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313 辿退第十章 黄庭堅と王安石

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  • 313

    第十章

    ■黄庭堅と王安石

    ――黄庭堅の心の軌跡――

    はじめに

    中國文藝史に、〈蘇黄〉の稱はあるが、〈王黄〉の稱はない。

    黄庭堅(一○四五―一一○五)は「蘇門四學士」の筆頭と目され、實際に蘇軾(一○三七―一一

    ○一)との間に親密な交友關係を結んでいる。黄庭堅は蘇軾を深く敬慕し、蘇軾も黄庭堅に最

    大級の評價を與えていた。また、彼ら二人が北宋末~南宋前期の文藝に及ぼした影響も絕大で

    あった。徽宗の頃、度重なる朝廷の禁令にもかかわらず、彼らの詩文は地下で秘やかにではあ

    るが熱狂的に愛讀され、書も法外な高値で賣買された。禁が解かれた靖康年間、そして南渡以

    降、この流行は過熱化の一途を辿っている。したがって、〈蘇黄〉の稱は、彼ら二人の意識、

    および北宋後期~南宋前期當時の文藝觀をまさしく適切に反映した竝稱であったといってよ

    い。一

    方、〈王黄〉、すなわち王安石(一○二一―八六)と黄庭堅の關係についてはどうであろうか。

    〈蘇黄〉の、呼稱としての盤石な安定性と比べるべくもなく、そもそも〈王黄〉という竝稱は

    存在しない。この事實が物語るように、從來、黄庭堅を王安石との關係の中で論じること自體

    が稀であった。しかし、私見では、兩者の間には無視し去ることのできない緊密な關係性が認

    められる。

    周知の通り、黄庭堅は王安石の新法には與せず、保守勢力の成員として一生を送った。彼が

    官界に身を置いた北宋後期~末期は、「黨爭の時代」と一言で形容しうるほど、黨派抗爭の激

    烈な時代であった。したがって、詩人といえども官としてしかるべきポジションにまで昇れば、

    自らの政治的スタンスをより鮮明にすることが求められたはずである。結果的に黄庭堅は反新

    法勢力の側に立ち、さらには蘇軾兄弟を中心とする蜀黨に近いポジションに身を置いたから、

    彼の官としての發言にも否應なくそのような黨派性が内包されることになったと豫想される。

    たとえば、彼が元祐元年(一○八六)に實錄檢討官として『神宗實錄』の編纂に加わった時

    のエピソードが傳わっている。ことは熙寧九年(一○七六)に王安石が相位を退くに至った理

    由についての事實認定をめぐって發生した。

    呂惠卿が腹心の部下であった頃、王安石は彼に、「上をして知らしむる勿かれ(勿令上知)」「齊

    年(=馮京)をして知らしむる勿かれ(勿令齊年知)」と記した書簡を秘かに送っていた。後、兩

    者の關係が惡化した際、呂惠卿はこの書簡をもとに王安石を彈劾し、そのために王安石は罷免

    第十章 黄庭堅と王安石

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    第十章 黄庭堅と王安石

    された、という風説があった。この風説を『實錄』に記載するか否かをめぐって、黄庭堅と、

    彼の上官であり王安石門下である陸佃とが眞向から對立した、というエピソードである。

    陸佃はこの風説を『實錄』に記載することに斷固として反對したが、黄庭堅は、「侍郎の言

    の如くせば、是れ佞史なり(如侍郎言、是佞史也)」といって、記載することを强く主張した。

    それに對し陸佃は「魯直の意の如くせば、卽ち是れ謗書なり(如魯直意、卽是謗書)」と答えた、

    という。

    右の黄庭堅の發言は、一見すると、彼が平素王安石に對し批判的であったことの證左とみな

    しうるものである。しかし、彼の官としての立場を考慮に入れれば、そう單純には斷を下せな

    い。つまり、彼が史官として登用されたタイミングは、舊法勢力が復權し、新法政權に對する

    斷罪が今まさに進行している最中であった。したがって、彼の史筆に求められた第一の要件は、

    新法政權が行った事柄を包み隱さず批判的に記述する、という點にあったはずである。また、

    そうでなかったとしても、〈庭堅〉〈魯直〉という彼の名字が規定する、半ば運命的に彼に課

    せられた行動程式と、『春秋』以來の傳統的史官像とが、事實に對する嚴格な姿勢を彼に要求

    したはずである。よって當時、彼が時代的要請に耳を傾けるか、あるいは史官としての職務を

    全うしようとすれば、新法政權もしくは王安石に對して批判的言辭を展開することの方がより

    自然な選擇であった。

    だが、結局の所、それはあくまでも官としての言動であり、彼が置かれた政治環境(黨派性)

    から完全に自由な境地で發せられた言葉ではない。したがって、このような官としての公的言

    動が、詩人としての、より私的な立場の言動と、常に完全に一致するという保障はない。特に

    北宋後期のように、黨爭の激烈な時代にあって、兩者が時として錯綜あるいは乖離し合ったで

    あろうことは容易に想像しうることである。

    蘇軾について語る場合、當時の黄庭堅は、比較的率直な感情を屈託なくストレートに表現す

    ることができた。官界における彼のポジションがそれを保障していたからである。一方、王安

    石に對しては、同樣のスタンスで自己の思いを表現することがそもそも困難であったに相違な

    い。理念的にいえば、黄庭堅の對王安石表現は自ずとある種の屈折や内向性を帶び、蘇軾の場

    合よりも複雑かつ隱微な形態によって、より限定的に示されることになったであろう。事實、

    彼の發言に占める王蘇兩者の量的比重は、蘇軾が王安石を壓倒している。

    だが、彼の文集を繙く時、遠慮氣味に登場する王安石が決してその他大勢の詩人たちと同列

    の扱いではないことも、容易に氣づくであろう。北宋後期~末期の特殊な言論條件を考慮に入

    れれば、詩人黄庭堅における王安石の比重は、或いは蘇軾にほぼ匹敵するといっても過言では

    ないかもしれない。

    本論は、從來必ずしも重視されていたとは言い難い、王安石と黄庭堅の關係について整理を

    加え、黄庭堅の文學に、〈蘇黄〉の他に、〈王黄〉という地下水脈が確かに流れていたことの

    論證を試みるものである。併せて、論述の過程で、政治黨爭の時代・北宋後期における複雑な

    言論環境について、その一端を具體的に浮き彫りにしたい。

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    第十章 黄庭堅と王安石

    なお、本稿において、黄庭堅および王安石の作品を引用したり出典を明示する場合は、原則

    として次の底本に依據した。すなわち、黄庭堅の詩については、世界書局本『黄山谷詩集注』

    (「内集」「外集」「別集」の略稱によって卷數表示)、文は四川大學出版社『黄庭堅全集』(「全、正集」

    「全、外集」「全、別集」の略稱によって卷數表示)を用いた。王安石の作品は、詩については、上

    海古籍出版社、朝鮮古活字影印本『王荊文公詩李壁注』(「李壁注」と略稱)を、文は中華書局香

    港分局校點本『臨川先生文集』を用いた。

    宋代における〈王黄〉認識

    まず、北宋末~南宋における〈王黄〉の認識について觸れておきたい。傅璇琮『古典文學研

    究資料彙編・黄庭堅和江西詩派卷』(一九七八年八月、中華書局)は、黄庭堅に對する宋人の評や

    發言を、一八○頁にわたって掲載しているが、〈王黄〉の關係をトータルに論じたものは皆無

    であった。しかし、量的には決して多くないものの、兩者の影響關係を個別に指摘した資料は

    存在した。以下、該書に未載の資料をも補いながら、その代表的なものを掲げる。ちなみに、

    これらは主題別に、

    詩句の影響關係を指摘したもの

    (1)

    黄庭堅の王安石に對する私淑を傳えるもの

    (2)

    〈王黄〉という枠組みを基盤に展開した評論

    (3)

    の三類に大別できる。

    詩句の影響關係を指摘したもの

    (1)

    方時敏言、荊公言鷗鳥不驚之類、如何作語則好。故山谷有云、「一鷗同一波」。(『王

    (a)

    直方詩話』)

    山谷有詩云、「小立佇幽香、農家能有幾」。韻聯與荊公詩頗相同、當是暗合。(『王直

    (b)

    方詩話』)

    苕溪漁隱曰、荊公詩、「祗向貧家促機杼、幾家能有一絇絲」。山谷詩云、「莫作秋蟲

    (c)促機杼、貧家能有幾絇絲」。荊公又有「小立佇幽香」之句、山谷亦有「小立近幽香」

    之句、語意全然相類。二公豈竊詩者、王直方云當是暗合、亶其然乎。(『苕溪漁隱叢話』

    前集四七)

    荊公詠淮陰侯、「將軍北面歸降虜、此事人間久寂寥」。山谷亦云、「功成千金募降虜、

    (d)東面置座師廣武。誰云晩計太疏略、此事已足垂千古」。二詩意同。荊公「送望之出

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    第十章 黄庭堅と王安石

    守臨江」云、「黄雀有頭顱、長行萬里餘」。山谷「黄雀」詩、「牛大垂天且割烹、細

    微黄雀莫貪生。頭顱雖復行萬里、猶復鹽梅傅説羮」。二詩使袁譚事亦同。(葛立方『韻

    語陽秋』一○)

    山谷詩「春風馬上夢、罇酒故人持」、暗與公合。(李壁注二三「發館陶」第三句)

    (e)「暗合」と判斷されたものも含まれているが、右の五則は何れも黄詩における王安石の影響

    を明に暗に認めている。各々の出典を明示すれば、以下の通りである。

    王=未詳

    (a)

    黄=「題海首座壁」詩(外集一三)

    王=「歳晩」詩(李壁注二二)

    (b)

    黄=「次韻答斌老病起獨遊東園二首」詩、其一(内集一三)

    王=「促織」詩(李壁注四六)

    (c)

    黄=「往歳過廣陵値早春、嘗作詩云……、戲以前韻寄王定國二首」其二(内集七)

