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1 仏教の人間観 Buddhist Reflections on human beings 鍋島直樹 この論では、仏教において人間をどのように見つめているかを解明し、人間の現実とあるべき 理想像を探求する。 人間の二つの姿――「~である」と「~になる」 人間である――姿形からみたヒト Cf.ダーウィン(Charles Darwin 1809-82 イギリス 博物学博士) 『進化論』(Theory of Evolution. 1858『種の起源』(On The Origin of Species By Means of Natural Selection 1859・・・<すべての動物は、環境に応じて変化する 類人猿→ヒトへの進化><適者生存> ☆キリスト教の人間観<人間は神の似姿として創られ、動物や自然は人間の支配する糧として創ら れた>とダーウィンの進化論は深刻に対立する。 ☆仏教の人間観<衆生は父母兄弟であり、支え合っている>と霊長 類学とは相互に認め合っている。 cf.伊谷純一郎(1926-2001 霊長類学) 伊谷の、とくに霊長類学における方法論は、今西錦司の研究を忠実に受け継ぎ、 社会構造の系統関係と進化過程を明らかにするところにある。 伊谷は、人間と自然の二分法を徹底して排除し、自然の中の人間を追求した。 当時、チンパンジーやゴリラには母子関係を越えた社会組織は存在しないと考 えられていた。しかしアフリカにおける日本調査隊により、チンパンジーやゴリ ラにより大きな社会構造が存在することを明らかにした。 動物の心を研究するところに、伊谷の慧眼がある。 「逆に猿社会から学ぶべきことがたくさんある。自然の慈悲の認識は、 今日の環境問題のもっとも根本に据えるべき課題であろう」 (『自然の慈悲』(280 頁。平凡社, 1990.3人間になる――何かに成るものとしての人 ①自分の外に向かって成る ②自己の内に向かって成る (上田義文『仏教の人間観』本願寺出版社) (1)「外に向かって成る」 ――生きるために自己の外に向かってものを操作し、所有する人間

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Page 1: 仏教の人間観 Buddhist Reflections on human beings1 仏教の人間観 Buddhist Reflections on human beings 鍋島直樹 この論では、仏教において人間をどのように見つめているかを解明し、人間の現実とあるべき

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仏教の人間観 Buddhist Reflections on human beings

鍋島直樹

この論では、仏教において人間をどのように見つめているかを解明し、人間の現実とあるべき理想像を探求する。

Ⅰ 人間の二つの姿――「~である」と「~になる」

A 人間である――姿形からみたヒト

Cf.ダーウィン(Charles Darwin 1809-82 イギリス 博物学博士) 『進化論』(Theory of Evolution. 1858) 『種の起源』(On The Origin of Species By Means of Natural Selection 1859)

・・・<すべての動物は、環境に応じて変化する 類人猿→ヒトへの進化><適者生存> ☆キリスト教の人間観<人間は神の似姿として創られ、動物や自然は人間の支配する糧として創ら

れた>とダーウィンの進化論は深刻に対立する。 ☆仏教の人間観<衆生は父母兄弟であり、支え合っている>と霊長

類学とは相互に認め合っている。 cf.伊谷純一郎(1926-2001 霊長類学)

伊谷の、とくに霊長類学における方法論は、今西錦司の研究を忠実に受け継ぎ、 社会構造の系統関係と進化過程を明らかにするところにある。

伊谷は、人間と自然の二分法を徹底して排除し、自然の中の人間を追求した。 当時、チンパンジーやゴリラには母子関係を越えた社会組織は存在しないと考

えられていた。しかしアフリカにおける日本調査隊により、チンパンジーやゴリ ラにより大きな社会構造が存在することを明らかにした。

動物の心を研究するところに、伊谷の慧眼がある。 「逆に猿社会から学ぶべきことがたくさんある。自然の慈悲の認識は、 今日の環境問題のもっとも根本に据えるべき課題であろう」 (『自然の慈悲』(280 頁。平凡社, 1990.3)

B 人間になる――何かに成るものとしての人

①自分の外に向かって成る

②自己の内に向かって成る (上田義文『仏教の人間観』本願寺出版社)

(1)「外に向かって成る」 ――生きるために自己の外に向かってものを操作し、所有する人間

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cf.マルクス(1818-83)エンゲルス(1820-95) 『資本論』三巻(Das Kapital. 1867-94) 『共産党宣言』(1848.2) ・・・資本主義社会の崩壊→→労働階級の団結→→新たな社会主義の建設

「万国の労働者よ、団結せよ」 ・・・人間と猿の違い―――<働くこと>―――何かを生産し、消費する存在

はたして<働くこと>だけが、人間たる所以なのか? すべての人々の平等な共産性は、一つの目指すべきロマンであり、向上的な人間観がその背後にある。しかしながら、

現実の生身の人間は、生産や消費を平等に分けるというシステム社会において、個性や多様な生き方ができなくなっ

たり、かえって個人の自由を束縛したりすることになった。さらに現実の生身の人間は、競争や新しいものへの欲求

なくしては、生きていけない側面があった。 ⊿therefore・・・外に向かって成る人間―――人や物を所有し、操作する人間。 ■しかしその人間観には課題がある■ 自己の外に向かって支配する人間は、便利にとらわれて、自然の尊さを軽視している。人間は人類中

心の開発は、地球上の自然と動物を一方的に傷つけ、翻って人類をも傷つけている。地球上のものを、

人間の資本として手段化しつづけてはならない。科学技術そのものは、ギリシャ神話の一つ目の怪人

キクロプスのように、外はよく見えても、己を見つめる方向をもたない。 ・・・地球の温暖化現象―――河がなくなる。氷河がなくなると、多くの河が枯渇する。 ・・・<仏教>は、森、水や生物が、人間と同じ生命の尊さを有していると教えてきた。その意味で、

人類という壁を突き抜けて、人間以外のものを大切にしてゆく発想がないかぎり、人間どうし

の平和ももたらされないだろう。

河合隼雄(心理療法学)の言葉 「われわれは、外のものをコントロールして支配するということをやりすぎて、そのことと関係すると

いうことを忘れてしまったのではないか。関係するということはたいへんなことです。なぜたいへん

かというと、私も関係してくるわけですから、私の生き方が関係してくるのです」『河合隼雄 その

多様な世界』31 頁。岩波書店。1992 年。 「分裂した状態というのは、現代人の分裂を象徴しているようにもみえますね。現代人というのは、自

分に与えられたいろんな人形(側面)を使いこなして生きている。コントロールして、自らを操って

世の中をうまく渡ろうと――金儲けなんかもしてね、やっていこうとする。心の側面ばかりでなく、技

術の進歩によって得られるものもありますね。・・・・そういうのが、みな思いのままに操れると思って

いたら、どうも人形のほうが勝手に動いている。かえって自分のほうが操られている気がする、と思

わされるときがあります。そのことに気がつけば、自分の中で何かが変わってきたりするのですが、

自分が何もかもコントロールしているんだと、われわれはつい思いがちなんです。」(ポールギャリコ

作『七つの人形の恋物語』を題材にして)『こころの天気図』69 頁。毎日新聞社。1990 年。 ―――コントロールしている自己自身(人類自身)が分裂している

コントロールされているものたち(他の人間、自然、動物)が反乱する。 制御できなくなっても、さらにコントロールしようとすることを繰り返している。

―――自己と相手をコントロールしつづける限り、自己も相手も知ることはできない。 人は自分の利益を優先するため、自他の思いやりのある関係を育むことを忘れがちとなる。

