脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... -...

17
Ⅴ章 脳を 育む 理化学研究所脳科学総合研究センター 黒田研究ユニット・ユニットリーダー 黒田 公美

Upload: others

Post on 07-Aug-2021

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

Ⅴ章

脳を育む

理化学研究所脳科学総合研究センター 黒田研究ユニット・ユニットリーダー

黒田 公美

親子関係をはぐくむ

脳のはたらき

︱子育てと愛着の相互作用︱

Page 2: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

2脳を育む3 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

哺乳類の子育て

私は、親子関係という身近な現象を脳科学の観点から研究しています。私の話には難しい

ことはでてきませんので、気楽な気持ちで聞いていただければと思います。

哺乳類は未熟に生まれ、必ず母乳で育ちます。まったく世話をしてもらえなければ、生ま

れたばかりの子は生まれて三日ほどで死んでしまいます。哺乳類の母親は子に授乳します

が、お乳があるだけではだめで、お乳を飲ませる行動が必要です。それ以外にも、保温す

る、身体を清潔にしてあげる、危険から守る、生きていくうえで必要な知識を教えるといっ

たいろいろなことをします。このような、子どもの生存の確率を高めるようないろいろな親

の行動を総称して、養育(子育て)行動と呼びます。

ちなみに哺乳類では子育てをするのは母親であることが多いですが、必ずしも母親だけで

行うわけではなく、またとくに人間の場合には生物学的な母親である必要はありません。そ

の子のことを一番気にかけ、守り、世話をする人、その人のことを「主要な養育者」と呼び

ます。今日のお話では、この主要な養育者のことを、簡単にするために「親」と呼びます。

一方で子どももただお世話をされるだけの受け身な存在ではなく、お世話をしてくれる親

を覚えて慕い、いなくなれば後を追い、泣いて呼んだり探したりするなど、親子関係を維持

するために積極的に働きかけています。このような行動を「愛着行動」と呼びます。哺乳類

の子にとって、お世話をしてくれる親を好きになり一緒にいようとすることは、生まれなが

らに持っている本能なのです。

 親子関係は哺乳類の子の成長に必須

もし、愛着している親がいなくなったら子はどうなるのでしょうか。これまでの、主に精

神医学的な研究の経緯について紹介します。

もちろん野生では親がいなければ子は生きられませんし、成長できません。しかしそれだ

けではなく、親子関係は子どものこころが健康に育ち、社会性が育つためにも必要なので

す。そのことを示す研究はいろいろありますが、非常に極端な、病院で起こった医原性の社

会的分離の事例を紹介します。

一九一五年当時、アメリカの施設における乳幼児死亡率は非常に高く、孤児院で約一○

○%、小児科病棟でも三五%、三分の一ほどの子どもが入院すると死亡していました。この

時代、乳幼児死亡率を下げる要因として発見されたことは、一つはミルク(人工栄養)にど

んな成分が必要なのかがわかり、それを調整したことです。もう一つは感染症に関する知識

で、病院などでは院内感染が非常に多かったことから、衛生管理を徹底し、診察ごとに手を

消毒したり、感染症にかかった人を隔離することによって感染拡大を防ぐ方法です。しか

Page 3: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

4脳を育む5 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

し、それでも病院での死亡率はなかなか下がらず、

一九三五年でも約三○%でした。そこで、一部の病院で

は死亡率をさらに下げようと、極端なまでに衛生を徹底す

る動きがありました。

一九四○年ころのことですが、入院児のための隔離箱ま

で開発されました(図1)。赤ちゃんを一人ずつ一つの箱に

入れ、その箱の内部はフィルターを通して完全に空調され、

温湿度も調整された衛生的な環境にしました。そして決め

られたミルクの時間や診察などの時以外は、その箱を開け

ないようにして外界から隔離しました。もちろん、親は病

原菌をたくさん外から運んでくるため、面会することはで

きません。この隔離箱の中で赤ちゃんが泣いても、誰も来

てくれませんし、赤ちゃんも外をみることができません。

このような、極端に衛生管理を重視した状態で入院して

いた生後四週の赤ちゃんの経過を図2に示します。この

赤ちゃんは生後四週から熱が出て体重が増えなくなったた

め、八週で入院しました。ところが入院しても

一向に熱は下がらず、体重はむしろ入院した時

よりも減ってしまいます。そしてこのような状

態になって、もうだめだということで退院した

ところ、急に熱が下がり、体重も増え始めまし

た。そして退院から五週後ではこのように回復

しています。

この経過を現代の視点で見ますと、入院中衛

生的ではあるが社会的に隔離された環境に置か

れたため、赤ちゃんは極端に孤独になりまし

た。泣いていても誰も来てくれません。この孤

独というストレスが赤ちゃんの免疫力を低下さ

せます。その結果、感染が持続して、熱が下が

らなくなり、また下痢が続くために栄養を吸収

できずどんどん痩せてしまったのです。ストレ

スが免疫力を低下させることは現在ではよく知

1915年の乳児死亡率孤児院:  ~100%小児科病棟: ~35%  病棟での死亡の多くが感染持続と低栄養による    ↓死亡率をさらに下げようと、衛生をさらに徹底!

