三枚の鏡 - buddhismbuddhism.ne.jp/beginners/downloads/16mirrors.pdfcopyright(c) buddhism all...
TRANSCRIPT
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved.
Buddhism All-Japan Network
三枚の鏡 仏教の生きる意味を現代へ 通信コース[初級]⑯
この通信コースは、2600 年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で
体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より
も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 1
著作権について 本教材は著作権法で保護されている著作物です。 本教材の著作権、その他あらゆる権利は、Buddhism All-Japan Network に属します。 著作権者の書面による事前許可なくして、本教材(テキスト、動画含)の一部または全部をあらゆるデータ
蓄積手段(印刷物、DVD、電子ファイル、CD、テープレコーダー、ビデオ、インターネットサーバー等)に
より、複製、流用、転載、翻訳、販売(オークション含む)することを禁止します。
使用許諾契約書
以下は、あなた(以下、甲と称す)と Buddhism All-Japan Network(以下、乙と称す)との契約となり
ます。本教材を開くことをもって、甲は本契約に同意したとみなされます。
第1条本契約の目的
本契約は、乙が著作権を有する本教材に含まれる情報を、本契約に基づき甲が非独占的に 使用する権利を許諾するものです。
第2条一般公開の禁止
本教材に含まれるあらゆるコンテンツは、著作権法によって保護されています。 甲は、本教材から得たコンテンツを、乙の書面による事前許可なくして、各種媒体(電子メディア等
の配信を含む)により公開、並びに転売してはならないものとします。そのようなことをせずとも、希
望者は以下のサイトで乙が正規に公開している本教材を入手することができます。
http://buddhism.ne.jp/
第3条契約解除
甲が本契約に違反したと乙が判断した場合、甲に何の通告もなく、本契約を解除することが できるものとします。
第4条損害賠償
甲が本契約第2条に違反した場合、本契約の解除に関わらず、甲は乙に対しその違約金として 違反件数と基準額を乗じたものの10倍の金額を支払うものとします。またインターネット等で公開
した場合は一律、基準額に700を乗じた金額を支払うものとします。
第5条責任の範囲
本教材に含まれるコンテンツの使用の一切の責任は甲にあり、このコンテンツを使用して 発生した損害に関して、乙は一切の責任を負わないものとします。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 2
通信コース⑯
三枚の鏡 今回から新シリーズです。
18回までの3回で、
仏教に説かれる真実の自己について学びます。
今まで5回にわたって学んできました因果の道理が知らされ、
廃悪修善を心がけて実行すると、
知らされてくることがあるのです。
ではさっそく学んでいきましょう。
今回は「三枚の鏡」です。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 3
あなたは誰?
哲学の入門書としてベストセラーとなった
「ソフィーの世界」という本があります。
その一番最初が、
「あなたは誰?」という質問です。
ソフィーはごく普通の 14 歳の女の子。
しかしある日、不思議な手紙を受け取る。
「あなたはだれ?」
ソフィーはこの質問に対して色々考えます。
「今、私はこの世界にいる。
でもいつかある日、私は消えてしまう。
死後の生はあるのだろうか」
この問いも、猫にはさっぱり分からない。
そして、
「人は、いつかは必ず死ぬということを思い知らなければ
生きているということを実感することもできない」
とソフィーは考えます。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 4
自分はどういうものか分からなければ、
自分は何のために生きているのか
も分からないということです。
生きる意味を知る上で、
自分は誰なのかを知ることが、
とても大切なのです。
病気を治療する時も、まず診断が非常に重要です。
例えば腹痛がして、食欲がなくなって、熱が出たとします。