    王=「韓信」(李壁注四六)

    (d)

    黄=「淮陰侯」(全、外集一六)※世界書局本未收。文字の異同多し。

    王=「送望之赴臨江」(李壁注四○)

    黄=「黄雀」(外集九)

    王=「發館陶」(李壁注二三)

    (e)

    黄=「自咸平至太康鞍馬間得十小詩……」(外集一四)

    これ以外に、黄庭堅詩の宋人注(任淵『内集詩注』二○卷、史容『外集詩注』一七卷、史温『別集詩

    注』二卷)の中にも、影響關係の指摘が少なからず見られる。筆者が大雜把に調査した限りで

    も、のべ約六○餘にわたる王安石の詩句が引用されていた(後述。末尾參照)。

    黄庭堅の王安石に對する私淑を傳えるもの

    (2)

    魯直謂、荊公之詩、暮年方妙、然格高而體下。如云「似聞青秧底、復作龜兆坼」、

    (f)乃前人所未道。又云「扶輿度陽燄、窈窕一川花」、雖前人亦未易道也。然學二謝、

    失于巧爾。(陳師道『後山詩話』)

    陳無己云、山谷最愛舒王「扶輿度陽羨、窈窕一川花」、謂包含數箇意。(『王直方詩話』)

    (g)

    山谷云、余從半山老人得古詩句法、云、「春風取花去、酬我以清陰」。(呉聿『觀林詩

    (h)話』)

    瑒花、荊公欲爲賦詩、而鄙其名。瑒蓋玉也、未爲不佳、但其音乃杖梗切、故公陋

    (i)

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    第十章 黄庭堅と王安石

    之。山谷復呼爲鄭、且謂野人採鄭花葉以染黄、不借礬而成色、乃以山礬爲名、而詩

    有「山礬獨自倚春風」及「山礬是弟梅是兄」之句。二名皆其所命、而作詩復自引用

    其意、蓋欲顯二者之名於人耳。(張淏『雲谷雜記』三)

    荊公曰、「前輩詩云『風靜花猶落』、靜中見動意。『鳥鳴山更幽』、動中見靜意」。山

    (j)谷曰、「此老論詩、不失解經旨趣、亦何怪耶」。……(『冷齋夜話』五)

    舒王晩年詩曰、「紅梨無葉庇華身、黄菊分香委路塵。歳晩蒼官纔自保、日高青女尚

    (k)横陳」。又曰、「木落岡巒因自獻、水歸洲得横陳」。山谷謂予曰、「自獻横陳事、見相

    如賦、荊公不應用耳」。予曰、「『首楞嚴經』亦曰、『於横陳時、味如嚼蠟』。」。(『冷齋

    夜話』五)

    冷齋夜話云、山谷嘗見荊公於金陵、因問、「丞相近有何詩」。荊公指壁上所題兩句、

    (l)云「一水護田云云。此近所作也」。(李壁注四三「書湖陰先生壁」)

    眞僞の程を別にすれば、右の各則が、宋人の發言の中で最も直説的に〈王黄〉の關係を語っ

    ている。

    は、「私淑」と形容するにはやや批判的に過ぎる筆致であるが、

    の記述をも視野に收め

    (f)

    (g)

    ると、彼が當該句に最高級の評價を與えていたことがよく理解できよう。「似聞青秧底」の句

    は、王安石「寄德逢」詩(李壁注二)、「扶輿度陽燄」は「法雲」詩(李壁注二)の一節である。

    また、

    に引かれたのは、王安石「半山春晩卽事」(李壁注二二)の冒頭句である。

    (h)は、王安石が名稱を卑しみ詩に詠じなかった花に、黄庭堅が自ら「山礬」と名づけ、詩を

    (i)詠じた、という故事。引用された詩句は、それぞれ「戲詠高節亭邊山礬花二首」其二(内集二

    ○・崇寧三年)と「王充道送水仙花五十枝、欣然會心爲之作詠」(内集一五・建中靖國元年)の一句

    である。また、この經緯は、「戲詠高節亭邊山礬花二首」の序文にも明記されている。

    については、王安石「鍾山卽事」の李壁注においても、以下の如きバリエーションが記載

    (j)されている(李壁注四四)。

    鍾山卽事

    王安石

    澗水無聲遶竹流

    澗水

    無くして

    竹を遶りて流れ

    竹西花草弄春柔

    竹西の花草

    春を弄して柔かなり

    茅簷相對坐終日

    茅簷

    相ひ對して

    坐すこと終日

    一鳥不鳴山更幽

    一鳥

    鳴かず

    更に幽なり

    〔李壁注〕荊公嘗語山谷云、「古稱『鳥鳴山更幽』、我謂不若『不鳴山更幽』」。故今詩

    如此。

    李壁注では、王安石が黄庭堅に直接語りかけた設定になっている。なお、王安石は、「老樹」

  • 318

    第十章 黄庭堅と王安石

    詩(李壁注一四)においても、「古詩鳥鳴山更幽、我念不若鳴聲收」と詠じている。何れも、南

    朝梁・王籍「入若邪溪」詩の「鳥鳴山更幽」句(『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩一七)を翻案したも

    のである。

    の王安石詩は、「紅梨」詩(李壁注四八)と「清涼寺白雲庵」詩(李壁注四二)。

    も右の李

    (k)

    (l)

    壁注同樣、王黄が對面する狀況設定である。

    〈王黄〉という枠組みを基盤に展開した評論

    (3)宋人の關連發言の中では、この類に屬するものが數が最も多い。内容的には、北宋後期の詩

    歌を總括して、〈王黄〉の到達度を贊美したり、作風を比較もしくは批判したりするものが主

    である。以下に代表的な七則を掲げる。

    舒王宿金山寺賦詩、一夕而成、長句妙絕。如曰「天多剩得月、月落聞歸鼓」、又曰

    (m)「乃知像敎力、但渡無所苦」之類、如生成。山谷在星渚賦道士快軒詩、點筆立成、

    其略曰、「吟詩作賦北窗裏、萬言不及一盃水。願得青天化爲一張紙」。想見其高韻、

    氣摩雲霄、獨立萬象之表、筆端三昧、遊戲自在也。(『冷齋夜話』五)

    ※・王=「金山寺」(李壁注未收、臨川先生文集三六、集句)

    ・黄=「壽聖觀道士黄至明開小隱軒、太守徐公爲題曰快軒、庭堅集句詠之」(外集九)

    老杜之詩、備于衆體、是爲詩史。近世所論、東坡長于古韻、豪逸大度。魯直長于

    (n)律詩、老健超邁。荊公長于絕句、閑暇清癯、其各一家也。(普聞『詩論』)

    王介甫只知巧語之爲詩、而不知拙語亦詩也。山谷只知奇語之爲詩、而不知常語亦

    (o)詩也。(張戒『歳寒堂詩話』)

    歐陽公詩、猶有國初唐人風氣。公能變國朝文格、而不能變詩格。及荊公・蘇・黄

    (p)輩出、然後詩格遂極於高古。(陳善『捫蝨新話』下集三)

    詩家有換骨法、謂用古人意而點化之、使加工也。李白詩云、「白髪三千丈、縁愁似

    (q)箇長」。荊公點化之、則云、「織成白髪三千丈」。劉禹錫云、「遙望洞庭湖翠水、白銀

    盤裏一青螺」。山谷點化之云、「可惜不當湖水面、銀山堆裏看青山」。孔稚圭「白苧

    歌」云、「山虚鐘磐徹」。山谷點化之云、「山空響筦絃」。盧仝詩云、「草石是親情」。

    山谷點化之云、「小山作朋友、香草當姫妾」。學詩者不可不知此。(葛立方『韻語陽秋』

    二)五

    七言律詩……至本朝初年、律詩大壞、王安石・黄庭堅欲兼用二體、擅其所長、

    (r)然終不能庶幾唐人。(葉適『水心集』)

    冷齋夜話云、用事琢句妙在言其用而不言其名。此法惟荊公・東坡・山谷三老知之。

    (s)荊公「鴨緑鵝黄」之句、此本言水柳之名。(李壁注四一「南浦」)

  • 319

    第十章 黄庭堅と王安石

    がそうであるように、〈王黄〉の他に、蘇軾を加えて、三者を竝列して論じる場

    (n)

    (p)

    (s)

    合が多い。右に掲げた七則の中、『冷齋夜話』は北宋末の成立、他の文獻は槪ね南宋初~中期

    の成立である。したがって、北宋末~南宋中期の時點ですでに、この三者を北宋詩壇の極點と

    して位置づけようとする文學史的枠組みが一般化していたことを看て取れる。その上で、個別

    の修辭技巧について論じる場合には、三者の中でも、とくに〈王黄〉の二人を單獨に取り上げ

    る傾向があったことを看て取ることができよう。

    以上、北宋末期から南宋までにおける〈王黄〉認識を、主として當時の詩話・筆記類の記述

    を分類整理することを通じて瞥見した。今日、我々が北宋後期の詩歌を總括する際、ともする

    と〈蘇黄〉という繼承關係にばかり注意を奪われがちであるが、宋代にあっては、〈王黄〉と

    いう流れに對しても、相應の注意が拂われていたことを知ることができよう。

    黄庭堅の文章にあらわれた王安石

    前節では、宋代における〈王黄〉認識を槪觀したが、本節では、黄庭堅自身の言説に着目し

    ながら、黄庭堅における王安石の意味を考察する。

    黄庭堅の文章の中で王安石に言及したものは、のべ

    則を數える。『黄庭堅全集』(四川大學

    20

    出版社、底本は清光緒間刊『宋黄文節公全集』)の分類に依據すると、その内訳は、「題跋」

    則、「書

    14

    (簡)」

    則、「序」「雜著」各

    則である。内容別に、篇題を列擧すれば、以下のようになる。

    4

    1

    王安石の書について

    (1)

    ①跋王荊公書陶隱居墓中文(全、正集二五、題跋)

    ②跋王介甫帖(全、正集二五、題跋)

