續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末...

22
九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 続・初唐歴史家の文学思想 古川, 末喜 鹿児島県立短期大学 : 講師 https://doi.org/10.15017/9763 出版情報:中国文学論集. 10, pp.19-39, 1981-11-01. The Chinese Literature Association, Kyushu University バージョン: 権利関係:

Upload: others

Post on 09-Aug-2020

6 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

続・初唐歴史家の文学思想

古川, 末喜鹿児島県立短期大学 : 講師

https://doi.org/10.15017/9763

出版情報:中国文学論集. 10, pp.19-39, 1981-11-01. The Chinese Literature Association, KyushuUniversityバージョン:権利関係:

Page 2: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

・初唐歴史家

の文學思想

本稿は、昨年、『中國文學論集』第九號に發表

した

「初唐歴史家の文學思想ー

太宗期編纂の前代史文苑傳序を

心にー

」(昭和五十五年十

一月

一日)の續編である。ここに取り上げよう、と

する中國七世紀前半の、唐初の史

たちが南北朝の各前代史の文苑傳

・文學傳の中で述べた序や論は、おおむね次の三

つの部分から成

っている。郎

ち、④主に文章の働きを述べた冒頭の紹論的な部分、⑬具體的な各時代の文學史を叙述した部分、⑥中間及び末尾

の詩文發生論

・創作論等の文學論を吐露した部分、の三つである・從來・文學批評史の籍

酔そ

の唐代

の章の開巻

を飾るものとして、これら唐初の史官たちの文學

への發言をしばしぼ取り上げてきたが、その位置づけは專ら盛

中唐の古詩

・古文思想の淵源をなすもの、從

って六朝文學論とは訣別したものとしてであつた。と同時にその場合

.初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

19

Page 3: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

そうした論著が根捺としたのは、主

に史官たちの④⑨の資料であった。しかしながら前稿

において筆者はむしろ、

唐初史官たちの文論が軍純に、六朝文學論と断絶して盛

・中唐

の古詩

.古文思想に連續するものではないことを指

よ・逆に彼らの詩文發生論

・創作論等の文學論が實は六朝文學論の延長であ

ったことを論證した。そしてその論

證は主として從來注目されることの少なかった資料の⑥の部分に擦

ってであ

った。

本稿ではさらに、從來盛

・中唐の文學思想

へ連續するものとみなされてきた資料の④⑧の部分

についても、それ

全く逆であること・すなわちそれらが六朝文學論と同質であることを論證するつもりである。も

し、このように

初史官たちの文論が、どの面でも六朝文學論の延長であることが明らかになれば、今までおお

かた唐の復古思想

の系譜として梁の斐子野、北周の蘇紳、晴の李誇、王通、初唐の歴史家、初唐の四傑、陳子昂、盧藏用、盛

.中唐

の古詩古文家等をつらねて理解されてきた批評史の系譜はなんらかの修正が必要となるであろう。本稿ではこうし

た從前の批評史にも再検討を加えてみるつもりである。

論述の順序としてはじめに④の部分、すなわち主に文章の機能を述べている部分を検討し、

つぎに③の部分、す

なわち文學史観について考察する。

20

唐初の史官たちは皆、文苑傳

・文學傳の序や論の冒頭で文章の機能について述べている。その中

で誰もがまず言

するのは、次にあげるように文章の宇宙包括性と敏化性との問題についてである。

Page 4: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

(文は)風俗を王化に移し、孝敬を人倫に崇び、乾坤を経緯し、中外を彌論す。

(『巫日書』文苑傳序)

然らば禮樂を経めて國家を緯め、古今に通じて美悪を述ぶるは、文に非ざれぽ可なること莫

きなり。

(『梁書』文學傳序)

禮樂を経め、人倫を綜べ、古今に通じ、美悪を述ぶるに至

っては、此

(文學)より尚きは莫

よ。

(『陳書』文學傳序)

夫れ文學なる者は、蓋し人倫の基づく所か。

(『陳書』文學傳史臣論)

幽顯の情を達し、天人の際を明らかにするは、其れ文に在るか。三古を遜聴し、百代を彌論し、禮を制し樂を

作り、實を騰げ聲を飛ばす。若し或は言の文ならずんば、豊に能く之を遠きに行はんや。

(『北齊書』文苑傳序)

故に

(文は)能く天地を範園し、人倫を綱紀し、神を窮め化を知りて・首

を千古

に稻

し・邦を緻、め俗を織め

て、用を百代に藏す。

(『周書』王褒庚信傳論)

(文は)上は徳教を下に敷く所以、下は情志を上に達する所以にして、大なるは則ち天地を継緯

め、訓を作り

範を垂れ、次なるは則ち風謡歌頒、主を匡し民を和す。

(『階書』文學傳序)

