将棋雑話 幸田露伴 -...

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-1- 将棋雑話 幸田露伴 目次 1) 香車の差物と勇士と 2) 王と玉と 3) 馬子の文字 4) 玉将につきての俗説 5) 将棋と徂徠と 6) 将棋と支考と 7) 将棋と馬琴と 8) 将棋と巣林子 9) 将棋と三馬 10) 将棋を弄ぶもの親の死期に会はず 11) 将棋と本願寺上人 12) 将棋と吉備真備と大江匡房と 13) 醉象を用ゐある小将棋の擒将図 14) 伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす 15) 大橋宗桂多川勾当を屈す 16) 桑原君仲の異才 17) 添田宗太夫 18) 大橋宗英鬼と呼ばる 19) 京伝の娼妓絹篩 20) 天野宗歩一世を壓す 21) 宗歩腹戦 22) 将棋盤の定寸法 23) 市川太郎松天野宗歩と且飲み且戦ふ 24) 大橋柳雪の飄逸 25) 大橋家の墳墓 26) 将棋の種類 27) 将棋をもて遊ぶ方法 28) 圍碁象戯の難易 29) 柳雪一局に二三人を屠る 30) 大橋宗珉天野宗歩と死戦す 31) 明治の棋聖

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将棋雑話 幸田露伴

目次

1) 香車の差物と勇士と

2) 王と玉と

3) 馬子の文字

4) 玉将につきての俗説

5) 将棋と徂徠と

6) 将棋と支考と

7) 将棋と馬琴と

8) 将棋と巣林子

9) 将棋と三馬

10) 将棋を弄ぶもの親の死期に会はず

11) 将棋と本願寺上人

12) 将棋と吉備真備と大江匡房と

13) 醉象を用ゐある小将棋の擒将図

14) 伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす

15) 大橋宗桂多川勾当を屈す

16) 桑原君仲の異才

17) 添田宗太夫

18) 大橋宗英鬼と呼ばる

19) 京伝の娼妓絹篩

20) 天野宗歩一世を壓す

21) 宗歩腹戦

22) 将棋盤の定寸法

23) 市川太郎松天野宗歩と且飲み且戦ふ

24) 大橋柳雪の飄逸

25) 大橋家の墳墓

26) 将棋の種類

27) 将棋をもて遊ぶ方法

28) 圍碁象戯の難易

29) 柳雪一局に二三人を屠る

30) 大橋宗珉天野宗歩と死戦す

31) 明治の棋聖

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本 文

1)香車の差物と勇士と

江戸彰義隊(えどしやうぎたい)の勇士に天野 (あまの)八郎( は

ちらう)*1 といへるものの香車(きやうしや)を旗印(はたじるし)と

せるは、近き頃のことなれば知る人多し。まことに香車は進むこ

とありて退(しりぞ)くこと無き馬子(こま)なれば、勇士の此をも

て旗印として吾が意気(こころ)を示さんは、さもあるべきことな

り。されば古(いにしへ)にもまた此を我が標(しるし)となせしも

のあり。甲州の勇士初鹿野(はじかの)伝右衛門(でんゑもん)これ

なり。甲陽軍艦品(ほん)三十五、信玄小田原責めの件(くだり)に、

相模川を前にあてて岡田、厚木(あつぎ)、かね田、三田、つまた

に陣取り玉ひ、次の日は田村、大かみ、八幡(はちまん)、平塚(

ひらつか)に陣取り、それより國府津(こふづ)、前川、酒匂(さか

は)まで寄せ、次の日は小田原へおしつめ玉ふに、加藤駿河(する

が)の末の子、他苗(ためう)になり初鹿野伝右衛門、差物(さしも

の)に香車といふ字を書きたるに、信玄公御(ご)無興(ぶきよう)な

され候(さうらふ)、其時酒匂の川出でたるに付き、伝右衛門に瀬

(せ)踏(ぶ)みを仰せつけられ候、伝右衛門其歳二十五歳なれども、

走り廻り才覚ありて、此人時代には、小山田八左衛門、初鹿野伝

右衛門とて信玄公御旗本(おんはたもと)に若年の者なれば、酒匂

の瀬踏み能く仕(つかまつ)り候、とあり。此の伝右衛門は後に武

田勝頼長篠大敗の時も、土屋惣蔵と唯二人して飽(あく)までも勝

頼を護りたるほどの勇士なれば、香車の差物したるも相応(ふさわ

し)といふべし。但し信玄のこれを見て無興したりといふも、信玄

の信玄たるところ想ひやられていとおもしろし。信玄は進むべき

に進み、退く可きに退く将なり、進むを知りて退くを知らざる士

にはあらざりしなり。

2)王と玉と

朝川善庵*2 の随筆に予先年大橋(おほはし)宗桂(そうけい)の需

(もとめ)に応じて其著述せる将棋の書に序することありしに、王

将といふ馬子(こま)は何とも疑はしき名なり、王ならば王、将な

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らば将といふべし、王と将と混称するの理あるまじとて将棋の諸

書を攷証(かうしよう)するに、開祖宗桂より四代目宗桂まで代々

著述するところの将棋図式には、双方とも玉将とありて王将の名

なし、よつて思ふに玉を以て大将とし、金銀を副将とするなるべ

し、左(さ)すれば金将銀将の名も拠(よりどころ)ありて、ひとし

ほ面白くおぼゆ、蓋し五代目宗桂以後双方の同じく紛(まぎら)は

しきを嫌ひ、一方は一点を省(はぶ)きて差別せしにやあらんと、

今の宗桂に語りしに、宗桂曰く、それは必ず然るべし、其わけは

毎年十一月十七日御吉例にて御城に於て将棋仰せつけられ、其図

譜を上(たてまつ)るに、双方とも玉将と書すること先例にて、王

将といはぬことの由、家に申伝へ、今に代々玉将と書きて上れど

も何故といふことを知らざりしに、これにて明白なりと、遂に其

嘗て著述せる書を将棋明玉と名を易(か)へ上梓し、予が序を巻首

に載せたり、と云へり。将棋明玉は其書今存す。玉将を王将とす

るの非なることは、まことに善庵の説の如し。(但し王将もまた古

き俗称なり。御(お)湯殿上日記(ゆどののうへのにつき)*3、文禄

四年五月五日の件(くだり)に、太閤より菊亭、勧修寺、中山御使

にて、将棋の王将を改めて大将に直され候への由申さるる、御心

得あり、と見ゆるを星野博士の見出して論ぜられしことあり。玉

を王と呼びたるも五代目宗桂以後の事にはあらず。)ただし王と玉

とはただ一点の有無によりて相分るるのみならず、王の字に点無

きもまた玉と読むべく、古文は王と玉と甚だ相(あひ)異(こと)な

らざるなり。王の字の横の三画(さんくわく)の中の一画上(かみ)

に近きものは帝王の王の字にして、横三画相(あひ)均(ひと)しき

ものは珠玉の玉の字ならば、今の将棋の馬子(こま)に、一方を玉

と書して一方を王と書せるも過誤(あやまち)ならず、ただこれを

玉将と呼ばずして王将と呼ぶは過誤(あやまち)なるのみ。棋聖小

野(おの)氏(うぢ)の如きは常に玉とのみ呼びて、未だ曾て王と呼

ばず。これ其正しきを失はざるものといふべし。

3)馬子の文字

水無瀬(みなせ)兼成(かねなり)卿(きやう)男子無くして高倉永

家卿の子親具(ちかとも)を養子とす。後に至りて兼成実子あり。

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氏成といふ。ここに於て親具家督を辞し、剃髪して一齋と号す。

一齋能書の名ありければ、豊臣(とよとみ)秀次(ひでつぐ)公(こう)

一齋をして将棋の馬子(こま)の銘を書かしむ。これ水無瀬家将棋

の馬子(こま)の銘を書する始なりといふ。世に水無瀬兼成撰(さだ)

める将棋駒(しやうぎこま)の記(き)といふもの一巻ありて此事を

記せりとぞ。享保(きやうはう)六年大坂北御堂前(きたみだうまへ)

毛利田(もりた)庄太郎(しやうたらう)といふものの板(はん)にて

堂島(だうじま)新地(しんち)原喜右衛門といふものの作れる象戯

名将鑑(しやうぎめいしやうかがみ)といふ書あり。其巻(まき)の

二の十二丁裏の鼇頭(がうたう)に、水無瀬大納言様墨書(すみがき)

