功利主義の亡霊の復活 ―1960年代のタルコット・パーソンズ …...talcott...

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Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008 序論 ジョージ・ホーマンズとタルコット・パーソ ンズ驚くほど似た経歴を積んでいながら、友好 的な言葉でコミュニケートしたり、お互いの思 考を評価することがなかった。さらに両者はハ ーバード大学でアカデミック・キャリアのすべ てを過ごし、そこでほぼ40数年間を同時に過ご している。ホーマンズはパーソンズがそのセミ ナーに参加していたのとほぼ同時期にハーバー ドのパレート・サークルの参加者になった。両 者とも彼らのアカデミックな指導者の一人、生 理学者兼自称社会学者ローレンス・ヘンダーソ ンに出会ったときに、ヴィルフレッド・パレー ト論を発表している(Homans/Curtis 1934, Parsons 1936)。彼らはそれぞれ1950年代初頭に社会学 理論の古典となった傑作を刊行している。ホー マンズはThe Human Group(1950), パーソンズは - 翻 訳 - The Social System(1951)*。 * 両者はその著作においてヘンダーソンの影響を受けて いる。ホーマンズは均衡を扱ったThe Human Groupの章 でパレートのシステム概念が自分をインスパイヤした ことを認めたときに、ヘンダーソンのパレート『一般 社会学提要』の斬新な理解に敬意を表している。翻っ て、パーソンズはThe Social Systemの序文で、なににも ましてそのタイトルは、科学理論ではシステム概念が きわめて重要であるというヘンダーソン元教授の主張 に遡ることを認めたときに、ヘンダーソンの『パレー ト一般社会学』に言及し、社会システムをシステムと して描く試みはパレートの偉大な著書の最も重要な貢 献であるとをハッキリ認めている(Parsons 1951:vii)。 二人は、元々その思想が彼らの成熟期の著作 に影響力を持たなくなるパレートのシステム観 にもとづいた社会理論を提示したものの、お互 いに相容れない社会学プロジェクトのバージョ ンをプロモートした。彼らのアプローチの間の 主要な違いは社会学的説明における方法論の役 割に関係している。重要な問いは、社会行動 175 人間情報学研究,第132008年,175197功利主義の亡霊の復活 ―1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論 ウタ・ゲルハルト著 久慈利武 訳 ** The Return of the Ghost of Utilitarianism: Talcott Parsons and the Theory of Geroge C. Homans in the 1960s Uta GERHARTD(Author) Toshitake KUJI(Translator) ** ドイツ・ハイデルベルグ大学社会学教授 ** 東北学院大学大学院人間情報学研究科教授

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Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

序論

ジョージ・ホーマンズとタルコット・パーソ

ンズ驚くほど似た経歴を積んでいながら、友好

的な言葉でコミュニケートしたり、お互いの思

考を評価することがなかった。さらに両者はハ

ーバード大学でアカデミック・キャリアのすべ

てを過ごし、そこでほぼ40数年間を同時に過ご

している。ホーマンズはパーソンズがそのセミ

ナーに参加していたのとほぼ同時期にハーバー

ドのパレート・サークルの参加者になった。両

者とも彼らのアカデミックな指導者の一人、生

理学者兼自称社会学者ローレンス・ヘンダーソ

ンに出会ったときに、ヴィルフレッド・パレー

ト論を発表している(Homans/Curtis 1934, Parsons

1936)。彼らはそれぞれ1950年代初頭に社会学

理論の古典となった傑作を刊行している。ホー

マンズはThe Human Group(1950), パーソンズは

-翻 訳-

The Social System(1951)*。* 両者はその著作においてヘンダーソンの影響を受けて

いる。ホーマンズは均衡を扱ったThe Human Groupの章

でパレートのシステム概念が自分をインスパイヤした

ことを認めたときに、ヘンダーソンのパレート『一般

社会学提要』の斬新な理解に敬意を表している。翻っ

て、パーソンズはThe Social Systemの序文で、なににも

ましてそのタイトルは、科学理論ではシステム概念が

きわめて重要であるというヘンダーソン元教授の主張

に遡ることを認めたときに、ヘンダーソンの『パレー

ト一般社会学』に言及し、社会システムをシステムと

して描く試みはパレートの偉大な著書の最も重要な貢

献であるとをハッキリ認めている(Parsons 1951:vii)。

二人は、元々その思想が彼らの成熟期の著作

に影響力を持たなくなるパレートのシステム観

にもとづいた社会理論を提示したものの、お互

いに相容れない社会学プロジェクトのバージョ

ンをプロモートした。彼らのアプローチの間の

主要な違いは社会学的説明における方法論の役

割に関係している。重要な問いは、社会行動

175人間情報学研究,第13巻2008年,175~197頁

功利主義の亡霊の復活―1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

ウタ・ゲルハルト著*

久慈利武 訳**

The Return of the Ghost of Utilitarianism:

Talcott Parsons and the Theory of Geroge C. Homans in the 1960s

Uta GERHARTD(Author)*

Toshitake KUJI(Translator)**

* ドイツ・ハイデルベルグ大学社会学教授** 東北学院大学大学院人間情報学研究科教授

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

(Homans)社会的行為(Parsons)を説明しようとす

るとき、社会学が概念スキームを必要とするか

どうかであった。

ホーマンズは新古典派経済学を挙げ、ジョ

ン・スチュアート・ミルの実証主義に倣って定

式化された方法論的個人主義を遵奉したのに対

し、パーソンズは「経済人」のパラダイムを拒

絶し、マックス・ウェーバーの『経済と社会』

とともにケインズ主義の経済学を愛好した。ホ

ーマンズは、行動主義を社会学的説明のたどる

べきルートとみなしたのに対し、パーソンズは、

行動主義はウェーバーが近代社会の歴史を説明

する際に、倫理に基礎をおいた資本主義の精神

を駆動力としたときに克服された功利主義の末

裔であると主張した。ホーマンズは社会生活の

基本的単位を切開しようとしたのに対し、パー

ソンズは基本的形態の追求は科学の素朴さを運

ぶものであると警告した。ホーマンズは行動心

理学の刺激反応モデル、とりわけ学習理論家ス

キナーのそれに依拠したのに対し、パーソンズ

はジェームズ・オールズのような心理学者によ

って提唱された認知スキームを支持し、ジグム

ント・フロイトの精神分析の定理、社会化の概

念化を支持した。

本章は両者の間の生涯にわたる論争を眺め

る。彼らの敵対は1950年代はまだ表面化しない

潜在的なものだったが、1960年代ではあまりに

も明白なものになった。パーソンズの構造機能

主義は経験的実在に関連を持たないと批判する

ホーマンズと、ホーマンズの功利主義兼方法論

的個人主義は方法的に素朴であると言明するパ

ーソンズの間の反目であった。

アメリカ社会が急激に変化した10年間であっ

た1960年代は、両者が社会理論で好敵手と目さ

れた時代の社会学に反映されている。1964年と

いう年は彼らの抗争の火蓋が切られた年であっ

た。

パーソンズにとっては、ホーマンズの行動主

義はハーバート・スペンサーの19世紀の功利主

義を思い起こさせるものであった。パーソンズ

にとって、それは社会ダーウィン主義に加担し、

ウェーバーによって克服された社会学であっ

た。パーソンズが1930年代のアメリカ社会学に

抗して支持したウェーバーの類型事例は、社会

的行為の構造を方法論的個人主義の範囲を超え

て説明した。

パーソンズは、ホーマンズの理論が実証主義

に逆戻りしていると得心した。1964年頃、ハー

バード大学アーカイーヴスの彼の論文に紛れて

いた私的なノートのなかで、彼はホーマンズの

社会思想にコメントしている。パーソンズにと

って、ホーマンズの理論は功利主義の亡霊の復

活を象徴した。彼は1937年に自分の『行為の構

造』はスペンサーの功利論的実証主義とアメリ

カの社会理論におけるその追随者を片づけた

が、1960年代の今日では、これが正しくないよ

うに思われる。むしろ1930年代に死んだと思わ

れたものが驚くことに一つ以上の生命を持って

いたのだ。今日のホーマンズ、ブラウ‥‥。パ

ーソンズ対ホーマンズ‥‥。基本的の意味に気

づけ*。* 手書きのメモは「地位+一般理論の問題」とタイトル

が付けられている。おそらく1964年に書かれたもので

あろう。そのメモは、確かにホーマンズの『社会行動』

ブラウの『交換と権力』に言及していた。Parsons

papers, Harvard University Archives, HUG(FP)―15.4,box19.