要するにここで史官たちは、文章の機能を次のように考えているのである。すなわち文章は、一天地問の

一切をそ

の中に取りまとめ、組織だてて統べ治める。ニ禮樂を制定し、鑑戒を作るなどによって、帝王が儒教倫理の秩序世

界に人閲紅會をつくりかえることを可能

にする、と。實際

にはこの一とニとは切り離せず、■は且ハ體的な人間社會

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

21

Page 5: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

ではニを意味している。

當然ながらこのような文章の宇宙包括性と教化性の機能は、なにも唐初の史官だけに特有のも

のではない。これ

を初めて言

い出したのは先秦時代の儒教の経典や漢代の儒家たちであろうが、魏巫日六朝

の修僻主義派とみなされて

いる文人たちもよぽしぼこうした發言をしている。たとえば、中國文學批評史上最初

の系統的專論的な文學理論の

作品である

「文賦」を書

いた晋

の陸機は、そのなかで、

伊れ絃の文の用爲るや、固より衆理の因る所なり。萬里に恢がりて閨無く、億載に通じて津

を爲す。傭しては

則を來葉簸

し・仰いでは象を古人に観る・文武を將に墜ちんとする録

い、風聲海

びざるに欝

。…

と述べ・大いなる

〈文の用〉を宣揚よた。またアナクロニズ

ムの尚古主義を批到し、今の文章が古の文章に勝ると

して文章の形式美を是認した東晋の葛洪は、

一方で、

(文は)風俗の流遮・世塗の凌夷姦

い・疑者の路藩

わせ、貧者

の乏しきを睡

わすこと能

はずんば、何ぞ春

華の肴糧の用を爲さず、芭意の氷寒

の急を救わざるに異ならんや。

(『抱朴子』僻義篇)

と述べ・文章

の教化性を決してゆるがせにはしなかった。南朝の末期では、劉魏も

『文心離龍』

のなかで、

然る後

に能く厘宇を経緯し、葬憲を彌論し、事業を發揮し、群義を彪嫡す。故に知る、道は聖に沿

って以て文

を垂れ・聖は文

に因って道を明らかによ、労く通じて滞ること無く、日に用いて置きざるを。

(原道篇)

と述べ・『文選』を編纂した昭明太子薫統も、陶淵明の文章を、「此れ亦た風教に助け有るなり」(「陶淵明集序」)な

どと評している。また昭明太子の弟で、艶情詩を中心に

『玉毫新詠』を徐陵に編せよめた簡文帝薫綱も、

22

Page 6: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

文籍生じ、書契作られ、詠歌起

こり、賦頬興るや、孝敬を人倫に成し、風俗

を王政

に移す。道は八極

に郷な

り、理は九核

に波し。

(「昭明太子集序」)

と述べ、さらにその弟の元帝薫釋

『金櫻子』(立言篇)のなか

で、「其の美なる者は、以て情志を叙し、風俗を敦

くするに足る」(知不足齋本)と言

う。ま

た北周の宇文適は、徐陵

ととも

「徐庚」と稻された庚信の文集に序し

て、詩歌の功用を、

途くて能く孝敬を弘め、人倫を叙し、風俗を移よ、天下を化す

(「庚信集序」)

と述べている。このように儒教國家の封建中國では儒家

に限らず、いつの世でも何れの塵で誰でもがこうよた發言

をするのが常であり、從

って史官たちのさきの發言を何か特別な意味を持つものとみたてたり、さらにそのことか

らただちに盛

・中唐

の古詩

・古文運動につなげたりするのは愼重を要すると言わねばならない。

ころで初唐

の史官たちは、しばしば

『春秋左氏傳』の

「言之無文、行而不遠」(裏公二十五年)の言葉を引用す

る。

行なわるとも遠からずとは、前史

の格言なり。

(暴日書』文苑傳序)

若し或

いは言の文らずんぽ、豊

に能く之を遠き

に行なはんや。

.

(『北齊書』文苑傳序)

傳に曰く、「言は身の文なり。」「言ふも文らずんば、之を行なふも遠からず。」

(『階書』文學傳序)

文章の修僻性を強調する場合、この左傳の文句はいつでも引合いに出されるように、ここでも唐初の史官たちは左

の言葉をふまえて、彼らが考えた文章の作用の中の重要な

一つとして、文章の修僻性を強調よているのである。

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

23

Page 7: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

唐の古文家たちの中にも、例えば李観

(「與右司趙員外書」)や李翔

(「答朱載言書」)など、

こうした發言をよない者が

ないではないが、それはほとんど例外的である。文章

の修僻性が強調され重親された時代は、なんといっても魏奮

六朝の時代であ

った。陸機が

「文賦」で本格的な修僻論を展開してより、劉魏

『文心雛龍』、とりわけ專ら交章

修僻學を取り上げ文章における修僻

の必然性を理論的

にも裏づけた

「情采篇」に至

って、それは極點に達よた。次

節で詳述するように、唐初の史官たちが

この文章の修僻性を強調したのは、實はそうした南朝文學論

への傾斜を意

味していたのである。

唐初の史官たちが文章の機能を敷えあげる場合、その最も顯著なものは、以上述べきたった交章の宇宙包括性馬

教化性、修僻性の三つであろう。そしてこうした

〈文の用〉の背景にある

一つの観念が

"天文人文説μである。史

官たちはしばしば

『易経』(責卦象僻)の言葉を引いて次のようにいう。

に曰く、人文を観て以て天下を化成す、と。

(『陳書』文學傳序)

