罪悪感再考:対象関係と愛他性を視点として...kohutは罪悪感をもって欲動論を表徴させたわけだが,そこでの暗黙の前提は,...

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79 罪悪感再考 :対象 関係 と愛他性 を視点 として 〔要 旨〕 まず精神分析においてこれまで罪悪感が どう考えられてきたかその変遷をたどり,欲 動 と罪悪感 との関連を検討 した。 ついで古典的な欲動論 とは違った視点,つまり関係性の観点から罪悪感を論 じた。そ こでは「道徳的防衛」 , 「肩代わ りの罪悪感」. 「生存者の罪悪感」 , 「見捨てられ抑う 」, 「分離への罪悪感」 といった概念を取上げたC またそこに関与する動機 として,自己保全的動機 (悪い対象への防衛) と愛他性を基 盤 とした対象保全的動機 (傷ついた対象への共感)を考察 し,とくに後者の重要性を指 摘 した。 最後に関係性起源の罪悪感か ら二次的に派生する心理力動を論考したO 〔キーワー ド〕 罪悪感,分離への罪悪感,対象関係.愛他性,共感 1 . 「罪ある人間」 と欲動論 「罪ある人間 guiltymanの心理学」と 「悲劇人間 trag icmanの心理学」。 これは新 しい精 神分析の流れつまり自己心理学 を,古典的な自我心理学 と対比 させた際,創始者である Kohut みずからが,掲げた標語である。Kohut(1977)はい う。 幅広い見地からみれば,人間の機能は二つの方向をめざしているとみなされるべ き だ と私 には思 える。 も し目標 が欲 動 の活動 に向 け られ て い れ ば, これ を罪 責 人 間 セル 7 ( guiltyman) とよび,目標 が 自己の充足 に向け られていれば,これ を悲劇人間(trag ic man)とよぶ。いますこし敷桁すれば,罪責人間は快楽原則内で生 きる。つまり快 楽 を追求する欲動 を満足 させ,性感帯 に生 じる緊張 を減 じようと試みる。人間は しば しば同圃の圧力だけでな く, とりわけ内的葛藤の結果,この領域で目標 を達成するこ とがで きない とい う事実が, この脈絡 に沿 って人間がみ られる ときに,私 を してその 人 間を罪責人 間 とよばせ るのである (邦訳 plO3強調 は著者)。 つ ま り罪責人間 とは 「欲動 に刺激 され,去勢不安 と罪責感 に束縛 された人 間」(同書 p185) の ことであ り , 「欲動 と対象 についての古典 的理論 は,子供 のエデ ィプス体験 に関 して非常 に 多 くのことを説明する。 とりわけそれは,子供の葛藤, とくに子供の罪責感 について説明を与 えて くれる」(同書 p178) 。 しか しなが ら古典的な 「欲動理論 とその発達は,罪責人間を説明 しはす るが,悲劇人 間を説明 しは しないJ(ibid .). 一方,悲劇人間とは, 自己の形成途上で,自己対象から充分な共感的応答が得 られず,自己

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として

高 森 淳

〔要 旨〕

まず精神分析においてこれまで罪悪感がどう考えられてきたかその変遷をたどり,欲

動と罪悪感との関連を検討した。

ついで古典的な欲動論とは違った視点,つまり関係性の観点から罪悪感を論じた。そ

こでは 「道徳的防衛」,「肩代わりの罪悪感」.「生存者の罪悪感」,「見捨てられ抑うつ」,

「分離への罪悪感」といった概念を取上げたC

またそこに関与する動機として,自己保全的動機 (悪い対象への防衛)と愛他性を基

盤とした対象保全的動機 (傷ついた対象への共感)を考察し,とくに後者の重要性を指

摘した。

最後に関係性起源の罪悪感から二次的に派生する心理力動を論考したO

〔キーワード〕 罪悪感,分離への罪悪感,対象関係.愛他性,共感

1.「罪ある人間」と欲動論

「罪ある人間guiltymanの心理学」と 「悲劇人間tragicmanの心理学」。これは新 しい精

神分析の流れつまり自己心理学を,古典的な自我心理学と対比させた際,創始者であるKohut

みずからが,掲げた標語である。Kohut(1977)はいう。

幅広い見地からみれば,人間の機能は二つの方向をめざしているとみなされるべき

だと私には思える。もし目標が欲動の活動に向けられていれば,これを罪責人間セ ル7

(guiltyman)とよび,目標が自己の充足に向けられていれば,これを悲劇人間(tragic

man)とよぶ。いますこし敷桁すれば,罪責人間は快楽原則内で生きる。つまり快

楽を追求する欲動を満足させ,性感帯に生じる緊張を減じようと試みる。人間はしば

しば同圃の圧力だけでなく,とりわけ内的葛藤の結果,この領域で目標を達成するこ

とができないという事実が,この脈絡に沿って人間がみられるときに,私をしてその

人間を罪責人間とよばせるのである (邦訳 plO3強調は著者)。

つまり罪責人間とは 「欲動に刺激され,去勢不安と罪責感に束縛された人間」(同書p185)

のことであり,「欲動と対象についての古典的理論は,子供のエディプス体験に関して非常に

多 くのことを説明する。とりわけそれは,子供の葛藤,とくに子供の罪責感について説明を与

えてくれる」(同書p178)。しかしながら古典的な 「欲動理論 とその発達は,罪責人間を説明

しはするが,悲劇人間を説明しはしないJ(ibid.).

一方,悲劇人間とは,自己の形成途上で,自己対象から充分な共感的応答が得られず,自己

Page 2: 罪悪感再考:対象関係と愛他性を視点として...Kohutは罪悪感をもって欲動論を表徴させたわけだが,そこでの暗黙の前提は, 罪悪感は 欲動と不即不離,不可分というものであろう。つまりKohutは「深刻な罪悪感が必ずしもエ

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愛が損傷し,自己が断片化したり,枯渇したひとのことである。古典的な精神分析と相違して

Kohutは,自己愛とは元来,健康なもので,また発達途上において自己対象によって充足さ

れるべきものと考えた (彼の考える自己愛は対象関係的性質のものである)。つまり子どもの

自己愛は,親からの鏡映と親の理想化によって充足されるべきと考えた。そして,その過程が

頓挫したのが悲劇人間である。そうしたひとでは,罪責人間を特徴づける罪悪感や去勢不安よ

りも,蓋恥,愛情の喪失,愛情対象の喪失といった体験の方が顕著である (1971)。そこに見

られる,早期の自己愛的損傷を癒したいという希求は,快感原則の持外にある。

Kohutは欲動論のもつ弊害をするどく別扶し,自らが主導していた自我心理学から離脱 し

てゆき,ついには古典的な欲動論を放棄するにいたる。そうしたKohutの指摘が重要である

ことはいくら強調してもしたりない。しかしながら翻って,罪悪感の視座から「罪責人間」,「悲

劇人間」という標語を眺めたとき,そこにある疑問が感じられないだろうか。つまり,自己愛

的傷つきを抱えた悲劇人間において罪悪感はほとんど問題とならないのかという疑問である。

Kohutは罪悪感をもって欲動論を表徴させたわけだが,そこでの暗黙の前提は,罪悪感は

欲動と不即不離,不可分というものであろう。つまりKohutは 「深刻な罪悪感が必ずしもエ

ディプス ・コンプレックスと関連しているわけではない」(Modell1984p56),とは考えなか

った。少なくとも自覚的にはそうである。

それでは悲劇人間においては罪悪感が臨床的にまったく問題とならないのかといえば,そう

ではない。「自己愛的問題を抱えたひとは,エディプス ・コンプレックスとは無関係な早期の

発達的障害をこうむっているわけだが,実際のところ,強烈な無意識的罪悪感にさいなまれる」

(ibid.)。したがって,欲動論を退けるのと一緒に罪悪感の問題を閑却してしまうのは,産湯

と一緒に赤子を捨ててしまうことになりかねない。

いや,そんなことはないだろう。なぜなら,罪悪感は閑却されるどころか,これまですでに

さんざん,いわば特権的に狙上に載せられてきたのだから,という主張もあるだろう。しかし,

これまで問題にされてきた罪悪感とはもっぱら欲動と関連した罪悪感であった。つまり罪悪感

は性衝動や攻撃衝動に対して生じるという考えが暗黙の前提となって,そうした土俵のうえでEHu

のみ議論されてきたにすぎないのである。

悲劇人間で問題となる罪悪感とは,欲動とは関係のない別種の罪悪感である。実際のところ,

欲動と関係しない罪悪感はこれまで等閑視されてきたのである。それらはプロクルステスの寝

台よろしく無理やりエディプス ・コンプレックスにおける罪悪感に還元されてきたのではない

か。つまり罪悪感についてこれまで実際には欲動というある限られた局面との関連でしか把握

されてこなかったにもかかわらず,それで全部をつくした,事足れりとしてきたのではないか。

ここでいう欲動 と無関係な罪悪感 とは,健康な自己愛の傷つきにおいて生 じる罪悪感-

Kohutの用語を転用すれば悲劇人間に特有の罪悪感-,関係のなかで生じる罪悪感,つまり

は関係性起源の罪悪感である。これを本論の主題としたい。

本論の目的は主につぎの2点にある。

① :罪悪感を古典的な欲動論 (性欲動,攻撃欲動)の参照枠から取りだして,別の角度つま

り関係性の視点から照明すること。

② :関係性を起源とする罪悪感を論ずる際,それに関連する動機として,自己保全的動機(悪

い対象への防衛)と愛他性基盤とした対象保全的動機 (傷ついた対象への共感)をあわ

せて考察し,とくに後者の重要性を指摘すること。

そこでまず,(1)精神分析においてこれまで罪悪感がどう考えられてきたか,その変遷を

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たどる。具体的には (a)Freud,(b)Klein,(C)winnicottの考えを吟味する。Freud

とKleinの概念化においては,欲動と罪悪感の関係を検討する。Freud の考える罪悪感では,

糾弾するものとしての攻撃性が重視されている。Kleinでは,攻撃性はむしろ糾弾されるもの

であり,罪悪感の必須の構成契機として対象-の愛が導入される。Winnicottの概念化の検討

では,彼の論点が,罪悪感よりもむしろ健康な自己愛の発達にあることを明らかにし,またそ

こから逸脱することで生じる罪悪感の存在を示唆する。

(2)ついで古典的な欲動論とは違った視点から,つまり関係性を光源として罪悪感を照ら

しだす。これによって欲動起源の罪悪感と関係性起源の罪悪感とを対照させたい。

対象関係から罪悪感を検討するが,便宜的に一体化一分離という関係性のスペクトラムの二

極区分に対応させて論じる。つまり対象との一体化 ・愛着を保持しようとすることで生じる罪

悪感と対象との共生関係から分離し,個体化しようとすることで体験される罪悪感とである。

検討される具体的な概念は,(a)Fairbairnの「道徳的防衛」,(b)「肩代わりの罪悪感」,(C)

「生存者の罪悪感」,(d)Mastersonの 「見捨てられ抑うつ」,(e)Modellのいう 「分離へ

の罪悪感」である。

(f)また関係性起源の罪悪感を論 じる際,罪悪感の発生に関与する動機として,自己保全

的動機 (悪い対象-の防衛)と対象保全的動機 (傷ついた対象-の共感)とを合わせて考察す

る。この2つの動機は,依存関係における受動的立場一能動的立場に対応している。2つの動

機のうちとりわけ後者,対象保全的動機に比重をおいて論じる。それは,対象保全的動機が,

これまで等閑視されてきたためである。対象保全的動機とは,具体的には対象への愛,共感,

治療衝迫という愛他性を基盤とするものである。そうした対象保全的動機から生じる罪悪感は,

関係性起源の罪悪感のなかでも,「共感を起源とする罪悪感」と呼べる。とくに肩代わりの罪

悪感,生存者の罪悪感,分離への罪悪感について,この対象保全的動機,つまり傷ついた対象

への共感の観点から論じる。

(3)最後に関係性に起源する罪悪感から二次的に派生する心理力動をLaingのいう 「本当

の罪」,「偽 りの罪」の視点から論考する。

以上のような論考を試みるのは,理論的研究として重要であるという以上に,臨床において

クライエントの罪悪感と適切に向き合うために必要だからである。

2.欲動起源の罪悪感 :FreudとKlein

2-1.Freud:処罰型罪悪感

まずFreudの考えまで遡ろう。Freudの考える罪悪感は,去勢不安,エディプス ・コンプ

レックス,超自我といった考えと密接に関連している。Freudはまた,文化が進歩してゆく

ためには,罪悪感によって幸福感が損なわれるのはやむをえないと考えており,罪悪感をある

種の精神的達成と考えている。

Freudの理論において,罪悪感は構造論的観点から,超自我と自我の緊張関係として捉え

られている。たとえばFreudはつぎのように述べる。「道徳的罪悪感が自我と超自我との間の

緊張の表現であるということは,一見して明瞭」である (1933邦訳p436)。緊張関係とは,

超自我から自我に向けられる攻撃性によって生じるもので,具体的にいえば超自我は監視,刺

御,批判,威嚇,懲罰を自我にさし向けるのである。

Freudは,罪悪感の形成過程 として2つの段階を挙げている。子どもが,欲動の充足を断

念するのは,まず初めの段階では,優位に立つ他者 (権威者,多くの場合,親)に攻撃される

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という不安によってである。この不安が去勢不安である。(子どもが欲動充足を断念する動機

として,依存せざるをえない他者から愛情を失うまいとすることも挙げられはするが,実際,

そこでいう愛情とは懲罰という攻撃からの庇護を意味するものでしかない。)

欲動充足の断念については,以下のようにも述べている。「良心こそは,性生活の対立物な

のです。性生活は実際に生の初めから存在しているもので,後になって付け加わってきたもの

ではありません。ところが幼児は周知の如く無道徳であり,快楽追求の衝動を制御 しようとす

る内的な阻止力を持っていません。」そのため欲動充足を阻止する役割は,「初めはある外的権

力が,つまり両親の権威が引き受けているのです。両親の影響は,愛の表示による許容と罰に

よる威嚇とによって子供を支配します」(1933邦訳p437)。

こうした段階に次いで,優位に立つ他者 (父親)が内面化される。それはエディプス ・コン

プレックスの解消にともない,母親への近親姦的恋着と父親-の攻撃性 (あわせていえば両親

への対象充当)を断念せざるをえず,この対象喪失を埋め合わせるために,親との同一化が促

進された結果である。こうした過程によっていわゆる超自我が形成される。良心をめぐる現象

で,罪悪感や良心といった言葉を本来的意味で使用できるのは,超自我が形成された後である。

「この局面においては外的抑制は内面化され,超自我が両親の法廷にとって代わり,今や超

自我が自我を,むかし両親が子供に対してなしたようにきびしく監視し,制御し,威嚇する」

(ibid.)。そして,「超自我は罪深い自我を,現実の懲罰-の恐怖と同様の不安感で苦 しめ,

折あらば外界を使って自我に懲罰を加えようとその機会を窺っている」(1930S.E.21p125)。

こうした超自我の攻撃性は,優位にたつ他者 (親)の攻撃性を引き継いだものである。つまり

子どもの超自我と自我との関係は,親と自分の関係を内面において引き写したものである。

しかしながら,ここでこうした理解では説明できない現象にであう。つまり親の教育やしつ

けが寛大で親が嚇Lや懲罰を避けた場合でも,子どもに過度に峻厳な超自我が形成される現象

が見られるのである。この事実からFreudは,超自我がもっている攻撃エネルギーの源泉と

して,先に挙げた親の攻撃性に加えて,子ども自身の攻撃性を挙げ,この2種類を区別しない

といけないとした。つまりそれらは,「外部の権威者から単に継承され,こころの内側で活動

しつづけている懲罰的エネルギー」と 「子ども自身の攻撃エネルギーで,これまで未使用だっ

たが,自分の欲動充足を禁止する権威者-向けられるようになったもの」(1930S.E.21p137

f)の2つである。後者の対象-の攻撃性は,攻撃の標的が対象から自分自身-置き換わるこ証2

とで,超自我の攻撃性として働 くようになる。Freudは,この自分自身-内転 した攻撃性に

よって,子どもの超自我の峻厳さがしばしば親の厳格さと見合わない現象を説明した。

対象-の攻撃性を自分自身に向け代える心理機制が働 くために 「攻撃を制御すればするだけ,#3

その自我理想 (超自我)の自我に対する攻撃傾向は昂進する」(1923邦訳p296)。こうしたこ

とから,「『あまりに寛大で甘い」】父親だと,子どもの超自我が,過度に厳 しいものとなってし

まう。なぜなら,愛情を注がれるために,子どもは自分の攻撃性を内側,つまり自分自身に向

けること以外に,攻撃性のはけ口をもたないからである」(1930S.E.21p130)。

Freudは,超自我の攻撃性の源泉として,この2種類のものは矛盾するようだがそうでは

ないとし,続いてこう述べる。「2種類の源泉に本質的かつ共通する要因として残るのは,ど

ちらにおいても内部に向けかえられた攻撃性が議論の焦点となっているということだ」(1930

S.E.21p138)0 「結局,罪悪感に変換されるのは攻撃性だけである。攻撃性は抑圧され,超自

我に譲り渡される。罪悪感の派生物について精神分析の所見を攻撃本能に限定すれば,心的過

程の多くはより単純明快に説明されると確信している」(ibid.)0

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以上が,Freudが罪悪感をどう捉えたかの骨子である。そこから窺えるのは,Freudが罪

