第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と...

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第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編 群馬大学教育学部社会科教育講座 20069 13日受理) The Establishment of the Ministry of Labour and the Transformation of the Board of Trade in Britain Tomoari MATSUNAGA Depertment of Social Studies, Faculty of Education, Gunma University Accepted September 13, 2006 はじめに イギリスにおける商務院は、特に 1907年にルウェリン=スミス Hubert Llewellyn Smith が事務次 官に就任して以降、労働政策機能を飛躍的に拡充し、その上対外的通商政策に関する主導権をも掌 握した。その結果、第一次大戦が勃発した 1914年には、かつて二級省庁として位置づけられていた に過ぎなかった商務院は、研究者によって「行政帝国」と呼ばれるような一大組織にまで成長する に至った。 戦前期における商務院の異常なまでの急成長ぶりを数値によって裏づければ次のようになる。 1900-01年から 1913-14年にかけて、官僚機構 Civil Services全体で 124 %の支出増を見たのに対し、 同時期の商務院における支出増は 595 %にまで達した。また、官僚機構全体の支出に占める商務院支 出の比率は、 1900-010.78 %、 1903-040.77 %、 1910-111.14 %、 1913-142.4 %と変遷してお り、この点からも商務院の急速な膨張は裏づけられる。 1912-13年時で、海運部門および破産管理部 門を差し引いた商務院の総支出中、職業紹介所・失業保険局が占める比率は 64 %、翌年には 72 %に 達していたから、商務院の組織的急膨張の中心にあった最大の要素は労働行政分野であった。 一方、1905年までの時点では労働政策の担い手としての最有力候補であった地方行政院 Local Government Board は、 1905 14年の自由党政権期には労働政策の主導権を完全に商務院に奪われ、 急速な膨張を続ける官僚機構の中にあって、頭打ちの状態にあった。 1900-01年から 1913-14年にか けて、官僚機構全体の総支出は 124 %、商務院の総支出は 595 %の増大を見た一方で、同じ時期の地 117 群馬大学教育学部紀要 人文・社会科学編 56117 1372007

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第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と

商務院の再編

松 永 友 有

群馬大学教育学部社会科教育講座

(2006年 9月 13日受理)

The Establishment of the Ministry of Labour and

the Transformation of the Board of Trade in Britain

Tomoari MATSUNAGA

Depertment of Social Studies,Faculty of Education,Gunma University

(Accepted September 13,2006)

はじめに

イギリスにおける商務院は、特に 1907年にルウェリン=スミスHubert Llewellyn Smithが事務次

官に就任して以降、労働政策機能を飛躍的に拡充し、その上対外的通商政策に関する主導権をも掌

握した。その結果、第一次大戦が勃発した 1914年には、かつて二級省庁として位置づけられていた

に過ぎなかった商務院は、研究者によって「行政帝国」と呼ばれるような一大組織にまで成長する

に至った。

戦前期における商務院の異常なまでの急成長ぶりを数値によって裏づければ次のようになる。

1900-01年から 1913-14年にかけて、官僚機構 Civil Services全体で 124%の支出増を見たのに対し、

同時期の商務院における支出増は 595%にまで達した。また、官僚機構全体の支出に占める商務院支

出の比率は、1900-01年 0.78%、1903-04年 0.77%、1910-11年 1.14%、1913-14年 2.4%と変遷してお

り、この点からも商務院の急速な膨張は裏づけられる。1912-13年時で、海運部門および破産管理部

門を差し引いた商務院の総支出中、職業紹介所・失業保険局が占める比率は 64%、翌年には 72%に

達していたから、商務院の組織的急膨張の中心にあった最大の要素は労働行政分野であった 。

一方、1905年までの時点では労働政策の担い手としての最有力候補であった地方行政院 Local

Government Boardは、1905~14年の自由党政権期には労働政策の主導権を完全に商務院に奪われ、

急速な膨張を続ける官僚機構の中にあって、頭打ちの状態にあった。1900-01年から 1913-14年にか

けて、官僚機構全体の総支出は 124%、商務院の総支出は 595%の増大を見た一方で、同じ時期の地

117群馬大学教育学部紀要 人文・社会科学編 第 56巻 117―137頁 2007

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方行政院の総支出は 47%の増大を見たに過ぎなかった。官僚機構全体の支出に占める地方行政院支