    ③題王荊公書後(全、正集二六、題跋)

    ④題絳本法帖(全、正集二八、題跋)

    ⑤論書(全、外集二四、雜著)

    ⑥與兪淸老書二首、其二(全、別集一五、書)

    王安石の學問および文章について

    (2)

    ⑦與人(全、正集一九、書)

    ⑧跋虔州學記遺呉季成(全、正集二五、題跋)

    ⑨書王元之竹樓記後(全、正集二五、題跋)

    ⑩書王荊公騎驢圖(全、正集二七、題跋)

    ⑪楊子建通神論序(全、別集二、序)

    王安石の詩について

    (3)

    ⑫跋明妃曲(全、未收。李壁注六、題跋)

  • 320

    第十章 黄庭堅と王安石

    ⑬跋兪秀老淸老詩頌(全、正集二七、題跋)

    ⑭書王荊公贈兪秀老詩後(全、正集二七、題跋)

    ⑮書玄眞子漁父贈兪秀老(全、正集二七、題跋)

    ⑯與兪淸老書二首、其一(全、別集一五、題跋)

    ⑰答逢興文判官(全、續集三、書)

    その他

    (4)

    ⑱跋王荊公惠李伯牖錢帖(全、正集二五、題跋)

    ⑲跋王荊公禪簡(全、正集二六、題跋)

    ⑳書贈花光仁老(全、別集六、題跋)

    王安石の書について

    (1)今日、王安石の眞蹟はほとんど殘存しておらず、また書道史において言及されることも稀で

    あるので、黄庭堅の文における比重の高さは、今日の我々の目には些か奇異に映る。しかし、

    この現象は主に二つの側面から説明することが可能である。

    まず第一に、黄文における王安石發言が、主として題跋という文體によって傳わった、とい

    う事實が擧げられる。題跋は元來、書畫に附されるのが普通であるから、記述される内容も、

    當然、當該書畫作品と密接に關連したものが多くなる。すなわち、文體が内容を規定したと見

    なされる。

    第二に、書家としての黄庭堅の名聲が、題跋文をより多く後世に傳える役割を果たした、と

    いう背景を想定できる。つまり、筆蹟という附加價値を有するがゆえに、黄庭堅の題跋は蒐集

    家の蒐集對象となり、より多く保存され後世に傳えられた。

    中國における書の評價は、傳統的に書家の人物評價と直結しているケースが强半である。し

    たがって、南宋に入り王安石の評價が低下し不安定になり始めるにつれ、王安石の書はしだい

    に蒐集家の蒐集對象から漏れるようになり、題跋に記錄されることも稀になった。たとえば、

    朱熹は「題荊公帖」(四部叢刊『朱文公文集』八二)という文で、以下のように述べている。

    熹家有先君子手書荊公此數詩。今觀此卷、乃知其爲臨寫本也。恐後數十年未必有能

    辨者、略識于此。新安朱熹云。

    朱熹の父、朱松は、若い時分、王安石の書を好み學んだ。そのため、朱熹の家には王安石の

    書が所藏されていた。日頃身近に接し王安石の書に鑑識眼のある朱熹が、右文において、「恐

    らく後數十年、未だ必しも能く辨ずる者有らざらん」と述べている事實は注目に値しよう。こ

    の言は、南宋中期の當時、世に傳わる王安石の眞蹟がすでに希少となり、眞贋を鑑定すること

    が困難になりつつあったことを物語っていよう。

  • 321

    第十章 黄庭堅と王安石

    しかし一方、黄庭堅の書に對する評價は南宋を通じて一樣に高く、それが結果的に王安石の

    書に關するものをも含め彼の題跋文を數多く後世に傳える役割を果たしたのだ、と考えられる。

    ただし、以上の二つの原因は、あくまで副次的なものに過ぎない。より本質的な理由は、他

    でもなく黄庭堅が王安石の書を高く評價した、という點にこそある。黄庭堅と同世代の人、李

    之儀(一○四八―一一二八?)が、黄庭堅の以下のような言葉を傳えている(何れも、叢書集成新編

    所收『姑溪題跋』一)。

    魯直晩喜荊公行筆、其得意處往往不能眞贋。(「跋蘇黄陳書」)

    魯直此字又云、比他所作爲勝。蓋嘗自贊以謂得王荊公筆法、自是行筆既爾、故自

    爲成特之語。至荊公飄逸縱横、略無凝滯、脱去前人一律而訖能傳世、恐魯直未易到

    也。(「跋山谷書摩詰詩」)

    魯直嘗謂、學顔魯公(顔眞卿)者、務其行筆持重、開拓位置取其似是而已。獨荊公

    書得其骨、君謨(蔡襄)書得其肉。君謨喜書多學意嘗規摹、而荊公則固未嘗學也。

    然其運筆如插兩翼、凌轢於霜空鵰鶚之後。……(「跋荊國公書」)

    李之儀の題跋に引用された黄庭堅の言葉は何れも王安石の書に對する彼の傾倒ぶりをよりスト

    レートに表現している。なお、蘇軾にも王安石の書を論じた「跋王荊公書」(中華書局『蘇軾文

    集』六九)という短い題跋文があるが、その中で蘇軾は、

    荊公書得無法之法、然不可學、學之則無法。故僕書盡意作之似蔡君謨、稍得意似楊

    風子、更放似言法華。

    と述べ、王安石の書は「學ぶべからず」と明言している。蔡襄を引き合いに出して王安石の書

    を論じるところまでは兩者に共通するが、範とすべきか否かという點で、〈蘇黄〉は見事なま

    での對照的姿勢を示している。

    前述の通り、書の評價は傳統的に當該作家に對する共感を基盤として成立する、という强い

    傾向を有するので、王安石の書に對する黄庭堅のこのような高い評價は、彼が王安石をどの様

    に評價していたかを間接的に示す指標と見なせよう。②「跋王介甫帖」一則を以下に掲げる。

    注目すべきは、王安石晩年の書を蘇軾よりも優れると評價している點である。

    余嘗評東坡文字、言語歴劫、贊揚有不能盡、所謂竭世樞機、似一滴投於巨壑者也。

    而此帖論劉敞侍讀晩年文字、非東坡所及。蝍蛆甘帶、鴟鴉嗜鼠、端不虚語。

    王安石の學問および文章について

    (2)