悪感を問題にする際,攻撃性に着目するということだ。つまり最初の段階では,外在する親か

らの攻撃,のちにはそれが内在化した超自我からの攻撃。超自我からの攻撃性には,内在化し

た他者からの攻撃性に加えて,内転した自己の攻撃性が合流する。

体験される罪悪感については,懲罰による自己損傷の怖れ,つまり去勢不安がその内容であ

る。外在的な親の権威が内在化する以前では,それは文字通り去勢への不安であり,長じては

去勢によって象徴される不安である。Freudは,「去勢の不安は,その周囲にのちになって良

心の不安が集積する中核であるらしく,それは良心の不安としてひき継がれる」(1923邦訳p並1

298)と述べているQ

MooreとFine(1990)の編集した精神分析の術語辞典では,罪悪感は以下のように説明さ

れている。

自己の内外からさし向けられる報復を恐れる気持ち,後悔,悔恨,悔悟を含んだ一

群の感情。その中核にあるのは,ある型の不安であるが,不安の根本をなす観念的内

容は次のようなものである。すなわち,「もし誰かを傷つければ,今度は自分が傷つ

けられる」(p83)0

しかし果たしてこれはふつうにいう罪悪感であろうか。それは批判や処罰, 攻撃に曝されるタ1Jオン 証5不安であり,同害復讐-の恐怖である。一般にこれを罪悪感とは呼ばないだろう。超自我不安

と呼ぶほうが適切である。実際,Freudは,「罪悪感は根本的には,不安の局所的な一変種に

他ならない。のちの段階では,超自我への恐怖とまったく一致する」(1930S.E.21p135強調

は著者)と述べている。

ここで,たとえば聖ペテロのことを考えてみよう。(といっても,むろん神学的な議論とし

てではなく,心理学的な一事例としてである。)イスカリオテのユダの裏切 りによって,イエ

スが祭司長らの遣わした群集に捕縛されたとき,ペテロは,このひとはナザレの人イエスと一

緒だったと三たび摘発され,三たびそれを否定する。この状況はわが身に火の粉が降りかかり

処罰の危険に曝された事態である。そのときペテロの感じていた心理状態を罪悪感として理解

するひとはないだろう。

ペテロが三度目に,誓ってそのひとのことは何も知らないと激 しく否定した剰那,鶏が鳴く。

ペテロは,鶏が鳴く前に三たび自分を否定するであろうとイエスから事前に告げられていたこ

とを思い出し働笑する。

その心情は罪悪感の名に値する。ペテロが地上的生の最後にいたるまで,つまり逆さ傑刑に

処せられるまでイエスに縛りつけられていたのは,この夜の出来事のためであった。これを攻

撃性からどう説明するのであろうか。それは後悔から生じた罪悪感である。

Freudが罪悪感についてどう考えたか,その中核は上述した。しかしFreudは後悔 と罪悪

感の関係についても論及している。彼によれば,後悔とは攻撃性が実際に満足させられたあと

に生じる心理的な反応である (1930)0

後悔の起源,人類初の後悔についてFreudは,「トーテムとタブー」(1912)で展開した(お

手盛りの)原父殺害神話をもち出す。「この後悔は,父親に対 して息子たちが抱いていた原初

のアンビヴァレンツから生じたものであった。息子たちは父親を憎んでいた。しかし,愛して

もいたのである。殺害という攻撃的行為によって憎しみが満足させられたあとに,自分たちの

所業-の後悔という形で,父親-の愛情が前面に現われたのである。そして父親との同一化に

よって超自我が確立された」(1930S.E.21p132)0

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この説明で重要なのは,罪悪感を導く後悔には,攻撃性に加えて対象への愛が必要であると

されている点だ。もっぱら攻撃性から罪悪感を考察するのとは違った視点がここには導入され

ている。Freudはこれに続けて 「良心の起源には愛 (love)が一役買っている」,「罪悪感は,

アンビヴァレンツに起因する葛藤のあらわれである。それは,エロスと破壊本能 (あるいは死

の本能)とのあいだで永遠に繰 り広げられる闘いのあらわれである」(ibid.)と述べている。

この視点はKleinへと受け継がれる。

しかしながら,すでに述べたようにFreudの記述する罪悪感,ひいては神経症論では去勢

という懲罰への不安,攻撃-報復への恐怖が主要な位置を占めている。仮にこうした恐怖心をタ リ オ ン

罪悪感と呼ぶならば,それは処罰型罪悪感 (小此木 1982,1997),同書復讐型罪悪感とでも称

すべきだろう。ここでは,性衝動,攻撃衝動に対して,内在化した攻撃性が対抗するという緊

張関係から罪悪感が生じると考えられている。成立機序には自我へ向けられる超自我の攻撃性

が重視されている。

ところでペテロの罪悪感は,仮にFreudのいうように,後悔を,攻撃欲動が実際に満足さ

せられたあとに生じる心理的な反応と考えてみたところで説明されはしないだろう。イエスを

否定するという攻撃欲動が満足させられた結果,もとの超自我と自我の力関係が回復し後悔が

生じた,とでもいうのであろうか。

しかしそういうことではないだろう。ペテロに要求されたことをよく考えれば,それはイエ

スと共にある者であることを白状することであった。罪悪感が生じたのは,ペテロがイエスと

ふたたび杵を結び (religare),イエスと共にある者となったからではないだろうか。あるい

は罪悪感が生じたことで,ペテロはふたたびイエスと共にある者となったのではないか。

話が先に進みすぎてしまった。古典的な精神分析理論で罪悪感がいかに理解されてきたかを

追う作業にもどろう。次にKleinをとりあげる。Kleinの理論体系は精神分析の第二の出発点

である。

2-2.Klein:愛と償い

前節の終わりにFreudの,「罪悪感は,アンビヴァレンツに起因する葛藤のあらわれである。

それは,エロスと破壊本能 (あるいは死の本能)とのあいだで永遠に繰 り広げられる闘いのあ

らわれである」という言葉を紹介した。KleinはFreudのこの知見を発展させ,罪悪感を生

の本能と死の本能の角逐,愛憎のアンビヴァレンツとして考えた。

Kleinは,心のありかた (体験様式)として2種類を区別 した。妄想一分裂態勢とそれに続

く抑うつ態勢である。

妄想一分裂態勢では被害感と攻撃性が支配的であり,被害感と攻撃性は相互に強化しあう。

そこでの不安は,自我が壊滅させられるのではないかというものであり,これは被害妄想的不

安 (persecutoryanxietyあるいはparanoidanxiety)と称される。抑うつ態勢では罪悪感と

対象への償いが主要な心理的主題となり,そこでの不安は自己の破壊的衝動によって愛情対象

が損傷したのではないかというものである。これは抑うつ不安と呼ばれる。

#6

罪悪感は基本的に抑うつ態勢にかかわる心性であり,抑うつ不安の中核に位置する。抑うつ

態勢において子どもはある衝撃的事実に気づきはじめる。それは,充足を与えてくれる良い対

象と欲求不満をひき起こす悪い対象とが同一だという事実である。良い対象は自分が愛し所有

したいと熱望していた対象である。一方,悪い対象は憎み排撃していた対象である。またそれ

は反対に自分と良い対象に危害を加えてくる対象でもある。抑うつ態勢以前,子どもの主観的

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世界ではそれら二つの良い対象と悪い対象は全 く別個のものと体験されていた。

今やそれが実は同一の対象であることが子どもにわかってくる。つまり 「欲求が充たされる

が同一であると認識 しはじめる。ここでは 「ひとつの対象に向かう破壊衝動 と愛 との総合」

(1948邦訳 p45強調は著者)が問題となる。体験様式,認知様式としてみれば,分裂的で局

所的なありようから統合的,全体的様式へと移行するわけである。

この過程で愛と攻撃性 (憎悪)とのアンビヴァレンツが生じ,愛し依存 している良い対象を

食欲と憎しみで破壊 してしまった,あるいは破壊 してしまうのではないかという不安,悲痛な

罪悪感,抑夢感,喪失感,喪の感情などを味わう。Eleinは 「愛する対象に加えられる損傷が

主体の攻撃衝動によって引き起こされるという感情を罪悪感の本質」(1948邦訳 p46f)と考

える。

そして,こうした罪悪感から噛みちぎってバラバラにした良い対象をもと通 りに修復 したい

という償いの願望が生じる。主観の世界つまり万能的空想のなかで加えた危害によって断片化

し損なわれた愛情対象を,ひとつのものとして復元し生命と全体性を回復させたいという衝迫

が出現する。こうした 「償いの傾向は罪悪感の結果として考えることが出来る」(1948邦訳 p

47)。

罪悪感や喪の感情に裏打ちされた償いによって,自己の愛する能力,修復する力への自信が

強化される。また現実的認識としては,自分の破壊性が空想どおりの万能的なものでないこと

が理解される。抑うつ態勢に達することで,投影過程が減少するとともに自我の競合性が増進

する。「子どもの正常な発達とその愛の能力とは,自我がこの中心の態勢をいかに克服 してゆ

くかに大きくかかわっている」(1935邦訳 p54)。

抑うつ態勢の説明としてはさらに補足しなければならないこともあるが,以上からおおよそ

meinが罪悪感をどう考えていたかが窺えるであろう。罪悪感は抑うつ態勢で生じる。抑うつ

態勢では,部分ごとではなく全体として知覚されるに至ったひとつの対象に愛憎のアンビヴァ

レンツが体験されるが,そのアンビヴァレンツから罪悪感が生じる。つまり愛情を向けている

良い対象に危害を加えたという自己認識に直面することで生じる。そこには喪失感,悲痛感,

抑欝感がともなう.また,そこから対象を修復 したいという償いへの衝迫が生じる。

Kleinの罪悪感の概念化で重要なのは,その成立機序に対象-の 「愛」が強調されることで

ある。Kleinにおいて対象への愛が強調されるのは,息子ハンスの死が影響 しているからかも

しれない。1934年4月,父親と同じエンジニアとなっていたハンスは登山中に事故死する。娘

のメリッタはこれを自殺だと主張し母親を批判した。クラインはハンスの葬儀にも参列せず仕

事に没頭 し,抑うつ態勢について構想 してゆく。その成果は同年夏の大会で行った講演で発表

され,翌1935年に 「操欝状態の心因論に関する寄与」として刊行される。抑うつ態勢をよく理

解するには,その概念がⅨ1einの服喪過程で結実したことを念頭に置くべきである。

話をもとに戻そう。対象-の愛が強調されたことに加えて,罪悪感の結果として生 じる償い

への衝迫が議論されているのも重視すべきである。償いへの衝迫自体はどう考えても欲動論か

らは導き出せないものだからである。Ⅸlein(1937)は次のように述べる。

「小さな子どもにおいてさえ,愛する人-の関心を観察することができる。それは,し与し

一般に考えられているような単に親しくし助けてくれる人への依存の徴ではなく,千

どもや大人両者の無意識の心に存在する破壊衝動と並んで,空想の中で傷つけられ破

壊されている愛する人を助けかつ再び健康にするために犠牲になろうとする,深遠な

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86 天 理 大 学 学 報

強い衝動」である (邦訳 p81)。

以上のような文脈で使用される 「愛する」という用語には,古典的なリビドーという概念に

は包括しえない他者存在への思いやりという意味あいが込められている。

ただしKleinの基本線は本能論にある。Kleinは別のところでは,償いにおいて愛が憎悪に

打ち克つことは,「究極的には生の本能が死の本能に克つこと」(1948邦訳p47)としている

ように,つまるところ,それを2大本能の角逐として把握するからである。

Freudでは罪悪感の成立機序として超自我から自我への攻撃性が重視された。また摘発さ

れる欲動は性衝動に比重があった。Kleinでは,さきに述べたように罪悪感の成立機序には愛

が必要であり,摘発されるのは攻撃欲動 (の結果)である。

単純化を恐れずに要約すれば,Freudでは監視され弾劾されるべきは性欲動,告発 ・糾弾

するのは超自我の攻撃性。一方,Kleinでは直視され弾劾されるべきは攻撃欲動,罪悪感を惹

起するのは対象-の愛である。攻撃性が糾弾するものから糾弾されるもの-転位 している点は

注意すべきである。Freudは本能について最終的に生の本能 (性の本能)と死の本能 (攻撃

本能)という2大本能論を提出したが,Freud自身によってまずは性欲動への罪悪感が,つ

いでKleinによって攻撃性-の罪悪感がとり扱われたといえる。

Kleinは自分の理論を評して以下のように述べる。「精神分析の思考は主としてリビドーお

よびリビドー衝動に対する防衛に常に関心を奪われてきており,それに符合して攻撃性とその

意味の重要性を過小評価している」(1948邦訳p52)が,自分の 「見解はこれまでの精神分析

的考察の主な流れとは大きくことなる攻撃性に対する接近から発展してきたのである」(ibid.)0

Kleinはこのように攻撃性を重視したわけだが,それにともなって罪悪感において,攻撃性

の位置づけが弾劾するものから弾劾されるものへと転位 したのである0

ここでの議論では妄想一分裂態勢で見られる被害妄想的不安については言及しなかったが,タ リ オ ン

体験の性質が異なるとは言え,その様式はFreud型の罪悪感,つまり同書復讐型罪悪感に近

似する。たとえばGrinberg(1964)は,抑うつ態勢に特有の罪悪感と別に妄想一分裂態勢で

見られる罪悪感を区別して2種類の罪悪感を考慮すべきだとし,妄想一分裂態勢で見られる罪

悪感について 「この種の被害妄想的 (paranoid)基調を伴った罪悪感こそ,フロイトが超自

我形成のことを語っている際に,念頭にあったものである」(p3639f)と述べている。(ただし筆者はこれを 「罪悪感」として概念化するのは適当でないと考える。)

Kleinの考える罪悪感と関連して論じ残した点がある。それは 「感謝」である。感謝につい

ては,次のWinnicottの 「思いやり」という概念を扱う際,一緒に論じよう。

3.Winnicott:思いやりと感謝 (罪悪感として体験されない罪悪感)

winnicottは,Kleinの唱導した妄想一分裂態勢の考えを認めなかった。他方,抑うつ態勢

はKleinが精神分析の世界へもたらした最大の貢献として高 く評価 している。そして,その

考えは 「フロイトのエディプス ・コンプレックスの概念に比肩する」(1962p176),と賛辞を

送る。Winnicottは抑うつ態勢を 「思いやりの段階」(stageofconcern)と呼びかえ,彼自身

もこの段階を精神発達上の重要な段階とみなした。罪悪感の起源に関わるのが,この思いやり

の段階である。

winnicottの罪悪感の論考は,一見,Kleinの抑うつ態勢の考えを基礎としているように見

受けられる。WinnicottはKleinから離れていったとはいえ,抑うつ態勢については彼自身,

Kleinとの連続性を主張する傾向にあるからだ。そのため両者での考え方の違いは,紛れてし

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 87

まいがちである。しかし実際は,Winnicottは抑うつ態勢を思いやりの段階と呼びかえて単に

Kleinの考えを焼き直したのではない。「抑うつ態勢」と 「思いやりの段階」という考えのあ

いだには大きな懸隔がある.概してWinnicottは,Kleinと同一の用語を使用しつつもそれを

自分の考えに合うように創造的に横滑りさせている。

以下,Winnicottが罪悪感をどう考えたかをみてゆこうO まず一通りWinnicottの主張をた

どった後に,抑うつ態勢との相違に留意しつつ見返してみることにしたい。

まずwinnicottは抑うつ態勢という命名における 「抑うつ」について 「病気を意味する術

語は,正常な過程を記述する場合には使用すべきでない」(1954-55p265)として,それを「思

いやりの段階」と呼びかえる必要があるという。罪悪感がかかわるのはこの思いやりの段階で

ある。また 「『思いやり」】という言葉を使って,罪悪感という言葉で否定的に捉えられる現象

を肯定的に把握したい」ともいう (1963ap73)。

罪悪感 (思いやり)の起源については,無慈悲 (前一慈悲)の段階から慈悲 (思いや り)の

段階-の移行として説明する。無慈悲の段階にあって,乳児は自分の本能的な愛の結果につい

て思いをめぐらせることがない。対象 (母親)への思いやりがなく,つまり無慈悲なままに本

能緊張に裏打ちされた興奮を母親に差向ける。乳児は口唇愛的欲求を食欲に満たそうとし,欲

求不満に陥れば口唇的サディズムを相手にお構いなく発揮する。本能衝動によって 「対象はそ

の結果を考慮されることなく利用される。つまり無慈悲に利用される」(同書p76)。

winnicottは,母親というのは乳児の欲動が沈静しているか興奮 しているかに応じて2つの

機能を有していると考え,それらを 「対象としての母親」(object-mother)と 「環境としての

母親」(environment一mother)とに区別する。前者との関係性はイド関係 (id-relationship)

であり,後者との関係は自我関係 (ego-relatedness)である。対象としての母親は,乳児が

興奮しながら愛情をさし向ける対象であり,「子どもの切迫した欲求を満たす」(同書p75)。

一方,環境としての母親は,子どもからみて依存している自分を 「不慮の事態から守ってくれ,

応答することや育児全般をつうじて積極的に世話してくれる」(ibid.)存在である。

思いやりの段階にいたって,子どもはこの 「対象としての母親」と 「環境としての母親」が

同一であること,つまり 「沈静した局面では大事にしているこの母親が,興奮した局面ではこ

れまで無慈悲に攻撃 してきた,そしてこれからも攻撃する人物と,実は同じだという事実」

(1954-55p266)に気づき始める。「生後約6ケ月から2年にわたる時期以降,子どもは,対

象を破壊するという考えとその同じ対象を愛しているという事実を十分統合できるようになる。

母親はこの時期を通じて必要とされるが,その必要性は生き残ることに力点がある。母親は環

境としての母親であると同時に対象としての母親である。対象としての母親は,子どもが興奮

しながら愛情を差し向ける対象である。対象としての母親の役割では,母親は繰りかえし破壊

され傷つけられる。子どもは母親のこうしたふたつの側面を統合できるようになり,同時に生

き残る母親を愛し,優しい気持ちを抱けるようになる。この時期,子どもは罪悪感といわれる

特別な種類の不安を体験する」(1963bplO2f)。

こうした過程がうまく進むためには,2つのことが必要とされる。第一には,母親が生き残証8

ることである。子どもの本能的緊張のなかで熱望され攻撃される母親が,環境としての母親と

して現実には消滅せず,加えて豹変して報復的な態度にでるといったこともなく,以前と同じ

あり様で接してくれる。母親が生き残る限りにおいて,乳児は過去を振 り返り,これまで自分

には思いやりがなかったと理解するようになってゆく (1954-55)。そして子どもは空想 と現

実の違いを認識し,対象の生き残る力を信頼できるようになる。

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第二には,子どもが償いの機会を得ることである。環境としての母親が確実に存在 し続ける

