現代スポーツの諸問題 -...

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鈴木 勝衛1現代スホーッ・り諸問題 101 現代スポーツの諸問題 一アマチュアリズムの苦悩一 ム刀 1 まえがき 前10C会長故ブランデージ(以下ブ氏と略) が,「皮肉なことにオリンピック(以下五論と略) が成功をおさめるほど,商業と政治の介入の度合 も拡大する」と現実を嘆き・また会長の座を去る ときに,「五輪の理想と唯物主義の衝突は避けられ ないが,これに屈してはいけない」と,次の世代 に希望を託して会長の任務をしめくくっている。 バトンを引継いだキラニン会長は,「五輪が取り組 むべき課題に,商業主義,大会の適正規模,そし て政治の圧力と暴力の侵入」をあげてスタートを 切った。 現実の五輪や世界選手権などには,これらの問 題がいつもつきまとっている。現代はアマチュア (以下アマと略)スポーツの危機といわれ,「より 速く,より遠く,よ1)高く」という五輪標語は人 類の夢であるが,夢を実現するのに現代は,余り にも膨大な金がかか1)すぎる時代となった。 科学の著しい進歩が公害を生んだ如く,スポー ツの技術を高める手段に絡んで公害をもたらした。 五輪が巨大化し,ショー化するほど商業主義が入 り込むのは当然であろうし,記録の飛躍的向上や 技術の高度化は,選手に経済的にも時間的にも負 担と犠性を強いるようになった。国際的にも社会 が変動し,価値観も多様化し,国威発揚の度合が 強いほど,メダリストは英雄視され商業主義に利 用され易くなる。10Cは理想と現実の問にはさ まれて悩み,各競技団体もその対策に悩んでいる のが現実の姿である。 五輪や各競技団体が抱えている多くの問題の解 決には,実態を把握し,協調の上に将来の対策を 練ることが必要であろう。政治とスポーツにまつ わる現状については,「国際スポーツにおける諸問 題準のなかで,その一端について述べた。 今回は国際スポーツや国内スポーツにおける, アマチュアリズムにまつわる商業主義,オープン 化の問題,ドーピングをめぐる問題などに焦点を おいて,報道された実態の一端についてその経緯 を辿り,それらの様相をまとめた。資料は夫々の 問題が表面化し始めた頃から,昭和53年頃までの 新聞の切抜綴を手掛1)としてまとめた。とりあえ ず手元の資料を整理し,紙面に制限があるのでそ の要点だけをまとめ,遂次他の資料を補足して不 備の点の訂正や補充をすることにした。 福島大学教育学部論集,第28号の3,1976年 H.商業主義をめぐる問題 1.スキーと商標問題 ブ氏は事ある度ご とに冬季五輪,とくにアルペン選手を目の敵とし て非難し攻撃は妄執とまでなっていた。α01秒を 争うスキー競技では,用具が重要な要素を持ち, また’匡ワールドカップと五輪で勝ったスキーは必 ず売れる“ということは,欧米スキー界の定説で ある。メーカーは自社製の用具を身につけた選手 が,勝つか否かに企業の興亡を賭けており,選手 とメーカーの絡まりは,他の競技種目にみられな いものがある。 10Cと国際スキー連盟(F I S)のスキー商 標をめぐる抗争は,1936年以来の宿命注1でありその 根底にあるのは,メーカーのテストパイロットの 役割を負わされている選手のプ・化という問題で あった。1968(昭43)年グルノーブル五輪で,商 業主義の介入,プ・化が広く世界的な論議を呼ぶ に至り,“商標あるスキーは消せ“とアルペン競技 中止か,という瀬戸際まで追いこまれた・ F I Sは現実に抗し難く,アマという表現を使 わないで,スキーの特性と時代の変化を考え,各 連盟下金銭受取1)も可能という姿勢と新規則を考 え,五輪出場の責任を各国に持たせる規則を作1), バノレセロナで開かれたF I S総会で決定した。さ ド)にF I Sホドラー会長が,「ある程度の報酬や休 業補償や広告もやむをえない。I OCが之を認め ねば脱退もありうる」と爆弾声明をして強い態度

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Page 1: 現代スポーツの諸問題 - 福島大学ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002339/7-181.pdf · 予想される暗雲たなびき,札幌五輪が大混乱の恐

鈴木 勝衛1現代スホーッ・り諸問題 101

現代スポーツの諸問題

一アマチュアリズムの苦悩一

ム刀

金 木  勝  衛

1 まえがき

 前10C会長故ブランデージ(以下ブ氏と略)

が,「皮肉なことにオリンピック(以下五論と略)

