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地図にみる現代世界

フードデザート問題の現状と課題

茨城キリスト教大学文学部 准教授 農林水産省政策研究所 客員研究員 岩間信之

1.フードデザート問題の概要

 本稿では、フードデザート(食の砂漠:Food Deserts:以下FDsと略記)問題の定義と事例研究を紹介するとともに、 問題解決に向けた課題を紹介する。 調査を進めるなかで、1人の高齢者に出会った。地方都市に暮らす70代の女性である。若いころは日本舞踊の師匠として活躍し、都内の大きな劇場の舞台に上がったこともあったという。しかし、足腰を悪くしたのち舞踊を引退し、実家のある地方都市に戻ってきた。未婚であった彼女は、現在は親が残したという古い一戸建て住宅に、1人で暮らしている。親しい親類は、隣町に暮らす弟のみである。近所には知り合いも少なく、若い時代の友人との縁も切れているため、1日の大半を、自宅で1人で過ごしている。生活は苦しく、年金で辛うじて生計を立てている。自宅はかつての歓楽街に位置しているが、現在は空き家もめだち、閑散としている。食料品店は、コンビニエンスストアが1店あるのみである。遠方に買い物に行けず、かつ調理が苦手な彼女は、コンビニで買った安い缶詰や総菜を食べて暮らしている。この女性は糖尿病のため医師からきびしい食事指導を受けているが、守れていないという。 近年、買い物先に不自由する高齢者を、「買い物難民」と称して取り上げるマスコミが増えている。経済学や流通の分野では、移動スーパーやネット通販を活用した買い物難民対策を提言する調査報告も多い。しかし、経済的な余裕がなく、かつ他人との接触をきらう前述の女性は、たとえ近所に移動スーパーが来ても利用しないだろう。FDs問題の背後には、地方の衰退や経済不況、自動車利用を前提とした商業集積地の形成、貧困の拡大、核家族化の進展、地域コミュニティの衰退など、さまざまな要因が介在している。人は単なる点ではなく、地域は単なる面ではない。各人のもつ背景や地域の特性を理解しなければ、FDs問題の実態はみえてこない。FDs問題を把握するには、地域の実態を包括的にとらえることができる、地理学の視点が必要である。 FDs問題とは、1)社会・経済環境の急速な変化のなかで生じた「生鮮食料品供給体制の崩壊」と、2)「社会的弱者の集住」という二つの要素が重なったときに発生する社会的弱者層の生活環境悪化問題、と整理できる。生鮮食

料品における買い物環境の悪化は、健康被害に直結する。「生鮮食料品供給体制の崩壊」には、空間的要因(商店街の空洞化などによる買い物利便性の低下)だけでなく、社会的要因(貧困や差別、社会からの孤立など)も含まれる。そもそも、FDsとは1980年代のイギリスで始まった、学術的な問題である。一方、少子高齢化の進む現在の日本では、中心商店街が空洞化する都市部に暮らす、独居老人をはじめとした高齢者層が被害の中心である。

2.海外の先行事例

 スーパーストアの郊外進出が顕在化したイギリスでは、1970〜90年代半ばにインナーシティに立地していた中小食料品店やショッピングセンターが相次いで廃業した。その結果、経済的理由などから郊外のスーパーストアへの移動が困難なダウンタウンの貧困層は、都心に残存する雑貨店(corner shop)での買い物をしいられた。このような店舗は商品の値段が高く、野菜や果物などの生鮮品の品ぞろえが極端に悪い。 食生活の悪化により、貧困層における栄養事情が悪化し、がんや心臓血管疾患などの疾患発生率が増加したとする研究報告もみられた。FDs問題の被害者の多くは、外国人労働者をはじめとした低所得者層であった。FDsエリアでは、買い物先以外にも医療機関や教育機関、雇用機会、福利サービス施設など、さまざまな社会サービスが欠落している。格差や貧困問題も深刻である。FDsには、社会的排除問題が内在する。社会格差の是正をめざすイギリス政府は、FDs問題を国の重要な政策課題に掲げている。イギリスでは、1990年代に大型店の出店をきびしく規制する法律が制定され(2005年に改正強化)、中心市街地の空洞化問題は大きく改善された。さらに、行政と流通企業の連携によりFDsエリアへの大型店出店も進み、FDs問題は一定の改善をみせているi。 なお、FDs問題は,アメリカ合衆国を始めとするほかの先進国でも報告されている。