ことで,与える機会と償う機会を子どもは得る。このことが重要であるo環境としての母親に

「貢献する機会があってこそ,子どもは自分の能力の範囲内で対象を思いやれるようになる」

(1963ap77)からである。

小さな子どもには,-償い修復するのに自分が与えることが有効なのだと確証して

くれる誰かが必要である。いいかえれば,本能的体験にまつわる罪に関連 して,小さ

な子どもは与える機会をもち続けねばならない。・・・受け取るためにそこにいるという

最も重要なことを大人が理解せず,与えることで子どもを手助けしようなどと思うの

は,幼児 (あるいは退行的な癒 しの体験を必要とする被剥奪児)について理解できて

いないことの端的な表れである (1954-55p27)。

とWimicottはいう。対象を思いや り,かつ償い修復することで,子 どもは自らの建設的

な能力を信頼できるようになる。

このように 「母親が生き残 り修復の意思表示を受け容れてくれるのが分かるにつれて,子ど

もは,無慈悲な本能的衝動に満ち満ちた幻想全体について,徐々に責任を引きうけるようにな

る。こうして無慈悲は慈悲に,思いやりのなさは思いやり-とうつりゆく」(1958p23f)0

無慈悲の段階から慈悲 (思いやり)の段階-の移行は,以上のような過程を経る。この過程

は罪悪感との関連ではつぎのように記述されている。

母親が確実に存在 し続けることで,子どもは与える機会と修復する機会を環境とし

ての母親から得る。それによって子どもは不安がらずにますます思いきってイ ドー衝

動を体験できるようになってゆく。言いかえれば,自分の本能的生気 (life)を解放

±互 。このようにして罪悪感は感 じられない。しかし罪悪感は休止状態にあって,あ

るいは潜在していて,償いの機会が失われた場合にだけ (悲しみや抑夢気分として)

姿を現す。この良循環が確信でき償いの機会が期待できるようになると,イド欲求に

ついての罪悪感はさらに変性 し,そのときそれを表現するのにもっと肯定的な術語,

「思いやり」といった術語が必要となる。子どもは今や思いやることが可能となり,

自分自身の本能的衝動に属するそうした機能に責任を取れるようになる (1963ap77

強調は筆者)0

この主張は重要なので別の箇所からも抜粋 しようQ

このようにして,イド-欲動やそうした欲動にまつわる空想-の不安に,赤ん坊は

堪えられるようになる。赤ん坊は罪悪感を体験できるようになる,ないしは償い-の

機会を十分期待することで罪悪感を保持 (hold)できるようになる。この保持はされ

るが罪悪感としては体験されない罪悪感に対 して,「思いや り」という名称を与えよ

う。発達の初期段階で,子どもの償いの意思表示を受け取るべき信頼にたる母親的人

物が不在であれば,罪悪感は堪えがたいものとなり,思いやりは感じられないo墜公

が失敗すれば,思いやりの能力も発達せず,原初的なかたちの罪悪感と不安が思いや

りに置き換わってしまう (同書 p82強調は筆者)o

以上,Winnicottが罪悪感についてどう認識 していたかをたどった。Kleinの抑うつ態勢と

の相違点はいくつか挙げられる。抑うつ態勢で統合されるのは愛と憎しみという2つの欲動で

あったが,思いやりの段階で統合されるのは対象としての母親と環境としての母親という2種iE9

類の母親である。Kleinの関心がもっぱら子どもの空想内での事象に向けられていたのに対 し,

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 89

Wimi cottは外的な母親との実際の相互交流を重視しているoLかしこうした相違点とは別に,

両者の罪悪感の認識には根本的な相違がみられるo Wimi cottが罪悪感を肯定的に換言 したと

する 「思いやり」は,Kleinの論じる罪悪感とは別物と言って良い。それはむしろKleinのい

う 「感謝」に相当するだろう。

Kleinの考えでは,破壊性の認識から痛切な罪悪感が生じ,それを持ちこたえることで償い

の気持ちが芽生える。一方,Wimi cottによれば,反対に償いから罪悪感の保持が可能となる。

彼は 「自明のことだが,最終的には相手に貢献できると考えられるようになって,自分の破壊

性とより密接な関係を保てるようになる」(同書p80f)と述べる。さらに,保持されるように

なった罪悪感は罪悪感として感じられなくなるという。この保持はされるが罪悪感としては体

験されない罪悪感をWimi cottは 「思いやり」と呼ぶ.

つまりKleinの想定する正常な発達図式では,攻撃性による破壊-破壊の結果の直視-罪

悪感 (抑うつ不安)-償いという順序でことが進むが,Wimi cottでは,口唇愛的欲求に伴う

破壊-償い-破壊の結果の直視-罪悪感の保持-罪悪感として感 じられない罪悪感 (思いや

り)という流れになっている。

win山co比は子どもの症例を考察する中でつぎのように述べている。「当然のことながら患

児が破壊性を自覚したことで,そのとき見られた (お手伝いという)建設的な活動が可能とな

った。しかしいまここで明らかにしておきたいのは,逆のことである。建設的で創造的な体験

を実践することで,その子は自分の破壊性を体験できるようになったのだ」(同書p81 強調

は著箸)。Kl。inがいうように破壊性を自覚して建設的な償いへの気持ちが生じるのは当然の

こととして,自分は,それと逆のこと- つまり償いによって破壊性の自覚に至ることを主張

したいというわけだ。

Winnicottの考えにしたがえば,破壊の結果を直視できるのは母親が生き残っていて被害が

甚大でないと分かっているからであり,また罪悪感を保持でき自己の責任を担えるようになる

のは,修復の可能性もあり加害の程度がさして深刻でないからである。Wimi cottの論 じる罪

悪感は,Kleinの記述する罪悪感とは違い,喪失感,悲痛,苦悶,後悔といった焼けつくよう

な切迫感を伴っていない。パラドキシカルだが,「罪悪感を抱 く能力」に到達するには,さほ

ど罪悪感を抱かずに済む条件が整っていなくてはならない。さして罪悪感を体験せずに済むか

らこそ,逆に罪悪感と係わることが可能となる。そう言うと,それはいかさまの罪悪感のよう

に聞こえるのかもしれないが,正常発達においてはWimi cottの主張が実際なのだろう。子

どもが現実を受け容れるようになるには,現実が子どもにとって耐えられる範囲のものでなけ

ればならない。

「罪悪感として感じられない罪悪感」には,もはや罪悪感以外の言葉を適用するはかない。

そこでWimi cottはこれを 「思いや り」と呼称するわけであるOただその適否はどうであろ

うか。口唇的欲求がもつ破壊性-の気づき,そこから償い-と向かう心性には 「思いやり」の

語はふさわしい。しかしながら,さらにそこに,償いが受け入れられたことから生じる心性を

一緒に包含させようとすることには無理がある。償いという心的活動から結果的に生じる心性,

つまり罪悪感としては感じられなくなった罪悪感には,対象-の「思いやり」よりもむしろ「感

謝」ということばが適切だろう。相手-の依存,そしてそれが相手の負担になっていたのを自

覚することからは,感謝が生じる。「もうしわけなかった」,「すまない」が 「ありがたい」に

変わるのである。相手の負担を自覚し,それゆえ感謝しながら,相手から良いものを自らに取

り込み生命活動に生かしてゆく。

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ここでいう感謝はKleinの論 じる 「感謝」とほぼ同様のものである。Klein(1957)は,「楽

しみと感謝 (enjoymentandgratitude)が生じてきてはじめて,破壊衝動や羨望や食欲さが

やわらげられる」(邦訳p18),と述べる。楽しみとは,良い対象を破壊 してしまうのではない

かと心配することなく,吸乳を楽しめることを意味している。

winnicottの述べる 「思いや り」が,meinの取 りあげる罪悪感といかに相違 しているかは,

思いやり (筆者の用語では感謝)の結果,衝動の制御がどうなるかという点を比較検討しても

明白となる。

Winnicottは,思いやり (つまり対象-の信頼と感謝)の結果,子どもは不安がらずにます

ます思いきってイド-衝動を体験できるようになる,つまり自分の本能的生気を解放するとい

う。これは抑うつ態勢で達成されるべき衝動制御と正反対の帰結である。Kleinが考えるに,

抑うつ態勢に到達することで 「乳児は,自分の衝動を自分のものとして認め,またそれらにつ

いては自分に責任があるのだという感覚をもち,さらに罪悪感に耐えることもできるようにな

る。乳児は自分の対象に対して思いやりの念を抱 くことができるという新 しい能力を身につけ,

それに助けられて自分の衝動をコントロールすることを少 しずつ学んでいく」(Sega11973邦

訳 plO3)。自らの衝動を制御できるようになるのがひとの成熟であると考え,衝動制御の達成

を目指すのがFreud以来の精神分析であった。

Winnicottはある良循環を考えている。対象-の信頼によってより安心 して衝動を解放する

ことが可能となる。それによって被害は以前にも増して拡大し,体験される罪悪感もより深刻

となる。しかし今回も対象は破壊されることなく,寸毒も失われずに生き残る。また自らの償

いによって罪悪感は無化 してゆく。その結果,自己の償う力への自信が増すと同時に,罪悪感

は対象-のさらなる信頼 ・感謝に変性する。これによりいっそう安心して衝動を解放できるよ

うになる。

この良循環の結果として対象と自己への信頼が相互に強化されるOそこで子どもはつぎのよ

うに感 じる。対象は (愛情に含まれる)破壊的要素に持ちこたえる力があり,変わらず良いも

のを与えて くれる (これはBenedek(1938)のいう 「信頼」con丘denceに相当する)。自分

は対象が喜んで負担を引き受けてくれるに値する存在なのだ (これは健康な自尊心に通じる),

そして対象を思いやり守ろうとする自分の優しさ,対象の傷つきを修復する自分の力を信頼 し

ても良いのだ。

Winnicottにとって「攻撃性とは,その起源において活動性 activityとほとんど同義である」

(1950-55p204)。そこに怒 りや憎 しみは直接的には関与 しない。「罪悪感は愛することに本

来的に備わっている破壊的要素に属する」(1954-55p265)と考えている。つまりWinnicott

の考える攻撃性とは,Kleinの想定するような愛と本質的に相反し二極対立をなす一次的基体

ではない。Winnicottは,口唇愛的サディズムによって対象を破壊 してしまうのではないかと

いう子どもの不安に論及するが,それは,「もし母親を食べつ くしてしまったら,母親はいな

くなってしまう」という,愛情対象を 「食い物にしてしまう」不安であ り (1963ap76),原

初的な愛情欲求と未分化なものと考えられている。吸乳という生命活動が結果としては,乳房

を枯渇させる (と乳児に体験される)としても,その基盤に憤怒や憎悪の念が存在するわけで

はない。

WinnicottはKleinと同様に,罪悪感の成立に愛憎のアンビヴァレンツを挙げはする。(「罪悪感はアンビヴァレンツあるいは愛憎の並存と結びついた,特殊な形態の不安である。」(1958

p21))。しかしながら,Kleinの場合,一次的な攻撃性 ・破壊性に愛の自覚が加味されること

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罪悪感再考 :対象関係と変化性を視点として 91

でアンビヴァレンツが生じると考えるのに対し,Winnicottは (口唇的)愛情欲求に含まれる

破壊性に気づくことでアンビヴァレンツが生起すると考えている。

欲動論的装いのもとで語られるから判然としないが,実際のところ解放され肯定されるのは

欲動というよりも子どもの活動性,自発性,より大きくは生命活動,元来,純一無雑な生命の

発露である。Winnicottは大人-の迎合ではない子ども自身の自発性をきわめて重視 していた。

ひとは生きてゆくうえで,欲求を含むみずからの生命活動が自他から肯定されねばならない。

そうした自己肯定を精神分析用語で言えば,それは健全な自己愛ということになろう。健全な

自己愛が自他に承認されることで自己存在,他者,世界への信頼が確立される。

Freud,meinの説ともに,罪悪感は苦痛な体験とはいえ,精神発達上きわめて重要な達成

として位置づけられていた。しかしWinnicottの考えでは,対象が生き残るのに失敗 したり,

償いが失敗 したりして 「思いやりを抱く能力」(capacityf♭rconcem)が発達しえず,原初的

なかたちの罪悪感が対象への信頼 ・感謝に置き換わってしまうのは,正常発達からの逸脱であ

る。つまり子どもが悲痛な耐えがたい罪悪感を早期に体験するのは,望ましいことではない。

Winnicottが精神発達上の達成とみなすのは,罪悪感が無化 ・変性した感謝であり,思いやり

を抱 く能力である。

罪悪感に関してFreud,Kleinとwinnicottとで精神発達上での価値づけが正反対になって

いるわけだが,これは Freud,Kleinが欲動にまつわる罪悪感を問題にし,一方Winnicott

が実際上は,自己愛にまつわる罪悪感を問題にしているためである。

Winnicottが示唆するように,原初的な自己愛の傷つきと関連して生 じる罪悪感は精神発達

上の達成とはいえない。成人のクライエントで,つぎのように述べるひとがいる。生きてゆく

というのは他のひとに何かを要求すること。もしそれが罪なら,わたしは生きてゆけない。自

己の生命自体への肯定が欠如すれば,「生れて,すみません」,「罪,誕生の時刻に在 り」(太宰)注】2

と感じられてもおかしくはない。

ただしWinnicottの関心は正常発達にあり,こうした正常発達からの逸脱によって生 じる

病理的作用を有する罪悪感は論考の持外に置かれている。Winnicottの考えに従えば,正常な

発達過程では,パラドキシカルだが,罪悪感が罪悪感でなくなることで罪悪感を抱く能力が生

じる。罪悪感は感謝-と無化 ・変性し,それによって対象と自己-の信頼は強化され,自己の

生命的躍動は肯定される。

償いが失敗し,対象への信頼や感謝が確立しない場合,罪悪感は悲痛な耐えがたい罪悪感と妊13

なってしまう。これは正常発達からの逸脱であり望ましくない性質のものである。ここにおい

てWinnicottは,Freud,meinにおける欲動の観点から見た罪悪感とは根本的に違った種類

の罪悪感を亘塾生示唆している。それは子どもの自発性,自己愛の損傷からくる罪悪感である。

4.関係性起源の罪悪感

4-1.動機から見た位置づけ

ここまでFreud,Rein,Winnicottが罪悪感をどのように捉えたかを通覧 した。そのなか

で精神分析において罪悪感の認識がいかに変遷してきたかが明らかとなった。

Freudは,罪悪感では超自我の攻撃性が糾弾者として重要な役目を担っていると基本的に

考えた。Kleinは攻撃性だけではなく,罪悪感の発生契機として対象-の 「愛」を重視 し,ま

た償いへの衝迫がもつ精神発達上の重要性を説いた。こうした対象-の愛,償い-の心性は,

欲動の範噂に収まるものではない。

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92 天 理 大 学 学 報

図1:関係性起源の罪悪感の位置づけ

Winnicottの論を検討することで,親が生き残るのに失敗したり,子どもに償いの機会が与

えられなかったりするために,子どもが自らの健康な自己愛,活動性,自発性,より拡大して

いえば自らの生命活動に罪悪感を抱きうることを示唆した。そこで破壊的可能性を季むものと

して取 りあげられているのは,Kleinが主題としたような攻撃性ではなく,元来,純粋無雑な

生命の発露であった。

以下では,罪悪感を対象関係の視点から捉え直してゆきたい。それは欲動起源の罪悪感と対

照させていえば関係性起源の罪悪感と呼べる。またその際,罪悪感の発生に関与する動機もあたていと よこいと

わせて論じる。いわば関係性を経に動機を韓にして論を編み進めることとなる。

関係性においては,対象との心理的距離の点から,対象との一体化 ・共生関係を一方の極と

し,対象からの分離一個体化をもう片方の極とするスペクトラムを想定する。関連する動機と

しては2種類に区分し,自己保全的動機と対象保全的動機として対照させる。

自己保全的動機とは,愛情喪失,関係性喪失を防衛しようとするものである。つまりそれは

「悪い対象-の防衛」の役割を果たす。一方,対象保全的動機とは,対象-の愛情,対象の苦

悩-の共苦共感,治療衝迫といった愛他性に基づ くものである。「悪い対象-の防衛」と対比

すれば,それは 「傷ついた対象-の共感」である。それらは依存関係における受動的立場一能

動的立場に対応している。自己保全的動機 (防衛的動機)と対象保全的動機 (愛他的動機)は,

現実には協働しているのであるが,都合上,両者を区別 して議論する。

とりあげる概念を具体的に挙げれば,(1)「道徳的防衛」,(2)「肩代わりの罪悪感J,(3)