が成功をおさめるほど,商業と政治の介入の度合

も拡大する」と現実を嘆き・また会長の座を去る

ときに,「五輪の理想と唯物主義の衝突は避けられ

ないが,これに屈してはいけない」と,次の世代

に希望を託して会長の任務をしめくくっている。

バトンを引継いだキラニン会長は,「五輪が取り組

むべき課題に,商業主義,大会の適正規模,そし

て政治の圧力と暴力の侵入」をあげてスタートを

切った。

 現実の五輪や世界選手権などには,これらの問

題がいつもつきまとっている。現代はアマチュア

(以下アマと略)スポーツの危機といわれ,「より

速く,より遠く,よ1)高く」という五輪標語は人

類の夢であるが,夢を実現するのに現代は,余り

にも膨大な金がかか1)すぎる時代となった。

 科学の著しい進歩が公害を生んだ如く,スポー

ツの技術を高める手段に絡んで公害をもたらした。

五輪が巨大化し,ショー化するほど商業主義が入

り込むのは当然であろうし,記録の飛躍的向上や

技術の高度化は,選手に経済的にも時間的にも負

担と犠性を強いるようになった。国際的にも社会

が変動し,価値観も多様化し,国威発揚の度合が

強いほど,メダリストは英雄視され商業主義に利

用され易くなる。10Cは理想と現実の問にはさ

まれて悩み,各競技団体もその対策に悩んでいる

のが現実の姿である。

 五輪や各競技団体が抱えている多くの問題の解

決には,実態を把握し,協調の上に将来の対策を

練ることが必要であろう。政治とスポーツにまつ

わる現状については,「国際スポーツにおける諸問

題準のなかで,その一端について述べた。

 今回は国際スポーツや国内スポーツにおける,

アマチュアリズムにまつわる商業主義,オープン

化の問題,ドーピングをめぐる問題などに焦点を

おいて,報道された実態の一端についてその経緯

を辿り,それらの様相をまとめた。資料は夫々の

問題が表面化し始めた頃から,昭和53年頃までの

新聞の切抜綴を手掛1)としてまとめた。とりあえ

ず手元の資料を整理し,紙面に制限があるのでそ

の要点だけをまとめ,遂次他の資料を補足して不

備の点の訂正や補充をすることにした。

 注 福島大学教育学部論集,第28号の3,1976年

H.商業主義をめぐる問題

 1.スキーと商標問題   ブ氏は事ある度ご

とに冬季五輪,とくにアルペン選手を目の敵とし

て非難し攻撃は妄執とまでなっていた。α01秒を

争うスキー競技では,用具が重要な要素を持ち,

また’匡ワールドカップと五輪で勝ったスキーは必

ず売れる“ということは,欧米スキー界の定説で

ある。メーカーは自社製の用具を身につけた選手

が,勝つか否かに企業の興亡を賭けており,選手

とメーカーの絡まりは,他の競技種目にみられな

いものがある。

 10Cと国際スキー連盟(F I S)のスキー商

標をめぐる抗争は,1936年以来の宿命注1でありその

根底にあるのは,メーカーのテストパイロットの

役割を負わされている選手のプ・化という問題で

あった。1968(昭43)年グルノーブル五輪で,商

業主義の介入,プ・化が広く世界的な論議を呼ぶ

に至り,“商標あるスキーは消せ“とアルペン競技

中止か,という瀬戸際まで追いこまれた・

 F I Sは現実に抗し難く,アマという表現を使

わないで,スキーの特性と時代の変化を考え,各

連盟下金銭受取1)も可能という姿勢と新規則を考

え,五輪出場の責任を各国に持たせる規則を作1),

バノレセロナで開かれたF I S総会で決定した。さ

ド)にF I Sホドラー会長が,「ある程度の報酬や休

業補償や広告もやむをえない。I OCが之を認め

ねば脱退もありうる」と爆弾声明をして強い態度

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102 福島大学教育学部論集第32号の3

で牽制した。

 F I Sの新規則にブ氏は,「スキーを五輪から除

外」と激しく非難したが,ワルシャワで開かれた

I OC総会で,「五輪憲章尊重する」という条件付

で承認され,ブ氏は孤立の形となった。これに対

抗してブ氏は,「金のかかり過ぎと商業主義に毒さ

れたアルペンと,アイスホッケーを五輪から締出

せ」とか,「広告目的の商標をつけた選手は失格」

と強調したり激しい攻撃に出た。そして結論を出

す筈だった1970(昭45)年アムステルダムの10

C総会では,五輪参加規定の改正や五輪の商業化

問題などの懸案事項は,札幌大会後に持越される

ことになった。

 ブ氏は今度は非難の鋒先を“スキー教師“に向

けて来た。「アルペン選手のオジェール注2(仏)ら10

人はプ・と断定される。札幌大会参加の禁止を要

求する」と爆弾宣言。F I S側は「スキー教師に

ついては,すでに条件付注3で了解に達している」と

反論した。名指しで出場禁止要求を受けた仏連盟

会長は,「いまやF I Sは10Cと決別の時が来た」

と10Cを非難したが,仏のNOC会長ボーモン伯(10C副会長〉は,「火のない処に煙は立たぬ」

と微妙な発言をし成行が注目された。この他にも

業者とつながりの疑ある43人の,何らか確証を

掴んだブラックリスト注4を示し,10C委員やNO

C委員に配布した。プ氏とF I Sは真正面から対

立の様相が濃くなり,10CからF I Sの脱退も

予想される暗雲たなびき,札幌五輪が大混乱の恐

れも出て来た。

 10CとI Fの合同会議がもたれ,札幌締出要

求の選手や疑惑選手の扱については,10C委員

に郵便投票で意向を確認し,I O C理事会で結論

を出すことになった。しかし,理事会では直接結

論は出さず,「アマ違反調査特別委員会苧5を設ける

ことを決め,さらに五輪憲章の参加資格規定(第

26条)の手直しが決り,頑固一徹に排除してきた

商業主義にブ氏も一歩譲ったのかとみられた。

 五輪参加資格の手直し作業は,抽象的だった規

定を具体的,現実的にして例外を設けるなど,む

しろ緩和の様相を帯びたものになった誉6憲章絶対

であったものから,問題によってはI F規定を優

先し,I Fの独自の見解や良識に一歩譲った形と

なり,“I OCも軟化か“の声もあったが,プロ行

為を追い出そうとする点では10C精神の体面を

保持しようとした。F I Sはこの動きで札幌五輪

1980-12

出場は全員青信号と判断し,札幌五輪を成功させ

たい考えから,態度を和らげ反省の声も内部に起

り,自粛ムードも現われてIOCに,「反省の意を

表し,選手規制を強化する甲旨の意向を述べた。

 また,アマ資格疑惑問題については,10Cも

F I Sと正面衝突を避けたい策を考え,アマ違反

特別委が中心となり,各国のNocとI Fの三者

協議で審査することになった。しかし,手落なく

チェック出来るか,三者が公平な判断に立てるかな

どの問題が残されていた。

 かくてI OCは若干軟化の兆がみえたとはいえ,

ブ氏は相変らずの非難攻撃で対立のまま・表面上

は札幌大会も開幕出来,疑惑選手らも道が開けた

様に見えた。

 2.シュランツ選手の失格問題   1972(昭

47)年札幌五輪の年が明けるや早々,ブ氏は「世

界のトップクラス30人以上が五輪締出しに直面し

ている」と,違反事実をあげて火種を蒔き,再び

札幌大会に波乱の雲行が出て来た。そして10C

総会を前にブ氏は,「冬季五輪スキー競技を五輪大

会でなく,世界選手権とする」新提案注8を示した。

F I Sは「五輪から除外されれば,札幌で世界選

手権大会を開く」と語った。迷惑なのは開催国日

本で,札幌五輪組織委員長は,「札幌は五輪以外の