夫れ玄象、著明にして、以て時攣を察するは、天文なり潭聖達、言を立てて、天下を化成す

るは、人文なり。

(『北齊書』文苑傳序)

爾儀

位を定め、日月暉きを揚げて、天文彰かなり。八卦以て陳かれ、書契、作る有

つて、人文詳かなり。

(『周書』王褒・庚信傳論)

に日く、天文を観て以て時攣を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。

(『晴書』文學傳序)

この

"天文人文説"は、〈文の用〉

の偉大さを確認する時の常套的な言い方であるが、それは文章の教化性をみち

24一

Page 8: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

びき出す

一つの根擦でもあり、また

〈文の用〉全體を哲學的

に基礎づける

一つの観念でもある。

このような

"天文

人文説"は、これまた唐初の史官たちが始めて言い出したものではない。彼ら以前にも例えぽ次

のような發言を見

出すことができる。劉粥は

『文心離龍』において、

髪に風姓より孔子に聾ぶまで、玄聖典を創め、素王訓を述ぶるは、道心に原づきて以て章を敷き、紳理を研め

て教を設けざるは莫し。象を河洛に取り、敷を著鶉に問い、天文を観て以て攣を極め、人文を察よて以て化を

成す。……

(原道篇)

とあり、薫統は

『文選』の序で、

伏義氏の天下に王たるに逮びて、始めて八卦を書き、書契を造りて、以

て結縄の政

に代

ゆ。是れ由り文籍生

ず。易に曰く、天文を観て以て時攣を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。文の時義遠なるかな。

と述べ、薫綱はその兄薫統

『昭明太子集』の序

において、

に易

に曰く、天文を観て以て時攣を察し、人文を観て以て天下を化成す、と。……文籍生じ、書契作られ、

詠歌起

こり、賦頬興るや、孝敬を人倫に成し、風俗を王政に移す。道は八極に綿なり、理は九壊に挾し。神明

を賛動し、鍾石を雍熈す。此れ之を人文と謂ふ。……

(「昭明太子集序」)

と述べた。これらは

『易経』の言葉を根擦

にしてはいるも

のの、彼らが

いう時

「人文」とは

「人間のあやである

(3

)

詩歌

・文章」の意であり、もはや

『易経』の思想そのままではない。とくに

『文心雛龍』の場合は、劉魏濁特の形

而上的世界観と結び

ついている。實は唐初の史官たちの

"天文人文説"は、こうした南朝末に流行

していたと思わ

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

25

Page 9: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

(4)

"天文人文説"をそのまま借りてきたと言えそうである。

以上に述べきた

ったように、唐初の史官たちは文苑傳

・文學傳の序や論の冒頭で文章の種々の機能を確認しては

いるが、六朝の装子野、李譯や唐

の古文家らのように文學の政治的社會的功用性をストレートに主

張したのでもな

く、そのことによ

って文章はかくあるべしなどという

一つの規範を設けたのでもないよ、またそう

した事自體が結

でもない。むしろ文章の機能を確認することを出發點にして

〈文の用〉の偉大さ、從

って文章

それ自體の偉大さ

を顯彰する方向に文脈は蹄着する。そして、なかんずく『替書』文苑傳序、『晴書』文學傳序は、そ

うした文章の偉

大さを最も顯著に表現したものである。すなわち

『晴書』は、「然らば則ち文の用爲る、其れ大なるかな」と述べ、

『暦書』文苑傳序は冒頭の

一段を、「故

に知る、文の時義、大なるかな遠なるかな」と結ぶ。そよてこのような文章

の偉大さを顯彰する表現は、南朝文論の次のような記述、

文の徳爲るや、大なり。

文の時義、遠なるかな。

に以

へらく、文の義爲る、大なるかな遠なるかな。

(『文心雛龍』原道篇)

(薫統

『文選』序)

(瀟綱

「昭明太子集序」)

%

をふまえていると考えてよい。

さらに

『梁書』文學傳序、『陳書』文學傳序、(『南史』文學傳序)、『晴書』文學傳序は、そのよう

に文章が偉大な

のであればこそ、嘗ての爲政者たちも

〈文〉を重覗したのである、と結論づける。たとえば

『梁書』文學傳序

は、

Page 10: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

是を以て天下に君臨する者は、敦く其の義を悦ぽざるは莫く、緕紳

の學は、威な其

の道を貴尚す。

(『梁書

』文

學傳

序)

