秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ! u ô É v Î { … ·...

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ココで一杯! ココで一杯! ココで一杯! 秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ! 秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ! ~尼崎一低い山(?)の菜切山と、阪神間モダニズムの大庄公民館と~ 尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なっ て優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨 霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田 球場などを巡ります! 尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なっ て優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨 霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田 球場などを巡ります! かつては「尼蚊崎」といわれるほど、蚊の大量発生 する大湿地帯でしたが、戦後復興資金の確保に奔 走していた当時の尼崎市長・阪本勝の招致によっ て尼崎競艇場となりました。競艇場名物として「多 幸焼(たこやき)」(100円6個)があります。見た目 はタコ焼きだが、タコの代わりにコンニャクが入って いて美味です。 ⑭尼崎競艇場 ⑬道意神社・道意新田跡(尼いも) 承応2年(1653)、道意新田の開拓に成功した西 成区海老江(現・大阪市福島区)の中野道意(西 村九郎右衛門)が勧請したのが始まりといいます。 道意は尼崎藩主青山幸利(1616~1684)のお気 に入りの針医でした。また道意新田は尼芋の名産 地でもありました。京阪神の料亭などにも出されて いましたが、戦前、戦後の都市化、工業化によって 幻の尼崎名物となりました。しかし近年、「尼崎市 南部再生プラン」の一環で復興プロジェクトがスタ ートして、尼いもを利用した焼酎「尼の雫」やスイ ーツなどが市販されるようになっています。 ⑫楠霊神社・親子楠 樹齢は200年以上といわれています。武庫川が洪 水したさいに、この楠に登って難をのがれたとか、こ の地が追剥が出没して人々から恐れられたので、 結界として楠が祀られたといった伝承があります。 ⑪武庫川駅 非常に珍しく、鉄橋の上に駅舎があります。「近畿 の駅百選」に選定されています。 ⑩西新田の渡し・旗振り通信(武庫川堤) かつては武庫川を超えるのに西新田の渡しがあり ました。明治4年(1871)の渡賃は旅人1人13文、 船渡は24文、増水時に船頭が2人乗れば48文と いう記録が残っています。また武庫川堤は「旗振り 通信」のポイントでもありました。旗振り通信は、江戸 時代中期に大坂堂島米会所の相場をいち早く他 地域に伝達するため、また地方の相場を大坂に伝 えるために考案されたといいます。昭和56年(19 81)の実験では25の中継点を設定し、大阪市堂島 ~岡山市京橋間(約167キロメートル)を2時間17 分で通信することに成功しています。電話や電信 がない時代でも、中央・地方の情報が想像以上の スピードでやり取りされていた事実が判ります。 ⑨雉ガ坂伝説 天正10年(1582)、本能寺の変を知った秀吉一行 が備中から「中国大返し」していたさいに、ひとりの 農夫が川向うの雉が慌ただしく飛び立つのを見て 異変に気づき、明智軍が待ち伏せしていると秀吉 に伝え、道を変えて難を逃れたという伝承がありま す。のちに天下人となった秀吉は農夫の功績を讃 えるために捜索しましたが再会できなかったので、 この付近の雉の捕獲を禁じて、尼崎の民にお礼と して田池(礼田池=イヤデン)を与えたといいます。 歴史に「if」はありませんが、もしこのとき、尼崎の農 夫の一言がなかったら、日本の歴史が変わってい たかも知れません。 ⑧契沖歌碑(口ノ開公園内) 「武庫の浦の わだの岬に 寄る浪の ここにも掛くる 天の橋立」の契沖の歌碑があります。契沖(1640 ~1701)は尼崎生まれの真言宗僧侶であり、古典 学者(国学者)です。 ⑦大庄公民館 昭和12年(1937)竣工。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建ての建 築物で、設計者は戦後日本を代表する建築家・村野藤吾です。茶褐色 の美しいタイルと、格調高い動植物のレリーフが飾られているのが特徴的 です。国の登録有形文化財。 ⑥元阪神浜田球場 元は阪神電鉄の路面電車路線「阪神国 道線」の車庫でしたが、国道線が廃線とな ったために跡地利用として、阪神タイガー スの二軍専用グラウンドとして昭和54年( 1979)に竣工しました。真弓、掛布、岡田、 バースといった往年の大選手も練習場とし て使用していましたが、平成6年(1994)に 阪神鳴尾浜球場に二軍専用グラウンドが 完成し、現在は草野球の球場となってい ます。 ⑤菜切山(伝・武内宿禰塚) 浜田にある浄専寺は山号を宿禰山といい、長禄元年 (1457)に蓮如に帰依した武内貞之(法名紹郡)が建 立したもので、歴代住職の武内家は、武内宿禰の末 裔といいます。その武内家の古文書によれば菜切山 は竹内宿禰の墳墓といいます。戦前の調査では前方 後円墳であったという記録もありますが、昭和10年代 の土地区画整理のために幹線道路となり、従来の半 分足らずの規模になりました。現在は市の管理で菜切 山緑地として保存しています。また、かつては旧暦5月 の節句には牛が丈夫になる様に牛に化粧回しをつけ て塩鯖や粽をぶら下げて3度回らせて帰る「牛回し」の 祭事場でもあったといいます。 ④崇徳院(町名) 旧浜田村で、近世以前から小字名「崇徳院」がありま した。保元の乱(1156年)で後白河院に敗れた崇徳 上皇が讃岐に流される途中に当地の浜田荘園で休息 したといい、上皇の死後に村人たちが上皇を憐れんで 霊を祀ったことが由来といいます。これだけ聞くと美談 ですが、じつは浜田荘園は後白河院の粟田宮に寄進 された荘園で、それだけに怨霊神となった上皇に祟ら れないように、手厚く祀ったのかも知れません。真相は 謎ですが。 ③阪神電車71形74号 (蓬川公園内) 昭和12年(1937)に汽車製造(東京)にて製造され、 昭和50年(1975)に廃車されました。同時期に登場し た大阪市電901形、神戸市電700形、京都市電600 形と並んで、戦前の関西を代表する路面電車としてマ ニアに知られています。ちなみに近くの水明公園(尼崎 市水明町)にも「71形71号」が静態保存されています。 ②中国街道 江戸時代の主要街道で、大名行列もここを利用しま した。享保13年(1728)に広南(ベトナム)から中国の 貿易商・鄭大成が象を連れてきて、それが将軍・徳川 吉宗に献上されることとなり、長崎から江戸まで象が歩 きましたが、そのさいも中国街道を利用しています。 ①琴浦神社 神社の御祭神は嵯峨源氏の祖である源融(822~8 95)で、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏のモデ ルとしても有名です。源融は六条河原院(現・渉成園) を造営したといい、陸奥国塩釜の風景に似せるため、 毎日、琴浦で汲ませた30石(約5.4トン)の海水を院に 運んで塩を焼かせたといいます。ちなみに尼崎市潮 江の素戔嗚神社にも同様の伝承が残っています。 10 11 12 13 14 主催:あますい!プロジェクト実行委員会(尼崎小売酒販組合、尼崎商工会議所、まちらぼ) マップ制作:まちらぼ(監修:むつさとし、イラスト:フジワラトモコ、みやけまさよ) このまち歩きマップは尼崎をまち歩きと立ち飲みで盛り上げる「あますい!」用資料です。■お問合せ:06-6411-2252(尼崎商工会議所)