大会を開催する積りはない。ブ氏の意図が理解出

来ない」と牽制した。

 札幌大会の重大な鍵を握るアマ特別委が東京・

札幌と連続して審議を続け,札幌ではI OC理事

も出席し,審議は楽観を許さない様子が感じられ

た。ブ氏は「選手資格問題は五輪の将来に重大な

影響を持つ,取締り不充分な指導者にも責任があ

る。大会期間中にも失格者が出る可能性はあるし

何かが起る」と,無気味な警告をレていた。

 10C総会前の理事会では,資格審査の秘密の

協議内容を慎重に審議の結果,オーストリアのア

ルペンのエースで,札幌五輪の金メダル候補“カ

ーノレ・シュランツ選手をアマ規定違反で失格させ

る。最終方針を決定,引続いて開かれた総会で「失

格」の最終決定が下された轡理事会にはオースト

リアの役員も招集され,諸情勢を検討,同国役員

から「シュランツはわが国青少年のアイドルであ

ることを考慮して,失格処分は思い止ってほしい」

という嘆願も空しく,最悪の結末となった。総会

の席上でもブ氏はいっにない激しさで,プロ主義,

商業主義に犯されたスキー競技の実態をあげ,「ス

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鈴木 勝衛:現代スポーツの諸問題 103

キーは健全なレクリエーションとして大衆化した

ことを認め,最早その役割と使命は終った。アマ

競技として続けることは困難準10ときめつけた。ゆ

さぶられて来たアノレペンスキー選手問題も,シュ

ランツだけが失格という意外な結末となったが,

10Cとしても混乱を最小限度に食い止めたい苦

悩もあったし,“くさいものにふた“式ではすまさ

れなくなっていた事情や,札幌五輪を混乱なく終

了したいという日本への好意を考え,またブ氏の

メンツを立てた最良の策であったかも知れない・

 失格者を出したオーストリアは,国家的惨事の

ような打撃を与えられ,シノワッツ文相は「総引

揚げ」を勧告し,主要スキー国へ連帯を求め打電

をした。この勧告に従い選手団は引揚げ帰国の腹

を固めた。しかし,失格となったシュランツは帰

国に際し,「自分だけのため全選手を犠牲にするの

は忍びない」と引揚げを思い止るよう強く説得し

て五輪村を去った。同国では協議結果,帰国の態

度を変え,再び出場に踏切ることを決定した。ア

ノレペン王国の欠場で淋しい五輪か,とがっくりし

ていた組織委はじめ,各国もほっとした空気が流

れた。

 総引揚げ帰国を決定した翌日,再び出場という

逆転劇は筋書通りとみる人もいたが,シュランツ

の「自分のため他を犠牲にするのはしのびない」

の声明で英雄の立場を救い,他の選手は出場して

開催国への好意を示す,という三者を生かした演

出とみるむきもあった。

 スキー選手の実態   シュランツはクナイス

ル社以外の用具は使用しないし,スチダラーはケ

スレ一社,チンマーマンはフィッシャー社の用具

を使用,スイスのミンシュはヘッド社製品の愛用

者であった。0.01秒を競う選手にとって履きよい

用具を用いる事丈でなく,それぞれが履かねばな

ρ)ない事情があった。メーカーは「スキー産業は

アルプス地方の重要な産業だ。選手とタイアップ

が最も効率が良い開発だ」と言い,全力をあげて

多くの選手達が自社製品を使うよう努力し・サー

ビスマンは競技会でスキー用具一切を持って走り

回る光景が会場に出てくる。

 仏のアルペン競技オノーンボネ監督は,「F I S

の規則でも,世界のスキー界で大鼓判を押せるア

マが存在するだろうか。古典的な考えのアマはな

いし,スキーは個人の競争でなく国の競争となっ

た」と語っている。

 グルノーブル五輪で三冠王になったクロード・

キリー選手が,或るメーカー用品を使用すること

で報酬を受け,アマ違反でメダルはく奪問題に発

展した。仏では調査のうえ金を返却させ,さρ)に

業者からは「契約違反10Cに暴露する」と脅か

され,口止料を払って何とか事なきを得た。

 札幌五輪でも広告合戦が激しく,“レーサー追跡

者、という名のサービスマンの一団が,選手の跡

を追ってサービスに努めるかたわら,商品名や商

標入りの製品を持込んでの宣伝広告の激しさに関

係者も困惑の態であった。業者から基本給を給与

されている選手もいるなど,拾いあげると枚挙に

いとまがない状態にまでエスカレートしているの

が実態であろう。強くなるのに余りにも金がかか

りすぎる五輪に,「経済力と時間がなければ,この

肉体をメダルに結びつけることは困難だ」と語る

選手もおり,第一選級選手の実感であろう。

 注1 冬季五輪にスキーが行われたのは,1936年

   かρ)であったが,スキー教師の参加は認めら

   れなかった。FISはスキー教師も含めた大

   会を開いて10Cの怒りをかった・それ以来

   両者の抗争が始つた。F I Sはスキー教師の

   参加を要求,10Cも感情的に対立するに至

注2

注3

注4

5注

6注

7注

注8

つた。

 オジエール他10人は米カリフォルニア州の

マンモス山で夏季トレーニングキャンプで教

師をつとめ,1日50$以上の報酬を受けたと

いうことを指摘。

 1948年サンモリッツ後,①スキー教師を主

たる職業としない。②ナショナルチームのト

レーナーのような中心的役割はしない。③五

輪の3月前に教師を止める,という条件。

 アルペン王国の選手「)で,カールシュラン

ツやオジェールはじめ,ワールドカップ上位

入賞者が含まれていた。

 「夏季冬季五輪大会参加者認定特別委員会」

で,主な任務は札幌五輪スキー選手の資格の

チェックであった。

 五輪精神と倫理を尊重する。所属するI F

ルールがIOCよりきびしくとも従うこと,

練習や合宿経費などを具体的にした。

 札幌五輪では商標を制限する。F I Sが認

める補償をへρ)す。疑惑のスキー教師につい

ては,連盟の配慮が不足していたなど・

 アマ精神を貫くため,資格の疑わしい選手

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104 福島大学教育学部論集第32号の3

   を除いて五輪とするか,選手権大会として選

   手資格を不問にするか,を決めようという主

   旨のものであった。

 注9 選手が失格したのは1932年・スアンゼルス

   大会でフィンランドのヌルミ選手が失格にな

   つた例があるが・冬季五輪でははじめての失

   格。

 注10 冬季五輪は金がかかりすぎること,施設作

   りで自然が破壊されること,選手が利用され

   メーカーの競技会の感があり,商業主義にが

   まんが出来なかったこと。

 3.スパイク騒動   スパイク騒動の発端は,

1954(昭29)年フ。一マ社が西独サッカー連盟役員

を介して,宣伝目的でナショナルチームにスパイ

クを履かせることに成功した。そのあとアディダ

ス社も役員を動かし,プーマ社を追い出しに成功

した。その直後,西独チームがワールドカップ戦

に優勝した。すかさず“世界チャンピオン愛用の

アディダス。と宣伝に利用したことかρ)宣伝合戦

の火蓋が切っておとされ,年々エスカレートして

いった。

 1960(昭35)年・一マ五輪100米優勝のハリー

が履いて走ったスパイクがプーマ社,表彰台には

アディダス社製品を持って立った。両社からソデ

の下を受けた窮余の策かと話題になった。両社の

宣伝合戦はメキシコ五輪で頂点に達した観,選手

村の内外で激しい広告合戦が展開され,大量の靴

がばらまかれた。表彰台に立ったスミス選手やカ

