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1 この福音による救い(15.1-5) 15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに 伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに よって立ってきたあの福音を、思い起してもら いたい。15.2 もしあなたがたが、いたずらに信じ ないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固 く守っておれば、この福音によって救われるの である。 15.3 わたしが最も大事なこととしてあなたが たに伝えたのは、わたし自身も受けたことで あった。すなわちキリストが、聖書に書いてある とおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 15.4 そして葬られたこと、聖書に書いてあると おり、三日目によみがえったこと、15.5 ケパに 現れ、次に、十二人に現れたことである。 コリントの教会の乱れを、パウロは戒め、教え ました。そのため、第二の手紙には、それらの問 題は書かれておらず、良い方向に向かったの だと思われます。 ところで、それらの乱れを防ぐためには、正し い終末観を持って、今の生を生きることが大 事です。 パウロは、コリントからやって来た「 ステパナ とポルトナトとアカイコ」(16.17)から、コリントに生 じた、誤った終末思想を聞いたのでしょう。 コリントの異端は、「 キリストは死人の中から よみがえったのだと宣べ伝えられているのに、 あなたがたの中のある者が、死人の復活など はないと言っている」(12)というものです。 あからさまに、キリストの復活を否定しませ んが、「いたずらに信じていた」「パウロの宣べ伝 えたとおりの言葉を固く守ってはいなかったのです。 キリストの復活をよく理解しないで、 ぼんや りと受け入れ、実際、それを守るところまでは 至っていなかったのです。 それでパウロは、「 この福音によって救われ るために」、キリストの「死と復活」を、もう一度説 明いたします。 それは、あらかじめ聖書に預言されていた とおりの死であって、「私たちの罪のための死でした。これは、「私たちの罪の身代わり」という 意味で、「罪を除き去るために」(ヘブル 10.11)と ほぼ同じ意味です。 そして、「葬られた」―死刑囚の死としては、 異例の扱いを受けました。キリストは、墓に入り、 死者の仲間に入ったのでした。 コリントの人々は、異端によって、「 キリストに あって眠った者たちは、滅んでしまったのでは ないか」(18)、と「死人の復活」に疑いを抱くよう になっていました。 パウロは、「キリストも、あなたの心配している、 先に召されたクリスチャンたち同様に、墓に 入ったのだよ」と、励ましているのです。 そして、そこから、「 キリストは、死者と生者と の主となるために、死んで生き返られた」(ロー マ 14.9)事実に目を向けてほしいのです。 15.4 そして葬られたこと、聖書に書いてあると おり、三日目によみがえったこと、15.5 ケパに 現れ、次に、十二人に現れたことである。15.6 そ ののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現 れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、 大多数はいまなお生存している。15.7 そののち、 ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 15.8 そして最後に、いわば、月足らずに生れた ようなわたしにも、現れたのである。 パウロは、イエスさまの復活は信じる者たち の復活を保証するものである、と教えようとし ています。 そのために、まずは、「イエスさまは確かに復 活なさった」「たくさんの証人がいる」と、聖書ど おりに、父なる神様によって、イエスさまが「 みがえらされた」(直訳)現実を例証するので す。 最初の証人が、聖書に直接は書かれてい ませんが、11 人の使徒たちが「ほんとうに主は よみがえって、シモンにお姿を現された」(ルカ 24.34)と語っていた、ペテロがそうです。 マグダラのマリヤが、実際は、最初の復活の 証人なのですが、公的な証人という資格から すれば、使徒ペテロがふさわしかったわけで す。 それから、「 十二人」に現れますが、この「十 二人」というのは団体名で、実際は、復活の日 の夕べに、ユダとトマスを除いた、 十人に現れ ました(ルカ 24.33-43)。 五百人以上の兄弟たちへの顕現は、パウロ が知った情報で、福音書や使徒の働きにはみ あたりません。大事なのは、その大多数の証人 の中に、「すでに眠った者たちがいる」ことです。 原文は、「 大多数の者は生存しているが、 眠った者も幾人かいる」と、後者を強調してい るのです。 その後、主は昇天されました。それから、「 の兄弟」であったヤコブに現れました。また、「十 二人」とは異なる、バルナバなどを含む、大人 数の「使徒団」にも現れました。 コリント前書 15 章 15.1-58

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Page 1: この福音による救い (15.1-5)mikotobafukuin.holy.jp/1Corinthians_next/1Corinthians15.pdf · 1 (15.1-5) 15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに 伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに