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Page 1: 秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ! u ô É v Î { … · 95)で、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏のモデ ルとしても有名です。源融は六条河原院(現・渉成園)

ココで一杯!

ココで一杯!

ココで一杯!

⑭尼崎戎神社

秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ!秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ!~尼崎一低い山(?)の菜切山と、阪神間モダニズムの大庄公民館と~

尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なって優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田球場などを巡ります!

尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なって優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田球場などを巡ります!

かつては「尼蚊崎」といわれるほど、蚊の大量発生

する大湿地帯でしたが、戦後復興資金の確保に奔

走していた当時の尼崎市長・阪本勝の招致によっ

て尼崎競艇場となりました。競艇場名物として「多

幸焼(たこやき)」(100円6個)があります。見た目

はタコ焼きだが、タコの代わりにコンニャクが入って

いて美味です。

⑭尼崎競艇場

⑬道意神社・道意新田跡(尼いも)

承応2年(1653)、道意新田の開拓に成功した西

成区海老江(現・大阪市福島区)の中野道意(西

村九郎右衛門)が勧請したのが始まりといいます。

道意は尼崎藩主青山幸利(1616~1684)のお気

に入りの針医でした。また道意新田は尼芋の名産

地でもありました。京阪神の料亭などにも出されて

いましたが、戦前、戦後の都市化、工業化によって

幻の尼崎名物となりました。しかし近年、「尼崎市

南部再生プラン」の一環で復興プロジェクトがスタ

ートして、尼いもを利用した焼酎「尼の雫」やスイ

ーツなどが市販されるようになっています。

⑫楠霊神社・親子楠

樹齢は200年以上といわれています。武庫川が洪

水したさいに、この楠に登って難をのがれたとか、こ

の地が追剥が出没して人々から恐れられたので、

結界として楠が祀られたといった伝承があります。

⑪武庫川駅

非常に珍しく、鉄橋の上に駅舎があります。「近畿

の駅百選」に選定されています。

⑩西新田の渡し・旗振り通信(武庫川堤)