ーロス選手が,プーマ社の製品を持って上ったり,

金に困った選手が小切手を現金化したことなどが

明るみに出され,選手との結び付の広範にして深

遠な疑が急に広がった。両社でこの大会で靴を使

用する条件で総額10万$近い現金と,宣伝のため

35万$に及ぶ製品がばらまかれ,両社もこれに近

い支出を認めていた。そして両社から提供を受け

た選手は200人にのぼるといわれた。走高跳のホ

ワイト選手は「私はアディダス社に買収されかけ

た。金をやるから履いてくれとそそのかされた」

と暴露。同社では「ホワイト選手には話したこと

はない。彼はプーマ社製を履いており,プーマ社

の陰謀だ」と公表,宣伝戦の巻添いになった選手

もいた。

 両社の鏑を削る宣伝合戦は激化を辿り,靴だけ

でなく,名入りのバッグなどを片手に競技場内外

を歩く選手に競技団体も困り,名入りの商品を競

1980-12

技場内に持ち込みを禁じたり,商標付カバンも制

限対象に取り締りを厳重にしても,徹底した取締

りが出来ない程であった。一社がぬかりなく宣伝

用スパイクを配れば,他社ではタータン用特殊ス

パイクを手渡すなど目に余るものがあり,たまり

かねた国際陸連も紛争を避けるため,「スパイクは

白一色に統一」を考えた。これで安心と思いきや,

「白一色に統一せよとは営業妨害だ」と業者に反

対され,折角の提案も断念せざるを得なかった。

 1976(昭51)年モントリオール五輪では,男子

5千米1万米に2連勝したビレン選手が,決勝後

日本製のスパイクを両手に掲げて場内を一周した。

蟻優勝した喜びの表現“か,“金をもらての広告“

かと注目された。西独のアディダス,プーマ両社

の合戦のさ中に,日本製品が食い込んで頭角を現

わしはじめ,国際競技の舞台で話題をまいた。

 4.賞品問題   1969(昭44)年度の全日本

スピードスケート選手権大会が岐阜県瑞浪国際ス

ケートリンクで開催された。優勝杯の他に,地元

寄贈による副賞として,男子総合優勝に小型テレ

ビ,女子総合優勝には洗濯機,第二位には扇風機,

この他陶器,カーペットなどが出され,日本記録

賞にはステレオが出されて問題になった。

 当時のアマ規定第14条では,「競技者に与えられ

る賞品または表彰は,賞状,メダル,ト・フィー,

旗,楯程度のものに限る」と規定されており,ス

ケート競技での副賞は,明らかに違反するもので

あった。

 国際スケート連盟(I S U)の規約には,副賞

に関する明確な規定はなく,ある程度許される慣

習があったらしい。1963(昭38)年世界スヒ。一ド

選手権大会が軽井沢で開催された時,副賞として

銀製品や化粧品類が贈られていた。全日本選手権

では豪華な賞品が出されたのは今回が初めてとい

う事であったが,大会関係者はI S U規定や慣習

の範囲内と判断し,体協に対しても「規定範囲内

と認められるもの」と述べていた。体協としては,

「ISUの規定や慣習範囲内なら致しかたないが,

業者の宣伝広告の一翼を荷負うことになρ)ないよ

うに」という注意を勧告した。その当時は丁度体

協で,“アマ規定改正“の作業が進められていた頃

で,“アマ規定廃止の線が濃くなった“と思いこま

れた向きもあり,早くも賞金選手の第一号出現か

と騒がれた。

 連盟では早速扱いについて協議したが,「時期が

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鈴木 勝衛:現代スポーツの諸問題 105

時期だけに,軽卒であってはいけない」と判断し,

副賞としての商品は全部返還することを決定した。

当時,男子5百米の世界記録保持者であった鈴木

恵一選手は,「外国では生活保証金が出される選手,

営利的企業でアマ選手が養成され,五輪にも出場

するなど,日本では到底考えられないことが外国

では現実だ」と語っており,I S Uの副賞が慣習

化していることなどから,日本スケート界の常識

も欧州並にしょうとの考えもあった。

 5.クレー射撃のアマ問題   1970(昭45)

年7月目本クレー射撃協会は,協会役員4名を1

年間,選手約100名を6ヶ月間のアマ資格停止処

分を発表した。理由は,銃と装弾メーカーである

S KB工業とS KB販売両社などが共催する,第

5回S KBクレー射撃中央大会注1に出場したとい

うもの。同大会はプ・も参加し賞金がかけられ,

テレビなど高価な賞品が出される。選手はS KB

のユニホームを着用し,同社製の銃と弾を使用す

る義務が負わされ,明らかに商業宣伝を目的とし

た大会であり,再三にわたる協会の警告も無視し

た為,アマ規定を明確にしておく必要から厳重処

分にしたという事であった。

 処分者を多く出した東京都クレー射撃協会から,

「一方的な処分」と反対があがり激しい抗議洩が

なされた。またS K B側では,「クレー射撃振興の

ため昭和41年から実施している大会であり,プ・

は模範射撃だけで競技には参加してない・また,.

当社や選手にも,何の警告も届いてない。他のメ

ーカーを擁護沸する為しくんだ陰謀だ」と激しく非

難した。協会はこれを否定したが,協会と業者の

密着のうわさは以前から流れ,内部にこの事実を

肯定する役員もおり,過去の行状などから協会の

体質的欠陥注4を指摘し,その姿勢を憂える声が出

て来た。さらに「理事の中に銃砲所持許可書取消

中の身分で射撃をした」と処分された選手から真

相追究の声,協会経理の疑惑,業者の協会役員,

協会を私物化する役員等々,それまでうっ積して

いた不満や問題が次々と表面化し,その上アンチ

協会派が第二協会を結成するなど,協会の分裂状

態にまでたち至り大混乱をまき起こした。日本体

協も多額の補助金がクレー協会にも支出している

こともあり,「内政干渉になっては」などとは言っ

ておれない状態になり,その実情調査にのり出し

た。

 時恰も岩手国体を前にした事件であり,国体出

場問題までが絡んで発生して来た。「業者問題から

発展し,行政処分中の幹部が国体役員とは許せな

い。前年度にも資格のない選手がおり,クレー射

撃の国体出場は取り止めるべきだ」などの声が明

るみに出て来た。国体委員会も実情調査に当らざ

るを得なくなった。国体委では,「国体参加の役員

選手の資格については協会を信じ,内政干渉した

くない」という態度を決めた。しかし,これでは

周囲が納得せず,「余りにも事なかれ主義だ」とい

う強い声もあり,国体委の甘い姿勢が論議の的に

なった。これらの声に体協,国体委の三役会議は

じめ,緊急国体常任委員会を開き対策を協議し,

「岩手国体は出場取消しかオープン参加注5の何れ

か」にすることに決めた。ところが,「クレー競技

が行われたら,大会期間中でも違反者を指摘す

る」と,反対者から火の手があがり,このままで

は収まりそうもない雲行となった。国体委では,

「協会内部の紛争に対する世論や,選手のアマ資

格への疑問があることなどから,クレー競技の辞

退を願う」という,いわばスジ論に傾きこれを決

定した。

 黒い霧に包まれたクレーが,“正式種目で開催か

ら除外へ“の意向が固まるや,こんどは開催県や

会場地が納得しなかった。「開催目前に迫った段階

で除外種目が出ては,同地で開く他の競技も返上

する」とすごい剣幕で訴えて来た。

 かくて国体関係者は,”スポーツのスジを通すか,

準備万端整った地元の言い分を通すか。苦境に立

たされた。結局最終結論として・大会開幕期日が

迫ったこと,準備に長年努力して来た開催地への

気がねと同情などが最大の理由で,振り出しに戻

り「条件付正式種目で開催轡を決定するに至った.

