平安京の変質 - bukkyo-u...平安京の変質 牧 伸行 七 永く住 まはず。荊す...

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1 2 調便3 4 西廿西沿西使西西西西退退

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Page 1: 平安京の変質 - bukkyo-u...平安京の変質 牧 伸行 七 永く住 まはず。荊す けい 棘きょく 門もん を鎖 とざ し、狐 狸こ 穴に安り やす んず。それか

はじめに

延暦一二年(七九三)正月一五日、桓武天皇は大納言藤原小

黒麻呂・左大弁紀古佐美らを山背国葛野郡宇太へと派遣してい

る(1)。これは遷都のためであり、平城京より長岡京へと遷都した

のが延暦三年(七八四(2))であることを考えると、僅か一〇年後

のことであった。そしてその後、新京への遷都は順調に行われ、

翌延暦一三年(七九四)一〇月二八日には「遷都詔曰。〈云々〉。

葛野〈乃〉大宮地者、山川〈毛〉麗〈久〉四方国〈乃〉百姓

〈毛〉参出来事〈毛〉便〈之氐〉〈云々〉」という遷都の詔が出さ

れ(3)、更に翌月の一一月八日には「山背」の国名表記が新たに

「山城」と改められ、新京の名も「平安京」と定められている(4)。

この桓武天皇によって新たに造られた都については、『延喜

式』巻四十二左右京職式京程条に規模が規定されており、「南北

一千七百五十三丈」「東西一千五百八丈」という規模であった。

そして、京内は碁盤の目状に縦横に大路・小路で区画されてお

り、中央を「廣廿八丈」の朱雀大路が南北に走り、朱雀大路の

東半分が左京、西半分が右京であった。朱雀大路に沿っては、

七条通と七条坊門の間に東西の鴻臚館が設けられて外国使節の

迎接が行われていた。さらに、羅城門を挟んで東西に東寺と西

寺が建立されている。また、東西の堀川に接して東市と西市が

置かれるなど、例外的な施設は存在するが平面的には左右対称

に都市設計がなされていた。

このように左右対称に造営された平安京ではあるが、右京と

左京ではその後の発展については大きな差が生じて、左京が隆

盛を極めるのに対して右京は衰退していくことになる。その結

果、中世以降になると同じ平安京内に位置するにもかかわらず、

洛中と洛外というように区分されるようになってしまう。その

右京が衰退していく要因が何であるのかについて考察を加えた

い。

平安京の変質

牧     

伸  

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佛教大学総合研究所紀要別冊 

洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一 「池亭記」にみえる右京の衰退

平安京の左右両京については、古くから左京に比べて右京の

衰退が早かったことが指摘されているが、それについては慶滋

保胤の「池亭記」による記述が有名である。

慶滋保胤は平安時代中期の文人貴族として有名な人物であ

る。賀茂氏出身であり、父は陰陽家として有名な賀茂忠行であ

るが、家業である陰陽道を継ぐことなく、文章生として大学寮

に学び、菅原文時に師事して官人として出身をしている。また、

仏教についても造詣が深かったようであり、康保元年(九六四)