私の見解では、ウェーバーの重要性で意見が

割れた二人の思想家の間の論争は、社会理論に

おける方法論をめぐってであった。パーソンズ

とホーマンズは二つの異なった社会学の系譜に

176

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

属していたといいたい。パーソンズは功利主義

に敵対したウェーバーの遺産を守ることを目指

し、ホーマンズの理論は1930年代にパーソンズ

が死んだものと誤って信じ込んだ功利主義に依

拠していた。

1 ウェーバーの希求と反ウェーバーの希求

ホーマンズがモントリオールでの1964年アメ

リカ社会学会大会の折りに、あからさまにパー

ソンズに挑戦状を突きつけたとき、ウェーバー

の名を明示的に挙げていないが、それは現代社

会学にとってのウェーバーの思想の価値をめぐ

るものであった。

1960年代初頭には、ラインハルト・ベンデッ

クスが『マックス・ウェーバー 一つの知的な

肖像』を通じて、ウェーバーを、アメリカ社会

学理論に広く認知された人物にした。1961年よ

り、アメリカ社会学会によってだけでなく、ド

イツ社会学会によってもウェーバーの生誕100

年(1964年)を祝う準備が進められた。1964年

にモントリオールで開催されたASA大会は、ウ

ェーバーの特別セッションを設けていたし、同

じ年ウェーバーはハイデルベルグにおける第15

回ドイツ社会学会大会の全体テーマでもあっ

た。アメリカ大会は4月末のドイツ大会に4ヶ

月以上後の9月初めに予定されていた。ハイデ

ルベルグでは、パーソンズは、社会学にとって

のウェーバーの中枢的な重要性、ドイツにおけ

る社会学の起源時の社会理論であるマルクス主

義に対する対峙者に照射する中心的スピーカー

であった*。* 彼は1965年のASA大会での彼の報告でマルクス主義の

浮沈を語るつもりであった。彼はそのペーパーの完成

草稿を仕上げている。それは1967年の論文集(1967b)の

唯一の初出寄稿であった。

パーソンズはウェーバーの古典理論家として

の名声が今日の批判者によって脅かされつつあ

ると気づいたので、ドイツ集会の立案に参画し

た。1950年代の半ばには、ウェーバーはドイツ

の学者たちによって政治的に疑惑の目で無視さ

れた。ひとつには、フランクフルト学派の社会

学者兼哲学者であるテオドール・アドルノ、マ

ックス・ホルクハイマーがウェーバーをナチの

日和見主義に通じるように見える彼の方法論

と、恣意的で政治的に受け入れがたい概念形成

である価値自由のゆえに攻撃したためである

(Adorno 1955, Horkheimer 1959)。1950年代末に

は歴史家ヴォルフガング・モムゼンがアーカイ

ーブ資料にもとづいた知的な自叙伝のなかで、

ウェーバーは帝国ドイツのカイザー体制を擁護

したと非難した(Mommsen 1959)。

パーソンズはベンデックスとともに、ウェー

バーは謂われのない批判から救済されるに値す

ると感じていた。1962年にワシントンDCで第

5回国際社会学会が開催された折に、パーソン

ズとベンデックスは、ドイツ社会学会会長であ

るベルリン自由大学のオットー・シュタンマー

と私的な会合を持った。その成果は、ウェーバ

ーを産業資本主義の擁護者として批判するハル

バート・マルクーゼをハイデルベルグに第三の

最後のスピーカーとして招聘することであっ

た。1963年にドイツ社会学会会長であるアドル

ノの批判からウェーバーを防御することは並大

抵の仕事でなかった。1964年4月6日に、ベン

デンクス充てに次のように手紙を書いた。

ウェーバー自身の貢献と産業社会の性質の

双方に関する私のはるかにポジティブなノー

トのなかで、私はライオンの檻の中にいるダニ

エルのようなものではないかと怖れている*。* Parsons papers, Harvard University Archives,HUG(FP)―

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

15.4,box 4.

ハイデルベルグでの4つのセッションの討論

者として予定されているベンデックスは、4月

9日に、手紙で次のように答えている。

この100年祭は、皆によってウェーバーを

過去半世紀ドイツの未解決の遺産の身代わり

とするために用いられるという、全く別な印

象を持っている*。* Parsons papers, Harvard University Archives,HUG(FP)―

15.4,box 4.

解明が要求されている争点が概念の準拠枠に

よって制約されながら、客観性が社会学におい

てどのように達成し得たかであるので、パーソ

ンズはハイデルベルグ会議での彼のトピックと

して「社会科学における評価と客観性。マック

ス・ウェーバーの貢献の一解釈」を選んだ。彼

の論旨は、ウェーバーにとって価値自由は、社

会学者が社会の歴史の進行と信じられているも

のに自分が刻印されていると主張することによ

って、自分自身の価値をプロモートすることを

控えることを意味し、価値関係は、いかなる科

学と同様、社会学もその概念用具を当時の文化

に依存することを意味するとみる、多くの素朴

な文化孤立主義と反対に、われわれはもちろん

社会文化科学を含むすべての科学は当時の社会

の価値体系と文化の観点に定位し、依存する、

ということができる、のというものであった

(Parsons 1965a)。しかしながら、要点は、社会

科学者は社会的行為を理解しようともがく一般

の行為者であると主張することはできない、と

いう点にあった。

自分の役割を自分の一般的な文化の参加者か

ら区別することのできる研究者だけが、彼がそ

れと無関係な彼自身の文化から彼の科学的目的

にとって肝要な要素を選択するのに必要な視点

と客観性を獲得できる(Parsons 1965a:54)。

パーソンズがウェーバーの業績をめぐる論争

にとって非常に重要とみなしたハイデルベルグ

ペーパーは4度刊行されている(Parsons 1965a,

1965b, 1967a, 1971)。

その年の9月、ASAモントリオール大会もま

たウェーバーを称える計画であった。しかし

ASAイベントは、ウェーバーの遺産に関する限

り、ハイデルベルグイベントとは奇妙に違って

いた。ASAの理事であるだけでなく終生のウェ

ーベリアンであるパーソンズは、ウェーバーに

関する特別セッションを司会した。しかしなが

ら、ASA会長であったホーマンズは、ベンデッ

クスにタルコットと共同でセッションをあつら

えるように求め、そのスピーカーの一人エドワ

ード・シルズに、手紙を書いた*。その諸ペー

パーは、元々はハイデルベルグ会議のために準

備されていたグンサー・ロスのペーパーと一緒

に、ASRの1965年春号に掲載され、オーバービ

ューがパーソンズによって「マックス・ウェー

バー1864-1964」のタイトルで執筆された。し

かしながら、ウェーバーに関する特別セッショ

ンのペーパーが印刷物として現れる前に、ホー

マンズはパーソンズによるウェーバー・プロジ

ェクトにけちをつけた。* Parsons papers, Harvard University Archives,HUG(FP)―

15.4,box 19.

皮肉なことに学問的論争の爆弾は、ホーマン

ズの会長演説の装いのなかでモントリオール会

議の折りに落とされた。多くの会議参加者は

ASA会長が古典ウェーバーに敬意を払うことを

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

期待していたという事実にも拘わらず、ホーマ

ンズはこの種のことに一切触れなかった。事実

ウェーバーの名は会長演説では言及すらされな

かった。この論文はASRウェーバー特集号の前

の号に掲載された。ホーマンズは、社会学理論

がウェーバーの系譜からはずれていると述べた

(Homans 1964a)。会長演説は公式スピーチであ

るべきだからウェーバー社会学に論争を仕掛け

る戦場としてはふさわしくないと感じるであろ

う聴衆に反論するために、次のように語ってい

る。

もしわたしが命令口調で話す唯一のチャン

スを持ったら、私は無害なことをいうなどと

いうのはもったいない。反対にそんなときこ

そ有害なことをいうべきだ(Homans 1964a :