の駒あり、此駒にて永押(なげし)無之(これなき)坐敷にて指事(

さすこと)無かれ、元祖(ぐわんそ)古(こ)安立(あんりふ)禁筆(き

んぴつ)にて御座候、橘屋平右衛門より四代前七郎右衛門手直りて

御座候に付(つき)安立仰せあるるは、其方(そのはう)へ駒を一面

(めん)拵へ下可申(くれまをすべき)との御事にて、やうやく一年

にて出来(しゆつたい)、扨々見事(みごと)成(なる)駒にて御座候、

醉象(すゐざう)の駒二枚有、日本に一面の駒にて御座候、御望の

旁(かたがた)は私方へ御申可被成候(おんまをしなさるべくさふら

ふ)、所望仕進可申候(しよまうつかまつりしんじまをすべくさふ

らふ)、とあり。併せ考ふべきなり。

近き頃の人に手ては董齋(とうさい)馬子(こま)の銘を書きしと

いふ。おのれ之を眼にせしにはあらねど、たしかに董齋の名のあ

りしものを見しと語れる人あり。普通将棋を好む人の用うるは、

金龍、眞龍、安淸などの造れる馬子(こま)なり。金龍は眞龍より

も勝(すぐ)れ、眞龍は安淸よりも勝れたり。金龍眞龍などの造れ

るは、玉将の後(しりへ)に銘あり。駒の文字もいと正しくて読み

易く、玉(ぎょく)は二枚とも必ず玉と書(しる)しありて王とは書

さず。安淸のは銘無けれど、その文字飄逸(へういつ)の趣(おもむ

き)ありて、おのづから一家をなせば、一見して知るべし。これよ

り以下の馬子(こま)は、世にいふ番太郎(ばんたらう)馬子(ごま)

にして、其品(しな)甚だ陋(いや)しく、其文字殆ど読むべからず。

此他人人の事好みによりて造らせたる馬子(こま)には、よき人の

筆になれるもさまざまあるべし。

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4)玉将につきての俗説

いはゆる番太郎馬子(ごま)の玉将の一方は玉とあれど、一方は

王とあるがために、局に対する時、貴(たつと)き人の方(かた)へ

玉といふ字の馬子(こま)を与ふるは礼なりなどといへる俗説あり。

取るに足らぬことといふべし。されど一つは玉と書き一つは王と

書くも新らしからぬことなるにや、壒嚢抄(あいなうせう)*4 は文

安年間に成りたる書なるが、其中に象戯の馬子(こま)のことをい

ひて、一つは玉と書き一つは王と書くは、國に二王あるを忌(い)

むなり、これ手跡家の口伝(くでん)なり、とありといふ。おのれ

未だ本書に就(つい)ては見ざれど、如何はしき愚(おろか)なる口

伝なりといふべし。

5)将棋と徂徠と

徂徠(そらい)*5 は将棋を好みて初段ほどの力ありし由なるが、

人の後(しりへ)につくことを肯(がへ)んぜざればにや、或はまた

兵を談ずることを好みたる余りにや、みづから一種の将棋を創(は

じ)めたり。其譜(ふ)今猶存すれば好事(こうず)の士は就(つい)て

見るべし。譜の序に、今因二古制一而廣レ之(いまこせいによりて

これをひろめ)、聊且俾三童蒙嫻二軍伍之名一(いささかかつどう

もうをしてぐんごのなをならはしむ)とあるが如く、馬子(こま)に

は将あり記室(きしつ)あり、親兵、力士、舍人、舍餘、軍吏、軍

匠、神僧あり、中軍、旗鼓(きこ)、護兵、千総(せんそう)、砲総、

百総、前衝(ぜんしよう)、後衝、佛狼機(ふつらうき)、象、弓、

弩(ど)、砲、馬兵、騎総、歩兵、歩総、牌総(はいそう)、牌、車

総、車、先鋒(せんぽう)等ありて、甚だ軍伍の実に近し。馬子(こ

ま)の数、一軍九十、両軍相合せて、一百八十、局の大さ、縦横各

々(おのおの)十九路なり。片山(かたやま)兼山(けんざん)其譜に

序して、命世之人(めいせいのひと)、雖二鞅掌拮据之際一(あやし

うきつきよのさいといへども)、胸中別有二悠々閑日月一(きよう

ちゆうべつにいういうかんじつげつあり)、而優為レ之(しかして

いうにこれをなす)、信哉(しんなるかな)、といへるはさる事なが

ら、当時の宗桂之を評して、乃公(おのれ)に相談にてもありたら

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んには今少し面白くして世に行はれもするやう仕てまゐらせんも

のを、と云ひしとなり。棋聖小野氏所蔵の毛塚源助[江戸小網町 (こ

あみちやう)に住す、大橋宗順門人、技は六段に至る、寛政天明頃

の人]自ら書するところの冊子の末に、広象戯(くわうしやうぎ)伝

来の系図あり。これによりて見れば、徂徠より古川章甫(しやうほ)

に伝へ、古川章甫これを其子市川章甫に伝へ、章甫これを片瀬佐

右衛門、島田久兵衛、松屋源右衛門の三人に伝ふとあり。此中、

島田久兵衛は江戸の人にて毛塚源助と殆ど同時代の五段の棋客(き

かく)なること、大橋宗英選むところの将棋奇戦に徴して明かなれ

ば、徂徠の将棋も寛政あたりまでは稀に之を玩(もてあそ)びしも

のもありしと見ゆ。されど今はこれを玩ぶ人殆ど絶えたるなるべ

し。因(ちなみ)に記す、徂徠の作るところの象戯は廣象戯譜一巻

ありて、其式今に存するを得たりといへども、不幸にして騎総、

天馬(てんま)、軍師、旗鼓、霹靂(へきれき)等の馬子(こま)の行

度(ききみち)に誤謬(あやまり)ありて、用うべからずといふ。憾(う

ら)むべきなり。

6)将棋と支考と

古(いにしへ)は庾(ゆ)開府(かいふ)*6 象戯賦(しやうぎのふ)あ

り。我邦の支考(しかう)*7 これに対して負けじ魂を振り起せしと

にはあらざるべけれど、其作るところの将棋の賦は才筆縦横、所

謂(いはゆる)俳諧文字の上乗(じやうじよう)といふべきものなり。

其文に曰く。象戯は蠻觸(ばんしょく)のあらそひ*8 を表(あらは)

して、我朝(わがてう)には将棋といふ。もとより張陣の法ありて、

盤上に智慧をたたかはしむ。國に明王のあらば家に忠臣の義無か

らんや。勝負は時の運によらず、上手と下手との詮義なるべし。

[評、一語徹底。又曰、下手は時の運に乗りて勝ち、上手はおのが

智に躓(つまづ)いて負く。]そもそも馬組(こまぐち)の法といふは、

左がこひ、右がこひ、(左がこひは我が王を左のかたに寄せて金銀

其他をもて護らするなり、右がこひは之に反するなり)雁木(がん

ぎ)、片櫓(かたやぐら)など[いづれも囲ひかたの式の名なり。雁

木は其形雁木の如くなれば然(しか)云ふなり、片櫓は櫓を組みた

るが如く囲ふを以て云ふ。雁木といふは今行はれざるに近し、片

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櫓は今も行はる]金銀、桂、香を八手に分けて、飛車と角行(かく)

とは軍師の位(くらい)なるべし。昔は漢(かん)に張良(ちやうりや

う)あり蜀(しょく)に孔明(かうめい)あるが如き、諸軍はすべて其

下知(げち)に従はずといふものなし。[評、飛車と角行(かく)とを

軍師に擬(ぎ)して、諸軍はすべて其下知に従はずといふことなし

と云ひ落したる手際甚だ巧(たくみ)なり。文を観るものも点頭し、

棋を知るものも点頭す。]されば銀将以下の諸卒ありて、敵の城中

に乗り入る時は、直(ただち)に一官を得て金将の位となる、是(こ

れ)を将棋の勧賞(げんじやう)といふ。[評、金将となると云はず

して、金将の位となるといへるは流石(さすが)に支考の文なり。

意を立つるに権衡(けんかう)あり、筆を着くるに銖錙(しゅし)*9

を争ふといふべし。]此故に歩兵(ふひやう)は楯(たて)の羽(は)を

ならべて先に進めば、諸将は其蔭に敵陣を窺ふ。[評、一筆(いつ

ぴつ)に態を描(えが)き情を描く。]飛車はよく香車(きやうしや)

