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図書館員の文献紹介と

     資料の活用

本 学 図 書 館 の ス ペ シ ャ

■はじめに 徳川幕府がイギリスと和親条約を締結した₁₈₅₄(安政元)年から丁度₁₀年を経た₁₈₆₄(元治元)年に、江戸のイギリス公使館へ着任した若い館員がいました。名前をウィリアム・ジョージ・アストン(William George ASTON, ₁₈₄₇-₁₉₁₁)と言い、正式には日本語通訳見習の立場で来日しました。その後、約₂₄年間も外交官として日本に滞在し、勤務の傍ら日本研究を進めました。特に帰国後は、日本の歴史や宗教、文学の研究書を刊行するなど、多くの業績を挙げることになります。この時、彼が使用した和漢書からなる日本語図書資料は、現在ケンブリッジ大学が所蔵しています。

■江戸時代末期に来日 アストンは北アイルランドのロンドンデリー近郊に牧師の子として生まれました。ベルファストにあるクイーンズ・カレッジに進むと、ギリシャ語やラテン語を基本とした言語学や古典学など文学分野で優れた成績を残し、学士号と修士号を修得しています。この修士号を得た翌年の₁₈₆₄年に外交官の採用試験に合格して日本滞在の通訳見習の採用が決定し、その秋に江戸のイギリス公使館へ赴任したのです。 彼は₁₈₆₄(元治元)年の着任以降、日本語能力を飛躍的に高めたと言われ、₂年前の₁₈₆₂年に来日していたアーネスト・サトウと共に、初代の公使(現在の大使に相当)ラザーフォド・オールコックから代わったばかりのハリー・パークス公使を支える中心的な存在となります。また、通訳官兼翻訳官に昇進すると、先輩のサトウがそうであったように、日本の歴史や文学に広く関心を示し、多くの日本語書物を収集し始めたようです。

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■日本語研究書を刊行 アストンは江戸時代が終焉を迎え、新たに明治政府が発足する過程を、日英の外交交渉の場から目撃していました。彼についての資料が少ない中、研究者の努力によって、アストンが幕末にイギリス公使と将軍徳川慶喜や阿波藩主との会見に同席し、長州藩主とも面識があったことが分かっています。また、明治時代になると、岩倉使節団の訪英に際してイギリスへ戻り、接待係を務めるなど、日本の政府首脳との交流を深めていたことも明らかになっています。 このように職務を進める中で、滞在経験が₅年目となる₁₈₆₉(明治二)年に、彼初めての日本研究の著作“A grammar of the Japanese spoken language. ”(『日本語口語文典』)を発行します。さらにその₃年後の₁₈₇₂(明治五)年に“A grammar of the Japanese written language.”(『日本語文語文典』)を上梓しました。これら₂冊の文法書は、日本語の語学専門書が殆どなかった中で作られた外国人のための書物(₁)であり、のちに同胞で東京帝国大学教授のバジル・ホール・チェンバレンら言語学者による近代的専門書が出現するまでの間、日本語研究書の最高峰にあったものと言えます。

奥 正敬

外交官ウィリアム・G・アストンの日本研究と和漢書コレクションの話

“A grammar of the Japanese writtenlanguage.” London, ₁₈₇₂. (本学図書館所蔵)

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