八世紀後半のイタリアとビザンツ フランク ローマ …...(1)...
TRANSCRIPT
Hitotsubashi University Repository
Title 八世紀後半のイタリアとビザンツ フランク ローマ教皇
Author(s) 渡辺, 金一
Citation 一橋論叢, 53(5): 551-577
Issue Date 1965-05-01
Type Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL http://doi.org/10.15057/2997
Right
( 1 ) 八 世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク
,ロ
ー
マ 教皇
叶
叫
八
世
紀後半の
イ
タ
リ
ア
とビ
ザン
ツ、
フ
ラ
ン
ク、
ロ
ーマ
教皇
八
世
紀前
半の
キ
リ
ス
ト
教世
界で
は
そ
の
東半
部で
も西
半
部で
も、
そ
れ
ぞ
れ一
つ
の
王
朝が
対
イ
ス
ラ
ム
防衛戦を
通
じ
て
歴虜の
舞台に
脚光
をあ
び
な
が
ら
登
場し
た。
そ
の
一
つ
は、
七一
七
年八
月に
は
じ
まっ
た
ア
ラ
ブ
軍の
海陸か
らの
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
包
囲に
よ
く
耐え
、
ま
る一
年後に
ア
ラ
ブ
艦隊を
首都海域か
ら
撃退
した
レ
オ
ン
三
世の
「
イ
サ
ウ
リ
ア+
朝で
あ
り、
い
ま一
つ
は
そ
の
十五
年後
、
ス
ペ
イン
か
らピ
レ
ネ
ー
を
越え
ガ
リ
ア
に
進撃する
ア
ラ
ブ
軍を
七三
二
年
ポ
ワ
テ
ィ
エ
の
野に
逝え
撃っ
た
がー
ル
・
マ
ル
テ
ル
の
カロ
リ
ン
グ
朝で
あっ
た。
キ
リ
ス
ト
教世
界の
続く
八
世
紀の
展開に
た
い
し、
こ
の、
ビ
ザン
ツ
帝国の
「
イ
サ
ゥ
リ
ア+
朝と
フ
ラ
ン
ク
王
国の
カロ
渡
遽
金
一
リ
ン
グ
朝と
は、
ま
す
ま
す重
要な
役割
を
演
ずる
よ
う
に
な
る。
しか
し
対イ
ス
ラ
ム
防衛の
た
た
か
い
で
は
と
もに
キ
リ
ス
ト
教世
界の
勇者で
あっ
て
も、
こ
の
両
朝が
キ
リ
ス
ト
教
世
界
の
なか
で
歩む
途は
異なっ
て
い
た。
も
と
も
と、
中世キ
リ
ス
ト
教世
界の
なか
で
両
朝の
堅
持す
る
政
治
的
イ
デオ
ロ
ギ
ー
に
は
本
質上
相い
れ
ない
もの
が
あっ
た。
すで
に
四、
五
世
紀の
ゲ
ル
マ
ン
民
族大
移動の
と
き
西
半
部領土
が
実際の
支
配か
ら
ずり
お
ち
て
し
まい
、
六
世
紀の
ユ
ス
テ
イ
ニ
ア
ヌ
ス
に
よ
る
「
再
征
服+
の
成果
も
ま
すま
すあ
や
しい
雲
行き
に
なっ
て、
東半部を
領有する
に
すぎ
な
く
なっ
た
に
も
か
か
わ
ら
ず、
J
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ヌ
ス
以
来の
キ
リ
ス
ト
ヽ
ヽ
数ロ
ト
マ
世
界帝国理
念を
けゥ
して
放
す
ま
い
と
する
の
が
「
イ
サ
ウ
リ
ア+
朝の
立
場■■で
あ
り、
他
方、
い
ま
や
西
方の
諸
イ⊥
部族国
家を
統一
しっ
つ、
東方の
「
ギ
リ
シ
ア
人の
帝
国+
と
朗
一
橋 論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 )
肩を.な
らべ
・
るキ・リ・ス・卜
莞㈲叫叫
利一
∫
.サ
.
叫
療治勢力と
し
て
卑ら
冬意識し
は.
じ
め
たわ
.
が
奉が
サ∵
ル
け卸ゆ
桓陽たっ
た
か
らで
あ
る。
政治
的イ
デオ
ロ
ギ
ー
上
で
の
こ
の
立
場の
相
違と
な
らん
で、
両
朝の
宗教政
策上の
立
場に
も
微妙な
差異
が
あっ
た。
一
レ
オ
ン
三
世、
.ユ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世
賢一
人
の.「
心
コ
ノ
ク
テス
ム
皇
帝+
。
が
表看板に
か
か
げ
た
ビ
ザ
ン
ツ
帝国東方
属州の
神租
主
義に
たい
して
、
フ
ラ
ン
ク
王
国の
な
か
に
は、
の
ちに
カ
ー
ル
が
七
九
四
年の
フ
ラ
ン
ク
フ
ル
ト
宗教
会議で
表明
する
よ
う
な、
「
偶像破
壊+
を
も
「
聖
像
崇
拝+
を
もし
り
ぞ
け+
像を
む
し
ろ
宗教的
な
思い
出の
た
めの
しる
しと
考え
る
宗教
感情が
流れ
て
い
た
の
で
あ
る。
ニ
の
両
朝を
直接の
]
父
渉関
風.
に
ひ
き
い
れ
る
端緒と
なっ
た
の
が、
引.㌻
れ+
てハ
.ル
ド.玉.固持.よ.そ
ビ
ザ
ン
ツ
の
イ
タ
リ
ア
支
-~
-I
≡,
1
1
f一l
て
l
一■
・■▲■◆†
`
呈-
-
1
′
1
:-
■
■
1
.▲【
..r
■t
l
・111
--
配の
最大の
拓点
ラ
グ
㌻ナ
の、古風
(
七
五
こ.耳むケ
た。
八
世
紀後半は
、
こ
うし
て
開か
れ
た
両
朝の
あい
だ
の
交
渉関
係
が
ま
すま
す複雅多岐に
わ
た
っ
て
展開し
て
ゆ
く
五
〇
年間で
あっ
た。
こ
の
過
程の
さ
なか
で
中
世キ
リ
ス
ト
教
せ
界そ
の
も
の
も
次
第に
く
ま
ど
り
を
与
え
られ
て
くる
。
そ
し
て
こ
の
両
朝
の
あ
い
だ
に、
も
は
や
無視で
き
ない
射
手町
勢力と.し
て
介在
し
七
く句の
が、:
..い
.
シまで
針な
くロ
ー
マ
.教皇
庁
であっ
た。
一=
】ノ
ユ
ーー
.
′J一
声
.‖「
■「.壬、
、..1
.i
..■′
′
i
.ノ一
∵
卜.
汁
J
′V
。
こ
ノ
ノ
〓
こC
て.町引
叫判ノヘ
+ハ
蟄二
七五
三
年「ロ
ー
マ
毅漫
.
ヰ、
す.ワげ
.沫
ド
壬あ
5 ∂2
㌃
熟川
‥
レ
がが
、
い
ダイ
ア
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
宮廷で
免
召いウ
ル
け圧ての
交渉が
失敗し
た
後、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰還す
る
ビ
ザン
ツ
使節と
わ
か
れ
て、
ひ
と
り
北
上を
つ
づ
け、
ゝ郭
山
割
郵
初
頭フ
ラ
ン
キ
ア
入り
を
し、
ピ
ピ
ン
と
その
二
人の
息子.カ
ー
ル
と
カ
+
心
マ
ン
■に′甥ン
ティ
か
ン
■で
塗油をほ
どこ
レ、
同時に
こ
の
三
人
に
嘗→
賢十
ぎ2
呂b
2日
な
る
称号を
授け
た。
.
ロ
ー
マ
教
皇に
よ
る
こ
の
称号附与が
、
ビ
ザン
ツ
皇帝か
らの
正
式の
委
託に
よ
る
も
の
か、
そ
れ
と
もそ
れ
は、
ロ
ー
マ
教皇の
、
(
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
ロ
ー
マ
皇
帝と
そ
の
臣
民
た
る
ロ
ー
マ
司
教と
の
間に
当
時に
妥
当
し
た
国
利
的
関
連か
ら
み
る
な
ら
ば)
越権的な
独断行動なの
か。
こ
の
点を
め
ぐる
長い
論争
、
こ
と
に
ガ
ン
ス
オ
フ
と
デル
ガ
ー
の
論
争に
つ
(
1)
い
て、
私自身か
つ
て
展望する
横会を
もっ
た。
さ
ら
に
は、
私な
り
の
中世初期の
概観に
おい
て、
ほ
ぼ
デル
ガ
ー
の
説に
拠り
つ
つ
、
こ
の
ボ
ン
ティ
オ
ン
の
出来ご
と
を
中世キ
リ
ス
ト
教世界の
当時の
歴史
(
2)
的連関の
なか
に
位置づ
け
よ
うと
試み
た。
私が
デ
ル
ガ
ー
の
解
釈を
採用した
の
は、
ポ
リ列
′
〃、
ボJ.唱和叫忍
ヰ=
1
可
醜男の
行為が
キン
引ハ
イサル
/「
プル
の
皇帝の
正
式の
委託に
よ・■つ
でおこ
な
わ
れ、た
\
、。
。`
′
-・
と
理
解し
ない
限り
、
八
世
紀後半の.
「
全駅間針
通じ
て・の
・
ピ
サ.ン
ツ
鴎㌶約
㍑絹
パ叫
叫り
㍍絹
㍑㍑㌍絹
仰
.ぜ
頼
( 3 ) 八 世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,
ロー
マ 教 皇
紳.
、
升
計
らそ
の
際、
こ
の
「
友好関係+
の
実際を
丹念に
迫サ
て
み
る
作巣を
私自身は
怠っ
た。
とこ
ろで
最近オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲ
は
こ
の
「
友
好関
係+
が
実は
起伏に
富ん
だ
もの
で
あ
るこ
と
を
明
か
に
する
と
と
も
に、
そこ
か
ら
ボン
ティ
オ
ン
の
出来事に
た
ちか
えっ
て、
その
意義
(
4)
を
ふ
たた
び
検討し
な
お
す一
論考を
発表し
た。
以
下に
その
趣旨を
記そ
う。
すで
に(
註)
1
の
拙稿で
も
指摘し
た
け
れ
ど
も、
教皇が
フ
ラ
ン
ク
王
と
その
二
人の
息子
に
ボ
ン
ティ
オ
ン
で
旦旨旨粁○
日
昌0
2m
称号をさ
ずけた
事件に
つ
い
て、
史料情況はつ
ぎの
よ
うで
あ
る。
一
、
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世が
フ
ラン
ク
行に
つ
づ
く
年々
に
ピ
ピ
ン
に
あて
た
教皇書簡中で
、
た
し
か
に
ピ
ピ
ン
と
その
二
人の
息子は
問題
の
称号を
帯びて
あ
らわ
れ
る。
勺
首甘ロ○
岩的
-
e
t
-
岩∽t
3
S
p
首T
t
仁
巴-
吉日p
賢→叶
∽
e
仁
C
賀○-
O
et
C
寛-
○
日巴}
○
こn
訂
ヨ→
e
惣b
宏①
t
已い
ユ払
β
仁e
匂
巳ユti
訂
声O
mP
ロ○
コト
芦
COn
訂舛
CP
3-
-
n
忘.
芦
G・
Ep
やH
H
H
2→.
か
(
諾ぃ
)、
N
(
㌶n
)〉
¢
(
諾か
)〉
ロ(
㌶○
…
二、
し
か
し
なが
ら、
匂pt
ユ○
どs
河○
ヨP
nO
コト
ヨ
称号の
附与の
記
事は
、
教皇列伝中の
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世
伝の
な
か
に
も、
また
、
七
五
四
年の
諸フ
ラン
ク
年代記の
な
か
に
も
見当ら
ない
。
三、
フ
ラン
ク
側で
の
こ
の
事件に
つ
い
て
の
初出史料は
七
六
七
年
型ドニ
修道院で
記さ
れ
た
こ
ZOt
]
巨P
PO
仁
nOt
-
○
ロe
へ
∴
ロpp
-
n-
句当p
ロ
QU
2日
e
t
匂pt
→i
c-
叫
声○
ヨP
ロ○
コー
m
で
あ
る。
し
か
しこ
こ
で
も、
ま
ずさい
しょ
ス
テフ
ァ
ヌ
ス
二
世に
よ
る
ピ
ピ
ン
と
そ
の
二
人の
息子へ
の
塗
油の
み
が
語ら
れ、
た
だ
塗抽に
か
ん
し
て
繰返して
の
ぺ
る
くだ
り
で、
教皇はピ
ピ
ン
と
その
息子た
ち
を王
お
よ
ぴ]
盲t
ユc-
岳
と
して
塗油した
旨記さ
れ
て
い
る
に
すぎ
な
い
。
(
芦
G.
∽∽
.
岩→.
巳e
ド
H
会ぃ
f
)
。
四、
教皇側で
の
初出史
料は
、
教皇列伝中の
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
三
世
(
宗∞
-¶
記)
伝で
あ
る
(】
LF
匂O
nt
.
e
P
「
ロ∈U
Fe
平ロ
e
H-
烏山)
五、
ピ
ピ
ン
は
終生
自ら
を
匂Pt
ユc
F払
と
称さ
ず、
また
そ
の
子カ
ー
ル
も、
七
七四
年七
月
お
よ
び
十二
月の
二
文書(
P
内
覧○-
.
竺”
00
○
で
は
じ
め
て
匂Pt
ユ○
ど∽
河○
ヨP
ロ
○
仁
2
を
称える
。
ない
し、
こ
の
二
文書が
十二
世紀の
転写
で
あ
る
とい
う理
由で
それ
を
除き
、
原
本史料の
み
をと
り
あ
げ
る
と
する
な
ら
ば、
カ
ー
ル
は
七
七五
年三
月
の
文書で
は
じめ
て
こ
の
称号を
帯び
て
あ
ら
わ
れ
る
(
D.
吊
寛○-
.
窒)
。
そ
して
それ
以
後概し
て
例外な
く、
こ
の
称号を
自
ら
に
と
な
え
続ける
。
以
上の
よ
うに
ピ
ピ
ン
お
よ
び
その
息子
た
ちが
七五
四
年ボ
ン
ティ
オ
ン
で
ロ
ー
マ
教皇ス
テ
フ
ァ
メ
ス
二
世よ
り
与え
ら
れ
た
匂Pt
ユO
F∽
河○
巨p
ロOr
仁
ヨ
称号は
同時代史料に
、
けっ
し
て
む
ら
な
く
そ
の
ま
ま
あ
ら
われ
ない
。
こ
の
よ
うな
史料情況その
もの
を
は
じ
めて
考察
の
対
象に
と
りあ
げた
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
は、
そ
れ
を、
つ
ぎの
よ
うな
事
情、
すな
わ
ち、
叔
パー■〔小
水
りで
生れ
七
て
㌃之国
王
とロ
・㌧マ
・教
\
く、.
.5一
・・・
′
r
■。
~
■ノ1
皇との
新しい
払す
畔つ
き
を
示すよ
うな
表現が
、
㌢
し
あた
りフ
㌢
ン
ク
側で
も
教皇庁側で
も
見当ら
なか
っ
たこ
と、
と
も
か
く
も
p
守
t
ユc
どs
河○
日p
n0
22
称号は
双
方側が
と
も
に
満足の
い
く
よ
うな
こ
の
種の
表現で
は
なか
っ
たこ
と、
に
も
とづ
か
せる
。
こ
こ
に
い
う
と
こ
ろの
、
ボン
ティ
オ
ン
で
生れ
た
フ
ラ
ン
ク
国王
とロ
ー
マ
教皇と
り
J
の
新しい
む
すびつ
き
と
は、
オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲに
よ
れ
ば、
ピ
ピ
ン
が
ス
お
一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 4 )
テフ
ァ
ヌ
ス
二
世に
た
い
し
て
負うに
い
たっ
た
教皇庁防衛の
義務の
こ
とで
ある
が、
ピ
ピ
ン
に
とっ
て、
教皇との
間に
で
き上
っ
たこ
の
よ
うな
関係を
表現
す
巧言
葉と
して
官t
ユe-
畠
河○
日
昌0
22
の
称号が
ふ
さ
わ
し
く
思わ
れ
な
かっ
た
理
由は
、
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
に
よ
れ
ば、
こ
の
称号が
意味するコ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プ
ル
の
ロ
ー
マ
皇
帝
へ
の
従属関係の
ほ
か
に、
フ
ラン
ク
王
国で
の
pPt
ユ○
どの
の
用法に
あっ
た。
すな
わ
ち、
フ
ラン
ク
王
国で
は、
勺
巳ユ0
2.