に創始された勧学会ではその中心人物となっており、さらに寛

和二年(九八六)には出家し法名を心覚、さらに寂心と名乗っ

た。浄土信仰に傾倒しており、著作には『日本往生極楽記』な

どがある。

さて、「池亭記」はこの慶滋保胤が天元五年(九八二)一〇月

に著したものである。そこには自らの邸宅と平安京に関する内

容が記されているが、あくまでも文学作品であるという前提を

必要とする。その内容については全体を六段に分けて考えるこ

とができ、それぞれ段ごとに原文と読み下しを以下に記し(5)、簡

単に解説を加えたい(6)。

〈第一段〉

予二十余年以来、歴二見東西二京一、西京人家漸稀、殆幾二

幽墟一矣。人者有レ去無レ来、屋者有レ壊無レ造。其無レ処二移

徙一、無レ憚二賤貧一者是居。或楽二幽隠亡命一、当二入レ山帰一

レ田者不レ去。若下自蓄二財貨一、有上レ心二奔営一者、雖二一日

一不レ得レ住之。往年有二一東閣一。華堂朱戸、竹樹泉石、誠

是象外之勝地也。主人有レ事左転、屋舎有レ火自焼。其門客

之居二近地一者数十家、相率而去。其後主人雖レ帰、而不二重

修一。子孫雖レ多、而不二永住一。荊棘鎖レ門、狐狸安レ穴。夫

如レ此者、天之亡二西京一、非二人之罪一明也。

予われ

二十余年以この

来かた

、東とう

西せい

二じ

京けい

を歴れき

見けん

するに、西せい

京けい

は人家漸やうや

く稀まれ

にして、殆ほとほと

幽いう

墟きょ

に幾ちか

し。人は去ること有りて来きた

るこ

となし、屋い

は壊やぶ

るること有りて造つく

ることなし。その移い

徙し

するに処ところなく、賤せん

貧ひん

を憚はばかることなき者ひと

はこれ居を

り。ある

いは幽い

隠いん

亡ばう

命めい

を楽しみ、まさに山に入り田に帰るべき者

は去らず。自み

づから財ざい

貨くわ

を蓄たくはへ、奔ほん

営えい

に心有るが若ごと

き者は、

一いち

日じつ

といへども住むことを得ず。往わう

年ねん

一つの東とう

閣かく

有り。

華くわ

堂たう

朱しゅ

戸こ

、竹ちく

樹しゅ

泉せん

石せき

、誠にこれ象しゃう

外ぐわいの勝しょう

地ち

なり。主人事こと

有りて左さ

転てん

せられ、屋をく

舎しゃ

火有りて自おの

づから焼けぬ。その

門もん

客かく

の近きん

地ち

に居る者数す

十しふ

家か

、相あひ

率ひき

ゐて去りぬ。その後のち

人帰るといへども、重ねて修つ

くろはず。子孫多しといへども、

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平安京の変質  

牧  

伸行

永く住す

まはず。荊けい

棘きょく

門もん

を鎖とざ

し、狐こ

狸り

穴に安やす

んず。それか

くの如きは、天の西せ

京けい

を亡ぼすなり、人の罪に非あら

ざるこ

と明らかなり。

〈第二段〉

東京四条以北、乾艮二方、人人無二貴賤一、多所二群聚一也。

高家比レ門連レ堂、小屋隔レ壁接レ簷。東隣有二火災一、西隣不

レ免二余炎一、南宅有二盗賊一、北宅難レ避二流矢一。南阮貧、北

阮富、富者未二必有一レ徳、貧者亦猶有レ恥。又近二勢家一容二

微身一者、屋雖レ破不レ得レ葺、垣雖レ壊不レ得レ築。有レ楽不レ

能二大開レ口而咲一、有レ哀不レ能二高揚レ声而哭一。進退有レ懼、

心神不レ安。譬猶三鳥雀之近二鷹一矣。何況転広二門戸一、初

置二第宅一。小屋相

、小人相訴者多矣。宛如下子孫去二父母

之国一、仙官謫中人世之塵上。其尤甚者、或至下以二狭土一滅中

一家愚民上。或卜二東河之畔一、若遇二大水一、与二魚鼈一為レ

伍、或住二北野之中一、若有二苦旱一、雖二渇乏一無レ水。彼両

京之中、無二空閑之地一歟。何其人心之強甚乎。

東とう

京けい

の四し

条でう

以より

北きた

、乾いぬゐ

艮うしとらの二じ

方はう

は、人人貴き

賤せん

となく、多く

群くん

聚しゅうする所なり。高かう

家か

は門もん

を比なら

べ堂を連つら

ね、小せう

屋をく

は壁を

隔へだ

て簷のき

を接まじ

ふ。東とう

隣りん

に火災有れば、西せい

隣りん

は余よ

炎えん

を免まぬかれず、

南宅に盗た

賊ぞく

有れば、北宅は流ながれ

矢や

を避さ

り難がた

し。南なん

阮げん

は貧し

く、北阮は富めり、富める者はいまだ必ずしも徳とく

有らず、

貧しき者はまたなほ恥は

有り。また勢せい

家か

に近くして微び

身しん

容い

るる者は、屋いへ

破やぶ

れたりといへども葺ふ

くことを得ず、垣かき

壊やぶ

れたりといへども築つ

くことを得ず。楽たの

しみ有れども大

きに口を開ひ

きて咲わら

ふこと能あた

はず、哀かな

しみ有れども高く声

を揚あ

げて哭な

くこと能はず。進しん

退たい

懼おそれ

有り、心しん

神しん

安からず。

譬たと

へばなほ鳥てう

雀じゃくの鷹ようせん

に近づくがごとし。何ぞいはんや

転うたた

門戸を広くして初めて第てい

宅たく

を置くをや。小せう

屋をく

相あひあは

せ、

小せう

人じん

相あひ

訴うったふる者多し。宛あたかも子孫の父母の国を去り、仙せん

官くわん

の人じん

世せい

の塵ちり

に謫たく

せらるるが如し。その尤もと

も甚はなはだしきは、

あるいは狭き土と

を以て一家の愚ぐ

民みん

を滅ほろ

ぼすに至る。ある

いは東と

河か

の畔ほとりに卜ぼく

して、若も

し大水に遇あ

へば、魚ぎょ

鼈へつ

と伍ともがらた

り、あるいは北ほ

野や

の中に住ぢゅうして、若し苦こ

旱かん

有れば、渇かつ

乏はふ

すといへども水なし。かの両りゃう

京けい

の中、空くう

閑かん

の地なきか。

何ぞその人心の強お

きこと甚だしきや。

〈第三段〉

且夫河辺野外、非二啻比レ屋比一レ戸、兼復為レ田為レ畠。老圃

永得レ地以開レ畝、老農便堰レ河以漑レ田。比年有レ水、流溢

隄絶。防河之官、昨日称二其功一、今日任二其破一。洛陽城

人、殆可レ為レ魚歟。竊見二格文一、鴨河西、唯免レ耕二崇親院

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佛教大学総合研究所紀要別冊 

洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

田一、自余皆悉禁断。以レ有二水害一也。加以東河北野、四郊

之二也。天子迎レ時之場、遊幸之地也。有レ人縦欲レ耕、有

司何不レ禁不レ制乎。若謂二庶人之遊戯一者、夏天納涼之客、

已無下漁二小鮎一之涯上、秋風遊猟之士、又無下臂二小鷹一之野

上。夫京外時争住、京内日陵遅。彼坊城南面、荒蕪眇〃、秀

麦離〃。去二膏腴一就二

埆一、是天之令レ然歟、将人之自狂

歟。ま

たそれ河辺野外、たた屋い

を比なら

べ戸と

を比べたるのみに非

ず、兼か

ねてまた田と為な

し畠はた

と為す。老らう

圃ほ

は永く地を得て

以て畝う

を開き、老農は便すなはち河を堰せ

きて以て田に漑まか

す。比ひ

年ねん

水有り、流ながれ