をつかひ、角行(かく)はよく桂馬をつかふ。此二騎は彼が調練に

馴れて、其旗下(はたした)の勇士といふべし。さて飛車は居飛車

(ゐびしや)あり、四間飛車(しけんびしや)あり、中飛車(なかびし

や)は古法の軍立(いくさだて)なれば、中央に銀角のにらみありて

進む方(かた)に一兵(いつぴやう)の損あり。[居飛車は居たるまま

の飛車をいひ、四間飛車は左より第四條の路に飛車を移し置くを

いふ。中飛車は玉の頭(かしら)の上に飛車を置くことなるが、二

百年も前の支考の時既に古法といひて暗に其利少きことを示せる

に今猶此陣立(じんだて)を好む人あるもをかしく、下手の中飛車

といへる諺も思ひ合わさる。中央に銀角のにらみありてといへる

は、互いに中飛車にして互いに角筋(かくすぢ)へ銀を出したる場

合をいふなるべし。]兵書には爰(ここ)に逸労(いつろう)の法あり

て、すること無くば端(はし)の歩(ふ)をつけといへり。[評、忽(た

ちまち)重く忽(たちまち)軽く、忽(たちまち)正忽(たちまち)奇、

一句は処女の態(さま)あり一句は脱兎の勢(いきほひ)あり、真に

是(これ)俳諧文字。]或は中段に飛車の出る時、かしこに歩兵(ふ

ひやう)の漂(ただよ)ひたるを見て、先(まづ)は軍(いくさ)の血祭

りにと横さまにそれを蹴立つるに、ややもすれば銀桂に道を遮(さ

へぎ)られて、帰らんとするに度(ど)を失ふ。それをしきぶの太輔

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(たいふ)と異名(いみやう)して笑へば、見方は大将を討たせじと

馬子(こま)の足立(あしだて)のしどろなるより不慮の敗軍におよ

ぶことあり。さるや千鈞(せんきん)の弓は鼷鼠(けいそ)*10 のため

に放たずといへる兵書の誡(いましめ)も爰(ここ)なるべし。[中段

に出でたる飛車の歩を貪(むさぼ)りて帰路を断(た)たることは、

有る習ひなり。式部(しきぶ)の太輔といふいかめしき名に寄せて

嘲り罵りし当時の洒落(しゃれ)なるべし。今は云はぬ語(ことば)

のやうなり。]さはあれ敵城に乗り入りて玉(ぎょく)のかたはらを

睨む時には、かしらより桂馬をはね、しりへより銀をかけ、搦手(か

らめて)より金をうち捨てて、桂香(けいきやう)の際(きは)に責め

よすれば、鉄城岩壁も防ぐにいとま無く、是(これ)を龍王の平押(ひ

らおし)といひて飛車の家の軍術な。[此段は飛車の働きを能く云

ひ得たり。敵の玉の腹に金を打ち捨てて、ひたひたと責めつくる

を、今は俗に送り狼などいふ。]されど家の子の香車に油断して、

彼がために刺し通されてあへなき命(いのち)を失ふことも、流石

の名将の色にまどひて小冠者(こくわんじや)に寝首取られたるた

めしならん。[評、一揚(いちやう)いちよくその妙(めう)を極(き

は)む。]ただ恐るべきは成歩(なりふ)覗歩(のぞきふ)にして、爰(こ

こ)に小敵を見ては侮らざるのいひなり。[成歩は重賞に勇む猛士

にして、覗歩は身を殺しても敵に臨む烈夫なれば、飛車もこれに

は当り難きをいふなり。]さて角行(かく)は物の影に扣(ひか)へて

千里の外の勝を窺ふ。いづれの時よりか石田(いしだ)といへる馬

組(こまぐみ)に、香車道(きやうしやみち)に身を隠し、おほくは

金銀と引組(ひつく)み、飛車のために命(いのち)を惜(おし)まず

死後の勇気をふるふより、かの仲達(ちゆうたつ)も遥かに恐れつ

べし。[石田といへる馬組(こまぐみ)は石田(いしだ)検校(けんぎ

やう)の案じ出せる陣法にして、敵の未だ戦意を発せざるに乗じ、

急(にはか)に突撃悪闘して我が上将を失ふも顧みず、只管(ひたす

ら)敵陣を粉砕するを主とする者なり。されば此段は我が角行(か

く)の死して却つて敵陣の大(おほい)に乱るる様(さま)を云へるに

て、三四句の中に能く石田の陣法戦略を説き尽せり。ただし角行(か

く)死して敵の乱るるは、孔明死して仲達猶退くとは大(おほい)に

其情を異にすれど、ことさらに疝気筋(せんきすぢ)に故事を引き

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て其間に一種のをかしみを覚えしむるは、例の俳諧者流の文字の

一つの筆致なりと知るべし。]或は飛龍王に我城を破られ、かの搦

手より落ゆく時に、敵は其路を遮らんと、王城の備(そなへ)の歩

(ふ)をつきて、銀をあがり、桂をはぬれば、おのづから鶴翼(かく

よく)の透間(すきま)を得て、おもひもよらぬ王手飛車手(おうて

ひしゃて)をかけて不思議の勝を得る事は、全く角行(かく)の家の

秘法にして、千死を出でて一生に逢ふといふべし。さるは軍(いく

さ)のならひにて、勝に乗りたるあやまちなるをや。その比(ころ)

京童(きやうわらべ)の口ずさみにも、王手飛車手にかかる角行(か

くぎやう)と謡(うた)ひたれば、自他の手爾波(てには)のいかがな

らんにと連歌俳諧(れんがはいかい)の異論におよびたるは、かか

る陣中の風流にして漢楚(かんそ)の戦ひにもさる例(ためし)は侍

(はべ)りき。[評、そのころより以下数行蛇足(だそく)贅尤(ぜい

いう)なり、削るべし。]ある時陣中(ぢんちゆう)に烏滸(をこ)の

者ありて、いかに角行と云へる名の山伏に似たらんは、さばかの

軍師に然らずとささやくに、やがて官名の時は龍馬(りようめ)と

名乗りて四方八面に威風を振へども、人の御手(おて)はと問ふ時

に角助(かくすけ)角助と云はるるも本意(ほい)無し。[此段は角行

(かく)の名につきて滑稽に云ひまはせり。ただし今は角助角助な

どと仲間(ちゆうげん)らしき名を呼ぶことは行はれざるに似たり。]

さて金将は王城を離れず、常に其傍(かたはら)に侍(はべ)りて諸

卒の賞罰を沙汰するものなり。たまたま飛角の防ぎ難きことあれ

ば、銀将のために後陣(ごぢん)をささゆれども、本(もと)おり、

官高く禄おもければ、みづから組討ちの勝負を好まず、居ながら

銀桂の下知をなして、やれやれと云ふ中に、おほくは桂馬筋(けい

ますぢ)の木戸を破られ、逃ぐるに一寸も飛ぶこと能はず、或は桂

馬におびかれて中段にまよひ出でたるに、乗替(のりかへ)の馬に

もはぐれたる時は、かち立(だち)の歩兵(ふひやう)に嬲(なぶ)ら

れて、生きながら敵の手にわたる、是(これ)ただ世のつねの栄耀(え

えう)に誇りて、その身の重き故なればなり。[評、言長くして趣

短し、文気振はず。]然るに銀将は歩兵(ふひやう)を能く使ひて、

常に先陣の名をかふむる、あつぱれ侍大将(さむらひだいしやう)

といふべし。彼は不思議の尻の力を持ち手、敵を後(うしろ)さま

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に押し出すに香車道の木戸を破らずといふ時なし、むかし朝夷奈(さ