どうしたら、治るだろうかと、
これを素人判断で、診断したとします。
まず腹痛に対しては、痛み止め。
食欲がないなら、逆に、絶食して食欲をかき消す。
発熱に対しては、熱さまシートで対処。
すると、一時的には症状が治まるのですが、
やがてもっとひどい症状が襲ってきます。
食べ過ぎや胃潰瘍くらいならいいかもしれませんが、
もしこれが盲腸だったら、末期癌だったら、全部意味がありません。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 5
肛門に目薬ということわざがありますが、
正しい診断がないと、適切な治療ができないのです。
ですから、私たちが何のために生きているのかと、
苦しみ悩みの原因を解決して、
本当の幸せになりたいと思った時にも、
まず自分は一体どんなものなのか
本当の自分を知ることが、非常に重要なのです。
では本当の自分とは? たいていの人は、
「自分のことは自分が一番よく分かっている」
と思っていますが、
という歌があります。
分かっているようで、一番分からないのが自分自身だ
ということです。
「灯台もと暗し」
ということわざもありますが、
知るとのみ思いながらに何よりも知られぬものは己なりけり
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 6
はるか遠くまで照らす灯台も、
灯台自身の足もとはまっ暗です。
本来は、海にある灯台ではなくて、
昔の部屋にある、灯火を灯した台のことですが、
現在では、そんな灯火はなくなり、岬にある灯台かと思われています。
どちらにせよ、遠くの方は分かるけれども、足もとは分からない。
他人のことは分かるけれども
自分自身のことは分からないという時に、
「灯台もと暗し」と使われます。
サイクンボ(蔡君謨)
中国の有名な政治家に、サイクンボという人がいます。
この人は、政治家として有名なのではありません。
長さは、五丈六尺といわれる立派なひげを蓄えていたのです。
当時宰相だったので、
今日の日本でいえば、首相にあたります。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 7
だから、その国の政治については、当時一番分かっていたのです。
ある日、国の天子は、素朴な疑問が浮かび、
サイクンボに尋ねました。
「サイクンボよ、そなたは大変立派な髭をはやしているが
夜寝る時は、どのようにしているのか」
サイクンボは、ふと考えて見ると、
そういえば、一体どうやって寝ていたのか分からない。
確かに、よく冷蔵庫まで行くと、
「あれ?一体何をしにきたのかな?」
ど忘れします。
そんな時は、また元の場所へ戻って
もう一回冷蔵庫をあけてみると分かることがあります。
ちょうどそのようにサイクンボも、
天子様にいい加減なことは答えられません。
「一回家へ帰って寝てみますので
少々お待ち頂けないでしょうか」
と願い出て、さっそく家へ帰って寝てみたそうです。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 8
ところがサイクンボは、髭を、布団の中に入れて寝てみると、
どうも、あごのあたりが圧迫されているみたいで寝苦しい。
そこで、今度は布団の上に髭をばっと広げて寝てみると
なぜか、アゴの下がいつもよりスースーして、
こんなはずではない。
また髭をたぐり寄せて布団の中に入れてみる。
するとやっぱりあごが圧迫されている。
……???
サイクンボは訳が分からなくなり、
一晩中、出したり、入れたり、
入れたり、出したりを繰り返したそうですが、
とうとう分からなかったそうです。
翌朝、サイクンボは、
「一晩中考えたんですが、とうとう分かりませんでした」
天子に報告すると、
「サイクンボよ、そなたは、この国の政治にかけては、
一番詳しいが、自分自身には、くらいのお」
と天子は言ったそうです。
その国一番の政治家ですので、政治のことは当然、
その国で一番、分かっていた。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 9
それが毎日やっている自分自身のことになると
分からなくなってしまう。
分かっているようで分からないのが、
自分自身だということです。
なくて七癖 「なくて七癖 あって四十八癖」ということわざがあります。
くせのなさそうな人でも、七つ位はあるのだ。
「あって四十八癖」
ある人は、ものすごくくせがあるということです。
ではあなたは自分にどんなくせがあるか分かりますか?
と聞かれたらどうでしょう。
「あれ?自分にくせなんかあったかな?」
と思います。
ではあの人のくせは?