入 院 → → → 感染持続 → 退院すると回復 ↓         ↑孤 独→ストレス→免疫低下

発熱量F

10510410210098

Lbs24

22

20

18

16

14

12

10

8

64Wks. 2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 22 24 26 28 30

Age

体重増加曲線 退院時

5週後

A

B

入院 退院

図1 衛生を追求した1930年頃の米国の小児科病棟  Cabinet cubicle for infants(Chapple, 1940)

図2 社会的隔離の乳児への影響  (Bakwin, H., 1941)

Page 4: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

6脳を育む7 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

られていますが、当時はわかっていなかったのです。

同じような入院環境におかれた別の女の赤ちゃんは、退院

時の一三か月では非常にやせ細っていましたが、家に帰って

四か月たつと図3右のように回復しています。

こうした症例をいくつも経験したことから、ベルビュー病

院に勤務していたバクウィンという小児科医が、「いくら栄

養と衛生が整っていても、極端な孤独状態では子どもは生き

ることができないのではないか」と考えました。そこでベル

ビュー病院では、衛生面の重視に偏った隔離をやめ、親の面

会を認め、看護婦やインターンができるだけ子どもを抱っこ

したり、関わってあげるようにしたところ、入院児の死亡率

が激減しました。バクウィンはこの結果を一九四一年にアメ

リカ小児科学雑誌に報告しています。

社会的隔離の影響――サル

少し後になって、同様の現象がサルでも発見されました。

ハリー・ハーロウという有名な学習理論の研究者が報告したことです。彼は、アカゲザルを

実験で使うために飼育して繁殖させようとしていました。当時、サルはアフリカから船で輸

入していましたが、感染症を持っていて次々に死んでしまうため、一匹あたりが非常に高価

になっていました。そこでハーロウはアメリカでアカゲザルの飼育繁殖をはじめました。大

人のサルはみんな感染症を持っていますから、赤ちゃんが生まれるとすぐに母親から隔離し

て、おしめをしたり、哺乳瓶でお乳をあげたりして育てようとしました。ところが、母親か

ら引き離して一匹一匹金網の檻に入れて隔離しますと、どんなに世話をしても、ほとんどの

赤ちゃんザルは一週間以内に死亡してしまいました。

そこで工夫をしました。母親に似せた人形を檻に入れてみたのです。この人形はフワフワ

した手触りの布で覆われていて、内部にお湯を貫流させて温かくなっています。この人形を

檻に入れますと、赤ちゃんサルはこれにしがみついて、なんとか生き延びるようになりまし

た。そして人形を取り上げられると大声で泣いて抵抗しました。少し大きくなると、人形か

ら離れることもありますが、物音がしたり怖がらせるようなことをすると、すぐにこの母親

代理の人形に飛びつきます。つまり子ザルは母親に愛着するように、人形に愛着していたの

です。次にハーロウは、同じ形の人形で、金網でできているが哺乳瓶がついている人形と、

さわり心地はよいが哺乳瓶がついていない人形の二体を用意すると(図4)、ほとんどの時

退院時(13か月) 4か月後

A B

“いくら栄養と衛生が整っていても、極端な孤独状態ではこどもは生きることができないのではないか”     ↓

親の面会を認め、看護師やインターンが子どもを抱いたり遊んだりするようにしたら死亡率減少!

図3 退院による劇的な体重増加と免疫改善  Am. J. Diseas. child.(Bakwin, H., 1941)