いな)が首引(くびひき)も満王野(みをのや)が鞫引(しころびき)も

此尻の沙汰には及ばざらん。さてこそ金飛車の小股(こまた)を潜(く

ぐ)りて屹(きつ)と後戸(しりど)を支(ささ)へたるに、いづれ組む

で名のらずといふ事なし。さるは韓信(かんしん)が股ぐらを潜り

て大将の名をあげたるにあらざらんや。これを俗には足駄の法と

いひて銀将の家の軍略なれば、彼が嚢沙(なうしや)の智恵よりも

手間の取らざる働(はたらき)なるべし。されど敵玉に出むかひ、

ここを防ぎ、かしこに遮るに、敵は其の腹をくぐり、しりへに抜

けたる時は、四枚一所にありながら金将一枚にも及ばざるは、我

々が官位の低ければと、今さら身の程を喞(かこ)つに似たれど、

しかし金将の悠々然として此時の益無きを怒れるなるべし。ここ

に桂馬こそをかしきものなれ。進む時は物の蔭より飛び出でて、

危(あやふ)きに臨みて退(しりぞ)くこと能はず、さるは猪(ゐのし

し)の勇気に似て、鼻のきかざる殊にをかし。いにしへ張儀(ちや

うぎ)蘇秦(そしん)がやからは弁舌をもて敵国を計(はか)り、物の

ひまを窺ひて不意を討たんとす、これらは仁勇の沙汰を離れて、

だますに手無しといふ法なり。ある時王城の夜軍(よいくさ)に高

塀(たかべい)を越えんと差覗きたるを、銀将はひそかに歩兵衛(ふ

ひやうゑ)にささやきて彼が鼻をつらぬかせたれば、見ぐるしき痛

手を負ひながら後悔する事たびたびなり。是(これ)を桂馬の高あ

がりといひて、世智にかしこき人をいふなり。されば桂馬のつり

詰(づめ)といひ、又は桂馬の離し詰(づめ)といふは彼が家の奥の

手にして、敵の油断を覗へば、先(まづ)は手見禁(てみきん)*11 の

軍(いくさ)を好めることなり。[桂馬の高あがり、つり詰、はなし

詰など今も云ふ語(ことば)なり。手見禁は読んで字の如し、他(ひ

と)の手を見ることを禁ずる也。]香車は角髪(つのがみ)の小姓立(こ

しやうだち)なるが、さる事侍(はべ)りて、外(と)ざまにはありな

がら此度(こたび)の軍に一手柄して家の面目をすすがむと思へる、

其勢(いきほひ)一筋にあらはれて、素鎗(すやり)は我が家の一流

なるべし。しかるを一陣に進む時、歩兵(ふひやう)の算用を仕ち

がへて、ひしと鎗先を止められたれば、こなたよりひかへて為(す)

べかりしものをと、此の後悔は若気(わかげ)のいたりともいふべ

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し。[評、筆もまた香車の勢(いきほひ)あり。]かくて両陣両玉に

対して、始めはと金(きんふ)の一手より、進むにも先(せん)あれ

ば退くにも先ありて、中比(なかごろ)は二手(ふたて)透(すき)三

手(みて)透を争ひ、終は一手透に勝負を決す、みなただ先進先退

の兵法にして、上手といつぱ心おだやかに、下手といつぱ目見え

ず、詮(せん)ずるところは取舎(しゆしや)の前後を知りて、命(い

のち)を捨つるとすてざるとはその時の損得を見るべし。[評、一

括して総収す、結束甚だ妙、名将の兵を率ゐるが如し。]しかれば

唐(から)にも日本(やまと)にもこれらの道理を説き尽して、諸葛(し

ょかつ)が門には八陣の図を貼(は)りて神奇妙算の謀(はかりごと)

をめぐらし、宗桂の家には将棋経(しやうぎけい)をつくりて奇戦(き

せん)擒将(きんしやう)の法をあらはす。畢竟は油断大敵の四時よ

り儒佛老荘と説きひろげて、四十八手の兵法ともなり、八十一目(も

く)の将棋ともなれば、孔子も昼寝を戒(いまし)めて、象戯でもさ

せとは叱り玉へり。[評、博奕(ばくえき)といふものあらずやの聖

語を飜(ほん)し来つて、象戯でもさせと叱り玉へるとなせる、軽

妙頤(おとがひ)を解く、ここらに俳諧文字のの真趣は尽くべし。]

況(いは)んや盤上のあそびを見て、その身の貴賎をもはかるべく

其心の利鈍をも知るべければ、よろづに其道の死を撰びて、先(ま

づ)は対盤の法を知るべきことなり。[評、奇を収めて正に帰(き)

す。開闔(かいかふ)法あり、起結(きけつ)則あり。此一篇の如き

は、俳諧文字中の正格といふべし。]

支考も自ら将棋賦は做(な)し得て佳(か)なりと思ひしなるべく、

村野(そんや)航(かう)が読将棋賦といふ文を賦の後に附けて世に

公(おほやけ)にせり。読み将棋賦の文もまた悪(あし)からず。

7)将棋と馬琴と

曲亭(きよくてい)ばきんは寸陰(すんいん)をも惜みて著作に従ひ

し人なるが、其若き時に当りては将棋を弄(もてあそ)ぶことを嗜

みしにや、著(あらは)すところの小説雑書の中に将棋に関するの

書二部あり、一は春駒(はるこま)将棋行路(しやうぎのゆきみち)、

一は盤州(ばんしう)将棋合戦(しやうぎかつせん)なり。将棋行路

は享和元年の板(はん)にして、馬琴三十四歳の時の作と覚しく、

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其大概を語れば、一部の趣向将棋の馬子(こま)を人に擬して書け

るものなり。先づ女郎を玉(ぎよく)とし、客を王とし、玉を手に

入れんと王の望むことより事起り、玉方(ぎよくかた)には大尽の

角行(かく)、やりての香車(きやうしや)などあり、王は金銀を捨

ててかかれば、敵は桂馬をもて金銀をふんどににかけしめ、また

は両天秤棒(りやうてんびんぼう)をもて王を悩ませなどす。また

王は鎗ぶすまに会ひて、はだかとせられ、窮して雪隠(せつちん)

に匿(かく)れ、龍王の忠節によりて纔(わずか)に身を免(のが)る

る件(くだり)あり。桂馬と歩(ふ)との屋根の上の戦(たたかひ)に、

桂馬は歩のために噛み倒さるるをかしさあり。例の理屈癖はかか

る小冊子の中に見ゆれど、絵ぐいなど思ひのほかに可笑(をかし)

く出来たるものなり。巻末の半丁(はんちやう)に、将棋の馬子(こ

ま)を組みて人の体をなせる図あるが、其図には玉をもて頭(かし

ら)となし、飛車、角行(かく)、桂馬、金銀などをもて胴手足等と

なし、股間(こかん)に金を配し、香車を垂下せしめたるなど、馬

琴三十余歳の時の作としては、人をして呆れて笑(わらひ)を発せ

しむ。おもふに馬琴も支考と同じく少しは将棋を弄びしならん。

盤州将棋合戦は文化十四年の板にして、馬琴五十歳の時世に出

だせるものなり。玉(ぎよく)の将監(しようげん)と王の将也(まさ

なり)との争ひに、龍王十郎の謀計(はかりごと)をもて立働くなど、

中々をかし。されども要するに将棋の行道(ゆきみち)の変じたる

ものに過ぎず、ただ彼は遊楽の事、此の戦陣の事と異なれども、

其趣向は一途(いっと)に出でて、馬子(こま)のきき道、将棋の常

法等をたねとなし、牽強付会(こじつけ)を逞(たくま)しくしたる

のみなり。巻末に、案の外作者も若やぐ戯作(げさく)の下ぐみ、

仕上げて烟草に将棋の草紙と御評判、ことしも変わらずめでたし

めでたし、とあり。稿を成せしは前年六月と見ゆ。

8)将棋と巣林子

近松門左衛門作るところ山崎(やまざき)與次兵衛(よじべえ)壽

門松(ねびきのかどまつ)に與次兵衛治(ぢ)部(ぶ)右衛門(ゑもん)

将棋を差す段あることは、人の知るところなり。ただし一段の文

字もとより将棋を主とせずして、将棋を仮りて金銀を散じ與五郎

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を救ふべきを諷(ふう)するにあるを以て、おのづから将棋のこと

に貼(つ)く能はざるは無理ならぬことながら、将棋の道を知るも

のより見れば筆に働きといふもの無くして、痒(かゆ)きところに

手の届かぬおもひあり。浄閑(じやうかん)が手に金銀多きことを

示さんとて、浄閑が手には金三枚銀三枚、歩(ふ)もござる、と云

はする句の如きは、読むものをして失笑せしむ。おもふに近松は

弱将棋(よわしやうぎ)にして、支考にあはば二枚落(にまいおち)