かつては武庫川を超えるのに西新田の渡しがあり

ました。明治4年(1871)の渡賃は旅人1人13文、

船渡は24文、増水時に船頭が2人乗れば48文と

いう記録が残っています。また武庫川堤は「旗振り

通信」のポイントでもありました。旗振り通信は、江戸

時代中期に大坂堂島米会所の相場をいち早く他

地域に伝達するため、また地方の相場を大坂に伝

えるために考案されたといいます。昭和56年(19

81)の実験では25の中継点を設定し、大阪市堂島

~岡山市京橋間(約167キロメートル)を2時間17

分で通信することに成功しています。電話や電信

がない時代でも、中央・地方の情報が想像以上の

スピードでやり取りされていた事実が判ります。

⑨雉ガ坂伝説

天正10年(1582)、本能寺の変を知った秀吉一行

が備中から「中国大返し」していたさいに、ひとりの

農夫が川向うの雉が慌ただしく飛び立つのを見て

異変に気づき、明智軍が待ち伏せしていると秀吉

に伝え、道を変えて難を逃れたという伝承がありま

す。のちに天下人となった秀吉は農夫の功績を讃

えるために捜索しましたが再会できなかったので、

この付近の雉の捕獲を禁じて、尼崎の民にお礼と

して田池(礼田池=イヤデン)を与えたといいます。

歴史に「if」はありませんが、もしこのとき、尼崎の農

夫の一言がなかったら、日本の歴史が変わってい

たかも知れません。

⑧契沖歌碑(口ノ開公園内)

「武庫の浦の わだの岬に 寄る浪の ここにも掛くる

天の橋立」の契沖の歌碑があります。契沖(1640

~1701)は尼崎生まれの真言宗僧侶であり、古典

学者(国学者)です。

⑦大庄公民館

昭和12年(1937)竣工。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建ての建

築物で、設計者は戦後日本を代表する建築家・村野藤吾です。茶褐色

の美しいタイルと、格調高い動植物のレリーフが飾られているのが特徴的

です。国の登録有形文化財。

⑥元阪神浜田球場

元は阪神電鉄の路面電車路線「阪神国

道線」の車庫でしたが、国道線が廃線とな

ったために跡地利用として、阪神タイガー

スの二軍専用グラウンドとして昭和54年(

1979)に竣工しました。真弓、掛布、岡田、

バースといった往年の大選手も練習場とし

て使用していましたが、平成6年(1994)に

阪神鳴尾浜球場に二軍専用グラウンドが

完成し、現在は草野球の球場となってい

ます。

⑤菜切山(伝・武内宿禰塚)

浜田にある浄専寺は山号を宿禰山といい、長禄元年

(1457)に蓮如に帰依した武内貞之(法名紹郡)が建

立したもので、歴代住職の武内家は、武内宿禰の末

裔といいます。その武内家の古文書によれば菜切山

は竹内宿禰の墳墓といいます。戦前の調査では前方

後円墳であったという記録もありますが、昭和10年代

の土地区画整理のために幹線道路となり、従来の半

分足らずの規模になりました。現在は市の管理で菜切

山緑地として保存しています。また、かつては旧暦5月

の節句には牛が丈夫になる様に牛に化粧回しをつけ

て塩鯖や粽をぶら下げて3度回らせて帰る「牛回し」の

祭事場でもあったといいます。

④崇徳院(町名)

旧浜田村で、近世以前から小字名「崇徳院」がありま

した。保元の乱(1156年)で後白河院に敗れた崇徳

上皇が讃岐に流される途中に当地の浜田荘園で休息

したといい、上皇の死後に村人たちが上皇を憐れんで

霊を祀ったことが由来といいます。これだけ聞くと美談

ですが、じつは浜田荘園は後白河院の粟田宮に寄進

された荘園で、それだけに怨霊神となった上皇に祟ら

れないように、手厚く祀ったのかも知れません。真相は

謎ですが。

③阪神電車71形74号(蓬川公園内)

昭和12年(1937)に汽車製造(東京)にて製造され、

昭和50年(1975)に廃車されました。同時期に登場し

た大阪市電901形、神戸市電700形、京都市電600

形と並んで、戦前の関西を代表する路面電車としてマ

ニアに知られています。ちなみに近くの水明公園(尼崎

市水明町)にも「71形71号」が静態保存されています。

②中国街道

江戸時代の主要街道で、大名行列もここを利用しま

した。享保13年(1728)に広南(ベトナム)から中国の

貿易商・鄭大成が象を連れてきて、それが将軍・徳川

吉宗に献上されることとなり、長崎から江戸まで象が歩

きましたが、そのさいも中国街道を利用しています。

①琴浦神社

神社の御祭神は嵯峨源氏の祖である源融(822~8

95)で、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏のモデ

ルとしても有名です。源融は六条河原院(現・渉成園)

を造営したといい、陸奥国塩釜の風景に似せるため、

毎日、琴浦で汲ませた30石(約5.4トン)の海水を院に

運んで塩を焼かせたといいます。ちなみに尼崎市潮

江の素戔嗚神社にも同様の伝承が残っています。

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主催:あますい!プロジェクト実行委員会(尼崎小売酒販組合、尼崎商工会議所、まちらぼ)

マップ制作:まちらぼ(監修:むつさとし、イラスト:フジワラトモコ、みやけまさよ)

このまち歩きマップは尼崎をまち歩きと立ち飲みで盛り上げる「あますい!」用資料です。■お問合せ:06-6411-2252(尼崎商工会議所)