Page 5: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

8脳を育む9 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

間、さわり心地のよい人形にしがみついていて、お腹がすいた

ときだけ哺乳瓶のある金網の人形のほうにいきました。怖いこ

とがあると、さわり心地のよい人形のほうに飛びつきます。こ

の実験から、赤ちゃんザルはミルクをくれることとは独立に、

母親らしい手触りに愛着し、接触していることによって安心す

るということがわかりました。

このように、母親に似た手触りの人形に愛着すれば、なんと

か子ザルは隔離状態でも大きくなれることがわかりました。た

だし、そのようにして育った子どもは他のサルから社会的に

まったく隔離されています。このようなサルは大人になったと

き、身体は健康ですが、精神的・社会的には健康とはいえない

状態になっていました。無気力で、鬱状態です。ほかのサルと

一緒の檻に入れても、怖がって遊べません。普通、サルは子ザ

ルをいじめませんが、子ザルをいじめたり、性行動ができず、社会的に孤立します。そのよ

うなサルがたまたま妊娠しても、子育てができず、子どもが死んでしまいました。こうした

ことから、心身ともに健康なサルに育つためには、仲間のサルと一緒に暮らしながら大きく

なり、大人になってから必要ないろいろな社会行動を学ぶ必要があることがわかったのです。

社会的隔離の長期影響……ヒト

これと似た、比較的最近の事例もあります。ルーマニア孤児研究、チャウセスクチルドレ

ンという名前で呼ばれている事例です。一九六六年、当時のルーマニア共産党書記長チャウ

セスクはルーマニアの人口を増やすため、子どもを多く産んだ女性に報奨金を出す一方で離

婚や避妊を禁止しました。そのため各家庭では、育てることができる以上の子どもを持つこ

とになってしまい、結果的に育児できなくなってしまった子どもが国営の孤児院に収容され

ることになり、その数は四万人にも上りました。孤児院では経費も人手も全く不足していた

ために環境が劣悪で、入所後数週間で餓死や凍死する子どもも多かったということです。な

んとか生き延びた子どもたちもベビーベッドに押し込まれたまま人間的なケアを受けること

もなかったため、、子どもの心身発達にはいろいろな問題が起こりました。一九八九年に

チャウシェスク政権が革命によって倒れるとすぐに、このような孤児院の惨状が公になり、

ヨーロッパでは人道的な観点から大問題となりました。

イギリスのマイケル・ラターという精神科医のグループは、この子たちをイギリスなどの

里親に引き取ってもらい、その後の発達を追跡する研究を主導しました。その結果によれ

・ふわふわしたものにしがみつけないと、子ザルはストレスから1週間で死んでしまう。 →「接触による安心Contact

comfort」の必要性 ・ミルクとは関係なく愛着が形成される。 →「愛着の二次動因説(フロイト)」の否定

図4 社会的隔離の影響(サル)  (Harry Harlow, 1958)