と述べ「『晴書』文學傳序は、

是を以て凡百の君子は、心を用ひざるは莫し。

と、冒頭の

一段を結ぶ。

このように文章

の機能を確認することから出發よて、文章

の偉大さを顯彰し、さらに嘗て

の爲政者たちがその故に文章を重視した、と結論づけるロ吻には、だからこそ新しい唐王朝も決

して文章を輕覗す

べきではないという新國家の文教政策に封する唐初の史官たちの言外の主張を感じとれるようである。もしも唐初

の史官たちの文苑傳、文學傳の序や論が、「建立まも

い唐帝國の文學に封する切迫した要求を反映して

いる」

(復旦大學中文系古典文學教研組上掲書二二三頁)とするならば、「文學は政教のために服務すべきであるという主張」

(同上)の方向ではなく、まさに上述

の點

にこそその主張を求めるぺきであ

ったのではあるまいか。

文學史観の問題は、唐初の史官たちの文學思想を論じる者ならば誰しもが取り上げるものであるが、薔來の研究

には

一つの大きな誤解があ

ったようである。それは唐初の史官たちの南朝文學に封する評債が、決して南朝文學全

にわたっての全面的な批剣ではなく、南朝も末期のある種

の文學に樹する極めて限定的な批到

であ

ったことであ

る。『北齊書』文苑傳序は、梁末

の文學情況に

ついて

「江左の梁末、彌よ輕瞼を爾ぶ。始めは儲宮自りし、流俗に

27

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

Page 11: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

刑る。浩…濫

を雑えて以て音を成す。故に悲しむと錐も雅ならず」というように、簡文帝

(薫綱)の東宮から流行し

だした宮體詩の類を、また北齊末のそれについては後主緯が好んだ「近代輕艶

の諸詩」を、それぞれ「倶

に淫聲を騨

し」「並に亡國の音爲り」として、その

「爾朝の叔世」を批到している。しかし彼ら

は、魏

・巫日及び宋

・齊

・梁

陳の南朝文學全般にわたって、何らかの其體的論評をしているわ

ではな

い。ま

『周書』王褒

・庚信傳論は、

「梁の季に盛行し」北周王朝にも流行していた庚信體の文章に

ついて、「その體は淫放を以て本と爲し、その詞は

輕瞼を以て宗と爲す」と批剣し、さらには爾者を

「詩賦の罪人」とまで手嚴しく決めつけている。しかしその文學

史論は、まず

「聖人の述作」と諸子百家の文章を別格扱

いで述べたあと、漢

・魏

・否

に高い評債を與え、その後五

胡十六國時代

・北魏

・北周についておおむね肯定的な論評を加えているだけで、東奮以降、宋

・齊

・梁

・陳の南朝

文學

について具體的に論及しているわけではない。

こうした南朝文學を限定的に批到する文學史論を、さらに鮮明に打ち出しているのは

『晴書』丈學傳序である。

『晴書』は梁の武帝の末年、部ち大同年間より以降を

「雅道倫訣し、漸く典則

に乖き、孚ひて新

巧に馳す」と否定

的に述べ、とりわけ簡文帝

・湘東王

・徐陵

・庚信ら梁

・陳

の文章を

「其

の意は淺

にして繁、其

の文は匿にして彩「

詞は輕瞼を尚び、情は哀思多し」と酷評して「亡國の音」と噺罪する。その否定

の論調は痛烈

であ

る。そし

て該書

は、そうよた梁

・陳の餘波をうけた北周文學をも同様に「流宕して反るを忘れ、取裁する所無し」と手嚴しく批剣す

る。ところがその批剣は、あくまで梁末から流行した宮體、徐庚體

の詩

についてだけであり、決

して南朝文學全般

についてではない。むしろそれ以外

の南朝ないよ北朝文學については、次のように高b評贋を與えているのである。

28

Page 12: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

永明

・天監の際、太和

・天保

の間に聾びて、洛陽

・江左は文雅尤も盛んなり。時に干ひて作者は、

藩陽

・呉郡の沈約

・樂安の任肪

・濟陰の温子昇

・河間

の刑子才

・鈍鹿

の魏伯起等。並びに學は書圃を窮

め、思ひは