「生存者の罪悪感」,(4)「見捨てられ抑うつ」,(5)「分離-の罪悪感」である。それらは概

して発達上の達成としてよりも,病因的作用を有する罪悪感である (生存者の罪悪感は他の4

つと同列にはできないが)。

対象関係と動機の2次元から,取上げる関係性起源の罪悪感を整理して,それらの位置関係

を事前に図示すると図1のようになる0回とはつねに,実際の現象を単純化し,歪曲するもの

であり,あくまである観点からみた概念整理の方便として理解されたい。

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 93

図1に示されるように,1つの概念が2つの象限にまたがったり,概念間で重複したりして

いる。さらに実際の現象では,別々に概念化されている現象が並存し,相互に移行し,作用し

あっている。そもそも4つの象限が区切られていること自体が仮初である。臨床においては,4

つの象限が相互貫入的に一体化した罪悪感を目にするのかもしれない0

本論では欲動起源の罪悪感と関係性起源の罪悪感を対照させることが第-の目的であり,さ

らに関係性起源の罪悪感を,とりわけ対象保全的動機つまり愛他性の観点から照明するのが第

二の目的であった。

したがって関連する動機をとりあげる際,愛他的な対象保全的動機に比重をおいて論じる。

それはひとつには愛他性がこれまで精神分析学のなかで,軽視されてきたきらいがあるからで

ある。またそれに加え,愛他的動機は防衛的動機のさらに深層に潜在すると考えられ,意識化

によりいっそうの努力を要するからである。

関係性起源の罪悪感のなかでも,愛他性を動機として生じる罪悪感は,共感を起源とする罪

悪感と言いかえてよい。対象の受苦-の共感が罪悪感を生み出す。子どもは苦悩する愛情対象

と 「ともにありたい」と願う。肩代わりの罪悪感の一部,生存者の罪悪感,分離への罪悪感は,

こうした 「共感起源の罪悪感」と呼べるだろう。

共苦 ・共感を罪悪感の動因として重視する姿勢は,Kleinの償い-の衝迫と近似する。その

心性自体は同様のものと考えてよいが,Kleinの理論では,償い,修復の気持ちは,それに先

行する自らの攻撃性による対象破壊が前提となっている。

しかし共感起源の罪悪感では,子どもの側の怒り,憎悪といった攻撃性は直接的には問題と

ならない。子どもが抱 く傷ついた対象への思いやり,対象の受苦への共感自体が罪悪感の発生

機序として重視される。たとえば 「分離-の罪悪感」の場合,子どもの成長過程では当然の分

離-個体化が,傷ついた親と 「ともにある」ことを放棄し対象を遺棄する,さらには対象を破

壊すると体験され,そこから罪悪感が生じる。

以下,議論の主要な流れとして,図1の第2象限にある道徳的防衛から時計回りに進行し,

第 1象限,第4象限へと向かう。第3象限に位置する見捨てられ抑うつは分離-の罪悪感を討

議する際に,それと対比させるために若干,論及するにとどめる。

4- 2.道徳的防衛

Winnicott(1949/1953)は,好ましくない環境で育つ子どもの発達について以下のように

述べる。

根本的には偽りの道筋をたどるなかで,子ども (individual)は実際には自分に責

任のない悪い環境に,責任を感じるようになる。この悪い環境については,彼が (ち

し知っていたなら)世界に責任を負わせるのが正当であった。それなのに自分に責任

を感じるのは,子どもの精神一身体が十分組織されて憎んだり愛 したりできるように

なる以前に,その悪い環境が彼の生得的な発達過程の連続性をかき乱したからであるO

環境側の失敗を憎むかわりに,悪い環境のせいで子どもが解体したのは,その過程が

憎むこと以前に存在していたからである (p248)O

子どもは本来自分に責任のない悪い環境に責任を感じる。というのは,Winnicottの考えで

は,その過程が憎むこと以前に存在したからである。この段階を口唇愛的メタファーで表現す

れば,子どもはいまだ噛みつくことを知らず,与えられるおっぱいを吸って体内化するだけの

段階ということになろう。誰かを憎むことができるには,すでにそれ以外の誰かを愛し,信頼

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94 天 理 大 学 学 報

できている必要があるO少なくとも別の誰かを愛する余地が確保されていなければならないO

つまり愛への可能性が確保される以前の段階は,「憎悪以前の段階」でもある。関係性の原初

的段階にあっては,未だ愛への可能性は十分確保されていない。

ユング派のNeumann(1963)も原初的関係が損なわれることで生じる 「一次的な罪悪感」

について言及している。

「原初的関係の損傷に由来する母権的段階の一次的な罪責感は,『自分の母に愛さ

れることが良いことだ。ところが,お前の母はお前を愛していないのだからお前が悪

い』という定式にしたがって形成される」(邦訳p98)。したがって 「損なわれた原初

的関係の愛の欠如とその欠如を和らげようとする欲求は,-人間と世界に対する非難

にはならず,むしろ罪悪感を引き起こす」(同書p97)。

これはなにも発達の早期段階だけで生じるのではない。無意識的同一性である神秘的融即が

生じるところでは体験される現象である。「それが起こると二人の人間の心的な領域が互いに

浸透しあって,ついには何が誰に属しているのか決められなくなってしまうほどである。これ

が良心問題になると一方の人の罪は他の方の人の罪となり,さしあたってこの感情の同一性を

解体することは不可能である」(Jung1958邦訳 plOl)0

ドイツ語の罪,Schuldは,古高 ドイツ語のsculdに由来 し,欠如,不足を意味する。自他

の未分化な原初的関係 (あるいは神秘的融即)にあっては,自分をとりまく環境側の欠損は即,

自己の欠損を,つまり自己の罪を意味する。

Fairbairn (1943)は,そうした一次的な罪悪感が生 じる力動を防衛の観点から論考し,そ

れを 「防衛としての罪悪感」,「道徳的防衛」(moraldefense)と呼んだ。そのなかで,彼は非

行少年について論及している。

子どもは悪い対象をもつくらいなら,いっそ自分が悪 (bad)になる方を選ぶとい

うことが明らかとなる,。そうならば,悪になる動機として,対象を「善いもの」(good)

にしたいという心理も働いていると推測してよいだろう。子どもは自らが悪になるこ

とで,対象のなかに巣食っていると思われる悪の重荷を実際に自分に引きうける。こ

うして子どもは対象から悪を拭い去ろうとする。そしてそれが成功する度合いに応じ

て,見返りとして良い対象から成る環境に特有のあの安心感を手に入れる。対象のな

かに巣食っているようにみえる悪の重荷を自らに引きうけるということは,むろん,

悪い対象を内在化するというのと同じである (p65)。

子どもは,対象に巣食う悪を自らに引き受けることでみずからに罪悪感を覚え,それに相応

するものを自分のなかに探し,ときにそれに見合うだけの悪事を実際に行おうとする。それが

非行の基因になるとFairbairnはみる。

つまり子どもは 「悪い内在化された対象が関わる状況に付加的防衛を行っているのである。

こうした防衛を起源として,罪悪感は生じる。この見方によれば,罪悪感はつぎの原則に基づ

いてもたらされる。すなわち,親を無条件的に (つまりリビドー的に)悪とみなすよりも,自

分自身を条件的に (つまり道徳的に)悪とみなす方が我慢できる,という原則だ」(1944p93)0

Fairbairnはこれを卓抜な宗教的比倫で表現する。

悪魔の支配する世界で生きるくらいなら,いっそ神がしろしめす世界で罪人となっ

た方がましだ。神の治める世界に住む罪人は悪だろう。しかし周囲の世界が善である

という事実から安心感が常時得られる。-何といっても,そこにはつねに膿罪の希望

があるのだ。かたや悪魔の支配する世界では,罪人にならずにすむ。だが自分をとり

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 95

まく世界が悪である以上,自分も悪なのだ。さらにそこには安心感も頗罪の希望もな

い。あるのは死と破壊への予感だけである (1943p66f)。

Fairbairnのいう無条件的に悪というのは,親が子どもの愛情欲求に応 じない,つまり子ど

もに愛情を与えず,また子どもからの愛情を受け取りもしない状況を意味する。条件的に悪と

いうのは,善悪の価値判断に基づくもので,悪しき行為のゆえに悪い子と断罪される状況であ

る。子どもは自分がなおざりにされ,自分の愛情が尊重されず受け容れられないという,(第

三者からみれば)ただ単に望ましくない悪い体験を,内的現実においてあるいは外的現実にお

いても罪深い体験へと変質させてしまう。

もし仮に子どもの自我が 「無条件的に悪い」対象と同一化するなら,子どもは無条件の悪と

して自分を感じてしまう。道徳的防衛の目的はこの耐えがたい状況を回避することにある。つ

まり道徳的基準を導入して,条件的な悪となれば無条件的な悪を回避できる。条件的な悪であ

れば,自分の態度を悔い改め良い存在になりさえすれば,親はきちんと自分を愛してくれるに

違いないという希望が生じる。

自己を悪とすることで対象を善とする,こうした過程は他者正当化一自己不当化として理解

できる。道徳的防衛は 「悪い対象-の防衛」を目的としている。

子どもが悪い対象を内在化するのはそれを制御しようとするためである。しかしそればかりわ け

ではない。「何にもまして重要な理由は,子どもには対象が必要だということである。親が悪

い対象だとしても,子どもは親を拒めない。親が自分を子どもに押しつけないとしてもそうな

のである。というのも,子どもは親なしではやってゆけないからだ。親が子どもをなおざりに

する (neglect)としても,子どもの方は親を拒絶できない。親が子どもを顧みないなら,親

から世話される必要性は逆にますます高まる」のだから (同書p67)。つまり子どもは自己の

うちに安心感を確立できないために,いっそう外側につまり親の実在に安心感を求めようとす

る。

Winnicottが論じた感謝の正常な発達とは異なり,こうした子どもは自己の愛情は破壊的な

ものだという思いを深くする。子どもは 「母親が露骨に自分に冷たいのは,自分が母親の愛情

を破壊し,消滅させたからだと感じる。また同時に,母親があからさまに自分からの愛情を拒

むのは,それが破壊的で悪いからだと感じる」(1940p25)。

たとえば,慢性的に虐待に曝されている子どもでは,こうした防衛的な他者正当化-自己不

当化の現象がより先鋭化する。「被虐待児は自分は生まれつき悪い子で,それが (虐待の)原

因なのだと結論せざるをえなくなる。-それは,そう考えればその子の意味と希望と力の感覚

を保全することができるからである。自分が悪い子なら,両親はいい親なんだ- 。自分が悪

い子なら,いい子になろうとすることができるんだ」と感じる (Hem an1992邦訳p160)。

そして 「自分は汚れた,世をはばかる印のついた者だという自己規定を育てて,被虐待児は虐

待者の悪を自分の中に取 り込み,そのことによって両親-の一次的愛着を維持する」(同書 p

163)。

治療との関連でいえば,Fairbaim は「要するに罪悪感は心理療法では抵抗として働 く」(1943

p69)という。「私には疑問の余地がないと思えるのだが,抵抗の大元には悪い対象が無意識

から解放されるのではないかという恐怖が塘据している。なぜかといえば,そうした悪い対象

が解放されれば,患者を取巻く世界には,恐ろしすぎて直視しえない悪魔たちがひしめくこと

になるからである。-同時にまたこれも私には疑問の余地がないのだが,悪い対象を無意識か

ら解放することこそが,心理療法家が苦労して到達すべき主要な目標点のひとつである」,TtlJ

(p69)

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96 天 理 大 学 学 報

meinの考えでは,妄想的防衛や操的防衛によって罪悪感に到達できないことが病理とされ,

罪悪感に到達することが治療目標である。一方,Fairbaim では罪悪感が悪い対象との関係を

防衛的に維持する機能を果たしており,罪悪感を手放すことが治療の目標とされる。罪悪感を

欲動の観点から理解するか,対象関係の視点から理解するかで,罪悪感の取り扱いにおいて目

指す方向が180度,異なってくる。

4-3.肩代わりの罪悪感

「肩代わりの罪悪感」とは,borrowedsenseofguiltの訳語である。borrowedの訳として

は 「借 り受けた」,「お仕着せの」,「押 しつけられた」といったものも候補になるが,ここでは

「肩代わりの」とした。これは 「肩代わりさせられた」と 「肩代わりした」の両方の意味を含

むO

肩代わりの罪悪感とは,本来,自分以外の人,たとえば親が抱 くべき,あるいは抱いた罪悪

感を代理的に体験するものである。

実はこの肩代わりの罪悪感はFreudが最初に言及したものだ。「自我とエス」(1923S.E.19)

の脚註で無意識的罪悪感について論 じた際,例外的に治療効果が期待できるものとして,肩代

わりの罪悪感を挙げている。

無意識的罪悪感からの妨害に対する闘いは,分析家にとって容易ではない。直接に

せよ間接にせよそれに抗うことはできない。しかし無意識に抑圧されているその根本

の正体を焦らずに明らかにしてゆき,しだいに意識的な罪悪感に変える作業は可能で

ある。この無意識的罪悪感が肩代わりのもの (borrowed)ならば,つまり,かつて

性愛的備給の対象であった人と同一イヒしたために生じているのなら,治療的に働きか

けうる余地が例外的に存在する。このように罪悪感を背負いこんでいるのは,しばし

ば,それが放棄された愛情関係の唯一の名残であり,かつそうだとは認識されていな

いためである (この心理過程とメランコリーで生じる過程との類似は明らかである)

(p50)0815

Fernando(2000)も論じているように,この肩代わりの罪悪感には2種類を区別できる。

第-の類型は,当初,他人へ向けた告発を自分に向け換えて,自分がその告発の標的になり,

他人が感じるべきであった罪悪感を代理的に体験するもの。第二の類型は,実際に他のひとが

感じている罪悪感に同一化するものである。そこでは第一類型と相違して個人内の心理力動だ

けではなく,対人的な相互交流が重要な役目を果たす。

Freudが肩代わりの罪悪感を論 じた際,念頭にあったのは第一の類型であろう。それは,

肩代わりの罪悪感の心理力動がメランコリーの過程に類似すると述べているからだ。Freud

はメランコリーを内転した自己の攻撃性から解釈したが,肩代わりの罪悪感についても同様の

思考経路をたどっている。

しかし肩代わりの罪悪感で,より重要なのは第二の類型である。Fernando(2000)が論 じ

るように,この第二の類型こそ肩代わりの罪悪感の中核にあるものだ。それは罪悪感を覚えた

他者が投影同一化によって外在化した罪悪感を受容,すなわち取り入れ性同一化することで生

じる。つまり,あるひとが罪悪感を感じないで済むように罪 ・罪悪感をみずからに引き受け,

あるいは引き受けさせられて罪悪感を抱 くのである。そこでは隠微にして,しかし濃密な対人

交流がある。むろんここに自己の攻撃性は関与しない。攻撃性が関与するとすれば,それは対

象の攻撃性である。

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 97

こうした現象はしばしば親子関係で生じる。そこでは親が自分の精神的安定をはかるために

子どもを利用する。Femandoがいうには,そうした 「親にはある種の自己愛人格障椿があっ

て,自分の罪悪感 (guilt)を子どもに外在化する傾向が著 しい。子どもは否認され外在化さ

れた親の罪悪感に同一化する」(邦訳p33)。

親は自分の自己愛の傷つきを予防,修復するために,たとえば善人としての良い自己イメー

ジを保つために,あるいは自己への幻滅を糊塗するために,子どもに罪や悪役を押しつけて自

分の罪悪感を防衛する。子どもは否定的な投影同一化の受け皿とされてしまう。

具体的な事例としてFemando(2000)は,成人の事例を3つ提示している。心理力動の詳

細についてはそれらを参照してほしいが,簡単な,しかししばしば臨床で経験する例を挙げれ

ば次のようなものだ。

不幸な夫婦関係にある母親が幼い娘に,その不幸を嘆くと同時に離婚できないのはお前がい

るからだと訴え続ける。その場合,母親のより良い人生の可能性を自分が奪っている,今現在,

母が不幸なのは自分がいるせいだと娘が感じてもおかしくはない。

あるいはもっと直接的に親の人生が上手くゆかなかった説明材料 (口実)とされることもあ

る。自分が仕事で思うように昇進できなかったのは,大事な時期にちょうどお前を妊娠したか

らだよ,と母親から聞かされ続けるなどである。

親はこのような外在化によって自己愛の安寧を図るわけだが,子どもは外在化されたものを

みずからに受容し,内在化する。その結果として罪悪感を抱くことになる。

あるクライエントは次のように述べる。「私にとって悪を見る唯一の方法は,それを私のせ

いだと見ることなのです。悪をほかの誰かのせいにすることなどできません。むかしお母さん

が悪いことをしているのを見て私が当然の反応をしたとき,今でも覚えていますが,お母さん

はそれはぜんぶ私のせいだと言ったのです。そして結局のところ私にはアイデンティティが必

要でした。それで悪役を担当することにしたのです」(Perera1986邦訳p55)。

親から外在化された,つまり押しつけられた罪悪感を子どもが受容,内在化する動機として,

大きくつぎの3つをあげることができる。ただし第1と第2の動機は密接に関連 している。

第1には親との関係性を保持するためであり,また関係性から形成された自己同一性を温存

するためである。(対象関係と自己同一性は別個に論じるべきかもしれないが,とくに発達の

早期では対象関係と自己同一性形成は不可分であるためひとまとめに取上げた。)