自己の都合にあわせて、相手をうまく操ることに傲慢さがある。 自己と相手をコントロールする方向から、相互に関係する方向に転じる必要がある。

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(2)「内に向かって成る」 ――仏教における自己の探求

「内に向かって成る」とは ――ひとえに自己の内に向かって、自分の心を内省して成る。

自己と世界の苦の現実と、あらゆるものが相互に関係しあっている 縁起の道理をありのままに知り、慈愛をもった真の人間に成長する。 自分を知ることが、相手との豊かな関係をも生み出すことになる。 ここに仏教の人間観の特質がある。

<<進化論と仏教>>人間と動物の連続性

(a) 進化論・・・客観的、科学的に外から細胞組織や骨組みからみたときの、人間と生物の共通性<発見> (b) 仏教・・・・自己の内なる洞察、反省からみたときの、人間と生物の共通性<諦観> 縁起:pratītya-samutpāda 相依相生

仏のさとりを意味するpratītya-samutpāda は、二つの言葉から成っている。 プラティーチャとは、「~に依存する」ことを語義とし、サムウツゥパーダは、「共に生じる、つな

がりの中で生起する」ことを語義とする。この世界は、相互に結びつき、相互に働きかける、一つの

協調的統合体であって、ばらばらで、対立する部分を寄せ集めたのものではない。縁起は私の生命が

他のあらゆる生命と存在との結びつき、相互依存的に存在していることを意味し、あらゆる生命が、

多くのさまざまな因(直接的原因)と縁(間接的条件)との交わりを通して生起することを意味して

いる。逆に言えば、無条件にそれ自体として他に依らずに、固定不変に存在するものは一つとしてな

い。仏教はこの縁起に目覚め、そこより我執を離れ、すべての生命を尊重することを伝えてきた。

まことの人間:縁起にめざめる ―――あらゆる存在とのつながり、支え合いにめざめる ―――しかし現実には、あらゆる存在が互いに殺傷しあって生きている。 ―――人が苦しみに悩まされているのをみるとき、あらゆる存在への慈愛がわきおこる。

「『われらは、この世において死ぬはずのものである』と覚悟しよう。・・・このことわりを他の人々

は知っていない。しかしこのことを知る人々があれば、争いは静まる。」Dhp.6(中村元訳『ブ

ッダの真理のことば』ダンマパダ6偈。岩波文庫) 「ここに集った諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうして

心を留めて、われの説くところを聞け。」Sn.222(中村元訳『ブッダのことば』222 偈 岩波文庫)

Ⅱ 仏教における自己の探求:人として生きる意味 <釈尊の誕生説話> 誕生したシッダールタは、四方に七歩歩き、「天上天下唯我独尊。私はきっとこの世界に満ちて

いる苦しみを取り除こう」と語ったとされる。 Indian Buddhist Cosmology: The six realms of samsaric ★六道(六趣・六つの迷いの輪廻世界)

生きとし生けるもの輪廻する範囲。生存領域(趣 gati) <初期>五趣 →→ <後期>六道 「ここに五つの生存領域(趣 gati)がある。五つとは何であるか。

地獄と畜生と餓鬼と人間(manuşya)と神々とである。」Therig.475.(『尼僧の告白』) ―――人間は、神々と動物(獣)の中間的存在として捉える。

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①地獄・・・Hells: naraka.罪を犯した者の赴く苦痛と苦悩の連続する世界

②餓鬼・・・Realm of hungry ghosts: preta. 欲望の世界(原意:死せる者)

③畜生・・・Realm of animals: tiryañc. 互いに殺傷しあう世界(獣)。

「もしかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣ごとくであるなら

ば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。」Sn.275

④阿修羅・・Realm of asura: 血気盛んで怒り、闘争を好む鬼神。疑いをもって帝釈天に戦いを挑

む。しかし釈尊の説法を聞き、反省して素直になり仏教を守護する。

⑤人・・・・Realm of human being: manuşya. 不浄、苦、無常を自覚し真の生き方を求める存在

「今の人々(manusya)は、自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今

日、利益をめざさない友はえがたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の

角のようにただ独り歩め。」Sn.75(中村元「仏教における人間の特徴」5 頁)

・・・人は衝動的に、自己の利益を優先する。執着を離れて、犀のように一人行け。

⑥天人・・・Realm of deva: 諸天の神々。贅沢で美しい世界にいながら、無常を忘れて欲望にとら

われている。優れていても寿命がある。しかし仏法を護る神々も生まれた。

※①~③は三悪道と呼ばれる。①~④は worlds of desire 欲界

七歩あるいたという意義: Each individual has a special place in the universe and is to be honored absolutely. The four directions represent the universe. The first six steps refer to the six realms of samsaric existence accepted by Indian cosmology. The seventh step is symbolic of humanity’s potential to transcend this word of suffering. ★七歩・・・六つの苦しみの世界を出るということ

さとりとは、迷える自分の世界から、思い切って一歩飛び出すということ。 仏教のめざした理想の人間像:人として生まれてきた意味 1. 苦しみ、迷いを思い切って飛び越える、すなわち、仏の教えを聞いて、迷いの川をジャブジ

ャブと渡っていくところに、人として生まれた意味がある。 <仏法を聞き、自分自身の心の成長をめざすのが人間である>

「人身うけがたし。今すでに受く。仏法聞きがたし。今すでに聞く。」

(唐訳『華厳経』第六四巻 大正蔵一〇-三四六中) 「寿命はなはだ得がたく、仏世また値ひがたし。人信慧あること難し。もし〔法を〕聞かば精進して求

めよ。法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、即ちわが善き親友なり。」(『無量寿経』

註釈版聖典47頁) ――人として生まれたことの希有さ。だからこそ仏法を聴聞すべきことを強調する。

「ひと(purisa)は、「これがわがものである」と考える物、-それは(その人の)死によって失われる。

われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。」Sn.807

2. 他者の苦しみを和らげ、安らぎに導くために、人として生まれてきた。 <他者の幸せを願って生きるのが人間である>

<ブッダの生まれた意義> 「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩・未来の仏。釈尊のこと)は、あらゆる人々の