人文を極め、褥繰は雲霞より欝く、逸響は金石より振ふ。英華は秀發し、波瀾は浩蕩

し、筆

には力を餘

す有

り、詞には源を端くす無し。諸を張

(衡)・票

(琶)・曹

(植)・王

(集)に方ぶれぽ、亦た各

一時の選なり。

=

ここでは齊

の永明年間から梁武帝の前半

の天監年間、北魏

の太和年間から北齊の天保年間の時代

に活躍した江掩

沈約

・任防

・温子昇

・那郡

・魏牧らを絶貸に近

い言葉で稽揚している。とくに梁の武帝の時代の文學について、、こ

とさら前半と後半で評贋をは

っきりと逆轄させているのは、

こうした

『晴書』

の南朝文學

への態度を端的

に物語

てありあまるものがある。

この點では

『晴書』経籍志

の集部紹論もこ

『晴書』文學傳序と軌を

一にす

る。『晴志』集部総論は、文の本源

から説き起

こし、先秦

・漢

・魏

・巫日より、東否

・宋

・齊

・梁

・陳

の南朝、及び北魏

・北齊

・北周

・晴

の北朝までの

時代

の全交學史を、簡潔ではあるがもれなく批評した

一篇

の好文學史論である。すなわち

『晴志

』集部総論は

『詩

』『楚僻』以降をほぼ肯定的に評贋し、前

漢では嚴助

・郷陽

・枚乗

・司馬相如、後漢では張衡、魏では王簗、西

では潘岳

・陸機らを代表的な文人と

して取り上げる。とくに潘岳

・陸機

への評贋は高く、「並びに糊藻は相ひ輝

、宮商

は間起し、清群

は金石を潤し、精義は雲天に薄る」と手ぽなしで稔賛する。宋

・齊から梁初までは、謝霞

・顔延之、謝眺

・沈約らの名をあげ、それぞれ、

霊連の高致の奇、延年の錯綜

の美、謝玄暉の麗藻、沈休文

の富濫、輝換、斌蔚として、僻義観るべし。

續・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

・29

8

Page 13: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

と、これもまた非常に高い評便を與える。ところが梁の簡文帝が始めた宮體詩の時點から、そうした南朝文學

への

定的評債は

一攣して、「清僻巧制も、柾席の問に止

まり、雛琢蔓藻も、思ひは閨閲の内

に極く。…:・流宕して已

まず、喪亡に詑ぶ」と否定的評償に攣り、同様に陳

の文學についても

「陳氏之に因り、未だ全攣する能はず」と批

到するに至る。このように

『晴志』集部縫論も、永明體をふくめた南朝文學をほぼ全面的に肯定し、梁末以降

の宮

體文學だけを批剣しているのである。

これらの

『晴書』の宮體批剣は、同じく魏徴が

『梁書』本紀総論において、

簡文帝を

「然れども文は盤にして用は寡なく、華によて實ならず、體は淫麗を窮め、義は疏通すること牢し」と批

したのと正に符合する。

さらに

『梁書』文學傳序

・『陳書』文學傳序になると、『北齊書』『周書』『晴書』にくらべてよ

一層南朝文學の

肯定

へと傾斜する。『梁書』は、武帝とその宮廷文壇を、

高租は聰明文思にして、匿宇に光宅し、儒雅を労求して、異人を詔採し、文章の盛、燥乎と

して倶に集る。毎

に御幸する所、親ち群臣に命じて詩を賦さしめ、其の文の善き者には、賜うに金畠を以てし、閥庭に詣

って賦

頬を献ずる者は、或

いは焉を引見す。

と全面的に稽賛し、『陳書』に至

っては、艶麗な文學に遊びほうけて亡國の主と

して悪評高

い後主をも、かえ

って

毎に臣下の表疏し、及び賦頒を献上する者は、躬自ら省覧す。其

の、僻に工なる有らば、則ち神筆もて賞激

し、其の爵位を加ゆ。是を以て摺紳の徒は、威な自ら働むを知る。

と稻揚したのである。

30

Page 14: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

なお

『暦書』文苑傳序は、その體裁上南朝文學に言及することはない。しかよ、潘岳

・陸機の出現によ

ってその

の六朝

の唯美文藝

の發展方向を決定した晋代文學史のあり方を、そのまま肯定的に叙述していることを最後に付

(5)