1

この福音による救い(15.1-5)

15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに

伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに

よって立ってきたあの福音を、思い起してもら

いたい。15.2 もしあなたがたが、いたずらに信じ

ないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固

く守っておれば、この福音によって救われるの

である。

15.3 わたしが最も大事なこととしてあなたが

たに伝えたのは、わたし自身も受けたことで

あった。すなわちキリストが、聖書に書いてある

とおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

15.4 そして葬られたこと、聖書に書いてあると

おり、三日目によみがえったこと、15.5 ケパに

現れ、次に、十二人に現れたことである。

コリントの教会の乱れを、パウロは戒め、教え

ました。そのため、第二の手紙には、それらの問

題は書かれておらず、良い方向に向かったの

だと思われます。

ところで、それらの乱れを防ぐためには、正し

い終末観を持って、今の生を生きることが大

事です。

パウロは、コリントからやって来た「ステパナ

とポルトナトとアカイコ」(16.17)から、コリントに生

じた、誤った終末思想を聞いたのでしょう。

コリントの異端は、「キリストは死人の中から

よみがえったのだと宣べ伝えられているのに、

あなたがたの中のある者が、死人の復活など

はないと言っている」(12)というものです。

あからさまに、キリストの復活を否定しませ

んが、「いたずらに信じていた」「パウロの宣べ伝

えたとおりの言葉を固く守ってはいなかった」

のです。

キリストの復活をよく理解しないで、ぼんや

りと受け入れ、実際、それを守るところまでは

至っていなかったのです。

それでパウロは、「この福音によって救われ

るために」、キリストの「死と復活」を、もう一度説

明いたします。

それは、あらかじめ聖書に預言されていた

とおりの死であって、「私たちの罪のための死」

でした。これは、「私たちの罪の身代わり」という

意味で、「罪を除き去るために」(ヘブル 10.11)と

ほぼ同じ意味です。

そして、「葬られた」―死刑囚の死としては、

異例の扱いを受けました。キリストは、墓に入り、

死者の仲間に入ったのでした。

コリントの人々は、異端によって、「キリストに

あって眠った者たちは、滅んでしまったのでは

ないか」(18)、と「死人の復活」に疑いを抱くよう

になっていました。

パウロは、「キリストも、あなたの心配している、

先に召されたクリスチャンたち同様に、墓に

入ったのだよ」と、励ましているのです。

そして、そこから、「キリストは、死者と生者と

の主となるために、死んで生き返られた」(ロー

マ 14.9)事実に目を向けてほしいのです。

15.4 そして葬られたこと、聖書に書いてあると

おり、三日目によみがえったこと、15.5 ケパに

現れ、次に、十二人に現れたことである。15.6 そ

ののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現

れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、

大多数はいまなお生存している。15.7 そののち、

ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、

15.8 そして最後に、いわば、月足らずに生れた

ようなわたしにも、現れたのである。

パウロは、イエスさまの復活は信じる者たち

の復活を保証するものである、と教えようとし

ています。

そのために、まずは、「イエスさまは確かに復

活なさった」「たくさんの証人がいる」と、聖書ど

おりに、父なる神様によって、イエスさまが「よ

みがえらされた」(直訳)現実を例証するので

す。

最初の証人が、聖書に直接は書かれてい

ませんが、11 人の使徒たちが「ほんとうに主は

よみがえって、シモンにお姿を現された」(ルカ

24.34)と語っていた、ペテロがそうです。

マグダラのマリヤが、実際は、最初の復活の

証人なのですが、公的な証人という資格から

すれば、使徒ペテロがふさわしかったわけで

す。

それから、「十二人」に現れますが、この「十

二人」というのは団体名で、実際は、復活の日

の夕べに、ユダとトマスを除いた、十人に現れ

ました(ルカ 24.33-43)。

五百人以上の兄弟たちへの顕現は、パウロ

が知った情報で、福音書や使徒の働きにはみ

あたりません。大事なのは、その大多数の証人

の中に、「すでに眠った者たちがいる」ことです。

原文は、「大多数の者は生存しているが、

眠った者も幾人かいる」と、後者を強調してい

るのです。

その後、主は昇天されました。それから、「主

の兄弟」であったヤコブに現れました。また、「十

二人」とは異なる、バルナバなどを含む、大人

数の「使徒団」にも現れました。

コリント前書 15章

15.1-58

Page 2: この福音による救い (15.1-5)mikotobafukuin.holy.jp/1Corinthians_next/1Corinthians15.pdf · 1 (15.1-5) 15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに 伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに

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神の恵みによって(15.8-11)

シラスやテモテも、この使徒団に含まれま

すが、彼ら「すべての使徒たち」に、主は現れ

た―これも、パウロ独自の情報です。

そして、最後に、パウロ自身に、ダマスコに向

かう途上で現われてくださいました。

「現われる」はホラオーの受身形で、イエス

さまが主権的に、「御自分を見られるようにな

さった」意味です。そうなさったのは、パウロが

最後でした。

このように、イエスさまがリアルに、御自分の

生きておられることを見せてくださったので

すから、私たちは知っています―「主は今、生き

ておられる」―その時に、「すでに眠った者」が

何人いようと、よみがえりの力は、私たちととも

にあるのです。

15.8 そして最後に、いわば、月足らずに生れた

ようなわたしにも、現れたのである。15.9実際わ

たしは、神の教会を迫害したのであるから、使

徒たちの中でいちばん小さい者であって、使

徒と呼ばれる値うちのない者である。15.10 し

かし、神の恵みによって、わたしは今日あるを

得ているのである。そして、わたしに賜わった神

の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの

中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、

わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の

恵みである。

15.11 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのよ

うに、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、

あなたがたは信じたのである。

「主はよみがえられた」と告白しても、「では、

あなたもよみがえるのですね?」と尋ねると、

「いや、私は死んだら無になる。骨は海にでも捨

ててくれ。」などと言う、ちぐはぐなクリスチャン

が、日本にはけっこういます。

それは、コリントの教会に入り込んだ、「キリス

トは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝

えられているのに、あなたがたの中のある者が、

死人の復活などはないと言っている」という異

端と同じです。

それで、最初に聞いた福音をしっかり信ぜ

よ、何を信じたのか、福音を守って救われよ―

とパウロは戒めているのです。

キリストが、私たちの罪の身代わりに死なれ、

葬られ、確かによみがえったという福音の証

人は、ペテロ、「かの十二人」「五百人の兄弟た

ち」「主の兄弟ヤコブ」と、おおぜいいます。

その中でも、特にパウロは、「使徒たちの中で

いちばん小さい者」「使徒と呼ばれる値うちの

ない者」―使徒たちの中では、生きる資格も

ないような、「月足らずに生れたような」―つま

り、「教会の迫害者」―だったのに、生きることを

許され、証人とされているのです。

これは「神の恵み」としか言いようのない、筋

の通らないことです。死に値するようなパウロ

が、「今日あるを得ている」 (直訳「あってある

者」)のは、「わたしはある」とおっしゃった、神様の

大きな恵みによるのです。

その証拠に、パウロは、「他の使徒たち全員

を合わせた以上の働き」を許されました。傲慢

に聞こえますか?いいえ、神の敵を使徒に変え

てくださった、神様への当然の賛辞です。それ

ほどに、大いなる「神の恵み」なのです。

だとすれば、これほどに大きな恵みを与え

たもう神様が、「あなたをよみがえらせる」こと

など、あまりに易しいことだとは思いませんか?

これは、わたし(パウロ)にしろ、彼ら(使徒たち)

にしろ、共通して宣べ伝えて来たことなのです。

その福音を信じているならば、「死人の復活な

どはない」などという、福音に反するような異端

は生まれて来ないはずです。

死者の中からキリストをよみがえらせた、神

様の大きな恵みは、必ず、私たちをも、よみが

えらせてくださいます。

15.12さて、キリストは死人の中からよみがえっ

たのだと宣べ伝えられているのに、あなたがた

の中のある者が、死人の復活などはないと

言っているのは、どうしたことか。15.13 もし死人

の復活がないならば、キリストもよみがえらな

かったであろう。15.14 もしキリストがよみがえ

らなかったとしたら、わたしたちの宣教はむな

しく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15.15

すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえ

なるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえら

ないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえ

らせなかったはずのキリストを、よみがえらせ

たと言って、神に反するあかしを立てたことに

なるからである。

15.16 もし死人がよみがえらないなら、キリスト

もよみがえらなかったであろう。15.17 もしキリ

ストがよみがえらなかったとすれば、あなたが

たの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、

いまなお罪の中にいることになろう。15.18 そう

だとすると、キリストにあって眠った者たちは、

滅んでしまったのである。

15.19もしわたしたちが、この世の生活でキリス

トにあって単なる望みをいだいているだけだと

すれば、わたしたちは、すべての人の中で最も

あわれむべき存在となる。

「死人の復活」とは、「キリストを信じる者の復

活」のことです。「死んだ人間が生き返るか」な

んて一般論に、私たちは全く関心がありませ

ん。

あくまでも、キリストを信じ、罪赦された者に

与えられた福音として、「キリストにあってよみ

がえる」約束をいただいています。キリストは、

「信じる者をよみがえらせるために」復活な

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3

眠る者の初穂として(15.20-22)