  • 322

    第十章 黄庭堅と王安石

    まず、⑦と⑨は、王安石の文章論の的確さ、卓越ぶりを稱揚したものである。特に⑦「與人」

    には、ディレッタントとしての顔がはっきり現れ出している。

    ……往年歐陽文忠公作『五代史』、或作序記其前、王荊公見之曰、「佛頭上豈可著糞」。

    竊深歎息、以爲明言。……

    ⑨「書王元之竹樓記後」は、王禹偁「黄州新建小竹樓記」(四部叢刊『小畜集』一七)の題跋。

    王安石がかつて歐陽脩「醉翁亭記」(中華書局『歐陽脩全集』三九)よりも王禹偁「黄州新建小竹

    樓記」の方が優れると斷言したというエピソードがあった。その信憑性を疑う識者がいたが、

    黄庭堅は王安石の平素の文章觀に鑑みて、それが間違いなく王安石の發言である、と斷定した

    文である。

    或傳王荊公稱「竹樓記」勝歐陽公「醉翁亭記」、或曰此非荊公之言也。某以謂荊公

    出此言未失也。荊公評文章、常先體制、而後文之工拙。蓋嘗觀蘇子瞻「醉白堂記」、

    戲曰、「文詞雖極工、然不是『醉白堂記』、乃是韓白優劣論耳」。以此考之、優「竹樓

    記」而劣「醉翁亭記」、是荊公之言不疑也。

    論據として王安石の蘇軾「醉白堂記」評を引用している點が興味深い。黄庭堅は王安石の文章

    觀に是非の評價を交えてはいないが、王禹偁「竹樓記」の題跋にことさら王安石の言を引用し

    それを記錄したという事實の中に、黄庭堅の意圖を讀み取ることができよう。すなわち、黄庭

    堅も王安石の考えを支持し追認していた、と見なすのが妥當である。

    ちなみに、この王安石評を耳にした蘇軾が、「未だ介甫の『虔州學記』に若かず。乃ち學校

    策なるのみ(未若介甫『虔州學記』、乃學校策耳)」と反駁した、というエピソードも傳わっている

    (『苕溪漁隱叢話前集』三五に引く蔡絛『西清詩話』)。

    ⑧「跋虔州學記遺呉季成」は、わが子の教育に熱中する呉季成なる人物に家庭教育の要諦を

    説いた文で、自ら論を展開する代わりに、――蘇軾が批判したという、件の――王安石の「虔

    州學記」(中華書局香港分局校點本『臨川先生文集』八二)を書寫して彼に寄贈している。呉季成は

    眉山の人であるが、呉と同郷の先輩、蘇軾の文章ではなく、王安石の文章を書寫した點に、⑨

    と同樣、黄庭堅が平素、王安石の文章を蘇軾より高く評價していたことを垣間見るようである。

    ⑩「書王荊公騎驢圖」は、恐らく李公麟(字伯時、號龍眠居士/一○四九―一一○六)の同題の

    畫に題した文であろう。晩年、南京に退居した王安石が驢馬の背に跨り外出した故事は、當時

    の複數の文獻が記錄するところである。

    荊公晩年刪定『字説』、出入百家、語簡而意深、常自以爲平生精力盡於此書。好學

  • 323

    第十章 黄庭堅と王安石

    者從之請問、口講手畫、終席或至千餘字。金華兪紫琳淸老、嘗冠禿巾、衣掃塔服、抱

    『字説』、追逐荊公之驢、往來法雲・定林、過八功德水、逍遙游亭之上。龍眠李伯時

    曰、「此勝事、不可以無傳也」。

    右文中に登場する兪淸老(名は子中)は、黄庭堅が青年期に舅(母方の伯父)の李常に從い淮

    南(揚州)に遊學した頃の同學である。後、兄の秀老とともに晩年の王安石につき從い學んだ。

    この兩者は⑥及び⑬~⑯の五則にも登場し、〈王黄〉の間に橋を渡す重要な役割を果たした。

    黄庭堅は、王安石が晩年の精力を傾注して完成させた『字説』を、「語

    簡にして意

    深し」

    と稱贊している。だが當時、この書に對する評價は褒貶相半ばした。蘇軾が王安石の説を聞い

    て戲れ嘲った、というエピソードも傳わっている(中華書局『宋人軼事彙編』一○に引く、傳・蘇軾

    『調謔編』および曾慥『高齋漫錄』)。もしそれが事實ならば、この書の評價をめぐっても、〈蘇黄〉

    の間で意見がはっきり分かれていたことになる。

    ⑪「楊子建通神論序」は、「序」という文體からも察せられるように、本節で採り上げる計

    則の中で、最も畏まった一文かもしれない。

    20

    天下之學、要之有宗師、然後可臻微入妙、雖不盡明先王之意、惟其有本源、故去經

    不遠也。今夫六經之旨深矣、而有孟軻・荀卿・兩漢諸儒、及近世劉敞・王安石之書、

    讀之亦思過半矣。至於文章之工、難矣、而有左氏・莊周・董仲舒・司馬遷・相如・劉

    向・揚雄・韓愈・柳宗元、及今世歐陽修・曾鞏・蘇軾・秦觀之作、篇籍具在、法度粲

    然、可講而學也。……

    黄庭堅はここでも、本朝を代表する學者として、劉敞と竝んで王安石の名を擧げている。

    王安石の詩について

    (3)⑫~⑰の六則の中、⑯「與兪淸老書二首」其一と⑰「答逢興文判官」の二則は、直接王安石

    の詩について語るものではないが、兩文ともに相手から王安石の詩(集)を送られたことを記

    錄している(兪清老からは、⑥によって知られる通り、王安石の眞蹟をも寄贈されている)。この事實は、

    黄庭堅の王安石詩に對する私淑が、すでに周邊の人々の知る所にまでなっていたことを示して

    いよう。それゆえ、彼らはわざわざ王安石の詩(および書)を黄庭堅に寄贈したのであろう。

    ⑬~⑯は、

    ⑩と同じく、王安石と兪秀老・清老のゆかしき交遊に思いを寄せつつ、彼らの

    (2)

    詩について言及したものである。

    ⑫は、青年期の黄庭堅が王安石の詩にどのように向き合っていたかを知る數少ない文獻でも

    ある。王安石「明妃曲」其二を、彼は李白や王維に比肩すると絕贊している。

  • 324

    第十章 黄庭堅と王安石

    山谷跋公此詩云、荊公作此篇、可與李翰林・王右丞並驅爭先矣。往歳道出頴陰、得

    見王深父先生、最承教愛。因語及荊公此詩。庭堅以爲詞意深盡、無遺恨矣。深父獨曰、

    「不然。孔子曰『夷狄之有君、不如諸夏之亡也』。『人生失意無南北』、非是」。庭堅曰、

    「先生發此徳言、可謂極忠孝矣。然孔子欲居九夷、曰『君子居之、何陋之有』。恐王

    先生未爲失也。」。明日、深父見舅氏李公擇曰、「黄生宜擇明師畏友與居。年甚少、而

    持論知古血脈、未可量」。

    その他

    (4)三則の中、⑱と⑲は、佛敎に關連する内容である。⑱「跋王荊公惠李伯牖錢帖」は王安石の

    「宿債」について述べる。

    此帖是唐輔文初捐館時也。荊公不甚知人疾痛苛癢、於伯牖有此賻恤、非常之賜也。

    及伯牖以疾棄官歸金陵、又借官屋居之、間問其饑寒。以釋氏論之、似是宿債也。

    唐輔文とは、恐らく唐介(字子方、一○一○―六九)のことを指すであろう。神宗が王安石を

    登用した時、彼は參知政事の任にあったが、王安石と意見が合わず、兩者はしばしば對立した。

    ある問題で二人が神宗の前で爭論した際、神宗は常に安石の肩を持ったため、唐介は憤怒に勝

    えず、やがて背中に惡性の腫れ物ができて、急逝した、という(熙寧二年四月/『宋史』三一六、

    中華書局『宋宰輔編年錄校補』七)。

    ちょうど唐介が急逝した頃、病を得、官を棄てて歸郷する知人・李伯牖(人物未詳)のため

    に、王安石は多額の見舞金を贈った他、寓居の世話をしたり、彼の歸郷後は季節の挨拶を缺か

    さなかった。日頃、他人の苦痛をよく理解できなかった(そのために唐介を死に追いやった)王安

    石が、李伯牖に對しては誠に周到な心遣いを見せた。世俗の常識では度しがたいこの行爲を、

    黄庭堅は、佛敎にいう「宿債」(=前世の借り)として解釋しようとした。つまり、王安石が前

    世の借りを彼に返した、とする解釋である。

    ⑲「跋王荊公禪簡」は以下の如くである。

    荊公學佛、所謂「吾以爲龍又無角、吾以爲蛇又有足」者也。然余嘗熟觀其風度、眞

    視富貴如浮雲、不溺於財利酒色、一世之偉人也。莫年小語、雅麗精絕、脱去流俗、不

    可以常理待之也。

    冒頭の引用は、東方朔のことばで、元來、トカゲ、ヤモリの類を指す(『漢書』東方朔傳)

    が、ここでは恐らくその意ではない。佛敎に對する王安石の姿勢が不完全であることを形容し

    たものであろうか。眞意がよく分からない。

  • 325

    第十章 黄庭堅と王安石

    しかし、何れにせよ、世俗の欲に全く頓着しない王安石の姿勢を禮贊し、彼を「一世の偉人」

    と評している。また、晩年の「小語」(恐らく詩歌を指す)を「雅麗精絕」と絕贊した上で、そ

    の脱俗的境地は、通常の道理で向き合うことができないと説く。つまり佛理を解さなければ、

    とうてい深く味わうことができない、という意味であろう。黄庭堅は、晩年の王安石詩から佛

    禪の要素を嗅ぎ取っている。

    ⑳「書贈花光仁老」は、水墨の梅の妙手として知られる花光仁老(釋仲仁)に、墨梅を畫い

    てくれるよう懇願した書簡である。その返禮として彼は自作の梅の詩を書寫して贈ると記して

    いる。

    余方此憂患、無以自娯、願師爲我作兩枝見寄、令我時得展玩、洗去煩惱、幸甚。此

    月末間得之、佳也。某有「梅花」一詩、東坡居士爲和、王荊公書之於扇、卻待手寫一

    本奉酬也。

    注目すべきは、自作の梅花詩の價値を花光仁老に傳えるために、蘇軾が唱和し、王安石が扇

    にわざわざ書したことを强調している點である。自作に附加價値を與えるために、蘇軾のみな

    らず、王安石が利用されている點は注意されてよい。むろんこれは、書簡(題跋)の受取人で

    ある花光仁老の價値觀を第一に意識した發言ではあるが、それは同時に黄庭堅の價値觀をも示

    している。この點は本節で整理した内容によっても十分論證可能であろう。

    以上、黄庭堅の文章に現れた〈王黄〉の關係を槪觀したが、のべ

    則の文章の中、王安石に

    20

    對して批判的言辭を展開した文章は一つとして存在していなかった。それどころか、强半が贊

    辭によって埋められている。

    また、王安石と蘇軾の意見が一致しない時、黄庭堅はより多く王安石の方を選擇していたこ

    とも判明した。改めてその部分を提示すれば、まず王安石の書についての評價、第二に「記」

    という文體をめぐる文章觀、第三に王安石の『字説』をめぐる評價においてである。

    この事實は、〈蘇黄〉という關係が單純な師弟の繼承關係ではなかったことを、少なくとも

    確實に物語っていよう。と同時に、黄庭堅における王安石の地位の高さが、蘇軾という尺度を

    通して、はっきりと認識されるのである。

    黄庭堅詩における王安石

    では、黄庭堅文學の眞骨頂ともいうべき詩歌創作の局面で、彼の王安石に對する私淑は、ど

    のように表現されているのだろうか。まず、題材レベルでそれが表現された作品を取り上げる。

    最も醇乎たる感情が盛り込まれた作品は、以下の六言絕句四首である。

  • 326

    第十章 黄庭堅と王安石

    次韻王荊公題西太一宮壁二首(内集三)

    其一

    風急啼烏未了

    急にして

    啼烏

    未だ了らず

    雨來戰蟻方酣

    來たって

    戰蟻

    方に酣なり

    眞是眞非安在

    眞の是

    眞の非

    安くにか在る

    人間北看成南

    人間

    北より看れば南と成る

    其二

    晩風池蓮香度

    晩風

    池蓮

    香り度り

    曉日宮槐影西

    曉日

    宮槐

    西す

    白下長干夢到

    白下

    長干

    到り

    青門紫曲塵迷

    青門

    紫曲

    迷ふ

    有懷半山老人再次韻二首(内集三)