ぐらゐにあしらはれしならん。

9)将棋と三馬

三馬(さんば)が浮世風呂の中に、やくざもの共将棋を差すの件

(くだり)あり。寫真機蓄音機などのやうに浮世のさまざまを其儘

現(あらは)すことを本願とせる三馬が筆のことなれば、これと取

り出して褒むべきかどは無けれども、まとこに能く当時の所謂(い

はゆる)湯屋将棋を差す者共のありさまを描(えが)き出して眉目(び

もく)活動の妙あり。三馬馬琴の頃は将棋大(おほい)に行はれて、

上(かみ)は公侯より下(しも)は漁樵(ぎよせう)に至るまで之を弄

(もてあそ)びしなり。

10)将棋を弄ぶもの親の死期に会はず

世俗好んで将棋を弄(もてあそ)ぶものを罵つて、親の臨終にも

会はざるに至らんといへり。これ其原(もとづ)くところを知らで

云ひ伝へたる誤謬(あやまり)にして、語の意は本(もと)将棋に耽(ふ

け)るものを戒(いまし)めんとするにはあらで、局に対しては他念

無く厳粛に勝敗を決すべきことを言へるなり。徳川氏の時は大橋

伊藤の二家(にけ)将棋を以て禄を受け居たることなるが、もとよ

り将棋に詳(くは)しきのみの人々のことなれば平日は何の勤務(つ

とめ)もあるにあらず、ただ年毎に十一月の十七日御城に於て将棋

を闘はせ、之を将軍の御覧に供するを其務となせるなり。されど

考深き人の互に負けじと争ひたらんには、一時(いつとき)二時(に

とき)にて果つべくもあらぬに定まれることなるをもて、其日に勝

敗を決定するに至らざれば引続き寺社奉行宅にて勝負を決し、後

其差(さ)し口(くち)通りを将軍に報ずるを常とす。さて其寺社奉

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行宅にて二人相戦ふ間は、真の争ひのことなれば勝負の決(きは)

まるまでは幾時(いくとき)に渡るとも家に帰ることを免(ゆる)さ

ざる掟(おきて)にして、縦(たと)ひ親の死期(しご)に臨むとも、

将棋を以て仕ふる者の一年に一度の勤務(つとめ)の事なれば、之

を顧(かへりみ)ること無くして一局を差し切らでは済まぬ筈なり

と定めたりしなりといふ。此事を誤り伝へて、将棋に耽るものは

親の死期にも会わずなどとは云へるなり。

11)将棋と本願寺上人

将棋名将鑑と云へる古き書に、右大将(うだいしやう)頼朝(より

とも)と文覚(もんがく)と蛭(ひる)が小島(こじま)にて差したる将

棋の譜、土佐坊(とさばう)正俊(しやうしゆん)と伊勢三郎(いせの

さぶらう)義盛(よしもり)と堀川(ほりかわ)御所(ごしよ)にて差し

たる将棋の譜などといひて載せたるは、いと戯(あは)れたる作り

ごとなるが、西本願寺(にしほんぐわんじ)良如(りやうによ)上人(し

やうにん)といへるは実(まこと)に将棋を好まれしにや、檜垣(ひ

がき)是安(ぜあん)と戦ひたる譜、元禄十一年板の将棋指(しやう

ぎさし)覚(おぼえ)大成(たいせい)といふものに見ゆ。指覚大成は

敦庵(とんあん)の弁ぜし如くいと疑はしき書なれば、無きことを

誣(し)ひしにやとも思はるれど、本願寺上人と明(あか)らさまに

記したるを見れば作りごととのみも考へられず。檜垣是安は四代

目大橋宗桂頃の人にて諸書にその差将棋(さししやうぎ)遺(のこ)

れり。

12)将棋と吉備真備と大江匡房と

宝暦三年伊藤(いとう)看寿(かんじゆ)著はすところの象戯(しや

うぎ)百番(ひやくばん)奇巧(きかう)図式(づしき)に林信充(のぶ

あつ)の序あり。其序に曰く、象棋家伝へ称す、先王の時吉備公(き

びこう)再び唐朝に聘(へい)小将棋(せいしやうぎ)を得て帰る、其

図状を案ずるに、両営、王将の首に醉象あり、左右金将の首に各

々(おのおの)猛豹(まうへう)あり、然れども其精思を得る莫(な)

きなり、大江匡房(おほえのまさふさ)兵理を窮(きは)む、因(よつ)

て象豹を去りて而して中華に伝ふ、今の行ふところ是(これ)なり、

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云々(しかじか)。此序は予これを将棋雑考に載せ漏(も)らせしが、

将棋の史を究めんとするものの一顧すべきところのもの也。

13) 醉象を用ゐある小将棋の擒将図

象戯綱目(しやうぎこうもく)五巻は宝永四年の板(はん)なるが、

其第四巻に小原大介といふもの作るところの擒将図(つめて)あり

て、其図中に醉象の馬子(こま)あり。其図の鼇頭(がうとう)に特(こ

と)に古風作物と署(しる)して、むかしは今の小象戯に醉象を添へ

て差しけるとぞ、と附記しあり。林氏の奇巧図式の序も思ひ合は

されて珍しければ、次の其図及び解を挙ぐ。

解。一七桂打 一六玉 二八桂打

二七玉 四五龍馬 八七醉ナル 二

七龍馬 八八太 七八金 九七太

九九香 八六太 七七金 八五太

七六金 八四太 八九飛 九三太

九四香 同太 八五金 八三太 三

八龍馬 八二太 七四金 八三歩

同金 七一太 七二金 同金 八一

飛成 六二太 六一金 五二太 五

一金 四二太 四一金 三二太 六

五龍馬 二二太 七二龍王 六二歩 二三歩 一一太 一二金打

*12 此擒将図(つめて)の奇なるは、四五の龍馬(りゆうめ)にて玉

(ぎよく)当りを付けられたる時、玉の救ふべからざるを見て之を

棄てて敵に委(ゆだ)ね、八七に醉象を進め、醉象を太子(たいし)

として猶ほ戦ふ所にあり。玉を獲(と)らるる代りとして敵の龍王

を獲(と)りたるところ、醉象という馬子(こま)無き今の将棋には

見ることを得ざる味(あじはひ)ありといふべし。

14)伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす

伊藤看寿名は政福(まさとみ)、宝暦年間の人にして、伊藤宗看(そ

うかん)の弟なり。年方(わづか)に七八歳の時贏局(つめて)の書を

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閲(み)て、宗看を顧(かへりみ)て之を評しけるに、其言甚だ妙な

りければ、宗看大(おほい)に驚きて非常の児となせりといふ。其

作る所の贏局(つめて)の図、将棋図巧の巻末に見ゆるものは、実

に六百十二手(て)なるが、看寿の之を作りし時は年甫(はじ)めて

十三なりしとぞ。驚くべきかな。

15)大橋宗桂多川勾当を屈す

多川(たがは)勾当(こうたう)は大橋宗桂門人にして、宗桂の教(を

しへ)を得て技(わざ)大(おほい)に進みしが、技の進むに従ひて心

驕(おご)り、宗桂をも恐るるに足らぬもののやうに云ひ倣(な)し、

且つ将棋(しやうぎ)亀鑑(きかん)といふ書を著はして、宗桂と自

己(おのれ)との稽古差(けいこざ)しの将棋の中にて自己(おのれ)

の勝ちたる分(ぶん)を多く挙げ、また作りごとなども加へ、五一

の金の手は自分差し創(はじ)めたりなどと誇りしかば、宗桂大(お

ほい)に怒りをなして、其方(そのはう)は聞えざる致し方をするも

のかな、只今までは其方稽古のため相手となりて遣はしたるが、

其方左様の不心得を致す上は此度真実(まこと)の勝負を決して、

其方勝ちたらば六段を許さん代り、負くるに於いては与え遣はし

置きたる五段の免状を取り上げ、向後(かうご)我家の相手となる

ことを許すまじと約束し、今までは稽古のために香落平手交(きや

うおちひらてまじ)りに指したるところを角落(かくおち)一番、香

落一番と定めて指し争い、宗桂終(つひ)に二番とも勝ち、五段の

免状を取り上げしといふ。[多川はまた関野井とも云う歟(か)。]

多川と宗桂との免状を賭けたる争ひは延宝五年八月に決せられた

るなり。将棋亀鑑は甚(いた)く売れざりしものと見え、後正徳(し

やうとく)年中(ねんちゆう)に至り山崎勾当といふものの著として

新(あらた)に序などを加へ、別のもののやうにして鬻(ひさ)がれ

たり。将棋の道には限らぬことながら、特(こと)に此道は上手(う

はて)よりは下手(しもて)を測り知るべし、少しにても下手よりは

上手を測り知る能はざるものなれば、驕慢はいといと愚(おろか)