関係性喪失への不安は,親から見捨てられる不安である。依存対象である親から見捨てられ

ないようにするため,子どもは罪悪感に限らず投影同一化によって親から外在化される内容物

を受容せざるを得ない。それは,「母親の病理と一致するように振舞えという圧力,そしても

しそれに合致しそこねたら,母親にとって自分が存在しなくなるという絶えざる脅威」(Ogden

1982p16)が存在するからである。「つまり 『もし,お前が私のもとめるような子でないなら,

私にとっては存在しないことになるよ。』いいかえれば,『私がお前の中に投げ入れたものしか,

見えないよ。それがなければ,わたしの目に映るものは皆無だよ』」(ibid.)というメッセー

ジを子どもは親から受け取っているからである。

「罪悪感はそれ自体が対象関係である」とGuntrip(1968)は述べる。「罪悪感は破壊的衝

動について感じられるだけではなく,弱さについても体験される。しかし,それ以上に言える

ことは,罪悪感はそれ自体が対象関係であるということだ。そして病的な罪悪感とは,内在化

された悪しき親に対 して罪悪感に満ちた関係性 (guilt-relationship)を保持する状態のこと

である。そこでは,患者は内在化された悪い親をあきらめることなど絶対できっこないと感 じ

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98 天 理 大 学 学 報

ている」(p201)0

子どもの希求する関係とは良い関係である。これは当然である。が,しかし不幸にして良い

関係が手に入らなければ,子ども (あるいはひと)は,関係が無いよりはどんなに好ましくな

い関係であれ,たとえそれが苦痛に満ちたものであれ,関係を求めてゆく。肩代わりの罪悪感

は関係への糸口,対象との接点として機能する。

罪悪感は悪しき対象との関係を表徴するだけではなく,のちには関係性のなかで構成された

罪深い自己という自己同一性をも意味するようになる。「感情が苦痛に満ちた方向に向かった

場合,とりわけ苦痛な感情が原初的で未分化なままに早期の自己と自己対象との経験と結びつ

いた場合,苦痛つまり苦痛感は原初の自己対象と関連づけられて不可分となる。苦痛感の存在

は当初自己対象を,後には自己あるいは対象,ないしその両方を暗に意味するようになる」

(Valensteim1973p374)。したがって内在化された悪しき対象を手放すことは,それと結び

ついた自己同一性を放棄することでもある。

外在化される罪悪感を受容する第2の動機は,良い愛情対象を保全することにある。子ども

は愛情対象としての親を喪失するのを恐れて,親の罪責を理解しないでおこうとするが,そう

した防衛に肩代わりの罪悪感が役立つ。つまり,外在化される罪悪感を受容するのは,「まる

で愛されていないという恐ろしい真実が現実化して押しつぶされるといったことのないように

自分を守り,発達を保障しうるようにするためだ。肩代わりの罪悪感はこうした現実否認を下

支えする。すなわち,結局のところ思いやりがなくて拒否的なのは自分の方で,もし,しでか

しているさまざまな悪事をやめて良い子になりさえすれば,関係は良くなるはずだ,子どもは

そう感じる」のである (Femando2000邦訳 p46)0

これは先述した道徳的防衛と同じである。子どもは現実認識を犠牲とすることで悪い対象を

糊塗し,良い対象という幻想を維持する。

ここでは概念上,道徳的防衛と肩代わりの罪悪感を区別して論じているが,実際としては,

子どもが道徳的防衛を使用せざるをえない愛情剥奪的な生育環境では,えてして親が自己愛的

病理を抱えており投影同一化によって罪 ・罪悪感を子どもに肩代わりさせる場合も実に多いだ

ろう。両者は重複し相互作用する。あるいはこれらは同一現象を別角度から記述したものとも

言える。精神内界的力動に比重を置いて記述したのが道徳的防衛であり,投影同一化による対

人的強圧へ焦点を移動させて描出したのが肩代わりの罪悪感である。

第3の動機は,肩代わりの罪悪感を自己の罪に対して防衛的に利用することである。他者の

罪をひき被ることで現実に自分に帰属する罪や責任に直面せずに済ますのである。自らの破壊

性が引き起こした結果を直視 しえず,別のひとの行なうべき償いを引き受けて,それで本来自

分が担うべき償いの責務を果したとする。それは論理学でいう 「論点相違の虚偽」のようなも

のである。

これは罪悪感を受容する動機としてよりも,むしろ肩代わりの罪悪感が内在化された後に,

いわば二次的疾病利得のようなものとして自己防衛に資せられる場合の方が多いだろう。

最後に,肩代わりの罪悪感を古典的な欲動論から理解することがきわめて有害であることを

附言しておこう。Miller(1981)もつぎのように指摘 している。「精神分析の主流を占める衝

動理論は-自分に罪を着せようとする患者の傾向を助長し-子どもが性的,自己愛的に悪用さ

れている事態を暴 くのではなく,ごまかし,わからなくしてしまうのに役立つ」(2000邦訳p

9)0

以上,肩代わりの罪悪感の 「肩代わりさせられた」側面を論じた。その動機として3つのも

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 99

のを挙げた。しかし,肩代わりの罪悪感には 「肩代わりさせられた」側面と張り合わせになっ

て 「肩代わりする」側面が存在する。そこには上述の動機とはまったく別種の動機が潜在して

いる。

「肩代わりさせられた」側面からみれば,罪悪感の肩代わりとは必要に迫られた,いわば必

要悪である。それは自己の精神的安寧を保全する動機に基づいて,「悪い対象-の防衛」を目

的としたものであった。つまり自己保全的な動機である。また依存関係では依存する側に身を

置いた者の動機であって,いわば消極的動機と呼べる。

しかしそれとは別に子どもには,親の罪悪感をより能動的に 「肩代わりする」積極的な動機

が存在する。それは 「傷ついた対象-の共感」である。傷ついた親-の共苦共感,思いやりで

あり,親を罪悪感や苦痛から救済したい,傷つきを癒したいと願う気持ちであるO それは自己

存在の安寧を目的とする以上に,他者存在-の愛情そのものに裏打ちされているO 自己保全的

動機と対比していえば,対象保全的動機である。

筆者は,罪悪感が喚起される契機としてこの 「傷ついた対象-の共感」を重視する。したが

って,つぎに愛他性から発する対象への共苦共感について論じよう。

4- 4.愛他性 :傷ついた対象への共感

Sullivan (1953)は,「不安による緊張が母親役の中にある時は,幼児の中に不安を誘導す

る」(邦訳 p49),という。さらに,この現象が生じるのは子どもが母親に共感 (empathy)す

るからだろうと述べている。Sullivanの考えでは,子どもは親の不安や苦痛に同一化 して共

感しうる存在だ。

子どもは親から愛情を受身的に与えてもらう存在である。つまり依存した存在だ。それゆえ

対象-の依存を抜きに欲動だけを論 じても意味がない。このことは誰もが知っている。しかし

その道の面は見落とされがちである。つまり子どもは愛情を受け取るだけではなく,与える存

在でもある。

実際,「すでに2歳の子供でもしばしば,場合によっては両親や祖父母を落ちこんだ気分か

ら助けてひき出すために重要な治療的機能を自分が行使しうるということを,非常に精確に知

っている。彼らの優しくなでる手,温かいまなざし,あるいは一緒に遊ぼうという彼らの側か

らの元気づけが,落ちこんでいる母親を元気にさせるということに気づいている。そして,片

方の親,または両親が自分たちの感情を安定させるために少なくとも1人の子供をどうしても

必要とし,他方,子供のほうでもこの関係に頼っているといった家族があることは,児童の心

理治療家なら誰でも知っている。葛藤の重荷を負ったどれほど多 くの夫婦が,小さな子供のも己王J6

つ緊張を和らげる媒介的機能にすがって生きていることだろう」(Richter1979邦訳p280f)。

子どもが親を気づかい癒そうとするこうした傾向は,Klein (1937)も指摘 していた。すで

に紹介した記述だが再掲 しよう。「小さな子どもにおいてさえ,愛する人-の関心を観察する

ことができる。それは,一般に考えられているような単に親しくし助けてくれる人への依存のしるし

徴ではなく-空想の中で傷つけられ破壊されている愛する人を助けかつ再び健康にするために

犠牲になろうとする,深遠な強い衝動」である (邦訳p81)0

子どもは困難を抱えたあるいは傷ついた親や家族を,助けて回復させたいと願うのであるO

そして別のひとの罪悪感を肩代わりするのである。「子どもは自らが悪になることで,対象の

なかに巣食っていると思われる悪の重荷を実際に自分に引きうける」(Fairbaim 1943p65)0

ここで注意したいのは,子どもが親の罪悪感を引き受ける根本的な動機をどう考えるかであ

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100 天 理 大 学 学 報

る。たとえば前節でみたようにFemando(2000)は,「まるで愛されていないという恐ろし

い真実が現実化 して押 しつぶされるといったことのないように自分を守 り,発達を保障しうる

ようにするため」(邦訳 p46)であるとするが,これは自己保全的動機である。

この節で議論 したいのはその種の動機とは別のものだ。それは対象への愛情という積極的な

動機である。つまり自己保全的動機ではなく,対象保全的動機である。罪悪感を肩代わりさせ

られる側面ではなく,肩代わりする側面である。別の言い方をすれば,受動的な犠牲的側面で

はなく能動的な救済的側面である。

宗教儀礼におけるスケープゴー トを考えるとよいだろう。スケープゴー トは人々の罪を肩代

わりさせられて荒野に追放されるわけだが,別の見方からすれば,それは人々の罪を肩代わり

して救済する役 目を果たしている。スケープゴー ト元型には,犠牲者とメシア (救済者)の両

側面が含まれている。前節では被虐待児の心理力動にも言及 したが,それはいわば犠牲者の側

面を論 じたものであった。この節で論 じようとするのは,対象を救済する者としての側面であ

る。

Ginzberg,L.の 『聖書の伝説』(1956)によると,アブラハムによるイサクの奉献は,一般

に流布 している話と違っている。イサクはただ受動的に供犠を強要され,服従させられたので

はない。アブラハムはイサクにモリアの地へ向かう目的を隠すことはなかった。またイサクは

すすんで自らを焼き尽 くす熔祭の薪を背負って山に登った。イサクは父の決定に疑義をさしは

さむどころか,犠牲が首尾よく完遂するよう自分の手を縛るようアブラハムに助言さえしてい

る (Boszormenyi-NagyとSpark1973)。子どもは親から犠牲を強いられるだけでなく,イサクのように進んで親を救済するために犠

牲となるのだ。こうした愛他性は攻撃性への反動形成ではない。またそれ自体は健全な現象で

あると思われる。

愛他性 というものは,精神分析学にあって一般にこれまで顧みられてこなかった。たとえば

SandlerとJoffe(1969p89)は,次のように断言 している。「理論的にも臨床的にもまさに重

要なのは,心理的適応の観点からみて対象への無私のあるいは愛他的な愛情や思いやりなどと

いうものは存在 しないということだ。ある特定の対象関係が保持されるかどうか,あるいは手

に入れようとされるかどうかを決める最終的な判定基準は,その対象関係がその個人の中心的

な感情状態にどのような影響をもたらすかである」(p89)。

ダーウイニアン ・ドク トリンを信奉する個人主義的な視点からは,どうしても自己中心的な

理論構成 となり,利己的な目的論が採用されることになる。 しかしそうした偏狭さを括弧にい

れて,関係性の視点にたてば,反動形成ではない他者への愛情,共感などにおいて一次的な変

他性が視野に入ってくる。ダーウィン流の生存競争が生物学のすべてではないのと同じように,

適応 と葛藤の心理が心理学のすべてではない。

たとえばSearles(1958)はいう。「わたしはフェアバーン (1954)やクライン (1955)と

同様,子どもは最初期から対象関係的であると考えている。といっても,クラインのいう生得

的な死の本能という概念は信奉 しない。-日常生活で子 どもを観察することから,あるいはま

た神経症的,精神病的患者との精神分析的,心理療法的な作業から確信 していることがある。

それは,愛すること (lovingness)が,人間にとって人格の基本要素であるということだ。新

生児はまさに愛する関係性に心底,開かれて外界へ反応するのである」(p227)。

またBenedek(1937)もいう。「幼児の観察から明らかに分かることがある。環境 との関係JI17

性が構築されるやいなや,子 どもは自分の能力に応 じて愛情を本能的に返 してゆく」(p206)0

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 101

searlesはさらに,子ども (患者)の治療的衝迫 (therapeutic strivings)を論じ,子ども

は 「母親に責任を感じるのみならず,母親を純粋に愛 し,どうにかして統合された自我をもっ

た十全な存在にするよう望む」(1975p385f),と述べる。そして,こうした治療的衝迫とは

「敵意のこもった衝迫に後続して二次的に生じるというより,それは愛を与えるという子ども

に備わった可能性の一部であり,より一次的なもの」とみなす (1975p454)。

すでにみたようにKleinでは,治療的衝迫は対象への 「償い」として語られていたが,そ

れが生 じるのは償いに先行 して空想のなかで自らの攻撃性が対象を傷つけたためである。

Searlesは,自分の欲動 (攻撃性や口唇愛的欲求)とは関係なく,対象への思いやり,共苦共

感を人間にとって一次的なものだと考えている。

Searles(1977)は,治療状況ではむろんだが自らの体験を省みても,親への治療的衝迫が

確認できるという。

自分の教育分析を振り返ってみて,疑いようのないことは,私が地獄にいる父親と

連座したいと心底願っていたということだ。そのわけは,私が父を憎んでいて,父の

苦しみについて償わねばならないという無意識的罪悪感が強かったからというだけで

はなく,父を愛し,父の体験 している地獄から父を救い出したいと望んでいたからで

もあった (p483)0

したがって肩代わりの罪悪感は,対象を苦痛から解放したいと無意識に願う子どもが,罪,

悪役,罪悪感をみずからの肩に担うことで,積極的に肩代わりするのである。少なくともそう

した側面があることは否定できないだろう。たとえ子どもには肩代わりする以外に選択の余地

がなく,また強制的に 「肩代わりさせられる」という状況にあったとしても,そうである。

子どもは共苦共感によって親の苦悩を引き受ける。しかしこの現象自体が直ちに病的である

わけではない。親子関係においては子どもが親に依存するだけでなく,親も子どもに依存して

いる。もっと言えば子どもは時に自分の親に対 して親の役割を果たすのだ。家族療法家の

Boszorm enyi-Nagyらは (1973)はこれを 「役割逆転」(親化paretification)と呼んでいる。

役割逆転は無条件に 『病理』や関係性不全の領域に帰すべきものではない。-・どの

子どもも時にはある程度,親と役割が逆転 しなければならない。これなくして,子ど

もは将来の生活で必要な責任ある役割に同一化できないだろう。親に何かを与えるこ

とのできる自分という自己イメージを内在化させることは,感情の発達にとって重要

な一段階である (p151)。

この点について,Winnicott(1954-55)ち,子どもは与えられるだけでなく与えるための

機会を経験することが健康な発達において重要だと強調していた。同様のことをSearles(1966

-67)も述べている。「私はこれまで拙著で繰りかえし次のことを強調してきた。親 (治療者)

が子ども (患者)に依存するのは 『許される』ところがあり,それは本質的には健全である。

児童期を過ごすうちで,また治療経過において親子 (患者と治療者)の双方がアイデンティテ

ィにおいて成長を遂げるということである」(p53)0

ただし 「一方,親に貢献するそのような自己イメージの内在化が,義務という過度に罪悪感

を負わされた雰囲気のなかで生じれば,そこからは拘束状態が生み出される。子どもは民に捕

らえられて,延々と続 く一方的な,役割逆転への要請 に唯 々諾々と従 うはめに陥る」

(Boszorm enyi-Nagyetal.1973p151f)。Boszorm enyi-Nagyら (1973)がいうには,好ま

しくない役割逆転は隠微に偽装された形で思いのほか遍在 しており,「個人のさまざまな形態

の 『精神病理』に内在する一要素となっている」(p165)。

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102 天 理 大 学 学 報

Ferenczi(1933/1949)はこうした現象に関 して,「受苦のテロリズム」(terrorism of

suffering)ということを述べるo

激しい愛と罰にくわえ,子どもを無力なまま大人に拘束する第三の方法がある。そ

れは 「受苦のテロリズム」である。子どもは強迫的なまでに,家族内の厄介ごとをす

べて修復 しようとし,他の家族の重荷を自分自身のいわば思いやりのある (tender)