∽
は
0
0
日e
∽-
d
仁
M
と
同義語と
して
慣用さ
れ
て
お
り、
し
た
がっ
て、
フ
ラ
ン
ク
国
王
は
廿Pt
ユ已
宏
とい
う称号を
帯び
るこ
とに
よっ
て、
自分が
任
命
する
役人と
同列に
自己を
お
く
とい
う矛盾に
お
ちい
る
か
ら
で
あっ
た。
そ
の
た
め
に
ピ
ピ
ン
は
七五
四
年い
ご
の
自己の
ロ
ー
マ
教皇との
関係を
、
已U
f
e
n
琶→
e
0
0-
e∽-
Pe
称号を
帯び
る
こ
と
に
よっ
て
言い
あ
らわ
そ
うと
し
た
が、
こ
ん
ど
は
教皇側が
簡色を
示
し
た。
そ
れ
は、
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
に
よ
れ
ば、
計f
e
ns
O【
2
C
已e
∽i
Pe
が
書記職の
格式を
もつ
に
すぎ
ない
教皇
庁の
下級役人の
名
称で
あ
り、
教皇
に
とっ
て、
聖ペ
テロ
の
保護者と
して
の
フ
ラ
ン
ク
国王の
地
位を
示
すに
ふ
さ
わ
し
くない
か
ら
で
あっ
た。
なお
ま
た
p
已ユci
岳
声○
ヨP
nO
→ロ
m
称号は
、
ロ
ー
マ
教皇庁側に
とっ
て
も、
フ
ラン
ク
国王
との
む
すび
っ
き
を
示
すの
に
ふ
さ
わ
しい
言葉と
考えら
れ
な
かっ
た
が、
その
健
由は
、
こ
の
称号が
古来か
らイ
タ
リ
ア
の
ビ
ザン
ツ
捻
督e
¥P
岩F
亡∽
と
む
すびつ
い
て
お
り、
こ
れ
またペ
テロ
の
保護者と
して
の
フ
ラ
ン
ク
国王
の
地
位を
そ
れ
と
して
直裁に
あ
らわ
すもの
で
なか
っ
たか
ら
で
あ
る。
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
は
匂Pt
ユO
F∽
声0
2pロ
宅ロ
ヨ
の
史料情況
を
以
上
の
よ
うに
説明する
。
それ
に
も
か
か
わ
ら
ず、
ス
テフ
ァ
ヌ
ス
二
世は
、
七
五
四
年に
ボ
ン
朗仁
J
ティ
オ
ン
で
ピ
ピ
ン
に
聖ペ
テロ
防衛の
義務を
負わ
せ
る
の
に
あ
たっ
て、
なぜ
え
り
に
も
えっ
て
こ
の
p
巳ユ○
ど∽
河○
ヨP
ロ0
2日
の
称号を
持ち
出し
た
の
で
あ
ろ
うか
。
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
はそ
の
裏に
、
コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プル
宮廷の
爵位司
胃勺
㌻べ
。
り
鼓ヒ
〝
七F)
七
乱臣て
下
賜の
問
題が
介在し
て
い
た
と
考え
る。
すな
わ
ち、
七
五
三
年、
ピ
ピ
ン
に
ヨぺ
ぷぎ○
吟
巾
由て
一
也F-
七
乳eて
の
爵位をざ
ず
叫る
む打
出、
アマ九
.
叫
ル.叫グ
朝を
一
l■
■
-
一■、
..-
j
′
′・-
1
・----
~
-
一・′j
-
--
7
~
てl
~
-・~
-
-
そ
う強固に
コ
ン
ス
タ
ン
テ:
√
′.
-.ブ
、
ル
宮廷
と
む
ず.ぴ
つ
け、
フ:テ.ン
.■クモ国を
卦デ
りゴ
.′
パ
ルdり
政
策に
東風し
ょ′シL
する
意向がス
テ
アァ
■ヌス
二
世
特同行の
ピ
サン
ツ
使節か
ら
も
ら
さ
れ
た
が、
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世は
も
とも
とロ
ー
マ
の
防衛の
た
めに
フ
ラン
ク
国王
か
ら
救援を
仰ご
うと
考え
て
い
た
の
で、
ビ
ザン
ツ
側を
先廻
り
して
、
こ
の
同じ
爵号
匂Pt
3 .
C
ど払
河○
日P
ロ○
岩m
を
自らの
手で
ピ
ピ
ン
に
さ
ずけて
し
まい
、
そ
れ
に
よっ
て
ピ
ピ
ン
を、
コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プ
ル
と
関係が
で
きる
ま
え
に、
早
手ま
わ
し
に
聖ペ
テロ
お
よ
び
都
市ロ
ー
マ
に
義務づ
けた
。
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
はボ
ン
ティ
オ
ン
に
お
け
る
出来ご
との
経過を
以
上
の
よ
うに
理
解するの
で
あ
る。
こ
の
よ
うに
、
→
e
∽
習ぃ
♂}
-
c
2
の、
ロ
ー
マ
(
すな
わ
ちビ
ザン
ツ)
帝国か
ら
都市ロ
ー
マ
ヘ
の
意味が
え
が、
すで
に
七五
四
年、
ス
テ
フ
ア
ヌ
ス
二
世に
よっ
て
断行さ
れ
て
い
る
と
する
点で
オ
ー
ン+
の
立場は
、
デル
ガ
1
の
つ
ぎ
の
な
意味が
え
は
続く
歴史の
経過の
うち
で
は
る
点で
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
すな
わ
ち、
こ
の
よ
う
めて
お
こ
っ
て
くる
こ
と、
こ
れに
反して
、
七五
四
年の
フ
ラ
ン
ク
人
支
配
者に
よ
る
官r
t
・
ユD
旨Ⅶ
河つ
ヨp
ロ
寛仁
ヨ
称号の
受容が
意味する
の
ほ
「
コ
ン
ス
タ
ン
テ
・鵬
`
瑞
( 5 ) 八 世 紀後半の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク,
ロ ー マ 教 皇
叫
恥
ィ
ノ
ー
ブル
の
ロ
ー
マ
皇帝の
支配の
下へ
の
栄
誉あ
る
従
属+
に
外な
らぬ
こ
と、
換言
すれ
ば、
七
五
四
年、
キ
リス
ト
教世界の
西半部は
コ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プル
を
中心
と
する
キ
リ
ス
ト
教ロ
ー
マ
世
界帝
国の
理
念的秩序か
ら
未だ
一
歩も
出て
はい
ない
こ
と、
を
説く
立
場
と
異なっ
て
い
る。
し
か
し
な
が
らオ
ー
ン
ゾ
ル
ゲ
は、
ガン
ス
オ
フ
の
説くよ
うに
、
七
五
四
年の
ロ
ー
マ
教皇の
「
革命的行為+
か
ら、
一
直線に
、
キ
リ
ス
ト
教世
界西半部の
、
コ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プ
ル
か
・.へ
′
ノ(
ノし
1
タ
・∫
・ノ
らの
独立
が
すすむ
と
も
考え
ない
。
い
や
む
し
ろ、
ご
の
事件はコ
L
ヽ
、
ノ
\.
/
絹
づ㌧
与
∴‥
ブル
か
皇帝
竪丁
解なじ′
に
ロ
.-
マ
教皇が
独
断で
お
こ
なっ
た
行為で
か
る
が
故に
、
その
結果生
じたビ
ザン
ツ
皇帝と口
論獅
鮎
酢鮎鮎
い
㌶相
調…
鵬棚
㍑
課題で
あ
ろ
う。
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
は
註(
4)
の
論文で
こ
の
過程を
検
討するこ
とに
よっ
て、
八
世紀後半の
キ
リス
ト
教世界の
歴史が
、
実はジ
グ
ザ
グ
の
コ
ー
ス
を
歩ん
だこ
と
を
見事に
立証し
た』
本
稿は
こ
の
オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲ
の
叙
述を
参考と
し
なが
ら、
八
世紀後半の
イ
タ
リ
ア
を
め
ぐる
ビ
ザン
ツ
皇帝
、
フ
ラ
ン
ク
国王
、
ロ
ー
マ
教皇の
三
者
の
関係の
展開を
おっ
て
み
たい
と
お
も
う。
その
まえ
に、
ビ
ザン
ツ
の
イ
タ
リ
ア
支配の
情況に
つ
い
て
簡単に
ふ
れて
お
きた
い。
イ
タ
リ
ア
は二
十年に
わ
た
るゴ
ー
ト
戦
役の
終了(
五
五
四)
後、
デ+
ォ
ク
レ
ティ
ア
ヌ
ス
・
コ
ン
ス
タン
ティ
ヌ
ス
体制に
固有の
、
文
官に
よ
る
尾州行政組織が
ふ
た
た
び
導入さ
れ
た
け
れど
も、
すで
に
五
六
八
年に
は
じ
まる
ラン
ゴ
パ
ル
ド
族の
侵入で
、
次
第に
こ
の
文
官
的行政組織は
放棄さ
れ、
侵入
を
ま
ぬ
か
れ
た
残存地
域は
古来の
行
細川
醐仙
…
鋸′"
㍑抑帥
㌍鵬醐
帥川棚
㍑門相川
い
っ
た。
そこ
で
は
d
ロ
粥
とい
う
武官が
同時に
尾州行政をも
兼担
して
い
た。
こ
の
よ
うな
イ
タ
リ
ア
属州の
下
部単位に
お
ける
変化と
み
あい
、
そ
れに
さ
い
ご
の
仕上
げ
を
おこ
な
うぺ
く、
イ
タ
リ
ア
全土
に
対
して
e
対
当O
FPt
仁S
制が
六
世紀末に
施行さ
れ
た。
こ
うし
て、
ラ
グエ
ン
ナ
駐在の
e
巨岩F
岳
は、
コ
ン
ス
タン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
皇
帝の
イタ
リ
ア
に
お
ける
代理
者と
して
、
こ
盟鳳
叫町
郵勢
、
㌧
行
軌
晦
が
斗車打.
簸ね
∵各池
扱
ぎH
を
自らの
命令
嘩の
下に
線醸し・た
。
ラン
ゴ
パ
ル
ド
族の
南下に
と
も
なっ
て、
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
は
幾度
も
編成が
えさ
れ
た。
その
間コ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プル
の
政府は
イ
タ
リ
ア
を
放置して
そ
の
運
命に
ゆ
だ
ねた
わ
けで
は
ない
。
-
出耶
u
小∠
引ハ
..
での
対小.スデ
斗「
バ
ル
カ
ン
で
の
対ブル
ガ
小ア
戦闘に
精魂
を
傾けて
い
る
現在
、
イ
タ
リ
ア
に
救援大部隊を
派遣する
こ
と
は
不
可能に
近かっ
た。
こ
うし
て、
ドゥ
カ
ー
ト
ゥ
ス
内で
防衛を
実際に
担当する
よ
うに
なつ
たの
は、
e
営言
-
t
白∽
とい
う組織を
もつ
都
市
在住の
地
方住民で
あっ
た。
八
世紀の
は
じ
め、
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
族の
さい
ご
の
攻勢が
開始する
さ
な
か
の、
イタ
リ
ア
の
残存ビ
ザン
ツ
領
はつ
ぎの
よ
うな
九行政地
区
か
ら
成っ
て
い
た。
(
一
)
イス
ト
リ
ア
(
二)
ヴェ
ネ
ツィ
ア・
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
(
三)
フ
ェ
ラ
ラ・
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
(
四)
ラ
グエ
ン
ナ
周
辺の
エ
ク
サル
ク
ス
直轄地
区
(
五)
ペ
ン
タ
ポ
リ
ス
・
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
∂∂う
一 橋論叢 第五 十 三 巻 第 五 号 ( 6 )
(
六)
ペ
ル
ー
ジ丁
・
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
(
七)
ロ
ー
マ
・
ドゥ
カ
ー
トク
ス
(
八)
ナ
ポ
リ・
ドゥ
カ
ー■トク
ス
(
九)
カ
ラブ
リ
ア
∵
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス
こ
の
九行政地
区
は、
七
四一
年の
ラ
ヴエ
ン
ナ
陥
落と
、
イ
タ
リ
ア
の
エ
ク
サ
ル
カ
ー
トク
ス
の
解体に
伴っ
て、
つ
ぎの
よ
うに
所属を
変更する
こ
と
に
なる
。
イス
ト
リ
ア
は
や
が
て、
バ
ル
カ
ン
の
ア
ドリ
ア
海沿
岸地
方に
ダル
ナ
マ
マ
ティ
ア
軍管区が
設立さ
れ
る
に
伴っ
て、
こ
れ
に
編入さ
れ
る
で
あ
ろ
う。
ヴェ
ネツ
ィ
ア・
ドゥ
カ
ー
トク
ス
は、
ビ
ザン
ツ
の
名目的支配に
と
ど
ま
りつ
つ、
独立の
歩み
を
開始する
で
あ
ろ
う。
南イタ
リ
ア
の
ナ
ポ
リ・
ドゥ
カー
トク
ス
お
よ
び
カ
ラ
ブ
リ
ア・
ド
チ
マ
ゥ
カ
ー
ト
ク
ス
は、
すで
に
七
世
紀中葉軍管区
別の
導入
を
み
たシ
チ
リ
ア
に
所属が
え
を
する
で
あ
ろ
う。
そ
して
、
の
こ
る
中部イ
タ
リ
ア
の
フェ
ララ
・
ドゥ
カ
ー
ト
ク
ス
、
ラ
ヴエ
ン
ナ
周辺の
エ
ク
サ
ル
ク
ス
直轄
韻、
ベ
ン
タ
ポ
リ
ス
・
ドゥ
カ
ー
トゥ
ス、
ペ
ル
ー
ジァ
・
ドゥ
カ
ー
トク
ス、
ロ
ー
マ
・
ドゥ
カ
ー
ト
ゥ
ス
はロ
ー
マ
教皇領を
形成する
に
い
た
るで
あ
ろ
う。
そし
て
こ
の
よ
うな
新しい
所属が
えの
裏に
は、
次
章に
み
る
よ
うなビ
ザン
ツ
皇
帝、
フ
ラン
ク
国王
、
ロ
ー
マ
教皇の
三
者の
関係がか
らん
で
い
る
の
で
あっ
た。
(
1)
拙稿
「
《
勺Pt
ユc-
声∽
河○
日甲ロ
○
コ一
日》
称
号の
解
釈を
め
ぐ
る
論争+
(『
一
橋論
叢』
三
八
の一
、
八
三
-九
〇
頁)
(
2)
拙稿
「
中世キ
リ
ス
ト
教
世
界の
生
成
と
展開+
(
『
世
界の
歴
史』
5・
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
世
界の
成立
・
昭
四一
・
筑
摩)
一
九一
-
一
九
四
頁。
(
3)
句・
U已ge
♪
日日
3p
琵
Ge
浄巴t
仁
口内
-
巨
∽
且e
ge-
P①
→
才幹
口
付
訂O
F♂
やN
牢ロt
-
n-
sO
Fe
n
A仁
芳i
nP
n
計U
→
琵t
N
仁n
g
d
e∽
p
-
P
すげ仁
n
nb
ユ∽.
せYN
p
ロN
仁
n
P
e
ロ
岩p
巴岩
訂
St
p
巳e
ロ
弓e-
t.
Et
t
p】
-
¢
ぃ
い.
∽一
N
¢い
L
ド
ロ
m.
-
P
(
4)
+
句.
〇F
n∽
○→
ge
}
ロe→
竹
芝ユ○
どの・
→-
訂-
RP
ユ払
(
訂∽
G
冒∽∽
e
n◆
せN
訟(
-
宗○)
S一
い
0
0
+い
N
「
三
ラン
ゴ
パ
ル
ド
王
国
は
八
世
紀に
入
る
と、
リ
ウ
ト
プ
ラ
ン
ト
王
(
七一
二
-七
四
四)
お
よ
び
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
王
(
七
四
九
1
七
五
六)
の
もと
で
最
後的な
伸長
を
と
げ
た。
国内で
は、
い
ま
まで
事実上
独
立
国の
観を
呈
して
い
た
南イ
タ
リ
ア
の
ス
ボ
レ
ト
お
よ
び
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
の
二
公
国が
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
権
うう6
に
従
属さ
せ
られ
た。
同
時に
魂
笥.ツ
儀に
た
い
する
稔
現
轡餌
ばじ
キっ
た。
そ
の
筋
七
の
夏に
は、
二
カ
年
の.