なることなり。

16)桑原君仲の異才

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桑原君仲(くんちゆう)、俗称は駒太郎、九世宗桂の門人なるが、

謙退の徳ありて人に勝(まさ)ることを欲せず、宗桂五段を与えん

とすれど辞して受けず、四段に甘んじて身を卒(おは)る。而して

其著(あらは)すところの擒将図(つめて)百則、則則皆奇にして、

局を終えて後これを見れば、盤上の馬子(こま)の列(なら)びかた、

自(おのづ)から大の字を為すあり、小の字をなすあり、梯子(はし

ご)の形をなすあり、井桁(いげた)の形をなすあり、或はまた馬子

(こま)の表裏をもつて其歳の月々の大小を現すあり、人をして愕

然(がくぜん)として其巧思の神(しん)を欺くを歎ぜしむ。其書を

将棋極妙といひて今猶存す。別に著すところ将棋玉図あり、また

世に行はる。

17)添田宗太夫

添田(そえだ)宗太夫(そうだいふ)は元禄頃の人にして、技(わざ)

は七段に至る。其著(あらは)すところの擒将図(つめて)百番、局

を終ればまた皆字様(じやう)をなし器形をなすこと君仲作るとこ

ろのものの如し。其作るところ聊か君仲に譲るに似たりといへど

も、而もまた年代君仲の前に在ること数十年、不幸にしてたまた

ま世に著はれず、憾(うら)むべきなり。

18)大橋宗英鬼と呼ばる

大橋宗英は安永天明より文化に至るまでの間に雄を称せるの棋

聖にして、其人と戦ふや一正一奇千変万化、古名将の兵を用うる

が如くなりければ、天下の棋客皆終(つひ)に屏息(へいそく)俯首(ふ

しゅ)して之を呼んで鬼宗英(おにそうえい)と称するに至れりとい

ふ。宗英は性質直(しつちよく)和淳(わじゆん)、将棋以外の何の

好むところも無く、何の長ぜる技(わざ)も無かりしといへば、真

に蒼天(そうてん)将棋のために此人を世に降(くだ)せしものの如

し。されば宗英以前に宗英無く、宗英以後にも宗英無く、歴代の

棋聖長短あり高低ありといへども、其間に立(たつ)て巍然(ぎぜん)

として獨(ひとり)聳ゆること猶富嶽(ふがく)の郡山を抜くが如し

といふ。其著(あらは)すところの歩式(ふしき)二巻は晩年に古法

を按じ新意を加えて成せるところの書にして、実に将棋の聖経(せ

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いけい)なれば、今の棋聖小野翁の如きも常に人に対(むか)ひて、

歩式および其二篇を見よ、技(わざ)はおのづから進まんと教へら

る。宗英死して今殆ど百年ならむとす、しかも其残膏(ざんかう)

餘瀝(よれき)、猶斯道(このみち)の後進の枯腸(こちやう)枵腹(け

うふく)を潤(うるほ)して生気漸く盛んなるに至らしむるは、其力

量もまた大なりといふべし。

19)京伝の娼妓絹篩

山東(さんとう)京伝(きやうでん)の作の洒落(しゃれ)本(ほん)

に娼妓(しやうぎ)絹篩(きぬのふるい)といふものあり。洒落本の

題は世に行はれたる書に擬(ぎ)して選ぶる例(ためし)いと多く、

たとへば格子(かうし)戯語(げご)の孔子(こうし)家語(けご)に擬

し、三教式(さんけうしき)の三教指帰(さんがうしいき)に擬し、

遊子(いうし)方言(はうげん)の揚子(やうし)法言(はふげん)に擬

せるが如し。されば京伝の娼妓絹篩は将棋絹篩といふ書に擬(なぞ

ら)へて其名を選べること疑ひ無けれど、今存するところの将棋絹

篩は宗英の門の福島(ふくしま)順棋(じゆんき)著(あらは)すとこ

ろ、文化元年の板(はん)にかかるものなれば、此の絹篩に擬した

るはあらぬなるべし。福島の絹篩のほかにも大将棋絹篩など今も

猶稀に存すれば、別に将棋絹篩といふもの古くより世に行はれ居

しか、然(さ)らば大将棋中将棋などの事を記したる絹篩に因(よ)

りて名を選みしならん。順棋名は龍治、信州の人、技(わざ)は七

段に至りしといふ。

20)天野宗歩一世を壓す

天野(あまの)宗歩(そうふ)幼名は留次郎、文化十三年江戸の菊

坂(きくざか)に生る。歳甫(はじ)めて六歳にして十一世の大橋宗

桂に其技才を知らる。宗桂の教(をしへ)を受けて技(わざ)大(おほ

い)に進み、諸国に周遊して到るところに技を闘はし、遂に京都に

止(とど)まつて郡雄を控制(こうせい)す。宗歩気象卓犖(たくらく)

不羈(ふき)といへども師を尊(たつと)むの情甚だ篤(あつ)きを以

て、身を終るまで七段を以て甘んず。蓋し七段以上の技(わざ)無

きにあらざるも、自ら高くして以て我師に比(くら)べんとするを

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欲せざるなり。或は曰く、宗歩柳営(りうえい)に大橋宗珉(そうみ

ん)と戦つて勝たず、故に七段に止まると。疑う可し。宗歩現に七

段なれば、天下の棋客は一世の雄たる宗歩が自(みづか)ら卑(ひく)

うして七段に居るの故を以(も)て、英傑の資(し)あるものといへ

ども、おのづから七段以下に屈せざる能はざりしといふ。

21)宗歩腹戦

宗歩は技倆抜群なるのみならず気象もまた不羈なりければ、酒

を嗜(たし)み客を愛して、力士などを家に養ひ、却つて棋客と局

に対することは稀なりしといふ。世の棋客に取りては宗歩は如何

ともすべからざるの強敵にして、宗歩に取りては世の棋客は眼中

に入らざるの豎子(じゆし)輩(はい)なれば、宗歩が杯(さかづき)

を啣(ふく)みて笑傲(せうがう)するの日多くして、局に対して考

慮するの時すくなかりしを異(い)とするに足らず、されど芸は勤

むるには精(くは)しくなり怠(おこた)るには荒(すさ)み行く道理

なれば、如何なる棋聖も局に対(むか)はざるの日のみ多くなり行

けば、自然(おのづから)心疎(うと)くなりて聊か其技(わざ)の衰

え退(しりぞ)く習(ならひ)なるに、宗歩のみは日々(にちにち)遊

び暮して馬子(こま)を手にする折のいと多からざるにも似ず、い

ざとて敵を見て戦ふ時は、其技(わざ)の毫(すこし)も退かざるの

みならず却つて益々(ますます)鋒鋩(ほうばう)鋭利(えいり)に、

恰(あたか)も宝刀の新(あらた)に硎(と)より発せしが如くなりし

かば、会う者いよいよ驚き歎じて辟易(へきえき)せざるは無かり

しとぞ。ただし宗歩のかかりしは表面(おもて)には日々遊び暮し

ながらも、心の中には折に触れて何時(いつ)といふこと無く自ら

問ひ自ら答へて、思(おもひ)を覃(つく)し技(わざ)を錬りしが故

と覚しく、其證(しるし)には宗歩何時(いつ)の夜も眠れば則ち囈

語(げいご)せざること鮮(すくな)く、囈語すれば則ち将棋のこと

を言はざること鮮く、其三一の角(かく)、四六の歩(ふ)などと指

揮(さしづ)命令する語気など、いと明かにして而も厳(きび)しく、

恰も寤(さ)めたるものの言(ものい)ふごとくなりしといふ。小野

翁の如きも若き時宗歩が家に在りて、其夜半(よは)の声を聞きし

こと毎々なりしと予に語れり。古(いにしへ)の文人には腹稿(ふく

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かう)の誉(ほま)れあるものありしが、宗歩の如きは腹戦をなせる