肩に担おうする。むろんこれは純粋な変他性からでたものではなく,失われた安息と

そこで体験された相手からの関心と配慮をふたたび享受できるようにするためである。

たえず自分の不幸をかこつ母親は,子どものほんとうの関心など黙殺して,子どもを

自分の一生涯の看護婦,つまり現実の母親の代理に仕立てあげる (p229)。

受苦によって子どもが親に縛 りつけられるというFerencziの指摘は注目に値する.ただし

一点,「これは純粋な変他性からでたものではなく」という箇所は修正を要する。記述された

現象には,子どもの側の純粋な変他性が関与しているのだから。

「健康な母子の共生は,普通ならのちの個体化 (individuation)への基盤となる。しかし

悲劇的な環境にあっては,共生は子どもが真にひととしての個 (individual)となることを妨

げ,子どもを共生的治療者とでもいうべきものに変えてしまう。子ども自身の自我は,その全

体性を犠牲にして,一生涯,全 くの無私の献身のなかで母親のもつ自我の不備を補完しつづけ

る」(Searles1975p393)。

臨床的に問題となる肩代わりの罪悪感は,親子間での好ましくない役割逆転に由来する。そ

こでは子どもの愛他的共感が意図的,非意図的に濫用 (abuse)されている。子どもは,親の

自己対象の役割を果して,親の傷ついた自己愛を癒 しつづけるために,正常な発達目標を断念

して親との共生関係に留まることになる。

罪悪感とは,親への共苦共感によって子どもが能動的に自ら背負い込むものだと考えるなら

ば,Freudが抱いた例の疑問へも素直な解答が得 られる。その疑問とは,親のしつけが処罰

的で厳 しいものでなくとも,場合によっては子どもの超自我が峻厳で,子どもは罪悪感を抱き

やすくなるという現象であった。

親の受苦,悲哀や罪悪感に共感するために子どもに罪悪感が生じるのならば,それは親から

向けられる攻撃性とは直接,何の関係もない。したがって欲動に関する罪悪感を例外とすれば,

親の厳しさから子どもの罪悪感を説明する試みはおよそ首尾よくゆくはずもない。より重要な

のは,理由が何であれ親の抱える種々さまざまの困苦,悲哀,弱さ,痛々しさの方である。身

体疾患,経済的問題,夫婦の不和,劣等感,嫉妬,失意,虚無感,罪悪感,自己不全感,対象

喪失,心的外傷,精神疾患,その種類は挙げればきりがない。誤解を避けるために附言するが,

これらの弱さ,苦悩は罪ではない。また親が殉教者然とした自己犠牲的な態度で子どもに献身

する場合,子どもにはその見返りとして親の苦悩を共感したい,しなければという気持ちが強

まるだろう。

Freudがエディプス ・コンプレックスを概念化 した根拠には,自分自身の父子関係への洞

察があった。よく知られているように息子,ジギスムント少年は父ヤーコプの姿に英雄を見出

したかった。しかし,実際の父親は息子の理想化願望に応えるにはあまりに弱々しかった。無

意識にあった自分のエディプス ・コンプレックスについてFreudが自覚したのは1897年,40

歳のときであった。それは折 しも,年老い病み疲れた父ヤーコプが82歳で前年に死去 しその1

周忌を目前に控えた時であった。

加齢と病気で衰弱し死にゆく痛ましい父親の姿を,Freudは服喪過程において修復 し癒そ

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 103

うとしたのではなかったか。『夢判断』(1900)で示されたFreud自身の夢からは,そうした

服喪過程が看取されるが,父親が英雄ガリパルデイになぞらえられて国会で雄々しく活躍する

「ガリパルデイの夢」などはその典型といえよう。それは父親が偉大な英雄の姿をとって再生

して欲しいというFreudの願望を反映している。

回想される弱々しいよるべない父親の姿は,服喪過程においてFreudの主観的世界のなか

で強大な姿に変転 したのかもしれない。それは威圧的,去勢的な性格を帯びて再構成され, そ証18

の精力的な父親像が過去の幼児期というスクリーンに事後的に投映されたのではなかったか。

フロイトの理論に登場する親は,概して単なる生物学的特徴を備えただけの,また社会規範

を代表するだけの存在でしかなく,固有の人格特性をもって子どもに個性的に関わる存在では

ない。しかしエディプス ・コンプレックスで暗に想定されている父親像は「トーテムとタブー」

(1912)や 「集団心理学と自我の分析」(1921)で言及される 「原父」に見ることができる。

原父は,女性を独占し息子を追い払う嫉妬深さはあるものの,強靭な知性に恵まれた独立不帝

の首領として集団から超越 した存在とされた。Freudはニーチェのいう 「超人」を引き合い

にだしている。

傷ついた父親 (像)を癒そうという衝迫からこうした強大な父親像が生み出されたとするな

らば,エディプス的罪悪感というものも服喪過程で息子Freudに体験された心痛が, 罪をも証19

っぱら自分 (子ども)に転嫁するかたちで,理論化されたものと考えることもできよう。

4-5.生存者の罪悪感 :救済しえなかったことから生じる罪悪感

ここで 「生存者の罪悪感」(survivorguilt)についてふれておくことは有益だろう。それは

共苦共感から生じる罪悪感を考えるうえでの典型となりうる。

「生存者の罪悪感」は愛するひとを助けられなかった,愛するひとと苦痛や運命をともにし

なかったと感じることから生じる罪悪感である。それは,自らが愛する人と実存的意味におい

て 「共にある」ことができなかったことから生じる罪悪感である。したがって 「生存者の罪悪

感は,神経症ではないし,精神的,感情的な混乱でもない。実際,それはひとが他者に対して

抱きうる最も深い愛情を反映したものかもしれない。つまり,他のひとを苦悶と死から救い出

したいと願うことであり,それは自分自身の幸せ,健康あるいは人生そのものを犠牲にしてさ

え,そうしたいと願うことである」(Matsakis1999p3)。

こうした罪悪感は,たとえば犯罪被害者の遺族においてもしばしば見られる。小西 (1998)