さったのです。それが「キリストの復活」という、

使徒たちの宣教内容でした。

そのように、「死人の復活などはない」という

のは、キリストの福音の全否定です。そう言う

者は、そう言うことによって、「神様に反逆して

いる」というのが、パウロの論です。

キリストの復活は、「クリスチャンの復活のた

めに必要だった」のですが、それを否定するこ

とは、不必要な「キリストの復活」を語っている

からです。

いったい「キリストが復活した」と告白して、そ

の人たちに、何の益があるのでしょうか。ほんと

うに、空しい戯言です。

偽りを言う者は、神様に罰せられるしかあり

ません。「私は復活することを告白せずに、キリ

ストは復活したと告白する」空しい信仰は、空

しいクリスチャン生活となります。

嘘を信じて生きている人ほど、憐れな人た

ちはおりません。死んだクリスチャンは滅び、ク

リスチャンの復活を信じない人は、「罪赦され

ない」ことになります。

15.20 しかし事実、キリストは眠っている者の初

穂として、死人の中からよみがえったのである。

15.21 それは、死がひとりの人によってきたの

だから、死人の復活もまた、ひとりの人によっ

てこなければならない。15.22 アダムにあってす

べての人が死んでいるのと同じように、キリス

トにあってすべての人が生かされるのである。

「初穂」(アパルゲー)は、いけにえを供える前

に、髪の毛を切って火の中に投じることを表わ

す言葉でした。そこから、「何かの一部を切り

取ってささげる」意味となります。

旧約聖書では、麦の収穫の最初の束 (出

23.19)、作物の収穫の産物の初物(申 26.2)を意

味しました。つまり、最初の良きものを、神様に

ささげたのでした。

過越の祭りでは、最初の安息日の翌日に、

「初穂の束」(レビ 23.11)をささげることになって

いました。それはちょうど、キリストの復活の日

曜日だったのです。

この日曜日は、「束の祭り」(ドラグマ)と呼ば

れ、この初穂の束は、ユダヤと全人類の土地の

初穂であって、それをささげるユダヤ人は、全

世界の祭司なのだ、と考えられていました。

キリストが、全世界の祭司として、日曜日に

よみがえられたことは、素晴らしき初穂であっ

たのです。

「初穂」は、「続く穂と同じものが、最初に実っ

たもの」でした。キリストが復活されたのが「初

穂」とするならば、続いて次々と、死人の復活が

起きて来る、ということでした。

キリスト以前にも、「死人のよみがえり」はあり

ましたが、それは単に「生き返った」に過ぎず、

「キリストのよみがえり」のような性格―霊的な

変化や永遠性―は持っていませんでした。で

すから、キリストが初穂なのでした。

この「初穂」は、「聖霊の内在」という保証付で

した。「もしイエスを死者の中からよみがえら

せた方の御霊が、あなたがたのうちに住んで

おられるなら、キリスト・イエスを死者の中から

よみがえらせた方は、あなたがたのうちに住

んでおられる御霊によって、あなたがたの死

ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

(ローマ 8.11)