809)。

彼が目の敵にした機能主義は、マリノフスキ

ーとラドクリフ・ブラウンの人類学から派生

し、社会的な役割や同様に経験的に実証されな

い社会的事実に焦点を置くことによって、個人

の行動を説明しようとするデュルケームの試み

と関係があった。

彼らが言ったことでないとすれば、彼らが

したことのなかで、機能主義者はデュルケム

を重視した。彼らの基本的単位である役割は、

デュルケムの意味での社会的事実であった。

そして、彼らの理論的プログラムは、社会学

の一般命題が個人意識の行動に関する命題で

はないと想定した(Homans 1964a:810)。

これは、機能主義に基づく社会学は提供す

べき妥当な説明を何ら持たないことを意味す

る。機能主義の理論的プログラムは事実上

(機能的説明自体を含む)社会現象の説明に

導いてきたかどうか、という問いは実際上の

問いであって哲学的な問いではない。私はそ

れは導いてこなかったと思っている(Homans

1964a: 811)。

確かに、批判ではホーマンズが標的にしてい

るのは、マリノフスキーやデュルケムではなく、

パーソンズと社会システムの構造機能理論であ

る。「教訓の破壊的部分」と呼んだ論文の末尾

の部分で、過去の時制を使いながら、機能理論

を酷評した。

理論が説明であれば、社会学の機能主義者

は明らかに成功をおさめてこなかった。たぶ

ん、彼らは成功をおさめることはないだろう。

いずれにせよ、成功をおさめてこなかった。

彼らの理論の難点は、それが間違っているこ

とではなく、それが理論でないことである

(Homans 1964a : 813)。

ホーマンズが提出した代替肢は、制度構造と

しての社会よりもむしろ社会のなかの諸個人の

観察可能な相互行為にもとづいた理論であっ

た。そして彼は、スメルサーの『産業革命の社

会変動』(1959)のなかで解釈されたデータを一

例として用いて、自己の理論を実証することに

進んだ。スメルサーはパーソンズが博士論文の

助言者であった人物で、パーソンズとの共著

『経済と社会』(1956)がある人物である。ホー

マンズにとって、パーソニアン社会学と同一視

される構造機能主義に抱く争点は、人間、つま

り歴史社会のなかの自らの社会的ハビテートの

なかで実在する人間が単位であり、社会学理論

が説明しなければならないのはその行動であ

る。その注記で彼は、社会現象を説明できた彼

自身のような理論家は、彼がそれを認めようと

認めまいと、私が心理学的説明と呼ぶものを使

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

用している自分を実際に見いだす、と明言して

いる(Homans 1964a:817)。

この批判は、構造機能主義が実在する社会の

実在する単位である人々の人間らしい性質を見

落としたという点である。したがって「人間に

戻れ」は、我々学徒のために、われわれの学問

的な偽善に終止符を打つ(Homans 1964a: 817)、

ことを意味した。それはまたパーソナリティ・

システムと社会システムのいかなる区分も理論

の説明的仕事というねらいを裏切っていること

を意味した。彼は明言している。

私は彼らが周りに人々がいることに気づか

なかったということをいおうとしているな

ら、スメルサーやパーソンズのような機能主

義者に少々アンフェアーである。いわゆる行

為の理論は、その社会行動のパラダイムにそ

の各々の行為が裁可しあう、つまり相手の行

為に報酬ないし罰を与える二人の人物をとる

ことによって、非常に素晴らしいスタートを

切った。しかしスタートが切られるやいなや、

その著者達はそのことを無視した。行為の理

論が社会に適用されると、行為者はいなくな

りほとんど行為らしきものは見あたらなくな

る。その理由は、それがパーソナリティ・シ

ステムを社会システムから切り離し、社会シ

ステムだけを取り上げることを提案したこと

にある (Homans 1964a: 817)。

その8年前に、ケンブリッジ大学、キング

ス・カレッジで社会理論の客員教授として行っ

た講義のなかで、ホーマンズは、嫌みの標的と

されたパーソンズのなかに据えられたウェーバ

ーへの疑念を表明した。争点は、英国では社会

学は悪しき名称であり、1950年代に世界規模で

知れ渡っていたパーソンズ理論はその貧弱な理

由からその名称に値するというものであった。

彼は10年前に彼らが戦場でまかしたドイツ人に

対する偏見に触れながら、自分の批判を当てこ

すりとして言い表している。

紳士の教育は古典であり、その章句は英語

でなければならない。だが最も卓越した社会

学者のなかには、任意の所与の見解を伝える

のに15分もかかる文章を書く者がいる。その

文章は伝わりにくい意味を帯び、ハイデルベ

ルグ出身のハーバード大学のジャーゴンで膨

らみ、ドイツ人についての意見を肯定するの

でドイツ人には喜ばれるが、その言葉のいく

つかは母国語であるように思われるアメリカ

人の気力を削ぐ文章である。その現在の文字

がドイツ語でなければ、英国人は果たして社

会学に魅力を感じるだろうか。しかし、もし

英国人が社会学に魅力を感じないならば、そ

の文字が英語になればどうだろう(Homans

[1956]1962: 114)。

「卓越した社会学者のなかには、任意の所与の

見解を伝えるのに15分もかかる文章を書く者が

いる」と皮肉を言っているホーマンズの標的が

パーソンズであることは、1980年代の初めにそ

の意見を妻に帰属させたときに現れた。「私の

妻は彼の文章は任意の所与の見解を伝えるのに

15分もかかるとよく言っていた(Homans 1983:

25)。」それから彼は、自分はウェーバーを研究

したことはなかったことを認めている。エルト

ン・メーヨーが彼のアカデミックな師であった

ときに彼が読んだものは、彼にとって大きな刺

激であったと書いているが、「偉大な近代の社

会科学者のなかで、我々はマックス・ウェーバ

ーを読まなかったことを注記している。しかし

タルコット・パーソンズは私にウェーバーを読

180

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

むように薦めた。我々はマルクスも読まなかっ

た(Homans 1983:25)。」

ホーマンズが彼の会長演説でパーソンズをこ

き下ろした年である1964年に、彼は暗黙裡にウ

ェーバーを拒絶した。それは二人のハーバード

の理論家の間で起こったもう一つのやりとりで

あった。Sociological Inquiry誌の春期号は「ジョ

ージ・ホーマンズの定理と視点に関するリサー

チと注釈」の特集号であった*。パーソンズは

寄稿者の一人であったし、ホーマンズはすべて

の寄稿者に応答している。* Sociological Inquiry誌の特集号はホーマンズ理論そのも

のに取り組む代わりに、ホーマンズの定理と視点に関

するリサーチと注釈に焦点を置いたことに注意された

い。ホーマンズのアイデアを採用した寄稿者は、とり

わけ、人々が社会の単位であると証明した個人による

意思決定の総和として「集合的決定」を論じたジェー

ムズ・コールマン(Coleman 1964)、ホーマンズが『社会

行動』のなかで提唱したミクロ社会学にもとづいて

「社会的交換のなかの公正さ」を論じたピーター・ブラ

ウ(Blau1964)であった。意味構造に照射しながらパーソ

ンズ、ウェーバー寄りの姿勢を見せたのは、モート

ン・ドイッチ「スキナー・ボックスのなかのホーマン

ズ」(Deutsch 1964)であった。

一人の注釈者としてパーソンズは、彼にとっ

てハッキリと欠陥に見えたホーマンズの議論の

3つの側面に焦点を置いた。順番に述べると、

ホーマンズが「人間としての人間が動物として

の人間にほとんど等しいという定式を心理学か

ら借用する限り、行動の基本形態は誤って非制

度的なものに宿命づけられ、その結果はトート

ロジーか還元主義者である。」「ホーマンズが経

済的交換に匹敵するものとして召喚している相

互行為のなかの心理学的な力は、社会的承認と

貨幣を社会組織のなかに制度化されたシンボリ

ックなメディアとする意味構築の人間的性質を

欠いている。」「社会学的リサーチは、具体性誤

認の陥穽(fallacy of misplaced conccreteness) が科学

的な仕事を無駄なものにするというアルフレッ

ド・ノース・ホワイトヘッド*の警告に耳を傾

けるべきである。」* ホーマンズは、彼の論文集の自伝的序論で、1930年代

の自分の教師の一人にホワイトヘッドをあげている

(Homans 1962)。他方パーソンズは、(概念枠組みの準拠

枠で述べた)分析的水準にある社会思想のみが「具体

性誤認の陥穽」を免れることができる、と主張した著

書『社会的行為の構造』の序章でホワイトヘッドに言

及している。

ホーマンズの立場は、地球は明らかにニュ

ートン力学の意味での分子であるから、人間

の社会生活を取り上げる科学は力学のコロラ

リーとして扱われるべきだというのにほぼ等

しいように思われる。そのような見解は、私

には、科学的理論によって定義された経験シ

ステムが完全に具体的な実在でなく抽象であ

るという意味で、ホワイトヘッドの中心的な

教義を無視しているように思われる(Parsons

1964a: 216)。

ホーマンズは、パーソンズの理論が当時のす

でに構造機能主義を超えて進んでいだ事実を無

視することを選択したとき、パーソンズ理論の

もう一つの無視で応じたが、より自覚的にパー

ソンズによる批判の第3点にコメントし損ねて

いる。つまりホーマンズは、ホワイヘッドが警

告した「具体性誤認の陥穽」の罪を彼が犯して

いるというパーソンズの非難に気づかないでい

る。この争点は、科学は経験的であるべきで素

朴な経験主義を控えるべきである(Whitehead

1925)というものであった。

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

2 二つの方法論的系譜

コロンビア大学名誉教授のバーナード・バー

バーは、個人的な会話で「わたし(バーバー)

