放射線化学若手の会「夏の学校」事始 ·...

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100 号記念特集〉 I 回顧録 放射線化学若手の会「夏の学校」事始 元日本原子力研究開発機構(現放射線利用振興協会)  南波 秀樹 放射線化学会誌が 100 号を迎えるという.私が放射 線化学と関わりをもってから,もう 40 年以上たつと 考えると,いまさらながら年のたつのが早いことに驚 かされる. 「放射線化学若手の会」の発足は,今からちょうど 40 年前の 1975 年の都立大での放射線化学討論会にさ かのぼる.それ以前から,放射線化学討論会や日本化 学会の年会等の場で議論を交わし,顔見知りとなって いた放射線化学関係の研究室の大学院生達の間で,連 絡しあえる場を作りたいという話があった.都立大で のキックオフの発起人は,京大の桑島 聖さんと東工大 の石川 洋一さんだったと記憶している. 若手の会の発足にあたり,規約を作り,事務局を定 め,ニューズレターを発行することが決まった.最初 の事務局は東大工学部の田畑研だった.日本放射線化 学会(当時私たちは,若手の会に対して親の会と呼ん でいた)は,当初から我々の活動に対して好意的で, 若手の会支援金として学会の予備金から 1 万円を補助 してくれた. 若手の会の規約に関し,助手(現在の助教)を含め るべきかどうかが議論になった.当時のメンバーは 皆,生意気ざかりであったこともあり,助手はもう若 手とは呼べないのではないかという意見が強く,助手 は除くことになった.これが問題になったのは,主要 メンバーの一人だった東大の勝村 庸介さんが,大学 院の博士課程を中退して助手に採用された時だった. 1977 年の北大での討論会の時に,若手の会のメンバー が集まった夜の集会(飲み会)で,勝村さんが「やめ たくはないのだが,規則ですので退会します」と発言 したことを思い出す.この後規約を改正し,「自らを 若手と任ずる者」とすることになった. Beginning of the Summer School for Young Scientists in Radi- ation Chemistry Hideki Namba 370–1207 群馬県高崎市綿貫町 1233 E-mail: [email protected] 東大から事務局を引き継いだのは東工大の籏野研 で,私が事務局長(連絡係)を務めることになった. 1978 年の夏に,オイルショックに端を発した電気料金 の高騰で,東工大では夏の一時期(確か 1–2 週間)完 全に大学を閉める(ロックアウトする)というアナウ ンスがなされた.今では夏のある期間,大学や研究所 が一斉に休業するということは決して珍しくないが, その時は初めてのことでもあり,かなりショックな出 来事だった.そこで,どうせ大学に来られないのなら, 外で合宿でもしようかという話になり,若手の会のメ ンバーに声をかけて,「夏の学校」をやろうと決めた. 会場については,東工大の合宿研修所(茨城県大洗町 大貫角一)に狙いをつけた.合宿研修所は,本来学内 の部活や研修に使うためのものということだったが, どんな理屈をつけたか今では思い出せないが,大学の 事務方との交渉もうまくいき,全室借り切ることに成 功した.このため,食費,宿泊費等の参加費はほとん ど気にしなくて良くなった.さらに親の会に援助をお 願いしたところ, 4 月の理事会で「夏の学校支援金」と して 2 万円をいただけることになり,講師の旅費と謝 金を確保することができた.講師には東工大応用物理 学科の佐藤 伸先生に放射線化学の創成期の話をお願い した.謝金を差し出すと,「これは飲み代に」と言って そのまま渡してくれたことを昨日のことのように思い 出す. 初めてということもあり,スケジュールはそれほど 厳密には決めなかったが,現在の夏の学校よりも,若 手の会のメンバーが自分たちの研究紹介や討議をす る時間を長く取ったと思う.大洗の海水浴場まで歩い て数分という地の利もあって,昼間の一番暑い時間帯 は海水浴にあて,朝・夕・夜が,夏の学校の開講時間 というゆるいスケジュールだった.夜が更けると例に よって宴会となった.マージャンの卓を囲むグループ もあった. 放射線化学 100 (2015) 11

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Page 1: 放射線化学若手の会「夏の学校」事始 · 放射線化学若手の会「夏の学校」事始 元日本原子力研究開発機構(現放射線利用振興協会)

〈100号記念特集〉 第 I 部 回 顧 録

放射線化学若手の会「夏の学校」事始

元日本原子力研究開発機構(現放射線利用振興協会) 南波秀樹

放射線化学会誌が 100号を迎えるという.私が放射線化学と関わりをもってから,もう 40 年以上たつと考えると,いまさらながら年のたつのが早いことに驚かされる.「放射線化学若手の会」の発足は,今からちょうど

40年前の 1975年の都立大での放射線化学討論会にさかのぼる.それ以前から,放射線化学討論会や日本化学会の年会等の場で議論を交わし,顔見知りとなっていた放射線化学関係の研究室の大学院生達の間で,連絡しあえる場を作りたいという話があった.都立大でのキックオフの発起人は,京大の桑島聖さんと東工大の石川洋一さんだったと記憶している.若手の会の発足にあたり,規約を作り,事務局を定