ものといふべきなり。

22)将棋盤の定寸法

享保二年に成れる大匠(たいしやう)雛形(ひながた)六巻は工匠

(こうしやう)の拠(よ)りどころにするところの書なるが、其第六

巻小坪(こつぼ)規矩(かね)追加(つひか)の冊(さつ)に将棋盤の定

寸法(じやうすんぱふ)見えたり。曰く、大将棋盤、広さ一尺六寸

にして目数(めかず)は拾五間に割り、長さは目一つ長くして十五

間にすべし、厚さ二寸六分、太さ二寸二分、足は目一つ入れて付

くべし。中将棋盤、広さ一尺四寸、十二間に割る、長さ一目長く

すべし、それを十二間に割る、厚さ二寸二分、太さ一寸八分、足

の入りは八分なり。小将棋盤、長さ一尺二寸にして九目に割る、

広さ一ト目狭くして九ツ目にすべし、厚さ一寸八分と。大将棋盤、

中将棋盤は如何に知らず、小将棋盤は長さ広さ共に右の如くなれ

ど、厚さは三寸五分、四寸ほどなるを今は賞(め)で用ゐる習(なら

ひ)なり。古(いにしへ)はいと質素なりしなるべし。

23)市川太郎松天野宗歩と且飲み且戦ふ

市川太郎松は宗歩を師の如くにして交(まじは)り、而も技(わざ)

もまた宗歩に譲ること多からず。宗歩は七段、太郎松は六段、そ

の差は香車(きやうしや)半枚のみなる上、太郎松も将棋を好むこ

といと深くして、少しの間(ひま)にも工夫鍛錬を怠らざるものな

りければ、宗歩も等閑(なほざり)の輩(やから)とは一つに視(み)

ざりしなるべく、太郎松はまた天の孔明を生ぜるを恨みたる周瑜(し

うゆ)の感を懐(いだ)きしなるべし。されど二人とも心清(すず)し

きものなりければ隔(へだ)て意(ごころ)も無く行通(ゆきか)ひ居

けるが、宗歩も太郎松も酒を嗜(たしな)めるものから、二人相会

へば酒を呼びて睦(むつ)み語らふは大概(おほよそ)常のこととな

り居りたり。飲酌(いんしやく)の折から互に好める道なれば、太

郎松問(とひ)を発(おこ)して、過ぐる日某処(あるところ)にて心

に留(とど)め来しなるが、如是如是(かくかく)箇様箇様(かようか

よう)の争ひの時、敵より是(かく)の如き妙手段をもて取りかから

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れ、味方の之に応ずべき計策(はかりごと)を得ずして苦めること

あり、如何にせば好からん、などと云ひ出づること数々(しばしば)

あり。其(そ)は如是(かく)せば可(よか)らんなどといふ宗歩の答

へは流石に大抵は理に当るをもて事無き日も少からねど、宗歩な

りとて神といふにもあらねば其答へ太郎松を服するに足らぬこと

も無きにあらず。さる時は太郎松も面(おもて)を擡(あ)げて、さ

ばかりの計策(はかりごと)は我もまた知らざるにあらねど然(さ)

すれば如是(かく)せらるるを如何にせんと詰(なじ)る。詰られて

は宗歩も萎(ひる)み難く、其(そ)は如是(かく)して防ぐに何事か

あらんと誇る。いやいや、さらば如是(かく)して攻めつけんに猶

抵抗(あらそ)ふべきや、といふ。もとよりの事なり、何をか恐れ

ん、如是(かく)して守らん、と云ふ。如是(かく)追はばと逼(せ)

まれば、如是(かく)避けんと空嘯(そらうそぶ)く。如是(かく)掠(と)

らばと罵れば、如是(かく)報ひんと嘲る。始は談話(はなし)に過

ぎざりしものも漸く争ひのやうになりて、終(つひ)には龍虎の激

しき戦ひとなり、互に杯(さかづき)を啣(ふく)みながら余(よ)の

談(はなし)も無く、四目(しもく)相睨みて彼(かれ)一句此(これ)

一句と、打太刀(うちたち)受太刀(うけたち)鎬(しのぎ)を削って

辛(から)くも宗歩の勝ちと決(きは)まるに至ることも間々(まま)

ありしといふ。さる折、太郎松帰りし後宗歩其座に居合せたる弟

子共に打対(うちむか)ひて、辛くも圧(お)しつけて帰したるが、

まことは我が初(はじめ)の手のいと悪かりしなり、汝等(そちたち)

今我が勝ちたるの故をもて我手を好き手なりと思ふなかれ、嗚呼(あ

あ)危(あやふ)かりし、太郎松め、したたかに我を窘(くるし)めた

るかな、などと笑ひながら云ひ出でて汗を拭(ぬぐ)ふこともあり

しとぞ。

24)大橋柳雪の飄逸

大橋柳雪(りうせつ)は将棋をもて禄を世(よよ)にする大橋家に

生れながら、心淡(あは)くして名利に繋(つな)がれず。江戸を出

でて京摂(けいせつ)近畿(きんき)の間(かん)に遊ぶや、豫(あらか

じ)め官に請(こ)ふて得たるところの叚期(かき)の既に尽くるをも

顧みずして家に帰らざりしかば、遂にまた復(ふたた)び将棋の宗

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家(そうけ)の人たるを得ざるに至らんとす。されども柳雪はこれ

を事ともせずして心のままに遊び居たりとぞ。耳は聾(し)ひたれ

ども技(わざ)は鋭き人にして、宗歩よりは前の人なり。古(いにし

へ)よりの将棋の強き人多きが中に、宗桂・宗看・宗与(そうよ)・

宗歩等皆不滅の人なるが、柳雪も亦不滅のひとなりなり。聾(ろう)

にして技に長(た)けたるは、古人の所謂(いはゆる)人の徳慧術智(と

くけいじゆつち)ある者は恒(つね)に疢疾(ちんしつ)の存するもの

なり。

25)大橋家の墳墓

或人おのれに語りて曰く、将棋司大橋家の墓は本所(ほんじよ)

押上村(おしあげむら)及び芝二本榎(しばにほんえのき)上行寺等

に在り、さすがは将棋の道の宗家の墓ほどありて、いづれの墓碣(ぼ

けつ)も皆将棋の棋子(こま)の形をなし居れりと。古(いにしへ)の

墓碣、圭形(けいぎやう)をなせるもの多し、果して或人の言(こと

ば)の当れるや否やを知らず。

26)将棋の種類

大将棋、中将棋、小将棋、支那将棋、西洋将棋はいづれも皆二

人にて勝敗(かちまけ)を決(き)むる遊びなり。明治の御代(みよ)

みよに当りて陸軍の士の案じ出せし師団将棋(しだんしやうぎ)と

いふは、二人は相戦ひ一人は之を判(はん)ずるなれば、三人なら

では玩(もてあそ)ぶ能はず。清朝(せいてう)になりて鄭破水(てい

はすゐ)といふものの案じ出せし三友棋(さんいうぎ)は三人して相

戦ふ棋なり、司馬温公(しばおんこう)の七国将棋(しちこくしやう

ぎ)は六人して戦ふも三四人して戦ふも意(こころ)のままなり。七

国将棋は江戸にて少しは行はれしこともありしにや。これに巧(た

くみ)なりし女のありしこと馬文耕(ばぶんかう)の武野俗談(ぶや

ぞくだん)に見え、また七国将棋譜(しちこくしやうぎのふ)の和解

(わげ)も出版せられしことありしなり。

27)将棋をもて遊ぶ方法

今の将棋をもて遊ぶ方法は、本式のほかにもいと多し。ふり将

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棊、うけ将棊、はさみ将棊、どけ将棊、とび将棊、ぬすみ将棊、

はぢき将棊、くはへ将棊など是(これ)なり。此中、ふり将棊、ぬ

すみ将棊、はぢき将棊は小児(せうに)の戯れにして大人の為すに

堪へざるものなり。うけ将棊 もおもしろく、どけ将棊 もをか

しからむ。

28)囲碁象戯の難易

五雑俎(ござつそ)に、象棊(しやうぎ)は囲碁(ゐご)に比(くら)

ぶれば做(な)し易しとの言(ことば)あり。支那の象戯(しやうぎ)

は棋子(こま)を取り棄てにするなれば、末には盤上の棋子(こま)

の数(かず)いと少なくなりて、為すべき手も多岐(たき)ならざる

に至るなり。さればまことに碁に比べては、末に至りて做し易き

傾(かたむき)もあるべし、されど碁も末に至りては做し易くなる

やうなれば、みだりに難易を語るは愚(おろか)なることならむ。

我邦の将棊は棋子(こま)を取りては用うることなれば、末に至り

ては却つて争(あらそ)ひも烈しく興も深くなるなり。謝氏(しやし)