利益安楽のために、人間世界に生まれたもうたのです。」Sn.683

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Ⅲ 大乗仏教における人間の現実と理想

初期仏教における人間観の特徴 <最初期> 人間・・・生きとし生けるものの一員。人は、あらゆる生命の中で正しい真理

の道を求めるために、最も適した存在。 <後 代> 人間・・・思慮心あるもの。思惟して求める存在。<探求的存在>

大乗仏教における人間観の特徴 人間・・・心温かくて人の幸せを願う利他心があり、慈悲の実践を行うために、

好適な存在。<利他的存在> 「生命ある者どもの中で人間が最も勝れているというのは、人間の独断ではなかろうか。そのように客観

的に断定できる根拠は何もない。しかし人間が仏道修行に最も適したものであるということは言い得るの

ではなかろうか。・・・・なお後代の仏教では、人間は思慮心のあるものであると特徴づけ、また大乗仏教に

なると、人間には特に利他心があり、慈悲の実践のために好適であるという思想が現われるが、最初期の

仏教には見られぬようである。」(中村元「仏教における人間観の特徴」pp.23~4『仏教の人間観』平楽

寺書店。1968年) 大乗仏教における仏教者の3タイプ:Mahayana Buddhism �α 声聞(s: śrāvaka しょうもん) ・・・釈尊という先生の声を聞いて育ったもの。 師にめぐりあい、その人格にふれて育つもの。 Cf. 阿難(あなん)摩迦迦葉(まかかしょう) �β 縁覚(s: pratyeka-buddha えんがく) ・・・何かを縁として、独自に悟りを開くもの。

師なくしてさとるから、独覚ともいわれる。 Cf. 「辟支仏」(びゃくしぶつ)・・・無師独悟

�γ 菩薩(s: bodhisattva ぼさつ) ・・・菩提薩埵。漢訳は、覚有情。大心衆生。大士。高士。開士。 ・・・悟りを求める人。悟りの完成を願い、努力する人。<求道者> ・・・自らの悟りの道を求め、<上求菩提:向上的。自利> ・・・他人を救済し、さとらせるもの。<下化衆生:向下的。利他>

相手の幸せのなかに,自己の幸せを見いだす。 Cf.ディルタイ(ドイツ・教育哲学) 「我々が、他人に及ぼしうる感化、教育とは、我々がいかに相手のために自己を犠牲にするか、その犠牲

の程度によって、教育感化は決定する」 Cf.宮沢賢治『農民芸術概要綱要』 「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。自我の意識は、個人から集団社会宇

宙へと次第に進化する。この方向は、古い聖者の踏み、また教え正しく強く生きるとは、銀河系を自らの

中に意識して、これに応じて行くことである。われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう。求道す

でに道である。」 Cf.遊亀教授「人間存在の仏教的把捉」(『仏教の人間観』53 頁。平楽寺書店。1968 年) 「仏教における人間像、それは菩薩像を歩む人間として、あくまで慈悲行の実践と切りはなされた人間で

はない。・・・・利他行とは、まさに人間関係における人間存在の在り方でなければならぬ、我を軸とし我を

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先とする主我的方向を転向して、汝を軸とし他を先とする無我的方向に、私の生き方をおくとき、それが

菩薩行といわれるのである。・・・・菩薩が仏でありながら、なお永遠の未完成をその内にふくむのは、人間

存在が未完成でありながら、しかもそれが完成であるのである。このように人間存在を観想的に把えずに、

つねに行的、実践的に、しかも永遠の未完の行として把えようとするところに、仏教本来の人間把握があ

るのである。」 ・・・・終わりのない情熱。未完成の完成。 菩薩としての人間:大乗仏教のめざす理想の人間像 ○自利・・・自己の探求と悟りの成就。 ○利他・・・他者を苦しみから安らぎへと導く。―――両者の同時成立。同時進行。

菩薩とは、自己一人の悟りを求めずに、悟りの真理をたずさえて、現実世界に降り

立ち、生きものの苦しみに共感し、ともに安らぎに至るように願った存在である。

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Ⅳ 浄土教における人間観

人間の現実 凡夫の虚偽性を自覚する――「罪悪生死の凡夫」「迷える愚かなもの」 ○ プルタグジャナ(pŗthag-jana 個々別々の人)「凡夫」「異生(玄奘訳)」 ※凡夫(中村元『仏教語大辞典』下巻 1269 頁。東京書籍)

①愚かな人。凡庸な人。愚かな者。愚かな一般のひとたち。無知なありふれた人たち。仏教の教えを知

らぬ人。平凡な人。いまだ仏道に入っていない人々。迷える人々。聖者に対していう。とは、仏教の道

理を理解していない者。俗人。 ②pŗthag-jana を玄奘などは異生と漢訳した。凡庸な士夫という意で、いまだ四諦の道理を理解して

いない凡庸浅識の者をいう。愚かな者の意にも用いられ、底下の凡夫などという。 ※ 「異生」「庶民」 → 人間の存在性「凡夫」(後代の仏教)

→ 自己の把握「凡夫」「愚癡凡夫」「凡庸劣夫」(中国・日本における大乗仏教・浄土教) 「独りひとり別々に生まれたもの。異生」の意味をもつ pŗthag-jana (puthujjana)が一「般の人」「愚

かな人」を意味する語となり、さらにこれが複数形に用いられて「下層階級の人びと」とか「愚かな一般

のひとびと」という意味をもつ語となったといえよう。ところでこの一般の人間をあらわす prthag-janaという語が、とくに人間の存在性(煩悩)を把えて、「無智者」とか「愚癡凡夫」とかのことばとして表

現されるようになったのは、後代の仏教思想においてである。さらに人間の存在性の内面的な自覚内容と

して、自己を「凡夫」「愚癡凡夫」「凡庸劣夫」の意味に把えるようになったのは、中国からわが国にい

たる大乗仏教、なかでも浄土教思想のなかにおいてである。・・・それは第三者からする人間の呼称でな

く、自己の宗教的自覚をともなって生じる「自己の姿」として、すなわち主体的な自己の自覚内容となる。

(高橋弘次著『法然浄土教の諸問題』12 頁。1994 年 山喜房仏書林)

凡夫の救い――阿弥陀仏の本願

求道者として、涅槃の境地に入らずに、衆生を救済するというのが、大乗仏教の求道者の理想であ

ったのに対し、浄土教においては、求道者が発願修行して、仏となり、その理想の国土にすべての衆

生を迎え取るという思想になった。そして、そのような願いを建て、理想の国土を建設したのが、『無

量寿経』に説かれる阿弥陀仏である。『無量寿経』には、久遠の昔、世自在王仏のもとで、法蔵菩薩

が発願修行して、四十八願を建て、一切衆生の苦悩を抜き、救われる道を完成して阿弥陀仏となり、

西方の極楽浄土にましますと記されている。第一願と第二願に、浄土には、地獄・餓鬼・畜生が存在

せず、二度とその三悪趣に堕ちていくものもいないと誓われている。第十八願の「若不生者不取正覚」

の誓願には、一切衆生がさとりに入らない限り、仏自らもさとりに入らないという自他不二なる救い

の姿勢があらわれている。たとえいかなる悪人でも、信心をおこし、阿弥陀仏の名号を称えるならば、

すべてさとりを得て救われるようにしたい。これが法蔵菩薩の願いであり、自利利他の実践である。

念仏すれば、賢者も愚者も、善人も悪人も、富めるものも貧しきものも、老若男女もわけへだてなく

救われるというのが、仏の願いである。仏の慈悲の姿勢は、『無量寿経』に、こう説かれている。

一切の万物において、しかも随意自在なり。もろもろの庶類のために不請ふしょう

の友とも

となる。群生を荷負

してこれを重担とす。・・・大悲を興して衆生を愍れみ、慈弁を演べ、法眼を授く。三趣を杜ぎ、善

門を開く。不請の法をもつてもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。もろ

もろの衆生において視そなはすこと、自己のごとし。(『無量寿経』巻上。真聖全 1 の 3~4 頁。大正

蔵 12 巻 266 頁上。註釈版聖典 7 頁 )