溢あふ

れて隄つつみ

絶えぬ。防はう

河か

の官くわん、昨日その功こう

称され、今日はその破や

ぶれに任まか

す。洛らく

陽やう

城じゃうの人、殆ほとほと

魚うを

と為る

べきか。竊ひ

かに格きゃく

文ぶん

を見るに、鴨かも

河がは

の西は、ただ崇すう

親しん

院ゐん

の田を耕たがへすことのみを免ゆる

し、自し

余よ

は皆悉ことごとく禁きん

断だん

す。水害

有るを以てなり。しかのみならず、東と

河か

北ほく

野や

は四し

郊かう

の二

つなり。天子の時を迎へたまふ場に

、遊いう

幸かう

の地なり。人有

りて縦た

ひ居を

らんと欲ねが

ひ耕さんと欲ふとも、有いう

司し

何ぞ禁ぜ

ず制せざらんや。若も

し庶しょ

人じん

の遊いう

戯ぎ

を謂い

はば、夏天納なふ

涼りゃうの

客かく

、已すで

に小こ

鮎あゆ

を漁すなどる涯きし

なく、、秋風遊いう

猟れふ

の士し

、また小こ

鷹たか

臂ひぢ

にする野の

なし。それ京けい

外ぐわいは時よりよりに争ひ住み、京内は日ひび

陵りょう

遅ち

す。かの坊ばう

城じゃうの南なん

面めん

は、荒くわう

蕪ぶ

眇べう

〃べう

として、秀しう

麦ばく

離り

〃り

たり。膏かう

腴ゆ

を去りてかう

埆かく

に就つ

く、これ天の然しか

らしむるか、

はた人の自み

づから狂へるか。

〈第四段〉

予本無二居処一、寄二居上東門之人家一。常思二損益一、不レ要

二永住一。縦求不レ可レ得之。其価直二三畝千万銭乎。予六条

以北、初卜二荒地一、築二四垣一開二一門一。上択二蕭相国窮僻

之地一、下慕二仲長統清曠之居一。地方都廬十有余畝。就レ隆

為二小山一、遇レ窪穿二小池一。池西置二小堂一安二弥陀一。池東

開二小閣一納二書籍一。池北起二低屋一着二妻子一。凡屋舎十之

四、池水九之三、菜園八之二、芹田七之一。其外緑松島、

白沙汀、紅鯉白鷺、小橋小船、平生所レ好、尽在二於中一。況

乎春有二東岸之柳一、細煙嫋娜。夏有二北戸之竹一、清風颯

然。秋有二西窓之月一、可二以披一レ書。冬有二南簷之日一、可

二以炙一レ背。

予われ

本もと

より居きょ

処しょ

なく、上じゃう

東とう

門もん

の人家に寄き

居きょ

す。常に損そん

益えき

思ひ、永住を要も

めず。縦たと

ひ求むとも得う

べからず。その価か

直ち

二じ

三さん

畝ぼう

千せん

万ばん

銭せん

ならんか。予われ

六ろく

条でう

以より

北きた

に初めて荒くわう

地ち

を卜ぼく

し、四つの垣を築つ

きて一つの門を開く。上かみ

は蕭せう

相しゃう

国こく

の窮きゅう

僻へき

の地を択えら

び、下しも

は仲ちう

長ちゃう

統とう

の清せい

曠くわうの居きょ

を慕した

ふ。地方都すべて廬

十しふ

有いう

余よ

畝ぼう

。隆たか

に就つ

きては小せう

山さん

を為つく

り、窪くぼ

に遇あ

ひては小せう

池ち

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平安京の変質  

牧  

伸行

を穿ほ

る。池の西に小せう

堂たう

を置きて弥み

陀だ

を安あん

す。池の東に小せう

閣かく

を開きて書籍を納をさ

む。池の北に低てい

屋をく

を起た

てて妻子を着つ

けり。凡およ

そ屋をく

舎しゃ

は十の四、池水は九の三、菜園は八の二、

芹きん

田てん

は七の一なり。その外緑りょく

松しょうの島、白はく

沙さ

の汀みぎは、紅こう

鯉り

白はく

鷺ろ

、小橋小船、平へい

生せい

好む所、尽ことごとく中に在り。いはんや春

は東岸の柳有り、細煙嫋で

娜だ

たり。夏は北戸の竹有り、清

風颯さ

然ぜん

たり。秋は西窓の月有り、以て書を披ひら

くべし。冬

は南な

簷えん

の日有り、以て背せなかを炙あぶ

るべし。

〈第五段〉

予行年漸垂二五旬一、適有二小宅一。蝸安二其舎一、虱楽二其縫

一。鷃住二小枝一、不レ望二鄧林之大一、蛙在二曲井一、不レ知二

滄海之寛一。家主、職雖レ在二柱下一、心如レ住二山中一。官爵

者任二運命一、天之工均矣。寿夭者付二乾坤一、丘之禱久焉。

不レ楽三人之為二風鵬一、不レ楽三人之為二霧豹一、不レ要三屈レ膝

折レ腰、而求二媚於王侯将相一、又不レ要三避レ言避レ色、而刊

二蹤於深山幽谷一。在レ朝身暫随二王事一、在レ家心永帰二仏那

一。予出有二青草之袍一、位雖レ卑職尚貴、入有二白紵之被一、

暄二於春一潔二於雪一。盥漱之初、参二西堂一、念二弥陀一、読二

法華一。飯

之後、入二東閣一、開二書巻一、逢二古賢一。夫漢

文皇帝為二累代之主一、以下好二倹約一安中人民上也。唐白楽天

為二異代之師一、以下長二詩句一帰中仏法上也。晋朝七賢為二異

代之友一、以二身在レ朝志在一レ隠也。予遇二賢主一、遇二賢師

一、遇二賢友一。一日有二三遇一、一生為二三楽一。近代人世之

事、無二一可一レ恋。人之為レ師者、先レ貴先レ富、不二以レ文

次一。不レ如レ無レ師。人之為レ友者、先レ勢以レ利、不二以レ淡

交一。不レ如レ無レ友。予杜レ門閉レ戸、独吟独詠。若有二余興

一者、与二児童一乗二小船一、叩レ舷鼓レ棹。若有二余假一者、呼

二僮僕一入二後園一、以糞以灌。我愛二吾宅一、不レ知二其他一。

予われ

行かう

年ねん

漸やうやく五ご

旬しゅんに垂なんなんとして、適たまたま

小宅有り。蝸かたつぶりはその舎いへ

に安んじ、虱しらみはその縫ぬひめに楽しむ。鷃かやぐさは小枝に住みて、鄧とう

林りん

の大きなるを望まず、蛙かへるは曲きょく

井せい

に在りて、滄さう

海かい

の寛ひろ

ことを知らず。家い

主ぬし

、職は柱ちゅう

下か

に在りといへども、心は

山中に住むが如し。官

くわん

爵しゃくは運命に任まか

す、天の工たくみ

均ひと

し。寿しう

夭えう

は乾けん

坤こん

に付く、丘きう

の禱いの

ること久し。人の風ふう

鵬ほう

たるを楽ねが

はず、人の霧む

豹へう

たるを楽はず、膝ひざ

を屈くつ

し腰を折りて、媚こび

を王わう

侯こう

将しゃう

相しゃうに求めんことを要ねが

はず、また言を避さ

り色を避

りて、蹤あ

を深しん

山ざん

幽いう

谷こく

に刊きざ

まんことを要ねが

はず。朝てう

に在りて

は身暫し

ばらく王わう

事し

に随したがひ、家に在りては心永く仏ぶつ

那だ

に帰よ

す。

予われ

出でては青せい

草さう

の袍はう

有り、位くらゐ

卑ひく

しといへども職しょくなほ貴たふとし、

入い

りては白はく

紵ちょ

の被ふすま

有り、春よりも暄あたたかく雪よりも潔きよ

し。盥くわん

漱そう

の初、西せい

堂たう

に参まゐ

り、弥み

陀だ

を念じ、法ほっ

華け

を読む。飯はんさん

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洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一〇