しておく。

以上のように唐初の史官たちの南朝文學に封する態度は、

一般

に考えられてきたように糖體と

して南朝文學批剣

に傾いているなどということは決してなく、むしろ逆に、その肯定と否定との範園には若干の差はあるものの南朝交

學を全體的に高く評債し、その末期の宮體や徐庚體などの淫麗な文章だけを部分的に否定すると

いう相當に南朝よ

りの文學史観

であ

ったといえる。ところでいま、そうした史家たちの文學史観を、同じ南朝文學批到

の系譜としてし

しば引き合いに出される六朝の斐子野、蘇緯、李譯、初唐

の四傑、陳子昂、盧藏用らの文學史観とくらぺてみよう。

まず梁

の装子野

について。彼

はいわゆる

「離轟論」のなかで、楚群から漢賦

へと演攣した僻賦文學を、

若し夫れ俳側芳券

は、楚騒之が組爲り。靡漫容與は、相如其の音を拍く。是れ由り聲に随い響を逐ふの傳は、

指蹄を棄てて執る無く、賦詩歌碩は百揆五車たり。

批到し、文章

の思想性をおろそかにして形式美のみを追求する道を切り開いた者として屈原

・司馬相如を非難よ

ている。また東管以降の文學、とくに宋の顔延之

・謝蟹運を、「筆幌に箴繍よ、廟堂に取る無し」と批剣

し、さら

に宋

の大明年間以降の文章を、「其

の興浮にして、其の志弱く、巧にして要な

らず、隠にして深

からず」と酷評す

る。このような装子野の南朝文學

への否定的な姿勢は、前述

『晴志』集部総論が、例えば宋

・齊時代の顔延之

謝霊運を、それぞれ

「錯綜の美」「高致の奇」と稔揚し、「輝換斌蔚とよて、餅義観るべし」と評償したのと比較し

續・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

31

Page 15: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

た場合、雨者の主張のへだたりは極めて大きい。

北周の蘇緯は、當時に流行していた餅禮文を排して、『尚書』の膿になら

った古ぶりの

「大誰」を作

ったことで

有名であるが、彼の南朝文學に封する態度は、

近代以來、文章は華靡、江左に逮んで彌よ復た輕薄、洛陽の後進は租述して已めず。

いう獲言からみることができる。彼はここで替以後

の南北朝文學を、「華靡」「輕薄」の

一言廼あ

っさりと否定し

てしま

っている。こうした蘇紳の胤暴ともいえる南朝文學全面否定の文學史観は、逆に南朝文學を全膿的に肯定し

た唐初の史官たちの文學史観とこれを同列に論ずることができないことは、もはや火を見るよりも明らかである。

の李誇は、さらに徹底して南朝の美文學を嫌悪する。唯美交藝の交才で宮吏を登用することに反野した上奏文

のなかで、彼は魏の時代を、

魏の三組は、更も文詞を尚び、君人の大道を忽せにし、雛虫の小藝を好む。下の上に從ふは、影響に伺しき有

り、競ひて文華を膀せ、邉に風俗を成す。

と指弾し、・つづけて齊

・梁時代

の文學を次

のように手嚴しく告護する。

江左の齊梁、其の弊彌よ甚し。貴賎賢愚も、唯だ吟泳に務む。途に復た理を遣れ異を存し、虚

を尋ね微

を逐

ひ、

一韻

の奇を競ひ、

一字

の巧を争ふ。篇を連ね憤を累ぬるも、月露

の形を出でず、案に積み箱に盈

つるは、

唯だ是れ風雲の状のみ。

このような激しい齊梁文學否定は、例えば同じ齊梁時代の江滝、沈約らを

「褥繰欝於雲霞、逸響振於金石、英華秀

Page 16: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

發、波瀾浩蕩、筆有餘力、詞無端源」(前出)と絶賛した

『晴書』文學傳序とは雲泥の差があ

る。

初唐

の四傑、陳子昂、盧藏用等の文學史観については嘗て論じたことがある

ので

(本誌第八號

「初唐四傑の文學思

想」一九七九年)、詳細はそれに譲り、ここではできるだけ簡略に記す

ことにする。酪賓王と陳子昂は、おおむね漢

魏巫日までの文學を評償し、南朝

の東畜ないしは齊梁以降を否定する。この齊梁文學を否定する文學史論は、おそら

く唐代を通じて最も

一般的な文學史観であ

ったと思われる。王勃、楊燗、盧藏用の文學史観は互いに微妙な違いは

あるものの、早くも楚僻文學ないしは漢代

の僻賦文學から、そのままず

っと南朝までを批到な

いしは全面的に否定

する。このように文章美を徹底して否定する極めて硬直した文學史観は、盛

・中唐の古丈家にしばしば見受けられ

(6)

る所である。とすれぽ彼らもまた、唐初の史官たちの文學史観とはきわめて大きな隔差があると言わねばならない

のである。

以上の検討から唐初の史官たちと、六朝

の斐子野、蘇緯、李謬、初唐の四傑、陳子昂、盧藏用たちとの文學史観

が、あたかも水と油のようには

っきりと異なることが明らかにな

ったはずである。そしてその違いは、輩に文學史

論の時代的作者的範園のちがいだけではない。その主張

のうらには、實はそうした文學史観のちがいを支える根本

的な思想の相異が存在するのである。結論から先に言えぽ、それ

ほ、文章

の諸

もろ

の形式美が政治、社會

への教

化、功用に有盆だと見倣すのか、或いは逆に有害だと見倣すのかの違いである。『晴書』経籍志

の総序で、

夫れ仁義禮智は、国を治むる所以なり。方技敷術は、身を治むる所以なり。諸子は経籍の鼓吹爲り、文章は乃

ち政化

の翻献、皆な治の具爲り。

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

33

Page 17: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

というように、史官たちにと

って文章は治政

・教化のためのいわばぬいとりでありあやもようであ

ったのである。

文章はまずなによりも美しくあらねばならない。そしてそれは、治政、教化を飾りたてるものでなければならなか

った。『晴志』集部総論の冒頭で、「文は言を明かにする所以なり」という時と同様、彼らにと

って文章美それ自體

は決して否定すべきものではなく、ある目的のための重要な存在意義を有するのであ

る。『膏

書』や

『北齊書』や

『晴書』が〈文の用〉を述べる時、ひとしく

『左傳』の

「言の文無きは、行

なわ

るとも遠からず」の言を引いた

のも、文章美の功用の重要性を證するためであ

った。このように文章の形式美が治政

.教化に重要であ

ったからこ

そ、文章美を發展させた南朝文學を総體として肯定したのであり、ただ美のために美を追求して政治性

.教化性か

ら乖離

してしま

った宮體、徐庚體の文學をことさらに限定的に批剣したのである。ところが斐子野や李謬や王勃ら

は、文章

の形式美を敵覗する。文章美が多くなればなるほど、文學の政治性、教化性はますます喪われて行くと考

える。漢

・魏

・奮

・南北朝の文章の形式美の發展の歴史は、實はそういう歴史であ

ったとして嚴しく非難したので

った。

また唐初の史官たちは、文學の教化性を主張よつつも全體的に美しい南朝文學を積極的に容認よたが、そうした

文學史観の背景には、六朝に誕生して

一般化したいわば文學進化説の考え方が存在すること、容易に想像されると

ころである。文學進化説とは、退歩史観や尚古史観とは異なり、文學は時代とともに攣化發展するという

一つの前

向きの文學史観であり、多くの六朝文人たちはそうした観點から、近代における文章

の形式美

の發展を基本的に是

認した。從

って六朝

の文人たちや唐初

の史官たちが教化に資するも

のと考えた時

の近代の文章とは、もはや前代の

Page 18: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

粗野な文章ではなく、同時代の形式美をも兼ね備えた美しい文章だ

ったのである。

'