と聞かれると
「あの人は、酔うと笑い出すし」
「嘘ついた時には、眉がぴくぴくしてるし」
人のくせなら分かるんですが、自分のくせを聞かれると
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 10
「自分はそんなにくせあったかな?標準的な人間だと思ってます」
と分からなくなります。
自分のことは、分かるようで分からないのです。
汝自身を知れ
エジプトのスフィンクスが、
答えられない旅人を食い殺した質問
「はじめは四本足で歩き、
中頃は二足となり、
終わりに三足となる動物は何か」
答えは「人間」です。
人間に、人間とはどんなものか聞いているのですが、
分からない者は食い殺す。
「人間とは何か」
この問いに答えることがとても大切だということです。
ギリシャでは、二千年以上前から、
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 11
「汝自身を知れ」
と、デルフォイの神殿に記されていますが、
不朽の名言として今日に伝えられているということは
自分自身というものは、分かるようでいて分からないけれど、
とても重要なことだということです。
デンマークの哲学者キルケゴールは、
「自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、
いとも簡単になされている」
と「死に至る病」に警告しています。
洋の東西を問わず、世界中で自分自身は分からないものなのです。
そして、自分自身が分からないところに、
全人類の悲劇の元があるのです。
なぜ自分が分からないのか
なぜ自分が分からないのか、
それは近すぎるからであります。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 12
目はかなり遠くまで見えるんですが、
近くとなると、なかなか見えません。
「目、目を見ることあたわず
刀、刀を切ることあたわず」
ということわざがありますが、
目は目自身を見ることはできません。
目の隣にある、眉すらも見ることはできません。
刀も、どんな名刀でも、
自分自身を切ることはできません。
近すぎるものというのは、見えないのです。
ではどうすれば、自己を知ることができるか
ではどうすれば自分を見られるかというと鏡を使います。
肉体をうつす時には、普通の鏡を使えばいいんですが、
この場合、自分の心を知らなければなりません。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 13
自分の心をうつす鏡はあるのでしょうか。
それは、三枚あると言われます。
「他人鏡」という鏡と、
「自分鏡」という鏡と、
「法鏡」という鏡の3つです。
「他人鏡」とは、他人の心にうつった自分の姿ということです。
知り合いからどういうふうに思われているでしょうか。
「いや、あいつって、本当どうしようもないよな」
と思われているか、
「いやあんないいやつはいない」
と思われているか、
他人から悪人だと思われているか、善人だと思われているか
他人の評価ということです。
次に「自分鏡」とは自分の心にうつった自分の姿です。
しかし甘くしてはいけません。
自分自身の、最大の良心に照らして見た時に、
自分は、善人だろうか、悪人だろうかということです。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 14
「法鏡」とは
仏様のまなこからご覧になった私のすがたです。
鏡の選び方
この三枚のうちどれが、本当の私を映し出すのでしょうか。
鏡を選ぶ判断基準は、
「ありのままにうつすかどうか」です。
「一番安いのがいいんじゃないか」
「一番丈夫なのがいいんじゃないか」
と思いますが、
買った鏡がゆがんでうつっていたら
せっかく買った意味がなくなってしまいます。
まず第一にありのままにうつすかどうか、
その後は安くて丈夫なら尚いいのです。
鏡を選ぶ判断基準は、正確にうつすかどうかです。
では、この三枚の鏡のうち、どれが正確にうつすか、
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 15
一つ一つ確かめてみましょう。
他人鏡
まず他人鏡です。
室町時代の僧侶、一休は、
とよんでいます。
「人の口」とは、他人の評価ですので、他人鏡です。
他人というのは、今日は、
「あんた本当いい人だ、あんた大好き」
と言っていた人が、一晩寝ると
「あんた、こんな人とは思わなかった。もう嫌い」
と180度変わってしまう。
今日ほめていた人が、明日悪く言います。