3.日本におけるフードデザート問題の規模

 日本におけるFDs研究は始まったばかりであり、不明な点も多い。その一例が、「どこで、どの程度の高齢者が買い物に困っているのか」という、基礎的な疑問である。 

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買い物に困難を感じている高齢者が増加していることは、周知の事実であろう。2010年5月には、経済産業省の審議会「地域生活インフラを支える流通のあり方研究会」が調査をまとめ、買い物に不便を感じていると答えた高齢者の割合から、全国の買い物弱者を600万人と推計した。また、2011年8月には、農林水産省農林政策研究所が日本全国の人口分布と食料品の位置関係を実際に算出し、自宅から500m以内に生鮮食料品店がなく、かつ自家用車を所有していない65歳以上の高齢者が、全国に約350万人存在すると指摘した(表1)。また、同研究所は、全国の買い物困難地域を示す地図も公開している(図1)ii。

 農林水産政策研究所の分析は、FDsエリアの規模を推計するうえで有意義である。しかし、FDs問題の被害者の規模や分布は、空間的な側面からだけでは把握できない。同じ地域で生活している高齢者でも、同居家族の有無や経済状態、家族・近隣住民からの生活支援の充実度などにより、生活環境は大きく異なっている。生活環境が良好な高齢者と悪化した高齢者が混在していることも多く、統計データだけから本当の買い物弱者の集住地区を割り出すことは難しい。実際、買い物支援事業を進める事業者からは、「買い物客が集まらない。このあたりに買い物弱者は本当に存在するのか?」と聞かれたこともある。 いわゆる買い物弱者の正確な数値の算出はきわめて困難である。しかし、これまでの経験から、買い物弱者の数は相当数に上ると筆者も感じている。日本では、個人情報保護の観点から、独居老人の住所や経済状況などに関するデータの入手が困難である。高齢者を支えている包括支援センターでさえ、データを利用できない。こうしたことも、FDs問題の実態把握を困難にする一因であろう。実態を解明するには、統計などによる量的調査と、現地調査を中心とした質的調査の両輪が不可欠である。

4.フードデザート問題研究の概要

 FDsは、地方都市や農山村、大都市のベッドタウンなど、さまざまな場所や地域で発生していると推測される(表2)。

 以下、筆者たち研究グループがこれまでに進めてきた調査の概略を示すiii。調査の第一は、FDsマップの作成である。GISを援用して東京都23区や、中心市街地の空洞化がみられる人口40万未満の県庁所在都市などで、FDsマップを作成した。これらの図は、高齢者の分布(生鮮食料品の需要量)と生鮮食料品店の分布(同供給量)を算出し、需給バランスからFDsエリアを特定したものである。これらの図から、FDs問題の拡大が危惧される地域が、東京都中心部

表1 �生鮮食料品店までの距離が500m以上で、自動車を持たない人口推計

地域区分 人口(万人)

対総人口割合(%)

65歳以上人口(万人)

対65歳以上人口割合(%)

生鮮食料品店までの距離が500m以上

全国 910 7.1 350 13.5三大都市圏

東京圏名古屋圏大阪圏

地方圏

420200077140480

6.65.86.97.87.6

140064025051210

12.110.612.214.414.8

出典:農林水産政策研究所注 1)「平成19年商業統計メッシュデータ」および「平成17年国勢

調査 地域メッシュデータ」をもとに推計。  2)「生鮮食料品店」は生鮮食料品小売業(食肉小売業,鮮魚小

売業、果実・野菜小売業)および百貨店、総合スーパー、食品スーパー。

  3)東京圏は、東京、埼玉、千葉、神奈川、名古屋圏は、愛知、岐阜、三重、大阪圏は大阪、京都、兵庫、奈良。

  4)表中の数値は推計値であり、全国の総数は10万人単位で丸めた値を公表値としている。

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図1 生鮮食料品店までの距離が500m以上の住民の割合(市町村別)   資料:農林水産政策研究所