    其一

    短世風驚雨過

    短世

    驚き

    過るがごとし

    成功夢迷酒酣

    成功

    迷ひ

    酣なるがごとし

    草玄不妨準易

    玄を草しては

    易に

    ふを妨げず

    なぞら

    論詩終近周南

    詩を論じては

    終に周南に近し

    其二

    啜羮不如放麑

    羮を啜るは麑を放つに如かず

    樂羊終愧巴西

    樂羊

    終ひに巴西に愧づ

    欲問老翁歸處

    問はんと欲す

    老翁

    歸する處

    帝郷無路雲迷

    帝郷

    無く

    迷ふ

    この、のべ四首の六言絕句は、何れも哲宗の元祐元年(一○八六)に作られた。新法を斷行

    した神宗がこの前年に沒し、代わって哲宗が卽位したが、哲宗はまだ幼少であったため、神宗

    の母、宣仁太皇太后高氏が攝政を行い、新法を廢して政策を全て舊に復した。これに伴い、新

    法推進派官僚は槪ね地方に左遷され、舊法官僚が京師に召還され、彼らに代わって樞要の地位

    に就いた。本稿の冒頭でも觸れたように、黄庭堅もこの時、京師に召還され、史官の職を得た

    のであった。時に黄庭堅、四十二歳。

    「太一」は「太乙」「泰一」とも書き、諸説あるが天上の最高神のこと。「太一宮」はそれ

    を祭る祭壇が設けられた祠廟で、北宋の開封には東、西、中の三つの太一宮があり、西太一宮

    は京城の西の郊外に設けられていた。元祐元年の秋のとある休日、蘇軾は黄庭堅等を引き連れ、

    西太一宮に遊んだ。そこで彼らは、かつて王安石が壁に題した詩を目にし、その詩に次韻した

  • 327

    第十章 黄庭堅と王安石

    のである。

    aは、前半二句が時世の急變によって世間が騒々しいことの比喩。神宗の逝去に伴い、新法

    政權から舊法政權へと政局が大きく變化したことを踏まえる。後半二句は、それぞれ『莊子』

    齊物論と『楞嚴經』を典據とし、立場や角度によって物の評價が移ろうことをいう。任淵は「熙

    豐に在りては則ち荊公を是と爲し、元祐に在りては則ち荊公を非と爲す。愛憎の論

    特に未だ

    定まらざるなり(在熙豐、則荊公爲是、在元祐、則荊公爲非、愛憎之論特未定也)」と注している。

    bの前半は、西太一宮の描寫。敍景と呼べるのは、四首計十六句の中、僅かにこの二句のみ

    である。後半は、第三句が金陵を、第四句が京師を詠う。後に掲げるように、原篇において王

    安石が歸郷を詠じているので、それを踏まえる。金陵に歸えることをつねに夢見ながら、それ

    が叶わず京師で車塵にまみれていた往時の王安石を偲ぶ。

    cは、前半が人事の儚さを詠じる。後半は、王安石の學問を贊美する。第三句は、揚雄が『易』

    を典範としつつ『太玄』を撰したように、王安石も經書に堂々たる注解を施した、の意か。同

    樣に、第四句も、『詩經』正風の筆頭、周南のごとき正統なる詩を作り詩論を展開した、の意

    であろう。任淵は、「熙寧の間、一時に建立するの事を追念するも、今は已に渺茫に堕ちて醉

    郷の夢の如し。其の傳ふべき所に至っては、則ち不朽なる者有り。後の兩句は此の意に終る(追

    念熙寧間一時建立之事、今已堕渺茫如醉郷夢。至其所可傳、則有不朽者。後兩句終此意)」と注する。

    dの前半二句は、『韓非子』説林上に見える次のような故事を踏まえる。――戰國魏の將・

    樂羊が中山を攻めた時、中山の王は自國にいた樂羊の息子を捕らえ、烹て羮として樂羊に贈っ

    たが、樂羊は平然とわが子の羮を飲み干した。一方、春秋魯の秦西巴は主君の狩にお供し、主

    君が子鹿を捕らえた時、母鹿が哀切な聲で鳴くのに忍びず、子鹿をこっそり放してやった。中

    山を攻め落とした樂羊は一時功績を稱えられたものの、主君からその心を疑われやがて罷免さ

    れた。秦西巴は一時罰せられたものの、やがて息子の敎師として迎えられた。韓非子はこの故

    事を引用した後、「『巧詐は拙誠に如かず』。樂羊功有るを以て疑はれ、秦西巴は罪有るを以て

    益ます信ぜらる(巧詐不如拙誠。樂羊以有功見疑、秦西巴以有罪益信)」と結んでいる。任淵の説で

    は秦西巴を王安石に、樂羊を呂惠卿に喩えたもの。また任淵は、後半二句を「神宗も天におら

    れるから、神宗に從うべきだ。決して讒言によって間隙を作ってはならない」という意に解し

    ている。

    以下に、王安石の詩(「題西太一宮壁二首」/李壁注四○)と蘇軾の次韻詩(「西太一見王荊公舊詩次

    其韻二首」/中華書局『蘇軾詩集』二七)を掲げる。

    王安石原篇

    蘇軾次韻詩

    其一

    其一

    柳葉鳴蜩緑暗

    秋早川原淨麗

    荷花落日紅酣

    雨餘風日清酣

  • 328

    第十章 黄庭堅と王安石

    三十六陂春水

    從此歸耕劍外

    白頭想見江南

    何人送我池南

    其二

    其二

    三十年前此地

    但有尊中若下

    父兄持我東西

    何須墓上征西

    今日重來白首

    聞道烏衣巷口

    欲尋陳迹都迷

    而今煙草萋迷

    王安石の原篇は、李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月、陝西人民敎育出版社)に據れば、

    熙寧元年(一○六八)の作。其一は、柳の木陰で鳴く蜩の聲を聞きながら、夕陽に染まる蓮の

    花を見るうちに、江南の景色を想い起こし、歸郷の念に驅られる、という大意。其二は、父に

    連れられ上京しここを訪れた三十年前を想い起こし、舊時のよすがを探すが何一つ探し當てら

    れず、時の推移に感じ入る、という内容である。

    蘇軾の詩は、其一がほぼ忠實に王安石詩の主題を踏襲し、歸田を詠う。其二は原詩の内容を

    敷衍して、人事の儚さを詠じる。「目の前に美酒があるのなら時を逃さず醉いしれよう。死後

    の榮譽など追求すまい。六朝の頃、貴族の屋敷が建ち竝んだ金陵の烏衣巷だって、今や荒れ草

    に覆われ廃墟と化したというくらいだから」。

    其二の後半で、「烏衣巷」が登場するのは、むろん王安石終焉の地=南京に觸れるためであ

    る。この二句が暗示するように、彼らが西太一宮を訪れた數ヶ月前(元祐元年四月)、王安石は

    南京ですでに他界していた。

    蘇軾の次韻詩は、王安石詩の基調を踏襲しつつも、自己の感慨を主軸として各表現が構成さ

    れているという特徴をもつ。

    一方、黄庭堅の次韻詩はどうであろうか。四首すべてが、王安石に對する追悼、もしくは鎭

    魂歌といっていい内容である。黄庭堅は蘇軾の倍の字數を費やし、もっぱら王安石を詠じてい

    る。これを、蘇軾の次韻詩と比較すると、スタイルの差は歴然としている。作品そのものを凝

    視しようとした蘇軾と、ひたすら作者の死を見つめようとした黄庭堅、この間には埋めがたい

    ほどの差が存在する。

    〈蘇黄〉の詩はそもそも和詩であるから、蘇軾詩のスタイルはむしろ至って自然なものであ

    った。特筆すべきは、黄庭堅詩のスタイルである。彼が詠じた四首の中、原篇の主題にかろう

    じて應えているのは、僅かにbの一首だけである。他は原篇の内容とほぼ無關係に作者・王安

    石その人を詠じている。むろん、bとcの二首については、篇題に「有懷半山老人」と明記さ

    れているので、そこに黄庭堅の意圖が示されてはいるが、原篇の内容に唱和するという和詩の

    通念から見れば、極めて異色の次韻詩と見なすことができる。

    〈蘇黄〉が西太一宮で王安石の題詩を目にしたのは、前述の通り、王安石が他界して半年と

  • 329

    第十章 黄庭堅と王安石

    經たない頃であった。蘇軾は、この詩の内容によって判斷する限り、その時點で王安石の死を

    すでに相對化している。蘇軾は、其二の後半において、彼の死を暗示する表現を用いているが、

    その二句でさえ、ひとたび篇題を伏せてしまえば、王安石の影はたちまち遠くに消え失せるで

    あろう。つまり、蘇軾の次韻詩は、ごくごく一般的な詠懷詩として讀むことが十分可能な詠い

    ぶりとなっている。

    しかし、黄庭堅詩の場合、四首の詩から「王安石の死」という要素を排除することはとうて

    いできない。「王安石の死」は、四首を繋ぐメインテーマに他ならず、それを取り除いてしま

    ったならば、四首は完全に空中分解してしまうであろう。

    一人の人物の死を相對化できる存在とそれが不可能な存在――そういうコントラストを〈蘇

    黄〉の間に認めることができるように思われる。〈蘇黄〉の次韻詩は王安石に對する兩者のス

    タンスの相違をはからずも浮き彫りにしている。

    次韻詩によって王安石の死を悼んだのと相前後して、黄庭堅は別の詩においても王安石の學

    問に言及している。「奉和文潛贈無咎、篇末多以見及、以既見君子云胡不喜爲韻」(内集四)と

    いう八首連作の其七がそれである。

    荊公六藝學

    荊公

    六藝の學

    妙處端不朽

    妙處

    端に不朽なり

    諸生用其短

    諸生

    其の短を用ひ

    頗復鑿戸牖

    頗る復た

    戸牖を鑿つ

    譬如學捧心

    譬へば捧心を學ぶが如し

    初不悟已醜

    初め已に醜きを悟らず

    玉石恐倶焚

    玉石

    倶に焚かるるを恐る

    公爲區別不

    爲に區別するや不や

    いな

    右の詩は、張耒(字文潛)や陳師道(字無咎)を第一讀者として想定し作られたものと判斷さ

    れるので、前の次韻詩に比べるとストレートな感情は背後に後退し、ずっと理性的な詠いぶり

    となっている。つまり右の詩は禮贊一邊倒ではなく、王安石の學問に〈妙處〉と〈短〉とが併

    存することを認めている。その上で、時世の急變によって、王安石の學問が、〈妙處〉をも含

    め一緒くたに排除されようとしている風潮に懸念を表明している。

    このように、元祐元年秋の同時期に作られた複數の詩において、黄庭堅は王安石の學問を一

    貫して高く評價していた。新法から舊法へと時代が大きくうねり、新法の創案者王安石への批

    判が表面化していたと思しきその時に、黄庭堅が敢然とこのような姿勢を貫いていた事實は特

    筆に値しよう。

    この事實はまた、本章冒頭に掲げた、『實錄』をめぐる黄庭堅發言をどう評價するかという

  • 330

    問題に、大きな示唆を與えてくれよう。前節で整理したように、黄庭堅ののこした文章には王

    安石に對する批判的言辭がほとんど全く存在しなかった。更に本節で取り上げた詩をみても狀

    況は同樣である。つまり、私的立場で發せられた黄庭堅の對王安石評は何れも極めて好意的な

    ものであり、このスタンスは終始一貫している。特に本節で取り上げたのべ五首の詩は、『實

    錄』のエピソードとほぼ同時期の作品であるので、參照價値がひときわ高い。

    こういう狀況を踏まえると、冒頭のエピソードにおける彼の言動は、彼が個人的に王安石を

    どう評價していたかというような私的レベルのそれと、そもそも次元を異にしたものであった

    ことが了解されるのである。

    さて、黄庭堅の詩の中には、彼にとって王安石がいかに大きな存在であったかを象徴的に物

    語る作品がもう一首存在する。その詩は、「題山谷石牛洞」(内集一)である。鄭永曉『黄庭堅

    年譜新編』(一九九七年十二月、社會科學文獻出版社)に據れば、元豐三年(一○八○)十月、黄庭堅

    三十六歳の作。時に黄庭堅は北京大名府敎授の任を離れ、新しい任地吉州太和縣(江西泰和縣)