この「不請の友」とは、「仏は、衆生が自ら請願しなくても、生きとし生けるもののために大いなる

慈愛をもって、その親友となる」ことを意味する。また、「もろもろの衆生において視そなわすこと、

自己のごとし」とは、「生きとし生けるものの喜びや悲しみをしっかりと見ておられるのは、あたか

も自分自身のことのようである」という意である。浄土教における仏の慈悲とは、ひたすら自他不二

の慈愛に生きることであり、父母が子を一心同体になって思うように、仏が衆生を思う慈愛である。

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それでは、仏の慈悲に照らされて気づく凡夫の姿とは、どのような姿であろうか。

聖徳太子にみる凡夫観 ○「凡夫は生死を愛し、涅槃を畏れる」(『維摩経義疏』仏国品) ○「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違うを怒らざれ。

人皆心有り。心各々執れること有り。彼是むずれば、我は非むず。我是むずれば、彼は非むず。我必ず聖

(さかしき)にあらず。彼必ず愚に非ず。共に是れ凡夫(だたびと)ならく耳。是く非しき(之)理、誰

か能く定むべけむ。相共に賢しく愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。」 (『十七条憲法』第十条) <語義> ○忿・・・・・・・心が狭くせわしく怒ること。 ○瞋・・・・・・・目を張って顔色に出して怒ること。「おもへり」とは顔面・顔色の意。 ○執れる・・・・・自分の主観に固執し、迷うこと。 ○是むずれば・・・ヨミスレバの音便。「良いとする」「是認する」 ○非むずれば・・・アシミスレバの音便。「悪いとする」「否認する」 ○鐶・・・・・・・金属製の輪。耳飾り。腕輪 凡夫としての人間:聖徳太子のめざした理想の人間像

聖徳太子は、凡夫のありのままの姿を見つめ、その凡夫のめざすべき姿勢について明かしている。

――凡夫はみなそれぞれ何かに固執して生きている。 他者が自己と異なった意見をもつことに怒りをいだいてはならない。自己が良いとすれば相手が

悪いことになり、相手が良いとすれば自己が悪いことになる。しかし自己が常に聖でないように、

相手も常に愚かではない。ともに同じ凡夫、ただびとである。 ――人の尊卑賢愚について誰も決めることはできない。

地上のすべての人は同じ凡夫である。凡夫の自覚から平等の視座がうまれる。 他と比較し優劣を競うだけでは、怒りやあきらめを生むだけである。

この地上の人間をすべて凡夫とする視座は、縁起思想に基づいている。 ――すべての存在は、金の輪に端がないようにつながっている。

自己の愚かさを知る謙虚さとともに、あらゆる人々との心のつながりに気づくことが、人と人と

の相互理解をもたらす。 親鸞浄土教の七祖にみる凡夫観

次に、親鸞の尊敬した浄土教の七人の先師が、凡夫についてどう見ているか考察したい。

龍樹『易行品』・世親『浄土論』には、凡夫の用語は見当たらない。 曇鸞和尚(476~542) 「三界をみるに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、尺蠖の循環するががごとく、蚕繭

の自縛するがごとし。哀れなるかな、衆生はこれ三界に縛られて、顛倒不浄なり。」 (『往生論註』巻下 清浄功徳 浄土真宗聖典註釈版七祖篇57頁)

「この三界はけだしこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり。」(『往生論註』8 観彼世界相 勝過三界道) 「凡夫の衆生は身口意の三業に罪を造るをもつて、三界に輪転して窮まり巳む ことあることなからん。」(『往生論註』(87)) 『経』(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず」とのたまへり。

これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。

(『往生論註』(93)) 「凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すな

はちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。」(『往生論註』【60】)

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道綽禅師(562~645) 「この三界はすなはちこれ生死の凡夫の闇宅なり。」(『安楽集』9) 「もろもろの凡夫の心は野馬のごとく、識は猿猴よりも劇し。六塵に馳騁して、なんぞかつて停息せん。」

(『安楽集』22) 善導大師(613~681) 「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ

罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つに

は、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだ

めて往生を得と信ず。」(善導『観経疏』散善義 信巻に引用。註釈版聖典 217 頁) 「われら凡夫、すなはち今日至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微

微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(『観経疏』14) 「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流

転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶま

で、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。」

(『往生礼讃』2。信巻に引用。) 「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に淪みて、苦つぶさにいふべからず。今日善知識に遇ひて、

弥陀の本願名号を聞くを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。「願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨て

たまはずして摂受したまへ。弟子、弥陀仏の身相・光明を識らず。願はくは仏の慈悲をもつて弟子に身相、

観音・勢至・諸菩薩等およびかの世界の清浄荘厳・光明等の相を示現したまへ」と。(『往生礼讃』48 行

巻に引用。) →道綽の『安楽集』、善導の『往生礼讃』や『観経疏』の凡夫観は、源信や法然へ継承される。 源信(942-1017) 「まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらん

や。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の

住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。信心あさけれども本願ふ

かきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。功徳

莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の

ほかに別に心はなきなり。臨終のときまでは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来

迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しい

だしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて決定往生疑あるべからず。」『横川法語』 「六道のうち、真実を求め仏の教えを聞こうとするのは人間だけです。欲望に支配され、驕りたかぶった自己中心的

な世俗的な生き方を否定して、仏道に生きようとするのは人間だけであります。このようなことを為しうる人間に生

まれたということは、よろこぶべきだというのです。」神子上惠群法話 2005 年 5 月。 法然(1133-1212) 「それ善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、たたむまれつきのままに念仏する人を念仏

にすけささぬとは申すなり」(禅勝房伝説の言葉 法然上人全集 462 頁)

「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくはなになりともよろ

づをいとひすてて、これをととむべし、いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし、妻をまう

けて申されずば、ひじりにて申すべし。・・・衣食住の三は、念仏の助業也、これすなわち自身安穏にし

て念仏往生をとげんがためには何事もみな念仏の助業なり。」(禅勝房伝説の言葉 法然上人全集 462

頁)

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Ⅴ 親鸞の人間観 親鸞の人間観は、阿弥陀仏の光に照らされて、ありのままに映し出された自己の自覚である。その

親鸞の自己把握は、(1)衆生としての人間、(2)凡夫、愚者としての人間、(3)如来に等しき

人としての人間という三つの自覚が一つに統合されている。 (1) 衆生としての人間 第一に、親鸞は人間を生きとし生けるものの一員として自覚している。衆生とは、いのちあるもの