は,ある遺族の苦衷を紹介している。飲酒ひき逃げ運転で息子さんを亡くした母親の慎悩であ

る。

亡くなった子どものことを考えると,残された者は幸せになってはいけないんだっ

て,思い込んでしまいます。あの子の人生は無くなってしまったのに,残された者だ

けが普通に暮らしていては申し訳ないと,そういう罪悪感みたいな気持ちがすごく働

いてしまうんですね。そうしますと-自分自身をすごく責めてしまいます。その自分

自身をすごく責めていることに,変な快感みたいなものを感じるんです。つまり,自

分をどんどん,どんどんダメにして,破壊して地獄の底までおとしめてしまう。そう

いうような感じで,自分自身を傷めて傷めて傷めつけて,メチャクチャにしてしまわ

なければ,のうのうと生きてなどいられない。そういう心理が働いてしまうような気

がするんです (p65f)。

「生存者の罪悪感」は不合理なものであり,第三者からみて愛する人の死に遺族はまったく

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104 天 理 大 学 学 報

責任がないにもかかわらず,遺族は原因を自らに帰し,こうしていれば防げたはず,そうしな

かった自分に責任がある,つまりは愛する人を殺したのは他ならぬ自分であると感じる。この

過程ではⅩleinが論述 した時系列とは逆に,傷ついた対象-の共感 (修復)-の衝迫が働 く

なかで,対象喪失の原因説明として自己の破壊性が事後的に挿入される。

生存者の罪悪感は2つの構成契機から成るOひとつは失くした愛情対象と苦痛や運命をとも

にして対象を救済したいという願望であり,もうひとつは,その対象救済の試みが現実には成

功し得ないということである。生存者の罪悪感から起因する自責感や自己穀損的行為は,自ら

の答や傷つきによって失われた対象との杵を空想のなかで再確立し,傷ついた愛情対象と共に

あろうとする試みである。罪悪感はそれ自体が対象関係である (Guntrip1968)。

一方,現実にはその試みは成功しえず対象は救済されないことから,自責や罪悪感が生じる。

要言すれば,対象との杵を再確立しようという試みの手段が罪悪感であり,その試みの帰結

が罪悪感である。

肩代わりの罪悪感においても同様のことが生じる。それは親の困苦,悲痛を共有,あるいは

肩代わりして親を救済しようという動きであったが,その試みが結果的に失敗 したと体験され

る。愛情対象を助けられなかったというのは,生存者の罪悪感では文字通 りのものであるが,

肩代わりの罪悪感では,心理的意味において傷ついた親を救済しえなかった,癒すことに失敗

したと体験されうる。傷ついた親を治療しようという試みに失敗した場合,子どもは罪悪感を

肩代わりした場合に倍加するいっそうの罪悪感を抱 くoKleinやWinnicottは償いの失敗とし

てこの現象に言及した。

searles(1975)は,精神病がしばしばこうした罪悪感に起因すると論 じている。「患者は

自我のばらばらな母親を自分にとって統合された満足のゆく母親にしようと,実際,非常に早

い時期から治療的努力を重ねてきた。しかし,その試みが失敗したことに永続的な罪悪感」(p

385)を無意識に抱 く。

したがって治療において,クライエントのかつて頓挫した治療的努力が治療者に向けて有効

に作用することが必要である。Searlesはいう。「近年の私の経験では,患者が治療で,今度

はそうした母親としての治療者を相手にかつてと比肩しうる治療的努力をうまく発揮しうる限

りにおいて,罪悪感から十分に解放され,自分の共生的価値を十分確信 し,それによってより

いっそう十全なひととしての個人になれる」(ibidJ。

またそうした治療的努力の充足と同時に 「主観的に一個の個人としてしっかり確立されるた

めに,患者はつぎのことを受け容れるようにならねばならない。自分は,治療者も含めて誰か

の心理的な困難を癒すのに貢献はできるが,相手を完全に癒すというようなことは決してでき

ない。それゆえ誰かの治癒に自分が責任を負う必要はない。したがって回復過程でいっそう健

康な人格となる道筋を自分は前進してもよいのだ。分離した個人であること,そしてますます

そうなってゆくことに星塁塵を抱かずに,健康な人格に向かって自分は前進してもよいのだ」

(searles1961p548強調は著者)。

親から分離一個体化することは,対象救済-の努力を放棄することだと子どもは感 じ,さら

には対象を破壊するに等しいと体験する。つまり自分が個体化することは愛情対象を殺人的に

バラバラにすること,あるいは見捨てて死なせてしまうことだと暗に感じ,対象との共生関係

から分離して個体化することに罪悪感を抱 くのである。つぎに 「分離-の罪悪感」の現象をと

りあげよう。

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4-6.分離への罪悪感

成長にともなう喪失と破壊

この節では対象から分離し個体化することで生じる罪悪感について論じる。ここでいう分離

とは死別などによる物理的分離ではなく,正常な精神発達過程で養育者から心理的に分離し,

自立した存在に成長してゆくことを意味している。

成長することには前進であり,新たに何かを獲得する過程である。それは一般に肯定的なも

のとして受け容れられている。しかしそれは事の一面でしかない。

成長することは,ある意味,過去との離別であり,それまでの安定をいったん突き崩すこと

でもある。つまり成長には本質的にかならず喪失と破壊が随伴する。成長とは否定の道 (via

negativa)でもあるのだ。成長によって否定されるのは,過去の自己,これまでの他者との関

係,社会的関係である。

Nelユmann(1963)は成長に必要とされる 「神殺し」について論じている。

それぞれの発達段階に応じて,自己はひとつの元型のうちに自らを具象化させる。

-自己がある元型のうちに自らを具象化させるとき,この元型は自我にとって最高の

価値を表わしている。そのため,自己が形を変えることは,同じく形を変えられるべ

き自我からすると,つねにまた,それまで最高の価値であったものを殺害すること,

つまり 「神一殺 し」を必要とさせる。けれども,自我にとってこのことは必ずや不安,

罪責感そして苦痛を意味する。なぜなら,すでに認知された聖なるものの古びたあら

われと比べれば,自己の次なる高次の段階のあらわれは危険で 「罪責感を引き起こす

もの」だからである (邦訳p210)。

どんなひとであれ,ある発達段階から次の段階へ前進するときにはこうした不安,喪失感,

神殺しの罪悪感が生じうる。そうした感情を他の人に共有してもらって初めて,後ろ髪を引か

れることなく前進できるのである (Searles1966-67)。

分離にともなう喪失と破壊の体験も,関係における主体の受動的側面と能動的側面の二様か

ら考えることができる。前者は対象から何かを与えられる機会が失われることであり,後者は

対象に何かを与える機会を失うことを意味する。したがって対象からの分離によって喚起され

る罪悪感も,喪失体験の受動一能動的側面から,理念上二様に分けられる。現実にはこれらは

共在し相互作用をなしている。

分離体験の受動的側面から生じる罪悪感は,分離によって自分が見捨てられるのではないか

という庇護喪失の不安 ・怯えに関連している。他方,能動的側面から生じる罪悪感とは,分離

によって対象を見捨てるのではないかという対象への思いやり・不安と関連するものである。

この2側面は,肩代わりの罪悪感の動機として論じてきた2種類の動機に対応している。そ

れらは自己保全を目的とする消極的な動機と対象保全を目的とする積極的な動機であった。

分柾体験の能動的側面から生じる罪悪感は,対象との共生関係から離脱し,期待される役割

を果たさないこと,つまり親への不忠から生じるものである。言いかえれば,親を治療しよう

とする努力を放棄し見捨ててゆくと感じることから生起する罪悪感である。子どもは無意識に

おいて,自分が対象から分柾し個体化することを,対象を見捨てる,さらには対象に死をもた

らす罪深い行為として体験しうる。

分離体験の受動的側面から生じる罪悪感については,ここでは多くを論じない。それは子ど

もの側の分離不安というかたちで,これまで他所でずいぶん論じられてきたからである。また

何より本稿での関心が,もう一方の能動的側面から生じる罪悪感にあり,それを愛他的動機か

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106 天 理 大 学 学 報

ら論じることにあるからである。

ただし分離体験の受動的側面から生じる罪悪感として,Masterson,∫.F.の提唱する 「見捨it20

てられ抑うつ」(abandonmentdepression)について若干ふれておこう。またそれを論じるこ

とは,能動的側面から生じる罪悪感-の橋渡しともなるだろう。

見捨てられ抑うつ

見捨てられ抑うつは,Mastersonの唱える境界例の治療論において鍵概念となっている。

彼が考えるには,境界例の病理とはMahler,M.のいう分離一個体化が頓挫したことで生じた

様態である。つまり,「母親が子どもの分離一個体化に賞賛を控えるので,分離一個体化により

見捨てられ抑うつが生じる。一方,母親は子どもの退行的しがみつき行動には報酬を与える。

そのため子どもは母親の投影に退行的に服従することにより,抑うつから自分を防衛するO こ

のようにして,退行的で病的な防衛機制- 回避,否認,しがみつき,行動化,分裂,投影-

の体系ができあがる」(Masterson1981邦訳p127)。

見捨てられ抑うつとは,抑欝,憤怒,恐怖,罪悪感,受動性 ・無力感,空虚感などから構成

される複合的感情状態である。

見捨てられ抑うつが体験されるのは,分離一個体化に向けて子どもが自己を発現させたとき

に,これを母親が批判,攻撃 し,愛情や承認を撤去すると脅すからである。このとき,その感

情は特定の対象表象-自己表象と結びついている。対象表象はその良い側面は分裂排除されて

「すべて悪い母親」となり,それと対となっている自己表象も,悪い,罪深い,醜い 「すべて

悪い子」となっている。したがって,見捨てられ抑うつにおいて,自己への感情として明確な

のは,自己嫌悪や罪悪感であるO このことは,見捨てられ坦i三という命名に引きずられてか,

十分理解されていないのかもしれない。見捨てられ抑うつはむろん一般に空虚感,無意味感と

いった漠たる複合感情であるが,その構成要素として罪悪感はとくに重要である。

Rinsley(1980)は,見捨てられ抑うつについて,輪郭の明瞭な自己感情としては罪悪感が#2I

顕著であると説明している。「この感情には,中核となる不安の要素と,より分化した要素と

が含まれている。この不安は,本能的で,心的内界および外界からの刺激に対して,母親の保

護に守られた刺激防壁が失われそうで,自我の大きな外傷体験が続いておこる,原始的な体験

に根ざしている。より分化した要素とは,罪悪感として感じられる,より構造化したものであ

る。これは 『見捨てられそう別 不安,あるいは,対象喪失や供給停止の脅かしとして知覚さ

れた,超自我によるサディスティックな攻撃に対する自我による不安と考えられる」(Rinsley

1980邦訳 p216f)0

子どもが罪悪感を抱 くのは,分離によって母親からの保護,愛情,承認が失われるかもしれ

ないと不安に怯えるためである。またMastersonがいうには,境界例患者の母親自身も境界

例であるため,見捨てられる不安が強く,その不安を防衛しようと子どもにしがみつく。つま

りクライエント (子ども)の分離一個体化が抑制されるのは,母親の共生関係へのしがみつき

と子どもの側に生じる罪悪感のためであるとする。子ども側の要因として考えられている見捨

てられ抑うつは,これまで論 じてきた消極的動機の範暗に属するものである。

ところでMastersonの記述するように母親が見捨てられ抑うつから子どもにしがみつくの

だとしたら,彼は述べていないが,子どもは意識下でこう思うのではないだろうか。自分は表

面上母親に依存し世話されているが,実のところもっと深い心理的次元では逆に母親が自分に

依存 しているのではないか。自分が居なくなると母親はやってゆけなくなるのではないか。つ

まり子どもは,母親の自己愛や自己同一性の不全を自分が補完して母親の精神衛生を維持する

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 107

のに一役買っているのを無意識裡に理解するにちがいない。

そこで問題となっているのは,愛情を供給してくれるにせよ撤去すると脅してくるにせよ,

自分の生殺与奪権を握っているような強大な母親の姿ではない。自己愛の脆弱さから見捨てら

れる不安に恐怖する,寄る辺ない子どものような母親である。

そうした母親を無意識に察知した子どもは,自分が母親との共生関係から分離-個体化する

ことは母親を見捨てることであり,結果として母親の脆弱な精神構造を破綻に導きかねないと

確信 してもおかしくはない。Mastersonの述べる,見捨てられ抑うつの深部には,母親を星

捨てようとしたことからくる罪深い自己への罪悪感が潜在しているのではないか。

分離体験の能動的側面から生じる罪悪感とはこうした性質のものである。クライエントを乳

幼児と見立てるルー ト・メタファーを暗に採用する場合- Mastersonが依拠するMahlerの

分離-個体化論ではメタファー以上のものである- ,いきおい子ども (クライエント)の受

動的,依存的な側面に目を奪われやすい。しかし関係とは相互的なものである。

分離への罪悪感

以下,分離体験の能動的側面から生じる罪悪感について論じてゆこう。それは自己存続への

危倶ではなく他者存在-の配慮を基盤にして生じ,対象との共生関係から離脱し,期待される

役回りを果たさないことから惹起される。自己の対象からの分離が対象を見捨て,さらには対

象に死をもたらす罪深い行為として体験される。

stolorow (1985)は,こう述べる。

よくあることだが,子どもは必要とする杵を保つために,親にとってある役目を果

さなければならない。それは親にとってきわめて重要な自己対象として機能すること

である。終始一貫して親が,子どもと一体となった原始的状態を要請する場合,たと

えば子どもが今よりももっと分化した自己の状態になろうとすれば,子どもには深刻

な葛藤と罪悪感が生じうる。そうした例では,自己の境界を画定しようとする行為と

自分独自の感じ方というものは,親からは親を心理的に傷つける (damaging)もの

と体験される,と子どもには思われる。かつ,そのせいで子どもは,自分は万能的に

破壊的だという自己認識を発展させることがある。こうした,自分は残忍で危険な破

壊者なのだ,という子どもの自己認識は,原始的な自己対象として子どもを必要とす

る親の欲求から作 りだされるのである。そしてそれは子どもの自己境界の形成過程を

妨げると同時に,罪悪感と自己処罰を生み出し続ける源泉となる。- 古典理論でい

われる 「苛酷な超自我」と 「加虐的な超自我前駆体」とはこのことである (p195)。

Modell(1984)は,分離-個体化に伴うこうした罪悪感を 「分離への罪悪感」(separation

guilt)として概念化する。彼は,子どもが自分の分離一個体化によって愛情対象が結果的に傷

つき破壊されてしまうと感じるために,自分独自の欲求をもち,自己を楽しみ,独立独歩の存

在になろうとする志向性に罪悪感を抱 くとした。

「罪悪感の内容は-他者を破壊 したいという願望に基づくだけではなく,自分には

分離した存在となる権利がないという確信にも関連 している」(p65)。子どもにとっ

て 「母親的対象から分離することは,無意識では母親に死をもたらすと知覚されてい

る。言いかえれば,自分自身のために何かを手に入れること,分離した存在となるこ

とは母親から生命の基本物質を剥奪すると知覚されている」(p69)。

個体化とは,日常的な相互交流の水準においては子どもが母親と感情を共有せずに自分独自

の感情を体験することでもある。Valenstein(1973)がいうように,最初の愛情対象から分

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108 天 理 大 学 学 報

化することは,対象と連結した感情-の愛着を放棄することでもある。親と結びついた感情が

苦痛に満ちたものである場合,たとえば慢性的な密やひどい失意といったものである場合,そ

うした感情に共感し同一化している子どもは,もし自分が快活になれば,それは不忠実にも対

象を見捨てることになると感じる.幼児期に母親が慢性的に夢気分に沈み込んでいたクライエ

ントは,子どもの頃母親が死ぬのなら自分も一緒に死ぬのは当然だと思っていた,と述べた。

Modeu (1984)によれば,分離への罪悪感の基因は 「自己一対象の分化段階において発達

が失敗 したことに関連している」(p65)。つまり 「ここには自己と対象の混同がある。幼児の

心性では,母親から分離することで自分が死んでしまうかもしれないという恐怖は,母親を破

壊してしまう,つまりは殺してしまうかもしれないという恐怖と混同されている」(p66).自

他が未分化であるために,自己存続への危倶 ・不安が鏡像のように対象存続への危倶 ・不安と

なる。すなわち死ぬことは殺すことと体験されている。

確かに分離への罪悪感が生じているところでは,自己と対象が混交している。Jungのいう

神秘的融即の状態がそこには存在する。しかしModeuのいう自他未分化,自他の混交とは分

離への罪悪感が生起する十分条件ではなく必要条件であり,実際は対象への共感から生じた結

果として考えられる。

それというのも,分離への罪悪感が,現実吟味が未熟な幼児だけではなく成人でも見られるa22からである。たとえば生まれ育った社会階層から上昇し非常に成功した成人などでも見られる。

実はModenもこうした人たちに言及している。 「この形態の罪悪感 (つまり分離への罪悪感)

がとりわけ顕著に見られるのは,あるひとが自分の生まれ育った家庭とは違った文化的階層の

一員となった場合である。そこには背後にとり残してきた家族を見捨てたという不忠の感覚が

ある。しかし,これに加えて別の感情もある。それは,ときに意識に近いことにあるのだが,

とり残される家族から自分が離れてしまうせいで,残された家族の誰かが死ぬかもしれないと

いうものだ」(p68)。

Modeu(1984)のいう分離への罪悪感と同様の現象は,前節で言及したSearles(1975)

も論じている。「患者は母親に責任を感じるのみならず,母親を純粋に愛し,どうにかして統

合された自我をもった十全な存在にするよう望んでいた。個体化とは,そうした母親を寸断す

ること,見捨てて死にいたらせることを暗に意味していた」(p385)0 Searlesは,このように,

母親を純粋に愛し,どうにかして癒したいと望んでいたがゆえに分離への罪悪感が生じるとす

る。

こうした分離への罪悪感が生起するような親子関係においては,しばしば 「母親は,子ども

に個別性 (individuality)が発達することで,病的共生に基づいた万能的な自分のアイデンテ

ィティがうち壊されると感じる。しかも,それが自然のなりゆきでそうなったと (無意識で)

単に受けとめるのではなく,むしろ子どもが,意図的に個体化 して,悪意のこもったある目的

を遂げようとしているかのように反応する。つまり意図的に母親の世界 ・自己を破壊しようと

しているとみなす。」(Searles1966-67p61強調は著者)。母親は子どもの成長に伴う喪失を

剥奪として被害的に体験するのである。

ユング派は,子どもの成長過程で昼撃的な意味での母親殺し,父親殺しが必要であると論じ

る。Neumam (1948)がいうように 「象徴的な意味での両親殺しは,個体の正常な生のなか

況では親がそれを文字通りのものとして被迫害的に体験し,その結果,子どもには罪業深重た

る自己像が形成される。子どもはこの罪悪感に対処するためにしばしば自分の正常な発達目標

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 109

を断念して,病的な共生関係にとどまり,親の治療者役を一見してそれと知れないような形で

担い続ける。

望ましい発達のためには,親が喪失に耐え,子どもの成長に本質的に含まれる 「親殺し」の

側面に生き残ることが必要である。また子どもの償いを親が拒否せず,また濫用もせずにはど

よく受け取ることが必要であろう。

Searlesは統合失調症 (精神分裂病)の治療者として著名であるため,次のような印象をも

たれるかもしれない。たしかに彼の論じる親 (治療者)へ治療衝迫や個体化に伴う罪悪感とい

った現象は存在するかもしれないが,それは病理の重篤な一部のクライエントにだけ妥当する

のではないかとoLかしそうではない。分離への罪悪感は,社会的に非常に成功している成人

にも見られることはすでにふれておいた。

ここでBoszorm enyi-Nagyら (1972)の 「忠誠」の概念を参照 しよう。彼 らは,分離の問

題を親や家族への忠誠 (loyalty)と不忠 (disloyalty)という観点から論 じている。そこでは

Modellのいう分離への罪悪感は不忠の罪悪感として概念化されている。忠誠,不忠とは,日

常的な用法とは異なって,意識的,意志的なものではなく,むしろ無意識的なものである。し

たがって直接観察されるような現象ではないo彼らは,忠誠,不忠といった 「倫理的,実存的

用語」を使用するのはクライエントを全体存在として把握したいからだという。

「家族の誰かが成長すること,成熟することは,ある程度,個人的な水準での喪失や関係性

の不均衡化を意味しており」(p41),子どもはこうした家族システムのホメオスタティックな

均衡が不安定化し,他の家族に否定的影響が生じることに無意識的罪悪感を抱く。子どもは成

長する過程で,親から暗に期されている役割から離反し,また社会に参入してゆくにつれ生ま

れ育った家庭の価値観から離脱してゆくことになるOその過程で子どもは無意識に分離を不忠

と捉え,罪悪感が惹起される。

Boszorm enyi-Nagyら (1972)は臨床経験から重要なことを学んだという。それは,子ど

もや青年が怒って,いろんな意味で否定的な親を拒絶し,突き放し,親から離れたいといった

兆候を見せるとしても,それを額面どおり受け取ってはいけないということである。「むしろ,

みかけとは正反対に家族システムへの忠誠心が罪悪感を季みながら潜んでいないかを調べ,ま

た不忠に付随する,痔れるような実存的罪悪感の構造をよく考えること」が臨床上,重要なの

である (p191)0

「忠誠の倫理は自己制御の倫理としばしば葛藤する。母親が10代の娘にいう。『デー トして

楽しい時間を過ごしてもいいわよ。逐一ぜんぶ私に報告する限りはね。』こうした母親には,

性についての寛容さを犠牲にして,娘が積極的に忠誠をつくし続けるままにしておこうという

算段がある」(p41)oまたBoszorm enyi-Nagyらは 「性-の罪悪感と性的抑制のいちばん根っ

こには,生まれ育った家族への不忠を恐れる気持ちもあるに違いない」という (p49強調は

著者)a

彼ら (1972)によれば,家族療法が成功するためには一般に 「治療者は,子どもがどうや

って親を助けているかを知るために,その糸口を手に入れるよう努めなければならない」(p

190)。子どもの症状は様々な形で両親の問題を引き受け,(歪な形で)援助 しようとしている

とみなせるからである。たとえば 「学校恐怖症の家族療法でよく明らかになるのは,隠された

役割逆転で,親には,登校せずにいる子どもから世話されているという空想があるということ

である」(p158)0

以上のように,分離への罪悪感は,決して特殊な問題ではなく,家族関係のなかでクライエ

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110 天 理 大 学 学 報

ントの心理力動を理解 してゆこうとすれば,多くの事例でおのずと視野に入ってくるものであ

る。

分離一個体化にともなって生じる罪悪感,不忠感は,子どもや青年の個としての成長過程を

抑制する。それは,分離への罪悪感が見捨てられる不安というよりも,見捨てる不安から生じ

るためである。つまりそれは,傷ついた対象への共感,治療衝迫を放棄することへの懸念であ

る。そのため仮に庇護を失ってもやっていけるだけの自活能力を子どもが備えたとしても,対

象を置き去りにするに忍びがたく罪悪感が足翻となって,纏綿たる共生関係から抜けだして自

らの道を歩んでゆくことができない。

したがって心理療法とは,Sampson (1976)の述べるような過程である。

患者が幼児期の対象と充足に愛着し続ける決定的要因は,無意識的罪悪感にある。

それは早期の対象から顔を背けたい,自分で自分を制御したい,自分自身の人生を歩

みたいと思うことへの罪悪感である。したがって治療とは患者が幼児的満足を少しづ

つしぶしぶ断念する過程ではない。むしろ治療過程で患者は分析家を傷つけずに,ま

たより早期の対象への罪悪感に圧倒されることなく,幼児期の対象との杵と快を放棄

できることに,次第に安心をみいだしてゆくのである (p261f)。

5.本当の罪と偽りの罪

ここまで関係性を一次起源とする罪悪感を論 じてきた。この章では,そこから二次的に生じ

る心理力動について論じておきたい。それは主観のなかで生じた罪悪感が,現実のなかで実体

的罪を引き込み,有象化する現象と言いかえることもできる。罪から罪悪感が生まれるのでは

ない。罪悪感から罪が生まれるのである。主観的な罪悪感が現実の罪に裏打ちされるなかで罪

悪感はより堅固となり,悪人アイデンティティは強化されてゆく。そのため罪悪感はなおさら

現実の罪を引き寄せることになる。ここには罪悪感と罪の拡大再生産的な悪循環が見られる。

これまで述べてきたように,外在化によって対象から罪 ・罪悪感を押しつけられ,あるいは

子どもみずからがそれを引き受けることによって罪悪感が生じる (肩代わりの罪悪感)。一方,

外在化される罪悪感を引き受けずに,共生関係から抜け出して分離した独自の存在になろうと

すれば,対象を傷つけ死に至らしめる (と感 じる)ために罪悪感が生じる (分離への罪悪感)。

そうしてみると親から罪や罪悪感が子どもに外在化された場合,子どもはそれを受諾して共

生関係に留まるにしても,あるいは拒否して共生関係から抜け出すにしても,種類は違えど,

いずれにせよ罪悪感を抱かざるを得ない。多くの場合,前進への試みは罪悪感によって共生関

係に引き戻される結果に終わる。進退両難のこの状況で前進,後退を繰り返すとはいえ,総じ

て子どもは分離の罪悪感よりも肩代わりの罪悪感を良しとする。それは,ひとつには肩代わり

の罪悪感が退嬰的な意味での自己安寧を温存するからだが,それ以上に対象を救済したいとい

う無意識の愛他的願望が働 くからである。

子どもが対象政活的役割を担いつつ,共生関係に留まる場合,そこには新たな罪が生じてく

る。それは自己存在に関わる実存的罪,つまり自己背信の罪である。Winnicott(1963b)は

いう。「幼児にとって,不道徳とは自らの生き方を犠牲にして従うということである」(plO2)0

これはひとり幼児に限らず,「人間が-もろもろの可能性を否定し,その可能性を現実化する

ことに失敗するとき,その人間は罪 (guilt)である」(May1983邦訳 p169f)。Boss(1957)

もこの罪を以下のように述べる。「人間が自分の何らかの態度可能性に対する否認と無視とを,

つまりみずからの最も固有な自己的,全的存在にいたる努力の放棄を行えば,彼は自分が自分

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罪悪感再考 :対象関係と愛他性を視点として 111

の根源から命じられているところの,真理の番人としての使命に対して何ほどかの負目を負わ

ずにはいない」(邦訳p150)。

Laing(1961)は本当の罪 (trueguilt)と偽 りの罪 (血lseguilt)とを区別する。「本当の

罪とは,自分が自分自身となるために,自己自身を実現するために担っている義務に違背する

ことで生じる罪である。偽 りの罪とは,自分に対して他の人がこうでなくてはいけないと期待

している,またこうなのだと決めこんでいる在 り様に,自分が違背するために感じる罪である」(p133)。

子どもは共生関係に留まることで偽の罪を回避し,真の罪に陥ってしまう。この本当の罪は,

すでに対象との関係で形成されている悪人アイデンティティを事後的に立証する根拠となるO

自分はなにか本物ではないという感覚。偽 りの存在であるがゆえに自分は悪であるという感覚

が無意識において生じる。

Laing(1960)は,ピーターという自己臭妄想症の症例を考察するなかで,次のように述べ

ている。「彼の罪は,自分には生きる権利がないという感覚を,自己決定によって裏書きした

こと,そして,自分の生に備わった可能性に近づくのを拒否したことにあった。-彼は現実に

おいて,現実の人と現実のことを行なって,現実のひととなる勇気をもたなかったがゆえに,

罪を感 じた。ベーターの真正の (au仇entic)罪と呼べるものは,自分の真正ではない罪に投

降したことであり,自分自身であろうとしないことを生の目的にしたことである」(p132強

調は著者)0

クライエントの主観において,罪悪感は,自己背信的だから自分は悪なのだと根拠づけられ

る。これまで論じてきたように,罪悪感はその発生において,自己の内部に実際の根拠をもた

ないまま関係性のなかで,まず最初に罪悪感が生まれ,それに見合う実体的罪がそこに引き込

まれるのである。罪悪感の根拠として付加される実体的罪はこれ以外にも,より具体的水準で,

弱さ,無能,性的行為-の関与,不道徳な行為の実行など,生活のなかでいくらでも見つかる

だろう。

また自己背信の罪は,意識において他者背信の局面-投射変形される。自分にとって自己が

本物でない以上,他者にとっても本質においてそれは偽物であり,自分は偽物を提示して,ひ

とを欺いている詐欺師と感じられる。

また確立されている悪い自分という自己同一性も,外界に適応する過程で自己の虚偽感を強

化するよう働 く。悪い自分は人一倍良い子にしないとひとは関心をもってくれない。だから本

当の悪い自分を隠して,他のひとに気に入られる良い子,善人を演じているが,本当は自分は

悪い人間なのだ。自分はうまく人をだましているだけだ。偽善者なのだ。ひとが自分を好きに

なってくれたり,評価してくれたりしても,それは表面の偽りの自分を見ているにすぎない。

本当の悪い自分の姿を見たなら,かならずやひとは自分を見捨てるに違いない。なぜ自分が悪

い人間かといえば,ひとつにはそうやってひとを欺いているからだ。

真の自己から疎外された自己とは,自己に背信しても他者に従属し他者を救済しようとする

自己である。しかし,この偽りの自己 (悪としての自己同一性)が本人の意識においては本当

の自己として感じられている。この偽 りだが本当と感じられている自己からすれば,外界-の

適応のために生じてきた良い印象を与える自己は偽 りとされる。ここには虚偽の二重化がある。

こうした自己構造が確立されれば,そののち他者との肯定的な体験をしたとしても,悪人ア

イデンティティが変容するのは容易ではない。詐欺師アイデンティティ,偽善者アイデンティ

ティが,中核にある悪人アイデンティティを防護するためである。

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112 天 理 大 学 学 報

関係性 を起源 とする罪悪感の様相 をLaingの 『結ばれ』(1970)風 に表現することで本稿 を

閉 じることにしたい。

僕は悪い子

なぜなら母 さんが愛 して くれないから

なぜ母さんは愛 して くれないのだろう

僕が悪い子だから

心地よくない

だから悪い子にちがいない

悪い子でなければ心地よいはず

もし僕がよい子ならきっと母 さんはよい人 となって愛 して くれる

母 さんが愛 して くれないのは僕が悪い子だから

愛されてないと思 うなんて僕は悪い子

信用 しないそんな僕 を母 さんは愛情から罰 して くれる

そんなにしてまで愛 して くれる母さんを僕は疑 う

母 さんはいう

お前を愛 しているのにそれを疑 うとしたらお前に問題があるんだよ

母さんは心地 よくない

愛されてると僕が思えないから

母さんは僕 を愛 していると思わないと心地悪い

母さんを心地悪 くさせている

だから僕は悪い子

そんな僕はだれからも愛されない

なぜなら僕は悪い子だから

そんな僕 をあなたは愛 して くれる

だからあなたは悪人だ

(1) 文化人類学者のBenedict(1946)は,合衆国の 「罪の文化」と対比して日本の文化を 「恥の

文化」として特徴づけた。彼女は日本人において罪悪感が希薄であると考えたわけだが,そこで

問題とされる罪悪感がどういう性質のものであるのかを見ておくことは重要である。それはおも

に身体的快への罪悪感である。それは,精神分析的に言えば (性的)欲動に関するものである。

彼女の目からみて,「日本人は自己の欲望の満足を罪悪とは考えない。彼らはピューリタンでは

ない。彼らは肉体的快楽をよいもの,滴菱に値するものと考えている。快楽は追求され,尊重さ

れる」(邦訳p204)。温浴,睡眠,食事,飲酒においてもまた然りである。そして 「日本人はまた,

自淫的享楽に対 してもあまりやかましく言わない。-手淫を非難する西欧人の強硬な態度-それ

はアメリカよりもヨーロッパの大郡分の国ぐにの方がさらに強硬であるが-は,われわれが成人

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罪悪感再考 :対象関係 と愛他性を視点 として 113

する以前に,われわれの意識に深く刻みつけられる。少年はそんなことをすれば気違いになるぞ,

とか頭が禿げてしまうぞ,とかいうささやきを耳にする。西欧人は幼年時代に母から厳重な監視

を受けた。もしその罪を犯せば,母親は非常に問題にし,体罰を加えることがあった。両手を縛

ってしまうこともあった。また,神様に罰せられますよ,と言うこともあった。日本の幼児や少

年はこういう経験をもたない。-自淫は日本人の全然罪と感じない享楽である」(邦訳 p216f)0

(2) この攻撃性の 「自己自身への向け換え」(DieWendunggegendieeigenePerson)という心

理機制は,「本能とその運命」(1915),「悲哀とメランコリー」(1917),「マゾヒズムの経済的問

題」(1924)などでも取りあげられている。

(3) ここに引用した「自我とエス」(1923)では,新たに超自我という用語を導入しながらも,「自

我理想」という術語もそれと明確に区別することなく使用している。「精神分析入門(続)」(1933)