「岩手国体を破壊するな」という地元出身代議士

の圧力,地元への人情論がスジ論に勝りた形にな

った。条件付とはナンセンス,アマ精神とは口先

だけだ,など強い批判の声のなかで,“除外からオ

ープン参加へ,そして正式参加“と紆余曲折を経

てクレー競技も開催されるようとしていた。

 大会が開幕されるや,協会のアマ違反審査結果,

疑のある役員や選手が次々に出場辞退を申し出て,

国体史上初の27名に及ぶ辞退者を出して関係者に

動揺を支えた。体協では改めてクレー射撃協会に

ついて調査のメスを入れることになった。この矢

先,賭博容疑で協会役員が逮捕される事件が起き,

体協では“アマ団体として不適格、、の意向でいた

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106 福島大学教育学部論集第32号の3

が,態度を硬化させ“資格停止か除名、・の何れか

の決断の時期と判断した。体協全体の運命にもか

かわる問題にまで発展する可能性を含んでいた。

 JOC内ではクレー協会を除名することが,姿

勢を正すことになるという強硬意見もあったが,

J OCとしては》レー協会がJ OC活動から辞

退するよう“申し入れをした。クレー協会では諸

般の事情から,」OC退会届を提出し,日本体育

協会にも除名処分を受ける前に,退会届を提出す

ることを決めた。しかし何れの形になっても,体

協の国体での醜態の責任や,クレー協会の乱脈振

りを放置して来た監督不行届の責任は残るもので

あった。

 クレー協会の事件は国内の問題丈でなく,日本

で開催が決定していた,1971(昭46)年世界クレ

ー射撃選手権大会にも影響するものであった。」

OCを退会すれば,自然I S U加盟資格も失うこ

とになり,世界選手権の開催資格も消滅すること

になり,国際的なスキャンダルに発展しかねない

状勢になった。役員を急遽派遣して日本側の事情

を説明の上,開催返上を申し出て事なきを得た。

 体協としてはクレー協会にまつわる諸問題を検

討し,この際アマスポーツ界が姿勢を正す意味か

らも,満場一致で「除名処分」を決定したのが,

昭和45年11月であった。体協としては出来るだけ

内政干渉を避けたい方針で来たが,組織が巨大化

するほど下部への目が届きかね,あまっさえ商業

主義の浸透などで揺れ動く現代では,加盟団体を

確実に掌握し,積極的な指導を要望する声が高ま

っていた。また,クレー協会を除名しても,地方

に残っている協会を核として,復帰を目指す盛り

上りに手をかして再建を急ぐのが理想のあり方だ

という声も出ていた。

  注1 クレー協会は底辺拡大に役立つと後援して

   来たが,大会内容の調査は不充分であった。

  注2 「警告された事実はない。違反というが,

   一部幹部と業者の利害関係に外ならない」こ

    とをあげている。

  注3 協会が他のメーカーから年額1千万円の検

   定料を受取り,S KBは認定されなかった。

   役員からS KBも認定するからと500万を要

   求されていた。

  注4 幹部7人が火薬取締法違反で検挙,散弾横

   流しで10数人が検挙,協会と業者の密着,S

    KBを除く,他の18メーカーと協議会を設け

1980-12

  ていたなど。

注5 天皇杯の得点算定と無関係のものとなるこ

  と,岩手県は第2位入賞が期待されており,

  オープン種目では開催県天皇杯得点に影響す

  るもので止められて困る種目でもあった・

注6 違反者がないという誓約書を出させ,違反

  者が出れば天皇杯から除くということ。

皿.高まるオープン化論議

 1.テニスのオープン化の経緯   1960(昭

36)年,世界のテニス界に大きな影響力を持つ,

アマテニスのメッカであるウィンブルドン大会注1

を,英国庭球協会で“アマ・プ・のオープン選手

権大会とする“ことを決めた。この実現には国際

庭球連盟(I LTF)の総会で承認が必要である

が,世界テニス界に投じた波紋は大きかった。

 世界のテニス強国では,アマ選手の養成とプ・

選手の問題が斯界の課題になっていた。にせアマ

を防ぎ,年々激しさを増しつつあったプロ界から

の選手引抜きなどから,I LT Fでもアマ選手の

生命の存続を図る対策にとりくんでおり,“指定選

手制とオープン制“案を,1960年の総会に提案し

たが否決されていた。

 オープン化は,プロテニスの出現以来アマテニ

ス界のトップクラスが次々とプロに転向し,アマ

テニス界が沈帯を辿り,目の肥えた観客には試合

の興味が薄れ,レベルが低下したと物足りなさ

を感じさせ,批判が増えていた事などから,大会

主催者側の観客集め策でもあった。しかし賛否両

論がうずまき,オープン化に積極的に取りくもう

とする意見と,“アマ精神に反す,プロが常に上位

をさらうこと確実とか,安い賞金ではプ・は集ま

らない,生活保証や賞金値上げ問題が出る,I L

TFがプロに牛耳られるようになるケなど消極論

も根強かった。

 また,デ杯戦の歴史で米と豪の争いが多かった

が,米国は年々アマ選手層が手薄になり不振にあ

えいでいた。これに対応するため,米国は“準オ

ープン制注2の採用と,デ杯戦ヘプ・の導入“とい

う思いきった提案の動きが具体化していた。また

テニスの有力国がオープン化の推進国にな1)つつ

あった上に,ボロトラI L T F会長が,「デ杯戦も

含めてオープン制を考える時期」と爆弾宣言した

ことで,世界のテニス界はオープン化を目指し,

その動きが具体的に一層活発化して来た・しかし,

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鈴木 勝衛1現代スポーツの諸問題 107

総会では依然として両論相俟って実現をみるに至

らなかった。

 オープン化が実現されないので英国庭球協会は,

1967(昭42)年に至り“’67年’68年の2年間を試験

的にオープン化する“方式を提案した。ルクセン

ブルクで開かれた総会では,この案も賛成が少な

く実現をみなかった。再三の提案が否決され業を

にやした英国は,「たとえ英国丈でもやる」と国際

ルールを破り,ウィンブルドン大会のオープン化

を原則的に決め,“庭球試合でアマ・プロ差別を全

て廃止する」ことを決議し,消極的なI L T Fに

公然たる挑戦的態度をとるに至った。これで恐ら

く翌年のウィンブルドン大会は,英国内の選手と

僅かのプ・選手だけの淋しい大会になる可能性も

あり,またアマに限られているデ杯戦には,英国

は出場権を失うこともありうる覚悟であった。

 I LTFとしては,英国提案を再三否決して来

たが,テニス界のすう勢を無視したわけでなく,

現実的なアマの体質改善問題にとりくみ,テニス

界が抱える問題解決に向け,“アマ規定改正特別委

員会“を設置して検討を続けていた。そしてこの

特別委では,全てオープン化は問題があり,限定

選手とよぶ選手区分を具体化し,オープン化へ歩

みよりを検討して来た。

 1968(昭43)年パリでI L T F臨時総会が招集

され,アマ規定特別委から漸く提案された「庭球

オープン化」案を可決するに至った。英国が主張

して来た完全オープン化は実現されなかったが,

アマとプ・の間に,“認定選手注3制度“が設けられ,

アマであり乍ら試合に出場して,何らかの利益を

得ることが可能な選手も出現することになった。

これでデ杯戦を除く,四大タイトルなど世界の主

な大会湘はオープン化され,プロが流れ込むこと

になった。

 主な大会がオープン化されるや,残されたデ杯

戦の行方が注目されていた。テニス強国米,豪,

英,仏の四ヶ国代表が協議して,“デ杯戦も二流大

会にしないで権威ある行事としていくために,オ

ープン制にすべきである。と意見が一致し実現に

向けて協力することを確認した。いっかはデ杯戦

にもプ・が出場するようになる運命にあったが,

1970(昭45)年かβ),アマテニス界で最も古く権

威のある“デビスカップ戦“も,プロ化の波に押

され時代の潮流に抗し難くついにオープン化され

るに至った。

  注1 ・ンドン郊外ウィンブルドンで開かれる黙全

   英庭球選手権大会・のことで略してウインブ

   ルドン大会という。1887年に創始されたもの

   で,事実上世界選手権大会。

  注2 プロとアマが別々に試合を行ない。準決勝

   からか決勝かを両方の進出者で試合するとい

    うもの。

  注3 競技者の資格は次の3通りとなる.①アマ

   チュアプレヤー(従来のアマ)②プレヤー(協

   会に登録し,テニスが職業でないが,利益が

   えられる,“登録ノン・アマ的選手“)③契約プ

   ・ (興行者と契約している選手)