ですから、私たちは「御霊の実」としての「愛

の品性」を養うことは大事ですが、その「御霊の

最初の実」(むしろ「御霊という初穂」)をいただ

いた時点で、「からだのあがなわれること(復

活)を待ち望む」(23)ようになっています。

この初穂という御霊は、「手付金」(Ⅱコリント

1.22)と言い換えられています。もう、復活の手

付けは、支払らわれているのです。

また、「眠っている者の初穂として、死人の中

からよみがえった」というのは、この「初穂」には、

「他の眠っている穂をよみがえらせる力があ

る」ことを示しています。

キリストは「いのちの君」(使徒 3.15)として、続

く私たちを、よみがえらせてくださいます。

「死がひとりの人によって来た」というのは、

「アダムの堕落が、全人類の死の原因だ」とす

るもので、当時のユダヤ人の常識であったこと

が、外典でも明らかです。

「死」そのものは、人は、「朽ちるものでまかれ

る」(15.42)のですから、人間の生物学的な定め

でした。

けれども、人にとって「死」というものは、「罪に

対する神様の刑罰」という意味が加わってい

るので、恐怖となっています。それはまさに「の

ろわれたもの」(創世記 1.17)だったのです。

それで、この「のろわれた死」からの解放者

が、やって来なければなりませんでした。

原文は、「人間を介して死があるので、人間

を介して、死者の復活もある」ということです。

アダムによって、「人間性の呪い」があるよう

に、キリストによって、「人間性の祝福」もあるの

です。

人間性が祝福されるために、キリストは人

とならなければならなかったのでした。罪に死

んで、義によみがえらなければならなかったの

です。

22 節では、「アダムによって」「キリストによっ

て」という言い方から、「アダムにあって」「キリス

トにあって」という言い方に変化しています。原

因ではなく、今、だれに結びついているか、とい

う一体性の問題です。

Page 4: この福音による救い (15.1-5)mikotobafukuin.holy.jp/1Corinthians_next/1Corinthians15.pdf · 1 (15.1-5) 15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに 伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに

4

主の再臨の時に(15.23-24)