Page 6: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

10脳を育む11 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

ば、このような極端な社会的分離状態におかれた孤児たちは、長期にわたり身体発達・知的

発達の遅れをきたしました。IQが対照群の約半分です。しかし、生後六か月までに里親に

引き取られれば、四歳児でIQが対照群と同じまでに回復します。この大規模な研究によっ

て、生後の社会的な環境が精神発達に非常に重要であることが定量的に実証されました。

時代は少し前に戻りますが、第二次世界大戦中の孤児に対しても同じような研究があり、

一九五一年にはイギリスの精神科医ボウルビィがWHO(世界保健機構)の要請を受けてこ

れらの研究の成果からレポートをまとめ、「子どものこころの健康な発達にとって母親、ま

たは少数の養育者との安定な関係が必須である」という勧告を行いました。このことは児童

福祉へ革命を与え、児童福祉が劇的に向上しました。たとえば、一歳や二歳の子どもが入院

しているとき、親から引き離されていると病気がなかなか治らないため、母子同室入院(親

が一緒に泊まれるようにすること)が推進されました。孤児院でも、ご飯をあげたり、身体

のお世話だけでなくある程度決まった人が一貫してお世話をし、一緒に遊んであげるなどの

社会的なふれあいが大事にされるようになりました。また、その当時までは児童虐待に対し

て警察もなかなか介入することができませんでしたが、こうした時代背景の後押しを受け、

小児科医ケンプらの研究によって科学的に「(不慮の事故ではない)誘発された外傷」を証明

することができるようになり、親の不適切な養育に政府や警察が介入することも可能になり

ました。

養育者への責任追及の時代もあった

しかし、ボウルビィが提言した愛情の理論が過剰に利用されたこともあります。養育が子

どもの発達にとって大事であることが明らかになったことから、子どもが障害や疾患を持つ

と、親の養育が悪かったせいだと批判する動きが六○年代から八○年代ころにありました。

たとえば、西洋では自閉症、日本では気管支喘息が養育のせいと批判されました。自閉症は

遺伝負因が大きい疾患ですし、気管支喘息はⅠ型アレルギーによる疾患であることが現在で

はわかっています。養育が一次的な要因ではありません。しかし、当時は原因不明であった

ため、これらが不適切な養育の責任だと誤って親が批判されたのです。子どもが病気だとた

だでさえ大変なのに、親は世間から批判を受けさらにつらい思いをしていました。

また大戦後、戦勝国のイギリスやアメリカでは、たくさんの退役軍人が帰国しました。戦

争中は、工場労働やバスの運転手など普段男性がやっていることを女性がやっていました

が、退役軍人の失業対策として、主婦を家庭に戻そうとする政策が展開されました。そのよ

うな時期に、たまたまボウルビィの発見が知られるようになったものですから、この発見を

失業対策に利用しようとする動きがありました。つまり三歳ころまでの子どもは二十四時

Page 7: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

12脳を育む13 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

間、母親が家庭で面倒をみないと発達に悪影響がある、母親が子どもを保育園に預けたりす

ることは子どもにとってよくないと、過剰解釈して利用されてしまいました。

ちなみに、このような三歳神話は最近の研究では否定されています。日本では二○○四

年、厚生労働省のプロジェクトでの安梅先生のコホート研究や、二○○六年のアメリカ

NICHDの大規模コホート研究で、一日一二時間以上の長時間保育しても、三歳児や六

歳時点の発達に対照群と比較して差はなく、子どもの発達に大事なのは保育時間、つまり、

親がどれくらい長く一緒にいて面倒をみたかではなく、一緒にいる時間の質であるという結

果が報告されています。

さらにボウルビィ自身も一九五一年の報告の中で、「子どもには母親、または母親代理の

人、つまり、主要な養育者と親密で安定した関係を持つことが重要であり、その関係は子ど

もだけでなく母親にとっても楽しくて満足できるようなものであるべきだ」と述べています。

しかし、ボウルビィの初期の表現があまりよくなかったこともあるのかもしれませんが、社

会的には、ボウルビィが三歳児神話の生みの親であるかのように思われている傾向があり、

非常に残念なことです。ラターも、「ボウルビィは〝乳幼児をときおり母親以外の誰かに世

話されることに慣れさせることは、優れた保育方法である〟とも明確に述べている。…それ

にもかかわらず、ボウルビィの著作はしばしば間違って理解され、子どもの世話は二十四時

間ひねもすただ一人の人物によってなされることが最良である、との意見を支持する方向に

誤用されることが多かった。こうして子どもの正しい養育は、母親が職業を持たない場合に

のみ可能であるとか、子どもを保育所や児童施設に預けることは、子どもに深刻で恒久的な

悪い影響をもたらすといったような誤った主張がなされたのである」と述べています。

当然ながら、子が受ける養育や教育には対価があります。親の労力も費用も当然かかりま

す。状況によっては、親ははたらかなければならないため預ける必要がでてくることもあり

ます。子どもは親の感情に非常に敏感ですから、親が自分を犠牲にして子どものためにたく

さん時間をとったからといって、子どもが幸せになるかというと、そうとはいえません。そ

のために親が暗い気分になったり不安になれば、子どものためにはなりません。最適な親子

のバランスは、親の置かれた状況や子の体質や性格、社会経済状況など、それぞれの家族で

異なるのが普通であると、WHOも二○○四年の報告書で述べています。誰にとっても最