後のち

、東とう

閣かく

に入り、書しょ

巻けん

を開き、古こ

賢けん

に逢あ

ふ。それ漢かん

の文ぶん

皇くわう

帝てい

は累い

代たい

の主しゅ

たり、倹けん

約やく

を好みて人民を安やす

んずるを以もっ

てなり。唐の白はく

楽らく

天てん

は異代の師し

たり、詩し

句く

に長じて仏ぶつ

法ほふ

に帰き

するを以てなり。晋しん

朝てう

の七しち

賢けん

は異代の友たり、身は

朝てう

に在りて志こころざしは隠いん

に在るを以てなり。予われ

賢けん

主しゅ

に遇あ

ひ、賢

師に遇ひ、賢友に遇ふ。一日に三さ

遇ぐ

有り、一生三さん

楽らく

を為

す。近代人ひ

の世の事、一つとして恋ふべきことなし。人

の師たるは、貴きを先にし富めるを先にして、文を以て

次ついでとせず。師なきに如し

かず。人の友たるは、勢せい

を以てし

利り

を以てし、淡たん

を以て交まじはらず。友なきに如かず。予われ

門を

杜とざ

し戸と

を閉と

ぢて、独ひと

り吟ぎん

じ独ひと

り詠えい

ず。若も

し余よ

興きょう

有れば、

児童と小船に乗り、舷

ふなばたを叩たた

き棹さを

を鼓うごかす。若も

し余よ

假か

有れば、

僮とう

僕ぼく

を呼びて後こう

園ゑん

に入り、以あるいは糞こえ

し以あるいは灌そそ

く。我われ

吾わ

が宅いへ

を愛し、その他ほか

を知らず。

〈第六段〉

応和以来、世人好起二豊屋峻宇一、殆至二山レ節藻一レ梲。其費

且二巨千万一、其住纔二三年。古人云、造者不レ居。誠哉斯

言。予及二暮歯一、開二起小宅一。取二諸身一量二于分一、誠奢

盛也。上畏二于天一、下愧二于人一。亦猶下行人之造二旅宿一、

老蚕之成中独繭上矣。其住幾時乎。嗟乎、聖賢之造レ家也、不

レ費レ民、不レ労レ鬼。以二仁義一為二棟梁一、以二礼法一為二柱礎

一、以二道徳一為二門戸一、以二慈愛一為二垣墻一、以二好倹一為二

家事一、以二積善一為二家資一。居二其中一者、火不レ能レ焼、風

不レ能レ倒、妖不レ得レ呈、災不レ得レ来、鬼神不レ可レ窺、盗

賊不レ可レ犯。其家自富、其主是寿。官位永保、子孫相承。

可レ不レ慎乎。天元五載孟冬十月、家主保胤、自作自書。

応おう

和わ

より以この

来かた

、世せ

人じん

好みて豊ほう

屋をく

峻しゅん

宇う

を起た

て殆ほとほと

節せつ

を山に

し梲せ

に藻ゑが

くに至る。その費つひえは巨きょ

千せん

万ばん

に且なんなんとし、その住む

こと纔わ

かに二三年なり。古人云く、「造つく

れる者は居を

らず」

といへり。誠ま

ことなるかなこの言げん

。予われ

暮ぼ

歯し

に及びて、小宅を

開き起た

つ。これを身に取り分に量はか

るに、誠に奢しゃ

盛せい

なり。

上かみ

は天を畏おそ

れ、下しも

は人に愧は

づ。またなほ行かう

人じん

の旅しょ

宿しゅくを造

り、老ら

蚕さん

の独とく

繭けん

を成すがごとし。その住まふこと幾いく

時とき

ぞ。

ああ、聖せ

賢けん

の家を造る、民たみ

を費つひやさず、鬼き

を労せず。仁じん

義ぎ

を以て棟とう

梁りゃうと為し、礼れい

法はふ

を以て柱ちゅう

礎そ

と為し、道たう

徳とく

を以て

門もん

戸こ

と為し、慈じ

愛あい

を以て垣ゑん

墻しゃうと為し、好かう

倹けん

を以て家か

事し

為し、積せ

善せん

を以て家か

資し

と為す。その中に居る者は、火も

焼くこと能あ

はず、風も倒すこと能はず、妖えう

も呈あらはるること

を得ず、災

わざはひも来きた

ることを得ず、鬼き

神しん

も窺うかがふべからず、盗たう

賊ぞく

も犯をか

すべからず。その家自おの

づから富み、その主あるじはこれ

寿いのちながし。官位永く保たも

ち、子孫相あひ

承う

く。慎つつしまざるべけんや。

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平安京の変質  

牧  

伸行

一一

天てん

元げん

五ご

載さい

孟まう

冬とう

十月、家主保やす

胤たね

、自みづから作り自ら書けり。

先ず第一段では、西京(右京)の荒廃について述べている。

保胤自身が約二〇年間にわたり東西両京の様子を見続けてきた

結果、西京においては人家は稀になって、ほんとど幽墟のよう

になっていて、人が去ることはあっても、移住してくることは

なく、家屋も壊れるままで放置されている。世間を逃れ避けて

ひっそりと隠れ住んだり、官職を辞めて農業に従事する者は居

続けているが、財貨を蓄えて、仕事熱心な者は一日といえども

住むことはない。さらに、往年には一つの東閣があったが、主

人の失脚により、屋舎が焼けても修理されることはなく、その

子孫でさえ住むことはなく、荒廃に任せた結果、狐狸の住居と

なってしまっている、と述べる。最後に、これは天によって西

京が滅ぼされようとしてるのであり、人の罪ではないと締め

括っている。

次に第二段においては、第一段を受け、西京の衰退に対する

東京(左京)の殷賑を述べる。特に四条以北の乾(北西)と艮

(東北)の二つの方角に人家が集中している様子が述べられ、権

勢のある家が広大な邸宅を構えるのに対して、貧者は軒を接し

て集住していることを様々な例を挙げて述べている。そして、

富者が貧者の土地を脅かしていることが記されている。

そして第三段で、鴨川べりや北野など、住民の都の東北部へ

の移住に関する状況を概観しており、特に鴨川の西地域におけ

る田畑の耕作について格文、すなわち『類聚三代格』所収の太

政官符を参考として、本来崇親院にのみ耕作が許されているの

みであるにもかかわらず、耕作が行われており水害の原因と

なっていることを嘆いている。

第四段で自らの池亭の構造と景観を述べる。地価の高騰によ

り四条辺りではなく、六条以北に方一〇余畝の荒れ地を購入し、

築山を造り池を掘り、池の西に阿弥陀堂を造り、東に書庫を、

北に住居をそれぞれ配置している様子を記している。

また、第五段で作者自身の生活態度を自ら語り、最後に第六

段では理想の住居論が書かれて締め括られている。特に第六段

で「応和より以来、世人好みて豊屋峻宇を起て殆節を山にし梲