もし、私たちが「アダムと一体ならば」―生ま

れながらの人間は、みなそうです―神様のの

ろいのもとにあるのです。

しかし、私たちが今、「キリストと一体なら

ば」―キリストを受け入れた者はみなそうです

が―神様の祝福のもとにあるのです。

「キリストにあってすべての人が生かされ

る」というのは、キリストを信じ、キリストに従う者

は、みな「キリストのいのちと一体になっている」、

ということです。

イエスさまは、御自分の教えを、善悪の基

準となさって、「善を行った者は、よみがえって

いのちを受け、悪を行った者は、よみがえって

さばきを受けるのです」(ヨハネ 5.29)とおっしゃ

いました。

善人も悪人も復活するという「二重の復活」

の教えです。

しかしパウロは、ダニエルが、「地のちりの中

に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。

ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永

遠の忌みに。」(12.2)と語った、「さばかれるため

の復活」の話はせずに、ひたすら「キリストにあっ

て眠る人たちの復活」を語るのです。

悪人の死を喜ばず、神様を信じる者への慰

めを、ひたすら語りたいからです。

15.23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わね

ばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に

際してキリストに属する者たち、15.24 それから

終末となって、その時に、キリストはすべての君

たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、

国を父なる神に渡されるのである。

「キリストにあって眠った者たちは、滅んでし

まった」という過ちに対して、パウロは、キリスト

は初穂であり、キリストに結びつく者は、「すべ

て生かされる」のだけれど、それには「順序」が

あると説明します。

この「順序」と訳された言葉「タグマ」は、「時

間的な」順序ではなく、秩序を表わす軍隊用

語で、「順位」を表わします。

パウロは、すでにテサロニケの教会に、「主が

再び来られるときまで生き残っている私たち

が、死んでいる人々に優先するようなことは決

してありません。」「キリストにある死者が、まず

初めによみがえり、次に、生き残っている私た

ちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙

に引き上げられ、空中で主と会う」(Ⅰテサロニ

ケ 4.15,16-17)と語って、まず「眠った者」、次に

「生きている者」という順位が、復活の時に守ら

れる、と説いています。

「まずキリスト」「次に再臨時にキリストに属し

ていた者たち」という順位があるように、「キリス

トにある死者」「次に生き残っているキリスト者」

という順位があります。

その「第一の復活」の後に、「終末」―キリスト

が、「すべての君たち、すべての権威と権力と

を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される」―

千年王国が続きます(黙 20章)。

「千年王国思想」(キリアニズム)は、「教会の

時代と艱難の時代の後、キリストが再臨し、キ

リストにある死者はよみがえって、地上でキリ

ストと千年の間支配する」「千年期が終わると、

残りの全人類が復活し、最後の審判、終末が

やって来る」とするものです。

千年王国思想は、異端の烙印を押されて

来ましたが、日本のキリスト教の多くが信じて

います。19 世紀のアメリカで生まれた異端―

モルモン教、セブンスデーアドベンチスト、物

見の塔―が主張したために、怪しげなものと

なりましたが、そのものは異端とは言えません。

15.25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足

もとに置く時までは、支配を続けることになっ

ているからである。15.26 最後の敵として滅ぼ

されるのが、死である。15.27「神は万物を彼の

足もとに従わせた」からである。ところが、万物

を従わせたと言われる時、万物を従わせたか

たがそれに含まれていないことは、明らかであ

る。15.28 そして、万物が神に従う時には、御子

自身もまた、万物を従わせたそのかたに従う

であろう。それは、神がすべての者にあって、す

べてとなられるためである。

キリストは、すべての力ある敵を滅ぼし、最

後の敵である「死」さえも滅ぼして、再臨の時

には、キリストの王国を「父なる神様に渡され

る」ことになっていました。

「あらゆる敵をその足もとに置く時まで」(詩

篇 110.1)と「神は万物を彼の足もとに従わせ

た」(詩篇 8.6)という2つの聖句が引用されてい

て、キリストの敵と「死」を滅ぼし尽くした時に、

キリストの働きは完成します。

すでに、十字架の死と復活によって、死は滅

ぼされ、万物もキリストの足もとに従っていま

すが、それは完全な形ではありません。完全な

勝利は、最後の審判の時まで待つことになり

ます。

「ところが、万物を従わせたと言われる時、

万物を従わせたかたがそれに含まれていな

いことは、明らかである」とあるのは、キリストが

万物を従えたと言っても、父なる神様は、その

従えたものの中に入っていない、という補足説

明です。あくまでも、被造物を従えたのです。

Page 5: この福音による救い (15.1-5)mikotobafukuin.holy.jp/1Corinthians_next/1Corinthians15.pdf · 1 (15.1-5) 15.1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに 伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それに

5

目覚めて身を正せ(15.29-34)