が入ってきた向こう側をすぐにたちさったのだ

よ」とホーマンズへの不平を述べたときに、パ

ーソンズがどんなに狼狽したかを語っている。

私の考えでは、ホーマンズの社会学は『行為の

構造』を通じて確立されたウェーバーのプログ

ラムを否定したと考えたことはパーソンズが正

しい。ウェーバーの方法的希求は科学的な説明

の分析水準と社会歴史的な出来事の経験的な水

準の区別を要求した。しかしながら、そのよう

な区別はホーマンズの人間に戻れの嘆願には存

在しないであろう。つまりホーマンズにとって

は、社会学の説明を経験的な水準におくことは、

個人の活動と感情を説明する分析(理論)と一

緒のものと想定されていた。

パーソンズとホーマンズのとったウェーベリ

アン、非ウェーベリアンの姿勢の背後には、社

会学そのものと同じくらい旧い方法論争が横た

わっていた。両者のアプローチの間の亀裂がい

かに深いかを理解するために、歴史を一世紀遡

る。パーソンズ-ホーマンズ論争の背景には、

19世紀から20世紀初頭のヨーロッパの功利主義

とデュルタイの哲学の間の対立が横たわってい

る。前者はスペンサー、ミルの社会学、後者は

ゲオルク・ジンメルさらにウェーバーの社会学

に体現される。

1930年代にスペンサーの功利主義が死んだも

のと誤って思いこんだパーソンズが1960年代に

実証主義が生きていることに気づくようになっ

て、パーソンズ-ホーマンズ論争は社会学にお

ける二つの方法的系譜の間の分立を明らかにす

るのを助けたといえよう。デュルタイがスペン

サー、ミルの社会学を素朴な社会科学観である

と気づき、不十分なものと弾劾し、代わりに概

念に根ざした文化科学を促進して以来、両者は

居心地悪く共存してきている。

彼の人生末期に刊行した自叙伝のなかで語っ

ているように、彼はミルによって提唱された方

法論的個人主義に依拠していたことを強調して

いる。

私が採用した立場は、ぞっとするフレーズ

「方法論的個人主義」でときおり呼ばれた

ものである。それは社会学にも人間にも新し

いアイデアではない。ジョン・スチュアー

ト・ミルはそれをうまく要約している。「社

会という現象の法則は社会状態に束ねられた

人間の行為と感情の法則に他ならない。しか

しながら、社会状態のなかの人間も依然人間

である。彼らの行為と感情は個々の人間性の

法則に従う(Mill [ 1843] 1981: 608 )」

(Homans 1983:31)

ホーマンズの自叙伝『正気に返る』(1984)の

書評で、ジェフリー・アレグザンダーは、ホー

マンズが命題による演繹モデルを敷設した論理

実証主義の継嗣、ブレスウェイトの見解を受け

入れたことを観察し(Alexander 1986:454)、ホー

マンズの文章を引用している。

私は今実用的目的にとって理論が何である

かを知っていることに満足している。‥‥私

が今採用している立場は方法論的個人主義で

ある(Homans 1984:328-329.)。

ジョン・スチュアート・ミルは、彼の論理学

大系の一巻として、1862年に『道徳科学の論理』

を刊行した。ミルは「人間性の科学は存在する、

いや存在するだろう」と題する章で、「換言す

ると、人間性の科学はそれが依拠する人間性の

普遍法則の系として、人間の実際的知識を構成

182

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

する近似的真理が証明されるほど存在するとい

われる。われわれは、個々の経験を予想して、

任意の新しい環境状態のために他の系を引き出

すことが可能となるべきである(Mill[1862]

1987:34)。」

ミルはとるべきルートとして「心の法則」を

研究する(性格形成の科学、エソロジーによっ

て補完された)「心理の科学」(Mill[1862]

1987:36.)を挙示している。「エソロジーはまさ

しく人間性についての科学である。その真理は

真理に依存する経験法則のような近似的な一般

化ではなく、実在の法則である。‥‥エソロジ

ーの原理は精神科学の媒介的公理である(Mill

[1862]1987:54-55.)。」この意味で社会現象は

「人間の集合に対する外部環境の作用によって

生成された人間性現象である(Mill[1862]

1987:63.)。」ミルは彼が「真の方法」と呼ぶも

のを提案した。

それゆえ、社会科学(便宜的な野蛮な言葉

では社会学)は自然科学(物理科学)のモ

デルにならった演繹科学である。それは結果

が依存する因果の法則から各々の結果の法則

を推論する。‥‥要するにその方法は、具体

的な演繹法である(Mill[1862]1987:83.)。

社会学的な思索は一方で(富の追求の結果と

して起こる社会状態の現象に関心を払う(Mill

[1862]1987:90.))政治経済学を、他方で(社

会科学の経験法則を設定する(Mill[1862]