匂因
習に
ラ
グエ
ン
ナ
が
陥
落
した
。
つ
づ
い
て
翌
七
五
二
年、
攻
撃の
ほ
こ
先き
は
中部イ
タ
リ
ア
の
ビ
ザ
ン
ツ
領に
む
けら
れ
た。
曲
.
ザ
鳴
( 7 ) 八 億糸己後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク ,ロ
ー
マ 教 皇
叶
き
ラ
ヴエ
ン
ナ
陥
落の
報が
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
と
ど
く
と、
斗..ン
■.ん
久.ン
.
可十〃
.ス
:
五世は
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
に
ラ
グ
エ
ン
ナ
返
還
請求を
お
こ
な
うぺ
く、
七五
二
年十月
、
イ
タ
リ
ア
に
使節シ
レ
ン
テ
ィ
ア
リ
オ
ス
・
ヨ
ハ
ネ
ス
を
派
遣
し
て
来
た。
一
計
ぺ斗烈胤+
何
時町町
【
〓
寸執
革み
L
】刀ナ
.
ア
カネ.「
世あ
で
の
重蔵親書む
む
た
ず.
さ
え
て
お
り、
ま
ずロ
ー
マ
に
立
寄っ
て
教
皇に
こ
の
皇帝
親書を
手
交
した
の
ち、
教皇の
身内の
助
祭
パ
ウ
ル
ス
と
と
も
にバ
グィ
ア
の
ラン
ゴ
パ
ル
ド
宮廷
に
お
も
む
い
た。
こ
れ
は
お
そ
ら
く、
教皇
あて
の
皇
帝
親書が
、
ラ
ヴェ
ン
ナ
返
還
請求に
つ
い
て、
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世に
協力を
も
と
め
て
い
た
た
めで
あ
ろ
う。
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
は
皇
帝の
ラ
グェ
ン
ナ
返還
請求を
肯ん
ぜ
ず、
バ
グィ
ア
で
の
交
渉は
破れ
て
ビ
ザ
ン
ツ
使節はロ
ー
マ
経由で
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰
還する
。
七
五
三
年十
月ま
え、
ふ
た
た
び
ビ
ザ
ン
ツ
使節ヨ
ハ
ネ
ス
が
ロ
ー
マ
に
現わ
れ
る。
今回の
ロ
ー
マ
教皇
あ
て
皇帝親書は
、
教
皇自ら
が
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
と
会見し
、
ア
イス
ト
ゥ
ル
フ
に
ラ
ヴェ
ン
ナ
返還を
実現さ
すぺ
き
旨を
うたっ
て
い
る。
そ
こ
で、
.
斗列■
ブ
ナ.外力「→
世は
十
月
四日
対人∴刊
l
耳
と
と
もに
バ
グ
イ
ア
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
宮廷に
乗込
むが
、
交渉は
決裂し
、
ヨ
ハ
ネ
ス
はコ
ン
ス
タン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰還する
。
教
皇の
方
は
び
尊づ
づ.
争珊上を・続けて.プ
ル
プ.スJ
筍
咽え
て
フ
ラ
ン
キ
ア
入
り
し、
翌モ
五
胡苛
一
月
六
日、
ポ
ン
チ
イ
オ
ン\
で
ピ
ピ
ン\
と
会見する
。
卑し■で
㌢ビ
ゾ.衷か
び
ぞの
息
子カ
ー
ル
盲.よ.ぴ
.
カー
ー
ル
マ
ン
に
塗
油の
儀式を
お
こ
な.
.い
.、
「
ロ
ー
マ
人
の
ぺ
ト
リ
キ
ウ
ス+
とい
う位を
さ
ずける
。
以
上
が
歴
史的
事
実で
あ
る。
教
皇が
フ
ラ
ン
ク
国
王
と
事前に
連絡を
保っ
て
い
た
こ
と
は
確か
で
あ
る。
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
軍の
ロ
ー
マ
を
め
ざ
す
進撃に
直
面
した
教皇と
し
て
は、
コ
ン
ス
タン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
よ
りの
救
援軍に
も
は
や
期待で
き
ない
と
すれ
ば、
フ
ラ
ン
ク
国王
にロ
ー
マ
防衛を
も
と
める
よ
り
ほ
か
な
かっ
た
か
らで
ある
。
そ
の
うえ
、
画列
J・・
ゴ
パ・・
ル・ド
痕跡
整肝
は
すで.
打.
教
皇グ
レ
..
キ
ト
ト
ス二
面か
ら
カ
ー
ル
・
マ
ル
テ
ル
に
た
い
し
て
卦ア
十
な
わ
れ
た
先
例(
もっ
と
も
実現
を
み
ない
)
が
ある
うえ
、
七五
十年た
は、
劉島ツ・ア
∴.リ
ア、
冬
が
ピ
ピ
ン
の、八
ロ
グイ
ン
グ
朝に
た
い
する
久】〓
ヂダ
ト
を
正
当化し
て
お
㌢、
教皇庁と
し
て
は
当
時カロ
リ
ン
グ
朝に
「
借し+
が
あっ
たの
で
ある
。
た
だ
問題は
、
こ
の
よ
うなフ
ラ
ン
ク
国王
とロ
ー
マ
教
皇と
の
接触が
、
コ
ン
ス
7
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
ブ
ル
側の
了
解と
承
認の
も
と
に
お
こ
な
わ
れ、
郎
一 橋論叢 第五 十 三 巷 第五 号 ( 8 )
八
ず
lヾ
ヾ
ヽ
仙…
固
屯
ヰ∵
一
\
汁
廿
り
ヾl
ヾ
ヽ
\
/
8央
蒋
彗
芳
弘
q
洩
ヾ
ノ
\
頚
豆
∂∂8
U
V
N
や
V
≠ヽ
\
N飢
庫(
ヨト
ーヨu)
り
い
ー
代
代
V
(
諾-
-宗00
)
8ヽ
-
叫≠
-
叫
q
ト
ヾ
ヰ
宗
琳.
¶
い
N
ー↓
(
ヾ
T
ヾ
→t
へ
りl
∵
∪
∵へ
▲
T
i叫
亡
斗
如
・
山
、
/
サ
メ)
\
⊥
カ
キ
\
T
り
T。
H
(
昏諜\
ぺ
寸
\
T
カ)
、
如
†
↑
~1
-
べ
弾+
伊
I
-
メ
叫
U
→
加
知
和
轟
ロ已ge
J
河e
g一
山
-
N
N
い
い
(
ヾ
T
ヾ
叫
、
¶
q
斗
メ
・
m
、
ノ
サ
メ)
ヾl
ヾ
u.
ヽ
{
・
T
-
\
て
「
肘
(
弊払)
ロ
ー
べ
弊跡
¶人
知
丁
†
-メ
≠
ヾ
叫
出
力
帖
庵†
1
や
\
r
り
ロ已ge
り〉
押e
g.
い
ー
牟
N
い
ゃ
カ
→■
ヾ
叫
加
加
N
障8
叫\
て
\カ
薩丸
r
洗
ヾ
≠
人
斗
ヾ
日
計葺
か
巧
巧
ヾ-
カ
サ
ヾ
ヾ
出
力
N
庫8
妙血
ト
.
斗
トヽ
て
℃
\
8ヾ
叫
ヾ
ヽ
避
妙.
巧
巧
ヾ
8
演-
回ぺ
叫
て
¶
如罵(
蟹叫
∵
托
ゝ\
T
「
仙叫人
知
†
寸
\
て
U
)一
汀
い
て斗
叫
d
8
「
斎藤覿漆+
糾
弾妙鄭.
巧
巧
ヾ
8
舘N
瓦斗
叫
亡
¶恕即
甫.
¶
い
か
1V
ミH↑
桔卜
F て
川
にい〕
㍑卜【
巧
〔。
ヾ
〔
さじ
叫
々
ヽ
T+
ご
ごヾ斗\
長斗
エ
ロ望粥e
J
声e
甲
い
ト
∞
り
u
叫
V
≠
ヾ
ヽ
H
汀。
汀。
‥
\
▲
T
(
ヾ
叫
Y
ヽ
・
(
\□
切
結
ヽ
T
→t
人
力・
ヽ斗+
て
祇
ヰ
カ)
ロ望ge
→-
声e
甲
山
N
O
巧止
り
ヾ一
\
召㊦
蛋織
捗務沖
か
こ巴
1
1諾∽
)
Uひー
ge
J
声e
甲
い
N
N
¶
ひ
ぃ
1
叫
∵
、
出†
】
ド.
[
㌧
〕
\
ヱ
り
ヾl
二Y
H
↑〔
け㌧
. 、
ほは.トいた
〔
ご.
∵
(
南中で
い
斗
で
斗‥
こ
叫
( 9 ) 八 世 紀後半 の イ タ ワ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,
ロー
マ 教皇
朴
外
わ
且下
ヾ
叫
ヾ
ヽ
山…
一凶
屯
止k
ヾ一
\
汁
¢
U
lヾ
∵
ヽ
\
′
8キ
海
山
笥
茅
山
陣
巧
ヰ
ヾ
ノ
\
丑仰
E
七ヾ
→l
人
て
流
弾仙川
山
鮮.
叫
か
N
D望ge
→)
河e
甲
い
N
山
…
レ
N
か
C叶
.
〇Fロ∽
○
蒜e
、
ロe
→
勺P〔
ユc
ぎゃ
→芹e-
.
ロN
ぃ
い
(
-
心
示○)
∽
.い
○
加
Aロ
m.
巴
¶
か
∞
巧
咤
∵
8
讃-
廿
-
宇
(
オ
劫)
空蒔
(
り
≠
Y
ヽ
・
q
ヰヾ
ヾ
喜8
蛋柚拓
山
蹄
沖
か
苧室)
一
、 J、 J
ヰゝ
也
-\
て
8入
場
く
べ
郎胃(
蟹叫
ヾ
岨、
ごr
「
仙
叫で
叫亡
寸
知)
.
払
-\
三汁
叫
ヾ
鴨、
でて
「
仙仲山
耕
古か.
ゃ
ぃ
斗
勺ト
ヾ
†
捗
ヽく
ヰ
如
荘叫
ヾ
叱、
ごT
r
+′
8
\亡
ヾ
寸
ヾ
ヽ力
付
葬ヰ
一
叫
ヾ
枯
、
でて
「
韓国、
識ゝ
心
ヾ
¶
戟哉
(
叫
\、
ヰ}
戦ぃ
≠-
寸
法
ご
¶
d\
て
ヾ
人
)
d8
瓦甚琴噛
・
欝(
.
斗召
払
-\
て
8
ロ
ー
ぺ
巴叫
詔
、 J、
・J
しn
=
ヾ
メ
≠
ヾ
→1
人
\
カ
レ
庫8
親.
T
斗V良+
博
(
ヨ小
1
謎○
)
宅辞
.
、
J
O O
⊂ )
て
斗
ヾ
"
T障
8≠爪
U
V
N
や
V
叫▲
\
Nの
庫(
詔0
1
30
岩鮎d
空
蒔一
跡
捧⊥
T
斗
苛
浄.
、
J
O つ
トー
ヾ
\l
ヾ
ヽ
H
払
-\
て
(
ヰ
ヾ
ヾl
⊂
斗
カ
・
u
ヾ
加
地
卜
如)
▲
-
ト
ト⊆-
【-
(
\亡
ル
サ
ーし
斗
知
・
ベ
ベ
□
ゝ)
ロ茫ge
♪
声e
甲
ヒ¢
、 J
0 0
0 ヽ
払
-ヽ
三汁
叫\
r
ヽ知〕
展沖
バ
封入
叫
亡
¶山
科
・胃不
敏伊
母(
(
ヽ
亡
如
べ
カ・
U
人
て
ヾ
一
\
ト
).
、 J
∞
¶
也
-+
て
8払
\ヽ
紆
詔.
勺卜
斗
勺ト
ヾ
T
吟¶
亡
ヰ
メ
8≠
甲
)
叫
ヾ
、
山
↑
い
廿
-\
て
ー1
せ
人
¶
d
8
糟
藤
淑
顎出阿
試
射
浄
妙
鄭.
声ひー
的e
→】
河e
甲
い
£
(
∨
叫
ヾ
ヽ
・
几
塙∵
ノ
\
召㊦
回相好き沖
か
ー
→
00
勺
-諾00
)
9-
、
J
l
≠′-
!-+
J
一 橋論叢 第五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 0 )
・滞
叫
ヾ
ヽ
山
国
巧
ヰ∵
ヾ
汁
¢
ヾ
≠
ヾ
ヽ
、
/
8☆
\
蒋
"
笥
茅
掠
屯
鴇
ヾ
′
ヾ
載
廻
5 β0
、 J
O o
O O
せ
ー\
て
8伊
什
不
>
洩什
仙
芋
パ
ワ汁
¶
亡
ヰ
メ
8、
戸
叫ヽ
一+巾
¶\
て
≡汁
、
也
-\
三‖
昏肘押
付
嶋て〉
帝国
‥
蔀〕
帥
仲
叫[
仙
きバ
頂い
斗
頂い
ヾ
丁
心け
叶
付
か.
呪
浅ヾ
ヾ
不迫折
口
せ
8
叫
で
叫亡
勺
如
8‥
蹄
拓叫
叫\
て
斗
知
荘
凡
塙Y
一
\川
圃
噛付
一
帯J
バ
古
叫
ヽ亡
叫
卜
霹伸
葬かヰか
慧、
ヾ
ヾ1
ヾ
ヽ
・
勺ト
サ
勺ト
ヾ
†
・
如
法
て†
海
中胡
石
打
廿
舞]
F
\ J\
、○トー
花
代
ヾ
8
勺卜
斗
勺ト
ヾ
†
抄画
~8u
鮒
胃
(
∞
O
N
令沖
d串
E
日
計
汁か).
、 J\
、⊂)
-Iゝ
河
糟よ
野
姫
顎り
≠
ヾ
ヽ
ヾ
\
て
丁
糾
弾妙
執.
¶
や¶
l
L 声ヽ
T
と蓋君U
ヾ
メ
や
ヾ
叫人
\
如
か
再伸
熟
什
「
バ
健芽対
語.
(
り
笥-
00
O
N
)
¶
¢
∞
ヾ
lヽ
ヾ
ヽ
H
u可
-\
て
(
、
ん
†
】+
斗
斗
メ
・
〃
払
ぃ\
て
・
洩ヾ
ヽ
亡
¶
\
メ)
(
ヽ
て
メ
汀。
≠\
て
・
→1
斗
V
へ
ロ
メ)
亡望ge
J
河e
甲
ひ
ぃ
∽
¶
¢
¢
ロ
ー
勺
鮮細
て
斗
山
庫
(
3山
-∞-
か)
河
貨
仙
界
不
汁
廿
1
-
ぺ
吋
改訂斗
ビ
バ〉
、
ム
ー
叫+
て
鶉\
て
ヾ
8
也
-
\
て
8
伊
什
不
慎〔
.
∞
0
0
せ
ーヽ
て
〓
8山
廿
8
糾温
々伊
番
付
せ
ー\
三汁
ヽ
亡
メ
ぺ
知
8ロ
ー
ロ
ス
≠
□
触粁
め川
d触沖
仰
丁
斗
い
薄汁
「
バ迦州
別剛.
付
か.
-
べ
8
悼
岱
炒軸什
∞
ON
り
1 .
