第82回 今津幼稚園と今津教会( 6) · kagawagalaxy吉源治・幸の世界(82)...

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KAGAWA GALAXY 吉源治・幸の世界(82) 第 82 回 今津幼稚園と今津教会(6) 上の写真は、宮夙川ロータリークラブの南野武衛(記酒造博物館館)らが纏めた著書(元に はその中の数枚のコピーのみあり書名も刊も未確認)の20にあるもので、写真には「焼け野原と 化した市街地帯 後に甲がえる、森は戎神社」と解説が付けられている。 宮の中部は、昭和2085夜から6の暁にかけて集中爆撃を受けたが、511、65 、69、615、710、719、724と連続的に爆撃を受け、空襲となっ たのが85夜半から6にかけてのものであったようである。 『幼稚園史』に記された「戦時下の保育」

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  • KAGAWA  GALAXY  吉⽥田源治郎郎・幸の世界(82)  

     

     

      第 82 回   今津⼆二葉葉幼稚園と今津⼆二葉葉教会(6)    

    上の写真は、⻄西宮夙川ロータリークラブの南野武衛(⽩白⿅鹿鹿記念念酒造博物館館⻑⾧長)らが纏めた著書(⼿手元に

    はその中の数枚のコピーのみあり書名も刊⾏行行年年も未確認)の20⾴頁にあるもので、写真には「焼け野原と

    化した市街地⼀一帯   後⽅方に甲⼭山が⾒見見える、森は戎神社」と解説が付けられている。  

     

    ⻄西宮の中⼼心部は、昭和20年年8⽉月5⽇日夜から6⽇日の暁にかけて集中爆撃を受けたが、5⽉月11⽇日、6⽉月5

    ⽇日、6⽉月9⽇日、6⽉月15⽇日、7⽉月10⽇日、7⽉月19⽇日、7⽉月24⽇日と連続的に爆撃を受け、⼤大空襲となっ

    たのが8⽉月5⽇日夜半から6⽇日にかけてのものであったようである。  

     

          『幼稚園史』に記された「戦時下の保育」  

     

  •  

     

  •  

     

  •    

    上記の『幼稚園誌』の記述の中にも部分引⽤用されているが、吉⽥田幸が記した「戦時下の保育」という⽂文章

    が残されているので、ここに収めて置く。  

     

      吉⽥田幸「戦時下の保育」(『基督教保育連盟関⻄西部会創⽴立立五⼗十年年記念念誌』昭和40年年より)  

     

  •    

    以下、いま残されている戦前の写真の中から関係するものをいくつか収めて⾒見見たい。      

           

          戦前の写真  

    昭和13年年   ⾚赤組   (右・吉⽥田幸)  

     

  •  軽井沢に於ける基督教保育連盟の集いで(左端・幸   右端・敬⼦子)  

     

        昭和12年年   軽井沢のタッピング邸の庭で(前列列右端・敬⼦子)  

       昭和3年年   軽井沢のタッピング邸の庭で(前列列右端・敬⼦子)  

  •     昭和16年年   幼稚園と⽇日曜学校合同の花の⽇日礼拝  

       

    昭和7年年   幼稚園の⾨門の前   ⼦子どもたちは⼆二葉葉幼稚園⽣生  

        ⺟母の会のドイツ料料理理講習会にドイツ⼤大使館武官が⾒見見えた  

       

  • 昭和20年年正⽉月   四貫島春⽇日出町の写真館にて   3⽉月

    の空襲で焼け出された    

      (前列列中央・吉⽥田幸   右隣隣・摂と敬⼦子   中央・間所

    基)  

      最後に、キリスト教保育連盟発⾏行行『続・キリスト教保

    育に捧げた⼈人々』(1988年年)の中に、前回少し触

    れた「⼤大中寅⼆二」について書き残された⼤大中⾹香代の⽂文

    章があるので、それを収めてこの項を終えることにす

    る。  

     

    次回から戦前の「⼀一⻨麦保育園と吉⽥田源治郎郎」の事を少

    し⾒見見て置きたい。        

     

      (2010年年9⽉月26⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)  

    (2014年年8⽉月30⽇日補正)  

  • KAGAWA  GALAXY  吉⽥田源治郎郎・幸の世界(83)  

        「ヤへ・シバ館」の看板横は賀川豊彦(「神の国新聞」昭和7年年3⽉月9⽇日付)  

     

       第 83 回   ⼀一⻨麦保育園と吉⽥田源治郎郎(1)  