「万物が神に従う時には、御子自身もまた、

万物を従わせたそのかたに従うであろう」―

これは、御父と御子の主従関係を言っている

のではなく、キリストと教会が勝利する再臨の

日には、キリストの役目は終わり、ひとりの神様

となる、という意味です。

「神がすべての者にあって、すべてとなられ

るため」―救いが完成したら「救い主の役割」

も終わるのです。このように、キリストの救いに

は、ちゃんとした順位が定められています。

15.29 そうでないとすれば、死者のためにバプ

テスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろ

うか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、

なぜ人々が死者のためにバプテスマを受ける

のか。15.30 また、なんのために、わたしたちはい

つも危険を冒しているのか。

15.31兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエ

スにあって、わたしがあなたがたにつき持って

いる誇にかけて言うが、わたしは日々死んでい

るのである。15.32 もし、わたしが人間の考えに

よってエペソで獣と戦ったとすれば、それはな

んの役に立つのか。もし死人がよみがえらな

いのなら、「わたしたちは飲み食いしようではな

いか。あすもわからぬいのちなのだ」。

15.33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良

いならわしをそこなう」。15.34 目ざめて身を正

し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたの

うちには、神について無知な人々がいる。あな

たがたをはずかしめるために、わたしはこう言

うのだ。

29節から 33節までは、よく意味がわからな

い箇所です。ペテロが、「その手紙の中には理

解しにくいところもあります」(Ⅱペテロ 3.16)と

言っているのは、このような箇所でしょう。「死者

のためのバプテスマ」が、何を意味するのか、

私たちにはわかっていません。

パウロが「エペソで獣と戦った」というのも、

使徒の働きの記録にないので、何のことかわ

かりません。それが「人間の考えによって」とい

うのも、意味不明です。また、「悪い交わりは、良

いならわしをそこなう」というのは、格言のよう

ですが、出所不明です。

当時の状況がわからないにしても、パウロが

言いたいのは、死者の復活がなければ、「わたし

たちは飲み食いしようではないか。あすもわか

らぬいのちなのだ」といった、刹那的な生き方

しかできないことです。

そこでパウロは、「死者の復活」を信じて、「目

ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい」

と、目覚めた生き方を勧めているのです。

「目ざめる」とは、飲み過ぎた酔っ払いが、酔

いがさめ、正気を取り戻すことです。というのは、

「復活がない」なとどいうのは、「神についての無

知」に過ぎず、酔っ払ったような人生から提供

できないからです。

私たちは、死者の復活を信じる―それは、

「目ざめて生きる」ためには、必要不可欠なこと

だからです。

15.35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふう

にして、死人がよみがえるのか。どんなからだ

をして来るのか」。

15.36 おろかな人である。あなたのまくものは、

死ななければ、生かされないではないか。

15.37 また、あなたのまくのは、やがて成るべき

からだをまくのではない。麦であっても、ほかの

種であっても、ただの種粒にすぎない。15.38 と

ころが、神はみこころのままに、これにからだを

与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだ

をお与えになる。

15.39すべての肉が、同じ肉なのではない。人の

肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉

がある。15.40 天に属するからだもあれば、地に

属するからだもある。天に属するものの栄光は、

地に属するものの栄光と違っている。15.41 日

の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光があ

る。また、この星とあの星との間に、栄光の差が

ある。

残る反論は、「イメージしにくい」というもので

す。

ギリシア人は、人間は「悪い肉体と、きよい霊

魂からなっている」と信じ、死んだ後に、霊魂は

永遠に生きると信じたので、肉体の復活の必

要は感じませんでした。

また「霊体」のような、物質的な霊も信じまし

た。一方、ユダヤ人は、ゾンビのように墓から死

体が復活し、終わりの日に栄光の変化が起き

るものと考えていました(バルク書)。

それでパウロは、ていねいに、今の肉体と復

活の肉体の同一性と、決定的な違いとを説明

します。

今のからだを、何かの種とするならば、その

種は、蒔かれて死んだように見えた後、何か

の草や木となって根生え、成長します。種の時

には、麦の種も、りんごの種も、小さな種粒にす

ぎませんが、復活のからだは、全く別のからだ

となります。

しかし、麦は麦、りんごはりんごなのです。そし

て、復活のからだを与えるのは、神様のみここ

ろなのです。

35 節以降は、復活の時にはたくさんの「栄

光のからだがある」という例です。

「天に属するからだ」とは「天体」のことです。

今は獣や鳥のようでも、復活の時には日や月

のようかも知れない…そのように、栄光のから

だがあります。

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天に属するかたち(15.42-49)

15.42 死人の復活も、また同様である。朽ちる

ものでまかれ、朽ちないものによみがえり、

15.43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによ

みがえり、弱いものでまかれ、強いものによみ

がえり、15.44 肉のからだでまかれ、霊のから

だによみがえるのである。肉のからだがあるの

だから、霊のからだもあるわけである。

15.45 聖書に「最初の人アダムは生きたものと

なった」と書いてあるとおりである。しかし最後

のアダムは命を与える霊となった。

15.46 最初にあったのは、霊のものではなく肉

のものであって、その後に霊のものが来るので

ある。

15.47 第一の人は地から出て土に属し、第二

の人は天から来る。15.48 この土に属する人に、

土に属している人々は等しく、この天に属する

人に、天に属している人々は等しいのである。

15.49 すなわち、わたしたちは、土に属している

形をとっているのと同様に、また天に属してい

る形をとるであろう。

私たちの地上のからだは、誕生から死まで、

「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」「肉のもの」

という、不完全なものでした。最初のアダムか

ら、そう造られていたのです。

アダムは、いのちの木から食べて、永遠を生

きる変化を得なければ、「死ぬもの」(53)だった

のです。

「肉のからだ」(44)と訳された「ソーマ・プシュ

キオン」は、生物学的な命を指す言葉ですが、

「霊のからだ」と訳された「ソーマ・プニューマテ

ィコン」は、「聖霊のからだ」を意味するものです。

それは、キリストが昇天され、聖霊を送って

くださって、いや、キリストご自身が、「いのちを

与える霊となって」(45)、私たちのうちに内在し

てくださって、初めて実現したものでした。

しかも、今の「肉のからだ」の中に、聖霊様が

住むのに、今は大変に不自由ですから、復活

の時に、ほんとうに聖霊が住みやすい、「聖霊の

からだ」が与えられるのです。

キリストが、「与えたいと思う者にいのちを与

える」(ヨハネ 5.21)ことがおできになるのは、「父

が、子のうちにいのちを持つようにしてくださっ

た」(26)からです。

キリストは、その「いのちの御霊」(Ⅱコリント 3.6)

となってくださって、新しい「聖霊のからだ」をく

ださいます。

それは、「栄光のキリストの似姿」(ローマ 8.29)

としか、私たちにはわかっていませんが、優れ

た完全なもの、であることは確かなのです。

15.50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。

肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽

ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

15.51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わ

たしたちすべては、眠り続けるのではない。終り

のラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にし

て変えられる。15.52というのは、ラッパが響いて、

死人は朽ちない者によみがえらされ、わたし

たちは変えられるのである。

15.53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちな

いものを着、この死ぬものは必ず死なないもの

を着ることになるからである。

復活後、私たちは「天に属する形」をとります。

なぜ、今「地に属する形」をとっている私たちが、

復活後、「天に属する形」に形を変えなければ

ならないのか?