大都市・都心部の再開発エリア・高齢化が進むベッドタウン�など

地方都市・空洞化の進む既成市街地・高齢化が進むベッドタウン�など

農村空間・過疎地域(農山漁村)・島とう

嶼しょ

部ぶ

� など

被災地・高台の仮設住宅・災害公営住宅� など

表2 フードデザートエリアの内訳

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や全国の地方都市に広がっていることが理解できる。  なお、現段階のFDsマップは、データ利用の制限上、現段階では自家用車所有の有無や公共交通機関の充実度、家族構成までは地図に加味できていない。本図は、FDsエリアを特定するうえでの一つのめやすである。 次に、大都市や地方都市、農山漁村などで現地調査を行った。以下に地方都市A市、農山村B地区、都内ベッドタウンC団地での調査結果の概要を紹介する(表3)。

 北関東の地方都市A市は、1990年代ごろから中心商店街の空洞化が顕在化している。FDsエリアは、目抜き通りやその周辺でみられた(図2)。なお、駅前地区は生鮮スーパーの閉鎖が相次いでいるものの、新規開業あるいは増床する店もみられ、店舗はそれほど不足していない。筆者たち研究グループが2009年に実施した調査(アンケート回収数=215)では、FDsに居住する高齢者世帯の67.5%が単身あるいは夫婦2人世帯であり、週に数回、片道平均で1.4kmの距離を、徒歩あるいは自転車で買い物に出かけていることがわかった。住民の栄養状態を測定したところ、回答者の49.3%が、低栄養iv(栄養失調)の可能性が高いという結果であった。単身・夫婦2人で自家用車を利用しない世帯に限定すると、同値は62.2%に上昇した。なお、測定結果が一番悪かったのは、比較的生鮮食料品店が多いはずの駅前であった。駅間地区は住民の出入りが激しく、また自宅に引きこもる独居老人も多い。 北関東の農山村に位置するB地区は、限界集落にも指定されている中山間の過疎地域である。地区全体の高齢化率は40%程度であるが、山間部では高齢化率が60%を上まわる集落も点在する。生鮮食料品店や金融機関、医療機関、学校といった施設の減少も著しい。最寄りのスーパーはB地区から10kmほど離れており、病院は町はずれに1か所残るのみである。公共交通機関の縮小も深刻である。しかし、B地区を調査したところ(2009年実施、アンケート回収数=124)、低栄養の可能性のある人は、全体の6.8%程

度であった。同地区では、米と野菜を自家菜園および近所からのおすそわけでまかなっている世帯が多い。遠方まで軽トラックなどで買い出しに出かけるケースや、近隣に住む子ども世帯が買い物を代行するケースも多く、買い物には不自由していないという回答がめだった。B地区では家族や地域コミュニティが強固であり、互いに支え合いながら生活していることが伺えた。ただし、人口の過疎化・高齢化がさらに進むと、生活環境が急速に悪化

図2 A市におけるフードデザートマップ(2009年)   出典『フードデザート問題-無縁社会が生む食の砂漠』

A市中心部(地方都市)

B地区(農山村)

C団地(ベッドタウン)

おもな家族構成 単身、夫婦2人世帯

夫婦2人世帯、親子世帯

単身、夫婦2人世帯

自宅から食料品店までの平均距離(片道)

1.4km 数km 500m未満

おもな移動手段 徒歩、自転車 自家用車 徒歩、自転車

食料品の入手先 スーパー 家庭菜園、スーパー スーパー

地域コミュニティの活発度 中 高 低

低栄養のリスク(食品摂取の多様性得点4未満の�世帯の割合)

高 低 高

(アンケート調査により作成)

表3 フードデザートエリアにおける   高齢者世帯の買い物行動と栄養事情

0 5km

N

食品スーパー1994年以前に立地(現存)

1994年~2008年の間に閉鎖1994年以降に立地(現存)