  注4 オープン制を適用する大会を限定すること

   にした,“四大タイトル“とは全英,全仏,全

   米,全家の選手権大会のことで,その他15大

   会をオープン化した。

 2.揺れる五輪サッカー   史実によれば五

輪でサッカー競技が開催されたのは,1900年第2

回パリ大会であるが,正式種目としての参加は第

3回セントルイス大会からであった。

 10Cでは五輪はアマの大会として,参加選手

の資格を厳しくチェックして来たが,1932年第10

回ロスアンゼノレス大会で,選手資格について10

Cと国際サッカー連盟(F I F A)の意見の衝突

が起った。即ち,当時サッカーにある休業補償に

からむ問題で,五輪開催種目から除外された。し

かし,1936年第11回ベルリン大会から,再び競技

種目として復活した。

 現代サッカーは,ワールドカップから始まった

といわれ,この大会はアマもプロも参加出来る最

高技術のオープン大会である。五輪では“ワール

ドカップに出場した選手は除外する、、ことが,19

60年・一マ大会から適用された。東京五輪の時は,

この規定が地域予選大会にも適用され,イタリヤ

がプロ選手を参加させたことで,五輪大会出場が

失格となった。また1970年モントリオーノレ五輪の

際も,スペインにプ・選手が居た事で問題になっ

た。スペインでサッカーといえば,国技の斗牛を

上回る人気があり,優れた選手は皆プ・に転向し,

五輪代表をアマ丈で編成すると,二流の学生選手

かジュニア選手に限られるといわれている。

 これに比べ,ソ連や東欧などでは,西欧流のプ

ロ選手の解釈はなく,プロもアマも両方から国の

最強チームを編成して五輪大会にも出場する。最

近の五輪サッカーで,メダルを争うチームは圧倒

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108 福島大学教育学部論集第32号の3

的に東欧圏が多い。チーム編成かρ)これでは,東

欧諸国と西欧諸国の五輪での力は,競技開始前か

らその差歴然たるものがみられる。ここから「東

欧圏の選手は国家養成のプ・で,これらの選手を

そのままにして,西欧側だけを厳しく取締ること

は不公平だ」という反発が出て来る・

 イングランドサッカー協会は,アマとプ・の区

別を廃止して“プレーヤー、、という名称で統一し

たのは1975年であった。同国ではサッカーといえ

ば,プロが通り相場であるほどプロリーグの長い

歴史を持っている。そして同国では,“世界一を決

めるのはワールドカップ,五輪は二の次“という

見方がなされ,他の競技種目と異るものがある。

アマとプロの問題かρ),オープン化が進みつつあ

る現在,サッカーと同じ扱いをする競技種目が出

て来そうな気がする。

 3、その他の例   1975(昭50)年スイスで

開かれた国際アイスホッケー連盟(IIHF)総

会で,世界選手権大会にプロの参加を認めること

を決定した。大会の門戸をプロにも開放したこと

で,今後はカナダや米国もプ・で固めたチームで,

サッカー同様お株をとられていた東欧圏チームに

巻返しが予想された。

 アイスホッケーでもソ連や東欧諸国に,本場カ

ナダも最近は後れをとるようになっていた。「アマ

だけではとても勝てない」とカナダは,1968年に

オープン化を提案したが,例によってミスターア

マの権化ブ氏が,「プロと競技したアマは失格」と

いう横槍で実現されなかった。

 I I H Fがアマとプロの垣根をとり去ったこと

で,サッカー方式でいくならI OCにも通用する

であろうが,運用を誤れば10Cとの間に混乱を

招き,五輪から身を引くようになる危険をはらん

でいた。

 1976(昭51)年国際スキー連盟(F I S)は,

業者と契約したプロもF I S公認競技の出場を認

めることにした。選手をA群とB群に分け,“Aラ

イセンス選手“は従来通り,連盟下でアマとして

五輪大会や各種競技会に出場する讃Bライセンス

選手“は業者と契約が可能で,ワールドカップ杯

大会や世界選手権大会に出場出来るが,五輪大会

からは永久に締出される。この制度が進めば,サ

ッカー同様にワールドカップ杯が名実共に世界一

を決める大会で,五輪は二線級以下の大会へと変

容する可能性もある。アルペン競技の世界でも,

1980-12

サッカーやテニス,アイスホッケーと同様にオー

プン化の道を辿っているといえよう。

 1977(昭52)年,英国アマスポーツの中心機関

である“スポーツ評議会、・は,「五輪や世界選手権

のアマとプロの区別を廃止すべきだ」という見解

を公表したが,アマスポーツの発祥の国英国の動

きであるだけに,各国アマスポーツ界の反響は大

きかった。この見解は,「今の五輪のアマ資格規定

は,運用上問題が多すぎ,いつでも破られる可能

性が多い。真のアマリズムは最早不可能だ」とい

うものであった。これと同様の主張や動きが,こ

れからも増える傾向は続くであろう・

IV.ドーピングをめぐる問題

 1.ドーピングの実態   多額の賞金が掛け

られる競馬では古くから興奮剤が利用されていた

が,19世紀後半に至り次第に人間のスポーツの領

域にまで浸透し,選手の生活がかかっているプロ

スポーツかρ),漸次アマスポーツ界に広がって来

た。

 古くは1865年アムステルダム運河水泳競技や,

1879年フランスの自転車競争でドープの例が出て

お1〕,1886年に自転車ロードレースで,興奮剤で

選手が死亡した。これが記録に残る最初の死亡例

であろう鼻

 戦後では1950(昭25)年以後ドープの例が増加

し,1960年・一マ五輪の自転車・一ドレース,ベ

ルギーの選手がレース途中で,興奮剤使用が原因

で死亡する事件が起り,これがキッカケになり“興

奮剤使用を禁止せよ、の声が急に高まった・

 1969(昭44)年ミュンヘンで開かれたスポーツ

医学会で,投てき選手や十種競技,重量挙選手が,

男性ホルモンを常用していることが報告注2され,

学会ではかρ)だに及ぼす影響と,スポーツマンシ

ップからみても禁止すべきである,という結論を

公表した。

 同年にボクシング世界フライ級チャンピオンの

サバリア(比)が,挑戦者ゴンザレスと引合けて

タイトルを防衛した。検査結果サバリアが興奮剤

 (アンフェタミン)を使用した事が分り,チャン

ピオンをはく奪された。

 1970(昭45)年コロンバで開かれた世界重量挙

選手権大会で,フェザー級優勝のノワク,2位ポ

イノフスキー,3位三宅義行,ライト級3位のバ

ゴスらが,興奮剤使用注3と判定されてメダルはく

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鈴木 勝衛:現代スポーツの諸問題 109

奮,順位繰り上げにされた。

 1972(昭47)年札幌五輪アイスホッケーの西独

対ユーゴ戦で,西独選手にエフェドリンが検出さ

れ,選手は失格となり年1回の公式戦出場禁止処

分を申し渡された。

 ミュンヘン五輪水泳男子の1500米で世界記録保

持者であり,本命とみられていたデモン(米)選

手が,競技出場直前になって出場を禁止された・

デモンはすでに400米で金メダルを獲得し,規定

により検査の結果,“黒。の判定が下された。彼は

ぜん息の持病で,常用していた薬にエフェドリン

が含まれていた。医師の処方で服用したもので・

事情を説明したが決定は覆えらず,医師の責任も

問題にされ反響をよんだ。持病の常備薬まで禁止

されて,選手の健康管理問題に発展し新たな波

紋をよんだ。I OC医事委は「選手は常用してい

る薬品の使用可否について照会しているが,デモ

ンはその確認を怠った。他にも薬があり禁止薬を

飲まねばならないことはない」と説明,デモンは