出の比率を見ても、1900-01年 0.85%、1903-04年 0.79%、1910-11年 0.62%、1913-14年 0.55%と、

当初は商務院を上回る比率を示していながら、漸減の末に商務院に大きく水をあけられるに至って

いる。

支出額から人員数に目を向けてみても、両者の対照的な状況は明らかである。1900-01年から

1913-14年にかけて地方行政院の人員は 110.5%増加した一方、商務院の人員は 821%増加している。

商務院の人員増加の大半は、やはり職業紹介所・失業保険の管理に必要なスタッフの急増にその理

由を求められる 。

以上のように、商務院は自由党政権期を画期として組織的な急拡大を遂げていった。その背景に

は、自由党政権が採用する自由貿易政策が国際競争力維持のための賃金水準抑制策を要請し、その

要請に応えるべく自由党政権が賃金水準を抑制する代償としての社会政策を展開していかざるを得

ないという状況があった。つまり、自由貿易政策と社会政策を抱き合わせで遂行していかざるを得

ない自由党政権にとって、通商政策と労働政策を両方所管する商務院は、政策遂行の要としての位

置を新たに与えられることになったのである。

こうして 1909年には商務院は、念願の一級省庁としての地位を実質的に認められることとなっ

た 。しかし、その一方で、商務院のあまりにも急速な勢力拡大は、やがて首相アスキスの警戒感を

招くことともなったようである。商務院の昇格は、長官サラリーを一級省庁大臣と同額とするとい

う形で処理され、かねて要求されていた省Ministryへの改称という名実共に昇格という形はとらな

かった。さらに、1914年 2月には、急進派に所属する政治家として、前任のチャーチルに引き続い

て商務院の一連の急進主義的政策路線を推進してきたシドニー・バクストンが南アフリカ総督に転

出し、これに代わって後任に就いたのは、1905年以来地方行政院長官として、国家干渉政策に一貫

して消極的な姿勢を示してきたジョン・バーンズであった 。バーンズの商務長官任命には、これ以

上の商務院の積極路線に歯止めをかけようとするアスキスの意志が反映されていたように思われ

る。しかし、同年 8月、第一次大戦へのイギリス参戦に反対したバーンズは半年足らずで長官を辞

職したため、彼の影響力は計られずじまいであった。

結局、第一次大戦という非常事態の到来が商務院「行政帝国」の終焉をもたらすこととなった。

1916年には労働省Ministry of Labourが新たに発足し、商務院の労働政策機能はこれによって吸収

された。さらに、1919年には運輸省Ministry of Transportが新設され、長く商務院の中心的機能の

一つであり続けた鉄道行政機能が吸収された。さらに 1917年には、商務院が所管してきた対外的通

商政策に関する機能を弱体化させるような改革も導入された。戦前期に急成長を遂げてきた商務院

が、戦時中になぜこのような再編をこうむることになったのか、商務院の命運の変遷を具体的に明

らかにしていくことが本稿の課題である。

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第1節 労働省の発足

(1) 労働省独立を求める動き

労働省は戦時中の 1916年 12月に創立されることとなるが、労働省の設立を求める動きは既に

1890年代から生じていた。以下、労働省設立に至る経緯を明らかにしていきたい。

1892年、当時の自由党内閣首相ウィリアム・グラッドストンに対し、自由党下院議員ホールディ

ン Richard Burdon Haldaneが労働省の新設を要請したことが労働省設立を求めるキャンペーン活

動の発端をなした。以後、労働省設立を求める趣旨の 15の法案、および勅語奉答文(国王演説)へ

の修正案が二度議会に提出されることとなる。

最初の 1892年と 1894年の法案を後押ししたのはやや意外なことに経営者団体である商業会議所

連合であった。商業会議所連合は、商務院から労働政策機能をとりさることによって、商務院が専

ら経営者利害を追求できるものとしようとしたのである。その後には専ら労働サイド、すなわち労

働組合会議、労働代表委員会とその後継組織である労働党、および 1909年に公刊された王立救貧法

調査委員会少数派報告が労働省設立を要求する運動の担い手となった 。言うまでもなく、これに

おいては、政府部内における労働者階級の発言力を恒久的に高めるための方策として労働省の新設

が要求されたのである。

その代表的な試みとして、労働代表委員会のケア・ハーディKeir Hardieは、1904年に勅語奉答文

への次のような修正案の挿入を提案した。「地方行政当局と協調しつつ、必要な公共事業、植林事業

を実施し、さらには農業事業で雇用される者の数を増大させるといった手段を通じて、雇用の欠如

した状態に対して有効に対処する十分な権限をもつ労働省を設立」する 。

つまりこの修正案は、労働省を設立し、それを梃子に積極的な失業対策事業に政府を着手せしめ

ることを最大の狙いとするものであった。1902~1905年の期間イギリスを襲った不況がその背景を

なしていたと言える。

このような労働省設立を求める動きに対して、商務官僚は一貫して否定的であった。ケア・ハー

ディの修正案に関して、商務院労働局は次のような覚書を作成している。「現在のところ、労働の利

益は複数の省庁、複数の大臣によって考慮されている。この大臣達は内閣において複数のポストを

占めているから、彼らの政府への影響の合計は、全体として、ただ一人の大臣の場合よりおそらく

大きいと言えよう。また、彼らの見解は、彼らが国民全体を代弁しているがゆえに、より重きをな

しているとも言えるのである。……我が国で労働者のみを代弁する大臣は、あらゆる政策を行う際

に、きわめて深刻な障害に行きあたることとなろう。というのも、我が国では、良心的な経営者の

善意に依存してなされることがきわめて多いからである」。

当時商務院総務局長の地位にあったルウェリン=スミスも、次のようなコメントを付している。

「雇用の不足に対処することを任務とする労働省の唯一の先例は、いくつかのオーストララシア植

民地(ニュージーランド、サウス・ウェールズ)に限られている。この地における状況は、我が国

とは著しく異なっているし、この実験が成功を収めていると広く認知されているわけでは決してな

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い」。 疑いなく、〔修正案が〕意図するところによれば、労働大臣Minister of Labourは労働者利

害に対して特に『同情的な』人物であるということになる。しかし、あらゆる『労働』問題の決定

と執行は、労働者代表の利害と労働の雇用主の利害に対して等分の考慮が払われた上でなされなけ

ればならない。各々の経済問題に関して、労働大臣が労働者の側に立ち、商務大臣Minister of Com-

merceが他方の側に立つという状態は、極めて望ましくない。経験が示すところによれば、労働と通

商が互いに関連する問題に対処する場合、最も賢明なやり方は、通商問題を扱う際には労働者の状

態に留意する一方、労働問題を扱う際には通商上の対外的な競争に及ぼす効果に思いをめぐらすこ

とだ。このような状態は、別個に労働省を設けることよりも、単独の大臣の下に通商局と労働局を

統合することによって、よりよく達成される」。

労働利害の表出を意図する立場に立つ場合、このような商務官僚の論理は説得力をもっているだ

ろうか。まず、労働利害は複数の省庁によって分散的に代弁された方がより影響力を発揮するとい

う論点に関しては、統治機構が資本の利害に近いバイアスを本来もつとすれば、支持し得るもので

はない。統治機構が資本の利害に偏っているとするならば、拮抗力として、敢えて労働利害を代弁

する組織を持つことに意味はあるとも言えるのではないだろうか。また、通商問題と労働問題が常

に併せて考慮される場合、通商状態に関わりなく、労働者には一定程度の最低生活水準を保障する

べきという「生活賃金」原則は廃棄されざるを得ないことになる。商務院こそ資本と労働の公正な

仲介者であるというルウェリン=スミスの論理を額面通りに受け取ることは困難であると言わなけ

ればならないだろう。

ケア・ハーディの修正案は保守党政権によって一蹴されたものの、より労働側に近い自由党政権

によって 1912年に公務員組織の改革案を調査するためにマクダネル委員会が組織された際には、ル

ウェリン=スミスは商務事務次官として、商務院が労働政策を兼担することの是非に関して、厳し

い追及をこうむることとなった。

ルウェリン=スミスは三度にわたって委員会のヒアリングに召喚された。1912年 7月 20日に開

催された第一回聴聞会においては、商務院の現存の機構について詳細な説明が求められた。その説

明を通じて、商務院が多種多様な機能を累積させるに至った経緯が明らかにされた。その上で、商

務院に機構改革の余地がないかどうかという点について問われたが、ルウェリン=スミスは「お答

えするのがかなり難しい問題です」と言いつつ、回答を促されると次のように述べた。「今後の商務

院にとって危険な要素は大きさの問題です。おそらく〔商務院の〕再組織は分割という形でなされ

ることとなりましょう。それ〔商務院の分割〕に対しては、有力な反論もあれば、幾許かの支持論

もあるでしょう。毎年議会は商務院に新たな義務を課しつつあるのです」 。(以下、文中に証言番

号を記載する)。

つまりルウェリン=スミスは、商務院の組織的急膨張が将来において何らかの問題を生み出すか

もしれないことを認めたわけである。しかし、議長のマクダネル卿 Lord Macdonellによって、「現

存の他の省庁に何らかの部局を移転させるという案はありますか?」と問われた際には、「実質的な

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機能移転をもたらすような、いかなる案もありません」と返答した(Q.13,330)。

マクダネルは、ルウェリン=スミスの回答に満足せず食い下がった。「商務院が種々の部局の累積

物 a congeries of departmentsであるということが言及されましたが、そのような種々の部局の全て

に有効な統一的管理を常に施していくということは困難です。そのような困難を克服するためにと

り得る方策の一つは、有効な管理を施せるように、〔商務院を〕分割し、新しく独立した省庁を創設

するということです。私はこの点に関して、あなたに意見を今求めるものではありませんが、この

ことについて考えておいていただきたい」(Q.13,358)。

ルウェリン=スミスは、「それは私の政治上の上司が管轄する問題です」と回答を回避したが、結

局 10月 10日における二度目の聴聞の場で同じ問いに直面せざるを得ないこととなった。この席で、

マクダネルは再度同じ質問を繰り返し、ルウェリン=スミスは次のように応答した。「あなたが指摘

したように、本院の急速な膨張によって生じた煩雑さという困難に見合うような何らかの再組織が

可能であり望ましいか、という問題に関して、私は大変注意深く考察してみました。私はこの問題

に関して本院の長官〔シドニー・バクストン〕に相談する機会も得ましたが、彼に相談した上で、

私は前回委員会で申し上げたことに付け加えるような有意義なものはないと感じております」(Q.

14,991)。「本院を実際に分割し、新しい大臣を設置するかどうかという問題に事が至った場合、それ

は最早行政上の問題とは言えません」(Q.14,993)。つまり、ルウェリン=スミスは、商務院を分割す

るか否かはあくまで議会が決する問題であり、この問題に関して行政部が勧告する権限はないと主

張したのである。

それにもかかわらず、10月 31日、委員会はルウェリン=スミスから三度目の聴聞を行った。この

聴聞の場で、商務院の改組に関するマクダネル議長の腹案が明らかにされた。マクダネルは、ルウェ

リン=スミスからの聞き取り調査を基に、商務院内の部局を旧来の部局と近年に新設された部局と

いう二種類に大きく大別した上で、労働政策分野を担当する一連の新設部局を統合する新省庁を創

設するという案を提示した。つまり、労働政策部門と通商政策部門に省庁を分割するという案であ

る。マクダネルはその根拠として、二つの点を挙げた。まず、比較的歴史が新しい労働政策部門と、

それより歴史が古い通商政策部門との間には、職員配置などの面で大きな違いがあるということで

ある(Q.17,698)。次いで、多様な部門を包摂している場合、トップたる事務次官が有効なコントロー

ルを全体に及ぼすことは困難なのではないか、という点である(Q.17,721)。

このようなマクダネルの追及に対して適切な応答ができない場合、商務院の分割は現実味を増す

こととなろう。ここにおいて、ルウェリン=スミスは正面からの反論を試みるに至った。彼は、マ

クダネルが提示した問題に関して、商務院を分割せずとも、次のような対応が可能であると論ずる。

「〔業務の煩雑にともなう〕プレッシャーが限界に達し、中央統制部門において何らかの負担軽減が

必要となったとしても、本院の全体を組織的に分割するのではなく、私の補佐役か同僚にあたる役

職を創設するという方策の方が、煩雑さへの対策としては、最も有効で困難が少ないものであるで

しょう」(Q.17,722)。

121第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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さらに、商務院の規模の問題に関しても、新しい論拠を打ち出した。「小規模省庁と比較した場合、