    へと赴く途次、舒州懷寧縣(安徽潛山縣)にある三祖山を訪れた。三祖山はその名の通り、禪

    の三祖・僧璨鑑智にちなむ山で、山には山谷寺という佛寺がある。その寺の近くに石牛洞とい

    う洞窟があり、そこを訪れた黄庭堅が詠じたのが、本詩である。

    司命無心播物

    司命

    無心にして

    物を播き

    祖師有記傳衣

    祖師

    記有りて

    衣を傳ふ

    白雲横而不度

    白雲

    横たはりて

    度らず

    高鳥倦而猶飛

    高鳥

    倦みて

    猶ほ飛ぶ

    詩の内容は、前半が石牛洞を靈妙なる場所として性格づけた表現。任淵の注に據れば、舒州

    懷寧縣の北には、九天司命眞君祠があり、山谷寺は縣の西に位置した。後半は白雲と飛鳥を描

    き、石牛洞の脱俗的雰圍氣を强調する。末句は陶淵明「歸去來兮辭」の「鳥倦飛而知還」を踏

    まえるならば、帰郷を果たせずにいる己の現狀を比喩した句と見なすことができる。

    黄庭堅が石牛洞を訪れた元豐三年から、遡ること約三十年、皇祐三年(一○五一)の九月、

    通判として舒州に赴任した王安石も、着任後程なく石牛洞を訪れ、詩を詠じている。

    題舒州山谷寺石牛洞泉穴(李壁注一九)

    王安石

    皇祐三年九月十六日、自州之太湖、過懷寧縣山谷乾元寺、宿。與道人文鋭・弟安國、

    擁火遊石牛洞、見李翱習之書、聽泉久之。明日復遊、乃刻習之後。

    水泠泠而北出

    泠泠として北より出で

    山靡靡以旁圍

    靡靡として以て旁らに圍む

    欲窮源而不得

    源を窮めんと欲して得ず

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 331

    竟悵望以空歸

    竟に悵望して以て空しく歸る

    王安石の詩は、前半が石牛洞の情景を、後半は洞窟探索のことを詠じており、黄庭堅詩が宗

    敎的雰圍氣を十分に漂わせて詠じたのと、筆致が幾分異なっている。しかし、兩者は、六言絕

    句という、唐宋の詩人が餘り使用することのなかった詩型を用いたという點において、緊密か

    つ强固に結びついている。

    熙寧・元豐期の黄庭堅は、六言絕句を一時期に集中して製作している。作例數はのべ九首に

    上り、①「題山谷石牛洞」詩の他、以下の②~⑨が傳わっている。

    ②「題灊峰閣」(内集一)

    ③「次韻公擇舅」(内集一)

    ④⑤「從丘十四借韓文二首」(外集八)

    ⑥~⑨「題馬當山魯望亭四首」(外集八)

    ②と③は、①「題山谷石牛洞」とほぼ同時期の作。〈灊峰閣〉は舒州にあった淮南西路刑獄

    司内の閣。④⑤は、元豐三年十一月下旬の作。舒州の境域にある潛山の峰に友人とともに登っ

    た時の作。⑥~⑨は、舒州を離れ、長江を遡り彭澤(江西湖口縣)に到着した後の作品で、同

    年十二月の作。

    このように、九首の六言絕句は、全て元豐三年の冬三ヶ月の間に製作されている。そして「題

    山谷石牛洞」は、歴代の黄庭堅詩集において何れも九首の先頭に配されているので、恐らく最

    も早期の作例である。すなわち、黄庭堅が初めて製作した六言絕句がこの詩であった。

    問題は、彼が何故この一時期に突如として六言絕句の製作に目覺めたのか、という點である。

    その重要な契機として想定し得るのは、彼が石牛洞を訪れたという一事をおいて他には存在し

    ない。そして、その石牛洞には、王安石自らが書寫した六言絕句が石に刻まれていた。石牛洞

    と六言絕句という組み合わせの一致は果たして全くの偶然なのであろうか。

    また、黄庭堅の六言絕句第二作が作られた灊峰閣は、南宋末・祝穆『方輿勝覽』(四九、淮西

    路、安慶府)および王象之『輿地紀勝』(四六、淮南西路、安慶府)に據れば、「乃ち王介甫

    通守た

    る日、讀書するの地なり(乃王介甫通守日讀書之地)」とあり、遲くとも南宋の頃には王安石にち

    なむ場所として人々に記憶された樓閣であった。

    右の狀況證據をも考慮に入れると、黄庭堅の六言絕句製作の背景として、王安石の存在を無

    視することはとうていできなくなろう。そして、より重要なのは、黄庭堅が終生好んで用いた

    〈山谷道人〉という號が、この山谷寺尋訪を機に誕生したということである。文人にとって別

    號のもつ意味は決して小さくはない。歐陽脩における「醉翁」「六一居士」、蘇軾における「東

    坡居士」という、黄庭堅とも同時代の實例を想起すれば、この點はただちに理解されよう。

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 332

    ある文人が一つの別號を持つということは、その文人にそれを契機として新たに一つの文化

    的な顔が加わることをも意味する。別號を用い文藝活動を展開してゆく過程で、文人はそこに

    特定のキャラクターを付與し、作品の中で自らそのキャラクターを演じ切ろうとする。もし別

    號にこのような意味があると假定するならば、別號が誕生した時間と空間は、當該文人にとっ

    て特別な意味を有したはずである。

    黄庭堅は、「山谷道人」の他に、「涪翁」という號も持つが、使用された時間の長さ、知名

    度という點からいって、彼にとっての重要度は前者が後者を遙に凌駕している。「山谷道人」

    の縁起について、黄庭堅自身は何も語っていないが、彼が山谷寺に滯在したのは、せいぜい半

    日にも滿たない短い時間のはずである。その滯在の間に、彼が詠じた詩はのべ三首あるが、そ

    の全てが石牛洞を詠じたものであった。當時の黄庭堅にとって石牛洞は、山谷寺の景觀を構成

    するものの中で、明らかに特殊な意味を持つ空間であった。――このように、「山谷道人」の

    號は、王安石の足跡が確かに刻まれた空間において誕生した。「山谷道人」という號が、その

    後、彼の文藝を代表する別稱となったがゆえに、この事實は極めて象徴的な意味を内包してい

    る。そ

    して、本節で取り上げたのべ六首の詩の中、五首までが六言絕句という共通項を有してい

    たことは、すでに偶然の域を超えてそこにある種の必然性を感じざるを得ない。莫礪鋒氏の統

    計に據れば、黄庭堅が製作した六言絕句は計

    首に上り、總詩數(一八七八首)の

    %を占めて

    63

    3

    いる。恐らく、この數値の多さは同時代にあっても稀有な現象だと思われる。本節で論述した

    通り、黄庭堅が六言絕句を製作し始めるに至った、その重要な契機として、王安石詩の存在が

    ある。むろん、

    首全てを强引に王安石と結びつける必要はないが、多用の背景に王安石の影

    63

    を認めることは十分に可能であろう。六言絕句という詩型は、或いは黄庭堅にとって、〈王黄〉

    という心の絆を結ぶための重要なよすがであった、ということができるかもしれない。

    以上の各節において、黄庭堅自身の言説や宋代の文獻に據りながら、〈王黄〉の關係を整理

    したが、行論の都合上、各種資料を時系列に沿った形では採り上げていない。また、中には今

    日すでにその正確な制作時期を特定できないものも含まれている。とりわけ本章で採り上げ

    た黄庭堅の文章にその種のものが多い。但し、一般論としていえば、黄庭堅の書家としての名

    聲は晩年に近づくほど高まったと考えられるので、題跋や尺牘文で今日に傳わるものの過半は

    紹聖年間(一○九四―九七)以降、すなわち黄庭堅五十歳以降のものと想定される(黄庭堅の享年

    は六一歳)。

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 333

    これまでの論述内容の不備を補う

    ために、ここで、黄庭堅詩における

    王安石詩の引用頻度を時代別に示す

    ことによって、一つの指標を提示し

    たい。においてすでに言及したよ

    うに、黄庭堅詩の『内集』『外集』『別

    集』には宋人による注が附されおり、

    のべ六○餘句の王安石詩が引用され、〈王黄〉間における詩語、詩句レベルの影響關係が示さ

    れている。その中には、詩話類において「暗合」と結論された例も含まれてはいるが、ここで

    は注に引用されたもの全てを等價の資料とみなし統計を試みた。影響關係が指摘された詩句を

    含む作品を、鄭永曉『黄庭堅年譜新編』に據って制作時期順に竝びかえ、元號別に分類した數

    値が、右の表である。なお、六○餘の中には『黄庭堅年譜新編』に編年されていない作品も數

    首含まれており、それらについては除外してある。

    莫礪鋒氏の説に基づき、黄庭堅詩の三つの發展段階別に再區分すると、前期(元豐八年まで)