高の、子育て法の正解があるわけではありません。自分の家族にとってよいバランスは、そ

の家族で見つけるものだと、私は考えています。

発達環境の影響は取り返しがつかないものではない

もう一つ、付け加えさせていただきます。確かに不適切な養育環境、たとえば、虐待、ネ

Page 8: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

14脳を育む15 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

グレクトなどは子によい影響を与えません。しかしたまたま不幸にして、発達環境に恵まれ

ない場合でも、その影響は取り返しのつかないものではないということを述べておきます。

世間で、「虐待は繰り返す」などと安易にいわれているところがあると思います。たしか

に、不適切な養育環境は、その子が成人になったとき犯罪・虐待にかかわるリスクを若干高

めます。ただし、このリスクは研究によってかなり違っています。虐待に関して相関がない

という研究もけっこうありますが、一番高く見積もっているオリバーの一九九三年の報告で

も、三分の一の子が虐待を繰り返すという程度です。半分以上の子は虐待を繰り返していま

せん。そのことを重く受け止める必要があります。つまり、自分が虐待を受けて育っても、

それをよいと思っている子はいません。自分が親になったとき、なんとか虐待しないでおこ

うと考えて、本を読んで勉強したり、配偶者に助けてもらったりして、頑張って育てていま

す。ですから、虐待はもちろんよくありませんし子どもの発達に悪影響を与えるのは間違い

ないのですが、そのような家庭に生まれたらもう取り返しがつかない、虐待を受けて育った

子はいい親にはなれないということでは決してないのです。その点は是非覚えておいていた

だきたいと思います。

さきほど紹介したハリー・ハーロウも、マカクを生後一年間、完全に社会的な環境から分

離するという極端な状況で養育していましたが、その後ハーロウは、自分のつくった社会分

離モデルでどうリハビリをしたらよいかを研究しています。コツがあって、いきなりほかの

個体と一緒にしてしまうと怖がって関係が深まりませんが、環境変化をゆっくりゆっくりに

して、自分のペースで、サルが自分がしたいと思ったときだけ他のサルを眺められるように

して、少しずつ社会的な接触をふやしていくことを数か月続けると、隔離ザルも一緒に遊ん

だり子育てをするようにリハビリできるといっています。

親子関係の理解と支援

私たちは親子関係を研究していますが、その目標は、親子関係を理解して支援することで

す。現代の日本のような恵まれた社会環境に生まれ、健康に恵まれた親にとっても、子育て

は決して簡単ではないということはおわかりになると思います。ましてや、戦争状況、飢

饉、貧困、病気などいろいろな困難な状況におかれていれば、親子関係は簡単なはずはあり

ません。かりに養育不適切であっても、その親も自身のつらい思いや、自責の念に苦しんで

いる方がほとんどです。そのような親であっても、子どもにとっては、かけがえのない親で

す。その親を子から引き離して罰したりすればすむのかというと、それだけでは子の幸せに

つながりません。

虐待児や障害児というと、誰でもまず子どもを助けたいと思うのですが、そのとき大事な

Page 9: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

16脳を育む17 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

ことは、その子の親も助けなければならないということです。両方を助ける必要がありま

す。そのためには、親子双方をサポートする社会的体制と、親子関係を科学的に正しく理解

することが不可欠です。

親子関係の神経基盤は分子レベルで研究できる

親子関係が大事であることは間違いないとしても、それをどうやって脳科学で研究できる

のでしょうか。その実例をこれからご紹介します。

哺乳類は母乳で育つため、母親による養育がない種はありません。ということは、進化の

なかで親子関係をつくるための行動や脳内回路の基本的な構造は保存されており、哺乳類に

共通していると考えられます。そのため、動物モデルを使って研究しても、将来的には人間

の親子関係の理解に役立つ結果がえられます。

子育て行動にはいろいろありますが、そのなかで子を運ぶレトリービングという行動を簡

単に紹介します。霊長類は、おんぶしたり、だっこしたりして子を運ぶことが多いです。一

方、ネコやライオン、ネズミなどは口で首の後ろの皮膚をくわえて運びます(図5)。例え

ば、ライオンの母親は、巣のそばにゾウの群れが近づいた時など、巣を一○キロメートルも

移動することがあります。母親は一度に四匹程度の子を生みますので、一匹の子ライオンを

口でくわえて新しい巣まで一○キロメー

トル歩いていき、また戻ってきて次の子

を、というように、一匹ずつ運びます。

この図にあるように、母ライオンの牙は

鋭いのに、赤ちゃんは気持ちよさそうに

運ばれているので、母親は痛くないよう

にそっとくわえていることがわかりま

す。実

験的に子どもを運ぶレトリービング

行動を使って、ラットやマウスの養育の

やる気や技術をかんたんに測定すること

ができます。ラットのケージのなかによ

その子どもをポンポン入れると、一匹ず

つ口でくわえて巣に運んでいき、最後は

体温で温めます。子を巣に連れていくの

にかかる時間を計ればよいわけです。母

© Ken Yuel

© Mehgan Murphy, Smithsonian National Zoo

© Manfred Eberle© Senthil Palaniappun

図5 四足哺乳類のレトリービング行動  左上から時計回りにリス、レッサーパンダ、キツネザル、ライオン。