Y
ヽ
枇†
払
-\
て
(
メ、
ぺ
や
亡
斗
カ
ドけ卜「ゝ
て
斗
人
丁
斗
沖
彗、
〓
寸
J斗
コ
リ
二博空辞一
(
00
O
N
E
よ「
こ
D已gG
ワ
声e
甲一
設¶
上
伸
′
叫
ぺ
( 1 1 ) 八 世 紀 後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク,
ロ ー マ 教 皇
令
、
ヾ
叫
ヾ
ヽ
…
付
回
∞
○
い
升環七
叫
ヾ
ヾ
汁
廿
ヾ
lヾ
ヾ
ヽ
\
′
8☆
薄
斡可
仙
再
臨
q
璃
ヾ
ヾ
尋
画
ヾ
N l
ヾ
ヽ
川
払
-\
て
(
軸∽
粋
津山
払
ぃ\
こ
(
蚕掠蘭
付
知ム
†
ロ
メ)
(
カ、
ぺ
≠
1
ゝ
ヾ
頂、
叫
二丁
メ
い
寸
ヾ
斗
ロ
メ
ゝ
亡
カ
ナ
知)
ロか一
驚→
、
河e
g.
い
巴
号
韓日
紆
耳
か
き枯薄彗料藩8
頭却什
「
バー
画料勇者8
汁
Ⅵ
砕
石彗8
墳惑8
汗
丁
サ
甥
ご
義おヰ
か
屯
洩Y一
\
蒋彗蒜
〕
W
∵
ヽ
蕗寄付
叶
伊
汗
J
汁一
教皇が
皇帝の
代
理
者と
し
て
行
動した
か
ど
うか
、
とい
う点
で
ある
。
こ
れ
を
決定
する
明
確な
証
拠は
ない
。
た
だ、
続く
ビ
ザ
ン
ツ
皇
帝と
フ
ラ
ン
ク
国王
との
交
渉関係か
ら
推して
、
ど
うもス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世
は、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
宮廷と
連絡な
し
に、
ピ
ピ
ン
と
そ
の
二
人の
息
子カ
ー
ル
お
よ
び
カ
ー
ル
マ
ン
に
「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
とい
う位を
さ
ずけ
た
よ
うで
ある
。
若し
そ
うな
らば
、
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世が
こ
の
よ
うな
行
動に
出た
の
は、
ピ
ピ
ン
を
聖ペ
テ
ロ
お
よ
び
ロ
ー
マ
の
保護
者と
して
義務づ
けよ
うと
し
た
か
らで
ある
と
解釈
する
ほ
か
な
く、
し
たが
っ
て
そ
の
さ
い
教皇は
ロ
ー
マ
外
患味を
、
コ
ン
ス.ケンニ
〔
ベ
イト
ア.ル.を
中心と
ずる
句リld「
〓機剖
‥
顛1
射刊叫
〓+
㌣
に
変更し
た
と
み
か
キり
ない
。
もっ
と
もこ
の
さ
い
ピ
ピ
ン
はス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世
の
さ
し
出すこ
の
称号
を
拒
香し
た。
し
か
し
そ
れ
は
ピ
ピ
ン
が、
ロ
ー
マ
保
護の
義務
そ
の
もの
を
も回
避し
た
とい
うこ
と
で
は
ない
。
、
事夷.ご
.
.曳叫
垂掛野「ピ
ピ
■シ
はえ
J
千.フ
.
ァ…
斗
き一
世に
画し
て
誓っ
た
と
こ
ろの
ロ
ー
マ
保護の
義務に
忠
実に
、
父カ
ー
ル
・
マ
ル
テ
ル
まで
の
カ
ロ
リ
ン
グ
朝伝統の
親ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
政
策を
一
輝し
て、
ネタ
、
リ
ア
遠征を
お
こ
ない
.
、
バ
グ
ィ
ア
を
占領した
の
で
あっ
た。
ピ
ピ
ン
は
つ
づ
い
て
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
と
協
定
を
む
すび
、
ロ
ー
マ
・
ドゥ
カ
ー
ト
ク
ス
に
属する
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
占領地
を
ロ
ー
マ
教
皇に
、
ヴュ
ネ
テ
ィ
ア
お
よ
び
イ
ス
ト
リ
ア
に
お
ける
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
占領地
を
ビ
ザ
ン
ツ
皇帝に
返
還
さ
せ
た。
通
常こ
こ
を
もっ
て
ピ
ピ
ン
に
よ
る
教
皇へ
の
寄
進
と、
教皇庁国家の
成
立が
云
々
さ
れ
る
の
が
ならい
で
あ
る
け
れ
ども
、
そ
の
よ
うな
理
解は
正
確で
は
ない
。
ボ
ン
テ
ィ
オ
ン
の
会見に
つ
づ
くキ
ュ
ル
ジ
ィ
の
フ
ラ
ン
ク
国
会で
ピ
ピ
ン
が
ス
テ
フ
ァ
メ
ス
二
世に
寄
進を
約束した
とい
う
「
教皇
列伝+
中
ィ
⊥
の
記
事は
、
い
うまで
も
な
く
後に
教
皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世
朗
一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 2 )
(
七
七二
-七
九五)
の
側近
が
で
っ
ち
上
げた
偽作で
あ
り、
ま
たバ
グィ
ア
協定で
ロ
ー
マ
教
皇
がロ
ー
マ
・
ド
ゥ
カ
ー
ト
ク
ス
内の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
占領地
を
返
還さ
れ
て
い
る
の
も、
教
皇を
イ
タ
リ
ア
の
こ
の
地
方
に
お
ける
皇
帝の
代
理
者と
み
な
し
て
の
こ
と
なの
で
あっ
て、
ピ
ピ
ン
が
教皇に
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
占領地
を
返
還し
た
兵意は
、
あ
く
まで
も、
本
来の
所有者
た
る
皇
帝
へ
の
返
還に
あっ
た。
こ
うして
ピ
ピ
ン
は、
ボ
ン
テ
ィ
オ
ン
で
は
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世の
さ
し
出す「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
と
い
う
称
号
を
拒否する
こ
と
に
よっ
て、
い
ま
またバ
グ
ィ
ァ
協定で
本
来の
所有権
着た
る
ビ
ザ
ン
ツ
皇帝へ
の
領土
返
還と
い
う
原則を
つ
らぬ
くこ
と
に
よっ
て、
ビ
ザ
ン
ツ
皇
帝を
刺
戟し
ない
で
すん
だ
の
で
あっ
た。
そ
れ
ばか
りか
ピ
ピ
ン
は
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
を
し
て、
ヴェ
ネ
テ
ィ
ア、
イス
ト
リ
ア
内の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
占領地
をビ
ザ
ン
ツ
皇
帝に
返
還さ
せ
る
こ
と
に
ょっ
て、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
宮
廷で
大い
に
「
点
数+
をか
せ
い
だ
と
さ
え
云
い
う
る
で
あ
ろ
う。
と
もか
くも
、
こ
の
七五
四
年、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
とボ
ス
フ
ォ
ロ
ス
をへ
だ
て
て
むか
い
あ
う小
ア
ジ
ア
岸の
ヒ
エ
レ
イ
ア
宮
殿で
「
偶像
破
壊+
の
宗教
会
議を
開
催中
だっ
たコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
五
世が
、
手
出し
の
で
き
ない
イ
タ
リ
ア
か
らの
こ
の
朗報を
手
に
収
′
叫
し
た
と
き、
そ
の
よ
ろこ
び
は
大
変な
もの
で
あっ
た
ろ
う
と
推
舵-
人
∪
察で
きる
。
七
五
六
年の
五・
六
月、
「
偶像破
壊+
の
宗教政
策の
遂
行
に
伴う
混
乱をの
り
きっ
たコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世
か
ら
派
遣さ
れ
て
ピ
ピ
ン
の
許に
むか
う二
人
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節シ
レ
ン
テ
ィ
ア
リ
オ
ス
・
ヨ
ハ
ネ
ス
とプ
ロ
タ
セ
ク
レ
テ
ィ
ス
・
ゲ
オ
ル
ギ
オ
ス
が、
ロ
ー
マ
に
現わ
れ
た。
そ
の
目
的は
、
七
五
四
年の
ヴェ
ネ
テ
ィ
ア、
イ
ス
ト
リ
ア
の
占領地
返
還
に
つ
づ
き、
今
回
は
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
側か
らそ
の
占領し
た
ラ
ヴェ
ン
ナ
周
辺の
旧
ビ
ザ
ン
ツ
総督管轄地
域を
返
還さ
せ
る
こ
と、
も
しこ
れ
に
成
功すれ
ば、
功労者ピ
ピ
ン
に
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
宮
廷
の
爵位
「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
を
さ
ずけて
年金を
も
っ
て
そ
の
労を
ね
ぎら
うと
と
も
に、
フ
ラ
ン
ク
王
室の
ビ
ザ
ン
ツ
皇
室に
た
い
する
忠
誠の
き
ずな
を一
そ
うつ
よ
め
る
こ
と、
に
あっ
た
よ
うで
あ
る。
と
こ
ろ
で
二
人の
ど
ザン
ツ
使節は
ロ
ー
マ
に
到着して
は
じ
め
て、
西
方
に
そ
の
間お
こ
っ
た
新
事
態、
つ
ま
り、
ロ
ー
マ
教
皇と
フ
ラ
ン
ク
王
と
の
間に
は
七
五
四
年以
来
新しい
む
すび
つ
き
が
成立
し
て
い
る
こ
と、
そ
し
て
事
も
あ
ろ
うに
そ
の
さ
い
教皇は
、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
ロ
ー
マ
皇
帝の
み
が
与え
うる
「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
ヰ
( 1 3 ) 八 世轟己後半 の イ タ ワ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク
,ロ
ー マ 教 皇
紳
わ
とい
う
称
号
を
フ
ラ
ン
ク
王
に
さ
ずけ
よ
う
と
た
く
ら
ん
だ
こ
と、
そ
して
い
まや
ピ
ピ
ン
は
こ
の
む
すび
つ
きに
基い
て、
ロ
ー
マ
攻
撃を
お
こ
なっ
た
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
に
た
い
しイ
タ
リ
ア
遠征に
出馬中で
あ
る
こ
と、
を
知っ
て
お
ど
ろい
た。
二
人
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節は
事の
真相を
た
し
か
め
よ
う
とマ
ル
セ
イユ
に
お
も
む
き、
矢
張り
ピ
ピ
ン
の
ア
ル
プ
ス
越え
が
事実で
あ
る
こ
と
を
知っ
た。
そ
こ
で
ヨ
ハ
ネ
ス
はマ
ル
セ
イ
ユ
に
と
ど
まっ
て、
教皇が
自
分た
ちに
つ
けて
き
た
随身を
傍に
び
きつ
けて
お
く一
方、
ゲ
オ
ル
ギ
オ
ス
は
単身マ
ル
セ
イ
ユ
を
あ
と
に
し
た。
そ
し
てバ
グィ
ア
に
お
い
て
こ
の
ま
ち
を
すで
に
お
とし
い
れ
た
ピ
ピ
ン
に
め
ぐり
あ
うこ
と
が
で
き
た。
こ
の
会見の
模様をつ
た
え
る
「
教皇列伝+
の
記事に
よ
る
と、
ビ
ザ
ン
ツ
使節が
金
品を
撒い
て
旧ビ
ザ
ン
ツ
領の
返還
請
求を
お
こ
なっ
たに
もか
か
わ
ら
ず、
ピ
ピ
ン
は、
こ
の
世の
人
間の
た
めで
な
く
聖ペ
テロ
の
た
め
に
武器を
とっ
て
戦い
とっ
た
の
だ
と
し
て、
聖ペ
テロ
に
お
こ
なっ
た
寄進を
取
り
消そ
う
ど
し
な
かっ
た、
と
なっ
て
い
る。
そ
し
て
こ
こ
か
ら、
ビ
ザ
ン
ツ・
フ
ラ
ン
ク
間の
国
交が
断絶し
た
と
説か
れ
る
の
が
常識と
なっ
て
い
る。
しか
し
なが
ら
実相は
こ
れ
と
は
異な
り、
両
国
間の
国交は
絶え
なか
っ
た
こ
と
を、
続く
翌
七
五
七
年に
お
こ
沖
な
わ
れ
た
両
国
間の
使
節住来が
裏書き
して
い
る。
お
そ
ら
く
ピ
ピ
ン
は、
ビ
ザ
ン
ツ
使節に
むか
っ
て、
自分は
ア
イ
ス
ト
ゥ
ル
フ
との
第二
回パ
ブィ
ア
協定
に
も
と
づ
き、
旧ビ
ザ
ン
ツ
総
督管
轄領お
よ
び
ペ
ン
タ
ポ
リ
ス
を
教皇に
返
還し
た
こ
と、
そ
れ
は
教
皇をコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
皇帝の
代理
者と
み
な
して
の
こ
とで
あり
、
皇
帝側は
教
皇とお
互
に
こ
の
こ
と
に
つ
い
て
よ
く
話し
あっ
て
結論を
つ
けて
は
し
い
こ
と、
を
述べ
た
の
で
は
ない
で
あろ
うか
。
そ
こ
で
ゲオ
ル
ギ
オ
ス
は、
こ
の
ピ
ピ
ン
の
こ
と
ば
をつ
た
え
る
た
め、
ロ
ー
マ
経由でコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰
還し
た。
い
ま一
人の
ビ
ザ
ン
ツ
使節
は
マ
ル
セ
イユ
に
て
ピ
ピ
ン
の
遠征
帰り
を
待ち
うけて
い
た。
そ
し
て
ピ
ピ
ン
の
一
行が
到着する
と、
こ
れ
と一
緒に
フ
ラ
ン
キ
ア
入
り
して
ピ
ピ
ン
と
交
渉を
お
こ
なっ
た。
こ
うし
て、
い
ま
一
人の
ビ
ザン
ツ
使節ヨ
ハ
ネス
もコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰還
し
た。
帰還に
さ
い
し
て
はピ
ピ
ン
側の
使節を
伴っ
て
い
た。
と
も
か
く
もこ
の
七
五
六
年の
ピ
ピ
ン
の
行動ぶ
り
は、
七
五
四
年の
ボ
ン
テ
ィ
オ
ン
の
場合と
同
様、
ビ
ザン
ツ
側か
ら、
ケ
チ
の
つ
け
どこ
ろの
ない
よ
うな
もの
で
あっ
た。
3
ビ
ザ
ン
ツ
と
ピ
ピ
ン
と
の
関係は
こ
の
よ
うで
あっ
た
が、
こ
朗
一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 4 )
れ
に
反
し
て
七
五
六
牛の
こ
の
使節
交
渉の
結果
、
七
五
四
年の
ボ
ン
テ
ィ
オ
ン
に
お
ける
ロ
ー
マ
教
皇ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世の
大
そ
れ
た
行
為が
ビ
ザ
ン
ツ
側に
明ら
か
に
なっ
た。
後に
カ
ー
ル
を
八
〇
〇
年の
ク
リ
ス
マ
ス
の
日、
ロ
ー
マ
皇帝と
し
て
戴冠し
たロ
ー
マ
教皇レ
オ
三
世は
、
そ
の
た
め
に
時の
ビ
ザ
ン
ツ
皇
帝
ニ
ケ
フ
ォ
ロ
ス
か
ら
破
門の
処置を
うけ
た。
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世の
易合
は
ど
うで
あっ
た
ろ
うか
。
そ
れ
は
不
明で
あ
る。
そ
れ
に
翌
七
五
七
年、
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世は
こ
の
世
を
去っ
て
し
まい
ロ
ー
マ
教皇の
座に
は
パ
ウ
ル
ス
一
世
が
登っ
た
(
七五
七
-七
六
七)
か
ら、
た
とい
ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世が
こ
の
よ
うな
処罰を
う
け
た
と
して
も、
こ
の
措置は
御当
人の
し
ら
ずじ
ま
い
で
あっ
た。
な
お
七
五
六
年の
ビ
ザ
ン
ツ
使節
到来は
、
も
う一
つ
の
副産
物を
の
こ
し
て
い
っ
た。
ビ
ザ
ン
ツ
使節ゲ
オ
ル
ギ
オ
ス
が
マ
ル
セ
イユ
で
同
行の
教皇
側随身を
撒い
て
ピ
ピ
ン
と
単独
会
見
し
たこ
と
は、
教皇の
機嫌を
大い
に
損じ
た
ら
し
く、
そ
の
結果
フ
ラ
ン
ク
国王
とロ
ー
マ
教皇との
問に
つ
め
た
い
空
気が
なが
れ
た
ら
しい
。
七
五
七
年初め
、
前年ビ
ザン
ツ
使節と
し
て
バ
グィ
ア
で
ピ
ピ
ン
と
会
見し
た
ゲ
オ
ル
ギ
オ
ス
が
ふ
た
た
び
ピ
ピ
ン
を、
こ
の
鵬
叫
た
び
はコ
ン
ビ
ニ
ー
ニ
ュ
に、
高価な
贈
物、
な
か
ん
ずくオ
ル
朗-h
J
ガ
ン
を
た
ずさ
え
て
お
と
ずれ
た。
し
か
し
な
が
ら、
「
友
好
関
係+
を
打ちた
て
る
こ
と
を
目
的
と
した
こ
の
ビ
ザン
ツ
使
節
は、
ピ
ピ
ン
と
の
交
渉を
通
じ
てコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
五
世の
意に
か
な
うよ
うな
成
果に
たっ
し
なか
っ
た
らしい
。
そ
の
証
拠に
使
節
は、
フ
ラ
ン
キ
ア
滞在
中に
フ
ラ
ン
ク
王
国内の
反教
皇・
フ
ラ
ン
ク
同
盟
派と
交渉し
て
い
る。
こ
れ
は
お
そ
ら
く
宗
教政
策上の
問題に
つ
い
て
フ
ラ
ン
ク
国
王
とロ
ー
マ
教
皇の
あ
い
だ
に
模
を
打ち
込
むた
め
で
あっ
た
ら
しい
。
七た
使節は
翌
七
五
八
争、
帰
途
を
上イ
タ
リ
ア
で
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王デシ
デ
リ
ウ
ス
(
七
五
六
-七
七
巴と
会
見し
、
反..ピ
ピ
ン
の
策謀を
練っ
て
い
る。
こ
うし
で.ビ
ザン
ツ
.・.