大規模省庁には大きな利点があるように思います。それには色々な理由があります。まず第一に、

最上の最も効率的な結果を導き出すべく、職員を統合したり分散させたり、等級づける機会が大幅

に広がります。有能な人材にとっては昇進の機会が広がり、特に卓越した職員にも平等に昇進の機

会が与えられることになります。……さらに、対等な能力をもつ人材を一個所に押し込めるような

難点を回避すべく、省庁の中で職員を再配置したり移転させる余地も広がります。もしある部局に

おいてあまり有能でない職員がいたとしても、彼を別の部局に配転させることができ、以てより広

範な経験を積む機会を与えることもできます。また、ある部局において一時的に仕事量が増大した

際には、多様な部局同士で相互扶助を行う余地も大いに広がります」(Q.17,723)。

委員の一人である労働党の論客スノードン Philip Snowdenから再度商務院を労働政策部門と通

商政策部門に分割することの是非を問われた際にも、ルウェリン=スミスは同様な議論を展開し、

次のように付け加えた。「労働分野と通商分野を分割することが最上の分割方法であるという確信を

私は持てません。というのも、労働分野はほとんどあらゆる〔通商分野の〕部局に関連しているか

らです。例えば、鉄道職員の労働時間に関する問題や鉄道労働者の事故予防に関する問題は、鉄道

局に属するのでしょうか、それとも労働局に属するのでしょうか? いずれの場合にしても、多大

な困難が生じます。これはほんの一例に過ぎません」(Q.17,725)。

以上のように、ルウェリン=スミスは専らスケールメリットという点から、商務院の現状を擁護

し、労働政策機能を分離し労働省を新設しようとする動きに抵抗した。彼が対案として挙げた事務

次官補佐職(副事務次官 Second Secretary)の新設は、1913年 5月に実現を見ている。ここで注意

すべきは、ルウェリン=スミスは、労働政策と通商政策を同一の主体が担うということから起因す

るメリットという、かつてケア・ハーディ修正案に関して商務院内部文書でコメントしたような趣

旨のことには一切触れていないことである。労働政策と通商政策を同一の主体が担うということか

ら起因するメリットとは、通商政策の必要に応じて労働コストを抑制するような労働政策を展開で

きるメリットと読み替えることが可能である。スノードンの他、労働党の有力議員クラインズ J.R.

Clynesをもメンバーとして含むマクダネル委員会の前では、ルウェリン=スミスは本音の部分を語

ることができず、単にスケールメリットを訴えるという苦し紛れの応答しかできなかったものと見

える。

こうして、マクダネル委員会は商務院の統一性を脅かす脅威となるかに見えたが、間もなく第一

次世界大戦が勃発し、中央省庁の状況にも大幅な異同が出るに及んで、公務員制度改革案は後発の

委員会によって新たに審議されることとなった。こうして、商務院分割の危機は一旦は乗り越えら

れたかに見えた。開戦の翌 1915年、戦時総動員体制を支える要として軍需省が新設されるや、ルウェ

リン=スミスは商務院の事務次官としての地位を維持したままで、軍需省事務次官を兼任し、やは

り軍需省に出向したベヴァリッジと並んで、戦時体制を支える労働力の調達に辣腕を発揮した 。

戦時体制の中枢を支えるこのような多大な貢献は、戦後における商務院の地位上昇を予測させるも

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Page 7: 第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編...第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編 松 永 友

のであったが、政治上の事件が突如として商務院の解体をもたらすこととなる。すなわち、1916年

12月、アスキスを追い落としてロイド=ジョージが首相の座に就くという政変が生じるにおよん

で、労働党の政権への支持をつなぎとめるための交換手段として、労働党の年来の要求事項であっ

た労働省の新設が認められることとなった。これにあたって、商務院の労働政策部門は労働省に吸

収されることとなったのである。

(2) 労働省の分離独立

ルウェリン=スミスは、商務院と労働省との政策的連続性を図るため、新設の労働省の事務次官

に片腕であるベヴァリッジを推した。ベヴァリッジ自身、初代労働大臣であるホッジ John Hodgeに

対し、二人事務次官制をとり、自分をその一人として任命するよう懇願した。しかし、戦時動員体

制を創出する一貫として、労働希釈、もしくは労働力の流動化を抑圧的な方法で遂行してきたベヴァ

リッジに対して労働組合員の風当たりは強く、彼の要望が受け入れられることはなかった。彼は、

やはり戦時中に新設された食糧省Ministry of Foodに転属させられることとなる 。また、商務院

における産業争議主席調停官 Chief Industrial Commissionerとして事務次官と同格の扱いを受ける

に至っていたアスクウィズも、労働省において同様な地位に就いたものの、1919年には労働省を退

職してしまった。退職後、アスクウィズは労働組合運動へ対抗するための中流階級連合Middle-Class

Unionという組織を立ち上げたが 、このことは、労使間の公平なる仲介者という評判を裏切り、

彼が実は経営よりの志向性をもつことを明るみに出すものであったと言える。いずれにせよ、商務

院の労働政策において中心的役割を果たしてきたルウェリン=スミス、ベヴァリッジ、アスクウィ

ズは、いずれも労働政策の担い手としての役割から離れることとなったのである。

一方、労働党、および労働組合運動への譲歩として労働省が創立されたという経緯を反映して、

初代労働大臣のホッジ(在任 1916.12~1917.8)、その後任のロバーツ G.Roberts(在任 1917.8~1919.

1)、および初代労働省事務次官となったシャックルトン D.J.Shackleton(在任 1916~1920)は、い

ずれも労働組合出身者であった。これは、労働政策が通商政策から自立して一人歩きを始め、労働

者の観点からすれば、より労働側の視点に立った労働政策が展開を始めるという期待感を持たせる

動きではあったが、そのような期待は実際にはほとんどかなえられなかった。ホッジ、ロバーツ、

シャックルトンという労働組合出身の大臣、事務次官の在任期間はいずれも短期間に過ぎなかった

というだけでなく、三人はいずれも労働組合運動の中では最も右派に属しており、労使協調主義と

伝統的ヴォランタリズム路線の信奉者であった 。したがって彼らの在任によって商務院以来の

伝統的な労働政策の路線に変更が加えられるようなことは、ほとんどなかったと言える。

それにもかかわらずルウェリン=スミスは、商務院から労働政策機能が分離されたことに未練を

残し続けた。戦時中に激変した省庁の状態を戦後にいかに再編すべきかを調査するため、ホールディ

ンを長とする委員会が組織された際、その聴聞の場において、彼は次のような持論を展開した(こ

の議事録においては、ルウェリン=スミスの発言は三人称で記録されていることに注意)。

123第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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彼〔ルウェリン=スミス〕が思うに、中央政府の領域において、業務の種類に応じて各省庁に仕

事を割り当てるという原則は、一層重要となりつつある。しかし彼は、特定の種類の人々に対処す

るために設立されてきたあらゆる既存の省庁機能を直ちに再配分することを適切とみなすわけでは

ない。例えば、理論的に商務院があらゆる形態の生産活動 productivityに関係する唯一の部局である

からといって、農林水産庁が商務院によって吸収されるべきであると考えられるわけではない。例

えば再度労働省を例に挙げても、彼の意見によれば、そのような名称の下での別個に設けられた省

の設立は、次のような状況でのみ正当化される。すなわち、労働者の見解、慣習が現在において平

均的公務員によって理解されることがあまりにも乏しいので、労働問題のみに従事する公務員が労

働者の見解や慣習を特別に研究するのが望ましいといった状況でのみ、正当化されるのである。労

働省は雇用担当省Ministry of Employmentに名称を変更し、賃金を含むあらゆる勤労所得の分配を

設定する究極的な責任を負うことにすべきであるというウェッブ夫人の提案に対しては、サー・

ヒューバート〔・ルウェリン=スミス〕は次のように応答した。自分が思うに、この提案は、それ

自体としては論理的な案であっても、業務に応じて厳密に機能を区分することが現在の状況下では

実現性を欠いているということを示す好例となるであろう」 。

このように、ルウェリン=スミスは、労働省の創設に対して公然と異議を申し立て、労働政策機

能を再度商務院の傘下におさめることを要望する陳述を行った。食糧省、海運省、再建省など、戦

時中に続々と新設された省庁が戦後になると消滅していった状況において、このような彼の期待に

は、確かに成就する見込みがあったと言える。その一方で、社会主義者であるウェッブ夫人の提案

に対しては、彼は冷淡な反応しか示さなかった。

しかしながら、ホールディン委員会の 7名の委員には、労働党の有力政治家トマス J.H.Thomasと

ウェッブ夫人が含まれており、議長のホールディン自身が自由党から労働党へ転向したということ

もあって、委員会の見解に労働党の意向が相当程度反映されることは必然であった。実際、1918年

に公刊されたホールディン委員会の最終報告は、ウェッブ夫人の提案を受け入れ、商務院からの分

離を継続した上で、労働省を雇用省に改組することを勧告したのである。

商務院と労働省(雇用省)との分離を継続する理由として、報告書は次のように述べている。「民

間企業の活動を促進するという目的は、直接関連する労働者であれ、間接的に影響を受ける労働者

であれ、彼らの雇用状況に及ぼしうる影響をほとんど考慮することがないような計画に帰結し易い。

したがって、こうした計画は、社会への有害な効果を防ぐために、独立した組織によって精査され、

可能な場合には修正される必要があるだろう。他方で、適正な雇用条件を維持するという目的は、

特定の企業の生産能力に深刻な影響を及ぼすような規制をもたらすかもしれない。そして、こうし

た規制は、同様に独立組織によって批判され、適切な修正を受ける必要があるだろう。もし同一の

大臣、もしくは同一の省庁が、雇用条件を決定するだけでなく、民間企業の生産活動を促進するこ

とにも責任を負うとするならば、たとえ一方の目的が他方の目的に従属することがやむを得ない場

合においても、一方が他方のために犠牲をこうむっているのではないかという猜疑心が広がること

124 松 永 友 有

Page 9: 第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編...第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編 松 永 友