に藻くに至る」として、応和年間(九六一〜九六四年)を一つ

の画期とみている。

この中で平安京の右京に付いて重要な変化が記されているの

が第一段であるが、作者である保胤が「二十余年以来、東西二

京を歴見」した総論的な内容として記している。そこには、「西

京は人家漸く稀にして、殆幽墟に幾し。人は去ること有りて来

ることなし、屋は壊るること有りて造ることなし」と左京の衰

亡の様子が述べられている。そしてその要因の一つとして、「往

年一つの東閣有り。華堂朱戸、竹樹泉石、誠にこれ象外の勝地

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洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一二

なり。主人事有りて左転せられ、屋舎火有りて自づから焼けぬ。

その門客の近地に居る者数十家、相率ゐて去りぬ。その後主人

帰るといへども、重ねて修はず。子孫多しといへども、永く住

まはず。荊棘門を鎖し、狐狸穴に安んず」と、敢えて名を記さ

ないままに「主人」とある人物の没落による例が挙げられてい

る。こ

こにみえる「主人」とは源高明のことであり、『日本紀略』

後篇五安和二年(九六九)三月二五日条に、

廿五日壬寅。以二左大臣兼左近衛大将源高明一。為二大宰員

外帥一。以二右大臣藤原師尹一為二左大臣一。以二大納言同在衡

一為二右大臣一。左馬助源満仲。前武蔵介藤原善時等。密告

二中務少輔源連。橘繁延等謀反由一。仍右大臣以下諸卿忽以

参入。被レ行二諸陣三寮警固々関等事一。令下二参議文範一。遣

中密告文於太政大臣職曹司上。諸門禁二出入一。検非違使捕

二進前相模介藤原千晴。男久頼。及随兵等一禁獄。又召二内

記一有二勅符木契等事一。禁中騒動。殆如二天慶之大乱一。

とあり、いわゆる安和の変に連坐して大宰権帥に左遷されてい

る。そして、同書安和二年四月一日条には「午刻。員外帥西宮

家焼亡。所レ残雑舎両三也」とみえ、左遷直後に高明邸が焼亡

している。その後、天禄三年(九七二)四月二〇日条には、

廿日己酉。賀茂祭。今日。大宰権帥源朝臣高明自二大宰府一

上洛。著二葛野別屋一。

と、高明は大宰府より都へ戻ったようであるが、西京の邸宅に

は戻らず「葛野別屋」に入っている。この『日本紀略』にみえ

る高明に関する一連の記事は、「池亭記」の内容と合致し、保胤

は事実に基づいて記述していると思われる。なお、付け加える

ならば同じように第三段の「崇親院」に関する記述についても

『類聚三代格』巻八所収の昌泰四年(九〇一)四月五日付太政官

符(7)によるものであることが明らかであり、「竊かに格文を見」

たという内容が事実であることがわかる。

このように「池亭記」には、事実に基づく内容が記されてお

り、その内容に関しては信頼が置けるといえる。ただし、敢え

て事実に基づく内容を記すことによって、自らの文章を真に迫

るものであるという修飾を加えている可能性が指摘できるので

はないだろうか。また、「池亭記」に敢えて「東西二京」の盛衰

を記すのは、慶滋保胤が邸宅を左京すなわち東京に購入したと

いうのもその理由の一つではないだろうか。四条以北の土地で

はなく六条であったとしても、衰亡している西京ではなく東京

であるということを強調するために第一段が記されている可能

性もあるであろう。

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平安京の変質  

牧  

伸行

一三

二 

東市と西市

先に見たように慶滋保胤は右京(西京)の衰退について「天

の西京を亡ぼすなり、人の罪に非ざること明らかなり」と天意

であることを指摘しているが、果たして天意と言い切れるのだ

ろうか。

平安京では、左右両京のそれぞれ左京七条坊門南・七条北・

大宮東・堀川西に東市が、右京七条坊門南・七条北・大宮西に

西市が設けられている。この市は平安京に限らず平城京以来、

左右京にはそれぞれ市、東市と西市が置かれていた。平城京の

場合も京域の南方に東市・西市がそれぞれ置かれていたが、こ

れについて藤原不比等が、豪族たちの経済活動が活発になるの

を喜ばず、中国的な律令体制のもとで、豪族を官僚制の枠組み

の中に閉じこめたいと考え、そのために経済と政治・行政の分

離を形で示すために市の場所が設定されたという指摘がある(8)。

しかしながら、これは物資を運搬する堀川、平城京の場合では

佐保川と秋篠川の流路が重要であり、京の左右対称という考え

方から、その二つの堀川が同じような場所を通る位置に設定さ

れたことに起因すると考えられる。

「池亭記」においては明確に述べられていないが、東市と西市

との違いが左京と右京の盛衰にも大いに関係しているものと考

えられる。東市と西市は同時に売買が行われていた訳ではなく、

『延喜式』巻四十二東西市司式集東西市条に、

凡毎月十五日以前集二東市一。十六日以後集二西市一。

とあり、毎月の前半の一五日までは東市で、一六日以降の後半

には西市おいて交易が行われることになっていた。また、取り

扱う品物についてもやはり『延喜式』の東西市司式の東廛条(9)と

西廛条(10)に詳細が規定されており、廛数は異なるものの一応は公

平を期すように設定されていた。

しかし、平安京の東西の市について興味深い記事が『続日本

後紀』巻一二承和九年(八四二)一〇月庚辰(二〇日)条にみ

える。庚

辰。西市司言。依二承和二年九月符旨一。錦綾。絹。調布。

糸。綿。紵。染物。縫衣。続麻。針。櫛。染革。帯幡。油。

土器。絹冠。牛厘等類興二販於西市一。而東市司論云。検二

承和七年四月符一。依二弘仁十一年四月式一。件等色物。兩

市共可二興販一。不レ可二更度一。今百姓悉遷二於東一。交二易

件物一。市廛既空。公事闕怠者。去承和二年彼此中折。施

行既訖。而承和七年四月班レ式之日。遺漏不レ改。勅。宜レ

依二前格一。不レ可レ據レ式。

この記事についてはすでに検討が加えられている(11)が、それを参

考に考察を加えてみると、内容的には西市司による訴えによっ

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洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一四