.ブ.■テ
ン
グ
間に
冷
戦状鰻が
生
れ
た。
事
実七
六
〇
年に
ビ
ザ
ン
ツ
側は
ピ
ピ
ン
に
た
い
し
艦
隊
の
デモ
ン
ス
ト
レ
ー
シ
ョ
ン
を
お
こ
なっ
た。
こ
うし
て
ビ
ザン
ツ・
フ
ラ
ン
ク
間に
は一
時国
交が
途絶え
る
に
い
た
る
が、
七+
ハ
三
尊の
ビ
ザン
ツ
使節の
ピ
ピ
ン
来訪に
よっ
て
国
交は
再
開する
。
し
か
しこ
の
使節の
目
的
は
はっ
き
り
して
い
ない
。
つ
づ
い
て
こ
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節の
コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プ
ル
帰還に
さ
い
して
は、
フ
ラ
ン
ク
お
よ
び
ロ
ー
マ
教
皇
庁
側の
使節が
同
行する
。
と
も
か
く
もこ
れ
に
敬して
、
叫
( 1 5 ) 八 世糸己後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,
ロ ー マ 教 皇
紬
如
七
五
六
年以
来の
フ
ラ
ン
ク
王
国
とロ
ー
マ
教
皇
庁
と
の
あい
だ
の
気ま
ずい
雰囲
気は
すで
に
消
滅し
て
い
た
よ
うで
ある
。
こ
の
フ
ラ
ン
ク
お
よ
び
ロ
ー
マ
教
皇庁使節
はコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
か
ら、
こ
ん
ど
は
二
人の
ビ
ザ
ン
ツ
使節ス
パ
タ
リ
オ
ス
・
ア
ン
ティ
モ
ス
と
官
官シ
ュ
ネ
シ
オ
ス
伴っ
て
ゼ
当川
科
は
じ
めて
帰還し
た。
, 1
ゴ叫
ヰず
ン
ツ
使節
は
び
きつ
づ
ぎ.
㌢
ラ
ン
㌢
ア
に
滞在し
、
翠七
麿囁
に
ゲ
ン
テ
ィ
リ
で
開催取】カ
メ
ン
ク
泉教会
琴に
出■
席する
。
つ
づ
い
て
使節の
一
人ス
パ
タ
リ
オ
ス
・
ア
ン
ティ
モ
ス
は
フ
ラ
ン
ク
使節
を
伴っ
て
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰還
する
が、
官
官シ
ュ
ネ
シ
オ
ス
の
方は
な
お
そ
の
ま
まフ
ラ
ン
キ
ア
の
ピ
ピ
ン
の
許に
滞在して
い
る。
ビ
ザ
ン
ツ
使節が
ピ
ピ
ン
に
も
た
ら
し
たコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
五
世の
皇
帝親書は「
意
勲な
助
言と
山は
ど
の
約束+
を
含むも
の
で、
ま
た
ビ
ザ
ン
ツ
皇
帝の
ロ
ー
マ
教皇
に
た
い
する
つ
ぎの
よ
うな三
つ
の
非難が
記さ
れ
て
い
た。
すな
わ
ち、
(
一
)
フ
ラ
ン
ク
宮廷で
皇帝
親書を
ギ
リ
シ
ア
語か
ら
ラ
テ
ン
語に
翻訳
する
役目の
暑が
、
買収さ
れ
て
書面に
は
ない
報告を
お
こ
なっ
た
こ
と。
(
二)
教皇庁の
プ
リ、
、
、
ケ
リ
オ
ス
お
よ
び
コ
ン
シ
リ
ア
リ
オ
ス
で
あ
る
ク
リ
ス
ト
フ
ォ
ル
ス
は、
教皇か
ら
そ
の
権限を
与
え
ら
れ
て
い
ない
に
もか
か
わ
ら
ず、
教
皇の
名で
像の
た
め
に
皇帝に
た
い
し
非
難を
お
こ
なっ
た
こ
と。
(
三)
お
な
じ
ク
リ
ス
ト
フ
ォ
ル
ス
はピ
ピ
ン
の
使者に
た
い
し、
実
際に
お
く
ら
れ
た
の
と
全
く
ちが
っ
た
テ
キ
ス
ト
を
読
ん
で
聞か
せ
た
こ
と。
そ
の
ほ
か
コ
ン
不タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世の
ピ
ピ
ン
あ
て
皇
帝
親書
は、
コ
ン:
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
の一
人
息
子
で
あ
る
当
時二
十
歳ち
か
くの
レ
れ
ン
..と
、
そ
れ
よ
り
七
歳年下
の
ピ
ピ
ン
の
娘ギ
ゼ
ラ
との
結婚の
下
相
談に
か
ん
する
申し
出で
を
含ん
で
い
たっ
、
こ
れ
を
要する
に
コ.
ン
え.久
.
ン
テ.ィ
′
え.五
世の
ト
音
簡は
ま
ず
第一
に、
当
時フ
ラ
ン
ク
宮廷
で
も
よ
う
や
く
や
か
ま
し
くなっ
た.
「
偶像感観]
ナ秒
間題に
つ
い
て、
自らの
宗教
政
策「
偶像
破
壊+
主
義へ
同
調
する
よ
うフ
ラ
ン
ク
側に
は
た
ら
きか
ける
こ
と
を
ね
らっ
て
い
た。
そ
し
て
こ
れ
と.関連して
第二
に、
ロ
ー
マ
教皇が
「
偶像破
壊+
皇
帝の
息子
とピ
ピ
ン
の
娘ギ
ゼ
ラ
の
結婚話し
を
全
力か
けて
さ
ま
た
げ
よ
う
と
する
の
に
た
い
し、
こ
の
結婚の
実
現に
よっ
て
フ
ラ
ン
ク
宮廷
を一
そ
うしっ
か
り
とコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プ
ル
宮
廷
に
む
すび
つ
ける
こ
と
を
め
ざ
して
い
た。
お
そ
ら
くコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世は
軍
事力
を
東方に
釘づ
けさ
れ
て
い
る
現
在、
ラ
グエ
ン
ナ
の
喪
失、
イ
タ
リ
ア
に
お
ける
ビ
ザ
ン
ツ
支
配の
ギ
リ
シ
ア
的
南方ヘ
ー〔J
の
収
縮、
とい
うイ
タ
リ
ア
に
お
け
る
困
難な
情勢を
外
交
手
段
甜
一 橋論叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 1 6 )
に
よっ
て
挽
回
すべ
く、
ピ
ピ
ン
に
た
い
しこ
の
宗教政
策お
よ
び
結婚政
策に
お
よ
ん
だ
と
お
も
わ
れ
る。
そ
して
そ
の
さ
い、
こ
の
宗教
・
結婚政
策と
な
ら
ん
で
七
五
六
年以
来何回か
持出
さ
れ
た
ピ
ピ
ン
ヘ
のノ1ベ
トい
軒.
ウ
ス
爵位の
下
賜の
間.
題が
今回
も
ま
た、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世
に
よっ
て
切
札とし
て
役
立
て
ら
れ
たに
ちが
い
ない
。
し
か
し
なか
ら
ゲン
デイ
リ
宗教
会議の
翌
年で
ある
七
六八
年ピ
ピ
ン
が
こ
の
世
を
去る
と、
フ
ラ
ン
ク
勢力
をつ
か
っ
て
イ
タ
リ
ア
北
部お
よ
び
中
部に
お
ける
旧ビ
ザ
ン
ツ
領を
回
復する
とい
うコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
五
世
の
外
交政
策も
打ち
切ら
ざ
る
を
え
ない
。
ピ
ピ
ン
に
つ
い
で
フ
ラ
ン
ク
国
王
止
なっ
た
カ
ト
ル
が
反ビ
ザン
ツ・
親ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
政
策を
打ち
出した
か
らで
あ
る。
こ
う
して
ビ
ザン
ツ・
フ
ラ
ン
ク
宮廷
間の
使節交換も
ま
た
跡絶え
て
し
まっ
た。
こ
の
頃ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
位に
あっ
た
の
は
デ
シ
デ
リ
ウ
ス
(
七
五
六
-七
七
四)
で
あっ
た
が、
同王
に
た
い
し
て
カ
ー
ル
は、
すで
に
父ピ
ピ
ン
が
そ
の
晩年に
復帰し
た
カロ
リン
グ
朝伝
来
の
親ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
政
策を
、
こ
と
に
ピ
ピ
ン
の
后で
あっ
たベ
ル
ト
ゥ.ラ
ダの
意向に
もと
づ
い
て、
推進し
た。
こ
の
皇
太
后
の
肝
煎り
で
カ
ー
ル
が
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
娘と
結婚式
を
挙げた
の
もこ
の
頃で
あっ
た。
しか
し
な
が
ら
カ
ー
ル
の
こ
の
親ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
政
策もつ
か
の
間で
あっ
た。
七
七一
年に
お
ける
ロ
尉∂
-
マ
の
内
紛
と
親ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
派外
親フ
ラ.バ
ク
派に
た
い
す
る
勝
利。
一
年そ
こ
そ
こ
で
の
カ
ー
ル
と
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
娘と
の
結婚解
消。
カ
ー
ル
の
弟カ
ー
ル
マ
ン
の
死
と
カ
ー
ル
の
フ
ラ
ン
ク
王
国単独
支配
権の
確立
。
相
続か
ら
排除さ
れ
た
カ
ー
ル
マ
ン
の
妻子の
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
許へ
の
逃
亡∪
そ
し
て
さ
い
ご
に
デシ
デリ
ウ
ス
の
ロ
ー
マ
包
囲。
か
ー
ル
は
教皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ワ
ニ.〕世
、
・の
救野要請㌃
軒トナ
き
七
七
三
年ア
ル
プ
ス
をこ
え、
九月
末.パ
ブィ
ア
包囲臥
陣を
しい
た。
堅
固な
防衛工
事を
ほ
どこ
さ
れ
たバ
グィ
ア
の
まち
は
な
か
なか
陥落し
なかっ
た。
そ
の
間、
デシ
デリ
ウ
ス
の
息
子で
、
すで
に
七五
九
年以
来そ
の
共
同
統治
者と
なっ
て
い
る
ア
デル
キ
ス
は
た
くみ
に
包
囲
軍
の
あい
だ
をぬ
っ
てコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
宮
廷に
お
ちの
び
る
こ
とに
成
功し
た。
こ
の
年の
ク
リ
ス
マ
ス
を
パ
ブィ
ア
城
外の
陣営で
すご
し
た
カ
ー
ル
は、
包
囲を
続
行する
傍ら
、
七
七
四
年の
復活
祭をロ
ー
マ
で
祝うこ
とに
なっ
た。
教皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世(
七
七
二
-七
九
五)
は
解
放者カ
ー
ル
の
入
城
を
盛
大
な
儀
式
を
もっ
て
ロ
ー
マ
に
むか
えい
れ
た。
.こ
うし
て.オ
ー
ル
は、
父ピ
ピ
ン
が
ちょ
う
ど二
十
年まえ
、
時の
教
皇ス
テ
フ
ァ
ヌ
ス
二
世
に
た
峨
( 17 ) 八 世紀後半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク ,ロ
ー
マ 教 皇
軸
外
い
して
び
き
う
けた
聖ペ
テ
ロ
防衛の
義務を
、
い
ま
見
事に
果
た
し
た
の
で
あ
る。
し
か
し
な
が
ら
カ
ー
ル
は、
お
な
じ
く
父が
教皇の
さ
し
出す「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
称
号
を
拒
香
し
た
よ
う
に、
ハ
ド
ル
ア、ズ
スエ
ノ
世の
さ
し
出すこ
の
同
じ
称
号
を
帯び
る
こ
と
を
肯ん
じ
なか
っ
た。
なお
こ
の
七
七
四
年の
カ
ー
ル
の
ロ
ー
マ
訪問は
、
ア
ラ
ン
ク
国
王
最初の
聖都「
巡
礼+
で
あっ
た。
カ
ー
ル
はハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
と、
戦役終結後の
イ
タ
リ
ア
経
営
に
つ
い
て
重
要な
政
治的
と
り
き
め
を
お
こ
な
うと
、
ふ
た
た
び
バ
グィ
ア
に
とっ
て
返し
た。
六
月の
は
じ
め、
デシ
デ
リ
ウ
ス
は
勇敢な
抵抗の
の
ち、
つ
い
に
カ
ー
ル
の
軍門に
下っ
た。
カ
ー
ル
は
もは
や
イ
タ
リ
ア
を
そ
の
お
も
む
く
と
こ
ろ
に
ま
か
せ
ず、
デシ
デリ
ウ
ス
に
か
わっ
て
自ら
が
「
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
人
の
王+
と
なっ
た。
。
こ
うし
て
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
族に
よ
る
イ
タ
リ.
ア
女酪は
終
焉し
た。
しか
しそ
の
残
党は
な
お
フ
リ
ア
ウ
ル、
キ
ウ
シ、
ス
ボ
レ
ト
な
どの
各地に
拠点を
か
ま
え
て
い
た。
なか
で
も、
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
に
は、
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
娘を
后に
し
た
ア
リ
キ
ス
が
お
り、
廃
位さ
れ
た
舅に
か
わっ
て、
「
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
族の
首長+
を
称し
た。
そ
の
ア
リ
キ
ス
は、
ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世
が
カ
ー
ル
を
後楯と
し
て
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
領一
帯
を
教皇
庁の
もの
に
する
の
で
は
ない
か
と
危倶し
て
シ
チ
リ
ア
■わ
ス
ト
ラ
テ
ーゴ
ス
の
ビ
ザ
ン
ツ
軍司
令
官と
む
すび
、
ま
た
ロ
ー
マ
教皇の
勢力の
南イ
タ
リ
アへ
の
拡
大に
等し
く重
大な
関心
を
よ
せ
る
テ
ラ
キ
ナ、
ガ
ユ
タ、
ナ
ポ
リ、
ア
マ
ル
フ
ィ
な
どの
在地
勢力
と
連携
して
反ロ
ー
マ
教皇
戦線を
結成
した
。
もっ
と
も
利害ほ
錯綜
して
お
り、
共
同
戦線側の
内部で
局
地
紛
争が
生
ずる
こ
と
も
ま
れ
で
なか
っ
た。
こ
の
よ
うな
情況の
も
と
早ザ
ン
ツ
は
七
七
四
年ダェ
ネ
ヴュ
ン
ト
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
残
党を
支援して
フ
ラ
ン
ク
勢
力の
南下
を
喰い
止
めよ
うと
は
かっ
た
が、
そ
の
ビ
ザ
ン
ツ
は、
当
時対
イ
タ
リ
ア
政
策の
貴重
な
切
り
札を
手
中に
に
ぎっ
て
い
た。
す
で
に
の
べ
た
よ
うに.■
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
息子
ア
デル.奉
ろ
は、
バ
グィ
ア
落城に
先
立
ちコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
落ちの
び
た
が、
こ
の
さ
い
ご
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王の
遺児が
い
う
まで
も
な
くい
まの
場合の
切
り
札で
あっ
た。
ビ
ザン
ツ
は
こ
の
切
り
札を
ま
すま
す価値
ある
もの
と
する
た
め、
お
そ
ら
く
ア
デ
ル
キ
ス
がコ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プ
ル
入
り
する
と
間
も
な
く、
こ
の
ラ.