は避けられない。その結果として、そのような省庁は、雇用主と被雇用者双方に嫌悪されるに留ま

らず、効率性にとっては致命的な、憤怒と畏怖がいりまじった雰囲気の中で業務を遂行していくこ

ととなろう。したがって、我々の提案によれば、通商と産業を所管する大臣と雇用を所管する大臣

は独立した立場でなければならない。しかし、彼らは双方の省にとって共通の関心事項たるあらゆ

る問題に関して、常に極めて緊密に相互の協議を行うということもまた、同様に重要である」 。

労働政策を所管していた当時の商務院が労使双方の猜疑をこうむっていた状況からするならば、

このようなホールディン委員会の見解は、かなり的を射ていたと言ってよいのではないだろうか。

労働省を雇用省に改組するという、より野心的な案は容れられなかったものの、ホールディン委員

会答申の結果、商務院による労働省の吸収合併という案は結局廃棄された。

その後、戦時中に急膨張した財政規模を削減するため、大幅な歳出カットを図る動きが 1921年頃

から本格化し、労働省の存続は再度危機にさらされた。すなわち、1922年には前運輸省長官の実業

家エリック・ゲデス Eric Geddesを長とする委員会が、「ゲデスの斧」と呼ばれる大幅な歳出削減案

を提出し、その一環として、労働省の廃止が提案された。しかし、1922年~1924年の保守党政権は

労働省廃止には結局踏み込まず、創立から 7年後の 1923年 12月、労働省はようやく恒久的な政府

部局であることを最終的に認証されたのである 。これにより、通商政策機能と労働政策機能が分

離した状態が永続化していくこととなった。

第2節 通商政策部門の改組と海外貿易局の発足

(1) クラレンドン・ハイド委員会による商務院機構再編

商務院は、労働政策部門を失ったのとほぼ同時期、本来の根幹をなす通商政策部門においても重

要な再編を迫られた。その背景には、第一次大戦戦時中に高まった、戦後の経済復興に関する懸念

があった。この懸念に応じて、保守党のバルフォア・オブ・バーリ卿 Lord Balfour of Burleighを

長とする戦後の通商・産業政策を調査するための委員会、自由党議員のウィトリーJ.H.Whitleyを長

とする戦後の労使関係改善のための方策を調査する委員会をはじめ、一連の委員会が次々に組織さ

れ、続々と報告書を刊行した。これらの報告書はいずれも、戦後における伝統的レッセフェール政

策の転換、および速やかな経済復興を図るための積極的な国家介入政策を要求していた。したがっ

て、通商政策および産業政策の主要な担い手である商務院に多大な期待がかけられることは必然の

成り行きであったと言える 。

商務院通商部門の改組は、1917年当時の商務長官スタンリAlbert Stanleyの下で始まった。ロン

ドン地下鉄の経営者であったスタンリは、戦時内閣への実業家の積極的導入を推進したロイド=

ジョージが 1916年 12月に政権に就いた際、自由党のランシマンWalter Runcimanの後を受けて商

務長官に就いていた 。1917年 8月スタンリは、通商・産業政策におけるより能動的な主体という、

商務院に期待されていた役割を実現する方策を諮るため、自由党議員で法廷弁護士のクラレンド

ン・ハイド Clarendon Hydeを長とする 4名のメンバーから成る非公式の委員会を組織した。ハイド

125第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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を除く 3名の委員の内訳は、マンチェスター商業利害に関連する自由党議員ニーダム C.T.

Needham、前ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス学長で保守党議員マッキンダーHalford

Mackinder、および全国商業会議所連合会頭ファースAlgernon Firthである 。

ハイド委員会は、短期間の内に事務次官ルウェリン=スミスを含む商務院の上級官僚からヒアリ

ングを行った上で、同年 8月 9日付けでスタンリに報告書を提出した。報告書は、現行の商務院が

抱える問題点を次のように指摘した。「直ちに明らかになったことは、商務院は過去において国内交

易 home tradeの促進および育成をその主要な機能の一部とは見ていなかったということである。商

務院の通商に関する機能は主に、情報の収集とその普及によるイギリス海外貿易の育成、海外貿易

に関する統計の収集と発行、通商条約その他の通商協定に関する外務省への助言、海外において個々

の通商業者が業務を遂行する際の障害に対し、可能な際には外務省の仲介を経つつ対処すること、

以上に向けられてきた。……我々が思うに、〔商務院とは〕別個に通商産業省〔の創立〕を求める要

求が生じているのは、国内交易を保護し、発展させるとともに、イギリス市場への外国製品の侵入

を警戒するという任務を直接的に遂行する部局を商務院が何ら有していないことに起因している」。

「当然のことながら、商務院は主に生産者、製造業者、商人の観点から通商問題に関心を払ってい

る。他方で商務院は、国内の購入者、消費者の利害を見逃すべきではないし、彼らの観点に立って、

全国の多様な産業組織 trade associationsとは全く別の観点に基づく機能を推進すべき場合もある。

各々の産業組織は必然的に、通商問題を自らの産業の観点から考察する傾向があるし、他に払われ

るべき考慮を全く排除してしまうこともよくある。商務院は、国益の観点に基づいて、あらゆる通

商問題を全体的に考慮すべきなのである」 。

このように、ハイド委員会は、従来の商務院が海外貿易にあまりにも偏った関心を注いでいたこ

とを厳しく批判し、国内産業の保護・促進にも同様な関心を注ぐよう勧告した。さらに、製造業者

や商人の利害に過度にとらわれず、商務院が消費者利害などをもとりこんだより包括的な観点に立

つ必要性も強調された。こうした議論の一環として、経営者達がしばしば商務院を不信の目で見て

きたことの一因を商務院の一方的な輸出貿易志向に帰するという視点が提示されているが、これは

なかなか鋭い見方と言えよう。

商務院が抱える第二の問題点としては、次の点が指摘される。「現在のところ、商務院が行使する

機能のきわめて多大な部分は、規制的な機能のみによって占められている。港湾局、海事局、鉄道

局、破産局、および特許局の機能の主要部分は、法令の執行を主要な任務としており、全面的に法

令執行に向けられていると言ってよい場合もある。……これらの部局の長は、彼らの管轄下の事項

に関しては、政策上の問題に関しても商務院の助言者である。我々は、諸問題に包括的に対処し、

政策と行政を相携えた形で遂行するということの利点をよく認識してはいるものの、政策上の問題

を全部、もしくは一部にせよ、これらの部局に委ねることは、規制を受ける企業家の側の〔商務院

に対する〕猜疑心を高め、商務院の権威と影響力を大幅に制約する結果となるのではないかとみな

すものである」 。

126 松 永 友 有

Page 11: 第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編...第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と 商務院の再編 松 永 友