め,ニューズレターを発行することが決まった.最初の事務局は東大工学部の田畑研だった.日本放射線化学会(当時私たちは,若手の会に対して親の会と呼んでいた)は,当初から我々の活動に対して好意的で,若手の会支援金として学会の予備金から 1万円を補助してくれた.若手の会の規約に関し,助手(現在の助教)を含め

るべきかどうかが議論になった.当時のメンバーは皆,生意気ざかりであったこともあり,助手はもう若手とは呼べないのではないかという意見が強く,助手は除くことになった.これが問題になったのは,主要メンバーの一人だった東大の勝村 庸介さんが,大学院の博士課程を中退して助手に採用された時だった.1977年の北大での討論会の時に,若手の会のメンバーが集まった夜の集会(飲み会)で,勝村さんが「やめたくはないのだが,規則ですので退会します」と発言したことを思い出す.この後規約を改正し,「自らを若手と任ずる者」とすることになった.

Beginning of the Summer School for Young Scientists in Radi-ation ChemistryHideki Namba〒370–1207群馬県高崎市綿貫町 1233E-mail: [email protected]

東大から事務局を引き継いだのは東工大の籏野研で,私が事務局長(連絡係)を務めることになった.1978年の夏に,オイルショックに端を発した電気料金の高騰で,東工大では夏の一時期(確か 1–2週間)完全に大学を閉める(ロックアウトする)というアナウンスがなされた.今では夏のある期間,大学や研究所が一斉に休業するということは決して珍しくないが,その時は初めてのことでもあり,かなりショックな出来事だった.そこで,どうせ大学に来られないのなら,外で合宿でもしようかという話になり,若手の会のメンバーに声をかけて,「夏の学校」をやろうと決めた.会場については,東工大の合宿研修所(茨城県大洗町大貫角一)に狙いをつけた.合宿研修所は,本来学内の部活や研修に使うためのものということだったが,どんな理屈をつけたか今では思い出せないが,大学の事務方との交渉もうまくいき,全室借り切ることに成功した.このため,食費,宿泊費等の参加費はほとんど気にしなくて良くなった.さらに親の会に援助をお願いしたところ,4月の理事会で「夏の学校支援金」として 2万円をいただけることになり,講師の旅費と謝金を確保することができた.講師には東工大応用物理学科の佐藤伸先生に放射線化学の創成期の話をお願いした.謝金を差し出すと,「これは飲み代に」と言ってそのまま渡してくれたことを昨日のことのように思い出す.初めてということもあり,スケジュールはそれほど厳密には決めなかったが,現在の夏の学校よりも,若手の会のメンバーが自分たちの研究紹介や討議をする時間を長く取ったと思う.大洗の海水浴場まで歩いて数分という地の利もあって,昼間の一番暑い時間帯は海水浴にあて,朝・夕・夜が,夏の学校の開講時間というゆるいスケジュールだった.夜が更けると例によって宴会となった.マージャンの卓を囲むグループもあった.

放 射 線 化 学 第 100号 (2015) 11

Page 2: 放射線化学若手の会「夏の学校」事始 · 放射線化学若手の会「夏の学校」事始 元日本原子力研究開発機構(現放射線利用振興協会)

南波秀樹

写真 . 1983年に野辺山(長野県)で開催された第 6回の若手の会「夏の学校」参加メンバー.後ろに写っているのは野辺山天文台の電波望遠鏡の台座.

一番遠方からの参加者は京大原子炉の伊藤 義郎さん,一番近かったのは鷲尾方一さんをはじめとする東海村の東大のメンバーだった.当時東海村の東大工学部附属原子力施設では,ライナックが設置され,パルスラジオリシスの研究が始まったところで,意気盛んであった.その後,若手の会の夏の学校は恒例行事となって

毎年開催されることになった.親の会からの援助も10万円に増額され,第 3回からは,放射線化学会誌に開催報告がかかさず掲載されるようになった.第 3回は 1980年に軽井沢の国民宿舎「軽井沢高原

荘」で行われた.私はこの年に大学院を卒業し,原研高崎研に職を得ていた.近場での開催ということもあって,高崎研の中の新しい仲間(河西俊一さんや小嶋拓治さん)達にも声をかけて参加した.講師は化学

技術研究所の立矢 正典氏と山梨大学の平岡 賢三先生だった.講師という位置づけではなかったが,東京大学の田川精一先生も参加していた.例によって,夜の懇親会では,昔話を含めた仲間達のエピソードで盛り上がったのを思い出す.この時の夏の学校を担当した事務局長は都立大の橋本修一さんで,後に群馬高専に赴任したため,群馬でも関係が続くことになった.この年の夏の学校は,個人的にも忘れられないものだった.それは,病床に臥せっていた父を見舞ってその足で夏の学校に参加したものの,最終日に危篤と聞いて雨の中,車をとばして病院に駆けつけ,そのまま臨終に立ち会うことになったからである.あの頃の仲間達がその後の放射線化学会の中枢を担っていくようになったと考えると,37年前に夏の学校を発案した当事者として,感慨深いものがある.

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