さらに文章の形式美で治政、教化を飾れという考え方は、或いは仮りに

"〈頚〉的文學観"と呼んでいいかもし

れない。やや齪暴な意見であるが誤解を恐れずに言えば、元來、漢代の儒家が主張したところの政治、社會に功用

すべき文學の機能には、〈頬美〉と〈風刺〉の二つの方面があ

った。しかし實際的には、六朝期

の文学

では主

〈頒美〉の方面が發揮され、盛

・中唐の古詩

・古文家の間では〈風刺〉

〈比興〉

の方面が強調されたと思われる。

一方、〈頬〉の文學は〈比興〉の文學にくらべて現實の政治を美化する御用文學に堕よやすい。やや圖式的になる

が〈比興〉的な文學観を、主に唐代の新興の中下層士大夫1ー

謂わば上暦部の執行する政治のあり方に、士大夫と

しての共同責任を感ずる人

の文學観だとすれば、〈碩〉的な文學観は〈風刺〉されるよりは〈頬美〉

される.

ことを必要とする、直接に政権を澹當する最上暦部にふさわしい文學観ということになろう。

こうよた観點に立つ

ならば、唐初の史官たちの

"〈碩〉的文學観"は六朝的陰騎を濃厚にもち、盛

.中唐

の古詩

・古

文家

"〈比興〉

的文學観"と深く断絶すると思われるのである。

以上のように考えると、かかる唐初の史官たちの文學史観は、從來の

一般的な認識とは反封に、むよう同じく宮

體詩を内容

・思想性の欠如する文學とよて嚴しく批到した劉魏の

『文心雛龍』や薫統の

『文選』流の古典的正統的

な文學思想により近かった、と到断してよいであろう。

35

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

Page 19: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

以上、本論で検討した初唐の前代史文苑傳

・文學傳の序や論について、その結果を簡輩にまとめると次のように

なる。

まずその序や論

の冒頭に位置する〈文の用〉を述べた総論的な部分④については、それが儒敏思想にのっと

った

文學論という點では、ただ六朝の斐子野、李誇や盛

・中唐の古文家らと共通するだけではなく、陸機、劉襯、瀟統

ら六朝を代表する知識人の文學論とも共通し、さらにその儒教思想にのっと

った文論の内容や記述の表現面では、

むしろそのような六朝期の代表的な文論の中の、

一部儒教的立場からした發言に近

いとい・兄る。

また、その次につづく具體的な文學史を叙述した部分⑥については、永明體をふくめて南朝文學を全體として積

極的

に是認しつつも、宮體や徐庚體等の文章のみを限定的に批到する文學史観であり、そうし

た限定的な南朝批剣

の文學史観は、斐子野、蘇緯、李譯、初唐の四傑、陳子昂、盧藏用、古詩

・古文家らのほぼ全面的な南朝文學批

到、とりわけ齊

・梁文學批剣の文學史観とは、その裏

にある思想もふくめて、全く異質で封立的な文學史観であ

て、むしろそれは、六朝の古典的正統的文學論である

『文心雛龍』等により近いと到断される。

また、その中間及び末尾に位置する文學論を吐露した部分◎

については、前稿で既

『文心離龍』等のオーソド

ックスな六朝文論の延長であ

ったことを述べた。

そこで以上の論述

の結果を総合すると、次のようなことが言えるであろう。郎ち、唐初の史官たちの文論は、六

朝の装子野、蘇紳、李譯、及び初

・盛

・中唐の儒教的復古的文學論との關係では、上述の④⑬⑥の全ての面でこと

ごとく異なり、むしろその逆に④⑧⑥のあらゆる面で、六朝のオーソド

ックスな古典主義的文論とこそ密接な關連

36

Page 20: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

があるということである。だとすれぽ、唐代の儒家的復古的文學思想の系譜として、六朝の斐子野、蘇緯、李譯↓

初の史官↓初唐

の四傑、陳子昂、盧蔵用↓盛

・中唐

の古詩

・古文家となされてきた從來の文學批評史は、もはや

のままの形でこれを認めることはできなくなる。少なくともこの唐初の史官たちだけは、その復古思想の系譜か

(7

)