    、中期(元祐年間)=

    、後期(紹聖以降)=

    、という樣になる。元豐と元祐に集中し

    22

    22

    10

    てはいるが、他のどの時期にも現れ、彼の生涯を通じて用例が認められる。

    確かに右のデータは、注釋者(任淵、史容、史温)の主觀的判斷に據る部分が大であり、客觀

    的データとはいいがたい側面をもつ。しかしそもそも、作者自身の原注でもない限り、この種

    の影響關係を示す注にある種の誤謬は附き物であり、一定の誤差は避けがたい。そういうマイ

    ナス要素を差し引いても、右のデータには十分に參照價値があると筆者は考える。このような

    立場に立てば、右のデータは、本稿でこれまでに論述した内容を、作品の内側から確かに裏付

    けていることになろう。――詩語や詩句レベルの模倣の痕跡が、生涯に亘って彼の詩の中に確

    かに記錄されていたわけである。

    黄庭堅が繼承したもの

    これまでの論述内容を踏まえながら、本節では、黄庭堅が王安石から繼承した事柄について、

    些か印象批判的な内容に渉るが、總論的に筆者の考えを述べてみたい。

    〈蘇黄〉という竝稱があるとはいえ、蘇軾と黄庭堅の詩風に相當の隔たりがあることはすで

    にしばしば指摘されている。同樣に、〈王黄〉の詩風にも決して小さくはない異同が認められ

    る。つまり、三者は完全に似通った詩風を備えていたわけではく、三者三樣に獨自の詩風を確

    立していた。むしろその獨自性ゆえにこそ、彼らは、後世、北宋後期を代表するに相應しい詩

    人と見なされたのであろう。

    したがって、相異なる側面に着目すれば、それぞれの個性が强調されて繼承關係は背後に後

    元 號 引 用 數

    治平1-4 1

    熙寧1-10 3

    元豐1-8 18

    元祐1-8 22

    紹聖1-4 0

    元符1-3 2

    建中靖國 1 3

    崇寧1-4 5

    計 54

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 334

    退することになるが、むろん三者にも大きな類似點は存在する。たとえば、以下の四點は三者

    に共通して見出される特徴である。

    豐富な讀書體驗を基礎とする多彩な典故の運用。

    既存の詩語もしくは詩句の配置や構成を改編し微調整を加えることによって、新味を出す手法。

    杜甫詩もしくは陶淵明詩への尊崇。

    禪への接近。

    右の四點は、彼ら三者にのみ見られる共通點ではなく、北宋後期のどの詩人にも一定程度認

    められる共通傾向である。よって、これを時代的好尚と見なすことも可能であるかもしれない。

    王安石は蘇軾より十五歳の年長、蘇軾は黄庭堅より九歳の年長であり、三者に若干の世代的な

    隔たりは確かに存するが、同じ時代の空氣を共有した同時代詩人であることに變わりはない。

    したがって、それを時代的特性と見なす立場にも十分な説得力がある。

    しかしまた、本章

    の項で整理したように、王・蘇・黄の三者は同時代において、すでに

    (3)

    代表詩人と見なされていた。したがって、彼ら三人が假にそのような時代的影響を、詩人とし

    ての成長過程で濃厚に受けていたのだとしても、北宋後期にあって、實質的にそういう風潮を

    リードし發展させたのが彼ら三人であるという、もう一つの確かな圖式も浮上してこよう。本

    稿では、後者の立場に立って論を進める。

    四つの共通點をもう少し具體的に整理してみたい。

    ①の讀書體驗については、三者が何れも進士及第であることを想起すれば多くの説明は不要

    であろうが、彼らの博覧强記は、そういう進士及第者の中にあっても突出していた。

    安石少好讀書、一過目終身不忘。(『宋史』三二七、王安石傳)

    天下之公論、雖仇怨不能奪也。李承之奉世知南京、嘗謂余曰、「昨在從班、李定資

    深鞠子瞻獄、雖同列不敢輒啓問。一日、資深於崇政殿門忽謂諸人曰、『蘇軾奇才也』。

    衆莫敢對。已而曰、『雖三十年所作文字詩句、引徴經傳、隨問卽答、無一字差舛、誠

    天下之奇才也』。歎息不已」。(王鞏『甲申雜記』)

    黄庭堅……幼警悟、讀書數過輒成誦。舅李常過其家、取架上書問之、無不通、常驚、

    以爲一日千里。(『宋史』四四四、文苑傳六)

    A~Cは、彼らの抜群の記憶力を傳えるものであるが、强記=博識といってよいので、彼らが

    當時の平均的水準を超えて廣範な學識を誇っていたことをも示している。彼らの用典の多彩さ

    については、彼らの詩集に附された注を見れば一目瞭然である。黄庭堅の例を擧げれば、南宋

    初の許尹は「黄陳詩注序」(南宋の紹興二十五年の序文。内集詩注の卷頭に附されている)において、

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 335

    其用事深密、雜以儒佛、虞初稗官之説、雋永鴻寶之書、牢籠漁獵、取諸左右。

    とそれを表現している。

    ②については、王安石が〈集句〉という手法を多用し、蘇軾は〈集字〉を試作、〈櫽括〉と

    いう手法を多用した。また、黄庭堅については、〈換骨奪胎〉や〈點鐵成金〉という手法が彼

    の主張として後世喧傳されている。

    ③陶詩と杜詩の祖述は三者ともに見られるが、王安石と黄庭堅がより多く杜甫を祖述し、蘇

    軾はより多く陶淵明を祖述した、といえるだろう。

    ④禪への接近は、黄庭堅において最も顯著であるが、王・蘇においても同樣の傾向が認めら

    れる。普濟『五燈會元』では、蘇軾を「臨濟宗東林常總法嗣」に、黄庭堅を「臨濟宗黄龍祖心

    法嗣」に列し、〈蘇黄〉が禪門の居士であることを强調している(卷一七)。王安石も、南京に

    退居した後、――宋代禪宗が最重視した――『楞嚴經』に注解を施している(『楞嚴經疏解』十

    卷。現佚)。また、『維摩詰經注』三卷、『金剛經注』(何れも散佚)を記してもいる。

    さて、このように大枠において共通の傾向を見せる三者であるが、もう少し個別に細部を見

    ていくと、微妙な差異も浮かび上がってくる(なお、第四點、禪に對するスタンスについては、行論

    の都合上、本論では論じない)。

    ①と②に關連して作詩技巧について三者を比較してみると、技巧に對するスタンスに一定の

    差異を見出すことができる。本章の

    で掲げた同時代の指摘を改めて參照すると、

    (3)

    老杜之詩、備于衆體、是爲詩史。近世所論、東坡長于古韻、豪逸大度。魯直長于律

    (n)詩、老健超邁。荊公長于絕句、閑暇清癯、其各一家也。(普聞『詩論』)

    五七言律詩……至本朝初年、律詩大壞、王安石・黄庭堅欲兼用二體、擅其所長、然

    (r)終不能庶幾唐人。(葉適『水心集』)

    とあり、蘇軾は古體に優れ、〈王黄〉は近體に優れるという評價が示されている。

    では、〈王

    (r)

    黄〉が律詩に長ずる、と評している。もちろん、右は印象批判に過ぎないコメントではある。

    たとえば、呂祖謙『皇朝文鑑』における選錄狀況を調べてみると、

    王安石

    黄庭堅

    ○古詩

    21

    18

    71

    59

    43

    35

    ○律詩

    12

    5

    30

    10

    22

    17

    ○絕句

    /六言

    /六言

    38

    4

    2

    28

    8

    25

    6

    7

    (カッコ)内は五言の數。

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 336

    というようになり、入選の多寡という量的基準に據れば、一槪にそう言い切れない部分がある。

    つまり、蘇軾=古詩、王安石=絕句という評價は『皇朝文鑑』においてもほぼ確認できるが、

    黄庭堅=律詩という關係はこの統計からは跡づけられない。『皇朝文鑑』では、彼の律詩より

    も古詩をより高く評價している。方回『瀛奎律髓』においても同樣である。

    王安石

    黄庭堅

    cf

    ○五律

    19

    1

    13

    154

    ○七律

    62

    40

    22

    67

    ○總數

    81

    41

    35

    221

    王安石の評價は高いが、黄庭堅の評價は格別に高いわけではない。單純に選錄數という點のみ

    から見れば、『瀛奎律髓』には、律詩の作り手として、彼よりも數段高い評價を與えられた北

    宋詩人が、王安石を含め數名存在する。たとえば、梅堯臣(五言

    /七言

    )、陳師道(五言

    94

    33

    /七言

    )、張耒(五言

    /七言

    )、陳與義(五言

    /七言

    )等がそうである。

    83

    28

    25

    54

    31

    37

    ――宋詩(唐宋詩)のアンソロジーとして、今日、一定の評價をかちえている――選集二種

    の選錄狀況が示唆するように、前掲二則の指摘は、確かに印象批判の域を一歩も出るものでは

    ない。しかし、そこに些かの眞理も含まれていないかといえば、筆者はそうは考えない。

    古體と近體の特質を二項對立的に示せば、「擴散」(古體)對「集約」(近體)、「疏散」(古體)