すべてをさし、迷いをくりかえしながら生死輪廻している存在を意味する。衆生というのは伝統的な

古い訳語であり、玄奘以後の新訳では、「有情」という。 「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽に

して真実の心なし。」(『教行証文類』信巻至心釈 真聖全 2 の 59-60 頁。註釈版聖典 231 頁) 「然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし」(信巻 欲生釈 真聖

全二の六六頁) ――ここに説かれているように、親鸞は、数限りない多くの有情が煩悩の海に流転し、迷いの海にお

ぼれていると捉えている。

「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたす

け候ふべきなり。」(歎異抄 5 章) ――ここに示されるように、生きとし生けるものは、生まれ変わり死に変わりしながらつながってい

る父母兄弟である。この生命連繋の衆生観は、いのちあるものすべての一体感を生み出している。 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(『浄土和讃』82) 「超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す」(『浄土和讃』114) 「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」(『浄土和讃』115) ――これらの文に示されるように、阿弥陀仏はちょうど親が一人子を愛護するように、すべての衆生

を慈しみ、摂取してすてない。また子供が母を思えば、母のおもかげが浮かぶように、衆生が仏

を憶念すれば、仏を拝見することができるとも明かしている。その意味では、仏と衆生とは、親

子のように離れない関係であることがわかる。 (2) 凡夫としての人間 第二に、衆生という表現とともに、凡夫という表現を尊重する。仏に照らされた凡夫とは、罪業が

重く深く、迷いつづけ、苦しみのなかにある存在である。また同時に、その惑いに染まった凡夫は、

仏の本願を聞き信じるとき、正定聚、仏となるべき仲間になっていくとも明かしている。

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「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀

本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。」(『教行証文類』行巻 『往生礼讃』

引用。真聖全二の二〇頁。註釈版聖典 166 頁) 「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。かならず無量光明土に至れば、諸有

の衆生みなあまねく化すといへり。」(『教行証文類』行巻 真聖全二の四五頁。註釈版聖典 206 頁) 「煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のは

からひにあらず候ふ。」(『御消息集』 真聖全二の七一二頁。註釈版 776 頁) 「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。」

(『教行証文類』証巻 真聖全二の一〇三頁。註釈版聖典 307 頁) 「〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかに

ありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。」(『教行証文類』証巻 『往

生論註』引用。真聖全二の一一〇頁。註釈版聖典 319 頁) 「煩悩成就せる凡夫人、煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり。淤泥華といふは、

『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは

凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を

示す。」(『入出二門偈』 真聖全二の四八三頁。註釈版聖典 549 頁) ――この「煩悩成就の凡夫」、すなわち、「煩悩を完成している凡夫」という表現には深い意味が込めら

れているように思う。凡夫が自らの愚かさにすみずみまで気づくことが、悟りへの縁となることを表

わしているからである。煩悩を消滅して、さとりにいたるのではない。自らの煩悩をありのままに知

り悲しむところ、煩悩を断ぜずして、その煩悩が涅槃に転じられていくのである。ちょうど泥の中か

らしか蓮の花が咲かないように、煩悩の泥の中からこそ仏のさとりの花を咲かせることができること

を、ここに明かしている。 「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証

の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」(信巻 註釈版聖典 266 頁)

――この文に示されているように、親鸞自身が自らを愛欲の海に沈み、名誉や利益の山に惑い、正定聚に

いることを喜ばず、真実のさとりにちかづくことを快く思っていないことを素直に表白している。仏

の光に照らされたとき、その光の中で見えてくるのは、自己の愛執の深さであり、愚かさであった。

もし真摯に自己を見つめるならば、それは止められない自己の愛欲に涙する以外にない。

「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」(歎異抄第三章 悪人正機説)

「故法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひし」(『末灯鈔』6 註釈版聖典 771 頁) ――これらの文に示されているように、親鸞は法然の教説を受けて、自らの愚かさを自覚する人こそが、

浄土に往生していく人であると明かしている。親鸞における真の人間性とは、自らが凡夫と自覚され

ることである。真実に出あうとは、自己の不実さに涙することであるといえるだろう。 凡夫としての人間:親鸞のめざした理想の人間像

親鸞は、自らが善人となって他人の罪悪さを裁いたのではない。愚者の自己と成って、あらゆるも

のと共に救われていく道を見出した。仏の慈悲に出あうとは、つねに愛執に翻弄されている自己の現

実を知り、その愚かな自己がそのままで決して見捨てられずに仏に受け容れられていると気づくこと

である。自らの愚かさをありのままに知るものは、賢さか

しらに人の善し悪しを裁断する心が消え、ただ

弥陀の本願に帰依するばかりである。悪人正機説は、自らの悪に気づくものにこそ救われる道が開か

れることを明かしている。誰もが凡夫であることに気づき、深い心の傷を持って生きていることに気

づくとき、皆同じ凡夫となって共感しあい、孤立している人間同士が支えあえることを明かしている。

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(3) 如来にひとしき人間

仏と等しき人に成る 第三に、親鸞は、真実の信心に生かされている人を、如来に等しいとも、弥勒菩薩と同じとも表現し、

仏に連なる人間の尊さをほめたたえた。 「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、

如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。」(御消息11『末灯鈔』3 註釈版聖典758) ――この文に明かされるように、この身体は不浄でありつつも、心は如来にひとしいと、親鸞は自覚して

いる。 「この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人

とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位

に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。」(御消息6 『末灯鈔』2 註

釈版聖典748頁) 「真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無

上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいた

るとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふ

なり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申す

なり。」(『御消息』(20)『末灯鈔』第七通。註釈版聖典778頁) 「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき、摂

取して捨てられまゐらせざるゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩とおなじ

位になるとも説かれて候ふめり。弥勒とひとつ位になるゆゑに、信心まことなるひとを、仏にひとしとも

申す。」(『御消息』(39)『末灯鈔』第18通。註釈版聖典802頁) ――これらの文に示されるように、真実の信心をたまわった人は、仏に摂取されて見捨てられることがな

いから、決して壊れない金剛心をえて、正定聚の位に入るとされ、また等正覚、すなわち、弥勒菩薩

と同じ位になるともされている。親鸞は、『無量寿経』第十八願ならびに『如来会』本願文によりな

がら、信心の人を如来に等しい人であるとほめたたえた。阿弥陀仏の摂取不捨の慈悲にいだかれて、

汚れて悪をなせる私が、まことの人間(如来に等しき人)に成長すると、親鸞は明かしている。

人そしてあらゆる世界に、仏性が満ち満ちている 罪業深重の凡夫が信心をえたとき、如来と等しき人になるとは、どういう構造であろうか。それは、自

己の不浄造悪さが消滅して、清らかな仏のように成長するということではない。不浄造悪な凡夫性はその

ままでありながら、その自己に、仏性なる如来が満入して、信心となり、如来と等しき人になるという構

造である。それについては次の和讃に示されている。

「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」(浄土和讃(94) 註釈版聖典573頁)