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
族の
亡
命者にコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
宮
廷
爵位「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
を
下
賜し
た。
お
そ
ら
くこ
れ
に
触発さ
れ
て
で
あ
ろ
う、
淘̀ト
ル
は
七
七
五
年以
来
自
分か
ら
「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
と
称する
よ
うに
なる
〕
カ
ー
抑
一 橋論 叢 第 五 十 三 春 ‾第 五 号 ( 1 8 )
ル
は
七
七
四
年の
ロ
ー
マ
訪問の
さ
い
に
も、
ま
た
同
年の
バ
グ
ィ
ア
占
領後も
、
ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世の
さ
し
出す「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
称
号
を
拒否し
っ
づ
け
た。
い
ま
や
そ
の
カ
ー
ル
は、
ビ
ザ
ン
ツ
側が
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
位の
後継
者で
あ
り
継承
権
者で
あ
る
ア
デル
キ
ス
に
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
爵位をさ
ずけ
た
と
聞
く
や、
そ
れ
と
対
抗的に
、
自分が
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
国の
玉
座
の
フ
ラ
ン
ク
人
相
続
着で
あ
る
こ
と
を
示
すた
め、
今
度は
自分
か
ら
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
を
名
乗っ
た
の
で
あっ
た。
㍉捌
旬刊
司田は
儀大な
.・
「
偶像破
頓+
㌻垂
帝千ン
ス
.㌢
ン
テ
ィ
ノ
ス
五
世が
世を
去っ
て、
.
:
ビ
ザ.
ン‥
γ
政
嘩が二
代に
わ
た
る
力づ
よ
い
統御め
辛
か
ら
離れ
る
こ
と
に
なっ
た
時に
相
当
し
て
い
た。
こ
うし
て
そ
の
後何十
年もの
間、
ビ
ザ
ン
ツ
帝国
は、
あ
ま
り
有能で
ない
一
連の
支
配
者に
よっ
て
統治
さ
れ
な
けれ
ば
な
らない
運
命を
た
ど
る
こ
とに
なっ
た。
コ
ン
一ス
タ
ン
ティ
ltt
l
l一-
-
.′1-
!一-.1
一1
.′
ノ
ス
五
世に
つ
づ
い
て
帝位に
就
任し
た
の
は
そ
の
一
人
息
子の
甘
オ
}悌
抵〕
(
七
七五
-
七
八
〇)
で
あっ
た。
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
は
ピ
ピ
ン
が
死ぬ
まで
、
こ
の一
人
息
子の
た
めに
、
ピ
ピ
ン
の
娘ギ
ゼ
ラ
の
手
を
も
とめつ
づ
け
た。
こ
の
こ
と
は
すで
に
ふ
れ
た
と
お
り
だ
が、
ピ
.ピン
の
死セフ
ラ
ン
ク
王
国の
政
策が
反ビ
ザ
ン
ツ⊥り
線に
流れ
入
る
と、
コ
ン
ス
タ..
ン
.テ.ィ
ノ.
.斗
ばこ
の
レ
オ
ン
の
た
妙に
、
.アー
〔
射
出身
やイ
レ
、
る
を
え
ら
ん
で
七
六
侶rハ
リ
九
斡両
者を
妙
叡.材サた
。
つ
づ
い
て
レ
オ
ン
四
世が
そ
の
短い
在
位の
の
ち
世を
去る
と、
そ
町
子で
ぁる
当
時十
嵐の
コ
ン
ス
メい
†ア.イ
ハ
已八
色(
七
八
〇
1七
九
七)
が
登
極し
、
。
皇母.■
小
レ
オ
が
そ
の
摂
政と
なっ
て
政
局
を
担
当
する
こ
と
に
なっ
た。
こ
の
七
七五
-七
八
〇
年、
ビ
ザ
ン
ツ
側は
対
外
的困
難に
加
えて
、
い
まの
べ
た
よ
う
な
不
安
定
な
国
内の
政
情、
お
よ
び
宗
教
政
策上
で
の
聖
像崇
拝復
活の
準
備の
た
め、
イ
タ
リ
アヘ
の
積
極的
な
軍事介入
に
まで
は
至
り
え
な
かっ
た。
しか
し.
㍗㌢
ン
ク・
教
皇共
同
戦
線が
南小
タ
リ
ア
に
加え
を
重
圧に
対
抗す
る
た
め、
さ
き
に
の
べ
た
よ
うに
、
南イ
タ
リ
ア
の
基
地
ア
プ
リ
ア
か
ら
プ
チネ
ヴュ
ン
ト
公ア
リ
キ
ス
と
組ん
で
反
撃に
出て
い
た。
し
か
し
な
が
ら、
西
方の
事態を
率直に
み
と
めて
実力
者
カ
ー
ん
と
正
式の
国交を
回
復する
ほ
か
ない
と
判断し
た
た
め
で
あ
ろ
う。
刈り都
新摂政
敵
府は七
人+
「隼は
じ
め二
人の
レ
ザ
ン
ツ
使節サ
ケ
ラ
リ
オ
ス
・
コ
ン
ス
タエ
ス
と
プ
リ、
、
、
ケ
リ
オ
ス
・
マ
マ
ロ
ス
を
カ.
1
ル
の
も
と
に
派
遣して
きた
。
こ
の
頃カ
ト
ル
は
第二
回の.小ダ
叫
ア
存を+
叫
こ
し.
で
Jた
。
カ
ー
ル
は
七
八
〇
年の
秋、
フ
ラ
ン
ク
王
国の
北
方の
秩序が
再
建さ
れ
た
の
を
機に
、
イ
タ
リ
ア
に
お
け
る
諸
関
係を
調
整
する
た
め
ア
ル
プ
㈹
瑞
( 1 9 ) 八 世紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク,
ロ ー
マ 教 皇
恥
わ
ス
を
越え
、
ク
リ
ス
マ
ス
を「バ
グィ
ア
で
すご
し
た
後ロ
ー
マ
人
り
した
。
そ
し
て
復活祭
に
二
人の
息
子で
あ
る
四
歳未満の
新
ラン
ゴ
パ
ル
ド
王ピ
ピ
ン
と、
そ
の
弟の
新ア
キ
タニ
ア
王
ル
ー
ド
ゥ
ィ
ァ
ヒ
に
教皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世が
塗
油の
儀式
を
お
こ
な
うの
に
立ち
会っ
た。
い
まの
べ
た
二
人
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節が
あ
らわ
れ
た
の
は
こ
うし
て
カ
ー
ル
が
ロ
ー
マ
に
滞在
して
い
る
と
き
で
あっ
た。
ビ
ザ
ン
ツ
使節が
カ
ー
ル
の
もと
に
も
た
ら
し
た
の
は、
七
七
〇
年に
生
れ
た
吾が
子コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
六
世の
花嫁と
し
て
カ
ー
ル
の
娘ロ
ト
ク
ル
ド
を
もと
め
る
イ
レ
ネ
の
申し
入れ
で
あっ
た。
お
そ
ら
くビ
ザ
ン
ツ
使節は
、
ラ
グェ
ン
ナ
を
中
心と
する
旧ビ
ザ
ン
ツ
領に
た
い
する
領土
請求権を
ぴっ
こ
め、
カ
ー
ル
に
よ
る
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
族の
征
服お
よ
び
教皇庁
国
家の
成
立と
い
う
既
成事実
を
承
認
する
と
こ
ろの
イ
レ
ネ
の
意向を
つ
た
え
る
と
と
も
に、
平和
友
好条約の
締
結を
も
と
めて
来た
も
の
ら
しい
。
そ
して
こ
の
よ
うな
見
地
か
ら、
ビ
ザン
ツ・
フ
ラ
ン
ク
宮
廷の
む
すび
つ
き
を
皇
太
子
と
王
女
との
結婚に
よっ
て
一
そ
うか
た
めよ
うと
し
た
の
で
あ
ろ
う。
さ
らに
は
また
、
こ
の
よ
う
な
文
脈か
ら
推し
て、
カ
ー
ル
ヘ
の
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
爵位
下
賜の
問題が
同
時に
議
題に
の
ぼっ
たこ
と
も、
容
易に
想
像で
き
る。
七
七
四
年ビ
ザ
ン
ツ
側か
亡
命ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
族ア
デル
キ
ス
に
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
爵位
を
さ
ずけた
の
に
対
抗し
て
カ
ー
ル
が
七
七
五
年以
来勝手
に
名
乗っ
て
い
る
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
称号を
い
ま
追認する
こ
と
が、
カ
ー
ル
と
の
正
常
な
国
交を
回
復し
ょ
うとね
がっ
て
い
る
イ
レ
ネ
政
府の
、
ま
ず
打た
な
け
れ
ば
な
ら
ない
手だっ
た
か
らで
ある
。
こ
の
よ
うな
情況
下で
は、
カ
ー
ル
側も
無下
に
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
爵位を
拒否する
理
由が
も
は
や
なかっ
た
と
お
も
われ
る。
事実カ
ー
ル
の
伝記
作者
ア
イ
ン
ハ
ル
ド
ゥ
ス
は、
カ
ー
ル
が
終生フ
ラ
ン
ク
伝
来の
服装
を
愛用し
、
葦
靂な
異
国衣
装
を
身に
つ
け
よ
う
と
し
なか
っ
た
こ■と
、
た
だ
ロ
ー
マ
で
教皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
が
懇
請し
た
と
き、
お
よ
び
そ
の
後継者レ
オ
が
ふ
た
た
び
懇望し
た
と
き
の
二
回だ
けに
限っ
て、
長い
トニ
カ
と
ク
ラ、
、
、
ユ
ド
の
肩
か
け
を
着用
し、
ロ
ー
マ
風に
しつ
ら
え
た
靴
を
侃
用
し
た
こ
と、
をつ
た
えて
い
る。
レ
オ
の
場合が
八
〇
〇
年の
ク
リ
ス
マ
ス
に
関
係する
こ
と
は
云
うまで
も
ない
が、
お
そ
ら
く
七
八一
年、
ビ
ザ
ン
ツ
使節は
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
爵位就任の
辞
令と
と
も
に、
こ
の
爵位の
た
め
に
定
め
ら
れ
た
大
礼服をコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
か
ら
カ
ー
ル
の
た
めに
た
ずさ
え
て
き
た
と
お
も
わ
れ
る。
引い竹
上
ヨ叫山
男川
、
;r。.
ぺ‖ド■小.
不対
斗一
一也叫
㌻、㌃
脚
一 橋 論叢 第 五 十 三 巻 第五 号 ( 2 0)
タ
ン
ナ
ー
′
-
プ.一
■ル・
例の
代車者の
筏藍見
?
て
で
る
こ
と
に
よ
っ
て、
イ
レ
ネ
と
カ
ー
ル
と
の
あい
だ
の
友好関係の
成
立に
努
力し
た
ら
しい
。
教
皇側に
とっ
て、
カ
ー
ル
を
聖ペ
テロ
の
保
護者と
して
義務づ
ける
た
め
に
自分が
持ち
出し
た
「
ロ
ー
マ
人の
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
称
号が
、
い
まビ
ザ
ン
ツ
側か
ら、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
宮廷
爵位
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
の
下
賜
とい
うか
た
ちで
公
認さ
れ
る
結果
に
なれ
ば、
こ
れ
に
よっ
て
自分の
行
動は
合
法化さ
れ
て、
臣
下
た
る
教皇が
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
皇
帝に
た
い
し
越
権行為をお
か
した
と
い
う
非
難は
今
後永
久に
お
こ
り
え
な
く
な
る
で
あ
ろ
う。
こ
の
よ
う
な
考
慮の
ほ
か
に
ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世の
脳裡に
は、
兜
像崇
拝
的傾
向が
明
らか
な
イ
レ
ネ
と
交
渉し
て、
東方
教会と
の
間に
宗教
政
策上で
和解を
と
げ
よ
うと
する
希望が
うご
い
て
い
た
とお
もわ
れ
る。
と
もか
くもこ
うし
て、
d功ゝ
.
ン
J∵
.
フ
ラ
ン
ク
間に
は
友
好
関係が
確立を
み
た。
ピ
ピ
ン
の
と
き
に
カ
ー
ル
の
妹とレ
オ
ン
四
世
と
の
間の
縁談が
成立
し
な
かっ
た
の
に
び
きか
え、
今や
カ
ー
ル
の
娘とレ
オ
ン
四
世の
息
子
と
の
場合に
は、
実現の
可
能性が
濃くなっ
て
き
た。
ビ
ザ
ン
ツ
使節に
加わっ
て
い
た
随
員の一
人
官官エ
リ
サ
イ
オ
ス
は
び
き
つ
づ
きフ
ラ
ン
キ
ア
に
残
留七
てロ
ト
ク
ル
ド
に
ギ
リ
シ
ア
的生
活
様式を
教え
、
カ
ー
ル
m】
∂
も
ま
た
自
分の
許の
聖職者に
パ
ウ
ル
ス
・
ディ
アコ
ヌ
ス
を
し
て
ギ
リ
シ
ア
語
を
教授さ
せ、
ロ
ト
ク
ル
ド
の
嫁入
り
に
随行で
き
る
よ
う
訓練を
ほ
どこ
し
た。
御成
婚の
日
ど
りは
、
花婿が
成年に
たっ
する
七
八
六・
七
年に
定
め
られ
て
い
た
が、
こ
打
八
世
紀町
人一
〇
年
代(
前
述)
は、
イ
レ
ネ
政
府が
「
イ
サ
ウ
ル
ア
朝+
伝統の
宗教
政
策を
大
転回さ
せ
て
聖
像崇拝を
復活し
ょ
うと
着々
準備しっ
つ
ある
時期で
あっ
た。
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
宮
廷
は
七
八
四
年、
レ
オ
ン
四
せ
政
府が
任命し
た
総主
教パ
ウ
ロ
ス
を
辞
職さ
せ、
イ
レ
ネ
の
秘
書で
あ
る
と
と
も
に
神学
的素養も
豊か
な、
政治
的
識見に
とん
だ
俗人
タ
ラ
シ
オ
ス
を
そ
の
後任に
すえ
る
と
と
もに
、
ゼ司四
年の
「
偶像破
壊}
、】
㌣エ
レ
√
ア
宗■
教会議
が
お
こ
なっ
た
決議を.く
つ
が
え
すべ
く
全キ
ル
ス
ト
数値
界の
宗教
会議開催を
目
論ん
だ。
そ
の
た
め
に
はロ
ー
マ
教
皇
庁の
後援が
必
要不
可
欠の
前提で
あっ
た。
稽八
風
塵+
イ
レ
ネ
政
府は
、
タ
ラ
シ
オ
ス
の
絵主
教就任
に
つ.
い
て
教皇か
ら
承
認を
と
りつ
け、
あわ
せ
て
来るべ
きシ
の
全
宗教会議に
教皇
自ら
の
出馬
を
象諾す.