    對「緊密」(近體)、「多樣」(古體)對「均質」(近體)等の對比が擧げられる。この對比を形成す

    る最も根本的な要因は、近體に求められる各種格律が、古體においては必須の成立要件となら

    ない、という一點に集約される。詩型として大きな自由度を擔保されているがゆえに、古體は

    近體に對し、より擴散的、疏散的、かつ多樣でありえるわけである。

    この樣な古體と近體の對比を考慮に入れつつ再檢討すると、前掲の、〈王黄〉=近體、蘇軾

    =古體という括り方にも、一定の合理性が生じてこよう。そこで、この問題をいま一歩踏み込

    んで考察してみたい。

    南宋の劉克莊は、元祐年間以後の詩風を總括して、次のようにいっている(『後村詩話』前集

    二)。

    元祐後、詩人迭起、一種則波瀾富而句律疏、一種則煅煉精而情性遠、要之不出蘇黄

    二體而已。

    劉克莊は、蘇詩のスタイルを「波瀾

    富みて

    句律

    疏なり」と形容しているが、これは右の對

    比に照らすと、正に古體の特徴そのものといってよい。劉克莊の評は、個別の詩型に卽した判

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 337

    斷ではないが、この認識は前掲の、蘇軾=古體という評價と軌を一にしている、と見なされよ

    う。確

    かに蘇詩の表現的特徴は、〈豪放〉や〈超曠〉、〈汪洋〉や〈縱逸〉等の評がしばしば加え

    られたように、内へ内へと集約してゆく指向性よりも、外へ外へと擴散してゆく指向性をより

    强く示しており、それを讀者に强烈に印象づける。したがって、そういう蘇詩の個性が、格律

    面で大きな自由度が擔保された古體において最もよく發揮されたというのは、理念的にも十分

    首肯されるものである。

    一方、黄庭堅詩のスタイルは、「煅煉

    精にして

    情性

    遠し」と形容されている。「情性遠」

    は結果として現れ出た缺點であるのでここでは論じないが、「煅煉精」という要素は、黄詩の

    表現スタンスの本質をよく言い表している。「煅煉精」とは、各種表現をより精緻に、より嚴

    密に運用するという基本姿勢であり、その指向性は、蘇詩の外向性とは正反對に、むしろ内へ

    内へと集約されてゆく傾向をもつ、といってよい。黄庭堅=律詩という認識は、彼が律詩の佳

    作をたくさんのこしたか否かという問題以前に、そういう彼の表現指向と密接に關わっている

    ように思われる。

    山谷與余詩云、「百葉湘桃苦惱人」。又云、「欲作短歌憑阿素、丁寧誇與落花風」。其

    後改「苦惱」作「觸撥」、改「歌」作「章」、改「丁寧」作「緩歌」。余以爲詩不厭多

    改。(『王直方詩話』)

    老杜云、「新詩改罷自長吟」。文字頻改、工夫自出。近世歐公作文、先貼於壁、時加

    竄定、有終篇不留一字者。魯直長年多改定前作、此可見大略。如「宗室挽詩」云、「天

    網恢中夏、賓筵禁列侯」。後乃改云、「屬擧左官律、不通宗室侯」。此工夫自不同矣。(呂

    本中『東萊呂紫薇詩話』)

    黄魯直詩「歸燕略無三月事、高蟬正用一枝鳴」。「用」字初曰「抱」、又改曰「占」、

    曰「在」、曰「帶」、曰「要」、至「用」字始定。予聞於錢伸仲大夫如此。今豫章所刻

    本、乃作「殘蟬猶占一枝鳴」。(洪邁『容齋續筆』八)

    右に掲げた三則は何れも、黄庭堅が詩の用字を苦心して〈煅煉〉した樣を傳えている。一方、

    蘇軾には、この種の逸話は絕えて少ない。〈萬斛泉源〉さながらに、言葉が次々と淀みなく沸

    き出づる樣を傳える逸話は數多く存するものの、措辭に苦慮する蘇軾の像を傳えたものは極め

    て稀である。

    そして、黄庭堅に見られるこの苦吟型の作詩スタンスは、王安石にまつわる以下の如き逸話

    と通い合っている。

    王荊公絕句云、「京口瓜洲一水間、鍾山祗隔數重山。春風又綠江南岸、明月何時照

    第十章 黄庭堅と王安石

  • 338

    我還」。呉中士人家藏其草、初云「又到江南岸」、圏去「到」字、注曰「不好」、改爲

    「過」、復圏去而改爲「入」、旋改爲「滿」、凡如是十許字、始定爲「綠」。(洪邁『容齋

    續筆』八)

    王荊公晩年詩律尤精嚴、造語用字、間不容髪。然意與言會、言隨意遣、渾然天成、

    殆不見有牽率排比處。如「含風鴨綠鱗鱗起、弄日鵝黄褭褭垂」、讀之初不覺有對偶。

    至「細數落花因坐久、緩尋芳草得歸遲」、但見舒閒容與之態耳。而字字細考之、若經

    櫽括權衡者、其用意亦深刻矣。嘗與葉致遠諸人和頭字韻詩、往返數四、其末篇有云、

    「名譽子眞矜谷口、事功新息困壺頭」。以谷口對壺頭、其精切如此。後數日、復取本

    追改云、「豈愛京師傳谷口、但知郷里勝壺頭」。至今集中兩本存。(葉夢得『石林詩話』上)

    王安石も、黄庭堅と同樣、措辭をより精緻かつ嚴密にという指向に强く傾くタイプの詩人で

    あった。王安石の對句における嚴格な典故の運用という特徴は、宋代詩話の多くが傳えるとこ

    ろでもある。

    荊公詩用法甚嚴、尤精於對偶。嘗云、用漢人語、止可以漢人語對、若參以異代語、

    便不相類。如「一水護田將綠去、兩山排闥送青來」之類、皆漢人語也。此法惟公用之

    不覺拘窘卑凡。如「周顒宅在阿蘭若、婁約身隨窣堵波」、皆以梵語對梵語、亦此意。

    嘗有人面稱公詩「自喜田園安五柳、但嫌尸祝擾庚桑」之句、以爲的對。公笑曰、「伊

    但知柳對桑爲的、然庚亦自是數」。蓋以十干數之也。(葉夢得『石林詩話』中)

    荊公詩及四六、法度甚嚴。湯進之丞相嘗云、「經對經、史對史、釋氏事對釋氏事、

    道家事對道家事」。此説甚然。(曾季貍『艇齋詩話』)

    以上のように、三者における表現スタンスという點に着目すると、擴散的=外向型か集約的

    =内向型か、という根本的な差異が浮かび上がってくる。この點において、〈蘇黄〉という關

    係性は分裂し、他方〈王黄〉という關係性が强固に結びつくのである。

    次に、四つの共通點の、③に關連して、三者の異同を述べる。前述の通り、三者は何れも陶

    淵明と杜甫を尊崇した。しかし、そのスタンスには一定の差異がある。とりわけ杜甫に對する

    スタンスに比較的顯著な相違が認められ、その結果、三者はまたしても蘇軾と〈王黄〉とに二

    分される。蘇軾の詩における杜甫は、〈王黄〉のそれに比べ、重要性が相對的に低い。

    むろん、蘇軾も杜甫を極めて高く評價し、「續麗人行并引」(『蘇軾詩集』一六)や「江月五首

    并引」(『蘇軾詩集』三九)のように、題材レベルで杜甫の詩を踏まえた作例ものこしている。ま

    た、杜詩に關する題跋も少なからず記してはいる(『蘇軾文集』六七に、十三篇收められている)。

    だが、彼の胸中に占めるウエイトは、陶淵明と比べるとずっと輕い。それは、蘇轍が傳える次

    の蘇軾自身のことばに端的に現れ出ている(蘇轍『欒城後集』二一、「子瞻和陶淵明詩集引」)。

    第十章 黄庭堅と王安石

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    吾於詩人、無所甚好、獨好淵明之詩。淵明作詩不多、然其詩質而實綺、癯而實腴。

    自曹・劉・鮑・謝・李・杜諸人皆及也。……然吾於淵明、豈獨好其詩也哉。如其爲人、

    實有感焉。淵明臨終、疏告儼等「吾少而窮苦、毎以家貧、東西遊走。性剛才拙、與物

    多忤、自量爲己必貽俗患、黽勉辭世、使汝等幼而飢寒」。淵明此語、蓋實錄也。吾今

    眞有此病、而不蚤自知、半生出仕、以犯世患、此所以深服淵明、欲以晩節師範其萬一

    也。

    周知の通り、蘇軾は晩年、嶺南において〈和陶詩〉を多數製作したが、それは單に陶淵明の

    詩を愛したためばかりではなく、彼を人生の師と仰ぐ姿勢に支えられていた。このように、晩

    年の蘇軾にとって、陶淵明は他詩人の追隨をゆるさぬ絕對的地位を占めていた。一方、杜甫に

    對しては、早年(四八歳)、

    若夫發於性止於忠孝者、其詩豈可同日而語哉。古今詩人衆矣、而杜子美爲首、豈非

    以其流落飢寒、終身不用、而一飯未嘗忘君也歟。(『蘇軾文集』一○、「王定國詩集敍」)

    と、忠君の詩人としての杜甫を稱揚してはいるが、杜甫の措辭や句法を全面的、系統的に模倣

    したり學習した形跡は確かな形では認められない。また、そもそも蘇軾は古人への共感を詩歌

    で表現する際、詩句の模倣という直接的な形態の私淑表現を餘り採らなかった詩人、といえる

    かもしれない。端的な例を擧げれば、〈和陶詩〉がそうである。〈和陶詩〉は、前掲、蘇轍の

    序文にあるように、蘇軾の陶淵明に對する敬慕が最も明確な形で表現された作品羣であるが、

    作品内容は陶淵明の詩句や句法をふんだんに用いたような模擬作では決してない。むしろ後世、

    陶淵明の原篇と似ていないことが批判の對象となっているくらいである。つまり、最も敬慕し

    た陶淵明の詩に對してさえ、蘇軾は次韻という手法を用いて、原篇とは異なる作品世界を構築

    したのであった(但し、詞においては〈櫽括〉という手法を用いて、原篇に相當忠實な改編作品を制作し

    ている)。

    他方、〈王黄〉にとって、杜甫は遙に重い意味を持っている。王安石も、「杜甫畫像」詩(李

    壁注一三)において、蘇軾と同樣に、忠臣としての杜甫を稱揚しているが、彼の場合はそこに

    止