て式の無効が承認された内容となっている。その訴えとは、承

和二年(八三五)の太政官符によって「錦綾。絹。調布。絲。

綿。紵。染物。縫衣。続 

麻。針。櫛。染革。帯幡。油。土器。

絹冠。牛厘等」といった種類の物品は本来西市において興販が

行われるべきものであるという主張である。これに対して東市

司は承和七年(八四〇)九月の太政官符をもとに、弘仁一一年

(八二〇)四月の式によって西市司の訴えている物品について両

市で興販することになったことを主張している。ここで西市が

挙げている承和二年九月太政官符については残念ながら伝わっ

ておらず内容は不明であるが、各市の専売品に関する内容が記

されていたのではないだろうか。そして、東市司のいう「検二

承和七年四月符一。依二弘仁十一年四月式一」とある弘仁一一年

(八二〇)四月の式とは『弘仁式』のことであり、承和七年

(八四〇)四月符は『類聚三代格』巻第一七「文書并印事」所収

承和七年(八四〇)四月二三日太政官符である。以下にその全

文を挙げると、

太政官符

 

頒下行改二正遺漏紕繆一格式上事

右検二案内一。太政官去天長七年閏十二月七日下二諸司一符

。太政官去十一月十七日符

。被二左近衛大将従三位兼

守大納言清原真人夏野宣一

。奉レ勅。律令之興。盖始二大

宝一。懲粛既具。勤誡亦甄。然律令之典。上挙二大綱一。至

二於体履相須一事。猶闕如。論二之政術一。固有レ未レ周。因レ

茲修二格式一以備二闕違一。宜下施二之内外一。尽使中遵行上者。

若有下与二格式一相紕繆及遺漏上者。亦宜二具録申一者。被二中

納言従三位兼行中務卿直世王宣一

。奉レ勅。修撰之後。改

張諸事。宜三来年二月以前悉令二申訖一。紕繆遺漏等亦准レ

此。如有二疎略及過一レ期者。依レ法科処。不二曾寛宥一者。今

被二右大臣宣一

。奉レ勅。採二拾新修一。以補二闕漏一。討二

覈故実一。以正二紕繆一。筆削功成。撰録周備。宜二早速施行

一。

  

承和七年四月廿三日

とある。ここにみえる「格式」は『弘仁格式』のことであり、

『弘仁格式』には遺漏や紕繆が多く、天長七年(八三〇)に改正

されたがそれでも不備があったため、更に承和七年に「遺漏紕

繆」を改正して頒行されたことを示している。すなわち、『弘仁

式』において定められた物品について、西市司が異議を申し立

てた結果、その訴えが認められて改めて承和二年太政官符に

従って西市の専売品となったのである。

ただし、先に挙げた『延喜式』の東廛条と西廛条をみると、

承和九年(八四二)に西市の専売となった物のうち糸・紵・縫

衣・針・櫛・染革・油の七種が東市でも取り扱われており、東

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平安京の変質  

牧  

伸行

一五

西両市の共通物品となっている。このことについてその詳細は

不明とするしかないが、西市の専売とはなったものの東市にお

いても需要があったために済し崩し的に取り扱われるようにな

り、その結果が『延喜式』の規定へと反映されているのではな

いかと推測できる。

ところで、承和九年(八四二)一〇月庚辰(二〇日)条で注

目されるのは東市が主張していることの中の「今百姓悉遷二於

東一。交二易件物一。市廛既空。公事闕怠者」という部分である。

これは承和九年段階の九世紀中頃には既に西市すなわち右京の

住民が減少するという事態が生じていることを示しているとい

えよう。

では、何故早い段階で右京の衰退という現象が生じたのかを

考えると、やはり地形的な要因が大きな影響を与えているとい

える。

三 

葛野川の治水と右京

平安京における自然災害等については、飢饉の発生や洪水対

策、疫病の流行、地震などについて研究が行われている(12)。その

中でも、平安京は東西を鴨川と葛野川(桂川)に挟まれた地に

位置することから、その治水については遷都以来の一つの大き

な懸案事項であった。そのため、遷都後比較的早い時期からそ

の対策が行われていたようである。

平安京における洪水等に関する記録は六国史だけではなく、

『日本紀略』やあるいは貴族の日記によって伝えられており、左

右京のいずれで被害が発生したかは明確でない場合が多いもの

の、台風・洪水の記録は延暦一三年(七九四)から嘉応二年

(一一七〇)までの間に一〇四例残されている(13)。

朝廷による治水に関する例としては防鴨河所(使)と防葛野

河所(使)が挙げられる。これについては『類聚三代格』巻第

五「交替并解由事」所収天長八年(八三一)一二月九日付太政

官符に次のようにみえる。

太政官符

 

応三左右防城使并侍従厨防鴨河葛野河両所五位以下別当

四年遷替兼責二解由一事

右太政官去天長元年六月十九日下二民部省一符

。参議左大

弁従四位上直世応奏状

。侍従厨并防鴨河葛野河両所五位

以下別当等。永預二其事一曾無二交替一。縦有二欠損一何以拘

留。稽二之公途一理不レ可レ然。望請。自今以後、限二三箇年

一更相遷替。付二官物一即責二解由一。伏聴二天裁一者。右大臣

宣。奉レ勅。依レ奏者。今被二大納言正三位兼行左近衛大将

民部卿清原真人夏野宣一

。奉レ勅。三年之歴従レ事迫促。宜

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洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一六

下自今以後以二四箇年一為中遷替期上。左右防城使同准レ之。

  