る
た
め、
ロ
ー
マ
に
使節を
派遣し
て
き
た。
カ
ー
ル
の
手
許に
も
同じ
出席招請状
が
と
ど
け
られ
た
か
ど
う
血
・
峨
瑞
( 2 1 ) 八 世 紀 後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク・
ロ ー マ 教 皇
叫
.恥
れ
か
は
わ
か
ら
ない
が、
カ
ー
ル
はコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
帰
還
する
ビ
ザ
ン
ツ
使節の
一
人ヨ
ハ
ネ
ス
に、
フ
ラ
ン
ク
宮
廷
礼拝堂つ
き
の
司
祭ウ
ィ
ッ
ト
ボ
ル
ト
を
同
行さ
せ
た。
こ
の
フ
ラ
ン
ク
「
使節の
目
的は
、
皇帝コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
が
結
婚
の
た
め
も
と
めて
い
る
カ
ー
ル
の
娘ロ
ト
ゥ
ル
ド
に
か
ん
する
も
の
で
あっ
た+
。
そ
の
ウ
ィ
ッ
ト
ボ
ル
ト
は
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
滞在中の
七
八
六
年、
一
大
事件に
立
ち
あ
うこ
と
に
な
っ
た。
イレ
水
政
府は
そ
の
日
指
す宗教
政
策上の
大
方
向
転
換の
た
め、
打つ
べ
き
手
は
すで
に
打ちつ
くし
た
と
判断し
た。
こ
う
して
モ八
ぬ年七
月二
二
日、
ナ
ン
ス
㌢ン
ティ
ノ
ー
ブ
ル
の
卑
・ノ1
■l
・11
、~1
ゝ■
剰、
聖
使徒教会に
い
よ
い
よ
象教
会
議を
召
集し
た。
討議が
い
よ
い
よ
は
じ
ま
ろ
うと
し
た
と
き、
牧コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ス
五
世の
命令を
忘れ
ない
首都防衛部隊の
兵士
らが
刀を
き
ら
め
か
せ
て
教会に
聞
入
し、
参集した
司教
た
ちの.
一
部が
感激
に
うちふ
る
え
て
よ
ろこ
び
の
声を
あ
げる
さ
な
か
で、
会議を
散らせ
て
し
まっ
た
の
で
ある
。
イレ
ネ
政
府は
こ
うして
「
偶
像破
壊+
主
義の
底流が
い
ま
だ
根強い
こ
とを
身を
もっ
て
し
ら
さ
れ
た。
しか
し
イ
レ
ネ
は
こ
れ
に
く
じ
け
なか
っ
た。
イ
レ
ネ
は
「
偶像破
壊+
派の
軍
隊を
対
ア
ラ
ブ
戦の
た
め
と
称し
て
小
ア
ジ
ア
に
送
り
出し
、
聖像崇拝派の
軍隊
をト
ラ
キ
ア
か
ら
よ
び
よ
せ
て
首
都の
防
衛に
任
ずる
と、
問題の
宗教
会
議を
翌-
曙八七
厘にニ
カ
イ
ア
で
開催すべ
き
決定
を
お
こ
な
うと
と
も
に、
各方
面に
招
請状
を
再
発
逸し
た。
そ
し
て
こ
の
七
八七
年
は
御成
婚の
儀に
定
め
ら
れ
た
年で
もあっ
た。
事件の
目
撃者
と
なっ
た
吾が
ウ
ィ
ッ
ト
ボ
ル
ト
が
カ
ー
ル
の
許に
ふ
た
た
び
戻
っ
て
くる
の
は、
こ
う
し
て、
七
八
七
年の
宗教会議へ
の
出席
招請状をた
ずさ
え
て
カ
ー
ル
の
許
を
お
と
ずれ
る
ビ
ザ
ン
ツ
使
節と
つ
れ
だっ
て
で
あっ
た。
そ
の
間カ
ー
ル
は、
七八
五
年に
フ
ラ
ン
キ
ア
を
発っ
て
い
らい
一
年以
上
も
帰っ
て
来ない
ウ
ィ
ッ
ト
ボ
ル
ト
を
待ち
き
れ
ず、
か
れ
に
予
定
し
て
い
た
聖
プア
ン
ド
リ
レ
修道
院長の
職
を
他
人に
与え
て
し
まっ
て
い
た。
そ
の
ウ
ィ
ァ
ト
ボ
ル
ト
と
カ
ー
ル
は、
七
八七
年初め
南イ
タ
リ
ア
の
カ
ブ
ア
で
再会する
こ
と
に
なっ
た。
カ
ー
ル
は
七
八
六
年晩
秋ア
ル
プ
ス
を
越え
、
フ
ィ
レ
ン
ツ
ェ
で
ク
リ
ス
マ
ス
を
むか
え
た
後、
七
八
七
年の
初め
第三
回
目
の
ロ
ー
マ
入
り
を
し
た。
今回
の
イ
タ
リ
ア
行の
目
的は
、
自国ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
国の
殴打
事情■の
整備
、
お
よ
び
南イ
タ
リ
ア
に
お
ける
事態の
確
定に
あっ
た■L■
卑針わ
れ
る。
こ
の
カ
ー
ル
の
一
⊥
イ
タ
リ
ア
行を
聞く
と、
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
ア
リ
キ
ス
は
長子
抑
一橋 論 叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 2 )
の
ロ
ム
ア
ル
ド
に、
贈物を
た
く
さ
ん
持た
せ
て
ロ
ー
マ
の
カ
ー
ル
の
許に
お
も
むか
せ、
カ
ー
ル
ヘ
の
忠誠を
示
し
て
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
公
国へ
の
進
撃を
未然に
予
防しよ
うと
し
た。
今や
カ
ー
ル
と
同
盟関
係に
立っ
て
い
る
ビ
ザ
ン
ツ
か
らの
救援を
期待で
き
ない
と
すれ
ば、
ア
リ
キ
ス
と
し
て
こ
う
する
よ
り
ほ
か
なか
っ
たの
で
あ
ろ
う。
し
か
し
結局
、
教皇ハ
ド
リ
ア.
斗可「
嘩の
要
請をい
れ
て
南イ
タ
リ
ア
に
「
矧
㈲な教
卓庁
磁針.
?
←
㌣エ
げ
よ
う
むし
、
.オ
‥ル
は
デ
ざ不
ヴュ
ン
ト
公
国
領内に
遠征
を
お
こ
ない
、
カ
ブ
ア
城
下に
陣を
しい
た。
ア
リ
キ
ス
は、
先
見
の
明が
あっ
て
サ
レ
ル
ノ
に
築城工
事をほ
どこ
し
て
い
た
が、
い
まこ
の
不
落の
要塞に
た
て
こ
もる
と
と
も
に、
カ
ー
ル
に
忠
誠の
誓い
を
あ
ら
わ
すた
め、
次
男の
グ
リモ
ア
ル
ド
を
人
質と
し
て
カ
ー
ル
の
許に
派
遣し
た。
カ
ー
ル
が、
帰
還
する
ウ
ィ
γ
ト
ボ
ル
ト
お
よ
び
そ
れ
に
同
行
する
ビ
ザン
ツ
使節
を
むか
え
た
の
は、
七
八
七
年早
春の
こ
の
カ
ブ
ア
の
陣営に
お
い
て
で
あっ
た。
ビ
ザ
ン
ツ
使節は
イ
レ
ネ
の
指令に
も
と
ずき
、
花嫁ロ
ト
ク
ル
ド
の
ひ
き
と
り
方
に
つ
い
て
カ
ー
ル
と
交渉し
た。
カ
ー
ル
は
そ
の
交
渉の
過
程の
な
か
で、
自分の
愛娘を
あ
た
か
も
人
質の
よ
うに
し
て
つ
れ
て
い
こ
うと
する
ビ
ザ
ン
ツ
側の
能度が
は
っ
き
りし
て
く
る
の
に
つ
れ
て、
苛
立ち
を
お
さ
え
る
こ
と
が
で
き
乃-h
J
なかっ
た。
そ
れ
よ
り
も
なに
よ
りも
、
カ
ー
ル
は
こ
の
ビ
ザ
ン
ッ
使節の
た
ず
苧見
て
い
る
宗教
会議招請状を
み
て、
イ
レ
ネ
政
府の
聖
像崇拝とい
う宗教政
策の
旗印が
鮮明
化さ
れ
た
こ
と
を
知っ
た。
温
和な
「
偶像破
壊+
洗を
相
手
と
する
結婚な
ら
ば
可
能で
あっ
て
も、
聖像崇拝派
との
結婚は
断じ.て
不
可
能で
あ
る
と
する
カ
ロ
リ
ン
グ
朝の
家憲せ
創り
上
げ
た
カ
ー
ん
に
とっ
て、
こ
れ
以上
イ
レ
ネ
と
交渉する
こ
と
は
無駄
と
なっ
た。
こ
うし
て
今回
も
ま
た、
「
イ
サ
ウ
リ
ア+
朝と
カ
ロ
リ
ン
グ
朝の
あい
だ
の
結婚ば
な
しは
破
談と
なっ
た。
た
だ
カ
ー
ル
は、
一
カ
年以
上
もコ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プ
ル
で
愛娘ロ
ト
ク
ル
ド
の
結婚の
た
めに
奔走して
くれ
た
ウ
ィ
ッ
ト
ボ
ル
ト
の
労
を
ね
ぎ
らい
た
い
とお
もっ
た。
そ
こ
で
すで
に
他
人に
与え
て
し
まっ
た
聖
プア
ン
ド
リ
レ
修道院長の
地
位の
か
わ
り
に、
別
の
修道院長の
職を
与え
て
やっ
た。
こ
う
して
御代
心
髄以
来、
ビ
ザ
)
ッ
敵国
と
フ
ラ一
ン
を軋
と
の
間に
は
ふ
た
た
び
国
交途絶の
状態が
舞い
も
どっ
た。
カ
ー
ル
は
理の
当
然上
、
も
は
や
ビ
ザ
ン
ツ
爵
位
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
の
保持者で
あ
り
え
なか
っ
た。
そ
れ
に
も
か
か
わ
ら
ずカ
ー
ル
は
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
を
称
する
こ
と
を
や
め
なか
っ
た。
瀬
切
( 2 5 ) 八 世 紀 後半 乃 イ タ リ ア と ピ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク,
ロ ー マ 教 皇
血叩
わ
そ
こ
で
こ
の
場合
、
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
の
内
容は
、
か
つ
て
七
七
五
年、
ビ
ザ
ン
ツ
に
よ
る
ア
デ
ル
キ
ス
ヘ
の
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
爵位と
対
抗
的に
カ
ー
ル
が
自ら
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
を
名
乗っ
た
場合と
同一
に
なっ
た。
た
だ
そ
の
間七
八一
年の
ビ
ザ
ン
ツ
側の
公
認を
は
さ
ん
で、
そ
の
価値は
高まっ
た。
そ
し
て
ちょ
うど
そ
の
尽か
ら.「パ.-
。い.
γ
軒
り■
ス
+
は、
領域
支
配
者の
概
念の
意味に
変じ
は
じ
灯
る。
い
ま
や
イ
タ
リ
ア
の
教皇
支
配
部分を
あ
らわ
す「
聖ペ
テロ
の
パ
ト
リ
キ
ア
ー
ト
ク
ス+
と、
王
支配の
部分を
あ
ら
わ
す「
パ
ト
リ
キ
ア
ー
ト
ク
ス+
とが
、
対
置的に
用い
られ
る
よ
うに
なっ
た
の
で
あ
る。
カ
ー
ル
は
こ
うして
八
〇
〇
年の
ク
リ
ス
マ
ス
、
「
皇帝+
称
号
に
よ
っ
て
お
き
か
え
ら
れ
る
まで
、
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス
+
で
あ
り
続けた
。
さ
て
吾々
は
最後に
、
七
八七
年の
断絶い
ご
宵小
タ■ト
ナか
事態は
ど
㌻な
サ.
で.
い
たか
に
限
を
転じ
な
けれ
ば
な
ら
ない
。
なぜ
なら
ば、
ま
さ
に
こ
の
地
域で
ビ
ザ
ン
ツ
帝
国と
フ
ラ
ン
ク
王
国とが
ま
ず外
交的に
鍔迫合
をお
こ
ない
、
つ
づ
い
て
直
接
の
軍事衝突に
突入
し
た
か
らで
あ
る。
すで
に
み
た
よ
うに
七
八
七
年カ
ー
ル
の
南下
を
さ
けて
グェ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
ア
リ
キ
ス
は
サ
レ
ル
ノ
に
た
て
こ
もっ
て
い
た
が、
ロ
ト
ゥ
ル
ド
び
き
と
り
方に
つ
い
て
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節の
交
渉が
失
敗し
たこ
と
を
聞
くや
、
カ
ー
ル
が
カ
ブ
ア
の
陣営を
た
た
ん
で
未だ
ロ
ー
マ
に
滞在中に
、
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
使節
を
派
遣し
、
ビ
ザ
ン
ツへ
の
恭順の
意を
示
すと
と
も
に、
そ
の
代償と
して
ギ
リ
シ
ア
風の
帽子
、
衣
服を
着用し
た
い
こ
と、
自らに
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
宮廷
爵位
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
を
与
えて
ほ
しい
こ
と、
長
男ロ
ム
ア
ル
ド
の
た
め
に
皇族の
一
女
性を
花嫁に
の
ぞ
ん
で
い
る
こ
と、
を
申し
出
て、
ま
たコ
ン
ス
タン
ティ
ノ
ー
プ
ル
宮廷
に
か
こ
わ
れ
て
い
る
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
族の
亡
命者ア
デル
キ
ス
を
イ
タ
リ
ア
に
帰還
さ
せ、
そ
の
さ
い
ビ
ザ
ン
ツ
軍を
派
遣し
て
ほ
しい
と
要請して
きた
。
軒
ザ
ン
ツ
政
府は
持ち
前の
慎重さ
か
ら、
ア
デル
キ
ス
と
軍
隊と
を
送っ
て
こ
そ
こ
なか
っ
た
が、
そ
れ
で
も
七
八
八
年は
じ
め、
すぐ
折返
し
て、
ア
リ
キ
ス
に
「
パ
ト
リ
キ
ウ
ス+
爵位を
さ
ずけ
、
ま
た
こ
の
爵位の
凧用
者用の
礼服そ
の
他一
式を
手
交
する
た
め
に
使節を
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国へ
む
けて
派遣し
て
きた
。
こ
の
ビ
ザ
ン
ツ
使節の
団
長は
、
二
人の
ス
パ
タ
リ
オ
ス
を
した
が
え
た
シ
チ
リ
ア
の
パ
ト
リ
キ
オ
ス
・
テ
オ
ド
ロ
ス
で
あっ
た。
そ
の
間ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国に
む
けて
カ
ー
ル
の
側
も
ま
た
使者を
送っ
て
き、
カ
ー
ル
がハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世に
た
∽
一 橋論 叢 第 五 十 三 巻 第 五 号 ( 2 4 )
い
し
て
お
こ
なっ
た
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国
北
部の
教皇
庁へ
の
割譲の
約束
を
果た
そ
うと
し
た。
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
側で
は
す
で
に
そ
の
年の
七
月に
は
ア
リ
キ
ス
の
長男ロ
ム
ア
ル
ド
が、
そ
の
翌
八
月に
は
ア
リ
キ
ス
自
身が
こ
の
世
を
去っ
て
い
た
の
で、
こ
の
使節団の
交
渉
頼子
と
なっ
た
の
は、
ア
リ
キ
ス
の
妃ア
デ
ル
ベ
ル
ガ
で
あっ
た。
妃は
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
デシ
デ
リ
ウ
ス
の
娘で
あ
り、
し
た
がっ
て
王
国
滅亡
時コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
に
亡
命し
た
ア
デル
キ
ス
の
姉妹に
あたっ
て
い
た。
ア
デル
ベ
ル
ガ
は、
父
デシ
デ
リ
ウ
ス
か
ら王
国を
、
兄
弟ア
デル
キ
ス
か
ら
自
由を
う
ばい
、
大の
ア
リ
キ
ス
を
臣
下と
する
こ
と
で
満
足せ
ずに
い
ま
ま
た
教皇に
自嶺を
割譲さ
せ
よ
うと
する
カ
ー
ル
に
た
い
し
激しい
嫌悪の
情を
懐い
て
い
た
が、
し
か
しカ
ー
ル
の
も
と
に
人
質と
なっ
て
い
る
次
男グ
リ
モ
ア
ル
ド
が
帰還
す
る
こ
と
が
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国
をた
て
な
お
す第
一
条件で
あ
っ
て
み
れ
ば、
こ
の
場合カ
ー
ル
を
怒
ら
せ
て
は
な
ら
な
か
っ
た。
そ
うか
とい
っ
て
ビ
ザ
ン
ツ
と
の
交
渉の
き
ずな
を
断ち
切
れ
ば、
ビ
ザ
ン
ツ
か
ら
援軍を
え
て
フ
ラ
ン
ク
人に
た
い
して
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
人
を
た
ち
上
らせ
る
機会も
失
わ
れ
る
で
あ
ろ
うし
こ
の
よ
うな
苦しい
情況の
もと
に
お
か
れ
た
ア
デ
ル
ベ
ル
ガ
は、
逆に
カ
ー
ル
の
許に
使者を
派
遣し
て、
グ
リモ
ア
ル
ド
の
帰還を
ゆる
し、
か
れ
が
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国を
相
続する
の
指石じ
を
許
可し
て
ほ
し
い
と
カ
ー
ル
に
懇願する
と
と
も
に、
他
方ビ
ザ
ン
ツ
使節か
ら、
グ
リモ
ア
ル
ド
が
カ
ー
ル
の
許か
ら
帰還し
た
後、
父ア
リ
キ
ス
と
同
様ビ
ザ
ン
ツ
に
忠
誠を
続け
れ
ば、
皇
帝
もグ
リ
モ
ア
ル
ド
の
相
続を
ゆる
すで
あ
ろ
う、
とい
う保証
をと
り
つ
けた
。
教
皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
一
世
はこ
の
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
例の
うご
き
を
察知する
や
躍起
と
なっ
て
カ
ー
ル
に
は
た
ら
き
か
け、
グ
リ
モ
ア
ル
ド
を
釈放
する
の
は
結局
敵方の
手
中に
貴重
な
切
り
札を
委ね
る
こ
と
に
な
る
こ
と、
事態の
窮極的処
理
は
カ
ー
ル
自らの
出馬を
お
い
て
ない
こ
と、
を
カ
ー
ル
に
納得さ
せ
よ
う
と
し
た。
し
か
し
なが
らカ
ー
ル
に
とっ
て
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
人の
一
公
国の
問題の
ご
と
き
は、
当
時カ
ー
ル
が
お
さ
めて
い
る
広
い
領域の
な
か
で
お
こ
っ
て
い
る
幾つ
もの
複楚な
問題の
なか
で
は
第二
次
的
な
意味
を
も
つ
に
すぎ
なか
っ
た。
カ
ー
ル
に
と
っ
て、
七
八
七
年の
カ
ブ
ア
まで
の
示
威運動が
精一
ばい
の
限
界で
あ
り、
軍事的
手
段に
よ
る
よ
り
は
外
交
政
策に
よ
っ
て
南
方で
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
人の
蜂起を
予
防し
よ
うと
した
。
また
カ
ー
ル
は
教
皇
庁へ
の
寄進の
完全
実
施に
もさ
ほ
どの
熱意を
示さ
な
かっ
た。
すで
に
み
た
よ
うに
、
こ
の
頃、
イ
タ
リ
ア
で
鵬
.血
鵡
八世 紀 後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ ,フ ラ ン ク ,
ロ ーマ 教 皇)52(
.
