組

みを働かせる必要がない.世界的にみても亜熱帯・熱

帯に分布する島嶼圏に肥満者の割合が多い傾向にあ

る.

 世界一の肥満大国,アメリカ合衆国では10人に9

人が肥満しており,BMIが30を超える高度肥満者も

30%に達している.一方,現在の日本では4人に1人

(Mandavilli A,Cyranoski D:Nat Med 10:325-327,2004 より引用)

図 9 肥満度・肥満率と糖尿病有病率(日米比較)

BMI≧25

USA

(%)

(%)

肥満者の割合 

糖尿病の有病率 

70

121086420

6050403020100

インド 中国 日本 シンガポール

BMI>30

USA インド 中国 日本 シンガポール

8.0 7.4

アメリカ合衆国とアジア諸国との比較.図 8 肥満者の血管内皮機能

week 2week 6

血管機能改善

absolute change in FMD

血管機能悪化

低炭水化物食

20%糖質750kcal制限95.4kg→89.9kg

低脂肪食

30%脂質750kcal制限100kg→96.1kg

low carb low fat

vs.

3210-1-2-3

(%)

低脂肪食で改善,低炭水化物食で悪化.*:p<0.05.2週間目に対して6週間で有意に変化.FMD:血管内皮機能

十分に太ることができない日本人の小太り体質がメタボを引き起こす

(Phillips SA et al : Hypertension 51 : 376-382,2008 より引用)

Cardiovascular Frontier Vol.3 No.3 (2012-6) 55(175)

第1回 沖縄クライシスからわが国のメタボ事情を考える

図 10 メタボリックシンドロームの病態生理十分に皮下脂肪を蓄えることができない日本人は欧米型の食・ライフスタイルに対してメタボになりやすい体質を受け継いでいる.

がBMI25を超えてはいるものの,BMI30以上の割合

はわずかに数%程度にとどまっている.肥満の程度と

いう点でアメリカ合衆国に比べて圧倒的に軽度である

日本人も糖尿病の有病率は米国人とほとんど変らない

(図9).米国人ほどには太っていないのになぜ,糖尿

病が米国人並みに増えているのか.この謎を解くヒン

トは日本人の“十分に太れない体質”にある.農作業を

営みながら野菜や魚,雑穀を質素に食し,獣肉や高脂

肪中心の高カロリー食になじみがなかった私たちの先

祖は過剰な栄養を前にしても十分に太れない結果(皮

下脂肪機能不全),余分なエネルギーは内臓脂肪や肝

臓,骨格筋,血管,心筋,膵臓など,本来はエネルギー

を備蓄すべき場所ではない臓器に蓄積せざるを得ない

(図10).このような異所性脂質蓄積がインスリン抵抗

性や心血管病,β細胞機能不全の病態に深くかかわっ

ていることが注目されている5).

● References

1) 益崎裕章,植田 玲,平良伸一郎:食習慣・ライフスタイル

とメタボリックシンドローム.糖尿病の療養指導 2011( 日

本糖尿病学会 ).診断と治療社,東京,2011,pp11-15

2) 岩政輝男,津波古京子,金城貴夫,宮城 淳 著:柊山幸志郎 編:

長寿の要因-沖縄社会のライフスタイルと疾病-.九州大

学出版会,福岡,2000,pp374-390

3) 益崎裕章:肥満症の内分泌学的解析.平成 23 年度日本内

科学会学術総会教育講演講演要旨.日本内科学会雑誌 100:

2638-2645,2011

4) 益崎裕章:あなたの脂肪を希望に変えるヒント:最新医学

が解き明かすメタボ・糖尿病の病態.共済エグザミナー通

信 29:1-18,2011

5) 島袋充生,山川 研,益崎裕章,佐田政隆:肥満症と異所性脂肪,

脂肪毒性.日本内科学会雑誌 100 :983-988,2011