にいたって両者の区別が試みられる。引用した箇所の自我理想の語は,超自我の意味として理解

して良いだろう。

(4) Freudは去勢不安をあらゆる不安の原型と考えており,たとえばつぎのように述べている。「ど

んな不安も,本来,死の不安であるという殺 し文句はほとんど意味をもたないし,とにかく正し

いものではない。-死の不安は良心の不安と同じように,去勢不安の加工されたものとして理解

することができる」(1923邦訳 p299)0

死の本能を重視し,不安が死への恐怖に起源すると考えるⅨ1einはむろんこの考えに同意しな

いo常識的に考えても,自己存続への不安や恐怖を身体部位の穀損 ・喪失への恐れに還元するの

は転倒した考え方といえる。

精神分析の文化にあって去勢という術語は象徴的含意を過度に膨張させており,喪失,分離,

性同一性の動揺,自己喪失までを指示しうる言葉-イメージとなっている。

ちなみに去勢というメタファーは元来牧畜民であった民族には親しみやすいものだと思われる。

またユダヤ人の少年にとって去勢は現実味をもった恐怖であった。それは去勢が宗教儀礼として

の割礼と観念上,結合しやすいからである。

(5) 小此木 (1982)は,師である古沢 (1932)の唱えた 「阿閣世コンプレッスクス」における罪

悪感を 「ゆるされ型罪悪感」,Freudのエディプス ・コンプレックスを基盤とする罪悪感を 「処罰

型罪悪感」として概念化し,対比している。

古沢が問題にする罪悪感は 「過ちをゆるされる時におこす,心からすまいないと思う罪意識で

ある」(小此木 p23)。古沢自身の言葉によれば,「あくなき子供の 『殺人的傾向』が 『親の自己犠墜』に 『とろかされて』初めて子供に罪悪の意識の生じたる状態」(p168r強調は著者)である。

本文で述べたように,Freud型の罪悪感は一般通念からは罪悪感と概念化されないのが普通と

思われ,それに古沢は違和感を掩いたといえる。一方,古沢の記述する罪悪感は一般に罪悪感と

言われる範時に相当するものであろう。

また,熱心な真宗門徒であった古沢は,阿閣世コンプレックスを提示することで,ユダヤーキ

リス ト教的な罪悪感に対し,浄土真宗的な罪悪感を対置する意図があったように思われる。

(6) Kleinは晩年,2つの態勢は,実際上は理念ほどには図式的に二分できず,妄想一分裂態勢で

罪悪感が生じることもあると述べた。たとえば 「過度の羨望の結果の一つとして,罪悪感が早く

から芽生えてくることがあげられよう。もし罪悪感が,あまりに早くから,まだそれに耐えるだ

けの能力をもっていない自我に体験されるときには,この罪悪感は迫害感として感 じられ,罪悪

感をもたらす対象は迫害者へと変えられてしまう」(1957邦訳 p29)という。

(7) Freudの罪悪感を取上げた際,論及したように,処罰型罪悪感は一般にいう罪悪感とは相違

する。恐怖,不安という方が適当である。

すでに註6でもふれたようにKlein自身,過度の羨望の結果の一つとして.罪悪感が早くから

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114 天 理 大 学 学 報

芽生え,自我がその罪悪感に耐えるだけの能力をもっていない場合,罪悪感は被害感として感じ

られるというが,この場合も 「罪悪感」という表現は不適当であろう。

それは危害を加えたと認識される状況への心理的反応である。ある場合には状況に対して罪悪

感を抱き,ある場合には被害感 しか感じられず,ある場合は最初少しだけ罪悪感を体験するがそ

れに耐えられず被害妄想的防衛や操的防衛によって罪悪感を無化するといったもので,妄想一分裂

態勢において体験されるからといって,罪悪感を概念上2種類に区別する必要はない。あえてそ

れを罪悪感とするなら,それは罪悪感としては保持しえなかった罪悪感,いわば流産した罪悪感,

被害感に変質した罪悪感ということになるが,実際の現象に即せば,罪悪感が変性したと考える

のは適切でない。そのままに被害感として理解すべきだろう。達成としての罪悪感という視点に

固執し,目標に到達していないものとして理解するため,被害感を罪悪感の範噂に含めて考える

ことになるのではないだろうか。実際は罪悪感に耐えられる心的状態と罪悪感に耐えられない心

的状態があるとすべきである。

むろんFreudの肇にならって報復への恐怖,つまりは被害妄想的不安を被害妄想的罪悪感とい

うことは可能だが,これでは不安を罪悪感に言いかえただけのことである。

最後にGrinberg(1964)の提唱する,被害妄想的罪悪感と抑うつ的罪悪感という2種類の罪

悪感の内容をみておこう。彼はそれを次のように要約している。「被害妄想的罪悪感における主た

る構成要素は,憤怒,絶望,恐怖,心痛,自己批判などである。その極端な顕在化はメランコリ

アである (病的服喪)。抑うつ的罪悪感において優勢な構成要素は,悲しみ,対象と自己への思い

やり,懐古,責任感である。これは通常の服喪で見られるものであり,そこには昇華としての活

動,識別,償いがある」(p368)0

これはふつうにみれば罪悪感の2種というより,服喪過程の2局面とみる方が自然な心性であ

ろう。

(8) 生き残る母親の元型的イメージとしては,『老子』にでてくる玄牝がふさわしい。

「谷神は死せず,是を玄牝と謂う。玄牝の門,是を天地の根と調う。綿々として存するが若 し。つ

之を用うれども勤きず。」

(9) Winnicott(1954-55)は次のように述べている 「幼児は (本能的な愛の結果である)穴ぼこ

に耐えられるようになる。ここにおいて初めて罪悪感が生じる。-罪悪感は2つの母親,そして

静穏な変と興奮した愛,そして愛と憎しみ,といった2つのものを1つにすることで始まる」(p

270)。ここでは2つの母親以外に,愛と憎悪の統合も挙げられてはいるが,ほかの記述を参照す

れば明らかとなるように,力点は静穏な愛と興奮した愛の統合にある。

(10) この論文 (「思いやる能力の発達」(1963a))では,成人の症例も取りあげられている。そこ

では,解釈において破壊的側面を取上げる際には,その前に償いや建設的側面を指摘 しておくこ

とが重要だとしている。

(ll) 感謝についてmeinは 『羨望と感謝』(1957)で記述しているが,しかし表題の一部であり

ながら感謝には十分な紙幅が割かれていない。というより,ほとんど論及していないと言ってよ

いほどである。

(12) これはシゾイドのひとに見られる罪悪感である。シゾイドのひとにあっては,Fairbaim

(1941)が指摘するように,「愛によって破壊することなく,いかに愛するか」(p49),が解きえ

ぬ難問である。

シゾイドのひとでは自分のリビドー的欲求,つまり自分の愛が相手を消耗させはしないか,棉

手に損傷を与えはしないかといった不安が高まる。子どもでは,母親が自分を愛してくれないの

は,もとはといえば自分の方が母親の優 しい愛情を台無 しにしてしまったからであり,自分の愛

情が受け容れられないのは,もともと自分の愛情が破壊的で良くないからだと感じる。

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罪悪感再考 :対象関係 と愛他性を視点として 115

(13) Kohut(1977)は,エディプス ・コンプレックスに関係する罪悪感も正常発達で体験される

普遍的なものというより,環境側の失敗による病理的なものではないかと示唆する。

「あまねく存在する人間的体験であると考えられる古典的精神分析のエディプス ・コンプレッ

クスは実際はすでにして病理的発展のあらわれではないか,少なくとも発生機状態の病理のあら

われではないか,という疑問にてらして考えてみるべきであろう」(邦訳 p196強調は著者)0

(14) 攻撃性の取り扱いについてFairbairnの考えを註記しておく。Klein,Winnicottの攻撃性の

解釈の仕方と対比するのは興味深いだろう。

「攻撃性の観点からなされる解釈は望ましくない効果を及しがちである。患者は分析家が自分

を 『悪く』思っていると感じてしまう。いずれにせよ,抑圧されていた悪い対象が解放されるに

つれて,そうした解釈は不要になってくる。というのも,そうした状況では患者の攻撃性は十分

明らかなものになっているからである。その際,攻撃性の背後にリビドー的な要素が存在するの

を指摘することが,分析家の仕事となる」(p74)。

(15) Fernandoは実際の現象上,肩代わりの罪悪感を3つに分類している。第1の類型は,他者

への批判を自己に向け換えて,相手の感じるべき罪悪感を代理的に体験するもの (これはFreud

のいう攻撃性の 「自己自身への向け換え」に相当する)。第2のものは,他者から外在化された罪

悪感を受容するもの。第3の類型は,一見したところ第 1の類型に該当するようだが,実際は第

2の類型であるものである。しかし概念上は第1の類型と第2の類型の2つとして良いだろう。

(16) 子どもが他者の苦衷に共感し,思いやり,慰めようとすることは,実証的な発達心理学の研

究でも確かめられている。その始まりは予想以上に早期で,よちよち歩きの段階までにはほとん

どの子どもにそうした向社会的行動 (prosocialbehavior)が見られるという(Zahn-Waxler,Radke

-Yarrow&King1979).またZalm-Waxlerら (1983)は,早期の人格発達に関する従来の理論がバイアスとなって,

こうした向社会的側面が見過ごされやすくなっていると言う。従来の説では,子どもとは,自己

中心的で自分の欲求を満たすことに汲々としており,その状態から徐々に脱却してゆくことでよ

うやく他者を配慮し,社会と折り合いをつけて自分の欲求を制御できるようになると想定されて

いる。

Zahn-Waxlerら (1983)の論文には,具体的なエピソードとして21ケ月の女の子が母親をどの

ようにして慰め,元気づけるかの例示があり興味深いが,ここでは子どもが母親を気遣い,癒そ

うとする具体例として,Winnicottが晩年 (1963)に創った 「木」と題する詩の一部を紹介して

おこう (Rodman(2003p290)からの引用)。この詩には,Winnicottの個人的な体験が反映さ

れていると思われる。

Winnicottの母親エリザベスがどのようなひとであったかは,父親に比して判然としないとこ

ろも少なくないが,Rodman (2003)は,エリザベスは憂哲で性的なことへの嫌悪感の強い女性

だったと推測している。またWinnicott本人が親しい友人に,母親は育児が楽しめず早々と自分

を離乳させたと語ったことがあるという。

`̀TheTree''

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116 天 理 大 学 学 報

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(17) Benedek(1937)は,Balint,M.の 「一次対象愛」について言及し,発達の基盤となる母子

一体性を指摘した点は評価 しながらも,母子間に存在する相互性についての理解がBalintには欠

如しており,母親が一方的に子どもに愛情を与えるだけの関係として理解していると批判するO

またFerenczi,S.(1933)が「受身的対象愛」あるいは「やさしさの段階」とするものは,Benedek

が論ずる 「信頼」(confidence)が形成される自他未分化の関係性の後に位置する状態だと考えて

いる。そして関係への信頼が増せば増すほど,受身的対象愛への要求がましさは減少するとし,

受身的対象愛がすでに正常発達からの逸脱の結果である可能性を示唆 している。

(18) 逆に,非共感的で侵襲的な親のイメージが道徳的防衛によって脆弱な姿に変形することも経

験する。ある重症対人恐怖症の女性は,自分の傷つきを親に言わないのは,母親がそのことに衝

撃を受け心配のあまり参ってしまうからだと当初考えていた。

しかし治療が進み,実際の母親とのかかわりを現実に即 して認識できるようになって初めて,

現実の母親は経営している事業のことしか頭になく,お金はくれても自分のことはほとんど気に

かけず,子どもたちへの思いやりや心配に欠けていることに気づくようになった。

もし自分の傷つきを話 しても母親は関心を示さず,そのことに自分がショックを受け,つらい

思いをするだけなのが予想されるから,話さないようになったのだと理解するようになった。

またそれまでは自分は姉妹のなかで母親の一番のお気に入りだと思っていたが,それは母親の

理想自我を体現している限りにおいてであって,一見愛情のように見えていたのは,母親の自己

愛的な関心に過ぎなかったのではないかと認識するようになった。

これは一見,親への治療的衝迫が中核にあるようにみえながら,むしろ道徳的防衛が背景にあ

った例と言えるかもしれない。

(19) Freudでは父親の死がきっかけとなって自己分析が促進され,エディプス ・コンプレックス

の発見へとつながったoKleinでは息子の死に直面して,抑うつ態勢の構想が結実 したOエディ

プス ・コンプレックスと抑うつ態勢という鍵概念は,服喪過程の心理を母胎に生み出されたとも

考えられる。少なくともそうした側面から検討してみる必要がある0

Freudは父親の葬儀当日に行 きつけの理髪店に行き待たされたため,葬式に遅参 してしまい,

家族から非難を浴びる。Kleinは本文中でもふれたように自殺とも思える息子ハンスの死に衝撃

を受け,葬儀に参列せずに済ませている。ともに喪の作業が滞 りなく進んだとは考えにくい。

(20) 分離にまつわる罪悪感を最初に論じた心理学者としてRank,0.をあげる必要がある。彼の著

書,『意志療法』(1936)には 「分離と罪悪感」という一章すらある。

Rankの考えによれば,クライエントは愛情対象と分離 し,違った別個の存在になること,狗

立 した自由な存在になることに罪悪感を抱 く。より一般的に言えば,他者と違っていることにひ

とは罪悪感を抱 く。また通常,分離を妨げる要因とされる愛情喪失や対象喪失の恐怖とはむしろ

こうした罪悪感への反応である。

自己の意志を主張することは対象との分離を意味 し,意志を持つことは罪悪感を惹起する。そ

のためクライエントは,発達過程で意志を主張することができず,自主性を放棄してきたという。

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罪悪感再考 :対象関係 と愛他性を視点 として 117

Rankは分離体験の原版として出生を考える。「出生外傷」として知られる考えだが,それは出生

状況での不安が,後年,経験する去勢不安も含めたさまざまな不安の起源だとする考えである。

自己主張の問題は,出生外傷に照らし合わせていえば,別種の出生つまり個としての自己の出生,

意志の出生の問題といえる。

Rankは心理治療において,過去よりも現在の治療者-クライエント間の相互作用を重視 した。

具体的には,クライエントが治療者から分離するにあたり,過去とは違って罪悪感を抱かずに個

として分離 ・独立した存在となり,みずからの意志を主張できるようになるのが重要だとした。

治療によって,クライエントはひとと違っていても罪悪感を感ずることなく自己肯定し,自主性

を発揮できるようになる。さらにそれは個性ある存在となって,創造性を解放 し自己の可能性を

芙硯することに通じると考えた。

(21) 引用した文章が含まれる章はMastersonとの共著である。

(22) Clance(1985)はこれに近似する現象を 「インポスター現象」として概念化している。イン

ポスター現象にとらわれたひとは,社会的に非常に成功 し,周囲からは高い評価を得ているにも

かかわらず,成功によって幸福 を感 じず,それどころか罪悪感や恐怖,ス トレスを覚え,つねに

自分は人を欺くインポスター (詐欺師)で,いつ自分の劣悪さがひとに露見 しないかとびくびく

怯えている。

インポスター現象が生じるのは,両親がたとえば 「子どもが高い教育を受けて成功して,自分

たちを置き去りにしていってしまうのを最も恐れて」いたりする (邦訳 p139)場合である。また

「インポスター現象の犠牲者が家族の中で他の子どもたちにくらべてずっと成功 している場合に

は,非常に強い罪悪感を体験し,家族のメンバーの一員でいられないと感 じるようになる場合」

もある (邦訳 p155)。

成功への恐怖や罪悪感は,自分が社会的な高みに登って行 くことで,家族との心理的紐帯が失

われ,親や同胞を置き去 りにしてしまう (と感 じる)ことから生じる。生まれ育った家庭の帰属

する社会階層から,価値観の違う社会階層へと上昇した場合,こうした罪悪感が生 じやすい。

著書のなかでは,理論的な考察がなされておらず,現象記述にとどまるため分離への罪悪感と

把握できる心性が述べられながらも,それに加えて自己愛的万能感,強迫心性などの種々の要因

が混入したまま仕分けされずに 「インポスター現象」として提示されている。

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