すなわち、商務院が政策立案機能と政策執行機能をあわせもつことは、商務院の様々な規制を受

ける業者をして、商務官僚の中立性を疑わしめる結果となっているというのである。これは、商務

院の規制的な運輸政策に反発した海運業者や鉄道業者がしばしば商務院を社会主義者の牙城のよう

にみなして攻撃した過去の例を受けて言っているのであろう。これも、鋭い着眼点と言ってよいよ

うに思われる。

このように、現行の商務院の体制には、二つの面で重要な欠陥があると指摘されたわけだが、そ

の欠陥を改善するため、次のように商務院を改組することが勧告された。すなわち、通商産業政策

の立案を行う通商・産業部門 Commerce and Industry Divisionと法令を執行し各種の規制を行う一

般業務・管理部門 Public Services and Control Divisionに商務院を大きく二分し、それぞれの部門

に事務次官をおく二人事務次官制を採用する。現在の通商局や通商情報局は前者の部門、海運局や

鉄道局、企業局などは後者の部門に所属することとなる。通商・産業部門の内部には新たに産業開

発局 Industrial Development Departmentを設立し、国内産業復興策の立案を行う 。

以上のように、ハイド委員会は、総務部門を別として、商務院の組織を事実上二つに分割すると

いう、野心的な再編案を打ち出した。ルウェリン=スミスは、政策立案部門と行政部門は本来不可

分であるとして、両者の分離に抵抗したが、その異議は容れられなかった。また彼は、商務院に事

務方の長が就任する副長官職を新設し、両部門を統括させるという別の案も提案したが、この案も

不必要であるとして退けられた 。したがってハイド委員会の勧告は、ルウェリン=スミスにとっ

ては不本意な内容を含んでいたと思われるが、基本的に商務院のスタッフ充実を促進する内容では

あり、スタンリは勧告を受け入れた。ハイド委員会報告に基づく商務院再編案は、戦時内閣と大蔵

省の承認を経て、1918年初頭に施行され、ルウェリン=スミスと並ぶ共同事務次官の地位には、1916

年以来副事務次官を務めてきたマーウッドW.F.Marwoodが就任した(1920年には共同事務次官制

は廃止され、共同事務次官の一人は再度副事務次官に降格する)。これにより、商務院内部は、組織

内実務を担当する総務部門を除き、通商産業政策を担当する政策立案部門と各種規制を遂行する行

政部門に大きく二分されることになったのである。

スタンリはこれに留まらず、1919年 1月、商務院の通商・産業部門(政策立案部門)を完全に分

離独立させ、新たに通商担当省Ministry of Commerceを設けるという腹案をロイド=ジョージ首相

に提示した。しかし同じ頃、鉄道争議の収拾に失敗したとみなされたスタンリはロイド=ジョージ

の信頼を失いつつあり、その提案は一蹴された上、同年 5月には彼は辞任に追い込まれた。後任に

はオークランド・ゲデスAuckland Geddes(エリック・ゲデスの弟)が就任した 。

いかなる形での商務院機能削減にも強く反対の姿勢を示してきたルウェリン=スミスにとって、

自ら商務院の解体を促進しようとするスタンリは、意に染まぬ上司であったことだろう。スタンリ

辞任後、息を吹き返したかのように、ルウェリン=スミスは自らのイニシアチヴで、商務院の新た

な再編案を打ち出した。すなわち、政策立案部門と行政執行部門を再度統合し、事務次官とは別に、

それより格上の副長官職Vice-Presidentを設ける、という案である。これにおいては、もちろん彼自

127第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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身が副長官職に就くことが想定されていた。大蔵省の見たところ、当時パリ講和会議や国際連盟関

連の実務のため長期の海外駐在を重ねていたルウェリン=スミスは、これにより、海外での実務と

商務院における地位保全の両立を図ろうとしたのである。大蔵省は副長官職の新設には難色を示し

たものの、戦時中を通じて商務院、および軍需省のトップとして戦時体制の中枢に位置していたル

ウェリン=スミスの権威は絶大であり、結局彼を主席経済顧問 Chief Economic Adviserという新設

の特別ポストに昇格させるという妥協がなされた。これとともにルウェリン=スミスは、1907年以

来務めてきた事務次官職を退任した 。後任には、マンチェスター大学経済学講座教授として 1916

年に商務院の政策顧問の地位に就き、1918年に商務院の常勤職に就いたばかりというチャップマン

Sydney Chapmanが、異例の昇任を果たした。

ルウェリン=スミスが新たに就任した主席経済顧問という地位は、一切の雑務や行政に関する

実務を免除され、広い視野に立って経済復興策のための助言を行うという目的を担っていた 。彼

自身、当初はこの地位に多大の期待をかけていたようである。しかしながら、主席経済顧問は、商

務院内部においては、次第に単なる名誉職のような地位に祭り上げられていくこととなった。まず

大蔵省の反対によって、主席経済顧問は商務院事務次官の上官としての地位を認められなかった。

これにより、かねてから希望していた商務院副長官としての機能を主席経済顧問に担わせようとす

るルウェリン=スミスの狙いは、かなわないこととなった。また、主席経済顧問に直接所属する部

局はなく、一名の秘書がつくのみであった。さらに、彼は国際連盟においてイギリスの経済部代表

を務めていたため、主席経済顧問在任中の 1919~1927年の間、おおよそ年に三、四ヶ月はジュネー

ヴに滞在していた。こうした事情から、1919年に事務次官を退任して以降、商務院における彼の影

響力は失われていった。こうして、長期間にわたって商務院のみならず、官僚機構全体において絶

大な影響力をもち続けたルウェリン=スミスの時代は、終焉を迎えることとなったのである 。

一方 1919年 8月には、内地輸送を管掌する閣外省である運輸省が創立され、商務院の鉄道・港湾・

運河管理機能は同省によって吸収された。運輸省新設の背景には、鉄道の老朽化、商務院による鉄

道運賃抑制政策に伴う納税者負担の増大、内地輸送手段の管理が鉄道を管理する商務院と道路を管

理する道路委員会 Road Boardに分掌されていることから起因する鉄道・道路間の過当競争などと

いったことから、運輸政策の抜本的な見直しを求める機運が高まっていたという事情があった 。

いずれにせよ、ルウェリン=スミスによれば、商務院にとって、長い歴史をもつ鉄道管理機能を失っ

たことは、比較的近年に手にしたばかりの労働政策機能を失ったことをはるかに上回る打撃であっ

た 。輸出産業のコストを大きく左右する鉄道運賃規制の問題は、商務官僚にとってそれだけ重要

性をもつ問題であったということだろう。

こうして、1919年にかけて数度の再編を経た結果、大戦間期における商務院機構の大枠が整うに

至った。その概略をまとめておこう。政策立案部門と行政部門に大別された商務院部局の内、前者

の政策立案部門には、対外的通商政策を担当する通商関係・条約局 Department of Commercial

Relations and Treatiesと国内産業政策を担当する産業・製造業局 Department of Industries and

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Manufacturersが置かれ、後者の行政部門には海事商船局Mercantile Marine Department、企業局

Companies Department、破産管理局 Bankruptcy Service and Companies Department、特許局 Patent

Officeが置かれた。その他、両部門の総務を担当する総務各局、および商務院の傘下にあるが独立し

た部局である炭鉱局Mines Department、海外貿易局 Department of Overseas Trade、輸出信用保証

局 Export Credits Guarantee Departmentが存在した 。

この内、ハイド委員会が商務院の輸出貿易偏向を是正するため勧告し、設立されたのが産業・製

造業局である。同局は戦後における国内産業の復興を促進すべく、今で言うところの産業組織政策

を積極的に立案することが期待されていた。しかしながら、1919年以降飛躍的に強化されるに至っ

た大蔵省統制が、同局の成長を阻害した。1920年にかけて、商務院は、同局には最低でも 7名以上

の上級官僚が必要であると大蔵省に要求したが、6名しか認められず、同局のトータルのスタッフ数

も 1920年代前半を通じてわずか 29名に留まった。しかも彼らは、1920年に制定された染料輸入規

制法 Dyestuffs Actや 1921年の産業保護法 Safegurading of Industry Actのための調査に従事するこ

ととなり、ほとんどその調査に全労力を費やされたため、本来の任務である産業組織政策の立案に

はほとんど関与できなかった 。

これに対し、対外的通商政策の立案に従事する通商関係・条約局は、前身の通商局と同様、商務

院の中核としての地位を保ち続けた。戦後の混乱期には通商条約の新たな締結が相次ぎ、同局の任

務の重要性が広く認知されていたこともあり、ハイド委員会勧告後に設立された新設部局に対して

は容赦ない緊縮を加えた大蔵省も、同局の要請に対しては寛大であった。その結果同局は、1923年

には 2名の上級官僚職の増員を含め 18名から 22名への常勤スタッフの増員を認められたのであ

る 。こうして、輸出貿易偏重という商務院の性格は、大規模な機構改革を経ても、しばらくの間

解消されないまま残ったと言える。

ルウェリン=スミスの後任として 1919~1927年に事務次官職にあったチャップマンもまた、こう

した商務院の伝統を受け継ぐのにふさわしい人物であった。元々ランカシャー木綿工業を専門に研

究していたチャップマンは、輸出産業のエキスパートであり、1903年以降の関税改革論争の際には、

自由貿易陣営の側に立って論陣を張ったという経歴を有していた 。彼の確固たる自由貿易主義

の信念は、商務院入省後も維持され、政府による積極的産業政策の展開にも否定的であり続けた。

また、1920年代を通じて産業・製造業局局長であったアシュリ自身、元来は商務局において主に対

外的通商政策に従事しており、1920年代においても、産業への国家干渉を通じて議会が利益集団の

争いの場となることを憂慮し続けていた 。こうして商務院改組の後も、チャップマン、アシュリ

によって率いられた産業・製造業局には、輸出貿易偏重のバイアスが残り続けることとなった。実

際、1921年に制定された産業保護法によって、商務院産業・製造業局は保護対象産業の選定を行う

ことになったが、その審査基準はきわめて厳しく、1920年代を通じて最小限の産業にしか保護の適

用は認められなかったのである。

こうして、労働政策、鉄道政策機能を失ったとはいえ、1920年代の商務院は、輸出貿易の振興を

129第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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至上の任務とするという、戦前からの性質を保ち続け、通商局の後身である通商関係・条約局が看