1987:96.))政治的エソロジー、国民性の科学を

認めることによって科学的なものになるべきと

続ける。それを背景に、逆演繹法、歴史法は、

人間性の法則下の行為の帰結として歴史に焦点

を当てる。

このように奨励された方法論的個人主義は、

ミルの結論的声明のなかに明白である。そこで

は、彼は個々の社会成員自身が彼の営為の体験

を持つ人間の営為の普遍的体験に関する社会科

学の知識を挙示している。

人間の行為は人間性の一般法則と彼ら自身

の個々の性格の合成の産物である。個々の性

格はまたもや彼らの教育を構成する自生的人

工的な環境(それらのなかで環境は彼ら自身

の自覚的な努力を積まねばならない)の産物

である。表現が許されるなら、かように述べ

られた学問のなかに自らを沈思黙考する厄介

を進んで引き受けようとするものは誰でもそ

れを、つまり、人間の営為の普遍的体験の忠

実な解釈だけでなく、あらゆる個別事例のな

かで彼自身がその営為の自己体験を自発的に

解釈する様態の正しい表示を見いだすであろ

う(Mill[1862]1987 : 121.))。

ミルの実証主義だけでなく、スペンサーやコ

ントの実証主義をも拒絶しながら、ウィルヘル

ム・デュルタイは、『精神科学入門(Dil thy

[1883]1957)』を刊行した。

この著作は認識論的に非常識なものとして、

マルクス主義、スペンサーの社会学、ミルの社

会科学観を標的にした。これらの著者が社会学

の装いをした歴史哲学を提案、つまり経済学と

自然科学から採用した方法の使用を通じて社会

を理解しようとした限り、彼らのアプローチは

全く不適切である。『精神科学入門』の第14章

は、「歴史哲学と社会学は真の科学ではない」

と題している。後続の3章でその批判が具体化

される。第15章は「彼らの問題は解くことがで

きない」と題している。彼は、19世紀の実証主

義の時代は人類の歴史の絶頂期である、という

実証主義主張を論難した。

183

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

生理学から生命を演繹するのが間違ってい

るように、フォーミュラのユニティ、ないし

原理から歴史過程を演繹することは間違って

いる。科学はせいぜい複数の説明アプローチ

を考慮するので、分析を通じての近似的で単

純な説明アプローチを提供できるくらいであ

る。それゆえ、歴史哲学と実証的社会学は、

その知識の追求を放棄するか、歴史の力学の

理解の唯一の実在的なルートを提供する方法

論を採用する必要がある。

明らかに、当面は、それはそのかわりに丸

いものを四角くする骨折りをしている (Dilthey

[1883]1957:95)。

デュルタイは、「彼らの方法は間違っている」

と題した16章で、生物学、生理学のような自然

科学以外の方法だけが、文化の考察に向いてい

る」と続けている。自然科学の方法を採用する

社会学は社会的世界にいる個人が文化に埋め込

まれているのを過小に見積もっているので、そ

の主題の性質を見落としていると非難する。

スチュアート・ミルはコントの見え透いた

誤りを避けることができたが、巧妙な誤り

を避けることができなかった。歴史世界をフ

ランスの系譜の自然科学のシステムに包

摂する18世紀思想はコントの社会学の起源で

あった。スチュアート・ミルは、社会文化的

事実を研究する方法は、自然科学の方法に包

摂される必要があるという主張を保持し、擁

護している(Dilthey [1883]1957:105)。

デュルタイは、ミルその他の帰納と演繹を頼

みにしていると、千編一律で、うんざりする耳

騒しい音を非難し、代わりに文化科学の系譜を

賞賛している。彼の知るところでは、後者の系

譜は、とりわけフリードリッヒ・エルンスト・

ダニエル・シュライエルマッヘル(1768-1834)の

作品を通じて、18世紀以来強まってきている。

彼は科学思想のなかに、文化分析の修辞学を探

求した哲学者であった。

ミルのなかに、あなたは、今では海外の至

る所で鳴り響いている帰納と演繹という語の

千編一律で、うんざりする耳騒しい音を耳に

する。文化科学の歴史全体はそのような適応

の反証である。文化科学は自然を説明する法

則とは全く異なった基盤と構造を持ってい

る。その対象は内部からの理解可能な(演繹

されたのではない)所与の要素である。まず

われわれは文化的対象を知り(理解し)、次

いでその対象を次第に認識(説明)するよう

になる。当初は媒介なしで理解される当然な

知恵として与えられていた全体性を体現する

公認の知識を蓄積してきた進んだ分析はこの

1世紀にわたって文化科学の歴史を記した

(Dilthey [1883]1957:109)。

デュルタイは、第18章で、ミルの社会科学、

スペンサーの社会学(とマルクスの歴史学)へ

の短い最終的な訣別を宣言する。「彼らは科学

としての歴史学と社会を分析する学問の間の関

係を認めない。」デュルタイは、社会は実証主

義的説明のようなすべてを包摂するものと想定

される定式化のもとには包摂することはできな

い。

デュルタイによるミル、スペンサーの社会研

究を糾弾する非難は、明らかに彼の同時代人に

は納得のいくものだった。留保なしでデュルタ

イの実証主義批判を受け入れた一人の人物は、

ゲオルク・ジンメルであった。『歴史哲学の諸

問題』で、ジンメルはデュルタイに倣って、自

184

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

然科学の法則に倣った社会法則を非難し、代わ

りに歴史的な認識からの概念的見方を支持した

(Simmel 1892)。2年のちに、ジンメルは「社会

学の諸問題」と題する短い論文*のなかで、大

事なことは科学者の認識関心であって、社会学

を通じての社会の研究は、目下研究されている

社会と混同されてはならない。」* ジンメルが社会学の新しいアイデアを実行に移し、上

位下位の支配の問題を分析した、最初の実質的な論文

は、2年のちにアルヴィオン・スモールによって英訳

された(Simmel 1896)。

フリードリッヒ二世とマリア・テレージア

が朝から晩までしたすべての事柄は、彼らが

政治的決定を述べるために用いた言葉ではな

いし、これらの決定と結びついた(しかし実

質的な関係を欠いた)無数の個人的な体験で

はない。上記のすべては歴史のなかでは語り

尽くせない。政治的に重要なものというアイ

デアが導入され、実在する出来事を説明する

のを助け、それらがそのアイデアに合致する

限りで、争点に触れる語りを生じ、歴史的な

説明のなかにそれらが与えられるように、現

実の出来事では、純粋に内部の影響と独自性

を持って決して起こることのない)出来事の

説明を産出する。同じ趣旨で、‥‥社会学は

同様なアプローチをとる独別の学問である。

社会学は人間の歴史の全体性のなかから、つ

まり社会のなかの出来事の歴史から主題(社

会的世界)を取り出し、それを研究対象とす

る。多少逆説的な言い方をすれば、社会学は

社会のなかのある社会を研究する(Simmel

1894:56-57)*。* Donald Levineによって編集された論文集に収録され

た。Kurt Wolffによる翻訳は次の通りである。

人間の集合はその各々が客観的に決定されるか主

観的に押しつけられた人生内容を持つので、社会と

はならない。上記の内容の生命力が交互の影響力行

使のかたちをとるときに限って、社会となる。一個

人がお互いに直接的間接的な影響を持つときにのみ、

単なる君観的な集計や時間的な遷移が社会に変換す

る。それゆえ、もしその主題が社会以外の何者でも

ない科学が存在するならば、それはもっぱらこれら

の相互作用、上記の種類と形式の社会化を研究しな

ければならない。社会のなかに見いだされる、それ

を通じてそれの枠のなかで実現される他のすべては、

それ自体は社会ではない。‥‥そのような科学のみ

が社会史的な実在の名の下で純粋に社会的な地平で

進行する事実を実際に扱う (Simmel 1971:25)。

レヴィンによって採用されたウォルフの訳は、生憎

なことにジンメルが非常に重要と見た概念的な明晰性

を実現するのに失敗している。ドイツ語原版に見るよ

うに、ジンメルは歴史と社会だけでなく、社会と社会

学の主題となる社会の側面をも区別している。後者を

指すために、ジンメルはパースペクティビストによる

抽象である純粋形に濃縮された社会を社会学と主題み

なしている。

社会科学の客観性を取り上げた1904年の論文

で方法論に取り組んだマックス・ウェーバー

は、主題を分析する際に特定の概念図式を使用

する社会科学者の役割を考慮したいと思ってい

たので、重要な源泉としてジンメルの『歴史哲

学の諸問題』を引いている。ウェーバーは理念

型化された概念図式は、社会現象を理解するた

めに方法論的に受容できる工夫である、と述べ

ている。彼はさらに、個別社会でのみ起こる純

粋型は、社会生活の説明のための適切な概念用

具のために作られる、と述べている。そのよう

な説明は、理念型シナリオと観察された経験的

な現象を対比する比較分析においてか、理念型

が例えば資本主義の精神のような現象の要点を

かいつまむ歴史の再構成において機能を発揮す

る。

社会科学における説明を可能にする概念図式

185

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

と歴史のなかに位置する社会過程のウェーバー

による区別を背景におくと、パーソンズは興味

深くなってくる。『行為の構造』は、経験的実

在と経験的事実の社会科学的な概念の重要な区

別を指摘する「実証主義の行為理論」と題する

章で始まっている。その章の末尾にある「事実

概念に関する注釈」で彼が明確化している「事

実」とはヘンダーソンが述べた概念図式につね

に関連する(相対的な)ものである〔*〕。〔*〕訳者 : 行為の実証主義理論は、第1章ではなく、パ

ート1の題で、「事実概念に関する注釈」が末尾にある

章題は「緒言(イントロダクション)」である。

ヘンダーソン教授の定義に従い、本書では、

事実とは「概念図式を用いてなされた現象に

関する経験的に検証可能な言明である。‥‥

事実はそれ自体現象では全くなく、一つある

いは複数の現象に関する命題である、という

のがこの定義のポイントである。‥‥科学的

理論の体系によって体現されている事実は、

そこに含まれている具体的現象について完全

に記述し尽くすものでなく、「一つの概念図

式の観点から」言明されたものにすぎない。

つまりその時点で用いられている理論体系に

とって重要な現象に関する事実のみを体現し

ているというまさにこの理由によって、科学

的理論の体系は抽象的なのが一般的である。

現象に関する命題に他ならない事実と、具体

的で現実に存在している実体である現象それ

自体との相違は、もしそれが明確に明記され

るならば、多くの混乱を回避させるであろう

(Parsons 1937:41,邦訳1:74-75.)。」

重要な点は、社会学理論は決して実際に存在

する実在を表すものと決して間違えてはならな

いある概念の準拠枠の範囲内でしか何らの事実

を認めない、という点である。ある特定の概念

アプローチの枠のなかで現象を考察する理論と

理論的な説明と混同することが許されない。経

験世界をさらに区別するために、パーソンズは、

ホワイトヘッドの哲学だけでなく、マックス・

ウェーバーの方法論をも呼び出している。

確かに事実は、このような図式を用いずに

は記述し得ない。しかし準拠枠によるこの

ような記述は、まず第一に、説明されるべき

「現象」を定義する機能を担っている。つま

りある現象が経験的観察の大海からわれわれ

によって選択されると同時に、このような図

式の枠内で有意味化され、「一つのまとまり

を持ったもの」になる。こうしてこれらの機

能は一緒になって、具体的現象の本質的な側

面を特徴づけることに貢献する。ここで初め

て科学的関心の対象が形成されるのである。

これこそがウェーバーが「歴史的個体」と呼

ぶものに他ならない。ここで特に注意すべき

ことは、このような一連の過程は、外在的実

在に関する反省という単純なケースを示すも

のでなく、科学的関心の特定の方向に関わら

せながら、それを概念的に構成するというケ

ースを示しているという点である(Parsons

1937:30,邦訳1:58.)。」

パーソンズがウェーバーから取り入れ、ホワ

イトヘッドとヘンダーソンに言及することによ

ってさらに実質化した、この方法論的背景に照

らすと、彼はこの書物の冒頭でスペンサーの実

証主義を却下したのである。『行為の構造』の

第一パラグラフの冒頭にあるクレーン・プリン

トンの『19世紀の英国政治思想』からの引用の

なかで、パーソンズはプリントンの口を借りて

186

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

次のように語っている。

われわれはスペンサーを乗り越えて進んで

しまったのである。‥‥スペンサーは死んだ

(Parsons 1937:3,邦訳1:17.)。‥‥確かに、ほか

ならぬスペンサーがあのような興奮を引き起

こしたことには何か特別な理由が理由があっ

ただろう。ほかならぬ彼の〔社会理論の〕死

にもやはり特殊な理由があったに相違ない。

‥‥スペンサーは、その所説の一般的な枠組

みにおいて、英米人の知性の歴史のなかで偉

大な役割を演じた社会と人間に関する体系的

な思想、すなわち実証主義的・功利主義的な

系譜の思想体系の発展の中で後期を代表する

典型的思想家であった(Parsons 1937:3,邦訳1

18.)。

まとめると、ホーマンズはミルそしてスペン

サーの系譜で確立された方法論的個人主義の側

に立脚していた。パーソンズはウェーバーの社

会学を通じて確立され、ジンメルとデュルタイ

の社会哲学にもとづいた方法論的な視点の系譜

に立っていた。1930年代の後半から1960年代の

初頭のほぼ30年の間に、パーソンズは『行為の

構造』を通じて功利主義が時代遅れであること

を証明したものと考えた。彼は、ヘンダーソン

とホワイトヘッドの科学哲学の概念スキームに

よって補完されたウェーバーの客観性を社会学

理論のとるべき唯一の是認できるルートとみな

した。1960年代に彼は、とりわけホーマンズの

成功に映し出されたように、功利主義がそのコ

ースをたどらず、実は健在であることに気づか

ねばならなかった。

3 なぜ功利主義でいけないのか

『行為の構造』において、パーソンズは功利

主義がなぜ死んだか、アルフレッド・マーシャ

ル、パレート、デュルケム、ウェーバーの作品

のなかの方法論的に根拠づけられた社会科学と

概念図式を支持するヘンダーソン、ホワイトヘ

ッドの科学哲学からみて功利主義が死に値する

理由を明らかにしようとした。明らかにウェー

バーは社会理論とパーソンズがアメリカ社会学

が交差することを奨励した方法論の架橋を行っ

た。

重要な争点は、経験的な現象を説明する社会

学理論が暴力と奸計を社会秩序と正反対なもの

であることに気づいたことである。パーソンズ

が性急に指摘したように、功利主義は、経験的

な現象である暴力と奸計による万人の万人に対

する戦争の要素と近代産業社会のソシエタル・

コミュニティを構成する社会秩序内の道徳的な

いし規範的な要素の区別ができなかった。パー

ソンズが非難しているように、功利主義はトマ

ス・ホッブズの『レヴァイアサン』で取り組ま

れた戦争状態を競わせる。

何らかの拘束的な統制が欠如している場

合、人間はこの直接的な目的のために最も有

効で入手可能な手段を用いるものである。こ

れらの手段とは、分析を推し進めれば暴力と

奸計に帰着する。それゆえ万人は暴力と奸計

の双方あるいは一方を用いて他人を破滅ない

し屈服させようと努めるのだから、万人が万

人の敵であるというような状況が現出する。

この状況こそ戦争状態に他ならない。‥‥し

かしホッブズは行為の功利主義体系の基本単

位を並はずれた正確さで定義するというレベ

ル以上にずっと深い探求を行った。‥‥彼は

こうすることによって、今までの議論では功

利主義思想における行為の単位の定義とそれ

らの単に論理的な諸関係に問題が限定されて

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人間情報学研究 第13巻 2008年3月

いたので、出くわすことのなかった経験的な

問題、すなわち秩序の問題に引き込まれるこ

とになった。ホッブズが定礎した意味におい

て、この問題は功利主義的思想の最も根本的

な経験的な困難を構成している(Parsons 1937:

90, 91, 邦訳1: 150, 151)。

パーソンズにとって、功利主義は、1850年代

にスペンサーの社会学において初めて導入され

た「生存のための闘争」の観念を思い切って提

示したような社会ダーウィン主義に連なり、社

会のある種の規範的な要素の効果的な働きとは

両立しえないものであった。「何らかの所与の

規範的秩序の崩壊、これは規範的観点に立てば

カオス的状態なのだが、この崩壊も事実的な意

味で秩序を帰結しうるのである(Parsons 1937:

91-92, 邦訳1: 152)」と彼は観察した。これは現

代のある社会は規範的な秩序を欠いていること

を意味した。パーソンズにとっては、ドイツの

ナチズムは事実的な意味での秩序であった。そ

れは暴力と奸計に基づき、ある種の規範的な要

素の効果的な働きを欠いた現代世界ではあまり

に実在しすぎる秩序である。社会的ダーウィン

主義を触発したスペンサーの実証主義に窺える

ような功利主義は、パーソンズが気づいたよう

に、暴力と奸計にもとづいた社会と立憲的民主

主義という規範的土台の上に築かれた社会の区

別が出来なかった。パーソンズがいうには、功

利主義、ないしは方法論的個人主義は、十分に

洗練された社会学理論の要件を充足することが

できなかった。彼が『行為の構造』において証

明したように、功利主義は、マーシャル、パレ

ート、デュルケム、ウェーバーの作品のなかか

ら抽出され、ヘンダーソン、ホワイトヘッドの

科学哲学に根拠をおいた社会理論によって克服

された。彼が主張するところでは、この社会理

論は、功利主義の努力のはるか遠くに進み、社

会組織の単純なモデルの下に包摂される諸要素

を単に枚挙するよりもはるかに多くのことを行

った。

にもかかわらず、基本的形態の社会行動を枚

挙することはホーマンズの『社会行動 その基

本形態』*の明確な認識の関心であった。この

書物は、相互行為における行動交換を説明する

モデルを考案することを目指した。そのアイデ

アは、活動と感情は他者の活動や感情をお互い

に強化しあうか、さもなければ裁可しあう、と

いうものであった。こんな風にして、小集団の

なかで社会関係の背骨である習慣や慣習が形成

される。社会関係は社会がどんなに大きく複雑

であっても、社会構造や社会システムの要素で

ある。交換のアイデアのなかには、人間集団を

束ねるメカニズムである、権力のアイデアが織

り込まれている。権力と権威は、社会のあらゆ

るレベルで、しばしば独占によって他者の服従

を指令するチャンスを最大化する傾向をスパー

する報酬の希少性の帰結である(Homan s

1974:70-73)**。* 1983年の自伝的説明において、ホーマンズは元々は彼

は「基本的社会行動」という題を付けたかったことを

回顧している。この書に与えられた大げさでない題を

提案したのは出版社であった。

** 引用の書物は改訂版の頁をさす。というのはホーマ

ンズが1983,1984年の自伝的説明で、改訂版の方が権力

現象をより適切に説明していると感じていることを表

明しているから。

この原理は社会のあらゆるレベルに適用さ

れる。暴力が重大な影響を及ぼすような問

題での勢力を国家に与えるのは、軍隊や警察

による暴力の国家独占である。最後に、もし

188

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

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勢力の行使が報酬をもたらすなら、またもし

それが独占に依存するなら、そのとき、その

独占の維持に役立つ行為はいかなるものであ

っても、報酬をもたらすのである(Homans

1974: 75, 邦訳: 107)。

ホーマンズは続けて述べる。権力の一般的定

義は権威や説得をも包摂する。実は人物Aが人

物Bに持つインパクトはすべて権力の一例であ

る。その注記で協力、同調、競争は、活動と感

情が他者の活動と感情を強化ないし裁可する基

本的行動のバリエーションに他ならない。

ホーマンズが証明するように、実験リサーチ

もフィールド・リサーチもこれらの行動原理を

確証している。社会的不平等を容認する分配公

正は、諸個人が公平に扱われたい、彼らの性、

社会的地位を所与として、彼らがリーズナブル

に期待できる報酬を受け取るときの知覚の帰結

である。このシナリオでは、リーダーシップは

それが報酬を生じたときに公正を合図する交換

を意味した。ホーマンズは言明している。

一般のメンバーたちは、リーダーが命令を

与えた理由と本質的に同じ理由で、その命

令に従う。彼らは服従が成果をもたらし、そ

の成果が報酬をもたらすことを知る。メンバ

ーたちによって一度も服従されたことがない

人や、服従されたが成功をもたらさなかった

人より、過去において出した命令が服従され、

その結果として成功をもたらした人にメンバ

ーたちはおそらく多く従うだろう。そこで、

潜在的なリーダーは少なくとも一度フォロワ

ーたちを自分に従わせることが特に重要なこ

ととなる。もし彼らが一度も服従しないなら、

彼らにはその結果が報酬をもたらすというこ

とを発見するチャンスが一度もないことにな

る(Homans 1974: 297, 邦訳: 430)。

興味深いことに、ホーマンズはナチ・ドイツ

で流布したような非民主的な(独裁的な)リー

ダーシップと1960年代の合衆国の大統領ジョ

ン・F.ケネディの民主的なリーダーシップを

区別しようとはしなかった。

この書物は、諸制度に影響を与える社会変動

がいつでも起こり、革命を不可避におもわせる

という観察で締めくくっている。このように、

独裁的であれ民主的であれ、経験的な社会は行

動交換の可能性を要約する標本に他ならない。

「文明人の難点は、彼ら自身が発明した制度と

仲良く暮らすことができないことである」とホ

ーマンズは結論した。

もし貧しい社会が何もないという理由で、

人間的でなければならないなら、また豊か

な社会は何であるという理由で人間的であり

得るならば、私たち現代人は貴族趣味を得よ

うとしている成金である。ときには、制度的

な外殻を粉砕する大きな反乱や革命が、その

割れ目から猛烈な勢いで基本的社会行動を噴

出させる。‥‥そのときその争いによって

人々が旧い問題、すなわち社会制度と人々の

社会性をいかに和解させるかという問題に直

面させられるとき、人々はその争いがその費

用に値したかどうか疑う(Homans 1974: 373,

邦訳: 540)。

『社会行動』のこの結びのパラグラフでホー

マンズが書いたように、1960年代初頭にパーソ

ンズに頻繁に浴びせた批判は人間性の性質に関

係していた。ホーマンズの人間像はパーソンズ

のそれと相反していた。争点は、社会のなかの

人間が社会的役割を遂行する行為者の観点から

189

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久慈利武

人間情報学研究 第13巻 2008年3月

社会学的に分析されるべきかどうかであった。

ラルフ・ダーレンドルフによって最初に行わ

れた批判は、1958年にアドルノが『社会システ

ム』に浴びせた批判(Adorno 1955)を反復するよ

うな内容で、それはオルダス・ハックスレーの

『素晴らしき世界』と似ていた(Dahrendorf

1958a)。その批判は、パーソンズ理論の人間は、

自由で責任ある社会的存在にとって必須の資質

を欠く単なるホモ・ソシオロジクスである

(Dahrendorf 1958b)、というものであった。同じ

ような非難はデニス・ロングによっても浴びせ

られた。パーソンズ流の理論は、近代社会学の

なかに社会化過剰な人間像を培ってきた。ロン

グがパーソンズに抗して支持する人間像は、ウ

ェストン・ラ・ベール『人間動物』(1954)、ノ

ーマン・ブラウン『生と死』(1960)のような現

代文学に基礎をおいていた。両者は精神分析的

研究でジグムント・フロイトの系譜を継ごうと

していた。ロングはパーソンズに抗して、上記

の今日の作品のような精神分析は、社会学があ

えて無視しない正しい種類の心理学であった。

ロングが嘆願しているように、社会的動物であ

る人間のなかの人間性を説明するために、社会

学は役割理論よりも精神分析を必要とした。

精神分析にとって、人間はじつは社会的動

物である。彼の社会性は深くその身体構造

に反映されている。‥‥人間はすべて社会化

されているが、これは人間がその文化の特定

の規範や価値によって完全に鋳型づけられて

いることを意味しない。フロイトが主張した

ように、すべての文化は人間の社会化された

身体の動因に暴力をふるうが、これは決して

人間が文化なしで、社会から独立して存在し

うるということを意味しない。‥‥理論のレ

ベルでは、社会学者は人間性に仮説を立てる

ことができないのはどうしてか私にはわから

ない(Wrong 1961: 192)。

パーソンズはロングにすぐに応答した。パー

ソンズは自分が統合に焦点を置くのは、社会的

なものに対する誇大な関心を意味しないし、自

分は精神分析的なものを決して無視していな

い。パーソンズはパーソンズ的社会学が欠陥が

あるというロングの批判に反駁するために、ロ

ングを引用した。

「身体が視線を浴びるやいなや、生物学的

決定論のスペクターが首をもたげ、社会学

者はぎょっとして背中を向ける。」という言

明を考えてみよう。‥‥どんな社会学者がと