その間、自分自身は何か変わったのかというと
今日ほめて明日悪く言う人の口
泣くも笑うもウソの世の中(一休)
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 16
一日でそこまで激変することもなさそうですので、
どうも、他人の言っていることが
コロコロコロコロ変わってしまうんですね。
では一体、どうしてそんなにコロコロ変わってしまうのか
といいますと、相手の「都合」があるからです。
都合のいい人は善人。
都合の悪い人は悪人と、
相手の心に映るのです。
例えば泥棒に襲われた時、
たまたま通りかかった警察官が
「こら泥棒」
と捕まえてくれたら、
その時、警察官は正義の味方に感じます。
ところが、翌日、路上駐車でスーパーへ行った時に、
同じ警官に駐車禁止の紙を貼られたら、
「えー!?なんでこんな時に。見逃して下さい」
急に都合の悪い人になってしまう。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 17
警察官自体は、
泥棒を捕まえた時も、
駐車禁止を捕まえた時も、
法律にしたがって自分の任務に忠実に遂しているだけなのです。
それなのにこちらの「都合」によって、
正義の味方のヒーローになったり、
何か怖い人になったりするのです。
しかし、
と言われるように、
「いやーよく肥えてますね」
とほめられても豚は豚。
ライオンは謗られてもライオンです。
人の言葉で自分が変わるわけではありません。
しかし、私たちは、他人の目というものを非常に気にしている為に、
他人の言葉で泣いたり笑ったり、
ブタはほめられてもブタ
ライオンはそしられてもライオン
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 18
他人の評価で一喜一憂します。
ほめてくれたら嬉しくなるし
バカにされたら、食欲までなくなってしまう。
バカにされいじめられて、自殺してしまう人もいる位です。
このように、人の言葉で一喜一憂するのが私たちですが、
人の口というのは、
都合によってコロコロ変わるので、
「泣くも笑うもウソの世の中」
ばからしいことではありませんか
つまらないことではありませんか
と一休は、歌っているのです。
だから、あまり人の口をそれほど信用する必要はありません。
ただ、三人以上から同じことを言われた場合には、
あたっている可能性があります。
三人とも都合が一致していれば別ですが、
都合の異なる色々な三人の人から言われたら、
結構あたっているので気をつけましょう。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 19
しかし、この他人という鏡は、都合が入るので、
自分の姿をありのままには映していないのです。
自分鏡
次に、「自分鏡」はどうでしょう。
自分自身最大の良心で見た自分の姿です。
結論からいいますと、
この自分という鏡も正しくは映さないのです。
なぜかというと「欲目」が働くからです。
欲目のサングラスでしか、自分を見ることができないので
正しい自分は見えないのです。
子供が万引きして、警察に捕まると、
警察から、電話がかかってきます。
「もしもし警察ですが……」
これびっくりしますよね
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 20
「一体何事ですか?」
「実は、お宅の子供さんが万引きをされまして……
今、うちでお預かりしてますので、ちょっと来てもらえませんか」
すると世の中の親御さん方が、決まって言うのが、
「うちの子に限ってそんなはずはありません」
という言葉だそうです。
そこで、実際子供が電話に出ると、
確かに自分の子供の声がする。次に、
「うちの子は気が弱いから、
悪い友達に騙されて、こんなことしたに決まっているんです。
そこの所よく調べてください」
というそうです。
それでいて自分の子供が主犯で、
友達を騙していたりするそうです。
このように、自分の子が犯罪者になってしまうと、
自分が犯罪者の親になってしまうので、
「うちの子に限ってそんなはずはありません」
としか思えないのです。
自分の子供でさえありのままに見られないので、
自分自身となったら、とてもありのままには思えません。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 21
やはり欲目のサングラスを通してしか、
自分の姿を見られないのです。
この欲目の自惚れ心を仏教では七つに分けて、
「七慢」と教えられています。
の七つです。
「慢」とは、