そのままでは「神の国を継ぐことができな

い」―そのからだの性格上、神の国に適してい

ないのです。

「肉と血」といった場合の「肉」は、御霊に反す

る、罪の「肉」の意味ではないので、罪のままで

は御国に入れない、とここで言いたいのではあ

りません。

キリストもまた「肉と血を持たれた」(ヘブル

2.14)とあるように、この「肉」とは、「人性を取られ

た」意味です。創造されたままの人間性は、朽

ちるものであって、「神の国」には適しないので

す。

「肉のからだ」ではない、「聖霊のからだ」を示

すために、パウロに啓示された「奥義」が告げら

れます。

「終わりのラッパ」は、神様の戦いの終戦を告

げるラッパで、その時には、「最後の敵である死

が滅ぼされる」(26)のでした。

その時、「わたしたちすべては、眠り続けるの

ではない。…変えられる。」―文字どおりには、

「みなが眠るのではない。…しかし、みなが変え

られるのだ。」です。

死んだ者は復活するけれど、「生きている者

は、その時に、復活のからだに変容するのだ」と

教えられているのです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神の

ラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来

られます。それからキリストにある死者が、まず

初めによみがえり、次に、生き残っている私た

ちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙

に引き上げられ、空中で主と会うのです。この

ようにして、私たちは、いつまでも主とともにい

ることになります。」(Ⅰテサロニケ 4.16-17)

すでに教えられていたところでした。「私た

ち」とは、パウロたちのことではなく、再臨の時に

生きているクリスチャンたちのことです。

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堅く立って動かされるな(15.54-58)

再臨の時に、生きていようと、死んでいようと、

キリストを信じる者たちは必ずよみがえって、

「朽ちないもの」「死なないもの」というからだを

与えられ、それを着るようにして、神の国に

入って行くことです。

15.54 この朽ちるものが朽ちないものを着、こ

の死ぬものが死なないものを着るとき、聖書

に書いてある言葉が成就するのである。

15.55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おま

えの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのと

げは、どこにあるのか」。15.56 死のとげは罪であ

る。罪の力は律法である。

15.57 しかし感謝すべきことには、神はわたした

ちの主イエス・キリストによって、わたしたちに

勝利を賜わったのである。

15.58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動

かされず、いつも全力を注いで主のわざに励

みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦が

むだになることはないと、あなたがたは知って

いるからである。

「復活の時」、私たち「朽ちるもの」は、「朽ちな

いもの」を着るのです。私たち「死ぬもの」は、「死

なないもの」を着るのです。

そのような「聖霊のからだ」をいただくのです。

その時こそ、聖書に書いてある「勝利の時」なの

だと、パウロは説明しています(イザヤ 25.8,ホセ

ア 13.14)。

後半のホセアの引用は、パロディで、反対の

ことを言っています。

罪深いエフライムに、「あなたは、死からも、陰

府からも救われない」と警告する聖句を、「あな

たは、死の勝利からも、死のとげからも救われ

る」と変えて、それを「神の言葉」として、パウロは

取り次いでいるのです。

さて、いったい人間の歴史の中に、どのよう

にして「死」が入り込んだのでしょうか。

「死」そのものは自然なものでしたが、それが

「とげ」となったのは、「罪」によるのだというのが、

パウロの教えでした(ローマ 5.12)。

そして、その「罪」に、死をとげとして科したの

は、「律法」でした。律法がなければ、悪は「罪」と

して定められず、その刑罰も求められなかった

のです(ローマ 4.15)。

それで、キリストは、この「律法」を満たすため

に来られました。律法を正しく全うし、その律法

が罪人に要求する「死」を贖ってくださったの

で、「罪の力」が失われ、「死のとげ」も抜け落ち

たのでした。

そのキリストの勝利は、私たちに今「賜わっ

ている」(現在形)なので、私たちも今、律法を全

うしながら、死のとげを抜いているところです。

私たちの死者の「復活」と、残れる者の「変

貌」によって、キリストの救いの御業が、最終的

に完成するのです。

それで、「堅固な者、不動の者となれ」(原文)

と、命じられているのです。

コリントの教会の人たちの中には、復活を信

ぜず、悪い交わりに染まって、ふらふらしている

人たちがいましたから、福音の基礎に立って、

それこそ「全力で」、主のわざに励め、というので

す。