尋ねることは不適切か。また、「社会学者は

超自我を占有してきたが、超自我をフロイト

のイドに匹敵するものから区別してきた。」

またも権威は何ら引かれていない。‥‥たぶ

んすべてのなかで最も極端なのは次の文章で

ある。「近代の社会学者は(無秩序の要因の

コントロールの)これらのプロセスを理解し

てきたと信じ、自分たちは単に答えるだけで

なく、社会生活の緊張と可能性の妥当な暗示

を決して表明せずに、それは無知からしか答

えることができないことを証明するのだが、

ホッブズ的問題を処理してきた。」ロングが

言及している近代社会学者とはいったい誰

か。少なくとも私は、彼らに帰せられている

立場に近づくことは否認する(Parsons 1962:

72)。

ロングがパーソンズおよびその取り巻きに浴

びせた批判(ダーレンドルフ、ホーマンズも共

鳴するだろう)は、システム理論は社会的動物

である人間を、役割演技者、地位希求者に還元

190

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

する点であった。一つは、行動主義であれ、精

神分析であれ、人間性を扱う科学は、社会構造

を分析する社会学に取って代わらないまでも補

完すべきである、というものである。他の批判

点は、システム理論は社会のなかの権力や利害

の経験的な対立を十分に説明することができな

いというものであった。この非難は、近代社会

学(おそらくはシステム理論)は社会変動は不

可避であることを否定し、人間性の本能的な傾

性の持つインパクトを過小評価している、とい

うものであった。ホーマンズは革命的な変化を

召還し、基本的な社会行動が裂け目から猛烈な

勢いで噴出するのを認めている(Homans 1974:

383)。

1960年代の功利主義の復活を刻印する二つの

エポックが、パーソンズとその批判者の間での

もう一つの論争を支配したのであった。パーソ

ンズが初め影響力というシンボリック・メディ

アについて述べ(Parsons 1963a)、レイモンド・

バウアー(Bauer 1963)とジェームズ・コールマ

ン(Coleman 1963)がそれにコメントし、パーソ

ンズ(Parsons 1963b)がそれに応答している。パ

ーソンズのみるところでは、バウアーはさまざ

まなメディアとその実現する複数の領域を区別

するために概念図式を導入することの重要性に

気づいたのに対して、コールマンは複雑な分析

図式がいかに重要かを理解していないというこ

とであった。

パーソンズにとって、コールマンの議論で二

つの最も当惑させる特徴は、次のものであった。

一つには、相互行為がある種の物々交換ないし

は現物の応酬の担保を通じてお互いに影響を与

えあうことに従事する行為者の行動に分解され

る(Parsons 1963b:89)。シンボリックなメディア

から現物にスリップし、再びシンボリックなメ

ディアに戻ることを通じて、コールマンは「所

得の金銭範疇と現物範疇を区別する重要性にお

ける経済学者の長い経験を否定している」とパ

ーソンズは見る(Parsons 1963b:90)。パーソンズ

にとって、コールマンの基本的社会行動に回帰

しようとする試みは、ジョン・メイナード・ケ

インズの業績を無視する方法論的個人主義を意

味した。

パーソンズがコールマンと意見が一致しなか

ったもう一つの点は、権力の問題に関してであ

った。パーソンズはコールマンと意見を異にし

た。

彼(コールマン)はある箇所で「この区別

が理論のなかの諸プロセスにどんな意味を

持つのかどこでもつまびらかにしていないか

ら、権力と影響力の区別をすることはおそら

く無駄であろう」とまでいっている。本稿で

の私の言明(区別の重要性の理由)がどんな

に不十分であろうと、私はそれがきわめて重

要であることを主張したことを記録にとどめ

たい。影響力は、議論によって、つまり是認、

否認という態度上の裁可の授与、留保によっ

てのみ裏付けられるメディアであるのに対し

て、権力は負の状況的制裁の脅威によって裏

付けられた、拘束的な関与の遂行を召還する

メディアである(Parsons 1963b: 90)。

確かに、パーソンズは、理論と理論の前提と

する人間性を区別することができないコールマ

ンの方法論的個人主義を否認し、相互行為のな

かの権力ないし影響力のシンボリックなレベル

での異なるメディアの違いを区別できないコー

ルマンの権力の考えを拒絶する。パーソンズは、

コールマンの論文において社会構造と基本的な

191

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人間情報学研究 第13巻 2008年3月

説明モデルのなかで社会構造に与えられる説明

を混同している傾向を非難しているし、1960年

代のアメリカ社会の途方もない変動を、基本的

で自覚的に未分化な概念モデルの型に無理に押

し込もうとする社会学を否定している。

1963年夏にベルリン自由大学で行った講義

で、パーソンズは明らかに同様に社会理論の誤

った途をたどったホーマンズとダーレンドルフ

に対して、同じような観察を行った。彼は経験

的に立証されない仮定の具体性で、ホーマンズ

を非難した。

ホーマンズは単一のレベル、つまり基本的

な心理学的なモチベーションにほぼ必然的に

回帰している。‥‥彼はまた理想主義的な公

準から出発していたならば、同じように単純

化された集団を選択できたかも知れないのに

惜しいことだ(Parsons 1964b: 48)。

ダーレンドルフに対しては、彼は次のように

非難している。

経験的な一般化のレベルでさえ、ダーレン

ドルフの議論は、決して納得できるものでは

ない。彼が社会システムの統合的側面と対立

的側面の複雑な相互交流を説明できないため

に一層そうなのである(Parsons 1964b: 49)。

一方で社会的相互行為の概念化における心理

学的行動主義ないしミクロ経済学、他方で近代

社会の権力と権威を正しく説明すると主張する

マルクス主義ないし闘争理論は、パーソンズに

とっては、危険きわまりないものであった。彼

がコールマンを批判したように、功利主義に回

帰する理論は、ポジティブな危険性はないとし

ても不毛なものに感じられる代替肢とみなして

いる(Parsons 1963b:91)。

要約すれば、パーソンズは彼が1930年代に拒

絶し、1960年代に再び標的にした功利主義に対

して二つの非難を浴びせた。一つには、功利主

義は、社会的行為を説明しようと試みるときに、

分析の水準での理論はケインズ的水準の出来事

と混同されるべきではない。今ひとつは、権力

は独裁体制と民主体制を、強制された行為と自

発的な行為を区別できないやり方で概念化され

るべきでない。

4 結論

1960年代のホーマンズ理論に対するパーソン

ズの態度は軽減されることのない否認を見せた

し、パーソンズに対するホーマンズの態度は等

しく明白な批判であった。ホーマンズに対する

パーソンズの非難は、パーソンズが1930年代に

葬り去ったと考えた亡霊、功利主義の亡霊を復

活させるのに手を貸したことにあった。『行為

の構造』におけるパーソンズの基調「功利主義

はとうの昔に過ぎ去った」は、概念図式が社会

学理論にとって不可欠であるという彼の強い確

信であった。ホワイトヘッド、ヘンダーソン、

ウェーバーが繰り返し警告したように、概念図

式は社会生活を分析するのを助けるが、決して

体験された社会的世界をプローズしない。

1960年代のホーマンズ、ダーレンドルフ、コ

ールマンの作品の成功の背後に、反ウェーバー

の希求が存在した。1960年代は、実証主義つま

り方法論的個人主義によって脇を固められた功

利主義が、約20数年前にパーソンズがスペンサ

ー社会学の死亡宣告をしたにも拘わらず、明ら

かによみがえった10年間であった。1960年代は

彼のアプローチのなかで当時の文化が再活性化

したためにホーマンズがよく知られるようにな

った10年間であった。

1960年代を通じてパーソンズは功利主義の復

192

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

活に抗して戦ったが、明らかに大海をせき止め

ようとした彼の努力は実を結ばなかった。にも

かかわらず、彼は決して社会理論における行動

主義とミクロ経済学への歓迎せざる後退が、じ

きに過ぎ去る過去の過失への一時的な堕落に他

ならないという希望を放棄しなかった。

彼の人生の週末近くにヴィヴィアン ゼリツ

ェール(バーナードカレッジ・アシスタントプ

ロフェッサー)宛の手紙*の中で、パーソンズ

は疑いもなくコールマンとホーマンズが有力な

提唱者である経済的イデオロギーと名付けられ

たものに警告している。

近年非常に有力になってきているこの見地

のもう一人の提唱者はシカゴ大学のガリー

・ベッカーである。私はこれらの人々が推進

しようとしている立場に一体化すること

を嫌うのと同程度にあなたのアプローチが好

きである。* Parsons letter to Vivian Zelizer, March 27, 1979(Parsons

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【訳者後記】

訳出した論文は、A. Javier Trevino(ed.)2006

George C.Homans. History, Theory, and Method.