傷心のうちに帰国した。

 1974(昭49)年テヘランで開かれたアジア大会

の重量挙,ヘビー級優勝のキム選手,ミドルヘビ

ー級の大内選手が興奮剤使用の疑で失格となり,

1年間資格停止となった。しかし,この時は検査

方法の不備や,陰謀めいた疑惑も流れ波紋を招い

ている。

 1976(昭51)年インスブルグ冬季五輪で,女子

距離銅メダルのクラコワ選手が,医師に相談せず

風邪薬を飲み,エフェドリンが検出され失格の上

メダルをはく奮された。

 モントリオール五輪では,重量挙選手にアナボ

リックステロイドが検出され,ライト級金メダル

のカチマレク選手,ライトヘビー級銀メダルのブ

ラエク,ヘビー級のカメ・ン,スーパーヘビー級の

パプラセク等が失格の判定をうけている。またこ

の五輪の際西独水泳チームが,本番では使用さ

れなかったが“風船策戦群と称する秘密実験が明

るみに出され,新たなドーピングの出現かと話題

になった。

 インスブルグ五輪のアイスホッケーで,チェコ

チームの選手に禁止薬のコデインが検出され,勝

った対ポーランド戦を失うことになった。この時は

チームドクターが,承知で風邪薬を服用させて責

任を問われ,五輪代表団に加わることを禁止され

た。

 1978(昭53)年,アルゼンチンで開催されたサ

ッカーのワールドカップ戦で,スコットランド選

手に違反者が出,F I F Aから1年間資格停止処

分を受けた。この時は優勝候補にアルゼンチンが

あげられており,ライバルチームのめぼしい選手

にとくに厳しいチェックをしたといううわさが流

れた。

 共産圏諸国のスポーツの大活躍の陰には,薬も

大きな役割を果している,といううわさは絶えな

いが,西独へ亡命した東独女子選手が「薬品を常

用させられていた」と暴露した。彼女が訴えた症

状や服用していた薬を分折した結果,ステ・イド

が検出されている。また西独選手が「世界記録を

作るには薬は不可欠のもの。体重が45K増加し記

録は10%伸びた」と語っていたが,彼は副作用に

よる障害と精神分裂症になりかけていた。

 2.10CやI Fの対応   1963(昭38)年頃からI O Cでは,ドーピングを禁止する斗いの

ため,医師による五人委員会を設置し,国際スポ

ーツ医学会との協力体制をとり乍ら漸く具体的に

動き出した。

 1964(昭39)年東京五輪の前に開かれた国際ス

ポーツ科学会議で,I OCに対して一応のドーピ

ング定義とこの定義に沿った各国での禁止策をと

るように勧告することを進言した。

 メキシコで開かれたスポーツ医学会議では,高

地での興奮剤の影響の調査や,各競技でのドープ

の実態の討議に基づいて,“メキシコ五論で上位入

賞者3名の検査実施と使用者の失格処分。を要請

した。

 1965(昭40)年ストラスブールで開かれたドー

ピング欧州会議で,“ドーピングの禁止,使用者の

失格,各国で禁止規定を設け厳しく取締ること,

五輪では選手に宣誓させること。などを提案した。

この年には事故者も多い自転者競技連盟が,検査

の実施を決定した。1966(昭41)年にはプロをか

かえているサッカーが踏切り,1970(昭45)年に

国際水泳連盟が検査に踏切るなど,各競技団体で

も取締りに積極的な取り組みが見られるようにな

った。

 1972(昭47)年札幌五輪の時には,10C医事

委で検査は原則として毎日全種目とするが,札幌

市の検査所の機能も考え,4~5種目について抜

打的に,入賞者と入賞外選手も抽出して検査をし

た。“雪と氷の祭典“札幌五輪の舞台裏では,雪と

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110 福島大学教育学部論集第32号の3

氷の美しさとは凡そ縁のない雰囲気に包まれていた。

 1972(昭47)年ミュンヘン五輪が近づくにつれ

て,新たな悩みが出て来た。筋の持久力を酸素補

給量増加で高めようとする“血液ドーピング轡な

る・新たな方法が話題になった。陸上競技や自転

車の長距離競争に効果的であると,記録更新の例

も発表された。しかし,この信懲性については賛

否両論があり扱いに苦慮,I OCに新たな難題が

まい込みそうだった。ミュンヘン五輪では,ドー

ピングもピークに達した感があり,10GO人余の選

手が検査を受け,23人が黒の判定を受け,多くの

ドーピングの乱用振りが報道されていた。

 1976(昭51)年インスブルグ五輪では,全種目

に亘り検査を実施し,あたかも“医師のドーピン

グ五輪“の観を呈し,密室で徹夜の尿検査が続い

た。10Cの禁止リストも20数種に増え,検査も

根気を要する作業で,この検査に700万シリング

(約1億2千万円)に及ぶ巨額の費用が支出され

た。

 筋力を必要とする競技種目で,金メダルヘの特

効薬である筋肉増強剤アナボリックステロイドが

大流行し,Jペイザーが「アナポリック物質が使

用され始めたのは1960年頃からで,それを境にし

て記録も飛躍的に伸びた。男子砲丸投で11.2%,

円盤投で12.4%の伸びを示している」と発表し注

目された。

 ドーピングの定義の問題,持病薬の扱い方,I

Fと10Cの扱い方の相違轡各I Fで規制や処罰

の相違があることや,検査で使用が発見されなか

ったといううわさ,検査を逆用する陰謀の可能性,

検査方法の不公平等々の問題が次々と出現して来

た。ところが一方では“適量の筋肉増強剤なら肉

体的に完成した選手に害はない“という解禁論や,

東欧圏では医師団が指名され,ステ・イド使用の

監督に当っているが,西欧諸国はスポーツ倫理に

ついて感傷的な論議で禁止を主張する。現実の選

手はこっそり服用し,量を誤まる結果を招くこと

になる,という声などが出て,10Cも多くの難

題をかかえ苦慮しているのが現状である。

 今後も五輪や世界選手権大会は,ドーピングで

悩み続けることであろう。10CとI Fも協力体

制をより強め,これρ)の課題を早く解決し統一さ

れた対策で防止に当るよう急ぐべきであろう・

 注1 黒田善雄:スポーツ選手とドーピンゲ1か

1980-12

  らだの科学89号

注2 スタインバッハ博士が「男性ホルモンは人

  によって体重は2%,腕の筋は4%,足の筋

  は3.5%増加する。」と発表。10代で常用する

  と骨の成長が早く止り,身長が伸びずに,女

  性は男性化する。「男性ホルモンは過大視され

  ている。単に心理的なものに過ぎない」とい

  う発表もあった。

注3 検出されたのは,ヒ・ポン系のアンフェタ

  ミンとフェニールセラミンといわれた。これ

  は疲労感をなくし,緊張を高め限界ギリギリ

  の力を発揮させるというが,常用すれば,精

  神分裂症などの症状を招くという。

注4 体内に肛門から圧搾空気を注入するという

  もので,選手は害がない事を約束されて実験

  を受けた。結局,「競技で効果をあげるほど長

  い時間,体内に空気を蓄えることが出来ない」

  ことで中止された。

注5 選手の血液の告ぐらいを抜きとり,冷凍保

  存する。1ヶ月後に保存血を補給する。増血

  作用と相まって,赤血球が増え持久力が25%

  向上,トレッドミルで実験結果,耐久時間が

  採血前5分7秒が,7分17秒まe・伸びたとい

  う。

注6 近代五種競技では精神安定剤のトランキラ

  イザーを禁じているが,IOCでは禁止リス

  トに含まれていなかった。

V.あとがき

 商業主義とスポーツの絡まりの問題は,各競技

種目ごとにその実例をくまなく拾いあげれば,拾

い切れない程であろう。またこれらの問題の他に,

最近のスポーツ界で注目を浴びているものに,ス

テートアマや奨学金アマといわれる話題も無視出