自分よりも劣った相手を、情けない奴だとバカにする心です。
テストの点数が、自分は80点、相手は70点とすると、
「どうだ、オレの方が上だろう」
と相手を見下げる心です。
そう思うのは当然ではないかと思われるかも知れませんが、
相手を踏みつけている恐ろしい心なのです。
「過慢」とは、同じ程度の相手なのに、
七慢
慢 増上慢
過慢 卑下慢
慢過慢 邪慢
我慢
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 22
自分の方が優れていると威張る心をいいます。
テストの点数が同じだったのに、
「本当はオレの方が上なのだ」
と自惚れる心です。
「慢過慢」とは、間違いなく自分よりも相手が優れているのに、
素直にそうとは認められず
「オレの方が上なのだ」
と思う心をいいます。
相手が90点、自分が80点のときでも、
「あいつは高い金払って塾に通っているからだ、
条件が同じならオレの方が断然上だ」
と思ったり、
「あいつは勉強は少しはできるかも知れないが、
スポーツはまるでダメじゃないか。その点オレは両方できるから」
などと、都合のいい理由を色々見つけて
相手の上に立とうとする心です。
「我慢」とは、自分の間違いに気づきながらも、
自分の意見をどこまでも押し通そうとする心をいいます。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 23
「這っても黒豆」
ということわざがあります。
床にある黒いものを指さして、
「虫だ」「いや黒豆だ」と二人が言い争っていたところ、
モゾモゾ動き出したので虫だとハッキリしました。
ところが黒豆だと言っていた男は
「這っても黒豆なんだー!」
と言い張ったそうですが、
こういうのを「我慢」といいます。
「増上慢」とは、覚りを開いてもいないのに、
覚ったと自惚れている心です。
「卑下慢」とは、
「私ほど悪い者はおりません」
「未熟者でございますが、どうかご指導の程、
よろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げることによって、
「こんなに謙虚な人はいないだろう」
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 24
ニヤリとする心です。
「邪慢」とは、とんでもないことを自慢する心です。
テストの点が、低かった時、
「今回テストで20点とっちゃってさ」と言うと
「オレなんか10点だったことあるぜ」
点数の悪さを自慢すします。
テストが終わった後
「昨日勉強しようと思ったんだけど寝ちゃってさー」
「お前はいつも勉強してるからいいけど、
おれなんか一切勉強しなかったぜ」
いかに勉強しなかったかを自惚れあいます。
勉強しなかったことはいいことではないので
まったく自惚れるあたいはないのですが
そんなことでも自慢するというのが「邪慢」といいます。
窃盗犯は、機敏さを自慢し、
殺人犯は、残虐ぶりを自慢します。
自分のことは皆、いいようにしか思えないのです。
「オレは勉強は苦手だけど、働き者だと言われている」
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 25
「何にもできないけど素直なやつとみんなから言われているから」
と、自分のことはすべて良いことにしてしまいます。
これら七つの自惚れ心から、私たちは決して
離れることができません。
だから、自分鏡には欲目がありますので、
自分自身でどんなに厳しく自分を見ようとしても、
とてもありのままには見られないということです。
法鏡
最後に「法鏡」というものがあります。
「法」とはダルマーということで、真実ということです。
真実の自分の姿をうつす鏡を
「法鏡」といいます。
では「法鏡」とは何かというと、
仏教は、約2600年前、
インドで活躍されたお釈迦様が、
35歳で、仏というさとりを開かれてから、
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 26
80歳でお亡くなりになるまでの45年間
説かれた教えを仏教といいます。
その間、説かれた教えは、すべて書き残されています。
これを一切経七千余巻と言われます。
このように沢山のお経がありますが、
一体、お釈迦様はどんなことをおしえられたのでしょうか。
お釈迦様が、お亡くなりになる時、
お弟子の一人が、
「お釈迦様が教えられたことは一体何ですか?」
とお聞きすると
「我は汝らに法鏡を授けるであろう」
と答えられたそうです。
仏教は「法鏡」だ、ということです。
法鏡とは、仏教のことなのです。
仏教の別名を「自覚教」ともいわれます。