板部門であり続けた。同時期の商務院があげた最大の政策的成果の一つが、受取不能となった輸出

代金を相当額輸出業者に保証するという内容の輸出信用保証制度であったということもまた、この

ことの例証になろう 。しかしながら、戦時中の組織再編によって、対外的通商政策の面において

も、商務院は痛手をこうむった。独立部局としての海外貿易局の成立がそれである。

(2) 商務院・外務省間の暗闘と海外貿易局の発足

1917年、商務院と外務省との間の激しい権益争いを妥協させるべく、等しく両者の統制下に置か

れはするものの、独立部局である海外貿易局が設立された。この異例な措置は、商務院と外務省両

者にとって不満の残る妥協ではあったが、これに至っては複雑な経緯があった。

19世紀以来、イギリスの対外的通商政策に関する権限は商務院と外務省に分掌されており、1882

年以降は双方が独自の通商局を擁するに至っていた。1880年代以降徐々に通商担当官 Commercial

Attacheを増員した以外は、通商政策にほとんど関心を示さなかった外務省に対し、商務院は特に

ジョゼフ・チェンバレンが長官を務めた 1880年代以降、通商振興策に熱心に取り組むようになり、

1886年には商務院ジャーナル Board of Trade Journalを創刊し、1899年には通商局内に通商情報部

Commercial Intelligence Branchを創設するなど、特に情報面で大きな貢献を果たした 。こうした

状況において、両者の関係において深刻な争点となったのは、領事 Consulars、通商担当官をめぐる

問題である。第一次大戦前の時期においては、商務院と外務省は、後者が領事、通商担当官、その

他の外交官から通商に関する情報を収集する一方で、前者がそうして収集された情報を分析し、産

業界に配布する、という形で分業していた。しかし、商務院は通商政策に不熱心な外務省の関与を

嫌い、権限の拡大を望んでいた。商務院は領事、通商担当官と直接接触できるようになることを希

望しただけでなく 、1908年以降自治領各地に派遣されていた商務院独自のスタッフである通商

コミッショナーTrade Commissionerをして、外務省所属の通商担当官にとって代えようとするに

至った 。このように、戦前期においては、商務院が外務省通商局の機能を併呑する方向に動いて

いたと言える。しかしながら、大戦の勃発を契機に、こうした状況は大きく変化するに至った。

大戦が長期化し、総力戦の様相を呈してくるに従い、経済封鎖の手段となる通商政策の重要性は

飛躍的に上昇した。その結果、外務官僚は戦時中に通商政策に対する関心を著しく高め、逆に商務

院の機能を外務省の下に併呑しようとするに至る。これにともない、商務院と外務省との間で激し

い暗闘が生じるに至ったのである。

組織上の問題に留まらず、商務院と外務省は、そもそも通商政策に関する基本的な見解において、

大戦初期から既に軋轢を生じていた。開戦にともなう平時通商の分断に乗じ、1914年から 1915年に

かけて、ドイツに近接する中立国へのイギリス輸出貿易は戦前より 300%以上増大するに至ったが、

中立国からドイツへの再輸出が可能である以上、これはイギリスによるドイツの経済封鎖を骨抜き

にする危険を有するものであった。そこで外務省はこれに統制を加えようと試みたが、商務官僚は

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輸出貿易の伸張がイギリスの戦争遂行能力を高めると主張し、統制措置に反対した。結局、1915年

末に対敵国通商法 Trading with the Enemy Actが制定され、イギリスの輸出貿易に対する統制は大

幅に強化されることになったが、貿易禁止の対象となる外国企業のブラックリストを作成する任務

を命じられたのが商務院でなく外務省であったことは、通商政策に関する後者の権限拡大を象徴す

る事例であった 。

一方、こうした外務省の発言力強化に危機感をもった商務院は、1916年になると、自らの通商政

策機能強化に向けて動き出した。通商情報部が局に昇格し、その機能が強化された他、ルウェリン=

スミスは外務省に対し、同省に所属してきた通商担当官を商務院に所属する通商コミッショナーに

転換させることを求める公式の申し入れを行った。これに対し、外務省は省内委員会を設置して商

務院の提案を協議したが、委員会の結論は真っ向から商務院に対立する内容であった。すなわち委

員会報告書は、商務院による情報収集活動や実業界との調整活動の現状を真っ向から批判し、そう

した欠陥を是正すべく、外務省に通商情報機能を一元化すべきと提言した。もちろん、通商担当官

に関する商務院の要請は一顧だになされなかった 。

商務院も外務省も一歩も退かず、両者はきわめて険悪な関係に陥った。商務長官ランシマンの強

硬な主張を前に、同じ自由党に属する外相グレイ Sir Edward Greyは、一旦は商務院の要請に応じ

る態度を示したが、外務官僚の激しい反発により翻意せざるを得なかった。外務省通商局長ウェル

ズリーVictor Wellesleyによる次のコメントは、外務官僚にとっての問題の所在を明らかにしてい

る。「通商と政治との漸進的かつ恒久的な分離、これこそ海外貿易事項に対する商務院の排他的なコ

ントロールが究極的に帰結するところのものだ」 。

結局、この問題は、ランシマンとグレイが共同で任命するところの委員会の審議に任されること

となった。委員会構成員は、産業資本家・金融業者のファリンドン卿 Lord Faringdon(議長)、イ

ギリス産業連盟 Federation of British Industriesを代表するドッカーDudley Docker、全国商業会議

所を代表するペンファーザーD.F.Pennefather、および外務省代表として通商局長ウェルズリー、商

務院代表として通商情報局長クラークWilliam Clarkeから成る 5名である。しかし、1917年 4月に

提出された委員会報告は、商務院見解に近い少数派報告(議長のファリンドンとクラークが署名)

と外務省見解を支持する多数派報告(ドッカー、ペンファーザー、ウェルズリーが署名)に真っ二

つに分裂した 。ドッカーとペンファーザーの両名が外務省見解の支持にまわったことは、この期

に至っても、商務院が長年こうむってきた企業家の猜疑心を克服するまでには至っていなかったこ

とを示唆していよう。

ルウェリン=スミスは、ファリンドンが作成した少数派報告が通商情報機能を商務院の内部に置

くとしつつも、通商担当官を従来通り外務省の管轄下に置くと勧告していた点に不満を表明したが、

次善の策として、少数派報告に署名するようクラークに支持した 。外務省寄りの報告書の方が多

数派とは言っても、賛否は 3対 2と拮抗していたため、半年間にわたって活動してきた委員会の結

論も、結局膠着状況を打開させる決め手にはならなかった。

131第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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これに先立って、1916年 12月にはアスキス首班からロイド=ジョージ首班へと政権が交代し、商