また、『唯信鈔文意』には、涅槃というかたちなき仏性が、如来となって、あらゆる世界に満ち満ちている

と説かれている。

「「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、

真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、

すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり。」(真聖全

二・六四八頁。註釈版聖典七〇九頁)

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この一段は、涅槃が無為であり、真如であり、仏性であり、如来であることを説明した箇所であるが、

その如来が、あらゆる世界に遍満していることを示している。仏性がそのまま如来であり、最も微細

な塵の世界にまで、その如来が至り届き、満ち満ちているという。その如来の満ち満ちた心において、

本願を信じるから、信心が仏性となるとされている。したがって、この『唯信鈔文意』の一文には、

如来、仏性なる真実が、この世界のすべての存在に貫徹し、満ち満ち、その如来から至り届いた信心

が仏性であることを示しているといえるだろう。

愚痴無知のひとのめでたき往生 「なによりも、去年、今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。

ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめす

べからず候。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定

聚に住することにて候なり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひに

て往生するよし、ひとびとに申され候ひしこと、たがはずこそ候ふなり。」(『末灯鈔』6 註釈版聖

典 770-771 頁) ――平生において、人間の計らいを超えた、阿弥陀仏の本願を信順して念仏するところ、往生すべき

身と定まると、親鸞は示した。他力にいだかれた境地においては、もやは臨終の善し悪しをあれ

これと心配する必要なない。臨終における人間の心の状態によって往生が決まるのではない。ひ

とえに如来の計らいによって往生する。 ――このように、親鸞は、人間を生きとし生ける衆生の仲間として受けとめ、また罪業深重で、つね

に迷いをくりかえしている凡夫であると受けとめつつ、その愚かな凡夫であることを自覚するも

のをこそ、仏は摂取して捨てないことを明かしていた。さらに、罪業深重の凡夫に、如来の真実

が貫徹して、本願を信じるとき、心は如来と等しい凡夫であるとも明かしているといえるだろう。

重要なことは、真実に出会って、人間の愚かな凡夫性がなくなるのではない。凡夫性を有したまま、

仏の本願に貫かれ、心が真実に触れ、如来と等しき人になると親鸞は明かしている。親鸞は、凡夫に

ついて次のように述べている。 「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ

こころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへ

にあらはれたり。(『一念多念文意』 真聖全二の六一八頁) このように、人間の凡夫性は、生涯変わることはない。し

かし、凡夫性の自覚は、自己を卑下したものでない。それは、

その凡夫なる自己に如来が満入しているという実感である。

凡夫が如来の本願を信じるとき、仏の大悲にいだかれて、自

己の愚かさをありのままに見据えることができるというこ

とである。真実に触れるとは、己の煩悩の深さに気づいて、

謙虚に生かされていく道が開かれていくことであろう。

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人間の救われていく道―― 慚愧と転成 慚愧

親鸞は、罪業深重の凡夫の救われていく道についてどのように考えていたであろうか。人間の救わ

れていく道を明らかにするために、阿闍世の救いの物語を考察したいと思う。 阿闍世は父を殺めてしまった後、その罪意識から病気になった。耆婆は悩める阿闍世にこう語った。

「王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、

二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教

へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。こ

れを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」(信巻『涅槃経』引用。註釈版聖

典275頁)

耆婆は、阿闍世に、「罪を深く悔いて、慚愧することが、人として生きる道である」と説いた。慚

愧(Repentance)とは、次の通りである。

● 慚(Shame) 自分が二度と罪をつくらない。心に自らの罪を恥じる。 人(相手)に対して恥じる。<自己への愛情>

● 愧(Self-reproach) 人に罪をつくらせない。人に自らの罪を告白して恥じる。 天(世間)に対して恥じる。<他者への愛情>

このように、罪を感じている時には、自らの罪の事実を無視し、他人に転嫁しても、何の解決にも

ならない。自己を偽ることで苦しみが増すだけである。救いの最初の過程において重要なことは、自

らの罪を罪として見据え、心の底からありのままに告白するということである。 慚愧そのものは自己を知ること、真摯に生きることである。罪は自分自身が感得していかなければ

ならない。すなわち、慚愧は、救いのための通過儀礼でもなければ、罪を滅するためでもなく、一生

涯つづいて深まっていく。それについては、阿闍世がついに、無根の信をおこした後においても、

「われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前において悔ゆ。願わくは後にまた造ることな

からん。」(信巻 真聖全二・九三-九四頁。註釈版聖典二八九頁)

と告白するところに明らかである。無根の信が阿闍世の心に生まれるとは、阿闍世が仏の前で、謙虚

に懺悔することを意味する。阿闍世の慚愧は、父を死なせてしまった直後に始まり、ついに仏の願い

が阿闍世に満ち満ちて、阿闍世の心に、無根の信が開かれた後も、一貫してつづいていくのである。

親鸞は慚愧について、こう記している。

「無慚無愧のこの身にて

まことのこころはなけれども

弥陀の回向の御名なれば

功徳は十方にみちたまふ」(『正像末和讃』(九七) 真聖全二・五二七頁。註釈版聖典六一七頁)

まことの慚愧に至っては、慚愧すらもできない自分自身であると、親鸞は述べている。しかも同時に、

その慚愧も無き自己に、本願の名号の功徳が満ち満ちているというのである。真の慚愧は、自らの意

志や計らいによって、自覚されたものではない。他力廻向の本願が偽りをかかえた自己を貫くときに、

おのずともたらされるのが、真の慚愧である。

真の慚愧は、仏の本願力によって開かれる。慚愧はどこまでも自発的なものである。慚愧は裁きを

恐れて、罪を許してもらうために行う儀礼ではない。罪を消去することが目的なのでもない。真の慚

愧は、罪と向き合い、深い罪業をかかえたそのままで仏に救われ、謙虚に生きていく道を開いていく。

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ありのままの救い 親鸞は、仏の摂取不捨の願いにより、罪業深重のままで救われていくことを明かした。人間の罪業

深重を何かで償い、軽くすることによって救われるのではない。むしろ自己の罪業深重さがありのま

まに深く知られてくるところに、救いへの道がある。 「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」(『正像末和讃』(36)(37)真聖全二の五二〇頁。註釈版聖典606頁)

これらの和讃は、罪業深重をものともしない仏の本願力の無限性を明らかにしている。仏の願いは、

迷いの海を渡る大きな船であり、だからこそ自らが罪業深重であると悲しまなくてもいいという親鸞

の言葉には、ありのままで救われるという安心感や力強さがあらわれている。 また歎異抄には、本願の救いについて、次のように明かしている。

「さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさ

よ」(歎異抄後序)

「それほどの業をもちける身」とは、「それほどかかえきれない業を背負っている身」「現にこの

通りの人生にある私」ということを意味する。すなわち、どうしていいのかわからないくらい苦しい

現実にある私を、そのまま助けようと思われたのが本願であり、その深き仏の願いを思うとき、申し

訳なくもったいないというのである。罪業の重さをものともしない仏の慈悲がここに示されている。 蓮如本の『歎異抄』では、「それほどの業」と記されているが、大谷大学蔵永正十六年の書写本で