Page 10: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

18脳を育む19 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

親でなくても、父親や兄弟姉妹、また、自分の子でなくてもこのような行動を行います。実

験をするうえで好都合です。

私たちは脳科学でよく使うC

57BL/6

という系統のマウスで調べてみました。その結果、

はじめて子どもと接する雌だと三○〜六○分かかります。臭いをかいだりして、最初は何を

すればよいかよくわからないようですが、子どもがキューキュー泣いたりしているうちに、

何かしたい、巣に連れていかなければ、という気持ちが起こってくるようにみえます。子ど

もと巣をいったりきたりして、巣をちょっと作り直したりしてから、おもむろに一匹運んで

いきます。一匹運んでいくと、残りを運ぶのを忘れたりして、けっこう時間がかかります。

しかし、現役の母親だとこのようなことを毎日やっていますから、三分ほどで集めてしまい

ます。また、自分の子どもが大きくなって、子どもがいない雌でも、三分ほどで集める能力

を保持しています。

つまり、養育の上達には、経験による学習が必要です。子どもと接する経験のなかで、だ

んだん上手になっていきます。いったん上手になると、その経験は記憶となってシナプスに

刻み込まれるような感じで、それが生涯残ります。

このことは、自転車に乗ることを考えるとよいと思います。最初、自転車に乗るのは大変

で、少し練習が必要ですが、いったん乗れるようになれば、何年か乗らなくても、また乗れ

ます。

一方で、子どもと接したことのない若い雄マウスは、子育てはあまりせず、むしろ子マウ

スをいじめたりします。でも、父親になると、母親と同じようにササッと集めて、そのあと

お乳はでませんが、温めたりして雌と同じようにします。雄は出産するわけではないので、

メスほどには体内でホルモンが変化することはありません。だからこそ経験が大事だといっ

てよいと思います。

子育て学習に必要な分子メカニズム

このように雄も雌も経験によって子育てを学んでいくとき、脳にどのような変化が起こっ

ているのかを調べています。その手順を非常に簡単にすると、図6のようになります。ま

ず、レトリービング行動をさせたマウスとさせていないマウスの脳の連続切片を染色するこ

とで、どのニューロンが活動するかを調べます。それによって、いくつか脳の部位がレト

リービング行動のときに活性化していることがわかってきました。

次に、その子育て学習に必要な候補部位を一つひとつ機能しないように破壊する外科的な

手術をして、レトリービング行動をするかどうかを調べます。その結果、ご飯を食べたり、

交尾行動や出産はできるのに、レトリービング行動だけまったくしなくなる部位は今のとこ

Page 11: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

20脳を育む21 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

ろ一つしか見つかっていません。内側視索前野

(MPOA)という部位です。このMPOAは生命

の維持に大事な視床下部のすぐ前方にあります。

M‌P‌O‌Aが重要であることがわかったことから、

そこにどのような種類のニューロンがあり、どんな

回路を形成しているか、そして一つひとつのニュー

ロンのなかでどんな分子がふえたり減ったりしてい

るのかを調べます。子育てをしている時と、してい

ない時でのM‌

P‌

O‌

Aの違いをD‌

N‌

Aマイクロアレイ

という遺伝子発現解析の手法で調べた結果、次のよ

うなことがわかりました。レトリービング行動を学

習するとき、カルシウムが細胞内に流入してアーク

(ERK

)という分子を活性化し、それがF

osという

転写因子を誘導して、R

GK

とSprouty

というさら

に下流の分子がふえます。R

GK

とSprouty

は神経細

胞の活動を調節し、他の神経細胞との結合を作るの

に役立ちます。新しく神経細胞の間に配線ができあがるということは、経験したことが身に

付く、記憶されるということなのです。配線ができれば、次からはもっとスムーズに同じこ

とがやれるようになるのです。細かくはご説明しませんので、興味のある方は論文を読んで

いただきたいと思います。

子育てには本能+経験が必要

ところで、子育てというと、母性本能という言葉があるので、生まれつき自然にできるの

ではと考えられるかもしれませんが、実際に上手に子育てができるようになるためには、経

験から学ぶことが必要です。たとえば、食事や性行動は本能であることをご存じですが、最

初に食事するときから赤ちゃんが上手に食べられますか。食べられませんね。最初の性行動

から上手にできた人は、たぶんいないと思います。いくら本能だからといって、最初から上

手にできるものではないのです。たくさんの経験・学習による神経回路の発達が必要です。

子育ての場合、人生早期の社会経験が必須です。さきほどのサルの実験を思い出してくださ

い。小さいころ、親に育ててもらう、またほかの子ザルと遊ぶといった経験が社会行動の発

達に必要です。また、子育てをしている人をみて、たとえば、お兄ちゃんがお母さんが妹を

育てているのをみる、お母さんはお婆ちゃんが孫のお世話を手伝ってくれているのをみると

レトリービング行動

細胞内情報伝達経路 ・遺伝子発現解析 ・遺伝子変異マウス

ブロックすると子育て学習ができなくなる

活性化脳部位

BNST

MPOA

MPNLPOA

3Vox

BACac

神経回路

MPOA

RTK

ERK

Fos

RGK /Sprouty

Ca2+

図6 子育て学習に必要な分子神経メカニズム  (Kuroda et al., 2007, 2010)