務院長官と外務大臣もそれぞれスタンリとバルフォアArthur James Balfourに交代していたので、

バルフォアに代わって外務省の実務をとりしきっていた同省政務次官ロバート・セシル卿 Lord

Robert Cecilとスタンリとの間の政治レベルで、問題の最終的な決着が図られることとなった。海

外貿易局が成立する経緯に関する唯一の詳細な研究であるホーマーの学位論文によればスタンリと

セシルとの間の交渉の記録は残存していないとされているが 、筆者は商務院文書中に交渉の記

録を発見することができた。それによれば、交渉はインド大臣モンタギューEdwin Montaguの仲介

を経て行われた。モンタギューは和解案を提示したが、これは、より妥協的内容であったファリン

ドン委員会少数派報告に主に依拠した内容であった。すなわち、通商担当官管轄権を従来通り外務

省に認めつつ、通商情報の管理機能は商務院の下に一元化しようという案である。すなわち、「私の

確固たる意見によれば、国内と海外を問わず通商に関する情報を我が国において収集し提供する役

割は、単一の組織に属すべきである。他のいかなる方策をとっても、それは混乱に陥るだけであろ

う。通商は、純粋に地勢上の原則に基づいて分割できない性質のものであり、国内通商と対外的通

商からそれぞれ発生する要求に対し、別々に対処することはできない。……私が勧告するところの

新設部局は、現存する商務院の通商情報局と外務省の海外貿易局を戦後包摂することとなる。……

この部局のトップには、商務院に新たに加えられる政務次官が就き、商務長官の管轄下に置かれる

こととなる。こうして商務院は、全体としてイギリス通商のニーズに対処する完全で唯一の責任を

負うこととなる。しかし、外交が通商と分離されないようにするためには、更なる措置が必要であ

ろう。この目的に即して、私は以下のことを提案する。外交政策に影響しそうな全ての事案に関し

て、〔新設部局の〕長は、外務大臣に直接報告する義務を負う」 。

このような商務院寄りのモンタギューの和解案にスタンリは同意したが、セシルは、通商情報を

収集する領事・通商使節を外務省が独占的に傘下に置く一方で、収集された資料を商務院が独占的

に管轄することにともなう不都合を指摘し、モンタギュー案に異議を唱えた。そして次のような対

案を提示した。「私が思う適切な解決策は、以下の通りである。〔新設〕部局の長は、実際上は商務

院と外務省の両者に責任を負い、理念上は両者から独立した存在とする。……彼は商務院関連事項

に関しては商務長官に相談し、直接間接を問わず外国との関係に影響する問題に関しては外務大臣

に相談するものとする」 。

スタンリとモンタギューは反発したものの、結局このセシルの案が最終的に通り、1917年 8月に

は商務院の通商情報局と外務省の海外貿易局を統合して、独立部局たる海外貿易局 Department of

Overseas Tradeが発足した(1916年に外務省通商局は海外貿易局 Foreign Trade Departmentに再

編され、商務院通商情報部は局に昇格していた)。海外貿易局は、商務院と外務省の兼任政務次官を

務めるスティール=メイトランド Sir Arthur Steel-Maitlandによって統括されこととなり、初代局

長には商務院通商情報局長であったクラークが就任した 。このように、商務院と外務省との激し

い暗闘を妥協させるために、二つの省に同時に所属する独立部局の新設という、はなはだ異例の措

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置がとられたのである。

海外貿易局は、通商担当官と通商コミッショナーを監督する権限を有していたものの、外務省の

抵抗により、領事を管理する機能を得ることはできなかった 。商務院にとっては、従来独占して

いた通商コミッショナーを監督する権限、および通商情報管理機能が独立部局に移管されたわけで

あり、きわめて不満が残る解決のされ方ではあったろう。しかし、外務省が海外貿易局との関わり

を露骨に軽視するスタンスを示したがゆえに、商務院は海外貿易局に対する実権を掌握するに至る。

すなわち、海外貿易局が発足した際に交わされた合意事項によれば、商務院と外務省は海外貿易局

にそれぞれ人員を派遣し、人材間の交流を促進することとなっていた。しかしながら、外務官僚は

海外貿易局への派遣を事実上の左遷とみなしており、スティール=メイトランドが控えめに 6名の

上級官僚派遣を外務省に要請したのに対し、同省からは結局 2名しか派遣されなかった。その結果、

海外貿易局のほとんどの人員は、商務院通商情報局出身者によって占められることとなったのであ

る 。戦後になると、外務省は戦時中に一時的に高揚させた通商政策への関心を再び薄れさせるに

至った。局長が商務院出身のクラークであったこともあり、海外貿易局に対する商務院の影響力は、

外務省の影響力を大きく上回るに至ったのである。

しかしながら、こうした状態を以て商務院が満足したわけではなかった。1919年に発表された

オークランド・ゲデスの報告書を好機として、商務院は海外貿易局の併合に乗り出すこととなる。

すなわち、当時復興担当大臣であったゲデスは、二重の管轄権をもたれている海外貿易局の特異な

組織を不健全と指摘し、商務院が同局を併合することを提言する報告書を作成した。当然ながら商

務院はゲデス報告を支持したが、スティール=メイトランドと外務省は反発し、ここに商務院と外

務省との対立が再燃するに至った。ロイド=ジョージ内閣は、ケイヴ卿Viscount Caveを長とする

委員会にこの件に関する検討を委任することとした。委員会の活動が開始する以前にゲデス自身が

商務長官に就任し、商務院にとってはきわめて好都合な状況が整うこととなる 。

委員会のヒアリングにおいて、ゲデスは商務院のために強力な論陣を展開した。彼によれば、海

外貿易局は事実上「通商政策局」Commercial Policy Departmentに変容しつつあり、商務院の機能

を奪いつつある。さらに、外務省は以前は商務院に助言を求めていた通商事項に関して、今や海外

貿易局に助言を求めるに至っている。こうした状況を解消するため、海外貿易局は商務院によって

合併される必要があり、通商担当官は商務院の管轄下に置かれるべきである。ゲデスの証言に引き

つづき、商務院からは通商関係・条約局長ファウンテンHenry Fountain、産業・製造業局長アシュ

リ、およびチャップマンが出席して証言を行った。彼らは、海外貿易局が商務院の権限を侵犯し、

事実上通商政策の立案に従事している具体例を挙げてゲデスの議論を補強した。一方、講和会議の

ためパリに滞在しており委員会証言に出席できなかった事務次官ルウェリン=スミスは、同じパリ

に滞在していた外務官僚に対し、外務省が領事・通商担当官を所管することを認める代わりに、海

外貿易局を解散し、一切の通商情報機能を商務院に復帰させるという妥協案をもちかけたが、結局

拒絶された 。

133第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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このように、商務官僚の一連の動きからは、彼らが通商情報管理機能をいかに重視していたかが

窺える。それがゆえに、海外貿易局が商務院の間接的影響下に置かれるだけでは彼らは到底満足で

きず、通商情報管理機能を直接的に掌握することを望んだのである。対外的通商政策を何よりも重

視し、情報能力を通じて勢力を拡大してきた商務官僚の体質というものを、このケースはまざまざ

と示しているように思われる。

1919年 7月、ケイヴ委員会は最終報告書を提出したが、4名の委員の内、議長ケイヴを含む 3名

が多数派報告に署名し、ファリンドン委員会の委員でもあった残るドッカーのみが少数派報告に署

名した。ドッカーは前の委員会において主張したのと同様に外務省への海外貿易局吸収を主張した

が、これに対し多数派報告は、これまでのところ目立った不都合が生じていないことを根拠に、海

外貿易局を独立部局のまま維持することを提唱した 。

内閣は多数派報告を受け入れ、海外貿易局の存続が決定した。1922年にエリック・ゲデスを長と

する経費削減委員会が海外貿易局の廃止を勧告したが、これも容れられず、結局海外貿易局は 1946

年に至るまで存続した。海外貿易局は形式的には商務院と外務省による二重の統制をこうむりつつ、

事実上商務院の付属組織としての性質を維持していくこととなった。

結 び

第一次大戦前には商務院の下で急進的な労働政策が急展開を遂げた一方、商務院から労働省が分

離独立した後 1920年代にかけての労働政策は停滞を続けた。ロドニー・ロウは当時の労働省を指し

て、「社会改革の墓場」と呼んでいる 。対照的に 1920年代には、地方行政院の組織を継承して創

設された保健省Ministry of Healthが大臣ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlainの指導下、

社会改革立法の中心となるに至った。一見、このような状況は、労働省の分離独立に対するルウェ

リン=スミスの反対論の妥当性を示しているかに見える。実際ロウも、商務院時代から一転して労

働省発足以降労働政策が停滞を続けた第一の要因を、労働省からルウェリン=スミスやベヴァリッ

ジのような有能な革新官僚が失われたことに求めている 。

しかしながら、商務院から労働省が分離独立したことが、かえって逆効果をもたらしたと本当に

言えるだろうか? このような見解が正しいとするならば、仮に商務院が労働政策機能を保持し続

けたとすれば、1920年代においても積極的な労働政策が展開されたということになろう。ところが

実際には、1920年代を通じて、商務官僚は産業自治路線を堅持し、産業に対する非介入方針を貫い

た 。ルウェリン=スミスもまた、1924~1929年に活動した産業不況の脱却案を調査するためのバ

ルフォア委員会の指導的委員として、専ら産業の自助努力に委ねるという趣旨の最終報告書に署名

している 。

このように、労働党が政権に就いた短期間を除き、保守党がヘゲモニーを掌握していた 1920年代

においては、商務官僚は積極的な労働政策に向かうモチベーションを全くもたなかったと言える。

したがって、戦前に急進的な労働政策を展開したからと言って、商務官僚が進歩的な習性をもつと

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みなすことは避けねばならない。これに対し、同時期の労働省が労働政策に関して無策であったと