Paradigm Publishers. pp.229-254.所収、Uta

Gerhardt The Return of the Ghost of Utilitarianism:

Talcott Parsons and the Theory of Geroge C.Homans

in the 1960s である。原著者は1938年生まれで、

現在ドイツ・ハイデルベルグ大学社会学教授で

ある。彼女はこれまでに、ロンドン大学、ケー

ス・ウェスタン・リザーブ、ドイツ・コンスタ

ンツ大学で教えた経歴がある。彼女はフランク

フルト大学、ベルリン自由大学で、社会学、哲

学、歴史学、心理学を修めている。彼女の代表

的な著書には、Talcott Parsons―An Intellectual

Biography. New York: Cambridge University

Press(2002). 編著には、Talcott Parsons on National

Socialism. Aldine de Gruyter (1993), (coedit with

Bernard Barber) Agenda for Sociology:Classic

Sources and Current Uses of Talcott Parsons's Work.

Baden-Baden: Nomos(1999)がある。

著者はパーソニアンの立場から、1937年にパ

ーソンズが『社会的行為の構造』で引導を渡し

た功利主義(スペンサー主義)が死滅せず、

1960年代に社会学界でホーマンズの『社会行動』

(ブラウの『交換と権力』、コールマン「集合的

決定」らの社会的交換理論)として甦って一世

を風靡したことを、功利主義の亡霊の復活とみ

なし、パーソンズがホーマンズの嫌がらせにど

のような感情を抱いたか、パーソンズがホーマ

ンズ、ガリー・ベッカー、コールマンらによる

「経済学を社会学に持ち込む立場」に嫌悪感を

示していたことなどを、パーソンズ・アーカイ

ブス(未発表資料)を使って明らかにしている。

ホーマンズがなぜこれほどまでに、パーソン

ズに対抗心、いや敵愾心を露わにしたのか、読

者には疑問が湧くことだろう。1944年にそれま

で13年間社会学講座主任を務めていた、ピティ

リム・ソローキンに代わってその座についたパ

ーソンズが社会学部を社会関係学部に拡充する

計画を進め、二人のテヌア教員を雇うことがで

きることになり、選考会議(1946年)が開かれ

た。

候補に挙がったのが、サミュエル・スタウフ

ァー、ロバート・マートン、ホーマンズであっ

た。『アメリカ兵士』の社会調査で評判を呼ん

でいたスタウファーが決まって残る一つのポス

トに、パーソンズは弟子のマートンを強く推し

たが、結局講座で彼より年長のソローキンとツ

ィンマーマンのタッグに押し切られて、社会学

出身でなく英文学出身のホーマンズが採用され

たのであった。この経緯をのちにホーマンズが

耳にしたものと思われる。

この選考の時点では、マートンの『社会理論

と社会構造』(1949)も、ホーマンズの『人間

195

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人間情報学研究 第13巻 2008年3月

集団』(1950)も出版されていない。実績とし

て比較されたのは、マートンでは、のちに『社

会理論と社会構造』に収録される諸論文、『17

世紀英国の科学、技術、社会』(1934)、ホーマ

ンズでは『パレート入門』(1934)『13世紀英国

村落民』(1941)であった。ソローキンのパー

ソンズへの遺恨がホーマンズの採用に有利に働

いたのである。詳しくはNichols(2006)を参照

されたい。

ゲルハルト論文の新たな指摘のひとつに、ホ

ーマンズの方法論的個人主義の源泉がウェーバ

ーではなく、ジョン・スチュアート・ミル

(『道徳科学の論理』のなかの「社会科学の論理」)

であること、ホーマンズがマックス・ウェーバ

ーを全く読まなかった事実を明らかにしている

ことがあげられる。ホーマンズはパーソンズの

概念図式を命題理論ではないと決めつけている

が、行為の概念図式(行為の準拠枠)がホワイ

トヘッド、ヘンダーソン、ウェーバーの提唱し

た、「具体性誤認の陥穽を回避する方法」であ

ること、ホーマンズの心理学(行動)還元主義

はこの具体性誤認の陥穽にはまっていること、

その原因はホーマンズがウェーバーを読まず、

ホワイトヘッド、ヘンダーソンを正しく理解し

ていなかったことにある、とみている。

訳者がこの論文を訳出しようと思い立ったの

は、処女拙論文「ホーマンズの心理学的説明の

提唱とその意義」(1972)で、ホーマンズのアメ

リカ社会学会会長演説の「人間に返れ」(1964)、

『社会学探究』誌でのホーマンズの『社会行動』

に対する種々のコメンタリー(そのなかにはパ

ーソンズの「組織の水準と社会的相互行為の媒

介」、コールマンの「集合的決定」が含まれる)

を参考にしながら、もっぱらパーソンズに批判

的で、ホーマンズに好意的なものを書いたこと

があったことと関係する。ゲルハルトの論文は、

当時の二人の攻防をパーソンズ側から照射した

もので、パーソンズを擁護し、ホーマンズに批

判的である。よりつっこんでいえば、パーソン

ズの亡霊がゲルハルトの口を借りて、ホーマン

ズによる自分に対する批判がいかに誤っていた

か、徹底的な攻撃を加えたものである。

しかし、ゲルハルトはパーソンズ、ホーマン

ズの論争した1964年より、40年後の地点からホ

ーマンズ及びその後継者を批判しているのであ

るが、合理的選択理論の40年間の展開を全く無

視して、40年前のパーソンズの頭脳を借りて40

年前のホーマンズ(と1964年論文のコールマン)

を批判するのに留まっているのが残念である。

訳者はコールマンの『社会理論の基礎』(原

著1990年、訳書2004, 2006年)も訳し、合理的

選択理論に与するものであるが、コールマンに

よると、パーソンズは1937年の『社会的行為の

構造』から1951年の『社会システム』に進むと

きに間違った途を選んだ、自分の『社会理論の

基礎』は、パーソンズが選ばなかったオールタ

ナティブの途(行為理論からの社会科学の統一)

をパーソンズが敬遠した功利主義(合理的選択

理論)の側から実現したのだ、というコールマ

ンの主張を、パーソンズが聞いたらどう反論す

るか、あるいはパーソンズに代わってパーソニ

アンとして反論を試みてほしかった。

ゲルハルト論文は、ホーマンズを礼賛してい

る論文集のなかでただひとりだけ、ホーマンズ

の意地悪をあげつらい、ホーマンズを徹底的に

批判している異色の寄稿である。

最後に、ゲハルトの論文を収録しているトレ

ビノが2006年のこの時点で、なぜホーマンズの

論集を編集したのか訳者にはなかなか理由が見

196

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功利主義の亡霊の復活-1960年代のタルコット・パーソンズとジョージ・ホーマンズの理論

Journal of Human Informatics Vol.13 March,2008

いだせずにいた。1989年に亡くなったホーマン

ズの追悼集にしては、20年近く経過しているし、

1910年の生誕100年記念にしては4年早いしと。

そのように思案しているうちに、トレビノが

2001年に編著Talcott Parsons Today. His Theory

and Legacy in Contemporary Sociology. Rowman &

Littlefield Publishers.を出していたことを思い出

した。

彼は1958年生まれで、マサチューセッツ州

Wheaton Collegeの准教授である。ホーマンズ、

パーソンズについての彼の編著の序論の標題、

構成をみると、 His Life and Work (Biography,

Intellectual Influences, The Sociohistorical Context),

Domain Assumptions (Individuals, Society),

Research Methodology, Conceptual Methodology,

Major Worksと全く同じである。どちらにも、

文献一覧には彼自身の論文が載っていないとこ

ろから書きおろしのようである。

トレビノのこの編著の寄稿は、ホーマンズの

初期から晩年までの著作、研究テーマを適任の

執筆者に分担させた好著である。ホーマンズの、

1962~1985年に発表された論文を自選した

Certainties and Doubts (『確信と疑念』1987

Transaction Books)を手にしたときに、「今時、

誰がホーマンズを読むだろうか」と自問してい

た訳者としては、トレビノのこの編著を一読し

て、ホーマンズが先便をつけたさまざまな仕事

が現代社会学でどのように継承され開花してい

るかを知れて、長年の胸のつかえが下りた気持

ちがする。

197

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