は、「そくばくの業」と記されている。「そくばく」とは「そこばく」のなまりで、この場合、数量

がとても多いことを意味している。そこで、「そくばくの業をもちける身」という場合は、数え切れ

ないほどの罪業をかかえているわが身という意味になる。 いずれにしても、「私はもう自分ではどうすることもできないほどの、数知れない重い業をかかえ

ているのに、その私を見捨てることなく、そのままで助けようと思われた仏の本願であったことはな

んともったいないことであろうか」という深き救いを表わしている。 転成 では、「願力無窮にましませば 罪業深重おもからず」「それほどの業をもちける身にてありける

をたすけんとおぼしめしたちける本願」という救いは、人間の罪をどのように変容させるのだろうか。 まず、人間の罪は、何によってもたらされるのだろうか。キリスト教においては、アダムが欲望の

実を食べ、神の誓いに背いたところに罪は始まり、神に背いた罪としてすべての人間に死がもたらさ

れたとされている。その意味では、神に背いたことによって罪が引き起こされ、罪の代価として死が

与えられたということになる。アダム以来、人は生まれながらにして罪を有しているとされる。 それに対し、親鸞や浄土教の先師が、人間を罪業深重の存在であるというとき、その罪は何によっ

て生まれたのだろうか。罪はどこからくるのであろうか。親鸞において、罪は生まれながらにもって

いるような固定的な性質ではない。むしろ親鸞は、罪が本来、形なきものであると明かしている。罪

の生まれてくる訳について、親鸞はこう記している。 「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(『正像末和讃』107 真聖全二の五二八頁。註釈版聖典六一九頁)

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罪業は、もともと固定的に実体として形をなしているのではない。罪は、偏った虚妄分別でものを

捉え、転倒した見方に固執することによってもたらされる。心の本質は清らかであるにもかかわらず、

この世界には真実の人はいない。と、親鸞はここで明かしている。 罪は本来形なきものであり、妄想や曲解によって生みだされることがわかる。換言すれば、もとも

と人間は清いからこそ染まりやすくもろいということである。本来、人間の心は汚されていないから、

唆され、誘惑されやすく、罪業を犯してしまうといえるだろう。 Cf. 「『罪業もとよりかたちなし』とは、『涅槃経』に説かれた阿闍世の殺害の非有のことであり、『妄想転倒なせるな

り』は、三在釈の在心にほかならない。『罪業もとよりかたちなし』と知る知見こそ、そこには、深い慚愧の心があり、

空性の般若たる無分別の智に徹倒している心よりはじめて起こる。無分別の場こそ、もとより浄き心性の開示であり、

それはまた同時に、この娑婆世界を生死輪廻の虚妄的世界と知る如実知見の心眼が開かれる場でもある。」(武田龍精

『親鸞浄土教と西田哲学』286 頁。永田文昌堂)

それでは、その虚妄の分別にとらわれて生まれた罪は、どのように転じられるのだろうか。 親鸞は『高僧和讃』曇鸞讃に、罪とさとりの関係について、次のように記している。

「無碍光の利益より

威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる

罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」(『高僧和讃』(三九)(四〇) 真聖全二・五〇五-五〇六頁。註釈版聖

典五八五頁)

仏の願いの暖かさによって、罪がさとりに転じられるというのは、春が来て暖かくなれば、氷がと

けてすべて水になるようなものである。氷と水は姿が異なるが、その本質は全く同じであるように、

煩悩と菩提とはその体が全く同一であることを、煩悩即菩提という。煩悩は氷のように硬い執着のか

たまりであるが、氷が溶ければ、すべて水になるように、仏の光の恵みを受け、仏の願いの温もりが

自己に満ち満ちたとき、固い煩悩の氷がとけて、そのまますべてさとりの清らかな水に変わっていく

と、親鸞は明かしている。すなわち、仏の本願が迷える自己と一体になって、まよいの罪がさとりの

善に転じられるのである。罪の許しや滅罪を親鸞は願ったのではない。恐ろしい罪が清らかなさとり

へと転成されていくことを願ったのである。

親鸞は、罪業深重の凡夫が仏に転成されることについて、『唯信鈔文意』に次のように説いている。 「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、「瓦」はかはらといふ、「礫」

はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこ

がねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものは、みな、い

し・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひ

かりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふ

し・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへ

るなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。(『唯信鈔文意』。真

聖全2の629頁。註釈版聖典708頁)

このように親鸞は、石や瓦や礫のような人間でも、本願を信じ、阿弥陀仏の

摂取の光にいだかれて、迷いを転じて、黄金色に輝き、仏のさとりを開くこと

ができると明かしている。ここに、すべての凡夫が本願を疑いなく信じて、仏

の光に摂取されて、必ず仏に成ることができること、すなわち、迷いの多い凡

夫がまことの人間に転成されることを明かしている。

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人間の在り方 仏教のめざす人間の理想像

寛容な姿勢――柔和忍辱のこころ それでは、この正定聚についた人間は、どのような社会的姿勢を育んでいくのであろうか。 正定聚の人が、どのような社会的態度を示すのかについて、親鸞は、手紙にこう記している。

この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の

人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたま

はざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人と

も、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれ

ば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生する

なりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべ

し。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念

仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころ

をもつべし」とこそ、聖人(源空)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。(慈信房善鸞義

絶の前年にあたる 1255 年。親鸞 83 歳。『御消息』6 『末燈鈔』第二通 註釈版聖典 748 頁)

・・・正定聚につくということは、現実の人生において、具体的な変容をもたらす。 誹謗するものに対して、誹謗してはならない。

憎しみに対して憎しみを返してはならない。 忍耐と寛容さ、それが真実信心の人の社会的姿勢である。

信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。

わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころ

も出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれ

と弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ

自然なり。(『歎異抄』第十五章) ・・・真実信心の人は、柔和・忍辱のこころがうまれる。 柔和・・・心も身体が柔らかくなる。 忍辱・・・耐え忍ぶこと。侮辱や迫害に対して忍びこらえて、心が安らかに落ち着き、瞋恚

のおもいを起こさないこと 「もともとわれわれ人間の、うちにつながる根源的・不可避的な罪濁の歴史を凝視しつづけた親鸞にとって、「柔和忍

辱」の人間像こそ、現実の世界における彼の人間像として至りうべき最高の段階であり、理想像でもあったといえ

る。・・・・人生への具体的な表現は、不実の自身に対する慚懺と、それにそそがれる大悲への謝念を軸として、「よきこ

ともあしきことも業報にさしまかせて」、すべての固執や偏見をこえた柔和忍辱の心情であった。」(藤原幸章「真宗の

人間像」310 頁。『仏教の人間観』平楽寺書店)

二河白道の比喩―慚愧と転成 「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねた

むこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたと

へにあらはれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光

仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、

かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫

念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。」

(『一念多念文意』 真聖全二の六一八頁。註釈版聖典 693 頁)