しても、以下のことも事実であった。すなわち、1926年のゼネストが労働側の完敗に終わって以降、

保守党政権は労働組合弾圧立法に着手したが、当時のスティール=メイトランド労働大臣、および

労働官僚は弾圧立法に一貫して抵抗し続けた 。戦前の商務官僚が労働組合への強圧政策に対し

て示した好意的な姿勢とは好対照であったと言えるだろう。1930年代に入ると、労働省は政策展開

の面でも、急速に存在感を高めるに至り、第二次大戦期には労働党のベヴィン Ernest Bevinの下で

重要省庁としての地位を確立した 。このように、商務院から労働省が分離独立したということ

は、通商政策への配慮という から労働政策が解き放たれたということを意味していたわけであ

り、そのことの積極的な意義が見落とされるべきではないであろう。

一方、第一次大戦中に大規模な再編をこうむった商務院は、それにもかかわらず、戦後にかけて、

輸出貿易振興を最大の使命とする性質を維持し続けた。イギリス輸出貿易は第一次大戦を契機に大

幅に低迷するに至ったけれども、1920年代を通じて商務官僚は伝統的なヴォランタリズム路線に固

執し続けた。したがって、1920年代に至るまで、商務院は大枠では 19世紀におけるファーラーの伝

統の中に留まっていたと言えるだろう。しかし、1930年代の世界恐慌期を転機に、商務院の産業非

介入という方針に徐々に修正が加えられていくこととなる。すなわち、商務院があくまで強制を通

じてでなく、助言者としての立場で、産業組織政策を推進していくという、産業外交 industrial diplo-

macyと呼ばれる政策が木綿工業などの衰退産業の分野で展開されていくこととなり、重要な成果が

あげられた。商務院による産業外交は、第二次大戦戦後にまで持ち越されていくこととなる 。産

業外交に関して先駆的な研究を行っているロバーツは指摘していない点だが、商務院の産業外交を

成功に導いた重要な一因には、商務院が労働政策機能を失った結果、労働組合との関係を断たれた

ため、商務院に対する経営側の伝統的な猜疑が薄められたということがあったのではないだろうか。

そうだとすれば、ルウェリン=スミスによって激しく抵抗された労働政策機能の分離も、長期的観

点からすれば、商務院にとってプラスに作用したとも考えられよう。

このように見てくれば、失業保険制度をはじめとする、自由党政権下における商務院の急進的な

政策展開は、様々な要素があわさった結果はじめて可能となった現象であり、容易に再現可能なも

のではなかったと言えるだろう。

( 1)J.A.M.Caldwell,‘Social policy and public administration 1909-1911’,University of Nottingham Ph.D.thesis,

1956,Appendix 1 to Chapter VIII.

( 2)Ibid.,Appendix 1 to Chapter IX.

( 3)R.Roberts,‘The Board of Trade,1925-1939’,Oxford University Ph.D.thesis,1986,p.7.

( 4)地方行政院在籍時のバーンズの政策的姿勢に関しては、J.A.M.Caldwell, ‘The genesis of the Ministry of

Labour’,Public Administration,Vol.37,1959,pp.376-379.

135第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編

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( 5)以上、Rodney Lowe,‘The Ministry of Labour,1916-1924:a graveyard of social reform?’,Public Administration,

Vol.52,1974,pp.416-419.

( 6) Ibid.,p.417.

( 7)Public Record Office(PRO),LAB 2/213/L 156/1904,dated 2/2/1904.

( 8) Ibid.,Marginalia by Llewellyn Smith.

( 9 ) Ibid.,Memorandum by Llewellyn Smith,dated on 4/2/1904.

(10)House of Commons Parliamentary Papers,1912-13,Vol.XV,Cd.6535,Royal Commission of the Civil Service,

Minutes of the evidence,Q.13,329.

(11)参照、Roger Davidson,‘War-time labour policy 1914-1916’,Scottish Labour History Society Journal,No.8,

1974.

(12) Jose Harris,William Beveridge: A biography,Revised ed.,1997,pp.226-227.

(13)R.Lowe,Adjusting to democracy: The roll of the Ministry of Labour in British Politics,1916-1939,Oxford,

1986,p.67.

(14) Ibid.,pp.28-29,65-66.

(15)British Library of Political and Economic Science,Passfield Reconstruction Papers,Vol.III,Part A,or Passfield

13/3,Minutes of Machinery of Government Committee,pp.775-776.

(16)House of Commons Parliamentary Papers,1918,Vol.XII,Cd.9230,Report of the Machinery of Government

Committee,pp.41-42.

(17)Lowe,Adjusting to democracy,p.37.

(18)Roberts,op.cit.,pp.12-15.

(19)スタンリの経歴に関しては、Ibid.,p.18.

(20) Ibid.,p.20.

(21)PRO,BT13/134,Report of Sir Clarendon Hyde’s Committee on the reorganisation of the Board of Trade,pp.

1-3.

(22) Ibid,p.3.

(23) Ibid.,pp.3-10.

(24) Ibid.,pp.6-7.

(25)Roberts,op.cit.,pp.22-24.

(26)以上、Ibid,pp.24-28.

(27)Sir Hubert Llewllyn Smith,Board of Trade,1928,pp.239-241.

(28)Roberts,op.cit.,pp.28,34.

(29)Sir Gilmour Jenkins,The Ministry of Transport and Civil Aviation,London,1959,pp.34-35.

(30)Llewellyn Smith,op.cit.,pp.236-237.

(31)Roberts,op.cit.,Appendix I.

(32) Ibid.,pp.30-31.

(33) Ibid.pp.32-33.

(34)参照、Sydney Chapman,A reply to the report of the Tariff Commission on the Cotton Industry: Written for

the Free Trade League,London,1905.

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(35)Roberts,op.cit.,pp.42-43.

(36)初期の同制度に関しては、参照、Export Credits Guarantee Department, A History of ECGD 1919-1979,

London,1979,pp.7-12.

(37)D.C.M.Platt,Finance,Trade,and Politics in British Foreign Policy: 1815-1914,Oxford,1968,pp.375-378;J.

F.X.Homer,‘Foreign trade and foreign policy:The British Department of Overseas Trade,1916-1922’,University

of Virginia,Ph.D.thesis,1971,pp.25-40.

(38)PRO,T 1/11093/6763,‘Memorandum on the position of the Board of Trade’.

(39)Homer,op.cit.,pp.40-50.

(40) Ibid.,pp.65-68.

(41) Ibid.,pp.83-92.

(42) Ibid.,pp.99-106.

(43)House of Commons Parliamentary Papers,1917-18,Vol.XXIX,Cd.8715,Memorandum by the Board of Trade

and the Foreign Office with respect to the future organisation of Commercial Intelligence.

(44)Homer,op.cit.,p.125.

(45) Ibid.,p.128.

(46)BT 13/134,Memo by Edwin Montagu,21/6/1917.

(47) Ibid.,From Cecil to Montagu,2/7/1917.

(48)商務院に所属する独立部局たる炭鉱局Mines Departmentが発足して以降、商務院は三人の政務次官を擁する

に至る。商務院プロパーの政務次官、海外貿易局の長を兼ねる政務次官、および炭鉱局の長を兼ねる政務次官で

ある。

(49)Homer,pp.144-145.

(50) Ibid.,pp.152-156.

(51) Ibid.,pp.183-187.

(52)以上、Ibid.,pp.188-192.

(53)House of Commons Parliamentary Papers,1919,Vol.XXX,Cmd.319,Report of the Government Machinery

Committee,pp.47-48.

(54)Lowe,Ministry of Labour.

(55) Ibid.,pp.432-436.

(56)Roberts,pp.38-46.

(57)House of Commons Parliamentary Papers,1929,Final Report of the Committee on Industry and Trade.

(58)Lowe,Adjusting to democracy,pp.108-109.

(59) Ibid.,Conclusion.

(60)Roberts,op.cit.,Chapter 6.

137第一次大戦期イギリスにおける労働省の創立と商務院の再編