天長八年十二月九日

これは、両所の長官である別当の任期を三年から四年へと改め

た内容であるが、本文中に天長元年(八二四)段階でのことと

して「防鴨河葛野両所」とあり、ともにその名称から明らかな

ように鴨川と葛野川の管理を担当する官であり、創設時期は不

明ではあるものの遅くとも天長元年以前には両使が存在してい

たことが明らかとなる。そして、両所は貞観三年(八六一)三

月には廃止され、山城国が鴨川と葛野川の管理に当たることに

なる(14)が、「防鴨河所」はその後程なくして復活したようで、「防

鴨河使」として鴨川の管理にあたることとなった(15)。

このことは、葛野川の治水に関しての朝廷の撤退を意味する

ものといえる。しかし、葛野川に関しては防葛野河所が設置さ

れる以前から治水に関する記録が五例残っている。初見は延暦

一九年(八〇〇)一〇月に山城・大和などの国に対して一万人

を徴発し、葛野川の堤を修理させたという記事である(16)。残る四

例は平城朝に集中しているが、大同元年(八〇六)九月(17)、大同

二年(八〇七)一一月(18)、大同三年(八〇八)六月(19)および七月

(20)である。それに対して鴨川の治水に関する記事は同時期には

みられず、平安時代初期には鴨川よりも葛野川に対する治水事

業に朝廷が力を尽くしている様子がうかがえる。そして、その

後は先述の防鴨河所・防葛野河所の設置に至るのである。

ただし、防鴨河使だけが復活するのに対して防葛野河所がそ

のまま消滅してしまうという事実は否定できず、葛野川の治水

に対する朝廷の関心が稀薄になったといえる。これは、当時の

右京が衰退し始めている兆候であると考えられる。

それに加えて、地形的に右京は左京に比べて低湿地であった

といわれているが、それ以外にも発掘調査によれば洪水の痕跡

が確認されている。例えば西市に近接していた西堀川小路の場

合、三条二坊では堀川は泥土層と砂礫層が交互に堆積し、上層

の砂礫層は路面にまで達するなど、洪水で一気に埋め尽くされ

てしまった状況が確認でき、出土物から一〇世紀後半に埋もれ

て廃絶している。さらに、五条二坊ではやはり一〇世紀後半以

後に西側に川が氾濫して川幅が拡がっており、一一世紀後半に

は西堀川小路が墓地として利用されている。また、七条二坊に

おける川の堆積は、幾層にも互層になって複雑に重なり合って

おり、川幅は二二メートル以上で検出されるなど、度重なる氾

濫の結果が見出されている(21)。さらに、西堀川について、平安中

期には土砂に埋まり、あふれ出た水が西堀川の二本西側の道祖

大路に流れ込み、勘解由小路以南の道祖大路は道祖川に変貌し、

平安後期には西堀川小路と道祖大路の間の野寺小路にも流路を

形成し、野寺川になったことが確認されている(22)。

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平安京の変質  

牧  

伸行

一七

以上のように、西堀川に関しては文献上明確に確認すること

はできなくとも、発掘調査によって一〇世紀後半以降のその氾

濫の様子が明らかとなってきている。このような京内の西堀川

の氾濫は、平安京の西郊を流れる葛野川の治水を行うことに対

して、朝廷に無力感を感じさせることになったのではないだろ

うか。低湿地であることに加えての西堀川の氾濫は自然条件に

対する人間の無力感を一層に痛感させたものと考えられ、その

ために防葛野川所が廃止後に、防鴨河使のように復活すること

がなかった要因の一つであったと考えられる。これは右京が衰

退を始めたと推測できる九世紀中頃と時期はずれるものの、西

堀川の氾濫が右京の衰退に拍車を掛けたことが推測できる。

おわりに

以上、平安京の変質、特に右京の衰亡について概観した。

桓武天皇によって万代の宮として建設された平安京である

が、その発展は都の西と東では大いに異なるものであった。つ

まり、平安京における左京への人の移動は、比較的早い時期か

らみられ、右京の衰亡には地理的条件が大いに関与していたと

考えられることである。そうすると、やはり慶滋保胤のいう「天

意」は大いに傾聴に値することである。

しかし、単に地理的条件であるとか「天意」という言葉で片

付けることが可能かどうかは少々疑問が残る。例えば、右京に

あたる太秦地域などは、古くから秦氏によって開発されていた

地域であったと考えられることである。そうなると、単に地形

的に湿地であり開発が遅れたと言い切ることはできず、地理的

要因以外にも何らかの障害が存在した可能性があるが、現段階

では不明であり後考を期すべき問題である。

註(1)

『日本紀略』前編一三延暦一二年(七九三)正月甲午(一五

日)条

 

甲午。遣下二大納言藤原小黒麿。左大弁紀古佐美等一。相中山

背国葛野郡宇太村之地上。為二遷都一也。

(2)

『続日本紀』巻卅八延暦三年(七八四)五月丙戌(一六日)条

に「丙戌。勅遣二中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原

朝臣種継。左大弁従三位佐伯宿祢今毛人。参議近衛中將正四位

上紀朝臣船守。参議神祇伯従四位上大中臣朝臣子老。右衛士督

正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督従四位上佐伯宿祢久良麻

呂。陰陽助外従五位下船連田口等於山背国一。相二乙訓郡長岡村

之地一。爲二遷都一也」と遷都のための相地使が山背国の長岡村

へ派遣され、同延暦三年(七八四)一一月戊申(一一日)条に

「戊申。天皇移二幸長岡宮一」と桓武天皇が天皇が移幸すること

により長岡京遷都が行われている。

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洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究

一八

(3)

『日本紀略』前編一三延暦一三年(七九四)一〇月丁卯(二八

日)条

  

丁卯。(中略)遷レ都。詔曰。云々。葛野〈乃〉大宮地者。

山川〈毛〉麗〈久〉。四方国〈乃〉百姓〈毛〉参出来事〈毛〉

便〈之弖〉云々。

(4)

『日本紀略』前篇一三延暦一三年(七九四)一一月丁丑(八

日)条

 

丁丑。詔。云々。山勢実合二前聞一。云々。此国山河襟帯。

自然作レ城。因二斯形勝一。可レ制二新号一。宜下改二山背国一。

為中山城国上。又子来之民。謳歌之輩。異口同辞。号曰二平

安京一。又近江国滋賀郡古津者。先帝旧都。今接二輦下一。可

下追二昔号一改称中大津上。云々。

(5)