Page 12: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

22脳を育む23 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

ころから学ぶ部分もあります。さらに、自分自身が現場で子どもにさわってみて学んでいき

ます。このように、三種類の経験があります。

マウスの場合は、小さいころの経験はそれほど重要ではないのですが、その場で実際に子

どもと接する経験はやはり重要です。しかし霊長類ではこれらすべての経験がとても大切で

あることがわかっています。

親子関係への子どもからの貢献

一方、子どもが親に対してとる愛着行動も研究しています。親子関係は相互関係です。親

子双方の努力で成り立っています。自然界で野良猫の親子をみても、人間の親子をみても、

ごく当たり前に、自然にやっているようにみえますが、実は親子関係の維持には日々のお互

いの努力がかかわっています。たとえば、子どもを運ぶというシンプルな行動のなかにもあ

ることを、最後に紹介します。

経験則として、赤ちゃんを抱っこして歩くと、泣きやみやすくなります。泣きやまないと

き、抱っこして歩いたり、乳母車に乗せて歩き回ると泣きやみ眠りやすいと思って実践して

いるお母さんやお父さんは多いと思います。でも、驚くことに、このようなことは科学的に

証明されていませんでした。親子関係は、心理学は別として、それ以外の分野ではそんなに

研究されてきませんでした。そこで、赤ちゃんを抱っこ

して歩くときの反応を調べるために、

①‌

ベッドに寝ている状態

②‌

抱っこして歩いた状態

③‌

抱っこして座っている状態

の三つを交互に行い、それをビデオ化して(図7)、

赤ちゃんの行動と発声を定量化するとともに、赤ちゃん

の心電図を取って比べてみました。

そうすると、予想通り、①ではよく泣いていて、②で

は泣きやんでいることが多く、③は①と②の中ぐらいで

あることがわかりました。抱っこして座っているのと

抱っこして歩くのとでは、皮膚の接触具合はそれほど変

わりませんから、「運ばれている」という感覚が大事であ

ることが考えられました。そこで、次の実験では抱っこ

して歩く、抱っこして座るを約二十秒おきに繰り返して、

そのときの赤ちゃんの心拍間隔(心拍数の逆数)を調べ

ベッド 抱っこして歩く

・ビデオによる行動と発声の定量・心電図

抱っこして座る

図7 輸送時の赤ちゃんの行動・反応を調べる実験

Page 13: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

24脳を育む25 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

てみました。心拍間隔が大きいということは赤ちゃんがリラックスしていると考えて下さい。

この動画では、はじめ赤ちゃんは泣いています。心拍間隔は小さい状態です。母親が立っ

て歩きはじめるとすぐに心拍間隔が急激に上がります。歩いているときは泣きやんでいます

が、歩くのをやめて椅子に座ると、とたんに心拍間隔が下がって泣きはじめます。足を蹴っ

たり、手をつっぱったりして、自発運動が上昇します。でも、また母親が歩くと心拍間隔が

上がり、自発的な運動が減り、表情もリラックスしています。そして、座るとまた泣き始め

ます。このような感じで何回でもできます。

実は、親が子を運ぶと子どもがおとなしく運ばれる現象は、他の哺乳類でも観察されてい

ました。野良猫などでみた方もいるかと思いますし、ライオンの子を紹介しましたが、これ

らの動物で母親が子を口で運ぶ時、子どもは独特の丸まった姿勢をとります(図5)。これ

は輸送反応といわれています。一番古い報告は、一九五一年ころにありました。一九八○年

にはラットの報告があり、このようなことは経験的に知られていましたが、おとなしくなる

かどうかをきちんと調べた実験がなかったので、マウスを使って調べてみました。

まずカップのなかにマウスの子どもを入れると、子どもは自分ではカップからでられませ

んので、母親が一匹ずつ口にくわえて巣に戻します。その時の子マウスの運ばれ方をビデオ

で調べますと、図8左のように足を縮めます。また、親指でつまんでも動きが少なくなり

ます(図8右)。全身麻酔をかけたマウスと比べると、姿

勢の違いが一目瞭然です。下肢を縮め、体の長さが短く

なっています。子マウスはリラックスしていますが、完全

にだらりとなっているわけではなく、コンパクトな姿勢を

維持しています。このほうが親が運びやすいのです。

詳細は割愛しますが、子どものマウスは運ばれていると

き泣きやんでいることがわかりました。また、動きが少な

くなります。しかも、赤ちゃんの心電図をとると、うちの

子どもと同じようにリラックスしています。一五人ほどの

子どもで調べてもリラックスしていました。そのとき副交

感神経が興奮しているので、副交感神経をブロックする薬

剤を前投与しておくとその心拍低下反応が起こらなくなり

ます。

したがって、マウスとヒトの子で、運ばれるときには、

①動かなくなる、②泣き止む、③心拍数が低下する、とい

う共通する反応があることがわかりました。しかしそれは

・不動(自発運動の低下、体幹はリラックス)・下肢は縮める・泣き止み、心拍数も低下

生後14日目の子マウス左は通常、右は全身麻酔状態

P14

Anesthe-tizedP14

指Mother Pup Cup 指

図8 母親でも指でも、運ばれる時子マウスはおとなしくなる

Page 14: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

26脳を育む27 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

なぜなのでしょう。おとなしくないと母親が

運びにくいのではないかということが、まず

考えられます。そこで子の輸送反応を起こら

なくすると、どうなるのか調べてみました。

ピリドキシンという薬剤で子マウスの感覚を

一時的に阻害すると、子どもは運ばれている

ことがわからなくなるので暴れてしまいます

(図9)。そのような子マウスをカップの中

に入れて母親に運び出させる行動実験を行う

と、じっとしている正常な子マウスを運ぶ時

に比べて、母親が救出するのに時間がかかります。このことは野生環境では命にかかわるお

それがあります。自分では動けない赤ちゃんは、親に運ばれると協力して瞬時にリラックス

しておとなしくなる、そうすると親は助かりますし、結局は赤ちゃんの生存にも有利になり

ます。ウインウインの関係です。

逆に歩くのをやめて赤ちゃんを寝かせると、起きてしまうこともあります。それも、赤

ちゃんが嫌がらせをしているわけではありません。生理的な反応であると納得できます。

まとめ

このように脳科学という視点から、子育てをもう一度考えてみます。

本能と経験によって、哺乳類の親はそれなりによい親、G

ood-enough‌parent

になります。

子どもが次世代の子どもを産み育てることができる程度には健康に育つために、最低限必要

な子育てです。もっと子どもを賢く、頭をよくするような子育てのやり方はわかりません

が、最低限、必要なことはわかるということです。

このG

ood‌enough

ということを、人間に置き換えて説明してみます。次の話は科学ではな

く私の個人的な体験ですので、雑談として聞いてください。私は第一子をカナダで出産しま

した。そのとき、カナダと日本とでは、赤ちゃんの食事に関する常識が相当違っていると感

じました。哺乳瓶は日本ではガラスで、ミルクを温める時は湯煎ですが、カナダではプラス

チックで、ミルクでも電子レンジで普通にあたためます。離乳食は日本ではレシピ本も出て

いますが、カナダでは瓶詰やシリアルなどが多い気がしました。飲み物も、日本では赤ちゃ

ん専用の甘さをおさえたリンゴジュースやスポーツドリンクが売っていますが、カナダでは

乳母車の子どもが普通の缶コーラにストローを入れて飲んでいることも珍しくありません。

さらにお弁当は、日本では栄養ばかりでなく彩りやキャラ弁など、非常に凝っていますが、

カナダではジャムサンドにリンゴ一つ、なんてこともあります。全体として、日本のお母さ

ピリドキシンによる感覚障害→運ばれていることがわからず、暴れる→母親が救出にかかる時間が長くなる

非常事態では命に関わる!

S

15

12

9

6

3

0Pd

**じっとしている秒数

救出にかかった秒数

S

6

4

2

0Pd

図9 輸送反応は、母親による子の輸送を促進する

(Esposito, Yoshida, Kuroda, 2013)