仏教の第一歩は、現実からであり、
自分自身を出発点として説かれているのです。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 27
道元という僧侶は
「仏道を習うというは、自己を習うなり」
といっています。
「仏道を習う」とは、仏教を求めるということです。
仏教を求めるということは、自分自身を学ぶことになるのだと
道元は言っています。
また、約1000年前の源信僧都という方は、
「よもすがら 仏の道に 入りぬれば
我が心にぞたずね入りぬる」
と言っています。
「よもすがら」とは、夜通しということです。
(ちなみに「ひねもす」は逆で、昼中ということです)
仏教の修行は、夜行われたので
夜通し「仏の道に入りぬれば」
仏道を求めれば
「我が心にぞたずねいりぬる」
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 28
自分の心を知ることになるのだと言われています。
ですから仏教を聞くということは
法鏡にうつった自分のすがたを
照らし出して頂くということです。
仏教を聞き始めた頃は、法鏡から遠いところにいるので
なかなか自分の姿はわかりません。
仏教に説かれることも、
「いや、それは私のことではない」
他人事のように聞いたり、
「あの人に比べたら私はまだましな方だ」
と聞いています。
それが鏡でも、だんだん近づいていくと、今まで見えなかった
しわやらあざやら見えてくるように
仏教を聞いていくと、だんだん
はじめは見えなかった自分の姿が知らされてきます。
自分の本当の姿が次第に明らかに知らされてきます。
ところが、鏡の前に座っていても、目をつぶっていたり、
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 29
後ろ向きにすわっていたら、仏教は聞けません。
自分の姿を見ていなければ、鏡を見たとはいえないように、
何十年仏教を聞いても、
自分の姿が知らされなければ
仏教を聞いたことにはならないのです。
子供が、顔にご飯粒をつけていたので、お母さんが、
「あなた、ちょっと鏡見てきなさい」
と言います。子供は
「うん、分かった」
洗面所に行って、帰ってきたのにまだご飯粒がついています。
「あんた鏡見てきたの?」
「うん、見てきた。四角かったよ」とか
「佐藤工務店って書いてあたった」
と言ったとしたら、鏡を見たことにはなりません。
お母さんが鏡を見てこいといったのは
鏡の形を見てこいといったのでもなければ、
鏡の表面に書いてある文字を見てこいといったのでもありません。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 30
鏡にうつった自分の姿を見て、
しかも悪い所があったら、ご飯粒がついていたらとってきなさい
という意味です。
同じように、仏教を聞くということは、
仏教を聞くことによって自分の姿を知らされなければ、
鏡を見たことにならないんですね。
真実の自分のすがたが知らされなければ
本当の幸福にはなれませんので、
お釈迦様は、本当の自分の姿を説かれたのです。
では、法鏡には、どんな姿が映し出されているのでしょうか。
続く
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 31
まとめ
普通、「自分のことは自分が一番よく知っている」
と思っていますが、分かっているようで一番分からないのが自分自身です。
そこで自分をうつす、三枚の鏡があります。これ以外にありません。
「他人鏡」とは、他人の心にうつった自分の姿。
これは他人の「都合」によってゆがんでしまいます。
「自分鏡」とは、自分自身の最大の良心に照らして反省した自分の姿。
これも自分の「欲目」によってゆがんでしまいます。
「法鏡」とは真実の鏡ということで、仏教のことです。
仏教を聞くということは、法鏡にうつった自分の姿を映し出して頂く
ということです。
鏡に近づけば近づくほど、自分の姿がハッキリ見えてくるように
仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、
自分の本当の姿だということです。
本当の自分の姿が分からなければ、
本当の幸福にはなれませんので、
お釈迦様は真実の自己を説かれているのです。
Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 32
覚えましょう
○慢まん
○増上慢ぞうじょうまん
○過慢か ま ん
○卑下慢ひ げ ま ん
○慢過慢ま ん か ま ん
○邪慢じゃまん
○我慢が ま ん