     既に「四貫島セツルメントと吉⽥田源治郎郎」の項に於いて、賀川豊彦が⼤大正15年年10⽉月に家族と共に、兵

    庫県武庫郡⽡瓦⽊木村⾼高⽊木東ノ⼝口に移り住み、翌年年(昭和2年年)1⽉月には杉⼭山元治郎郎が隣隣家に転居して、⽡瓦⽊木

    村を拠点とした新しい動きが開始されて⾏行行ったことは、いくらか詳しく取り上げてきた。  

  •  

    それは、⼤大正14年年に⽶米国留留学と欧州の視察から帰国して、同年年10⽉月より四貫島セツルメントの設⽴立立に

    打ち込む傍ら、時を同じくして吉⽥田源治郎郎は、賀川や杉⼭山らの結成した「⽇日本農村伝道団」の理理事も引き

    受け、賀川宅宅に於ける⼀一⽉月にもわたる農⺠民福⾳音学校の企画をはじめ講師のひとりともなって重要な役割を

    担ってきたこともあり、⽡瓦⽊木村での⽇日本農⺠民福⾳音学校や⼥女女⼦子農⺠民福⾳音学校、児童林林間学校のことにも、⼤大

    凡の経過を追ってきた。  

     

    さらに、賀川の⼩小説『⼀一粒粒の⻨麦』が昭和6年年に出版されその印税も弾みになり、新たに⽡瓦⽊木村⾼高⽊木字南芝

    781の⼟土地を購⼊入して、昭和7年年正⽉月には⽇日本農⺠民福⾳音学校校舎として「⼀一⻨麦寮寮」が完成し、源治郎郎⾃自

    ⾝身も最初から深く関わってきた「イエスの友会」の関⻄西冬期福⾳音学校がここを会場にして開催することが

    恒例例となり、それらに関する経過も毎年年の事として詳しく取り出してきた。従って「⼀一⻨麦」という場所と

    建物は、既に馴染みのものになっているかと思われる。  

     

    そこで今回は上の写真に挙げたように、昭和7年年3⽉月の「ヤへ・シバ館」が「⼀一⻨麦寮寮」の東隣隣に完成し、

    同年年4⽉月1⽇日には、賀川豊彦を園⻑⾧長に、吉⽥田源治郎郎を主事にして始まったという「⼀一⻨麦保育園」の戦前の

    歩みを、⼿手短に取り上げて置きたいと思う。  

     

        梅村貞造講演⽤用資料料「賀川豊彦と⼀一⻨麦寮寮」より  

     

    梅村貞造⽒氏は、現在も⼀一⻨麦保育園の顧問として活躍され、昨年年94回に亘って連載できた「武内勝資料料の

    お宝発⾒見見」の時から数多くの助⾔言と⼿手助けを頂いて来た⽅方である。  

     

    本年年(2010年年)5⽉月から始めることになったこの「吉⽥田源治郎郎・幸の世界」の連載では、吉⽥田摂⽒氏と

    共に多くの貴重な資料料を提供され、不不⼗十分な連載にも毎回適切切なご注意と暖かい励ましを頂いている⽅方で

    ある。  

     

    梅村⽒氏は、⼀一⻨麦保育園のみならず、昭和22年年3⽉月17⽇日に創⽴立立された⽇日本基督教団⻄西宮⼀一⻨麦教会(当時

    は⼀一⻨麦寮寮の2階の畳敷部屋で礼拝が⾏行行われた)に所属し、保育園と教会の重責を現役として担う⼈人である。  

     

    ところで本年年5⽉月31⽇日に、梅村⽒氏より標記の講演資料料「賀川豊彦と⼀一⻨麦寮寮」(以下「講演⽤用資料料」と略略す)

    のコピーを頂いた。50コマほどのパワーポイントの資料料であるが、その中から先ず「賀川が移り住んだ

    当時の⽡瓦⽊木村」の地図と、現在の⼀一⻨麦保育園・⻄西宮⼀一⻨麦教会の案内図を取り出して置く。  

     

  •    

    賀川豊彦は『雲の柱』昭和7年年2⽉月号の「武蔵野より」の欄で、次

    のように書いている。  

     

    ⼀一⻨麦寮寮の完成に続いて「私の今やってゐることは、来るべき5年年間

    のうちに農村へのバラック教会を⼆二百ばかり建てたいことである。

    3間に5間のバラック教会をトタンで葺いて三百五⼗十建ててみたい。

    そんなものを⼆二百欲しい。⼆二百。昼は農村の託児場で、夜はそこで

    農村学校と教会をやりたい。今その⼀一つを摂津武庫川のほとりに建

    てている。」(『賀川豊彦全集』第24巻、139⾴頁)  

     