ら除外して考えねぽならなくなるであろう。

ただここで結論を確認する前に、念のためある

一つの疑問を解決しておかねば

らな

い。それはさきの④の部

、即ち唐初

の史官たちの文論は、六朝の斐子野、蘇紳、李譯や初

・盛

・中唐の復古論者とも、儒教の思想にもと

く文論を持

っていた點では互いに共通性があ

ったにも

かかわらず、果たして右のように唐孤

α史官たおσ交論

は、劉鮒等の六朝

の古典主義的文論とだけ關連が深

いと結論づけてよいも

のであ

ろう

か、と

いう疑問である。以

下、若干それについて

一つの方法論的立場から論じてみようと思う。

儒教思想があらゆる場において常

に絶樹的な規範であ

った封建中國にあ

っては、何事であれそ

の束縛から完全に

自由であるということは非常

に稀である。從

ってそうした封建中國では文學論を陳述する際

にも、儒教思想にもと

かない發言はほとんどなく、いつの世でも何れの塵でも誰にでも、多少

にかかわらずそうよた儒教的發言がある

のが常である。だから、そういう場合、ある文論

に儒教的な要素がある事自體はさほど重要な事

ではない。むしろ

の場合に問題にすべきは、その儒教的要素

の量と質とであろう。さらに重要なのは、その種

の儒教的要素を

一部

にふくむ文論を総體としてなが

めた時、その文論の歴史的相樹的な特質

(普遍的絶封的な特質ではない)を決定する

め手は、文論総體に、かえ

って儒家的要素以外のいかなる要素がどれだけ含まれているか、と

いう點にあること

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)

37

Page 21: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

中國文學論集

第十號

にな

ってくるであろう。

こうした観點からもう

一度唐初の史官たちを振り返

ってみると、その儒教的要素は、六朝の表子野、蘇緯、李誇

や唐の復古文論者らがほぼそれ

一色であ

ったのに封して、唐初の史官たちの文論は、そうした儒教的要素の量も比

的少なく、その質も前述したように

ニュアンスを異

にして

いた。

一方、儒教的要素以外の要素という點になる

と、前稿で論述したように比較的その量も多く、それは六朝の正統的古典的文論をほとんど踏襲

したも

のであ

た。そ

して、これを互覗的な文學思想史の観點に立

って言い直すならぽ、唐初史官たちの文論は、その後の盛

・中唐

の儒教的復古的な文學論

の開幕を飾るも

のでは決してなく、正統的古典的な六朝文學論

の歴史

の舞台

への最後

の登

場だ

ったのである。

(1)例えば、陳鍾凡

『中國文學批評史』、郭紹虞

『中國文

學批評史』『中國古典文學理論批評史』、朱東潤

『中國

文學批評史大綱』、羅根澤

『中國文學批評史』、復旦大

學中文系古典文學教研組

『中國文學批評史』上珊、郭

紹虞、王文生

(新編)『中國歴代文論選』第二冊、銭

冬父

『唐宋古文運動』等であり、最新のものに羅聯添

『晴唐五代文學批許資料彙編』の緒論

「ー

晴唐五代

(昭和五六年七月)

文學理論的發展與演攣」(民國六十七年九月)がある。

(2)筆者自身、前稿を脱稿した時點ではまだ、歴史家の文

論を盛、中唐の古詩古文思想を準備するものと位置づ

ける奮説を、「大局的には大きな誤りはない」(前稿十

頁)と認識していた。しかし本論で明らかにするよう

にその後の検討の結果、歴史家の文論がどの面からみ

ても六朝文學論の延長であることが到明したので、こ

こで前稿の當該箇所を無効にすることを表明する。

38

Page 22: 續・初唐歷史家の文學思想...續 ・ 初 唐 歴 史 家 の 文 學 思 想 古 川 末 喜 本 稿 は 、 昨 年 、 『 中 國 文 學 論 集 』 第 九 號 に 發

(3)唐初

の史官

たちの場合を

ふく

めて、

この

「人文」

の意

味をどう解

釋するかは

いろいろな見解

があるが、

いま

も適切

と思われる岡村

繁氏

の説

に從

う。中

國古典文

學大系五四

『文學藝

集』

(二

一五、一二

八頁)を

照。

(4)唐

の古文家

の崔

元翰

、権徳

輿、李舟

、顧況、呂温、狽

孤郁

"天文

人文

説"と唐初

の史官たち

のそれと

關連、及び違

いについては、羅根澤氏

の上掲書

に詳

い。

同書第

四篇第

六章第

十節

「呂温猫孤郁等的天文説

及人文

説」を参照。

(5)『膏書

』文

序、

『梁

書』文學傳序、『陳書』文

學傳

序等

がそれぞれその時代

を肯

定する

のは、文

字どおり

んねとみて差し

つかなえ

く、たとえば郭紹虞氏

(三

巻本

『中國文

學批評史』

一三入頁)が言

うようにそ

例に制

限されたためではある

まい。なぜなら

『北齊

』文苑傳序、

『周書』

王褒庚信傳論、『晴書

』文

學傳

序は同時代でも批剣すべき點

は批到して

いるからであ

る。そ

の意味で陳

(上

掲書)が

の三書を

「江左派」とする

のは正し

い。

(6)ただ初唐

の四傑

の中でも盧照鄭

だけは例外的

に南朝文

學指向が強

いが、沈約ら

の永

明體

は非難

している。

(7)蘇紳、李誇らを直接唐代古文

運動

の先駆者として位置

づけ

ることが

できな

いこと

については嘗

て論じたこと

があ

る。「選畢論

から

みた晴唐國家形成期

の文

學思想」

(『九州中國學會報』第

二十

二巻、

一九七九)を参照。

・初唐歴史家の文學思想

(古川末喜)