「池亭記」の本文及び読み下しについては大曾根章介・金原

理・後藤昭雄校注『本朝文粋』(岩波新古典文学大系27、岩波書

店、一九九二年)による。

(6)

解釈に関しては前掲註(5)書と村井康彦「慶滋保胤『池亭

記』」(村井康彦編『雅 

王朝の原像』〈京の歴史と文化1 

岡・平安時代〉、講談社、一九九四年)を参考とした。

(7)

『類聚三代格』巻第八「農桑事」所収昌泰四年(九〇一)四月

五日太政官符

 

太政官符

  

応レ聴レ耕二作崇親院所領地五町一事

   

在二山城国愛宕郡一

 

右得二彼院解一

。件地在二四條大路南。六條坊門小路北。鴨

河堤西。京極大路東一。皆是依二省符并公験一売買人居之処

也。去貞観二年創建二件院一之日。遷二立彼屋舎一。以為下収

二養氏女一之房室上也。其中有二大泉一。宜二於漑灌一。仍加二

墾闢一聊殖二粳稲一充二院中用一。而太政官同十三年閏八月

十四日下二山城国一符

。鴨河堤東西除二公田一之外。諸家所

二耕作一水陸田皆尽禁遏無二復令一レ営。縦雖二公田一為レ堤可レ

成レ害者。猶復莫レ令二耕作一者。由レ是頃年不レ耕。既成二荒

地一。今検下太政官去寛平八年四月十三日下二同国一符上

可レ聴レ耕二作三條大路以北北辺以南水陸田廿二町百九十五

歩一者。凡所三以制二堤東西水陸田一者。為下完二堤防一避中水

害上也。而件院多在二堤西一。去レ堤五六段。池水饒多。地脈

卑湿。不レ可レ成二堤防之害一也。望請。殊給二公使一先被二実

検一。若無二堤害一。准二諸家并百姓等一。復レ旧被レ聴二耕作

一。謹請二処分一者。左大臣宣。奉レ勅。依レ請。

   

昌泰四年四月五日

(8)

中村修也『平安京の暮らしと行政』(日本史リブレット10、山

川出版社、二〇〇一年)。

(9)

『延喜式』巻四十二東西市司式東廛条

 

東絁廛 

羅廛 

糸廛 

錦廛 

頭廛 

巾子廛 

縫衣廛 

廛 

紵廛 

布廛 

苧廛 

木綿廛 

櫛廛 

針廛 

沓廛 

菲廛 

筆廛 

墨廛 

丹廛 

珠廛 

玉廛 

藥廛 

太刀廛 

弓廛 

廛 

兵具廛 

香廛 

鞍橋廛 

鞍褥廛 

廛 

鐙廛 

障泥廛 

鞦廛 

鉄并金器廛 

漆廛 

油廛 

染草廛 

米廛 

木器廛 

麥廛 

塩廛 

醤廛 

索餅廛 

心太廛 

海藻廛 

菓子廛 

廛 

干魚廛 

馬廛 

生魚廛 

海菜廛

 

右五十一廛東市。

(10)

『延喜式』巻四十二東西市司式西廛条

 

絹廛 

錦綾廛 

糸廛 

綿廛 

紗廛橡 

帛廛 

頭廛 

縫衣

廛 

裙廛 

帯幡廛 

紵廛 

調布廛 

麻廛 

続麻廛 

櫛廛 

針廛 

菲廛 

雑染廛 

蓑笠廛 

染草廛 

土器廛 

油廛 

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平安京の変質  

牧  

伸行

一九

廛 

塩廛 

未醤廛 

索餅廛 

糖廛 

心太廛 

海藻廛 

菓子

廛 

干魚廛 

生魚廛 

牛廛

   

右卅三廛西市。

(11)

中村修也前掲註(8)著書。

(12) 北村優季『平安京の災害史 

都市の危機と再生』(歴史文化ラ

イブラリー345、吉川弘文館、二〇一二年)。

(13)

北村優季前掲註(12)著書。

(14)

『類聚三代格』巻一六「山野藪沢江河池沼事」所収貞観三年

(八六一)三月十三日付太政官符

 

太政官符

  

応下停二防鴨河葛野河両使一

中国司上事

 

右件等河頃年分二置使員一令レ加二修防一。而或数年積功一時

招レ損。或今日成レ労明朝致レ破。空費二公粮一。動申二流損一。

非常之因豈如レ此哉。右大臣宣。奉レ勅。為レ政之道最随二権

宜一。今雖レ有二其使一。所レ成猶少。用途更多。自今以後。

停二止件使一。永預二国司一令レ修二造之一者。須三守従四位下

紀朝臣今守専一検校勤存二公平一。既被二委付一。不レ得二怠慢

一。

  

貞観三年三月十三日

(15)

渡辺直彦「防鴨河使の研究」(同『日本古代官位制度の基礎的

考察』増補版所収、吉川 

弘文館、一九七二年)。

(16)

『日本紀略』前篇一三延暦十九年(八〇〇)十月己巳(四日)

 

己巳。発二山城。大和。河内。摂津。近江。丹波等諸国民

一万人一。以修二葛野川隄一。

(17)

『日本後紀』巻十四大同元年(八〇六)九月癸巳(四日)条

 

九月癸巳。勅。水之浸損。積レ微為レ害。属二于小決一。功在

二一簣一。而无二人監修一。致二此多壊一。宜下衛門衛士府専二

当左右京堤溝一。勤加中修補上。

(18)

『日本紀略』前篇一三大同二年(八〇七)一一月庚子(一七

日)条

 

庚子。令レ修二造大井一。

(19)

『日本後紀』巻一七大同三年(八〇八)六月壬申(二一日)条

 

壬申。(中略)是日。令下二有品親王并諸司把笏者一進中役夫

上。各有レ差。為レ防二葛野河一也。

(20)

『日本後紀』巻一七大同三年(八〇八)七月辛丑(二一日)条

 

辛丑。(中略)是日。令下二内親王及命婦一進中堀二葛野川一役

夫上。各有レ差。

(21)

永田信一「﹇検証﹈地下の都千二百年 

発掘調査が明かす平安

京の構造」(村井康彦編『雅王朝の原像』〈京の歴史と文化1 

岡・平安時代〉、講談社、一九九四年)

(22)

中村修也前掲註(8)著書。

(マキ 

ノブユキ 

嘱託研究員)

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