▲叩
ホ
,事
は
重
文配
部
分
と
教皇支
配
部分と
は
な
ら
び
た
ち、
教
皇
領の
異状な
拡
大
は、
デシ
デリ
ウ
ス
と
の
戦い
で
カ
ー
ル
が
獲得し
た
旧
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
国領の
犠牲に
お
い
て
し
か、
実
現で
き
ない
ほ
ど
に
なっ
て
い
た
の
で
あ
る。
こ
うし
て
オト
ル
嬢七
八
八
卑の
考
教
皇ハ
ド
リ
ア
ヌ
ス
の
切
歯掘腕を
よ
そ
に、
グ
リモ
ア
ル
ド
が
忠
誠の
誓い
を
お
こ
な
・
う
や
直ちに
、
そ
の
故国へ
の
帰還
を
ゆる
し、
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公
国の
相
続を
ゆ
る
し
た
の
で
あ
る。
七
八
八
年の
続く
歴史
の
経過
は、
カ
ー
ル
の
み
と
お
し
が
正
しか
っ
た
こ
と
を
実証
し
た。
こ
の
年、
故ア
リ
キ
ス
が
あ
れ
ほ
ど
まで
熱烈に
も
と
め
て
や
ま
な
かっ
た
ア
デル
キ
ス
が、
サ
ケ
ラ
リ
オ
ス
職と
ロ
ゴ
テ
ト
ス
職
を
兼ね
るヨ
ハ
ネ
ス
指揮下の
ビ
ザ
ン
ツ
軍とと
もに
カ
ラ
ブ
リ
ア
に
到
着
し
た。
こ
れ
に
は
さ
ら
に、
シ
チ
リ
ア
の
パ
ト
リ
キ
オ
ス
の
増援軍が
合流した
。
逝え
撃つ
の
は
ヴュ
ネ
ヴュ
ン
ト
公ア
リ
キ
ス
お
よ
び
ス
ボ
レ
ト
公ヒ
ル
デ
ブ
ラ
ン
ト
の
ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
連合軍お
よ
び、
、
、
ブ
ス
ス
・
ブィ
ニ
ギ
ス
の
指揮
する
フ
ラ
ン
ク
軍で
あっ
た。
カ
ラ
ブ
リ
ア
国境で
両
軍は
激突し
た。
ビ
ザ
ン
ツ
軍は
完敗し
、
そ
の
死
者は
実に
四
千
名、
捕虜は
一
千
名
とい
わ
れ、
捕虜の
な
か
に
は
ビ
ザ
ン
ツ
遠
征
軍を
指揮し
た
ヨ
ハ
ネ
ス
も
含まれ
て
い
た。
ア
デル
キ
ス
が
生
き
残っ
た
か
ど
うか
、
不
明で
ある
が、
一
説
に
は、
コ
ン
ス
タ
ン
ティ
ノ
ー
プ
ル
で
老
年を
終え
た
と
つ
た
え
ら
れ
て
い
る。
グ
リモ
ア
ル
ド
は
こ
うし
て、
カ
ー
ル
に
た
い
し
て
誓っ
た
忠
誠を
行動を
もっ
て
実
証
した
。
し
か
し
なが
らグ
リ
モ
ア
ル
ド
の
フ
ラ
ン
ク
国
王に
た
い
する
傾倒ぶ
り
は、
父
ア
リ
キ
ス
の
ビ
ザ
ン
ツ
皇
帝に
た
い
する
傾倒ぶ
り
よ
り
長くつ
づ
い
た
わ
けで
ない
。
グ
リモ
ア
ル
ド
は、
七
八八
年亡
命ラ
ン
ゴ
パ
ル
ド
王
族
の
帰還の
阻止
に
成
功し
た
こ
とで
、
カ
ー
ル
ヘ
の
義務
は
充
分
果した
と
考え
た。
こ
う
して
グ
リ
モ
ア
ル
ド
は
七
九一
年か
ら
イレ
ネ
の
手
中に
あ
る
対カ
ー
ル
切
り
札に
と
変じ
た。
こ
れ
に
た
い.
する
カ
ー
ル
の
側か
らの
切
り
か
え
しが
、
こ
の
年か
ら
八
〇二
年まで
四
回に
わ
たっ
て
お
こ
なわ
れ
た
と
こ
ろの
、
ピ
ピ
ン
の
対ブ
リ
キ
アル
ド
遠
征で
あっ
た。
な
お
グ
リ
モ
ア
ル
ド
は、
父
ア
リ
キ
ス
が
長
男ロ
ム
ア
ル
ド
の
花嫁に
是
非と
も
と
め
て
や
ま
な
かっ
たコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
六
世の
妃マ
リ
ア
の
妹
エ
ウ
ァ
ン
テ
ィ
ア
を、
も
は
や
こ
の
世
に
い
ない
兄に
か
わ
っ
て
妻と
し
た。
そ
の
真に
は
母ア
デル
ベ
ル
ガ
の
大
き
な
手
腕が
あっ
た。
もっ
と
も
こ
の
結婚は
不
幸な
結末に
お
わっ
た
ら
し
ー+
J
い。
エ
ウ
ァ
ン
テ
ィ
ア
は
離婚して
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
5 7
一橋 論叢 第 五 十 二 巻 第 五 号 ( 2 6 )
宮
廷に
お
く
りか
えさ
れ
て
い
る。
い
ま
み
た
よ
うに
、
七八
七
年い
ご
国⊥
父
を
断絶し
た
ビ
ザ
ン
ッ
帝国
と
フ
ラ
ン
ク
王
国と
は、
つ
づ
い
て
南イ
タ
リ
ア
モ
舞台
と
し
て
互い
に
そ
の
勢力
伸
長を
は
か
ろ
う
と
し
た。
宗教
政
策
の
領域で
も、
フ
ラ
ン
ク
王
国は→∴
七八七
尭聖像崇拝復活を
決
議し
た・ニ
カ
イ
ア
宗教会議七たい
し、
そ
れ
に
反
対
する
七
糾問世の
フ
ラ
ン
ク
フ
ル
上示
教
会議を
もっ
て
応えた
。
こ
う
し
た
さ
なか
で
ビ
ザ
ン
ツ
側
に
は
七
九
七
年政
変が
あり
、
イ
レ
ネ
が
実
子の
正
帝コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
六
世
を
盲目と
し、
廃
位して
、
女帝とし
七ビ
ザ
ン
ヅ
史上
前例を
み
ない
女
帝
単独
有配む
開始す
宅つ
づ
い
て
七
九
八
年イレ
ネ
は、
ア
ー
ヘ
ン
の
カ
ー
ル
の
も
と
に、
パ
ト
リ
キ
オ
ス
・
、
、
、
ハ
エ
ル
・
ガ
ン
ダ
リ
ア
ノ
ス
お
よ
び
修道
院長テ
オ
フ
ィ
ロ
ス
を
使
節と
し
て
派
遣
し、
両
国の
交戦
状態に
終止
符を
打っ
て
国
交を
回
復した
い
と
申し
込ん
で
く
る。
こ
こ
に
は
じ
まる
両
国
間の
あ
ら
た
な
交
渉関係に
つ
い
て
は、
八
〇
〇
年の
ク
リ
ス
マ
ス
の
目
の
ロ
ー
マ
で
の
カ
ー
ル
の
戴冠を
中
心
と
して
別
箇に
論
じ
な
け
れ
ば
な
ら
ない
。
(
一
九
六
五・
二
・
一
八)
〔
後記〕
本
稿
は
さ
い
しょ
、
カ
ー
ル
の
戴冠に
つ
づ
い
て
お
こ
っ
た
中
世キ
リ
ス
ト
教
世
界の
新
事
態ま
で
筆を
す
す
める
予
定で
あ
っ
た。
それ
に
つ
い
て
は、
お
な
じ
オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲの
い
ま一
つ
の
紺
新しい
論
文が
、
最も
参考に
な
る。
W.
〇ビ
ゴ払
弓
琴DP払
内巳
・
∂
∽
e
ユ仁
m(
訂1
J
空言ロe
仁
ゴd
已e
内已岩r
打1
か
ロ
…J
g
内p
ユ∽
d2
仏
G
3∽
給n
.紆e
告ごー
ヨ
一
斗
(
-
諾ぃ
)
S.
N
N
T【
N
革そ
し
て
こ
の
論
文が
示
すご
と
く、
カ
ー
ル
の
戴
冠
と
な
らぷ
い
ま一
つ
の
古
来か
らの
論
争主
題、
COn∽t
芹
已仁
2
CO
ロ∽t
p
ロt-
ロー
と
取
組
ま
な
け
れ
ば
な
ら
ない
。
カ
ー
ル
の
戴冠に
つ
い
て
オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲが
重
視
する
の
は、
そ
れに
先立
つ
十
年間
、
ビ
ザン
ツ
帝
国が
か
か
え
こ
ん
だ
女
帝
支
配
の
問
題で
あ
る。
七
八
〇
年い
らい
吾が
子コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
六
世の
摂政
で
あっ
た
イレ
ネ
は、
七
九
〇
年初めい
っ
た
ん
単
独
支
配を
くわ
だ
て
たが
軍
隊の
反
対に
遭っ
て
失
敗、
同
年末に
一
時引
退し
、
そ
の
間
七
九二
年ふ
たた
び
共同
統
治者
と
して
復
帰
する
が、
七
九
〇
年か
ら
七
九
七
年
まで
はコ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
六
世の
単独
支
配の
時
期
が
つ
づ
い
た。
ビ
ザ
ン
ツ
帝
国
に
お
け
る
女
帝支
配の
合
法
性の
問
題は
こ
うし
て
すで
に
こ
の
と
きい
らい
くす
ぶ
り
は
じ
め
て
い
た
が、
それ
が
はっ
き
り
し
た
か
た
ち
を
と
る
に
い
たっ
たの
は、
い
う
まで
も
なく
、
七
九
七
年イレ
ネ
が
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ス
六
世
を
廃
位し
て
名
実と
も
に
女
帝
支
配
を
確
立
し
た
と
きか
らで
あっ
た。
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
は、
女
帝
支
配を
め
ぐっ
て
ビ
ザン
ツ
国
内に
は
基
本
的な
見
解
の
対
立
が
あっ
た
こ
と、
そ
れ
を
非
合
法と
する
の
は、
ど
ずン
ツ
の
国
家
伝
統に
忠
実
に、
女
帝
は
本
来、
諸
国
家の
王
た
ち
を
打っ
て一
丸
とし
た
家
族
の
家
父
長
た
る
コ
ン
ス
タ
ン
テ
ィ
ノ
ー
プ
ル
の
ロ
ー
マ
皇
帝に
は
な
り
え
ない
と
する
見
解で
あ
り、
こ
れに
た
い
し
て
イ
レ
ー
ネ
側
00
也
ヰ
( 2 7 ) 八世 紀後 半 の イ タ リ ア と ビ ザ ン ツ,
フ ラ ン ク ,ロ ー マ 教 皇
叩
恥
は、
皇
帝に
実
際に
就
任
する
の
が
誰で
あ
ろ
うと
、
た
だ
皇
帝
と
し
て
の
機
能が
問題で
ある
とし
、
し
た
が
っ
て
政
務
遂
行の
資
格
な
き
未成
年
者
で
も
婦
人で
も
梼わ
な
い、
と
主
張
し
て
い
た
こ
と、
を
示
す
と
と
もに
、
こ
の
よ
う
なイ
レ
ネ
側の
見
解
は、
九
世
紀の
経過の
うち
に
ビ
ザン
ツ
に
定
着
しは
じ
め
る
の
で
あ
り、
し
た
が
っ
て
八
世
紀
末
に
は
イ
レ
ネ
の
立
場は
イ
デオ
ロ
ギー
的に
未
だ
不
安定
な
状態
に
お
か
れ
て
い
たこ
と、
事
実
国
内に
は
空
位
と
み
なさ
れ
た
玉
座を
め
ぐっ
て
皇
帝
擁
立
運
動が
属
州
各地
で
お
こ
っ
たこ
と、
を
指
摘
する
。
そ
して
こ
の
伏
線
を、
カ
ー
ル
の
戴冠
に
お
ける
最も
重
要な
前提
だ
と
考
え
る。
CO
n∽
t-
t
已仁
m
CO
n
監P
n
ュn
山
に
つ
い
て、
オ
ー
ン
ゾル
ゲ
は、
八
〇
三・
四
年ロ
ー
マ
教
皇レ
オ
三
世
を
作
成
者
と
して
成立
し
た
の
が
こ
の
偽作
文
書
だ
と
解
釈
する
。
八
〇
〇
年の
ク
リ
ス
マ
ス
に
主
役を
演
じ
た
都
市ロ
ー
マ
市
民に
よ
る
皇
帝
推挙に
く
らぺ
て
意
味の
ない
象
徴
的
行
為に
す
ぎ
なか
っ
たロ
ー
マ
教
皇に
よ
る
皇
帝
戴
冠の
契機が
、
こ
こ
で
は
じ
めて
基
本
的
な
意
味が
え
を
う
け、
前面
に
お
し
出さ
れ
て
くる
。
こ
うオ
ー
ン
ゾル
ゲ
は
考え
る。
こ
の
よ
う
な
オ
ー
ン
ゾ
ル
ゲ
の
主
張は
、
か
れの
い
ま
まで
の
見
解を
裏打ち
し、
そ
れ
を一
そ
う
確
定づ
けた
もの
と
い
うこ
と
が
で
き
よ
う。
私自
身、
オ
ー
ン
ゾル
ゲの
基
本
的
見
解
に
よ
り
つ
つ、
注
(
2)
の
叙
述
をお
こ
なっ
たが
、
今
回の
か
れの
新
しい
論
文に
接し
て、
私
自
身の
叙述
を、
別
箇の
機
会に
、
補
修
して
み
た
い
と
お
も
う。
(
一
九六
五
二二
・
一
六)
(
一
橋大
学助
教授)
5 7 7