    ⽇日本農⺠民福⾳音学校の寄宿舎「⼀一⻨麦寮寮」に付属して建てられた「ヤへ・

    シバ館」は「賀川⽒氏設計の農村教会の雛形」で「建坪約15坪、坪

    当たり22円の割で、340円で建てることが出来る。⼈人員は約1

    50名は⼊入れることが出来る。昼は農村託児所に使⽤用し、⽇日曜は礼拝、他の⽇日に祈祷会、毎晩は農⺠民福⾳音

    学校の講堂として使へる。⽡瓦⽊木村では賀川⽒氏夫⼈人令令妹芝⼋八重⼦子⽒氏が寄付されたとて「ヤエシバ館」と命名

    してある。賀川⽒氏は「全国にまづ約⼆二百のかうした農村教会をほしい」といはれる」というコメントは、

    今回の冒頭に挙げた写真の下に説明書きされているものである。(なお、同じ写真は「⽕火の柱」第49号(昭

    和7年年3⽉月)にも掲載されている。)  

     

    右下の「⼀一⻨麦保育園配置図」は「講演⽤用資料料」にある「『⼀一⻨麦寮寮』が建っていた頃の配置図」である。⽂文字

    がつぶれて判読できないが、「⼀一⻨麦寮寮」の⽅方が「保育室」で「保育園舎」とある⽅方には「遊戯室」と書かれ

    ており、これがどうも「ヤへ・シバ館」といわれたところのようである。  

     

    下も「講演⽤用資料料」より  

  •  

     

                 

          梅村貞造「賀川豊彦と⼀一⻨麦寮寮<年年表>」より  

          (2008年年9⽉月7⽇日に⾏行行われて「賀川豊彦講座」で配布された資料料)  

     

    梅村⽒氏は、「賀川豊彦献⾝身100年年」を記念念した「賀川豊彦講座」でも「賀川豊彦と⼀一⻨麦寮寮」のテーマで講

    演を⾏行行っている。その時配布された標記の「年年表」の中から、「⼀一⻨麦発祥以後」から昭和20年年までの箇所

    のみを、講座案内の⾔言葉葉と共に、以下に取り出して置く。  

     

     

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    この年年表は「雲の柱」「⽕火の柱」「神の国新聞」ほか基本的な資料料に当たって仕上げられたもので、192

    6(⼤大正15)年年から2002(平成14)年年までの年年表である。  

     

    なお、改めてこの講座資料料を⾒見見ると、先に⼩小さく収めた「賀川が当時移り住んだ⽡瓦⽊木村」の鮮明な地図が

    「⼀一⻨麦発祥当時の地図<昭和8年年〜~11年年頃>」と付記されて収められていたので、重複するがこれを次

    ⾴頁に収める。  

     

     

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    ⼀一⻨麦保育園は数多くの先進的な保育実践をつみ重ねて、多

    くのところに報告記録が残されている筈であるが、⼿手元に

    持ち合わせているのは、次の2冊の記念念誌だけである。  

     

       

    左の『45周年年記念念誌』は、創⽴立立の翌年年(昭和8年年)4⽉月に主任として着任し、⼀一⻨麦保育園の中⼼心を担っ

    た埴⽣生操の「幼児と⾃自然教育」の実践記録が主に収められ、右の『50年年記念念誌』は、50年年にわたる⼀一

    ⻨麦保育園の卒園⽣生などの寄稿⽂文を編纂したものである。  

     

    次の写真は『50年年記念念誌』の最初に飾られている「最初の園舎(ヤへシバ館)」と説明のある写真である。

    賀川と杉⼭山の顔が⾒見見える。  

     

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    次に、昭和7年年4⽉月「⼀一⻨麦保育園」が賀川豊彦によって創設されてとき主事を担った吉⽥田源治郎郎が、吉⽥田

    幸と連名の⽂文章を『50年年記念念誌』に寄稿しているので、それを読む。  

     

     

  • 次の写真は、これも『50年年記念念誌』に収められている「最初の園舎:

    園庭での保育⾵風景」である。  

     

     

     

    今回の最後に同じ『50年年記念念誌』の中から、昭和8年年第1回卒園⽣生で

    「50周年年実⾏行行委員⻑⾧長」を務めた⽯石⽥田幾⼦子と元職員の松⽥田伊勢⼦子の2篇

    をここに収めさせて頂く。いずれも⼀一⻨麦保育園の創⽴立立期の様⼦子が上⼿手く

    描き出されている作品である。  

     

     

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    今回はここまでとして、次回も戦前の「⼀一⻨麦保育園」を辿り、戦後に進みたいと思う。  

               

              (2010年年9⽉月27⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014年年8⽉月31⽇日補正)