――この二河白道の比喩は、無明煩悩の凡夫が、貪欲の水の河、瞋恚の火の河の只中にありながら、仏の

本願力の道を一歩一歩歩むところ、阿弥陀仏の光におさめとり護られることを明かしている。誰にで

も、迷いの中で、仏への道が確かに開かれていることを、二河白道は教えている。人が死に直面して、

限られたいのちであることに気づき、釈尊の勧めと阿弥陀仏の呼び声を聞いて、決心して前に進むと

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き、自らの前に限りないいのち白い道が開かれる。すなわち、罪業深重なる苦しみの只中に、必ず道

が開けてくることを二河白道は示している。それはまた、罪を消し、罪が許されて仏の世界にたどり

つくのではない。罪を自覚し、臨終まで消えることの煩悩の只中に、浄土への道が開かれると示して

いる。すなわち、罪の慚愧と罪の転成によって、救いへの道が確かに開かれてくるということである。

Cf. ミケランジェロ 最後の審判―罪の裁きと和解

教皇パウルス 3 世がミケランジェロに制作を依頼し制作された大作『最後の審判』。主題はその名の示すようキリス

トが再臨して人類を裁く教義≪最後の審判≫であるが、その解釈と表現には新旧の聖書のほか、ダンテの神曲やトン

マーゾ・ダ・チェラーノの『怒りの日』、カトリック改革派の思想、マルティン・ルターの異教的思想など、さまざま

なものが影響していると推測されている。その為、制作当初からスキャンダラスとして批判を受け、異教的であると

いう理由から画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラに依頼し裸体で描かれていた人物に衣服が描き加えられたのを始め、

最終的には 44 箇所に及ぶ加筆がおこなわれた。

左図 生きながらに皮を剥がれ殉教した聖バルトロマイは、自身の皮をその手に

持つ。聖バルトロマイの顔はピエトロ・アレティーノの姿で、剥がされた皮に浮

かぶ顔はミケランジェロの自虐的な自画像であるとされている。 右図・・・地獄の罪人たちと、死者の魂を裁判する地獄の王ミノス。ミノスはギ

リシャ神話に登場するクレタの王で、最古の海軍を組織し海賊を追い払いエーゲ

海域を制覇、法を制定し善政をおこなった後に死去するが、弟ラダマンテュス、

敬虔で知られたアイアコスとともに冥府の裁判官となったとされる。また死者の

魂を裁判する者ミノス王を、壁画制作について教皇に苦言を述べていた(教皇庁)

儀典長ビアージョ・ダ・チェゼーナの顔に似せ描いた。

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二河白道にみる救いの構造・・・・罪の慚愧と転成 <穢土と浄土の連続性> 最後の審判にみる救いの構造・・・罪の裁きと和解 <天国と地獄の二極性>

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穢土を包む浄土 「この界に一人、仏の名(みな)を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて

生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて

迎へたまふと」(行巻 聖典 172)

―――この穢土において念仏をとなえるとき、西方浄土に一つの蓮の花が生まれる。

一生涯、常に不退転であれば、その華がこの世界に還って迎える、という。 浄土は、この世界の汚れ、自己のありのままを映し包んでいる。 浄土は穢土の罪悪性を省みれば、穢土から隔絶しているが、同時に、浄土はその穢土をつねに慈しみ、

穢土を包んでいる。

生死を超えた絆を育む・・・・・・互いに師弟となって導きあう 親鸞は弟子たちの臨終に際して、数多くの手紙を送っている。たとえば、

この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかなら

ずかならずまちまゐらせ候べし。(『末灯鈔』一二通 真聖全二の六七三頁。註釈版聖典七八五頁)

「私は今はもうすっかり年を取ってしまいました。定めしあなたに先だって浄土に往生するでしょうから、

あなたを浄土で必ずお待ちいたしましょう」という意である。親鸞は、死は終わりでなく、浄土に誕生す

ることであり、死別してもまた会える世界がある(「倶会一処」)と明かした。死ぬこと自体は決して不幸

ではなく、人間の思いの及ばぬ死の彼方は、仏の光に満ちていると説いた。また亡き人は仏となって家族

の心を導いてくれると説いている。このように、心の中に愛する人が生きつづけるという実感は、患者の

孤独感を和らげ、死を超えて、家族と患者の心をつなぐことになるだろう。 また、親鸞は『教行証文類』の最後に『安楽集』を引用して、次のように記している。

「『安楽集』にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは

後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生

死海を尽さんがためのゆゑなり」と。(化身土巻 註釈版聖典474頁)

――先に生まれたものは、後輩を導き、後輩は先人を訪ねよ。その連携がずっとつづいていくことを願う。

なぜなら、果てしなき苦しみの海に沈むものを救うためである。ここに、世代を超え、死を超えて、

互いに師弟となろうという願いが示されている。命あるものには必ず別れがある。その別れが訪れる

ことを知っている。だからこそ、死を超えて支えあう真実の道をともに歩んでいくことを仏教徒は強

く願った。先輩は後輩を導き、後輩は先人に学んでその道を継承するとき、生死の迷いを超えた道が

切り開かれ、死を超えた絆が育まれていくだろう。 親鸞のめざした理想の人間像:往相還相の菩薩としての人間

人は、仏の摂取不捨の慈愛に包まれて、自らの愚かさを知り謙虚に生き、死を迎えた時、浄土に往生し

て仏と成る。浄土に生まれた後は、翻って生きとし生けるものの苦しみを救うために穢土に還ってくる。

親鸞のめざす理想の人間像とは、自利利他を願って、往相還相の循環する道を歩むことにある。迷いから

悟りへ往き、悟りから迷いへ還ってくるという、終わりのない夢、終わりのない情熱に生きることが、人

の存在意味となっている。人々が、惑いの多い凡夫として相互に理解し合って、安住を求め、先輩と後輩

が、世代を越え、死を超えて、互いに師弟となって導きあうところに、仏教のめざす人間の理想像がある。 Cf.「神の国は、永遠の魂が永遠の命を得て、永遠の幸福の中に住む所だそうで、さまざまの苦悩に満ち溢れた現世と

は全く隔絶した世界です。現世においてさまざまな苦悩があるのに、全く別のところには、永遠の幸福な天国がある

というのでは、独り善がりで受け入れがたい考え方だと思います。一方、お浄土という所は、決して現世の苦悩や無

明の世界と切り離された所ではありません。むしろ、苦悩に満ちみちた無明の世界に向かって、救済力として働き出

る活動の世界なのです。ヨーロッパに生まれ育った私は、お浄土そのものが「還相回向」となってこの苦悩の娑婆に

働きかけるという教えに、まことに新鮮な感動を覚えるのです。浄土とは、幸福を誰にもわけられない、孤立した世

界ではないのです。自分が救われると同時に、他をも救わずにおかぬ自利利他円満の世界こそが、浄仏国土なのです。」

(アドリアン・ペール著『南無阿弥陀仏に救われた私 一ヨーロッパ人の軌跡』25 頁。あすかぶっくす2 1985 年)