来ない問題である。また,今回の諸問題の推移と

関連した,10Cのアマ規定や五輪参加資格規定

改正の動きなど,さρ)に国際スポーツ界の動きを

ふまえた,日本体育協会のアマ規定改正の経緯に

ついてもとりあげる積りでいたが,紙面の制限で

割愛し次回にこれらを総括することにした。

 現代の商業主義の問題の底には,資本主義社会

のスポーツがなり振り構わず商業主義に依存しな

いと,社会主義社会のスポーツに対抗出来なくな

ったことも考えられよう。ナショナリズムや金メ

ダル主義が続く限i),今後のスポーツと商業主義

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鈴木 勝衛:現代スポーツσ)諸問題 111

とのかかわりは益々強まるであろうし,それは時

代の流れで押し止めることは出来そうもない・こ

のままでは,高度化と商業主義の攻撃におびやか

され,アマスポーツそのものの存在価値も失うよ

うな危険性がある。

 五輪大会が巨大化し,虚飾化するほど,五輪が

虚像化し,そこに現れるあくどいナショナリズム

と金メダル至上主義が,現代スポーツにまつわる

諸悪の根源となる。これは世界のスポーツ界が真

に考え直す他に道はなかろう。

 どこまでアマチュアリズムのために一線を画す

か,また,現代スポーツは多様化時代とはいえ,

アマの解釈が国により差異があ1),競技種目や選

手によっても異るところがあり,どこに線を引き,

どう規制するかについても出来るだけ明確にする

必要があろう。

 現在のスポーツは,選手をと1)まく周辺に多く

の問題を抱え,苦悩に陥入っている。10CやI

Fが万策尽きて圧力に屈したら,古代五輪が消え

た轍をふむことになり由々しき問題である・

 I OCが当面している山積の問題を,I Fと協

調に立って機能的に処理していくには,年1回を

定例とする総会丈では,本当に機能的に処理する

ことは困難である。組織内に,問題別の専門特別

委員会を構成し,それに権限を支え機能的に処理

していくような対策を急ぐべきであろう。

参 考 文 献

1.朝日新聞:昭和30年1月~昭和53年12月1朝

 日新聞社。

2.NHK海外取材班1スポーツと社会:日本放

送出版協会。

3.ジェフリー・ミラ著・宮川毅訳:オリンピッ

 クの内幕1サイマル出版会。

4.ミ・ッチェナ一著・宮川毅訳:スポーツの危機,

上・下:サイマル出版会。

5.川本信正:スポーツの現代史1大修館書店。

6.日本体育学会編:体育の科学,25-2:体育

 の科学社。

7.吉利和他監修:からだの科学,第89号1日本

評論社。

Contemporary Problems on Sports

一Amateurism in Anguish一

Katsuei SuzuKl

 Baron de Coubertin,when he advocated the revival of the Olympic Games,was confronted with

serious problems,the most difficult of which was amateurism.The late Mr.Avery Bmndage,for-

mer president of the IOC,stated with grief that the more successful the Olympic Games proved,

the opportunities commercialism and politics had to intervene in the Olympics.It cannot be de-

nied that whenever the Olympic Games and world championships are held,such problems as am-

ateurism,commercialism,politics,etc.always follow to be solved.

 This paper takes up some of the problems on amateurism,and traces how they have come about

and what they are within the scope of the press.The items discussed in this paper,which are

chiefly based on the accounts of fh8、45αh4are as follows.

   I Problems on Commercialism

1.Skiing and Trademarks

2.Schranz,Karl’s Disqualification

3. Spiked Shoes Strife

4.Too Substantial Rizes for Winners

5.Clay Pigeon Shootlng and Amateurism

Page 12: 現代スポーツの諸問題 - 福島大学ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002339/7-181.pdf · 予想される暗雲たなびき,札幌五輪が大混乱の恐

112 福島人学教育学部論集第32弓・び)3 1980-12

     II Growing Discussions on the Participation of Professional Players

L The History of the Participation of Professional Tennis Players

2.Much-disputed Olympic Footbal1

3.Movement in Other Sports

     III Problems on Dnlg Abuse

1.The Actual Conditions of Drug Abuse

2、The Measures of the IOC and the ISF Taken to Check Drug Abuse

  Nationalism and the emphasis on a gold medal count,which have shown themselves expllcitly

in the Olympic Games,are the chief cause of every trouble on amateur sports.Drastic and careful

reconsideration may be the only course open to the sporting world.

  It is indisputable that the IOC has now too many problems to solve,and its regular general

assembly cannot possibly meet the situation,when it is held only once a yeaL It may be con-

cluded that the IOC and the ISF stand in immediate need of making united efforts as soon as

possible and organizing special committees which have broad powers to solve every problem sys-

tematically and functionally、

                                                             (1980年9月10日  受理)