Page 15: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

28脳を育む29 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

んは非常に子どもの食事に気をつかい、時間をかけていると感じました。そのせいかどうか

わかりませんが、カナダでは子どもの病的肥満が問題になっています。外でも、このような

子どもにアメなどを与え続けているのを見かけることがあり、日本のお母さんからすると、

ほとんど虐待ではないかと思うようなときもありました。ところが、カナダの方が気を使っ

ていると思うところもあるのです。例えばゲームの時間などは、カナダのほうが圧倒的に厳

しく制限していて、日本のようにだらだらと何時間でもゲームをさせていることはありませ

ん。また、エアコンをつけている部屋に入ってきた子どもに「ドア、しめてきて」というこ

とはよくありますが、子どもが閉めてくると、カナダでは「ありがとう、えらいわねー」と

お礼を言ったり、褒めたりします。日本だと、あたりまえという感じでなにも言わないこと

が多いような気がします。このように、カナダのほうが気をつかい手をかけている点もたく

さんあります。最終的には、どちらの国でも、ほとんどの子が大人になり、そして自分の子

どもを育てていくのです。

このように、子育て方法のスタンダードは時代や文化によってかなり違っているものなの

です。ですから、あらゆる文化から見て失格の子育ては、たぶんだめだと思いますが、ほか

の文化からみれば問題があっても、その文化の中で容認されて、そして子どもがだいたい健

康に育っていけば、G

ood-enough

であると言えると思います。ウィニコットという児童精神

科医は、「あなたの子どもが人形と遊べるのであれば、あなたは普通の献身的な親であり、私

はあなたが大部分の時間を献身的な親でいられると信じます」といっています。これは相当

ゆるい基準であると言えると思います。「もっとよい」子育てを目指すという考え方ももちろ

ん大事ですし、あっていいわけですが、八○点の人は九○点、九○点の人は九五点を目指さ

なければならない、という風に考えていくと、親も子もどこかで息が詰まる気がすると思う

のです。二○点以下はさすがにもっとがんばってほしいけど、それ以上は全部G

ood-enough

で、あとは点数をつけないという考えもあっていいと思うのです。私はその立場です。

最後に、皆さんの主要な養育者を思い出してみてください。みなさんにも全員、必ず養育

者がいたはずです。だからここに座っておられるわけです。その養育者とは、病気のときに

一緒にいてくれたり、お風呂にはいってくれたり、夜寝るとき、お休みなさいといってくれ

たり、遊んだり、いじめられたとき助けてくれる人、それはだいたいにおいて子どもの一番

好きな人です。その人だって完璧ではなかったと思います。でもそういう人があるからこ

そ、今の自分があるわけです。

さらに子どもは親だけで育つものではありません。その外側には学校や保育園の先生、兄

弟姉妹、家族、産婦人科医、小児科医といった人がいて、さらにその外側には友達や地域の

人とかがいます(図10)。子どもを育てることは非常に大きな責任ですから、親と子がそれ

Page 16: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

30脳を育む31 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

なりに、お互いに満足できる関係になるためには、周り

の人たちにも助けてもらわないといけませんし、この人

たちもさらにその周りの人たちに助けてもらう必要があ

ります。そのようなサポートがないとお互いが満足でき

る関係は維持できません。最終的に子どもの幸福につな

がらないと思います。

私は親子関係を研究していますが、それはどうやった

らもっとよく子育てができるのかを研究しているのでは

なくて、どうして、どうやってほとんどの哺乳類の親

は、すでに子育てができているのか、そのとき脳になに

が起こっているのか。子どもだって、どうやって親に愛

着しているのか。そのことがわかってはじめて、このよ

うなことがうまくいかない稀なケースを支援することが

できると考えています。以上です。

質疑応答

司会貫名 

信行

貫名●子どもの性別と父、母の関係性は、特定の差異があるのでしょうか。

黒田●もちろん精神医学ではエディプスコンプレックスなどいろいろなものがあります。ま

た、サルの社会でも雄の子どものサルは雄サルをみて真似ています。雄サルは群れ

の周りにいて、ボスが中心にいますが、そのようなことを真似てみたりします。雌

の子ザルは、母親の真似をして赤ちゃんにさわりたがったりします。つまり動物に

も、性別の差はあります。しかし共通している部分もたくさんあります。雄でも雌

でもかわらない基本的に共通するメカニズムをまず明らかにして、はじめて性別に

よる差を理解することができると思うので、まずは私たちは性別によらない基本的

な部分を研究しています。

貫名●動物の親子関係は本能に根ざしていますが、それは、人間に愛と呼んでよいのでしょ

うか。

黒田●それは表現の問題ですが、論文などでは愛という言葉は使いません。ただ動物の親

は、たとえば、キツネのお母さんはキツネの子どもをほぼ一人で巣穴で育てます。

→お互いが満足できる関係

友達

習い事

近所の人

きょうだい家族

先生

親(養育者)

産婦人科小児科医

・子の成長には親ばかりでなく多くの社会関係が貢献している

・子の成長を支える役割には重い負担と責任がある ↓こどもの成長を支える人には、より広い社会からのサポートが必要!

図10 こどもの成長とそれを支える人たち

Page 17: 脳を 育む Ⅴ章 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき ... - …asb.brain.riken.jp/files/nouwohagukumu.pdf黒田 公美 ︱子育てと愛着の相互作用︱脳のはたらき親子関係をはぐくむ

32脳を育む33 親子関係をはぐくむ脳のはたらき

餌はネズミなどです。たとえば、餌がとれない飢饉の年に巣にかえってくると、子

どもは、自分の餌のネズミと同じくらいの大きさですが、それを食べません。食べ

たって誰からも罰せられません。周りはみていないし、法律もありません。食べな

かったからといって、子どもがお返しをくれるわけではありません。ということは、

それは完全に自発的な行動です。誰かに強制されているわけではなく、自ら進んで

そうする。人間でも動物でも、自分以外の誰か他者を守ることだったり、自分が飢

えていても、むしろお乳をあげることが死ぬギリギリのところまででできるんです

ね。そういうことは、やはり、愛と呼ぶ価値があると、個人的には思います。

貫名●施設の子の里親は、一般的に何歳ころからだと受け入れやすいのでしょうか。年齢が

上の子の場合に里親の対応のしかたをアドバイスしてください。

黒田●実践的な質問ですね。さきほどのチャウシェスクチルドレンの研究では、六か月以内

が効果的と考えられます。一方で他の兄弟との関係でいいますと、普通の一般の兄

弟姉妹でも三歳を超えると嫉妬の対象ではなく、ある程度客観的に自分がお兄ちゃ

ん、お姉ちゃんなんだということで下の子を受け入れやすいといった研究はありま

す。しかし、里親と里子の関係、それ以外の兄弟姉妹の関係に特異的なことは、申

し訳ないのですがわかりません。