も我邦の将棋を見んには、将棋却つて碁より難しとや云はん。真

実(まこと)は碁も将棋も之を弄(ろう)するに難易あるべからず、

負くるはいづれも易く、勝つはいづれも難かるべきなり。

29)柳雪一局に二三人を屠る

宗看宗桂と雖も一局一人を屠(ほふ)るのみ、ただ大橋柳雪に至

つては一局一時に二人三人を屠りしこと少からずといふ。そは如

何にといふに、柳雪江戸を出でて諸方に漂浪(へうらう)し優遊(い

ういう)自適(じてき)したるほどの事なり、棋客の柳雪に対するも

の、常に其の克(か)つ能はざるに苦む。ここに於て狡黠(かうかつ)

の者、或は柳雪の耳聾(ろう)せるを乗ずべきの地となし、一人局

に当つて柳雪と戦ふや、其の隣室に局に当る者より稍(や)や技(わ

ざ)精(くは)しき力強き者を伏せ、又局に対して思(おもひ)を覃(つ

く)し智を竭(つく)さしむ。戦ふに及んで、座客柳雪と相対(あひ

たい)する者及び柳雪の為すところを告ぐ、例えば三四歩(ふ)、二

六歩といふが如し。隣室に在る者声を聴いて一々戦局の状を知悉(ち

しつ)し、刻苦して妙手を得れば、便(すなは)ち又大声(たいせい)

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これを告ぐ。柳雪に対する者、長を取り短を捨てて馬子(こま)を

進退す。されば黠者(かつしや)の党(たう)、時に佳策無きにしも

あらず。柳雪耳聾の故を以て毫(がう)もこれを覚らず、或は長蛇(ち

やうだ)を逸(いつ)し或は健鶻(けんこつ)に撃たるる如きあり。爾

時(そのとき)柳雪歎称して曰く、汝(そなた)の技(わざ)賞すべし。

段位に比して数々(しばしば)妙著(めうちやく)ありと。而してお

のれ亦苦思して之に応じ、悪戦苦闘して終(つひ)に之を圧伏(あつ

ぷく)す。局に当る者と隣室に在る者と数人一時に敗(やぶ)れ、唖

然(あぜん)として言ふところを知らず。是(かく)の如くにして柳

雪数々苦み技(わざ)愈々進みたりといふ、奇なる哉(かな)天の才

人をして其才を発せしむる所以(ゆえん)や。

30)大橋宗珉天野宗歩と死戦す

天野宗歩(そうふ)の妙技の一世を圧(あつ)するに当りて、人皆

披靡(ひび)辟易(へきえき)す。大橋宗珉も亦一方の雄たらざるに

非ず。然れども宗歩に対しては一局も能く克(か)つこと無し。た

またま嘉永五年十一月十七日、将軍面前に於て宗歩宗珉決戦を命

ぜらる。宗歩は初めて柳営に技(わざ)を示さんとす。宗珉は名人

宗与の後にして、禄を将棋に食(は)む者なり。是(ここ)に於て宗

珉粛然(しゅくぜん)として思ひ、慨然(がいぜん)として奮(ふる)

つて曰く、我平生宗歩に克つ能はずと雖も、蒼天蒼天、願はくは、

此一局を贏(かち)得(え)ん、名人宗与の後なり、禄を将棋に食む

者なり、死力を尽して当るべし、苟(いやしく)も敗(やぶ)るべけ

んやと。宗珉の妻も亦神に祈つて夫の克たんことを求む。夫妻悲

願誠苦する事日有り。十七日に至り二人局に対す。宗珉は平生先

着(せんちやく)するも敗る。此日は宗珉其家の故を以て宗歩をし

て先づ手を下(くだ)さしむ。宗珉の心中察すべし。而して宗歩は

晏如(あんじよ)たり。戦(たたかひ)漸く発する比(ころ)、宗珉の

妻、家に在りて時を計(はか)るに、勝敗の機まさに動かんとす。

憂慮愁悶、心熬煎(がうぜん)せらるるが如くに遂に堪ふる能はざ

らんとす。時正(まさ)に厳冬、凛風(りんぷう)膚(はだへ)を劈(さ)

く、妻急(にはか)に起つて連(しき)りに寒水を破り密呪(みつじゅ)

を持(ぢ)し、其の奉ずる所の神に逼(せま)つて強敵(がうてき)折

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伏(しやくぶく)を求む。宗珉の宗歩と戦ふや、中に鉄を貫(つらぬ)

き石を透(とほ)すの意気を蔵(ざう)すと雖も、戦々兢々(せんせん

きようきよう)、壮士惨(さん)として語無き者の如し。宗歩は則ち

然らず、縦横揮灑(きさい)す。戦つて四十余着(よちやく)に及ぶ

時、宗歩六八銀の一着あり。宗珉忽ち之に乗じて計(はかりごと)

を得、佳謀連続緊(きび)しく攻めて緩(ゆる)めず。宗歩神算多智、

勇戦甚だ力(つと)むと雖も、勢(いきほひ)漸く非にして復(また)

挽回(ばんくわい)す可からず。宗珉追撃奮進、終(つひ)に陸遜(り

くそん)関羽(かんう)を斬るの功を成す。其譜今に存し、世伝えて

以て談柄(だんぺい)となす。或はいふ、此一戦の後、宗歩憤懣(ふ

んまん)して血を吐き、宗珉狂喜して瘋(ふう)を発すと。技(わざ)

も亦是(ここ)に至つて人を動かすもの有りといふべし。

31)明治の棋聖

明治の棋客、技(わざ)の極位(ごくゐ)に至れるものを伊藤宗印(そ

ういん)とし小野五平(ごへい)とす。維新(ゐしん)以後、棋道大(お

ほい)に衰ふ。其間(かん)に立つて、旧技を伝へて堕(おと)さざり

し者は伊藤氏(うじ)なり、復(ふたた)び盛んならしめし者は小野

氏なり。二翁の技宗桂・宗英・宗歩等に勝(まさ)らざるも、二翁

の功は前人に勝るといふも誰か非とせん。

(明治三十四年一月)

底本:幸田露伴全集 第十五巻(1952 岩波書店)

(初出 一~二十八 「雜誌太陽」明治三十四年一月號・三月號

二十九~三十一 文化叢書第十編「碁と将棋」 大正十一年六月)

*1 天野八郎(1831 ~ 1868) 彰義隊副頭取。上野戦争では、頭取の

渋沢成一郎の脱退により実質的に頭取を務める。

*2 朝川善庵(1781 ~ 1849) 江戸の儒学者。文化十二年(1815)の

清国船下田漂着に際し、幕府の命により通訳(筆談)を務める。

父は片山兼山。

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*3 御湯殿上日記 清涼殿御湯殿で天皇に近侍した女房達の当番日

記。

*4 『壒嚢抄』文中言及の通り、室町時代文安年間 1446 年頃に成立

した百科事典。

*5 荻生徂徠(1666 ~ 1728)。江戸中期の儒学者。官学であった朱子

学を批判し、古文辞学派(蘐園学派)を確立。八代将軍吉宗の諮

問に応えた『政談』で彼の政治思想が明らかにされる。

*6 庾信(513 ~ 581)。梁末・北周を代表する宮廷詩人で、晩年、故

郷を題材にした「哀江南の賦」が有名。“望郷詩人”のイメージが

強い。

*7 各務支考(1665 ~ 1731)。蕉門十哲の一人。芭蕉の死後も精力的

に活動を続け、故郷美濃に一派を築く。

*8 蛮触の争い 蝸牛角上の争い。『荘氏』からなる故事成語で、当

事者以外にとっては、些細でつまらぬ争いを指す。

*9 錙銖か。中国の黍の数え方に由来し、ほんの僅かなことを意味

する。

*10 鼷鼠 二十日鼠のこと。

*11 手見禁(てみせきん)とも。主に将棋向けの語だが、碁・双六で

も通じる。「待ったなし」もしくはそれを約束した対局を意味し、

ここでの露伴の説明と異なる。将棋の駒台が普及したのは 20 世紀

以降であり、ここでは、それ以前の持駒を握りしめての対局を手

見禁と称しているとも考えられる。

*12 実際の象戯綱目では以下の図のように攻め方の持ち駒の金が敵

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方△5四金に配置されている。

版の違いによるものか。この場合、

解の五手目は当然▲5四馬。それ

に対して△8七醉成で、攻め方は

玉将を取るか太子を取るか二者択

一を迫られる。玉を取る場合は、

解の手順に戻る。そして太子を取

ることはできない。▲同馬は王手

ではないし▲同龍では玉が上へ抜

けてしまう。