鉄道・JR線鉄道・私鉄高速・有料道路一般国道

フードデザートレベル低高

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すると予想される。 東京都内のベッドタウンであるC団地は、都心へのアクセスにすぐれた好立地である。団地周辺には生鮮食料品店も多く、買い物環境は相対的に良好である。しかし、高齢者の栄養状態を調べたところ(2010年実施、アンケート回収数=299)、42.9%の世帯が基準値を下まわっていた。現在、C団地は高齢化団地となっており、コミュニティの希薄化や無縁化も深刻である。われわれがC団地で実施した調査でも、栄養状態が悪化している高齢者ほど、地域社会や家族から孤立していることがわかった。また、こうした高齢者の多くは、知的能動性(思考能力や計算能力、コミュニケーション力など)が低下(老化)していたv。高齢者の社会からの孤立は知的能動性の老化を招き、低栄養のリスクを高めるという、負のスパイラルの存在が予想される。 このように、FDs問題は大都市中心部や地方都市、農山村など、全国各地で発生している可能性が高いことが伺える。問題の性質は地域ごとに異なる。大都市部では物理的な買い物環境は相対的に良好である一方で、家族・地域社会からの孤立が高齢者の栄養事情に強く影響していると推測される。他方、農村地域では物理的な食料品店不足が深刻であるが、家族や地域コミュニティの相互扶助がうまく機能しているケースも多い。FDsは、実は東京都区部などのいわゆる都心において、深刻な問題となっている。

5.問題解決に向けた課題

 今後、郊外の住宅団地や大都市中心部において、高齢者人口の急速な増加が予想される。農村部に比べ、都市の住民は地縁や血縁が希薄化しているケースが多い。FDs問題は、今後さらに深刻化すると予想される。 FDs問題の解決策を考えることは困難である。近年、全国で買い物空白地帯における商店街の維持や宅配サービス・移動販売事業の促進、ネット販売システムの普及などが進められている。しかし、実際は利用者が少なく、補助金で辛うじて運営されている状況にある。そもそも、孤立するお年寄りにとって、近所にできた見知らぬ店は、結局遠い店である。また、生活の張りを失った高齢者や知的能動性が低下した高齢者は、健康的な食生活に対する興味関心が低く、コンビニなどでインスタント食品や総菜を好んで購入する傾向にある。物理的な買い物環境を改善しただけでは、問題は解決されない。重要なのは、社会からの孤立の解消、いわゆる「人と人とのつながり」の再生であろう。近年、採算性の十分な確保にまではいたっていないが、高い集客力を持続している事業も散見されはじめている。高齢者が活躍する地域のNPO団体(地域住民)と大手流通業者、地元行政の3者がうまく連携した取り組みである

(写真)。それらはいずれも、事業者と高齢者との間に親密な人間関係が構築されている点、および高齢者に何らかの社会的役割を与えている点で共通している 。 低栄養は、高齢者の要介護度の上昇に直結する。高齢者福祉の見直しのなかで、介護予防の重要性が高まっている。医療の分野では、「同じ食事でも、病院で1人さびしく食べるより、家族でにぎやかに食べたほうが栄養の摂取がよい」と指摘されている。しかし、実際には自宅に帰ってもともに食事をする相手がいない高齢者が多い。また、糖尿や腎不全といった、食事と密接につながる疾病患者は、特定の地域に集中する傾向にある。FDs問題の改善は、介護予防にも直結する重要な課題である。前述のとおり、FDs問題の実態を把握するには、地域全体を包括する視点が重要である。地理学分野の活躍が求められる。

■参考文献ⅰ)伊東理.2011.『イギリスの小売商業 政策・開発・都市―地理学からのアプローチ』.関西大学出版部.

ⅱ)詳しくは下記URLを参照のこと。1) 農林水産省食品アクセス問題ポータルサイト:http://www.maff.go.jp/j/shokusan/eat/syoku_akusesu.html(2013年3月17日閲覧)

2) 農林水産政策研究所食料品アクセスマップ:http://cse.primaff.affrc.go.jp/katsuyat/(2013年3月17日閲覧)

ⅲ)岩間信之編.2011.『フードデザート問題-無縁社会が生む食の砂漠』農林統計協会.

ⅳ)熊谷修ほか.2003.地域在宅高齢者における食品摂取の多様性と高次生活機能低下の関連.日本公衆衛生雑誌.50.1117-1124

ⅴ)浅川達人.2012.都市部での調査事例.ESTRELA.224[特集:フードデザート(食の砂漠)問題]16-22.

写真 茨城県牛久市における生協の移動販売車事業   (2012年 筆者撮影)

地元自治会が自分たちの地区の停留所を管轄し、販売車の到着時間に合わせた高齢者の集客や、消費者からの要望の生協への伝達などを行っている。停留所の設置位置やトラックの運行ルートも、地元住民が策定しており、生協と住民の連携が図られている。

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